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ペガサス:
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誤解してはいけない。私は聖書の正しい理解たのめに来た。
贖罪論がパウロのものであることは、多くの人が語ってきたことであり、
常識だろう、福音書を検証するなら簡単に分かる。
イエスは何のために来たか?贖罪のためではない。マタイの9:12に
「丈夫な人には医者はいらない。いるのは病人である、私が来たのは
義人でなく、罪人(病人)を招くためだ」と。
その通り、社会的に立派にやれる人はキリスト教は必要ない、クリスチャン
になるのは駄目人間であることは、先刻ご承知だろう。
蛇足だが、この思想は、親鸞が歎異抄において語る「悪人正機説」と軌を一
にする。
またマタイ10:34にイエスは言う
「地上平和をもたらすために私が来たと思うな、私は平和でなく、つるぎを
投げ込むためにきた」と。その通り以来2000年、世界に争い、戦争は
絶えることはない。キリスト教保守派のブッシュはアラブのテロと必死の
戦いを続けている。
ちなみに、岩波書店の哲学叢書の一冊として、東北大学大学院教授の
清水哲郎氏が「パウロの言語哲学」という本を出しているが、その論旨は
「パウロはイエスを信じてはいない、イエスの神に対する信仰を信じたのである」
と論証している。
つまり、パウロはイエスを「神の前のなだめの供え物」であって、イエスを神と一体とはしていない。
すなわち、パウロにおいては三位一体は成立しない。
この本は3千数百円であり読む気はなかったが、寄贈してくれたの読んだところ尤もである。