【討論】聖句の解釈をマターリ語るスレ9【議論】

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919名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 04:07:57 ID:+rrL1JQn
ある講義による。
「互いに挨拶を交わしなさい」の聖句の意義と、
エデンを表す、磔刑の「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」を合わせて考えると
920ペガサス:2006/08/22(火) 10:25:52 ID:vdBeTWBD
>>918

>一人一人の祈りが交わるところに天の国はあると思う。

素晴らしい言葉ですね。

マタイ 18:20 「ふたりまたは三人が、わたしの名によって集まっている
所には、わたしもその中にいるのである」とイエスは語っています。
主の臨在なさるところは、仰るとおり「天の国」ですね。
感動を受けました。
921過去の某コテ ◆DV4hb.MG/U :2006/08/22(火) 10:35:52 ID:/S7HkWIO
>>918

そこは、何もせず日がな一日「ぐうたら」で過ごす愚か者を非難しているところだよ。

わかってるんですかね?

前後からみると判らずにとりあえず引用してるみたいですけど・・
922mono ◆HfNWSGfVro :2006/08/22(火) 15:40:50 ID:+fXqoPoD
>>919
「互いに挨拶を交わしなさい」
これは、わたしの行っている教会の課題ですね。会員の半数近くが
他教派出身てことは、初心者の方に挨拶が行き届いていないんだと
感じる。皆悪気はないんでしょうけどね、でもなんとかなると思う。
>>920
ありがとうこざいます。
祈ることはできても、その思いを心の中にず〜っと留めて置くのは、
ちと難しいと思いませんか?     
>>921
そうね 6章では蟻んこのとこ行って教えてもらいなさい、と、書いてあるし
24;30でもしかられているね。 でもそのみ言葉だけ取り上げてみると
マターリしていて良いでしょう。 昼寝のじゃましないでね。
923ペガサス:2006/08/22(火) 16:59:05 ID:vdBeTWBD
>917

>神と人が結ぶ契約には、旧い契約、と新しい契約がある。
しかし、神と人との間には仲介者がいる。
>人はその仲介者を通してでないと神と契約できない。

聖書を旧約と新約に分けたのは、きみの言う意味に近い考えであるが、
神は仲介者なくしてアブラムと契約をしている。
また、イエスは三位一体といわれるように、神と一つであって仲介者
ではない。
すべては、「聖書のことば」によって検証することが基本でしょうね。
でないと迷妄に立ち至る。
924名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 18:26:47 ID:TUuPtHD2
何故、教会や自称クリスチャンが聖書の真意を理解できずに、その結果救済を逃してしまったのか?

それは、「天使の預言書」の半分しか読んでないから。

片割れ(聖書)だけをいくら読んでも、神の計画も救済方法も決して理解できない。

聖書とペアになっている、もうひとつの預言書を読み、両者を照合して、総合して解読しなければ、
決して預言の真意も救済方法も理解できない。

もう一人の証人とは、ノストラダムス。
聖書とペアになっている預言書は、ノストラダムスの作品(通称、諸世紀)
925名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 18:31:11 ID:TUuPtHD2
1999年にノストラダムスの騒動があった。
それで、、皆「天から恐怖の大王は来なかった」って喜んだ。
でもね、恐怖の大王って訳されているけど、あれは、「(他人の)支払いをする王」
って意味で、つまり、贖い主であるキリストのこと。

それに、あの時、グランドクロスが起きたよね。
あれがイエス再臨の時に現れる「天の徴」。
これは、黙示録でも預言されてた。

つまり、あの時が、イエス(キリスト、救世主)の再臨の予定時だった。
あの時にイエスは天から降りて来て、義人を救う予定だった。

でも、イエスは来なかった。
そりゃそうだわな。
イエスは「来て下さい」って皆で呼ばなきゃ来ない。
条件が整わなければ来れない。
来たくても来れなかった。
こんな状態じゃあ来れないわな。
救うに値する者、義人もいなかった。
だから2000年に予定されていた掲挙も中止になった。

つまり、もう二度とイエスは来ない。
つまり、もう救済はない。

救済方法と救済時期は、聖書でもノストラダムスでも預言されていた。
しかし、あなたがたはその真意を理解できなかった。
外れたのはノストラダムスではなくて、あなたがた地球人の方。
あなたがたは救済のチャンスを逃して、それを笑い飛ばしてしまった。
もう救世主は現れない。
926名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 18:41:29 ID:TUuPtHD2
ノストラダムス 諸世紀 第10章72番

1999年 7の月
天から恐怖の大王が降りて来て
アンゴルモアの大王を甦らせる
その前後の期間 マルスは幸福の名のもとに支配するだろう。

まず、人はこの詩を読むと、「この詩は1999年の7月に起きる何かの事件を予言した詩である」と考える。
しかし、この考え方が、固定観念、既成概念であり、この考え方に囚われていたから、この詩の真意が理解できなかったのである。
この詩はもともと、1999年に起きる何かの地球人的事件を予言したものではない。
この詩は三つの意味が込められて作成されている。

1、1999年の7月よりも前に宇宙からイエス・キリストが降りて来て、天使を地球に復帰させて、以後、人々を幸福に支配する。

2、2000年の3月から6月までの期間に、宇宙からキリストが降りてきて、天使を信じた義人を死者から甦らせる。

3、2000年の7月よりも後に宇宙からサタンが降りて来て、地球と地球人を支配する。
927名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 19:41:43 ID:xKaJPkge
併せて読んで、得られることは、その終末に関することだけかの
928名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 20:45:37 ID:+//3PST7
2000年の7月よりも後に天からサタンが降りて来て、地球と地球人を支配する。

だから、

1999年の7月よりも前に天(宇宙)で待機しているイエス・キリストに救いを求めて
「私達を憐れんで、どうか来て下さい」
って助けを求めなさい。
そうすれば、イエス率いる天使軍団(イスラエル人)が天から降りて来て、サタンの侵略に対抗できる技術を教えましょう。
そうして、サタンを撃退できれば、
天使達が地球に復帰できて、地上に天使王国ができ、以後、人々を幸福に支配する。

もし、地球人が預言の真意を理解できずに、天使を呼ばなくて、サタンから地球の覇権を奪い取れなかった場合でも、
義人(理解者、協力者)がいた場合は、
その者が、サタンの奴隷にされるのは哀れだから、
2000年の3月から6月までの期間に義人だけを救出し、天に引き上げ、天使のもとに引き取り、
永遠の命を授けて、仲間として扱おう。(掲挙の予告)

つまり、この詩は天使の預言書(聖書+ノストラダムス)のエッセンスを全て注ぎ込み、一つに要約した究極の預言詩。

たったこれだけのことが、1999年までに理解できず、天使の要求、忠告を実現できなかった。
929ペガサス:2006/08/23(水) 00:28:14 ID:8No11q7w
>922

>祈ることはできても、その思いを心の中にず〜っと留めて置くのは、
ちと難しいと思いませんか?

そうですね。分かっていてもどうやって持続できるかが、実際として
問題ですね。

例えば、私の場合、あるとき朝起き起きに家族と顔を合わせたとき、
ハレルヤ!!と大きな声をかけたのです。そうすると相手も思わず
ハレルヤ!!と返してくれたのです。はじめはちょっと照れくさか
ったのですが、その日はつまらぬことで口喧嘩できなくなりました。
ハレルヤ!と言ったとき、主を念頭に置いていたからでしょうね。
それ以来、ハレルヤ!の朝の挨拶をすると、少なくとも半日は天国
の気持ちを持続できるようです。
理屈ばかり言っていないで、やってみることですね。

私の会ったある牧師は、私と話している間も時々、感謝!!と小さい声で
祈るのです。彼は、瞬間、瞬間に主に祈るのですね。いつも主とともに
ある方法なのですね。感心しましたが、残念ながら、私はまだ実行できて
いません。

主の遺言は「互いに愛し合いなさい」(ヨハネ)でしたね。
理屈より実行が大切ですね。あなたも、「天の国」持続のために、何か
考えて実行してみては?
いい方法があれば教えてください。
930ペガサス:2006/08/23(水) 02:07:46 ID:8No11q7w
>925,926

ノストラダムスだけでなく、さらに、多くを研究したほうがいい。

死海写本の存在を場所まで指定して予言したエドガ・ケイシー。
神智学から人智学へ、そして霊界参入を果たしたルドルフ・シュタイナー
両者ともアカシック・レコードを読むことができた。
(イエスも、天にある聖書の一点一画も崩されることはないと言う言葉は、
 アカシック・レコードを読むことが出来たことを示している。)
また、北欧の巨人スエーデンボルグの霊界参入の記録は素晴らしいもの
であり、禅の大家、鈴木大拙が傾倒し、翻訳までしている。をもって日本に紹介
内村鑑三その他も大いに評価している。ヘレンケラーがイエスと匹敵するほど
スエーデンボルグに傾注したことは有名である。
またインドの聖者サンダーシングは絶えずパウロの言う第三の天に参入できたが、
あるときスエーデンボルグの書を薦められ読んで、霊界の状態が全く彼と同じ
であることを知って驚嘆し、スエーデンボルグを偉大な聖徒であると評している。

遡っては、ナグ・ハマディーで発掘されたのグノーシス系写本を研究
することも有用であろう。例えばトマス福音書など。

ごく最近出版された「イエスの王朝」は史的イエスの新視点と言える。
パウロの描く「贖罪のイエス」でなく、「救世主のイエス」がイエスの
本質であることを突いたものだ。
視野を広げることを期待する。





931名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 10:48:18 ID:Esd7NF1W
>ヨシュア記のエリコ陥落のどの部分が掲挙のたとえ話なのでしょうか?

エリコの住民で助かったのは遊女ラハブとその一族だけだよね。

ラハブは何故助かったのかな?

ヨシュアが派遣した二人の斥候を助けて「過ぎ越しの印」を貰ったからでしょう。

ラハブは何故、二人の斥候を助けたのかな?

その二人の斥候がヨシュア(=イエス)から派遣された大使で、ヨシュアから全権を委ねられて、エリコの住民を探りに来た、
そして、間も無く、ヨシュア率いるイスラエル人がエリコを攻略しにくる、
そして、エリコはヨシュアに陥落されて、征服される、
その未来の状況を前もって知っていたからでしょう。
未来が判って、事前に対策を取っておいた。
だから助かったんだよね。
932名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 10:58:21 ID:Esd7NF1W
ところで、ラハブが貰った「過ぎ越しの印」って何だった?

二人の斥候を逃がした窓に結んだ「真っ赤な紐」でしょう。
二人の斥候がそう指示したんだよね。
ヨシュア率いるイスラエル人(天使軍団)はエリコ突入の際に、
この真っ赤な紐を目印にして、その家の住民だけを助けた(過ぎ越した)。

ところで、「真っ赤な紐」って何かを思い出さないかな?
そう、出エジプトの際に、イスラエル人が鴨居の柱に塗った犠牲の子羊の血。
そこと対応してるんだよ。

まあ、犠牲の子羊の血って、イエスの血の贖い、と対応しているんだけど。

でもね、出エジプトの際の子羊の血は、「旧約の過ぎ越しの印」
ラハブが結んだ「真っ赤な紐」は、「新約の過ぎ越しの印」

聖書の作者は全部対応させて、全てを預言として、ストーリーを組み立てていったんだ。
933名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 16:07:40 ID:Bi52gtCJ
ある講義の要約

「私達の父である神と、主イエス・キリスト『から』の恵みと平和があなた方にあるように」 
との挨拶は時候的なものや儀礼的なものとは違う挨拶。
「異邦人でさえ挨拶をする」というのは、異邦人(信仰を他にする人)でも自分の仲間に
挨拶をするのは当たり前であり、兄弟姉妹のみの挨拶はそれと同じであるということ。

人と人、集団と集団、地域と地域、国と国との間に様々な隔てを造り争う。
しかし主イエス・キリストが十字架の愛によって、その隔てを取り除いてくださった。
というのがキリスト教の信仰。

人と人、集団と集団の間に主イエス・キリストがいて十字架の愛をあらわす。
それゆえ挨拶をするもの同士の間に主が共にいることを確かめ喜び合うような挨拶が
本来のあるべき形ではないか。その意味でカトリックの「主の平和」はとても重要。
934名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 17:59:40 ID:5yeTtaaj
アンニョン(安寧)ハセヨ
935名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 18:05:15 ID:5yeTtaaj
コンニチハ マリア BY 天使ガブ
936ペガサス:2006/08/23(水) 18:10:25 ID:8No11q7w
>>933

>人と人、集団と集団、地域と地域、国と国との間に様々な隔てを造り争う。
しかし主イエス・キリストが十字架の愛によって、その隔てを取り除いてくださった。
というのがキリスト教の信仰。

嘘だろう。

イエスは争いを起すために来たと言っている。
マタイ 10:34
「地上に平和をもたらすために、わたしがきたと思うな。
平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである。」

937名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 18:25:01 ID:Bi52gtCJ
矛盾しないように理解する。聖書を隔てる必要は無い。真理を殺してはいけない。

「地上に平和をもたらすために」と「あなたは今日わたしと一緒に楽園にいる」の差
を考える必要がある。
938名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 18:27:56 ID:5yeTtaaj
横野朝彦発 信仰のないわたしをお助けください
939キュロス:2006/08/23(水) 18:51:22 ID:cohNHa/n
マタイ福音書
>26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。
>剣を取る者は皆、剣で滅びる。

さて イエスはその「地上に投げ込んだ剣」で 何を滅ぼそう
としたのか?

マタイ福音書
>10:36 こうして、自分の家族の者が敵となる。

家族 なんだろうね。まあ この家族とは 現代の核家族化した
家族ではなく 血縁社会というか 有る一つの利害を共有する集団
のことなんだろうね。
940ペガサス:2006/08/23(水) 19:51:38 ID:8No11q7w
>>939

>マタ26:52 そこで、イエスは言われた。「剣をさやに納めなさい。
>剣を取る者は皆、剣で滅びる。

ははは!
イエスが剣を投ずるの剣は「争いを起こす」という意味だ。
きみの引用した「剣」は、物理的「暴力」の意味だ。
比較にはならない。意味を混同しないがいい。


941ペガサス:2006/08/23(水) 20:05:58 ID:8No11q7w
>>937
聖書に矛盾はない。真理は一つだからだ。
きみが矛盾を感じるとすれば、きみの理解が足りないからだ。



942名無しさん@3周年:2006/08/23(水) 21:05:04 ID:Bi52gtCJ
異邦人の家族伝道の難しさも、キリスト故の争いだね。
親兄弟は、キリストに家族を奪われる思いをする。
943mono ◆HfNWSGfVro :2006/08/24(木) 21:16:51 ID:NmTAksaJ
>>929
理屈ぽく見えたとしたら 反省 反省。
ハレルヤって賛美歌でしか知らないんです
だから使えないんです。
>>933
「主の平和」の挨拶は良いと思いますね。心を込めて使うことが
できれば、これほど良い挨拶はないと思う。

情緒に訴える教会に行ってみたくなった。けど無理だな。
944キュロス:2006/08/24(木) 21:31:53 ID:DpA1r4LF
マタイ福音書
>11:18 ヨハネが来て、食べも飲みもしないでいると、
>『あれは悪霊に取りつかれている』と言い、
>11:19 人の子が来て、飲み食いすると、『見ろ、大食漢で大酒飲
>みだ。徴税人や罪人の仲間だ』と言う。
>しかし、知恵の正しさは、その働きによって証明される。」

これは
18節は ヨハネが断食していると 悪霊に取りつかれている言ふ
と言う意味だね。そして
19節は イエスの花婿とする婚礼の宴会の事だね

つまり このヨハネやイエスが 行った事を みんな誤解した
と言うわけだね。
945キュロス:2006/08/24(木) 21:32:56 ID:DpA1r4LF
>>944
マタイ福音書
>11:16 今の時代を何にたとえたらよいか。広場に座って、
>ほかの者にこう呼びかけている子供たちに似ている。
>11:17 『笛を吹いたのに、/踊ってくれなかった。
>葬式の歌をうたったのに、/悲しんでくれなかった。』

だとすれば これは「神の国」がすでに来ている(成就)と
イエスが告げているのにも かかわらずに 人々は無視した
と言う事だね。
無為したと言うことは つまり 人々が「神の国」を求めなかった
と言う事だね。

マタイ福音書
>11:12 彼が活動し始めたときから今に至るまで、
>天の国は力ずくで襲われており、激しく襲う者がそれを奪い
>取ろうとしている。

とすれば この箇所は 「点の国は、 力ずくで襲うものでも
激しく襲い奪うものではない」と言う意味だね。
946名無しさん@3周年:2006/08/24(木) 21:42:01 ID:DpA1r4LF
>>945
>無為したと言うことは
ではなく 「無視したと言うことは」ね

イエスが 笛を吹いているのに
踊りが下手だ とか この踊りでは神は喜ばない と理屈を
こねる前に まず 楽しく踊れ ってことかな?

イエスが 葬儀の歌を歌っているのに
悲しみ方が下手 だとか 真の悲しみは表せない と理屈を
こねる前に まず悲しみを表せ と言う意味かな。

神の問い・挑戦に対して 下手でも何でもよいから
応答しろ・行動で示せ と言うことかな。
947名無しさん@3周年:2006/08/24(木) 21:55:27 ID:NmTAksaJ
そうだね あれこれ考えるから手足が動かないのかも。
でもねぇ、こういうのが教会と思っていたんですよね。

良くも悪くも一つの教会しか知らない温室育ちなもんです。
948ペガサス:2006/08/25(金) 00:58:50 ID:dQBS2mgG
>>947

>あれこれ考えるから手足が動かないのかも

ははは、主は怒ってる
「私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜ私の言うことを<行わない>のか」と。
(ルカ6:46)

>一つの教会しか知らない温室育ちなもんです。

あははは、主の口から吐き出されるぞ!

黙示録 3:16 このように、熱くもなく、冷たくもなく、なまぬるいので、
      あなたを口から吐き出そう。





949名無しさん@3周年:2006/08/25(金) 01:30:38 ID:UfmdLONI
なぜ私の言うことを<行わない>のか

求められる行いが一歩進むことであるならば、一歩には幅がある。
その幅は、0〜完全な一歩まである。
「主よ」と呼ぶだけの者とゼロ距離を歩く者の距離の差は無いが、別の差がある。

信じます、信仰のないわたしをお助けください
950ペガサス:2006/08/25(金) 20:47:20 ID:dQBS2mgG
>>949

>信じます、信仰のないわたしをお助けください

赤ん坊は歩けない、だが歩かせてくださいとは言わないで、
自分で歩こうとする。だから歩けるようになるの。

信仰のないわたしをお助けくださいでなく、一歩踏み出して信ずる。
行うことの出来ない私をお助け下さいでなく、一歩踏み出して実行してみる。
そうすれば歩けるようになる。

歩こうとしないで神頼みでは、いつまでも歩けない。

951名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 02:46:07 ID:WjmKW6Cw
>>950
現実は歩けないが、歩こうとしている。
自分で歩ける者にキリストは必要ではない。
キリストに縋り、歩けるようになる。

「独りで歩ける」というのは奢りであり、「自立」の属性は罪。
952ペガサス:2006/08/26(土) 09:30:15 ID:fWNz41JG
>>951

>「独りで歩ける」というのは奢りであり、「自立」の属性は罪。

「歩こうとする」を「歩ける」にすりかえる欺瞞!

「独りで歩こう」としないのは怠惰であり、「怠惰」の属性は罪。
953名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 09:43:00 ID:kjyWpz/U
>>952
人間が、自足的存在だと考えるのは間違いよ。
954名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 09:51:13 ID:37p13aTg
>>952
アツイねぇw

でも、>>951の言ったことは正しいのね。

人はパンのみによって生きるにあらず、神から恵まれることばひとつひとつによって生きるもの、ですよ

955ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/08/26(土) 17:45:55 ID:/GIrA7fF
歩く能力というものも、神から与えられたものなのですから
人は自分の力で歩くことなど出来ないし、自分の力で歩いているのでもないのです。

だから私たちは、「神が歩く力をあたえてくださるのだから歩こう」
「神があたえてくださるのだから〇〇していよう」と考えるのが正しいです。
956ダニエル ◆o31oshrvYE :2006/08/26(土) 17:47:33 ID:/GIrA7fF
人が生きる、ということ自体が
神と人との共同作業ですね。
957名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 18:11:12 ID:C7AYMhos
人として産まれてきた主イエスが、その過酷な十字架(死)に挑み、成し遂げられたのは、愛と父なる神さまへの信頼があった故。
死の苦しみは主も躊躇する。
958ペガサス:2006/08/26(土) 18:28:51 ID:fWNz41JG
>>955ほか

文脈は、主のことば
「私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜ私の言うことを<行わない>のか」
(ルカ6:46)
に対して、
行おうとしないで「行えるようにしてください」と祈るのか、
素直に「行ってみようとして」行ってみるか、
の問題であって、
きみたちは文脈から離れてしまっている。

問題の根は、信仰義認か行為義認かに帰する。
更に掘り下げるなら、「信仰とはなにか?」に帰する問題である。






959名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 18:47:14 ID:rvkJTdBp
神の国は、すでに来ている。
良き行為が「神と人との共同作業」だとすれば
神は人を必要としいる、いえる。
960名無しさん@3周年:2006/08/26(土) 18:57:02 ID:rvkJTdBp
戒めは、神の国に入国する試験ではなく、
神の国が成就しているから必要なんだね。

確かに良心は有るのだけど、良心とは
何かの過ちを犯した後に働く場合が多いからね。
961mono ◆HfNWSGfVro :2006/08/26(土) 19:15:17 ID:eYaCKlig
>>959
良き行為はイエスが喜ぶこととしたら、トイレをきれいに使うとか、
後の人を思いドアを開けて待っているとか、「お先にどうぞ」など
の毎日のちょっとしたことでもよい、そんな些細なことでも
神は喜んでくれると教えられた。
962ペガサス:2006/08/26(土) 22:03:30 ID:fWNz41JG
>>961
そのとおりです。
「この小さい者たちの一人に、冷たい水一杯でも飲ませてくれる者は、よく言っておくが、
決してその報いからもれることはない」(マタ10:42)

混んだ電車の中で、老人のために席を譲ったときに、すがすがしい気持ちになる。それは
イエスの言う「報い」であって、愛の「報酬」です。
イエスを知らないでも、親切な(愛のある)人は多くいる。
その人たちは、人に親切にした時、自分に喜びがくることを知って
いる、だから親切を続けることが出来る。
却ってクリスチャンたちが、屁理屈を言って愛の行いをしない。
そして、私には出来ない、神様できるようにしてくださいと言って逃げる。

神は人間に自由意志を与えた。人間は木の「切り株」ではない。
自由意志を与えられた人間は「行う」意志を選択し実行できる。

「私を主よ、主よ、と呼びながら、なぜ私の言うことを行わないのか」
(ルカ6:46)
主を信ずる者は、主の言葉に素直に従うべきでしょう。












963名無しさん@3周年:2006/08/27(日) 04:15:47 ID:zMU6rrhv
ルカ6:48のたとえはなんだろう

行う者─ 深い岩の基礎 ┬→びくともしない
                │
    洪水による「激流」 ┤
                │
行わない者─基礎が無し┴→リアルタイムに崩れる

*なぜ耐える内容なのか。
*激流が表すものは何か。
*激流に対する備えと結果はデジタル的。中間はないのか。
964名無しさん@3周年:2006/08/27(日) 04:18:53 ID:zMU6rrhv
*岩に達する土台の意味は何か。
965棕櫚 ◆lcL728vvpE :2006/08/27(日) 08:38:35 ID:3fKHa43E
私が2ちゃんねるで罵りを受けるときは、
「この!プロテスタントのファンダメンタルめが!!!!」
という内容です。
ファンダメンタルとは?
意味が解りません。

意味を教えてください。

異端ですか?
966名無しさん@3周年:2006/08/27(日) 09:17:30 ID:ZuRbuig5
>>965

>ファンダメンタルとは?
>意味が解りません。

>意味を教えてください。

それ、マジな質問?
それともただの愚痴?
逆にそのへんを聞きたい。
967棕櫚 ◆lcL728vvpE :2006/08/27(日) 10:00:51 ID:3fKHa43E
ダニエルさんに質問

ファンダメンタル とは、罵倒の意味で使う場合、何を言いたいのでしょうか。

つまらない質問すみません
968ダニエル ◆o31oshrvYE
>>967
極端に聖書の言葉を文字通りに受け取る人たちを、揶揄することに
ファンダメンタルという言葉を好んで使う人がいるようです。

しかし、カテゴライズによって人を侮辱したり非難したりする態度には
冷静な客観性というものはありません。

こうした批判というのは、気にする必要はありませんよ。

僕についていえば、聖書をファンダメンタルに読もう、と思ったことは一度もないのです。
聖書に書かれてあることの真意を汲もうとしているのであって「地球は現在の時間の単位の7日で出来た」と
考えているのでもなければ「蛇がちりを食べて生きる」というのも喩えであると理解しています。

僕のことをファンダメンタルだ、と書いていた人がいましたが、おかしな批判だと思います。
悪意のある人というのは、デタラメを書いてでも気に入らない他者を批判するのです。

そうした人に対しては、私たちは赦すことがよいのです。
復讐は神がすることである、と聖書に書いてあるからです。