悟りって単語の乱立時代だな
ここでいう悟りは全部で何種類あるんだろう
183 :
神も仏も名無しさん:2007/05/10(木) 19:33:31 ID:qp+02XET
>どうして悟りを得た人は悟りを得る前に戻れないの?
この表題はウソです。
悟りとは動く事のない自分自身そのものを知ることなのです。
それは、頭では忘れていても体で分かっていることでもあります。
数学で言うゼロ(原点)を知ることなのです。ですから
そこから、世の中のすべてのことがベクトルで決定されるのです。
だから、昔の悟る前の自分が当然分かっています。
そして、そのときから真の世の中をみわたせるよになるのです。
また、だからこそ、悟った人は儚い浮世のせつなさを
越えることができるのです。
照明体験の時、自我から意識が剥離状態になって強烈な発光状態に
なったんだが、あの真の自分である意識の光照の場所感覚の欠落は
印象深い。
ああ、これが俺の魂なんだって外側の自分が分かりはするんだが、
それがどこにあるのかを感覚的につかむことが全く不可能でさ。
ただ自分の中心で輝いてるって感覚だけがあって。
186 :
183:2007/05/10(木) 19:55:17 ID:qp+02XET
>>182 悟りにも仏の最高の境涯から初果の悟りまで色々あるようですよ。
詳しく知りたいのでしたら、仏教辞典で調べてみては?
「心の中心」ってのと同じだな。じゃ、「心ってどこにあるの、
指差してみて」って言われると、まぁ胸の辺りを差したくはなる。
確かにそれはそうなんだが、やっぱりそれは仮想的な感覚に過ぎ
ない。
>>186 いや・・ここでは複数の悟りだけでなく
目から鱗程度のモノから悟りでも何でもないものまで
随分ゴチャまぜ各自好き放題に言ってるんじゃないかなぁって事
189 :
183:2007/05/10(木) 20:10:00 ID:qp+02XET
>>187 処刑ライダーさん、心のではないんですよ、自分が体で感じる絶対的な心の
境地のことなんですよ。
最近、誰もが検索で読んで頭で分かる、でも、それって、ホンとは分かって
なんかいないんですよ、分かるとは、そのことを行動で示すことが出来て
初めて分かったといえるんです。
今の若い人は検索で総て分かったような気になっていますが
これは、非常に危ないことだと憂慮しているんですよ。
難儀な話じゃのぅ。
そもそも、こんな体験してる奴いねえだろ? ヤクでも使って
るんでもなきゃさ。
文献漁ったら幾らでも記録にはある。アポロ飛行士の月面歩行を
我々は記録から想像の中で追体験は出来るだろう。しかし、それは
あくまで想像の中でのことだ。
とりあえず最近の若い者は〜とかそんなに詳しく知らないのに
知った気になる、自分の判断を自信を持って語る人は大概当てに出来る人ではない
俺はすべての人間を救うべき義務なんてないから関係ないわ。
俺に出来るのは、せいぜい、救いを求めて見当たらない者にきっかけを
与えてやることくらいさ。結局は自分の足で歩かなきゃならない。
良い事言う人がいるお
変なコテだが
>>181 >人それぞれの形で「悟り」があるってどうやってわかったの??
どうやってと言われれば、そりゃ考えたり回りを見てだよ。
俺は信仰を持たないので、自然科学を基として物事を考える事にしてる。
さあ、じゃあ「悟り」とは何だろう?
「悟り」とは、ただの言葉だ。
人々がそこに神秘を感じ、何らかの思考形態(或いは価値観、主義等)など
を目指すという行為に走らせる。
人々の多くは何故か疑問を抱かないが、言葉を過信しすぎている。
言葉は所詮、コミュニケーションや表現に利用する道具の一つに過ぎない。
だからそれ以上のものでもないし、それ以下でもない。
しかし人々は言葉を扱う事で物事に「意味」と「価値」を見出してしまった。
ところが、この「意味」も「価値」も、所詮言葉が作り出した幻想に過ぎない。
この幻想を疑わず、そのまま信じてしまう傾向が人にあるのは脳の構造上、当然の事なんだろう。
人は進化の過程で言葉(キリスト教的に言えば、知恵の実というのかな?)を手にいれたが、
引きかけに幸福(矛盾のない人生)を失った。という所かな。
言葉は文化を生み、人を動物から思考生物へと変えた。
この言葉が生み出す「意味」と「価値」は、人々に主観というものを作り出す。
主観は人格を形成し、個性を強化した。
そして「悟り」というものは言葉であり、言葉は主観によっていくらでも「意味」と「価値」を変えてしまう。
つまり、何を「悟り」と定義するのか、というのは人それぞれ違うという事だ。
同じ宗教を信仰している人同士でも、実はその教義の解釈には差異がある。
それは何故か?
それは当然の事だ。
人と世界を原子レベルまで還元し考えてみよう。
全ての物質は極微の粒子の集合体に過ぎない。
この点においては、君も、君の前に置いてあるパソコンのモニターも、
テーブルの上に置いてあるコップも空気すらも、全てに境界線はない。
単に粒子の結合形態と距離が近かったり離れていたりするだけだ。
だから、「人と宇宙は一つであり、人は宇宙の一部、宇宙そのもの」といった
考えも否定できない。境界線を取り除くと、人と他者を分かつものは何もなくなる。
人を人たらしめ、固体として成り立たせているものは境界線だ。
どこに境界を置くか、という事が物事の形を決定する最大の要素となる。
人は知らずのうちに、色々なものに境界を置く。
自分と他人。
ペンとフォーク。
水と空気。
そして、善と悪。
しかし、実はこれらのものは同一の物質(粒子)で構成されており、差異はない。
勝手に人間が境界線を置き、そこに「意味」と「価値」を付加しているに過ぎないのだ。
人が言葉という道具によって作られた「意味」と「価値」にいつしか支配され、
物事に自分なりの境界線を引く。これが主観の正体だ。
主観は人それぞれ違っていて、同一の他人は決して存在しない。
とても似ていて同じように見えても、実際には細かい部分が違っている。
だから同じ宗教、教義を信仰している人たちでも、その解釈は微妙に差異があるのだ。
ここに到って、ある事実が見えてくる。
同じ宗教、教義を信仰していつつも解釈に差が発生してしまうため、
宗教という枠組みの境界線を取り除いて観察すると
全ての人類は自身の持つ主観を「信仰」しているという事になる。
そう、神や教義を信じているのではなく、自分の持つ主観を信じているのだ。
だから同一の宗教を信じている信徒の間でも論争は起きるし、
異教徒同士でありながら共感を覚える者もいるだろう。
それは科学的視点においては当然の現象であり、何の意味も価値もないただの結果だ。
境界線を取り除いてしまっては日常生活に支障をきたすため無くす事はできないが、
一度境界線の全てを取り除いて物事を観察してみよう。
そこには優劣も上下も意味も価値も善も悪も喜びも悲しみも何もない、
ただの粒子という名の砂で形作られた砂浜があるだけだ。
人は言葉の力を借りてその物質世界に勝手に「意味」と「価値」を付加しているだけに過ぎない。
そして、人の中には「真実」や「神秘」を追究したがる性質(バイアス)がある。
人ごとによって主観が違う以上、「真実」も「神秘」も「意味」も「価値」も
全てが人それぞれ違う。だから「悟り」も違う。
重ねて言うが、俺は一般で言う信仰心を持っていない。
だから神秘など見えないし真実など無いと考えている。
勿論「悟り」と呼ばれる境地など、精神状態、観念の一例に過ぎないと捉えている。
200 :
181:2007/05/11(金) 10:20:20 ID:nmcZFu5j
>>197-199 レスありがとう。
でも悟りが言葉だってわかってるなら、人それぞれの形で「悟り」があるって
のも言葉だし、何も言えないんじゃない?
人それぞれの形で「悟り」があるってのも、人それぞれの形で「悟り」はない
ってのも、言葉でしょ。
言葉が何かとはを言葉で話しているのと同じでパラドックスだよ。
でも言いたいことはわかるけどね。
ただ、悟りという言葉もいろいろな意味で使われてるけど、いわゆる大悟
とよばれるような最終地点の状態になれば、みな同じだというのが自分の
考え。
体験上からくるね。
大悟はしてないけど、小悟くらいはしてるんで。
悟り(本当の意味での)とは、言語や観念や意味、価値、あらゆる後天的な
ものが消失した瞬間に起こる無限の空間だから、個人の特性には左右されないと
思うよ。
せいぜい肉体の違いから生まれる視点の違いがあるくらいで。
それすらも消えるらしいしね。
そこまでは体験したことないが。
悟ると自分も相手も対象も区別なくなる。
人それぞれという「それぞれ」ではなく、「全て」になるので、違いは
出ないと思うよ。
違いがでるのは自己と他者を区分して認識しているからだし。
僕も一般的に言う信仰はもってない。
ただ、無限なるものとして悟り、真理はあるかな。
よければクリシュナムルティでも読んでみて。
信仰も宗教も価値も記憶も自己の全てを否定した覚者?なんで。
201 :
神も仏も名無しさん:2007/05/11(金) 11:04:15 ID:m95BKv/q
人間の理解というのは、それを文章に表すと膨大になる。
一番浅い理解が暗記で、一番深い理解が究極の覚りで、
暗記は一文で済むけど、究極の覚りを文章で説くとなると膨大になる。
例えば、E=mc^2だって、暗記は簡単だけど、
それを本当に理解するにはとても大変で、本当に理解できるように説明文にするのも凄く大変。
このように、覚りとは、何か何でもいいから物事の核心を掴むことで
それには何年何十年という時間がかかったりもする。
>>200 言葉におけるパラドックスや、悟りなどが人それぞれ違うというのは、
観念や主観に差異があるという事だよ。
悟りの形が、ある定められた基準に設定されていると考えてしまうと
それは途端に哲学的、文学的なものになってしまう。
また、悟りの極地(大悟というのかな?)と言われるものは
脳医学の発展と共に捕捉する事ができると考えているよ。
なぜなら人間の感情はただの電気信号に過ぎず、意識というものも
知覚情報によって形成されているものでしかないとも考えているからね。
上のほうに、人はその脳の30%しか活用していない。と言ってる人がいるね。
そしてなぜか、古代人よりも現代人のほうが知能が高いと思っている人が割といる。
しかし、実際には古代人と現代人の知能には差は無いというのが現在の定説で、
むしろある文明のある古代人のほうが知能が高かったのではないかとさえ言われる面もある。
現代の人間では知覚できない感覚を古代人が知覚していた可能性も否定できないので、
神秘主義的な意見を退けるつもりは全くないよ。
哲学的な視点から語ることは俺は好まないので、これ以上は特に何も言えないが
あえて個人的主観、哲学的視点からアプローチしたい場面に遭遇した場合は
その対象が持つ「性質、あるいは性向(バイアス)」が、物事に対し多大な影響を持つと考えてる。
観測対象が持つ「性質」を見極める事が、観察対象の到達点を予測する事に
非常に便利だという、到ってシンプルな考えだね。
例えば、ポジティブな人は幸せな人生を送りやすい。とか
例えば、ネガティブな人は不幸な人生を送りやすい。とかね。
ポジティブな人は自分を幸福な状態に持ち込もうとする「性質」を強く持っており
ネガディブな人は自分を不幸な状態に持ち込もうとする「性質」を強く持っている。
非常にシンプルな考えだ。
そして、人は「真理」を探そうとする「性質」を内包していると俺は考えている。
つまり、人が「真理」を得ようとする行為は当然のもので、そういった生物なのだという結論を導く。
人が「真理」を求める理由は、言葉によって発生してしまう矛盾からの脱却願望が大いに関わっていると考えている。
もちろん、その他の要素も充分に考慮する余地があり、上記の文はただの理由の一つに過ぎないだろうね。
そういえば、
>信仰も宗教も価値も記憶も自己の全てを否定した覚者
と言われると、君が虚無主義者的思想を持つ人物だと連想させるけど、
どうも体験主義的な面も感じ取れるね。判断が難しい。
個人的には相対主義的な考えに傾倒しすぎるのはつまらない、と思うので
君のような全てを否定した視点を持つ人は好きだよ。
そしてその視点を、いつでもON/OFFできる人はもっと好きだ。
言葉という呪いから脱却するには、
体感する事に重点を置くのが最も効果的だろうと思う。
体で感じ、直感に従う。これは本能のままに生きるだけ、と誤解されやすいが、
そういった意味のものではなく、その人間が持つ「性質」に素直に従う。という事。
これは自然科学的な視点からの仮説で、
人体に限らず周囲の物質には未だに未観測の極微粒子がまんべんなく存在し、
その微粒子によって記憶情報が蓄積されているとする。
これらの記憶情報は通常、人間は知覚する事はできないが
稀にそれを知覚できる人がいたとしよう。
そういった人たちは霊能者、或いはサイコメトラーと呼ばれる人たちで
彼らは読み取った記憶情報を、自己の持つ脳の中で租借し、理解しやすい形で認識する。
例えばそれは「音声」かもしれないし、「映像」かもしれない。
これらの記憶情報は人体にも存在し、人はその記憶情報の影響を受ける。
これが「魂」の正体なのではないか。
勿論、こんな暴論はありえないし、立証すらも不可能(悪魔の証明)仮説だ。
もっとユニークな説があれば飛びつくんだけどねえ。
205 :
200:2007/05/11(金) 20:38:02 ID:nmcZFu5j
>>202-204 僕の言っていることを半分は理解してくれてるようだけど、半分はキミの論理に
すり替わってるかな??
あくまで僕の印象だけど。
とりあえず僕は自分の体験からモノを言っているとだけは言っておくよ。
あと一つ、キミの話は有と無の相対論からなる論理だと思うんだ。
真理、悟りとは有も無もない絶対無、の視点からの話なので、キミの話とは
いつまでたっても折り合わないよ。
ちなみに虚無主義は有あっての無に過ぎない。
絶対無の前においては、虚無も虚無でないも、無いよ。
それともう一つ言うなら、そういう考えを持っているキミが誰か?ということだ。
キミがいるのはわかるが、「いる」ということはどういうことか?ということだよ。
何が在るのか?ではなく、「在る」とはどういうことか?という話。
在るや無いが既知の前提となって始まる論理や意味づけと、真理、悟りは
別物なんだよ。
あくまでも僕の経験上の話だけどね。
まてまて、悟った人が元に戻れないのかというスレなんだろ。
小学生は幼稚園にはいけないし、中学生は小学校には通学できないよ。
ただ、悟りは言葉ではないよ。
>ID:8m1mFXbq
賢いレスですね、大筋賛同します。
こういったレスは、改めて確認できるものを含めて参考になります。
>>199 > 勿論「悟り」と呼ばれる境地など、精神状態、観念の一例に過ぎないと捉えている。
もちろん、「悟り」は境地などでもなく
精神状態でもなく
観念の一例でもないものだ
それらとは無縁のものだ
209 :
神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 03:59:26 ID:EhS/gqBr
>>205 折り合いはつかないだろう。
なぜなら、俺は神秘主義は持っていないし、形而上学的視点からは物事を見ないからね。
この物質世界における自然科学に拠っての判断こそが最も信頼性の高いものだと考えているからだ。
単純に、科学的な話さ。
「真理」と呼ばれるものがもしあったとしても、それは自然現象の法則に則った
規則性という概念に包括されるものと思うし、
それは別に尊いものでも何でもないだろうというのが率直な感想。ただの原理だ。
ただ、科学は万能ではないし、未だに未観測の領域は果てしなく大きい。
その未観測の中に「真理」とやらの正体がある可能性も充分考慮できる。
だから神秘主義を否定はしないと言ったんだよ。
折り合いがつかないという事で思い出す事は、
やはり「言葉」というものへの過信への危惧だね
一つの単語をとってみても、実は人それぞれ解釈が微妙に違う。
例えば「世界」という単語を思い浮かべ、何を世界だと考えるか。
この宇宙全てだと思う人もいれば、日本やアメリカといった多くの国を示す言葉だと思う人もいる。
そしてややこしい事に、一つの単語や言葉には複数の意味が込められている場合が多い。
議論の場で食い違い、すれ違いが発生する時、この解釈の差異が占める割合は非常に大きい。
言葉には限界がる。いや、言葉というものへの正しい認識が人々に不足している、という所かな。
言葉はただのコミュニケーションと表現に利用する道具でしかないし、人間という生体に便利なので活用されてきただけだ。
「悟り」も「意味」も「価値」も「真理」も、そのいずれもが言葉によって発生した認識だ。
同時に、言葉が作り出す幻想でもある。この幻想が哲学を生み、人間を人間たらしめているんだね。
俺が考える悟りの定義とは、これまで語ってきたように
脳の状態、認識方法、知覚状態に大きく依存した意識の一例、という事かな
以前適当に考えた事を
>>95-100でも書いたけど、
脳のメカニズムと知覚状態によって自身と世界への認識は大きく変わる。
人間は見たくないものから目をそらし、
見えないはずのものを見てしまうからね。それが脳というものだ。
だから、言葉のみならず、脳にも支配されないよう留意したい所だ。
212 :
205:2007/05/12(土) 15:53:30 ID:EhS/gqBr
>>210-211 科学的なものと形而上のものとをわけているようだけど、その根拠はなんなの
だろう?
単なるあなたのシュミか?
科学は客観認識を主体としているが、それ自体、主体と客体を前提にした2次的
論理だ。
つまりどんなにあがいてもこの世界があなたの夢である可能性を否定できない。
あなたはあなたの夢に都合にいいように科学をつくりだし、納得しているだけ
かもしれない。夢の中でね。
あなたが自分で「脳にも支配されないよう留意したい」と言っているように、
すでに脳に支配されていないとは誰も証明できないのだよ。
これは夢かもしれない。
あなたは催眠術にかかっているのかもしれない。
あなたは幻覚剤の真っ最中かもしれない。
それでも科学というものに自己の論理の拠り所を置くというのは、つまり
信仰とかわらないということだよ。
人間は科学であろうと宗教であろうとその基底では信仰しているに過ぎない。
地球が太陽の周りをまわっているかどうか本当にはわからないだろ?
自分が本当に存在しているかどうかわからないだろ?
科学が本当にそんざいしているかどうかわからないだろ?
マトリックスと同じだよ、これはあなたの夢かもしれない。
誰かの夢かもしれない。
そういう認識論、不可知論に、論理や科学は答えることはできない。
その可能性をとりあえず置いといて始めたのが論理や科学だからね。
あなたは形而上に興味がないようだが、しかし真理や悟りとは、そのレベルで
答えを見出そうとした人間が最終的に直知する何かであって、
>>208の人が
言っているように、境地などでもなく精神状態でもなく観念の一例でもない
のだ、よ。
213 :
205:2007/05/12(土) 16:07:43 ID:EhS/gqBr
といっても、僕が体験したものも単なる夢かもしれないとあなたは言うかも
しれない。
否定はできない。説明もできない。それを伝える術はない。
あなたもわかっているように、内容を言葉で括り、置き換え、カタチを
創り出して伝えるに過ぎないからだ。
真理、悟りとは、個々人が体験するものであって、主客の間を行きかうような
ものではないからだ。
しかし瞬間的(小悟)にでも悟ったものならばこの意味がわかるだろうが、
真理や悟りは、これまで見たものとはまるで別の何かなのだよ。
それはこの世界の延長などではない、知覚の延長などではない、それらとは
まったく無縁の無限なるものだ。
もはやそこに疑問や可能性や主客の差異は存在していない。
存在するもしないもない、ただ、そのままだ。
というようなことを言っても単なるオカルトに聞こえるかな?
しかし霊やオカルトはいまだ残っている自我が真理や悟りの内容をムリヤリに
解釈したものなのだろう。
ああいうのはただの人間の視点の一つだ。
真理や悟りは何ものでもなくなった、誰のものでもない、限りの無い視点だ。
あなたもそうやって書き込んでいるのだから、答えを求めているのだろう。
真理は求めて得られるものではないが、求めていけばいつか得られるものだ。
求めないというカタチによって。
真理、悟りは遠いどこかにあるのではなく、今、ここにあるからだ。
それは一部の、悟りを勘違いした人間が言うような、諦念や、自分らしさや、
心理的なものや、安心、癒し、心の安定などではなく、それらとは無縁の
絶対的(相対も絶対もないが)な無限のものである。
では。
214 :
神も仏も名無しさん:2007/05/12(土) 17:15:27 ID:l8nwLR+V
悟りを得ても、努めて悟る前の自分を思い出して指導してくれる教祖は親切な教祖。
わけのわからない高説をたれるだけの教祖は、あまりありがたいとはいえない。
>>213-213 勿論だよ。完全な客体は存在しない。心理学的な話になりそうだがね。
人は人それぞれの仮想現実の中を生きているだけに過ぎない。
だからこそ、最も信頼性の高い視点から客観視を試みるわけだね。
そして信頼性の高い客体とは、法則性から得られる。
そして自然の法則を、幾度もの検証と実験を繰り返すことで記録として残し、
それを基に生み出されたのが科学だからね。
だからこそ科学が最も客観視する上で優れた視点を持つと考えているし、
今俺はそれを(今のところは)主眼に置いている。
もし科学よりも説得力に富み、優れた学問、理論を知ったなら、俺はそちらに飛びつくだろう。
今はたまたま科学を、世界への認識法として活用しているだけだ。
君の意見を読む限り、やはり曖昧で、
俺に何かを伝えようとしてくれてはいるのがわかるけど
それはやはり読み取れない。
俺にそれを読み取る能力が無いだけかもしれないし、
あるいは伝える事そのものが不可能なのかもしれないし、
他の理由かもしれない。それは判断がつかない。
ただ重ねて言うが、俺は神秘主義を否定してはいないし、
悟りをどう定義するのかは、人それぞれ違うという事だ。
もし定義云々ではなく、真理としてそれがあったとしても
それは現在の一般的な人間は理解していないし、また、できないだろう。
だから悟りや真理を追究する姿勢を否定したり糾弾したりする意志は無いんだよ。
人にそれを強要するような事をすれば、それはただの宗教になってしまうからね。
宗教とは、何かを盲信する。という事だ。
盲信する。とは、特に根拠もなく、前提的な位置に対象を配置して考える姿勢だ。
神を盲信する人は、まず神ありきで考える。
神を世界の中心に配置して考えるわけだね。
神という存在の根拠を知らなくてもできるので、お手軽な手法だ。
このように、人間は何かを盲信している。
盲信するテーマは人によって違う。
神かもしれないし、本能かもしれないし、金かもしれないし、名誉や秩序かもしれない。
肝要なのは、これらの自分が盲信しているテーマにすらも、
懐疑的な意見を持てる余裕があるかどうか、という事だと思う。
極度に盲目的にそれに依存するのは危険だという考え方だね。
人は生き甲斐がないと、生きるのが苦痛になる生物だ。
だから生き甲斐を失った人、自分を見失った人は、
自分を騙し続けてくれる何かを見つけたほうが楽に生きれるだろう。
ってか、世界の中心で見つけたものを指して、「ああ、神とは
このことか。確かにそうだ」と納得する。
小学生の頃に目の前にソ連の鉄のカーテンがあってよ、自分の
立場をキリスト教ヒューマニズムと決めてから真面目に悩んだり
してたせいだな。
219 :
213:2007/05/12(土) 20:33:42 ID:EhS/gqBr
>>215-216 「科学が最も客観視する上で優れた視点を持つと考えている」理由はなんなのかな?
科学的教育がおこなわれる国では科学的認識が正しいと思い、宗教的教育の行われる
国家では、宗教的認識が正しいと思うものだよ。
科学というなじみのあるものを過信しすぎてないかな?
科学が正しいと、いつ、どのようにわかったのだろう?
宗教を「最も客観視する上で優れた視点を持つ」と考えている人とどのように
違うのだろう?
どちらも自分がそう思っているだけなのではないのだろうか??
つまり単なる依存心だよ。
科学もね。
では、正しい認識とはどのようなものであるのか?
認識に正しいもなにもないのだが、信仰や依存でない認識を得たいなら分別
(恣意的、思い込みの価値観)をもたないことだ。
つまり普遍的に見るってことだ。
主義や価値観や記憶や経験や一切の後天的な事項を0にして、ただ事物を、
現象を見る、ということだ。
そのためには全てを信じるか、全てを信じないか、だ。
全てを信じれば全ては同じ価値となり、信じるという世界から解脱できる。
科学を信じるように宗教を、他人を、嘘を、矛盾を、あらゆるものを信じ
なければならない。
全てを信じないなら、宗教を信じないように、科学を、信念を、経験を、記憶を
あらゆるものを疑い否定しなくてはならない。
否定している自分すらもだ。
220 :
213:2007/05/12(土) 20:40:29 ID:EhS/gqBr
つまり、全てを信じるといううことと、全てを信じないということは同じで
あり、信じるも信じないも、ない、ということだ。
その時はじめて世界の本当の姿が見えてくるものだ。
何かより何かに価値を見出しているうちは、そういう目でしかものを見れない
からね。
宗教より科学を信じているうちは、意識的にも無意識にも、そういう目で見て
しまうものだよ。世界を。
科学はそういう思い込みのない、理路整然としたものだと思いたい気持ちは
わかるが、宗教に依存した人間がそのことに気付かないように、科学を信奉
する人間はそのことに気付いていない。
脳がというが、脳がどうなっているのか自分で調べたわけでもない。
神がどうであるのか知らないのに、言われたことを鵜呑みにしているだけ
と同じことだ。
もっとも自分で脳を調べて結論付けても同じことだけど。
脳を調べている自分が何であるのかを結論付けてないからね。
何かより何かを上だと思ったり、信じたりしてるうちは、程度の差こそあれ、
単なる思い込み、信仰に過ぎないよ。
宗教であろうと、科学であろうと、神秘思想であろうと。
221 :
検便マスター:2007/05/12(土) 21:51:24 ID:BC4X7eQP
なるほど、感性はないということか。
まあ悟ることにこだわってちゃ
悟れないってことかな
>>220 君とはすれ違う運命なのだろう。多くの人と同様理解し合うのは無理だろうね。
俺は神秘主義を否定しないが、
君は科学主義を否定する立場を取るようなので、
そこが君と俺の差異なのだろう。
それに俺は科学主義者でもないしね。
だから語り合っても、得るものは無さそうだ。
君との対話は、これで終了としよう。
脳の状態や知覚状態によって、特殊な精神状態や視点を持つことができるという点で、
非常に興味深いのは、歴史上の著名な人物、偉業を成した人物には
脳に何らかの疾患や傷害を負っていたとされる人物が多い事からも、
俺の推論を後押ししてくれる。
ムハンマド・イブン・アブドゥッラーフ
アインシュタイン
ナポレオン
釈迦
ミケランジェロ
ゴッホ
ニュートン
ノーベル
レオナルド・ダ・ヴィンチ
などの有名な人物たちは、脳に疾患を持っていた人たちだ。
アインシュタインなどは自閉症(アスペルガー症候群)だったと言われており、
その天才ぶりは通常の脳を持つ健常者では持ち得ない知覚状態から得られたものだったと思われる。
天才と馬鹿は紙一重。とはよく言ったものだね。
つまり脳のメカニズムを100%解明するに到れば、
人工的にアインシュタインの脳、釈迦の脳を作り出す事も理論上可能となる。
病院に申し込みをするだけで、自分の脳を「悟り」状態の脳に手術してくれる時代が
いつか来るのかもしれないと思うとなかなか楽しい。
>>223 それ聞いたことあるね、盲目の人の聴覚が優れているみたいなものかなぁ。
226 :
220:2007/05/15(火) 15:47:02 ID:KD/1vdiP
>>223-224 僕は科学も神秘主義も、否定も肯定もしていないつもりなんだけど、まあ、
こういうと詭弁に聞こえるかもね。言葉の定義の話にもなるし。
ところで脳を変えれば悟りも見れると思うよ。
というか、一部の幻覚剤を使えば悟りと同じような状態が得られるのは、そっち
系の人間には知られるところだし、ある種の音楽を聴くことで脳の活動範囲を
変え、そういった状態にさせる研究もされている。
個人的には、それらと悟りとは同じだが、継続性や、深さに違いがあると思ってる
けども。
しかしこれはたぶん受け入れないだろうが、異常脳が特殊な知覚を持つのでは
なく、人間本来の知覚は、あのように特殊(一般脳と比べて)なんだよ。
子供に驚くような天才脳がいるのもそのせいだ。
ただ、ああいう状態は社会で生活するにはいろいろ問題がありすぎるんだよ。
だから、人間は社会を感じたときから、脳をセーブし始めるんだ。
そのセーブが脳機能的にできない人たちがああいう風に特殊な能力を残して
いるんだよ。
つまり、悟りや特殊能力は脳が変化して得られてるわけじゃない。
元々あるのに、我々が社会性を得るために閉じ込めているだけなんだ。
右脳を活性化させて速読したりするのも、右脳が変わるんじゃない。
右脳をセーブしている左脳を停止させて右脳を使っているんだと思っている。
アスペルガーでも左脳の機能障害って説もあるくらいだしね。
227 :
220:2007/05/15(火) 15:57:37 ID:KD/1vdiP
もっとも科学者は脳を精神を変えるというだろうし、オカルティストは精神
(魂?)が脳を変化させてるというだろう。
しかし、脳と精神を分離して捉えるのが間違いで、脳が変われば精神も変わって
いるし、精神が変われば脳も変わっているんだ。
手術なんてしなくても、脳の使い方を変えれば、悟れるんだよ。
元々持ってる能力なんだから。
セーブしている自我の正体に気付くだけなんだ。
幻覚剤で見た悟りの世界を、脳内の幻覚だと言うひともいるがあれも違う。
あれは脳をセーブしてる部分を幻覚剤で機能停止にしておこる、脳のリセット、
原点回帰なんだよ。
まあ、つまり一時的にアスペルガー?状態を作ってるわけだ。
しかし悟りは本来生まれもってあるものだという僕の考えは考えてみて欲しい。
今、自分が無意識に行っているセーブを解除するだけで、悟れるんだ。
修行してる人たちは、何かを得ようとしてるんじゃない。
自ら行っているセーブを解除しようとしてるだけなんだ。
そういう風に考えたら、アスペルガーにしろ、脳機能にしろ、いろいろ思い
あたる部分にでくわすと思う。
まあ、あくまで自分の体験と研究から導いた結論にすぎないけども。
これでも昔、自分なりにいろいろ調べたんだ。脳とかいろいろね。
あなたと話せてたのしかったよ。ありがとう。
また会うときがあるかもしれない。そのときはまたよろしくね。
228 :
220:2007/05/15(火) 16:01:29 ID:KD/1vdiP
>>227 1行目訂正
脳を精神を ×
脳が精神を ○
230 :
菩薩道:2007/05/20(日) 05:19:00 ID:YSo2ek+U
>>227 おい。この板の菩薩道さんから教えを請うに来て見てくれ。
俺とあんたは同じ人間ではない。しかしかなり深い因縁がある。
来て見て感想を聞かせてくれ。ハンドルネームを忘れずにな。
231 :
菩薩道:
>>223 あんたもな。あんた達は議論しているようでいて同じことを言っている。