|†| キリスト教@質問箱154 |†|

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253snowbird
ところで、一方、保留しておいた「語彙」というのは、一定の範囲に用いられている語の
総体、といった意味だと理解しています(個人単位の話は置いておきます)。
「用いられている」という所がポイントで、固定された不動の集まり(集合体)ではなく
て、過去も現在も将来も用いられてゆくものなので当然変化します。それは、実際に言葉
が使われる場、つまり、コミュニケーション(自問自答もふくめて)の場で。
もし、ご自分の所属教会の方々の語彙と異なる言葉で信仰を語りたい、「そのためには何
が必要」と言われるのなら、今のところ、私に思いつくのは2つです。
1つは、たぶん選ばれないとは思いますが、字義通りの「学習」です。とりあえず、最初
は「他人」の言葉でも真似てみることですね。「真似」というと聞こえが悪いですが、
「学ぶ」が「真似る」から来ている事や子供の言語習得の過程を想起すれば、けっして間
違った事ではないとお解りいただけるかと思います。
もう1つは、「かなり違う」他の「教派」「教会」、もっと言えば、別宗教や宗教者では
ない人ともコミュニケーションすることで、自分が語るときの言葉を見直す作業ですね。
具体的には、書籍(苦手らしい『聖書』もふくめて)類を読まれる事もその1つです。他
に、教派を偽ることに挑戦したことがあるそうですが、いまは、もう明確にしておられま
すよね。その教派内で通じる「語彙」が上に挙げたような人たち‐もちろん相手が理解し
ようとしてくれる事が前提になりますけれども‐に伝わるか(理解されるか)ということ
などです。