【イエス】あなたの罪は赦された【キリスト】4人目

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446サマリアの女 ◆mrHj2BO4FE
完全な忠実を約束していたペトロは、主を否んだことの辛さと恥ずかしさを味わいました。
高ぶる者は、その代償として、辱めを味わいます。
ペトロも、自分が弱く、ゆるしを必要とする者であることを学ばなければなりませんでした。
ついに仮面がはがされ、信じる者であると同時に罪人である、自分の真の意味での心の弱さを知ったとき、ペトロはひたすら後悔の涙を流しました。
この涙の後、ペトロはようやく自分の使命を果たす準備ができたのです。

ある春の朝、復活したイエスによって、この使命がペトロに委ねられます。イエスとの出会いはティベリアス湖畔で行われました。
このときイエスとペトロの間で交わされた対話について述べているのは、福音書記者ヨハネです。そこではきわめて意味深いことば遣いが行われていることに気づきます。
ギリシア語で「フィレオー(愛する)」は友愛を表します。この愛は優しい愛ですが、完全な愛ではありません。
これに対して、「アガパオー(愛する)」は、制約のない、完全で無条件の愛を表します。
イエスは最初、ペトロにこう尋ねます。

「シモン、・・・・わたしを愛しているか(アガパース・メ)」。

すなわち、完全かつ無条件に愛しているかと(ヨハネ21・15参照)。
裏切りを経験していなければ、使徒ペトロは、もちろんこう答えたことでしょう。

「わたしはあなたを――無条件に――愛しています(アガパオー・セ)」。

今、ペトロは、忠実に従わなかった辛い悲しみを、すなわち自分の弱さがもたらした悲しみを知っています。
そこで彼は謙遜にこう答えます。

「主よ、わたしはあなたを愛しています(フィロー・セ)」。

すなわち、「わたしはわたしの人間としての貧しい愛をもってあなたを愛しています」。
447サマリアの女 ◆mrHj2BO4FE :2006/08/13(日) 11:34:15 ID:fbPEnfKF
キリストはなおも尋ねます。
「シモン、わたしが望むこの完全な愛をもってわたしを愛しているか」。
ペトロは、人間としての謙遜な愛をもって愛していますと答えます。「キュリエ・フィロー・セ」。
すなわち、「主よ、わたしがあなたを愛していることは、あなたがご存じです」。
三度目にイエスはシモンにただこう尋ねます。
「わたしを愛しているか(フィレイス・メ)。」シモンは理解しました。
イエスにとっては、自分の貧しい愛で、すなわち自分に唯一可能なこの愛で、十分なのだということを。
にもかかわらずシモンは、主がこのようないいかたをしなければならなかったことを悲しく思いました。
それでシモンはこう答えました。

「主よ、あなたは何もかもご存じです。わたしがあなたを愛していること(フィロー・セ)を、あなたはよく知っておられます」。

イエスは、ペトロが自分をイエスに合わせようとした以上に、ご自分をペトロに合わせようとしたように思われます。
このように、神がご自分を人に合わせてくださったことが、忠実に従わなかった苦しみを知るこの弟子に希望を与えました。
そこから信頼が生まれ、この信頼によって、この弟子は最後までイエスに従うことができました。
「ペトロがどのような死に方で、神の栄光を現すようになるかを示そうとして、イエスはこういわれたのである。
このように話してから、ペトロに、『わたしに従いなさい』といわれた」(ヨハネ21・19)。

この日からペトロは、自分の弱さをはっきりと自覚しながら、師であるかたに「従い」ました。しかし、この自覚が、ペトロの気持ちをくじけさせることはありませんでした。
実際ペトロは、自分のそばにともにいてくださる復活したかたに信頼できることを知っていました。
ペトロは初め、素朴で熱烈な思いをもってイエスについて行きました。
それから、イエスを否むという辛い経験をし、回心の涙を流したことを経て、ペトロはイエスに自分を委ねるに至りました。
イエスは、ペトロがもっていた、愛するための貧しい力に、ご自分を合わせてくださったからです。
448サマリアの女 ◆mrHj2BO4FE :2006/08/13(日) 11:35:34 ID:fbPEnfKF
イエスはまた、わたしたちがどれほど弱い者であっても、わたしたちに道を示してくださいます。
わたしたちは、イエスがご自分をわたしたちの弱さに合わせてくださることを知っています。
わたしたちは、わたしたちがもっている、愛するための貧しい力で、イエスに従います。
そしてわたしたちは、イエスがいつくしみ深いかたで、わたしたちを受け入れてくださることを知っています。
ペトロは長い道のりを経て、より頼むことのできるあかしとなり、教会の「岩」となり、イエスの霊のわざに常に心を開くことができるようになりました。
ペトロは自分のことをこう述べています。「キリストの受難の証人、やがて現れる栄光にあずかる者」(一ペトロ5・1)。
このことばを書いたとき、ペトロはすでに年老い、生涯の終わりに近づいていました。

ペトロはその生涯を殉教によって閉じることになります。
今やペトロは、真の意味での喜びについて述べることができます。また彼は、どうすればこの喜びに達することができるかを示すことができました。
この喜びの源は、キリストです。
わたしたちはこのキリストを、自分たちの弱さにもかかわらず、弱いながらも心からの信仰をもって、信じ、愛します。
だからペトロは自分の共同体のキリスト信者に宛てて次のように書いたのです。ペトロはわたしたちにも同じことを語りかけています。

「あなたがたは、キリストを見たことがないのに愛し、今見なくても信じており、ことばでは言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています。
それは、あなたがたが信仰の実りとして魂の救いを受けているからです」(一ペトロ1・8−9)。 

                   2006年5月24日 教皇ベネディクト十六世の52回目の一般謁見演説