■■■リバイバルミッション■■■

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557神も仏も名無しさん
新城やhccはイエス福音教団が母体だ。榊山は「私は悩んだことがない」と豪語
していると、hccすれにあった。新城もヤマギシの「ハレハレ」のような
究極のポジティブシンキングの世界だ。しかし本当にこれでいいのだろうか。
これは「この宗教を信じて悩みが消えた」というより、「この宗教と出会ったこと
により、悩む能力が育たなくなってしまい、心の成長が止
まってしまった」と説明したほうが妥当ではないのだろうか。この系統の宗派では、
苦難や苦悩の意味するものが、単なる「偶像崇拝したから」程度の認識で処理されて
しまい、全く深みを欠いたものになっている。偶像崇拝をしようがしまいが、
宗教を信じようが信じまいが、われわれは苦難や苦悩から逃れることができず、
凡庸な人間であることからも脱却できず、迷いが出てくるのも避けられないのである。
心の成長が止まってしまった新城人やhcc人の主張には憐れみを感じる。
まともな大人であれば、しばらくしていろいろなものがみえてくると、この
系統の宗派の教えに深遠さがないと気づき、物足りなさに耐え切れずに去って
しまうので、信者寿命が短いのだ。彼らの中にあるのは、人間であれば当然持つ
べきとされる道徳ではなく、自らの宗教の信念に即した良心だけである。道徳と
良心の違いとは、道徳は社会の中で他者がどう感じるかにウェイトが置かれ、
良心は社会や他者とは無関係に、自己の内面でどう感じるかにウェイトが置かれる。
新城とhccにあるのは後者だけで、前者はない。そして彼らの「良心」の正体は、
独善に忠実であれという、一種の自己中心的な幼児性そのものである。新城やhcc
を去った人は、まさしくこの稚拙な教義に失望したからではないかと思う。