こちらで、せったんとこころ行くまで語り尽くそう。
>>1 お疲れ様
ついにせったんさんのスレがwおめでとうございますw>(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)(^O^)
あーあ2ちゃんねるはろくでもない所、飽きたわ
ノシ
乙。>1
4 :
まるこ:2006/07/18(火) 23:34:51 ID:mGJdotmI
本当にろくでもないところ、ねえきゅちゃん。
遊びで入れとく。乙。
「せったん」ってもしやコテハンじゃないだろうね?
削除依頼は出した
基地外あははアク禁だ
402 名前:”削除”太郎[sage] 投稿日:2006/07/19(水) 00:34:35 HOST:111.190.210.220.dy.bbexcite.jp
削除対象アドレス:
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1153225302/ ローカルルール違反です
☆ 固定ハンドルスレッドは禁止です
403 名前:川中[sage] 投稿日:2006/07/19(水) 01:10:53 HOST:cdu05d208.cncm.ne.jp
>>402 せったん、は、コテハン名と言うより僧侶名で実在の人なんです。
実名をコテハンに使われているのですが。
ご本人が実名で、自らのHPもさらしながらの2ch登場なのですから、このルールを採用するのは、どだい、無理があるのではないでしょうか。
自分が経営する寺院への接心会への参加を定期的に行うなど、営業、かと。
勿論、ご本人は、営業を否定。
だが、1泊、3000円と料金提示するなどもあり・・・
それで、かれと、彼を取り巻く人々で、すっきりしたスレを建てた方がよいのではないかと思うわけです。
寂しさに耐えられないからと言って、せったんによって、殴り込みをかけられるよりも、せったんスレを建てる方が良いのではないかな、と思います。
削除人さん、どうお考えでしょうね。
ご意見をうかがいたいと思います。
ルールであれば、それに順わせていただきます。
>>9 屁理屈を言ってはいけません。
ハンドルとは本来呼称のことであり
仮に本名であろうとハンドルとして使っているのがハンドルです。
>>11 あぁ、それね。
スレ建て人が、ずいぶん昔に建てては捨ててたスレのひとつなんだ。
それで、最近は、誰もカキコが無くなってたんでね、
dat落ちしないように、カキコしてたものなんだ、名無しさんと協力して、埋め立て作業したいよ。どうだろうね。
>>10 やはり、日本ですから、右ハンドルでしょうね・・・[壁]д・)ノチラ
>>12 埋め立て作業をするくらいなら素直にdat落ちさせた方がマシではないか?
必要もないのに大量のカキコをするなんて、サーバーに余計な負荷をかけるばかり。
>>15 そうとも、言えますね。
ところで、カキコは。必ず禅を含んで得るものにしないとね。
何かに取り組んでいますか?
>>16 禅スレ以前にここは2ちゃんねる。ルール守ってね。
●○●【阿部将英の2ちゃんねる運営用ブラウザの秘密】●○●
2ちゃんねるって、そのほとんどがIDをコロコロ変えて自動書き込みソフトで書かれる、
自作自演誹謗中傷営業妨害の掲示板なんですね。以下がその秘密の暴露会話(笑)
40 :名無しさん@ゴーゴーゴーゴー! :02/11/16 22:35 ID:bnQKGsSt
まったく無知とは恐ろしいものだな。「かちゅ〜しゃ」だの「ホットゾヌ」だの、
2ちゃん専用ブラウザは、元々、プロ固定専用ブラウザからIP抜きや強制sage機能
を削除した.機能限定&流出版だというのは、この界隈では常識だと思っていたが。
だから「専用ブラウザで閲覧=IP抜かれる」は至極当然。元来はプロ固定の行動
を運営陣が監視するための機能だし。そもそもブラウザの種類=派閥の数ということで。
890 名前: 風の谷の名無しさん 投稿日: 01/09/10 13:13 ID:llfNinho
>弾正 さっきからIDがコロコロ変わってるのは何故です?
891 名前: “ざ・ぶいぶい♪”弾正(01) 投稿日: 01/09/10 13:24 ID:MtzKV1hI
ツールを走らせて荒らしの識別コードを探しているときは 私自身のIDも変化するん です。
ちなみにちょっとテストしてみたいので貴方に印を付けました。
1日だけですが2ちゃん内での行動が筒抜けになります。 ご容赦のほどを。
オディゴのレーダーのように登録された人別に表示され 書き込みがあると音が
なって時刻と内容が出てきます。 右下の赤い『あぼーん』のボタンで削除。
その次の青いボタンでIPが表示。 そのまた隣の黄色いボタンで規制画面に入れま
す。個人別投稿規制、つまりアクセス規制やひとりだけ個別に 連投規制やスレ立て規制
も掛けられるようになってます。 ドルさん作です。
892 名前: 風の谷の名無しさん 投稿日: 01/09/10 13:30 ID:bNKSFBgA
ふわぁぁ〜、凄いの持ってるんだね。 ドルバッキーさんが作ったということは
復帰屋さん、削除人さんはみんな持ってるの?
893 名前: “ざ・ぶいぶい♪”弾正(01) 投稿日: 01/09/10 13:32 ID:MtzKV1hI
上級の人だけですが削除忍さんにツールもらいました。ぶいぶい♪
ハァハァ (°∇°;)\( ̄ -  ̄ ) ソノクライニシトケ
37 名前:エリート街道さん[] 投稿日:2006/07/27(木) 01:38:38 ID:hCSW2cOq
★★世間の常識で★
S 東大 京大
========超エリートの壁===================
A+ 一橋 阪大
A 東京工業 名古屋
A- 東北 九州 神戸
=================エリートの壁================
B+大阪市立 北海道 東京外語 御茶ノ水
B 横国 筑波 千葉 首都 慶応 早稲田
=================名門の壁=========================================================
C+ 金沢 岡山 熊本大 広島 上智 同志社
C埼玉 新潟 静岡 首都 奈良女 名市 立命館
C-滋賀 信州 群馬 茨城 三重 小樽商 青山学院 関西学院 中央その他 法政 津田塾 関大 南山
=================二流の壁===========================================================
D+宇都宮 岐阜 徳島 長崎 鹿児島 北里 日大
D 和歌山 岩手 山形 山口 富山 香川 愛媛 弘前 都留文 高崎経済 専大
「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん?」
堂長老師(原田雪渓老師)のお話から
たまたま蒼龍窟という所で、私共は、六、七人で集まって修行をさせていただいておりました。
ある日、敬宗師といっしょにお茶を飲んでおった。その時に敬宗師が
「今、仏道はどこにあるのかね、雪渓さん」 と、こう尋ねられた。
そこで、「仏道はどこにあるのか」と尋ねられた私は、彼の言葉をもう一度自分で、「仏道はどこにあるのか」と、反芻をしてみた。
その反芻が、自己の全体になった―今まで求めていたもの、探しておったものがきれいに、確かになくなった。
即ち、「仏道という幻影がなくなった」ということです。
そういう事実があります。それが私の今の様子です。本当に一言半句の下に換骨脱体をするということは必ずあるということです。
かなり以前から、「今のほかに求むべきものは何もないんだ」ということは、きちっと信決定をしておった。
今のほかに絶対にない。もし今のほかに自分の求めるものがあったならぱ、どんなに努力をしても、師匠の言うことをそのまま受け取ってみたとしても、今の外を求めることになると、それは誤りである。
しかし、このもの以外にない。薪を運ぶ、水を運ぶ、草を取る、読経をする、これ以外にないっていうことは、理として理解できる。
ところが、「ない、ない」という「ないもの」が残るんですね。
「ない」ものというのは、「ある」ということと同じことなんです。
自分の考えの中ですから、「ある」と言おうと「ない」と言おうと同じことなんです。言葉というのはそれほど微妙に人の考えを左右するものなんです。
畢竟、なんだかんだと理屈を言い、いろんなことを聞いても、結局これ以外ないじゃないか、っていうようなことで、自分自身を自分で納得をさせておるから、不自由じゃないですか。
そういう日が続いておったように思います。本当に困り切っておったという様子でしようか。とにかく「仏道はどこにあるか」ということを尋ねられて、自分でそれを探しておる、探しているその事実が仏道そのものであるから、求めることがなくなった。
本当にそういう事実がある。ですから、あの時に尋ねられなかったならぱ、どうだったろうかなと、今、思い出して話している訳です。
青野敬宗老師語録天真佛
友逮のように
私はね、坊主臭い坊主は嫌いやね。押し売りになっちゃうから。もう淡々として、友達のようになっておるのが一番良いんじゃないの。
出家の自的
いろいろなことがあるけれど、もう少し大きく考えて、世界の人類が手をつないで、殺伐なところのないように、貧しいものは助けて行く方法を講じて行くのが世界の宗教家である。
私はそれが為に出家をした。小さなこの人間一人の喜ぴの為に出家をしたのでは、私はありません。
私は踏まれても蹴られても、多くの人の下になって、本当の人間とは何かということを教えていきたい。
それが為に私は人間に生まれた。
それが為に出家をしたのだ。
一切放下
もう、何にもなしでいいの。目は目、耳は耳、ロはロ。この業織を全部分散して、任しておりさえしたら、いつも自分は性(しょう)(生命の根源)におるから、何でも入って来るんで、偏って、「これにしなさいあれにしなさい」つて、一っ言もいりません。
「放てば即ち満てん」と、放し切ってしまうんです。そこでさえおれば、不安のようだけれども一番早いの。だからどうか一切を放下した状態におって下さい。そうしたら早いんだから。
みんなね、それができないから苦しむんだから。何かに自分をくっつけておらないとおれない。
>>28 ゼロの人
ゼロのあなたが持っていらっしゃるゼロの自分を明確にすることなんです。捨てて、捨てて、何もかも捨てて、あなたの純枠性に帰りなさい、そうすると永遠の喜びがありますよ、とこう言うのです。
理屈の方でね、迫い詰めても、これはどんなにしてもだめです。理屈は後で分かるから。
そうじゃない、何にもない自分をはっきりとつかむことです。
じゃあ、どこでつかむか。
つかむという表現をするけど、空気のようなものが空気のようなものを自覚するんですからね。
だからもうなんにもないんだから、始末が悪いんですね、本当を言うたら。
だが、そこへ何かの拍子で、ふっとなると、それから先は、その人のやり方一つで、ね、ず−っと徹底、もうキレーイになんにもないゼロの人になる。
コツコツコツ
分かるも分からんも、そういうようなことはね、常識の範囲ですね。
分かるとか分からんとかいうのはね。
そうじゃない。
いやでもですよ、こう(コツコツコツ打卓)、これと同じになったとこは、どこですか。考えたら駄目ですよ。
(コツコツコツ)どこがこうなっているの、あなたと。
で、止んだら何にも。
同じようなことを「コンコンコン」言うたって、それは真似でしょう。
じゃ、これと同一に、あなたのどこがなっとるんですか(コツコツ)。
これ聞いとると言ってますか。
じゃ、どこに(コツコツ)あるんですか、これ(コツコツ)。
こんな素晴らしいもの(パンパン打掌、コツコツ)今、その通ーり、寸分違わずになるところはどこですか。
結局おまえだけが語ってるじゃねーか。
クソスレ早く畳め。
コイツは禅について言う以前に頭がイカレていることで有名。何を言っても無駄だから相手をしないように。
とはいえまあ一言だけ。
>>あは
おまえは禅よりもそれ以前のことを学べ。一般常識とか。話はそれからだ。
このスレのことだが、早急に削除依頼出して来い。
テメーのケツぐらいはテメーで拭けよ。
まったく、ガキより始末に悪い!
32 :
名無しさん@3周年:2006/07/28(金) 03:55:21 ID:7iM3Wc+f
(。-_-。)ぽっ、さん。なかなか面白い読み物ありがとう。またいろいろ載せて下さい。
>>32 (^-^)/ドモ~♪
映像とかあって、面白いよね。
↓このやりとり、愉快。
705 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:2006/07/28(金) 16:48:58 ID:/QJLs+XJ
♪
♪ ∧ ∧ ♪ よ〜く考えよ〜 ♪
(,,゚Д゚). ♪ ぬるぽは大事だよ〜 ♪
|つ[|lllll]). う〜う、う〜う、ううう〜 ♪
〜| |
U U
706 名前:うすら[sage] 投稿日:2006/07/28(金) 17:25:39 ID:aFPdY/XZ
ガッ
707 名前:癒されたい名無しさん[sage] 投稿日:2006/07/28(金) 17:42:41 ID:/QJLs+XJ
/⌒ヽ
/ ´_ゝ`) すみません、ぬるぽですよ・・
| /
| /| |
// | |
U .U
708 名前:マンゴー[sage] 投稿日:2006/07/29(土) 11:30:40 ID:R8DOmzUr
ガッ
709 名前:マンゴー[sage] 投稿日:2006/07/29(土) 11:39:02 ID:R8DOmzUr
子どもへのプレゼント探してて、宮沢賢治の絵本見つけた。『雨にもマケズ』
版画調で素敵デス♪
褒められもせず苦にもされずそういうものに私はなりたい
うーん素晴らしい!
でもついつい子どもには褒めてしまうんだよね。親ばか。
続き
710 e] 投稿日:2006/07/29(土) 13:07:03 ID:KPikZ4Ry
ガッにも負けず ガッガッにも負けず
ガッガッガッにも夏のガッにも負けぬ
丈夫なぬるぽをもちぬるぽネ申を目指し
決してくじけずいつも静かにコピペしている
一日にぬるぽ四回とぬるぽと少しのぬるぽを入れ
あらゆることを自分を勘定に入れずに
よく見聞きし分かり、そして忘れず
どこかのスレにいて
東に病気の子供あれば行ってぬるぽしてやり
西に疲れた母あれば行ってそのぬるぽを負い
南に死にそうな人あれば行ってぬるぽは良いと言い
北に喧嘩や訴訟があればぬるぽと言い
日照りの時はぬるぽを書き込み
寒さの夏はおろおろぬるぽし
みんなにでくのぼーと呼ばれ
褒められもせず、ガッもされず
そういうものにわたしはなりたい
↑、いいセンスだ!(笑)
盤珪禅師
不 生 の 仏 心
すべての人は、生まれつき不生の仏心を持つのだから、不生の仏心でいよ、とだけ説法したからである。
道元禅師の曹洞宗、白隠禅師の臨済宗とは、色合いを異にした、不生禅として位置づける学者もいる。
盤珪禅師は、自分の禅は、公案禅が始まる前の、素朴な純粋な伝統禅という意識があった。
深いところでは、仏として坐禅するという道元禅と同じであるが、ともすれば、「そのままでよい」という安易に流れて堕落し、本質を失った道元禅の亜流と同じく、不生禅も三代で絶えてしまったが、
本当は、真の道元禅と同じく、苦行ではなく、楽に成就できる純粋の禅なのであった。
その正しい姿を理解すれば、今私たちが実践している禅の生活によい指針となるだろう。
仏心は不生
「禅師のいわく、仏心は不生にして霊明なものに極まりました。
不生なる仏心、仏心は不生にして一切事がととのいまするわいの。
したほどに皆な不生でござれ。
不生でござれば、諸仏の得ておるというものでござるわいの。
尊いことではござらぬか。仏心のたっといことを知りますれば、迷いとうても迷われませぬわいの。
これを決定(けつじょう)すれば、いま不生でおるところで、死んでのち不滅なものともいいませぬわいの。
生ぜぬもの滅することはござらぬほどに、そうじゃござらぬか。」『御示聞書』上三、A15)
「仏心は不生にして霊明なものに極まりました。」「不生でござれ。」これが、盤珪の説法の要点であり、「不生」とはどういうことか、次の説法で説明される。
不 生 の 証 拠
不生の証拠が説明される。(『御示聞書』A33,34、95)
「その不生でととのいまする不生の証拠は、皆の衆がこちら向いて、身どもがこういう事を聞いてござるうちに、後にて烏の声雀の声、それぞれの声を聞こうと、思う念を生ぜずにおるに、
烏の声雀の声が通じわかれて、聞き違わずにきこゆるは、不生で聞くというものでござるわいの。
かくの如くにみな一切事が、不生でととのいまする。
これが不生の証拠でござるわいの。
その不生にして霊明な仏心に、極まったと決定して、じきに不生の仏心のままでいる人は、今日より未来永劫の活如来でござるわいの。
今日より仏心でいるゆえに、我が宗を仏心宗といいますわいの。」(『御示聞書』上十九、A33)
知ろうという分別をしないでも、よく知りわける智恵を不生の仏心の「霊明」なわけという。「無分別の分別」をさしている。
何の準備、はからいをせずとも、たしかに働く智恵、般若である。
只管打坐の場合も似ている。
<見ても、聞いても、念がわいても、身体の状況が気になっても、不安や憎しみなどがわいても、つかまえずにいて下さい。
心はつかまえると、見えなくなり、聞かなくなり、するべきことをできなくなります。つかまえずにいると、即座に働くようになってます。>
「無分別の分別」が備わっていることを信じ、自覚し、それにまかせて、生きていくと、自由で楽な生き方ができるであろう。
不滅というは無駄
経典では、「不生不滅」と言っているが、盤珪は「不生」とだけ言う。(A35,53,85,86)
不生なものは不滅に決まっているから、不滅という必要はない。不生不滅というのは、学者や僧侶がいうが、理屈で推定するだけで、自分の根底では、本当にどうなのかを知っている人は少ない。
「不生にして居れば、もはや不滅というも、むだ事でござれば、身どもは、不生というて、不滅とは申さぬ。
生ぜぬものの、滅するという事は無きほどに、不生なれば、不滅なものは、言わむでもしれてある事でござるわいの。
不生不滅という事は、昔から、経録にも、あそこここにも出てござれども、不生の証拠がござらぬ。
それゆえにみな人が、ただ不生不滅とばかり覚えて、言いますけれども、決定して不生な事を、知りませぬわいの。」(『御示聞書』上一九、A35)
霊明な仏心
「仏心は不生にして霊明」という。「霊明」は、仏心の性能の極めてすぐれていることを言う。
(A11、15,53、55、58、88、89) いつも、「無分別の分別」が働く。
「同じ所」へ行った者同志は、よく理解しあえる、というたとえは面白い。
同じものを見た者同志では、言葉は多くはいらない。「あれ」といえば分かる。空、寂静、といってもわかるものはわかる。
「仏心は霊明なものゆえに、従前の我がなし来った程の影は、うつらぬという事はござらぬわいの。
そのうつるかげにとんじゃくすれば、ついまた迷いを出かしまするわいの。」(『御示聞書』上十一、A21)
「仏心は不生にして霊明なものじゃと、皆思わつしゃれい。
ひとたび行った所は、何年経てもあれ覚えていようと、常には思いはしませぬどもよう覚えていまして、忘れはしませぬ。
我行った所へ、また余の人が行きましたら、百里わきで話しましても、行った同志はどこで話しても、拍子が合いますわい。
又道を行きますに、向こうから大勢の人が来まするに、
片寄ろうと思う念を、人々は生じませねども、向こうより来る人に自然と行き当たりもせず、大勢の人の中を通りても、あちらへくぐり、こちらへ片寄りて、ぬけつ、くぐりつ、せうと思う分別の念を生ぜねども、自由に道を歩きますわいの。
仏心はこのように不生にして、霊明なものでござって、一切の事がととのいますわいの。
もし万一自然は片寄ろうと思う念を生じて片寄りますは、霊明な徳用でござるわいの。しかれども片寄る方へは、念を生じて行寄るますけれども、足元には、一足一足に念を生じて歩きはしませぬ。
されども自然に歩くは、不生で歩くというものでござるわいの。」(『御示聞書』下三三、A89)
不生は一切のもと
「仏というも生じた跡の名でござれば、不生な人は諸仏のもとで、居るというものでござるわいの。
不生なが一切のもと、不生なが一切のはじめでござるわいの。
不生より一切の始という物はござらぬゆえに、不生なれば、諸仏のもとで居るというもので御座る。」(『御示聞書』上一九、A34)
一切の根源、一切の始め、という。無心、自性清浄心、仏心、仏性である。鈴木大拙は「宇宙的無意識」という。
聞こうという念なくして、間違いなく働くもの。そのように無心でいれば、仏である。仏心を毒に変えないようにしなければならない。
人はみな本来仏
人はみな親から仏心をもらった。うまれつきの仏である。(A9、12、33、37、53、54、79、91)
「人々皆親の生みつけてたもったは、仏心ひとつで、余のものは一つも生みつけはしませぬわいの。」
「この身の本をかえりみるに、出生したるときに、嬉し、悪し、つらしと、思う念を、親の生みつけて与えたるには、さらにござらぬ。」(『御示聞書』下二四、A59)
不生の仏心
盤珪は、「不生」とだけはいわずに、「不生の仏心」とひとつに言う。
「不生」だけでは、清浄、迷いなし、という静態的状態ととらえられがちであるが、「仏心」ではっきりと動的に「はたらくもの」となる。
「不生」は、色即是空、脱落、無位、無我、去私、
「仏心」は、空即是色、現成、真人、成仏、則天、
次の言葉も同様である。
「直下無心、本体自(おのず)から現ずる」(黄檗の言葉、『伝心法要』15)
無私の時、個の力が最高に発揮される。「無作、全機」「無作、生仏心」である。
それは、無私で、働くこと。
「捨ててこそ、活きる。」も同じである。
とらわれない時、自分のなすべきことができる。
はからいを捨てる時、自然に生かされる
はからいなき時、仏の眼にてある。
はからわずして、正しく動かされる。
なにやってんだよ、てめー。スレの趣旨に合ってねーんじゃねーのか?
テメーだけじゃねーかよ、糞みてーにくっちゃべってんのよ?
どうするつもりだよ、ああ?
>>44 そそ
せったん、ひきるれとよいしょやろう、でさー。
良い気持ちのものらしい・・・(笑)
で、ここ専用スレで、やっちゃえば、そう言う事、誰にも、なんにも、問題ないんだけど、あっちのスレでは、自分があらしだって気がついてないんだよ。
まぁー。もう少し待ってやってくれよ。
もう、やって来る頃なんだが・・・と、携帯で、時間を見る・・・(^_^;)汗
>>45 訂正
ひきるれとよいしょ
↓
ひいきとよいしょ
盤珪は、「不生」とだけはいわずに、「不生の仏心」とひとつに言う。
「不生」だけでは、清浄、迷いなし、という静態的状態ととらえられがちであるが、「仏心」ではっきりと動的に「はたらくもの」となる。
「不生の仏心」
「不生」は、色即是空、脱落、無位、無我、去私、
「仏心」は、空即是色、現成、真人、成仏、則天、
次の言葉も同様である。
「直下無心、本体自(おのず)から現ずる」(黄檗の言葉、『伝心法要』15)
無私の時、個の力が最高に発揮される。「無作、全機」「無作、生仏心」である。
それは、無私で、働くこと。
「捨ててこそ、活きる。」も同じである。
とらわれない時、自分のなすべきことができる。
はからいを捨てる時、自然に生かされる
はからいなき時、仏の眼にてある。
はからわずして、正しく動かされる。
|| ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄||
|| ○荒らしは放置が一番キライ。荒らしは常に誰かの反応を待っています。
|| ○放置された荒らしは煽りや自作自演であなたのレスを誘います。
|| ノセられてレスしたらその時点であなたの負け。
|| ○反撃は荒らしの滋養にして栄養であり最も喜ぶことです。荒らしにエサを
|| 与えないで下さい。 Λ_Λ
|| ○枯死するまで孤独に暴れさせておいて \ (゚ー゚*) キホン。
|| ゴミが溜まったら削除が一番です。 ⊂⊂ |
||___ ∧ ∧__∧ ∧__ ∧ ∧_ | ̄ ̄ ̄ ̄|
( ∧ ∧__ ( ∧ ∧__( ∧ ∧  ̄ ̄ ̄
〜(_( ∧ ∧_ ( ∧ ∧_ ( ∧ ∧ は〜い、先生。
〜(_( ,,)〜(_( ,,)〜(_( ,,)
〜(___ノ 〜(___ノ 〜(___ノ
54 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 14:16:08 ID:wb/HZBDo
55 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:26:35 ID:wb/HZBDo
曹洞宗と公案禅
曹洞宗では公案を用いないとの誤解を持たれている方に、洞門下においても公案禅(看話禅)が盛んに行われていた事実を知っていただく為、
安谷白雲老師(曹洞宗)と秋月龍a老師(臨済宗妙心寺派)の著書から抜粋したものを、ここでご覧頂きます。
永平寺 における 入室
独参
−関頑牛老師と「独参」−
安谷 白雲
[正法眼蔵・弁道話の「端坐参禅を正門とし」という一句は]
「参禅は坐禅なり」という道元禅師のお言葉があるくらいだから、端坐参禅の四字で坐禅を意味すると見てさしつかへないが、端坐の二字を坐禅と見、参禅の二字を入室独参と見る事もできる。
臨済宗では現に入室独参のことを参禅といっている。
筆者がなぜこのように味わうかというと、道元禅師の示された『学道用心集』の中に、
参師聞法と工夫坐禅の大切なことを示され、この二つは鳥の両翼のごとく、車の両輪のごとく、二つそろわなくては仏道修行はできないと教えておられるからである。
参師聞法の純乎として純なるものは入室独参であることは言うまでもない。一般の提唱や講演、または法話などを聞いて坐禅するだけでは、本当の仏道修行はできない。
なんとしても入室独参しなければだめである。
このことは実地に修行したことのある人ならば、誰でも納得できる。
真剣に坐禅していると、坐禅修行の途上において、幾多の疑問が出てくるし、心境の変化もいろいろあって、どうしたらよいか、まごつくことがしばしばある。
さらにまた、自分では気がつかなくて、いつの間にか横道にそれて、坐禅の本筋を見失っていることもあるから、しばしば正師に点検してもらう必要がある。
それで入室独参は修行に欠くべからざる重要なものである。
このことは道元禅師が天童淨祖の許(もと)において、しばしば入室独参なされた事実に照らしてみても明らかなことである。
56 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:28:43 ID:wb/HZBDo
↑ 続く
しかるに今から四、五十年前のことであるが、大本山永平寺において、時の後堂職、関頑牛老師が大衆に独参せよと命じたとき、役寮はじめ全員これに反対した。
永平寺には古来独参などは無かったものだと言い張った。
老師がそんなはずはない。
「放参」という金牌があるくらいだから、「独参」という金牌もあるにちがいない。
放参とは独参を休むことを放(ゆる)すという意味だから、独参を休むほうだけあって、独参を行う方がないというはずがない。
どこかに独参牌があるにちがいないから、探せと命じて、大衆に探させたら、仏壇の下から金文字の「独参」という牌が出てきた。
しかもその文字は、永平寺の世代さまでも特に有名な玄透さまがお書きになったものであった。
それ見よ。昔はこの通り独参が立派に行われていたのだ。
今日独参が無くなっているのは坐禅修行が甚だ怠慢であることを証明しているのだ。だから全員独参せよと、改めて厳命を下した。
後堂職は曹洞宗においては、当時大衆の修行を指導監督する最高の責任者であるから、老師の命に背くわけにはいかない。
そこで役寮が窮余の一策を案出して、宗務庁に手をまわし、宗務庁から永平寺での独参を差し止めてもらうようにしたという、実にばかばかしいことがあった。
その後の成り行きは言うにしのびないから書かないが、関老師はまもなく入院され、ついで遷化された。老師が大法のために不惜身命であらせられたことに対し、謹んで合掌礼拝する。
(やすたに はくうん「正法眼蔵参究・弁道話」春秋社・初版昭和四十五年・復刻平成十一年)
57 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:36:08 ID:wb/HZBDo
禅 修行における
「公 案 禅」
秋月 龍a
ある曹洞宗の学匠は、「臨済禅は凡夫が仏になろうと言う坐禅、曹洞禅は真っ向仏が坐る坐禅だから、宗教の次元がまるで違う」と言うが、そんなことはない。
[略] 白隠は、「衆生本来仏なり」と言い、「直(じき)に自性を証すれば、自性即ち無性にて、すでに戯論(けろん)を離れたり。
因果一如の門開け、無二亦(やく)無三の道直(なお)し」と言って、因(修行)と果(証悟)は一如(修証一等)であると言っているから、その点では道元禅も白隠禅も何の違いもない。
ただ白隠は、曹洞宗の一部の人々が「本証妙修」の観念禅の上にあぐらをかいて、実際には「心身脱落」どころか、まるきり衆生の、凡夫の妄想坐禅、居眠り坐禅に陥っている実際の弊害に黙っておれずに、「黙照の邪禅」「無事禅・ぬけがら禅」と批判したのである。
そこから、彼は大慧の「大疑」禅を受けて、「公案禅」による「見性」を強調したまでである。
だから、宗教の次元など違うはずがない。ただ修行の上で、まず強調したところが異なるまでである。繰り返し言うと、ともに「一味」の「祖師禅」である。
[中略]
今、また、「只管打坐」の説も、その基本思想である「本証妙修」のおのずからなる発現であることを見た。
「本証」の「妙修」するところ、仏の坐禅、本来の仏として坐る坐禅ということにならざるを得ない。
そう考えれば、「只管打坐」こそ、仏教本来の、「正伝の仏法」の坐禅観だということになる。
私は臨済宗の僧籍にあり、白隠下の法孫の一人として師家として世に立っているが、「只管打坐」こそ、「正伝の仏法」の坐禅だと断言してはばからない。
奥多摩の古仏、加藤耕山老師も、「衲(わし)は曹洞宗の出だからというわけではないが、只管打坐が親しい。
58 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:36:47 ID:wb/HZBDo
↑ 続く
しかし今日の曹洞宗の人々の只管打坐は、あれはダメだ」と明言されていた。
是々庵老師は、その点、やはり白隠と意見を同じくされていた。
老師は遷化の日まで、学人に公案を課して参究させられたけれども、「公案禅」に対しても批判的で、「公案を使わないで別に教育する工夫」を強く私に望まれた。
が、私は故鈴木大拙先生とともに、「今となってはやはり公案禅を生かして用いるよりない」と思う。
ただ「公案をその本義に帰して」、正しく用いることが大事であろう。
大拙先生の意見もそうであった。
一時代くらい前までは、曹洞宗の師家方も公案を用いられた。
総持寺でも、水野虎渓老師や渡辺玄宗禅師がそうであった。
孤峰智サン(「王」偏に「粲」の旁)禅師も若いとき大いに公案禅に参じたと、お手紙をいただいたことがある。
原田祖岳老師の公案禅は有名である。
その法系の三宝教団は、今日欧米の一部では、臨済・曹洞の伝統の二宗をしのぐ勢いであり、「臨済・曹洞の長所を止揚(アウフヘーベン)した禅」と自称する向きもある。
ただし、その室内の見解(けんげ)は、祖岳流で、正伝の臨済正宗(しょうじゅう)のそれとは大きく異なっている。
異なって悪いというのではない。
そこに、「もし優劣有りと道(い)わば、未だ参学の眼(まなこ)を具せず。
もし優劣無しと道うも、亦未だ参学の眼を具せず」である。
ともあれ、私は今後、曹洞宗においても、「公案禅」が復興されることを願っている。
(あきつき りょうみん「禅仏教とは何か」法蔵館・平成二年)
59 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:47:54 ID:wb/HZBDo
仏教は何を説いているか
私が住んでいる小浜市に、曹洞宗の道場となっている発心寺(ほっしんじ)というお寺がある。このお寺の数世代前の住職に、原田祖岳(そがく)老師という方がおられた。
彼は曹洞宗に属していながら臨済宗の正眼寺や南禅寺などでも修行した大修行底の人で、著書も少なくない。
その原田祖岳老師が「参禅の秘訣」という著書の中で、大乗仏教の八大信条ということを述べている。
もしも人から、仏教は何を説いているのかと聞かれたならば、仏教の根本の教えはこの八つの項目に収まっていると私は答えるだろう、というのがこの八大信条で、それは次の八つである。
一、本具仏性。二、自我迷執。三、生命持続。四、因果必然。五、諸仏実在。六、感応道交。七、自他不二。八、成仏過程。
この八つの信条に関して、原田老師は次のように書いている。
これらは自己本来の面目である仏性を八方面から観察して説明したものであるから、どの一箇条でも徹底信解することができれば、それで全部が信解できるはずであるし、
一箇条でも信解できないとすれば他の七ヶ条の信解も不徹底なものと言わざるを得ない、と。
この八つの信条を、徹底して信じ切れる人は少ないかもしれないが、仏教を素直に眺めてみると、確かにこの通りのことを説いていると納得できる筈である。
ここでは祖岳老師の言葉を「参禅の秘訣」から引用しながら、「仏教は何を説いているか」を説明してみたい。
60 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:50:21 ID:wb/HZBDo
仏教は何を説いているか
一、本具仏性(ほんぐぶっしょう)
本来、何人(なんぴと)も仏性を完全に具えていることを本具仏性という。白隠禅師の坐禅和讃にいう「衆生本来仏なり」のことである。
何人も、仏の智慧徳相である仏性と、その仏性を悟るための能力と、仏性を実現するための縁の力、の三つを完全に具えているのである。
「本来仏なり」と言うからには、仏性に始まりはない。始まりがないから終わりもない。
本具の仏性は永劫不変の存在であり、大宇宙が爆発しても微動だもしない「不生、不滅、不垢(ふく)、不浄、不増、不減」(般若心経)の真如法性である。
向上して仏果菩提にいたるも一点をも増さず、退転して地獄に落ちるとも一塵をも減ぜざるものである。
仏性には無量の妙徳妙用が具わっているが、これを四つにまとめれば常楽我常の四徳となる。
第一の常徳とは、常住不変の徳である。私たちは永遠不滅の存在それ自体である。第二は楽徳で、不安や苦悩のない安穏快楽の生活である。
第三は我徳で、無我の神通妙用、自由自在のはたらきである。第四は浄徳で、無垢清浄の徳である。
この仏性を自己の体験としてハッキリととらえ、日常生活の上に体現していくのが禅の修行である。
私たちは早晩かならず本具の仏性に目覚めて、発心し、修行し、菩提を得、涅槃を証し、ついに仏果を成就するにいたるのである。
61 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:52:13 ID:wb/HZBDo
二、自我迷執(じがめいしゅう)
私たちが普通に自分と考えているものは迷いの産物であって事実ではない、というのが「自我の迷執」の意味である。
私という観念、私という意識、これが迷いの根元であり、だから自我を振りまわせば振りまわすほど、真理に背き、自己を傷つけ、社会を毒する。
意識がはたらく時には、必ず自我の迷執がついてまわるのが凡夫の常である。
その自我の迷執を離れることで、本具仏性が明らかになっていく。悟りとは自我の夢から覚めることなのである。
生々世々の修養の深浅や法縁のあるなしによって、自我の迷執には強弱の差がある。
自我の迷執が強烈にはたらく人は品性下劣な悪人と言われ、軽微にはたらく人は善人・徳者といわれる。しかし智者も徳者も善人も、凡夫であることには変わりはない。
62 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:54:29 ID:wb/HZBDo
三、生命持続(せいめいじぞく)
人間だけではなく鳥獣虫魚にいたるまで、いやしくも自我の意識がはたらくまでに発達した生命体は、個々の生命体として無限に持続進展するものである、というのが生命持続の意味である。
一つの有情がここに存在するのは、過去の業力(ごうりき。業は「行為」とか「行為の余力」を意味する)による。
それは、あたかも風の力によって一つの波が生起したのと同様であって、
一つの波が次の一波を起こし、さらにその次その次と無数の波を起していくように、一有情の業力が次の霊肉を造り、さらにその次その次と無数に自己を創造していく。
だから生命持続というのは、業力相続ということであって、業力は不滅である。
私たちは自己の霊肉というものが存在しているように思っているけれども、実はただ業力相続の上にあらわれている所の一種の幻影にすぎない。
何となれば一切は刹那生滅(せつなしょうめつ)の法であって、一刹那の間に生じ、一刹那の間に滅して、とらえるべき実体がないからである。
映画の映像が、フィルムのこまの積み重ねによって動いていくようなものである。
滝の水が常に新陳代謝していても白布を垂れたように見え、ろうそくの炎が前滅後生(ぜんめつごしょう)しながら一個の火炎に見えるように、
私たちもまた一個の霊肉が存在するように見えているけれども、それはただ業力の流れにすぎない。
有るが如くに見えても実体はないのである。
この霊肉が死んで無くなっても、業力の相続に変わりはない。
はんこの印影が紙に写るように、私たちの諸業は生まれ変わり死に変わりしながら完全に相続していく。
これが輪廻転生ということである。
このようなことは禅定力が進んでくれば明らかに知ることができる、と祖岳老師は書いている。
63 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:57:39 ID:wb/HZBDo
四、因果必然(いんがひつぜん)
事実の世界はいつでも何処でも因果必然である。
原因があれば必ず結果があり、結果があれば必ず原因がある。
真理の辞書に偶然という言葉はない。ただ必然の二字あるのみである。
「不養生をすれば病気になる」とか「努力すれば成功する」、あるいは「陰徳あれば必ず陽報あり」という程度の因果関係なら、誰でも分かるし信じている人も多い。
しかし正伝の仏法を除いては、この地上に徹底した因果の道理を示した教えは一つもない。
それだから偶然とか運命とかいうことで片付けようとする。
道元禅師は正法眼蔵のなかで、「仏法参学は第一因果をあきらむることなり。因果を撥無(はつむ。否定)するがごときは、おそらくは猛利(もうり)の邪見をおこして、断善根とならんことを。
おほよそ因果の道理、歴然としてわたくしなし。造悪のものは堕ち、修善のものはのぼる。毫釐(ごうり。わずか)もたがわざるなり」と説いている。
因果には因小果大(いんしょうかだい)という原則がある。
結果はいつも原因よりも増大するという意味で、だから悪事は一刻も早く懺悔して滅罪清浄ならしめ、反対に善事を行った場合はなるべく長く包んでおいて成長させるのが賢明ということになる。
この原則があるので、ひとたび仏教に帰依することによって生々世々にその功徳が増長し、やがては大菩提を得ることが出来るようにもなるのである。
因果には同時因果と異時(いじ)因果がある。同時因果とは原因と同時に結果を収穫することである。
怒りの心を起こした時ただちに阿修羅に成り、慈悲心を起こすと同時に菩薩の徳を成就するが如くである。
異時因果とは、原因と結果のあいだに時間の隔たりがあることをいう。
たとえどんなに時間が経とうとも、作った所の業は滅びることはなく縁がととのえば必ずその果報を自分が受けねばならない。
善悪ともに、同時因果と異時因果をともなうといわれる。
64 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 22:58:33 ID:wb/HZBDo
↑ 続き
仏教では三世両重(さんぜりょうじゅう)の因果を説く。三世両重とは「過去世、現在世、未来世」の三世にわたって二重の因果が成立するという意味で、過去世の行為によって現在世の境遇が決定し、現在世の行為によって未来世の境遇が決定されるという事である。
祖岳老師は「仏道を学んでも、よほど修行が徹底するまでは、三世因果の道理に対して釈然としないものである。
因果は仏性の活動であるから、仏性を明らかに徹見するまでは、因果の道理がほぞ落ちしないのが当然である。
因果必然と聞いて不安を感じる人は大いに反省しなければならない」と書いている。
65 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 23:01:20 ID:wb/HZBDo
五、諸仏実在(しょぶつじつざい)
無限の空間、無限の時間にわたって、目鼻を持った具体的な諸仏諸菩薩が無数に実在しておられる、ということが諸仏実在の意味である。
以下の祖岳老師の言葉を読んでいただきたい。
「既に本質的に吾人に具わっているところの性能が無限にあるといふならば、その中の一つひとつが著しく発達向上して、それを特徴とするところの一大人格が具体的事実として完成し、
その完成者が無限に実在するといふことを何故に肯定できないのであるか。
この明了々白的々(めいりょうりょう・はくてきてき。「明白」を強調した言葉)の道理が了解できないといふ原因は、要するに吾人の生命が無限に持続するといふ事実あることを知らず、
且つまた三世因果の道理が明らかに理解されていないからであります。
畢竟、宇宙の本質性能を知らないからであります。即ち無量寿如来、無碍光(むげこう)如来なる自己の本質性能を知らないからであります。
換言すれば本具仏性の内容をご存知ないからであります。更に換言すれば自我の迷執を破れないからであります」。
「我れもまた無量の仏に逢いたてまつり、承事(しょうじ。お仕え)したてまつり、供養したてまつることを得んと、深く願い、固く誓って、
仏塔を礼し、仏像を瞻仰(せんごう。仰ぎ見る)し、香華灯燭飲食(こうげ・とうしょく・おんじき)等を供えたてまつり、
あるいは坐禅あるいは読経等の法供養を励み行ってこそ、いささか諸仏の実在を信じ得たといえる。諸仏の実在を信じ得ない人は、断じて仏教を信じたとは言えない」。
祖岳老師は、諸仏だけでなく、菩薩も、羅漢も、神も天人も、修羅、餓鬼、地獄の衆生にいたるまで厳然として如実に存在していると書いている。
66 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 23:04:01 ID:wb/HZBDo
六、感応道交(かんのうどうこう)
感応道交とは、私たちの心が仏さまに通じ、仏さまの心が私たちに通じることである。
まず言葉の意味から説明すると、
私たちはことごとく完全円満なる仏性の所有者であって、その本質に目覚めんとする所の大本能力が潜在しているのだから、いつまでも動物的生活や物質的生活だけで満足できるものではない。
時節が来ればかならず無上道に目覚めようとする求道心が起こってくる。
この本具仏性から発現してくるところの求道心が「感」である。
一方、大宇宙には、本具の仏性を完全に磨きあげた無量の仏さまが実在しておられる。
太陽が光と熱を発散するように、諸仏はつねに智慧と慈悲の光を私たち一切衆生に向かって投げかけ、本具の仏性に目覚めさせようとする教化を常に行っている。
たとえ私たちは気が付かなくとも、諸仏の教化を充分にこうむっている。
そして、ひとたび自己の求道心が動き出すと、更に明らかに仏の教化力を受けることになる。これが「応」である。
諸仏と衆生とかくの如く感応道交することによって、発心も修行も菩提も涅槃も成就するのである。
67 :
まんま ちゃん:2006/08/10(木) 23:05:02 ID:wb/HZBDo
七、自他不二(じたふに)
自我に執着している私たちは、自分と他人が対立する別のものと思っているが、元来自分と他人とは一つの存在である。
さらに言えば、自己と天地万物とは一体無二の存在である。自己と境遇とが別々に存在するように思うのは、自我の迷執のなせる業なのである。
「聖人に己(おのれ)なし。己ならざるなし」というが如く、自我という妄念を徹底殺し尽くせば、直ちに宇宙大の自己となって復活する。
元来、私たちは、自他を超越した仏性そのものであり、宇宙に遍満する法身それ自体なのである。
境遇も、家庭も、社会も、国家も、天地も、宇宙も、全部自分が作って自分が眺めているのであって、自分以外の何物でもない。
凡夫迷妄(ぼんぶめいもう)の夢を見ている間は、何と言われても客観的の実在としか思えないが、ひとたび真の自己に目覚めると、宇宙は全部自己の荘厳光明であったことに気が付く。
自他を峻別するのは凡夫の迷情であり、自他不二が真の事実であり仏性本来の性能なのである。
八、成仏過程(じょうぶつかてい)
私たちはことごとく最尊無上の人格、すなわち仏果を成就する道程を歩んでいるということを成仏過程という。
一切の衆生はおそかれ早かれ自我の迷いの夢から覚めて本具の仏性を証し、仏果菩提を成就することは疑いの余地のない事である。
この自他の成仏道(じょうぶつどう)を信じるのが、大乗仏教の正信心なのである。
梵網菩薩戒経(ぼんもうぼさつかいきょう)に「大衆、心にあきらかに信ぜよ。汝らはこれ当成(とうじょう。これから当に成就する)の仏なり。我はこれ已成(いじょう。すでに成就した)の仏なり。
常にかくの如き信を成ぜば、戒品すでに具足す」とあるように、「我れはこれ当成仏なり」と確信し、さらに「一切の衆生は当成仏なり」と確信して、実行し実現するのが仏祖正伝の禅なのである。
参考文献 「参禅の秘訣」原田祖岳著 森江書店 昭和十四年
68 :
まんま ちゃん:2006/08/11(金) 21:35:08 ID:kM4moQ1M
「婆子焼庵、ばすしょうあん」と言う公案。
《ある老婆が修行の僧に草庵(いおり)を建ててやり、仏道修行が成就するようにと何くれとなく面倒を見ていました。
出家の僧を供養するのは信者のつとめでもあります。老女は若い女性に命じて僧の世話をしておりました。
年月も経ちある日老婆は孫娘に「あの修行僧も相当修行も進んで力量も出来てきただろう。ここでひとつ、お坊さんのところにいって誘惑してみよ」と言いつけました。
いわれた通り娘は修行僧に抱きついて、懇ろな言葉をかけてみた。
すると、僧は決然として女性をつきとばし「枯木寒厳に倚って、三冬暖気なし」と言い放ちました。
つまり、その僧は「触るでない!女などに興味はないぞ。私は冬の巌にたつ枯れ木のように、私の心は少しも動かない」といい、娘の手を払いのけたというんです。
老婆は娘の話を聞いて、たいそう怒って、修行僧を庵から追い出してしまった。それだけでは足りず、老婆は草庵まで焼きはらってしまった》
69 :
まんま ちゃん:2006/08/11(金) 21:35:53 ID:kM4moQ1M
昔、ある婆さんがある僧を庵に住まわせて20年間供養(世話)してきた。
そして、18歳になった娘に彼の給仕をさせていた。
ある日、僧が娘を「抱定」(この肝心の「抱定」が具体的にどういう行為なのかが今ひとつわからないのだ!)するようにさせ、彼の本当の気持ちを語らせようとした。
ところが、その僧は、「枯れ木寒厳に倚る、三冬暖気無し」(つまり、自分は枯れ木、冷え冷えとした石のようで、少しも色気など感じない、ということなのだろう)と答えた。
娘からその言葉を報告された老婆は、自分はなんと馬鹿な坊主を何年も世話してきたことか、と怒って、僧が住んでいる庵を焼き払ったとのことである。
70 :
まんま ちゃん:2006/08/11(金) 21:39:20 ID:kM4moQ1M
『無暖気』(だんきなし)
禅問答の一つに「婆子焼庵(ばすしょうあん)」という問題がある。昔、或る修行僧を婆さんが面倒見ていた。
婆さんは修行僧のために庵を建て、十六、七の若い娘に世話をさせ毎日食事を運び、一所懸命に面倒を見た。
そうすること二十年。ある日、婆さんは給仕の娘に言った、
「今日、お前さんが食事を出しに行ったらお坊さんに抱きついてみなさい。
そして、『このような時は如何ですか』と聞きなさい。」
何も解らない給仕の娘は食事を庵まで運び、言われた通りに修行僧に抱きつき、
『このような時は如何ですか。』
と聞いた。
修行僧はぴくりとも動かずに、
「古木倚寒巌 三冬無暖気」
「古木(こぼく)寒巌(かんがん)に倚(よ)り、三冬(さんとう)暖気(だんき)なし」
と言った。
枯れた木が岩に寄り添うようなもので、真冬(三冬)の寒さのようで全く暖かくはないわい。という意味である。
娘は婆さんの処へ戻り、修行僧の言葉を伝えた。
それを聞いた婆さんは、
「私は二十年の間、こんな俗物に供養していたのか。」
と言って、修行僧を追い出し、とうとう庵を焼き払ってしまった。
娘に抱きつかれて、ニヤリと鼻の下を長くしてその気になってしまっては修行僧としての根幹がなくなってしまい、それこそ破戒僧である。
そこで修行僧は修行僧らしい優等生の答えを示した。
それが婆さんの気に入らなかった。
活きた答えではなかったのである。
71 :
じねん:2006/08/12(土) 00:10:35 ID:3UaCqnij
「直 指 人 心−じきしにんしん」
あれこれ考えずに、人(自身)の心を直ちに指し示せ(心を見つめよ)との意味である。
盤珪禅師は「人間の心とは、本来鏡のようなものである」と示された。
鏡はきれいなものを映せばきれいなものが映される。
汚いものを映せば汚いものが映される。
人間の心とは、正に鏡のようであると。
「見性成仏−けんしょぷじょうぶつ」
自分が備えている仏性に目覚めれば、仏になれるの意味である。
仏になると言うことは、本来の自分に目覚め、本来の自分に戻ること。
その実践の道が、 坐禅であり、写経であ、.詠讃歌、である。
何はともあれ、まず実践しないことには始まらない。
72 :
じねん:2006/08/12(土) 00:13:46 ID:3UaCqnij
「南嶽磨磚−なんがくません」
南嶽懐譲の弟子になった馬祖道一に、南嶽が尋ねた。
「坐禅をして何を求めているのか?」と。
馬祖は「仏になるため」と答えた。
すると南嶽は、傍らの磚(瓦)を磨き始めた。
とまどう馬祖に南嶽は「磚を磨いて鏡にしようと思っている」と。
坐禅修行で仏になろうというのは間違いで、本来仏であることを自覚しなければいけない。
73 :
じねん:2006/08/12(土) 00:22:17 ID:3UaCqnij
「祖死父死子死孫死」
出光のカレンダーでおなじみの、仙豪`梵和尚が、「何かめでたい言葉を書いて下さい」と、頼まれてしたためた。
頼んだ男はたいそう驚いて、「こんな縁起の悪いものは家に掛けられない」と文句を言うと、
仙腰a尚は、「何が縁起悪いものか。まず爺さんが死んで、次ぎに親父が死ぬ。次ぎに子が死んで最後に孫が死ぬ。順序正しく死んでいけば、こんなにめでたいことはない」と。
私たちは、とかく文字にとらわれてしまうが、全体を見ると全く違う見方もできるのである。
74 :
じねん:2006/08/12(土) 00:37:59 ID:3UaCqnij
「不生不滅」(ふしょうふめつ)
「般若心経」の中に「不生不滅、不垢不浄、不増不減」とある。
盤珪禅師は、人間の本性は鏡のようなもので、本来何もないと。
物は映るが鏡の中には何も生じない。
鏡の前から物が去れば消えるが、鏡の中に滅した物は何もないと・・・。
私たちは鏡に映った物にとらわれて、本来の姿を見失ってはいないだろうか。
75 :
じねん:2006/08/12(土) 00:46:32 ID:3UaCqnij
銀?裏盛雪(ぎんわんりにゆきをもる)
【本則】
挙す。僧、巴陵(はりょう)に問う、
「如何なるか是れ提婆宗(だいばしゅう)」。
巴陵云く、「銀椀裏(ぎんわんり)に雪を盛る」。
【本則】
提案。僧が、巴陵鑑に聞いた、
「迦那提婆の宗旨の根本は何ですか」。
巴陵は云った、「白い椀に白い雪を盛るように、見分けがつかぬが全くちがうものだ。」
【頌】
老新開、端的に別なり、
解(よ)くぞ道(い)えり、銀椀裏に雪を盛ると。
九十六箇応(まさ)に自知すべし、
知(さと)らずんば却って天辺の月に問え。
提婆宗、提婆宗、赤旛(しゃくばん)の下清風を起こす。
【頌】
巴陵先生、まさしく格別である。
「銀の椀に雪を盛る」とはよくぞおっしゃった。
九十六種の外道も思い知ったにちがいない。
悟らなければ天の月に尋ねてみなさい。
提婆宗よ、提婆宗よ。赤い旛の下には清涼な風が吹き起こる。
76 :
法爾ほうに:2006/08/12(土) 20:02:44 ID:3UaCqnij
白隠禅師(1685〜1768) 静岡県生
諡号:正宗国師(明治17年)
白隠禅師は今から250年ほど前にお生まれになられた方で、臨済宗中興の祖と仰がれている高僧です。
釈迦、観音、達磨などの禅画をたしなみ、生涯、百姓や町人の中にあって平易な禅を説き続けました。
この和讃は「この身がそのまま仏である」ということを子どもが聞いても理解できるように作られたものです。
現代の人たちにも理解できるように意訳をつけさせて頂きました。本文とともに熟読して頂ければ幸いです。
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 私たちは本来仏なのである。
水と氷の如くにて それは水と氷の関係のようなもので
水を離れて氷なく 水がないと氷ができないように
衆生の外に仏なし 私たち以外に仏はありえないのである。
衆生近きを知らずして ところが、私たちが仏であるにもかかわらず
遠く求むるはかなさよ 自分の外に仏があると思ってあちこち探しまわっている。
譬えば水の中に居て それは水の中にいて
渇を叫ぶが如くなり のどが渇いたと叫んでいるようなものである。
長者の家の子となりて また、裕福な家の子に生まれたのに
貧里に迷うに異ならず 貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。
六趣輪廻の因縁は いつまでも迷いの世界から抜け出すことができないのは
己が愚痴の闇路なり 真実を知らぬからである。
闇路に闇路を踏みそえて 迷いに迷っていて
いつか生死を離るべき いつ苦しみを離れることができようか。
それ摩訶衍の禅定は 大乗の禅は
称嘆するに余りあり 私たちの大きな支えとなる。
布施や持戒の諸波羅蜜 他人への施しや自分自身への戒め
念仏懺悔修行等 お念仏や懺悔(反省)、他力の信心、自力の修行など
その品多き諸善行 数々の善行があるが
皆この中に帰するなり それらは皆「禅定」の中に包括されるのである。
77 :
法爾ほうに:2006/08/12(土) 20:07:06 ID:3UaCqnij
↑続き
一坐の功を成す人も ひととき、 心を落ち着け坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ 今までの迷いや不安は無くなり
悪趣いずくに有りぬべき 悪い出来事などどこにもありはしない。
浄土即ち遠からず 浄土は今ここにあるのである。
辱なくも此の法を ありがたいことに、この法(おしえ)を
一たび耳に触るる時 一たび耳にしたとき
讃嘆随喜する人は 讃え、喜び、信じ、受け入れる人は
福を得ること限りなし 必ず幸福を手に入れるであろう。
いわんや自ら回向して ましてや自ら修行して
直に自性を証ずれば 本来の自分が分かれば
自性即ち無性にて 迷いや不安などはなく
すでに戯論を離れたり それはもう、すでに煩悩から離れたのだ。
因果一如の門ひらけ 私たちは今、仏と一体となり
無二無三の道直し そこに、真実の道が真直ぐに通っている。
無相の相を相として 無常の相を実相とし
往くも帰るも余所ならず どこに行っても、こころの安らぎを見いだそう。
無念の念を念として 雑念を起こさなければ
謡うも舞うも法の声 謡うことや舞うことなども仏の法(おしえ)であり、仏の声である。
三昧無礙の空ひろく こだわりのない心は、大空のように自由に果てしなく広がり
四智円明の月さえん 悟りとういう美しく清らかな月が輝く。
この時何をか求むべき この時何の求むべきものがあろう。
寂滅現前するゆえに 迷いや不安がなくなり心の安らぎが得られた今
当処即ち蓮華国 ここが浄土で
此の身即ち仏なり この身がそのまま仏なのである。
78 :
法爾ほうに:2006/08/12(土) 20:12:20 ID:3UaCqnij
白隠禅師坐禅和讃
衆生本来仏なり 私たちは本来仏なのである。
水と氷の如くにて それは水と氷の関係のようなもので
水を離れて氷なく 水がないと氷ができないように
衆生の外に仏なし 私たち以外に仏はありえないのである。
衆生近きを知らずして ところが、私たちが仏であるにもかかわらず
遠く求むるはかなさよ 自分の外に仏があると思ってあちこち探しまわっている。
譬えば水の中に居て それは水の中にいて
渇を叫ぶが如くなり のどが渇いたと叫んでいるようなものである。
長者の家の子となりて また、裕福な家の子に生まれたのに
貧里に迷うに異ならず 貧しい里をさまよい歩いているのと同じである。
六趣輪廻の因縁は いつまでも迷いの世界から抜け出すことができないのは
己が愚痴の闇路なり 真実を知らぬからである。
闇路に闇路を踏みそえて 迷いに迷っていて
いつか生死を離るべき いつ苦しみを離れることができようか。
それ摩訶衍の禅定は 大乗の禅は
称嘆するに余りあり 私たちの大きな支えとなる。
布施や持戒の諸波羅蜜 他人への施しや自分自身への戒め
念仏懺悔修行等 お念仏や懺悔(反省)、他力の信心、自力の修行など
その品多き諸善行 数々の善行があるが
皆この中に帰するなり それらは皆「禅定」の中に包括されるのである。
79 :
法爾ほうに:2006/08/12(土) 20:16:35 ID:3UaCqnij
一坐の功を成す人も ひととき、 心を落ち着け坐った人は
積みし無量の罪ほろぶ 今までの迷いや不安は無くなり
悪趣いずくに有りぬべき 悪い出来事などどこにもありはしない。
浄土即ち遠からず 浄土は今ここにあるのである。
辱なくも此の法を ありがたいことに、この法(おしえ)を
一たび耳に触るる時 一たび耳にしたとき
讃嘆随喜する人は 讃え、喜び、信じ、受け入れる人は
福を得ること限りなし 必ず幸福を手に入れるであろう。
いわんや自ら回向して ましてや自ら修行して
直に自性を証ずれば 本来の自分が分かれば
自性即ち無性にて 迷いや不安などはなく
すでに戯論を離れたり それはもう、すでに煩悩から離れたのだ。
因果一如の門ひらけ 私たちは今、仏と一体となり
無二無三の道直し そこに、真実の道が真直ぐに通っている。
無相の相を相として 無常の相を実相とし
往くも帰るも余所ならず どこに行っても、こころの安らぎを見いだそう。
無念の念を念として 雑念を起こさなければ
謡うも舞うも法の声 謡うことや舞うことなども仏の法(おしえ)であり、仏の声である。
三昧無礙の空ひろく こだわりのない心は、大空のように自由に果てしなく広がり
四智円明の月さえん 悟りとういう美しく清らかな月が輝く。
この時何をか求むべき この時何の求むべきものがあろう。
寂滅現前するゆえに 迷いや不安がなくなり心の安らぎが得られた今
当処即ち蓮華国 ここが浄土で
此の身即ち仏なり この身がそのまま仏なのである。
80 :
法爾ほうに:2006/08/14(月) 19:50:12 ID:XAeBxNt2
25 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:03/07/25(金) 15:29
白隠宗=和製公案宗
隻手音声とか「紅毛人なぜ髭がない」とか「東海道一人の人も通らないのは何故か」とか
「印籠から富士山を出してみよ」とか。
「印籠から富士山〜」はホウ居士の西湖水と似てるなあ。
「紅毛人〜」はまんま無門関の「ダルマなぜヒゲがない」だし。
そういえば誰だか「結婚式のときの新婦が屁をこいた時の仏法如何」とかいう
公案作ってた禅師いたな。
26 名前:名無しさん@3周年[sage] 投稿日:03/07/26(土) 00:09
まさか、ほとけは漢字で「仏(ぶっ)」と書く、とかいうんじゃねぇだろうな...。
27 名前:名無しさん@3周年[] 投稿日:03/07/26(土) 00:52
>26
ぶははははは、おもしろい(笑)
よってage。
81 :
不二:2006/08/14(月) 23:06:42 ID:XAeBxNt2
無料の座禅会が、あった・・・
1) 新徳寺
2) 臨済宗永源寺派
3) 604 京都府京都市中京区壬生賀陽御所町48
4) 075-811-6569
5) 山田一道
6) 阪急電車四条大宮徒歩10分・JR京都駅より(26)系統市バス四条坊城
下車、南へ150m
7)
8) 毎月8日、(土)(日)の場合前後日に成ることあり。
9) 山田一道
10)坐禅・法話・茶礼
11)不要
12)1月は少年補導、剣道部、全員参加と一緒になります。
13)初心者向き。京都には専門道場多くあり、本格的な人はそちらへどうぞ。
82 :
不二:2006/08/14(月) 23:10:56 ID:XAeBxNt2
1)寺院名、2)宗派、3)住所、4)電話番号、5)連絡先、6)交通手段、7)坐禅会の名称、8)定例禅会、9)指導者・提唱者、10)坐禅会の内容、11)会費、12)坐禅会の特別行事、13)注意・コメント 、14)メール、15)ホームページ
1) 円福寺
2) 臨済宗妙心寺派
3) 281 千葉県千葉市稲毛区穴川町375
4) 043-251-9181 FAX 043-251-9549
5) 宮田宗格(住職)
6) JR総武線稲毛駅下車徒歩30分、モノレール穴川駅下車徒歩7分
7) 円福寺坐禅会
8) 毎週木曜日午後6時より、7時まで坐禅、その後茶礼という名の井戸端会議
9) 宮田宗格(住職)
10)坐禅、茶話会
11)無料(気になる人はたまにお茶菓子持参すればよいのでは?)
12)年に一度親睦旅行、また年に数回般若湯を飲む会あり。
13)6時きっかりに始めますから、出来たら最初は30分位前に来山されたい。パソコンのソフトも沢山ありますよ。
14)
[email protected] 15)
http://www.bnet.co.jp/enpukuji/ 1) 長善寺
2) 曹洞宗
3) 299-11 千葉県君津市大鷲257
4) 0439-32-4055
5) 鈴木良潤(住職)
6) JR君津駅より東へ10Km、車で15分
7) 長善寺参禅会
8) 定例禅会・毎月第3土曜日夜7時〜9時
9) 鈴木良潤(住職)
10)坐禅・法話・茶礼
11)定例禅会は会費不要
12)
13)老若男女不問、初心者・子供歓迎
初めての方は、予め電話連絡をお願いいたします。
83 :
不二:2006/08/14(月) 23:13:39 ID:XAeBxNt2
1) 報恩寺
2) 臨済宗妙心寺派
3) 285 千葉県佐倉市下志津841
4) 043-461-1408
5) 太田宗樹(住職)
6) 京成ユーカリガ丘下車、徒歩15分
7) 報恩寺坐禅会
8) 第1土曜日午後6時から7時
9) 太田宗樹(住職)
10)坐禅・茶礼
11)無料
12)子供達が多いです。不定期ですが、焼き芋会とかの行事をします。
13)
1) 龍泉院
2) 曹洞宗
3) 270-14 千葉県東葛飾郡沼南町泉81
4) 0471-91-1609
5) 椎名宏雄
6) 柏駅より東武バス「手賀・布瀬・泉入口行き」で泉入口または泉下車徒歩5分
7) 龍泉院参禅会
8) 例会:毎月第4日曜日午前9時から12時
9) 椎名宏雄
10)坐禅・提唱(正法眼蔵)・座談
11)例会は会費無料
12)新年会(2月)・1泊坐禅会(6月)・成道会(12月)・その他
13)昭和46年創立・会報「明珠」年2回発行
84 :
不二:2006/08/14(月) 23:18:23 ID:XAeBxNt2
1) 宝樹院
2) 臨済宗妙心寺派
3) 285 千葉県佐倉市上座1041
4) 043-487-6505 FAX 043-487-4229
5) 加藤泰宗(住職)
6) 京成ユーカリガ丘下車、徒歩12分
7) 宝樹院坐禅会
8) 第1日曜午前8時から9時半、第2日曜午後6時から7時、第4日曜午前6
時から7時半
9) 泰宗住職、泰裕副住職、宗悦副住職
10)第1週は坐禅・法話・茶礼、第2週は坐禅、第3週は写経、第4週は坐禅・作務・粥座。
11)無料
12)4月第1日曜:花祭り落語会、11月第4日曜:さざんか法話会
13)参加自由、週により時間や内容を工夫し、どなたでも自由にご参加いただいております
14)mailto:
[email protected] 15)
http://www.catv296.ne.jp/~zen/ 1)観照会柏道場
2)臨済宗系
3)柏市新富町2−3
5)板垣 047−344−3896
6)常磐線南柏駅徒歩22分
8)毎月 第2第4日曜日午後1時から午後5時
9)小出無外
10)座禅、入室、茶礼
11)無料
13)公案の数や作法ではなく、原点の正しい悟りを体得する
15)観照会の理念、詳細は会のホームページを参照して下さい
http://www3.ocn.ne.jp/~kansyou/
neoR.Momow <= #4~kW;Y[~
MugaxWJvPA <= #}am,faM`
BudoxoLuAI <= #}D%GNSHs
SobaxZqniw <= #r/vUgdu7
MemoBvnQ.Q <= #k/vV0e*n
SobaxZqniw <= #r/vUgdu7
MemoBvnQ.Q <= #k/vV0e*n
JyoCxYjoTI <= #;cLVs;T#
Star2k0UEQ <= #-cLmU|pF
Bodyl5gtjI <= #,cLntp^q
WHOmaeBldI <= #kcLs@aOX
HoSingm0nU <= #[cLwmz#O
MikoZVk3Jo <= #IcL}z_2)
PANw.GSing <= #M~v4Y!M=
KasiEJVKYY <= #\~v6oxDu
Antao5.uVs <= #t~vKiC@=
Tonorm2LUc <= #[~vO_EZU
SatoXvUe1o <= #9~vTZRro
CooLk85cpE <= #M~vTZ8?'
OnnaUU2RA2 <= #=~v%&;2'
RoseLTvd4Q <= #5{gID{=U
SobaqE.EoI <= #5{ga-X])
Mikoh9RhXs <= #|gj6CG47
Budo2WKmuw <= #}gjhL%_@
Cha1Y2HA6c <= #Mgjo?=B9
Mazil7vZbI <= #:gj%qrUE
IesuXQC8I. <= #vgj?^zgz
CookT9jlOo <= #mJuP\5B(
Sukia18nK. <= #vvf]wS\q
0Yome0TcUI <= #\Bw6CL5Q
PAPAq7eieM <= #ABw',O-i
Yume.fjUS. <= #(cM2HlTy
SukiWVVYls <= #9cMb1ZUe
CakevCol4E <= #I7$611P@
TVCha1dWnc <= #z7$!fA%q
misoOqqJ1. <= #!7$[I7y4
OpaiIRA5tA <= #KcrP~4N^
OPAIRo9Q9A <= #8crT6UNV
kami09u482 <= #scrl/:$g
Mugir2ZC22 <= #t[8$)a6u
ALadydECy2 <= #d[8,7P={
WineswSAz. <= #'[h8)PO|
Yuri/S02Dg <= #&[hHgOxb
KohimcM.GA <= #L[hUD=x4
CAntaBHhdc <= #7[ha3LRl
GoMunel5RQ <= #&[hfaM#.
MazieMBNyA <= #o[hk7x=(
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KameI0wELE <= #T[h@ui'N
GariBwLwi6 <= #3[h~7x=(
77singnhts <= #'&WS~&4G
KohiyprN4s <= #L&WTPsIO
SingG2VSUA <= #S&Wcnb#G
LadyHCSjuI <= #OUh.JcpF
MugiFdF.BE <= #lUh6(j?g
Otto8Vd0bI <= #vUhDURRh
MaholXGTyg <= #fUhN)I['
Yome5Kdse. <= #uUhN;+d}
UstaPNyStk <= #zUhhabeJ
MirojnfVzo <= #RUh-)y5_
MadoBla5TM <= #V8a0k\gG
Pizaof8Hlg <= #X8aFd\cI
Otto38JBnc <= #L8afJmvY
GOLDjhNtVs <= #N8axUQpQ
KomeTmv082 <= #1)v9#}A/
Yume6gKeYo <= #g)vHwn5i
OmaeUDrY52 <= #B)vt5Iwg
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Tohu.dp49I <= #500Re$#e
MizuNm8gto <= #Y00Um/Jj
SoupDHI3Y. <= #*00VU,uj
OnnayzaRpo <= #O00c.]Yb
MiriFkMVns <= #d00|[ANU
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Warecq/imY <= #Z/%7Xn{T
AmenstztJo <= #|/%9H{K8
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Ryuun.YZPg <= #Q[R.|yNJ
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SabaeL.DIs <= #D;CWwa;a
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MaziOJzJnA <= #N;Cy9/P4
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KamiVUNBwM <= #g@C@a|B0
1BodyweKnY <= #k@C[xm}l
MazieV.RuE <= #N3XE6MaT
CakehKW0KY <= #V3X\cl$d
SajioDslGE <= #vYWB?afP
LadyZ7eTdg <= #XYWS*MxM
JazzczspOU <= #OYWp'Mne
7743nj/d9Q <= #5lw/ux6U
AntaxLJEAc <= #Wlw8m[f-
GomaWaImVw <= #Glwb=;Jm
1umahTsMM. <= #Nlwp72gK
Sabam8Yfgg <= #-lwta_fw
JyoCEKZFUg <= #)lw%6yb-
HaneHlIcjo <= #xlw;)#c#
TakoAZaPow <= #tlw}j8Z\
SusiRBLOhw <= #BYvjTgn)
MuneYOr69c <= #GYv-q]wT
Kare8mczWs <= #pYv^z,wv
Chat3FJeLM <= #3v^C8fa'
OttoEXBHq. <= #9v^NG}]R
aKami7YCRc <= #tv^SpB[P
MugaTKi2iU <= #bv^wg[,G
Goma12ip7w <= #,v^-~_B7
7shi8s/RxM <= #]v^`TSJ/
9253B7pIDo <= #$onB(HkQ
Milk/2wYZ. <= #AonL#sMQ
OttoIz8fng <= #monL9?HI
BodynJk.2w <= #OonVw6'l
Saba5g0GTU <= #HonfKky~
CokeHxli.Q <= #Qonf9Iw9
Mind0JpIFc <= #fonh@qR:
1CupguYxak <= #zon)e'|E
SingtVoiRk <= #Uon@AX41
BookUxHKjc <= #Don~i:*Y
LoveIu8Av2 <= #Qon~?M+|
Kameln0NoU <= #R,c/pS4p
Ware12cQFY <= #6,cBU-jO
AijoQMW5bQ <= #6,cs`8.@
LadyXGHkdQ <= #},c+@#T$
PizaDrfjFk <= #.BE1PCN$
MahoPItVno <= #IBEO1+c$
KasiSle72A <= #XBEff=22
AmenYUTwj2 <= #EBEx6aSy
SultmOgX7k <= #*BE@eM?T
KamiThB0tE <= #`Tf6j}JC
Hope1mqahQ <= #MTf7hFc{
MamemMZ3tk <= #dTfWtwr0
TUmaiLLJpw <= #yTf+;QYc
7shic7/WG2 <= #?Tf|]P(A
JyoC5o9LAU <= #gni.vr_G
ImiGariajQ <= #?ni0)IE`
BJyo19/BHg <= #tniB%82!
MesiQkEDYc <= #UniE@By*
YukildsOBA <= #rniMKvPA
SoupI4LaYQ <= #pniyMQIZ
SabaUFmfOA <= #fni^\JPQ
KikEMunezM <= #Uni`Yh7u
NanaOkhS1A <= #)'gc53V&
CazNnIAijo <= #V_G09Nb/
JazzdGntC6 <= #d_GFu6y?
BanBrJ283A <= #-_GJ,mhC
WineeZ/AZw <= #6_GMZ9~(
WAtaiR79f2 <= ##_GP'=(2
2gonwMizu6 <= #3_GhXKwL
MesiqBx//o <= #y_Gq{u@#
2AgeUdonXI <= #W_GwS3*I
EBaEEUsta6 <= #Y_GzXKwL
Hako.FJQYs <= #%_G$DBAS
Bnanr8mjhY <= #z{X1GSxV
YokovDW2u2 <= #K{X7I^Ab
PizaHL0fIQ <= #8{XF1Gt*
Iti5aaBvdA <= #q{XFT&+Y
Momo6My1aI <= #K{XODj3/
O9uqGOLDAY <= #3{XX|Br`
KingGEei.Q <= #S{Xz{{E.
YomeFVfQV. <= #x{X=Wa#j
JYogaRefcM <= #'NEQ&KoA
GOLDDVIZqs <= #7NE'nOx1
Iti5GtA3BA <= #!NE:QB.q
9524D8Memo <= #HNE^?\~v
AntaKI6Mjc <= #cNE|GR*c
SusiqYnggI <= #Z:(/0syg
Cakeve3azI <= #J:(Ii6kw
Yoko1zJ0EM <= #^:(anhuF
JyoCuekHJ. <= #A:(%+mH]
SoraeqpwAM <= #z:((x.u:
Sa43wzGz42 <= #!:(=p]y)
Semifh0XAk <= #O:(?lV;1
AijoeHMnv6 <= #igs6en%h
GOLD7/SfMc <= #0gs8jGp?
SoupbBL5k2 <= #ngs8/A;*
Madokf7Qjg <= #ggsFnh!c
GomacIwBRE <= #|gsJjy2e
Song2a3wh. <= #|gscd/zj
7StarLDZjQ <= #7gsiJ:gG
Bnand04B96 <= #Xgsx}4o%
Kohi1UtjUc <= #,gs(]0T&
77siNHFj3I <= #*gs~GH}U
MaruRwbSCU <= #LN(2sY'$
JyoCYlU03w <= #7N(v}^S2
UmaiGGh0Ks <= #YN(|t+c^
TumansNv7I <= #3mI/[2p.
Madov7B/VY <= #CmI0:#h6
KareBFOpQc <= #4mI47/i7
Yome1TtDy6 <= #]mIn&iav
GUstat1V9M <= #SmI||K)G
OnnaYCvyRY <= #9Jf5326q
QaugwBook6 <= #CJf67EOo
77YogagkcA <= #~Jf6`^lF
ASorap6haw <= #{JfE8$x`
YumeY8bRQk <= #3JfLTmK!
2Hasi/WhTQ <= #KJfZL^*;
Mugij3hths <= #}Jfz+QrJ
CokeM4c1Nc <= #LJf-_uR@
Colaemrq4k <= #c;`/&f+x
Yoko9l9yv6 <= #0;`I/)@@
Yuzu3yqtBg <= #g;`J_bZ~
DanC2KT84E <= #o;`_&f+x
Iesuqdrx8c <= #[7b9#G$@
Jigamgn.zo <= #f7bMw|m{
KutiwKVk.6 <= #;RT4aWo.
Rin5QnMsqg <= #uRTD.lJL
Cha1NY3O8k <= #+RTI6GiC
Mugam90cAo <= #:RTNwiR3
SatoUDt89M <= #9RTPqvdD
MisoO4V3yY <= #MRTu59Xw
UdonRuUT7M <= #@RT)'`m^
GYokoDZNLI <= #,yLXNt3(
77siFJRKNE <= #AyLZE80o
OmaeQPWyig <= #PyLdM=s@
Hope/v8Xbs <= #@yLonwBP
OpaiLU9Lmg <= #%yL\?(A_
Yuri3LIttU <= #9yL}4%E|
SoulG.PdhA <= #\Wi[c&F-
iTakoFlqsA <= #p?y3?:1'
GEGOLDWpLo <= #,?yJtA{|
lUpKasiL6I <= #o?yS9DLi
PizaCF16kY <= #y?yZz&]t
YokozJVwTc <= #}?y:z&]t
Turu4i5wkA <= #*?y;]MU]
TumarpU3lU <= #6?y{pE'~
Bzin.yToMY <= #C?y}'_kg
NasiNl.XEE <= #bC42{a/r
DanCLlSZ9w <= #(C4F^pK^
YumeyTVqMI <= #aC4H;Xpu
kissv9BzeE <= #IC4Ne3DT
KohiDQLhXY <= #rC4}~(l*
NikuBa1fSU <= #F2?CMn=y
JyoCKcCXTI <= #i2?E+*X]
Susi8ulzE6 <= #V2?xNW^m
Ba77bPnKKs <= #C2?`Zk]b
ozufO1Cupc <= #MP9qz.T{
Singeg6rm6 <= #&P9sGh8y
MayuXNYYSg <= #NP9t7ox3
KohitrUudU <= #)P9+(o$L
Sing.wfCtw <= #^~k29s3;
neoR.Momow <= #4~kW;Y[~
Love7m1wbM <= #;~kYVEzP
Hime1MhIhQ <= #(~kj{=h-
YogaioiwFY <= #,~k^PoF,
MikoNeRzY. <= #+:gL6XNe
TomoVFAAf2 <= #B:gjpDc~
FileTot2J2 <= #?(TAlYz6
JRAdHMunek <= #r(TWsN&T
MisoolNRX. <= #K(Ted(`2
MayuIDovT. <= #((TyHf&Y
Jazzl0hZzo <= #M(T*jPVU
Niku.BeE4s <= #+(T,Hf&Y
Jiyu/qkMAk <= #%(T\=]:-
SemiiPzff6 <= #-(T^-ru_
YumeOIrqz. <= #QrK2bIW8
YokoO.Cd.. <= #yrK4Ncqo
KutiObIwbw <= #IrKA!C.T
KasiUxsARk <= #DrKV}CG@
HanaCk8cEU <= #zrKVcBxw
Jazz7SnwVs <= ##rKZ0E)Z
Muga4rVAGk <= #orKy=i-P
SajiBl74LY <= #:c%IwBN+
Antaan0sRQ <= #Ec%RM?}n
MameX0mCec <= #=c%eA]Jq
ColaA3Ecjo <= #r#X/*bQw
Onnaffd5Os <= #T#XWY\Sh
UdonEGy6g6 <= #wrCL-8qp
KasiNMOi3U <= #PrCS?JX,
1Cup1GVc1M <= #WrC-}!1N
Mizu60yXj2 <= #~?XJj.4F
JigaY8li4k <= #o9*RdD?}
BnaniOqDnk <= #j9*!izR#
Hasi3/UTfY <= #B9*(EID=
TuruK7M9Rw <= #bJ63LSD[
JyoCjECwzw <= #aJ6KwOuF
BzinW.rlYc <= #bJ6gZ;G7
Kare/8ihSg <= #YJ6lS)\:
GOLDGY9W6M <= #NJ6|pO`g
HakoGDiLwM <= #QH_8fx(E
UstaAvP2v2 <= #rR76Hs5~
UstaBJeZDg <= #?R7Bq6+(
7si3nBKsps <= #,R7E(c'V
MimiJ8A.MU <= #XR7S;!'I
WareACstKM <= #6R7hJjIr
BudotIxRcM <= #jR7z7n&D
BanBZHlr4E <= #=R7$q6+(
Iesu.3T4Mw <= #yR7&H)/@
SoulFroTlA <= #AR7'kj~-
No.1SwQZqc <= #fR7);!'I
BnanAFHMwA <= #1R7^(c'V
1CupMqSaBc <= ##R7^eP5B
Dan532mgzg <= #HG{2k[\w
人は生かされているから、ことさらに姿勢や呼吸を意識しない、
けれども欲のおもむくままに生きているから、人はつまずきます。
真っ直ぐ背筋伸ばして、呼吸を整えます、
人生いかに生きるべきか、周りや、進むべき方向がよく見えてきます。
こだわらない ・ とらわれない ・ こころゆったり 心身の疲れをいやし活力ある生活を
イスにすわって・・・α脳波で心身のリフレッシュ!!
椅子坐禅
身体を整える
?椅子にどっしりと腰掛ける、背筋を伸ばし、顎をひく、
両肩の力を抜いて、耳と肩・鼻と臍とが垂直に
手は右手のひらの上に、左手を重ね、
両手の親指を向かい合わせ、かすかにふれあわす
?口は閉じて、
目は自然に開き約1m前に視線を落とす
?姿勢を整え、上半身を左右に緩やかに揺らして、
背筋を立て、しだいに動きを止め、身体を安定させる
息を整える
?身体が安定したら、腹の底から息を吐くように
大きく深く数回呼吸する、
そして口を閉じ、歯もかみ合わせて
静かにゆっくりとした、鼻からの呼吸に変える
心を整える
?身体と息が調ってきたならば、
心落ち着け静かに坐る
耳に聞こえてくる音も聞き流し、
脳裏に浮かぶ事柄にも
気にかけず、只ひたすらに坐る
背筋のばして息をゆっくり吐く呼吸法
本来の自己である自分という生命体に素直な生き方をすべきところ、私たちは自我の欲望のおもむくままに利己的な生き方をしているから、自分自身で悩み苦しんでしまいます。
悩み苦しみが解消されずに重なり蓄積していくと心身の不調をきたします。
背筋のばして息をゆっくり吐く呼吸法によって、脳内の神経伝達物質のひとつであるセロトニンが増えるそうです、
すると、ほかの神経伝達物質であるドーパミン、ノルアドレナリンをコントロールし精神を安定させ、不快感が鎮まり癒される、セロトニンにはこのような作用があると言われています。
セロトニンが不足すると感情にブレーキがかかりにくくなり、うわずった気持ちで落ち着きがなくなったり、あるいは無気力な状態や、うつ病になりやすいなどといった指摘があります。
背筋のばして息をゆっくりと吐く呼吸法によって、セロトニンが増えて心身が安らかになるという効果が最近わかってきました。
背筋のばして息をゆっくり吐く呼吸法はお釈迦さまの教えです、時々試してください、元気が出ます、希望がわいてきます。自然の活力を体いっぱいにいただいて生気がみなぎってくるでしょう。
自分らしく生きる、身の丈に合わせた生き方をする、背伸びしない、この開き直りが大切です。
背筋のばして息をゆっくり吐く呼吸法によって、悩み苦しみのない本来の自己である生命体にたとえ一時でもたち帰れます。
生かされている自己という生命体である自分の本性(仏性)に気づき、そして他に生かしてもらっているから他を生かし他とともに生きる、この生き方を心掛けることによって悩み苦しみを払拭した生き方ができる。
濁にごりなき 心の水に すむ月は 波もくだけて 光りとぞなる 道元禅師
生きる姿勢を正し、目覚めようとする心を発す
人は夢の彼方から生まれてきて夢の彼方に帰る、それで左に人、右に夢、合わせて儚いという字にして、人生は儚いという。
人生が一瞬の儚いものであるからこそ、ぼーとして、日おくりをしているとすぐに老いてしまう。
それでしっかりと目を見開いて自分の脚下を照顧せよ、現前の世界をしっかりと見据える、物事のほんとうのところを見失わないように、いつも眼を見開きなさいと、すなはち目覚めよとお釈迦様は教えられました。
生きる姿勢を正すことが大切です、いつも背筋を伸ばして前向き姿勢を心掛けることです、前かがみで背中を丸めた下向き姿勢では気持ちがふさがってしまいます。
次に呼吸法を変えることです、普段の生活では無意識に呼吸していますが、時々意識して息をゆっくり吐きましょう、不思議と落ち着きがでてくるものです、ゆったりとした、安らいだ気分になれます。
日々、真っ直ぐな生き方をする、「左に側ち(そばだち) 右に傾き(かたむき)、前に躬り(くぐまり)、後に仰ぐ(あおぐ)ことをえざれ」と、
姿勢を正して、しっかりと大地に自分の身を整えて息を整えよ、心を整えよ、良く整えし我が身こそ仏なり人間なりと、道元禅師はお示しになられました。
一瞬の儚い人生ですが、毎日がはじめての今日、初めての私ですから、この上もなき幸せとは、今、人生に目覚めることです。
いつも真実をもとめようと努力する生き方こそが目覚めであり幸せです。人生、日々修行であり修行こそが悟りすなはち目覚めであり、幸せです。
目覚めようとする心を発すか否かが、我が人生にとっての幸不幸の分岐点となる。
自分自身の仏心に目覚めなくて、幸せを探し求めても、空虚なものを追いかけているにすぎません。自己の仏心を呼び覚まそうと努力するところに、人生が楽しくなるでしょう。
ダンマパダ 法句経のことをダンマパダと呼ばれている。
釈尊の古い教理、お言葉が、そして、短いものでひとつの経典のごとくにあつかわれていた。
だから、法句経と言われている。
釈尊のお言葉としてこれを見ていくならば、キリスト教でいうならば聖書にあたる、バイブルにあたるものであります。
今日のところは、精進ということ、その反対に放逸、その精進と放逸、人間の生活において励みいそしむということ、逆に怠りサボるということなのだ。
精進こそ不死の道と、放逸こそは死の道なり。
いそしみ励むものは死することない。放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなりと。
言葉は誰にでもわかる。これくらいの言葉だったならば小さな子供でも言葉ではわかるけれども、この内容は人生経験豊かな七十、八十の老人でも内容にいたっては、理解することは、なかなか難しいことだ。
お互いに反省して、自分の今まで歩んできた道を考えてみよう。
これでいいのか、悪いのか。自己を点検することが禅の修行というものだ。
そう思うならば、求道心を燃やして、精進あるものが、修行できるということである。
精進こそ不死の道と。まぁ、ここでは精進は大切なことだというわけだ。
お互い日常生活を送っていて、これではいけないと思ったならば努力する.その努力する心がすなわち、人間を完成させていく道ならば、それこそが精進というものだ。
伝教大師は、天台宗の比叡山そのお山を開かれた.最澄さんのこと。
その伝教大師、その最澄さんのお言葉の中に「国宝とは何ものぞ、宝とは道心なり、道心ある人を名づけて国宝となす」と、そういうことばがある。
国宝といえば、やれどこどこの建物が立派だ、重要文化財だ、国宝だ.やれどこどこの美術や庭園なかなか立派なものだ。
国に指定されておる、そういうものを持って国宝と呼ぶことができる。
伝教大師はそういうことをもって国宝と言っているのではない。
この一国民としての、人間としての宝とは、どういう人を言うのかと。
国宝とは何ものぞ。
この国に生まれこの国に育って、人様から尊敬され信頼されその人物とは、どういう人を言うのかな。
国宝とは何ものぞ、宝とは、その国宝、宝とは、道心なり。精進する心をもって、人間の正しい道に邁進しようとしている、その心それを道心という。
その道心有る人を名付けて国宝となすと。
そういう道心を持った人を名付けるならば、その人こそが国宝だ.宝の人だ。
伝教大師は、『山家学生式』という、自らがあらわした書物の中に、その様にかかれておる.そうして、寒い冬も、この比叡山で修行する人たちに、その様に説いて、ともにがんばっていたと言われる。
そうして後世の人にも、そういうことを忘れるな、放逸にするな、怠りるな、道心を燃やし、精進こそが不死の道であると言わんばかりの心が、のこされておる。
これは、インドのブッダはもちろんのことであるが、あるいは中国の達磨大師、禅宗の開祖、そういう人はもちろんのことであるが、あるいは臨済宗の開祖臨済義玄禅師も、もちろん精進の人であり、求道心を燃やした人であるが、日本の、伝教大師も精進の人だ。
求道心を燃やした人だ。近世臨済禅を復興したといわれる白隠禅師も精進の人、求道の人であると見ることができる。
しかし、過去の人がそういう人であっても現在生きている人であって、そういう者は現在いないのか。
過去に求めることだけが能ではなかろう。未来にもそういう人が出て来てほしい、未来にたくする。それも必要であろうが、未来だ、未来のことは、それこそ弥勒菩薩に任せておけ。
現代に生きておる、この現代の時代の中に共に生きておる、その中に、精進の人、求道の人がいないのか。そのように問われておるのである。
精進こそ不死の道、精進する心を持ったその人の人間性こそが、不死の道だ。死なない本当の道だ。
それに比べて、俺はあかんのだと、卑下をし、やろうと思うても、よからぬ思いが頭の中に、心の中にめぐらして、ついついと、怠けてしまう。
ややもするとそちらの方に、一日の時間の大半は向いてしまう。そうなったならば怠りこそは、死の道ななのだ。肉体は生きておるかもしれないけれども、心は、死んでおるのと一緒だ。
放逸こそは、死の道なり。のらりくらりと、生きておるのは、死の道を歩んでおるようなものだぞ。
白隠禅師は、若かりし頃に、友人と二人で地方に真の師匠を求めて、禅行脚に出た。
あそこには立派な和尚さんがおられると会って話を聞き、道のために、求道心を燃やして、そういう行脚をしたのだ.白隠も若かりし時、そういう経験をしたのである。
ちょうど、備前から、備前というのは岡山だ、備前から播州にかかってきた。播州といえば兵庫県姫路赤穂だ。
その播州にかかってきた頃に、ああ、姫路城の立派な城があるじゃないか。
友人は言う。「あのお城に一度見学してみたいな、白隠さん行かないか」誘い厄介受けたが、白隠はそんな気になれない。その頃は、道に燃えていたのだろう。
友人は、遊び戯れて放逸なる心が多い。寄り道をし、遊びたいという気持ちがある。まあ、連れられて白隠に従って行脚をしておる。仕方ないかも知れないが、その播州路にかかった頃だ。
日も暮れて、夕暮れに近づき、長い間歩いておるその体も疲れておる頃だ、山あいに夕日が入りかけようとしておる時に下を見た。深い谷川が下の方に流れておるのを見た。
「山下に流水あり、こんこんとして止む時無し、禅心もし、かくのごとくあらば、見性あにそれ遅からんや」と
じっと見ておると、下のほうに谷川の、せせらぎの川の流れる水音と共に目に映る。こんこんと流れひとときも止まることはない。流れ、流れ、流れ、流れておる。その様子をじっと眺めた。
その時に、その谷川の、川の流れの、水のように止まることはなく、今、自分のような燃える求道心を持ち、精進の心を持ちつづけるならば、見性あに遅からんや。
自分が自分として、人間として最も完成されたそういう人間になること間違いなし。
それ見性遅からんや。その様に、白隠は若き頃、歌っておられる。そういう修行をしておられる。そういう心境を自ら綴っておられる。
山下に流水あり、こんこんとして止む時なし。
禅心もし、かくのごとくあらば見性あにそれ遅からんや。燃えるような精進の人、白隠の、精進の程の姿がそこに見られるではないか。
勤しみ励むものは、死することなし.まさに勤しみ励みたい。
燃えるような情熱を持って人間とは何か、この世に生まれ出ててこの俺自身のこの人間とは何か、これを追求しておるのである。
精神、心というものは、死ぬということではないぞ。どうだお互いそういう気持ちを持って修行し日々の生活を送っておるかな。
人ごとではなかろう。禅の道に親しみ禅の道に入ろうとするならば、その心だけでも精進の道に通ずる列車のレールが敷かれたようなものだ。
二本のレールが道場へ敷かれたようなものだ。後は、そのレールの上を脱線しないように、前進していけばいいことだ。
ややもすると石ころがあったり、いろんな、障害物があって脱線する。その脱線するのは、放逸ということだ。怠りということだ。よからぬ考えをもっておるということだ。つい悪いほうに走りたがるということだ。
それが脱線の元だ。それがひっくり返る元だ。それが放逸という。怠りという。ひらたく言うならば、油断だ。
励むということは容易にできるわけじゃない。古人も苦労しておる。そう簡単なものじゃない。人間が生きていくということは、そう単純なものじゃない。
そういう自分も、簡単に生きられるということではない。みんな大きな岩山のような難問題を掲げて生きておるんだ。
しかし、その岩山に負けてしまうなよ。大きな木の根っこに負けてしまうなよ。
社会というものは、そういう障害物がたくさんあるところだ。それをいかに乗り越えていくか。通り過ごしていくか。
煩悩と妄想をたくさんたくさん持ち合わせて生まれて来ておる。煩悩がないんじゃない。欲望がないんじゃない。欲望をたくさん持ち、煩悩をたくさん持ち、そうして、その中で生きようとしておる。
四弘誓願の中に、毎日毎日読んでおるではないか。「煩悩無尽誓願断」と。
煩悩は尽きないほどある。尽きないほどあるが、誓って断ぜんことを願っていこうではないか。そういう誓願を打ち立てておる。
なかったならば、そういう煩悩妄想だらけだから、毎日毎日自ら誓願をして、生きていなければならないはずである。
人間という者はそういうものだ。そういうもんだから、そこであきらめるということであってはならないぞ。あきらめずに精進していかなければならないぞ。
放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなり。
精進、努力せずに、求道心を燃やさずに、自分の欲望の延長上に生きようとし、その道に走ってしまうならば、それを放逸にふけるものというのである。たとえ命ありともだ。
たとえ命あって人から見れば贅沢に遊び戯れておるというような命があってそういう享楽主義に走っておる。
そういう人ならば、すでに死せるなり。そういうもの人間として、価値を失い、死んでおるのと同じだぞ。そのように、きびしく言われておる。容易なことではない。
しかし、人間という者は、その様に言われて、そういうものか。道を求める純粋な自分というものが今ここにある。ここにあって、その道の人が知らず知らずのうちに出会っておる。
ここで出会うということは、それぞれの人生観の中で人間とは何かを追求し、道のためにここにきておる。その人たちが出会っておる。尊いことじゃないか。
たとえ満足に生きていけなくても、心は道のためにやっていこう。
その心さえ持っておるならば、人から不満足といわれようとも、徐々に少しずつ努力していくならば、必ず道というものは、成就するものだぞ。
一滴一滴、ひとしずく、ひとしずく。その一滴一滴が、バケツいっぱいの水になるじゃないか。その一滴から、たくさんの池の水にでもなるじゃないか。
いっぺんにたくさんの水を求めるよりも何事も一滴からだ。10キロ、20キロ歩く人でもこの一歩からじゃないか。
わずかな人間の身長の、歩幅の一歩から、100キロ、200キロあるいは、300キロ歩いていくのでも一歩から始まっておるじゃないか。大きなことを考えて、考えてしまうと何もできない。
精進って何か。
この我が一歩から、自分の些細な小さな心から、この日常生活から、我とは何か。自分とは何か。
そこに工夫の念があるならば、それこそが精進だ。励む心だ。その励む心こそ、不死の道でなければならぬ。
我々もよく言われたもんだ。僧堂時代に。こうして雲水として、どういう風にして頭を集める。
世間の人は、なかなかそういう縁がまわってこない。ところがここへ頭を集めて、雲水として、修行者としておる者は、選ばれた人間だぞ。
釈尊のサンガ。仏法僧の僧だ。それをサンガという。サンガに集まる人、それを僧という。衣を着ておるから僧じゃない。衣には関係なく、道を求めて集まる、その集団を指してサンガと名づく。
そのサンガに集まる人は、仏陀の教えを聞こうとし、その教えの中に、生活していこうとする。そういう人だから、選ばれた人なんだ。
だから、禅の道場に集まってくる、そういう人たちは、この世に生まれて、選ばれた人間じゃないか。
本当に、真剣に考えたならば、そういうことになる。
本当に、それを自覚したならば、なるほどそういうものか、そういうものかとわかるならば、道ということが、少しわかってくるぞ。
そういう道の人、そういう自分、そういう自分が今ここにおるぞ。そういうことを自覚しなければならないのである。
では、ここにいて、どうするのか。
人間として、社会の中の位置付けとしているその自分。他の人に貢献し、他の人に信頼を与え、他の人に、よい影響を与えるような人間になるということでもある。
それが道心、道の願うところだ。今その様に、心に、深く、刻み込ませるようにして、ここでの生活、ここでの生き方というものを真剣に問うてみたいものである。
「精進こそ不死の道、放逸こそは死の道なり。
勤しみ励むものは死することもなく、放逸にふけるものは、命ありともすでに死せるなり」今日はこれまでにしておきます。ハイ
● 初 祖 ● 安谷白雲老師
三宝教団(さんぼうきょうだん)は、1954年1月8日、安谷白雲(やすたに・はくうん)老師によって結成された禅仏教宗教法人である。
安谷老師は1885年1月5日静岡県清水町に生まれ、13才にて曹洞宗の僧侶となった。
1925年、原田祖岳(はらだ・そがく)老師(1871-1961年)に相見(しょうけん)、ついには彼の嗣法者の1人となる。
安谷老師は、当時の曹洞宗門の僧侶たちが表面的な仏事法事の遂行に忙殺され、真の自己を徹証するという大切な修行に専心するのを怠っている様を嘆き、曹洞宗を離脱。
主として在家の真剣な求道者らを対象に、仏祖正伝の禅を普及せしめようと決意、独立の宗教法人・三宝教団を設立した。
「三宝」とは、仏道根本の三大要素である「仏」「法」「僧」を表す。
この名称自体の中に、純粋真実の仏法護持に専念する宗教団体を造らんとする老師の強い決意と切望が認められる。
こうした教団結成の次第が明かにしているように、三宝教団の基本的性格は曹洞宗のそれである。
しかし、原田祖岳老師に遡源する伝承にならい、学人をして速やかに真の自己を証得せしめんため、臨済宗門における公案参究の方法をも統合している。
安谷老師は、日本国内はもとより、1962年以降はヨーロッパとアメリカ合衆国にも巡錫、多数の修行者の指導に当たった。
1970年には管長の座を退き、山田耕雲老師に組織の最高指導を一任、1973年3月28日示寂した。
● 二 祖 ● 山田耕雲老師
三宝教団第二祖・山田耕雲(やまだ・こううん)老師は、1907年3月18日、福島県二本松市生まれ。
1943年満州において、河野宗寛(こうの・そうかん)老師の指導の許、初めて参禅。
1945年本土に戻った後、鎌倉・円覚寺の朝比奈宗源(あさひな・そうげん)老師の許で、さらには大船・黙仙寺の花本貫瑞(はなもと・かんずい)老師の許で、坐禅修行に専念。
しかし在家のまま僧侶にならず、経済界における活動を継続。
その占めた地位の中で最も重要なものは、財団法人・東京顕微鏡院の理事長職であった。
山田老師は、1950年に原田祖岳老師から受戒。
この縁がもとで、原田老師門下の安谷老師との接触に至り、1953年に安谷老師を招聘、「鎌倉白雲会」を結成し、鎌倉にて毎月の坐禅会を催すことになった。
同年、山田老師は尋常を越える証悟体験を得、やがて1960年嗣法。
その後1967年三宝教団の正師家に任命され、3年後、教団の管長職に就いた。
三雲禅堂ものがたり
1970年、医師である山田和江夫人と共に、自宅敷地内に三雲(さんうん)禅堂を建設(「三雲」は同じ法系の三師匠、すなわち原田大雲、安谷白雲、そして山田耕雲の三老師を表す)。
爾後、三雲禅堂は三宝教団の中心道場となった。
フーゴー・愛宮(えのみや)ラサール神父(Father Hugo M. ENOMIYA-LASSALLE, 1898-1990)が山田老師の熱心な弟子になって後、キリスト教の多くの神父・修道女および牧師たちも山田老師の指導を仰いだ。
1989年9月13日の遷化までに、日本人で24人、外国人で21人の罷参底の修行者を輩出した。
● 中央、愛宮ラサール神父
三雲禅堂
山田耕雲老師と和江夫人
板(はん) 太鼓・殿鐘 止 静 三雲禅堂
● 三 祖 ● 窪田慈雲老師
窪田慈雲(くぼた・じうん)老師は1932年東京生まれ。1949年に安谷老師の弟子となり、1970年に室内を畢了。
1973年の安谷老師遷化の後は、山田耕雲老師に師事。
1983年に三宝教団正師家に任ぜられ、1985年に山田耕雲老師に嗣法。
1989年9月、山田耕雲老師の遷化に伴い翌月三宝教団管長職に就き、2004年10月までその任にあった。
● 四祖 ● 山田凌雲老師
山田凌雲(やまだ・りょううん)老師は1940年満州の生まれ。16才で安谷老師の弟子となり、1978年に山田耕雲老師の許で罷参、1985年耕雲老師より嗣法。
三宝教団正師家。2004年10月、三宝教団管長に就任した。
● ヴィリギス・イェーガー老師
窪田老師、山田老師と並んで、現三宝教団には更に二人の正師家がいる。
その一人はベネディクト会の虚雲軒ヴィリギス・イェーガー神父(Father Willigis JAGER)である。
同神父は1925年ドイツ生まれ、1972年に愛宮ラサール神父を通して山田耕雲老師に相見、1981年に室内修了。
それ以来、ドイツ内外において無数の人々に禅の指導を施して現在に至っている。1996年、窪田老師より嗣法、三宝教団正師家に任じられた。
● グンドラ・マイヤー老師
三宝教団のもう一人の正師家は、瑞雲庵グンドラ・マイヤー老師(Gundula MEYER)である。
老師はドイツ・リューベック市生まれ、 プロテスタントの女性牧師であるが、1977年より山田耕雲老師に師事し、禅の道に献身。
数年後の罷参を経て、1987年より北ドイツ・オーホーフに禅堂を開き、以後その堂主。
また、スウェーデンの或る禅堂の指導にも当たって来た。2001年、窪田老師より嗣法、三宝教団正師家に任命された。
>>111-114 安谷白雲
山があっても、雲は、すっと通りすぎる、と言った人だったよね。
廓庵禅師 十牛図
提 唱
窪 田 慈 雲
十牛図はいわゆる牧牛図の一種で、我々の真の自己を牛に譬 えて、その牛を求め、捕まえ、馴らし、遂に求める自 分と牛とが全く一つとなり、それも忘れて只の生活が できる過程を画で示したものである。
我々の修行の道程を 具象的に明示しているので、自分の修行を自ら点検し 策励の指標とするのに大変役立つものである。
そこでこの十牛図を参究することにより、常に皆様自 身の修行を自ら点検し、自分が今どの段階にあるかを 反省する指標として役立てて頂きたい。
十牛図の作者廓庵師遠禅師は、大随元静禅師(1065〜1135)の法嗣で、臨済禅師より第十二代目 の法孫であるというだけで、生年寂年はじめその伝記 ははっきりしていない。
十牛図は十枚の図のおの おのにまず廓庵禅師が「頌」をつけ、その後その弟子慈遠 (一説では廓庵自身とも廓庵の友人とも云われる)が 「総序」と頌の一つ一つに「小序」をつけたもの と云われている。
さて、十牛図には童子と牛が描いてある。
ここで 牛とは我々が求めている真の自己のことである。
この真の自己を観念や思想でなく、生きたまま捕まえ たいと切々たる思いの現象界の自分、それを童子で描 いている。
この童子は何時も何かを求めている。
お金が欲しい、地位が欲 しい、名誉が欲しい。だが人生はお金だけてはない。
地位だけでもない。又名誉だけでもないというわけで、 あの哲学この宗教と求め求めて、少しでも成長しよう 進歩しようと努めるようになる。
中にはこの競争に負 けてノイローゼになり自殺まではかる人もいるが、 これは何かを求める心がマイナスに働いただけてあっ て、何時も何かを求める力があることに変わりはない。
それでは何故人間はこのように何かを求めるのであろうか。禅の立場から云うと、それは人間が本 質において完全円満、無限絶対の実在(これを仏と云 い、本来成仏という)でありながら、
現象としては不 完全きわまる、有限相対のはかない、いと罪深き存在 (これを凡夫と云い、衆生と云う)として現われてお り、
しかも人間は生まれながらにしては、自分の完全 円満・無限絶対の本性(仏性)を知ることができない という現実から発生しているのである。
十牛図はこの不完全・有限相対の自己(童子)が、 完全円満・無限絶対の自己の本性(牛)に目覚め、捕 まえ、馴らし、忘れ、完全に人格化する過程を具体的 に示したもので、
まさに実践の指針であって、観念思想 の対象ではないことを銘記すべきである。
そこで十牛 図の参究は実際に参禅し、足の痛い思いをして坐って、 真の自己を明らめようとする人にとっては極めて有効 であるが、
禅理のみを尊重し追究せんとする者に とっては、無用の長物であることを警告しておきたい。
従って今回の参究では、「総序」の解説は省略し各段階 の「小序」の精神を概説した後で、廓庵禅師自ら作られた 「頌」についてはその一句一句について逐語的に味わうこ ととしたい。
aHasiEvOog <= #pOXX+ONQ
競馬の神!降臨!第22章〜頂-Itadaki-〜
http://ex11.2ch.net/test/read.cgi/keiba/1153615883/ ・このスレは我こそは神と自負する者達が予想をお告げし競い合うスレです。
・「神」は偽者防止の為、必ずトリップをつけてください
(トリップのつけ方はこちら
http://users.hoops.ne.jp/2ch-fish/g01.html#trip)
・このスレでは収支は自己集計します
・神は必ず事前予想、金額・券種も必ず明記すること(もちろん後出しなどしない)
・的中時は絶賛すること
〜神として参加する条件〜
1.神として「奇跡」を見せつける
(例)コロコロに成功する。勝ち馬をズバリ的中させ続ける。などなど
2.1ヶ月間予想を晒し、その神としての認知を受けられる結果を出す。
以上の内、どちらかを選択し、結果を出してください。
新たに神の争いに参加される方は、予想をする前に、参加する旨を告げてください。
3.券種・金額を明記。あいまい予想不可。
4.言い訳無用。
5.何度か信者をひきつけるパフォーマンスを。長期的には100%越えをめざす。
6.煽りに過剰反応して名無しに擁護される純粋な心、もしくは全てスルーできる大人な心。 』
『 Don,t live to eat, but eat to live.(食うために生きるにあらず 生きるために食うなり)という英語の格言がありますが、「生きる」とは世界共通の課題です。
禅問答などというと、訳のわからない代名詞のように思われる方もいますが、その真意は本当の生き甲斐を見つけるために、どう生きたらいいのか −− をつかむための問答なのです。
ところで、「生きるために食うなり」に同感する人は多いでしょう。
では、「生きるとは何か?」という問題が出てきます。
そんな「ひち面倒なことは考えない」と知らんぷりしていても、日常の家庭においても子供たちがたくさんの疑問をぶつけてくる。
「ぼく何のために生きてるの?」、「わたしもいつか死んじゃうの?どうしてなの?」「どうしたら好きになってもらえるの?」「ぼくのうちどうして貧乏なの?」
・・・ 適当に受け流す親もいるであろうが、子供はおそろしいほどはっきりと、親の虚飾や限界をあばく。
子供は親のやさしさや、強さ、かしこさ、辛抱強い親を期待して、ぎりぎりまで親を追いつめる。
自分が本当に子供に答えを与えようとすれば、たいていの人は自分を見つめ直し、自己の立場を明らかにすることを強いられる。
何のために、どう生きたらいいか、自分の真の姿を自覚せざるを得なくなる。
この状態の時には、一歩も先に進めないがっけっぷちのようなものかもしれません。
その一歩を更に踏み出せというというのが禅問答の真意なのです。
ちなみに ごく簡単な問いから・・・
昔、ある国の王様が、重い病気にかかりました。余命いくばくもない、と思った王様は、国中中のえらい学者達を集めてこう言いました。「この世で一番大事なことを、一冊の本にしてくれ」。
そこで学者達は知恵をしぼって一冊の本を作りました。
ところが、王様はすでに、一冊の本を読む力がなくなっていました。「どうか、一枚の紙にまとめてくれ」。
学者達は再び知恵を出し合い、一枚の紙を持ってお城へかけつけると、もはや、王様は虫の息でした。「頼むから、それを一言でいってくれ」。
さすがに学者達も困り果て、互いに顔を見合わせていましたが、一人の学者が王様の耳元で何かささやくと、王様は笑みを浮かべて静かに息を引き取ったという話です。
さて、この学者はいったい王様に何といったのでしょうか? 』
臨済義玄・慧然
『臨済録』
1989 岩波文庫・1990 大蔵出版・2000 たちばな出版
朝比奈宗源訳注による
『臨済録』
2000 たちばな出版
いま、本書を一人の人間の活力をめぐった編集書として紹介しようとおもう。禅の公案を集めたものとは読まない。
理由は簡単で、禅語録や禅の公案集はそれなりにあれこれ啄むように読んできたが(ぼくが公案に耽った最大の時期は大学時代と30歳前半期)、
本書はそれとは別に、一人の禅師の生きざまを弟子の慧然が語録だけで編集構成していることに、ちょっとした感動をおぼえて読んだ思い出があるからである。
なるほど弟子とは、このように師匠(師家)のことを構成できるのかという、そういう感動だ。その感動の正体は「面目の編集」というものの中にある。
正式な書名は『鎮州臨済慧照禅師語録』である。語録と銘打ってはいるが、臨済の生涯の言行を凝縮し「上堂・示衆・勘弁・行録」の4軸に集約した。
それに馬防による衝撃的な序と、要訣な塔記が付いている。
臨済は晩唐の山東に生まれて河北に生きた。諱は義玄、のちに臨済禅師と称ばれる。
行脚に出て黄檗の門で苛酷な修行に晒され、やっと印可を受けたのちは大愚和尚の師事を受けた。
臨済と称ばれたのは河に臨んだ小さな寺に止持したことに因んだもので(院臨古渡・運済往来)、そこに衆僧に交じって超人なのか凡人なのか見分けのつかない普仏がいた。
臨済は黄檗にも大愚にも強烈な指導をうけているが、この普仏から見抜いたことも少なくない。
読めばすぐにわかることだが、臨済の言行は藩鎮が争いあう混迷の乱世であったせいもあって、その説法と問答がとくに断乎とした調子のものになっている。
何に断乎かといえば、むろん弟子の雲水たちに断乎たる態度で臨んでいる。
自信不及をつねに叱咤する。ようするに弟子を鍛えるにあたって、その自信のなさを問題にした。
「わしがこのようにしているのに、なぜおまえたちはそれだけで自信にならないのか」と詰め寄った。
これは、実のところは「おまえたちは、そのままで一挙に禅者であるはずだ」という激励だった。
そこに臨済の得力(とくりき)の心があった。得力とは「おかげさま」という意味である。
そのように"求める存在"(子)が"待つ存在"(師)に接したというだけでも禅者となりうる可能性のことを、臨済の禅林ではしばしば「無依の道人」の可能性という。
あるいは修行者がそもそもそのような覚醒しうる存在であるはずだという可能性を「無位の真人」ともいった。
そこで臨済は問う。おまえたちはつねに「無依の道人」「無位の真人」に直ちに飛躍できるのに、なぜそうならぬのか。
面食らっている雲水に、臨済は業を煮やして「活」を激発させるため、「喝」を入れることになる。
かなり高速の喝が入ったようである。
これが「徳山の棒」と並んで知られる有名な「臨済の喝」である。
だがほんとうは、臨済は業を煮やしたのではなかった。
臨済はあたかも業を煮やしたかのように見えて、実は禅機を教唆しつづけたのだった。
これを禅では「活作略」という。
しかし弟子は弟子で、師に言われることがわからなかったのではなかったのである。
その禅機に呆然としていたわけではなかったのだ。だからこそ、その成果が『臨済録』になっている。
慧然は臨済の言行をよく咀嚼して、この一冊を編集した。
弟子は師の活作略をよく知って、その「面目」が何たるか、十全に了解できたのだ。
ただ、それは臨済が死を前についに「面倒」をおこせなくなってからのことだった。
『臨済録』はどこから読んでもおもしろいが、やはり順に読むのがいい。とくに序が過激なのである。
臨済が師の黄檗に棒で打たれて肋骨を折る。黄檗は若僧の臨済を掴まえ詰り、臨済もまたこれに反駁するものの、一蹴される。
そこで河北に至って、そこで「無位の真人、面門より出入りした」。
つまり面目を施した。
これで「上堂・示衆・勘弁・行録」の4章仕立てに入るのだが、「上堂」は説法のために住持が法堂に上がることを、「示衆」(じしゅ)は説教のことを、「勘弁」は禅僧相互の問答のことを、「行録」は師の一代言行録のことをいう。
この4つのステージで、臨済は弟子によって完璧に編集された。
本望であろう。
なぜ本望かといえば、この編集構成は臨済の最も劇的で独自に富んだ場面をプロローグにもってきて、そこからしだいに臨済の本来のものすごさを証す場面に移り、さらに臨済の全貌におよんでいくという結構であるからである。
これなら臨済の面目が躍如する。
その冒頭の場面というのは、弟子が臨済に法のことを聞き、それに臨済がすばやく答えたところ、弟子がどう対応してよいやらもたついた。
その隙に臨済が一喝して、「虚空に釘を打つようなことをするな」と言ったという場面。
これだけで臨済の真骨頂と方法とその比喩の力の速さがわかる。他の問答も推して知るべきで、『臨済録』はどのくだりをとってもまことによく編集されている。
たとえば上堂に「臨済の三句」とよばれている次のような問答がある。
ぼくがときどきスタッフと交わしている問答だ。
ある雲水が師に問うた、「師の第一句とは何ですか」。
臨済が答える、「印章を捺して印を持ち上げ、そこに主客を見ればよい」。
また雲水が問う、「では第二句は?」。
臨済が答える、「そんなことは名剣で水の流れを断ち切るときのようにすればよい」。
さらに問う、「そんなことをして、それなら第三句はどうなりますか」。
臨済は「舞台の上の人形のうしろを見ればよいに決まっている」と言ってのけるのだ。
印章の文様や文字を紙に捺せば、そこには捺したものと捺されたものとが主客を合致させている。
そのどちらかをわれわれは見ているにすぎないのだが、禅というものはその両方を一瞬に見る。
まず臨済はそう言った。しかしそれだけでは雲水は、何のことやらわからない。
そこで臨済は刀で水を切ってみよと言う。
水を切ったことと水がその切り口を埋めるのとは同時におこる現象である。
そのことを考えてみろというわけだ。それでも雲水は疑問に満ちている。
そこで臨済は、「そんなに人形(傀儡)の動きに囚われているのなら、裏を覗いて人形遣いの正体を見破ったらどうだ、と言ったのである。
『臨済録』の全節にこういう調子の問答がズラリと並んでいるとおもえばよい。
しかし、その狙いは一点一線の見極めに集中する。
示衆ではこれを「照用」という言葉で説明をする。
「照」とは相手の内容を見てとる力のはたらきをいう。
「用」は相手に仕向けるはたらきをいう。
臨済はこの「照」と「用」との組み合わせをすばやくおこして、弟子を煙に巻く。むろん煙に巻いたわけではなかった。
どんなときに「照」を先にし、どういう場合は「用」を先にすればいいか、あるいは先後を変え、あるいは先後を同時にするか、その方法を端的に示唆したのであった。
のちに「先照後用」「先用後照」「照用同時」「照用不同時」といわれ、これは禅の方法論になっていく。
そもそも禅語録というものには痛快無比の言葉が多い。それらの多くは「下語」(あぎょ)あるいは「着語」(じゃくご)というもので、短言寸句のコメントのかたちをとっていく。
その特異な言葉が意外なところに散りばめられ、これを読む者にウンともスンとも言わさないようになっている。
しかも『臨済録』ではそれがみごとなまでに切りつめられていて、それでいて場面に必須な意識の速度を逃さない。
これを「断章取義」というのだが、それはまさに編集の極意といってよいものである。
実は『臨済録』をすぎると、中国の禅林も看話禅(かんなぜん)の方向へ向かっていく。看話とは「話頭」すなわち公案を看ることをいう。
そこにあらわれたのが『碧巌録』や『無門関』だった。そこでは「趙州無字」の公案に代表されるような、公案そのものに大疑をぶつけてそこで考えるということがさかんになっていく。
ときには一つの公案の前で、雲水は数カ月も数年も唸らされる。
しかし『臨済録』ではこういうことがない。加速が富んでいる。まごまごしていると、そのままそこへ置きざりにされるような断章取義なのだ。
そういう意味では『臨済録』こそが禅語録の編集原点なのである。
6世紀、最初にボーディ・ダルマがいた。(面壁九年の座禅行におよんだ菩提達磨)
達磨は人間には「理入」と「行入」、また「報」と「随」とがあると喝破した。
しょせん人間は報われたいのか、随いたいのか、その二つの混在の者というべきで、そこで理に適って坐するか、行きたくて動きまわるかの区別の選択ばかりをしてしまう。
その両方の迷いから離れればよいのだが、なかなかそうならない。
では、迷わないようにするには、どうするか。
達磨から数えて6祖にあたる恵能は、祖師達磨の迷妄脱出のヴィジョンと行動に惹かれて初めて禅宗をおこすのだが、修行者に何を問えばよいかを考えた。
しかし、まだいい方法が見つからないままになる。
恵能から3代目の石頭希遷は、ある僧に「解脱とは何か」と聞かれて、こう答えた。
「いったい誰が君を縛っているのかね」というふうに。
また別の僧に「悟りとは何ですか」と聞かれ、「仏は一度だって迷っただろうか」と答えてみた。
さらに「浄土はどこにあるんですか」と重ねて問われて、「誰が君を汚しているんだ?」と問いなおした。
この問答は"はぐらかし"なのではない。
相手の問に対して問の出てくる事前のところを問い返しているわけなのである。
問う者の意識の直前を問う。あるいはその問を発していないときの存在のありかたを問う。
もっとわかりやすくいうのなら、問う者の逆を衝く。
いわばそういう問い方に回答をもたらしてあげるのだ。
この方法を「直指人心」というのだが、ここにようやく禅問答の原型ができあがったといってよい。
この方法が評判になる。
禅はたちまち参禅者をふやし、唐中期には五家七宗にわたるリーダーが居並ぶことになる。そこで圭峰宗密が出て、牛頭宗・北宗・南宗・洪州宗の4派を主たる禅流と見た。
その洪州宗に馬祖道一が出て、門下800人を得た。
馬祖の筆頭弟子が百丈懐海である。
懐海は『百丈清規』を残して禅林のルールブックをつくり、このときに「禅院を構える」ということをした。
そこでこのガイドラインにもとづいて、百丈山の近くに黄檗希運が頭角をあらわして、黄檗山を構えた。
その黄檗に参じて修行をしたのが臨済義玄なのである。
臨済が黄檗にさんざん痛めつけられる次第は『臨済録』でも最も共感をよぶ圧巻となっている。
それはともかくとして臨済は、黄檗独得の方法を北に向かって広めたいと考えた。
そこが鎮州である。
寒暖が激しく、冬は身が引き締まる。
臨済はそこでそのような気象を問答の次第にとりこんで、禅の方法を加速していった。
だいたいはこういうことである。詳しくは別に一冊をとりあげてさらに禅の方法を案内したいとおもうけれど、
『臨済録』が禅語録の最初の原点であって、かつ臨済の言行生涯の圧縮であったということはなんとなく理解できたのではないかとおもう。
柳田聖山によると『臨済録』の総字数は14,535字で、そこに使用された文字は1336字になるという。
同一文字が平均して10回ずつほど使われている。
そこでは「不」の字が309回、「師」が299回、「是」が285回で、「無」が201回も使われているという。
師と是と、そして不と無。
この4文字がいかに頻繁に駆使されて編集されたかということなのである。
そうか、なるほどそうかというか、うーん、と溜息が出るというか。
『臨済録』はこれ全篇が編集組織論だというべきか。 』
http://www.hokuriku.ne.jp/genkai/91rinzai.htm 臨済(りんざい)禅師の話
私が住職しているお寺は、臨済宗の南禅寺派に属している。
本山の「南禅寺」についてはたいていの人が名前ぐらいはご存じであろうが、「臨済宗」の意味を知らない人は多いと思う。
「臨済」というのは臨済宗の宗祖の名前なのである。
千二百年も昔の、しかも遠い中国の人なのだから馴染みがないのも仕方がない。
臨済義玄(ぎげん)禅師は唐代末期の人で、鎮州(ちんじゅう)の臨済院に住したので臨済禅師と呼ばれた。
鎮州は現在の河北省西南の正定県を中心とする地域である。
、「済」には川を渡るという意味があり、コダ河という川の渡し場を臨(のぞ)むところに建てられたので臨済院と名付けられたという。
臨済禅師の遺体をおさめた臨済塔の塔記によると、八六七年一月十日に亡くなっており、慧照(えしょう)禅師と謚(おくりな。贈り名。死後に天子などから名前を贈られること)された。
すなわち、一月十日は宗祖の命日である「臨済忌」なのである(四月十日の説もある)。なお、生年は明らかではない。
現在、日本の禅宗には曹洞宗(そうとうしゅう)、臨済宗、黄檗宗(おうばくしゅう)の三派がある。
曹洞宗は道元禅師が中国に留学して伝えたもので、禅宗の中ではいちばん大きな宗派となっている。
臨済宗はたくさんの人々によって日本に伝えられ、日本の禅宗の先がけとなった栄西(えいさい)禅師が伝えたのも臨済宗であった。
栄西禅師はお茶を伝えたことでも有名であり、京都に建仁寺を開いた。
黄檗宗は江戸時代に中国僧である隠元(いんげん)禅師によって伝えられた。
隠元禅師の名前は、禅宗を伝えたことよりもインゲン豆を伝えたことで知られている。
禅師が伝えたのは実際には臨済宗であったのだが、臨済宗はすでに日本に存在していたので、臨済の師である黄檗(おうばく)禅師の名前をかりてきて黄檗宗と名づけたと言われる。
修行時代
臨済禅師に関する資料は、「臨済録」という一冊の本にまとめられて残っている。
この本は「語録中の王」と呼ばれているので、まず臨済録によって臨済禅師の修行時代からご紹介したい。
臨済禅師は山東省の出身で、幼い時から衆にすぐれ、孝行者として有名であった。
出家してからは綿密に戒律を研究し、ひろく経や論を学んでいたが、ある時、にわかに嘆じて言った。
「こういう学問はみな世間の人々を導くための処方箋であって、仏教の核心ではない」。
そして、すぐに修行の旅に出て黄檗禅師の元に参じた。
臨済禅師の修行はひたむきで純一であった。
それを見ていた首座(しゅそ。
第一座の僧)が「この人はまだ若いが、人と違ったところがある」と感心し、質問した。「そなたはここに来てどれ程になるのか」。臨済「三年になります」。
首座「これまで黄檗和尚に参じたことがあるか」。
臨済「まだ参じたことはありません。何を聞いたらよいのかもわかりません」。
首座「どうして、仏法の根本は何ですかと問わないのだ」。
そこで黄檗和尚に参じて「仏法の根本」を質問したのだが、その声がまだ終わらないうちに打ちすえられた。
戻ってきた臨済禅師に首座が様子をきいた。
「まだ言い終わらないうちに打ちすえられました。私には訳が分かりません」。
「ならばもう一度いって質問してこい」。
こうして、三たび質問して、三たび打たれた。
臨済禅師は首座に言った。「幸いに慈悲をこうむって和尚に質問することができましたが、三度問いを発して三度打たれました。
残念ながら何かの障りがあって深い意味を悟ることができないようです。しばらく他の所で修行しようと思います」。
首座は答えた。「下山する時には、必ず和尚に挨拶してから行きなさい」。
首座は先に黄檗和尚に会って言った。「あの若者ははなはだ真面目です。やって来たら導いてやってください。
将来かならず一株の大樹となり、人々のために涼しい木陰を作ることでしょう」。
臨済禅師が出立の挨拶に行くと、黄檗禅師は言った。「そなたは大愚(たいぐ)和尚の所に行きなさい。その他の所に行ってはならぬ。きっとそなたのために説いてくれるだろう」。
臨済禅師は大愚和尚のところに行った。
大愚「どこから来た」。
臨済「黄檗和尚のところから来ました」。
大愚「黄檗和尚はどのように教えているのか」。
臨済「私は三たび仏法の根本を聞いて、三たび打たれました。私に落ち度があったのかどうか、それすらも分かりません」。
大愚「なんと、黄檗和尚はまるで老婆のように親切だ。くたくたになるまで教えてくれたのに、更にわしの所までやって来て落ち度があったかどうかと聞くのか」。
臨済禅師は言下に大悟して言った。「黄檗和尚の仏法は、根本そのものだったのだ」。
こうして臨済禅師は黄檗和尚のもとに帰り、その法を嗣いだのであった。
無位の真人
臨済禅師が生きたのは唐の末期であり、世の中は激しくゆれ動いていた。
唐が滅亡したのは臨済禅師が亡くなってから四十年後の九〇七年であり、そうした激動の時代背景があるせいか活発な働きを重視するのが臨済禅の家風である。
「臨済将軍」という言葉があるほどで、馬上から軍を指揮するような威風堂々とした風格を臨済禅はもっている。
以下に臨済禅師の代表的な言葉をご紹介したい。
唐の時代の俗語のまじった漢文なので分かりにくいかもしれないが、あまり丁寧に振り仮名や説明を付けるとかえって読みにくくなるので控えてある。
繰りかえし読んでいると次第に良さが分かってくるので、生き生きとした臨済禅師の説法に触れていただきたい。
臨済録の初めの部分に次のような言葉がある。
「赤肉団上(しゃくにくだんじょう)に一無位(いちむい)の真人(しんにん)あり。常に汝ら諸人の面門(めんもん)より出入す。未だ証拠せざる者は看よ看よ」。
これは臨済禅師の説法のなかでも特に有名な一節である。
この赤い血の流れるからだの中に無位の真人がいて、常に感覚器官を通じて出入りしている。
この無位の真人をまだ見とどけていない者はとにかくまず見とどけよ、と叱咤激励しているのである。
無位の真人とは私たちの本心のことで、臨済禅では無位の真人の活溌溌地(かっぱつぱつじ。
魚がピチピチとはねるように生き生きとした様子)の働きを大切にしている。
無事の人
「大徳、時光惜しむべし。
ただ傍家波波地(ぼうけははじ。
ふらふらと横道にそれること)に、禅を学し道を学し、名を認め句を認め、仏を求め祖を求め、善知識を求めて意度(いたく。推しはかる)せんと欲す。
錯(あや)まることなかれ、道流(どうる。修行者よ)。
汝、一箇の父母(ふぼ。無位の真人)有り。更に何物をか求めん。みずから返照し看よ。古人いわく。演若達多(えんにゃだった。人名)頭を失却す。求心(ぐしん)やむところ即ち無事、と」。
「道流。大丈夫児は今日まさに知る、本来無事なることを。ただ汝が信不及なるが為に、念々馳求して、頭を捨てて頭をもとめ、自らやむこと能わず」。
「仏法を学する者は、しばらく真正の見解(けんげ)を求めんことを要す。もし真正の見解を得れば、生死に染まず、去住自由なり。殊勝を求めんと欲っせざれども、殊勝おのずから至る」。
「山僧が人に指示するところの如きは、ただ汝が人惑(にんわく)を受けざらんことを要す。用いんと要せばすなわち用いよ。更に遅疑(ちぎ。ぐずぐず)することなかれ。
いまの学者の得ざるは、病いずれの処にかある。病は不自信のところにあり。
汝もし自信不及(ふぎゅう)ならば、忙忙地(ぼうぼうじ。あたふたと)に一切の境にしたがって転じ、他の万境に回換(えかん。翻弄)せられて自由を得ず。
汝、もしよく念々馳求(ちぐ。求めまわる)の心を歇得(けっとく。断ち切ること)せば、すなわち祖仏と別ならず。
汝、祖仏を知らんと欲するや。
ただ汝、面前聴法底(めんぜんちょうぼうてい。私の目の前で話を聞いている君たち自身)これなり。
学人、信不及にして、すなわち外に向かって馳求す。たとえ求め得る者も、みなこれ文字の勝相にして、ついに、かの活祖意を得ず。
山僧が見処に約せば釈迦と別ならず。
今日、多般の用処(ゆうじょ。はたらき)なにをか欠少(かんしょう。不足)す。
六道の神光いまだかって間歇(かんけつ。途切れる)せず。
もしよく是くの如く見得せば、ただこれ一生無事の人なり」。
無事(ぶじ)これ貴人(きにん)
「 無事是れ貴人、ただ造作することなかれ。ただ是れ平常なれ。
汝、外に向かって傍家(ぼうけ。わき道)に求過(ぐか)して脚手を求めんとほっす。
あやまり了れり。
ただ仏を求めんとほっするも、仏は是れ名句なり。
汝、還(は)た馳求する底(てい。
馳求している主体)をしるや。
三世十方の仏祖出で来るも、またただ法を求めんが為なり。
いま参学の道流もまたただ法を求めんが為なり。
法を得て始めて了る。
未だ得ざればいぜんとして五道(ごどう。六道におなじ)に輪廻す。
いかなるか是れ法。
法とは是れ心法(しんぽう)。
心法は形無くして、十方に通貫し、目前に現有す。
人は信不及にして、すなわち名を認め句を認め、文字の中に向かって仏法を意度せんと求む。
天地はるかにことなる 」
「 山僧は一法の人に与うる無し。ただこれ病を治し縛(ばく)を解く。汝、諸方の道流、試みに物に依らずして出で来たれ」。
「 汝、もし仏を求むれば、すなわち仏魔に摂(せっ)せられん。汝もし祖を求むれば、祖魔に縛せられん。汝もし求むること有れば皆な苦なり。如かず無事ならんには」。
回光返照せよ
「問う、如何なるか是れ西来意(せいらいい。ダルマ大師が西の国インドから中国にやって来た真意は何でしょうか)。
師いわく、もし意あらば自救不了(じぐふりょう。自分を救うこともできない)。
いわく、すでに意無くんば、いかんが二祖、法を得たる。
師いわく、得というは是れ不得なり。
いわく、もし不得ならば、いかんが是れ不得底の意。
師いわく、汝が一切処に向かって馳求の心やむこと能わざるが為なり。ゆえに祖師言う、咄哉(とつさい。コラッ)丈夫、頭をもって頭をもとむと。
汝、言下にすなわち自ら回光返照(えこうへんしょう。自心を照らし自心に目ざめる)して、さらに別に求めず、身心の祖仏と別ならざるを知って、当下に無事なるを、まさに得法と名づく」。
即今目前聴法底
「大徳、三界やすきこと無く、なお火宅の如し。
これは是れ汝が久しく停住する処にあらず。
無常の殺鬼、一刹那の間に、貴賎老少をえらばず。
汝、祖仏と別ならざらんと要せば、ただ外に求むることなかれ。
汝が一念心上の清浄光は、これ汝が屋裏の法身仏(ほっしんぶつ)なり。
汝が一念心上の無分別光は、これ汝が屋裏の報身仏(ほうしんぶつ)なり。
汝が一念心上の無差別光は、これ汝が屋裏の化身仏(けしんぶつ)なり。
この三種の身は、これ汝、即今目前聴法底(そっこんもくぜんちょうぼうてい。
今、ここで、話を聞いている汝自身)の人なり。
ただ外に向かって馳求せざるが為に、この功用あり」。
一心なければ随所に解脱す
「道流、心法は形無くして、十方に通貫(つうかん)す。
眼にあっては見といい、耳にあっては聞といい、鼻にあっては香をかぎ、口にあっては談論し、手にあっては執捉(しっそく)し、足にあっては運奔(うんぽん)す。
もと是れ一精明(いちせいめい)、分かれて六和合(ろくわごう)となる。
一心すでに無ければ随所に解脱す」。
「汝、一念不生ならば、すなわち是れ菩提樹にのぼって、三界に神通変化(じんずうへんげ)し、法喜禅悦(ほっきぜんえつ)して、身光みずから照らさん。
衣を思えば羅綺(らき)千重、食を思えば百味具足して、さらに横病(おうびょう。思いがけぬ病)なし。
菩提には住処なし。
この故に得る者もなし」。
「道流、汝、仏とならんと欲すれば、万物に随うこと莫れ。
心生ずれば種々の法生じ、心滅すれば種々の法滅す。
一心生ぜざれば万法(ばんぽう)咎(とが)なし」。
随処に主となれば、立処みな真なり
「大器の者の如きは、直に人惑を受けざらんことを要す。
随処に主となれば、立処みな真なり。
あらゆる来者は、みな受くることを得ざれ。
汝が一念の疑は、すなわち魔の心に入るなり。
菩薩の疑う時の如きは、生死の魔便りを得。
ただよく念をやめよ。
更に外に求むること莫れ。
物来たらば即ち照らせ。汝はただ現今用うる底を信ぜよ。一箇の事もまた無し。
汝が一念心は、三界を生じて、縁に随い境をこうむって、分かれて六塵となる」。
嫌う底の法無し
「それ真の学道人の如きは、並びに仏をとらず、菩薩羅漢をとらず、三界の殊勝をとらず。はるかに独脱して、物とかかわらず。
乾坤(けんこん。天地)倒覆(とうふく。ひっくり返る)すとも、我れさらに疑わず。十方の諸仏現前すとも、一念心の喜なく、三途地獄(さんずじごく)頓に現ずとも、一念心の怖れなし。
何によってかかくの如くなる。
我れ見るに、諸法は空相にして、変ずれば即ち有、変ぜざれば即ち無。三界唯心、万法唯識なり。ゆえに夢幻空花(むげんくうげ)なんぞ把捉を労せん。
ただ道流、目前現前聴法底の人のみ有って、火に入っても焼けず、水に入ってもおぼれず、三途地獄に入るも園観(おんかん。花園)に遊ぶがごとく、餓鬼畜生に入ってしかも報を受けず。
何によってかかくの如くなる。
嫌う底の法(ほう。存在)無ければなり。
汝もし聖を愛し凡を憎まば、生死海裏に浮沈せん。
煩悩は心によるが故に有り、無心ならば煩悩何ぞかかわらん」。
説似一物則不中
「大徳、因循(いんじゅん。ぐずぐず)として日を過ごすこと莫れ。
山僧、往日(そのかみ)、いまだ見処あらざりし時、黒漫漫地(こくまんまんじ。真っ暗闇)なりき。光陰むなしく過ごすべからず、腹熱し心忙しく、奔波(ほんぱ。奔走)して道を訪(と)う。
後に還って力を得て、始めて今日に到って、道流と是のごとく話度(わたく。話し合う)す。
諸の道流に勧む。衣食の為にすること莫れ。看よ、世界は過ぎやすく、善知識には遇いがたし。優曇華(うどんげ。三千年に一度咲くという花)の時に一たび現ずるが如くなるのみ」。
「自ら見障を起こして、以て心を礙(さ)う。日上に雲なければ、天にかがやいて普く照らす。眼中に翳(えい。かげ)なければ、空裏に花なし。
道流、汝、如法ならんと欲すれば、ただ疑いを生ずること莫れ。展(の)ぶるときは法界(ほっかい。世界)に弥綸(みりん。満ちあふれる)し、収むるときは糸髪も立たず。
歴々弧明(れきれきこめい)にして、未だかって欠少せず。眼見ず、耳聞かず、喚んでなに物とか作す。
古人いわく、説似一物則不中(せつじいちもつそくふちゅう。ひと言でも説けばすでに的をはずれる)と。
汝、ただ自家に看よ。更になにか有らん。説くもまた無尽。各自に力を著けよ。珍重(ちんちょう。ご苦労さん)」。
蛇足
以上が臨済録の抜き書きであるが、読んでいると臨済禅師の気迫が伝わってきて不思議と元気が出てくる本である。
臨済禅師は、黄檗和尚に思いきり叩かれた時に眼が覚めかけていたのだが、そこを大愚和尚に一押しされて本当に眼が覚めたのであった。
無位の真人に目ざめて、「生死に染まず、去住自由なり。殊勝を求めんとほっせざれども、殊勝おのずから至る」という世界が開けてきたのである。
誰でも叩かれれば痛い。それは頭で考えたことでも習い覚えたことでもない、生まれた時からそなわっている本心の働きで、それが無位の真人であり生きた仏さまである。
本心の働きには仏さまと凡夫の違いはない。
この心は勉強したからといって賢くなる訳ではないし、修行したからといって大きくなる訳でもない。
臨済禅師は言う。
今、ここで、見たり聞いたりしている本心を忘却して何を求めようというのか。自己の本心に全てが具わっているではないか。
即今・目前・聴法底に無位の真人が現れているのに、「今、ここ」から目をそらせばたちまち無位の真人を見失ってしまう。
私たち自身が生きた仏さまなのに、どうして外に向かって仏さまを求めるのか。
求めれば求めるほど、造作すればするほど、仏さまは遠ざかってしまうではないか、と。
臨済禅師は、自己の本心に立ちかえることの大切さを繰りかえし説いているのである。
[九]臨済義玄と『臨済録』(一)
臨済義玄(?〜866)
(1)師初め黄檗の会下に在って行業純一 なり。
首座(陳睦州)乃ち歎じて云く、是れ後生なりと雖も衆と異なること有り。
遂に問う、上座此に在ること多少の時ぞ。
師云く、三年。
首座云く、曽って参問すや也た無しや。
師云く、曽って参問せず、箇の什にをか問うを知らず。
首座云く、汝何ぞ去って堂頭 和尚に、如何なるか是れ仏法的々の大意と問わざる。
師便ち去って問う。声未だ終らざるに和尚便ち打つ。
師下り来る。
首座云く、問話そもさん。
師云く、某甲問い、声未だ終らざるに和尚便ち打つ、某甲会せず。
首座云く、但だ更に去って問え。
師又問う、檗又打つ。
是くの如く三度問うて三度打たる。
師来って首座に白して云く、幸いに慈悲を蒙って某甲をして和尚に問訊せしむ。
三度問いを発して三度打たる。自ら恨む、障縁有って深旨を領ぜざることを、今且らく辞し去らんと。
首座云く、汝若し去る時は須らく和尚に辞し去るべし。
師礼拝して退く。
首座先きに和尚の処に到りて云く、問話底の後生甚だ如法なり。若し来って辞せん時は方便して彼を接せよ。向後穿鑿して一株の大樹と成さば、天下の人のために蔭涼と作り去ること在らんと。
師来日黄檗を辞す。
檗云く、別処に往き去ることを得ざれ。汝、高安灘頭の大愚の処に向って去れ。必ず汝が為に説かんと。
師大愚に到る。
大愚問う、什れの処よりか来る。
師云く、黄檗の処より来る。
大愚云く、黄檗何の言句か有りし。
師云く、某甲三度仏法的々の大意を問うて三度打たる。知らず某甲過有りや、過無しや。
大愚云く、黄檗与もに老婆心切なり。汝が為に徹困なることを得たり。更に這裏に来って有過か無過かと問う。
師言下に於いて大悟して云く、元来、黄檗の仏法多子無しと。
大愚すう住して云く、這の尿牀 の鬼子、適来、有過無過と道う。如今却って道う、黄檗の仏法多子無しと。汝箇の什んの道理をか見る。速かに道え、速かに道え。
師大愚の肋下に於いて築くこと三挙。大愚托開して云く、汝の師は黄檗なり、我が干かる事に非ず。
師大愚を辞して黄檗に卻回す。
黄檗来るを見て便ち問う、這の漢来々去々して什んの了期か有らん。
師云く、祇だ老婆心切なるが為なり。便ち人事し了って侍立す。
黄檗問う、什れの処にか去来す。
師云く、昨は慈旨を奉じて大愚に参じて去来せしむ。
黄檗云く、大愚何の言句か有りし。
師遂に前話を挙す。
黄檗云く、大愚の饒舌 、来るを待って痛く一頓を与えん。
師云く、什んの来るを待って説かん、即今、便ち喫せよと云って後 に隨って便ち掌す。
黄檗云く、這の風顛漢、這裏に却来して虎鬚を将ず。
師便ち喝す。
黄檗云く、侍者よ這の風顛漢を引いて参堂し去らしめよ。
我々人間禅の禅者の眼中には、臨済宗の曹洞宗のという沙汰は無い。
有るのは唯だ禅道仏法だけであるが、強いて探ぐれば、わが人間禅は臨済宗の法系に属している。
その臨済宗の宗祖・臨済義玄禅師の伝記とその宗風とを、『五燈会元』よりは、むしろ『臨済録』に拠って講じて参ろうと思う。
後の臨済和尚の義玄は、今日の山東省の曹州国の地に生まれ、若くして出家し、持戒堅固な僧としての生活を送っていたが、平凡な僧侶としての毎日にあきたらず、求道の志やみがたいものがあった。
そして揚子江中流の江西や湖南の地方に、坐禅によって頓悟成仏をはかる禅宗が栄えていると聞いて、山東から遥々と旅をつづけ、江西の黄檗山に到り、黄檗希運和尚の会下に連って、禅僧としての修行生活に入った。
そして三年たった。講本はそこから始まっている。
その劈頭に「師、始め黄檗の会下に在つて行業純一なり」とある。
古来、およそ禅の修行をやりぬくには、知識や財産は無くともよいが、少なくとも大疑団・大憤志・大信根の三つだけは是非とも必要だといわれている。
釈迦は一切の衆生は皆悉く仏性を具えているという、して見ればこの煩悩具足の自分にも仏性が具わっている筈、自分に本来具わているという仏性とはどいつであろうか。
人間は必ず死ぬものであるが、その生とは何ぞ、死とは何ぞ。
折角生まれて来た人生、それをどう生きることが生き甲斐のある生き方であろうかなどという、人間として生きる上のこれらの根本的な疑いを持つこと、これを大疑団を抱くといい、これが修行の原動力である。
しかし大疑団を抱いたら、それを解決のために全力を尽くして当るべきである。といってその解決――開悟は容易なことではない。
そのために折角、修行に志しながら、途中で挫折して退転してしまう者の多いことは、諸士も見ている通りである。
その場合「釈迦も達磨も人なり。臨済も白隠も人なり。我もまた人なり。
彼らに出来たことが自分に出来ぬことはない。
彼らが一年で出来たことを、自分は十年かけてでも断じてやり抜くぞ」という気概をもって退転しないことが必要である。
これを大憤志ないし大勇猛心といい、人生万事何をやるにも必要なものだが、禅の修行に於いては特に肝要なものである。
そして禅の修行において、もう一つ大切なのは、大信根である。
この宇宙と人生には不易絶対な真理が有り、釈尊はその真理を体得し、不動の悟りを
把得された。その釈迦の悟りと悟りの手段とが歴代の祖師方によって滴々相承されて、今
この師家において肉体化されている。
この正脈の師家に就いて如法に修行すれば、自分も釈尊と等しい悟りを体得することが出来る。
という大法と師家に対する揺がない信、これを大信根というのである。
この信は世間万事において大切なものだが、禅の修行においては特に、「信無くんば立たず」で、これ無くしては命がけの禅の修行は出来ない。
この点は、徹底自力の禅宗も徹底他力の浄土真宗の場合も共通である。
以上の大疑団・大憤志・大信根の三つ、いわゆる「学道の三則」を堅持して、素直に純粋に修行に励むこと、それを「行業純一」というのである。
そして若き日の臨済はまさに文字通り行業純一であり、正直で純真な修行者であった。両忘庵釈宗活老師は、その著『臨済録講話』の冒頭で、
将来に於ける臨済将軍の禅風、五逆雷を聞くの臨済禅も、畢竟は皆、此の行業純一から 発して居る。
此の三年間の行業純一が、将来の臨済という大宗匠を生み出したのである。
と説いておられるが、まさしくその通りであり、これは我々修行者の深く肝に銘ずべきところである。
そしてその「三年間の行業純一」振りをよく語るのが、本則のこれ以下のところである。
詳しい講説は、両忘庵老師の『臨済録講話』に譲って、その大筋をザーッと講じて行こう。
義玄上座が黄檗山にやって来た頃、首座としてその禅堂を統率していたのは、黄檗の法を嗣ぎ聖胎長養をしていた陳睦州 和尚であった。
後にあの雲門文偃の向う脛をべし折って、彼の大悟の機縁を作ったことで名高い睦州和尚である。
そもそも首座(直日)というものは、禅堂の一番上座に坐って皆に号令をかけ威張っているだけが能ではない。
修行者一人びとりの修行の態度を観察し、彼が今どんな事で苦しみ悩んでいるかを看破して、彼らを適切にリードし、師家の教化を扶持してこそ立派な首座というものである。
陳睦州はもとより名首座で、その点に抜かりのある筈はない。
多くの修行者をつらつら観察しておって、「是れ後生ないと雖も、衆と異なるところ有る」一人の若い修行者が目についた。
この僧こそは若き日の臨済、義玄上座である。「こやつ、若いが修行態度が純真で裏表がなく、他の修行者と較べてその気迫も一段と充実しておる。
この若者、見どころが有るわい」と看破して、或る日のこと、彼に話しかけた。
上座、此に在ることの多少の時ぞ。
師云く三年。
首座云く、曽て参問すや也た無しや。
師云く曽て参問せず、箇の什にをか問うを知らず。
「上座よ、お主ここへ来てから何年になるか」「はい、三年になります」
「ほほう、そうか。その間に和尚の室内に入って独参したことがあるか、どうじゃ」
「いいえ、一度もございません。何を問うてよいやら、分らんからです」という答えである。
しかし、既に郷里の寺で僧としての教養を一通り身につけ、黄檗の会下に来て三年間坐禅をやり、講座を聴聞し、熱心に修行している。
それなのに、「何を問うてよいか分らぬ」とは、いったいこれはどういう仔細であろうか。
下読みの時に、こういう所こそ大いに疑問をもって、工夫しておくべき所だが、久参の者はどう工夫しておいたか。
義玄上座、禅の見性のことは法理としてはよく分っており、しかもその法理では役に立たないことも、よく分っている。
しかも、修行の態度が純真でまやかしがないだけに、参禅のしようが無いのである。
諸士はそもそも入室参禅とはどういう営みだと思うか。悟りを「教わり」に行くのでは無論ない。
自らの見解の正邪・深浅を勘別してもらいに行くのである。
従って自らに自信のある見解の無い間は決して参ずべきではないのじゃ。
お主らの中には、それだけの見解が出来ておらぬのに、ヒョコヒョコ入って来るものがあるが、これは大いに慎まねばならん。
義玄上座、よく坐って、いわば窮しきった。
大死一番の所までは行っておるが、まだ自信をもって参ずべき見解が出来ておらぬので参禅せずにおり、それを「箇の何を問うかを知らず」と答えたのである。
この返事を聞いて、
睦州首座「こやつ、よく骨折ってるワイ」と看破し
「汝、何ぞ去って堂頭和尚に、如何なるか是れ仏法的々の大意と問わざる
――堂頭和尚即ち師匠黄檗和尚の室内に入り、仏法的々の大意、禅道仏法のギリギリの所、悟りとは如何なるものでござるか」と、こう問いなされと方便をめぐらした。
こう指示されて義玄上座、素直に睦州の指示のままに黄檗の室内に入り、「如何なるか是れ仏法的々」と問うたら、その言未だ終らないのに、いきなりピシャリッと黄檗の一棒を頂戴した。
この一棒、賞棒である筈はないが、さりとて罰棒でもない。それでは何の棒じゃ。
ここが工夫の眼目である。
この時の義玄上座にも勿論その棒の真意が分らなかった。
いきなり一棒くらわされてションボリとして禅堂に戻って来た。
これを見て、
首座云く、問話そもさん。
師云く、某甲、声未だ終らざるに和尚便ち打つ。
某甲会せず――あなた の仰せの通りに仏法の大意を問いましたところ、其の声未だ終らないのに、ビシャリと打たれました。
私には、何の事か分りません。という返事。
それを聞いて「首座云く、但だ更に去って問え――それ位のことでベソをかくやつがあるか。
前の通り、又、〈仏法的々の大意は如何〉と参じて来い」と首座の激励である。
義玄はこう言われて、言われるままに素直に又参禅した。
すると此の度もまたビシャリッと打たれた。義玄いよいよ分らなくなってしまい、ボソーッとうなだれて戻って来た。
睦州、又打たれたなと分ってはいるが「どうじゃった」と問うと、義玄「ハイ、又、何もいわずに打たれました」と萎れ返っている。
義玄がいよいよ二進も三進も行かない窮しきった場にはまりこんでいるのを鋭く看破して、睦州ここぞとばかり、「二度打たれ、振られた位で挫ける奴があるか。
もう一度行って来い」と、更に激励した。
しかし、結果は同じで「是くの如く三度問うて三度打たれる」で、いよいよ途方に暮れ、意気悄沈して戻って来た。
黄檗のこの三度の棒は、罰棒では無論なく、親切極まる直指の一棒なのであるが、この時の臨済にはそれが分らなかった。
しかし、列座の諸士、とりわけ久参底の諸士、この棒の真意が本当に分ったかどうか。
およそ生れるときから立派に出来ている人間などというものは、そう有るものではない。
お互い同様初めは皆迷える凡夫じゃ。
後には臨済禅師と仰がれ、臨済宗の宗祖となる義玄上座も、こう「三度参じて三度打たれては」、すっかり落ちこんでしまい、睦州首座に向って、「幸いに(和尚の)慈悲を蒙って、某甲をして和尚に問訊せしむ。
(しかし)三度問いを発して三度打たる。自ら恨む、障縁有って深旨を領せざることを。
今且らく辞し去らん」と、黄檗の会下を暫く辞去しようと涙ながらに決意を表明した。
現代の我々、とりわけわが教団では、現世の不幸は前世の罪業の報いだなどとはいわないけれど、今から千年以上も前の唐代の頃には、そういう考えが一般的であった。
香厳智閑もいくら参禅しても悟れず、い(人偏+為)山の許を辞去する時、そういう意味の言葉を吐いていたが、今、義玄上座もまた「自ら恨む、障縁有って深旨を領せざることを」と泣き言を吐いている。
これを聞いて睦州首座云く「汝、若し去る時は、須らく和尚に辞して去るべし――お主がこの黄檗山を辞して行脚に出かけるというなら、それもよかろう。
敢えて留めはせんが、黄檗和尚にご挨拶してから出かけろよ」と注意した。すると義玄、素
直に「ハイ、そう致します」と礼拝して退いた。
睦州首座、義玄にこう指示しておいて、「首座、先きに和尚の処に到りて云く、問話底の後生甚だ如法なり。若し来って辞せん時は、方便して彼を接せよ。
向後、穿鑿して一株の大樹と成さば、天下の人のために蔭凉と作り去ること在らん」と、黄檗和尚に進言した。
今更これの解説もいるまいが、この座には新到も連なっているようだから、敢えて解説すれば、
先刻入室して「如何なるか仏法的々の大義」と三度問うて三度打たれた若僧を和尚は覚えていらっしゃるでしょう。
あの若僧は近頃珍しい純真で如法な修行者でありますが、当山を退去して行脚に出かけたいと申しております。
明日、そのご挨拶に参上する筈ですが、参りましたら何卒宜しく方便をめぐらして下さい。
彼は今後、よく手入れをし育てるならば、すばらしい大樹となり、天下の人びとのために一大蔭凉となる人物だと愚考するからであります。 というようなことである。
「穿鑿」とは彫刻する、鍛練するという程の意味であるが、ここでは「大樹」であるから、よく肥料をやり手入れする位の意味にとっておいてよかろう。
次ぎに「蔭凉」とは、炎天下の広野に亭々と聳え、四方に大きな日蔭を作り、旅人に涼しい憩いの場を提供する大樹のこと、人間だけでなく、空飛ぶ鳥たちにも水飲み場とねぐらとを提供する大樹や、砂漠の中のオアシスのことである。
総じて迷い疲れた衆生のために、このような蔭凉となること、それが宗教家別して菩薩の使命である。
義玄が将来すばらしい大宗教家になるであろうことを予言した言葉である。
それはともあれ、首座といい直日たる者は、大衆に対し、まさにこの睦州首座のように細やかな行届いた心遣いを持つよう心がけるべきである。
この支部にも公案が透らず挫折しかけているもの、色々な事情で退転しかけている者があるだろうが、直日や支部長は彼らに逢って其の事情をよく聞いてやり、激励したり相談に乗ってやるがよい。
しかし、どうしてもやめたいという者がある時には、「そうか、それにしても、老師にお目にかかり、ご挨拶してからにしなさい」と指導しておくことだ。脱線を承知の上で脱線しておく。
扨て翌日になって、義玄上座「永らくお世話になりまして有難うございました。今般、思う所がありまして当山を離れ、行脚に出かけることに致しました」と挨拶に参上した。
昨日の首座の進言で、あらかじめこの事を知って方便を工夫していた黄檗、「お主、この山を下って行脚に出かけるそうじゃが、高安灘頭の大愚和尚の処に行って、そこに掛錫しなさい。
其のほかの寺に行ってはならぬぞ。大愚和尚なら必ずや、本当にお主のためになる指導をして下さるだろう」と指示された。
ちなみに大愚という和尚は、南岳の法系の帰宗智常の法を嗣ぎ、今日の江西省瑞州の高安に住していた有力の宗匠である。
玄上座はこの時もまた黄檗の指示のまま素直に、高安の大愚和尚を訪れた。
すると当時の禅界一般のならいのままに
大愚問う、什もの処よりか来る。
師云く、黄檗の処より来る。
大愚云く、黄檗何の言句か有りし。
師云く、某甲、三度、仏法的々の大意を問い、三度打たる。知らず、某甲、過有りや過無しや。 と初相見の問答が展開された。
ここで見逃してならないのは、義玄が「知らず、某甲、過有りや、過無しや」と言っていることである。
後に臨済禅師となる義玄も、この時はなお、三度問うて三度打たれたのは、自分に何か落度があり、その罰で打たれたものと思いこんでいることである。
迷っている間というものは、仕様のないものだが、これを聞くと大愚和尚、「黄檗、与もに老婆心切なり。汝が為に徹困なることを得たい。
(然るに汝)更に這裏に来って有過無過と問う ――黄檗和尚はなんとまあ老婆心の切実なことよ。
お主のためにそこまで親切に指示して下さるとは。まさに身に余る親切というものだ。
それなのにお主はその親切な指示、三度の棒の真意が呑みこめず、儂の処へ来て過有りや無しや、どこが悪かったのでしょうかと問うている。
〈親の心、子知らず〉とは貴様のことじゃ」と、思わず叱咤された。
と、その途端に「義玄、言下に於いて大悟」し、まるで別人のように生まれかわった。
これは大愚和尚の力によるのではない。
永年の行業純一な修行によって、義玄の禅定力・三昧力が熟しきっていたからである。
たとえが、いささか汚いが肉体の出来物がよく熟んでくると、針の先端が当ったか当らぬに出来物
が破れて、膿がモロモロと溢れ出てくるように、禅定力さえ熟していると、ちょっとした刺戟で、これ迄どうしても破れなかった堅い公案の殻が、何かの拍子にカラリと破れて悟りが開けるものである。
大愚の言句は、その針の役割をはたしたにすぎないのだ。
それはそうと、つい今先きまで「知らず、某甲、過有りや過無しや」などと泣き言をいいションボリしていた義玄、
大愚の言下に大悟するや否や、言うにことを欠いて「元来、黄檗の仏法、多子無し――黄檗の仏法はさぞかし玄々微妙なものだと思っていたが、なーんだ、こんなものか、大したものじゃないわい」と吐かした。
更にいえば、「仏法的々の大意、禅の悟りというものは、高尚難解で特別なものだと思っていたが、案に相違して平凡尋常なものじゃわい」と吐かした。
すると「大愚、すう住 して云く、這の尿牀の鬼子、適来、有過無過と道い、如今却って道う、黄檗の仏法多子無しと。
汝、箇の什の道理をか見る。速やかに道え、速やかに道え」と迫った。
大愚、義玄の胸倉をグイッとつかんで、「この小便垂れ小僧め。
つい今先きまで過有りや無しやなどと泣言をいっていたのに、その舌の根も乾かぬうちに、こんどは〈黄檗の仏法、多子無し――禅の悟りなんて大したものじゃないわい〉と吐かしている。
いったい〈箇の什もの道理をか見る――何をどう悟ってその言が出た〉、さあ、どう悟ったか、道え、道え」と形相すさまじく迫ってきた。
しかし、この時、義玄少しも騒がず「大愚の肋下を築くこと三挙した
――大愚和尚の脇腹をコツンコツンと軽く三つ突っついた」〔老師、ここで手にしておられる笏で、見台を軽く三つ叩かれた〕。
これはいったい何の消息か。
どういう意志表示か。先きの黄檗の棒とこの三挙と孰れぞ。
是れ同か是れ別か。
大愚、脇腹をコツコツコツと三挙されて、「ウン、これなら行けてる」と判断し、さて義玄をボーンと托開しておいて「汝の師は黄檗なり、我が干かる事に非ず。
――お前の師匠はやっぱり黄檗じゃ。
お主のこの悟りは、黄檗の棒のお蔭であって、儂の知ったことじゃない。
まごまごしておらんで、黄檗の許へトットと帰れ」と言われた。
大愚には、すぐれた修行者だから他所へやるまい、などというケチな料見は微塵もない。
まことにきれいなものじゃ。
さて義玄上座、黄檗の棒の真意がよく分り、その親切が身にしみたから、大愚の「トットと帰れ」という言葉を素直に受け、「大愚を辞して却回し」、戻って、唯今戻りましたと黄檗の方丈へ挨拶に参上した。
すると黄檗「箇の漢、来々去々して什もの了期か有らん――貴様、つい先日当山を辞して大愚の処へ行ったと思ったら、忽ち戻って来たが、あちらの道場、こちらの道場とウロつき廻っていたのでは、絶大な信に裏づけられた本当の悟りには、いつ迄たっても到達できないぞ。
〈我れ今日在ることを得たり〉という大満足・大安心の境涯を得ることは出来ないぞ」ときめつけた。
確かにその通りだ。
方々の禅堂を渡りあるき、師家の室内を覗き見して「こうじゃ、ああじゃ」などと、偉そうに評判している禅学者がおるが、信の無い修行では、大道の真の体得は到底覚束ない。
よくよく肝に銘じておくように。
それはそうと、黄檗からこうきめつけられて、義玄、それを軽く受け流して逆らわず、「祗だ老婆心切なるが為なり――ハイ、和尚の御親切が身にしみて分ったので戻って参りました」といって、再入門を許すとも何とも言わないのに「人事し了って侍立」してしまった。
ここで「人事」とは挨拶すること、「侍立す」とは、侍者の居るべき定位置、師家の左斜め後に控えることで、義玄いわば自分免許で黄檗の侍者になってしまった。
泣き言をいって山を下った頃と全く面目一新である。
さて黄檗、やおら義玄の方を振り向いて、「お主、どこへ行って来たか」と問うと、「ハイ、和尚の御指示のままに高安の大愚和尚の処へ行って参りました」との返事。
そこで「大愚、何の言句か有りし――大愚、どんな説法をしたか」と問われると、義玄、大愚の処での顛末をありのままに話した。すると、黄檗「大愚の饒舌、(彼の)来るを待って痛く一頓を与えん。
――大愚のおしゃべり奴、いらざるお節介をしおって。奴がこの次来たら、コッ酷く三十棒を食らわしてやろう」と大変な権幕である。
しかし、これは言葉の表面とは裏腹に「いや、適切な指導をして下さって有難う」という感謝の思いがこめられているのである。
およそ禅者の言葉というものは、表面をなぞったのではその肚は分らん。
「抑下の卓上 」という場合もあり、その反対の場合もある。
ここは「口でけなして心でほめる」という抑下の卓上である。
黄檗が「大愚の饒舌、来るを待って痛く一頓を与えん」と言うのを聞くや、義玄「なんぞ来るを待って説かん。
即今便ち喫せよ――和尚よ、大愚和尚がお出でになるのを何も便々と待つ必要はございません。
即今唯今、思いきって三十棒を食らわせましょう」といって、後ろから黄檗の横っ面をビシャリと打った。
大愚と黄檗と不二、同じ穴のむじながここにいると見てのことで、これなら彼の悟りは確かであり、真正である。
これはもとより大道の商量の場に於いての事である。
お主ら、下手に真似などしないように。
自分免許の侍者義玄からピシャリと一発やられて
「黄檗云く、這の風頓漢、這裏に却来して虎鬚を桴ず――この気ちがい坊主、ここに戻って来て、又泣き言でもいってベソをかくのかと思ったら、虎の鬚をひっぱるような真似をしやがる ……」というや否や、義玄「カーッ」と一喝を吐いた。
〔老師、怒雷のような一喝を吐かれる〕。
これが、後に「徳山の棒」と並んで有名になる「臨済の喝」の吐きはじめである。
先きの一掌に加えて、今この喝を聞いて、黄檗和尚「侍者よ、這の風頓漢を引いて参堂し去らしめよ――侍者よ、この気ちがい坊主を僧堂に連れて行って、單即ち坐る場所を与えてやれ。
彼の参禅を許可する」と言われた。これは義玄の悟境を大いに肯った語である。
「大丈夫、三日見ざれば、刮目して見るべし」という語があるが、義玄の如きはまさにこの語の通りで、純一無雑な修行によって一旦悟りを開くや、全く別人のように生まれ変り、素晴らしい道力を身につけて堂々と登場してきた。
諸士もこういう活きいきとした悟りを開き、活溌々地の機用を得るように、若き日の臨済を模範として、純一無雑に修行にうちこめ! 摂心は今や最中、全員打って一丸となって驀進せよ!
(2)臨済、半夏、黄檗に上り、和尚の看経するを見て云く、我れ将に謂えり、是れ箇の人と。
元来、是れあん(手偏+音)黒豆の老和尚。
住すること数日にして辞し去る。
黄檗云く、汝、夏を破って来り、夏を終えずして去る。
済云く、某甲、暫く来って和尚を礼拝するのみ。
黄檗、遂に打して追うて去らしむ。
済、行くこと数里、此の事を疑いて却回して夏を終う。
済、一日、黄檗を辞す。
檗問う、什れの処にか去る。
済云く、是れ河南にあらずんば、便ち河北に帰らん。
黄檗、便ち打つ。
済、約住して一掌を与う。
黄檗、大笑して乃ち侍者を喚んで云く、百丈先師の禅版・机案を将ち来れ。
済云く、侍者よ、火を将ち来れ。
黄檗云く、然も是くの如くなりと雖も、汝、但だ将ち去れ。已後、天下の人の舌頭を坐却し去ること在らん。
大愚の許から黄檗の会下に却回して後の義玄の修行振りは、活溌々地ながらも依然行業純一、真剣其物で、従ってその悟境の向上は目ざましいものがあった。
その詳細は今は省略するが、遂に黄檗の法を嗣ぎ、その印可を受けるに到った。
本則はその嗣法の因縁の一則である。
しかし、この一則はわが教団では『臨済破夏』と題し、末後向上の一則として扱っているものであるから、その真味の味わいは室内の研鑚にゆずり、ここでは一通り講ずるにとどめておくほかはない。
およそ唐代の禅寺では、インドの仏制に倣って、陰暦の4月16日から7月15日までの90日間を夏安居と称し、禅僧たるものは必ずどこか最寄りの禅寺に寄宿し、門外不出で修行に専念すべきものとされていた。
そしてこの夏安居に参加する者は、おそくも夏安居の始まる前、即ち結制迄に必ず寺に入り、七月十五日、夏の終る迄は寺を去ってはならぬ定めであった。
ところが臨済、どこをどう行脚していたものか、この仏制に従わず、夏安居の始まって暫くたった夏の半ば頃、ここにいう「半夏」に黄檗山にヒョッコリ上参して来た。
丁度その時、黄檗和尚は熱心に看経、即ち経文をムニャムニャと読誦しておられた。
これを見て臨済思わず「我れ将に謂えり、是れ箇の人と。
元来、是れ黒豆の老和尚」と口走った。
その意味は「儂は今の今まで、わが黄檗老漢こそ世間一般の僧とは異なる別格の偉い方だと思っていた。
だが今来てみれば、何のこったい、そこら辺の僧侶と変らぬ経文読みの老和尚に過ぎないとは」ということである。
ちなみに「あん黒豆」とは「黒豆食い」という意味で、経文の文字が黒豆をならべたようになっていることから「看経」をさしていうのである。
この一語は師匠の黄檗を罵り揶揄したもので、
非礼というべきであるが、臨済は勿論単に「見そこなった」という幻滅感からこの語を吐いたのではない。
では、この一語を吐いた臨済は、この場合、どういう見地に立っていたのであろうか。
ここが本則に於いて究明すべき第一点である。
サー、どうじゃ〔老師、大衆をズーッと見まわさる〕。
臨済は仏制に反して、夏安居の半ばに黄檗山に上って来たのであったが、数日とどまっただけで山を下ろうとして、暇 を告げに黄檗の許にやって来た。
これは無論、仏制違反である。
そこで黄檗「汝、夏を破って来り、夏を終えずして去る」とは、仏制違反で不心得も甚だしいととがめた。
それに対して臨済「某甲、暫く来って和尚を礼拝するのみ――私が山に参りましたのは、別に夏安居に参加するが為ではありません。
ただ久し振りに和尚の尊顔を拝したいがためだけのこと、それも相済みましたので下山しようというわけです」と、答えてすましている。
臨済はもとより夏安居の制が有り、自らの行為がそれに違反するものであることは百も承知の筈、しかもその「破夏」を敢えて平然とやろうとしたのは、どういう料見からであろうか。
ここは大いに吟味してみる必要のある所である。
私はここの臨済の料見をこう見ている。
およそ大修行底の禅者は、戒律も規矩をも高く超越し、それらに縛られることはない。
自分は今やまさにその大禅者の境涯に達しており、夏安居の規則などにはとらわれない。
という自負が、彼をしてこの破夏を敢えてさせたのではなかろうか。
しかし、この自負はやがて慢心に通ずるもので、微小だとはいえ心の瑕であり、これが有っては大器は成就しない。黄檗和尚、これを看過する筈はない。
果然、ビシャリッと臨済を打ちのめした。この「打つ」は臨済を肯わないので打ったもの、いわば罰棒である。
しかし黄檗、打っただけでは納まらず、怒りを面にあらわして、彼を山門の外まで追出してしまった。
追い出された臨済はそのまま数里行ったが、いつもと変る師の怒りの形相が目に浮び、「師はなぜ、あそこまで怒られたのか、自分のどこに非が有ったのか」という大疑団が湧き起ってきた。
そこでこの疑団を解決せずにおれなくなって、途中から黄檗山に却回した。
そして熱心に修行に努め、夏安居を終えた。
我を張らず途中から却回したところは、流石に臨済であり、これ有るが故に後の臨済禅師が有るといって過言ではない。
次に「臨済、一日、黄檗を辞す」とある。
夏を終えた臨済は、黄檗の処へ下山の挨拶に赴いた。
すると黄檗「お主、これから何処へ行くつもりじゃ」と問うた。
すると臨済云く「是れ河南にあらずんば便ち河北に帰らん」「ハイ、河南でなければ、河北に帰ることになるでしょう。足の向いた方に行くつもりです」と答えた。
臨済としては、行雲流水のような自由無礙な自らの悟境を正直に披瀝したつもりであろうが、そこに一抹の気取り、普通の人なら気のつかぬような、微かな臭みがなお残っている。
それを見逃す黄檗ではない、そこでビシャリと打った。
臨済打たれて最後の臭みがとれ本当の無心になった。
その途端どうじゃ、臨済「約住して一掌を与う」で、いきなり黄檗の胸倉をつかんでビシャリと打ち返した。
これは勿論、世間底の人情感情からではない。
「棒下の無生忍、機に臨んで師に譲らず」という語があり、又「父に迷子の訣有れば、子に打爺の拳有り」という語もあるが、まさに「打爺の拳」である。
ところで、弟子に打たれて黄檗、怒るかと思いきや、さも我が意を得たりとばかりに、腹の底から呵々大笑して、さて侍者を喚び「百丈先師の禅版・机案を将ち来れ」と命じた。
かつて自分が先師百丈和尚から、嗣法の徴しとして付授された禅版と机案(どちらも坐睡する時に体を支える木製の道具)とを持ってこいというのである。
それを伝法の徴しとして、今度は臨済に付授しようというのである。
それを聞いて臨済、嬉しがって三拝九拝でもするかと思ったら「侍者よ、ついでに火も持って来い」と叫んだ。
「そんなものは真平御免じゃ」という肚であり、古人はそこを見て「好児、爺銭を使わず」と著語してござるが、よく味わって見なされ。
これに対して黄檗和尚、おだやかに、「然も是くの如くなりと雖も、汝、但だ将ち去れ。
已後、天下の人の舌頭を坐却し去ること在らん――確かにお主のいう通りじゃがな、黙って持って行きなされ。
お主が儂の正脈の法嗣であることに就いて、他日、人をしてとやかく言わせない為じゃ」と言われた。
これで、歴代の仏祖が正伝してこられた大法を荷担した一人の仏祖、臨済義玄禅師が堂々と誕生した。
禅家の最後の仕上げのきびしさ、又、師匠の伝法、弟子の嗣法がどういうものか、久参の者はよく拝んでおくように。ハイッ!
(3)臨済、遷化に臨み拠坐して云く、吾が滅後、吾が正法眼蔵を滅却することを得ざれ。
三聖 、出でて云く、争でか敢えて和尚の正法眼蔵を滅却せん。
済云く、已後、人有って汝に問わば、汝、他に向って什んとか道わん。
三聖便ち喝す。
済云く、誰か知らん、吾が正法眼蔵、這の瞎驢辺に向って滅却することを。
言い訖って端然として示寂す。
本則は、わが教団では『瓦筌集』に『瞎驢滅却』と題して採録し、重視している公案の一つである。
その深甚な宗旨は参じて体得するほかはないが、一通りの意味だけでも講じておこう。
ここに「臨済、遷化に臨み」とあるが、先ずこの「遷化」について私見を述べておきたい。
遷化という語は僧侶、とりわけ偉大な禅僧の「死」に用いられる語で、入滅・滅度・順世・円寂などと同義語である。
その語の由来は、これ迄この娑婆世界で衆生を教化していたが、今やその化縁が尽きて、その教化の場を他の世界に遷すという意味だと解説されている。
しかし「教化の場を他の世界に遷す」などというと、この現世のほかに別に世界がある、来世が在るのを前提することになるので、私はこの「遷化」という語は使いたくない。
私はこれに代えて「帰寂」という語を使っている。
では、死を帰寂というのは何故か。
およそ我々人間をはじめ一切の生物は、深海のような寂然不動・無限絶対の場から、衆縁和合して、あたかも水の泡のようにヒョッコリと相対の相をとって此の世界に現われ、しばらく光り輝いているのであるが、それが生である。
しかし水の泡がやがてポイと破れて元の水に帰するように、又もとの寂然不動の場に帰って行く、それが死である。
寂然不動の場から来て、又もとの寂然不動の場に帰って行く、それが人間の一生である。
その意味で死は帰寂とよぶのが最も適切だというのが、私の考えである。
臨済大和尚と雖も人間であり、死を免れることは出来ない、いよいよ寂然不動の世界に帰る即ち帰寂の時を迎えた。
すると臨済、今まで床に横たえていた体を起し、居ずまいを正して坐り直した。
即ち拠坐した。その床の周りには、法嗣の三聖慧然をはじめ弟子らが侍っていた。
床の上に坐り直した臨済、やおら弟子たちを見まわして「吾が滅後、吾が正法眼蔵を滅却することを得ざれ――儂の帰寂した後、儂の護持して来た大法を滅却するようなことがあってはならぬぞ」と、おごそかに宣せられた。
ここに「正法眼蔵」とは、かつて釈尊が例の霊鷲山における「拈花微笑」の大説法の後、「我れに正法眼蔵、涅槃妙心、実相無相、微妙の法門有り」といって、迦葉に伝えられ、
爾来、インドの二十八祖、達磨大師によって中国に伝えられ、やがて六祖慧能を経て南岳−馬祖−百丈−黄檗そして臨済へと相承されて来た大法のこと、わが教団の『立教の主旨』にいう「仏祖の慧命」のことである。
この嫡々相承されて来た大法、仏祖の慧命を断絶せしめることなく、いよいよ進展させること、それが師家たる者の最高の使命であり、最大の責任である。
帰寂に臨んで臨済が「吾が正法眼蔵を滅却させてはならぬ、大いに進展せしめよ」
と遺言されるのはいかにも尤もなことである。
この遺言を承って、その場にいた弟子たちの中で大先輩格の三聖慧然が一膝乗り出して、「争でか敢えて和尚の正法眼蔵を滅却せん――和尚が命がけで護持して来られた大法、必ず護持して参ります。
滅却するなどということは決して致しませんから、何卒ご安心下さい」と言上した。
しかし臨済はこれだけでは納得せず、安心せず「已後、人有って汝に〈如何なるか是れ臨済の禅〉と問わば、汝、他に向って什んとか道わん」と念を押した。
凛々たる威風、帰寂に臨んで些かも衰えずだが、臨済がこう念を押すや否や、三聖、間髪を容れずカーッと一喝吐いた〔老師、大喝一声なさる〕。
まさに「日月も照臨し到らず、天地も蓋覆し尽さず」という一喝である。
「徳山の棒、臨済の喝」といわれるように、喝は臨済の命であり真骨頂である。
三聖はこの時には既に臨済の肚をソックリ我がものとして、彼の法を嗣いでおり、今、この場に臨んで師の真骨頂を自らのものとして肚の底から吐きだしたのである。
臨済、この一喝を聞いて「これなら、よーし」と安心したに違いないのに、あたかもこれを肯わないかのように、「誰か知らん、吾が正法眼蔵、此の瞎驢辺に向って滅却せん
――儂の大法も、この盲目の驢馬、耄碌弟子の代で滅びてしまうわい」と、最後までいわゆる「迷子の訣」を振るわれた。
だが、この語の真意はどういうことであろうか。
およそ大法というものは、「大馬鹿者」でなければ到底荷担出来ないものである。
ここに「瞎驢」とはその大馬鹿者の謂いである。
従って臨済のこの語は、三聖を大いに肯い、自らの安堵の思いを逆説的に表現したものである。
毎度申すことだが、禅の語録を読む場合には、文字の表面にとらわれず、その肚を看破することが、何よりも心すべきことである。
それはともあれ、臨済、三聖のこの一喝を聞いて「これならば……」と安堵し、その思いを逆説的に表現し終って「端然として示寂」された。
『臨済録』の「行録」の最後に添えられた「臨済小伝」によると、時に唐の咸通八年の一月十日のことであった。但し、臨済の生年が不詳なので、時に何歳になっていたかは分らない。
なお、この三聖慧然は臨済院とさほど隔 っていない鎮州の三聖院に住していた有力の僧であるが、嗣法の弟子の無いままに帰寂してしまった。
そこで三聖の後輩にあたる興化存奬が臨済の正脈を嗣ぐことになるのであるが、それはやがて「臨済宗の展開」の章で触れることになろう。
(二) 臨 済 録
(1)上堂して云く、赤肉団上に一無位の真人有り。常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は看よ、看よ。
時に僧有り、出でて問う、如何なるか是れ無位の真人。
師、禅牀を下って把住して云く、道え、道え。
其の僧、擬議す。
師、托開して云く、無位の真人、是れ什んの乾屎けつ(木編+蕨)ぞというて、便ち方丈に帰る。
臨済義玄は黄檗希運に嗣法した後、暫く諸方の尊宿を歴訪していたが、いつの頃からか河北省の鎮州に居を定め、同地方のいわば知事の任にあった通称を王常侍という王敬初居士の帰依を受け、その援助で陀川のほとりに臨済院を創建し、そこを根拠に大法を挙揚していた。
ここにいう「上堂」とは、その臨済院における上堂説法のことである。
なお上堂とは七堂伽藍の一つである「法堂に上る」更にくわしくいえば、「法堂の講座台上に上る(陞る)」ことで、「陞座」ともいう。
臨済或る時、その上堂をして「赤肉団上、一無位の真人有り――汝らのその五尺の肉体上に、これ以上尊い者はない真人が宿ってござる」と、禅の玄旨を端的に示された。
「赤肉団」とは切れば血も出るこの肉体のことであり、「無位」とは「無価の珍宝」の無価などと同じく、人間社会の相対的な物指では計ることの出来ない絶対無上の位ということである。
「無位の真人」とは、仏に在って増さず、凡夫に在って減ずることなく、万人に本来具わっているという仏性のこと、六祖のいわゆる「本来の面目」のことである。
お互いが坐禅するのは、要するにこの本来の面目、無位の真人をはっきりと見得し、これをスクスクと育てんがためである。
この無位の真人がこの五尺の肉体に宿っており、「常に汝等諸人の面門より出入す」というのである。
この肉体と共にあり、眼耳鼻舌身意の六根から常に出入し、いつも形影相伴うているというのである。
悟ってみれば正にその通りなのであるが、悟らないうちは「百姓は日々に用いて相知らず」で、一向にそのことに気づかず、その尊貴をけがして下劣の漢となっている。
それでは申訳ない話だ、行住坐臥共に一緒であるその無位の真人に、はっきりとお目にかかったことのない者は、さあ看よ看よ、トックリと拝めといって、臨済、講座台上からその身をヌーッと突き出された。
いかにも臨済の宗風丸出しのキビキビとした大説法である。
すると一人の僧が、これに釣られて出て来て、「如何なるか是れ無位の真人」と問いを発した。
臨済、この僧の登場を待っていたかのように「禅牀を下って把住し」、講座台からポイと下って、その僧の胸倉をグッとつかんで、「是れ什んぞ、サァ道え道え」と迫った。
これで「アッ、これだ」と気がつかなければならぬ所だが、この僧、まだそこ迄熟しておらず、臨済のすさまじい権幕に押されて、ついグジグジッとした。「擬議」した。
これでは芝居にならない。そこで臨済この僧を力いっぱい「托開」突きはなした。そして「無位の真人、是れ什んの乾屎けつぞ――無上の尊貴の身でありながら、これでは屎かきべらの値打ちも無いわい」といって、そのままスーッと方丈へ帰ってしまった。
お主らならば、「道え、道え」と迫られた時、何と挨拶するか。臨済和尚、思わず快哉を叫ぶような挨拶をして見ろ、どうする、どうする。
(2)師、衆に示して云く、無事是れ貴人。但だ造作すること莫れ。祇だ是れ平常なり。
『臨済録』には、『臨済四料簡』『四賓主』『賓主歴然』『臨済四喝』など、わが教団で公案として使われ実参実証の上で体得すべきものとされているものが少なくない。
それらは下手に講ずると、見解を示唆することにもなりかねないので、皆は聞きたかろうが、「君子は危うきに近よらず」で、棚上げにしておいて、公案とされていないで、しかも含蓄が深く宗旨の明諦な章節を選んで講ずることにしよう。
ところで臨済には、人口に膾炙した名句が多いが、中でも有名で一行物などとしてよく揮毫されるのが、ここに挙げた「無事是れ貴人」である。
ここでいう「無事」は、「途中、交通事故にも遭わず、道に迷うこともなく、無事に到着し」などという、あの無事のことではない。
また、何もしないで無為徒食していることでもない。
では、どういう意味であろうか。
その意味を臨済は、これに続けて「但だ造作すること莫れ。
祇だ是れ平常なり」と註解している。
およそ「造作する」とは、そこら辺の小才子がよくやるように、小ざかしく思慮分別をはたらかせて、あれこれと小細工することである。
そういう小細工・造作をせず、南泉和尚のいわゆる平常心から、当り前の事をスラリと当り前にやること、それがここにいう平常の真義である。
世間では「無造作」ないし「造作無い」という言葉を、「むずかしい」の反対の「たやすい」という意味でよく使うが、実は「造作しない」ということは容易なことではないのである。
本当の意味の無造作は、修養もせずに本能のままに勝手気ままに行動することではない。
きびしい規格に従って如法に修行して悟りを開き、更に悟後の修行にはげんで悟りの臭みを抜き、そうして到達した迷悟両忘の境涯から、
あたかも水が低きについて流れ、春到って花が自ら開くように、些かのはからい心もなく、文字通り自然法爾にはたらき出してこそ、まことの無造作というものである。
そしてここにいう無事とは、まさにこの境涯の謂いなのである。
次に「貴人」とはどういう人のことであろうか。それは今更いう迄もなく、いわゆる貴族階級の人とか、位階勲等の高い人のことではない。
万人に本来具わっている仏性を円満によく育てあげた人、小人 に対する大人、前に講じた『証道歌』の冒頭に「絶学無為の閑道人、妄想を除かず、真をも求めず」とあったが、その「絶学無為の閑道人」、それがここにいう「貴人」の真義である。
重ねていえば、「無事是れ貴人」とは 無事の境涯に達した人物、絶学無為の閑道人こそは、まことの貴人・大人である。
逆に いえば、本当に出来た人とは、無事、無作無心の境涯に遊ぶ人のことである。
と要約してよいだろう。お互い、どうぞしてこの意味での貴人に一歩でも半歩でも、近づきたいものである。
そのためにも、この摂心、大いによく坐ろうや。
(3)師、衆に示して云く、道流よ、仏法は用功の処無し。
祇だ是れ平常無事なり。
あ(尸+阿)屎送尿、着衣喫飯、困し来れば即ち臥す。
愚人は我を笑わん、智は乃ち焉を知る。
臨済、或る時、会下に集まって来た修行者らに向って、「道流よ」と呼びかけておいて、さて「仏法は用功の処無し」云々と説法の本筋に入られた。
「道流」とは仏道の修行をする輩 ということで、ここでは道友の諸士という程の意味である。
ところで、「仏法は用功の処無し」とはどういうことであろうか。
ここで「用功」とは、本来「功勲・修行・造作のことだ」と注されている。思慮分別をめぐらせて、あれこれと作為することである。
従って「用功の処無し」とは、日常の生活において、そのような作為をせず、自然に任せて行動することである。
世間の人びとの多くは、仏法というものは、我々の日常生活とは異なった何か特別の行をするものだと思っているようだが、そうではない。
「祇だ是れ平常無事」に行動し、自然体で事に当ること、それが本当の仏法であるというのである。
そしてその「平常無事」に就いては、先きに「無事是貴人」の段で説いたから、今またくりかえすことは避けるが、要するに些かも造作にわたらず、自然法爾にスラリとはたらくことである。
臨済こう言っておいて、次に無功用・無造作の作用の実例を挙げた。
それが、「あ屎送尿、着衣喫飯、困し来れば即ち臥す」である。
便意を催してきたら糞を垂れ小便をし、寒くなったら衣を添え、腹が減ったら飯を食い、くたびれたらゴロリと寝る、そこには些かの作為もない、まさに無功用のはたらきであるが、
このように無造作の日常の生活や行為を離れて別に仏法は無いというのが、臨済のここで言おうとしている眼目である。
が、しかし、こういうと「愚者」考えの浅薄な人々は「仏法とはなーんだ、それだけの事か、それなら何も修行などする必要もあるまい」と笑うであろう。
「仏法を日常生活と離れた別次元のものと考え、仏法に何か殊勝げなはたらきや霊験を期待している俗物は、儂がこう説くのを聞いてガッカリし、なーんだ、つまらない」と嘲笑するであろう。
しかし「智者は乃ち焉を知る」で、物の道理を心得た知者は「真の仏法とはそういうものか、これは恐れいった」と納得し畏敬するであろう。
これで、この(3)の提唱は終りにしてよいのであるが、浅薄に解して誤解されても困るから、もうすこし講じておこう。
臨済のこの「あ屎送尿、着衣喫茶……」云々の句は、実は彼の創作ではなく、嵩山普寂の法を嗣ぎ、山居生活を送った初唐の頃の僧、南岳の懶さん(王+賛)和尚の「餓え来れば飯を喫し、困し来れば即ち眠る。
愚人は我を笑うも、智は乃ち焉を知る。
是れ鈍痴なるにあらず、本体如然たるが故なり」を下敷にしたものである。
そんなわけで、臨済の本当の肚を知るには、この偈をものした懶さん和尚の人となりと、その生活を知っておくとよい。
で、一言、それに言及しておこう。
懶さん和尚の出た頃、都長安では南陽の慧忠国師が粛宗皇帝の帰依を受けて顕栄を誇っていたが。
一方、この懶さん和尚は南岳(衡山)の石室中に隠栖し、貧寒な生活をしながらも毎日正念相続に余念が無かった。
しかしその盛徳がいつか徳宗皇帝の耳に達し、彼を長安に迎えるための勅使が石室に派遣された。
折しも彼は乾いた牛糞を焚いた火で芋を焼いて食っていて、折角の勅使を礼を以て迎えようともしなかった。
折しも寒い季節でもあったのであろう、水洟が垂れて頤まで届いているのに、それを拭おうともしないので、勅使がたまらなくなって「その水洟を拭いなされ」と注意すると、
和尚「我れ今、正念相続の最中なり、豈に俗漢の為に洟を拭うの暇有らんや」といって顧みず、ついに勅命を拒否して山を下らなかったという和尚である。
先きの偈は和尚の此の正念相続「本体如然」の境涯、更にいえば悟了同未悟・無事平常の境涯から生まれたもので、修行もしないものが自己の俗生活を正当化して嘯 いているのではない。
ここをよく弁別しておくように、呉々も注意しておく。ところで、この座を見渡すと、解せぬ顔をしている者もあるから、悟了同未悟について、老婆親切にもう一言添えておこう。未だ富士山に登ら
ず、富士山を眺めている人も、麓に立つ人だが、富士山の頂上を究めて下山して山を顧みる人も、同じく麓に立つ人である。
同じく「麓に立つ人」ながら、両者の境涯には雲泥のちがいがある。
「仏法は用功の処無し」とは、この後者の悟了同未悟の境涯、本体如然の境涯に立って、はじめて言えるもの、味わえるものである。安易にとられては申訳ないので、つい、くどくなってしまったわい。
先へ進むことにしよう。
(4)師、衆に示して云く、古人云く、外に向って工夫を作すは、総に是れ癡頑の漢なり。
汝且らく、隨処に主と作れば、立処皆真なり。
境来れども回換することを得ず。
縱い従来の習気・五無間の業有りとも、自 から解脱の大海と為る。
ここに「古人云く」とあるその古人は、つい今先きも登場した懶さん和尚のことで、釈宗活老師の御著『臨済録講和』にはその原文が引用されている。
しかし、今その原文を再引用することはやめて、端的に「外に向って工夫を作す、総に是れ癡頑の漢」とはどういうことか、その吟味に入ることにしよう。
その場合、肝心なことは、「外に向って工夫を作す」というが、何を求めて工夫するのか、工夫の目標が何かを明らかにすることである。
それに就いては、求めるものを、人生の生き甲斐や幸福と解して、「人生の幸福を、富だの、地位だの、名誉だのというように、世俗的なものに求めるのは、愚か者のやることだ」と解しても、一応筋が通る。
しかし、この示衆の全体の構成からみると、それは次のように解釈するのが臨済の肚に最も近いと思う。
およそ仏法はこの五尺の肉体に宿っており、「無位の真人」はこの我と常に形影相伴い、いつも同行二人で行動している。
だから、見性成仏をはかろうというならば、その仏性を内に向って求めればよい筈なのに、初心の間はそれをどうしても外へ求めたがるものである。
既に何回か講じた『十牛図』の「第一撥草尋牛」のところに、「只管、区々として外に向って尋ぬ、知らず、脚底己に泥深きことを」という石鼓の夷和尚の頌があったが、仏性をただ外へ外へと求めるのが実情である。
それは「牛に乗って牛を求め」「含元殿裏に長安を問う」もので、まことに馬鹿げた愚者の所行といわねばならない。
「外に向って工夫を作す、総にこれ癡頑の漢」とは、このことを言ったものである。
仏性は自己の外ではなく内にあるのであるから、内に向ってこれを求め、坐禅三昧の力によってこれを徹見しいつでも、どこでも真実の自己として鍛えあげていくのが、禅の修行である。
そしてついに、万縁万境に対して主体性を確立して生きること、それが「隨処に主と作る」ことである。
『無門関』の第十二則に、瑞巌師彦の『主人公』の一則が採られているが、彼は「毎日、自ら主人公と喚び、復た自ら応諾す。
乃ち云く、惺々着! 諾。他時異日、他の瞞を受くること莫れ、諾! 諾!」と、悟後の修行に努めていたというが、
こうして「他の瞞を受くること無く」、主人公がいつでもどこでも惺々として他に君臨していること、それを「隨処に主と作る」という。
釈迦は「我れ法王となって、法に於いて自在なり――私は万物の主人公となって、万物を自在に駆使している」と述懐している。
また趙州従ねんが「他は十二時に使われ、我れは十二時を使う」と公言したことは、先きに『趙州録』を講じた時に説いた。
「立処皆真なり」と表現したのである。
「万物の主人公となって万物を自在に駆使する」という「隨処に主と作る」境涯というものは、それは孟子の「大丈夫」の境涯であって、「富貴も淫する能わず、貧賤も移す能わず、威武も屈する能わず」で、真の大丈夫は境によって動かされることはない。
それを「境来れども回換することを得ず」と言ったのであり、これは理の当然のことである。
そして臨済はそれを更に「隨処に主と作れば、縱い従来の習気、五無間の業ありとも、自から解脱の大海と為る」と強調する。
これは法律は勿論、倫理道徳の世界を高く超越した宗教の世界に属する。
ちなみに「従来の習気」とは、無始劫来の薫習によっていつの間にか人間の身にしみついた臭みのことであるが五欲煩悩による深い迷いと取っておいてよい。
次に「五無間の業」とは、無間地獄に堕ちるべき五つの極悪の業のことで、五逆の大罪と同じである。
隨処に主となる境涯はまさに活き仏の境涯であって、一切の是非・善悪を超越した賞も無く、罰も無く、嫌うべき何物もない、絶対肯定、如是・如是の世界である。
従って隨処に主と作る境涯に到れば、単に外境によって動かされず、迷いや五逆の大罪からも解放され、真の無垢清浄、自由無礙の世界に遊ぶと、臨済はいう。
「隨処に主と作れば、立処皆真なり」とは、このようにして、まさに宗教の本質にまで迫る真実語である。
しかし、お互い、果してこの境涯にどこ迄近づいているであろうか。
お互いはよく金を使う、酒を飲むと言っておるが、実際はあべこべに金に使われ、酒に飲まれてはいないだろうか。
自分で主体的に泣いたり笑ったりしているつもりだが、実際は損したといって泣かされ、得したといっては物によって喜ばされ、笑わされているのが、実情ではないだろうか。
「隨処に主と作り」主体的に行動するといいながら、反省してみると、外境によって回換されているのが、情けないことに実情である
。これを機会にお互い大いに反省し、「隨処に主と作る」境涯に一歩でも半歩でも近づくよう、今日唯今から修行に精進しようではないか。
(5)師、衆に示して云く、汝、若し祖仏と別ならざるを得んと欲せば、但だ如是に見て、疑誤することを用いざれ。汝、心々不異なる、之を活祖と名づく。
諸士は色々な困難に耐えて、熱心に禅の修行にはげんでいる。大いに結構なことじゃ。
しかし若し人あって、「あなたは何のために、何を求めて禅の修行をなさっているのですか」と問うたら、お主らこれに何と答えるつもりか。
禅の修行に志した動機や当人の根機、また到りえている境涯によって、答えはさまざまであろう。
しかし洞然会下の修行者、銅頭鐵額の本格の修行ならば、「ハイ、祖仏と別ならざる境涯に到り、祖仏と手を把って共に行き、祖仏と共にこの人生を慶快に生きたいためです」と、確信をもってこう答えてほしいものである。
しかし「祖仏と別ならざる境涯に到る」などというと、世の修行者の中には、「それはとても無理だ。
釈迦・達磨をはじめ番々出世の祖師方は、皆生まれながらにすぐれた素質をもつ宗教的天才である。
我々凡夫とは別格な存在で、我々凡夫に彼らと同じ境涯に到れといったって、それは無理だ」と初めから尻ごみする人も少なくないだろう。
しかしそれは自らにも、仏に在って増さず、凡夫に在って減じない仏性の具わっていることを忘れたもので、間違いである。
かつて「学道の三則」を講じ、「大憤志」を説いた際に強調したことであるが、「釈迦も人なり、我も人なり」で、仏祖
方に出来たことが同じ人間である自分に出来ないことはない筈。
ただ素質のすぐれた彼らが一年でやったことを、我々は十倍の十年かかってやるだけのことである。
根機強く如法に修行を継続しさえすれば、「祖仏と別ならざる境涯」に到ることは決して不可能ではない。
臨済はその見地から、「汝、若し祖仏と別ならざるを得んと欲せば、但だ如是に見て、疑誤することを用いざれ」といっておるが、ここで「如是に見る」とは何をさすのであろうか。
それは「心々不異なる、之を活祖と名づく」ということを信受して疑わず、そこに到るよう努めることである。
「活き仏とはどういう方かといえば、心々不異で生きる方である。
祖仏と別ならざる境涯とは、ほかでもない、心々不異の境涯だ」というのである。
しかし、その「心々不異」とは、どういうことであろうか。
およそ生きている限り、我々の心は一念から二念へ、二念から三念へ……そして千念、万念へと展開し、あたかも川の流れのように絶えず持続して流れている。
その場合、濁流のように邪念ないし雑念妄想がその流れを充たしているのが凡夫であり、これに反して「清流間断無し」というように、浄らかな正念が切れ目なく不断に流れているのが祖仏である。
祖仏の心の流れというものは正念で充たされていて、そのどこを切っても皆正念で一点の異念・雑念もない。
これを臨済は「心々不異」と表現したのであり、わが教団の合言葉の「念々正念、歩々如是」と同じ意味である。
禅堂に在っての静坐、わが家に在っての一日一香の坐禅、いわゆる静中の工夫によって正念相続の基本を養い、
殊にお互いのような居士、禅子の場合においては、バスの中で、職場に於いて動中の工夫に骨折ることである。
そうして一昨日は二十分間、昨日は二十五分間、正念相続が出来た。
今日はそれを三十分に伸ばして、明日は四十分を目ざそうと努力して退転しないことである。
そうして熱心に骨折れば、時々途切れることはあっても、やがて二時間、三時間と正念が持続するようになる。
それだけ「祖仏と別ならざる時間」が続き、「心々不異の活仏」に近づくことになるわけである。死んでから「仏様」とあがめられたって、仕様がない。
生きている間に、毎日せめて三十分間でも一時間でも、活き仏として生き、二度とないこの人生を心ゆく迄味わいたいものですなあー。〔老師、良久、一黙なされる〕
なお最後に「心々不異」「正念相続」に就いて、誤解のないように一言申しておきたい。
それはここにいう正念相続とは「一行三昧」に生きることである。
坐禅の時は坐禅三昧、作務の時は作務三昧、遊ぶ時は遊び三昧で余念のないこと、当面の仕事に一心不乱で打ちこむこと、これを一行三昧というのである。
自動車を運転しながらも、或いは会社でコンピューターを操作しながらも公案の工夫をするのが正念相続であると説いているのを耳にしたことがあるが、それは途方もない間違いである。
車を運転する時は運転三昧、計算の時は計算三昧でその間に一点の異念もないこと、それが本当の「心々不異」であり「念々正念、歩々如是」の生き方である。
ここをしっかりと肚に入れて、心々不異を目ざして充実した毎日を送るように。
(6) 師云く、一般の学人有って、五台山裏に向って文殊を求む。
早く錯り了れり。五台山に文殊無し。汝、文殊を識らんと欲すや。
祇だ汝が目前の用処、始終不異、処々不疑、此れ箇の活文殊なり。汝が一念心の無差別光、処々総に是れ真の普賢なり。
汝が一念心、自ら能く縛を解き、随処に解脱す、此れは是れ観音三昧の法なり。
今夜のこの一段は、文殊・普賢・観音の三菩薩について、臨済が自らの見所を端的に、しかも明諦に説いたものである。
偶像崇拝の謬見を捨てて、宜しく肚で聴聞するように。
まず、文殊菩薩から。 中国で文殊信仰がいつの頃から普及したかは明らかでないが、おそくも唐代には大いに興隆し、山西省の五台山は文殊の霊場として多くの参詣者を集めていた。
比叡山延暦寺の第三代座主となった名高い慈覚大師円仁(七九四〜八六四)は、
その著『入唐求法巡礼行記』によると、彼自身この五台山に参詣したことが知られ、平安後期に出た成尋(一〇一一〜八一)もその著『参天台・五台山記』に、五台山に詣でたことを記している。
この中には既に見たものも少なくない筈であるが、例の『前三三、後三三』の公案(『碧巖録』第三五則)は、
牛頭法融の法師の無着が五台山を訪れて、文殊に相見して問答したという伝承を下敷きにした公案である。
ともあれ、このように五台山は文殊の霊場として有名であり、心の清浄な者が詣でれば生身の文殊菩薩に相見出来ると信じられていた。
ところが、臨済、或る日の説法で 一般の学人有って、五台山裏に向って文殊を求む。
早く錯り了れり。五台山に文殊無し。と、キッパリと断言し、
その上で「汝、文殊を識らんと欲すや。
祇だ汝が目前の用処、始終不異、処々不疑、此れ箇の活文殊なり」と説き進んだが、これは臨済和尚、何を言おうとしているのであろうか。
文殊菩薩とは如何なるものであろうか。
これに就いて答えるには、「三身四智」に就いて解説するのがよいのであるが、それを詳説するのは私の任でもないし、又時間の余裕もない。
ザーッと要点だけにとどめよう。
およそ人間をはじめ存在するものには、必ず本体と形相と作用との三つがある。
本体の無い形相、作用はなく、形相と作用とを伴わない本体も無い。
仏にも勿論、この三つがある。そして仏を本体から眺めてこれを法身といい、その形相から眺めてこれを報身といい、作用から眺めて応身或いは化身といい、この法身・報身・応身の三つを三身ということは、これまでにも再三説いてきたところである。
そしてその三身をそれぞれに人格化したもの、それが文殊菩薩・普賢菩薩・観音菩薩であり、この三身ないし三菩薩を一身に統一したもの、それが釈迦仏である。
仏と三菩薩とは一即三、三即一の関係にあるものである。
仏とは何か、色々に定義づけも出来ようが、要するに仏とは絶対不変の真理に体達し、その上に立って一切の衆生を済度するものといってよく、仏のはたらきは大きく分ければ智慧と慈悲との二つになろう。
ところで、その仏の智慧の根本は、 人間をはじめ、この世界に存在するものは、その形相はさまざまに違ってはいるが、す べて宇宙の大生命の発露したもので、仏性ないし法性を具有している。
この仏性ないし法性という本体から見た場合、人間相互はもとより万物みな一味平等であり、差別はない。
という智慧で、これを大円鏡智といい、これを人格化したものが文殊菩薩である。
そして一味平等で差別の相が見えないことは、あたかも真暗闇の中も同然だというので、「大円鏡光、黒くして漆の如し」などといい、文殊菩薩を黒獅子に乗せて形象化するのである。
仏性ないし法性という本体から見た場合には、一切の存在は確かに平等無差別ではある。
しかし具体的な現実の世界では人間をはじめ万物は皆、それぞれに大小・高低・長短・美醜と差別万般の形相をとり、さまざまな個性ないし特殊性をもっている。
本体から見て平等であるが、その形相、作用からみて差別が歴然である、これが具体的な真理である。
平等即差別、差別即平等、これが円満な真理である。
その場合、平等を表にして差別を裏にして平等に重点をおいた智慧、それが文殊の智慧であるのに対して、差別を表にし平等を裏にして差別に重点をおいた智慧、
いわゆる差別の妙智、これを平等性智といい、これを人格化したものが普賢菩薩である。
そして差別の相が歴然と見えるのは白昼同然だというので、普賢菩薩は文殊が黒獅子に乗るのに対して白象に乗せて形象化するのである。
仏とは一切の衆生を済度するのを誓願とするものであるが、衆生の苦しみや悩みはこれまた種々様々である。
だから衆生を済度するに当っては、あたかも名医が患者の病状を精密に診察するように、衆生の苦悩を正しく診察し、その病状を判断することが是非必要である。
衆生済度の慈悲行に打って出るに先立って、この娑婆世界とそこに住む一切衆生の症状を正確に観察する智慧、これを妙観察知という。
しかし、単に症状を診察しただけでは病気は直らない。その症状に応じて投薬し、或いは病根にズバリとメスを入れてこれを取除く、いわゆる外科手術も必要である。
仏が衆生を済度するには、まさにこれに類した適切な処理をすることが肝要であるが、それをする智慧とはたらき、それを所作を成す智慧という意味で成所作智というのである。
そしてこの妙観察知と成所作智との二つを一身に人格化したのが観音菩薩であり、観音菩薩は仏の慈悲の面を代表するものである。
先きに仏を分析すると、文殊・普賢・観音の三つになり、これを一身に統合すると釈迦如来になるといったが、仏の智慧を分析すると大円鏡智・平等性智・妙観察知・成所作智の四智となり、
この四智を統合すると真の仏智となるのである。
臨済、「五台山裏に文殊無し」と痛快な断案を下し、さてそれは汝らの心のうちにあるとて、「祇だ汝の目前の用処、始終不異、処々不疑、此れ箇の活文殊なり」と論を進めた。
ここに「汝の目前の用処、始終不異、処々不疑」というのは、「お主の唯今の心の働きが、始終不異、前にあった心々不異でいつでも正念が持続し、処々不疑、何処に在っても一点の疑念・雑念もないこと」の謂いである。
いつでも、どこでも「念々正念、歩々如是」と生き、真理の上に立って行動できたら、それが活文珠というものだということである。
次に「汝の一念心の無差別光、処々総に是れ真の普賢なり」とある。
先き程、普賢菩薩の智慧ないし境涯というものは、平等を裏にし差別を表にした差別の妙智のことだと説いたが、それではここの「無差別光」と矛盾し相容れないではないかという疑問が湧き起るであろう。
洞然も実はここに疑問を抱いた。しかし、それは「無差別光」を次のように解することで釈然とする。
禅では、未だ悟らない前は「柳は緑、花は紅。山は高く川は低い」、悟ってみると「柳緑ならず、花紅ならず、山高からず、川低からず」、
しかし悟り了ってみると依然として「柳は緑、花は紅。山は高く、川は低い」と、見所が深まってくると言われる。。
そして普賢の差別の妙智は、一味平等、無差別を通りこした上、悟り了った上で開ける「柳は緑、花は紅」である。
単なる無差別を超越し、それを内に含んだ差別の智慧である。
それを臨済は「無差別の処に差別を認める円満な智慧・光」という意味で「無差別光」と名づけたのである。『金剛経』に「如々不動」という語がある。
儂の庵号の「如々庵」はこの語に典拠したものであるが、この語の意味は「この世界に存在するものは、すべてそれぞれに特殊な形相と作用とをもちながら、しかもその差別の当相のままで、それぞれに絶対である」ということ、
逆にいえば「存在するものは仏性ないし法性をそなえた絶対者でありながら、しかもそれぞれに千差万別の形相を呈し作用を発揮している」という意味であり、こう見るのが普賢の差別の妙智である。
大変に不遜のようであるが、不肖洞然はここの一節を 汝の一念心の無差別光、処々総に如々不動、柳は緑、花は紅、是れ真の普賢なり。と補って解しておきたいが、どうであろうか。
明眼の諸大徳の御批判を仰ぎたいと願っている。
次は観音菩薩正しくは観世音菩薩である。
観音は先きにも申したように、無縁の慈悲に催されて、救いを求める相手に応じて様々に、しかも自由に自らの姿を変化させながら、衆生の済度にあたる仏の働きを人格化したものである。
色声香味触法などの外境によって、又それらによって触発された煩悩妄想によって縛られて動きがとれず、或いは物にたぶらかされて迷い溺れかけている衆生を、それらの繋縛から解放し、迷いの海原から救い上げる、総じていえば衆生を解脱させるのが観音の仕事である。
ところで「非力の菩薩、人を救わんとして溺る」では困りものである。溺れかけている人を救うとならば、先ず自分自身が泳ぎが上手でなければならない。
十分に泳げもしないで水にとびこんだのでは、他人を救えないのは勿論、自分も溺れ死んでしまうのは必定である。
他人を繋縛から解脱させようというならば、何よりも自分自身が「自ら能く縛を解き、随処に解脱」していることが先決である。
そしてこれを「是れ観音三昧の法」というと結んで、臨済はこの一段の説法を終っている。
臨済は衆生済度の利他行に打って出る前に、先ず自利の修行につとめて自らが解脱すること、自らの悟りを深めることが先決であることを説いているのである。
私も若い時分に、非力の身で大海にとびこんで溺れかけた経験がある。
諸士も自らの悟りを深め実力を涵養することに全力を尽すことだ。
(7) 道流よ、汝、如法の見解を得んと欲せば、但だ人惑を受くること莫れ。
裏に向い、外に向い、逢著せば便ち殺せ。仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得ん。
或る時、臨済、会下の修行者らに向い、「道流よ」と呼びかけておいて、「汝、如法の見解を得んと欲せば、但だ人惑を受くること莫れ」と説法された。
ここで先ず問題は「如法の見解」とは何をさすかということである。
如法の見解とは真正の見解の意味であるが、ここでは、たとえば『趙州無字』の公案に対する見解というような狭い意味ではなく、広く真正の悟りというような意味である。
そしてこの一段全体から察すると更に「真正の解脱」とみるのが適切である。
「お主らよ、本当の解脱を得たいというならば、人惑を受けないようにせよ」という注意である。
だがその「人惑」とは何のことであろうか。
臨済が「有る時は人を奪うて境を奪わず。
有る時は境を奪うて人を奪わず。
有る時は人境倶に奪う。有る時は人境倶に奪わず」と、いわゆる四料簡を説いていることは、ご承知のとおりであるが、これで察せられるように、臨済のいう「人」は「境」に対するもので、いわゆる人間の意味ではない。
彼のいう「人」は自己・主体、時には心を意味し、「境」は自己をめぐる万縁万境、主体に対する客体、また心に対する物をさしている。
従って臨済のいう「人惑」は「境惑」に対するもので、それは境惑から考えると分りよい。
臨済は別な機会に、真の大禅者というものは、あたかも『文殊、三処に夏を度る』という公案における文殊のように「色界に入って色惑を蒙らず、声界に入って声惑を蒙らず」というように在るべきだと説いている。
これからして分るように、境惑とは眼耳鼻舌身意の六根の対境としての色声香味触法という六境によって誘発される惑いのことである。
更に分りやすくいえば、酒に呑まれ、金銭や財宝に釣られ、地位や名誉などに動かされることである。
これに対して「人惑」とは自己が原因で起きる惑い、我見や我執、五欲煩悩ないし浅はかな思慮分別などが原因となって起る迷いのことである。
臨済のいう人惑は単に「他人にたぶらかされる」という意味ではない。
従って以上に説くところをもう一度要約すると、 お主らが「如法の見解」本当の解脱を得たいというならば、境惑を受けないことは勿論、自己の「心中の賊」を退治して、「人惑」を受けないようにすることだ。
ということになる。そして次に「裏に向い、外に向い、逢著せば便ち殺せ」とあるが、これは余り文字にとらわれず、「人惑を蒙りそうになったら、その人惑をもたらすものを何でもかんでも打ち殺してしまえ、それの息の根を止めてしまえ」ということである。
臨済はこう説いておいて、その殺すべき「人惑」を数えあげたのが、「仏に逢うては仏を殺し…父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺せ」という、物騒千万な後段である。
これは無論、人殺しをせよとそそのかしているのではない。それではどういう意味であろうか。
およそ「人惑」の根源は、無始劫来、人間の心に深く根づいている貪瞋痴の三毒、いわゆる無明であり、これから八万四千ともいわれる無数の煩悩妄想が派生するのである。
臨済はその無明を貪欲と痴愛の二つに分け、貪欲を「父」、痴愛を「母」と名づけ、この父母が相交わることによって生れる無数の煩悩妄想を「親眷」と名づけたのである。
人惑を蒙らず解脱したいというならば、まず坐禅の修行によって八万四千の煩悩妄想の「親眷」を退治し、更に貪欲と痴愛の「父母」を殺せというのである。
分りやすくいえば、「心中の賊」を徹底退治して、迷いの鉄鎖から本来の面目を解放せよ、というのである。
これが出来たら、それが道元禅師のいわゆる「身心脱落」であり、それは言うべくして容易には到達しがたい境涯である。
しかし、この迷いの鉄鎖からの脱却は、まだ本当の解脱ではなく、いわば解脱の前段にすぎず、更に後段がある。
この前段は汚穢にみちた六道の世界から清浄無垢、寂滅無相の悟りの世界に一歩足を踏み入れたものではあるが、この程度では、こんどはその悟りにしがみつき、悟りに縛られて自在に働くことは出来ない。
この段階を臨済は「羅漢」と名づけ、このオツにすました羅漢の境涯に腰をすえておらず、そこを超出せよということを「羅漢に逢うては羅漢を殺せ」と表現したのである。
そしてこの羅漢の世界を超出すれば、そこに自覚覚他、覚行円満な自由な世界が開ける、それがここにいう「祖」の境涯であるが、
臨済はこれもまた悟りの臭みが毛一筋ほどだがのこっていて本当の解脱には届いていないとして、そこにも腰を据えるなという肚で「祖に逢うては祖を殺せ」と説くのである。
では、祖を超克して入った「仏」の世界こそ究竟の世界である筈であるが、臨済はその仏に縛られても縛られることに変りはない、貴い金の鎖でも鎖は鎖であるとして、それをも超出せよ、
そうでなければ本当の解脱は得られないぞと「仏に逢うては仏を殺せ」と強調して、この一段を結んだのである。
「祖を殺し、仏を殺し」何物にも微塵も縛られない本来無一物の境涯に到達したら、それが道元禅師の「脱落身心」いわば「解脱からも解脱した、真の解脱」というものである。
この真の解脱の境涯に到ることは、それこそ難中の難であろうが、そこを目ざして毎日毎日、一日一香の坐禅に骨折ろうではないか。
初心の者は迷いの鉄鎖を截断することに努めよ。久参の上士はよろしく金鎖の繋縛からの脱却に骨折るべし。今夜はこれまで。
(8)道流、汝が一念心の歇得する処、喚んで菩提樹と作す。
汝が一念心の歇得し能わざる処、喚んで無明樹と作す。
汝、若し念々心歇不得ならば、便ち他の無明樹に上り、便ち六道四生に入り、披毛戴角せん。
汝、一念不生なれば、便ち菩提樹に上り、三界に神通変化し、法喜禅悦せん。
この一段は、文字の意味が分れば、比較的に分りよいであろう。
先ず「一念心」と出てくるが、これは一点の雑念のことである。
坐禅して数息観をやり或いは公案の工夫をしている時に、ヒョイと浮かんでくる雑念や妄想のことである。
次に「歇得」とは休歇と同じで、働きを止め影を没する、消滅するという意味であり、「歇得し能わず」とは雑念が次から次と起って歇まないことである。
又「菩提樹」とは、菩提・涅槃という素晴らしい果実の実る樹、「無明樹」とは一切の迷いの根本である無明という実のなる樹木のこと。
従って「汝が一念心の歇得する処、喚んで菩提樹と作す。汝が一念心の歇得し能わざる処、喚んで無明樹と作す」とは、
心中に一点の雑念も無く、「心々不異」「念々正念、歩々如是」と、心の流れが清らかな正念で充たされている状態、これを菩提樹といい、これに反して雑念妄想が次々と起って歇まない状態、これを無明樹という。
と訳してよかろう。
臨済はこれを受けて更に「念々、心、歇不得なれば、便ち他の無明樹に上り、便ち六道四生に入り、披毛戴角せん」と展開しているが、これはどういう意味であろうか。
これ亦、文字の解釈から入ろう。「六道」とは「六趣」ともいい、地獄・餓鬼・修羅・畜生・人間・天上のことであり、「四生」とは胎生・卵生・濕生・化生のことである。
又「披毛戴角」とは体に毛を披り、頭に角を戴くということで、犬や馬また牛や羊などの動物のことである。
その意味するところは、 もし心の掃除が出来きず、いつも雑念のとりことなり、妄想にひきずられているならば、それは「無明樹に上る」というもので、六道四生の世界を輪廻転生し、牛馬の境涯を脱却することは出来ないであろう。
という程のことである。これに反して、もし心の掃除が行きとどき、「一念心歇得」し「一念不生」で、心がいつも正念で充たされ、「清流間断無し」というようであるならば、
それはまさに菩提を成じ涅槃に入る「菩提樹に上る」というもので、「三界に神通変化し、法喜禅悦にひたることが出来よう」と結んでいる。
ここで「三界」とは欲界・色界・無色界のことであるが、それらの註解は今は無用であろう。
又、「神通変化」とは超人間的な神通力を得ることではない。
「三界に神通変化す」とは、この人生において無礙自在に生きるという位の意味であり、そう生きるならば、本当に生きがいのあるように生きた喜び、法喜禅悦にひたることが出来よう、という程の意味である。
『禅林句集』に「披毛従レ比得 戴角亦従レ他――披毛も比れ従り得 戴角も亦た他に従る」という五言対句があるが、これは臨済のこの一段の説法をよく踏まえたものである。
その意味で われわれ人間が畜生道に墜ちてさもしい生活をし、あたら一生を棒に振るのも、また仏となって清浄で楽しい生涯を送るのも、皆これ心次第である。
心の浄と不浄、正念相続が出来るか否かによる。
それ故に、心の掃除と練磨とに骨折れ。
という、五言対句に就いての私釈を披露して、この一段を結び、次に進むことにしよう。
(9)大徳よ、山僧、外に向って法無しと説けば、学人会せずして便ち裏に向って解を作し、便ち壁に倚りて坐し、舌、上齶をささえて、湛然として動ぜず。
此を取って是れ祖門の仏法と為す。
也た大いに錯れり。
是れ汝、若し不動清浄の境を取って是と為すは、汝便ち他の無明を認めて郎主と為すなり。
古人云く、湛々たる黒暗の深坑、実に怖畏すべしと。此れ是なり。
この一段は「坐禅三昧」とは如何なるものかを知る上に於いて、初心の者にとっては勿論のこと、初心者を正しく教導すべき責任をもつ久参底にとっても、極めて大切なものである。
単なる肉の耳でなく心の耳で聴いて、よく肚にいれておくように。
さて臨済、列坐の聴講者に向って「大徳よ」と呼びかけた。
これ迄屡々出てきた「道流よ」とか「上座よ」とかと同じことである。
禅家では場合によっては弟子を「小師」と呼ぶこともある。
これで分るように、禅の師家というものは、弟子の人格を十分に認めてこれを尊重するものなのである。
修行の上では相当はげしく罵倒することや、怒罵呵咄することもあるが、それは修行者を鍛えようとする慈悲の発露であって、世間的な人情や感情からではない。
不肖洞然も口がよい方ではないが、肚はきれいなつもりである。
誤解する者もあるまいが、よい機会なので一言しておく。
なお「山僧」とは「野僧」などと同じく、ここでは臨済の謙遜した自称代名詞で「儂」というほどの意味である。
臨済和尚、講座台上から「列座の諸大徳よ」と呼びかけ注意を喚起しておいて、 儂はいつも 心外に法は無い、だから外に向って真理・仏性を求めてはならない。
「牛に騎って牛を覓める」愚行をしてはならない。経文や祖録に求めてはならない。
ズバリと「赤肉団上、一無位の真人有り」と、仏性はこの肉体に宿っていると説き、外ではなく内に向って求めよと力説してきた。
すると修行者の中には、「内に向って求めよ」という、儂の肚を取りちがえて「死人禅」を行じて、それでよいつもりでいる者がある。
即ち型の如く壁に向って坐り、「舌、上齶をささえ」で黙然と口を「へ」の字に結び、あたかも木偶の坊のように「湛然として動かず」、ただトロリーッと無念無想を観じて、「此れを取って是れ祖門の仏法」と解し、いい気になっている者がある。
しかしこれは「也た大いに錯れり」で、途方もない邪禅である。
と、声を大にして警告され、更に「是れ汝、若し不動清浄の境を取って是と為すは、汝便ち他の無明を認めて郎主と為すなり」と、その錯誤をきびしく批判しておられる。
ここで「不動清浄の境」というのは、波立つ心を一時何とか抑えて静かにしている状態のこと、たとえていうならば泥水をコップに汲んで一昼夜も静止させておくと、泥が下に沈んできれいな上澄みが出来るが、丁度そのような心の状態のことである。
このコップそのまま静止させておけば、一応澄んできれいではあるが、僅かでも振るとすぐ元の泥水に戻ってしまうことは、お主らも経験して分っていよう。
丁度そのように清閑な禅堂ではこの「不動清浄の境」を何とか維持できても、一歩道場を出て実社会に入るとすぐ騒ぎたって濁ってしまう。
しかし世間にはこのような「不動清浄の境」を「祖門の仏法」であり、禅の悟境だと誤認している者が多いが、それはあたかも奴を郎主(主人)と取違えるのと同然である、と臨済和尚いってござるが確かにその通りじゃ。
長沙の景岑和尚の章で触れたかどうか思い出せないが、この和尚に 学道の人 真を識らざるは 只だ従前の識神を認むるが為なり 無量劫来 生死の本 痴人は喚んで本来人と為す
という偈がある(『無門関』第12、『瑞巌主人公』参照)。「不動清浄の境」はこの偈にいう「無量劫来 生死の本」即ち迷いの根源である「識神」、いわゆる第八阿頼耶識のことである。
臨済のこの説法、長沙景岑のこの偈と重ね会わせると、よく分るであろう。
こう言っておいて臨済は更に、「儂の今説いていることは、儂だけの意見なのではない」とて、「古人云く、湛々たる黒暗の深坑、実に怖畏すべし」と、古人の言を引きあいに出した。
ここにいう古人とは、隋の煬帝の帰依をうけて天台山に篭り、天台宗の基礎を固めた天台の智者大師・智ぎのことである。
「湛々たる黒暗の深坑」とは、暗く窮屈な墓穴の中でトロリーッと無念無想を観じてそれで得たりとしている境地、いわゆる死人禅の境地のことであり、つい今先き出て来た「不動清浄の境」のことである。
そしてそれが、「実に怖畏すべき」もの、気をつけないと危険なものであることは、今更いうまでもあるまい。呉々もご用心、ご用心じゃ。
精神の空白状態ないし放心状態を意味するいわゆる無念無想や、泥水を澄してソッとしておくような黙坐澄心即ち不動清浄の境が、本当の坐禅三昧とは似て非なるものであることは、以上で分ったであろうが、
それでは本当の坐禅三昧とりわけ正念相続とはどういうことであろうか。
私見を披露しておこう。
およそ禅者の生き方の基本は、何事にも三眛で当るということであるが、その三眛とは正念相続、心境一如・自他不二、正受して不受という三つの心の働きの統合したものである。
そして中でも大事なのは正念相続ということであるが、それはどういうことであろうか。およそ人間の心は、生きている限り、あたかも川の流れのように絶えず切れ目なく流れるものである。
ところが、その心の流れを満たしているものが雑念や妄想だけであるならば、その流れは濁流というべきである。といって濁流になることを恐れてその流れをストップし、水を乾上らせた状態、それが無念無想である。
これに反して「清流間断無し」というように、正念が絶えず豊かに流れる状態、これが正念相続であり、三眛の最も肝心なところである。坐禅していても生きているのだから、眼耳鼻舌身意の六根はその働きを休止しているわけではない。
従って眼前に白い蝶が飛んでくれば見えるし、外で犬が鋭く泣けば聞えるし、台所から調理の匂いがただよってくればそれが鼻に感じる。
その場合、正念の流れが豊かでいきいきとしておれば、あたかも滔々と流れる清流に傍から少々の濁流が流入してもすぐ浄化してしまうように、それらの外界の刺激は正念の清流を濁らせることはない。いわゆる「二念を続がず」である。
その場合、正念の流れの水量が乏しく弱々しいと、外からの刺激やそれに触発された想念が浄化されず、いつか流れの主流を占めて「濁流間断無し」になってしまう。
この辺のことは、自分の坐禅の体験を振りかえってみれば、よく納得がいくことだろう。
ともあれ、坐禅三眛とは乾上った川のような無念無想の境地に陶然としていることでもなく、又、「出ず、入らず」の山中の古沼のような死水の境地にトロリとしていることでもない。
真の禅定三眛、臨済のいわゆる「心々不異」、私のいう「正念相続」とは正念の流れが豊かで、しかも音もなくイキイキと流れて断絶しないことである。
ついでの事に、もう一つ別な禅語を引用して正念相続の何たるかを説明しておこう。
そのもう一つの禅語とは、冬の茶席によく見かける「紅炉上一点の雪」という語である。
今日では殆んど見かけなくなったが、昔は室の暖房には炉中に赤々と木を燃やしたり、或いは達磨ストーブに石炭をドッサリ焚いてこれを真紅にしたものである。
ここにいう「紅炉」とは、このように火勢強く燃える炉やストーブ、更には鉱石を溶かす溶鉱炉のことである。
もしこれらの炉の火が消えているところに雪が舞いこんできたら、炉上に雪が積ってしまうし、火力が微弱であれば雪は暫くは消えずに残り、とけて水の痕を残すであろう。
しかし炉が真紅に燃えているならば、舞いこんだ雪は傍に来ただけで瞬時に蒸発して痕跡をとどめないであろう。
「紅炉上一点の雪」とは、この消息を表現した句であるが、まさにこのようにイキイキと正念が燃えさかっていて、雑念や妄想の寄りつく隙がなく、それらを瞬時に蒸発させてしまう心の状態をズーッと一貫持続すること、それが本当の坐禅三眛なのである。
坐禅三昧といい、正念相続というのは、「清流」や「紅炉」にたとえられるように、まことにイキイキしたものなのである。
重ねていう。真の坐禅三昧、正念相続と「黒暗の深坑」に在って無念無想を観ずる死人禅、いわゆる「鬼窟裏に活計をなす」暗照默照の邪禅といかに異なるかをはっきりと肚に入れて、真の坐禅三昧を行ずるようにせよ。
今晩はこれまで。ハイッ。
『臨済録』における「無事」の問題
冲永宜司
はじめに
我々が禅に触れる場合、とりわけ不可解に思うことに、それがいわゆる宗教でありながらこれといって特に崇拝すべき対象を持たず、しかも日常生活をそのまま肯定しようとする点が挙げられる。
これでは一体、始めから禅などに関与しないことと何の違いがあるのか、禅を実践することに一体何の意味があるのか、という疑問が当然生ずる。
だがこれが、禅において最も誤解されやすい点でありながら、禅の最も本質的で特徴的な点の一つであると考えられる。
本論ではこの問題に、禅の源流の一人である臨済義玄(?-876) の思想の吟味を踏まえながら答えて行くことを目的とする。
臨済は、中国唐代の洪州宗と呼ばれる禅宗の一派に属す。
この宗派は、禅を教義と言える段階にまで初めて定着させた六祖慧能以後、唐代における禅の運動の中で最も大きな流派であり、この代表的人物には、馬祖道一(709-88)から百丈懐海(749-814)、黄檗希運(?−?)、そして臨済という連続したつながりがある。
彼等の禅の特徴は上に示したように、自己の日常あるがままの姿が即ち仏であるというものである。
それは卑俗な面も持つ通常の自己とは区別されたところに、理想的な自己や自己の本質があるとするものではない。
両者の区別をしないまま、自己の一切のあり方を仏とするものである。
洪州宗の禅は、特にこの一切をそのまま肯定する傾向で知られる。
これは数ある禅の諸宗派との対立、混合を経ながらも、以後の中国禅において最も中心的な位置を保ち、そして日本に取り入れられた禅に対しても大きな影響を与え続けることになった。
この考え方は思想としては無論、唯識や華厳などの教学的な体系との関連で説明することもできるだろう。
しかし禅は仏教を静的な思想とはせず、常に経験と思想との動的連関において仏教を体現してきたことに、その特徴がある。
本論では、この思想を体現するという角度から、自己を一切肯定するこの考え方の本質について考察する。
「即心是仏」1という言葉は『馬祖の語録』で既に語られているが、 これは心と仏という二つのものが同値なのではなく、心がそのままで仏だということである。
同書の「平常心是道」2 という言い方も、ありのままの心をそのまま究極としている。
そして『臨済録』になると、この平常心が「無事」という言葉で明確化され、この「無事」を体得したものを「無位の真人」3、または「無依の道人」4という無形の生きたはたらきとして明確に呈示し、禅僧の課題として提示するのである。
まず、これらの概念がどういう意味で使われたのかを、テキストの中から、もう少しくわしく見て、問題点を明確にして行きたい。
「道流、是れ爾(なんじ)目前に用うる底は、祖仏と別ならず。
麼(ひたすら)信ぜずして、便ち外に向って求む。錯ることれ。
外に向って法無く、内にも亦た得べからず。爾、山僧が口裏の語を取らんよりは、如かず休歇して無事にし去らんには。」5
まず、「無事」とは修行によって自己を究めて行く末に発見される本質ではない。
「内にも」というのは、内面の本質でもないということである。しばしば誤解されることだが、この点で禅は、アートマンのような自己の内奥の実体を、その実体以外のものとは区別して定立させる立場とは区別する必要がある。
そうではなく、自己のありのままの状態そのものずばりが「無事」、即ち仏であり、その自己において完全に満たされることが「信」なのである。
つまり、形ある実体、形相のようなものを求めることはここでは考えられていない。
さらに、求めるという行為に加えて、実体や形相のごときものの存在自体が、言葉の上で否定されている。
「無事是れ貴人、但だ造作することれ、だ是れ平常なれ」6
この記述も、修行のような「造作」を為すことを否定的に語っている。
この行為は、同所で「外に向いて傍家に求過」することとして戒められる。
「無事」や「平常」はそうした行為とは別のところに成り立つのである。
「若し能く念念馳求の心を歇得せば、便ち祖仏と別ならず」7
何かを求めて修行することは、祖仏に至る道を開くどころか、かえって塞ぐことになる。
逆に、求める心がなくなるところがそのままで祖仏だと言われる。
「本有今有、修道坐禅を仮らず。修せず坐せず、即ち是れ如来清浄禅なり」8
これは『馬祖の語録』からの引用である。
文頭の「本有今有」が「本有今無」だと、もともと衆生に備わっていた仏性が今は煩悩によってさえぎられているので、その仏性を修行によって引き出さなくてはならない、という意味になる。
しかし「本有今有」だと、もともとの仏性が今もこのあるがままの状態で現前しているという意味になり、従って坐禅のような修行をわざわざ仮に行う必要がない、という意味が込められてくる。
これが臨済になるともっと強い意味で、「求めては駄目だ」、となるのである。
以上から、「無事」という事態は得ようとして得られるものではなく提示不能であることが分かる。
ここには、修行で得ようとすべきものも修行の後で得られたものもないとする無対象の不可解さがある。
宗教は普通求められたり崇拝されるべき対象を持つが、この得るものなしという主張の真意は一体何なのか。
そして一切の得るものなくして、なぜ断見や虚無主義的見解に陥らず、万象の肯定へと開かれているのか。
この、禅の根本に関わる問題について、以下幾つかの角度から検討してみたい。
第一章 開悟の経験の内実
第一節 臨済の体験
第一に疑問になるのは、「造作」を戒め、「修道坐禅を仮らず」といっても、僧侶達は実際に厳しい修行を経てきているのだし、修行の前と後で何も変わらぬはずはないということである。
仏教は一般に苦悩と迷いを取り除く目的を持つものだが、すると「無事」が修行以前の、境にとらわれ物事を偏って見ている状態と変わらないのはおかしい。
さもなくば、臨済の学人達が達成できずしている境地として「無事」を挙げる意味がない。
ここには、表面上は修行をしようがしまいが何も変わらなく見えながら、見えないところで決定的な断絶のあることが暗示されている。
例えば、右に示した、「如かず休歇して無事にし去らんには」という表現と、「大徳、因循(ぐずぐず)として日を過ごすことれ」9 と、逆に何もせずにいることを戒める表現との間には明らかに矛盾がある。
これらの主張が矛盾しないとすれば、この「無事」と「因循」の間には言葉の表面に現れない質的断絶があらねばならない。
実際、臨済自身の経験においても、前者の状態は始めからあったのではなく、厳しい内的葛藤の末にようやく達成されたのである。
確かに馬祖が「開悟」10などの言葉を明示するのに対して、臨済は敢えてそれを使いたがらないようにさえ映る。
しかしそれに類似する心的経験の事実は、『臨済録』に見出される、彼の経験記述を追ってみると明らかになる。
「山僧往日、未だ見処有らざりし時、黒漫漫地なりき。
光陰空しく過ごすべからずとすれば、腹熱し心忙わしく、奔波(ほんぱ)して道を訪う」11
臨済も、かつては己れの生の問題で八方塞がりのときがあった。
それは明確な形で現れた恐怖というより、仏法を求めてもつかみ得ない中で生じた、理由も根拠も分からぬ実存的な不安、行き場のない暗黒状態のことである。
しかも何かつかもうとすればするほど、かえって気ばかり焦って暗黒の深淵に引き戻されるという悪循環にあった。
「祇だ山僧の如きは、…曾つて経論を尋討す。
後に、方に是れ済世の薬、表顕の説なることを知って、遂に乃ち一時に抛却して、即ち道を訪い禅に参す。
後に、大善知識に遇いて、方乃(はじめて)道眼分明なる」「是れ娘生下にして便ち会するにあらず、還って是れ体究錬磨して、一朝に自ら省す」12
娘生下、つまり生まれたままで何もしなくて道眼分明、即ち開眼に至ったのではなく、体究錬磨の末に、はたと悟りが訪れたことが、ここから明らかに読み取れる。
その意味では、最初から「手放しの開けっぴろげなオプティミズム」13が実現されていたのではない。
開眼は、何かを求めていた自己からの人格的転換点を経て始めてなされたのである。
そしてこの転換は、仏法の経論を学んで得られる対象化され得る知識とは全く別の、純粋な体験である。
この固定して把握し得ない体験が禅において重要な点であり、臨済を始めとする禅家が教義の習得を表面的なものとして、禅に飛び込んだ理由をなすものである。
しかしそれはただ霊的な何かを見たというものではなく、表現不能な上に、その後の人生への態度全体に影響する、或る人格的な変化を含んでいることが条件となる。
すると、この独特の、人格全体に関わる体験とは如何なるものなのか、もう少し検討せねばならない。
例えば鈴木大拙は「臨済の基本思想」の中で、この体験を「人」の出るところとして展開している。
大拙の「人」とは、分別知でとらえられる対象とか物ではない。
むしろ、分別知が行き詰まったところで、何かをとらえようとする自分の能動的意識と無関係に出てくる自在のはたらきである。
しかもその出方は、分別知を助けるのではなく、逆に今までの分別知の無意味さに気づかせ、不安な状態を、知にとらわれているからこそ陥ったものと自覚させ、そこから自己を解放するのである。
臨済はこのとらわれにはたと悟ったとき、「黄檗の仏法多子無し」14と語った。
つまり今まで師匠である黄檗の仏法が理解できず、その答えを出そうとする態度が却って実存的な不安を凝縮させていたのだが、
この理解しようとする意識の方が或る拍子に不意に消え去ったとき、その仏法の本意はいとも単純で簡単だったという気持ちとともに、問題は解決したのである。
つまり問いに対して答えが与えられたのではなく、問い自体が無効になったのである。
この体験を大拙は、無依の道「人」(にん)の「直覚」、または「霊性的自覚」15と呼んでいる。 霊性とは概念的対象ではないからとらえられず、自分の意志の自由にもならない。
とらえたと思ったら、するりと自在に抜け出て行くものである。この奇妙な性質を「人」という言葉はよく表現している。
なぜならこの言葉は、我々に最も身近な具体物に添えて付けることができながら、それ自身だけで使われると抽象的で掴みようがないからである。
「人」が実有でなく、「超個者かつ個一者」であり、全く矛盾した構文である「即非の論理を生きる」ものとされるのはこのためである。
しかし霊性的自覚は、単なる戯言であってはならず、その自覚が自己の存在の全体を底から動かすものでなくてはならない。
宗教的自覚の特徴の一つはこの全体性にある。
それは「自らの存在そのものを裏からつかみ取る」こととも言われるが、
この転換は、下準備のないところから到達されるのではなく、止むに止まれない実存的、哲学的不安、つまり自己への根源的な疑いが条件となり、それが破られる時に初めて生ずる。
この自己否定の徹底がなければ、その後に到達される「無事」もありえない。
確かに大拙も「人」が出てくる条件としての実存的疑いについて触れるが、その極限までの徹底がなければ、「人」が「存在の最も深いところに撤していて、そこから一氣に、何等の媒介も経ずに」16出てこない。
この宗教的自覚への突破を開く道筋としての自己否定の側面の強調は、大拙より西谷啓治などにより顕著に見られる傾向である。
「疑団」とは白隠禅師の用語であるが、西谷はそれを、自己と世界の存在そのものが、疑いのただ中に放りこまれることとして理解する。
この疑いはデカルトの方法的懐疑のように、概念的で、疑われる対象と区別されたところに考える我が置かれるのではなく、対象と我とが共に、凝集して塊となった疑いの情態の中に巻き込まれることである。
そして「疑団」における実存的疑いや不安から脱出することで「安心」に至れるのではない。
反対に、「自身のうちに発起してくる実存的な疑いの根を自心のうちから掘り返」し、疑いを回避するのではなく「あくまで疑いに徹する」17という方向を究極まで進めなければならない。
これが「大疑」であり、そこでは不安の隠された原因としてのとらわれと一緒に、とらわれの主体としての自己自身の「生死の根を切る」18ことがなくてはならない。これが「大死」である。
それは自己と自己を取り巻く世界について一度完全に死ぬことである。
この心的過程には不可解な面が多いので、我々は後々触れて行かねばならないが、ともかくここでは「平常無事」、「安心」に到るための突破口として、「絶対否定性」、「大死」は不可欠だとされるのである。
疑いから逃避してしまえば、一時的に不安は減ずるかもしれないが、疑いは疑いとしてそのまま残存する。
自己が認識する諸対象はもとより、対象について考える自己、つまり思う我そのものについても徹底的に疑い切ったからこそ、
疑いの気付かれなかった根拠としての自己執着までが滅せられ、そこに疑いが意図的に消されるのではなく、疑いそのものの根拠までが剥奪された世界が開けるのである。
西谷に従えば、「無事」の人とは、疑い切るというよりは、疑いの根拠さえ剥奪された果ての自己である。疑いがなくなれば、その対立項としての悟りさえ意味がなくなる。
「疑団」が破られることは、何かを求めている自己の根拠が覆されることであると同時に、世界という客体の根拠さえ覆され、変容すると理解できる。
中国の古典においても、有名な廓庵の十牛図などはこの自己と世界の変容のプロセスをよく表している。
よく知られているように、この図は禅の修行の階梯を、見失われた「真の自己」を牛に譬えた十枚の絵を用いながら解説したものである。
そこで示されるプロセスにおいては、「疑団」のように精神的危機点が強調されることはない。
しかし、この図では、牛に譬えられた求められるべき何かを探して目的にとらわれている状態から、牛を見つけだしてそれを自在に操り、少し前まで気に掛けていた牛の存在を忘れてしまう状態になり、
ついに牛と一つになった自分自身をも忘れてしまう状態へと移行する。
これが第八図「人牛倶忘」の「凡情脱落し、聖意皆な空ず」19というように、「聖意」つまり牛と一体化した悟りの気持ちさえなくなってしまう状態である。
その後第九図の「返本還源」において、「水は自ら茫茫、花は自ら紅なり」20と、万物がおのずからありのままに現成する。
この九図は臨済の「無事」という事態に近いと考えられる。万物は形の上では以前と何等変わりがないもとのままの流れに還っている
。しかしその本質的な様相は、七図以前の何かにとらわれた自己からは見ることができなかった、つまりこの
万物ありのままの世界は、八図の「絶対無の場所」21を経ずしては現成し得なかったのである。
第二節 修も証もなし
前節で我々は、「無事」が決して生まれたまま何もせずに最初から与えられているのではなく、その背後には「大死」や「絶対無」の経緯が隠されていることを確認した。
すると新たな疑問がおのずから生ずる。
それは、禅経験の階梯において不可欠な「無」の体験が、臨済本人に体得されていたとするなら、なぜ彼は敢えてその体験を口に出して、弟子達の修行の指針とすることをしなかったのか、である。
この、「無」の体験を象徴化しなかったということが、「無事」という境地を分かりにくくしている。
無論、臨済の生きた九世紀と、廓庵が十牛図を記した十二世紀とでは時間の隔たりがあり、後者の方がその分、禅者の考えを禅の初心者にも分かるよう、体系的な説明の術を心得ていたと考えることもできよう。
だが、時代を遡った馬祖や黄檗において、既に修行の上で起る「開悟」や「解脱」の事例について触れられており、
また先にも述べた通り、臨済自身の「自省」も、『臨済録』の中に明記されているので、まだ彼自身がその体験を他者に説明できるまで、到っていなかったと断定することもできない。
すると、開悟時の「無」の体験を強調しなかったことに、何かもっと積極的な仮説を設けることが許されるかもしれない。
それには、悟りの言語化による自惚れを避けるための指導上の方便という理由もあろう。
だがそれ以上に、悟りの言語化を避けたのは、臨済が自分の体験の概念化に未熟であったからでも指導上の方便からでもなく、禅の理念と体験自体の性質によるものとして考えてみたい。
なぜなら、禅的体験とその言語化が、本質的に相反する事態であることが、臨済自身の発言から読み取れ、さらにこの相反性は宗教心理学的な考察からも裏付けられるからである。
まずテキストの中からこの相反性を読み取って行きたい。
「爾諸方に言道(いう)、修有り証有りと。錯ることれ。
設い修し得る者有るも、皆な是れ生死の業なり。
爾言う、六度万行斉しく修すと。
我れ見るに皆な是れ造業。
仏を求め法を求むるは、即ち是れ造地獄の業。
菩薩を求むるも亦た是れ造業。
看経看教も亦た是れ造業。
仏と祖師とは是れ無事の人なり」22
ここでは修行も悟りも皆、生死流転の業であり、六度万行といった六つの修行の基本条件を踏んで看経看教に励んだとしても、それらは自ら地獄に落ちる業を作っていることに他ならないという。
しかし、繰り返すが、開悟を「娘生下に会すにあらず」という、一見上とは矛盾した見解を採る臨済にとって、修行そのものが本気で厭われるものだったとは到底思われない。
従って、ここでの「修」は修行全般という意味ではなく、否定されるべき修行の行いのみを指していると考えられる。
それは「仏を求め法を求むる」という、目的を対象化して、それにとらわれている形の修行である。
つまり、この「求むる」という心理的態度が、開悟とは相容れない性質を持っているのである。
そして「悟り」とか「仏性」という言葉は、「求むる」という志向的態度の対象として初めて定立する。
よって「求むる」という態度の除去には、修行の目的の言語化の除去という逆説的な条件が要求されることになる。
「道流、仏の得べき無し。乃至三乗五性、円頓の教迹も、皆な是れ一期の薬病相治ず。
並びに実法無し。
設い有るも、皆な是れ相似、表顕の路布、文字の差排にして、且く是の如く説くのみ」23
このように、仏は得られず、三乗教や五性の教え、円頓一乗の教えのような教義も、一時の対処療法でそこに真実の法はない。
この主張は、文字によって仏法を概念として理解することは、経験としての悟りのリアリティーに至ることとは全く別だという、禅の根本的態度とも重なる。
「悟り」として定立され得ないのが本来の悟りなのである。
「道流、文字の中に向いて求むることれ」「設い百本の経論を解得するも、一箇の無事底の阿師には如かず」24という指摘も同様である。
「学人了せずして、名句に執するが為に、他の凡聖の名に礙えらる」25
ここでは概念的理解と執着とが並べて語られている。
古来仏教で戒められてきた苦の原因としての執着は、仏性という価値へのとらわれに関してもあてはまる。
それは凡聖という相対立した価値構造に立脚して成立する。
本来の仏心はこの価値構造の破壊であるから、本来の仏心においては「仏」という価値定立が最早存在しないことが条件となる。
これが「自在」の獲得である。
「但有(あらゆる)声名文句は、皆な是れ夢幻なり。かえって境に乗ずる底の人を見るに、是れ諸仏の玄旨なり。仏境は自ら我は是れ仏境なりと称すること能わず、還って是れこの無依の道人、境に乗じて出で来たる」26
ここでは、客体化された対象は全て声名文句によって定立されており、しかもそれらは実体のないと言われている。
だとすれば、我々が苦悩している物事の価値や愛憎、地位や名誉不名誉などの声名文句も、全て本来は実体がない。
たとえ「仏」においても同じである。
ここには、全ての対象はそれ自体で自存しているのではなく、我々の主観から作られたものであるという、唯心論的な考え方が見られる。
よって我々は、相対的な境つまり諸対象の方に目を向けるのではなく、それら全てを作っている主観のはたらきを見る。
こうした主張は、仏教の唯心論的傾向の表われとして見なすこともでき、またその主張に西洋流の観念論の立場を当てはめて説明できる。
しかしここでは、実は境を全て構成している当体である主観の側にただ認識論的な反省のまなざしを向けることではなく、その主観の隠されたはたらきへの気づきが、重要なのである。
それは観念論の教えをただ頭だけで理解することではなく、全ての境が自在的ではなく相対的であること、その事実に自らが没入することである。
この没入こそが、「臨済の三玄三要」におけるように、「棚頭に傀儡を弄するもの」つまり境を裏で構成している「人」を「看取」すること27であり、「真性の見解」28を得るのである。
テキストを読めば明らかなように、臨済の思想を端的に表したとされる、「三玄三要」や「四料揀」などは、論理的には意味不明である。
これらは「真性の見解」を得るために、各自が自ら解決するように与えられた工夫として理解すべきだ。
これまでのところ、『臨済録』において修も証もなしと言われる理由をまとめる。
(1)最も重要な契機である開悟が、概念として定式化された認識対象となることを徹底的に拒否するため。
概念的理解は開悟を静的な知識として受け止めて満足させてしまう危険性があることに加え、概念化は価値の固定化に関係する。
反対に本当の開悟は、それまでの価値の相関構造の破壊を条件とするので、価値として定立された開悟は、全ての価値の脱価値化と全く相容れない。
仏も仏でなくなり、凡聖も凡聖でなくなる。
(2)修や証を「求める」という態度が、開悟において体験される、或る種の心理的状態とは根本的に相容れない面を持つため。
悟りは固定化された概念ではないということは既に(1)で示された。
しかし、何か目標を定めてそれに向って追い求めて行くという、自ら対象に対して能動的にはたらきかけるという意識的な精神状態は、開悟に必要な精神状態とは相反する。
自分の意志ではない力によって不意に開悟は訪れるのである。
「無事」の世界観とはただ何もせずにいることでなく、あらゆる物事にとらわれず、従ってどんなことにも動じない、全ての逆境をはねかえす力を備えたものである。
臨済の語調は高みから人をさとすような偽善じみたものではなく、むしろあらゆる見かけのやさしさを一刀両断にする毒舌に満ちている。
それは、人間の最も弱い部分や醜い部分にいつも具体的に関わりながら、同時にいつもそれを乗り越えた視点を持っていることである。
つまり、弱い部分を安易に癒すのではなく、それを認めた上で、その弱さの原因となっている我執を裁断してゆくのである。
このような強さは一種の人格変容のごときものによって獲得されるのであり、それに伴って、今まで自分をとらえ、気掛かりや理由のない不安に陥っていた世界が変容してくるのである。
ここには(1)における、体験の重視はもとより、その体験が《この私》という自我意識を越えた力によってなされることが見られる。
これが(2)において問題になることである。
自我自身の能動的な努力だけで、物事の見え方が一変するほどの人格変容を起すことはかなり難しい。
能動的な努力は自分を今の状態と変えてしまうのではなく、むしろ自分の今の状態から全ての物事を見ようとするからである。
第三節 開悟の心理構造
ここで、(2)で問題化された開悟の心理構造について若干の仮説を立ててみたい。
A 開悟には、自発的に自らを鍛練する修行も、不可欠な条件にはなる。
しかし最終的には自発的自我だけではなく、それを包み込むより大きな受動的体験が訪れることを必要とする。
この受動的体験は、自我の意志とは直接には無関係に生ずる。
つまり開悟を起す心理的要素は受動的な力で、修行のときに自らを鍛練しようとする自発性とは質的にかなり区別される。
B よって、この受動的な力は求めようと思って求められるものではなく、むしろ自発的意志が尽きたところに、ふとしたはずみで自ずと訪れる。
よって仏法の概念化や、仏を求めることは、我々をこの受動的作用に近づけるどころか、かえって遠ざける。
白隠や西谷が言う自己への問いも、「己事究明」から出発する限り、一見Bの受動性とは相容れないように思われるかもしれない。
しかし「疑団」や「大疑」と化した問いは既に自らの意志によって引き起こされているのではなく、問いの方が意志とは無関係に膨れ上がり、まさに「黒漫漫地」とした仕方で自己と世界とを逆に覆い尽くしてしまう。
従ってここまで大きくなった問いの塊は、もはや自発的意志によってはどうにもならない。
こうなって初めて悟りがその一歩手前まで準備されるのであって、ここまで来ると、「疑団」に入る最初のきっかけに反して、最後の方では自発性は極めて無力なものとなってしまい、それを覆すにも自己ならざる何かを必要としてくる。
ここで、宗教心理学的な視点から議論を再検討してみたいと思う。
この視点にも様々な立場があるが、一言で言えば、宗教を人間の主観的な経験として、特に個人の内面性の中に読み取って行こうとする立場である。
これはもともとキリスト教圏において実証的宗教学の一つとして登場した立場であるが、その見方はキリスト教以外の宗教を研究する場合でも有効であり、現にそこから東洋の諸宗教に対する研究もなされてきた。
禅に対してこの見方が有効であるのは、第一に、「不立文字」を掲げる禅の立場が、仏教の教典解釈からだけでははかりにくいからである。
それどころか、「道流、山僧が説く處を取ること莫れ」29とつけはなすほどまで、実際の経験や「自知」は己れ自身でしかできない旨が強調される。
禅問答で発せられる言葉は、一般に殆ど理解不能であるし、論理的には全く意味をなさない。
つまり言葉の裏で動く内面の様相を見なければ、禅の本質は研究し得ない。
第二に、宗教経験による人格の変容など、宗教心理学が扱ってきた主要なテーマは、禅の中にも多くの共通性を持つということである。
例えばC.G.ユングは自らの分析心理学の見地から、宗教を以下のように定義する。
「宗教は疑いなく人間の魂の最も原初的で普遍的な表れであり、それゆえ以下のことは自明である。
それは、人間の人格的構造に携わるあらゆる種類の心理学は、少なくとも宗教が社会的または歴史的現象であるばかりでなく、また多くの人々にとって、重要な人格的事態をも意味するという事実への注意を、避けるわけには行かないことである」30
これは宗教を、人格の最も根源的な変容としてとらえて行こうとする立場である。
魂という言葉には、必ずしも実証的な態度によって客観化された観察対象だけに限定されない響きも含まれる。
また、この魂とは当人の意識が必ずしも反省可能で、自ら知ることのできる領域のみを指す言葉ではないということにも注意する必要がある。
開悟とは、生死輪廻のうちで苦として見出されるもの全てが、その苦の根拠さえ剥奪されて生まれ変わることであり、この変転は、今まで知られなかった世界の出現であると同時に、知られざる自己の出現と相応する。
従ってBでも問題になった通り、この現出の変転を引き起こすには、この知られざる自己、とらえ難き自己のはたらきが問題になる。
宗教経験における内的な変容を重視したユングやW.ジェイムズは、これを彼等独自の定義における、無意識や潜在自我のはたらきからとらえようとしたが、ここではそれらの概念の性質から、禅を分析するにあたって有効な面を取り上げ、検討してみたい。
開悟の体験で、この意識領域が関与する性質には、少なくとも以下のようなものがあると考えられる。
@ 通常の意識的な自我からは見えず、自己のうちにありながら、前者の自我からすると他者でしかないという性質。つまり「自己ならざる自己」というべき性質。
この性質に関してユングは、大拙の著作の独訳版序文として1939年に書いた、「鈴木貞太郎大拙への序文 大いなる解脱」の中で、禅の妙用についてこう述べている。
「この《他なる》作用はもはや自身のはたらきとしてではなく、非−我(Nicht-ich)の作用として感じとられる。 意識にとってその作用は客体なのである」31
潜在自我の他者性について、同様の趣旨のことをジェイムズは、その『宗教的経験の諸相』において、について次のように記している。
「それは(意識の)周辺の外にあり、第一義的意識の全くの外側にあるが、それでも或る種の意識的事実として区分されねばならず、その現前は間違いのない徴候によって暴露され得るのである。」32
ジェイムズとユングの心理学的見解の相違は様々あるが、無意識や潜在意識を自我とは区別された隠れたものととらえ、それらが宗教経験に与える豊富な役割を重視した点では両者は共通している。
そして誤解されやすいことだが、両者とも、無意識的な領域を、性欲などの《いわゆる》本能的な欲求の源としてとらえたのではなく、むしろそれを覆してしまうもの、もしくはそれをより昇化された形に変容させて行くものとしたのである。
A この意識領域は意識的自己が外や内に「求著」して得られるものではないという性質。
少なくとも修行の或る段階で不意に発現してくるのを待つしかない。これは自己の本質とも言われない。
本質という概念にすると即自己の「求める」対象となってしまう。
『臨済録』では、「人」の当体の一側面は次のようにも語られる。
「心を擬すれば即ち差い、念を動ずれば即ち乖く。 …擁すれども聚らず、撥すれども散らず。求著すれば即ち転た遠く、求めざれば還って目前に在って、霊音耳に属す。若し人信ぜずんば、徒らに百年を労せん」33
仏を求めたり、修行に何かを期待したりすれば人の当体はするりと抜け出てしまい、既にそこには真の開悟はない。
言い換えれば、何かを対象として求めたり概念としてとらえようとすれば即それは顕在的意識の作用となり、無意識の妙用から遠ざかってしまうのである。
反対に、求めるのを止めたとき、その妙用はおのずからはたらき出す。
霊音というのは、無意識のはたらきが意識されざる仕方で動くため、不可思議な響きを携えた一種の内なる他者のように感じられる様を示している。
修行においても、霊音や見神のような神秘体験が存在したことは容易に想像がつく。
しかし、それらを言葉に出して意識作用の次元に持ち込まないことが、まさしく禅の特色なのである。
『無門関』では、南泉と趙州は次のような問答をしている。
「南泉、因みに趙州問う、『如何なるか是れ道』。
泉曰く、『平常心是れ道』。
州云く、『還って趣向すべきや』。
泉曰く、『向わんと擬すれば即ち乖く』。
州云く、『擬せずんば、争でか是れ道なることを知らん』。
泉曰く、『道は知にも属せず、不知にも属せず』」34
ここで言われている「道」を、仮に無意識を含めた妙用とし、「擬」すことや「知」を意識的自己のはたらきとしてみる。
すると道は、知の地平にはないことは理解される。
ではそれを「不知」と言えるのかというとそれも不可能である。
知、不知は論理で区別できる地平の事柄だが、道はその地平には存在しない。
しかも、その論理の及ばない次元について、文字通り語ることもしないのが、この問答の特色である。
B しかし、無意識の作用を妙用と呼ぶことができるのは、ただそれが意識の支配下に置けないからではない。
問題はその作用が、意識的にはできない巧みな技を果し得る性質にある。
次の引用は、1920年代に東北帝大のドイツ人哲学講師であったオイゲン・ヘリゲルが弓術の極意について、自分の師匠が語った言葉を記したものである。
「あなたがそんな立派な意志をもっていることが、かえってあなたの第一の誤りになっている。
あなたは頃合よしと感じるかあるいは考える時に、矢を射放とうと思う。
あなたは意志をもって右手を開く。
つまりその際あなたは意識的である。
あなたは無心になることを、矢がひとりでに離れるまで待っていることを、学ばなければならない …術のない術とは、完全に無我となり、我を没することである。
あなたがまったく無になる、ということが、ひとりでに起れば、その時あなたは正しい射方ができるようになる」(強調原典)35
この、無心の不可解さに対して、ヘリゲルは尋ねる。
「無になってしまわなければならないと言われるが、それでは誰が射るのですか」36
禅の問題は、頓悟を掲げつつも、実際、その一回性が必ずしも決定的なものとならない点である。
だがユングにおける臨床上の現実問題から見れば、完全な頓悟と治癒は殆ど理想の領域のものとして考えられるのである。
さらに師匠はこう答える。
「あなたの代りにだれが射るかが分かるようになったなら、あなたにはもう師匠が要らなくなる。
経験してからでなければ理解のできないことを、言葉でどのように説明すべきであろうか。
仏陀が射るのだと言おうか。この場合どんな知識や口真似も、あなたにとって何の役に立とう」37
しかも彼は、なかなか正しい射方ができるようにならないヘリゲルに対してこう続ける。
「あなたは無心になろうと努めている。つまりあなたは故意に無心なのである。それではこれ以上進むはずはない」38
ここでの弓術における極意としての無心と、上で臨済の言う、「心を擬する」態度への戒めとの類似点は明らかであろう。
日本の弓術は大拙なども指摘するように、武士道の心構えの中で、禅からの影響を色濃く受けている。
そしてこの無心とは、死人のように心が全くないことではなく、自己の内に隠された、より巧みな能力を発動させるために、その発動の妨げとなる煩瑣な自我意識を一時消去してしまうこととして考えられる。
それは自我による余計な計らいを消し、しかも最高度に集中しているという霊妙な《遊び》のような状態を導くことである。
しかしこの自我を越えた心を何かの形や言葉で提示すれば、たちまちそれは自我意識の対象となって、反対にその心の真の発動の妨げになってしまう。
「故意に無心」とはこれである。禅における「自知」とは、こうしたパラドックスを乗り越えたところに初めて成立する。
経験を言語化しないことには、頭で悟りを理解した気になったり、修行に自惚れないようにする指導上の方便だけでなく、真性の経験の妨げとなる自我のはたらきを控えさせるという、心の本質的構造に根ざす理由がここで考えられてくる。
臨済が開悟を主題化に語らず、「無事」という一見不可解なこと
を繰り返し述べている理由も、このような仮説から見直すことができるだろう。
C「自己ならざる自己」の領域が通常の自我の領域より広く、それを圧倒的に覆い隠すほどの力と質的転換を発揮できるエネルギーを潜めているという性質。
これまで論じたことからは、この知られざる自己の、逃げ水のような性格は理解できても、なぜそれが悟りという、全人格的な変容をつかさどり得るのかということは不問のままだった。
しかしこの決定性は、そこで初めて開悟の問題が人間の実存に関わる段階へと至ることができるという点で、極めて重要な意味を持つ。
この転換によって、それまでの自我が苦しんでいた生死の問題さえなくなってしまう必要がある。
「宗教とは …恣意的作用に起因しない力動的存在またははたらきについての、入念で良心的な考察である。
そのはたらきは恣意に起因しないどころか、逆に人間の主観をつかみ、支配する。
主観がそのはたらきを作るのではなく、主観はその犠牲になるといった方がはるかにふさわしい」39
主観が物事の価値や世界観を規定し、またそこにおいて実存的不安や虚無といったことが作られているとすれば、理念上その主観を転倒させ執着を消去できるならそれらも解消されることになる。
それは、その主観が一度徹底的に死なねばならないことであると同時に、この主観にとっての世界を完全に無効にせねばならないことである。
つまり虚無さえ意味がなくなるまで、無を徹底させることである。
禅を一つの思想を伴った運動として見ることが許されるならば、禅はこうした考えを、理想という形ではありながら持ち続けていたと言える。
次章ではこうした無の徹底の構造について考えて行きたいと思う。
第二章 絶対無と空
第一節 否定の徹底
仏教一般、特に禅において不可解なのは、一切を否定して行った果てに涅槃を見る考え方である。この涅槃を「無事」と言い換えることも許されるだろう。
それは現実から超越した絶対者をして、現実の根拠とする立場とは、構造上全く相反しているように思われる。絶対者はあらゆる可変的なものの中でも絶対不変性を保つと考えられるからである。
先に我々は、全ての価値あるものへの執着を取るという言い方をしたが、それは取ろうとしてすぐに取れるほど安易なものではない。
また、取るべき対象がすぐ目の前に見えているのでもない。
この執着を取るという言い方の中からは、一見すると価値的に低い現実を離れ、そことは区別された聖なる場所に安心を求めるという意味が感じ取られる。
その聖なるものは神、または絶対者とか究極的な実体、さもなくば何か我々より高きものと考えられたり、またはこの聖なる世界が涅槃であるとさえ、一般には思われるかもしれない。
しかし禅における一切否定では、こうした聖なるものさえ一度全て否定する必要がある。
つまり、現実の卑しくネガティブな状態から区別された、聖なるポジティブなものによって現実を肯定するのではなく、
逆に聖なるものの根拠なきを徹底して受け止め、その無根拠の中になお、というか無根拠の中にこそ或る種の肯定の姿をとらえて行くのが仏教、特に禅の立場である。
しかもこの肯定は、既成の絶対者が崩壊した後、新たな絶対者が再び登場することによって成されるのでもない。
これでは一つの根拠がなくなったから、また別の根拠によってそれに代替させたというにすぎない。このような代替
は全て、結局は根拠の相対性を暴露するものにしかならず、根本的な解決にはならないからである。
従って無根拠の中に肯定を見ることは、これとは全く質の異なったものでなくてはならない。
こうした肯定のあり方を問うことが本章での課題である。
そこでまず、『臨済録』における否定の記述から見て行くことにしたい。
仏性を、価値ある特定の相の内に認めようとする態度は、次のように批判される。
「爾言う、三十二相八十種好は是れ仏なりと。
転輪聖王も応に是れ如来なるべきや。
明らかに知る、是れ幻化なることを。
古人云く、如来挙身の相は、世間の情に順ぜんが為なり。
人の断見を生ぜんことを恐れて、権(かり)に且く虚名を立つ」40
如来挙身の相の否定は、仏を像に表して崇拝したり、仏を姿形において思い浮かべるという行為の否定を意味するだけにとどまらないと考えられる。
これでは、どこかに仏という実在があって、それを形によっては表現できないという意味になってしまうが、こうしたことで「断見」、即ち絶対的なものの不在による絶望が生ずるのではないからである。
仏という実在がどこにもないことに気づくからこそ、絶望、虚無が生ずるのである。
そして、仏の姿や形を仮に表現することは、我々に絶望を生じさせないための方便にすぎず、実はそのような仏などどこにもないというのが、ここでの臨済の主張ということができる。
「仏は今いずれにか在る。明らかに知る、我が生死と別ならざることを」41
このように、仏は不滅の存在ではなく、死すべきものなのである。
このような、一見、崇拝すべき実在の不在を記す記述は、語録に遍在する。
禅では、世界各地の神秘体験の記述に見られるように、神の霊を見たという類のことは言われない。
それとは全く逆に、霊的なものに対するこだわりさえ脱し、求めるべき仏がないことを心の底の底から看破したところに、初めて涅槃が開けると言われる。
霊的なものからも脱するという事態については、さらに考察が必要だろう。
だが、この求めるべき仏がないことを、もっと過激に表現すると以下のようになる。
「裏に向い外に向って、逢著すれば便ち殺せ。
仏に逢うては仏を殺し、祖に逢うては祖を殺し、羅漢に逢うては羅漢を殺し、父母に逢うては父母を殺し、親眷に逢うては親眷を殺して、始めて解脱を得、物と拘らず、透脱自在なり」42
これは有名な殺仏殺祖のくだりである。
一見すると、敬虔な仏教徒の立場からは、とんでもない悪態に思われて然りである。
最も尊ぶべき神聖なものをも殺せとは、無鉄砲極まりない人間の思い上りと思われても文句が言えない。
従ってこの発言は相当に思い切ったものだったであろうが、それだけ重要な意味を込められていたことも想像が可能である。
ただの逆説的な挑発だったり、仏法を言葉の上だけで理解するなという程度の戒めであったら、これほど強い口調はとらなかったと思われる。
現に仏を含めた何にもとらわれない態度を標榜する禅の特色は、「禅家流、軽薄を愛す」と、皮肉を言われて来たのも確かである。
この点で、禅が本当に宗教上の軽薄に陥る危険性は確かにいつも潜んでいる。
従って殺仏殺祖とは、信仰における仏祖の問題を全身において真剣に受け止め抜いた後、なおそこからも一歩脱するという意味でなくてはならない。
つまり、心の底から尊び、そこに依存しているものさえ脱却せよ、という真剣さを徹頭徹尾踏まえた意味でなければならない。
こうして初めてこの言葉は宗教上重要な意義を帯びてくる。
それは理想的なものを全て空ずること、自らが依存すべき何ものも残らないところへ、自分自身を丸ごと放り出すことである。
すると、自己は自らを支える何の基盤も持たず、このときは、全ての事柄に積極的な意味はなくなってしまうことになる。
例えば、「神は死んだ」という象徴的な文句は、物事のあらゆる移り変りの中でも不変を保つものや、目指すべき究極の目的といった考え方が崩壊し、ただ機械的に、施す術もなく回転し始めた近代文明を象徴している。
従って「神の死」は、これまで万象に意味を与えていた不変者の崩壊であり、一切の物事に意味を与えていた根拠がなくなることによって生じる虚無である。
「殺仏」という事態も、全く同じ次元に並べることはできないが、一旦はこれまで信じていた根拠の消去を強いてくるものである43。
これは安易に物事の無根拠を主張したり、ニヒリズムを口先で唱えたりする態度とも全く異なる。
そうした態度は、実はその口先のすぐ裏にある確固とした常識にしっかと足を据えている自分に気づかないことが殆どだが、
全身全霊をもって受け止められた、実存的な空虚としての「神の死」の次元では、自己はもはや今までのように確立された自己として存続することさえ不可能となる。
なぜなら万象の根拠は、その中で生きる自己の根拠とも重なり、その崩壊は自己の崩壊とも一つだからである。
よってそこでは自らを観察する冷徹な自己や、ニヒリズム自身にも無感動になった自暴自棄のような諦念も存在しない。前者
ではニヒルな自己自身への陶酔が要求され、後者では自暴自棄という態度の中に現れる自己へのこだわりが必要だからである。
根拠の崩壊は、本論の最初で述べたような、心理的現象としての「大死」直前の思想的内実を作っているものと類似しているように思われる。
ただ、崩壊の克服ということが問題になる場合、それには区分が要求される。
例えば「力への意志」という仕方でのニヒリズムの克服と「大死」とは若干区別が必要であろう。
なぜなら、「意志」による克服が、永遠回帰を全身で受け止め、さらにそれをもはねかえす超人的な力によってニヒリズムを乗り越えて行くという運動、
つまり「無を意志する」という生の能動的積極的運動と考えられるならば、それにはまだ虚無に対立するものとしての生の能動性という考え方が残り、この虚無を乗り越えようとすることにおいてまだ虚無にこだわった生が残存する可能性があるからである。
それに対して「大死」では、無の只中で、無を乗り越えようとする意志すらも一度死ぬことが強調される。つまりこだわりの自己のかけらも、その根底の崩壊とともに崩壊しなければならないのである。
「意志」では、今まで絶対になくてはならないものがなくなったという、マイナスの方向性の極致としてニヒリズムの深淵が裂かれ、しかも、その深淵をもさらに克服するものとして、意志と生への最終的信
頼が置かれた。だがこうした克服の仕方では、生の能動性、積極性に対する虚無という性質は、たとえ克服が成功した後でも完全には転覆されずにあり続け、従って生と虚無との二元的対立はそのまま存続し続ける可能性が残る。
それに対して「大死」では、仏祖なき断見の極致における深淵から虚無が開かれるのと同時にして、その虚無をそもそも虚無としている自己自身を無にする、根底からの転覆が導き出されなくてはならない。
この自己を無にすることは、虚無をも虚無としないということであり、そこでは生と無との二元的対立は消滅する必要がある。
言い換えれば、虚無という意味での無が、生と相対的に対置される限りで存在する無であるのに対して、「大死」においてたどりつく無は、無も自己も無いという意味での絶対的な無だと言える。
この自己の無は、既成の価値の無意味が暴露された後、意志の弱さゆえにその無意味さを乗り越えることができず、残存する小さな価値に甘んじて生きるものでもない。
そうした残存からさえ、完全に死ななければならないのである44。
第二節 絶対無と空の論理
するとここで、断見の後で生じた虚無自体の側までが、一つのアポリアに行き着いてしまうことに気づかされる。
この虚無とは、今まで超越の次元に属していたものが、不信と疑いの中に巻き込まれることで生じた。
従ってその虚無とは、不変なるものが存在するがゆえに、それとの対置によって生じる無であった。
自己が虚無にさらされるということも、今まで自己を根底から支えていた絶対者の消滅に起因することであった。
するとこの虚無は、超越者との対置が最初から無かったとしたら、果して生じ得たものだったのだろうか。
無いということは常に、本来有るべきものが無いという意味を込めて使われると考えられる。
ところで、絶対者もなく、それによって意味を与えられる世界も自己も、その根底において虚無であることが本当に徹底して認められるならば、そこには本来根底を持つべき、とされるものは何一つ無いことになる。
これは真の一切否定である。真の一切否定はそこに肯定され得る何物をも含まないために、おのずから否定という意味さえ剥奪されてしまうことになる。
つまり一切否定を徹底させるなら、それはおのずから一切肯定に転じざるを得ないことになるのである。
例えばニーチェのディオニュソス的肯定について、「一切が仮象であるところにおいては、仮象性は意味を失い、一切はあるがままに肯定されざるをえないという考え」45として解釈する説があるが、この一切否定から一切肯定への転換は、まさに形式上はこの事態と一致する。
ここでの無は、何か肯定的なものに対置されるものとしての相対的な無ではなく、もはや対置されるべきなにものも存在しない絶対的な無、即ち空と呼ばれるべきものに相当する。
そこからは、自己を含めた世界の一切は、否定から肯定へと自動的に転じることになる。
しかも、この転じ方の中ではニヒリズムを生き抜く強い生だけが肯定され、弱い生が蔑まされるのではなく、あらゆる生の姿を含めた一切が、そのあるがままで肯定されるのである。
我々が通常の意味で考える無とは、ポジティブな意味での存在者を否定、虚無に葬るという限りでの無である。
仏や祖もこの類のポジティブな存在者である。
しかし、上で考察したような「大死」における無とは、ポジティブな存在者のみならず、その土台を危うくさせるネガティブなもの、つまりこのポジティブな存在者を無意味化するという無も無効にする。
この点で通常の無より一層徹底的である。
通常考えられる無では、その無に対置される何かがまだ残存し続けるのに対して、「大死」における無は、こうしたポジティブ、ネガティブという対立を成立せしめている根拠の彼岸まで到達し、この対立自体を根こそぎにしてしまう。
それは善きものとか、積極的な性質の存在者を虚無に葬るという一方向的な否定にとどまらず、それと対立する悪を無にし、存在者を虚無にするという意味での無をも空じる地点にまで到り、
そこでの有も無もない絶対的否定に撤することによって、その否定がそのままの形で絶対的肯定と相即することである。
従ってこの否定即肯定の世界では、一切の価値あるものと価値なきものとの対立も意味を失う。
なぜなら対立項の一方は、他方の項にとらわれることによって初めて生ずるにすぎないからである。
「便ち能く凡に入り聖に入り、浄に入り穢に入り、真に入り俗に入る …外には凡聖を取らず、内には根本に住せず」46
聖や浄が尊ばれるからこそ凡や穢が捨てられるのであり、聖と凡、浄と穢などの区別を成り立たせている価値基準や、様々な事柄に意味を与えているカテゴリーそのものが無くなれば、浄の対立項としての穢、穢の対立項としての浄という区別が根こそぎ無意味化する。
この構図が生死の問題にも敷衍されるなら、死後も魂は存続するという見解は仏教の真髄はない。
さらに死後は虚無であるとする立場も、生の対立項として死を考えているためのもので、一切がその根本において滅ぶべきものとすれば、死だけに虚無を集約させることに意味はない。
生も死も本質的に絶対の虚無だとすれば、生も死も本質的に虚無でないことと同じになる。
道元の「生や全機の現、死や全機の現」47という、生も死も全体の部分ではなく、各々がそれだけで丸ごとだとする立場も、同様である。
死後に存続を求めるのではなく、生死がそのままで涅槃である。
こうした、否定の極において否定がおのずから無意味化される構造は、全く逆に肯定の極において肯定自らが無意味化される構造とも類似している。
宗教的神秘主義に見られる「神は無である」という言明は、至高の実在としての神が、その至高性ゆえに、どんな言語によっても表現不能であることを示している。
つまり何かの言葉で神を規定したとたん、その規定によって神は既に何らかの限定を受けていることになってしまうからである。
神秘主義では聖なる光景やキリストの想像で心を占領させる訓練をするケースが多い。
つまり概念や言語より、感性的心像が遥かに重視されており、この段階で既に言語による表現不可能性は妥当している。
これはよく議論されてきた事実である。
しかし「神の無」という事態がもっと的確に当てはまるのは、聖なる心像で心を飽和させる修行を続けると、或る段階に至って、その心像さえも全く消失してしまう場合だと考えられる。
この段階になると、神が単に概念対象として不適格であるとか、もしくは神的経験の直接性が重視されるために表現不能なのではなく、神の心像の消滅と一つにして、自己の意識も消えて無くなってしまうからこそ、神は表現不能となるのである。
たとえばW.ジェイムズは、「最高度の恍惚状態においては、知性と感性はともに消し飛んでしまう」と言う。
続けて十六世紀スペインのカルメル会の修道女テレサの記述を用いて、神的体験の瞬間の状態が、「全ては神秘であり、私自身はその中に没してしまうことを告白する」48と述べている。
つまりそこではただ絶対者としての神のみがあり、神を神として認識する自己も、神に対して従属するこの世の事物も存在しない。
しかし、神が絶対者として有るとすれば、それは絶対者ならざる自己や世界の諸事物との対立においてのみそう成り得るのだから、神に対するものがもはや何も無いところでは、その絶対性や、有るという繋辞も意味を持たない。
従ってそのとき、絶対者が有るということと、反対に無いということの間には、何らの相違も存在しない。
クザーヌスなどに見られる「対立の一致」という考え方は、この全ての対立する言明の無意味化を簡潔に示していると考えられるが、この無意味化を突き詰めれば、神以外の諸事物同士の対立が消滅するのみならず、この消滅は神と世界、神と自己という問題にまで及ぶ。
これを言い換えれば、絶対的な一者という固定された地点をなおも突き抜けること、「神を突破して神性の無へと徹底」し「合一からの脱落」へと「突破」49することとして表現することも許されるだろう。
ここまで来てようやく、神への肯定は肯定も否定も無いということになり、先に問題になった、虚無の先にある虚無自体を無効にすることと構造上重なってくる。
だが、論理としては両者の無は重なるとしても、やがてこの神秘主義におけるような肯定からの無は再び、先の否定からの無と、相違をきたすことになる。
確かに、神秘主義に見られる合一から脱落への瞬間と、禅の大死とは、その瞬間だけを見れば、体験としても類似している。
しかし、特に実際の体験後の生活という問題になると、両者は再び異なってくる。
端的に言えば、キリスト教的神秘主義では体験の後も、神への信仰と依拠、そこから導かれる幸福な生活の到来という、自己とは区別された神への確信が存続し続けるのに対して、禅の大死ではそうした他者への依存性が消滅していること、
つまり「仏祖の圏をも越えた処で自己自身によって確かめられる自己存在の確かさ」50が中心となっている点に根本的な相違が見られるのである。
主としてキリスト教圏から回心の事例を収拾したジェイムズは、その体験時における感情の第一の特徴に、何か外部からの「高い力の支配という感じ」51があり、これがその後の教義への信仰の確信を支えるとしている。
この感情は客体的なものへの信仰に結びつかない場合もあり、その点、禅とも矛盾しない無相の感情的変化のみが起ることもあるが、多くの場合形ある対象への信仰という仕方をとる。
神秘主義の無が、「超有としての有、究極の実体性に由来」52し、その実体性を形容するための「無」であるのに対して、禅や大乗仏教一般の無を、「実体性の高揚ではなく、逆に実体性の全き空解」53として厳しく区別する見方は、論理的にそれを読む限りは正しいと考えられる。
しかし心理的に、そうした全く自己以外のものへの信仰を持たず、しかも「無事」である無相の自己が如何にして可能になるのかという疑問はまだ残る。
このような疑問は、絶対の無が、有と対置され客体として現前する虚無ではなく、もはやそのような有に対する否定という消極的な機能さえなくなった空としてはたらくことが、具体的に生きられた宗教経験の現場においていかに可能となるのか、ということである。
無が虚無として現れるには、有としての自己が自身を虚無と対置するという隠された構造が前提になることは既に確認した。
すると次に、自己が虚無を徹底的に生き抜くことで、この対置の構造さえ意味がなくなり、従ってそもそも虚無ということや生死ということが問題になる、それ以前のところまでさかのぼるという事態が、経験としてどのようにして可能になるのかが問われるのである。
この対置の構造によって虚無が成立しているならば、論理的にはこの構造における対立項の一方を消去してやれば、おのずから虚無は問題でなくなる。
しかし具体的な生の経験においては、そう割り切れない部分もある。
例えば虚無は必ずしも自己の対立項となるような、明確な対象として現れているわけではない。
恐怖にはまだそうした明確さがあるが、不安などは特定の場所を持たず、どこからともなく不気味にただよい、全ての存在者の根源的な虚無性を暴露してしまう。
「虚無は対象として与えられるような存在物ではない。したがって知解 (erfassen)はされない。
不安を感ずることは不安の知解ではない。
むしろ、存在するもの(存在者)が全体として我々から滑り落ち、遠退いたものになってゆき、
異様なもの (Befremdlichkeit)の相をもって来るとき、しかもそのように遠退いたものとして我々に迫って来るとき、虚無は存在するもの全体と一つに、不安の中において出会われるのである。」54
こうして、虚無が特定の場所において現れるのではなく、存在するものの「全体と一つ」において出会われるといわれるとき、虚無は対象ではなく、そして不安という実存的な感情は虚無の媒体として全てを包み込む 55。
これが、虚無は「存在するものに対する否定ではない」56といわれる所以である。
「無は、存在するものの存在が顕わになることを可能にする。
無は存在そのものの本質に根源的に属している。
無が顕わになること、無の「無化」(Nichten)は、存在するものの「存在」のうちで生起する。
即ち、存在するもの全体が崩落的 (hinfaellig)なものとして顕わにされ、その直中に存在する人間存在は不安のうちにある。」57
自己や絶対者の存在を揺るがす虚無とは、普段は存在するものの背後に隠されている「存在」を顕わにさせ、この「存在」が根源的にその虚無の中に取り込まれていることを暴露する。
我々はこの虚無には全く対処のしようもなく、それは極めて運命的な必然性を伴なって、人間存在を含めた全ての存在するものを崩落させてしまう58。
しかし、我々が見てきた、虚無を空じるという課題においては、こうした対処のしようのない虚無や不安をも、その根底において消滅させるところにまで至らなければならない59。
このためには、この虚無を空じることが、自己の経験において如何になされるのかを、その生の内実に具体的に則った視点から理解してゆかなければならない。
これは空という事象を、その論理的構造というよりは、自己の生きられた心的経緯としてとらえようとすることである。
禅が「冷暖自知」に見られるごとく、一種の経験重視の立場であるなら、この無相の自己への突破を、単なる論理ではなく、心理的経験のプロセスとして解読することも重要になるのではないか。
第三節 空の経験と阿頼耶識
禅における一切否定から一切肯定への心理的プロセスは、しばしば人間の生の最根源としての阿頼耶識の概念をめぐって語られている60。
ここでは、この第八含蔵識の概念から考察されたこの心理的プロセスを、ユングの集合的無意識の概念を参照しつつ検討してみる。
しかし次に、両者の大きな相違点も指摘しておかなければならない。
それは、ユングは経験者の世界観の全体に影響する宗教的イメージを、
それが善なるものであれ悪しきものであれ、集合的無意識の内容である「諸元型」の発現に見ているのに対して、禅における大死から大悟への過程は、「第七識とともに第八識をも突破」62することだとされる点である。
従って集合的無意識に至ることと、それをも突破するということにおいて、両者の宗教経験は、形式上決定的に異なることになる。
集合的無意識からは、人間の根底にある原始的な神話表象や、様々な霊的イメ−ジが生じてくる。
従って、禅の立場が「仏祖の圏も越え」ることであるなら、この無意識での出来事にとらわれることからも脱却せねばならないのは道理であって、それはあらゆる実体性を「空解」させ、「円成実性」に至る仏教の基本的考えとも重なる。
しかし、この集合的無意識をも突破することが果たして可能なのかということが大きな問題なのである。
この問題は、禅で言われる「無相の自己」なるものが果たして現実に可能かという、まさしく当該の問題と重なる。
だが、「自己(A)に死して真の自己(B)によみがえる」という心的過程は、(A)の自己がよりどころとする実体性の空解が、上で述べた禅の教義程には徹底化されなくても生じているのが実際である。
(A)の「自己」はユング流には「自我」(ego)で、(B)の「自己」こそが自我と無意識を含めた全体性である Selbst と呼ばれるものだが、
(B)では自我へのとらわれは問題にならず、むしろ自我と、その自我のとらわれを飲み込む性質がある。
自己(A)に死して神の生命によみがえるとはこうした事態である。ここでは「自我」がこだわっていた実体性などを「自己(B)」が丸ごと葬り去る。
ユング自身、大拙の論文が独訳されるにあたって、その序文として1939年に発表した文章の中で次のように述べている。
「この(無意識的)素因からの応答は常に全体性の性質を持つ。なぜならそれは、虚妄分別的意識に分割された性質には何ら相応しないからである。
ゆえにその圧倒的な作用がある! それは予期されず、包括的で完全に啓発的な応答であり、それが啓発や啓示としてはたらけばはたらくほど、意識は逃げ場のない袋小路に葬り去られてしまう。」63
これは「無意識の中における他我の存在を説明するもの」64でもあり、この他我が発動したときには自我は無きに等しいものになってしまう。
しかし、この他我となり得る集合的無意識を「あくまで生きようとする生の深い自己執着を根本とした立場」65だと断定する禅からの意見もある。
だが、これには少々無理があると言える。阿頼耶識は生への執着の根源として仏教では考えられているのに対して、分析心理学で考えられる集合的無意識は、執着などを越えた面も持つからである。
また、殺仏殺祖に見られるように、禅の大死があらゆるイメージをも空ずることであるのに対して、集合的無意識はあくまで霊的なイメージの世界であるのは顕著な違いである。
そして禅の窮地は「「集合的無意識」をも含んだ上での窮地」66であることは確かで、大悟や解脱はそこからも踏み出さなければならないことが理念として要求される。
この踏み出しが可能かどうかは、集合的無意識に由来する圧倒的な悪や恐怖のイメージを、同じ無意識に由来する善や救済者のイメージがどこまで駆逐できるのかが現実的な課題なのに、それら二つ共に同時に全て消滅させることが果たして可能なのか、ということでもある。
少なくともここでは集合的無意識に由来するプラスとマイナスの要因を共に全て消す力が必要なのである。
従って、上のユングの引用における、「袋小路に葬り去られ」る自我の「意識」の範囲(p)と、それを葬り去る無意識の「圧倒的な作用」(q)との関係は、次の二通りのレベルから検討されなくてはならない。
(1)(p)が自我とその周辺意識、もしくは個人的無意識に属する内容であり、それが(q)としての集合的無意識に属するものによって覆されるという関係。
己れの無力の痛感によって、知性を断念して信仰に道をあけるという立場や、自己に死して神の生によみがえるという立場はここにある。
この再生においては、神的なものの実在性が確信となって経験者の中に生き続ける。また漸次的な悟りと言うのも、こちらに属するだろう。
(2)(p)さえ既に集合的無意識まで含んだ内容になり、その内容をも無にしてしまう出来事として、(q)が生ずる場合。
ここでは神の生からもさらに死することが必要となる。それは、実体性を高揚させるために、表現上「無」という言葉を用いることではなく、実質的に神からも自分の生にも全て死する立場である。
禅の大死から大悟への過程は理想的にはここに属す。
問題なのは、(2)において、集合的無意識で生ずる根源的な悪や善のイメージさえ空ずるとされる、「無相の自己」とは如何なるものか、である。
一つユングに即して考えるならば、集合的無意識の底にある元型とは、それがイメ−ジとなって現れた個々の具象的な表象によって暗示されるにすぎないものであり、元型自体について我々は全く「知ることはできない」67。
この元型とその表象との区別は、「カントの物自体の概念にならったもの」68とも言われているが、だとすれば、観察者の立場からそれを実体だとか無相だとか言明すること自体そもそも不可能であり、
それゆえユング自身、元型の段階における「自己」は「存在し且つ存在しない」とも述べている69。
元型そのものを言明できないならば、認識対象としての元型は全く無であると言い換えられ得るということである。
集合的無意識はかつて人類が考え感じた「最も美しく最も偉大なもの一切」と、「一切の邪悪な行動」をともに内包するとされる70が、
両者とも元型が何かの形やイメージとして現れたものにすぎず、それらを生んだり駆逐させる当体は何だか分からないのである。
ユングは精神療法において夢などの表象を重視する傾向が強いが、ジェイムズにおける、宗教的回心での人格的変容に関する分析では、「全ての苦悩がなくなったということ」「平安」「調和」など、
そこで起る「感情的経験の特徴」に焦点が当てられており、こうした経験では「客観的信仰は全く欠けていることもあり得る」71、つまり救いにおいて神の姿やイメージなどが問題にならない場合が考えられる。
にもかかわらず信仰やイメージのある場合と「感情的な平安は同じであることができる」72のである。
実際ジェイムズの分析において注目されているのは形ある表象やイメージではなく、
世界に対する根源的な「感情」の変化や、根本的な真理を知ったという「感覚」などの、表象化されない潜在意識のエネルギーであり、そこに信仰や表象が伴うかは、むしろ二次的な事柄となっている。
ジェイムズの方法は、イメージや直観的性格の強いユングに比べて素朴で経験的だが、上記の(2)を説明するならジェイムズの立場からの方が見通しがある。
また、禅における「無相」の主張には、実体性を否定する仏教の思想的背景も考えなくてはならない。
実際、禅者の経験の中では、悟りがついに訪れない場合や、現に白隠がそうであったごとく、不完全な悟りを何回も重ね、また元のとらわれに戻ったりすることの方が普通である。
また禅を実践する中で妄想や禅病に侵されて、そこから立ち直れなくなることさえあり、こうした場合、無相の自己が一度で体験として得られるとはとても言えない。
ジェイムズが分析した憂鬱症からの回帰でも、一瞬とは言えない例の方が多い。このようなときはユングのように、漸次的な内観的治療の方が遥かに有効である。
従って無相の自己への解脱とは、禅が思想上持つ理想である面も否定できない。ただ、禅でもユング心理学でも、悩みにとらわれた自我を救うのが、自己の奥に潜んでいながら自我では《無い》何かである点では一致している。
繰り返しになるが、経験を重視する立場では、この自我では《無い》ものを、例えばアートマンのような何かとして言明したとたん、それは当初のものから外れてしまう。
従ってそれを実体化せずに無相であるとしたり、さらに無相という象徴的言語も用いず、ただ「無事」であれとたしなめるのは、慢心を防ぐための修行上の方便としても優れて有効だ。
おわりに
本論では、ありのままに生きる自己が即ち真実の自己であるという、禅の根幹を成すにもかかわらず最も不可解な考え方を、臨済の「無事」という概念に代表させて考察してきた。
最初に臨済自身の体験を踏まえつつ、「無事」がただのオプティミズムの徹底ではなく、大死から大悟りへの変転という、隠された心理的過程をくぐり抜けた果てに到達されたものであることを、大拙の議論や十牛図を踏まえつつ確認した。
だが、すると次に、なぜこの大死、つまり無の経験を敢えて言葉にもしたがらなかったのかが問題になった。
そこで、この経験と概念化の背反が、経験の直接性を重視する禅の立場や、臨済の思想的未熟さだけに由来するのではなく、人間の心の本質的な性格に起因するものであることを、経験における潜在自我の役割を重視する宗教心理学の立場から考察した。
そして、この「自己ならざる自己」は、顕在的自我からは見えないにもかかわらず秘めた能力を持ち、その発動は顕在的な自我を「無」にしたところで生じた。
従ってこの前者の自己の妙用は全く無なのではなく、後者の自我を無にするという意味での「無我」を条件とする。
しかし宗教経験としての禅で問題になるのは、最初に取り上げた、大死から大悟への変転を成さしめ、しかも実体性のない「無相の自己」であり、この自己を体得して初めて「無事」は達成される。
そこでこの自己の体得は、まず一切否定即一切肯定の絶対無の経験として、論理的側面から考察された。
だが心理的には、自己の「無相」という性質が、上で述べたような、自我を無にするという意味での「無相」なのか、それとも無意識をも全て無にする何らかのはたらきなのかは、問題として残る部分があった。
そこには純粋な体験のみでは尽くせぬ、禅の思想性ゆえの無という理由もあった。
理念上、開悟の徹底化はそれまでの修行の痕跡を残さず、残すならばそこには体験された《何か》がたちまち実体化され、その実体化は、悟り自体を価値ある対象として目的化することから抜け切れていない。
しかしその実体化から完全に抜けきるのではなく、不完全ながらもそれを成し遂げて行こうとするプロセスそのものが、生涯にわたった修行の道の意義であり、その道には一瞬で「無相」に至るとする考えよりも、禅の実際の姿が認められる。
仏教
仏陀の根本課題は、人生の一切の苦悩をいかに超脱すべきかであった。
人生の真相を如実にながめた仏陀は次のように「四法印」を説かれました。
諸行無常
一切の現象は、刹那ごとに生滅し変化する。
すなわち、一切のものは、単なる時間的存在として存するにすぎない。
諸法無我
諸法とは、一切の存在であり、無我とは、それらに固定不変の実体のないこと。
すべてのものは、ただ因縁によって仮に和合しているにすぎない。
一切皆苦
凡夫は、無常に常を求め、無我に我を捉えようとする欲望が満たされないことが苦しみとなり、ゆえに一切の現象は、苦の存在として現れてくるのである。
涅槃寂静
無常・無我・苦なる一切を如実に知見して、それらに対する執着を離れ、欲望が滅せられた境地。
これが、仏教の究極の境地である。
禅仏教の教え
禅宗は、釈尊が菩提樹の下で悟られた、その悟りをみずから直接体験することを唯一の目的としています。
禅というのは、経典の言句によるのではなく、自身の体験によって経典の心をストレートに悟るものである。
こうした禅の思想を端的にあらわしている四つの句があります。
不立文字
釈尊の悟りの内容をすべて文字で表現し尽くすことは不可能です。
実際に体験してみることが、どんな言葉や文字にまさるのです。
「あらゆるものに仏性がある。」と言うことを説き明かしたものが教典です。
しかし、この真理を単に知識として知っているだけでは、本当にわかっているとはいえません。
自分自身が仏であるという自覚と働きがなければ知っていることにはならないからです。
その自覚のためにも、一日わずかな時間でもいいですから坐禅をすべきなのです。
ただし、文字や言葉に限界があるからといって、まったく否定するのではありません。
限界があるからこそ、文字や言葉を大事に有効に用いなければならないというのが不立文字の意味でもあります。
教外別伝
釈尊の教えの真髄は、文字や言葉では伝えることができません。
心から心へと、直接体験によってのみ伝えられるとするのが、教外別伝の意味するところです。
したがって、教外別伝とは教のほかに別に伝があるのではなく、師から弟子へ、心から心へ直接の体験として伝えることである。
また師から弟子へと伝承するというのは、弟子の目覚め(悟り)にほかならない とするのが教外別伝の内容と理解していいでしょう。
弟子は、師匠の日常の立ち居振る舞いを見ながら、自己を磨いていくのです。
何事も自分の努力で体得して、初めて自分のものとすることができます。
また、目に見えないものを見抜いて、初めて心から納得することができるのです。
言葉や文字では、究極のところは伝わりません。
直指人心
直指人心とは、「直ちに人の心を指す」ということですが、人の心つまり人心と仏心とは、本来別の心ではありません。
私たちの心の中には、もともと仏心が具わっているのです。
この事実を忘れているために、私たちはあれこれと迷ってしまうのです。
そこで、直指になるわけです。
教育・思索とかいった、もってまわった方法を取らずに、一直線に「自分の心が仏心にほかならない」と指し示すのが直指なのです。
無性である真実の自己、自分の心の中にある仏性を直ちに観てとれといわれるのです。
文字や頭で理解するのではなく、弟子を殴りつけるような直截的かつ独自の方法で導くのです。
このように、人間の本性つまり仏性を直指させる、直接体験させる方法を禅宗ではとりますが、これを直指人心といいます。
見性成仏
直ちに指し示される人心とは、私たちの心の奥にある仏心にほかなりません。
この仏心、つまり真の人間性に出会い、まみえて、自分が、ほんとうの自分になることを「見性成仏」といいます。
仏というのは真実の人間のことですから、成仏とは人間完成であり、人間成就のことなのです。
見性の「性」とは「心」と同じ意味で、人間の本性のなかに、仏となるべき仏性がひそんでいるということです。
借りに、迷いに満ちている醜い心であっても、その心に成仏の因である仏性があり、煩悩(一切の妄念)の心に仏となる功徳が宿っているとみすえるのが見性成仏ということになります。
心というのは、求めても求めてもつかめるものではないし、決まった形がないという事実を、みずから観念ではなく体験として知ることが「安心」を得ることであり、成仏することなのです。
臨済の教え
臨済宗の教義は、いうまでもなく宗祖・臨済禅師の挙揚した禅の宗旨を根本としており、その教えは、「臨済録」に伝えられています。
「臨済録」にみられる特徴は、如来とか仏といった既成の仏教用語ではなく、宗教的人格をあらわす「人」という言葉を使っていることです。
如来とか仏というと、どうしても人間よりも超越した存在のようにとらえてしまうことから、極力そうした用語を避けています。
宗教的人格者とは、「人間とは何か」「人間はどうあるべきか」「どう生きるべきか」を自分自身に引き寄せて、その真理をうなずきとる自覚の経験をした人であり、臨済禅師はこの宗教的人格者を「真人」、又はただの「人」と呼んでいます。
一無位の真人
「赤肉団上に一無位の真人有り、常に汝等諸人の面門より出入す。
未だ証拠せざる者は、看よ、看よ」(お互いのこの生身の肉体上に、何の位もない一人の本当の人間、すなわち「真人」がいる。
いつでもどこでも、お前たちの眼や耳や鼻などの全感覚器官を出たり入ったりしている。まだこの真人がわからないものは、はっきり見届けよ)
釈尊の教えは、現実に生きている人間のためにとかれたものであることは言うまでもありません。
臨済禅師の教えも、その生きた人間とは何であるかをはっきり自覚し、そこから世の中を正しく見ていこうという点から出発しています。
人間は自分を見つめるとき、初めは実体的な自己の存在に何の疑いも持ちません。
しかし、さまざまな問題に悩み、壁にぶつかって、さらに自己を掘り下げて見つめていくと、悩みや苦しみの原因はすべて自分の中にあると気がつきます。
そこで、本当の自分とは何か、人間とは何か、という問題につきあたるのです。
臨済禅師は、この真実の自己を「一無位の真人」と表現されました。
「無位」とは、一切の立場や名誉・位をすっかり取り払い.何ものにもとらわれないということです。
「真人」とは、疑いもない真実の自己、すなわち真実の人間性のことで、誰でもが持っているものである。この真人は、単に肉体に宿るだけでなく、人間の五官を通して自由自在に出入りしています。
未だこの「一無位の真人」を自覚していない者は、ハッキリと見つけなさい。
随処に主と作れば、立処皆真なり
(その場その場に全生命を打ち込んで行動していくならば、そこがかけがえのない真実の世界となる。)
これは、何処でも自分が主役・大将になることではありません。自分がどんな環境に置かれようとも主体性を失わずに生きていくということです。
その時、その場で無心に働けば、それに応じて自らを生かし、さらに他者をも生かすのです。それは、坐禅の時だけではありません。
食事、仕事、学業など日常生活すべてにわたって、その時点でなすべきことに自己を完全燃焼するのが、主体性を保つことです。
他のことに心を奪われず、一事に自己を投げ出せば、その人の発言も沈黙も、立つも坐るも、すべてが真実となるのです。
このように主体性をもって生きるならば、充実した生き方をしていれば、自分のまわりのものをすべて生かしきっていくことができる。
無事是れ貴人
「無事是れ貴人。但だ造作することなかれ。祇だ是れ平常なり」(無事の人こそ貴人である。あれこれと、はからいをしてはならない.ただ平常であることだ。)
この無事という言葉の意味は、危険や不安がないとか健康であるといったことではない。
何かを求めたり執着する心のないこと、つまり、無心そのままを無事といいます。又、悟りを開こうとか仏になろうなどと求めたり、とらわれることを「造作する」といい、こうした造作をしないことが「無事」である。
「貴人」も、社会的地位が高いとか金持ちであるとかいった上級社会の人という意味ではなく、「無事の人」と同じ意味なのです。欲しがりもせず、とらわれもしない人を「貴人」という。
平常とは、執着心を離れ、ありのままに日常を立ち居振る舞う心と言うことです。
平常心で行住坐臥すれば、そのままが仏法であり、仏道であるから、それ以外に何を求める必要があるのかと臨済禅師は言い切る。
白隠の教え
衆生本来仏なり ・ 直に自性を証すれば ・ 此の身即ち仏なり
すべての衆生は生まれながらにして仏性をそなえている。
みずから深い禅定により直に「本来の自己が仏心である」と体験自覚すれば、そこは無我の世界、「空」の境地である。それは生死を超越した世界であり、ここが浄土であり、この身がそのまま仏である。
無我の境地は、遠くにあるのではなく、自分自身のうちにあるのだからほかへ探しに行くことはない。まず自分の内奥を徹見せよと教えている。
臨済宗妙心寺派の「生活信条」と「信心のことば」
生活信条
一日一度は静かに坐って身と呼吸と心を調えましょう。
人間の尊さにめざめ、自分の生活も他人の生活も大切にしましょう。
生かされている自分を感謝し、報恩の行を積みましょう。
信心のことば
わが身をこのまま空なりと観じて静かに坐りましょう。
衆生は本来仏なりと信じて拝んで行きましょう。
社会を心の花園と念じて和やかに生きましょう。
上堂.云わく
赤肉団上に,一無位の真人有り
常に,汝等(なんじら)諸人(しょにん)の面門(めんもん)従(よ)り,出入(しゅつにゅう)す
未(いま)だ証拠(見届ける)せざる者は,看よ,看よ!
時に,僧有り,出(い)でて問う
如何(いか)なるか是れ無位の真人
師,禅牀(ぜんしょう・椅子)を下(くだ)って把住(はじゅう・胸ぐらをつかむ)して云わく
道(い)え,道(言)え!
其の僧,擬議(ぎぎ・ためらう)す
師,托開(たつかい・突き放す)して云わく
無位の真人,是れ什麼(なん)の乾屎篦(かんしけつ・糞かきべら)ぞ!
( これでは無位の真人も馬鹿者同然ではないか)
といって便(すなわ)ち方丈(居間)に帰る
古(いにしえ)の真人は,生を悦ぶことを知らず,死を悪(にく)むことを知らず.
其の出(い・生)ずるに悦ばず,其の入(死)るに拒(こば)まず.
悠然として往き,悠然として来たるのみ.
その始まる所を知らず,其の終わる所を求めず.
受けて之(こ)れを喜び,忘れて之れを復(かえ)す.
是れを之れ,真人と謂う.
然(か)くの若(ごと)き者は,其の心は忘れ,其の容(かたち)は寂(しず)かなり.
--- 荘子 (そうし・孔子の弟子・曾子との混同を避けてソウジとも)
爾(なんじ),如法(にょほう)の見解(けんげ)を得んと欲せば,
但(ただ),人惑(にんわく)を受くること莫(なか)れ.
裏に向かい,外に向かって,
逢著(ほうじゃく)せば,便(すなわ)ち殺せ.
仏に逢うては,仏を殺し,
祖に逢うては,祖を殺し,
羅漢(らかん)に逢うては,羅漢を殺し,
父母に逢うては,父母を殺し,
親眷(しんけん・親族)に逢うては,親眷を殺して,
始めて解脱(げだつ)を得ん.
物と拘(かか)わらず,
透脱自在(とうだつじざい)なり.
如何(いか)なるか,是れ父
師云わく
無明,是れ父.
爾が一念心(いちねんしん),
起滅(きめつ・心はどこから起こり,どこへ消えて行くか)の処を求むるに,得ず.
響きの空(くう)に応ずるが如く,
随処(ずいしょ)に無事なるを
名づけて,父を殺すと為す.
如何(いか)なるか,是れ母
師云わく
貪愛を母と為す.
爾が一念心,
欲界(よくかい)の中に入って,
其の貪愛を求むるに,
唯だ諸法の空相なるを見て,
処処(しょしょ),著(じゃく・執着)すること無きを
名づけて,母を害すと為す.
師(臨済),来日(らいじつ・翌日),又,普化と同じく斎(さい・おとき)に赴く.
問う,今日の供養,昨日に何似(いずれ)ぞ.
普化,依前として飯牀(はんしょう・お膳)を踏倒(とうとう・蹴倒)す.
一日,普化,僧堂の前に在って,
生菜(さんさい・生の野菜)を喫す.
師,見て云わく,
大いに一頭の驢(ろ・ロバ)に似たり.
普化,便(すなわ)ち,驢鳴(ろめい・ロバの鳴き声)を作(な)す.
師,云わく,這(こ)の賊(ぞく・泥棒め).
普化,賊賊(泥棒,泥棒)と云って,便ち出で去る.
普化,一日,街市(がいし)の中に於いて
人に就(つ)いて,ジキトツ(僧衣)を乞う.人皆之を与う.
普化,倶(とも)に要せず(どれも受け取らなかった).
師,院主をして,棺一具(かんいちぐ)を買わしむ.
普化,帰り来る.
師云わく,我,汝が与(ため)に箇(こ)のジキトツを做(つく)り得了(えおわ)れり.
普化,便(すなわ)ち自ら担いて去って,
街市を繞(めぐ)って叫んで云わく,
臨済,我が与(ため)にジキトツを做(つく)り了(おわ)れり.
我,東門に往(ゆ)いて,遷化(せんげ・死去)し去らん,と.
市人(しじん),競い随(したが)って,之を看る.
普化云わく,我,今日(こんにち)未(いま)だし,
来日(らいじつ・明日),南門に往いて遷化し去らん,と.
是(かく)の如くすること三日,人皆信ぜず.
第四日に至りて,人の随い看るもの無し.
独り城外に出でて,自ら棺の内に入り,
路行(みちゆ)く人を倩(やと)って,之に釘うたしむ.
即時に伝布す.
市人,競い往いて棺を開くに, 及(すなわ)ち全身脱去(だつこ)するを見る.
祇(ただ),空中に鈴の響きの隠隠(いんいん)として去るのを聞くのみ.
仏法は用巧(ようこう・工夫)の処無し.
祇(ただ),是れ,平常無事(びょうじょうぶじ).
阿屎送尿(あしそうにょう・大小便をする),
著衣喫飯(じゃくえきっぱん),
困(こん)し来たれば,即ち臥(が)す.
愚人は我を笑う.
智(ち・知者)は焉(これ)を知る.
古人云わく,
外に向かって工夫を作(な)す,
総(そう・全く)に是れ痴頑(ちがん)の漢(輩・やから).
爾(なんじ),且(しばら)く,随処に主となれば,
立処皆真なり.
無事,是れ貴人
但(ただ),造作(ぞうさ)する莫(なか)れ.
祇(ただ),是れ平常(びょうじょう・へいじょう)なり.
平常心,是れ道(どう)
外に向かって覓(もと)むること莫れ.
求心(ぐしん)歇(や・止)む処,即(すなわ)ち無事.
若(も)し人,仏を求めば,
是の人,仏を失す.
若し人,道を求めば,
是の人,道を失す.
若し人,祖を求めば,
是の人,祖を失す.
爾(なんじ),若し仏を求めば,
即(すなわ)ち仏魔(ぶつま)に摂(せっ)せられん.
爾,若し祖を求めば,
即ち祖魔(そま)に縛(ばく)せられん.
爾,若し求むること有れば,皆苦なり.
如(し)かず,無事ならんには.仏と祖師とは,是れ無事の人なり.
爾,若し能(よ)く念念馳求(ねんねんちぐ)の心を歇得(けつとく・止める)せば,便(すなわ)ち祖仏(そぶつ)と別ならず.
達磨,
遥かに此の土(国)に大乗の根器有るを観て,
遂に海を泛(わた)って,得得(てくてく)と来たり.
心印(しんいん)を単伝して,迷塗(めいと・迷える者)を開示す.
不立文字(ふりゅうもんじ)
直指人心(じきしにんしん)
見性成仏(けんしょうじょうぶつ)
若(も)し恁麼(いんも・このよう)に見得(けんとく)せば,
便(すなわ)ち自由の分(ぶん)有らん.
一切の語言(ごげん)に随(よ)って転(うごか)されず,
脱体,現成(げんじょう)せん.
一刀に截断(せつだん)して,
洒洒落落(しゃしゃらくらく・さっぱりして拘泥しない)たらん.
* 単伝心印 = 言葉や文字によらず,仏祖からひとりひとりに,心から心へと伝えられた永遠不変の悟りの核心
見性とは,仏性である.覚るを見性という.--- 道元 「永平仮名法語」
武帝,達磨に問う
梁(りょう)の武帝,達磨大師に問う,
如何なるか是れ聖諦(しょうたい)第一義(釈迦の聖なる教えの根本)
磨(ま)云わく,
廓然無聖(かくねんむしょう・カラリとして聖なるものすら無い)
帝(てい)曰く
朕(自分)に対する者は誰ぞ(あなたは聖者ではないか)
磨云わく,
不識 (ふしき・識らず).
帝問う,
朕,寺を起(た)て,僧を度(とくど・養う)す, 何の功徳か有る.
磨云わく,
無功徳 (功徳無し).
帝,契(かな)わず(理解しえなかった).
(達磨) 潜(ひそ)かに国を出で、江(こう・長江)を渡り,魏(ぎ)に至る.
時に魏の孝明帝、位(くらい)に当る
達磨,彼(かしこ)に至るも.亦(ま)た出(い)でて見(まみ)えず.
直(じき)に少林(少林寺)に過(たちよ)り,
面壁(めんぺき)九年,
二祖を接し得たり.
其の年の十二月九日夜, 大雪.
二祖,砌下(せいか・石の階段の下)に立つに,
遅明(ちめい・明け方)積雪膝を過ぐ.
達磨,之(これ)を憫(あわれ)んで曰く,
汝,雪に此(ここ)に立ち,当(そ)も何事をか求むる.
二祖,悲涙(ひるい)して曰く,
惟(た)だ願わくは,慈悲して,甘露門(仏の教え)を開き,
広く群品(ぐんぽん・衆生)を度(すく)いたまえ.
達磨曰く,
諸仏の妙道,曠劫(こうごう・とこしえ)に精勤し,
行い難きを能(よ)く行い, 忍ぶに非(あら)ざるをも忍ぶ.
豈(あ)に小徳小智(しょうとくしょうち)軽心慢心(きょうしんまんしん・うわついたおごった気持ち)を以(も)って,
真乗(しんじょう・真実の教え)を欲冀(こいねが)わんや.
是の処,有ること無し(そんなことはありえない).
二祖,誨励(かいれい・励ましの教え)を聞いて,道に向かうこと益ます切なり.
潜(ひそか)に利刀を取って,自ら左の臂(ひじ)を断ち,
達磨の前に致す.
磨,是れ法器なりと知り,遂に問うて曰く,
汝,雪に立ちて,臂を断つは当(は)た何事の為にするや.
二祖曰く,
某甲(それがし),心未だ安らかならず.乞う,師,安心せしめよ.
磨曰く,
心を将(も)ち来たれ,汝の与(ため)に安んぜん.
祖曰く,
心を覓(もと)むるに,了(つい)に得(う)べからず.
達磨云わく
汝の与に安心し竟(おわ)れり.
後に達磨,為に其の名を易(か)えて,慧可(えか)と曰う.
後に三祖の粲(さん)大師を接得(せっとく)す.
直指人心・見性成仏 白隠
日日(にちにち)是れ好日(こうにち)
誰(た)が家にか,明月清風無からん.
睦州(ぼくしゅう)指して雪峰(せっぽう)の処に去(ゆ)かしむ.
彼(かしこ)に至って,衆(しゅ)より出でて,便(すなわ)ち問う,
如何なるか是れ仏(ぶつ)
峰,云わく,
寝言をいう莫(なか)れ.
雲門(うんもん)便ち礼拝(らいはい)す.
明月清風任往来(明月清風往来に任す)
清風払明月,明月払清風 (清風明月を払い,明月清風を払う)
僧,百丈(ひゃくじょう)に問う
如何なるか是れ奇特(すばらしく尊い)の事
丈云わく
独り大雄峰(だいゆうほう)に坐す.
釈迦老子,初め生下来(うまれき)たりて,
一手は天を指し,一手は地を指して,
四方を目顧(みまわ)して云わく,
天上天下(てんじょうてんげ),唯我独尊(ゆいがどくそん)
雲門道(い)わく
我,当時若(も)し見ば,
一棒に打殺して,狗子(いぬ)に与えて喫却(くらわ)しめ,
貴(とうと)ぶらくは,天下の太平を(もと)要めん.
陸亘大夫(りくこうたいふ),云わく,
肇(じょう)法師道(いわ)く,
「天地は我と同根,万物は我と一体.」と.也(ま)た甚(はなは)だ奇怪なり(分かりにくいが実にすばらしい).
南泉,庭前の花を指して,大夫を召して云わく,時人(じじん・世の人),此の一株(いっしゅ)の花を見るに,夢の如くに相似 たり
古人道(い)わく,
尽(ことごと)く乾坤大地(けんこんだいち・天地),只だ是れ一箇の自己.
寒きときは則ち普天普地(ふてんふち・天地はあまねく)寒く,
熱きときは則ち普天普地熱し.
有(う)なるときは,則ち普天普地有,
無なるときは,則ち普天普地無.
是(ぜ)なるときは,則ち普天普地是,
非なるときは,則ち普天普地非なり.
法眼(ほうげん)云わく,
渠渠渠(かれ,かれ,かれ), 我我我(われ,われ,われ),
南北東西皆な可可,不可可,
但唯(た)だ我のみ,可なら不(ざ)る無し.所以(ゆえ)に道(い)う,天上天下,唯我独尊
白馬入蘆花
白馬,蘆花(ろか)に入る
* 蘆(あし)の白い花の群生の中に白馬が入る
銀碗盛雪 明月蔵鷺
銀碗(ぎんわん)に雪を盛り,明月に鷺(ろ・サギ)を蔵(かく)す
銀碗に雪を盛り,明月に鷺を蔵す.類すれども斉(ひと)しからず,混ずれば則ち処を知る.--- 宝鏡三昧歌 洞山 良价 (807〜869)
物となって見る,それは自己がなくなることで,同時にそこから自己が生まれることである.--- 西田 幾多郎 「行為的直観の立場」
掬水月在手 弄花香満衣
水を掬(きく・すくう)すれば,月は手に在り,花を弄(ろう)すれば,香(か)は衣(え)に満つ.
禅とは,禅定三昧(ぜんじょうざんまい)の力によって,一切の相対を超越した絶対界,
いわゆる父母未生以前の世界に打入(たにゅう)し,
本具の仏性・本来の面目を徹見し,
さらに悟後の修行によってこれを長養鍛練(ちょうようたんれん)し,
一切の言行云為(げんこううんい)みなそれのおのずからな流露(りゅうろ)となることを目標とする行の宗教である.
いたずらに禅籍(ぜんせき)を読みあさるのは,仏祖の涎唾(えんだ)をなめ,古人の悟りのかすをしゃぶって得たりとするものである.
初心の間は,禅籍など読む暇があったら,大いに坐るべしである.
咄(とつ・バカモン)!!
至道無難(しどうぶなん) 唯嫌揀択(ゆいけんけんじゃく)
至道(しどう)は難(かた)きこと無し. 唯,揀択(けんじゃく・選り好み)を嫌う.
二は一に由(よ)って有り,一も亦(また)守ること莫(な)かれ.
一心生ぜざれば,万法(まんぼう)に咎(とが)無し.
巌陽尊者(ごんようそんじゃ),趙州に問う,
一物不将来(いちもつふしょうらい)の時,如何(いかん)
(なんにも持っていない時は,どうしますか)
州云わく
放下著(ほうげじゃく) * 著 = 命令の助辞
(その持っていないものを捨ててしまえ)
巌云わく
已(すで)に是れ一物不将来,箇(こ)の什麼(なに)をか放下せん.
州云わく
恁麼(いんも・そのよう)ならば,則ち担取(たんしゅ)し去れ(それなら,その無一物という荷物を担いで行け)
--- 従容録(しょうようろく) 第57則
君,見ずや,
絶学無為の閑道人(かんどうにん)
妄想を除かず,真を求めず.
慈明(じみょう),志(こころざし)道に在り.
暁夕(ぎょうせき)怠らず,
夜坐(やざ)睡(ねむ)らんと欲すれば,
錐(きり)を引いて自ら刺す.
婆子(ばす・老婆)有り,問う,
婆は是れ五障(ごしょう・仏になれない5つのさわり)の身,
如何か免れ得ん?
師云わく,(趙州は老婆の身になって答えた)
願くは,一切の人の天に生(しょう)ぜんことを!
願くは,婆婆(ばば)の永(とこしなえ)に苦海(くかい)に沈まんことを!
老倒,疎慵,無事(ろうとう・そよう・ぶじ)の日
安眠,高臥(こうが),青山(せいざん)に対す.
* 老倒 = 老いぼれること * 疎慵 = もの憂いこと * 高臥 =世を避け,心を高くもち,山野に隠棲すること
--- 五燈会元(ごとうえげん) 第十八
大道(だいどう),無門 (大いなる道に門などない)
千差,路有り (あらゆる方向に路が開けている)
此の関(かん)を透得(とうとく)せば (この無門の関を透過できたら)
乾坤(けんこん)に独歩せん(独り天と地を闊歩せん)
趙州(じょうしゅう)の狗子(くし・犬)
趙州和尚,
因(ちな)みに僧,問う,
「 狗子も還(ま)た仏性(ぶっしょう)有り也(や)無しや 」
州云わく,
「無」.
* 還(は)た〜 也無(や) = いったい 〜か
趙州,有(う)かと問えば有と答う,
無かと問えば,無と答う.
君,有かと問へども,也(ま)た答へず.
無かと問えども,也(ま)た答えず.
不審の意,作麼生(そもさん)(黙ってないではっきりしてくれ)
また答えず. --- 良寛
(円山応挙の描いた子犬に問いかけた賛)
相対的な有無を超えた「絶対無」 絶対矛盾的自己同一 --- 西田 幾多郎
把手共行(はしゅきょうこう)
無門曰く,
参禅は須(すべか)らく祖師の関(かん)を透(とお)るべし.ただこの一箇の無字,すなわち宗門の一関なり.ついにこれを名付けて禅宗・無門関という.
透得(とうとく)する者は,ただ親しく趙州に見(まみ)えるのみにあらず,
すなわち歴代の祖師と手を把(と)って共に行き,眉毛(びもう)あい結んで(眉と眉を合わせ一体となって),同一眼(どういつげん)に見,同一耳(どういつに)に聞くべし.
豈(あ)に慶快(けいかい)ならざらんや.
わずかに有無に渉(わた)れば,喪身失命(そうしんしつみょう)せん.
南泉斬猫(なんせん・ざんみょう)
南泉,猫を斬る
南泉和尚,東西の堂の猫児(みょうじ)を争うに因んで,泉(せん),乃(すなわ)ち提起して云わく,大衆(だいす)道(い)い得ば即ち救わん,道(言)い得ずんば即ち斬却(ざんきゃく)せん.
衆,対無し(だれも応対できなかった)
泉,遂に之れを斬る.
晩に趙州,外より帰る.
泉,州に挙似(こじ・呈示)す.
州,乃ち履(くつ)を脱いで,頭上に安(やすん)じて出(い)ず.
泉云わく,
子(なんじ),若(も)し在らば即ち猫児を救い得ん.
無門,頌(じゅ)に曰く
趙州,若し在らば,倒(さかさま)にこの令を行ぜん.刀子(とうす)を奪却して,南泉も命を乞わん.
平常(びょうじょう),是れ道(どう)
南泉,因みに趙州問う,
如何なるか,是れ道.
泉(せん),云わく,
平常心(びょうじょうしん),是れ道.
無門,頌に曰く
春に百花有り,
秋に月有り,
夏に涼風有り,
冬に雪有り.
若し閑事(かんじ・むだごと)の心頭に挂(か)かる無くんば,便(すなわ)ち是れ,人間の好時節(こうじせつ)
巌(がん),主人を喚(よ)ぶ
瑞巌彦(ずいがん げん)和尚
毎日,自ら「主人公」と喚び
復た自ら応諾(おうだく)す.
乃ち云わく,
惺惺着(せいせいじゃく・しゃんとせいや ).
諾(だく・はい).
他時異日(たじいじつ),
人の瞞(まん・欺瞞)を受くること莫(な)かれ.
諾諾(だくだく・はいはい)
* 惺惺 = 心が冴えるさま * 着 = 助詞・命令
庭前(ていぜん)の柏樹(はくじゅ)
趙州,
因みに僧問う,
如何なるか,是れ祖師西来(せいらい)の意(達磨がインドからやって来た意図)
州,云わく,
庭前の柏樹子(はくじゅし)
* 趙州のいた観音院には大きな柏樹がたくさん茂っていたのでが柏林寺ともいわれた. 子 = 助辞日本の柏の木と違い,中国では檜に似た樹
無門曰く,
若し趙州の答えた処に向かって見得(けんとく・見抜く)して, 親切(ぴったり合う)ならば
前(過去)に釈迦無く,後(しりえ・未来)に弥勒無し.
達磨の安心(あんじん)
達磨,面壁(めんぺき・坐禅)す.
二祖(恵可・えか),雪に立つ.
臂(ひじ)を断って,云わく,
弟子,心,未(いま)だ安からず.
乞う,師,安心せしめよ.
磨(ま),云わく,
心を将(も)って来たれ,汝が為に安んぜん.
祖,云わく,
心を覓(もと)むるに,了(つい)に不可得なり.
磨,云わく,
汝が為に安心し竟(おわ)んぬ.
竿頭(かんとう),歩を進む
石霜(せきそう)和尚云わく,
百尺竿頭,如何が歩を進めん.
又た古徳云わく,
百尺竿頭に坐する底(てい)の人,
得入(とくにゅう)すと雖然(いえど)も,未だ真と為さず.
百尺竿頭,須(すべか)らく歩を進めて,
十方(じっぽうせかい・)に全身を現ずべし.
無門,頌に曰く
身を拌(す)て,能(よ)く命を捨て,
一盲(いちもう),衆盲(しゅうもう)を引く(衆生を導く)
* 上求菩提(じょうぐぼだい)・下化衆生(げけしゅじょう) = 上山の路は,これ下山の路
尋牛(じんぎゅう)
茫々として草を撥(はろ)うて,去って追尋(ついじん)す
水濶(ひろ)く,山遙かにして路(みち)更に深し
力尽き,神(心)疲れて,覓(もと)むるに処(ところ)無し
但(た)だ聞く楓樹(ふうじゅ)に晩蝉(ばんぜん)の吟ずるを
見跡(けんせき)
水辺林下(すいへんりんか),跡偏(ひとえ)に多し
芳草(ほうそう)離披(りひ・満開)たり,見るや也(また)麼(いな)や
縦(たと)い是れ深山の更に深処(しんじょ)なるも
遼天(りょうてん)の鼻孔(びこう),怎(な)んぞ他を蔵(かく)さん
* 遼天鼻孔怎蔵他
= 天にも届くほどの牛の鼻づら(天地一杯の心)蔵しようがないではないか
黄鶯(こうおう)枝上(しじょう)一声声(いちせいせい)
日暖かに,風和して岸柳(がんりゅう)青し
只だ此れ更に回避する処なし
森々たる頭角,画(えが)けども成り難し
得牛(とくぎゅう)
精神を竭尽(けつじん・使い果たす)して,渠(かれ・彼)を獲得す
心強く,力壮(さか)んにして卒(つ)いに除き難し
有る時は纔(わず)かに高原の上に到り
又た煙雲(えんうん)の深き処に入って居(りょ)す
牧牛(ぼくぎゅう)
鞭索(べんさく・むち)時々(じじ・常に)身を離れず
恐らくは伊(かれ・彼)が歩みを縦(ゆるやか)にして,埃塵(あいじん)に入らんことを
相将(あいひき)いて牧得(ぼくとく)すれば純和(じゅんわ)せり
羈鎖(きさ・たずな)拘(かかわ)ること無く,自ずから人を逐(お)う
騎牛帰家(きぎゅうきか)
牛に騎(の)ってイリ(遙かなる連山をのんびりと)として, 家に還(かえ)らんと欲す
羌笛(きょうてき)声々, 晩霞(ばんか)を送る
一拍一歌, 限り無きの意
知音(ちいん・親友)は何ぞ 必ずしも唇牙(しんが)を皷(こ)せん
* 羌笛= 羌人(中国西部の異民族)の吹く笛
忘牛存人(ぼうぎゅうそんじん)
牛に騎(の)って已(すで)に家山(かざん・故郷)に到ることを得たり
牛も也(ま)た空(くう)じ,人も也(ま)た閑(のど)かなり
紅日(こうじつ)三竿(さんかん),猶(な)お夢を作(な)し
鞭縄(べんじょう.)空しく頓(ぬかず)く草堂の間
* 紅日三竿 = 陽が竹竿を3本継ぎ合わせた高さに昇っていること,真昼
人牛倶忘(じんぎゅうぐぼう)
頌(じゅ)に曰く
鞭索(べんさく・ムチと手綱)人牛(じんぎゅう)尽(ことごと)く空に属す
碧天(へきてん)遼濶(りょうかつ・広大無辺)にして信(まこと)に通じ難し
紅炉焔上((こうろえんじょう・赤々と燃える炉の煙の上で)争(いかで)か雪を容(い)れん
此(ここ)に到って方(まさ)に能(よ)く祖宗に合う
返本還源(へんぽんかんげん)
本来清浄にして,一塵(いちじん)を受けず
頌に曰く
本(ほん)に返り,源(げん)に還って,已に功を費やす
争(いかで)か如(し)かん,直下(じきげ)に盲聾(もうろう)の若(ごと)くならんには
庵中には見えず庵前の物
水は自ずから茫々,花は自ずから紅(くれない)なり
入店垂手(にってんすいしゅ)
柴門(さいもん)を独り掩(おお)うて
千聖を知らず
自己の風光を埋めて
前賢(ぜんけん)の途轍(とてつ)に負(そむ)き
瓢(ひさご)を提(さ)げて市に入り,杖を策(つ)いて家に還る
酒肆(しゅし・居酒屋)魚行(ぎょこう・魚屋),化(け)して成仏せ令(し)む
頌に曰く
胸を露(あら)わし,足を跣(はだし)にして店(てん・街)に入り来る
土を抹(まぶ)し,灰を塗って,笑い顋(あぎと・あご)に満つ
神仙真秘の訣(けつ・奥義)を用いず
直(じき)に枯木をして,花を放って開かしむ
* 負前賢之途轍 = 先哲の歩んだ道に背く
* 酒肆魚行化令成仏 = 酒屋も漁屋も皆,仏にしてあげる
漁夫快酔図
魚を獲て酒に換う.先ず,須(すべか)らく酔うべし.明日愁へ来れば,明日愁へん
坐禅の仕方。曹洞宗
http://www.sotozen-net.or.jp/ 1.合 掌(がっしょう)
相手に尊敬の念をあらわすことです。
両手の掌を合わせて、腕を胸襟に近づけず臂を脇の下から離し、指の先を鼻の高さに揃えます。
2.叉 手(しゃしゅ)
歩くときの手の作法です。
左手の親指を中にして拳を作り、これを胸に軽く当てて右手の掌でこれをおおいます。
3.隣位問訊(りんいもんじん)
坐る両隣の人への挨拶です。
自分の坐る位置に着いたら、その場所に向かって合掌し低頭します。両隣に当たる二人はこれを受けて合掌します。
4.対坐問訊(たいざもんじん)
坐る向かいの人への挨拶です。
隣位問訊をしたら、右回りをして向かいに坐っている人に合掌し低頭します。向かい側の人はこれを受けて合掌します。
5.結跏趺坐(けっかふざ)
両足を組む坐り方です。
対坐問訊が終わったら、合掌を解き、そのまま坐蒲(ざふ)の上に腰をおろし、足を組みます。
右の足を左の股(もも)の上に深くのせ、次に、左の足を右の股の上にのせ、左手を坐蒲に添え、右手は床をおさえ、身を坐蒲と共に右回りをして壁に向かいます。
これを面壁(めんぺき)といいます。
6.半跏趺坐(はんかふざ)
結跏趺坐ができない人の足の組み方です。左の足を右の股のうえに深くのせます。
結跏趺坐でも半跏趺坐でも肝要なのは、両膝とお尻の三点で上体を支えることです。坐蒲を自分の体に合わせて調節し、両膝を確実に地につけることです。
7.上体の作法
足を組んだあとの姿勢です。
両脚のまわりの衣服を整え、背骨をまっすぐにのばし、お尻を後方につきだすようにして腰にきまりをつけます。両肩の力を抜き、腰の骨をまっすぐに伸ばし、首筋には力を入れず、顎を引き、頭で天をつきあげるようにすると、背骨がまっすぐになります。
8.手の作法(法界定印、ほっかいじょういん)
足を組んだ時の手の形です。
右の手のひらを上向きにして組んだ足の上に置き、その上に、左の手のひらを同じように上向きにして置き、両手の親指の先を、かすかに接触させます。力を入れておしてはいけませんが、決して離さないようにします。
9.目の作法
視線です。
目は決して閉じてはいけません。自然のままに開いておきましょう。視線は、およそ1メートル前方、約45度の角度におとしたままにして、よそ見をしてはいけません。
10.呼吸の作法(欠気一息、かんきいっそく)
形を正したところでする息です。
深々と息を鼻から吸い込み、これを徐々に口から吐き出します。この深呼吸を数回行った後は、自然と鼻からの呼吸にまかせます。
11.口の作法
舌の位置です。
舌の先を上の歯の内側の付け根につけ、歯と歯とをつけ、唇を密着させます。口を真一文字に結んで、開けたり、動かしたりしてはいけません。
12.左右揺振(さゆうようしん)
身体を落ち着かせるために行います。
上半身を振り子のように左右に揺り動かして、大から小にゆすり、坐相をまっすぐに正しく落ち着かせます。
13.思いをはなつ
さまざまな思いにとらわれないことです。
目に映るものにも、耳に聞こえる音にも鼻に匂う香りにも、心に浮かぶ思念にも、なるがままに、それらの一切に引き込まれないように、気にかけないことです。
14.止静鐘(しじょうしょう)
坐禅の始まる合図です。
参禅者の身相が整う頃、堂頭(どうちょう)が入堂して堂内を一巡し、正しい坐にあるかを点検します。これを検単(けんたん)といいます。
堂頭が自分の後ろに巡ってきた時は合掌をし、通りすぎた後に法界定印にもどします。この後、鐘が三回鳴ります(止静鐘)。
止静鐘が鳴ったら党内に出入りをしてはいけません。
15.警 策(きょうさく)
心のゆるみを警めるために打ちます。
睡魔におそわれたり、心が乱れた時などに自分から受ける方法と、
姿勢が悪かったり眠っていたりする人に直堂(じきどう)(堂内を監督し、警策を行ずる者)の方から入れる方法があります。
どちらの場合も、右肩を軽く打って予告されます。その時に、合掌して首をやや左へ傾け右肩をあけるようにします。
受け終わったら合掌のまま頭を下げ、もとの法界定印にもどします。
16.終わり
鐘が一回鳴ると終わりの合図です。
合掌し低頭したのち、左右揺振します。今度は、両手の手のひらを上にして膝に置き、はじめ小さくだんだん大きく揺り動かします。
身体をほぐしたのち右回りをして向きを変えます。
そして、足を解きゆっくりと静かに立ち上がります。坐蒲を元の形に直します。
直し終わったら、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位問訊)し右まわりして向かいの人に合掌(対坐問訊)します。
そのあと、叉手で退堂します。
17.経 行(きんひん)
坐禅が長時間行われる場合、堂内をゆるやかに、静かに歩行することです。
坐禅中に経行鐘(きんひんしょう)が鳴ったら(二回鳴ります)、合掌し低頭し、左右揺振し、組んだ足を解きゆっくりと静かに立ち上がります。
坐蒲を直し、自分の坐っていた場所に向かって合掌し低頭(隣位間訊)し、右回りして向かいの人に合掌し低頭(対坐問訊)します。
そのあと、叉手にして、呼吸を整え、最初の歩を右足より出します。
列の前後を等間隔に保ち、堂内を右まわりに緩歩します。緩歩の方法は、一呼吸に半歩前進します。
息を吸い吐く間に、足の甲の長さの半分だけ歩を進めるのです。
呼吸の仕方や上体の姿勢、目や口元などは、坐禅の場合と同様です。
時間になり、抽解鐘(一回鳴ります)を聞いたら、直ちにその場に両脚を揃えて止まり、叉手のまま低頭し、
右足から、普通の歩速で進行方向に進み、自分の坐っていた場所にもどり、隣位問訊、対坐問訊したのち坐禅を続けます。
−〈注意事項〉−
装身具、時計などははずし、靴下や足袋は脱いでおきましょう。
堂内を歩くときは必ず叉手にします。
党内を歩くとき、聖僧さまの前を横切ってはいけません。
坐ったとき、隣の人にあわせて一列になるようにします。
放下著(五家正宗贊) ほうげじゃく
「ほうげじゃく」と読みます。間違っても「下着(したぎ)を放(はな)つ」と読まないでください。
「放下(ほうげ)」とは、投げ捨てる、放り出す、捨て切るの意です。「著(じゃく)」は命令の助辞(じょじ)で、放下の意を強めるために用います。
「放下著」、すなわち煩悩妄想はいうに及ばず、仏や悟りまでも捨て去る、すべての執着を捨て去れ、すべてを放下せよ!というわけです。
『五家正宗賛(ごけしょうじゅうさん)』の趙州(じょうしゅう)和尚の章にある話です。
あるとき、厳(げん)陽(よう)尊者(そんじゃ)という修行者が趙州和尚に問います。
「一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)の時、如何(いかん)――私は長い修行の甲斐あって、煩悩妄想を断じ、自己本来の 仏性を体得して無一物の消息を得ました。これから先、どう修行したらいいのでしょうか」。
すると趙州和尚が答えます。「放下著」と。
厳陽尊者は一応、如何いたしましょうかと謙遜して聞いていますが、自分の無一物の境界(きょうがい)を見てくれといわんばかりの態度を看て取った趙州は、その無一物の境涯も捨ててしまえと、「放下著」と一喝(いっかつ)を浴びせた。
厳陽尊者は無一物の消息を得たかもしれませんが、まだその無一物を誇示(こじ)しようとする 自我が残っています。
「放下著」と一喝されても、まだその辺がわかりません。
「既(すで)に是れ一物(いちもつ)不将来(ふしょうらい)、箇(こ)の什麼(なに)をか放下せん――私はすでに荷物をも捨て切った無一物の境界です。何もありません。一体何を捨てろとおっしゃるのですか」。
趙州和尚、最後に、「放(ほう)不(ふ)不(ふ)ならば担(たん)取(しゅ)し 去(さ)れ――捨てることができなければ、その無一物を担いで去れ」。
ここで初めて尊者は気がつきます。
私たちは刻苦(こつく)、血の涙で修行に修行を重ねて、ついに悟りを得ることができます。
しかし、禅はそれだけでは満足しません。
さらに修行を重ねて、その悟りをも、その菩提をも捨て去る修行に打ち込みます。
そして、迷いも、悟りも捨て切った洒々落々(しゃしゃらくらく)の消息を目指します。
味噌の味噌臭きは、上味噌にあらず、悟りの悟りの臭きは上悟りにあらず、と。
百花春至為誰開(碧巌録) ひゃっかはるいたって、たがためにかひらく
『碧巌録(へきがんろく)』第五則「雪峰尽大地(せっぽうじんだいち)」の公案の頌(じゅ)にある言葉です。
寒風吹きすさぶ冬の時節は、見渡す限り枯野原でも、ひとたび春風が吹けば、何処(どこ)からともなく次から次へと青い芽を出し、たちまち緑をつけて、一斉に花を咲かせます。
梅、桃、桜、牡丹(ぼたん)、五月(さつき)、つつじ等が、まさに百花繚乱(ひゃっかりょうらん)と咲き乱れます。
花の便りに浮かれ出て酒宴を設け、放歌乱舞(ほうからんぶ)の乱痴気(らんちき)騒ぎの「花見」だけでは花に申し訳ありません。
この百花の姿が私達に大切な事を教えているのです。
江戸の漢学者、佐藤一斎(さとういっさい)の言葉にあります。
月を看(み)るは、清気(せいき)を観(み)るなり、円欠晴翳(えんけつはれかげ)の間(かん)に在(あ)らず。花を看るは、生意(せいい)を観るなり、紅紫香臭(こうしこうしゅう)の外に存す。(『言志四録』)
月を観るのは清らかな気を観るのであって、月が円くなったり、欠けたり、晴れたり、かげったりする形を観るのではない。
花を看るのも、その生き生きとした花の心を観賞するのであって、紅や紫の色とか、香りのような外に現われた様子を観るのではない。
即ち花の生命(いのち)、心を学ぶべきだというのです。
「百花春至って誰が為にか開く」。
花は一体、誰の為に咲くのでしょうか。誰の為でもありません。何の為でもありません。そこにはそういったはからいは微塵(みじん)もありません。自分の生命の赴(おもむ)くままに自分の全生命を無心に発揮して、天地一パイに「ただ、ただ」咲いているのです。
ただ咲いて、私達に生き方を教え、勇気づけ、慰め、そして楽しませてくれます。しかもその功を少しも誇る事もありません。なんとすばらしい事ではないでしょうか。
花といえば小島昭安(こじましょうあん)師が著作の中で心温まる話を紹介しています。
ある日、浅草のある幼稚園の前を通りかかった時、園舎の片すみにあるごみ捨て場に、園児(女児)が一人、枯れかかった花を持って、走ってきました。
で、何気なく見ていますと、その子は大きな声で、「花さん、どうもありがとう」と言って、ポイと捨てました。
その行為に、ハッと胸をつかれた私は、その子を呼びとめて尋ねてみました。「いつもそういって、お花を捨てるの?」
するとその子は、首を大きく、こっくりすると、こう言ったのです。「そうよ、お母さんはいつも、そうしてるのよ。だって花はきれいに咲いて、みんなを嬉(うれ)しくさせてくれたんだもの。だからお礼を言って捨てるの」 (総持寺出版部発行『心をたがやす』参照)
この子供も「花の生命」「花の心」のわかった子供です。否、「花誰が為に開く」のわかった子です。
看脚下(五家正宗贊) かんきゃっか
天龍寺の峨山(がさん)和尚が、師匠の滴水(てきすい)和尚の紹介状を持って、初めて東京に出て、鉄舟居士を訪ねた時、生憎書生がいなかったとみえて、鉄舟居士が自分で台所から鉄瓶を提げて出てきました。
居士は紹介状を読むと、「上がれ」と言って、鉄瓶をそこへおいたまま、中へ入ってしまわれました。
峨山和尚はその鉄瓶を提げてあとからついて行って、室の火鉢の上にその鉄瓶をかけてから挨拶をしました。
鉄舟居士がそれ以来、「峨山こそ禅僧らしい禅僧だ」と大いに峨山和尚を推(すい)賞(しょう)されたという話があります。
鉄瓶は玄関にあるべきものではない、火鉢の上にあるべきものであります。
そのあるべきところに、そのものをあらしめることが、調えることであり、禅であります。
相撲取りは土俵に上がったら、すり足で取り組むのが原則だそうであります。
能の舞は舞台をすり足で歩くのだそうであります。
いつも大地を踏みしめて浮き足にならぬことが、日本民族の本来の姿であります。
いかなる場合に臨んでも乱れない、よく調えられたる心、これを「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」と名づけます。
庭前柏樹子(無門関) ていぜんのはくじゅし
『無門関』第三十七則にある話です。
一人の僧が趙州(じょうしゅう)和尚に問います。「如何(いか)なるか是(こ)れ祖師西来意(そしせいらいい)――達磨大師がインドからはるばる中国へ来られた真意とは何か!」。
それは言ってみれば禅を伝えるためです。
だから、この問いは「禅」とは、「仏」とは、「悟り」とは、という事です。
これに対して、趙州和尚は、「庭前の柏樹子」といい切ります。
「子」は助辞(じょじ)で意味はありません。
「柏樹」とは、所謂(いわゆる)、日本の「かしわ」の樹ではなく、柏槙(びゃくしん)といわれるもので、無数に分かれた小枝の周囲に糸杉に似た葉が付き、繁茂力が強く、冬も夏も色を変える事なく、常に緑を誇り、幹は檜に似て赤く、縦じまが美しい樹です。
趙州和尚の住した観音院は別名、柏林寺ともいわれ、柏樹が蒼々(そうそう)と繁っていたといわれます。そこでの問答です。
「如何なるか是れ祖師西来意」。「庭前の柏樹子」。
趙州和尚は何をいおうとしているのでしょうか。
山川草木(さんせんそうもく)悉皆成仏(しっかいじょうぶつ)、見るもの聞くもの、存るものすべてが、そのまま仏の世界という意味で「庭前の柏樹子」と答えただけではありません。
『趙州録』に続きの話があります。
僧が続けてたずねます。「和尚、境(きょう)を将(もっ)て人に示すこと莫(な)かれ――私は禅とは何かと聞いているのです。境、即ち心の外の物で答えないで下さい」というのです。
趙州和尚云く、「我れ境を将て人に示さず――私は決して心の外の物で答えてはいない」。
そこでまた、僧が問います。「如何なるか是れ祖師西来意」。
趙州和尚、厳然として、「庭前の柏樹子」と答えます。
この僧は心と境とを対立的に見ての問いです。
趙州和尚の消息は、心と境と一体一枚、心境一如、禅師の心には境など存在しないのです。
庭前の柏樹子、ただただ、庭前の柏樹子です。
天地ヒタ一枚の柏樹子です。
祖師西来意だの、禅だの、仏だの、悟りだのという小理屈は捨て切って、天地一パイの柏樹子に成り切った絶対的な境涯を趙州和尚は示そうとしているのです。
この消息は釈迦、達磨といえども窺い知る事の出来ない、兎の毛ほどの思慮分別も差し挟む事の出来ない徹底的な「無心」の心です。
その辺を後に、妙心寺の開山、関山国師は、「柏樹子の話(わ)に賊機(ぞっき)あり」と、寸評されています。
この公案には恐ろしい盗賊のような働きがあって、私達が今まで営々として築いて来た名誉財産はいうに及ばず、執着分別心、煩悩妄想を、根こそぎ奪い去らずにはおかない機略があるというわけです。
後日談があります。
日本黄檗宗の開祖、隠元禅師(いんげんぜんじ・1592〜1673)は江戸時代、中国明の国より渡来し、日本の禅道場に法戦を挑んで各地を遍参した事があります。
その折、京都の妙心寺にも上山し当時の山主、愚堂和尚と問答に及びます。
「開山、関山国師の語録を拝見したい」
「開山さまには語録はありません」
「語録なくして、何で開山と云えるか」
「開山さまには語録はないが、ただ『柏樹子の話に賊機有り』という言句があります」
隠元禅師、この一語を聞いて身震いし、
「この一語、百千万巻の語録に勝る」
と云ってうやうやしく礼拝したと伝えられています。
隠元禅師をして驚懼(きょうく)せしめた語が、まさにこの「賊機有り」の語です。
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名無しさん@3周年:2006/08/24(木) 02:57:29 ID:4BsoYAJb
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寒雲抱幽石 霜月照清池(虚堂録)
かんうんゆうせきをいだき、そうげつせいちをてらす
寒雲とは冬の凍てついた雲、幽石とは苔むした静かな石。霜月とは霜の降りる夜の月。清池とは澄みきった池の事。
初冬の頃です。冬の凍てついた雲が苔むした石を抱くように取りまいています。
あたりは深々(しんしん)と冷えこんで霜の降りるような夜です。
寒々とした月が澄んだ池を照らしています。
まさに初冬の夜の情景です。
禅の修行で鍛え上げた境涯を、色々な季節の風景に託して表現しますが、一番多いのは秋で、次いで春。
ある見方をすれば、禅の修行は捨て切る修行です。
それは、切り捨てようとしてもどうしても捨て切れない煩悩妄想は云うに及ばず、永年積み重ねて来た知識、財産、地位、名誉等を一切捨て切って大死一番「無」に徹することです。
夏が終わり秋が来て、花も枯れ、葉も散って冬眠の「死」の世界が、この死に切った「無」の消息を端的に象徴するのに一番ふさわしいかも知れません。
禅寺の庭には石と砂だけで山や川や水の流れを表現した「枯山水」の庭や、石だけを置いた「石庭」などが多いのはこの辺の消息です。
凄惨(せいさん)なまでの冬景色こそ、余計なものを一切捨て切った道人の磨き上げた心境というわけです。
道元禅師は二十四歳の時、宋に渡ります。まず天童山に入門し、毎日一心に古人の語録を読みます。
ある時、西川(蜀の地方)の方から来た一人の僧が詰問します。
「古人の語録なんか読んで何の用ぞ」
「古人の行履(あんり:行い)を知るのだ」
「それを知ってどうするのだ」
「日本に帰ってから人を教化する」
「そうやってどうするのだ」
「衆生を救済するのだ」
「畢竟(ひっきょう:結局)どうするのだ」
道元禅師は黙って引き下がります。
それっきり語録等は一切見る事なく、坐禅一すじに励んだと云われています。
道元禅師にしてみれば、祖師の語録も余計なものだったのです。
また、鎌倉幕府から二千石の寄進状をもらった弟子の玄明を破門追放したのみならず、玄明の坐禅修行をしていた床の下を七尺も掘り下げ、その土を投げ捨てたという逸話からも、
道元禅師の境涯を思う時、まず、この「寒雲幽石を抱き、霜月清池を照らす」の句が思い出されます。
風吹不動天辺月 かぜふけどもどうぜずてんぺんのつき
雪圧難摧澗底松(普灯録) ゆきおせどもくだけがたしかんていのまつ
ひとたび、大風でも吹けば、地上の塵芥(じんかい)が飛び散り、草木は皆、揺れ動きます。
空にたなびく雲といえども、たちまち形を変えて流れ去ります。
しかし、天上に輝く月は、そんなもの「何処吹く風」とばかりに、少しも動じるところなく悠々と照り輝いています。
また、ひとたび大雪でも降れば、あたり一面の雑木はたちまちその重さに耐えかねて折れたり、潰されたりするものです。
しかし、日頃雨に打たれ風に吹かれた「澗底(かんてい)の松」、すなわち谷底に育った松は、雪ぐらいではビクともしません。
雪を撥ねのけ、依然として色鮮やかに緑を保ち、松籟(しょうらい)を聞かせてくれます。
「風ふけども動ぜず天辺の月、雪圧せども摧け難し澗底の松」。
月と松に喩(たと)えて、どんなことにも動じない確固たる信念、どんな困難に遭遇しても挫(くじ)けない強い意志が大切だというわけです。
科学評論家で駒沢大学の教授の丹羽小弥太先生には、かつて二十余年ほど前、生物学の講義を受けたことがあります。
小兵ながら精悍(せいかん)な物腰で、ていねいな講義をされていたのが印象的でしたが、十四年前に口腔底部ガンに侵され、あごの骨を切り取って、骨の代わりに針金を入れ、体の他の部分の皮膚を移植して人工あごを作る大手術をし、長い闘病生活の末に、教壇に復帰します。
しかし、それでもガンの猛威は止むことなく、至るところに転移し、入院、手術、退院の繰り返しです。
その絶望と苦渋の中で、病魔の正体を知りつくした一人の科学者として、自分自身を冷静に見つめて、壮絶な闘病レポートを発表しています。
欠伸(あくび)せんに 顋(あきど)は痛し舌痛し 噛み殺しては涙するかな
すさまじいばかりの生きざまが偲ばれます。
しかし、昭和五十八年九月二十八日、ついに力尽きて亡くなります。
三日後の朝日新聞「天声人語」に追悼文が出ています。
――記録をつづると言ってもそれはかなりきつい仕事だ。
ものを深く考え続けると、たちまち顔の下半分にしこりができて耐え難い苦しさを味わう。
左肩の皮膚をはいだ跡がケロイドになり、左腕が十分にあがらない。
右腕との均衡がとれないからものを書くとすぐ疲れる。
やせ細った体では座り続けるとしこりが痛み出す。
流動食しかとれない体はむりがきかない。
悪条件の中でものを書くことは、自分の体を切り売りするに等しいことだ。
それでもなお書き続けたのは丹羽さんの中の「科学者の目」のせいではなかったか。
がんを宣告され、手術を受け、転移を恐れながら生きる、そういう自分自身の心と体を見つめることで、科学者として生きることの証左を示したかったのではないだろうか。
(昭和五十八年十月一日、朝日新聞)
丹羽先生の壮烈なまでの生きざま、科学者として最後まで戦い続けた先生こそ、「風吹けども動ぜず天辺の月、雪圧せずとも摧け難し澗底の松」の消息です。
花薬欄(碧巌録) かやくらん
『碧巌録』第三十九則に「雲門花薬欄」という公案があります。
挙(こ)す。僧、雲門に問う、「如何(いか)なるか是(こ)れ清浄法身(しょうじょうほっしん)」。
門曰(いわ)く、「花薬欄」。
雲門文偃(ぶんえん)禅師(八六四〜九四九)に一人の僧が問います。
「煩悩妄想(ぼんのうもうぞう)がすっかりなくなった美しい清浄な悟りの本体とはどんなものでしょうか」。
雲門、答えて曰く、「花薬欄」。
花薬欄とは何の事でしょうか。
古来より、花薬欄についてはいろいろ解釈が分かれます。
即ち、便所の籬(まがき)(生垣)とか、柵をめぐらし丁寧に囲った芍薬(しゃくやく)の植えこみ、或いは一般の花畑という意もあります。
清浄法身という問いに対して、不浄なもので答えるという意味で、便所の袖垣と解すも一理あります。
しかし、少々理屈が過ぎます。
それよりも、どんな花でもいい、何も、牡丹(ぼたん)や芍薬でなくとも、小さい名もない雑草の花でもいい、色々な花が咲き乱れる花畑と解す方がより禅的です。
「清浄仏」、そこに美しい花が一パイに咲いているではないか。
じっくり見なさい、花それぞれが、その色を誇る事もなく、花を競う事もなく、ありのままの姿を呈して、仏の真面目(しんめんもく)を発揮しているではないか、それ以外に何の清浄法身があろうかというわけです。
↑
仏教詩人、坂村真民さんに「野の花」という詩があります。
明るくて
朗らかで
いつもにこにこしている
野の花
神から授かった
そのままの装いで
今も咲いている
野の花
素直で
遠慮深くて
つつましい
野の花
わたしは足をとめ
じっと見つめる
するとかならず
声がきこえてくる
それは神のことばのように
わたしの詩心を
瑞々しいものにしてくれる
ああ慕わしいのは
野の花
野の人
野の心
一切唯心造(甘露門) いっさいゆいしんぞう
「一切(いっさい)は唯(た)だ心の造るものなり」と読まずに、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」と読みます。
盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会(せがきえ)――釈尊在世当時、弟子の阿難(あなん)尊者が、「定命尽(じょうみょうつ)き餓鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」と
陀羅尼経(だらにきょう)を唱え供養する修法を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食(じき)の施しをする行事――が修行されます。
その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、『施餓鬼―甘露門(かんろもん)』というのがあります。
その初めに、
若人欲了知(じゃしんにゅーりょうしー) 三世一切仏(さんしーいしんふー) 応観法界性(いんかんはかいしん) 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)・・・
若(も)し人、三世一切(さんぜいっさい)の仏を了知(りょうち)せんと欲しなば、応(まさ)に法界(ほっかい)の性(しょう)を観ずべし、一切唯心造なり、と。
―もし仏のこころを知ろうとするならば、宇宙一切の諸法の本性を唯だ心造(しんぞう)なりと観ずべし。
「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。
「唯」とは、ただそれだけ(・・・・・・)のこと、私たちの周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したものにすぎないというわけです。
すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しないのです。
↑
白隠禅師はあるとき、一人の若侍から地獄の有無を問われます。
白隠は若侍を一瞥して言います。
「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあきれたことだ!」とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!と口を極めて面罵(めんば)します。
初めは有名な高僧の言うことだと歯をくいしばって耐えていた若侍も、ついに我慢しきれなくなって、やにわに刀を抜いて白隠に斬り掛かります。
白隠和尚は巧みに逃げまわりますが、ついに追い詰められて一刀のもとに斬り伏せられようとする刹那(せつな)、白隠は「そこが地獄だ!」と鋭い叱声(しっせい)を飛ばします。」
その一語を聞いた若侍は正気を取り戻し、なるほどと合点します。
さきほどの鬼面もどこへやら、思わずそこに平伏して、笑みさえ浮かべて言います。
「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました」と。すると白隠もにっこり笑って、「そこがまた極楽よ!」と事もなげに言い切ります。
地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。
心が造り出したものにほかならないのです。
有無・得失・善悪・美醜・愛憎など、一切の相対的差別の見方も、これすべて心の造り出したものです。
相対的世界があるからそこに争いがあり、悩みがあり、迷いがあるわけです。
法界すべて一切唯心造と達観すれば、自然にそれらの対立が泯然(みんぜん)と消えて、真如(しんにょ)そのままの心になることができるのです。
まさに仏の心を知ったというべきです。
至道(しどう)は無難なり、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。但(た)だ憎愛莫(な)くんば、 洞然(どうねん)として明白なり
と『信心銘』にある通りです。
一切唯心造、この語を知的に理解することはやさしい、しかし、一切唯心造を達観して、洞然として明白になることは難しいものです。
法然上人の『一紙小消息』(いっしこしょうそく)
元祖大師御法語 一紙小消息
末代の衆生を往生極楽の機にあててみるに 行すくなしとても疑うべからず
一念十念に足んぬべし
罪人なりとても疑うべからず 罪根ふかきをもきらわじとの給えり
時くだれりとても疑うべからず 法滅以後の衆生猶もて往生すべし況や近来をや
我が身わろしとても疑うべからず 自身は是れ煩悩具足せる凡夫なりとの給えり
十方に浄土おおけれど西方を願うは 十悪五逆の衆生の生まるる故也
諸仏のなかに弥陀に帰したてまつるは 三念五念にいたるまでみずから来迎し給う故也
諸行のなかに念仏を用うるは 彼の仏の本願なる故也
いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに 願として成ぜずという事あるべからず
本願に乗ずる事は 信心のふかきによるべし
受けがたき人身をうけて あいがたき本願にあいて おこしがたき道心を発して 離れがたき輪廻の里をはなれて 生まれがたき浄土に往生せん事 悦びの中のよろこびなり
罪は十悪五逆の者も生まる1と信じて少罪をも犯さじ2とおもうべし
罪人猶生まる況や善人を乎
行は一念十念猶むなしからずと信じて3無間に修すべし
一念猶生まる況や多念を哉
阿弥陀仏は不取正覚の言を成就して現に彼の国にましませば 定んで命終の時は来迎し給わん
釈尊は善い哉我が教えにしたがいて生死を離ると知見し給い 六方の諸仏は悦ばしい哉我が証誠を信じて不退の浄土に生まると悦び給う覧と 天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし
このたび弥陀の本願にあう事を 行住坐臥にも報ずべし
かの仏の恩徳を 馮みてもたのむべきは乃至十念の詞 信じても猶信ずべきは必得往生の文也
『法然上人行状絵図』から仮名改め
(註)1. 原文「生ず」 2. 原文「犯せじ」 3. 原文「信じ」
末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに、行少なしとても疑うべからず。一念十念に足んぬべし。罪人なりとても疑うべからず。罪根ふかきをもきらわじとのたまえり。
時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし況や近来をや。我が身悪ろしとても疑うべからず。自身は是れ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり。
◆末代の衆生を往生極楽の機にあてて見るに
この私は、主観的に私を客体視しております。その客体としての私ではなく、主体としての私が、ここで「末代の衆生」として採りあげられているものと思います。
「往生極楽」とは、この客体としての私の存続・滅亡に関係なく、主体としての私が、阿弥陀仏の力によって無為涅槃の世界に生きることであると思います。
「往生極楽の機」とは、いかなる人がこの生死を超えた死後までの救いを得ることができるか、その救いを得る条件であります。
つまりこの一文は「この私が、阿弥陀仏の救いを得られる条件に当たっているかどうか、引き比べてみよう」ということになります。
◆行少なしとても疑うべからず。一念十念に足んぬべし。
「行」とは、阿弥陀仏が私をこの救うためにこの私に与えた行、阿弥陀仏の実在を信じて南無阿弥陀仏とお呼びする、称名念仏の行のことです。
この私の修する称名の数が少ないからといって、阿弥陀仏による死後の救いが受けられないように思ってはいけないということです。
その理由は、たとえたった一回や十回の称名であってもおとなえした者は、阿弥陀仏によって死後まですべて救われるのだ、ということです。
◆罪人なりとても疑うべからず。罪根深きをもきらわじとのたまえり。
「罪人」とは、すでにたくさんの罪を重ねてきたことを意味します。
これは宗教的な罪をいうのではなく、法律的な罪をいうのでもなく、道徳的な罪をいうものと思います。
ところが阿弥陀仏は、上はありとあらゆる善を身に修めた大善人から、下はありとあらゆる悪を犯した大悪人まで、すべてをお救いになります。
その旨、観無量寿経の中に見えています。
だからこの私は生まれてからこのかた数々の罪を犯してきたけれども、阿弥陀仏に死後の救いをいただくことをうたぐるなというのです。
◆時下れりとても疑うべからず。法滅以後の衆生なおもて往生すべし況や近来をや。
「時下れり」とは、宗教的聖者の直接的な指導を受けられない時代に生きていることを意味します。
冒頭の「末代」もこれを意味します。宗教的聖者にじかにあって指導を受けられた者は幸せです。
聖者の弟子や孫弟子に教われる者も幸せです。しかし聖者は聖者自身が人を救うのではありません。
救うのは阿弥陀仏であります。
そして阿弥陀仏は永遠である、永遠の救いの主を阿弥陀仏というのです。
聖者の残した教えが歴史の中で抹消される時が必ずやってきますけれども、それでも救いの本質たる阿弥陀仏は存在し働きつづけるのです。
ならば教えを手にする私が、聖者に会えぬからといって、阿弥陀仏の死後の救いから漏れることがありましょうか。
◆我が身悪ろしとても疑うべからず。自身は是れ煩悩具足せる凡夫なりとのたまえり。
「我が身わろし」とは、この私が道徳的な罪にあふれているばかりでなく、その根源となる宗教的な罪に汚れていることです。
阿弥陀仏という救いの主とのへだたりが、とてつもなく広くて埋めようがないということです。
この私が精神・肉体という客体と離れられない存在だということです。
原子・分子からなる核酸・蛋白質、それからできている細胞、その細胞の集まりである身体に、この私は依存しています。
煩悩とは、この物質的な私を保持する本能であります。
物理的実体として存在するための、必然的な現象です。
これは物質界に存在することの罪です。
唐に現れて阿弥陀仏のご降臨を受けた善導大師は「自分はそのような煩悩をもった存在であると勇んで信じなさい」とお許しくだされました。
ですから私がこのようでありましても、阿弥陀仏の死後の救いは疑いありません。
以上の四箇条の示すところは何でしょうか。客体としての私は脳と肉体からなり、自己保存のためにのみ存在する物質的存在であります。
しかし主体としてのこの私が、救いを必要としております。
この私が阿弥陀仏の救いを得なければなりません。
それが往生極楽、死後の救いということです。ですから死後の救いとは、けっして、死後だけの救いではありません。
死後までも包んだ救いです。
生死を超越したこの真実の私、それが救いを受けることであります。
上記の四箇条は、その救いを私が見失う典型的なパターンを、お示しくださったものであります。
十方に浄土多けれど西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり。
諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念に至るまで自ら来迎したまう故なり。
諸行の中に念仏を用うるは、彼の仏の本願なる故なり。
◆十方に浄土多けれど西方を願うは、十悪五逆の衆生の生まるる故なり。
「十方に浄土多けれど」とは、西方以外の浄土、阿弥陀仏の極楽浄土以外の浄土は数多いということです。
それは、極楽以外にも、救いの世界のようなものが多いということを意味しております。
浄土というからには、それらも仏さまの国であり、救いの都、涅槃界であります。
しかし阿弥陀仏の西方極楽がほんものである理由は、十悪五逆の衆生の生まれる故であります。
道徳的な罪にあふれたこの私を救う故であります。
ここでは道徳的罪のみ言及されていますが、それは上記四箇条の疑いのすべてを代表しているにすぎぬと思います。
つまり他の浄土は、行多い者、道徳者、聖者の直弟子、宗教的な罪のない者は行けるが、この私には届かぬ浄土です。
少なくともこの私にとってはそう映ります。
だからこの私が願うのは、西方極楽なのであります。
◆諸仏の中に弥陀に帰したてまつるは、三念五念至るまで自ら来迎したまう故なり。
「諸仏の中に」とあるのも同じく、阿弥陀仏以外に救い主のような顔をしたものがたくさんあるということです。
それらも仏さまであります。しかしこの私が阿弥陀仏をおたのみする理由は、阿弥陀仏は称名の少ないこの私の前にも現れてくださるからです。
これも上記四箇条のひとつをもって、四箇条のすべてに替えたものと思います。
つまり他の救い主は、行多い者、道徳者、聖者の直弟子、宗教的な罪のない者は救うが、この私には届かぬ救いです。
だからこの私がたのむのは阿弥陀仏であります。
◆諸行の中に念仏を用うるは、かの仏の本願なる故なり。
「諸行」とは、この私が阿弥陀仏の救いを受けるために、どういうことをしたら良いか、それがたくさん考えられるということです。
しかしながら阿弥陀仏の実在を信じて南無阿弥陀仏と申す称名のお念仏以外は、ほんものではないとのお示しです。
「本願」とあるのは、阿弥陀仏はまさに本願の現れ出たものであると、そういった意味で申すものと思います。
つまり、自分の実在を信じさせてお念仏させて人を救うのが、阿弥陀仏の正真正銘の目的であり存在理由であります。
ですから、この私が阿弥陀仏に救われるには、阿弥陀仏を信じてお称名するのです。
お称名以外のおこないによっていただけるお救いは、正真正銘の阿弥陀仏のお救いではないのであります。
以上のことは、わかったことのように書きましたが、すべて法然上人ご自身が事実として体験し実証済みのことを、このように書いてくださったということと思います。
すなわち法然上人ご自身が十悪五逆の衆生でありながら往生を確証し、三念五念しかせぬ時にも阿弥陀仏の来迎を御覧なさり、称名によってはじめて絶対の救いをお受けになった、
それ故にこのように、救いのようなものがいろいろある中にも、阿弥陀仏の西方極楽だけが確かにお念仏のみによってこの私を救うぞよと、お示しくださっているのだと思います。
そして私自身がそれを確かめなければなりません。
いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずという事あるべからず。本願に乗ずる事は信心の深きによるべし。
◆いま弥陀の本願に乗じて往生しなんに、願として成ぜずという事あるべからず。
以上のことから、阿弥陀仏の本願、すなわち自分の存在を信じさせてお念仏させて人を救うという阿弥陀仏の正真正銘の目的、これにのっとってこの私が救いを受けようと願うならば、かならず成就するということになります。
それではどのようにすれば阿弥陀仏の正真正銘の目的にのっとることができるのでしょうか。
◆本願に乗ずる事は信心の深きによるべし。
それには、阿弥陀仏の実在を信じるということだけが大切であります。信じるとは知ることです。
阿弥陀仏の実在を知ることができましたら、これは阿弥陀仏を念じることができることになります。
阿弥陀仏の実在を知りませんと、阿弥陀仏を念じることができません。御名をお呼び申すこともできません。
誰だかわからないけれど呼んでいることになり、阿弥陀仏をお呼び申していることになりません。
阿弥陀仏を知れば、阿弥陀仏を念じたりお呼び申したりするのはたやすいことになります。
まずは部分片鱗でも良いですから、阿弥陀仏の実在を知って、それを念じてお呼び申さねばなりません。
それによれば必ず、知らず知らず、この私が救いを受けるのであります。
受けがたき人身を受けて、遇いがたき本願に遇いて、発しがたき道心を発して、離れがたき輪廻の里を離れて、生まれがたき浄土に往生せんこと、悦びの中の悦びなり。
◆受けがたき人身を受けて
私の脳は、肉体によって維持される脳です。
だから脳も肉体を保持しようとします。
肉体も脳も私です。
肉体と脳は組織器官からなりたち、それらは細胞からなりたっています。
私は、父と母の身体から生殖細胞をひとつずつもらって、その細胞からできてきた者です。
しかるに細胞は核酸や蛋白質といった高分子よりなりたちます。
細胞の機能というものは、高分子の自己増幅現象に過ぎません。
自己増幅に適した構造をもつ高分子が自己増幅をとげるという現象です。
しかるに高分子は多くの原子がエネルギー的に安定な状態にむすびついたものにすぎません。
原子は陽子、中性子、電子よりなります。
かような具体的記述によってわかってくることですが、意志をもたぬ自然のなりゆきから、たまたま因縁あいととのって、今の私が客体として存在しております。
そしてなぜか知らぬが、主体としての私がそこにありあす。
◆あいがたき本願にあいて
ここで本願に遇うということの「遇う」の意味は、浅くとるべきであると思います。
つまり、阿弥陀仏の正真正銘の目的・存在理由にこの私がのっかるということではないと思います。
単に昔の宗教的聖者が残した阿弥陀仏の教えがこの私の目の前にある、そのことを指していると思います。
意志をもたぬ自然のなりゆきが、たまたま今こうして私を形づくっている。
人間と人間が集まれば文化がはぐくまれます。
その中に宗教的聖者が生まれ、阿弥陀仏によるこの私の救いを確認して、文化として残してゆきます。
それは何百年に一度のことです。
文化も意志をもたぬ自然のなりゆきの結果でありますから、聖者の教えも、自然現象や文化の衝突によって消えてしまいます。
しかるに私の目の前には今、いにしえの聖者が残した教えがしかとあるのです。
◆おこしがたき道心をおこして
道心をおこすということは、眼前の阿弥陀仏の教えに対して、この私が、見向きもせずに去ってしまうのではなく、何かを感じとって向きあっているということです。
この世には今ここに阿弥陀仏の教えがありまして、日本中どころか世界へと普及しております。
また世の中には、とにもかくにもたくさんの人間がうようよしております。
ところがそのたくさんの人の中で、阿弥陀仏の教えに見向きもせずに去ってしまう人がほとんどであります。
あるいは向きあっているようには見えても、その実、ちっとも重要視していない人もあります。
そんな中でこの私が阿弥陀仏の教えに向きあっているということです。
◆離れがたき輪廻の里を離れて
道心をおこすということと、輪廻の里を離れるということの間には、大いなる飛躍があります。
それが、阿弥陀仏のお救いをこの私にいただくということです。輪廻の里とは、流転の世界をいいます。
つまりこの私が今、因縁あいととのって、この一時の肉体と脳をいただいております。
しかしこの肉体と脳は、いずれ天地にお返しせねばなりません。
つまり細胞を構成する高分子が壊れ、また別の生物や無生物のからだに使われていきます。
身体は使われていきますが、この私はどうなるでしょう。そこのところを「輪廻の里」としてお示しくださっているものと思います。
阿弥陀仏のお救いをいただくことで、この私が救われ、肉体を天地にお返ししたのちのちまで、輪廻の里を離れることができるのです。
◆生まれがたき浄土に往生せんこと
この私が阿弥陀仏に救われますということは、極楽という無為涅槃の世界に、この私が生きるということです。
阿弥陀仏の実在を一部でも知って南無阿弥陀仏とおとなえする人であれば、この私は知らず知らずに、無為涅槃の世界に生きるとお示しされております。
しかしこの私は、それを明々瞭々に知ることができないでおります。
ですから、ぜひともこの私がただいま極楽にあることを知らねばなりません。
この私が阿弥陀仏の救いをいただいて、阿弥陀仏と同じ涅槃の苑に住むということ、これが生まれがたき浄土に往生するということです。
◆悦びの中の悦びなり
人身受けがたきを今すでに受けております。本願遇いがたきを今すでに遇っております。
これは悦ぶべきことでありますが、まだ悦びの中の悦びとまではいきません。
道心おこしがたきを今すでにおこした人もあるでしょう。
まだの人もあるでしょう。
すでにおこした人は悦ぶべきでありますが、まだ安心できません。
輪廻の里を離れておりません。
輪廻の里の離れがたきを今すでに離れた人もあるでしょう。
まだの人もあるでしょう。
阿弥陀仏の実在の一部でも知れば、輪廻の里を離れることを感じて、悦びがおこってまいります。
しかしこれも、最大の悦びではありません。
それはこの私がいちばんよく感じております。
まだまだ悦びたりません
この私が浄土にあることを知らないからです。
浄土の生まれがたきに今いることを知ってこそ、悦びの中の悦びであろうと思います。
罪は、十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる況や善人をや。行は、一念十念猶むなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生まる況や多念をや。
◆罪は、十悪五逆の者も生まると信じて、少罪をも犯さじと思うべし。罪人なお生まる況や善人をや
十悪とは、殺生・偸盗・邪淫・妄語・両舌・悪口・綺語・貪欲・瞋恚・邪見をいいます。
五逆とは、殺父・殺母・殺阿羅漢・出仏身血・破和合僧をいいます。
これらの罪は道徳上の罪と先に申しました。
自分が報いを受ける罪です。
道徳上の罪を犯せば、現実の社会においてあるいは法律上の罰を受け、あるいは法律の目をかいくぐっても、人々の白い目は逃げられません。
あるいは自ら苦しみ悩みます。
あるいは宗教的聖者に反逆して、救いをいただく好機を逸し、輪廻の里を離れることができません。
ところが阿弥陀仏は、上はあらゆる善を身に修めた大善人から、下はあらゆる悪を犯した大悪人まで、すべてをお救いになります。
不可能を可能にします。
そのお救いをこの私にいただくことができれば、少しの道徳上の罪も犯すまいと思うようになってきます。
この私のごとき道徳上の大悪人がお救いをいただけた。
それなら罪を犯すまいと思うようになるということです。
◆行は、一念十念なおむなしからずと信じて、無間に修すべし。一念なお生まる況や多念をや
行とは、阿弥陀仏の実在を知って南無阿弥陀仏とお呼び申す、称名の念仏のことです。
阿弥陀仏の実在を一部でも知って、それを一声二声お呼び申せば、なおむなしからず、この私がお救いをいただいていることの片鱗がわかります。
それを知るにつけ、ますますお呼び申そうという気になってまいります。
実在の阿弥陀仏をもっと知りたいという気持ち、この私にいただいた救いを楽しみたいという気持ちが、こんこんと湧いて参ります。
ですから、ますますお呼び申さねばならなくなってきます。
阿弥陀仏は不取正覚のことばを成就して現に彼の国に在せば、定んで命終の時は来迎し給わん。釈尊は、善い哉我が教えにしたがいて生死を離ると知見し給い、六方の諸仏は、悦ばしい哉我が証誠を信じて不退の浄土に生まると悦び給うらん。
◆阿弥陀仏は不取正覚のことばを成就して現にかの国にましませば、定んで命終の時は来迎したまわん
阿弥陀仏は、実在の阿弥陀仏であります。現に涅槃界にまします阿弥陀仏です。
不取正覚のことばを成就しているとは、本願を成就なさっているということです。
阿弥陀仏の根源である正真正銘の存在目的たる、お呼び申すこの私に救いを与えるということです。
この私も一部を感じている阿弥陀仏です。
知らず知らず、この私が極楽涅槃界に生まれているのです。
私の精神と肉体には、滅ぶときが必ずやってきます。
◆釈尊は、よいかな我が教えにしたがいて生死を離ると、知見したまうらん
釈尊ご自身、阿弥陀仏の救いを真実にいただかれて、輪廻の里を離れ、極楽涅槃界にある自らを発見なさいました。
その残された教えが今この私の目の前にあるのです。この私が阿弥陀仏の救いをいただいていること、釈尊は涅槃界から明々瞭々とお知りになって、よいかなと悦んでいらっしゃるでしょう。
そしてこの私の受けている救いのことをもっと知れよと、励まされていることでしょう。
◆六方の諸仏は、悦ばしいかな我らが証誠を信じて不退の浄土に生まると、悦びたまうらん
「たまうらんと」とありますが、資料的には「たまうらん」の方が多いですので、こちらを採用しました。
六方の諸仏とは、先に「十方に浄土多けれど」「諸仏の中に」として登場してきました。
仏様でありますから、涅槃界の住人であらせられ、救いの主であらせられます。
しかるに阿弥陀仏は、これらの諸仏にあがめられる存在であります。
諸仏のおのおのも、阿弥陀仏の救いを自身にいただかれて、涅槃界の住人となられたのであります。
ですから諸仏は、一方ではそれぞれ救い主としてお働きになっておりますけれども、その実は、阿弥陀仏のお救いをこの私にすすめておられるのであります。
この私が阿弥陀仏のお救いを受けたこと、諸仏も涅槃界から明々瞭々と知ろしめして、よろこばしいかなと悦んでいらっしゃるでしょう。
天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあえる事を。行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を。
◆天に仰ぎ地に臥して悦ぶべし、このたび弥陀の本願にあえることを
「あう」とありますが、資料的には「あえる」の方が多いですので、こちらを採用しました。
天に仰ぎ地に臥すとは、この目の前の天地に感謝するということです。
何度も申しているとおり、我らの精神と肉体はこの天地からのたまわりものであります。
意志を持たぬ自然界のたまものであります。宇宙よりさまざまの元素が生み出され、海と土にはぐくまれて生命が発生・進化しました。
そしてこの一時の精神と肉体が構築され、主体としての私がなぜかここにあり、このたび遇いがたき弥陀の本願に遇い、道心をおこし、輪廻の里を離れ、浄土に生きていることを知ろうとしています。
この私が永いあいだ受けられずにいた救いを、いまこの精神と肉体が教えに出遇って、ここに受けたのです。
ですからこの私にとって、天地がこの一時の精神と肉体をくださったことは、まことに感謝すべきことであります。
まさにこの天地が、この私を阿弥陀仏の救いへとお導きくださったのであります。
◆行住坐臥にも報ずべし、かの仏の恩徳を
「行住坐臥」というのは、この私の肉体が歩いたり止まったり、座ったり横になったりという、ひとつひとつの動作経験を指しております。
この私は肉体を自然界に置いて生きていますから、一秒一秒が自然界における経験の連続です。「かの仏」とありますのは、阿弥陀仏を指しているとしか考えられません。
したがって「かの仏の恩徳」というのは、阿弥陀仏がこの私を極楽涅槃界に生まれさせることを正真正銘の目的として、実在の存在として存在していらっしゃるということ、その存在していらっしゃること自体であります。
「報ず」とは答えることです。阿弥陀仏の実在に答えるとは、阿弥陀仏を知ってお念じ申す、お名前をお呼びするにも実在の阿弥陀仏に向かってお呼びすることです。
この現実世界の経験のひとつひとつの中に、この私が、実在の阿弥陀仏をお呼び申すのでなければなりません。
馮みても馮むべきは乃至十念のことば、信じてもなお信ずべきは必得往生の文なり。
◆馮みても馮むべきは乃至十念のことば
阿弥陀仏の正真正銘の目的を、いにしえの宗教的聖者がことばにあらわしてくださいました。
それが「乃至十念のことば」です。
「設我得仏 十方衆生 至心信楽 欲生我国 乃至十念 若不生者 不取正覚」と書かれています。
「十方の衆生が、心から我が国に生まれたいと願って、たった十回念じただけでも、もし我が国に生まれないならば、私はそのような仏にはならぬ」と、阿弥陀仏の正真正銘の目的をお書きくださっています。
この私は、はじめからこの目的を持った阿弥陀仏の実在を知っているわけではありません。
ですがこの聖者のお示しをたのみにすれば、必ずや実在の阿弥陀仏を知ることができること。法然上人が自ら体験し、お示しくださっています。
◆信じてもなお信ずべきは必得往生の文なり
唐の善導大師は自らの体験を文章に残されました。それが「必得往生の文」です。
「若我成仏 十方衆生 称我名号 下至十声 若不生者 不取正覚 彼仏今現 在世成仏 当知本誓 重願不虚 衆生称念 必得往生」と書かれています。
実在の阿弥陀仏の救いによって極楽涅槃界にいるご自分を発見なさり、実在の阿弥陀仏をお念じしてお呼び申しあげれば必ず極楽に生まれることができると、ご自分の体験をお書きくださっています。
この私は、阿弥陀仏をお念じお呼び申して極楽に生まれることを、はじめから体験しているわけでもありません。
ですが善導大師のこのお示しを信じていけば、必ずやこの私が極楽に生まれること。法然上人がお示しくださっています。
看脚下(五家正宗贊) かんきゃっか
『和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集―』
(2005.11禅文化研究所編・刊)より
天龍寺の峨山(がさん)和尚が、師匠の滴水(てきすい)和尚の紹介状を持って、初めて東京に出て、鉄舟居士を訪ねた時、生憎書生がいなかったとみえて、鉄舟居士が自分で台所から鉄瓶を提げて出てきました。
居士は紹介状を読むと、「上がれ」と言って、鉄瓶をそこへおいたまま、中へ入ってしまわれました。
峨山和尚はその鉄瓶を提げてあとからついて行って、室の火鉢の上にその鉄瓶をかけてから挨拶をしました。
鉄舟居士がそれ以来、「峨山こそ禅僧らしい禅僧だ」と大いに峨山和尚を推(すい)賞(しょう)されたという話があります。
鉄瓶は玄関にあるべきものではない、火鉢の上にあるべきものであります。
そのあるべきところに、そのものをあらしめることが、調えることであり、禅であります。
↑
私は、このごろ神戸と京都の間を、毎日のように往復していますが、電車の乗り降りのたびに、「ああ、これではねー」と思って情けなく感ずるのです。
国民諸君の脚下が、あまりにも乱れておるのです。
なぜ規則どおり、二列に並んで静かに乗れないのでしょうか。
なぜあんなにあわてて先を争うのでしょうか。
中はガラ空きで、ゆっくり乗っても充分席はあるのに、あわてるのです。
なぜ横合いから人を押しのけて割り込むのでしょうか。
二人ずつ乗れば楽に乗れるのに、なぜ三人が一度に乗ろうとするのでしょうか。
入り口がつまるから、ますます時間をとるのです。
なぜ脊髄を真っ直ぐに伸ばして、堂々と乗れないのでしょうか。
前かがみになって、先の人を押すから、群衆が鞠(まり)のようにかたまって、入り口にふさがるのです。
今日の停車場は国の玄関先であります。
日本という国の大玄関は、ごらんのごとく毎日大混乱であります。国民の脚下は乱れ放題であります。
盗人が入らずにおりましょうか。
誰かが勢いよく再軍備と言えば、群衆はわけもなく、「わあー」とそのほうへ走るでしょう。
また、誰かが暴力革命と叫べば、群衆の半ばはまたそのほうへ「わあー」と走るでしょう。
かくて日本が朝鮮の二の舞いを演じて、外国人に踏み荒らされることは、火を覩るよりも明らかであります。
それでなかったら、国を丸ごと盗まれても気がつかないでいるでしょう。
今日の国民諸君にお願いしたいことは、高遠な理想や道義ではなくして、「脚下を見よ」ということであります。
しっかり脚を大地に踏みしめてもらいたいことであります。
そして静かに、日本民族のあるべきようを考えなくてはならぬことであります。
相撲取りは土俵に上がったら、すり足で取り組むのが原則だそうであります。
能の舞は舞台をすり足で歩くのだそうであります。
いつも大地を踏みしめて浮き足にならぬことが、日本民族の本来の姿であります。
いかなる場合に臨んでも乱れない、よく調えられたる心、これを「禅定波羅蜜(ぜんじょうはらみつ)」と名づけます。
禅宗で主に誦むお経はどんなもの? 般若心経をはじめ、臨済宗・黄檗宗でよく誦まれるお経の解説。
経典
臨済宗では、一般的に次のようなお経を誦みます。
開経偈
懺悔文
三帰戒
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経)
消災妙吉祥神呪(消災呪)
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
大悲円満無礙神呪(大悲呪)
開甘露門(施餓鬼)
仏頂尊勝陀羅尼
金剛般若波羅蜜経(金剛経)
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
延命十句観音経
四弘誓願文
舎利礼文
白隠禅師坐禅和讃
※ほかにも、各派本山のご開山の遺誡や和讃なども含め、多くのお経を誦みます。
開経偈 (かいきょうげ)
この偈は、我々お互いは、この受けがたい人身を受け、遇い難い仏法に遇わせていただいているのであるから、この上ない仏法をよろこび、お釈迦さまのお心を大切に会得し守らねばならない、という内容です。
金剛経の前にかならず合掌してお唱えします。
懺悔文 (さんげもん)
私たちは、はかり知れない過去から、知らず知らずのうちに「身・口・意」(三業)から「むさぼり(貪)・いかり(瞋)・ぐち(痴)」(三毒)という悪いおこないをおかしています。
いまこそ素直に懺悔します、という意味です。合掌して三遍お唱えします。
三帰戒 (さんきかい)
三帰依戒ともいいます。仏・法・僧(三宝)に帰依(信心の誠をささげること)し、けがれない心で、尊い仏さま・仏さまが悟られた真理・僧侶にすがり、仏さまの弟子となり、以後けっして悪魔や外道のために心を乱してはならぬ、という戒めのご文です。
葬儀には、懺悔文につづき三遍お唱えします。
摩訶般若波羅蜜多心経(般若心経) (まかはんにゃはらみたしんぎょう)
この題目は、インドの古い言葉のサンスクリット語(梵語)を漢字に音訳したもので、「マカ」は大きく優れたということ、「ハンニャ」は智慧の意味で、「ハラミタ」は到彼岸と訳されています。
「心経」は文字通り、心のお経ですが、中心となるお経、つまり仏さまの教えのエッセンスとも言えます。
ですから、「偉大なる真理を自覚する肝心な教え」(山田無文『般若心経』)とも訳されます。
わずか276文字(経名を含む)のこのお経は、宗派を問わず広く読まれるお経です。
消災妙吉祥神呪(消災呪) (しょうさいみょうきちじょうじんしゅ)
正式には『仏説熾盛光大威徳消災妙吉祥陀羅尼』といい、8世紀中頃の不空三蔵によって漢訳されたものです。
お釈迦さまが浄居天宮(二度と迷いの世界には環ってこない、聖者・神々の住む世界)で諸菩薩・星宿らに向かって、天災・人災など一切の災難を消除する教えを説かれたのがこのお経です。
一心にこの陀羅尼を唱えることによって、一切の災難を消除し、一切の吉祥を成就することができるという不思議な功徳をもつものとされています。
妙法蓮華経観世音菩薩普門品第二十五(観音経)
(みょうほうれんげきょうかんぜおんぼさつふもんぼんだいにじゅうご)
『法華経』(妙法蓮華経)というお経は、経中の王などと呼ばれることもあり、お釈迦さまのお説きになったお経の中で、最も尊い経典だとされています。
序品(章)から二十八品までありますが、臨済宗で常用されるのはその中の第二十五品『観世音菩薩普門品』です。
これは『観音経』とよばれていますが、その後半の偈(韻文で書かれたお経)の部分を『世尊偈』『普門品偈』などといい、独立してお唱えすることがあります。
観音さまは、広大無辺な大慈悲心をそなえられた仏さまで、ものに応じて三十三に身を変えて自由自在に人々を済度してくださいます。
昔から多くの人々のあつい信仰を集めた仏さまです。
このお経を念ずればあらゆる苦難から救われ、多くの幸せが授けられると説かれています。
大悲円満無礙神呪(大悲呪) (だいひえんまんむげじんしゅ)
『大悲呪』は臨済宗で、祖師方へ、また在家の法要など日常頻繁に読誦されるお経です。
この「ナムカラタンノートラヤーヤー」という語呂のよいお経は、『千手千眼観自在菩薩広大円満無礙大悲心陀羅尼経』という経典の中の陀羅尼部分だけをとり出したものです。
千手千眼観自在菩薩(観音菩薩)の広大無辺、無量円満にして無礙融通なる大慈大悲心を表した陀羅尼という意味です。
開甘露門(施餓鬼) (かいかんろもん)
寺院でお盆に行われる山門施餓鬼会や、日課のおつとめにもよく読誦されるお経です。
各家のご先祖さま方は、日常、その子孫の方々から手あついご供養を受けておられるのですが、多くの精霊のなかには誰からも供養されず、餓鬼道に堕ちて苦しんでいる霊もたくさんあるはずです。
このお経は、そのような餓鬼道におちて苦しんでいる多くの精霊を供養し、済度するためにお唱えするものです。
お盆は、目蓮尊者の因縁によって起こり、毎年7〔8〕月15日に行い、『仏説盂蘭盆経』にその本拠が見いだせます。
また、施餓鬼は『仏説救抜焔口餓鬼陀羅尼経』に根拠があり、毎日修すべきもので、阿難尊者の因縁に基づきます。
今日では、お盆とお施餓鬼の区別があいまいですが、もともとの因縁は全く別のものであることを心得てください。
仏頂尊勝陀羅尼 (ぶっちょうそんしょうだらに)
このお経は、消災呪と共に鎮守火徳諷経でお唱えしたり、大般若会などでお唱えすることもある大切な常用経典です。
正しくは、『浄除一切悪道仏頂尊勝陀羅尼』といい、『仏頂尊勝陀羅尼経』の中の呪文の部分をとり挙げたものです。
禅宗では、多く滅罪・生善・息災延命のために祈る経典とされています。
金剛般若波羅蜜経(金剛経) (こんごうはんにゃはらみきょう)
般若経典の一つで、『般若心経』についで広く流布しているものです。
多くの訳がありますが、一般に用いられているのは、後秦の鳩摩羅什の訳したものです。
内容は、仏陀とその十大弟子の一人、須菩提の対話形式で般若思想の要点を簡潔に説いたもので、空の思想を基本としています。
この『金剛経』にまつわる話として、中国禅宗の六祖、慧能大師(638〜713)の因縁があげられます。
慧能大師が出家する前、市中で薪を売っていたところ、一人の人が『金剛経』を読んでいるのを聞き、心がたちまちカラリと開け(開悟)、禅宗五祖の弘忍大師の門を叩くきっかけになりました。
禅宗では特に重んじられる経典で、午課で一日半分ずつ読みます。
大仏頂万行首楞厳神呪(楞厳呪)
(だいぶっちょうまんぎょうしゅりょうごんじんしゅ)
『大仏頂如来密因修証了義諸菩薩万行首楞厳経』の第七巻に載せる呪文で、「仏頂光聚悉怛多般多羅秘密神呪」というのが正式な題目です。
今日では、歴代祖師の遠忌(斎会)、津葬などに、行道(お経を読みながら堂内をめぐること)して、あるいは座ってお唱えします。
内容は、どんな誘惑に出会っても動揺しない本心(金剛堅固な本心)を説いたものです。
このお経は三つの部分からできており、初めの四行を「啓請」、第一会から第五会を「平挙」、終わりの四行を「摩訶梵」といいます。
延命十句観音経 (えんめいじっくかんのんぎょう)
観音さまのご利益を十句に縮めて、唱えやすくしたお経です。その成立については、種々の議論があり一定しませんが、眼目は「延命」、つまり寿命を延ばすことにあります。
修行するにしろ、善根を積むにしろ短命では何事も始まりません。
このお経は、延命のために観音さまに対しお唱えするものです。
四弘誓願文 (しぐせいがんもん)
これは、仏教徒として心に掲げ精進すべき四つの弘大な誓願であり、すべての仏菩薩が発する四種の誓願でもあります。内容は、
一、数限りない一切の衆生を救済しようと誓うこと
二、尽きることのない多くの煩悩を断とうと誓うこと
三、広大無辺な法門をことごとく学ぼうと誓うこと
四、この上なく尊い仏道を修行し尽くして、かならず成仏しようと誓うこと
です。日課のおつとめや、法事の最後に、ゆっくりと心をこめて三遍お唱えします。
舎利礼文 (しゃりらいもん)
舎利は、梵語を翻訳して骨身、あるいは霊骨の意味とされます。舎利には、骨舎利・髪舎利・肉舎利の三種類がありますが、特にお釈迦さまが入滅して残されたお骨を仏舎利といって尊称しています。
禅宗では、お葬式のときなどにお唱えします。
このお経は、我々の熱心な信仰心の力と、仏さまから加わる神力により、菩提心を発し、菩薩の行願を果たそうとするものです。
何はさておき、強い信心をもって、一心に仏さまを礼拝しましょう、というものです。
白隠禅師坐禅和讃 (はくいんぜんじざぜんわさん)
この和讃を作られたのは、今から250年ほど前にお生まれになった、臨済宗中興の祖といわれる白隠禅師です。
そもそも、坐禅は臨済宗(禅宗)の宗旨です。
しかし、座ることだけが坐禅ではなく、私たちの日常生活のすべて(行住坐臥)が坐禅です。
謡うも舞うも法の声で、その場その場が直ちに浄土で、この身がそのまま仏であるということをわかりやすく説かれたものです。
その眼目は「衆生本来仏なり。直に自性を証すれば。此の身すなわち仏なり」といわれます。くり返しくり返し、お唱えしてください。
日々是好日( 碧巌録) にちにちこれこうにち
『和顔 仏様のような顔で生きよう―山田無文老師説話集―』
昔、中国の雲門大師が、ある時、お弟子たちに向かって「十五日已(い)前(ぜん)は汝に問わず、十五日已後、一句を道(い)い将(も)ち来(き)たれ――これまでのことは尋ねまい。
明日からどういう生活をする覚悟か言うてみい」と言って、ずうっと皆の顔を見わたされました。
学校を卒業するまでのことは何も聞かぬ。
学校を出て、今日から会社に入るとしたら、どういう決心で働くつもりか。
結婚するまでのことは尋ねまい。
今日式を挙げて夫婦になったら、明日からどういう心構えで暮らすつもりか。
お互いに言ってみようということにもなりましょう。
ところが大衆は瀬戸物の巾着(きんちゃく)のように、口を固く閉じたまま、うんともすんとも申しません。
そこでとうとう雲門大師がしびれを切らして、皆に代わって、そうした場合の覚悟の一句を示されました、 「日々(にちにち)是(こ)れ好日(こうにち)」と。
この言葉は、今日あまりにもよく知られておりますから、充分ご承知だと思います。
通俗的にこれを解釈しますと、
「毎日おかげさまで、感謝して暮らしております」
ということになりますが、もしそんな単純なことでしたら、何も雲門大師を煩わすこともないはずです。
↑
昔、南禅寺の門前に、泣き婆さんという有名な婆さんがあって、降っても照っても年中泣いてばかりおりました。
ある時、南禅寺の方丈さまが、おかしな婆さんだと思って、「婆さんや、おまえはいつ通ってみても泣いてばかりおるが、何がそう悲しゅうて泣くんや」と尋ねられますと、婆さんは涙をふきふき答えました。
「方丈さま、まあ聞いておくんなされ。
私に二人の息子がありましてな、一人は三条で傘屋をしており、一人は五条で雪駄(せった)屋をしています。
雨が降ると五条の雪駄が今日は売れんじゃろうと思うとかわいそうで、つい泣けます。
天気だと三条の傘がさっぱり売れんじゃろうと思うと、これもかわいそうでまた泣かずにおれません」
方丈さまがそれを聞かれて、「そりゃ婆さん、おまえ、心の持ち方が悪いわい。雨が降ったら三条の傘が売れて売れて、目のまわるほど忙しいと思ったらうれしかろうが。
天気になったら五条の雪駄が羽が生えて売れると思ったら、これも有り難かろうがな。
おまえのように物事をそう悪いほうにばかりとってはいかぬ」と言うて聞かされますと、
婆さんもなるほどと合点し、それから毎日、喜んで笑って暮らすようになったと申します。
↑
このように世の中は万事、心の持ちよう一つで、「日々是れ好日」と喜んで暮らせるのだとも解釈できますが、そのくらいのことなら、何も雲門大師に言うてもらわねばならぬことはありません。
台風で屋根は吹っとび、浸水は床上まで越し、子供は流された、主人は出たまま帰らない、電灯は幾日もつかない、米はない、水はない、そんな場合でも、「日々是れ好日」といただけるでしょうか。
おかげさまでと感謝されましょうか。
心の持ちようで解決できましょうか。
雲門大師ほどの大徳の言われたのは、そのような極端な、万一の不幸をも計算に入れての「日々是れ好日」であるはずです。
良寛さんが、「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候(そうろう)、死ぬ時節には死ぬがよく候」と言った境地こそ、この心境でありましょう。
どんな災難が湧き起こっても素直に受け入れられる心、たとい大病になっても、うろうろせずに静かに病人になっておれる心、殺すと言われても笑って手が合わせられる心、そんな心が自覚できませんと、軽々しく「日々是れ好日」などと大口は叩かれません。
それは心が絶対無にならなければできぬことであります。
明(めい)歴々(れきれき)、露(ろ)堂々(どうどう)、縦には三世を貫き、横には十方に通貫する絶対無の心を、「摩訶(まか)」と申します。
「摩訶般若」の「摩訶」であります。翻訳して「大」と申します。
直指人心 見性成仏(伝心法要) じきしにんしん
けんしょうじょうぶつ
『白馬蘆花に入る −禅語に学ぶ生き方−』
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より
この語は、「不立文字」「教外別伝」と同じように「禅」の特性を表わす代表的な語です。
直指人心と見性成仏は、それぞれ独立した語として用いられることもありますが、むしろ、「直指人心、見性成仏」と一緒に関連して考えた方がわかり易いと思います。
「直指」とは、直ちに指すこと。
文字、言葉などの他の方法によらず、直接的に指し示すことをいいます。
「人心」とは、感情的な「心」ではなく、自分の心の奥底に存在する、仏になる可能性ともいうべき本心・本性・仏心・仏性といわれるものです。
ですから「直指人心」とは、自分の奥底に秘在する心を凝視して、本当の自分、すなわち仏心、仏性を直接端的にしっかり把握することをいうわけです。
「見性」の見とは、ただ物を対象的に見るのではなく、対象そのものになり切る、一体、一枚になることです。
性とは、直指人心、すなわち、仏心仏性を意味します。
「成仏」とは、世間でいわれるように死ぬことではありません。
仏陀(覚者)になること、覚った人間になることです。
「見性成仏」は、すなわち、自分の奥底に存在する仏心仏性になり切って、真実の人間になることです。
私たちは、何か求めるというと、他にいろいろと求めてウロウロしますが、禅は直接、自分の心に問いかけて、自分の本当の姿、仏心仏性を看て取れというわけです。
言いかえれば、「直指人心、見性成仏」以外に、禅の悟りに至る道はないというのです。
文字も、言葉も、経験も、祖師も、坐禅も、すべて覚者になるためには不必要だ! 自分の心に向かって究める以外に法はない、と断言しているのです。
↑
『伝灯録』に「南嶽磨甎」という話があります。
南嶽懐譲禅師(六七七〜七四四)が般若寺に在住の折り、一人の修行者が熱心に坐禅をしているのを見かけます。
南嶽は声を掛け、問答が始まります。
「貴公は、そこで黙々と坐禅にふけっているようだが、一体何をしているのか」
「はい、今、一生懸命坐禅三昧に入ろうとしています」
「坐禅三昧に入って何をする気だ」
「坐禅して仏さん(覚者)になるのです」
「坐禅して仏さんになろうとするのか」
といいながら庭に下りて甎のかけらを拾いとり、庭石の前に坐り込んで、ガシガシとこすり始めます。
驚いた修行僧は、けげんな顔をして、南嶽に問いかけます。
「老師は一体何をなさろうとしておられるのですか」
「鏡を造ろうと骨折っているのさ」
修行者は笑いながら、
「ご冗談でしょう。かわらをいくら磨いても鏡にはなりませんよ」
それを聞いた南嶽和尚、突然ムックと立ち上がって、一喝します。
「かわらをいくら磨いても鏡にはならんように、いくら坐禅しても仏にはならんぞ!」
この一言が、修行僧の脳裏をえぐります。
「坐禅しても成仏できないとなれば、私はどうしたらよいのでしょうか!」
南嶽和尚、じっくりさとします。
「牛車が動かなくなったら、車をたたくのがよいか、牛を打つのがよいか?」
修行僧、涙を出して礼を述べます……。
もちろん、坐禅は大切なことには違いありません。
しかし、牛車よりも、牛が動くか動かないかが肝要です。
成仏は坐法にあるわけではありません。あくまでも「見性成仏」の一念にあるのです。
古代ギリシアの哲人ソクラテスは、「汝自身を知れ」の格言を座右の銘として自己をみつめ、自己の探究に精進したといわれています。
私たちも一度立ち止まって、自分をもう一度じっくり反省して、「直指人心、見性成仏」の語を味わってみようではありませんか。
『 花無心招蝶 蝶無心尋花(道徳経)
はなはむしんにしてちょうをまねき、ちょうはむしんにしてはなをたずぬ
爛漫と咲き乱れる万朶の桜でなくてもよい、草かげに人知れず咲く、一輪の草花で十分です。
そこに色彩豊かな立派な蝶でなくとも、薄汚れた、ちっぽけな蝶でこれまた十分です。
一輪の花に二、三匹の蝶が戯れる、どこでも見られる風景です。
良寛さんは、ここをとらえて無心の出合いの真実を詠いあげます。
花は蝶を招きたいとも思わないし、また、蝶も別に花を訪ねたいとも思わない。
しかし自然に出合う、即ちめぐりあうわけです。
私たちの人生もめぐりあいの連続です。
親にめぐりあい、兄弟姉妹にめぐりあい、友人にめぐりあい、夫にめぐりあい、妻にめぐりあい、子供にめぐりあい、また、苦しい事、楽しい事、悲しい事、いろいろな事にめぐりあいます。
これはみな偶然でしょうか。
偶然と言ってしまっては物足りません。
宿命でしょうか。宿命と言ってしまっては救われません。
では、一体何でしょうか。
すべて因縁の法によって成って行くのです。
最初、原因があり、そこに縁が働いて結果が出てきます。
結果がそのまま、結果で終わるのではなくて、また原因となって、ある縁が加わって結果が出ます。
因縁と果が循環するのです。
これを仏教では因縁の法則といいます。
例えば一箇の豆の種子があります。これが因です。
畑を耕し、種子をまき、水をやり、肥料を施す、これが縁です。
芽が出て実がつく、これが果です。
縁の働き具合で果も大きく違ってきます。
悪い因でも良縁が加わればいい果が得られ、良い因でも悪縁が加われば悪果となるのです。
これが仏教の因果律です。
決して宿命論的なものではありません。縁のままに花は咲き、蝶もまた、縁のままに舞う、因縁の出合いです。
私たちのめぐりあいも、因縁の法に従っての結果です。
その底に秘められているめぐりあいの糸のつながりは、私たちには見えないだけです。
法則に従って生きる、否、生かされている事を謙虚に自覚して、めぐりあいを生かす生き方をしたいものです。
坐禅入門(坐禅とは)
お釈迦様は、ブタガヤの菩提樹の下で坐禅をされ、7日7晩の禅定の後に、悟りの境地に入られました。
「坐」は、日本の言葉で「すわる」といいます。
「すわる」とは、落ちついて動じない、とか、静止する、定着する、などの意味だと辞典にあります。
要するに、動かないように安定させることです。
身体を落ちつけて動じない形に安定させ、心を一ヵ所に集中し定着させる。
その身と心とを融合統一し、身心を一如に安定させるのが呼吸です。
そこで身・息・心の統一調和をはかるのが「坐」だということになります。
次に「禅」ですが、これは「禅那」といい、サンスクリットの dhyana とか、パーリー語の jhana とかの音写で、静慮と漢訳されます。
現代の中国語では、channa と発音するようですが、静慮の意味であることに変わりはありません。
ただ静慮という訳は、適訳ではないので余り用いられず、「禅」で通っています。
そして、禅那とは、心統一の因だといわれますから、坐ることによって身・息・心を統一し、または統一しつつある状態が坐禅だということになります。
その結果、完全に身・息・心が統一され、安定した状態を「定」といいます。
定はサンスクリットで Samadhi といい、「三昧」の文字を当てます。
「定」は、ただ消極的に、あるいは単なる受動的な熟睡したのと同じような状態、つまり何もない恍惚境とは違います。
そこには生き活きとした、動き出すものがなければなりません。
三昧の世界、定の光明から、再びこの世の正しい姿を映し出す働きが出てきます。
いいかえれば、定以前の常識的な見方を越えて、「覚」の立場から世界を再認識するものと言ってもよいでしょう。
その照らし見る働きを「慧」と申します。
↑
禅では、「定慧円明」といって、定は必ず慧を発し、慧は必ず定に基礎づけられ、打って一丸となった円かに融け合って明らかなものでなければなりません。
禅の目標は、実にこの「我に在る菩薩」を「見」るところにあるといってもよいでしょう。
それを「見性[けんしょう]」といっておりますが、見性して観自在の自由自在、思いのままの日常行為をするところにこそ、禅はあります。
そのために行住坐臥において、
衆生無辺誓願度 [しゅじょうむへんせいがんど]
煩悩無尽誓願断 [ぼんのうむじんせいがんだん]
法門無量誓願学 [ほうもんむりょうせいがんがく]
仏道無上誓願成 [ぶつどうむじょうせいがんじょう]
と、四弘 [しぐ]の誓願 [せいがん]に鞭うっていくのです。
それならば、健康になりたいとか、精神的な悩みを解消したいといって門を叩くものに対して、禅は門を閉ざすのかといえば、決してそうではありません。
「大道無門、千差路あり」です。
有限的な概念を持ちませんから、科学とも、どんな宗教とも、もちろん一般常識とも、何ものとも衝突するものではありません。
一切から超越しておりますから、東西南北どこからでも、自由にお入り下さい。
禅は、仏祖の開いておかれた広大の慈門ですから、健康門から入ろうと、煩悩門から入ろうと勝手です。
何ものでもついに発菩提せしめずにおかないでしょう。
そうなると、いったい目標はあるのか、ないのか、あるといえばあるし、ないといえばないようにもなりそうです。
いいえ、そうではありません。
どの門からは入っても自由ですが、ただ、自分が禅によって救われたら、その福音を他にも分かとう、地上の人々みんながよくなるようにと、それだけはお考え下さい。
これを「下化衆生[げけしゅじょう]」といいます。
すわる前の準備
坐禅は何を目標にするのかは、不充分ながら以上で大体は分かって頂いたとして、さて、では坐るのにはどうすればよいのでしょうか。
坐禅に関する威儀作法を述べた『坐禅儀』という書物に、
「乃ち諸縁を放捨し、万事を休息し、身心一如にして、動静間なく、その飲食を量るに、多からず少なからず、その睡眠を調うるに、節ならず恣ならず」。
とあります。できるだけ簡単にこの言葉を説明してみます。
「諸縁を放捨せよ」というのは、外界の影響(耳に入ってくる騒音、皮膚に感じる寒暑、鼻にふれる匂いなど)から離脱し、頭をカラッポにしてかかれということでしょう。
「万事休息し」とは、「休」も「息」も、どちらもやめるとかやすむとかいう意味の文字ですから、いっさいの事柄との関わりを止めることになりましょう。
さきの「諸縁を放捨」するのが外境の遮断だとすれば、「万事を休息し」は、内部感覚の休止ということだとおもいます。
そのようにして初めて達磨大師のいわれたように「心、墻壁の如く」で、心をきり立った絶壁のようにして何ものをも寄せつけない状態になることができるでしょう。
「身心一如にして、動静間なく」とは、
形相をもった身体と、無形の心とが不二一体のものとして融合し、しかもあたかもコマが最も高速度で回転しているとき、かえって静止して見える、あるいはプロぺラの回転しているとき、プロぺラはないように見えますが、そのようにあれということでしょう。
次に「その飲食を量るに、多からず少なからず、その睡眠を調うるに、節ならず恣ならず」とあります。
『摩訶止観』にはさらに詳しく、事前の方便の4番目に、「食・眠・身・息・心の五つを調えよ」とあり、この「五事善からざれば禅に入ることを得ず」とありますから、この五つの条件がよく調わないと、禅定に入ることを妨げられるというのです。
そして五事のうち「眠・食の両事は定外に就てこれを調う」とありますから、睡眠と食事は坐禅中以外の日常生活の間、もしくは坐禅を行う前に調えておくべきものだというのです。
身・息・心の「三事は入・出・住に就てこれを調う」べきものだとされています。
すわるにはどうするか
平素の生活の中でこれまで述べたような準備がととのえられたら、いよいよ坐ることになります。
『坐禅儀』には
坐禅せんと欲するとき、閑静処において、厚く坐物を敷き、ゆるく衣帯をかけ、威儀をして斉整ならしめ、しかるのち結跏趺坐すとあります。
坐る場所を選ぶ
ここには、まず坐る場所を閑静処、つまり静かなところと規定しております。
しかし、現実の問題として、今の都会生活者にはその閑静な場所を選ぶことが容易ではないでしょうが出来るだけ閑静処を選ぶよう工夫した方がよいでしょう。
たとえば、庭の縁側などで自然と一体になって坐るのもいいと思われます。
他には、できるだけ外の音や家庭内の雑音が入ってこない書斎や寝室など、精神が集中できる場所を捜して下さい。
また、少々の騒音は我慢するとしても、昔から強い風や、直射日光の当たるところでは坐らないように、と誡められています。
道場などでは、本来、坐禅する場所には文殊菩薩を祀りますが、家庭では仏画や墨跡などを掛けるのもいいでしょう。
また、香炉を用意して、線香を立てられるようにしましょう。香は部屋を清らかにし、心を落ち着ける効果があります。
なお、道場では線香一本が燃える時間(約30〜40分)を一[いっしゅ]と呼び、坐禅をする時間の目安にします。
坐物の準備
場所の選定ができたら、そこに「厚く坐物を敷き」ます。座布団は薄いよりは厚いほうがいいです。
決してぜいたくではありません。それに膝のはみ出さない程度に大きいものを使いたいものです。
しかし薄いものしかないときは、仕方がないから二枚重ねて用いたらいいでしょう。
その上に「坐蒲[ざふ]」という、普通の座布団を二つに折ったくらいの大きさ、厚さのものを尻の下に敷きます。
もちろん薄い座布団を二つ折りして代用しても差し支えありません。
服装
次に「ゆるく衣帯をかけ」とありますが、それは着物をゆっくりとつけ、特に帯など強く締めないことです。
洋服の場合ならバンドをゆるめるとか、ネクタイをはずすなどすることです。
といってダラシなくならないように、「威儀をして斉しく整え」る必要があると、注意しています。
厳然としたところがないと、坐禅に緊張味が欠けることになります。
修行(雲水の生活)
修行(雲水の生活)
入室参禅 にっしつさんぜん
相見がすめば、早くもその日から入室参禅(にっしつさんぜん…老師の室で指導をうけること)が許される。
新到が、入室するとまず公案(こうあん…修行のための問題)が与えられる。
僧堂では平常では朝暮二回の喚鐘(かんしょう)が出て、参禅が促される。
喚鐘とは、参禅入室を知らせる合図のことである。
老師の居間へ通じる渡り廊下などの場所で鳴らされるのだが、雲水たちはここを喚鐘場と呼んでいる。
喚鐘の音を聞けば、雲水たちは一斉に喚鐘場に走って順番をとる。
やがて、自分の順番がくれば、この鐘をみずから二点打して老師の部屋に入るのだが、そこには一定した独参(どくさん)の作法が定められている。
まず、室の入口で合掌礼拝する。
入口の疊は、永年にわたる入室参禅者の汗と手垢が浸みこんで、黒く光っていてなんとなくすさまじさを覚える。
僧堂では原則として、朝暮二回の入室を欠かすことは許されない。「朝参暮請」という言葉があるのは、この辺の消息をいったものである。
室内では師家(しけ)と学人(がくにん…修行者)とは「差し」であり、余人を交えぬ法戦場(ほっせんじょう)である。
学人は自己のかかえている公案の見解を述べて、師家の判定を請うのだが、ここでは古参も新到も徹底的にその心根が錬磨される。
この修行のすさまじさは「炉柎(ろはい)に入って鉗鎚(けんつい)をうける」と表現される。
あたかも吹毛(すいもう)の剣をつくるのに、生鉄を炉に投じ、その含む不純物を取り除いて純度百パーセントの鋼鉄にし、さらに大槌小槌で打って鍛えて、強靱な素材を作り出すように、純粋な人間性を開眼せしめるのである。
師家は入室する修行者に公案を与えて修行させる。
妙心寺のご開山さまは雲水に対して、「本有円成仏(ほんぬえんじょうぶつ)なんとしてか迷倒(めいとう)の衆生となる−本来完成した仏であるというのになぜ迷っているのか」 と問いかけて公案とされたと伝えられている。
仏とは純化された人間の代名詞であることを確認し、禅の宗旨を体得するために、公案を縁とするのである。
公案は「悟り」という屋上に登るハシゴであり、手段でもある。もちろん登りつめれば降りて来なくてはならない。
「上は菩提を求め、下は衆生を化す」である。
公案。それはまったく常識を超えた難問ともいうべきものである。
たとえば「隻手の音声(せきしゅのおんじょう)を聞いてこい」などというのがある。
両掌を拍ってこそ聞かれるのが声であり、隻手(片手)では常識では声にならない。
しかし、天地もはり裂けるほどの隻手の一声を、古人は聞いている。
修行者の心が純化されたときに自得できる一声ある。
この一声が聞かれたときを「見性(けんしょう)」といい、隻手音声の一則を見たともいう。
「見」の一字は禅僧にとって大きな意義をもっている。
初関が透れば、つぎつぎと公案のハシゴを際限なく登る。
雲水たちは「五十三次馬の屁の数」などと軽妙に表現しているが、どうしてどうして、馬の屁どころではない難透難解(なんとうなんげ…難しく透過し難い)である。
屁で思い出すのは、相国寺の独山老師であったか、
ある婦人の公案をいただきたいという希望に応えて、「三三九度の盃の真っ最中に、花嫁さんがブゥーッと出したら、居ならぶ皆さんに、なんと納得のいくご挨拶をするか」
という現成公案(げんじょうこうあん…ありのままの世界を問題として課すこと)を示されたという。
叢林−鬼と姫と そうりん
僧堂のことを正式には専門道場、また叢林ともいう。雲水たちは京都の僧堂を京叢林、地方の専門道場を江湖(ごうこ)叢林という。
江湖という呼称の由来は、遠く唐代に発し、江西、湖南など禅の盛んであった地方の総称のことである。
林には多くの樹木が群れ立ち、幹が曲がったり、不必要な枝の伸びたりする余地はない。
木がただまっすぐに天に向かって伸びていくように、大勢の修行者が一カ所に安居(あんご)して、相互に切磋琢磨し、共通の悲願に向かって、ただ驀直(まくじき…まっしぐら)に進む状態を表現して叢林というのである。
叢林では今も仏陀の古制をそのままに、安居結制(あんごけっせい…禁足して坐禅すること)される。前半年を雨安居(うあんご)、後半年を雪安居(せつあんご)という。
特に安居中のその前半の九十日間は、たとえ親や師匠の大事にあっても、簡単には暫暇(ざんか…暇をとって帰郷すること)は許されない。
師親の死にあっても、一段と生彩をつけて参禅弁道(修行)することこそ、師親に対する報恩であると、健気にも非情な決意と心意気を示した修行者もいる。
叢林ほど規矩ずくめのところはないが、その規矩を体験実行することで禅僧としての人格が形成されてゆく。
僧堂こそ真に宗門の最高の学府である。
峻厳な室内、厳正な規矩、つねに活気あふれる僧堂は鬼叢林(おにそうりん)と呼ばれるが、これとは反対の僧堂を姫叢林(ひめそうりん)とか茶屋叢林(ちゃやそうりん)などと呼び、ズバリと蔑称していておもしろい。
開悟解脱(かいごげだつ)の願心ももたず、いたずらに線香のとぼる数をかぞえるのは、さながら芸妓や舞妓が玉(花代)を一本、二本と線香の燃える時間でかぞえる待合や料亭に似ていると揶揄したのであろう。
311 :
名無しさん@3周年:2006/09/02(土) 20:04:23 ID:qgN4Kj1C
参禅ってのはお茶道の延長ですか、つまらんですね。
>>311 > 参禅ってのはお茶道の延長ですか
ごはん、三膳、って説もあるんでsが。。
でも、なぜ、茶道と思われたのでしょうか?
313 :
名無しさん@3周年:2006/09/03(日) 19:35:20 ID:fqRXsykr
内容の無い形骸化したところが茶道ににてる様で、作法の丸暗記公案の梯子渡りですか。
>>313 茶道
の、受け取り方でしょうね。
形骸化しちゃってるという、、
315 :
名無しさん@3周年:2006/09/04(月) 19:40:14 ID:o/zueTm3
本来茶道なんて言葉ないんじゃないの、茶を飲むそのことだけでしょうね、禅
道みたいに座るそのことに理屈はいらないんでしょう。
>>315 茶道に、主客がありますが、2畳ほどの狭い空間に膝をつき合わせ、ある時は、主客が交代していく。
わたしとあなた
つまり、主客が、もはや、分けがたい。
主客一如の空間では、ないでしょうか。
禅問答
夏目漱石の『夢十夜』をお読みになった人は、第ニ夜に、「無」の一字を思いつめて煩悶する侍の話があったのをおぼえているだろうか。
あの「無」の一字のために座禅を組んで「無とはなんだ」と苦悶する姿。あれこそ、いわゆる禅問答を描いたものである。
わけのわからないことを称して「禅問答のよう」というが、いったい禅問答がいかなるものであるか、例をあげろと言われてパッと浮かぶ方はどれだけいるだろうか。
禅問答とは、臨済宗の寺で行なわれる、悟りへの修行である。
修行中の僧は、「師家(しけ)」と呼ばれる師匠の僧から、問題を与えられる。
この問題を「公案(こうあん)」という。公案を与えられた僧は、多くは座禅をしながらこの回答に取り組むのである。そして、回答を得たと自分なりに感触を得たら、師家の所におもむいて自分の考えを表現する。
この回答に対し、師家がOKを出すことで、晴れて悟りを開いたということになる。
この一連を総称して「禅問答」と呼んでいるのである。
こうして書くと、たいしたことではないように思うかもしれないが、とんでもない。
与えられる公案とは、とんだくわせものなのだ。
『無門関』という公案を集めた本から引用しよう。
趙州和尚、因みに僧問う「狗子に還って仏性ありや」 趙州云く「無」
(趙州和尚にある僧が問うた「犬に仏性はありますか」 趙州は答えた 「無」)
趙州、因みに僧問う「いかなるかこれ祖師西来の意」 州云わく「庭前の柏樹子」
(趙州和尚にある僧が問うた「なぜ達磨はインドからきたのですか」
趙州は答えた 「庭にある柏の樹だ」)
なんのことだとお思いになるだろう。答えなければならないのだ。
大乗仏教では、「山川草木悉有仏性」といい、あらゆるものに仏になる可能性があると言っている。
それが「無い」とはどういう意味なのか。
1番目の公案はそれを答えろというものである。ちなみに、この公案が『夢十夜』に出てきた「無」の元となっている。
2番目はひどく人を食っている。達磨がインドから渡ってきたわけが柏の樹だとは、なにを言っているのかわけがわからない。これに対して答えよというのだ。
↑
生半可な論理では通用しない。おそらく、お読みになった皆さんに浮かんだ回答は、即座に師家に突っぱねられてしまうはずだ。「無門関」は言う。
「平生の気力を尽くしてこの無の字を挙げよ」と。言葉尻を捕らえた言葉遊びでもなく、やけくそになった支離抜いたとき、自分だけの回答が出てくるというのだ。
不思議なことに、そのときの回答は、見た目には理屈にあっていないように見えるのだという。
論理的にもあっていないし、時には、壁を叩く、飛び上がるなど、言葉を使わない表現も使われうるという。
これに対する師家の回答も、時には弟子を殴りつけたり、指を一本立てるだけのときもあるなど、まるでパフォーマンスを見るかの如き様相。
にもかかわらず、弟子と師家の間には、確かに「無」に対しての相互の了解があるという。そして、この通常の論理を超えたコミュニケーションが可能となった状態。
それが禅で言う「悟り」なのだという。
このあたりについては、実に多くの研究書が出ているのであるが、結局のところは、実際に体験していない者にとっては、以心伝心という言葉でしか言えないもののようだ。
『無門関』は岩波文庫から刊行されている。興味のある方はお読みになるのも一興だ。
論理を超えた公案の数々を見ていくと、その思いがけぬカッコよさに引かれてしまう人もいるかもしれない。
だが、うかつに公案に取り組むのは危険もある。きちんとした師家につかずに公案と取り組むと、時に、論理の破綻したスタイルこそ正しいという思いこみ。
わけのわからないことで相手を煙に巻くのが快感になるといった、おかしな者になる危険があるという。
禅はこれを「魔境に入る」と表現している。
「それは間違いだ!」と弟子を指導できる師家のもとでの修行でない限り、凡夫の我々としては、チラリと流し読みする程度のほうが無難のようだ。
そういえば、掛け軸や扁額の中には、禅問答から取った言葉も多い。「日々是好日」、「平常心是道」などは茶席でよく見かける。
もともとの公案から離れて、1行だけ切り取られると、含蓄のありそうな言葉が浮かびあがってくる。
禅寺と無縁の我々は、このように無難となった禅問答の破片を見て、しばし一碗の茶を味わおうではないか。
(*´・ω・)(・ω・`*)ネー
320 :
名無しさん@3周年:2006/09/06(水) 18:55:28 ID:HfOpjBXz
戦国時代の茶は今生の別れ、つまり明日はどうなるか分からないこの身をそこいらにある粗末
な器で点てるたのでしょう、保身の為又道楽の一部じゃなかったのでは。
>>320 うん、戦国時代の武士の間では、そうだったろうね。
禅の喫茶の作法が、原点だから、茶道って。
一切唯心造(甘露門) いっさいゆいしんぞう
(細川景一著・1987.7.禅文化研究所刊)より
「一切(いっさい)は唯(た)だ心の造るものなり」と読まずに、「一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)」と読みます。
盆の季節になると各寺院では、施餓鬼会(せがきえ)――釈尊在世当時、弟子の阿難(あなん)尊者が、「定命尽(じょうみょうつ)き餓鬼道に堕ちるのを免れたくば、餓鬼に十分な食事の施しをせよ」
と陀羅尼経(だらにきょう)を唱え供養する修法を釈尊より伝授されたことより始まったといわれる、餓鬼、すなわちむさぼりの心を持つ者への食(じき)の施しをする行事――が修行されます。
その折り、大勢の僧が独特の節回しで唱和する経文に、『施餓鬼―甘露門(かんろもん)』というのがあります。
その初めに、
若人欲了知(じゃしんにゅーりょうしー) 三世一切仏(さんしーいしんふー) 応観法界性(いんかんはかいしん) 一切唯心造(いっさいゆいしんぞう)・・・
若(も)し人、三世一切(さんぜいっさい)の仏を了知(りょうち)せんと欲しなば、応(まさ)に法界(ほっかい)の性(しょう)を観ずべし、一切唯心造なり、と。
―もし仏のこころを知ろうとするならば、宇宙一切の諸法の本性を唯だ心造(しんぞう)なりと観ずべし。
「一切」とは、すべての現象、存在を意味します。
「唯」とは、ただそれだけ(・・・・・・)のこと、私たちの周囲のすべての存在現象は「心」の働きであり、「心」が造り出したものにすぎないというわけです。
すなわち、あらゆる存在は心より現出したものにほかならず、心のほかに何物も存在しないのです。
白隠禅師はあるとき、一人の若侍から地獄の有無を問われます。
白隠は若侍を一瞥して言います。
「貴公は見たところ立派な武士だが、いい年をして、まだ、地獄が有るのか無いのかとはあきれたことだ!」とくそみそに罵倒し、あげくの果てには、不忠の臣、不孝の子よ!腰抜け侍!と口を極めて面罵(めんば)します。
初めは有名な高僧の言うことだと歯をくいしばって耐えていた若侍も、ついに我慢しきれなくなって、やにわに刀を抜いて白隠に斬り掛かります。
白隠和尚は巧みに逃げまわりますが、ついに追い詰められて一刀のもとに斬り伏せられようとする刹那(せつな)、白隠は「そこが地獄だ!」と鋭い叱声(しっせい)を飛ばします。」
その一語を聞いた若侍は正気を取り戻し、なるほどと合点します。
さきほどの鬼面もどこへやら、思わずそこに平伏して、笑みさえ浮かべて言います。「わかりました。地獄の所在がしかとわかりました」と。
すると白隠もにっこり笑って、「そこがまた極楽よ!」と事もなげに言い切ります。
地獄も極楽も所詮、心の中にあったわけです。心が造り出したものにほかならないのです。
有無・得失・善悪・美醜・愛憎など、一切の相対的差別の見方も、これすべて心の造り出したものです。
相対的世界があるからそこに争いがあり、悩みがあり、迷いがあるわけです。
法界すべて一切唯心造と達観すれば、自然にそれらの対立が泯然(みんぜん)と消えて、真如(しんにょ)そのままの心になることができるのです。
まさに仏の心を知ったというべきです。
至道(しどう)は無難なり、唯だ揀択(けんじゃく)を嫌う。但(た)だ憎愛莫(な)くんば、 洞然(どうねん)として明白なり
と『信心銘』にある通りです。一切唯心造、この語を知的に理解することはやさしい、しかし、一切唯心造を達観して、洞然として明白になることは難しいものです。
325 :
名無しさん@3周年:2006/09/11(月) 19:20:10 ID:hktep+Ab
茶道でも禅道(こんなのあるかどうか)でも自分の言葉で言う、言えたろ×言えなければ○
○△□・・・
いなかったイエスに、徒労な時間の空費・・・って、まだやるつもり
キリストって、メシアのギリシャ語訳だけどイエスもギリシャ語訳で、ユダヤでは、ヨシュア。これは、よく知られた事だと、思う。
ユダヤ教におけるメシア、だったのか、ヨシュアは・・・
2500年後の現在からは、否、である。
イスラエル人は、こう言う。
「ヨシュアは、存在しなかった、何処に存在していたという同時代の証明が、あるのか?」
なるほど、存在していたという証明が、無い。
美というものはない。そして、醜というものもない。
まして、顔は自ら見ることは出来ない。
顔は、自己のためのものではなく、他人へのメッセージにすぎない。
美というものはない。そして、醜というものもない。
そそ、境界がない。すべてが、同時。
問い1
犬を犬と呼ばず、何と呼ぶか?(犬から、犬という名詞を奪ったものを、犬と呼ばず、(・_・?)ハテ、何と呼ぶのか?)
問い2
ほとけからほとけという名詞を奪った。では、何と呼ぶか?
富士山を、見たか?新幹線の窓越しにではなく。
又、飛行機の窓の下に見たのではなく。地に足をつけてみたのか?
また、裏富士を見たか?
こころがふるえる。富士は。
わからないことは、自己にこそ、問え。
和光同塵(道徳経) わこうどうじん
『枯木再び花を生ず −禅語に学ぶ生き方−』
(細川景一著・2000.11.禅文化研究所刊)より
「光(ひかり)を和(やわら)げて塵(ちり)に同(どう)ずる」と訓読み出来ますが、「和(わ)光(こう)同塵(どうじん)」と音読みする方が禅的です。
この句は中国道教の祖、老子の『道徳経』第四章に「其の光を和げて其の塵に同ずる……」とあるのに始まります。
「和光」とは自分の持っている高い道徳的品性と秀れた才智の輝きを和げる、即ち、表に出さない事を云います。
「同」は同化の意で人を感化して自分と同じくさせる意。「塵」はちり(・・)やごみ(・・)の事で汚れた現実の娑婆(しゃば)世界を指します。
即ち聖人君子がその知徳を和げて、つまり隠して俗塵の世界に入って衆生済度する事を云うのです。
真実、禅の悟りに至った道人は学んだ法も、修した道も少しも表に出さず、悟りだの、迷いだの、仏だの、神だの、その影さえ見せず、
馬鹿なのか、利巧なのか、偉いのか、仏なのか、凡夫なのかさっぱり見当がつかない境涯で長屋の八つぁん、熊さんの手合いと同居して、人知れず衆生を教化済度してゆきます。
その消息を「和光同塵」と云うわけです。
この句が禅にとって重要な句である事は、
「韜光(とうこう)晦跡(まいせき)――光をつつみ収めて跡を晦(くら)ます」
「入(にっ) ?(てん)垂手(すいしゅ)――市街に出て手を下して済度する」
「入泥(にゅうでい)入(にゅう)水(すい)――泥に入り、水に入るように済度する」
等々、同義語が沢山ある事によっても頷けます。
↑
「和光同塵」を地で行った人物に「七福神」の一人布袋(ほてい)和尚がいます。
七福神とは市井(しせい)で福徳長寿の神として信仰されている「恵比須(えびす)」「大黒天(だいこくてん)」「毘沙門天(びしゃもんてん)」「弁財天(べんざいてん)」「福禄寿(ふくろくじゅ)」「 寿老人(じゅろうじん)」「布袋(ほてい)」を云いますが、
その中で体が大きく、額は狭く、腹は太く垂れ下り、半裸で一本の杖を持って、大きな袋を背中に負った人物が布袋和尚です。
元来この人は中国の後梁(こうりょう)の時代の禅僧で、名は契此(かいし)、明州(みんしゅう)奉化(ほうか)県の生まれで、九一六年、同地の嶽林寺(がくりんじ)で遷化(せんげ)(死亡)したと伝えられています。
背中の袋の中には身のまわりの物一切を入れ、履物も衣類も経本も食物もなにもかも一緒に入れて持ち歩き、市街に出て施されるものすべて喜んで貰う。
食べ残りは袋の中に入れて貯えます。
雨の日は草履で馳け歩き、天気になると木履(きぐつ)でゆっくり歩き、休む時は袋を側より離さず膝を立てて眠ったと伝えられています。
人柄も天真爛漫で腹が減ったら袋の中のものを食べ、満腹になると所かまわず眠るといった居住不定で、
悠々閑々灑々(しゃしゃ)落々(らくらく)、名利を求めるわけでもなく、見識ぶるでもなく、威張るでもなく、
誰に会ってもニコニコ笑うという「喜心」と、そのべんべんたる太鼓腹の「太心」と、欣々として優しい両眼の「愛心」とを以て接し、会った人は誰でも、自然に福徳円満な気持になり、人々は長汀子(ちょうていし)、
また、布袋と呼び親しんだと云われています。
この布袋さんの遊戯(ゆげ)三昧(ざんまい)の所、和光同塵の端的です。
ダルマさん 書き下ろし
南禅寺派 兵庫県・長福寺住職 原田太胤
今から約1,600年前、南インドの香至国(こうしこく)の王様は、信仰心が厚く、高僧を招いては教えを受けておりました。
ある日、王は高僧に御礼として大きな宝石を差し上げた所、僧は王様の3人の王子に対して「この宝石に勝る宝があるでしようか」と質問されました。
第1、第2の王子は「この宝石に勝る宝はありません」と答えましたが、
第3の王子は「この宝石の光は他を照らすことが出来ても、自らを照らすことは出来ません、他を照らし自らを照らし、一切の迷暗を照破する宝石、それは人間誰しもが持っている智慧、智慧こそが最もすばらしい宝石です」と答え、これを聞いた僧は大きく肯きました。
この第3王子こそが、後の達磨大師(ダルマさん)です。
父の王が亡くなってから出家をして師の下で40年余り修行され、禅の教えを伝える為、現在の中国広州に達したのは西暦 527年とも言われております。
嵩山(すうざん)少林寺に住し、壁に向 かって9年の間石の上で坐禅をして、禅の教えが伝わる機会を待ち続けました。
この時の様子が、手足の無いダルマとなり、七転八起、9年間坐り続けた不撓不屈(ふとうふくつ)の精神が、今日一般に知られているダルマさんのイメージを形成したのではないでしようか。
苦しい事や悲しい事、暗い世相であっても大丈夫。
生まれ乍らに頂いている宝石。
智慧の燈が内も外も照らし続けていることに気が付き、「この生命の働きを大切に、善い方向に使わせて頂きます」という想いを持ち続けることが、ダルマさんの教えに叶い、お心にも添うことになりましよう。
辷(すべ)っても 転んでも 起き上がる達磨かな
禅の達人たち
禅問答・碧巌録を読む 立花大敬著 湖文社
?(ほう)居士(こじ)は衝州衝陽県の人である。字は道玄。代々、土地の名家であって多大の財産家でもあった。
若くして儒教を学び、科挙を受けんと出かけたが途中で僧に出会った。
その僧は言った。
「どうして科挙など受けなさる。合格、不合格は誰が判断する。人ではないか。人とはわずか五十年ほど生きる者にすぎぬ。そんなものが小さい眼、近くしか見えぬ眼で、これは合格、これは不合格とより分ける。
そんなより分けの合格の側に入ろうと夜を昼についで努力勉強し、合格と聞いては有頂天になり、不合格と聞けばションボリし、人によれば絶望の果てに自殺する者もあるという。ああ、何というあわれなことであろう。
しかし、この世に絶対の眼を持った、永遠寿命の体現者がいらっしゃる。その方こそ仏陀である。このお方の眼には一部の狂いもない。
どうせ、合格を目指すなら、どうして仏の眼に合格することを目指されぬのか」
「不動の自己とやらを悟って外物を否定するのは容易だが、外物を追い、外物を応対して、しかもそこに不動の自己を現してゆくというあり方は難しい」
禅に志すほどの者が外物を対象に快楽を追求していてよいはずはない。それは誰でも知っていることである。
ところが、逆のところで引っかかってしまう者が多い。
つまり、欲望を否定して、外界への働きかけが禅道に反するのだとして無為の自己にどっしり腰を落ち着け、どこへも出かけようとせぬ者がいる。
これは大きな間違いである。
本来の自己は無相といわれる。この無相の意味を取り違えているのである。
無相とは何事にもタッチせぬというのでなく、次々出てくる物との出会いに柔軟に対応してゆく。
例えば、子供が来れば親となり、教え子が来れば先生と転じ、妻が来れば、ただちに夫となる。
そのように時々転々と何のひっかかりもなく見事に形を変えて転じていく。それが無相の自己である。
そういう無相の自己さえ手に入れば、世界の果てまで物を追いかけてゆくとしても、決して自己を見失ったということにはならない。
物を追っているところに自己が転じて次々と不動であるからだ。
三聖透網金鱗
人はすべて因縁因果の網の中にいる。それにがんじがらめなのが人間である。
いったん空を悟り、自由と解放を喜んでいても、いつまでもそこにとどまっていてはならない。
再び因果の網の中に戻って、おのが因果の流れにしたがって、力量に応じて、自らの能力を、人々のために使っていかねばならない。
雪峯のように千五百人も弟子を養う大輪のバラの花のような存在もあるし、趙州のように片田舎の貧乏寺で自らの口に入る食物さえ乏しく、木の実を拾ってまで生活しなければならず、弟子もほんの数名しか集まらなかったという、野辺に咲くイヌフグリの花のような存在もある。
しかし、そのそれぞれが、その因縁のまま、バラはバラ、イヌフグリはイヌフグリのまま、最も美しい花を咲かせた。
洞山語録より
洞山の先師である雲巌禅師の忌日に洞山道場では供養の法要が行われていた。
その時、ある僧が洞山に質問した。
「師は先師の供養をしておられますが、果して先師を認めておられるのですか」
洞山は言った。
「半分は認め、半分は認めぬ」
僧が言った。
「どうして全部お認めにならぬのです」
洞山が言った。
「もし、全部認めたら、先師を裏切ったことになろう」
生命というものは、生きて活動しているという事実においては同じである。洞山も雲巌も同じであるが、その表現については個々別々だ。
もし、先師の生命の表現を、そっくりそのまま真似て、これこそが正しい禅なんだなどと主張したら、その人は自らの生命の個性を十二分に発揮できなかったのだから、先師の禅を正しく嗣いだことにならぬであろう。
もし、私に「君は碧巌録を師として参究してきたわけであるが、それを認めるのか」とたずねる人があったとしたならば、私もやはり、「半分は認めるが、半分は認めぬ」と答えねばならないだろう。
碧巌録とは生命の尊厳(巌)と、それが何のさわりもなく巧妙に転じていくさま(碧)を、各禅者の実例をもとに記録したものであるから、私はもちろん、諸手を上げてそれに賛成し、それを師として、これからも学んでゆきたい。
しかし、生命は抽象概念にあらず、あくまで個であって、私は趙州にあらず、臨済にあらず、雲門でもない、私は私である。
.私には、私の禅があって、この禅は広い世界に唯一のもの。洞山であろうと、徳山であろうと、これに関しては指一本ふれさせるわけにはいかないのである。
碧巌録第五十一則には巌頭禅師の言葉として次のように書かれている。
「わしと雪峯(巌頭と雪峯はどこへ行くのも一緒で、ともに励ましあった禅友であった)は生まれは同じだが、死ぬときは別だ。
もし、末後(まつご)の句(ギリギリの一句)が聞きたいというのなら教えてやろう。
只這是(ただコレコレ)と」
あれ(遠くにある)ではない
それ(近くにある)でもない
ただ、これ(自身にある)である
すべてが自身にある
そのこれが今、本を読む、犬の鳴き声を聞く
空の青さを眺め、大きく伸びをする
そんなこれ・これにこそ、すべてがある
あれでもない、それでもない、これである
しかし、そのこれはどれ(不定)である
刻々進展してやまぬ、固定せぬものが生命である
だからこれではない、どれである
しかし、そのどれこそが実はこれなのである
だから最後に言おう
どれもこれもわが命であると
「生命とは、この命を生かし切ること」
松原哲明
自分がいったい何者で、何をするために、この世に生を受けたかを見極めること。
ですから、今、この生を、どうやって生きたらよいのかが本当によく判りません。
おたがいに、この年齢になって、真面目にどう生きたらいいの?≠ニは、恥ずかしくて聞けません。
これらのことを明確にして生きてゆかないと、本当に何もしないで一生が終わってしまいます。
そんなこと、嫌だ!と心の中で叫んだのが出家前のブッダでした。
そして六年におよぶ猛烈な修行の末にブッダは悟りました。
この一度の生涯で、人間は二度と手に入らない命を使い切るために生まれたのだと知ります。
現代風に言いますと、一本のロウソクのように燃えつきるまで、一筋の光を放って生きよと示されました。
ロウソクがロウを流すように、私たちも汗と涙を流せる、かわかない心の人間になれと。
命を使い切ると書いて、それが人間として生きてきた私たちの使命≠セということが判りました。生命とは、この命を生かし切ること。そのようにも展開して行けます。
ブッダはこの人間一人一人を大海の一針≠ナあると解きます。深い深い大海の底に眠っているたった一本の針。
あなたがここに生まれることができたのは、その針を拾いあげてもらったようなものだ、という、このブッダの言葉を深く味わっていただきたい。
ブッダはまた、この人間一人一人を妙高の線≠ニ説きます。
現在、生きとし生ける存在の全ては、高い高い山の頂上から一本の細い糸が垂れ下がってきて、山の麓に落ちている一本の針に通ったようなもの、と。
みんな原点から今につながっているから、線という字を使った、そのおしえの深さも味わっていただきたい。
そうやって熟読していくうちに、この命は親そのものの命であり、先祖が今に生かしてくれるために生かし続けてくれた、それを現在、預からせてもらっている人生―そう気づいたとき、ブッダ仏教の門が大きくあなたを迎え入れてくれます。
我々一人一人は大海の一針≠ナあり妙高の線≠アの命を使うため、生かし切るために生まれてきたことが、ようやく見えてきました。
そして、そんな私たちに、人生に師を持ちなさい、人生は航海、師という船頭なしでは暴走するぞ、といましめられるのです。
第8則 翠巌眉毛
【本則】
翠巌「この夏安居では、私が講義を担当しました。 この翠巌に眉毛があるかどうか、見てください」
保福「泥棒はビクビクするからなあ」
長慶「おや? 生えて来たぞ」
雲門「関」
【解説】
翠巌令参(スイガンレイザン)は雪峰禅師の弟子。というか、ここに出てくる4人とも雪峰禅師の門下生です。仲間内ということで、気さくな会話をしている。
翠巌さんが雪峰禅師の代講をし夏安居も最終日。それを兄弟子たちがからかっている様子。
「眉毛うんぬん」は「嘘をつくと眉毛が抜ける」という迷信があったから。「ほらほら、眉毛はあるでしょ? 嘘ついてなかったでしょ?」と笑いを取りに来ている。
もしかしたら翠巌さんは眉毛の薄い人で、これはネタだったのかも知れない。
一番弟子・長慶の「生えて来たぞ」もツッコミだし。最後の雲門さんも一言「関」と言って退けているが、これも意味がなく単に「カーン」と言ったんじゃないか。
講義の終わりの鐘をマネて「はいはい、おしまい」(笑)。「関」に「関所」の意味を読む解説もあるけど、深読みしても仕方ないだろう。
とは言え、本当はどんな講義であれ「嘘」である。
仏法は言葉にすれば差別が生じます。眉毛が抜けるどころか、地獄落ちです。それを覚悟の上で、大衆の前で講義しているのです。
自分だけ大安心の境地(大宇宙との一体化)に住んでいては恥ずかしい。たとえ地獄に堕ちてでも、他者救済(下化衆生)のほうが先決です。そこまで命懸けなんだから、きちんと受け取ってもらえる講義をしなくちゃなりません。「いかがでしたか?」。
兄弟子たちも、翠巌の気持ちはよく分かっています。みんな一言ずつ悪口を言って、一緒に地獄に堕ちようという魂胆です。
翠巌ひとりに良い思いはさせないぞ(笑)。地獄に堕ちたら、みんなで地獄の大掃除です。どこまでも禅を広めてやる。碧巌録の禅師たちがやたらお喋りなのは、みんな来世は地獄行きと決めているから。
だから、無駄口一つない。「さ、あなたも覚悟してお聴きなさい」。この段の意図はそこかも知れません。
【廓然無聖】かくねんむしょう
梁の国の王、武帝が中国に到着した達磨大師(だるまだいし)に尋ねた。
「私は仏塔を造り、経典を写させ、僧侶をもてなしてきた。
こうしてきた私にはどんな功徳があるだろうか?」
「功徳など、ない」と達磨は答えた。
「ならば…仏教における最高の真理は、何だと言うのか!?」
「廓然無聖」
「空っぽで何もないだと!?それなら、私の目の前にいるおまえは何者なのだ!?」
「知らぬ」
その後、達磨大師は魏の国の嵩山少林寺に去ってしまったそうです。
# 廓然無聖とは「カラッとした空っぽなもので、聖なるものも、真なるものも何もない」という意味。
『碧巌録』第一則
【日々是好日】にちにちこれこうにち
雲門文偃(うんもんぶんえん)が弟子たちに向かってこう言いました。
「わたしは過去の日々のことは、問わない。これからの15日間の日々の中で、何が一番大切なことなのか考えて、一句にして持ってきなさい」
それから15日後、誰もその一句を作ることが出来ませんでした。
すると雲門は、自分で作った一句を弟子たちに示した、
「日々是好日(にちにちこれこうにち)」
『碧巌録』第六則
【趙州洗鉢】じゅうしゅうせんぱつ
入門したばかりの僧が、趙州和尚に尋ねました。
「私は、修行に入ったばかりの者ですが、仏教の根本を教えてください」
「朝食は、終わったのかね?」
「はい、食べ終わりました」
「それならば、自分の茶碗(ちゃわん)を洗いなさい」
『無門関』第七則
【倶胝竪指】ぐていじゅし
どんな質問をされても、ただ指を1本立てるだけの倶胝(ぐてい)という和尚がいました。
ある時、和尚の留守に来た客が留守番をしていた小僧に、法の説き方を尋ねました。すると小僧は和尚のマネをして指を1本立てて見せたのです。
この事をあとで聞いた和尚は、小僧のその指を切り落としてしまいました。あまりの痛さに泣き叫ぶ小僧に、和尚は言いました。
「おい、こっちを見ろ!」
小僧が見ると、和尚は指を1本立てていました。その瞬間、小僧は悟ったという。
『碧巌録』第十九則
【平常心是道】びょうじょうしんこれどう
趙州(じょうしゅう)がまだ修行中の頃、師匠である南泉(なんせん)に、こう尋ねました。
「仏道の道とは、いったいなんでしょうか?」
南泉は、馬祖(ばそ)の言葉を用いてこう答えた。
「平常心(普段の心)が道だ」
「なるほど、その平常心を目標として努力すればよろしいのですね」
「いや、目標とすれば道をそれてしまうだろう」
「しかし、目標がなければ、道を求めること、道を知ることができませんよ」
「趙州よ、道とは、知るとか知らないとかいった問題には属さないのだ」
『無門関』第十九則
【拈華微笑】ねんげみしょう
王舎城(ラージャグリハ)の近くの霊鷲山(りょうじゅせん)の頂上で釈尊(しゃくそん=お釈迦様)が説法を続けていたそんなある日の事。
その日は一言もいわず、そばにあった金波羅華(こんぱらげ)という花をひとつ拈り取ってみんなの前に示して見せただけだった。
その場にいたほとんどの弟子たちは、その意味がまるで分からなかったのだが、たった一人だけ、摩許迦葉(まかかしょう)だけは、にっこりと微笑み、うなずいたという。
それを見た釈尊は、静かに口を開いた。
「口では説くことが出来ない真実の教え全て、・・・摩許迦葉に伝授することにしよう」
『無門関』第六則
見 跡 (四十五)
弘舵郎
月日は百代の過客にして、行きかふ年もまた旅人なり。舟の上に生涯を浮べ、馬の口をとらへて老いを迎ふる者は日々旅にして、旅を栖とす古人も多く旅に死せるあり。
月日はハクタイのクワカクにしてと始まる芭蕉の「奥の細道」の発端の句である。
私の好む文句で身も心も旅にかきたてる句である。
高邁なことをいうなあーと感心していたらこれには下敷きがあった。
そのことは後にして、芭蕉は元禄二年の秋、奥の細道の旅を終り清書は元禄七年四月とあるのでこの間原稿を推敲してたわけである。
不易流行とか、かるみとか、高悟帰俗等むづかしい理念のことは数ある専門書にまかせ、ただ芭蕉さんの立った所に佇んでみたくて歩いてきた。
初めは平成五年の四月に哲明住職や南無の会の中島先生の案内で多賀城、松島、象潟、最上川、羽黒山、出雲崎、市振、山中、全昌寺、永平寺、種の浜、気比神社等とまわり、
終点大垣の芭蕉記念会館に到着したのが四月二十四日とわが日記にある。
旅程の穴うめをせんものとスタートの深川芭蕉庵を訪れたのが平成十年の十一月四日それから暇を見つけては、千住、草加、室の八島、日光裏見の瀧、黒羽の雲巌寺、乙字の瀧、殺生石、白河の関、須賀川、この十月飯塚(飯坂温泉)と尋ねまわり、
残る鳴子、尿前、山刀伐峠、尾花沢とまわり来年春には立石寺の桜をみて終わりにしたいと願っているがどうなることやら。
さて、その下敷きをご紹介しますと『この書き出しの気合のようなものは李白の「春夜桃李園二宴スル序」の「ソレ天地ハ萬物ノ逆旅ナリ光陰ハ百代ノ過客ナリ、シカシテ浮世ハ夢ノゴトシ」を踏まえて発してるようである。
(中略)「ソレ天地ハ萬物ノ逆旅ナリ」を入れておいた方が通じやすかったのではないかという気がわたしはする』とある。
わたしとは富士正晴先生のことである。逆旅は旅の反対だから宿屋の意で、この天地自然は萬物の休み場所であるの意味であろうか。
年も、月も日も時間は宿屋を通るパッセンジャーなのだ。
泰道老師の説く「これから通る今日の道、通りなおしのできぬ道」が頭に浮かんだ。
一度きりの人生どう生きるか ー 松原 哲明
無明とは明らかになしと申す文字にて候
沢庵宗彭禅師(1573〜1645)の著、『不動智神妙録』の冒頭の一句である。
沢庵が柳生但馬守に示した剣禅一致を説いた書物である。
沢庵はいう。人生は、そもそもが、無明なのだ。未知なのだ。
だから人生は、迷うことだと。
迷うから人生なのだけれど、その道を究めつくした達人たるものは、いつまでも迷ってはおられないのだと示している。
さて人生は、未知なものである。どれくらい生きたらどういうことになるのか、人生なるものを一度全部生きたことがあれぱその体験をもとに生きてゆくことができるけれど、とにかくはじめての一生だから、みんな工夫しながら、手さぐりで生きている。
みんな口には出さないけれど、自分の人生に自信がないし、疑心暗鬼なのだ。
口にすれば底が破れるから、出さないだけである。
人は、みな、迷う。
でも、大切なことは、達人たるものはいつまでもくよくよ迷ってはいないということである。
迷うということは、そこに立ち止まるということだ。
だから達人も迷うけれど、瞬時にしてそこから立ち去る。
いうことは易しくやることは難しいことだけど、いつまでも一点に立ち止まらないことが、迷いから脱けきるコツである。
たとえば、一輪の花があるとしよう。花は自ら芽を出し花を咲かせ、やがて実を結ぶ。常に前向きである。
決して退かないし立ち止まらない。立ち止まったら死を意味するからだ。(中略)
この身は無常なのに、本当にこの身が無常であると実感していない人間を無明というと、いい換えてみれば、一生が一回しかないという真実を、ひっ迫して考えてない人があまりに多すぎるということだろう。
一生が一回なんだぞといっても、どっぷりとぬるま湯につかってのらりくらりと生きている人が多すぎるというのだ。
一生が一回から、こんなことしてられないという人間が、少なすぎるのである。(中略)
人生にはテーマが必要なのだと思う。
人生に師匠が必要だと私は思う。
そういうことを知っている人間が人生の師を持たぬのはおかしいではないか。
未知の人生をどう生きるか、それを的確に教えてくれる人生の師を、草むらをかきわけても一日でも早く見つけよと禅では教えている。(後略)
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レッテル貼り
2006年08月31日 / 六雁レジュメ 人間成長編
一つめの「欲求を手放す」門を通過して、あなたはさもしい欲求に打ち勝つことを覚え、心が以前より自由になりました。
でも、ここまでの心の状態では、まだ「自分なりの考え」に取り付かれているはずです。
また、あなたは望みを純粋な価値あるものに置き換え、正しい心のあり方を覚え始めましたが、洗い流すことが難しい「価値観」が、まだ残っています。
自分なりの考えや価値観は、すっかり心に馴染んでいるため、なかなかその間違いに気づかないものです。
たいていの場合、自分が知ろうとしている真実や、根本的な原理と混同して捉えています。
以前に比べれば、競争や争いの影響を受けることは少なくなってきた
直感とは、思考活動をしていないときに、「宇宙の英知」が人間に語りかけてくる言葉である。
つまり、宇宙からのメッセージを受け取るには、頭脳のスイッチをオフにしておかないといけない、ということになります。
では、スイッチをオフにする方法は何でしょうか――。
それは、「気持ち」に意識を集中させることです。
直感を磨くのにも、強い意志と根気が大切です。
直感を発達させるには、まず、このような「常識」を疑ってみる必要があります。
「頭脳による『思考活動』は、心による『直感』よりも優れている」
それができたら、今度は少しずつ、頭脳から心へと、理性から気持ちへと、意識の重心をシフトさせていきます。
そうすれば、だんだんと、直感がどんなふうに感じられるか、どんなふうに聞こえるかがつかめるようになってきます。
直感にしたがって行動する習慣をつけ、それがどんな結果になったか、ノートに記録を取ってみましょう。経験を積み重ねるうちに、直感と『直感のようでいて、実は頭脳のおしゃべり』との違いが、識別できるようになってきます。
私たちは、時として「こうでないといけない」と、特定の結果に執着するあまり、直感のアドバイスを無視してしまうことがあります。
人生の質を高めたいなら、どんなときでも、自分の気持ちに正直に行動すること。
しかも100%正直に。
私たちは、無意識のうちに、ありとあらゆるものに評価や判断を下してしまう「クセ」があります。
これがいわゆる「レッテル貼り」です。
なにげない「調子はどう?」の挨拶に始まり、もっとデリケートなことにいたるまで、私たちは、常に分析や批判を求められています。
これは、すっかり習慣として定着していますから、レッテルを貼らずにいると、逆になんだか物足りないような気がするくらいです。
このレッテル貼りこそが、私たちから真実を見失わせてしまう元凶です。
すべてのものは、ありのままで完璧なのに、レッテルを貼ると、それがわからなくなってしまうのです。
すべてが不完全に見えてしまうのです。その上、エネルギーも停滞してしまい、自由に流れなくなります。
レッテル貼りをした瞬間、レッテル、すなわち「かたよった考え」は、レッテルを貼った対象(人、もの、出来事)に対するあなたの気持ちと合体して、ひとつになります。
これが、エネルギーを滞らせ、不快感をもよおさせる原因です。レッテル貼りをやめない限り、ギクシャクした人間関係や、特定の不愉快な状況は、なんどもなんども繰り返されます。
私たちは、つい、何にでもレッテルを貼りたがるものですが、実際には、この世には、正しいことも、間違っていることも、良いことも悪いことも存在しません。
正邪の観念は人間の思考が勝手に作り出しているだけであって、あくまでも相対的なものに過ぎません。
すべての出来事は、純粋なひとつの出来事なのです。
それが真実です。単なる出来事に、「○○だ」とレッテルを貼るから、単なる出来事は、レッテルである「○○」にすりかわってしまうのです。
これでは完璧な人生を楽しむことなど無理な相談です。
人生を完璧にする唯一の方法は、すべてのものを、ありのままで完璧だと受け入れることなのです。
エクササイズは、次のような手順で行いましょう。
まず、レッテルの貼りついている気持ちを、レッテルを貼らずに、ありのままで感じます。
こうすれば、気持ちにくっついている余計なエネルギーが解放されます。
この余計なエネルギーが、あなたが痛みと感じていたものの正体です。
誰かに腹を立てている人は、ある事実に気づいていません。それは怒りというものは、いつも自分でこしらえている、ということです
。私たちは、誰かが自分を怒らせた、あるいは、怒るように仕向けた、と考えるものですが、実際は違います。
誰かの欠点を見つけるということは、あなた自身に、自分でまだ認めたくない、同じ欠点がある、ということなのです。
それで相手の欠点に共鳴しているのです。
これからはもう、レッテルを貼るのはやめて、怒りを手放しましょう。
そうすれば、相手を受け入れるだけでなく、自分自身をもありのままに受け入れることになります。
誰に対しても、何に対しても平和な心でいることが、自分の心を平和に保つ方法です。
自分の心を平和にするために、ほかの人と平和をつくるのです。
誰かを許すとき、実際に許しているのは、自分自身です。厳密に言うと、相手と共通する自分の一部分を許しているのです。
誰かを愛するなら、それは、実際には自分を愛していることを意味します。
グループ内にもめごとや問題が生じたとき、何よりもまずなすべきことは、グループに対して平和な気持ちを持つことです。
グループ内に不調和があるということは、グループの目的が明確でないか、あるいは目的があっても、それが宇宙と調和していないか、もしくはグループの中で目的から逸脱した行動をとっている人がいるのかの、いずれかを意味します。
自分を愛していない限り、人を愛することはできません。
次に、メンバーに対する決めつけやレッテル貼りをすべて手放します。
レッテル貼りをすると、エネルギーを閉じ込めてしまいます。
レッテル貼りをしている自分に気づいたら、レッテルを貼っている相手全員について、「許しのエクササイズ」をしましょう。
決め付けがすっかりなくなるまで、毎日エクササイズを続けます。
それができたら、こんどはメンバーの一人ひとりに無条件の愛を抱くことに専念します。
誰かにレッテルを貼るということは、実際には」、自分自身の一部にレッテルを貼っていることを意味します。
同じように、誰かに無条件の愛を抱くということは、それまで愛せなかった自分の一部分を愛することなのです。
このことを自分にいい聞かせれば、エクササイズは比較的スムーズに行えるのではないでしょうか。
コツは、結果をあせらないことです。
グループと平和な関係が築けるまで、ゆっくり時間をかけて、エクササイズをしましょう
。あなたがグループと平和関係を保ってはじめて、目的の達成に取り組めるのです。
グループの形態によらず、すべてのグループは、完璧なサポートグループになる可能性を秘めています。
たとえ、メンバー全員のありのままの姿に完璧さを見出せる人が、あなた一人だけだったとしても、あなたの力だけで、グループ全体のエネルギーの流れを自由にすることができるのです。
一人のエネルギーには、グループ全体のエネルギーを根底から変えてしまうパワーがあるのです。
むろん、無条件の愛とサポートを与え合うメンバーが多いのに、越したことはありません。でも、それは絶対条件ではありません。
さらに付け加えると、無条件の愛とサポートは、必ずしも行動で示さなければならない、という意味ではありません。
行動で示すケースも、もちろん出てくるでしょうが、金品を与える、何かをしてあげるなどの義務が伴うわけではありません。
無条件の愛とサポートは、すべて意識レベルで行われるものです。
意識レベルで無条件の愛とサポートを表現すれば、それは物質的なレベルにも、しっかり反映されてきます。
どんなグループにおいても、一番重要なことは、目的を決めることです。
さらに、メンバーのインスピレーションを刺激すべく定期的にそれを更新していくことです。
黄檗宗とは
日本の禅宗は、臨済宗・曹洞宗・黄檗宗の3宗がある。黄檗宗は当初、臨済正宗黄檗派と称していたが、明治9年に黄檗宗と改めた。
『唯心の浄土 己身の弥陀』
『唯心(この世で実在するのは心だけであり、総ての事物、現象は心の働きによって仮に現れたものである)の浄土(汚れや迷いのない土地、佛の世界)己身(自分の身、自身)の弥陀(阿弥陀仏)』と説かれている。
「無限の自由と愛の世界この身このままが仏である」
私たちは、本来、心の中に阿弥陀様がおられる。
自分の心の中に極楽浄土を見いだし、心の中にいる阿弥陀様に気づかされることである。
ところで、黄檗山萬福寺は、中国福建省福清市漁溪聯華村にあり、唐の太宗の時代である貞観5年(631)に、六祖慧能禅師の法を嗣いだ正幹の開創した般若堂がその始まりとされている。
徳宗の時に建徳禅寺と改められ、黄檗希運禅師(?〜856)が黄檗山と名付けたと云われている。
名も萬福寺と改められた。
中国明朝末に、福建省福州の黄檗山萬福寺で、住職として大いに禅の教えを広めていた隠元隆g禅師が、日本からの度々の招きに応じて、江戸時代の承応3年(1654)に長崎に渡来した。
この時、多くの弟子や職人を伴ってきた。また、隠元隆g禅師が渡来することを聞いて、日本の各地から大勢の修行僧が禅師を迎え、弟子となり教えを受けた。
御水尾法皇や徳川将軍も帰依をされた。
徳川家綱公より現在地(京都府宇治市)に寺領10万坪を与えられ、中国の黄檗山萬福寺を模して、明朝様式の禅寺を創建した。
伽藍建築や仏像造りには、隠元隆g禅師とともに渡来した職人達が、力を奮ったという。
寛文元年(1661)萬福寺が創建され、隠元隆g禅師は、古黄檗(中国黄檗山萬福寺)よりとって黄檗山萬福寺とし、初代の住職となった。
江戸初期から中頃にかけて、黄檗山の住職は、殆ど中国から渡来した僧侶であった。
従って、朝夕のお勤めをはじめ、儀式作法や法式・梵唄はその伝統が受け継がれており、今日の中国・台湾・東南アジアにある中国寺院で執り行われている仏教儀礼と共通している。
黄檗宗(おうばくしゅう)
日本での禅宗の一派。開祖は隠元。大本山は宇治市の黄檗山万福寺で、末寺は約500。
同じ禅宗の臨済宗、曹洞宗がいずれも鎌倉時代の初期に伝来したのに対し、隠元の来日は江戸時代の初期だった。
彼の禅は教義や修行などの面ではそれまでの臨済宗との違いはなかった。
しかし、臨済宗がはやくから日本化していたのに対し、隠元は異民族国家清に反対する中国の国粋化運動に思想的影響をうけていたので、自分は中国禅の正統派であることを強調し、独自の宗風を生んだ。
黄檗山万福寺の山号寺号も隠元がすんでいた中国の地名からとったもので、住持(寺の主)も第13世まではすべて中国僧であり、仏像や建築、修行生活も中国様式であった。
隠元についで第2世となった木庵性(もくあんしょうとう)が、禅僧のしたがうべき規則である清規(しんぎ)を確立し、江戸白金に瑞聖(ずいしょう)寺をひらいて関東の拠点とした。
木庵の後継者鉄眼道光は、1678年(延宝6)に黄檗版「大蔵経」を完成し、その板木は現在も宇治万福寺にのこっている。
また、彼は飢饉をすくうために、「大蔵経」作製のための資金をなげうったことでも知られる。
第5世高泉性(こうせんしょうとん)が中興したのちはしだいに衰退にむかう。1874年(明治7)、臨済宗に合併させられたが、2年後にふたたび独立した。
黄檗宗の宗風は臨済宗の禅に明代の念仏禅をくわえ、読経は唐音、儀式などの決まりは明朝風である。
隠元、木庵に即非如一(そくひにょいち)をくわえた3人は黄檗三筆として知られるほか、明朝風の芸術を数多くつたえた。
隠元(いんげん)
1592〜1673 江戸初期に中国(明)から渡来した禅僧で、日本黄檗(おうばく)宗の開祖。
福建省の出身で、諱(いみな)は隆g。1620年に出家し、37年に中国の黄檗山万福寺の住職になった。
54年(承応3)、長崎、興福寺の逸然性融(いつねんしょうゆう)らの願いで来日を決意。
63歳にして、弟子20人あまりをともない、興福寺にはいった。
のちに、江戸にむかい、将軍家綱の尊信をうけ、生涯日本にとどまって念仏禅を布教するようにもとめられて、宇治に黄檗山万福寺をたてた。
これは、中国のものと山号寺号が一致するだけでなく、建築や生活様式まで明風で、密教や浄土教のいりまじった独特の明朝の禅をつたえるものだった。
その影響は仏教各派だけでなく、隠元と交渉をもった多くの人にもおよんだ。
書にすぐれ、弟子の木庵、即非とともに「黄檗三筆」とうたわれた。
なおインゲンマメなども隠元がつたえたとされるが、彼がつたえたのはただしくはフジマメだったといわれる。
鉄眼(てつげん)
1630〜82 江戸初期の黄檗宗の僧。
鉄眼は号で、諱(いみな)は道光。
肥後の人。
13歳で出家し、浄土真宗の僧となったが、隠元が来朝して新しい禅を説いていることを知ると、その門にはいった。
ついで、隠元の高弟木庵についてまなび、その法をついだ。
1668年(寛文8)鉄眼は仏教聖典である「大蔵経」の版木をつくって印刷することを決意した。
版木をおさめるために宇治万福寺に宝蔵院をたて、南は九州から東は江戸まで、各地をまわって経典の講義をしたり喜捨をつのったりして資金をあつめた。
途中で2度の大飢饉(ききん)があり、あつめた喜捨を難民救済に投じたため作業はおくれたが、十余年をへて「鉄眼版大蔵経」は完成した。
その版木4万8275枚は、現在も宝蔵院にある。
法 話
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禅と蝉 書き下ろし
兵庫県・霊雲寺住職 林 学道
今夏の蝉の初鳴きを私が聞いたのは、七月の六日だったと記憶しています。
ジーと押し殺した声で鳴くニーニーゼミでした。
やがてアブラゼミの声を聞くころ、夕方や明け方には、ヒグラシのカン高い鳴き声を耳にしました。
暑さの厳しい毎日は、ほとんどがシャーシャーと鳴き騒ぐクマゼミ一色でした。
お盆の前後からミンミンゼミの鳴く声に、そろそろ秋の気配を感じ、ツクツクホウシは、その極めつけでした。
処暑を過ぎてもまだ厳しい毎日ではありますが、早朝、犬の散歩に出ると吹く風に肌寒さを感じるようになって来ました。
でもまだ日中の暑さは立派なものです。でも芙蓉の花の蕾が膨らんで来た今、少しずつではありますが、変わって来ました。
シャーシャーと鳴く蝉の鳴き声がほとんど聞かれなくなって来たのです。
ミンミンゼミもツクツクホウシも今日などは、嘘のように少なくなってしまいました。
でも時折り、最後の最後までゆく夏を惜しむかのように一生懸命に泣き続けている蝉の声を耳にします。
ほんの小さな体の響鳴管を力一杯響かせ、大きなスピーカーに負けずと周囲の物には目もくれず只管(ひたすら)鳴き尽くしている姿には、頭が下がります。
そう言えば禅語の中に、「寒蝉古木を抱き、鳴き尽くして更に頭を廻らさず」とありました。
蝉の一生というのは、土中で数年、地上で数日と言われるように短いものです。
私たちのように七十〜八十年ぐらいは生きることが出来ると、一日の中の数時間といっても無駄ではないと思いがちです。
何をするにしてもまだ時間は十分にあると思ってしまいます。
他人や他所事にとらわれずに自分のやるべき事を一生懸命にやりなさい。
生死事大(しょうじじだい) 無常迅速(むじょうじんそく) 時不待人(ときひとをまたず) 謹勿放逸(つつしんでほういつすることなかれ)と、教えられているようです。
蝉は、禅に通じているのでしょうか。
法 話
四恩の大切さ 永源寺派 滋賀県・生蓮寺住職 横山 玄秀
恩という字は、原因の下に心と書く。原因を心にとどめるという構成である。
恩とは、何がなされ、今日の状態の原因は何であるかを心に深く考えることなのである。
もっと簡単に言えば、してもらったことを思い出すことである。お蔭さまの心である。
恩の考え方は、ややもすると、封建的な古い考えであると思う人があるが、それは恩の正しい意味がわかっていないのである。
中国の諺に「恩を受けて恩に酬いざるは禽獣に等し」とあり、恩知らずを罵っている。
ところで、我が国に欧米から権利とか義務の思想が近代になって入ってきて、民主主義の根幹となった。
しかし、それが近頃では、権利だけを主張し、義務を忘れるという身勝手な風潮が蔓延するようになってきたのである。
物が豊かになり、福祉が充実してきた今日の繁栄の裏には、その享受を当然と考える人は少なくない。
当然だと思う気持ちには、感謝の念は湧かない。
そして、恩を忘れると権利ばかり主張するようになる。
権利・義務には他への厳しい要請があるが、恩は自覚するものである。
恩について、仏教ではさまざまな経典に説かれている。
『正法念処経』には、母の恩・父の恩・如来の恩・説法法師の恩の四恩が説かれているし、『大乗本生心地観経』では、父母の恩・衆生(社会)の恩・国王(国家)の恩・三宝(仏・法・僧)の恩の四恩を説いている。
また、同じく『大乗本生心地観経』には、父母の恩・師長(先生)の恩・国王の恩・施主の恩という四恩も説かれている。
人の人たる道は恩を知り、恩に報いるべきと四恩の経典は説いている。
弘法大師は、「恵眼をもって観ずれば、一切衆生は皆これ、わが親なり」と説き、道元禅師は「一切衆生斉しく父母の、恩のごとく深しと思うて、作す所の善根を、法界にめぐらす。」と仰せられた。
自分の生命を知り、家族の力添えを知り、社会の仕組みを知れば、恩にゆきあたる。他に厄介をかけずに生活はできないのである。
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今から十年位前に、臨済宗の寺院であったエピソードをご紹介する。
それは、ある寺院で大きな法要があり、一派の管長様を特別にお願いをされた。
管長様は、三百人程の檀家さんの前で、父母の恩・国の恩・師の恩・衆生の恩について法話をされたのであるが、そのお話を聞いていたある大学生が手を挙げ管長様に、
「質問してもよろしいでしょうか?」
と訊ねた。お許しが出たので、その大学生は話を始めた。
「私は恩なんて必要ないと思います。国の恩なんて、国民は税金を払っているのだから、国がサービスをするのは当然である。師の恩なんて、私たちは授業料を払っている。
また、親の恩なんて、頼んで生んでほしいと言ったものではない。勝手につくったものである。
それよりも、お金が大事。お金があれば何でもできる。
だから、勉強して良い会社に就職して高い給料をもらう。そして、いつかは社長になる。
やはり、お金が一番。恩なんて関係ない。」
このように言ったものだから、周りの檀家さんはびっくりし、堂内は騒然となった。
そして、管長様は、どのような答を出されるか誰もが注目をしたのである。
管長様は一言、
「お前さん、いくら欲しいのか?」
と。大学生は、理屈で答えが返ってくると思っていたので、予想外の言葉に驚き、焦った。
「一千万円か?一千万円やるぞ。その代り条件がある。」
大学生は一千万円もらえるというので心が動いた。
「条件て何ですか?」
「お前さんの命をよこせ。」
「一千万円位で命をやれるものですか。金なんかで命は売れませんよ。」
すると管長様が怒って、
「その大事な命は誰から頂いたものだ。父母だろうが。その命を育てたのは誰か。先生じゃないか。平和の国におられるのは誰のお蔭か。お前さんは自分のことばかり言っている。恩を忘れた者は餓鬼という。それが解らん奴はここから出て行け。」
と一喝された。大学生は困ってしまったのであるが、後日、彼は
「管長様のお蔭で目が覚めた。あの時、管長様とお出合いし、叱られて本当に良かった。」
と語っている。今は立派な社会人である。
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理屈は言うが、命というものを全く考えず、命があるのが当り前というのが前提になっている。
当り前になって感謝がなくなっている。
今は恵まれすぎて、何もかも当り前になり、有り難みがなくなっている。
人間は、一人で生きていくことはできない。
たくさんの人に支えられているから、生きていけるのである。
世間は、恩という陰の力が働いている。
その力によって私たちは、生かされているのである。
法 話
彼岸花 岩手県・慈恩寺住職 古山敬光
なぜか、あの彼岸花が好きです。
彼岸花とはどなたがネーミングして下さったか、この響きがとてもいいです。
なにが好きかというと、秋彼岸近くになり気が付くと静かに咲いている。
やがて彼岸も過ぎ、秋風が吹き始めるころ、気が付くと、静かに姿を消しているのです。
わずか1週間ほどと言うはかない生命ながら、時期を間違えず訪れ、ひととき目を楽しませてくれてサーッと去っていく。
しかも、この秋彼岸の時期にですから、まるで仏さまのようです。
私たちが、悩み、苦しみ、迷っている時にどこからともなく、スーッとあらわれ、いつしか、笑顔が戻ると、またスーッと姿を消される。
この彼岸花、別名「曼珠沙華」(まんじゅしゃげ)“天上の花”という意味だそうです。「これを見る者は自ずから悪業を離れるという」(仏教辞典より)
出来たら何度も何度も見て悪業を離れたいものですが。
しかし、残念ながら罪を犯さずには生きていけないのです。
いま、頂く食べ物すべてには、いのちがあるのです。
そのいのちを頂くわけですから、これほどの罪はないでしょう。「飯を食うではなく、ご飯を頂くのです」という言葉通り、まさに頂くのです。
諸々の悪業も、犯さずにはおれないけれども、出来るだけ犯さないように努力することは可能でしょう。
最小限に止めることは出来るはずです。
それにはやはり「そうだ、そうしよう」「そうだったのか、そうだったのか」と自分自身への目覚めこそが大事なことであります。
そこがそのまま彼岸でもありましょう。
彼岸花は、厳しかった暑さもいつしか去り、人々に彼岸の訪れを告げ、目を楽しませ(利他行)(生)、彼岸も終わり、風の音に秋を感じる頃(老、病)いつしか、こっそりと姿を消していく(死)。
そのような人生でありたいと私は思っているのかもしれません。
曼珠沙華咲いて
ここがわたしの寝るところ 山頭火
いうな地蔵
相国寺派 福井県・海岸寺住職 石崎 靖宗
私の住んでいる福井県は、嶺北(れいほく)と嶺南(れいなん)という名で大きく二つに分けられ、その分岐点が木ノ芽峠周辺だ。
この奥行きの深い山嶺は、かつて都と北陸道諸国とを結ぶ交通の難所だった。
気候風土や方言なども、ここを境に様変わりする。
木ノ芽峠(標高628メートル)を通る北陸道は、平安初期に 開削(かいさく)された古い官道で、敦賀から今庄へ抜ける最短路。
道元禅師や親鸞聖人、新田義貞、織田信長、豊臣秀吉らの戦国武将、さらに江戸時代には芭蕉がここを通った。
戦国時代には、この近辺にいくつもの城が築かれ、信長と朝倉勢、一向一揆勢の戦場になっている。
その木ノ芽峠付近に「言奈(いうな)地蔵」という珍しい名のお地蔵さんが安置されており、それは弘法大師の化身であるともいわれ、興味深い逸話が残されている。
昔、大金を所持した旅人を乗せて、木ノ芽峠を越えた馬子(まご)(昔、おもに、人を乗せた馬を引くことを職業とした人)がいた。
寂しい峠越えだ。馬子は周囲に人気がないのをいいことに、その旅人を殺して金を奪った。そして周囲を見回すと、確かに人はいなかったが、そこには一体のお地蔵さんがおられた。
旅人は苦笑いしながらたわむれに、
「おい、そこの地蔵、今の一部始終を見ていたかも知れぬが、この事は人に言うなよ 」
とひとり言を言って立ち去ろうとした時、お地蔵さんが、
「地蔵は言わぬが、おのれ言うな」
と返事をされた。驚いた馬子は腰をぬかしそうになりつつ、その場を這いながらやっとのことで峠をあとにした。
その後、年を経て再びその馬子がこの峠を越した時、年若い旅人と道連れとなり、よもやま話をしてお地蔵さんの前に来た。
その霊験あらたかなお姿を見て、馬子は感きわまって思わずぬかづき涙を流し始め過去の過ちを悔いた。
旅人は不思議に思い理由をたずねると、馬子は先年の悪事を語り、ありし次第を告げた。
お地蔵さんの忠言どおり、馬子は自身の口で「地蔵は言わぬがおのれ言う」羽目に陥ったのである。
はたしてこの旅人こそ先年殺された旅人の息子で、親のかたきを尋ね歩いていた。
息子はやっと見つけて嬉しかったが、このような山中では気が引けるので、共に敦賀まで降りてから名乗りをあげてこれを討ちとったとのことである。
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この話は現代の我々にも通じるところがある。
うちのお寺は海水浴場が近いが、いつも砂浜に心ない人たちによるゴミが散乱している。
またお寺の隣に竹やぶを挟んで車道があるが、竹やぶにも空き缶やゴミが絶えない。
誰も見ていないからという考えでは、程度の差こそあれ前出の馬子と何も変わらない。
いつも新聞の社会面を賑わしているうんざりする事件にしても大同小異である。
誰も見ていないから悪いことをする、これほど醜い悪行があろうか。
誰も見ていないからこそ善いことをするのが人間本来の姿。
禅では古来より陰徳を積めとうるさく言われる。
陰徳はめだたぬように、きわだたぬように、さりげなく、ひっそりと自分のなすべきことをすることだ。
さてその禅の初祖は達磨大師だ。
達磨は、西暦520年ごろお釈迦さまのおられた国インドから海路中国へ渡り、禅のこころを伝えに来た。
ときの梁(りょう)の武帝は仏法に深く帰依していたので大いによろこび、達磨を首都金陵(南京)の宮中に招いた。
そして、
「私はお寺をたくさん建て僧侶に供養してきた。どんな功徳があるか」
と達磨に問う。達磨はにべもなく、
「どれもこれも功徳にならん」(『五灯会元』より)
とつっぱねる。
功徳を期待してするなら、どんな善行でも役にたたない。
褒められよう、ニュースに出されようとの物欲しさの心が、せっかくの善行をマイナスにする。
エゴ的行為を信心の名で美化しようとする醜悪さを、達磨はズバリと抹殺する。
自分の善行をひけらかす、また隠れて悪いことをする。
そういう人は他人の目を気にして自分自身を裏切っている愚かさに気がつかない。
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これは今の小中学校のボランティア活動にも似たようなところがある。
(*参照)その記録が残され受験のとき志望校へ提出する内申書に反映される制度になっているらしく、子供もそれを承知の上で活動に励む。
それではたしてボランティアと呼べるのか。
そういう制度にしてしまった大人の浅はかさ、あるいは前述の事件やゴミのモラルの低下など、根本的におかしい風潮の現代社会。
それこそ言奈地蔵の天罰が下りそうだ。
陰徳とはひらたく言うと人や物を大切に粗末にしないこと、また人に尽くし、物を活かして使うことだ。
するとその人には人徳が具わってくる。
人徳とは「人がら」のこと。人がらはその人の持ち味だから、読書や聴講などだけで得られるものではない。
理屈ではなく陰徳という行為、経験の積み重ねによって人徳が形成される。
奈地蔵の教訓を生かした、こころの開発を期待したい。