152 :
brown :
2007/01/16(火) 00:38:44 ID:FwlZ/bNM 我々万人に明確に開かれている生きるに値する確かな価値とは,涅槃寂静です。 それは,驚くばかりの新鮮な鮮やかな体験であり,全ての経験を貫く,至福感 であり,欲望がもたらす爆発的な快感です。 それは何か特殊な境地ではなく,人間の心の最も自然な状態です。 ただ,心を通常の状態に戻すことによって,そこに立ち現れる本来の姿です。 それは無理に何ものかでなければならないというような,道徳的な押し込め ではなくて,何であっても,それ自身である,全的な意識の流れそのものです。 いつ何時も,そこにある,人の本来の姿です。 それは実に至福なものです。
153 :
brown :2007/01/16(火) 01:00:46 ID:FwlZ/bNM
152は,生きている間中,常に開かれている重要な価値ですが,その他,第二の 価値も存在するといいます。それは私自身は直には知らないものですが。 人生の第二の価値とは,死ぬことです。死に逝くことの中に存在しています。 真剣に生きた人が,自然に,死の静かな厳粛な働きを受けて,自らそれを 悟りつつ,自ら死に逝く,その行為は,人生の中で最も偉大な,輝ける 瞬間であるという。それは本人ばかりでなく,その場に居合わせる者にも, 心の底から,しみじみとした根源的な感動を与える。 それはヘッセも「郷愁」の中で謳っています。
154 :
brown :2007/01/16(火) 01:06:53 ID:FwlZ/bNM
死には,宗教的な,儀式的な,荘厳で,静寂で,光明にあふれた趣があります。 儀式は,何か定められた作法というものがあって,これを正しく行じること であります。その形式の中に美があり,静寂な荘厳さが現れます。 死には,そのような儀式的な,荘厳さがあります。 というのは,ある人が死ぬとき,そこには死以外のものが決してありません。 人が座るというとき,本当は立っててもいいのです。寝ててもいいのです。 人が歩くというとき,本当は走ってもいいのです。止まってもいいのです。 人が職に就いて仕事をするというとき,本当はニートでもいいのです。 人が受験勉強をするというとき,本当は受験なんかやめて遊んでもいいのです。 しかし,死という行為には,このような多様性は一切ありません。
155 :
brown :2007/01/16(火) 01:11:56 ID:FwlZ/bNM
死には,死以外のものが伴わないのです。死というのは,確定的な単独の 現象であり,そこには,儀式的な形式美が本来的に備わっているのです。 さらに,宗教的な儀式というものは,人間が定めた人工的なものです。 しかし,死は,人工的に定めた儀式ではなく,自然に定められた儀式なの です。それは,ただ自然にしていることにより,誰でも間違いなく正しく 経験できる儀式です。それはただ自然であり,人工的な要素は全くありません。 それは,作られたものではなく,本来備わっているものです。 これが,死の厳粛な意味です。
156 :
brown :2007/01/16(火) 01:19:20 ID:FwlZ/bNM
それを経験するには,他人のそのような死を追体験するということも価値あり ますが,本当の体験は,自己自身の死の中にこそあります。 それを経験するには,かの死の厳粛な働きが私自身に及び,自ら死に逝く, その瞬間まで,真剣に生きていく必要があります。 彼が,そのように厳粛に死んで逝くとき,彼の身体は七色のもやにつつまれた ように光り輝くといいます。そして,見るものは皆,この上ない感動に 包まれるといいます。 この価値は,あらゆる人生の結末に,常に開かれています。 今,いかなる苦しみの中にあっても,その光明を経験できる可能性は 開いているのです。
一生懸命、悟ろうとか開眼しようとか そういう事に執着している人がいるね
158 :
39 :2007/01/16(火) 20:21:18 ID:XYjqHyMT
妙法一郎は2ちゃんねるを 去ります。失言、を詫びます。 そしてサンキュー
160 :
新渡顕鉄 :2007/01/18(木) 23:27:50 ID:1nxxaC/Y
はいはいカッカッカッカッ
161 :
新渡顕鉄 :2007/01/19(金) 06:35:08 ID:6W3/8OIB
カッカッカッカッカッカッカッカッ
162 :
吽狛 :2007/01/28(日) 05:37:04 ID:eL4T2un8
>>127 brownさん、こんにちは。
>自分が「怒り」等を観察しているのか,それとも「この怒り」等を観察
>しているのかを見分ける方法があります。
>それは,修行を進めれば進めるほど,苦しみが深まっていくかどうか
>として確かめられるのです。もし,「怒り」ではなく「この怒り」を
>観察していれば,必ず,心は本質的な苦しみにさいなまれていくからです。
「怒り」と「この怒り」の違いが良く分かりません。
もう少し、詳しく、教えてください。
163 :
吽狛 :2007/01/29(月) 04:58:36 ID:ZpYpmV4S
返事来ないっw 「怒り」と「この怒り」の違いが分からないままだ――――――ッ もうbrownさん来ないのかも・・・・・ 誰も、書き込まないのかな・・・? 寂しい・・・・・。
164 :
brown :2007/01/29(月) 23:55:24 ID:zrYYTWOa
吽狛さんごめんなさい。(毎日チェックしているわけでもなく,色々と 忙しかったりしますから) 「怒り」と「この怒り」の違いですが,一般論の怒りと現実的な怒りの違い です。他人の怒りと自分自身の怒りの違いです。思考としての怒りと感情 としての怒りの違いです。言葉としての怒りと怒れるその怒りの違いです。 概念としての怒りと心の中でまさに動いているそれ,その怒りの違いです。 何か遠い怒りと呼ばれるものと,まさに今直面してわが心をかき乱している 怒りの違いです。 要するに,現実の,具体的な,現在の,自分自身の怒りを観察することのみが 解脱への道である,とこういうことです。はい。
165 :
brown :2007/01/30(火) 00:03:10 ID:zrYYTWOa
つまり,この観察修行を行うには,現実生活において,怒ることが必要です。 貪ることが必要であり,不安を覚えることが必要です。傲慢になる必要が あり,他人を軽視する必要があります。 そのときこそ,このチャンスがあります。 しかし,自己を知り,自己観察行に習熟したものにとって,そのような チャンスに不足することはありえません。なぜなら,自己は常に, そのような悪しき心を経験しているからです。
166 :
brown :2007/01/30(火) 00:06:45 ID:qg8IG9hh
一個一個の思考や感情など,心の動きを研究する必要があります。 そのような心の動きがなぜ,どのようなメカニズムで生じてきたのか, その根源は何かを深く観察し,深く感じ取り,深く考察する必要があります。 探求が進めば,他の対象へと移り,あらゆる心の動きについて,洞察を 深める必要があります。 そのようにして,全ての瞬間の全ての心の働らきがあきらかになったとき, 自己観察行の第一段階が成就します。
はじめまして、brownさん brownさんの悟りは自己観察なんですね 読んでてそう思いました でも、自己観察というより自我観察のように見えます 以前、私は自己観察(自我観察)に取り組んだことがあります といっても1日だけです。 brown氏がどこかで自己観察について書いているのを読んで試してみたのです。 悟りうんぬんは別にして。 やってみて驚きました。 心の思いは観察してみると、とても早く 普段は気がつかなかった想いを色々思い描いているんですね 想いが弱いものから、強いものまで。 普段意識できるのはかなり強い想いだけなんですね。 それよりも、もっと驚いたのは、その心(自我)の性質です。 自己観察したのなら、わかるとは思いますが、 見栄っ張りで、傲慢で、そのくせ照れ屋という 気がついたら、善人でなくても、悔恨ものです 知らなくても良かったのですが、知るきっかけを、 こちらで勝手にもらったので、感謝です。
知らなくても良かったのですが、 知ってしまうと、変な表現ですが、心がウソをついたり、隠し事をしたりすることがなくなります。
ということで、今度は私がお返ししましょう 世界は苦しみに満ちていますか? 苦しみとは世界の側にあるのですか それとも、心の仕組みによって起こるものですか もしくは、想いなくして苦しみがありますか 希望や望みなくありますか 世界には外部と感情などの内部があるのですか それは本当ですか どうやってわけるのですか内部と外部を 無明とは煩悩が明らかでないことですか 私には人間に備わった能力である思考と言葉とによって想像したものを 現実として錯覚する ということに思えますがねぇ もちろん自我もこの中に含まれますよ
悟りとは100人100様ですよたぶん 何も自己観察だけに限らないでしょう 100人居れば、100通りの煩悩があるでしょう それゆえ、悟りもその数だけあり、方法も定まっていないものです ただ、1つの良い方法だと思います その人に合うか合わないかもあるでしょう いろんな方法があったとしても行き着くところは同じです 妄想が現実味を持たないこと というよりも死の淵(通常の死ではなくいわゆる自我の死) で想像の雲と晴れることにより初めて姿を現す現実
訂正 >で想像の雲と晴れることにより初めて姿を現す現実 思考の雲が晴れることによって初めて姿を現す現実
172 :
吽狛 :2007/01/30(火) 05:37:54 ID:eEWWl3hp
>>164 brownさん
忙しいところ、ごめんなさいです。
「怒り」と「この怒り」の違いについては、分かりました。
それで、ですね、
>>127 でbrownさんは
>自分が「怒り」等を観察しているのか,それとも「この怒り」等を観察
>しているのかを見分ける方法があります。
>それは,修行を進めれば進めるほど,苦しみが深まっていくかどうか
>として確かめられるのです。もし,「怒り」ではなく「この怒り」を
>観察していれば,必ず,心は本質的な苦しみにさいなまれていくからです。
と書いていますが、
私が、「この怒り」を観察すると、怒りは、消えてしまいます。
自分が、「この怒り」に何かして、消えてしまうのか、
何もしないで、消えてしまうのか、よく分かりませんが、
苦しみが深まっていくという事はないです。
怒りのままで、観察しずにいる時、怒りが増大します。
怒りによって、自分は、苦しみます。
しかし、観察すれば、怒りも消え、苦しみはなくなります。
brownさんの
「修行を進めれば進めるほど,苦しみが深まっていく」
というのは、怒りによる苦しみですか?
それとも、違うのでしょうか?
観察しているのに、どうして、私には、苦しみがないのか、不明です。
光ファイバーEOさん
あ、こちらにもいらしたんですね。
また、光ファイバーEOさんの書き込みが読めて、うれしいです。
173 :
金平糖 :2007/01/30(火) 09:44:34 ID:nBMMGVe9
Brownさん、はじめまして。
>>164 「言葉としての怒り」も「怒れるその怒り」も、
つまるところは「自己防衛」ということですかね?
人間は「自己保存」という本能をもって生まれて
きているわけですから、それを脅かす他人の怒り
(他人にとっては、それが当人の自己防衛)。
その他人の怒りが自分に向かった場合(直面した場合)、
自分(自己)の『意識の存在』が脅かされることへの自己の抵抗が働くということ。
吽狛さん、光ファイバーさん、また両名にお会いできて嬉しいです。
174 :
金平糖 :2007/01/30(火) 11:34:33 ID:nBMMGVe9
>>164 >要するに,現実の,具体的な,現在の,自分自身の怒りを観察することのみが
>解脱への道である,とこういうことです。はい。
「自分自身の怒りを観察する」だけでは、解脱できないのでは?
これは「観察」という言葉の概念(解釈)の違いかもしれませんが、
Brownさんにとっての「観察」とはどういう状態ですか?
自分(この私)は「観」は単純に「観る、焦点を合わせる」ということで、
「察」は「察する」。そこに思考という作業が加わります。
「思考という作業」というのは、正確に言えば、「自分の過去の記憶」を
辿るということです。「この怒り」という感情は、いったいどこからきているのか・・・・・・。
この「自分の過去の記憶」を辿ってのどんずまりのところ(地点)が、
主客分離の地点の始まり。
いかがでしょう?
175 :
Ryu :2007/01/30(火) 12:22:43 ID:oX6MuUG5
心理描写が緻密繊細な小説なんかを読むと、結局自我とかそれによる心理機構も、 機械みたいなものだなって思う。どこにも私という中心はない。 反射的に動いている感じなんですね。 「産む機械」発言が波紋を呼んでいますが、結局産ませる方も機械であるわけで・・ ついでに言えば、ウケ狙いのつもりで、マヌケな失言しちゃう大臣も、立派なポンコツ機械。。 ・・機械のようにあまりバカにしないでって言いたい(椎名林檎)
176 :
金平糖 :2007/01/30(火) 12:32:11 ID:nBMMGVe9
横レスで申し訳ない。
>>175 あの後でレス書き込んだけれど、どうやってもエラーで弾かれてしまった。
「〜すべし。」という意図ではなかったよ。自分の体験談を書いたまでさ。
っちゅうことで、横レスはおしまい。
177 :
Ryu :2007/01/30(火) 15:25:08 ID:oX6MuUG5
>>176 ええ、わかりますよ。
「あんまり高いところにいるな」あるいは「いると思うな」と言い換えてもよかったのかもしれませんね。
あるいは、自我中心にあるなでもいいのかな?
・・今日は休日なので、昼間っから風呂入ってましたが、風呂に入ると、
リラックスして、いろいろ気づきのようなものが生まれてきます。
本当は、本来的な在りかたで在る場合には、そういうあたりまえな認識と共に在るのが普通なんでしょうが、
自我を当たり前なものとしているときには、なかなかそういうことに気づかない。
宇宙のひとかけらとしての自己、無のひとかけらとしての自己という風に、
自己を見れば、全く他と同じ平々凡々なんですね。
同じ水の泡同士が、どっちが大きいかとかどっちが上だとか言って競い合ってるのは、
バカらしく思える。
しかし、もっと見方を限定すれば、能力とか資質に、個々の差異はあるし、
一人一人の個性のあり方も違う。おもろいやつがいれば、そうでないやつもいるし、
走るの早いやつ、頭のいいやつその他いろいろなんですね。
で、そういう差別の相と、平等の相と、どっちも法であり、
どっちかが間違いであるわけではない。
ですが、仏法というふうに限定すれば、平等の方が真理ですということになる。
・・まあ、本当はもっと複雑なこと言ってるテクストもありますが。。
178 :
brown :2007/01/30(火) 23:51:48 ID:qg8IG9hh
>172 実際に,苦しみが「いまだかつて経験されたことがない」くらい強まって こなければなりません。 ただし, もし,観察行にかなり熟達してくれば,現実に経験される怒りなどの瞬間瞬間 の経験は,注意力をその瞬間に向けるだけで消滅させることができるように なります。それが,あらゆる心の動きに及ぶと,あらゆる経験は生じた瞬間 に静寂に帰します。これは,「絶え間ない注意力」あるいは,「煩悩を焼く 炎」と呼ばれる現象であり,観察行の第一段階を成就した後に生じてくる安楽 な境地です。
179 :
brown :2007/01/31(水) 00:01:20 ID:FFWO/6c5
しかし,心は,対象に向かうとき,常に怒りなどを生じせしめます。 心には,計り知れない悪徳が潜在しています。この世の悪を全て集めても 足りないほどの悪心が,私一人に集中しています。そのために,次から次 へと悪しき心は生まれてきます。生じた瞬間に注意力が伴い,その次の瞬間 には怒りは消滅します。しかし,次の瞬間には,次の怒り等が生じてきます。 この驚くべき心の憎たらしさは,あらゆる悪なる悪を一身に集めたようなもの です。いやらしく,醜く,恥ずべきこの心は,居心地悪く,いとわしく, 本当に嫌になります。なんでこんな悪い人間に生まれてきたんだろうという ことになります。どう考えても正常ではありません。狂人そのものであり, ありえないゴミためです。腐臭を放ち,死体が山ほど放置されているより, 悪臭を放っています。 それは,他ならぬ私の心です。
180 :
吽狛 :2007/01/31(水) 00:09:27 ID:2bG8tWZ4
>>178 brownさん
レス有難うございます。
>実際に,苦しみが「いまだかつて経験されたことがない」くらい強まって
>こなければなりません。
「いまだかつて経験されたことがない」苦しみは、過去、ありました。
>「絶え間ない注意力」あるいは,「煩悩を焼く
>炎」と呼ばれる現象であり,観察行の第一段階を成就した後に生じてくる安楽
>な境地です。
「煩悩を焼く炎」・・・初めて聞きました。
では、第二段階は、何をすれば良いのですか?
あら、金平糖さん、Ryuさん、また、お目にかかれて嬉しいです(汗
EOスレは、512KBを超えたので、書き込めませんでした。
181 :
brown :2007/01/31(水) 00:10:42 ID:FFWO/6c5
そのような私に救いなどありようがありません。善なるものからは,完全に 見捨てられた存在です。私に善などというものは何一つありません。その 反面,悪ばかりが見出されます。心は完全に暗黒であり,そのような私が 何の救いを求める資格があるでしょう? たとえ,百千万の仏陀が,全身 全霊をかけて私を救おうとしても,この狂った心を少しでも癒すことは できません。それは,絶対に不可能です。救われる機縁など,どこにも 見出すことはできないからです。その逆に,悪魔が地獄に引きずり込む機縁 なら,全ての瞬間,全ての空間に充満しています。 心を観察するとは,そういう暗黒を見ることです。
182 :
brown :2007/01/31(水) 00:20:58 ID:FFWO/6c5
そのような私にとって,煩悩を焼く炎など,全く無力です。自我や心を 消す瞑想など,何の役にも立ちません。忘我や無我や禅の悟りの境地は, 何も意味を成さない所以です。 しかし,ある男が決意し,自己と本当に向き合うこと以外に道を捨て, あらゆる望みを捨て,たとえ自己になんら善なるものがないとしても, それをはっきりと見ることを承諾したならば,たとえ自己が暗黒に満ちていた としても,恐れることなく,それを見ます。恐れることなくそれを見たら, なおさら恐ろしい心が明らかになります。なおそれを見れば,より狂った 心が見えます。それをも見たら,より間違った心が見えます。そのような 探求は終わることなく,続いていきます。 見ることは恐れを引き起こします。恐れは,不安の予見から生じます。 なぜなら,今まで知りもしないくらい暗黒の心を見ても,まだ,その心の 深みには,知れない底があるからです。底知れぬその暗黒は,一度落ちたら 決して這い上がれそうにないので,それを予見するならば,とても不安です。 このようにして,心の各深度の経験は,より深まっていくので,それを捉える 苦しみは,より強まっていくのです。
183 :
トトロン :2007/01/31(水) 00:22:58 ID:ejznXnEo
>>179 むき出しの悪徳は,見苦しいです.私の心の中にも,他の方々の
心の中にも同じ悪徳の根源はある.でもそれを包み込む良きもの
がある.例え話をします.「1人殺せば悪人,千人殺せば英雄.」
(だったっけ?頭悪いんで忘れた.)という言葉があるけど,「一人
の命を救えば医者,千人の人の命を救えば聖人」(オリジナル)と
いう言葉には,たいした差はない.悪に走るのは簡単,でもその
悪を包み込めるほどの善性を身につけ目指す事のほうが難しい.
楽をしたければするがいいさ!
184 :
吽狛 :2007/01/31(水) 00:28:51 ID:2bG8tWZ4
>>181 brownさん
あっ途中でしたか。
私は、誰かに対して不満に思った時、
その相手に対して「死ね」と思うと、安らぎます。
その自分の心については、なんとも思いません。
正常だと思っています。
ただ、死ねと思った事により、
相手が、本当に、死んでしまっては困るな、
と思っています。
本当に死んで欲しい訳ではなく、
自分が、相手に殺意を抱くほど、苦しんだ、というだけだからです。
たぶん・・・
185 :
吽狛 :2007/01/31(水) 00:30:37 ID:2bG8tWZ4
しかし、根本的に、不快に煩わされないようになりたいです。
186 :
brown :2007/01/31(水) 00:39:32 ID:FFWO/6c5
>>180 ちと文章が混乱してしまいましたが,
自己観察行の第二段階の成就は,178のように,絶え間ない注意力によって,
心の動きの全てが静寂に帰したときに達成されます。
おやおや、挨拶も返してくれないとは寂しいねー よーく見ると、自我の性質が露わになるけど 悪に見えたり暗黒に見えたりするのは 恐れか不安か認めることができない想いから来ている そのような性質なのだと、当然なのだと、認めれば 何も悪なものでもなく罪なものでもない 良く見えていないので暗黒になる よく見れば、それは心に備わった機能なのだとわかるはず 何かの出来事で悔いているために冷静になれないのだとしたら、 過去の呪縛に繋がれたままである
188 :
brown :2007/01/31(水) 00:45:22 ID:FFWO/6c5
もしある男が心を観察し,恐れることなく見たならば,心は静まり,清らか になります。 湖が澄んで綺麗になると,そこまで見えるように,その男は,自己の心の より深いものを見ることができる眼を生じます。 その眼が心を見たとき,より深い深度にある心の動きや存在が見えるように なります。それは,表面で見たより,より汚らしいものです。しかし, より苦しみは強まりますが,それを恐れることなく見たなら,その深度でも 心は澄み,より深く見えるようになります。より苦しみは強くなるが, より深く見ると,より清らかになります。 ・・・そのようにして,どこまでも心を探求すると,やがて,すこんと, 心の底まで深く沈みこんでしまいます。あたかも,底なし沼の底に沈んで しまったかのようなものです。
人を呪わば穴2つ というからねー 1つめの穴は確実だ 自身に即返る 2つめの穴は不確実だ 届くかどうかわからない
ごみが落ちているからといって 部屋が汚れているからといって いつまでもごみを探しつづけて 細かい塵までも見つけて 掃除をし続けたとしても すぐに汚れてくる 一足飛びに超えなきゃ 元からごみは落ちてなかったのだと だからといって、ごみをほったらかしにしろとはいってない
191 :
吽狛 :2007/01/31(水) 00:56:16 ID:2bG8tWZ4
>>189 光ファイバーEOさん
>人を呪わば穴2つ
>というからねー
う〜ん、相手が死ぬのも自分が死ぬのも、嫌だなあ(汗
でも、どうしても、嫌な事があると死ねって思う。
開き直って、死んでもいい、とは、思えないし。
ど〜すりゃいいんだ・・・。
192 :
brown :2007/01/31(水) 01:02:07 ID:FFWO/6c5
そのとき,無限に落ち込むその落ち込みという底にあって,彼には,あらゆる 経験も,無意味となる。彼に自己の心の動きを制する力など無力となる。 彼に,自己の心を観察する慧眼の光などなんら光彩を放たない。彼が蓄積 してきた知識や,善の功徳は芥子粒のように小さい。このブラックホールは, 全てを呑み込んで,何もかもを無にしてしまう。 彼に残っているのは,絶望のみである。彼には,全ての欲望を捨て去るとか, 全ての思考を捨て去るといった,捨て去る選択ではなく,その他の余地なく, 暴風雨の中で,全てをもぎ取られるような,凶暴残虐な強盗が何もかも 奪っていくような,強奪である。それは彼に突きつけられた,重々しい 現実である。真実の姿を見たものに,哀れにも突きつけられる現実の裸の 姿である。 彼ははっきりと知るであろう。救いなどないと。
どーしたいんだ・・・ なぜそのように思うのか見れば その理由も自我の性質もわかるだろうし 潜在している想いもわかるだろう しかし・・・ そんなことして何になるか・・・ 何かの役にはたつだろうたぶん
194 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:04:38 ID:2bG8tWZ4
うぬ、今のままでは、救われない。
195 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:07:39 ID:hX7yQ7Qk
悪とか善とかは、カルマがあるうちは大事ですが、実在ではなく、
言語・概念によって作り出された幻のごときものではないでしょうか?
とかいって、悪人でよいということではなく、できる限り善人になったほうがいいのですが、
それは悟りという根本とは、違う気がします。
悟りとはそうした相対からの飛躍であるのではないでしょうか?
>>184 面白いですね・・笑
それは、今の若い人にとっては、全く正常なんじゃないですか?
ですが、怒りというものは、実体があると思っているから生じるのであって、
それがないと喝破できれば、生じようがない。
・・僕自身、まだまだ喝破できていないところがありますが。。
196 :
brown :2007/01/31(水) 01:08:02 ID:FFWO/6c5
もし彼が,「このような重苦しい探求を続けるから,このような絶望に 陥ったのだ」と考えたとしても,もはや這い上がることはできない。 なぜなら,彼にはもう,全てが明らかになってしまったからだ。 もし心の表層に上がったとしても,既に知ってしまった暗黒は消え去る ことがない。彼は,それを見る眼を開発してしまった。この千里眼は, 彼の世界の全てを破壊してしまう。知ったものに救いはない。 救いとはなんて無知なものだろう。 この全てを知る認識力,つまり絶望こそが,解脱の素地です。
197 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:08:53 ID:2bG8tWZ4
>>193 光ファイバーEOさん
>どーしたいんだ・・・
>なぜそのように思うのか見れば
>その理由も自我の性質もわかるだろうし
>潜在している想いもわかるだろう
悲しい思いはしたくない、と思う。
>しかし・・・
>そんなことして何になるか・・・
>何かの役にはたつだろうたぶん
何かの役って・・・そんな適当な(汗
198 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:11:00 ID:2bG8tWZ4
>>196 brownさん
つまり。私は、絶望しそこねてるのかな?
まだ、全てを知っていないのかな・・・?
>>192 そうして、何もかも無駄になって、想いは落ち
全面的な受容に至ったわけか
そしたら救われただろう
これまで思考に振り回されていた
愚かな姿に呆れなかったかい
200 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:15:13 ID:hX7yQ7Qk
>brownさん。 どんなダークサイドであろうと、仏の掌のうち。 法界とか法から免れているわけでも、はずれているわけでもありません。 ただ原因があるからそうなる。縁起によって仮現したものに過ぎないわけです。 それがわかれば、解決するんじゃないでしょうか?
201 :
brown :2007/01/31(水) 01:16:57 ID:FFWO/6c5
たとえ絶望が解脱への素地だとしても,絶望に救いはない。 いつまでも,そこに居てもなんの進展もない。 しかし,絶望はもはや望みが断たれたものであり,全てに浸透している。 転げまわって苦しむが,たとえ,転げまわったとしても,いつも私は 「ここ」に居る。なぜなら,私がいるところが「ここ」だから。 ここから逃れることは絶対にできない。 逃れることはできないが,絶望はやめることができない。 しかし,彼の「決意」が固ければ,たとえそのような道なき道であっても, まだ歩んでいくだろう。でもどこを歩んでいくのだろう? どこを歩んでいく のか分からなくても,まだ,ここを歩んでいくだろう。 そのようにして,解脱を求める修行者は,この絶望の中に留まり,それでも, 自己の真実を求め続けるところに留まり続ける必要がある。
202 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:20:35 ID:2bG8tWZ4
>>195 Ryuさん
>ですが、怒りというものは、実体があると思っているから生じるのであって、
>それがないと喝破できれば、生じようがない。
実体があると思っている前から、怒りは生じてますよ。
感情という部分に対し、頭脳で納得する喝破では、
性質の違うものだから、喝破しようがないと思います。
もしも、その絶望の意味するところが、 希望に対極する絶望ではなく 両方が無くなったものだとすれば 問題ないが 希望に対極する絶望ならば 希望や欲望の囚われ自体無くなっておらず、苦しむことになる
204 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:22:45 ID:2bG8tWZ4
>>201 brownさん
あ〜、絶望し続ければ良いわけだ(汗
絶望って感じでもないんだけど・・・
205 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:24:30 ID:2bG8tWZ4
超薄希望と超薄絶望を行ったりきたり・・・。
望みが断たれたところに絶望はなく苦しんだり転げまわることも無い
今日も長居してしまった・・・
208 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:26:25 ID:hX7yQ7Qk
>>202 >実体があると思っている前から、怒りは生じてますよ
そうかもしれないけれど、自分の中に何か引っかかる観念があるから、
怒りが生じる。それがなければ、なに言われても何されても、
「あっそう」で終わりになるんじゃないのかな??
また、実体がないと理解すれば、怒っても許せるわけじゃないですか?
怒りはしょうがないかもだけれど、それをどう理解するか、相手に原因があるのか、
自分に原因があるのか、答えはどっちもなんだけれど、根本は自分にあると知らなければ、
悟りには至りようがないんじゃないですか?
怒ってもいいんですが、その根源を知らなければいけないと思いますよ。
209 :
brown :2007/01/31(水) 01:26:58 ID:FFWO/6c5
けっして退くことのない修行者が,絶望の中に留まり続けるとき, もし,退くことがいつまでもなければ,・・ 彼はあるとき,明星をみるだろう。あるいは一輪のけなげな花を見るかも しれない。 それは,完璧だろう。彼はそれを初めてみるだろう。未だ見たことのない それをみるだろう。それははっきりと知られる。それは美しい。それは 見事な驚きである。それは新鮮で貴重なものだろう。それは輝いているだろう。 彼には第一の気づきが生じる。今まで,心を探求してきたが,単純な知覚に 気づいていなかったと。
210 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:27:09 ID:2bG8tWZ4
希望が消える事かな〜、絶望・・・ 夢も希望もなく生き続けれない・・・
211 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:28:41 ID:hX7yQ7Qk
光ファイバーさんの言ってることは、一寸の狂いもなく正しい気がする。。 明日もたのんまっせ。なんか書いてってくだされ。。
212 :
トトロン :2007/01/31(水) 01:31:23 ID:ejznXnEo
>>196 言葉だけでは分からないから言うけど,貴方の言葉のような状況に実際に
陥ったことがあるから言うけど,少なくとも貴方の言葉のような心の状況
ではキーボードは打てないことを承知で言うよ.この混沌から抜け出させ
てくれるのは,イエス様でもお釈迦様でもなく,貴方をこの世に生んでく
れた両親以外の何者でもないないよ.理屈ぬきで,あなたがこの世に存在
しているのは,貴方の両親のおかげでしかないでしょ?両親が善人悪人関
係なくさ.
213 :
brown :2007/01/31(水) 01:34:45 ID:FFWO/6c5
そう。見るものは全て完璧に美しく,聞くものには完全な感動がある。 嗅ぐものは,味わうものは・・同様である。 つまり,全ての知覚には,完全な悦びがある。それそのものが全き 満足であり,その他に何を求めよう? 知覚が(幻ではなく)完全であるとしれば,もはや絶望という悪魔は, 力を持たない。というのは,望む必要のあることは何もなく,全ての 望ましいものは,あらゆる瞬間の知覚の経験に,じかにあるのだから。
空前絶後の知覚があったり、星が降ってきたりするかもしれんが 煩悩の大きさによって感じ方も違うだろう いずれにせよ それがどんなに素晴らしく智慧をもたらしたものだとしても 過ぎ去った過去であり、過去に囚われれば、妄想を追うことになる
216 :
brown :2007/01/31(水) 01:39:54 ID:FFWO/6c5
しかし,智慧のある修行者は,それに満足しないだろう。 というのは,彼は心を見るから。 彼は,自らの心を見通してしまった。それを見る眼を啓いてしまった。 彼はそれを知っている。 たとえ知覚が完璧であったとしても,心にはあの絶望的な悪魔が住み着いている だろう。
>>211 何言ってますの
変に信じ込まず、ご自分で確かめておくれ
218 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:44:12 ID:2bG8tWZ4
>>208 Ryuさん
>そうかもしれないけれど、自分の中に何か引っかかる観念があるから、
>怒りが生じる。それがなければ、なに言われても何されても、
>「あっそう」で終わりになるんじゃないのかな??
引っかかりというのは、個人の価値観ですね。なので、
それがないというのは価値観が、全くない人間になるという事になると思いますが、
価値観だけをなくす、というのは不可能でしょうね。
>また、実体がないと理解すれば、怒っても許せるわけじゃないですか?
怒りについて、実体がないと理解すれば、怒っても怒りは収まりますが、
許せるというのは、ちょっと違うと思います。
怒った原因の事柄は、そのままですから、それについては、許せないでしょう。
あ、ちょっと、意味がちがう。
え〜と、むしろ許す、許せないというより、ただ、価値観が合わない、ということです。
価値観が合わないことは、そのままだということです。
価値観がなければ、怒りようはないとおもいますが。
>怒ってもいいんですが、その根源を知らなければいけないと思いますよ。
え?根源て、心があるからじゃないんですか?(汗
>>216 > 彼は,自らの心を見通してしまった。それを見る眼を啓いてしまった。
> 彼はそれを知っている。
ちょっと大げさと違う?
> たとえ知覚が完璧であったとしても,心にはあの絶望的な悪魔が住み着いているだろう。
悪魔を許してやったらどうでしょ
220 :
brown :2007/01/31(水) 01:47:07 ID:FFWO/6c5
そのため,彼は(悟りを開いたような?)知覚は放っておいて,むしろ, 心を見るだろう。 彼は,心に,さきほどまであった,全ての悪心を見るだろう。 先ほどまで,それに苦しんでいた思考や感情,自我や二元論の全てを 知っている,その知力で見るだろう。 彼は,再び絶望を知るだろう。 しかし,それは,先ほどまでとは異なったあり方をしているだろう。
221 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:47:21 ID:hX7yQ7Qk
>>217 はい。言われなくともそうする所存にござるよ。
信じてるわけでもないし。
けど、今日は、ちょっとビールで酔っ払ってるんござる。。
光ファイバーさんにとっては、だから、どうしたって話でしょうが・・
222 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:52:11 ID:2bG8tWZ4
>悪魔を許してやったらどうでしょ ぶっ
223 :
吽狛 :2007/01/31(水) 01:53:14 ID:2bG8tWZ4
Ryuさん、酔ってるのか、何か、変。
224 :
Ryu :2007/01/31(水) 01:53:21 ID:hX7yQ7Qk
>>218 価値観をなくすって、不可能じゃないでしょう。
また、価値観が残ったら、悟りでも瞑想者でもない。
根源は心そのものではなく、心の構造、在り方じゃないですか?
心に観念・概念・価値観がなければ、怒りようがない。
怒ってもいいんだけれど、怒るということは根本ではなく、
その根本を知らないから、怒りに惑わされるんじゃないのかな?
225 :
brown :2007/01/31(水) 01:59:24 ID:FFWO/6c5
第一に,この知覚の驚くべき貴重な美しさは,心の激流に妨げられることなく, 輝き続ける。 第二に,心の各経験は,生じては滅する。 第三に,修行中,観察力,注意力を高め,注意力を向けることによって, 心の各経験は生じたその瞬間を捉えて滅することができたが,今や, 労することなく,自然に滅している。 第四に,注意力や観察力,修行努力などは介在していない。 第五に,心は,自動的に煩悩を破壊するように機能している。 第六に,しかも,このような煩悩は,途切れることなく勝手に起こってくる。 つまり,知覚の流れをさえぎることなく,心の動きは脈略なく生じては, 我の介在を経ずに,心自ら勝手にそれを滅し去り,そのような心の動きは 途切れることなく続いていくが,心全体の調和の静寂の中で,そのような 動きは表面に起こるさざなみにすぎないだろう。しかもそれをはっきりと 観察し続けることが起こっているだろう。
226 :
トトロン :2007/01/31(水) 02:02:07 ID:ejznXnEo
>>220 なんだかホットしました(^-^)もし,貴方が10年前の私と同じように
人間が生きていくために必要な欲を,全て剥奪されるような状態であ
るのではないかと考えておりましたが,どうやらそうではないようで
す.あとは,心のおもむくままに・・.
227 :
吽狛 :2007/01/31(水) 02:03:04 ID:2bG8tWZ4
>>224 Ryuさん
>価値観をなくすって、不可能じゃないでしょう。
今のところ、不可能です。
>また、価値観が残ったら、悟りでも瞑想者でもない。
さあ、それは分からない。
>根源は心そのものではなく、心の構造、在り方じゃないですか?
>心に観念・概念・価値観がなければ、怒りようがない。
う〜ん、
心そのもの、ってのが、何を指してるのか、よく分からないです。
>怒ってもいいんだけれど、怒るということは根本ではなく、
>その根本を知らないから、怒りに惑わされるんじゃないのかな?
その根本て言うのは、例えばどんな?
228 :
brown :2007/01/31(水) 02:06:26 ID:FFWO/6c5
彼にはもしかしたら疑念が生じるかもしれない。 つまり,今は,確かに積極的に知覚はしているが,それでもある種の瞑想状態 のようなものにあるから,心はこのように安全なのかもしれないと。 厳しい修行者である彼は,そのため,心に強い乱れを起こそうとする。 例えば,強い思考,強い感情,自我の強い認識などなど。 善い悪いの価値観を検討したり,恋人のことを想ったり,感動したり, 怒りを抱いたりする。
229 :
brown :2007/01/31(水) 02:11:53 ID:FFWO/6c5
やがて,彼は,あらゆる思考も感情も,自我も二元論も価値観も,善悪も 欲望も煩悩も,概念も,怒りも殺意も,ある,ということを知る。 それは,知覚の気づきと同じようなものである。 それは,完璧なのである。 例えば,善悪の判断は,見ることが完璧であるように,完璧であって, 心の流れが知覚の完璧な美しさを妨げることがないように, 知覚の瞬間瞬間の移ろいも,心の様々な思考や感情の安楽さを妨げることが ない。
230 :
brown :2007/01/31(水) 02:18:36 ID:FFWO/6c5
そのとき,彼は,より重要なことを知る。 思考も感情も,自我も二元論も価値観も,善悪も欲望も煩悩も,概念も, 怒りも殺意も,心の全ても, 乗り越えたり,消したり,否定したりするべきものは何もなく, そのままで完璧だと。 そして,無我や観念の超越,煩悩の滅尽,思考や価値観を捨てる,これらの ことはなんら役に立たないとはっきりと知る。 というのは,それらのことに陥ると,その者は,それらを忘れ去ったことに なるだけだからである。
その構えを取り払わないと空にはなれない
232 :
brown :2007/01/31(水) 02:26:30 ID:FFWO/6c5
彼は,知覚の流れの全てと,思考,感情,自我,観念など心の働きの全て の存在を悉知している。 それは何一つ覆われることなく,厳然としてある。明々白々にあって, どの一つもどの一つをも損なうことがない。 善は悪を妨げず,悪は善を妨げない。煩悩は今到達した絶対的な境地を 妨げず,その境地は煩悩を妨げない。知覚は心の流れを妨げず,心は知覚 の流れを妨げない。 全ては,個々完璧に輝いており,万法が明らかである。 というのは,全体が調和しているからである。
付けやいばみたいなところがある
234 :
brown :2007/01/31(水) 02:33:46 ID:FFWO/6c5
人生にはあらゆる苦難や障害,その潜在性が,いつでも,どこでも存在 しています。 それから眼をそむけ,眼を閉じれば,それは消え去ります。 しかし,本当に消え去ったのではなく,見ていないだけです。 それから逃れるためには,眼を閉じず,はっきりと見て,解決方法を 探るべきであろう。 同様に,思考,感情,自我,観念など心の働きの全ては存在しています。 それらをはっきりと知ることなく,何かが本当に解決することはない。 はっきりと見て,その解脱を知るべきであろう。
235 :
Ryu :2007/01/31(水) 02:37:42 ID:hX7yQ7Qk
>>227 >心そのもの、ってのが、何を指してるのか、よく分からないです
これは
>>218 で言っている「心があるから」という事です。
怒りは心があるから生じるんじゃなくて、成長するにつれて複雑になっていった、
自我の構造によってあるんじゃないですか?
怒りを生じせしめる機構があるわけで、その機構はもともとあったんじゃなくて、
周囲とのかかわりとか適応などの過程で、自分で作ったもの。
だから、それを変えようと思えば変えられるのでは?
怒りやそれを生じせしめる機構を、
空と喝破すれば、あるいは、自己の本質とは関係ないと見抜けば、
それらに惑わされない境地に至れるかもですが、それが障害になるのなら、
それを生じないように自分を変えていくのも一つの手なんじゃないですか?
変えられないなら、空とか無の理解を学んだほうがいいかもしれません。
brownさんは、悟りもあったのかもだけれど、同時にまだわかっていないこともあるように見受けられる。
ネガティヴな感情もそのままで完璧は間違ってないですが、
それらが実在しないと知ることもまた必要なのではないでしょうか?
かさぶたを剥がすと痛いよ! 治るまで待たないとだめだよ
237 :
吽狛 :2007/01/31(水) 02:42:18 ID:2bG8tWZ4
brownさん レス有難うございます。 brownさんの悟りに至るまでと、悟った後の様子が、よく分かりました。(と思います) brownさんは、自分の心を観察し、あまりの悪さに救いなどないと絶望した、 と私は、感じました。 それには、brownさんの発達した「善悪」という価値観がなければ、 絶望もせず、悟りもしなかったでしょう。 悟る資質がある人というのは、価値観の融通が利かなくなった人である、と私は思います。 何かにとらわれて、絶望した人、ですね。 つまり、我が強い人ですね(笑) やっぱり、今の我の自分自身を生きるしかないのか・・・。 brownさんは、自分に素直に、生きてきたんでしょうね。 いいな〜
おやすみるく
239 :
Ryu :2007/01/31(水) 02:56:06 ID:hX7yQ7Qk
僕は最近、幼少のころの記憶が復活しつつあるんですが、 すごく幼いころって、怒りなんてないんですよ。 「あいつがこうしてこうなっって、こうまずい」という判断が、 第一になければ、怒りは生じようがない。 それが生じるのは、そういう言語、概念によって、 現実を思考・判断するようになってからじゃないんでしょうか? 自己の利害とか損得とか要求とか価値観とかそういうものへの執着もあるでしょうし。
240 :
Ryu :2007/01/31(水) 02:59:56 ID:hX7yQ7Qk
すごく幼いころって、怒りじゃなくて、 対象なき悲しみとかわけわからない感情の爆発なんです。 それで大声で泣くんですが、誰に対して怒っているわけじゃない。 誰が悪くて、こうなったのかも何もわからない。。 ただの理由なき事故みたいな感じじゃないのかな?
241 :
Ryu :2007/01/31(水) 03:00:53 ID:hX7yQ7Qk
おやすみんと。
242 :
吽狛 :2007/01/31(水) 03:04:18 ID:2bG8tWZ4
>>235 Ryuさん
>これは
>>218 で言っている「心があるから」という事です。
ふむ・・・。よく分かりません。心って何だろ?
う〜ん、心がどんなものなのか、人それぞれ、定義が微妙に違うみたいなので、
ちょっと、わかりづらいです。
私にとって、怒りは、本能です。心は本能で動くものです。
怒りは、子供にもあります。
産まれたばかりの赤ちゃんを泣きっぱなしのまま、放っておくと、
怒りがたまります。そして、サイレントベビーという状態になり、
泣かなくなり、切れやすい子供に育つそうです。
心の中に、怒りがあります。
それは、白色光を分光すると、虹色に光るような感じです。
・・・と、私は、思っています。でも、単なる推測です。
>怒りやそれを生じせしめる機構を、
>空と喝破すれば、あるいは、自己の本質とは関係ないと見抜けば、
>それらに惑わされない境地に至れるかもですが、それが障害になるのなら、
>それを生じないように自分を変えていくのも一つの手なんじゃないですか?
>変えられないなら、空とか無の理解を学んだほうがいいかもしれません。
自己の本質とは関係ないから何なんでしょう?
怒りは、自己と共にあるじゃないですか。
今、まさに、惑わされてるじゃないですか。
私は、あなたの様に、頭が良いわけではないので、たぶん、空や無は理解できないでしょう。
出来たとしても、それは、私の救いには、ならない気がします。
だけど、原田雪渓師の本は、読みます(笑)
243 :
名無しさん@3周年 :2007/01/31(水) 03:13:13 ID:fapVvCU0
おまえら、全く悟っていない・・・!!! 悟ってんのは俺だけよ!!!
244 :
金平糖 :2007/01/31(水) 03:31:35 ID:9Jklq8VQ
brownさ〜ん、金平糖で〜す。
私の質問にもレスお願いしま〜す。
答える価値なし、座布団3枚剥奪ですか?(笑
>>173 >>174
245 :
馬渡 :2007/01/31(水) 09:07:24 ID:nLItGkdE
>brownさん 貴方の文章の全体をつなげて読むと 一冊の書籍のように繋がってて 一貫してソレを伝えようとしてるんだってわかるよ まあ、それもひとつの表現だけど 間で絡んでくるひとをほぼすべてスルーしてるというか スルーされたと感じる流れに結果としてなってる 文の最後に つ・づ・く とでも書いてくれると 絡んでもらえん人間も理解できるでしょう これにレスは不要です
246 :
金平糖 :2007/01/31(水) 11:26:07 ID:1arDj04u
>>234 う〜ん、どうもわかりません。
Brownさんは、
>>232 で
>全ては,個々完璧に輝いており,万法が明らかである。
>というのは,全体が調和しているからである。
と書かれていますが、自分も外部世界も全てが調和しているのならば、
そもそも、そこに苦難も障害もないのではないでしょうか?
苦難だ、障害だと感じているのは、ある事柄(事象)に対して、
「brownさん自身が、あなたの意識」だけがそうとらえているに過ぎない
んじゃないですか?
>それから逃れるためには,眼を閉じず,はっきりと見て,解決方法を
探るべきであろう。
だから、全体が調和しているのだから、逃げる必要もないのではありませんか?
逃げるために、はっきりと見るんですか?はっきり見たから、見えるから
逃げる必要がないという方が正確じゃないでしょうか?
全体の調和(マクロ)と、自分内部の調和(ミクロ)を分けて論じてませんか?
247 :
金平糖 :2007/01/31(水) 11:55:44 ID:1arDj04u
>>242 >私にとって、怒りは、本能です。心は本能で動くものです。
吽狛さんが、そういう前提でおっしゃるのならそうなんですねとしか
言いようがありませんが、怒りって本能ですか?
私にとっての本能は、腹がへったら食べたい、眠いときは眠い、
SEXしたいときはSEXしたい、といったような人間誰しもが持っている
「生理的欲求」です。
言い換えれば、「種族保存の原則」です。全ての人間に共通のものです。
>怒りは、子供にもあります。
>産まれたばかりの赤ちゃんを泣きっぱなしのまま、放っておくと、
怒りがたまります。
赤ちゃんが怒ったのは、自分が泣いているのに放置されたということ
にたいしての不快感であって、二次的なものでしょう。
まれにですが、世の中に「怒らない人、怒りの無い人」という人もいます。
彼らは全てのことを享受している人といってもいいでしょう。
怒りという感情は、個人の意識(認識)と外部世界との乖離から生じるものです。
あるひとつの事柄に対して人間全員が怒るわけではありません。
248 :
Ryu :2007/01/31(水) 12:05:45 ID:hX7yQ7Qk
>>242 赤ちゃんにも怒りはあっても、それは今の僕らのような「だれだれに対する怒り」という、
明確な対象を持たないでしょう。それも怒りといえば怒りですが、今の僕らの怒りとは違うわけです。
「本質と関係ない」というのは、怒りは自分でつくったものではないということです。
自分でつくったら、自分のものですが、因縁によって生じるのですから、
自然現象みたいなものでしょう。
自己の本質が、意識であるとか真我といわれるものならば、
怒りがあったとしても、その意識や真我には指一本触れることができないわけです。
空が暗雲に覆われても、空自体の性質は変わらないし、その上の太陽が損なわれることはない。
太陽が自己の本質で、怒りなどの悪感情を暗雲とすればわかりやすいんじゃないですか?
そういう構造や本質がわかれば、そんなに問題ではなくなるんじゃないでしょうか?
・・それでも怒りは生じるでしょうが。。
249 :
金平糖 :2007/01/31(水) 12:22:14 ID:1arDj04u
>>245 馬渡さん、なにがどうわかったのか説明してもらえませんか?
私にはわからないので、やさしい言葉でお願いします。
250 :
吽狛 :2007/01/31(水) 14:14:19 ID:2bG8tWZ4
>>245 馬渡さん
そうですね。brownさんは、brownさんは解脱者なので・・・
悟りに至るまでと悟ってからの経験を、まとめて書き込んでいるようです。
間に入った他者のレスと対話する気はないようです(笑)
なので、途中で来たbrownさんへのレスなどを省いて、全てを一つの書き込みとしてみる必要があるでしょう。
・・・という事だと思いますが、金平糖さん、分かりました?
>>247 金平糖さん
>吽狛さんが、そういう前提でおっしゃるのならそうなんですねとしか
>言いようがありませんが、怒りって本能ですか?
何か、その言い回し、変ですよ(笑)
「そうなんですねとしか言いようがない」割には、いろいろ書いていておかしいですが、
私の考えは、私の考えで、あなたの考えは、あなたの考えで、違いがあっても、おかしくないです。(笑)
金平糖さんの本能については、分かりました。
金平糖さんが、そういう前提でおっしゃるのならそうなんですね。だからなんでしょう?
>まれにですが、世の中に「怒らない人、怒りの無い人」という人もいます。
>彼らは全てのことを享受している人といってもいいでしょう。
>怒りという感情は、個人の意識(認識)と外部世界との乖離から生じるものです。
>あるひとつの事柄に対して人間全員が怒るわけではありません。
だから、何だって言うんですか?
怒っているのは、私個人のことであり、世の中の誰かの話は、
私にとって、無意味です。
251 :
吽狛 :2007/01/31(水) 14:17:16 ID:2bG8tWZ4
>>248 Ryuさん
>赤ちゃんにも怒りはあっても、それは今の僕らのような「だれだれに対する怒り」という、
>明確な対象を持たないでしょう。それも怒りといえば怒りですが、今の僕らの怒りとは違うわけです。
違わないですよ。ただ、複雑になっただけで。
それに怒りに拘っている訳ではないのです。
怒りについては、「感情」を具体的に「怒り」を取り上げて話しているに過ぎません。
そして、私が、感情による不快感に煩わされたくないという事です。
感情が問題なのではありません。
>自己の本質が、意識であるとか真我といわれるものならば、
>怒りがあったとしても、その意識や真我には指一本触れることができないわけです。
>空が暗雲に覆われても、空自体の性質は変わらないし、その上の太陽が損なわれることはない。
>太陽が自己の本質で、怒りなどの悪感情を暗雲とすればわかりやすいんじゃないですか?
別に分かりたい訳ではありません。
>そういう構造や本質がわかれば、そんなに問題ではなくなるんじゃないでしょうか?
>・・それでも怒りは生じるでしょうが。。
怒りを生じさせないという事を、目指している訳じゃないのです。
感情が問題なのではないのです・・・・
252 :
金平糖 :2007/01/31(水) 15:33:28 ID:1arDj04u
>>250 まあまあ、吽狛さん、そんなに感情的にならなくてもよろしいのでは?
私の言い回しが気に入らなかったのなら謝りますが、私はあなたの意見は
意見として「おかしい」とは思ってませんよ。
ただ、「私は私の意見としてこういう考えを持っていますがどうでしょうか?」
という意図です。
>だから、何だって言うんですか?
>いるのは、私個人のことであり、世の中の誰かの話は、 私にとって、無意味です。
別になんでもありませんよ。
なぜ、そんなに感情的に(自己防衛)されるのかわかりませんが、
その答えは吽狛さんご自身にしかわからないことでしょうから。
Brownさんが、解脱者というのはBrownさんの自己申告ですよね。
迷い多き凡夫の身の私ですから、「解脱者」と言い切れるbrownさんはすごいと思います。
もちろん、納得いく部分もありますし、疑問に思う部分があります。
その疑問に思った部分を率直に聞いてみたいと思って書き込みしているわけです。
>間に入った他者のレスと対話する気はないようです(笑)
それは、吽狛さんの意見ですよね。
私は、brownさんの意見なり見解を聞きたいと思います。
解脱者は凡夫など相手にしないのかもしれませんが。
解脱者、大悟した方ならば「慈悲」というものがあるでしょうから、
それに期待したいと思います。
253 :
吽狛 :2007/01/31(水) 17:24:21 ID:2bG8tWZ4
>>252 金平糖さん
>まあまあ、吽狛さん、そんなに感情的にならなくてもよろしいのでは?
どうして感情的にならなくてもよろしいと思うんですか?しかし、感情的ではないですよ。
う〜む、どちらかというと、楽しんでいるのですが・・・・(汗
>私の言い回しが気に入らなかったのなら謝りますが、私はあなたの意見は
>意見として「おかしい」とは思ってませんよ。
>ただ、「私は私の意見としてこういう考えを持っていますがどうでしょうか?」
>という意図です。
気に入らないというより、何か、変な感じがしたんです。
でも、私には、それが何なのか、よく分からないので、うまく説明できません。
それから、あの書き方は、私にとって、「私は私の意見としてこういう考えを持っていますがどうでしょうか?」
という意図は感じられませんでした。ま、どうでも良いことですが。
>別になんでもありませんよ。
私は、ここに、目的があって書き込んでいます。
金平糖さんと私の論点や、ここへの書き込みの目的がずれているのかもしれません。
金平糖さんに、論点があればの話ですが。
>>間に入った他者のレスと対話する気はないようです(笑)
>それは、吽狛さんの意見ですよね。
そうですよ。私以外の人の意見を書くことは出来ませんよ。
私は、あの一連の書き込みを、対話という形で、読むよりは、brownさんの書き込みを、
全てを一つの書き込みとして読みました。その方が分かるからです。
それで、
>>246 では、金平糖さんは、brownさんの書き込みの途中だけを読んで、
意見を書き込んでいるようなので、金平糖さんの書き込みは、対話にならないというか・・・、
最後まで読まず、話の腰を折っているだけという感じです。
まあ、これは、私の個人的な意見なので、来るか分かりませんが、brownさんからのレスを待ちましょう(笑)
読む人が読めばわかるよ 急所の突き方も
255 :
金平糖 :2007/01/31(水) 20:00:34 ID:1ZzBG1qt
>>253 吽狛さんは、楽しんでたんですね。
感情的と感じたのは私の誤解でしたね。申し訳ありませんでした。
実は、私も楽しんでいます。(笑
つまりですね、たった「これだけのこと」にしても、お互いの認識のズレがあるわけですよ。(笑
私は目的はありませんが、「悟り」ということに関して興味はあります。
この板の中のBrownさんの書き込みは全部読みました。
>>213 は、私にも理解できます。
途中で、ある男(修行者)の話が出ていますが、あれは悟る前の状態ですよね。
っで、
>>232 は悟った後の状態。
>>234 は凡夫に向けてのメッセージでしょう。
>>179 〜
>>182 で悪という言葉が結構でてきますが、悪というからには善という
対極のものがあるわけで、
>>181 で
>私に善などというものは何一つありません。その 反面,悪ばかりが見出されます。
>心は完全に暗黒であり,そのような私が 何の救いを求める資格があるでしょう?
「善が何一つないのなら、対比する悪もないのでは?」、という疑問が私には残ります。
どうして善悪という二元的なものになるのかわかりません。
「なにかわからないけれど湧き上がった感情」を善悪と分けるのではなくて、全て「それはそれであるがまま」
と認めれば済むことなのでは?っと思います。
>最後まで読まず、話の腰を折っているだけという感じです。
最後がどこだかわからない。(笑
仮に全部読んでから質問しても、答えてもらえる保証もない。
まっ、brownさんの気が向いたら何かしらのレスがあるでしょう・・・・・・。
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕 警視庁防犯課 二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
257 :
brown :2007/02/01(木) 00:20:12 ID:lWywkUkN
お騒がせしておりますが,何に答えればいいんでしょうか?
>>173 >>174 かな
正直,質問とは思いませなんだ。
brownの書き込みは,「正しい見解」を書いたものではなく,修行法を書いた
ものですね。それは,吽狛さんの苦に対する真摯な問いかけと迷いに対して,
私の知っていることを答えているわけです。役立つだろうと思うから。
現実にどれだけ役立つかは,現実に吽狛さん等の個人がどのように自己に
活かすかにかかっているでしょう。
つまり,迷いがあるから,答えがある。苦があるから,その解決がある。
迷いや苦の問いかけなら,私は答えを示すでしょう。
しかし,行法を説明するに,背景となる哲学や理論構築について,それは
(私と)違うと指摘されたところで,私としては対応の余地がない。
というのは,私が説明しているのは,事実と現実のみに拠っており,
いかなる哲学や理論を主張しようとしているのでもないから。
258 :
brown :2007/02/01(木) 00:23:44 ID:lWywkUkN
>>173 怒りは,他人の怒りに対して生じるというのは,誤ってはいません。
が,全部ではありません。
問題にしているのは,他人の怒りではなく,自分の怒りです。
自分の怒りは,他人の怒りとか自己防衛から生じているというよりは,
よく心を観察するならば,無力感から生じてきます。
259 :
吽狛 :2007/02/01(木) 00:29:47 ID:keCVcBil
>>255 金平糖さん
>感情的と感じたのは私の誤解でしたね。申し訳ありませんでした。
いえいえ、全然平気です。
>つまりですね、たった「これだけのこと」にしても、お互いの認識のズレがあるわけですよ。(笑
それで?何が、「つまり」なのか、よく分からないです・・・(汗
お互いの認識のズレがあるというのは、単なる事実です。
それから導き出された、あなたの意見は聞こえてきません。私の場合ですと、
“たった「これだけのこと」にしても、お互いの認識のズレがあるわけです。
つまり、自分の感じた事を書いてみないと、ズレすらも分かりません。”です。
>「善が何一つないのなら、対比する悪もないのでは?」、という疑問が私には残ります。
>どうして善悪という二元的なものになるのかわかりません。
>「なにかわからないけれど湧き上がった感情」を善悪と分けるのではなくて、全て「それはそれであるがまま」
>と認めれば済むことなのでは?っと思います。
この書き込みについての、個人的な感想ですが、
>>252 で金平糖さんは
>まあまあ、吽狛さん、そんなに感情的にならなくてもよろしいのでは?
と書いてます。しかし、「なにかわからないけれど湧き上がった感情」を、
全て「それはそれであるがまま」 と認めれば済むことなのでは?
そして、金平糖さんが、それであるがままと認め済んでいれば、
「感情的にならなくてもよろしいのでは?」という事は言わないと思います。
つまり、金平糖さんは「それはそれであるがまま」と認めていても済んでいないか、
金平糖さんは、「それはそれであるがまま」と認めていません。
・・・・「それはそれであるがまま」認めれば済む事、と言いつつ、その本人は、全然済んでいないのです。
私は、金平糖さんの文を読んでも、金平糖さんが何を言いたいのか、よく分からないです。
金平糖さんは、自分が、本当は何を思っているのか、分かっていないんじゃないか、とさえ思えてきます。
・・・・と、brownさんじゃないのに、微妙な横レス殴りつけた暇人でした・・・(笑)。
あ!brownさん、来ましたね。ホッと一息(笑)
260 :
brown :2007/02/01(木) 00:30:00 ID:lWywkUkN
自我のない赤ちゃんに怒りはない,という話がありましたが,対象に 対する怒りはなくても,怒りという感情は存在しています。それは大人の 怒りとは違いますが,より原始的で,単純なものです。原始的なエネルギー のわだかまりのようなものですが,怒りの原初的な感情を抱いているんで しょう。 ブッダとは,そのような自我のない赤子に帰ることではありません。 自我があり,より複雑な感情を抱き,社会的な責任を負い,思考をし, 理論を知り,理性によって動くことの重要性を学び,現実に効果のある 活動をしている,大人の悟りを得ることです。 子供に帰るのは,何も知らなくなることです。ところが,ブッダとは, 大人になることです。つまり,全てを知ることです。
261 :
brown :2007/02/01(木) 00:38:17 ID:lWywkUkN
>>174 ご指摘のとおりと思います。
ただ,あるがままと見るだけで解脱することはありません。
思考というか,分別というか,心の分析が必ず必要です。
原因を辿る必要があるというのも,全くそのとおりです。
262 :
Ryu :2007/02/01(木) 00:44:46 ID:E5+OuI13
>>260 brownさん。
赤子の話を出したのは、怒りが生じる仕組みについて考えるためです。
>>258 怒りが無力感から来るというのは、一面でしかない気がしますね。
自分が思うとおりに相手が動かないとか、常識において期待されるような規範に従わないとか、
そういう観念・思考の枠組みから怒りが生じることが多いように思います。
たとえば、今問題とされる家族問題等でも、「親は子を理解しなかればならない」
という観念があれば、それに反する親に怒りや不満を憶える。
しかし、「子を理解できなくて当然」とみなせば、怒りも不満もないわけです。
そういう、思考の枠組みとか観念で起こる怒りの方が多いんじゃないでしょうか?
263 :
brown :2007/02/01(木) 00:45:40 ID:lWywkUkN
善悪を分けることが迷いだとか,自我があるから迷いだという誤解が蔓延 しています。しかし,これは間違いです。 100%間違いということもないんだけど,あまり重要な地点ではない。 空性体験というレベルですね。菩薩の第一地といったところでしょうか。 禅でいう大悟ですね。 しかし,重要なことはそこにではなく,現実のこの私にあるわけです。 善悪があっても,自我があっても,大丈夫なこと,が大人ということです。
264 :
Ryu :2007/02/01(木) 00:57:18 ID:E5+OuI13
>>260 >子供に帰るのは,何も知らなくなることです。
そうではなく、聖書で言われる「赤子に帰る」とは、何も知らなくなるというのではなく、
世俗性を脱落して無垢を取り戻すということでしょう。
>ところが,ブッダとは, 大人になることです。つまり,全てを知ることです。
「大人になること」がどうして「全てを知ること」につながるんでしょう??
やっぱbrownさん、ところどころ日本語がおかしいですよ。
>>263 >善悪があっても,自我があっても,大丈夫なこと,が大人ということです。
はじめて聞く「大人」の定義です。。
自我があって大丈夫じゃない大人がちまたにあふれてるような気がするんですけれど。。
もうちょっと読む人のことを考えて、日本語書いてもらえないでしょうか?
せっかく意味ありげな話なんですから。。
265 :
brown :2007/02/01(木) 00:57:45 ID:lWywkUkN
>>262 いや
Ryuサン自身,240でいってるように,対象のない怒りというのは(大人でも)
あります。
ただ,そうですね。決め付けによって,発生している怒りの方が事象として
は多いでしょう。
ただ,前者をより問題にしているのは,後者はすぐに納められるんですね。
「ま,いいか」と3回唱えればすむわけです。しかし,心というのはもっと
根深いものでしてね。観念の気づきで乗り越えられる部分は表層意識なんです。
>>174 レス数が多くて読めそうにないので、最新からリンクしたところだけ
横レス失礼。
えーと経験則から申しますと(書かなくてもいいかもしれんが、一応)
観察は過去を堀り返しても何も出てきませんよ
すぐにはっきりとわかるのは、今の状態だけですよ
過去に遡っては、記憶をたどるばかりで思考の迷路に迷うだけです
また、物静かに座っている時ではなく
普段の日常の場が宜しいかと
(これも経験則から申しますと・・・)
3つめは
怒りがテーマに出ていますのでそれに則して書くと
怒りを観察するにあたって、怒り自体をずーっと感じていても、怒りが増幅するだけです
なぜ怒りが起こったのかずーっと遡ってゆけば解決へと導きます
なお、個人の経験則なため、良いか悪いか保証はしません
267 :
吽狛 :2007/02/01(木) 01:12:16 ID:keCVcBil
>>266 光ファイバーEOさん
>えーと経験則から申しますと(書かなくてもいいかもしれんが、一応)
いやいや、がっつり書いて欲しいです!
うむ。 大人の定義とはかようなものであーる 大地や空を合わせた全ての地球と言われているものが、1センチほどの太陽というものの周りをまわっているらしい。 それが、生きているうちに20週したことが、大人であるといわれる。 これが正真正銘の大人である。
269 :
吽狛 :2007/02/01(木) 01:17:31 ID:keCVcBil
270 :
吽狛 :2007/02/01(木) 01:21:04 ID:keCVcBil
せっかくのチャンスなのに、今日は、問いも迷いも、思い浮かばない・・・。
>>269 なにも冗談で書いてないよ
現実に則して書いているだけだよ
大人であるか子供であるかというのはタダの定義にすぎないのである
20歳がおとなと定義されているが、その定義自体、定義に定義を重ねたタダの理論なのである
地球は太陽の周りを周って一年とする
というのは定義
しかし地球が太陽の周りを本当に周っているかなんて空想でしかない
現実にわかることは目の前のものだけである
えー、寝る前にテーマの怒りに即した余計な独り言 怒りと悲しみと不安と喜びとはもともと1つのものであり 愛情と憎しみが同じものであるというのと変わらない もちろん善と悪が同じ穴の狢というものと同質のものである 怒りとは過去に想いを馳せているときであり 悲しみとは他者ではなく自身を責めるときであり 不安とは未来を想うときであり 喜びとは期待に沿ったと感じるときである 所々はしょった箇所は、ご自分で埋めてみてください
273 :
吽狛 :2007/02/01(木) 01:46:41 ID:keCVcBil
>>271 光ファイバーEOさん
そうですね、自分の目から太陽は黄色い光の塊に見えます。
というか、別に、定義云々というのは、ど〜でも良いというか・・・。ぷっ
>>272 >怒りと悲しみと不安と喜びとはもともと1つのものであり
>愛情と憎しみが同じものであるというのと変わらない
>もちろん善と悪が同じ穴の狢というものと同質のものである
そんなような話、「神との対話」とかいう本で読んだ気がする(笑)
>怒りとは過去に想いを馳せているときであり
>悲しみとは他者ではなく自身を責めるときであり
>不安とは未来を想うときであり
>喜びとは期待に沿ったと感じるときである
>所々はしょった箇所は、ご自分で埋めてみてください
何?はしょったのか・・・、それすら分からない。
もう寝るんですか・・・おやすみなさい。
274 :
Ryu :2007/02/01(木) 01:51:50 ID:E5+OuI13
「愛憎なければ洞然として明白なり」・・・「信心銘」 感情とか思考は過去に原因をたどれるけれど、原因の原因は何かとたどっていくと、 結局人類発祥とかまでたどれてしまうという意味で、これといった原因はないとも言える。 空から来て空へ帰すの。 迷いには根拠も基盤もないが、悟りには、明白な基盤、根源がある。。 ・・結局自分の目で見ろ、それが根拠よってことなんでしょう。 おいらももう寝よう。。
brownさんは怒りとか絶望ばかりを掲示板に投影しているので怨念でもあるのかと思っていたけど観念で意識されないそれらをNKしようとしてたんですね
276 :
金平糖 :2007/02/01(木) 08:34:30 ID:lPvPMbs+
Brownさん、御回答ありがとうございます。
質問者の立場ながら、私の都合で夜中のliveに参加出来ないので
御礼が遅くなりまして申し訳ありません。
>>257 >>258 >自分の怒りは,他人の怒りとか自己防衛から生じているというよりは,
>よく心を観察するならば,無力感から生じてきます
おっしゃるとおりですね。納得です。
この無力感というのは対象(他人とか社会、また自分自身)に対して
「自分が無力だと感じる」ということでいいでしょうか?
>>261 ありがとうございます。
>>263 要するに、外部世界も自分自身に対しても「今までの見方、今この瞬間の見方さえ」も疑え、
正確には、その自分の意識(心の動き)に注意を払えということでしょうか?
つまるところは、「全ては自分の意識(心)が作り上げているんだよ。」っと。
277 :
金平糖 :2007/02/01(木) 08:35:05 ID:lPvPMbs+
>>266 光ファイバーさん
「今、自分が感じている怒り」の原因を、過去の出来事(記憶)と結びつけるという意味ではなく、
「怒りの感情そのもの」の根源を探す(気づく)といったニュアンスなんです。
よくよくその原因を突き詰めてみる(内省してみる)と、それは「自分の思い通りにならない」(無力感)
ということから来ていると自覚するということです・・・・・・。
そういうことでは、光ファイバーさんが3つ目でおっしゃっているように、
>怒りがテーマに出ていますのでそれに則して書くと
>怒りを観察するにあたって、怒り自体をずーっと感じていても、怒りが増幅するだけです
>なぜ怒りが起こったのかずーっと遡ってゆけば解決へと導きます
は、同じことをおっしゃっているんだろうなと思っています。
278 :
金平糖 :2007/02/01(木) 08:36:42 ID:lPvPMbs+
>>264 Ryuちゃん
Brownさんの日本語がおかしいわけではないよ。
ただ、私もその内容(解釈の仕方)に疑問点は多々ある。
>>260 でいっているのは、究極はソクラテスが言っているような
「無知の知を知る」ってことじゃないかな。
詳しくは、brownさんに聞いてみないとわからんけど。
279 :
Ryu :2007/02/01(木) 10:03:05 ID:E5+OuI13
>>272 >怒りと悲しみと不安と喜びとはもともと1つのものであり
ぜんぶ自己愛というか、生への意思というか、
仏教で言う渇愛みたいなものから生じる。
渇愛が苦しみと喜びの原因であり、
それを滅ぼせば涅槃というのが原始仏教で言われていること。
そしてこういう喜怒哀楽は、全部時間の中にある。
そして、悟りの基盤、本質は時間を超えている。
「生死として厭うべきものなく、涅槃として乞い願うべきものなし」
・・「修証儀」だったかな?
280 :
Ryu :2007/02/01(木) 10:13:26 ID:E5+OuI13
そうそう、brownさんだけじゃなく、光ファイバーさんがどうやって悟ったか知りたい。 なんとなく、坐禅系の人のような気がするけど、ちがうのかな? 鳥のフンが頭にピトッと落ちた瞬間に悟ったとか、そういう面白エピソードを期待。。
281 :
金平糖 :2007/02/01(木) 11:11:27 ID:lPvPMbs+
>>279 >そしてこういう喜怒哀楽は、全部時間の中にある。
>そして、悟りの基盤、本質は時間を超えている。
つまり、どういうこと?感情と時間の関係がイメージ出来ない・・・・。
わかりやすく説明してくれるとありがたいでっす。
282 :
吽狛 :2007/02/01(木) 16:40:55 ID:keCVcBil
brownさん 自己観察行を続けています。 今日は、見たくなかった(というか、見ようとしていなかった) 自分の醜い、感情・思考・観念を2点見つけました。 また、死にまつわる事ですが、私は、死を受け入れられません。 人が死ぬ事が、嫌なのです。でも、頭では、分かっています。それは、そのようにしかならないと。 いくら抵抗しても、人は死ぬのです。ですが、私は、それに、抵抗している。 人に死ねと思うのも、自分が、一番嫌な事だから、嫌な事をした相手に、死ねと思っていると思います。 自分が死にそうになると、誰であろうが、心で欲しくなります。 時々、おなかが減ったり、眠い時、誰かの都合で、その欲求を満たせない時、 イライラして、その相手を死ねと思います。 相手を死ねと思うと、相手に対する感情は楽になりますが、おなかが減ったり、眠い時は、 その欲求を満たさなければ、イライラ自体は収まりません。 話は変わって、観察行の中でも、思考についてのことです。 感情の観察というのは、体感覚を伴うのもが多いので、 観察する事は、割合簡単です。例えば、 頭に血が上る怒り、背中がぞっとする恐怖、胸が締め付けられる悲しみ、 ・・・しかし、思考については、観察が困難です。 思考を観察している時、一つの思考を見ていると、次の思考が割り込んできます。 あっちにいったり、こっちに行ったり、その、左右に振られるような思考の中で、右から左に移るさい、 観察が途切れ、思考に埋没してしまいます。観察が途切れ途切れになってしまいます。 これは、どうしたら良いんでしょうか?
283 :
吽狛 :2007/02/01(木) 16:42:28 ID:keCVcBil
訂正です。 >自分が死にそうになると、誰であろうが、心で欲しくなります。 自分が死にそうになると、誰であろうが、死んで欲しくなります。
だから悟ろうと思っても悟れない。 悟った人に聞いても無意味です。 ただ般若心経だけはガチ
285 :
金平糖 :2007/02/01(木) 23:14:41 ID:lb0I+5gD
Brownさん
この板のbrownさんのレスを読んでいて、ずっと自分の中で何か
違和感を感じていたんです。
>>246 でも質問しましたが・・・・・・・。
でも、その違和感が何なのか見えてきました。
>>257 でおっしゃられている通り、いうなれば、この数日間brownさんが
語られていたのは修行法(方法論)で、かつ、世俗諦の部分。
それに対して私が論点としていたのは勝義諦(空性)の部分。
だから、ズレが生じているんだなっと・・・・・。
もちろん、brownさんはその両方に精通(体得)しておられると思いますが。
(すみません、私は、まだまだ勉強中なので、世俗諦、勝義諦について
深く突っ込まれると困ります。)
286 :
Ryu :2007/02/01(木) 23:32:25 ID:E5+OuI13
>>281 喜怒哀楽は、こういう原因があったので、喜んだとか怒ったとか、因果としてあるわけだから、
時間の中で生起する。
それに対して、意識とか仏性というものは、人間である限り、悟っていてもいなくとも、
いつでもあるわけで、永遠不変なわけです。
迷いの位相は、有為変転があるけれど、悟りの位相は、悟りっぱなし。
表面の水がドンに荒れ狂っても、海底はは常に静かなであるというたとえもできるし、
心そのものの山は動かずに、雲だけがやって来ては去っていく。
あるいは、鏡に映る像はあれこれ動いたり変わったりするが、鏡そのものの本性は変わらないとか。。
そういう風に、迷いと悟りの、あるいは感情・思考と意識の関係は説明できるでしょう。
夢想国師の歌にも同様なものがあります。
雲晴れてのちの明かりと思うなよ もとより空にありあけの月
287 :
Ryu :2007/02/01(木) 23:35:03 ID:E5+OuI13
>>286 なんか変な間違いしてるな。。
×表面の水がドンに荒れ狂っても、海底はは常に静かなであるというたとえもできるし、
○表面の水がどんなに荒れ狂っても、海底は常に静かなであるというたとえもできるし、
288 :
金平糖 :2007/02/01(木) 23:51:05 ID:lb0I+5gD
>>286 ん〜〜〜っ、深いなぁ・・・・・・。
言葉だけで理解しようとすると難しいけど、
「海」とか「山と雲」、「鏡」のたとえで説明してもらえると
イメージ出来て解り易いわ。
ありがとね。
Ryuちゃんに教えてもらった「世俗諦と勝義諦」、只今、勉強中でっす。(笑
289 :
brown :2007/02/02(金) 01:45:12 ID:nnuq4hxb
>>276 「無力感」というのは,世の中はとかく好ましくない方にばっかりにいって,
何も思いどおりにならないと思いませんか?それはそうと,そんなとき,
私は何かをなし得るでしょうか?何かぐらいならなし得るかもしれませんが,
それは十分に効果があるでしょうか?運命や死や大きな夢や,そういうこと
の前に立って,私達は本当に無力です。目の前に厳然とした事実が立ち
はだかるからです。世界は,自己の思いには全く無関心な強固な構造を
持っています。それに対して,自己が本当に効果を持ち得ることを何か
なし得るだろうか?ということです。
例えば,寝坊した日,急げば学校や会社に間に合うでしょうか?絶対に
間に合いません。
このようなわだかまりから,心の中にある種のエネルギーが生まれます。
それは対象と結びつくと,怒りと呼ばれる感情になります。このようにして
無力感は怒りの根源なのです。
この構造は,怒りが発生する全ての場合に通じています。この構造を一度
理解できると,少なくともそのメカニカルな観察行は成就します。
290 :
brown :2007/02/02(金) 01:55:36 ID:nnuq4hxb
>>276 > 要するに、外部世界も自分自身に対しても「今までの見方、今この瞬間の
> 見方さえ」も疑え、正確には、その自分の意識(心の動き)に注意を払え
> ということでしょうか?つまるところは、「全ては自分の意識(心)が
> 作り上げているんだよ。」っと。
疑えというより,世界や自分自身のあり方に対して責任を持てということです。
注意を払えということです。つまるところ,「自分自身の意識が
作り出した物などなにもない」ということです。全ての根源は外部にある
のであって,自己がそれに何かを付け足したり,差し引いたりすることは
非現実的であり,仮のものであり,無常であり,物が見えていないということです。
291 :
名無しさん@3周年 :2007/02/02(金) 02:02:17 ID:PbX+i7yn
>>284 私も般若心経が好きで、その意味について20年考えつづけたけど、最近では
ひょっとしてアレかな? という風に思ってんだけどさwww
292 :
brown :2007/02/02(金) 02:02:23 ID:nnuq4hxb
>>282 >また、死にまつわる事ですが、私は、死を受け入れられません。
>人が死ぬ事が、嫌なのです。でも、頭では、分かっています。それは、そのようにしかならないと。
いいところに気が付かれましたね。そうなんです。「死は受け入れられない」
んです。それから,それは「そのようにしかならない」んですね。
この,運命と運命否定なるもの,この二つが観察行の非常に重要なポイント
です。
つまり,あらゆる心の観察において,この二つは見出されるでしょう。
どうしても否定できない現実と,その現実を否定している私です。
頭で分かっていることに価値はありません。現実認識と自己理解に価値が
あります。全ての瞬間にこの二つの認識が働くと,よりいっそう深い部分に
触れることが出来るようになります。
293 :
brown :2007/02/02(金) 02:14:38 ID:nnuq4hxb
>>282 > 思考を観察している時、一つの思考を見ていると、次の思考が割り込んできます。
> あっちにいったり、こっちに行ったり、その、左右に振られるような思考の中で、右から左に移るさい、
> 観察が途切れ、思考に埋没してしまいます。観察が途切れ途切れになってしまいます。
> これは、どうしたら良いんでしょうか?
今すぐに,全ての経験を分析する必要はありません。そのとき,最もよく
分析すべき心の働きがあるはずです。どのようにそれを選択するかは説明
しにくいことですが,思考でも感情でも,最も醜い部分,最も見たくない部分,
最も強い部分,などの感じで選択していくと大体正しい選択になるでしょう。
ある瞬間の心の働きの観察を,1週間かけてやってもよいのです。
ただ,「思考」という表現で何を指しているかにも依りますが,通常,
思考よりも感情の方を分析する方が重要です。
294 :
brown :2007/02/02(金) 02:22:48 ID:nnuq4hxb
>>282 それからもう一つ。このスレで,「怒り」をサンプル例として取り上がって
いますが,怒りやイライラというものは,クリアするのが少し難しいんですね。
できれば,愛着とか,愛情,好き,欲しい,離れたくない,失いたくない,
死にたくない,などの方面の心の方が修行の進歩が早いでしょう。
怒りの方が愛着よりも,外的契機に左右される部分が多いからでしょう。
怒りより,さらに分かりにくいイライラなどというものは,もっと取り組み
にくいものです。
295 :
brown :2007/02/02(金) 02:30:47 ID:nnuq4hxb
怒りやイライラに対する処方箋はあるのですが,それを習得してしまうと, 怒りやイライラが消えてしまうので,むしろそれを悟るチャンスが失われて しまいます。正しい解脱のための唯一の道は,あらゆる心のメカニズムを 完全に知ることです。知ることは,経験することの中にあります。 つまり,現実に怒るからこそ,現実的に価値のある智慧が生まれるからです。 それに対し,瞑想的な精神機能の中に逃避しては,それを成し遂げる ことは出来なくなってしまいます。
296 :
brown :2007/02/02(金) 02:58:20 ID:nnuq4hxb
>>285 284に知ることが唯一の道と書かれていますが,実際には,偶然何かのショック
で空性を体験したり,本人もよく分からないところで自我がすとんと落ちたり
することはあるのです。また,ある種のドラッグによってそれを体験すること
ができるといわれていますし,断食などの苦行や坐禅修行や公案に取り組むことに
よって体験することができるといわれています。それを体験するのは,多くの
登山口があると知られています。
それ故に,まず,勝義諦がきて,次に,世俗諦というより本質的な問題に
取り組んでいくのだ,というようなことが言われるようになったのです。
しかし,怠ることない観察行によると,勝義諦と世俗諦は同時に生じて
きます。別の言い方をすると,輪廻と涅槃は同時に認識されるのです。
空性と相互依存性といったほうが分かりやすいかな。それは分け隔てられて
説明されていますが,それらが同時に現前するのが正しい解脱です。
というのは,観察行は,何か超越した空性を求める方法ではなく,自己と世界の
本質に取り組んだ結果,その逃げ場のない認識が,その空性を悟ったときにも
冷徹な知性によって把握されているからです。なぜなら,自己と世界のあり方に
責任を持っているからです。
297 :
Ryu :2007/02/02(金) 03:53:14 ID:YOkkIIe6
>>296 >それは分け隔てられて 説明されていますが,
そんなことないんじゃないですか。般若心経なら「色不異空 空不異色」とありますから。
>というのは,観察行は,何か超越した空性を求める方法ではなく,自己と世界の
本質に取り組んだ結果,その逃げ場のない認識が,その空性を悟ったときにも 冷徹な知性によって把握されているからです。なぜなら,自己と世界のあり方に
責任を持っているからです。
そうなのかなあ?
僕の感覚だと「逃げ場のなさ」とか「どうしようもなくこうある」ということが空性であって、
それの認識は同時に無我の認識ですから「責任」もない気がするんです。
つまり、究極諦のみになってしまう。
しかし、それでいて、社会人の責任とか人間関係もけいげなくまっとうするのが仏なんじゃないかな、
と思う今日この頃なんですが、いかがでしょう?
brownさんの意気込みとか真摯さには同意だけど内容的にはたとえば涅はんと輪廻のところについては本当なの? その方法論も医学的に自然なやりかたかどうかも疑問があるんだけど本当にいつも自然体になれるの? 空性もなんのことかわかんない。空性て超越視されるべきものなの? それとソクラテスは死を楽しみにしてたよ もちろん共感するんだけど このスレでは死そのものではなく、外的契機の死への恐れと考えればいいのかな
299 :
Ryu :2007/02/02(金) 04:13:47 ID:YOkkIIe6
>>282 >・・・しかし、思考については、観察が困難です。
思考を観察している時、一つの思考を見ていると、次の思考が割り込んできます。
あっちにいったり、こっちに行ったり、その、左右に振られるような思考の中で、右から左に移るさい、
観察が途切れ、思考に埋没してしまいます。観察が途切れ途切れになってしまいます。
これは、どうしたら良いんでしょうか?
僕が答えて申し訳ないですが、思考は、思考しながら同時に観察するということはできません。
なぜなら、思考しているときには、思考対象を意識しているので、思考そのものは意識されないからです。
大事なのは、「思考とは何か」というその本質を知るということなんですね。
感情も観念も細胞の性質とか葉脈的つながりによるものだから 感情とか観念というものは''おのずから''に任せるのがよいと思う 観察した結果の理論のみ、作り替えたり構築してもよいと思う
301 :
名無しさん@3周年 :2007/02/02(金) 05:21:43 ID:RuUwnYPe
302 :
吽狛 :2007/02/02(金) 08:45:56 ID:YRttGY6X
brownさん レス、有難うございます。忙しいところ、申し訳ないです。 >思考でも感情でも,最も醜い部分,最も見たくない部分, >最も強い部分,などの感じで選択していくと大体正しい選択になるでしょう。 >ある瞬間の心の働きの観察を,1週間かけてやってもよいのです。 はい。死について、引き続き心の動きを観察しました。 私は、自分が死にたくない、誰かに死なれたくないのは、何故だろうと思いました。 初め、死が悲しいのかと思いました。それもありますが、少し違いました。 簡単に言うと、こうです。 私の宇宙。私のものです。それが失われるのは、私には不条理に思えます。 しかし、私を傷つけたり、私を死に追いやろうとするものには、 消えていただきたいです。しかし、それすらも、私のものとして、とって置きたい。 消えて欲しくないのです。 そして、現実には、私のものではないです・・・全ては、失われてしまい、損なわれてしまいます・・・。 死があります。病気があります。別れがあります・・・。 受け入れられないのです。心をもぎ取られる感じです。 >ただ,「思考」という表現で何を指しているかにも依りますが,通常, >思考よりも感情の方を分析する方が重要です。 はい。私にとって思考は、心の声です。頭の中の映像も混じります。 当分、感情が沸き起こった時、それにまつわる、感情や思考を観察することにします。 しかし、私は、あまり、外界と関わりのない生活を送っていますので、 分かりやすい感情自体が、発生しにくいです。いつも、微妙なものなので・・・。 それで、日常生活で、感情を観察していると、目の前の仕事が疎かになってしまうのですが、 これは如何にしたら良いでしょうか?
303 :
金平糖 :2007/02/02(金) 09:23:02 ID:csKFkeCU
Brownさん、やはり私にはbrownさんの見解にはズレが生じてしまいます。
前回、「無力感が怒りの根源」ということに同意はしましたが、正確には、もう一歩踏み込んだ観察が必要です。
>>289 >このようなわだかまりから,心の中にある種のエネルギーが生まれます。
>それは対象と結びつくと,怒りと呼ばれる感情になります。このようにして
>無力感は怒りの根源なのです。
Brownさんのおっしゃる「心の中にある種のエネルギー」とは何でしょうか?
「そのエネルギー」は、無力感に「抵抗する自己」(自己防衛)が引き起こしているのです。
自己防衛するのは自我(プライド)を守るためです。自我を守ることそのことがプライドともいえます。
無力感を無力感として「自己が認めれば」(プライドを捨てれば)怒りを静めることは出来ます。
逆に言えば、自我(プライド)がなければ「そのエネルギー」は生じないし、怒りの感情もおこりません。
>>296 >というのは,観察行は,何か超越した空性を求める方法ではなく,自己と世界の
>本質に取り組んだ結果,その逃げ場のない認識が,その空性を悟ったときにも
>冷徹な知性によって把握されているからです。なぜなら,自己と世界のあり方に
>責任を持っているからです。
自己と世界を分けて考えて本質が理解できるのですか?
仏教では「空」(主客未分離)が本質なのではないですか?
「空」が前提にないと仏教は語れないのではありませんか?
それはちょうど、キリスト教者が「神」を前提にしないとなにも始まらないと同じように・・・・・。
304 :
金平糖 :2007/02/02(金) 10:07:23 ID:csKFkeCU
Brownさん、前後して、申し訳ありません。
>>290 >疑えというより,世界や自分自身のあり方に対して責任を持てということです。
>注意を払えということです。
もちろん、ここでいう「責任」とは俗世間でいう「責任」とは違うと思いますが、
ん〜、そもそも自分が責任を持つ必要があるんでしょうか?
「空」なのだから、責任という認識すらもないというか・・・・・。
>つまるところ,「自分自身の意識が 作り出した物などなにもない」ということです。
>全ての根源は外部にある のであって,自己がそれに何かを付け足したり,差し引いたりすることは
>非現実的であり,仮のものであり,無常であり,物が見えていないということです。
では、「全ての根源は外部にある」という定義は、どこにあるのですか?
それは自分の意識の中にあると思いますよ。
305 :
金平糖 :2007/02/02(金) 10:46:11 ID:csKFkeCU
>>304 つづき
>つまるところ,「自分自身の意識が 作り出した物などなにもない」ということです。
>全ての根源は外部にある のであって,自己がそれに何かを付け足したり,差し引いたりすることは
>非現実的であり,仮のものであり,無常であり,物が見えていないということです。
↓
つまるところ,「自分自身の意識が 全て作り出した物である。」ということです。
全ての根源は内部にあるのであって,自己が外部に何かを付け足したり,差し引いたりするので 、
非現実的であり,仮のものであり,それが常であるから,物が(本質が)見えていないということです。
と言ったほうが意味が通りませんか?
全ての人間の性格、考え方、五感、好き嫌いの感情、優越感、等 また、宇宙、太陽、海、山、男、女、電波、空間、時間、距離感、速度感、等 ありとあらゆるものは全て仏性が変化して、できたものである。 世間虚仮、唯仏是真。
307 :
Ryu :2007/02/02(金) 12:45:19 ID:YOkkIIe6
>>305 心を考える時は、PCのハードとソフトのように、何でも入れることのできる心そのもの、
何でも映し出す意識それ自体と、その心に映し出される現象と、それに対する思考・感情とを分けて考えた方がいいんではないでしょうか?
心そのもの(ハード)と、それに映し出されるもろもろの現象(ソフト)とのかかわりを考えれば、
ハード自体は不変で、何も作り出すことなく、外界との相互作用の中で、いろいろ映し出したり処理したりということになる。
心をハードとすればbrown氏の見解でOKなんだけれど、心をソフトととれば、
金平糖さんの見解の方が正しいというふうになる。
悟りと迷いの話をすれば、ハードが本質ですから、こっちをよく知り悟る必要がある。
ですが、ソフトの働きを無視することもできませんから、心の内容も大事です。
光ファーバーさんがEOスレでチラッと言ったのは、心に映し出される内容がどんなに変わっても、
心自体(ハード、もしくは鏡そのもの)でもいいですが、は、いつも変わらないし、そこに視点を置けば、
一歩も心自体は動いていないかのごとくであるということです。
308 :
Ryu :2007/02/02(金) 12:48:36 ID:YOkkIIe6
>>306 いいですね。本質がわかれば、全ての本質は仏であると。。
309 :
Ryu :2007/02/02(金) 12:56:15 ID:YOkkIIe6
310 :
金平糖 :2007/02/02(金) 12:59:55 ID:csKFkeCU
>>309 Ryuちゃん
リンク先、既に格納庫入りで見れない。(泣
手間かけて悪いけど、本文コピペしてくれへん?
311 :
Ryu :2007/02/02(金) 13:00:55 ID:YOkkIIe6
>>309 なんかリンクの張り方間違えてるっぽいな。。
914の書き込み。。
312 :
Ryu :2007/02/02(金) 13:04:25 ID:YOkkIIe6
>>310 895 :迷い人 :2007/01/23(火) 02:25:10 ID:DQoZUr3v
考えようと、じたばたせずに、
金平糖さんや光ファイバーEOさんの文を読んでいて
ふと、部屋の中で人がルームランナーで走ってるイメージが湧いた。
人は走ってるんだけど止まってるみたいな(謎)。
誰か上手く説明して(><)。
914 :光ファイバーEO :2007/01/24(水) 01:00:17 ID:aKWW5bpC
>>895 > 人は走ってるんだけど止まってるみたいな(謎)。
心に映した世界しか見れないわけですから、
本当は一歩たりとも動いちゃいない
とゆーこと
313 :
金平糖 :2007/02/02(金) 13:16:43 ID:csKFkeCU
>>312 ありがとね。
つまり、自分は鏡本体に徹していれば、そこに何が映ろうとも鏡は鏡。
変化は無いぞ、ってことでしょ?
>>307 >心を考える時は、PCのハードとソフトのように、何でも入れることのできる心そのもの、
>何でも映し出す意識それ自体と、その心に映し出される現象と、それに対する思考・感情
>とを分けて考えた方がいいんではないでしょうか?
私、分けて考えていたつもりだけど、そうじゃなかった?(笑
314 :
名無しさん@3周年 :2007/02/02(金) 13:18:48 ID:Y89rPYqB
妻沼の中村裕子はあまりのキモチワルさにギョウ虫女と呼ばれ、シャレで自殺してみたら体液ダラダラ垂れ流し状態だったらしく死んだことすらキモチワルかったんだってw バケモノ裕子、ざまぁみろww 死んだことすらインチキーwww
315 :
マツリ :2007/02/02(金) 14:32:28 ID:rU5LPOM+
このスレッドで悟られてる方は、 brownさんと光ファイバーEOさんですか? 興味本位での初歩的な質問なんですけど、 悟りを開く前と、開いた後の、心の変化を知りたいんです。 日常生活や仕事場での人間関係に変化などありましたか? 急に行動的になったとか、誰とでも話せるようになったとか、 怖いものがなくなったとか、色々あると思うのですが。 悟ると、過去の記憶なんかはなくなってしまうのかなぁ? 良かったら聞かせてください。
316 :
Ryu :2007/02/02(金) 15:09:01 ID:YOkkIIe6
>>313 >つまり、自分は鏡本体に徹していれば、
うーんと・・何もしなくても、鏡としてあるのはそうなんで、徹する必要もないんだけれど、
鏡のようであるという認識はあったほうがいいと思う。
けど、ホントは鏡というのはたとえであって、実際にはものを見るとき、
そのものしかないんですよね。鏡なんて探しても見つからない。
「心は鏡のごとし」というのは、心の性質を認識した上で、言われるたとえ話。
だから、そのたとえにこだわりすぎても邪魔になってしまう。
空は青いし、雲は白いし、梅の花も咲き始めた。。
これ以上なにが必要なのだろうって思う時もある。
さっき外を歩いていた時、それ以外いらないじゃんって気がしたよ。。
317 :
金平糖 :2007/02/02(金) 15:27:51 ID:kRuMEhzr
>>316 >空は青いし、雲は白いし、梅の花も咲き始めた。。
>これ以上なにが必要なのだろうって思う時もある。
>さっき外を歩いていた時、それ以外いらないじゃんって気がしたよ。。
そういうこと、そういうこと。(笑
318 :
Ryu :2007/02/02(金) 15:36:57 ID:YOkkIIe6
>>315 >悟りを開く前と、開いた後の、心の変化を知りたいんです。
ぼくも同感。
ついでに、鼻唄うたったり、思い出し笑いしたりするのかも知りたい。。
オイラはしょっちゅうだけど。。
319 :
馬渡 :2007/02/02(金) 17:29:56 ID:1Xt9zv8P
>>305 金平糖さん
行法と本質論がゴッチャになってる気がします
現実の観察行においては主体は認識されません
心に生じるものも含め、知覚対象はすべて外的と言うことが出来ると思いますが
その知覚対象の生滅を見ることの向こうに空性の知覚があるんでしょう
Ryuさんの言葉を借りれば
悟りの位相から迷いの位相を語る人と
迷いの位相から悟りの位相を語る人のズレかも?
まあ、内外の区別は重要じゃないかもしれません
320 :
金平糖 :2007/02/02(金) 18:04:22 ID:9z/S+nRK
>>319 馬渡さん
レス、ありがとうございます。
>行法と本質論がゴッチャになってる気がします
そうなんですか・・・・・。自分でも混乱してしてきました。(笑
馬渡さんは、悟りの経験があるんですか?
321 :
般若心境&静座の辞 :2007/02/02(金) 19:21:29 ID:ZS15JpFB
人はおろか、生物、生命というものは、常に何らかの情報をとりいれ、 それにたいして出力しているように見えます。しかし、これこれはいい情報、悪い情報と とりたてて選別することができないのが現実です。尚更適用も強いてできません。 ところがです・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・ 悟りはなんの印象も残さないのに、悟りは合成され得るのです。かように合成された悟りは 何の印象ものこさないはずの悟りを生みます。 さて私は何が言いたいのでしょう?延々と繰り返す悟りは実は一回こっきりなのです。 それが禅の本質であり、悟りの全容性なのです。 それを知ってあなたは励むでしょうか?それとも堕落するでしょうか? 答えはNONです。舎利子よ。あなたは悟りを特化するかするべきでないかで相談しています。 また考えています。それが全てです。
322 :
般若心境&静座の辞 :2007/02/02(金) 19:56:30 ID:ZS15JpFB
>>315 まつりさん
さとりとは期待どおりのうらぎりなのです。
一方祭りとは期待どおりの同意なのです。
さとりもまつりであり、まつりもさと
りなのですからして、人生は定方向
なのです。いかんともしがたく
だからして、たまには裏ぎる
のです。1にして1を語
れず、1にあらずして
1を語り、それが宗
教や哲学にあずけ
られあとは数学
の問題なの
であり
ます
の
よ
323 :
Ryu :2007/02/02(金) 20:30:18 ID:YOkkIIe6
>>322 >1にして1を語
れず、1にあらずして
1を語り、それが宗
教や哲学にあずけ
られ
そう。
本来1しかないものを、
求めたり考えたりするから分裂するように見える。
1である時、1は1を意識せず、求めることもない。
しかれども、1にありながら、あえて1を語る者もいるのでは?
324 :
般若心境&静座の辞 :2007/02/02(金) 20:35:58 ID:ZS15JpFB
裁判所にて、はじめて裏切られていたと気づく人の、あの驚いた顔。 鳥の糞ならずとも、法廷の鐘で悟る人もいるのです。
325 :
トトロン :2007/02/02(金) 20:43:31 ID:f2gCaeTu
>>315 ご指名の人ではないけど,悟りではないと思うけど,心の探求の結果変な
経験をしたことはある.
>>313 のように自分は鏡本体に徹して心の探求をし
ていたのだけど,ある日突然,心が反転した.入れるはずのない心の鏡に入っ
てしまって心も体もおかしくなった.もう二度と元に戻れない恐怖でいっそ
殺して欲しいとさえおもったし,色んなものが,見えたり聞こえたりした.
自分が,発狂せずに生き延びて,今はまともに生活ていられるのは,母が
霊能力者であったおかげで,ただの精神病を患っただけだと見なかったこと
に救われたと思う.今は幸せだす.分からんが,他の人も,「悟った」と
呼ばれる状態になった時に,自分と同じ苦しみが発生するのなら他人事では
ない.もしそのような状況のときに誰か信頼し理解してくれる特殊な能力者
がいないと,道に迷う可能性があるよ.
326 :
般若心境&静座の辞 :2007/02/02(金) 21:03:46 ID:ZS15JpFB
果たして抽象的な誘いはあるのでしょうか? 文章を見て迷うのは一定の効果です。 考える時機には相当しないのが常だと思ったほうがよいようです。 常に迷いと言うのは大きな一枚岩だと言う結末です。>>315 315はどうか知りませんが、答えは1に帰すのですから。
327 :
Ryu :2007/02/02(金) 21:47:44 ID:YOkkIIe6
なんか2ちゃんは、やっぱ魑魅魍魎がよく出るね。。 エネルギー的に敏感なおいらには、ちょっとこっちの板はきついところがある。 EO板はマニアックだったから、見る人が少なかくてよかったのかもしれない。 というわけで、しばらくオイラは、ロムにまわるよ。 なんかの拍子にまた書き込むかもしれないけれど、しばらくは、おさらば。 みなさん、さよならん。。
328 :
金平糖 :2007/02/02(金) 23:22:18 ID:r4Wikpo2
329 :
マツリ :2007/02/02(金) 23:23:38 ID:ETAPEzbw
>>322 般若心境さん
レスありがとうございます☆
ワタシはむつかしい事は分らないんですけど、
ただ単純に
>>318 でRyuさんがおっしゃってる様な
悟った人の日常話をワタシも聞きたいんです。
普通の人と悟った人との違いとでも言うのかな。
全く病気や便秘をしなくなって肌が奇麗になったとか、
仕事場で皆が残業してても平気で帰れるようになったとか(笑)。
悟った人の日常なんて聞く機会全然ないし。
別にそれをワタシが聞いて、悟りに変な期待を抱いて、
悟りを求めようなんて全然思ってはいないので。
ほんと軽い雑談として答えて頂けたらなぁって思います(^^)。
>>325 トトロンさんの体験は凄く怖そうですね。。。
色んなものが,見えたり聞こえたりって
具体的に何が見えたり聞こえたりしたのか
ちょっと興味ある。
330 :
トトロン :2007/02/03(土) 01:25:13 ID:gNqBTQuh
331 :
brown :2007/02/03(土) 01:40:43 ID:l6lTtulO
>>302 >しかし、私を傷つけたり、私を死に追いやろうとするものには、
>消えていただきたいです。しかし、それすらも、私のものとして、とって置きたい。
>消えて欲しくないのです。
そうです。貴方の心は醜いのです。それが如何に醜く,汚らわしく,嫌なもの
であるかを徹底的に追求してください。
>そして、現実には、私のものではないです・・・全ては、失われてしまい、損なわれてしまいます・・・。
>死があります。病気があります。別れがあります・・・。
>受け入れられないのです。心をもぎ取られる感じです。
そうです。心をもぎ取られる感じがします。心の中に洗濯機があって,ぐちゃ
ぐちゃにかき回されてる感じがします。生きるとは,全てを奪われることです。
何もかも,望ましいもの,望むもの,残しておきたいもの,これらは残酷に
奪われていくことを知る必要があります。そしてそれを受け入れられない自分
をもよく知る必要があります。この,運命と運命否定なるもの,これが,重要
な心の観察のほとんど全ての原型です。それは愛というプラスの心と,怒り
というマイナスの心のほとんどに通じています。
332 :
brown :2007/02/03(土) 01:51:06 ID:l6lTtulO
>>302 >はい。私にとって思考は、心の声です。頭の中の映像も混じります。
そのような思考は観察に値するものもあります。
>分かりやすい感情自体が、発生しにくいです。いつも、微妙なものなので・・・。
感情や心の動きを待つのではなくて,捕まえに行くことが必要です。
微妙なのは,自我が防衛線をはって,見えにくくしているのです。それに
だまされないように,自我を欺いて,盗み見なければなりません。
自我が決して見て欲しくない,奥深い心をはっきりと知る必要があります。
>それで、日常生活で、感情を観察していると、目の前の仕事が疎かになってしまうのですが、
>これは如何にしたら良いでしょうか?
本当に解決に至るためには,最初のうちはともかく,最終的に仕事などほとんど
手につくはずがありません。少なくとも,2ヶ月くらいはほとんど何も手に
付かない最終的な期間を要します。
333 :
brown :2007/02/03(土) 02:04:24 ID:l6lTtulO
>>303 >「そのエネルギー」は、無力感に「抵抗する自己」(自己防衛)が引き起こしているのです。
>自己防衛するのは自我(プライド)を守るためです。自我を守ることそのことがプライドともいえます。
>無力感を無力感として「自己が認めれば」(プライドを捨てれば)怒りを静めることは出来ます。
>逆に言えば、自我(プライド)がなければ「そのエネルギー」は生じないし、怒りの感情もおこりません。
2つあります。
1つは,分析結果,心のメカニズムの詳細はどうでもいいということです。
自分が信じたそのメカニズムが正しいと思っておればそれでよいのです。重要な
ことは,本当にそう信じているのか?それは自己のより正しい信念からくる
理解なのか?それをどこかで疑っている自分はいないか?ということです。
他人に正しいかどうかを確かめるのではなく,まして他人の理論との違い
を追求するのではなく,自分自身で確かめてください。それを本当に信じて
いるのかと。
答えを予め言っておきましょう。正しい心を持っている者が,本当に正しい
と最終的に信じることができる見解など,いつまでも見出すことはできない
でしょう。したがって,探求は無限に続きます。それが思考の本質です。
だからこそ,そのような分析修習は解脱に導くのです。
334 :
brown :2007/02/03(土) 02:09:26 ID:l6lTtulO
>>303 もう一つは,「・・・がなければ・・・は生じないし、怒りの感情もおこり
ません」というところが間違っています。怒りが生じないということはありえ
ないし,単に頭が呆けただけなのです。あるいは覚醒時にも感情が寝ている
のでしょう。要するに,忘却しただけです。
確かに,山を乗り越える一つの方法は,山を迂回することです。そして,
その方が賢く,効率的で,スマートです。
しかし,私はいかなる山でもきっと一人登りきります。
それは,私には,あなた方のうち,誰にも負けないプライドがあるからです。
335 :
brown :2007/02/03(土) 02:19:21 ID:l6lTtulO
>>305 >つまるところ,「自分自身の意識が 全て作り出した物である。」ということです。
>全ての根源は内部にあるのであって,自己が外部に何かを付け足したり,差し引いたりするので 、
>非現実的であり,仮のものであり,それが常であるから,物が(本質が)見えていないということです。
そうではありません。心は空しく,内部には何もありません。自分自身が作り
出したものなどなにもないのです。しかし,外部にはありありとした実在が
あります。自分自身により,作り出した空しい世界など何もないのです。
そこに咲く花のけなげさ,鳥の可愛さをごらん。彼らは私が何も助けずとも
勝手に咲き,勝手に歌う。すばらしいじゃないか。私が何も思い計らった
訳でもなく,見たらそこに咲き,聴けば可愛く歌っている。本とによい。
ああ,よい。ありがとう。いや礼をいうまでもないか。頼んだわけでもなし。
とにかくよい。結構,ケッコウ。礼じゃないがありがとう。
brown君 sageてくれ 君の書き込みを見た同類が寄ってくるだろが コンペイ君もsage入れないと
覚者になったそうだが、 次はそれを忘れましょー 登った山はいつかは下りなきゃ 凡人は覚者になりたがるが 覚者は凡人になりたがるもの 解かってしまったら(解かったつもりになったら) お次は全て忘れましょー 何も知らないが如く
そもそも覚者ってのがありえない そもそもが解脱者ってありえない 悟ったらそこに悟った者はいない 解脱に解脱した人という者はつかない こんなこともわからんか
339 :
金平糖 :2007/02/03(土) 02:43:53 ID:yMRMbPPo
Brownさん、レスありがとうございます。 そうですか、そんなにもあなた様のプライドを傷つけたとは 気がつきませんでした。申し訳ありませんでした。 でも、お陰様で、「あなたが解脱者である。」という私の幻想が きれいに取り払われたので心から感謝いたします。 ありがとうございました。 ニワトリは嫌いなので、私の大好きなウグイスで。 ほっとけ、ほっとけ、ほうほけきょ〜〜〜〜〜〜〜。
340 :
金平糖 :2007/02/03(土) 02:53:06 ID:yMRMbPPo
341 :
吽狛 :2007/02/03(土) 03:13:57 ID:6HZATu/J
>>331 brownさん
レス有難うございます。
今は・・・自分の心の醜さを、見たいような、見たくないような、そんな気持ちです。
>>332 >そのような思考は観察に値するものもあります。
思考を観察していると、思考を観察している視点の方から、次の思考が始まってしまいます。
思考の尻だけを観察しているような感じです。
視点を、次から次に変えて見ても、漠然とした観念の様な言葉になっていない思考になるだけで、
結局、観察することが出来ませんでした・・・。
>本当に解決に至るためには,最初のうちはともかく,最終的に仕事などほとんど
>手につくはずがありません。少なくとも,2ヶ月くらいはほとんど何も手に
>付かない最終的な期間を要します。
そうですか・・・・。困りました。
しかし、自分なりに、二ヶ月間、自分の心を盗み見るように観察行を続ける事にします。
その間に、何か疑問が出てきたら、質問しに来るかもしれませんが、
その時は、また、よろしくお願いします。
今のところは、見栄を張って、嘘をつかなくてはいけなくなるかもしれないので、
心の醜い部分をここに書くのはやめておきます(汗
丁寧な返答、有難うございました。
342 :
馬渡 :2007/02/03(土) 05:21:58 ID:dHRSqA4v
なんだかひどく話が入り乱れて内容が混乱してきましたねえ
不思議な展開もチラホラ・・・ゆうこりんでも来てるのか?
>>320 質問の意図に普通に答えるなら、ボクはそこらへんに転がっている凡人中の凡人ですよ
また、もし仮に一瞥があったにしてもそれは経験とは呼べないでしょう
>>339 余計な横レスですが、どこかで文脈を読み違えているように見えますよ
それとも、覚者に見える人の言葉のはざまで揺れ動いているのかな?
brownさんの説明は以前読んだクリシュナムルティの内容にとても近いですねえ
完全コピーなのかハタマタ実際に見出したのかホントのところは知る由もない
これはある意味クリシュナムルティにも言えることですけど
ただ、ちょっとbrownさんは臨機応変さがないような印象も受けます
例えば、ちょくちょく出てくる「責任を持つ」というくだり
この言葉は一人歩きすると非常に曖昧でわかりづらい言葉です
でも、この言葉が最初(
>>290 )に出てきたときには
「責任を持つ」と「注意を払う」を同列に並べてありましたね
無責任さと不注意の背後にある同質のものを喝破していると思いました
母が子に責任を持つのも子に注ぐ眼差しがあってこそですから
おっともうこんな時間
343 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 05:54:42 ID:88NLkB+f
クリシュナムルティの名が出ているので書き込みますが、 ここには、頭の中がカラッポになり思考が止まり、 全てのものが同一価値になるあの視点だけのような 完全にクリアーな状態を経験をされた方は、どのていどいらっしゃいますか? こう言えば、同じ経験を持たれた方ならピンとくると思いますが。
344 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 11:37:07 ID:XTNkqN5x
私のコテが決定しました。どうぞよろしゅう。 重ねがさね、下着を履くのは寒さしのぎではないはずです。 ちょっと得した気分になるためなのです。 あらゆる権威は物語のうちになりたっています。 そう尼僧物語です。パンダのうちにはたいてい尼僧が 入っているのです。
345 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 11:40:04 ID:XTNkqN5x
悟れば尊しわが身の恩 願いはつきぬけ 尼のごはん 世界はたまさか、ねぎの御霊 味噌汁まぜまぜ ごはん甘し
346 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 11:44:37 ID:XTNkqN5x
アバンチュールな恋 だけどあなたは猫、猫 わたしあたしと猫♪ 犬もてあそべばサル、サル 君は猫の子侍 人は人でも遊戯三昧、蟹味噌!ウッ 斬れば子猫と引越し♪ メロディをつけて楽しんでくださいネ
347 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 11:55:35 ID:XTNkqN5x
女 悟ればレバレバ?♪ 男 出家の反対家出かな?♪ 女 わたし一人になっちゃうの〜♪ 男 きみはおでんの卵さ 女 わたしわたしわからない〜♪ 男 しみた汁こそミリンさぁ 女 クリスチャンで浸してねぇ 男 クリシュナムルティでもいいのかなぁ♪ 男 腋誰、腋ダレ、世間がしみてる女は 女 なにがしみてる、たれ!たれ 男女 二人でぇ〜〜♪たれをつくろぉ〜〜〜〜 パパヤパパヤパパヤパ!♪ジャアアアアン
あんまり変なこと試みてないほうがいいですよ 普通を卑しい見下し方をするようになるだけだから 人に認められたい孤独な廃人
349 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 15:36:31 ID:XTNkqN5x
灰汁飲み干したな。おめぇ うまかったか? うん。おいちかった。よしよし
350 :
理解不能松 :2007/02/03(土) 15:46:26 ID:XTNkqN5x
小さな子供にかえってわたしの 甘い旨にあまえてぇ〜〜〜〜 この街は戦場だから男はみんなきづを負った戦士 どうぞ〜〜こころの痛みをぬぐってぇ
351 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 15:55:08 ID:XTNkqN5x
廃人とはなんだちみ。
352 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 15:56:31 ID:XTNkqN5x
348きみにはまだまだ 思考の余地をあたえてやろう
名無しさげの根暗番人
354 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 16:03:57 ID:XTNkqN5x
「ゴキブリみたいにパソコンじっとみはっとれw」
355 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 16:05:27 ID:XTNkqN5x
おまえら思考的にふたされてるのと違うかなぁ・・・
356 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 16:10:51 ID:XTNkqN5x
2ちゃんねるっていうのはだなぁ。 レスあたりかねもらって雇われている奴がいて 多数派工作をしてるんだよ。 しらずしらずのうちに、疑心暗鬼になって攻撃するように なるもんだ。人は暗示の動物だからな。見ない振りしても 脳に残るようになっている。だから宣伝は金かけてでもやる。 そういうもんだ。
357 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 16:17:17 ID:XTNkqN5x
世間でとうらんもんはパソでもとおらん・・・・・・ なにがか考えておケば?
358 :
名無しさん@3周年 :2007/02/03(土) 16:26:54 ID:XTNkqN5x
酒でものんでねるか・・・ 起きているっていうのは空しいことだ・・・
トレビアン
360 :
金平糖 :2007/02/04(日) 15:08:39 ID:9VVSt1CG
>>342 馬渡さん
あはたは、すべてをわかている方のように、少なくても「この私」には感じます。
言葉、文章・・・・・・・・・、「言語」というものは難しいですね。「言語の限界」というものをつくづく感じます。
言葉少なで申し訳ありません。でも、あなたにも感謝しています。
ありがとうございました。
もし、気が向いたら、・・・・・・・・・・へお越しください。(笑
361 :
名無しさん@3周年 :2007/02/04(日) 18:25:25 ID:KbihTvqW
age
時には始まりも終わりもない
363 :
名無しさん@3周年 :2007/02/04(日) 18:26:52 ID:KbihTvqW
/
364 :
名無しさん@3周年 :2007/02/04(日) 18:32:15 ID:KbihTvqW
あげ
365 :
金平糖 :2007/02/04(日) 18:55:50 ID:+7jx1q8Z
>>361-
>>364 君はあっちの板にいた人だな。
言いたいこと(書きたいことこと)があるなら、きちんと意思表示を示しなよ。
無意味なこと書き続けるのは、結局は自分自身が苦しくなるだけだぞ。
ここを見ている人(書き込みしている人も、ロム専の人も)は、みんなそれがわかっているから
あなたの書き込みに誰も反応しない。
以上
366 :
金平糖 :2007/02/04(日) 18:57:16 ID:+7jx1q8Z
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕 警視庁防犯課 二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
反応の種類から 中身が類推できる
369 :
名無しさん@3周年 :2007/02/08(木) 21:05:12 ID:G5saGJie
香水ー◎不要(かざり)ーーーーーーーーーーーー○正解ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー許 ーーーーーーーーーーーーーーー●ーーーー不可ーーーーー>>くさい
370 :
名無しさん@3周年 :2007/02/08(木) 21:08:04 ID:G5saGJie
すなわち、におう においをとるため、+におう 加藤諦三をよんでも無意味だが読む。そのまえに・・・
371 :
名無しさん@3周年 :2007/02/08(木) 21:10:42 ID:N6XcP81n
加藤さんの本 感情を出した方がこのまれる オススメ
372 :
名無しさん@3周年 :2007/02/08(木) 21:11:39 ID:G5saGJie
+「 」よんでも無意味だが読む 3d眼鏡で・・・・・・・ああ無常、無情
373 :
名無しさん@3周年 :2007/02/08(木) 21:18:23 ID:G5saGJie
この世に勝者はいない。
374 :
brown :2007/02/09(金) 01:48:33 ID:FdRHSxbE
迷いの原因は,「物事に実体があると誤認することによる」と説明している 人は,よほど「物事に実体がある」と思い込んでいるのであろう。 もともと物事に実体などないのに。 そもそも「実体」とは何か?それは永遠不滅・恒常不変の物事の基盤,源, 絶対的境地であると言える。そのようなものがあると誰が思うのだろう? おそらく,「物事に実体があると誤認することが迷いなのである」と説明 している人のみがそのような認識を持っているのだろう。
物には實體はあるのでは? 事にはないです
376 :
brown :2007/02/09(金) 01:54:24 ID:FdRHSxbE
迷いの原因は,「自我があることによる」と説明している人は,よほど 自我に問題があるのであろう。 もともと自我に問題などないのに。 そもそも「自我」とは何か?それは今ここにいて,昨日もいて,明日もいる だろう私であり,行為が帰属し,その結果と責任が帰属し,カルマを形成し, 迷い,修行し,解脱する,それである。それに問題があるというのであれば, よほど,自己の行為が自己に帰属するのが恐ろしいのであろう。よほど 自己の行為の責任をとれないのであろう。よほど修行をしないのだろう。 要するに,無責任なのだろう。
377 :
承狂 :2007/02/09(金) 01:57:12 ID:LzEEKbrk
そうかな? 人が本能的に確かなものを求めるからこそ、それを否定又は肯定する論が生まれるのではないかな?
378 :
brown :2007/02/09(金) 01:58:47 ID:FdRHSxbE
實體(じったい?) 物に実体があるとはどういうことですか?
379 :
brown :2007/02/09(金) 02:01:07 ID:FdRHSxbE
>>承狂さん 実体がないとは,確かなものがないということですか?
原子核は存在しているでしょう さらには素粒子によって構成されているそれはたしかに存在する でも哲学的な論ならしりませーん
381 :
承狂 :2007/02/09(金) 02:06:14 ID:LzEEKbrk
前レスは374に対してです。イカは376に対してです。 生きていて、問題意識の無い『私』が存在出来るだろうか?いかなる認識であれ、『問題』として捉えられ、環境が変えられないに限り、自己をイカに適応させるかの問題となる。 その方法論の一としての宗教だろ?
382 :
brown :2007/02/09(金) 02:08:15 ID:FdRHSxbE
迷いの原因は「執着による」と説明している人は,よほど執着から離れた ことがないのであろう。 執着がなくても迷いはあるのに。 そもそも執着が起ころうが起こるまいが,執着が起こる心はある。もし, その論でいけば,心がなくならない限り,迷いという心はなくならないだろう。 あるものをなぜなくそうとするのだろう?はたまた,なくそうとする心が 迷いなのだなどと言い出すのだろうか?余計に迷いが深まっているだけなのに。
383 :
承狂 :2007/02/09(金) 02:09:26 ID:LzEEKbrk
ジェームズさんへ。 例えば神、例えば法有、例えば愛。 く、臭! 悪い、換気を頼む。
384 :
brown :2007/02/09(金) 02:14:07 ID:FdRHSxbE
>>380 原子核は存在しているでしょう
さらには素粒子によって構成されているそれはたしかに存在する
でもそれは実体(永遠不滅・恒常不変の物の基盤)ではないでしょう
仮に素粒子が,これ以上分割することのできない根本原子だと信じていても
かまいません。それでも,素粒子間の結びつきや,原子を組み立てたときの
組成などは,変化することは受け入れているでしょう。
それは,実体を信じていることにはあたりません。
つまり,それは空性を信じていることになります。
原子核というのは原子全体から見れば 甲子園の中にある小さな石ころぐらいのサイズなので、ほとんど存在していないようなもの そして核力とか斥力などの関係性によって一つの原子、結合した分子、高分子が出来上がる 全体のパーセンテージから見れば関係性によって成り立っているようなものだね しかも常に移り変わる 音もすぐに消える ホールでも1秒〜2秒という長さ 振動の周期は、このキーボードを叩く音がだいたい1000Hzぐらいだから 1/1000秒という周期で、音速は空気の圧力で秒に340m進むから、1000Hzの波長は34cm 1/1000秒に34cmという疎密波が、0.5秒のうちに500回ぐらい振動して、一瞬で消えてるんだぜぇ 実体というのは何?
そういえば釈迦のダンマパダに書いてあったけど 前を捨てよ、後を捨てよ、そして中間を棄てよ 生存の彼岸に達した人は、あらゆることがらについて心が解脱していて もはや生れと老いとを受けることが無いであろう これって物理な関係性から脱するってこと? すると実体になれるってこと?
387 :
承狂 :2007/02/09(金) 02:20:19 ID:LzEEKbrk
382に対して。 執着の定義の問題ではないかな? 我執のみならず、法我執ってもんも観るべきかな?
388 :
brown :2007/02/09(金) 02:20:58 ID:FdRHSxbE
>>381 そのとおりです
自我が問題なのではなく,問題が問題なんです。というのは,問題は問題
だから。しかし,問題を問題としなければ問題ではなくなる。
ところが,そのようなことをしても問題は解決しない。というのは,問題
としていないから。では問題を解決すればよいのだろうか?次の問題が
生じるだけでしょう。
執着するとたしかに移り変わるものからは脱せないね 迷いとは関係ないと思うけど
よく読むと、心が解脱、がポイントだった 心の問題なんですねぇ たしかに死んでからでなければ涅槃には行けないわ
391 :
brown :2007/02/09(金) 02:33:56 ID:FdRHSxbE
迷いの原因は「外界への執れによる」と説明している人は,よほど自己の 閉世界から離れたことがないのであろう。 外界が微塵も執着を作り出してやいないのに。 そもそも外界があろうがなかろうが,執着が起こる心はある。もし, その論でいけば,その大事にしている自己の心が,勝手に迷いを作り出して いる,つまり単なる妄想ということになるだろう。私に言わせれば,むしろ, 外の存在を問題視していること自体が妄想としかいいようがない。 外界をなぜなくそうとするのだろう?なぜ自己の内側ばかりにこだわる のだろう?そんなことをすれば迷いに固執しているだけなのに。
392 :
承狂 :2007/02/09(金) 02:37:46 ID:LzEEKbrk
人は信じるものが欲しいけど、(何等かの群の一員でいたいから。)何が確かかは、まだ科学的に確定出来ない。(4つの大統一すらな。) だから仮定に執着する。しかしリアルは冷酷だから、頭ぶつけて悩みにおちる。空と見て法我執すら捨てられれば、理想だが、我等凡夫は種々の問題とモグラ叩きを興じるより無しってトコかな?
飛行機も仮説で飛んでいるのだから
394 :
brown :2007/02/09(金) 02:46:11 ID:FdRHSxbE
「執着から離れることも執着である」と説明している人は,執着の過患と 執着から離れることの功徳を全く理解していない。 現実に知ることがないので,そのような虚論の迷妄に陥った。 そもそも,心や執着の性質が分かっていない。知らないからだろう。 執着から離れているときに執着は存在していない。これが心の性質である。 しかし,執着から離れていても,執着の潜在性と執着の結果の残り香は 存在している。これも心の性質である。そこに行けば罠にはまると知っている 人がそこに行かないように,執着や心の性質を知っているひとはそこに 赴かない。しかし,知らない人は,他人に「そこにいけば罠にはまるぞ」と いいつつ,自ら罠にはまる。
395 :
brown :2007/02/09(金) 02:51:18 ID:FdRHSxbE
>>承狂さん 人は信じるものが欲しいけど、(何等かの群の一員でいたいから。)何が 確かかは、まだ科学的に確定出来ない。だから現時点での最高の知識である その仮定にとりあえず執着していてよいだろう。 しかしリアルは冷酷だから、頭ぶつけて悩みにおちる。空と見て法我執すら 捨てたとしても,リアルは何も変わらない。 我等凡夫は空と見て法我執すら初めからないが,種々の問題とモグラ叩きを 興じるしかないだろう
396 :
承狂 :2007/02/09(金) 02:53:07 ID:LzEEKbrk
ジェームズさんへ。そうじゃなくてね、法我執って、例えば、仏教サイコーとか思っちゃう事だよ。 自己中でなくって、生きた本箱の事だ。 生命体として地に足がついて無くて、法や論で、プヨプヨ漂ってる事だよ。
結構執着しますよね
398 :
brown :2007/02/09(金) 02:54:53 ID:FdRHSxbE
>>390 そうです。心の問題です。生きている心の。
だから,死んだら,二度と涅槃に行けなくなってしまうだろう。
399 :
承狂 :2007/02/09(金) 03:00:25 ID:LzEEKbrk
397さんへ。 だってヒマなんだも〜ん。
いい感じですねぇ でも物理的には千年ぐらいかければ至れるかもねぇ シンクロニシティとか霊験とかあるし
401 :
承狂 :2007/02/09(金) 03:04:44 ID:LzEEKbrk
おお、時の共時性だ!みよ、俺と名無しの時間を!
402 :
承狂 :2007/02/09(金) 03:26:59 ID:LzEEKbrk
なんてホドの事でもねーか。
僕もそう思ったよ 昔の文章とか読み返したらあまりに知悉だったんで書き直してた
404 :
承狂 :2007/02/09(金) 10:59:48 ID:LzEEKbrk
因みに、俺はどーしよーもねークズだと自覚してまし。
405 :
吽狛 :2007/02/09(金) 11:41:31 ID:d+fMpql5
374 brownさん
>迷いの原因は,「自我があることによる」と説明している人は,よほど
>自我に問題があるのであろう。
>もともと自我に問題などないのに。
は・・・そうなんだ。目から鱗でした(笑)
>そもそも「自我」とは何か?それは今ここにいて,昨日もいて,明日もいる
>だろう私であり,行為が帰属し,その結果と責任が帰属し,カルマを形成し,
>迷い,修行し,解脱する,それである。それに問題があるというのであれば,
>よほど,自己の行為が自己に帰属するのが恐ろしいのであろう。よほど
>自己の行為の責任をとれないのであろう。よほど修行をしないのだろう。
>要するに,無責任なのだろう。
自分は、生きる事自体、怠けています。
寝るのと、食べる事意外は、あまりしたくないです。
でも、生きてくためには、いろいろするし。それだけじゃなく、
何かしなくてはいけない、と思うんです。
このままでいい、とは思えない。
>>388 自我が問題なのではなく,問題が問題なんです。というのは,問題は問題
だから。しかし,問題を問題としなければ問題ではなくなる。
ところが,そのようなことをしても問題は解決しない。というのは,問題
としていないから。では問題を解決すればよいのだろうか?次の問題が
生じるだけでしょう。
問題を、なくす事は出来ないという事でしょうか?
生きていたら、何があっても、悟っても、問題はなくならない・・・?
406 :
承狂 :2007/02/09(金) 11:50:48 ID:LzEEKbrk
brownに吽狛か… 次はシケツってコテとか? ウヘヘヘへヘへ。
407 :
馬渡 :2007/02/09(金) 13:00:13 ID:2oZ6EOXR
>brownさん
話をまとめるとこうですか?
迷いの原因は自我ではない
自我がなくても迷いはあるから
迷いの原因は執着ではない
執着がなくても迷いはあるから
ちなみに
>>374 ははっきり言って意味不明
よければもう少し説明を
408 :
承狂 :2007/02/09(金) 13:08:04 ID:LzEEKbrk
チッ、 外したか。 馬渡とは思わなんだ。
409 :
迷い人 :2007/02/09(金) 15:43:41 ID:TKrpxobe
>>376 brownさん
確かにおっしゃる通り。
自我はやるべき事をやるだけで問題はない。
でも自分の中にそれらを問題としてしまう奴がいる。
こいつもまた自我なんだろうけど。
自分の中でどうしても、スッキリ解決満足しておきたい事があって、
その事柄や行為を問題としてしまうかは、人それぞれだけど
まあ、それが終われば何もかも終わるでしょう。
410 :
Ryu :2007/02/09(金) 18:07:04 ID:05WRjTeu
はっきり言ってしまえば、自我とか私というものは、あると思っている人にだけあるの。 それで「ある」というのは、誤謬なんだから、問題だよ、あたりまえの話。。 自我があると思っていて問題にならないなんていうのは、悟りもなく仏教も知らない人。 問題にならないよ、どうしようもない。。 迷ったままで問題ないというなら問題ないだろうが、悟りがなければ、生きてる意味ないと言う立場から言えば、 一番の根本問題。 明らめてない人は、すぐさま明らめるべきだよ。 世迷言を信じちゃいけません。。
411 :
Ryu :2007/02/09(金) 18:31:57 ID:05WRjTeu
僕が自我はないというときの自我って、認知・思考・記憶・判断をする機能、 システムがないといってるんじゃないよ。そういう機構、システムのようなものはあるでしょう。 だけど、そのシステムを「自分のものだ」とか「私である」というのは、 どうやったって言えないんだよ。 そう思い込まされていること自体がシステムであって、システムがシステムを見ているときには、 自らが仕組まれたシステムであることに気づかない。。 自分が自分を見る・・しかし、自分は一つしかないのに、どうやって自分を見るのか? 過去の自分を見るしかないが、過去はないので見ることは不可能。 過去の記憶を見ているのであるが、見ている自分を見ることはできない。 見ることができない自分が、どうしてあるといえるのか?? 結局、他人とか周りがみんな自我を認めて生きているから、自分もそうだと思い込んでいるだけ。 こういうのは、思考でも迷いでも同じこと。 あとはめんどくさいから書かないけれど。。
>>410 ながして読んでましたが、その通りだと思いました。
逆にbrownさんの話とかは、まだ抜け切れてないように思いました。
執着、自我というものは、自己洞察や思考で徐々に薄れますが、
執着や自我が完全に0になる時は、徐々にとかそういう段階的なものではなく
全く別の世界にポーンとまるごと変わっちゃうようなもんだと思います。
自分は数回そういう体験がありますが、そのときになって初めて
自分がどのくらい執着をしていたか、自我があったかわかるものです。
そして自分もこの世も何も無いとわかるもんだと思います。
物理的に何も無いわけないとか言われるのかも知れませんが、
あるということも無いということも無い、という意味で何もないです。
ニヒリズムと思われるかもしれませんが、ニヒルであるということも
ないということも無いので、ただの完全な自由です。
完全な自由なのでスッキリしています。
スッキリしているということもしてないということも無いのでは?と
言われるかもしれませんが、不思議とスッキリはしてますな。
日常を過ごすと、感情が生まれ、その状況もじょじょに終わりますが、
自分ではアレを悟りのようなものだと思っております。
あるきっかけで何回かありましたな。
それは悟りではないという方がいらっしゃったらご指摘を。
ちなみに悟られた方はどのくらいいらっしゃるのですか?
413 :
トトロン :2007/02/09(金) 22:31:06 ID:DZ7vSjcz
>>412 ちなみに釈尊は悟ったが,イエス様は悟っていません.でもイエス様は神の
子です.どちらも行き着く場所は同じだけど進んだ道,方向が違うように感じ
られてなりません.
>>412 Brown君(によると彼)だけ悟ってるよーだよ
しかしながら、心を良く見てクリアーになったと言う割には
迷いの心が必ず通る自我意識がわかってないようだし
責任感だなんだと概念持ち出すし
要するに自我が消えなかったのだろうな
未だ自我の手のひらの上ってわけかな
>>411 そうそう
自分が自分を見るなど、どこまでいっても不可能
結局のところ、過去の自分という概念を見てるだけ
死んだら涅槃行けないって・・・ 何度もスマンが、横やりがつい入ってしまう 2つだけ 1つめ、行くものじゃなく、すでにあるもの 2つめ、生死が成り立つ意味がわからなかった証拠だな 自我が残ってるとそうなる brown君、知ったこと理解したこと分かったことを盾にして 理論ぶちまけてもしょうがない そんなものは役にたたんのだから そろそろ忘れたほうがいいんでないかい
416 :
412 :2007/02/10(土) 00:15:39 ID:b6neolep
>>413 自分は悟りのような神秘体験を何度か体験していますが、
その中でもいろいろ違い(レベル?)がありました。
あえて言葉でいうなら、世界が愛情や慈愛で満ち溢れている世界や、
愛情、慈愛すら無いという完全にクリアーな世界、
頭の中はクリアーで何の分別も働かないものの、現実という地に足をつけている
ような世界。などです。
悟りにも段階があるというし、あるいは、そういったものが身についてきた
ことなのかな?とも思いますが、キリスト、仏教の違いも、そういうこと
かなあ?とも思います。
実際そういう発言をしている人もいますし。
(仏陀のレベル、キリストのレベル等)
どうなんでしょうね。
個人的には世界(自分含む)を全否定するか、全肯定するか、といった違いが
あると思いますが。
案外僕らはそういうとこから生まれる表象に目がいくだけで、
実は同じ境地なのかもしれないですね。
417 :
Ryu :2007/02/10(土) 03:07:32 ID:8+W7e6dj
なんか今夜は眠れないので、書いちゃおう。。
>>415 涅槃はすでにあるんですか。。
僕が今日思ったのは、自分以外の周りのものはすべてニルバーナだなという感じがしました。
オイラだけ、自意識がある分、そこからブレてるんでしょうね。。
生は生を知らず、死もまた知らず・・
生死があると言うのは、やっぱ思い込みというか、概念なのかなぁ。。
死がないなら、なぜ死を恐れるのか?
死を恐れることによって、不安が生じ、生の緊張や萎縮が生まれる。。
死の恐怖があるから、その対極の生という観念に固執し、生を過度に増幅しようと躍起になる人々が生まれる。
大富豪への夢もまた然り・・大ハーレムの夢もまた然り・・・
架空におびえる事によって、その対極にしがみついてしまうという迷い。。
・・・生も死もないって、完全にはわからんけれど、これで70点くらいいってるんじゃなかろうか??
418 :
412 :2007/02/10(土) 04:06:30 ID:b6neolep
>>417 僕は数分置きにしていた記憶を忘れるという状態になった経験がありますが、
ようするにトイレに行ったのを忘れて、何回も行ってる(らしい)、
行ってもおしっこがでないので、これはすぐ前に行ったなとわかるわけですが、
そのとき、これから自分はこのまま何も記憶できないんじゃないか、
それどころかこれまでの記憶も次々消えていって自分が誰だかわからなく
なってしまうんじゃないかと思いはじめ、発狂しそうになりましたが、
その後気づいたのは、記憶できなくても、自分が誰だかわからなくても、
今、ここに自分がいる、それだけで実は平気なんだってことだったんですよね。
自分がここにいるのに何が無くなるんだろう?
記憶や自分が無くなるののなにが怖いんだろう?
記憶も名前も過去も自分も何も、今ここにいる自分なんかじゃないのに。
人間は記憶があるから過去から現在、未来へと生きているように感じて
いますが、実は一瞬一瞬死んで、別の人間になっているのだと思いました。
生きている(自己が継続している)というのは記憶の作りだした錯覚だと
思います。
そしてその概念から生じたのが死なのでしょう。
つまりどちらも錯覚だというのが、僕の観点ですが。
生と死の錯覚についてはもう少しあるのですが、長くなるのでこのへんで。
人間は思ったより経験や記憶でいろいろなものが実際あるように錯覚してると
思います。
般若心経じゃないですが、全て空だと思いますよ。
419 :
brown :2007/02/10(土) 04:53:04 ID:JFkvO7Fc
君達の観念はついに止まずか?
420 :
brown :2007/02/10(土) 05:09:28 ID:JFkvO7Fc
>>405 吽狛さんには,
>>376 のメッセージは違う。
むしろ,『
自我のすることは全て汚染されている。心から自我を完全に追い出すべきで
ある。そのためにはあらゆる心の動きを監視して,ばらばらに分解し,制御し,
消滅させる必要がある。自我を追って追って,追いまくり,心のどこにも
安住させてはならぬ。追い出そうとするその心も自我の心である。自我は
あらゆる罠を仕掛けるであろう。全てを見抜いて,自我の試みを退けなけれ
ばならない。』
421 :
brown :2007/02/10(土) 05:14:49 ID:JFkvO7Fc
>>405 問題や自我や思考や障害や怒りや悪事,死,・・・など,人が嫌悪する
ものは全て遍在しています。それをなくすということはありえません。
理想は現実とは違うからです。理想という破壊者が居なくなるとき,
それらの「問題」は問題ではなくなります。つまり,問題や自我や思考や
障害や怒りや悪事,死,・・・はあり続けるし,それでよいのです。
そして,そうでなければならないのです。
正確にいうならば,問題や自我や思考や障害や怒りや悪事,死,・・・
などというものは,「そのように呼ばれたもの」としてはっきりと知られる
ということです。なぜなら,覚者はそれらを見失うことがないからです。
422 :
brown :2007/02/10(土) 05:29:50 ID:JFkvO7Fc
ちょっと難しいかな でも,正しく,自己観察行を完成すれば,全て自ずから分かるようになる。 労することなく,全ての迷いは自動的に消滅し,煩悩はその痕跡もなく, 滅し去る。というのは,カルマが残りなく消滅するから さらに,カルマの力の働きをはっきりと知れば,輪廻と涅槃は統合される もはや,悪心があってすら何の汚染もない
423 :
名無しさん@3周年 :2007/02/10(土) 06:32:30 ID:vAYuUlU6
424 :
トトロン :2007/02/10(土) 07:10:27 ID:PergXLbl
>>416 いやー酔っ払って爆睡してしまった.よく分からんが心の探求は心の内
に行くベクトルと外に向かうベクトルがあるように思える.仏教は内に
行くベクトルのようなきがする.でも内と外は表裏一体だから内側を
深く進めば外も遠くへ届く.そんなイメージ?レベルがどうこうは私
には分かりません.
425 :
名無しさん@3周年 :2007/02/10(土) 07:18:31 ID:03NFfkTn
>>412 どういう修行をして、そのような体験をされたのでしょうか?
426 :
412 :2007/02/10(土) 13:55:50 ID:TCEoLRPJ
いろいろありますが基本は自己洞察と座禅ですかね。 自我というのは無くそうと思わなくても、それが自我だと気づきさえすれば 消えるものだと思います。 無くすも何ももともと無いのですから。自分が心で作り出してしまって いるだけなのですから。 無くそうということ自体、もともと無いものをあるように思い、無くそうと 思ってしまっている自我だと思います。 みんな口では自我は不必要とか、自分には自我があると言ってますが、 あくまで言葉上で思考として語っているだけで、 どれが自我なのか、何が自我なのか、本当には気づいてないように思います。 全てのものは(自分という意識や主義や価値や観念や)自分の心が 作り出していただけなんだ、と本当に(深層意識レベルまで深く)気づけば 奇跡のように自分や世界が一変すると思います。 努力も何もいりません。 でも自分があると思っていた世界もこれまでの自分も 全て根こそぎ消える(死ぬ)ので自我が少しでも残っていると怖ろしいですね。 自分は気が狂ったのかとか思います。 自分も自分の身に起きたことを理解するのにしばらくかかりましたし。 当たり前のように在ると思っていたものが全て無いのですから。 逆をいえば、そういう作り上げた自分や世界を本当だと思いたいから 深層意識で自我や真理に気づかないようにしてると思います。無意識のうちに。 それに気づけば一気に氷解すると思います。 この世の全てが自分の作りだしたバーチャルだったと気づくだけの話ですから。 方法は人それぞれいろいろあるんじゃないでしょうか。 僕の場合、座禅は気づいてない抑圧をいろいろ浮かび上がらせるのに、 自己洞察はそれらの正体に明確に気づくのによかったですが。
427 :
412 :2007/02/10(土) 14:09:16 ID:TCEoLRPJ
>>424 そうですね。
僕も、仏教には内側に向かい破壊するイメージを、
キリストには外に向かい創造するイメージを感じます。
僕は仏教が性に合っていたのでキリスト的なものは違うんじゃないかと昔
思っていましたが、最近では、究極では逆説的に同じなのかなとも思います。
言葉やイメージで違うように見えるだけなのですかね?
428 :
brown :2007/02/10(土) 16:59:38 ID:JFkvO7Fc
>>426 おめでとう。
大いなる超越ですね。
手を取り合って歓びたいところだが,
ここのところはネットの悲しさ,文字を取り合ってということで
429 :
吽狛 :2007/02/10(土) 17:50:50 ID:40Hk7biS
>>420 >>421 >>422 brownさん、レスありがとうございます。
問題というレッテルや、怒りと言う名称がはがれ落ち、そのものとして事物を観るんでしょうね・・・。
私は、観察が、途切れがちで、すごく眠たいです。ちょっと、自分が何書いてるのかも、不明かもしれないです(汗
自分の中で、悟りたい自分と、悟りたくない自分が言い合っていましたが、それを観察していると胸が痛み、怖かったです。
430 :
名無しさん@3周年 :2007/02/10(土) 22:21:47 ID:/DbU0MqZ
それくらいの方が悟りやすいかもよ。 自分に自信がある人は一番遠い。 不確実性に気が付く能力が無いよりは悟りに近い。
>>417 > 涅槃はすでにあるんですか。。
> 僕が今日思ったのは、自分以外の周りのものはすべてニルバーナだなという感じがしました。
涅槃とは背景のようなものだよ
絵ならキャンバス
テレビなら液晶パネル
常にあるために、あることが当たり前すぎてわからぬもの
テレビが付けっぱなしだと液晶パネルの背景に気づくことはないでしょう
テレビを消してはじめて気がつく
それが、いろいろな名で呼ばれてる
仏性、涅槃、法、ブラフマ・・・etc
テレビの消し方がわからなくなったそれが迷いである
そもそも、消せること自体忘れてしまっているのかもしれん
テレビに引き付けられる要素が主人公、つまり自分である
自分があることが悪いのではないということは分かっていると想うが
写っている主人公に引き付けられる(良いにせよ悪いにせよ)
死の中身とは心配のことだ 生きているならば死はないが心配し 近くで死んだ人を見れば、やがて自分も死ぬだろうと心配し 死んだとしたら、もう心配のしようがない 自分があるために死がある 自分がないとき誰が死ぬのか 死を恐れるのは自分であり 大死によって死ぬのは自我である
などなど、いろいろ書くけど、書いたものは役には立たん 概念でしか書けないのだから 概念はそれを指すことはできぬが、方向性だけは指せるかもしれん 聞き分けることができるなら、それにかつて触れたことがあるのだろう
もしもそれに触れたなら 智慧の亡者になってはいけない 成し遂げた者になってはいけない 一切知者だとくだらないマネしてはいけない 知ったこと成し遂げたこと それらにまたとり付かれて それを見逃してしまう
435 :
承狂 :2007/02/11(日) 00:25:43 ID:yHaHINaQ
おお、 光ファイバー、やるな。
436 :
Ryu :2007/02/11(日) 00:29:52 ID:5MBXCmbx
>>431 >涅槃とは背景のようなものだよ
絵ならキャンバス
これだといつか書いた、鏡とそれに映る像でもいいですね。
鏡が涅槃で、それに映る像が迷いというような。。
・・自我が死んでいく気もするんですが、どうなることやら。
悟りもいらず、法もいらず、仏教もいらない。
でも、それでどうなっていくのやらわかりません。。
437 :
Ryu :2007/02/11(日) 00:46:19 ID:5MBXCmbx
>>438 「映る像」が迷いじゃなくて、像にとらわれて、振り回されてしまうことが迷いか?
映る像はそれでいいはずなんですよね。。
鏡はものを映す しかし、思考によってそこに価値や重みや、意味を付ける そうすると、映されたものは、ただ映ったものではなく、歪みをもって映される 像は映ったままが、あるがまま 歪みをもって映ったものが迷いと呼ばれる
439 :
名無しさん@3周年 :2007/02/11(日) 01:06:08 ID:hpoAYKOX
疑問に思ってたこと 神の証明、悪魔の証明 自分でやらなきゃわからない それがオレの罪 カミとなりて、あしきにもなる そして、見えたのさ
440 :
Ryu :2007/02/11(日) 22:10:43 ID:5MBXCmbx
>>438 そうすると、あるがままは、意味も価値もない無と言うことでしょうか?
廓念無聖ということはそういうことなのかもしれません。
どこかに価値や正義を立てると、それに反するものを否定したり、貶めたりする気持ちが生まれる。
スピリテュアリティでも霊性でもそうですね。
そこからみると、多くの人が、鈍感で醜いし汚いし愚かだしということになる。。
しかし、分別や観念を全部捨てましょうというのも、また迷いになる。
大事なことは、真如を見るというか、本質を知るということなんでしょうね。
それを知った上であれば、思考も概念も生きてくるのではないでしょうか?
仏教のシステムってそういうところがあると思います。
無分別へ行き着くためのシステムとして、分別や観念体系がある。
仏教の場合、悟って無へいたっても、そこから、また菩提心とか言って、
いろんな差別・分別を拾うというか活用する面がある。
それはまたそれで、いいんじゃないかとも思います。
441 :
吽狛 :2007/02/12(月) 06:34:27 ID:ou3x58vr
>>440 Ryuさん
横レスですが、
>そうすると、あるがままは、意味も価値もない無と言うことでしょうか?
意味も、価値もない無だから、あるがままでは・・・。
像は映ったままが、あるがまま
その、あるがままを、
意味も価値もない無、と思考によってそこに価値や重みや、意味を付けるから、
歪みをもって映ったものが迷いと呼ばれるんでは・・・
余談ですが、
最近、我について考えてたけど、
Ryuさんのいう、オレオレ臭=我が強い
て、たぶん、自分の主張が正しいという匂いみたいな感じなのかな。
私が思うに、「他人を立てる」という我もあると思う。
それは、他の人からは「我」として受け取りにくいものだと思うけど、
我である事は変わらない。他人を立てる我が強いと、
一般的に、我の弱い人のように感じるのでは、
と思ったりした。
442 :
Ryu :2007/02/12(月) 11:26:30 ID:7upTkX4o
>>441 >吽狛さん。
そう。
無の話は確認なんでそうなのですが、僕が言いたいのは、
そうした無に留まり続けるのがどうなのかということ。
完全な無というのも人間である限り無理な気がするし、
また、差別や概念は悟りと矛盾しないのではという僕の予想がある。
概念・思考の働きというものは、本来悟りを妨げるものではないのではという気がするんですね。
もちろん、それは悟ってからの話なのかもしれませんが、
前に書いた、悟りを太陽、思考・概念を雲とすれば、思考・概念があっても悟りは損なわれない。
また、悟りが、方便として、思考・概念を駆使することもできるのではという気もするし。。
余談に対してですが、オレオレ臭は、自己主張が強いというよりは、自己中心性が強いということ。
あるいは、ネット上では、自己宣伝とか自慢が強い人という感じかな。
ちゃんと伝達とか情報交換とか、軽いおしゃべりで書いてる人はそうでもないわけでしょ。
他をコントロールしたい我という意味では、他を立てる我もあるんじゃないですか?
自他にとっていいように、機転を利かせて流れるように動ける人は、我が強いんじゃなくって、
やっぱ知恵があるんだろうね。僕はできんけれど。。
443 :
Ryu :2007/02/12(月) 12:41:06 ID:7upTkX4o
さっきヨガしてる合間に、ポケーとしていたら、「我と有情と同時成道」ってわかる気がした。 はじめから迷いなんてなかった。 チラッと見ただけかもしれないし、完全ではないかもしれんけれど、 ふっとした瞬間にわかったことはわかった。 逆に言えば、自分だけ悟って、まわりは迷っているはおかしい。 自分が悟れば、まわりも悟っていると同じこと。 それが現成公案ということ。 思考・概念は、なんでもない存在そのものに対するレッテル貼りだから、 それ自体は、究極的にはリアルではない。妄想のごときものである。 しかし、思考・概念があったほうが便利なことがあるから、 活用することがあるというだけのこと。
444 :
Ryu :2007/02/12(月) 17:33:09 ID:7upTkX4o
そうしてみると、因果とか空がどうのというのも、説明のための方便に過ぎない気がする。 しかし、それを道しるべにして悟る人もいるのだから、学ぶことが無意味ではない。 すごく落ち着いていることは落ち着いていて、何の問題もない感じなんだけれど、 心が満たされているという感じじゃない。それでいいのかもしれないけれど。。 しかし、やっと真人間になったという感じで、 これからもうちょっとマトモな社会的人格を仮にでもつくるとか、 いろいろやることはいっぱいありそう。 エネルギー的にも完全ではないしね。。 好きじゃない人は好きじゃないまんまだけど、普通に何のこだわりもなく付き合える気がする。 生きやすいっていえば生きやすいんだろうけれど、トリップできないとつまらないかもしれない。。 悟りかもしれないけれど、今は「悟り意識」があるから、まだ完全ではない。 これも忘れていかなきゃならんのだろうと思う。
445 :
悟ラー :2007/02/12(月) 22:29:41 ID:9dqJoYtJ
>>85 なぜ苦しいのかを感じて下さい。
大体でいいです。
因果関係を区分しなくて構いません。
苦しみを陳列させてみましょう。
多ければ多いほど好都合です。
446 :
自在 :2007/02/12(月) 22:51:42 ID:eX2eu4Mq
本来、私はこのような言葉遊びに口を出すことはないのだが、義務として書いておく。 悟りを得ていないのに得たと言うのは止めなさい。 悟りを得ていないのに得たと言うものは、天地を欺く咎を負う。 かつて悟りを得ていないのに得たと言った者がいた。 一人は今、刑務所で死刑を待つ身だ。 一人は若くして命を落とした。 真摯なる修行者を欺き、自らを昂ぶらせてはならない。 ちいさな満足感を得るために、永劫の地獄に落ちるのは愚か者である。 私がこのように説いても、心昂ぶらせたものは聞くまい。 だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。 私は確かに真実を教え、警告したのだから。
>>440 意味もなく価値もないのがあるがままだって?
と自我は言うに違いない
なんと無味乾燥したイメージで無機物的で無反応で味気ない
生きていない、死んでいる、機械のようだ
そのような世界が悟りの世界などいらない
と思うに違いない
自我にとって大変居心地が悪いものである
しかしながら、本当は真逆である
そこには一点の雲なく、ありありとした現実感がある
思考を通して見ていた世界は、なんと味気なく、現実感が薄く、まるで夢でも見ているようなものである
自らの思考や概念に縛られ、そしてその家来として仕えて来たものは、主客転倒し思考の主人になるだろう
思考に縛られ、操られ、味気ない機械のような人生とはオサラバするかもしれぬ
生臭ぇヤロウだな。 論者と空見の区別も付かねぇのか?(^ー^)
449 :
Ryu :2007/02/12(月) 23:50:00 ID:7upTkX4o
>>440 >意味もなく価値もないのがあるがままだって?
と自我は言うに違いない
なんと無味乾燥したイメージで無機物的で無反応で味気ない
生きていない、死んでいる、機械のようだ
そのような世界が悟りの世界などいらない
と思うに違いない
自我にとって大変居心地が悪いものである
うーん・・僕が聞きたいこととはちょっとずれてますが、
まあ、レスがもらえただけうれしいです。
僕が聞きたいのは、あるがままの悟りを得ても、迷悟などの差別を使う必要がある場面ってあるでしょう。
迷悟でなくてもそうですが、それはそのままでいいじゃないかという質問なんです。
今の僕の実感だと、人間に対しては、好き嫌いはありますが、
嫌いなやつでも、本質は一緒だから、自分と変わらないんだなぁと言う感覚が沸いてきました。
光明というと大げさですが、仏性という輝ける本質は誰にもある。
ただ、理由があって、わからなくなってるだけなんだなって言う気がしています。。
思考に関しては、僕は思考に欺かれずに、見守るということは、ずいぶん前からできるようになってるんです。
だから、思考が障害になるということはないんです。
逆に言えば、思考を悪者扱いして、除こうとするほうが、迷いなわけでしょう。
450 :
Ryu :2007/02/13(火) 00:04:14 ID:U0HOJdXX
つーか、分別、差別はあっても、嫌いはなくなったかもしれない。 本質として平等というのは、わかる。実感できる。 こんなん書いてしゃあないんだろうが・・・
451 :
brown :2007/02/13(火) 01:00:49 ID:tBSJu4Tb
>>442 Ryuさん
>また、差別や概念は悟りと矛盾しないのではという僕の予想がある。
>概念・思考の働きというものは、本来悟りを妨げるものではないのでは
>という気がするんですね。
>前に書いた、悟りを太陽、思考・概念を雲とすれば、思考・概念があっても
>悟りは損なわれない。
>また、悟りが、方便として、思考・概念を駆使することもできるのではという気もするし。。
そのとおりです。
雲のみを見ることもでき,太陽のみを見ることもでき,太陽と雲とを同時に見る
こともでき,結局は,雲を見ていることが太陽を見ていることと等しくなる。
概念や思考だけでなく,あらゆる迷いに根源はない。逆に,ひとたび,思考が迷い
なのでは?と考えれば,限りない迷いに陥ってしまう。
452 :
brown :2007/02/13(火) 01:13:31 ID:tBSJu4Tb
>>429 吽狛さん
>問題というレッテルや、怒りと言う名称がはがれ落ち、そのものとして事物を
>観るんでしょうね・・・。
五感で知覚するものと,内的意識のみに生じるものを分けてください。
五感で知覚するもの(外界)に対しては,問題というレッテルや、怒りと言う
名称がはがれ落ちるのであり,内的意識のみに生じるもの(感情や思考,作為,
記憶,比較,疑い,注意力など)は,虚構性として,「怒りとよばれたもの」
などと知られるのです。
453 :
brown :2007/02/13(火) 01:23:41 ID:tBSJu4Tb
>>429 吽狛さん
>私は、観察が、途切れがちで、すごく眠たいです。ちょっと、自分が何書いてるのかも、不明かもしれないです(汗
原因はいくつか考えられますが,まず坐禅とか,寝ながらやったりとかしてい
ないですか?できるだけ,仕事をしたり,人と会ったりしながら行ずるべき
です。仕事とまで行かなくても,作業をしたり,歩きながら,行うべきです。
できるだけ雑念が生じるところですべきなんです。単に人と会うというより,
好きな異性とか,刺激の多い方がよい。コミュニケーションとるのが嫌で
あれば,人ごみとか。
空性を悟ったり,何か安楽・静寂な境地を目指すのではありません。
心を浄化し,知り尽くすことがより重要なことです。
このような刺激や雑念は,無駄なゴミを入れているだけではないか?迷いを
増やしているのではないか?と感じるかもしれません。そうではありません。
いや,実際迷いというか,心の動揺は増えていますが,それが問題なのでは
ありません。心や心の動きが知られていないこと,心の習慣的パターンが
無自覚的になっていることが問題なのです。だから,修行というのなら,
無理にでもそれを引っ張り出してすればよいのです。
454 :
brown :2007/02/13(火) 01:36:28 ID:tBSJu4Tb
>>429 吽狛さん
>自分の中で、悟りたい自分と、悟りたくない自分が言い合っていましたが、
>それを観察していると胸が痛み、怖かったです。
この辺りは,よく観察されていると思います。
「怖かった」などという,恐れの察知は非常に重要です。要するに,恐れは
自我のサインです。「汝,そこを見るなかれ」と。それを裏切っていけば,
どこまでも深くいけます。要するに,自我はバカなんです。見られたくないから,
恐れという恐ろしい弓矢で射てきますが,それは旅行者にとって案内表示板の
ようなもので,何を観察すべきかたやすく知られてしまうからです。
実のところ,見て欲しいのかもしれません。菩提心が「見よ」と手招きした
ものを,自我が検閲して「見るな」と書き換えたのでしょう。
「全ての衆生に仏性が備わる」と聞いているでしょう。それは本当です。
そのため,智慧ある者は,自ずと,解脱へと導かれていきます。それを
頼りにすると,裏切られてしまいますが,それを信じ,心配することなく,
ただ,自己観察行に集中していけば,自然と,これまで何生もの間,無限の
時を費やして求めてきたそれが,労することなく,現れてきます。
brown君 > 雲のみを見ることもでき,太陽のみを見ることもでき,太陽と雲とを同時に見る > こともでき,結局は,雲を見ていることが太陽を見ていることと等しくなる。 思考や概念と悟りは等しいものではないぞ > 概念や思考だけでなく,あらゆる迷いに根源はない。逆に,ひとたび,思考が迷い > なのでは?と考えれば,限りない迷いに陥ってしまう。 いいや、あらゆる迷いに根源はある 君は本当に自己観察などで悟ったのか? よーく思い出してみ 自己観察では見ている自己をイメージしているのに 自我が力を失うはずはないんだがなぁ それに座禅とは静かに座って行なわねばならん でないと効果ないよ 君、本当にやったことあるのか?
456 :
brown :2007/02/13(火) 02:16:04 ID:tBSJu4Tb
>>光ファイバーEOさん なんだかとっても怒ってるみたいだけど,とにかくごめんなさい。 光ファイバーEOさんは瞑想を心得てるんですか? 他力本願であれだけど,心得てるなら,その方法でちとその怒りの矛, 納めてみてください。
怒る? そのような話はしていないのだが・・・ もう一度書くけど 概念と悟りは等しくないぞ 迷いには原因があるぞ 自己観察などでは悟れんぞ こう主張しているのだが・・・
あと、もう1個 座禅したことホントはないんじゃないの?
459 :
brown :2007/02/13(火) 02:37:03 ID:tBSJu4Tb
>>光ファイバーEOさん それでよい。 怒りを納められましたな。すばらしい行力です。 次はこだわりを納めて見てください。
> それでよい。 そりゃーどうも って あのー、私が文字読んで解読して、一体何に怒れというのでしょう? 何に対して、怒りが静まったというのでしょう 何か見ていて面白いよ ちなみに聞くけど、掲示板見て怒ることあるの? まさか、怒りを見通したという覚者なら、そんなことあるはずないよねぇ
461 :
brown :2007/02/13(火) 02:57:41 ID:tBSJu4Tb
>>460 一つ聞くが,貴方のところに誰か客が訪ねてくることはあるのか?
■わからない五大理由 1 読まない 2 調べない 3 試さない 4 理解力が足りない 5 人を利用することしか頭にない
463 :
吽狛 :2007/02/13(火) 06:58:56 ID:xaLGqfsj
>>442 Ryuさん。
>余談に対してですが、オレオレ臭は、自己主張が強いというよりは、自己中心性が強いということ。
>あるいは、ネット上では、自己宣伝とか自慢が強い人という感じかな。
そうなんだ。う〜む・・・
>自他にとっていいように、機転を利かせて流れるように動ける人は、我が強いんじゃなくって、
>やっぱ知恵があるんだろうね。僕はできんけれど。。
よく思うのは、他にとって良いと思うのは、結局、自分の考えられる範囲でしかない。
極論、私は、その相手の人生が、どういう流れで、良くなるのか分からない。
(何が良いことなのかも良く分からない)
それで、その場だけで、判断しても、もしかしたら、逆に、良いと思っても、
間違ってる事してる場合もあると思うのね。
だから、私は、他人に、良いようにするという事は、全く出来なくて、
自分の人生に、良いと思う事を、自分の自己責任で、やるしかないと思ってる。
他人に良いように、てのは、悟って、自他がなくなってから、出来る事だと思う。
でも、それでも、ぱっと見、我見で、それが、良いことに見えるという事とは違うと思う。
もしかしたら、ひどいことをしてるように見えたりするのかもしれない。
良いと思う事も、空なんだな〜(汗
>>443 私も、一昨日、ダンナに「運動不足じゃない・・・」とか言われ、腹が立ったけど、
思い返せば、最近、ヨガやってなかったので、やった。最近、静的な瞑想ばかりだったので、
内面が激しく動いてたけど、動的になって、体の中にたまったものを、かき乱したら、
感情も、もっと出てくるかもと思いつつ。
464 :
吽狛 :2007/02/13(火) 06:59:27 ID:xaLGqfsj
>>444 空という概念を頭で分かって、活用する事は、セラピーと同じだと思う。
空という事を、実感し、実感し・・・絶望する。それは、もしかしたら悟りになるかもと思う。
しかし、空ということを、実感する事は、自我が嫌う事、だから、
活用するだけにとどめてしまう。それが、自我の本能だと思う。
>すごく落ち着いていることは落ち着いていて、何の問題もない感じなんだけれど、
>心が満たされているという感じじゃない。それでいいのかもしれないけれど。。
何故か、Ryuさんとこうして、話すようになってから、自分はえらく、落ち着いた。
何も問題ない感じで、でも、心は空しい。喜びはない。
だから、どんなに落ち着いているように感じても、全く悟りではないと分かってしまう。
以前と比べて、苦しみの心の振動が減少し、
より、微妙な、心の落ち着かなさ・・・空しさというものに変わっただけだと。
>>446 自在さん
具体的に、どの書き込みに対して、そう思ったのか、書いて欲しかったなあ・・・。
>だが地獄に落ちた後に、誰も私に真実を教えてくれなかったと、言うことはもう許されない。
>私は確かに真実を教え、警告したのだから。
まあ、本当に、悟ってたら、そんな事、気にしないと思うけど、
悟ってなくて、悟ってるって勘違いしてた場合はどうなるの?
465 :
吽狛 :2007/02/13(火) 07:00:22 ID:xaLGqfsj
>>452 >>453 >>454 brownさん
レス有難うございます。
>空性を悟ったり,何か安楽・静寂な境地を目指すのではありません。
>心を浄化し,知り尽くすことがより重要なことです。
はい。それは、心得てます。
>実のところ,見て欲しいのかもしれません。菩提心が「見よ」と手招きした
>ものを,自我が検閲して「見るな」と書き換えたのでしょう。
なるほど、怖いと思うほうを見たら良いのかもしれないですね・・・。
なかなか、怖くて、見に行けないですが・・・。
brownさんと光ファイバーEOさん・・・会話がかみ合ってないですね(汗
brownさんの
>>456 の書き込みは、私の目から見ても、かなりおかしかったですが、
brownさんが、解脱した、と宣言されている事を、私は、どうこう言うつもりはないです。
私は、自分に役立ちそうな事を知っている人に話を聞きたいだけですから。
brownさんの話は、今現状、私には必要だと思えます。
brownさんが悟っているかどうかは別にして、感謝しています。
466 :
Ryu :2007/02/13(火) 10:27:00 ID:U0HOJdXX
昨夜、僕が寝てから、面白いやり取りがあったよう。。 僕は結局、迷悟一如ってことが、わかっただけで、自我の脱落はないんですね。 だから、本当の意味の悟りとは言えないと思う。 しかし、迷悟一如ってわかると、差別なしの平等性ということがわかるから、 概念のレッテル貼りが落ちて、本質的には無分別になることはなる。 自我が残っていることを突く、と言う意味では、 光ファーバーさんの切り返しは的を得ているのかもしれない。。 オイラも坐禅組んでから、もうちっと書くかな。。
467 :
吽狛 :2007/02/13(火) 12:12:54 ID:xaLGqfsj
brownさんと光ファイバーEOさんのやりとりは、今読み返しても、 笑えてくる・・・。めちゃめちゃおかしい・・・。 brownさん、 どうやら、風邪を引いて眠たかったようです。今は、のどが痛いだけで、眠くないです。 私は、瞑想などをたくさんすると、熱が出たりするんです。 私の体は、過度の観察で生命の危機を感じているのかな??
468 :
自在 :2007/02/13(火) 13:36:32 ID:WSZa7F86
>>446 あなたは真面目に修行をしているようだから書いておきます。
私が誰かを名指した非難をすることはありません。
しかし、自己観察では悟れないと書くのはいけません。
そのような言葉が間違いであると書けばわかるでしょう。
自己観察こそが真摯な修行者を真の悟りへと導く最も正しい道です。
このような言動に惑わされないように修行を続けてください。
あなたは正しい道を歩んでいる。
私が警告を書いたりするのは、気になるからではなく、哀れみからです。
例えば親が子供に、間違いで自分を傷つけないようにと諭すのと同じことです。
僅かな満足感のために永劫の苦痛を受けないように、気をつけなさいということです。
残念なことに真実を告げられてもかえって反発してしまう者も多いが。
最後の質問
勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
確信して他人を欺く者よりは軽く。
469 :
Ryu :2007/02/13(火) 13:49:23 ID:U0HOJdXX
>>464 >何も問題ない感じで、でも、心は空しい。喜びはない。
だから、どんなに落ち着いているように感じても、全く悟りではないと分かってしまう。
道元が言っているのは「心身に法が満ちあふれていない状態においては、法がすでに充足していると感じるものだ。
法が心身に満ちているときには、何かが足りていないと感じるものである(現成公案・現代語訳)」ということ。
だから、空しい方へどんどん行くといいかもですね。。
その先に自我の死があるかもしれない。
空しいと実感できるということは、空ということが実感できてるみたいですね。
僕は、説明はできても、実感は一瞬生じて通り過ぎていく感じだから。。
>>468 面白い奴だな。
真似してやろう。
初心者の貴方には維摩経を勧めよう。
自他の不二門を知らぬが故に。
471 :
トトロン :2007/02/13(火) 23:14:56 ID:kAqVt6ny
>>446 すばらしいお言葉身にしみます.簡単に悟ったなど言うべきではないとは
私も思います.ただ私が思うに,この世の一部の人が悟った状態になるだけ
で良いのでしょうか?私は全ての人が,呼吸をするように悟った状態にな
れる日が,いつか来れば良いなと思っています.でもそうなった時に痛みが
発生するとするなら,その痛みに絶えられるかどうか・・.
472 :
通りすがり :2007/02/13(火) 23:28:37 ID:c4bAmsiP
悟ったと言おうが、悟ってないと言おうが、黙っていようが、何も傷つかず、 何も生まれず、何も滅することもない 悟ったと言う者をうとましく思うものは、その者が自分自身だということに 気付くがよい その者を悟ったと言わせているのは私でありあなたであり、私でもあなたでも 誰でもない全てだ 言葉を発するものは言葉を自己にしてはならない
473 :
Ryu :2007/02/14(水) 02:10:18 ID:fiBiGjLd
>>472 通りすがりさん、どうも。
僕はこんなところで何言われようが、なんとも思わないですが、
何か言ってくる人たちには、何かひっかかりがあるんでしょうね。
ですが、それは僕の問題じゃないから、関係ないという感じかな。
過去に自分が何書いたかということもどうでもいいですし。
「誰でもない全て」が言わせるというのはいいですね。。
brown君 1つ聞くなどと書く前に これまでことごとく聞こえないフリをしていたのはどーゆーわけだね 都合の悪いことは聞こえない じーさん じゃないだろう ホントはじーさんか? ホレ、聞こえないようだから、もう1回 > 座禅したことホントはないんじゃないの? > 概念と悟りは等しくないぞ > 迷いには原因があるぞ > 自己観察などでは悟れんぞ > ちなみに聞くけど、掲示板見て怒ることあるの? > まさか、怒りを見通したという覚者なら、そんなことあるはずないよねぇ >>461 どういう脈絡で訪ねるのか知らんが、 通常のコミュニケーションでは、このような脈絡のない質問はしないものだよ 質問しても、変なおじさんに見えるからシカトするかな 今回に限り特別返答じゃ 客は訪ねて来ないねぇ、商売してないし 宗教勧誘ぐらいなら来るかも
怒っても無いのに、とゆーより、どこからそんな空想が始まったのか知らんが、 脈絡も無く 怒ってるみたいだからごめん 怒りを静めたか、それでよい などど書いてくる時点で相当空想モードに突入してるな 大丈夫かなこの人 と思ってしまうわけだけど 相手に映っているのは 自分の思っていることの裏返しだからね ホントはbrown君自身が怒っているのだろう? それとなくわかるように書いているつもりだよ いろいろと でも聞こえナインじゃしょーがない 好きにすれば
476 :
brown :2007/02/14(水) 03:14:58 ID:1ymvwwnX
>>474 光ファイバーEOさん
どうも,返答ありがとう。
> 客は訪ねて来ないねぇ、商売してないし
> 宗教勧誘ぐらいなら来るかも
客は訪ねてこられませんか。宗教勧誘くらいのものですか。
宗教勧誘の人がパンフレットとかファイバーさんに渡そうとしたら,
どうされます?
アポイントはとってますか? とってない? 困りますねー まず、ここに住所と電話番号書いてください で書かずに引きあげてくかな つーか、変な質問ばかりでつきあいきれんのですが
478 :
brown :2007/02/14(水) 03:30:04 ID:1ymvwwnX
>>467 自己観察行を真に行えば,風邪をひくだろうと言ったか言っていないか。
偶然かもしれませんが,ひくのが道理です。
また,生命の危機を感じるべきです。それを恐れかつ恐れないでさらに見る
べきです。
また,自然と昔の自身の恥ずべき事柄や様々な行為に大きな恥じらい,
自責の念,死んでしまいたいなどという感情がこみ上げてこなければ
なりません。
また,自然と涙がとめどなく流れてこなければなりません。
部屋が涙の海になっておぼれてしまうくらいに。
また,自然と死を考察するようにならなければなりません。
たった一人,何も持たずに死に赴く現実をありありと観想すべきです。
479 :
brown :2007/02/14(水) 03:32:38 ID:1ymvwwnX
>>477 なるほど。なかなかいい方法だと思います。
私のところには幸いあまり訪ねてこないが,もし来たらそれを試して見よう。
ありがとう
480 :
通りすがり :2007/02/14(水) 03:43:30 ID:AE1GF3XA
言葉の多いものが多いな 相手も自分であるのにそのように多弁になるだろうか? 一体誰を、どうするためにそのように言葉を放っておるのだろうか? おまけに難しい言葉と抽象ばかりででさっぱりわからん 真理はいつからそのように難しくなったのか?? 自分が他人であり真理なら、返事は、ほほう、の一言じゃ
あと、押し売りも来るかな ビジター:遅くなりました。消防署の方から来ました 応対:頼んでないよ ビジター:皆さん付けてもらってます 応対:呼んだ覚えないけど、誰に頼まれたの? ビジター:ご近所を回らせてもらってます 応対:呼んだ覚えないし、待ってたわけでもないので、必要なら呼ぶから、住所と名前書いてポストに入れといて ビジター:(かなりしつこい)一度、出て見て貰えませんか? 応対:ガチャ(終了) またまた別の人が来る どーしても消火器売りたいらしい ビジター2:すいません。遅くなりました。消防署の方から来ました。 応対:またか。呼んでないって言ってるだろ。でアンタ誰なの? ビジター2:(名札を見せる) 応対:アポなしは応対しないんで。必要なら呼ぶから名刺でも入れておいて。 ガチャ(終了) 結局名刺入ってなかった。
482 :
brown :2007/02/14(水) 03:45:43 ID:1ymvwwnX
あっ,そうそう。 それで,なんでこんなことをお聞きしたのか書き忘れましたが, これと同じなんです。 つまり,宗教の勧誘が来ても,そもそもそれに関心がないし,自分の現実認識とは 合っていないし,相手は自己主張したいだけで話し合う気はそもそもないし, だいたいしつこくて,いくら話しても決着がつかず,時間の無駄なので, (それを信じたい人は信じていて一向にかまわないのだけど),自分は 要らないと。だからパンフレットとか渡されようとしても突き返すし, 帰ってもらう。 右の一部議論は, 同じように,自分の現実認識とそもそも合わない事柄を基にしており,いくら 話しても決着がつかず,議論の意味がないので,私はそれに取り合わないのです。 (宗教勧誘に比するのは失礼ですが,話の流れ上そういう感じになってしまい ましたね。ごめんなさい。)
483 :
名無しさん@3周年 :2007/02/14(水) 03:50:59 ID:wSDsoRIc
仕事を休まないと活動出来ない、勧誘活動をする、選挙活動をする、人に迷惑かけて何が信心か?勧誘や選挙の前にしっかり信心しろ!信心が足りんのか頭が足りんのか、厚かましく礼儀を知らんで何が宗教か?
484 :
brown :2007/02/14(水) 03:51:46 ID:1ymvwwnX
>>481 そうそう,消防署の方から来るんだよね。
昔はうまく断れなかったけど,最近は世慣れしてきたからさ,
「来なくていいんですが」,「要りません」,「他に用は」って感じで
速やかにお帰りいただいています。
向こうも仕事だからね,少しでも取り合えば切れない。有無を言わせず,
さよならするしかない。
485 :
brown :2007/02/14(水) 03:54:02 ID:1ymvwwnX
>>484 そうそう。それで,それが相手のためでもあるんだよね。
相手も仕事だから,入信したり購入したりする気が絶対ゼロの私に時間を
使わせない方が,営業工数的に得をするんです
クロスクエスチョンを仕掛けてきたので
何か例を出して応対をしようとしているのは、予想済みだったよ
なので
>>474 >>475 のレスをしたわけだが
もしかして、brownさんは訪問販売してたの? >相手も仕事だから 仕事だからって、そんな概念をここに持ち込まなくても。。。 単に相手は、こっちに分け前よこせや、こういう理由つけてやるから、納得してくれるか? といってるだけなんだよね それで、そんな理由なら分け前渡せないなぁ、却下 といってるだけ
488 :
吽狛 :2007/02/14(水) 09:05:32 ID:pxHVRY7f
>>468 自在さん
ありがとうございます。う〜む。。。。自己観察は、続けます。
ただ、まあ、どうでも良いことかもしれないですが、
自己観察では、悟れない、と言うのは、ある意味、間違ってはいない。と、私は思います。
悟りには、段階・・・というか、純度というか・・・そういう、あ、
十牛図は、私は、詳しくないので、よく分からないですが、
たぶん、それで説明が付くのかもしれないと思います。
「全ては悟っている」という事と、「悟っている人が、悟っていない人を導く事」は矛盾しているように感じる。
けれど、それは、十牛図の8,9,10のいずれかから、覚者が話しているからでしょう。
後は、個人の方便の違いとかですね。とか、私は、思います。
>最後の質問
>勘違いで罪を犯したものも咎を受けるでしょう。
>確信して他人を欺く者よりは軽く。
うへえ・・・。そうか、やばい。
以前に、「自分は、悟った」と勘違いして、人に言った事があって(汗
まあ、でも、説法とかはしてないので、大丈夫かな??駄目か・・・。
この場を借りて、謝ります・・・。私は悟ってなかったです。勘違いでした。
単に、魔境に入ってただけです。バカでした。迷惑かけた方々、ごめんなさい。
これでも、駄目だったら、マジで悟るしかないですね。
悟ったら、きっと、地獄も極楽でしょう・・・。
>>469 Ryuさん
>僕は、説明はできても、実感は一瞬生じて通り過ぎていく感じだから。。
私も、通り過ぎていきますよ。
空しさも、楽しさも、交互にやってきます。
489 :
吽狛 :2007/02/14(水) 09:06:09 ID:pxHVRY7f
>>478 brownさん
>偶然かもしれませんが,ひくのが道理です。
そうですか。ヒーリングを受けると、浄化作用によって、風邪とか引いたり、
病状が悪化したり、事故にあったりするということは聞いた事あります。
自己観察行でも、そうなるんですね。分かりました。
行をやったくらいで、風邪を引くとは、体が弱すぎるのかと思い、
もうやらないほうが良いのかと思いましたが、やり続けます。
>また,自然と涙がとめどなく流れてこなければなりません。
>部屋が涙の海になっておぼれてしまうくらいに。
>また,自然と死を考察するようにならなければなりません。
死については、子供の頃から、よく思う事です。
嫌な事があり、絶えられなくなると、死ぬことを考えます。
若い頃は、死を思う事で、変なパワーがみなぎって来て、
どうせ死ぬなら、と開き直っていましたが、そのパワーも、もう切れかけてきて、
死を思う事は、辛いです。涙は、今のところ、海のように流れてこないですね・・・あ、
悟りを目指すのを、やめようか、と考えたら、少し涙が、出ていました(汗
>>480 通りすがりさん
>自分が他人であり真理なら、返事は、ほほう、の一言じゃ
それは、ある意味、間違っていないと思いますが、
ブッダは、他の人に、いっぱい説法したから、ほほう、では済んでないです。
490 :
吽狛 :2007/02/14(水) 09:27:23 ID:pxHVRY7f
通りすがりさん てか、あなたの書き込み自体、「ほほう」の一言ではないけどね・・・
491 :
Ryu :2007/02/14(水) 10:51:09 ID:fiBiGjLd
>>447 光ファイバーさん。
>自らの思考や概念に縛られ、そしてその家来として仕えて来たものは、主客転倒し思考の主人になるだろう
思考に縛られ、操られ、味気ない機械のような人生とはオサラバするかもしれぬ
ここの部分、ほぼ反対の意味に取り違えてました。。
よって
>>449 のレスが、ちょっと変になってしまって、すみません。
そうするに、悟る前は「思考に縛られている」が悟ると「思考の主人となる」ということですね。
「悟ったら」という言葉が省略されていたので、違う意味とっていたようです。
・・とすると
>>440 の僕の質問にちゃんと答えてくれたことになります。。
どうも、ありがとさんでした。。
492 :
自在 :2007/02/14(水) 11:27:45 ID:+wlIoOYO
>>470 あなたはもう正しい知識を得ている。誰の真似をすることもない。
>>471 全ての人が悟りを得るべきであると、私も思います。自分自身の意志によって。その時には痛みはなかったと全ての人が知るでしょう。
>>488 自己観察が正しい道であるというのは、どのような道を通っても結局は最終的に自我を観照することになるからです。三昧や空観などの、どの行においても最後は自我を観照することで、悟りに至ります。
修行中にはどうしても迷いが出勝ちですが、自己観察が最も正しい道に違いはありません。
例えば山の頂上に上ろうとするとき、真っ直ぐに頂上を目指す道が、回り道に比べて最も正しい道であるが、最も険しく困難な道であるように、正しい道であるが故に苦しい道なのです。
あなたは既に頂上の近くまで来ている。
恐れは観照されようとする自我を、未だ自己であると思っているからです。
恐れが生じたなら恐れは空であり、縁起によって出来たものであり、実体の無いものであると空を観じてもいいでしょう。
そのまま正しい道を歩んでください。
最後に、
あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
493 :
通りすがり :2007/02/14(水) 11:44:23 ID:i2NxPqvD
494 :
金平糖 :2007/02/14(水) 11:46:33 ID:23WZ3BaY
>>492 自在さんは、仏教徒ですか?クリスチャンですか?
どちらでもあり、どちらでもない、自由人なんですね。
自由人だからどっちにもトランスできるし、超越しているんでしょうね。
495 :
Ryu :2007/02/14(水) 15:30:02 ID:fiBiGjLd
>>481 宗教勧誘に訪問販売、それらとの問答ってほんとにコントみたいなところがある。
ぼくは、本がもらえるときはオモシロ半分でもらってた。
○○の科学の本ももらって、ちょっと読んでみた。。
やっぱりそのトンデモっぷりが面白かった。
僕:本をいただけるんでしょうか?
相手:ハイ差し上げます。
僕:どうもありがとうございます。それではまた、ガチャリ。。
相手:・・・・
あとモ○○○今日の聖典ももらったけれど、ほとんど読まなかったなぁ。。
悟ってるとか言い出す奴ほど胡散臭いものはないね
つーかクソスレだろ
自在氏へ。 俺は得てはいないよ。知識だけだからね。 異なる道の方に、先の非礼を謝罪する。
499 :
金平糖 :2007/02/14(水) 19:12:57 ID:nT2x6udZ
>>492 自在さん
>最後に、あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
>私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
>>494 で書き漏れたので、追加。
どうして、あなたに告白することで赦されるんですか??
神だからですか?覚者だからですか?
500 :
自在 :2007/02/14(水) 20:56:47 ID:+wlIoOYO
>>499 私はかつて仏陀を信じる者であった。
今は仏陀の法を知り、証する者となった。
懺悔の法はかつて仏教にあった。
初期経典には紛れも無く記してある。
目覚めたものや先達の菩薩に罪を告白し、悔いたものは許される。
それが仏陀の定められた法である。
人々が忘れ去った法を再興するのも私の仕事である。
それをあかすのに、あなたの力が必要だった。
善き者よ。
あなたを祝福する。
501 :
金平糖 :2007/02/14(水) 21:11:08 ID:nT2x6udZ
>>500 自在さん
信じる 証(あかし) 懺悔 罪の告白 許し(赦し)
善き者 祝福
これって、キリスト教用語ですよ。
なんか、わからんなぁ〜〜〜〜〜。(笑
502 :
自在 :2007/02/14(水) 23:03:05 ID:+wlIoOYO
503 :
Ryu :2007/02/15(木) 00:17:47 ID:1x1P2UwY
>>502 真の懺悔って、実相=無相を知ることだよ。
罪があったり、功徳があったりって、それ世俗の法と同じで、
仏教やってる意味ないじゃん。
実相を証すれば人法なし
刹那に滅却す 阿鼻の業(証道歌)
まあ、カルマは悟るまではあるけれど、罪が実体としてあるように言うのは、
やっぱ半分妄説だな、実相がわかってないということだよ。
それから、あんた妄想狂に近い。
ほんとに悟ってる人は、そんなエラそうな口はきかないと思うよ。
504 :
吽狛 :2007/02/15(木) 01:01:28 ID:mPIwbvdO
>>492 自在さん
>恐れは観照されようとする自我を、未だ自己であると思っているからです。
なるほど・・・。今のところ自己でないとは思えないです。
正しいかどうか良く分からないですが、自己観察はしていきます。
>あなたの咎は、私に告白することによって許されました。
>私の名においてあなたに罪の無いことをあかします。
ひょえ〜〜。無罪放免になった・・・・。
>>493 通りすがりさん
長ったらしい「ほほう」じゃの・・・(汗
505 :
通りすがり :2007/02/15(木) 01:18:38 ID:3V5q4VRX
仏教も語る者の言葉の数だけあるからのう もっと簡単に考えていいと思うがのう 罪と罪でないものを一体誰が決めるというのかのう 罪があったところで、 一体誰がそれを許さず、一体誰がそれを許すというのかのう 人間が限りをつくる必要が一体何処にあるのかのう
506 :
brown :2007/02/15(木) 01:40:04 ID:33w2J5mr
はっきりと言っておこう。カルマは覚者にも及ぶ 覚者も地獄に堕ちるのか?ということが問題となる 堕ちるというのが正解だ。覚者に罪が及ばないということはあり得ない 人を殺せば殺人罪で起訴されるのだ。というのは,罪は,それを犯した人に 及ぶからである。というのは,カルマとは,物理法則のように, 間違いなく定まっている現実だから 悟りの最も重要な要素は,カルマの働きをよく知ることにある その消滅,開放を実証し,離れてその実在を知る また,カルマを生じせしめて,入って,カルマに支配されたままなお迷乱 されることがない。というのは,解脱すればなんらその法から逃れる必要もないからだ 全ての覚者はこの法を最も重要なものと知っている 最も重要な教えはこれである 「悪業を断ち,善行を多くし,現実に生きよ」と
吽狛さん 自己観察が良くないなんて言ってませんよ brownさんに対して書いているのですよあれは
覚者は地獄にいても天国のように感じるが 凡夫は天国にいても地獄のように感じるだろう ってなんか胡散臭いな
なぜならば 覚者は実相を見るが 凡夫は実相でないものを見るからである ってなんかだんだん胡散臭くなってきたな
自己とは自我でないものである 自我とは、ホレ、いつも感じている私 あたりまえすぎるけど、なくなってみたら、 今の今までここにいた俺どこいったー? ってへんなコントになる
511 :
Ryu :2007/02/15(木) 02:00:46 ID:1x1P2UwY
>>506 だから、カルマは誰にでも及ぶけれど、空という意味では実体はない。
そもそも罪を犯す人がいないのであれば、どうして罪などがあろうか?
それに実体がないと悟れば、罪は消滅するはず。
刑務所とかに入る可能性はあるけどね。。
覚者にとカルマの関係性は、「不落因果」と「不昧因果」のちがいと眼蔵にはある。
覚者は「因果に落ちず」は間違いで「因果をくらまさず」問うのが正解。
だけど、覚醒があったら、一般に悪いことはしないし、いいことしても、
「オレはいいことやってる」とか思わない。
>最も重要な教えはこれである
「悪業を断ち,善行を多くし,現実に生きよ」と
そういう道徳論だけじゃどうしょうもないと思うけどね。。
かえって実相をくらますんじゃないかと思うよ。
>>495 Ryuさん
いろいろ熱心やね
Ryuさんがどうしてわかるのか知らんけど
渇望が強いほど必要性が強いほど悟るのに早いよ
執着とは逆説的になるけど
>悪業を断ち,善行を多くし,現実に生きよ 現実に生きることが一番 でも、覚者という空想に生きて、 悪行を絶つと言う妄想を信じて 善行を多くするという幻想にすがっているようじゃ 現実を生きることはできてないよー
514 :
brown :2007/02/15(木) 02:11:42 ID:33w2J5mr
Ryuさんはいつも実体の迷いにあるんだなあ 「実体がある」とか「それは実体があるということではないか」と想定する からそのような迷妄に陥ったのです。 そもそも実体などというものは,世界のどこにもありはしないのです。 およそあり得ないことだから。 それをなぜあるというのでしょう?それをどうして想定するのでしょう? 実体へのこだわりを捨てれば,単にないで済むことです 死に実体などありません。苦に実体などありません。それは全くないのです。 しかし,死はあります。苦はあります。あるといっても実体などあり得ないのです。 そのようなことはおよそ想定することすらできません。 初めから問題にならないのです。 もしなるとしたら,哲学的に大変な努力をして作り上げた妄想としかいいようが ない。それを否定することで得る進歩もない。 落とし穴を掘って,それを埋めたようなものであるから
515 :
brown :2007/02/15(木) 02:18:15 ID:33w2J5mr
例えば,自我や善悪の区別は,概念によって虚構されたものに過ぎません。 しかし,それはあるのです。そのように,概念によって虚構されてあるの です。それを否定することはできません。 要するに,自己中心的なのです。 貴方が善悪を否定したとしても,世間で善悪の概念は実在しています。 否定したその境涯は,単にひとりよがりなのです。世間から隔絶した, 偏狭な知見に過ぎません。それは全く役に立たないのです。 むしろその概念的に虚構されて存在しているものの中に,初めて真実があるの です。それは,現実だからです。 虚構性を受け入れることができるまでは,そのような間違った探求が続き ます。しかし,やがてそれ以外に取り組むべきものなどなにもないことを 知ることしか起こりはしないのです。
>>514 > 死に実体などありません。苦に実体などありません。それは全くないのです。
そうなんだとして
> もしなるとしたら,哲学的に大変な努力をして作り上げた妄想としかいいようがない。
それを実態に感じる重要な要素をずーっと見逃しているんだよ
何度も何度も書いているのだけど
いいかげん聞く耳持つ気にならない?
517 :
brown :2007/02/15(木) 02:28:17 ID:33w2J5mr
覚者にとって地獄は楽しくありません。それは苦なのです。 愚者にとって地獄はあるいは楽しそうです。しかしそれは苦なのです。 苦は現実で,それを正しく苦だと認識するか,楽しそうだと誤認するかの 違いがあるのです。 地獄に住し,地獄に苦しむことができなくなった覚者など,何の智慧も ないのです。何の役にも立たないでしょう。それは,単に忘却しただけ だからです。人々の苦しみを忘却して,自分は偏狭な常楽に安住する。 何を悟ったのでしょう?単に妄想がひどくなっただけなのでしょう。
518 :
brown :2007/02/15(木) 03:09:07 ID:33w2J5mr
>> 吽狛さん もし,観察行が正しいと思うのならやめなさい 正しいことをして何の意味があろう? もし観察行が貴方の求める悟りを得ることにならないというのなら, やめなさい なぜ間違った方法にいつまでも固執するのか? 結局のところ,自分が信じたことを自分が信じたようにするしかないだろう。 人はそれぞれ,各人の限界の中で生きている。brownは,観察行を信じている しかしそれが何の役に立つというのだ?さっさとやめて道場を立ち去りなさい そのような散漫な心では,観察行が成就することは,ラクダが針の穴を 通るより難しいといわれているから
519 :
brown :2007/02/15(木) 03:18:50 ID:33w2J5mr
修行者にとって最も重要なのは信である。 信じる事によって救われるのだ。 つまり,未だ解脱せざる身の自分が,完全に信じることができるものがある かどうかが問題となる。 ほんの少しの疑いも,全てを駄目にする。一切の思考を捨て去れ 散漫な心が定まることはない。定まることが持続することがなければ, カルマが開放されることはない。 実は,その中身はどうでもよいのだ。 しかし,結局のところ,自己あるいは現実を知り尽くすこと以外に信じきる ことのできる道はない(とbrownは信じる)
520 :
名無しさん@3周年 :2007/02/15(木) 03:29:12 ID:+b10SMDN
でんすけ師匠がここにいた。
バカかこいつら
522 :
馬渡 :2007/02/15(木) 09:02:09 ID:LNeJD4zc
リアルタイムで絡めないのが残念なので ちょっと独り言 みずから確かめよという観察行が 信仰にいってしまうのはどうなんだろう 行法として観察行が是が非かと問うから おかしく感じるひとがいるのかもしれないけど 要は現実認識、自己認識 わからないからこそ 見たものを見たままに 現れる判断を現れるままに じっと見ていくことが大事なんだと思う 今だ何も知らない身だけど ここを読ませてもらって 本当に違和感を感じさせないひとは皆無に等しい ある意味では自分を信じてることになるんでしょう 自分で確かめていこうっと
523 :
Ryu :2007/02/15(木) 09:11:51 ID:1x1P2UwY
>>514 brownさん。
いい加減、妄想デタラメ説法止めないかな。
あなた悟りどころか、まっとうな理解力、思考力もないと思うよ。。
僕は、あなた、相手にしたくないだよ、いくら言ってもわからないから。。
>「実体がある」とか「それは実体があるということではないか」と想定する
からそのような迷妄に陥ったのです。
実体っつうのは想定によってあるんじゃなくて、人の言語知覚に備わってんの。
ものを対象として認識する作用の中にあるんだから、想定なんてしなくともあるの。
それともうひとつ、あんた「実体」という言葉の意味取り違えてる。
わかってるつもりなら説明してみな。
できないと思うけれど。。
>>515 >要するに,自己中心的なのです。
これはあんたのことね。
デタラメぶちまけてんのに気づかず、「お前間違い、オレ正しい」の一点張り。。
アホ丸出しよ。。
524 :
金平糖 :2007/02/15(木) 09:12:01 ID:JVP4NiFD
>>502 自在さん
リンク、ありがとうございます。
>もう少しのところまで来ている。
天の御国は近いってことですか?これまた、キリスト教的発想ですね。
そうではなくて、「既にそこにいるんだよ。なのに迷いにとらわれてそれに気がつかないだけだよ。」
っていうほうが仏教的だと思いますが。
あなたに祝福していただく道理がわかりませんねぇ。
祝福している御自分を祝福していらっしゃるんですよね。自在さんの自己満足の世界ですね。
>>492 で山登りの例え、brownさんとそっくり。
525 :
金平糖 :2007/02/15(木) 09:12:45 ID:JVP4NiFD
>>517 Brownさん、再び、こんにちは。
覚者には地獄も天国もないんじゃないでしょうか?苦も楽もないでしょう。
あるのは、安心、平安のみだと思いますよ。
愚者にとっては地獄はありますが(そう思い込んでいるだけですが)、
楽しんではいません。どこまでも苦しいだけです。
>>518 >ラクダが針の穴を通るより難しいといわれているから
新約聖書のマタイによる福音書19-12-28に書かれていることですね。
仏教、キリスト教両方の知識が豊富なのはよくわかります。
自在さん、brownさん、どちらかに人格を統一して語っていただけるとありがたいです。(笑
526 :
金平糖 :2007/02/15(木) 09:38:58 ID:JVP4NiFD
>>525 あっ、人格はひとつだから、HNを統一して下さい。
527 :
Ryu :2007/02/15(木) 12:26:58 ID:1x1P2UwY
>>514 >>515 要するにbrown君は「色即是空 空即是色」という基本中の基本がまるでわかってないの。
それで僕が「色即是空」という究極諦を言うと「そうではありません色はあります」
と言うんだけれど、仏教において色(現象)は実在じゃないんだよ。迷いの目にだけ見える。
要するにbrown君は、迷いを実体視してないものを「あります」と言ってるだけ。
嘘八百の説だから、仏罰が下るんじゃない?あなたの言い方をすると。
要するに中観というのは、色(現象)に囚われず、空に固執せずと言うことだから、
「現象はあります」と言ったってどうしようもない。
迷いを固定化してるだけだから、それでは永遠に迷いづつけるだけ。
「現象はあるよ、善悪はあるよ、だけどそれらには実体はないよ」っていってもbrown君には理解できだろうね。。
528 :
馬渡 :2007/02/15(木) 12:55:26 ID:LNeJD4zc
おや、実体はないと言っている(はずの)二人が対立して見えるぞ 実相のあるなしで対立してるのか???
529 :
金平糖 :2007/02/15(木) 15:08:26 ID:JVP4NiFD
>>519 真夜中のliveに参加できないので、今のうちにもうひとつだけ。
要するに、自分を信じる、自分が正しいと思った修行を信じるということかと思いますが、
そこに「信じる自分」が残ってしまいませんか?信じるというのは、一方で「疑う自分」が
あるからだと思います。
「空」ということから言えば、自分という実体はないわけですから、そこに信じるも信じないもないわけです。
>ほんの少しの疑いも,全てを駄目にする。一切の思考を捨て去れ
とおっしゃる一方で、信じる(これって、思考ですよ。)というのは矛盾があると思われます。
そうではなくて、自分の思考(概念)を全て落としきったところに浮かび上がるもの、
そういう自分というこだわりを手放したところに現れるのが現実(自己)ということであり、
現実を知る、自己を知るということだと思います。
530 :
通りすがり :2007/02/15(木) 16:28:24 ID:6npNPlJ/
色は自己の作りだしたものだから無いとするか 自己が無ければ色があってもこだわらないから無いのと同じとするかの 違いじゃろうなあ 悟りの状態からものを言うか、悟りの状態から現実に戻ってものを言うかの 違いじゃろうなあ 石ころも葉っぱもあるが、石ころや葉っぱがどういうものであるかは 無いということじゃろうのう
>>502 へ。
異なる道とは交わらない。
キリスト教とは違うのだよ、仏教哲学は。
532 :
吽狛 :2007/02/16(金) 01:23:37 ID:qxQLH37m
>>507 光ファイバーEOさん
>自己観察が良くないなんて言ってませんよ
>brownさんに対して書いているのですよあれは
あはは、分かってますよ。
でも、ちょっと、聞いてみよう(笑)
brownさんは、自己観察行をやって悟ったから、自己観察で悟ります、といっても、
別におかしくないです。ですが、これを極端に例えると、
崖から落ちて悟った人は、「崖から落ちると悟ります」と言っているのと同じです。
光ファイバーEOさんは、そういう事を言いたいのでしょうかね??
それとも、もっと、具体的に、何か違う理由があるんでしょうかね?
私には、光ファイバーEOさんが、何を言おうとしてるのか、よく分からないです。
brownさんは光ファイバーEOさんの勧誘を断ったみたいなので(笑)
出来れば、詳しく聞きたいです。
533 :
吽狛 :2007/02/16(金) 01:24:52 ID:qxQLH37m
>>518 brownさん
私は、正しいと思ってるから、観察行をしてる訳じゃないですよ。
悟りたいからです。
間違っているかどうかは、悟ってみないと分かりません。
悟るまで、自分の思った通りにやるしかないと思っています。
brownさんの言う「自分が信じたことを自分が信じたようにするしかない」というのは、
私は、そういう事だと思います。
「完全に信じている」という事が起こるのは、疑いと対になった信じていると言う意味の信ではなくて、
信仰とかじゃなくて、その事実が自分にあった時だけです。
brownさんは、自己観察で悟ったから、自分の体験から説明してる。
私は、悟っていません。何も信じる事は出来ないでしょう。
何が間違いか、正しいかも分からないでしょう。
534 :
brown :2007/02/16(金) 01:27:39 ID:GTruKGpF
は,は,は,オノオノガタ,相当頭にきてなさるな。 いつかそれを観察なさい。 貴方の患部を出しておいたから,速やかに進歩するだろう
535 :
brown :2007/02/16(金) 01:33:20 ID:GTruKGpF
>>533 吽狛さん
ご立派ですね
行が定まっている
518のような悪魔がささやいても貴方の行を奪うことはできないだろう
私は負けた。退散しよう
536 :
brown :2007/02/16(金) 01:45:24 ID:GTruKGpF
>>529 金平糖さん
>要するに、自分を信じる、自分が正しいと思った修行を信じるということかと
>思いますが、そこに「信じる自分」が残ってしまいませんか?信じるというのは、
>一方で「疑う自分」があるからだと思います。
いい質問ですね。
その洞察はそのとおりです。
そして,やがてそれが間違っていることが体験の中に明らかになってきます。
その瞬間を,説明することはできません。
絶対的に矛盾しているからです。
そもそもこの文章も矛盾していますが,これがそれを表現する私の話法なのです
537 :
brown :2007/02/16(金) 02:05:41 ID:GTruKGpF
>>527 Ryuさん
>仏教において色(現象)は実在じゃないんだよ。迷いの目にだけ見える。
仏教において現象が実在ではないということはブッダの教えとしてあり得ないし,
たとえそうだとしても,事実はそうではない。
ほんとのところ,仏教が正しかろうが間違ってようがかまわないのだが。
それはさておき,一歩進んでいうならば,仏教はありありとした実在論
です。空なものが何一つないから,全てのものが生き生きとしていると
いうことです。凡夫の認識では,それが完全に裏返っているので,全ては
空虚なものに覆われているのです。だから,一切は空なのです。
しかし,空は空だから,本来,無なのです。そこに,今まで空に覆われて
見えなかった実の世界が開けてきます。つまり,真は,実なのです。
それが,真実の世界です。しかし,真実の世界にも空はあるのです。
真実の世界にある空は,全てを覆うことはないが,真実は,虚の世界をも
含み,それをも見通すからです。真は実として如実に,空は空として如実に
見られるのです。
538 :
brown :2007/02/16(金) 02:20:37 ID:GTruKGpF
>>537 親切のため,もう少し,即物的に説明しておくと,右にいう,
空とは心のことです。実とは現象(事実,知覚)のことです。
全ては心の働きだというのは,全ては空だということです。
心の働きとは,迷いあるいは,迷いの消滅のことです。
つまり,迷いは全てであり,そしてそれは空なのです。
しかし,本当はそうではありません。本当は,心など実在しないのです。
つまり現象だけが実在しています。しかし,心は本当にないわけではなく,
「固執すべき心など実在しない」というあり方をして,存在しています。
早い話,実体とか実在とか言ってもあまり意味がありません。
単に,存在のレベルが違うというか,確実度が違うというか,知ることの
確からしさのレベルが違う2種のものが存在しているということです。
539 :
brown :2007/02/16(金) 02:32:23 ID:GTruKGpF
そのレベル認識と同じく重要なことは,迷いの世界では,空しか見えない ということです。心(自我)のフィルターをとおしてしか,何も見えないのです。 だから,一切は空と教えられるのです。 しかし,はっきりと悟れば,心を介在しない,存在そのものに触れるのです。 だから,一切は如来にあると教えられるのです。 しかし,現象にありのままに触れることが,迷いの認識より純粋だからと いって,心をとおして見るのと本質的な違いはありません。心をとおしても, 現象をありのままに知ることができます。それは,現象ありのまま+心の脚色 が見えているだけで,現象の実相は,何も失われることなく,付け足される ことなく,その完全な認識力は保たれるからです。 つまり,純粋な認識に固執することがなければ,実である現象もまた空で あると知ることになります。
540 :
Ryu :2007/02/16(金) 06:01:37 ID:sGPkjMnq
brownさん、もう、あんたの無意味なデタラメ相手にする気ないけどさ。 一つだけ言っておくと、あんた、病気だよ、心の病気。 要するに、悟ったと思いたい、それで説法してエバリたいってことよ。 僕ははじめから、あんたが悟ってるなんて思ってなかったけれど、 この前の光ファイバーさんとのやり取りで、 もう誰も、あんたが悟ってるなんて思ってないはずよ。 可哀相なやつだなって思ってると思う。 いい加減、猿芝居止めて、自己直面した方がいいと思うよ。 はたから見て、みっともない、惨めなだけだから。。
541 :
Ryu :2007/02/16(金) 06:04:38 ID:sGPkjMnq
×要するに、悟ったと思いたい ○要するに、悟ったと思われたい
542 :
馬渡 :2007/02/16(金) 10:48:58 ID:Zna46Sgr
>>537 > ほんとのところ,仏教が正しかろうが間違ってようがかまわないのだが。
横レスですが
悪い意味で唯我独尊にならないために
先人の言葉で確認するというのが
本当の順序ではないかと思う
それ以前ではあるいは邪魔かもしれない先人の知識が
そこで本当に活きてくるんじゃないだろうか
543 :
自在 :2007/02/16(金) 11:51:23 ID:by3lXTDj
今後のために自我が観照されてからのことを書いておこう。 自我が観照された時、それはもはや維持力を失って消え去る。 もともとそれはイメージに過ぎなかったのだと修行者は理解する。 そして、沈黙、静寂、安心の境地があらわれる。 これは言葉通りのものではないが、そこに達したものだけに理解できる単語である。 しかし、未だその境地を見るもの、認識が残っている。 これを観照しなければ大悟徹底の境地ではない。 白蔭禅師などが「大悟二度」とい言っているのはこの自我と認識の二度の観照を意味している。 自我の邪魔がなければ認識の観照は容易い。 修行者は今、この感覚を見ている者は何か、どのようにして見ているのかを観照するか、あるいは空観を用いて見るものは空であり、実体が無く、縁起によって生じたものであると、観じ消滅させよ。 そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。 その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。 もはや為す者も為される物もない。 ただ無為にして座せよ。 全ての神秘が目覚めた者の前に開かれる。 ニルヴァーナの喜びは至上のものであるが、目覚めた者は現世に戻り、未だ苦渋に迷う衆生を救うべきである。 目覚めた者よ、願わくば多くの衆生を導かれよ。
544 :
Ryu :2007/02/16(金) 12:07:42 ID:sGPkjMnq
>>537 >>542 要するにbrown君は、バカすぎて哲学的思考は無理なんだろうが、他の人のためもあるから、
ちょっと相手にしてやろうか。
まず、現象が実在でない証明。
人間が捉える世界(現象)と、他の生き物が捉える世界は異なっている。
現象がそのまま実在であるなら、なぜこのようなことが起きるのか?
たとえば、テーブルの上の湯飲みを人間は湯飲みとして認識する。
しかし、テーブルの上を動き回っている蟻にはテーブルと言う認識も、
湯飲みと言う認識もない。
よって、実在を認めたとしても、人間の心が認識するもの=現象は、
実在と一致するとはいえない。物としての実在が存在したとしても、
人の心に映される現象が実在するとはいえない。
現象=実在ではなく、現象は、人の五感と概念知覚によって、つくり出されたものである。
人の心がつくり出したものは、実在ではない。
したがって、現象は実在ではない。証明終わり。
ついでに言うと、現象は実在でないと言うことは、実在論の否定にはならないんですね。
ちょっと考えればわかるはずのことなんだが、brown君には無理なんでしょう。。
545 :
Ryu :2007/02/16(金) 12:23:18 ID:sGPkjMnq
あ、それと、「実在ではない」と、「実体はない」と言うのは別ね。 これもbrown君がわかってないと思うから言っておく。
>しかし、テーブルの上を動き回っている蟻にはテーブルと言う認識も、 >湯飲みと言う認識もない。 どうせならここを証明してほしいものだ。 >人間が捉える世界(現象) って自分で最初に定義してるし。
547 :
金平糖 :2007/02/16(金) 18:27:33 ID:RplYE+Mt
>>536 brownさん
!
太極図 両行 二者二択 頓悟漸修
>>543 自在さん、マジでお聞きしたいのですが、
>そして認識をも消え去った時、真の悟りが現れる。
その現れた悟りをまた認識するのですか?
現れた、ということを知覚してというのはどういうことなのでしょう?
>その境地に至ってはもはや言葉で表せるものは何も無い。
>もはや為す者も為される物もない。
その境地のとき、その状態をどう知覚しているのでしょうか?
境地と一体となり、観察者はいないということですか?
その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
そのあたりがいまだよくわかりません。
どこまで消えるのかということが。
549 :
悟ラー :2007/02/16(金) 18:42:23 ID:Kx3ESam+
特別何かが消えるのではありません。 体験を求めておいでならそれは違います。 悟りはもっと普通で特殊なものです。
>>543 >白蔭禅師などが「大悟二度」
まだまだ。
彼は生涯のうちで18回ほども大悟したんだとか。
俺は自分が悟ってると思うよ 悟りの定義なんてわからないし、そんなものは人によって違うだろうしな 一つ思うのは、ある決まった悟りの境地なんてものは無いって事だ 悟るなんて事は別に珍しい事でも凄い事でもなんでもない 悟りに、上もなけりゃ下もない 悟りには強さも弱さも未熟も成熟もない 悟ってる事に意味はないし価値もない 悟ってるからと言って他人よりも優れているなんて事はない みんなが世界を同じように認識しているわけでもなけりゃ 同じように悟れるわけもねえしな 俺にとっちゃ、悟ってる奴なんて何の魅力も感じねえ 本当に珍しくもない、つまんねえ事だ だから、「悟りましょう」と言って人を唆す奴は酔ってるようにしか見えねえな
552 :
brown :2007/02/17(土) 04:49:28 ID:bhTe4US5
>>544 546が既に言ってるが,
貴方がどうして動物の認識を知ってるのだろう?
貴方の論でいくと動物もまた心の象に過ぎないのではないのか?
そうだとしたら一体何を比較したのだろう?
それはさておくとして,どうしてそれが人間のと違うといえるのだろう?
どうして人間の認識が現象そのものだというのだろう?
おそらく,人間の認識と言っておきながら,自分の認識のことを言ってる
のだろうが,要するに,自分しかこの世にはいないといいたいのだろうか?
現象がどうして心に映るのだろう?さらにそれをどうして認識するのだろう?
どのようにして貴方は現象を作り出したのだろう?
貴方がこの世界の全てを作ったのだろうか?
と思うままに書いて見て気付いたが,要するに,現象は実在とは異なるもの
と最初に定義したんですね。
553 :
brown :2007/02/17(土) 05:00:17 ID:bhTe4US5
>>542 馬渡さん
> 悪い意味で唯我独尊にならないために
> 先人の言葉で確認するというのが
> 本当の順序ではないかと思う
そのとおりですよ
注意深くやってください
554 :
brown :2007/02/17(土) 05:17:47 ID:bhTe4US5
>>540 >この前の光ファイバーさんとのやり取りで、
いや,ごめん,ごめん。
ちなみにね,出典を明らかにしておくと,あれは釈尊の話法ですね。
ここ見てる人はそれなりに仏教に興味があるだろうから,半分くらいは
知ってるだろうと思ったけど。まあ,早い話,盗用です。
私にはまさかあのような眼の覚めるような教化力はありません。
brownicな話法とは,もっと愚鈍愚直な道理と感情を揺さぶる修飾を織り交ぜ,
全体的に聞くものの問題が浮かび上がるように作ってある。
読んだだけでも進歩するように書いてあるわけです。
555 :
吽狛 :2007/02/17(土) 05:32:34 ID:3kcOwIXk
brownさん
私がしている、自己観察行の内容は、
自己の感情を感じ、自己分析しまくる感じです・・・。
どちらかと言うと、脳みそフル回転というか、思考は激しいです。
自在さんが
>>543 で説明している観照は、brownさんの自己観察行と同じものですか?
やっている私には、違うものに感じます。
>>543 自在さん
「自我が観照されてからのこと」と、書いてあるので、悟ってからのことですね。
自我を観照し、沈黙し、安心の境地が現れる。これが大悟の一度目。
でも、こんなの、大悟でもなんでもない・・・。
これを、大悟思ってる人に向けて言ってる言葉だとは思うけど。
だから「観照者」という自我が残っている。
「観照者」である自我を「観照」する。これが、いわゆる大悟だと、私は思う。
けど、自我のとき「観照者」は、どこまで行っても「観照者」でしかありえない。
悟らないと、「観照者」を観照する事は不可能。
自我のまま、やれることじゃない。
ま〜、はっきり言って、自在さんが説明している観照は、私には意味がないというか・・・汗
556 :
brown :2007/02/17(土) 06:10:42 ID:bhTe4US5
>>555 > 私がしている、自己観察行の内容は、
> 自己の感情を感じ、自己分析しまくる感じです・・・。
> どちらかと言うと、脳みそフル回転というか、思考は激しいです。
それでいいんです。あらゆる思考を最大限使って分析すべきです。
きっちり,はっきりと,全てを完全にばらばらに分解して分析しきるべき
です。自分で完全に納得いくまで。ただ,それはいつまでも完全にはならない
んですが。だから,当然,フル回転になります。心はより一層悪い状態に
陥っていきます。悟りから最も遠い荒れ狂った状態になっていきます。
それだけ,心を乱して,思考を最大活用しているからです。そして,それで
よいし,そうでなければなりません。
> 自在さんが
>>543 で説明している観照は、brownさんの自己観察行と同じものですか?
> やっている私には、違うものに感じます。
それは私には分かりませんね。
ただ,心配なさらずとも正しい自己観察行者に,観照者の問題は起きません。
それはもっと「意外」な方法で解決されるからです。それはまあ笑ってしまう
しかないでしょう。私達の曇ったような,偽りの認識をもたらす魔法のトリック
が,こんな仕掛けになってたなんて,要するに,体験しなければ絶対に
分からない方法で,それは隠されているからです。
それを予測したりしてはなりません。楽しみにするのはいいんですが。
予測という散漫な心は,正しい自己観察を妨げます。
というのは,自己観察を対象化すると,それは台無しだからです。
要するに,悟りのあり方など,どうでもいいのであって,そんなことは心配せず,
ただ,自己観察のみに集中する必要があります。悟りやこの方法は正しいのか
などという全ての散漫は,完全に忘れ去る必要があります。
557 :
brown :2007/02/17(土) 06:13:15 ID:bhTe4US5
というのは,絶望が成就する必要があるからです
558 :
吽狛 :2007/02/17(土) 08:09:11 ID:3kcOwIXk
brownさん >というのは,絶望が成就する必要があるからです 絶望というのは、希望のない状態です。 絶望しそうになったとしても、「絶望が成就すれば悟るかもしれない・・・」 という、悟るという希望が顔を出してきます。 それでは、結局、絶望など出来ないじゃないですか。 ずっと、堂々巡りです。 で、悟ることを諦めるしかないじゃないですか。 諦める事は出来ないです。しかし、 悟る事を考えていては、悟れない。 ・・・・ 悟ることを諦めたとしても、空しいので、 悟ることを憧れ続ける。 諦めても、もしかしたら、悟るかも、と思うから、 諦められない。
>>558 > 悟る事を考えていては、悟れない。
> ・・・・
> 悟ることを諦めたとしても、空しいので、
> 悟ることを憧れ続ける。
> 諦めても、もしかしたら、悟るかも、と思うから、
> 諦められない。
堂々巡りになってますよ
ブレイクして無限ループから抜けたほうが良さそうです
悟る希望は最後まで持っていても大丈夫ですよ
希望が必要になっても大丈夫
迷いが悟りになる(*1)には必要という媒介によってそうなるのですから
*1)正確には迷いが悟りになるのではないけれど
>>540 彼(brownさん)の書き込みはデタラメというより
彼自身の体験によるこだわりと思い込みでしょう
それがデタラメつーんだといえばそうなんですが
>絶望の成就
成就とは想いやこだわりが解放されることなんですね
願いが適って成就するかもしれないし
変な話、絶望によって成就することもある
完全に諦めてしまったら解放される
実のところ、悟りとは迷いの解放という仕組みなんですね
一生分の迷いを解放したら、そりゃーアンタ大変なものです
561 :
Ryu :2007/02/17(土) 10:45:55 ID:fnPCYg2B
>>552 ごくごくわかりやすく説明したつもりなんだが、やっぱりbrown氏には理解でkね院だろうね。
頭わる過ぎだし、日本語も読めないらしい。。
>貴方がどうして動物の認識を知ってるのだろう?
生物学、動物学でわかっていること。
また、そういう知識がなくとも、
人間の知覚が概念に媒介されていることを知っていれば、わかることでしょ。
蟻の中には、テーブルとか湯のみとか言う概念はない。
ゆえに、蟻がテーブルをテーブルとして、湯飲みを湯飲みとして認識することはない。
何でこんな当たり前のことがわからない?
>と思うままに書いて見て気付いたが,
おまえ、いつもそうだろ。
意味のない言葉、文を並べてるだけ、要するにゴミをぶちまけてるってことね。
>現象は実在とは異なるものと最初に定義したんですね。
は?
何言ってんの?
おまえ、実在とか、現象とか言う概念が何を意味するか知らんだろ。
知らないまま、使ってるから、デタラメになるんだよ。
辞書引けばわかると思うが、現象とは心に生じるもの、実在とは、主観のあり方には関わらず、存在するもの。
だから、言葉の定義からして、現象と実在は別のもの。
まあ、brown君にこんなこと言っても理解できないんだろうが。。
562 :
Ryu :2007/02/17(土) 11:12:10 ID:fnPCYg2B
>>554 は?
「光ファイバーさんとのやり取り」って「客人は来るのか?」とか、
あんたが脈絡のないすっとんきょうなことを言ってたことだよ。
まあ、あんたの文が模倣と盗用に満ちていることはわかっていたけれどね。
>brownicな話法とは,もっと愚鈍愚直な道理と感情を揺さぶる修飾を織り交ぜ,
全体的に聞くものの問題が浮かび上がるように作ってある。
読んだだけでも進歩するように書いてあるわけです。
あんた、ほんとアホと言うか、しょうもないね。
「読んだだけで進歩する」って、すごい自惚れ=妄想。。
あんたの他に誰もそう思ってるやつなんていないと思うよ。
だいたい、あんたの文は、言葉適当につなげてそれらしくしてるだけのところも多いし、
そもそも日本語になってないの。汚物垂れ流しみたいなもんよ。
何つーか自己観察とか言ってるやつが、一番自分をわかってない。
自分で何やってるかわからない。
あたりまえの自覚とか、自己認識力がないんだろうね、可哀想に。。
brownさんの言葉は言葉通りではなく、意図を汲み取る読み方で 読んでいいのでしょうか? さてみなさん、他人に悟りうんぬんをさとすのもわるくないですが、主客の無い 世界においては悟りもなく、人も花もゴミもすべて悟りに向かっているのみ。 無駄なこともなく、必要なことも不必要もない。 全てのものが悟りに向かっているという真理を観たら、もはや悟りに 向かっているもの、いないものという分別はわきません。 この世に悟りなどなし。 ただ一言。 宇宙!
564 :
自在 :2007/02/17(土) 19:57:06 ID:gKqG9aS2
>>548 >その状態のとき、観察者はいないが、振り返って言葉で表現すると
>こうなる表現になる、ということなのでしょうか?
感覚的にはこの表現が一番近い。
理論的に表現されたものでは「唯識論」の中の阿頼耶識の消滅について書かれたものを参考にしていただきたい。
>>555 正直な所、その境地については、今はまだ判ってもらえぬであろうとは考えていた。
言葉は全て仮説であり、言葉自体を超えたところを表すにはとても不自由な道具でしかない。
しかし、悟りを得た時に、私が何を言おうとしていたのか、判る時が来る。
全ての目覚めた者の言葉、全ての聖なる教典は目覚めた後にしか本当の意味は判らない。
ただ、自我を失った後もこのように言葉を操り、思考し、意識を保つことができるということを示すことで、自我を失う恐怖も無用なものと知るだろう。
565 :
名無しさん@3周年 :2007/02/17(土) 20:14:55 ID:EFR1zSle
境地だって「ぶっ」 俺は悟りの世界だけはすごいだぞーーw
566 :
名無しさん@3周年 :2007/02/17(土) 20:16:08 ID:EFR1zSle
飴は各自もらってくださいネ
567 :
brown :2007/02/17(土) 21:09:11 ID:bhTe4US5
>>558 吽狛さん
それでいいんです。
そのようにして,分析は留まるところなく,永遠に続いていく。
その留まらない動きに留まる必要があります。
あらゆる心の動きを追って追い,常に動かしておくことです。
そのようにして,全ての望みは断たれます。
しかし,それでよいからといって,それでよいことにはならない。
「それでよい」が了承されると,そこで止まってしまう。
やはり,「それでよいと思っても,それは悟りではない」と動いていくべき
です。しかし,悟りでないといっても,なお,全ての心の動きを分析して,
留まることなく動いていくべきです。
全ての心の状態は,貴方が備えた強力な分析力によって,安住することなく,
動揺させられていきます。あらゆる欲望は,欲望の心の分析力によって,
分解されてしまいます。分析力が極端に強まれば,ついに,如何なる欲望も,
貴方の心に留まっていることはできなくなってしまいます。
568 :
brown :2007/02/17(土) 21:16:39 ID:bhTe4US5
心の分析浄化の考察を繰り返していくと,徐々に,煩悩は小さくなり, 相対的に,分析力は強化されていきます。より心を照らす光は強まり, よりよく見えるようになります。 そうすると,強力なフルフルの思考力によって,分解してしまわなくても, 徐々に,少しの努力でも心の動きは分解・浄化されてしまうようになります。 というのは,心が浄化され,かつ心の分析力が強まり,智慧の光が増したので, 少しの努力でもより多くの効果をもたらすようになったからです。
569 :
迷い人 :2007/02/17(土) 21:20:39 ID:i8/FEw3x
自在さんにお聞きしたいんですが、 自我を失うと意志だけで行動するように なると思うのですがいかがでしょうか? 意志はただ「する」か「しない」かのどちらかですよね。 そこに善悪の区分もないし、強迫観念もない。 ただ、したいからする、したくないからしないって感じで。 でも自我があると、意志した後に 「しようとする」「嫌々する」「怒られるからする」 「不安で怖いからしない」「めんどくさいからしない」 って感じで自我が割り込んで来て、動機が不純になりますよね。 意志だけだと動機も純粋で、したい事がなんでも出来そうな気がします。 意志が強い人って、自我をはねのける力が強いんだろな。 いまいましい自我の出端を挫いてやりたい!!
570 :
brown :2007/02/17(土) 21:30:43 ID:bhTe4US5
絶望が成就しても,未だ,解脱することはできません。 正確な絶望の境地に,ただ,留まり続ける必要があります。 全ての煩悩を破壊し,生じなくなり,未だ残っている潜勢力を残りなく 消し去り,なお,留まり続ける必要があります。 あらゆる前生の間に蓄積された歪みは,容易に解消することはできません。 異常な力を持った絶望という仏陀の御力すら,それを解き放つことは難しい のです。どれくらいの時間が必要なのかは貴方のカルマの力によるものです。 それが残りなく解かれれば,心の最も自然な状態が,そこに成ります
571 :
brown :2007/02/17(土) 21:39:22 ID:bhTe4US5
あらゆる心の動きを,一切見逃してはなりません。ほんのわずかな欲望も, 見逃すことはできません。心が十分に清らかにならないときには捉えられ ないようなものもあります。しかし,十分に熟達すれば,それも捉えられる ようになっていきます。 心の分析浄化の考察を,繰り返すほどに煩悩は小さくなり, ほんの僅かな欲望にも,気付くことができるようになる
572 :
迷い人 :2007/02/17(土) 21:40:35 ID:i8/FEw3x
冬の寒い日に、朝なかなか起きたくても起きれない時がある。 「寒いし眠いし起きたくない」って自我がなければ、 起きると意志したと同時に、さっと起きれるんだけど(苦笑)。
573 :
brown :2007/02/17(土) 21:43:02 ID:bhTe4US5
>>562 >「光ファイバーさんとのやり取り」って「客人は来るのか?」とか、
>あんたが脈絡のないすっとんきょうなことを言ってたことだよ。
そうそう,それそれ
ところで,一つ聞くが,あなたの住んでいるところにも,雨は降るだろうか?
574 :
brown :2007/02/17(土) 21:53:43 ID:bhTe4US5
>>572 自我っていうのは,あれかな,ユートピアみたいなもんなのかな。
あるいはドラえもんのポケットのような
すごく便利というか,理想的なものですね
それをなくすことで,自分の意志がずばずばとおったり,さっと起きれる
ようになったり。いいことがいっぱい
ところでその自我はどこにあるんですか?何かをなくしたければまず,
それを見つけないといけないと思います
575 :
brown :2007/02/17(土) 21:55:46 ID:bhTe4US5
>>563 貴方は英語を読むとき,日本語に訳してから読むだろうか,それとも
英語のまま読むだろうか?
>>575 563です。なるほど、いままでbrownさんのことを誤解してたように
思いました。
brownさんのこと好きになった気がします。
そう思って今までのbrownさんのコメントを読み返すとなるほどと
思います。
人間、自我とともに先入観をいつのまにかつくっていますね。
英語は読めないので読みません。
訳さなければ読めないものは読むべきではないと思います。
しかし日本語だって訳して読んでいるのですよね、自我で。
これからは何かを読むときは、自分が見ているものは文字だと戒めて
気楽にじゃれあいたいと思います。
じゃれあえないものなんて真理でも悟りでも何でもない気がしました。
577 :
迷い人 :2007/02/17(土) 22:27:57 ID:/Ugv23yw
>>574 brownさん
自我はドラえもんのポケットのようと言うのは分ります。
自我がないと本質に気ずく事が出来ませんしね。
自我は僕の内にあります。
なくしたい自我はいくつも発見済みなので
意志VS自我で毎日闘ってますね^^;。
自我がなかったらホント楽だなって思います。
まあ自我があるから楽だって思えるんですが。。
578 :
金平糖 :2007/02/17(土) 22:54:20 ID:z86mIyxr
>>576 >しかし日本語だって訳して読んでいるのですよね、自我で。
>これからは何かを読むときは、自分が見ているものは文字だと戒めて
>気楽にじゃれあいたいと思います。
いいですね、この感覚!!
579 :
吽狛 :2007/02/18(日) 05:18:17 ID:Al8u6iG5
電話での勧誘やセールスの話がありましたね。 私は、昔、電話を持っていなかった頃、玄関先に来る新聞の勧誘を 断れなかったので、3社から新聞を取ってた事があります。 しかも、全然読んでいませんでした。ニュースにも関心がなかったですし、 テレビすら持っていなかったものですから。 その頃の事を思うと、自分は、新聞を読む気がないという意思が、 自分の中で明確化されていなかったように思います。 だから、新聞の勧誘を断ると言う目的が行動に移せなかった。 セールスにうんざりして、山の様にたまる新聞がうざくなり、新聞いらない! と思ってからは、ちゃんと断るようになりました。 電話でのセールスは、結構頻繁に来るのですが、本当にうっとうしい。 私が断る時のポイントは、相手に「聞く耳持ってねえな、こいつ」と思わせることです。 相手が何か言っていても、単なる前振りの挨拶の時でも、 割り込んで「うちは、いりません」とはっきり言います。 それでも、「理由は何ですか?」と聞いて、話を進めようとする人がいます。 その時は「必要がないからです」と言います。 まだ、話しを進める時は、何を言われても「忙しいので、失礼します」と言って、電話を切ります。 ですが、こんなやり取りでさえ、すごくうっとうしいと、感じる時があります。 電話に出て、勧誘やセールスと分かったら、ボタンを押して、受話器を置くと、 「ピン・ポン・パン・ポーン♪セールス、勧誘、お断りいたします」 と時報のアナウンスの様な声で言ってくれて、自動的に切れる機能があったら良いのにな、と思いました。
580 :
吽狛 :2007/02/18(日) 05:21:01 ID:Al8u6iG5
>>559 光ファイバーEOさん
レスありがとうございます。
>迷いが悟りになる(*1)には必要という媒介によってそうなるのですから
>*1)正確には迷いが悟りになるのではないけれど
必要・・・・自分で必要と思っても駄目なんですかね?そういう意味の必要ではない・・・?
>>560 >実のところ、悟りとは迷いの解放という仕組みなんですね
へえ??迷いの開放??光ファイバーEOさんの言葉は、
難解だな・・・。表現がストレートだからかな・・・。
>>563 宇宙! あはは。私は、brownさんの文読むときは、文脈で読んでる・・・。
何故か分からないけど、使われてる漢字の言葉が、辞書の意味と、少しずれてる気がする時があるから。
漢字には、文脈に合う意味のルビをふると、いいかも知れない・・・(笑)
宇宙(すべて)とかいう風に・・・(汗
>>567 brownさん
レスありがとうございます。
>それでいいんです。
いいんですか(汗
自己観察は続けます。
>>573 >ところで,一つ聞くが,あなたの住んでいるところにも,雨は降るだろうか?
うわっ、また、何か、脈絡のない質問から始まる盗用話法が始まったのか??
今度は、どんな話になるのかな・・・?(笑)
581 :
自在 :2007/02/18(日) 13:10:35 ID:cmpDjPDm
>>569 あなたの言う通りだ。
自我が意志を縛り、迷わせ、人をして間違った道に足を踏み入れさせる。
そして自我を肥大させた軍人や政治家たちが虐殺を繰り返している。
小さなブリキの勲章を胸につけるために、自分の命を危険にさらし、他人の命を奪っていく犯罪者達。
自我を擁護するにせものの言葉は、今世界で起こっていることに目をそむけ、自らの自我を守るための言葉でしかない。
戦争を止めさせるための戦争、虐殺を止めさせるための虐殺を信じてはならない。
真の平和は自我の終焉と共に訪れる。
貴方達こそ真の平和を実現する者だ。
心を止める数息観や集中などの行をなし、己の心をみつめなさい。
止むことなく修行を続けるものは、いずれ自我の消滅を果たし、誰の言葉にも縛られることのない自由な意志を獲得するだろう。
582 :
名無しさん@3周年 :2007/02/18(日) 17:49:40 ID:WZBIFBk+
頭大丈夫か?
■ おすすめ2ちゃんねる 開発中。。。 by FOX ★ このスレを見ている人はこんなスレも見ています。(ver 0.20) 【MEN'S】男の香水 Vol.12【フレグランス】 [化粧] ■禁オナニーマラソン続けましょう パート72■ [身体・健康] 森脇健児スレ 2 [懐かし芸能人]
584 :
自在 :2007/02/20(火) 12:09:53 ID:wO6Yo/gR
>>446 について。
仏陀の教えは我々のみならず全ての衆生の宝であり、梵天をはじめとする天神地祇達が守っている。
そのような宝を汚すものに、容赦の無い罰があたえられるのは当然のことである。
そして、天神地祇の加護を失った者に、魔王が盗り憑く。
魔王に盗り憑くかれた者は、己の意志を失い自らを滅ぼす過ちを犯して止むことが無い。
数々の過ちを犯しながら、己は正常であると思っている。
既に他者から見れば破綻は明らかであるのに。
例えば何も知らない幼い子が台所から刃物を持ち出し、悪戯に振りまわしたらどうなるだろうか。
そのような子は刃物で自分も、他人も傷つけるであろう。
そして刃物の危うさを知る大人は、例え己の子でなくとも刃物を取り上げ、叱るであろう。
仏陀の法は人を悟りに至らしめるが、他人を欺くために用いれば自分も他人も地獄に陥れる。
刃物が台所では役立つが、幼子の悪戯に用いれば自他を傷つけるように。
目覚めた者はこの危うさを知り、何も知らぬ幼子のような者に警告を出す。
幼子と他人を傷つけまいとして。
しかし、既に魔王に盗り憑かれ、己の意志を失った者は聞かず、地獄への道を辿っていく。
そのような者は欺瞞の罪を告白し己を救おうとしなければ、仏陀も救うことは出来ない。
585 :
自在 :2007/02/20(火) 12:25:50 ID:wO6Yo/gR
>>543 について。
これは修行者が行く最後の関門を示したものだ。
例えば大学の卒業試験や論文のようなものである。
初心の者に対しては入学からの行を説く。
しかし、順番が逆になったわけでもない。
頓悟は初心の者にも偶然に訪れることがある。
そのような時には慌てずに、この教えを思い出すように。
偉大な仏陀・釈迦牟尼は「我が教えに師拳なし」と言われた。
仏陀の全ての教えは金で購われることなく、全ての衆生に開放される。
それはネットの上でも同じことである。
まがい物の導師たちよ、我が教えを模倣するがいい。
魔王に憑かれた者たちよ、我が教えをけなすがいい。
それら全ての行いが、仏陀の真の法を広げる役に立つだろう。
全ては仏陀の経綸の内に在る。
目覚めた者の智恵は常人には計り知ることが出来ない。
586 :
自在 :2007/02/20(火) 12:39:55 ID:wO6Yo/gR
発菩提心 悟りを得ようとする者は、初めに悟りを得る強い決意を持たなければならない。 これを菩提を求める心を発するという意味で発菩提心という。 修行の途中で訪れるさまざまな誘惑や、倦怠、恐れなどによって諦めてしまわないように、強い意志を最初に培っておかなければならない。 「私は必ず悟りを得るまで修行を止めない」 と、あなたの信じるものに、出来ればはっきりと声に出して誓いなさい。 大乗の道を行く者なら更に 「悟りを得た後に現世に戻って衆生を導く」 と、いうことも誓うべきであろう。 強い意志を奮い起こし、悟りを得ようと固く決意することが悟りへの第一歩である。 人は意志することで様々な不可能を可能にしてきた。 空を飛び、地を速く走り、海や川も征服して来た。 人の意志に勝る力はこの世にはない。 強い意志を持てば必ず修行を全うすることが出来るだろう。
俺様は悟り開いたぜ
588 :
自在 :2007/02/21(水) 20:40:38 ID:2cWzvV55
座法 座法とは座り方を意味する。 座法は修行の基本であり、同時に最後の行でもある。 修行の最後には修行者は全ての技を捨て、ただ座り続ける。 座法を極めた者には三昧も、無想も容易である。 修行者はまず、足の組み方を工夫しなければならない。 必ずしも足を結跏趺坐にしなければならない、ということはない。 背中を真っ直ぐにして、楽に長時間座れるのが一番よい。 片足だけをももの上にのせる半跏坐や、あぐらのように座ってもよい。 ただし背中が真っ直ぐになっていなければならない。 骨盤を床に立て、腹を乗せ、胸を乗せ、首から頭を乗せるように座る。 肩の力を抜き、頭の中心、お腹の中心、下腹の中心が、真っ直ぐに重力の方向に向かうようにすれば、何もせずとも自然に無念無想の境地に入れる。 中国ではこの三ヶ所を上中下の三つの丹田と呼ぶ。 三丹田をいきなりコントロールするのは難しい。 初心のうちは頭の中心、上丹田と、下腹の中心、下丹田だけでも重なるようにしなさい。
なんの苦労もなく悟り開いた俺にとっちゃ 座法とかカスみてーなもんだ
同じく苦労はしてないなぁ 座法なんて言葉は自己主張したいだけ 落ち着くために座るなら、力む余地が少なければそれでいいような しかしあれだねbrownにしても自在にしても この箱には価値があるのがはいってるぞーといって そのピカピカなやつを一生懸命説明してる感じだけど なかみ空っぽじゃんwww
まー、いいんじゃね?brownも自在も、それが生き甲斐なんだろ 楽しめりゃ、何でもいいよ 座ろうが祈ろうが、女とヤろうがよ どれも一緒だよ
592 :
自在 :2007/02/22(木) 19:58:01 ID:kw6SBqyZ
座法U 三つの丹田を揃える最も良い方法は、正中線を真っ直ぐに整えることだ。 体の前面を通る真中の線、鼻先、胸の中央、臍の三点を合わせる。 部屋にある垂直な柱の線などを利用し、自分の体の正中線が真っ直ぐになっているか確かめても良い。 正中線が真っ直ぐになっていれば、後は体を少しずつ動かして微調整をする。 体を動かして居るうちに、体が気持ち良くもっとも集中する所がわかる。 そこがあなたの座法の正しい位置である。 この感覚が判るようになるまで、座法の研究を続けるべきであろう。 道元禅師は禅とは只管打座であるとして、小賢しい技術は捨ててただ黙々と座りつづけるべきだと説いた。 座ることは修行の基本であり、基本を疎かにする者は大成することはない。 例えば野球やサッカーなどのプロスポーツを教えるコーチなどは、本当に選手を育てようとするなら、まず基本をしっかり教えるであろう。 そしてテクニックなどは、基本を身につけた後で教える。 それが正しい教え方なのだ。 同じように真の悟りを得ようとするなら、まず基本である座法を身につけるべきなのだ。 修行の基本である座法はいくら研究しても、し過ぎということはない。 各自、力を尽くして研究して欲しい。
以前ビデオで見たことがある 世界紀行に出てたガンジス川上流で修業してたインド人たちはあれから悟れたのだろうか? 凍った大地に小屋を建てて上半身裸ですごしてたけれど・・
594 :
馬渡 :2007/02/23(金) 18:15:09 ID:zG7v6Im8
気になる点がひとつ。 観察行というテーマでいろんなやり取りがあった中で 禅の大悟を否定した文章があったと思う。 人によって方法が違っても 最後にたどり着くところは同じという考えもあるけど 実際のところどうなんだろう。 windowsを入れ直していて思ったんだが 例えば禅の大悟を OSのクリーンインストールのようなものとしたら 観察行を主張する人って あなたというOSは初期化できません クリーンインストールは無理です だから一つ一つのアプリケーションが どのように動作してるかを把握して 原因を特定することで一つ一つ削除していくしかないですよ という話なんだろうか。。。 瞑想も座禅もアプリケーションだから それを動かしてるOSはそのままあるんだよ、てか。 どうなんでしょうねえ。 例えに無理があるかなあ
595 :
自在 :2007/02/23(金) 22:12:21 ID:H0EpV0Bs
>>594 なかなか良い例えだ。
例えは事実の一端を示していればそれで良い。
PCのシステムは人をモデルとして作られたために、参考になるところがある。
OSを自我と例えると、禅やヨーガのような集中系の行は、強い集中力によって自我を観照するのであるから、OSを力技で排除しクリーンインストールするようなものと言えよう。
観察はOSの仕組みそのものを理解してOSを排除するようなものと言えよう。
どちらにせよ、最後には自我を観照するのであるから、正式な方法として私は観察を薦めている。
多少、質問の傾向を違えてしまったようだが、これで答えになっているだろうか?
596 :
自在 :2007/02/23(金) 22:47:21 ID:H0EpV0Bs
無常 座法ができるようになったのなら、この世の在り様を知り、悟りに向かう意志を固めるために、無常の観想をする。 無常とは字の通り、全てこの世にあるものは常にあるといことが無く、移り変わって行き、止まるもののないことを意味している。 私のこの身も時がくれば滅びる。 そしてあなたの身はどうであろうか。 近親者を亡くしてしまった者は、この無常ということが良くわかるであろう。 人も物も、全て変化し続け、やがて滅びる。 それを逃れるためには修行して悟りを得るしかないと、深く心に思うのだ。 私は修行中は死を思うことに疲れ、修行を止めようかと思った時があった。 私も世の人々のように、死を思うより、限られた生を楽しもうと、そのような事を考えながら歩き、交差点で信号待ちをしていると、一匹の蝶が飛んできた。 蝶は車の行き交う車道に飛び出した。 そして、車にぶつかり一瞬にして消えた。 その体は一枚の羽も残さなかった。 あの蝶は恐らく何も知らずに死んでいったろう。 この世には自動車というものがあり、それにぶつかって自分が死んだという事さえ判らなかったであろう。 自分が死んだという意識さえなかったかも知れない。 何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。 その恐ろしさに私は震えた。 私にはそのようなことは耐えられなかった。 その蝶の最後は百万の経典より、確実に私に無常、死というものの恐ろしさを教えてくれた。 その後、私は修行を続け、悟りを得て死の恐怖を克服することができた。 死を克服しようと言う動機こそ、人を悟りに向かわせる最も強い力になる。 例えばあなた自身が生まれてから成長し、成熟して、やがて衰え、死に至る過程をイメージすることで、無常と死を免れぬ自分というものを意識できるだろう。 精進していただきたい。
598 :
金平糖 :2007/02/24(土) 09:28:16 ID:kTj2YMiM
>>596 自在さん
>何も判らずに生き、何も判らずに死んでいく。
>その恐ろしさに私は震えた。
>私にはそのようなことは耐えられなかった。
悟りを得られたとのことですが、悟りを得たことによって、それまでの死の恐怖は
どのように変化しましたか?
現在、死をどのようなイメージでとらえていますか?
599 :
金平糖 :2007/02/24(土) 09:34:27 ID:kTj2YMiM
>>549 悟ラーさん
>特別何かが消えるのではありません。
>体験を求めておいでならそれは違います。
>悟りはもっと普通で特殊なものです。
悟りの経験をお持ちの方かと思いますが、その前とその後では
御自分の意識がどのように変化されましたか?
悟る前は、ずいぶんと喜怒哀楽に満ちた生き生きした人生だったな 悟った後は、ただ死を待つだけの余生を過ごす日々だ
601 :
自在 :2007/02/24(土) 22:01:47 ID:gEeVMYrI
>>598 悟りを得た後、死は存在しないと知ることができた。
そして死への恐怖は消えた。
肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ。
しかし、その知識を得ることが、即ち悟りを得ることではなく、副産物として得ることが出来る知識の一つだ。
>>594 この例えの良い所は多くの修行者を悩ませ、真の覚者達が言及して来た問題を明示している点だ。
PCではOSに依存しているアプリケーションは、OS自体を削除することができない。
人では自我によって行う全ての行為は、自我を補強するだけで脱落させることが出来ないということだ。
それ故に観照というものが必要になる。
この観照は観察の一種であるが、自ら引き起こすことは出来ない。
これをクリシュナムルティは見ることと呼び、オショーはアウェネスと言い、鈴木大拙は看と呼んだ。
PCに例えればOSの働きを止め、BIOSからの指令を待ってOSを削除するというような感じになろうか。
自我の働きを抑え、自然に湧き起こる観照だけが自我を消滅させ得る。
この観照はとても大切なものであるから、別に一項を設けて言及する。
今日はこれまで。
602 :
金平糖 :2007/02/24(土) 23:06:21 ID:Pa8bIUaO
>>601 自在さん
>肉体の消滅は自己の消滅ではなく、変化の相の一つに過ぎない。
>それは永遠不滅の意識への、ステップなのだ
永遠不滅の意識ですか・・・・・・・・。
輪廻のことをおっしゃっているのですか?
ブッダでさえ「死後の世界」については沈黙を通したらしいですよ。
自在さんのお話って、どうもキリスト教的解釈としか思えないんですが。
もし、例え肉体は滅んでも「自分の意識(魂)」は後世に受け継がれるということを言わんとしているとしても、
「あなたの意識(魂)」というのはそれを受け継いだ(受け継ぐ)人間の意識(概念)によるものではないでしょうか?
「永遠不滅の意識」ということ自体、自在さんの概念であり信仰に過ぎないと思いますが・・・・・・・。
603 :
犬作 :2007/02/25(日) 17:11:35 ID:fI1DK4bH
やっぱり、財務とかお布施とか強制するものではなくて、気軽にお賽銭として 入れられる方がいいような気がする。 特定の宗教が、教団のために多額の金額を徴集するのは間違っている。 そんな団体は、罰を与えるべきだ。
604 :
自在 :2007/02/25(日) 19:54:46 ID:m8v/Q6Xw
>>602 あなたの質問に答えるのは容易であるが、
>>524 のような反応を考えると、あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
だから逆にあなたが私に教えて欲しい。
T 私は輪廻を知って死の恐怖を克服したと書いただろうか?
U 仏教において輪廻と悟りはどのような関係であると説かれているか?
V キリスト教は輪廻の概念を肯定しているだろうか?
V キリスト教は神を信じないものが修行によって救われると教えているだろうか?
W 仏陀は死後の世界を説かなかったと言うなら、「ダンマパダ(法句経)」の次のような詩句は何を意味しているか?
テラワーダ協会による和訳「ダンマパダ」
http://www.j-theravada.net/sakhi/dhammapada-jp.html#10 棒の章より
131
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害する者が、自己の安楽を求めるなら、死後に、安楽を得ることはない。
132
安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害さない者が、自己の安楽を求めるなら、彼は、死後に、安楽を得る。
悪の章より
或る者たちは、〔母〕胎に再生する。悪しき行為(悪業)ある者たちは、地獄に〔堕ちる〕。善き境涯(善趣)の者たちは、天上に行く。煩悩なき者たちは、完全なる涅槃に到達する。
X あなたに仏陀は死後の世界を説かなかったと誰が教えたのか?
Y あなたに嘘を教えた者をこれからも信奉すべきだろうか?
正直な所、あなたの才能は教義とは異なる所にある。
あなたには実務の素晴らしい才能がある。
今後はそちらの才能を発揮して欲しい。
605 :
自在 :2007/02/25(日) 20:05:49 ID:m8v/Q6Xw
数息観 数息観は集中力をつけるために非常に良い。 観察が本道であるが、集中力の無い一般の人間には観察自体が困難だ。 集中力を増し、雑念を静める力を養うために、数息観を止の行としてお薦めする。 先ず静かな所に座り、鼻の頭に軽く意識を掛け、普通に息を吸って、ゆっくり長く息を吐いていく。 息を吐く時に、頭の中で一と数える。 又、普通に息を吸い、ゆっくり長く息を吐いてニと数える。 このようにして十まで数え、十まで行ったら今度は十から数を減らして行って、一に戻る。 簡単であるが効果は非常に高い。 たまに長時間行うより、一日に五分でもよいから、毎日続けてほしい。 夜の寝る前などに行うと、安らかに眠れるようにもなる。 そして、日常生活でも落ち着きが出て、不意の出来事でも慌てないようになる。 精進していただきたい。
606 :
自在 :2007/02/26(月) 22:28:05 ID:FHXYPjOS
数息観 雑念の処理 数息観などの瞑想をしていると、必ずといっていいほど悩ませられるのが雑念である。 瞑想をしていたはずなのに何時の間にか、全く別のことを考えていたという経験は多くの方がしているだろう。 これらの雑念を処理するコツは無視することである。 雑念を止めようとか、抑えようとすればそれが新たな雑念となる。 それよりも雑念が生じても、無視して息を数えることに集中する。 そのようにすれば、次第に雑念は少なくなり消えていくだろう。゜ 雑念ばかり頭に浮かぶからといって、怒ったり、焦ったりする必要はない。 ただ確かな信念を持って修行を続ければ、次第に集中力が付き、雑念を完全に処理することができるようになるだろう。
607 :
吽狛 :2007/02/27(火) 08:51:43 ID:7hLBQB93
めちゃ、庶民的な事を、悟り開いた人に尋ねたい。 ある日、ウチの子供に、ダンナが 「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」 と言って、子供の鼻をつまんでいました。 子供は、まだ0歳なので、言葉とか分からないので、 「?」というような顔をして見てるだけですが、 一応、その時は、「○ちゃんは、このままでかわいいよ。」と子供に言った。 今は言葉が分からないから、なんともないけど、子供が、大きくなって、 言葉が分かるようになって、そういう事言われたら、傷つくかもしれない。 いや、本人じゃないので分からないから傷つかないかもしれないけど、傷つくと、私は思っている。 そういう場合、覚者さんは、どういった対処をするんでしょうか?
いまやってみた。 洗濯ばさみで鼻をつまんでみたら超超痛い。 今度は手で鼻をつまんでみた。呼吸がしづらく、苦しい
>>607 自分がそう思っているのなら、夫の奇行を戒める事だ
610 :
自在 :2007/02/27(火) 20:55:27 ID:L2vf18Sg
>>607 は
>>609 の言う通りだ。
子供を守るために夫であっても、もう少し積極的に止めてもいい。
子供には言葉がわからなくとも、両親の心は伝わる。
子供が寝る前に、あなたはとても良い子だと話しかけてあげなさい。
どうでしょう。 変な宗教性は必要ないですね。 まぁエミールには自然教育の観点から 人間は赤子のころには頭の形が丸くなるように整えられたり、 自由に動けない服を着せられたりと、 産まれたころから人間的でない型に嵌められていると書かれていますが、 その自在殿の書き方における宗教性になると、 その人間的かかわりは一層人為的になる気がしますね 無為自然は、何も意気込まない態度のうちにあるんじゃないんでしょうか
612 :
自在 :2007/02/27(火) 21:13:55 ID:L2vf18Sg
数息観 三昧(サマーディ) 数息観を熱心にやっていれば、雑念がやがて止まり、完全な無想の状態が現れる。 外部からの刺激にも心が動かされない完全なる集中状態を、三昧(サマーディ)と呼ぶ。 この三昧は昔からよく悟りと間違えられてきた。 悟りを得たと勘違いする者の多くは、この三昧を経験しただけの者だ。 しかし、悟りと三昧は明らかな違いがある。 三昧は一時的な経験に過ぎない。 悟りは精神の恒久的な変化である。 例えば行をする前に借金や、体の痛みに悩まされていた者がいたとしよう。 三昧の途中では世俗の悩みや痛みを忘れていても、三昧から覚めると又、悩みや痛みが戻ってくる。 悟りを得た者は、もはや悩みや痛みには苦しめられることはない。 それらが消えてしまう訳ではないが、もはや目覚めた者を煩わす苦ではなくなる。 これが三昧と悟りの違いである。 悟りを求める者は、三昧に止まらず、真の悟りを求めて更に修行を続けるべきであろう。
613 :
金平糖 :2007/02/27(火) 22:20:41 ID:nfsJIv0u
>>613 横レスでスマンのだが、
>604での
>あなたは私の話を聞こうという気はないようだと、思わざるを得ない。
という書き込みが当たっていたことを実証したわけですな。
>解脱者は、「私は解脱した。」とは言わないそうです。
例外なくそうなのか、その妥当性はどこに求める?
自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
酔っ払いで「俺は酔ってねぇ」って言う奴は一杯いるのは確かだけど。
615 :
金平糖 :2007/02/28(水) 07:43:17 ID:rgyHnrFO
>> 614
http://www.j-theravada.net/qa/qahp68.html を読んでいただけたでしょうか?
大事なのは、以下の部分です。
>私という錯覚、『自我』という錯覚はなくなっているので、『自分』を表現しない。
>発表しない。他人に認めて欲しいという気持ちは完全に、全くもありません。
>だから、自分で「解脱した」言わない、言えないのです。
悟り=忘我とも定義できます。
自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
構造自体おかしくはありませんか?
掲示板と言う性質上、何らかの言葉(概念)で表現しなければならないという制限は受けますが、
ここに書かれている自在さんの言葉は自在さんの概念(観念)に過ぎません。
勿論、仏教の知識もキリスト教の知識も沢山お持ちの方だというのはわかりますが、
その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは?と思うところが多々ありました。
また、仏教の知識が多い、方法論に詳しいのは素晴らしいことだと思いますが、そんなに難しい言葉や
文章で表現しないと悟れないの?っとも思いました。
もし難しいことだとしても、その難しいことを平易な言葉で簡単に説明できるのでは?とも思います。
もっとも、これは私の願望ですが・・・・・・・・・。
>自在さんかHPか、はたまたキリスト教、仏教、
>都合の良い事を選択して信じたいだけのように見える。
自在さんがどういう方なのか私にはわかりません。解脱者といのも自在さんの自己申告ですから・・・・。
もし、どちらを信じるのか?と問われれば、『今は』、少なくても所在のはっきりしているテラワーダ協会HP
かもしれませんが、最終的には自分で確かめるしかないでしょう。
悟りもそんなのんじゃないでしょうか?100人いれば100人の悟りがあるはずですから。
>>615 ちゃんと読んだ上でレスしたよ。
引用部分には論理的帰結は見出せない。
>『自分』を表現しない
ことと表現できないこととは積極性の有無という点でまったく異なっている。後半の
>「解脱した」言わない、言えないのです。
と両方を無理矢理結び付けている。
特に、その後に続く、
>第三者に「この方が解脱者です」と言える。
>これを言うために言う人は解脱していないとできません。
ここは完全に間違っている。
悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
>自我が落ちて主客未分離の状態なのですから、指導する者(自在さん)、指導される者(ロムしている私達)という
>構造自体おかしくはありませんか?
それとて、あなたが作り出しているあなたの構造。現にあなたはあちこちで質問をしている。
>その内容(概念)に「仏教とキリスト教」がチャンポンになっているのでは
あなたの知識がそう結び付けただけ。あなたが自在さんの言葉を信じるか選択する際、
仏教やキリスト教というオーソリティによる裏づけを求めたからそうなる。
選択的に信じることより、批判的批判・批判的肯定をきっちり行うことのほうが
清濁入り乱れている宗教・思想関係の理解には役立つと思うよ。
617 :
金平糖 :2007/02/28(水) 09:11:37 ID:rgyHnrFO
>>602 >悟っていない俺だって「金平糖さんが解脱者です」と言うだけなら言える。
>そのとき第三者は何を持ってこの両者が悟っていると判断する?
すみません、私は悟ってませんよ。悟っていないから自在さんが悟っている人かどうかはわかりません。
ただ、なぜ自在さんが御自分の意見をそんなに表そうとするのかわかりません。
「わからないのは、あなたがわかろうとしていないからだ。」といわれればそれまでですが・・・。
もちろん、自分(この私)が正しいとも思っていません。また、自分の概念を第三者に
押しつけようとも思っていません。そもそも、押し付けられるわけがありませんから。
あなたのご指摘には感謝いたします。ありがとうございました。
618 :
614 :2007/02/28(水) 10:34:56 ID:CV9LEIqy
>>617 意図が伝わってないようですね。
まぁ、いいや。
619 :
吽狛 :2007/02/28(水) 12:43:11 ID:cjdstMFJ
>>609 >>610 「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」
と言っているダンナに、どう言って止めたら良いと思いますか?
それとも、殴るとか?(汗
今まで、全く、積極的に止めてこなかったわけではなく、
言い方を変えて、いろいろ言ってきたんだけど、忘れてしまうのか、
言い方が優しすぎたのか?また、同じような事を子供に言うんです。
だから、ダンナの行動を止める、もしくは変えるのは、不可能なんではないかと思いました。
でも、言い続けるべきなのかな?
変わることはなさそうだけど・・・・。逆に、ひねくれてしまうかも知れん(汗
家族なんだから、痛みを分け合いましょ♪ って言って、旦那にも洗濯バサミするとか?
621 :
吽狛 :2007/02/28(水) 14:48:24 ID:cjdstMFJ
いや、実際、鼻に洗濯バサミする事はないと思うけど(笑) 鼻に洗濯バサミする事を止めるんじゃなくて、 「今のうちに、洗濯バサミで鼻つまんでおくと、鼻が高くなるかもしれん」 というバカな発言を止めるには、どう言ったらよいのでしょうか??
悟ったら人間関係の誤解とかが無くなるらしいけど 相手の心がわかるのか 人の態度なんかに心を左右されないのかよくわからないけど とにかく無実の罪なら犯人扱いしたりせず真実がわかるらしいね。
悟ったくらいで人間関係の誤解がなくなるわけないだろ
悟ってない人間が、悟ったらという仮定をしても虚しいね。
625 :
自在 :2007/02/28(水) 20:43:09 ID:OpT55d0E
>>621 同じ言葉で何度も何度も言いなさい。
「そんなことを言わないでほめてあげて」などの言葉を、何度も繰り返し告げるのです。
千回ほど繰り返せば、大抵は修正される。
これは仏陀が子息を諌めた時に使った技だ。
子供が少し大きくなって、危ない行動を注意するときなどにも使うといい。
626 :
自在 :2007/02/28(水) 20:45:48 ID:OpT55d0E
627 :
自在 :2007/02/28(水) 21:28:32 ID:OpT55d0E
>>617 あなたの言葉は意図するところと反して、かえって私の言おうとしていることを質問するような形になっている。
あなたがいろいろと活躍してくれたおかげで、まがい物の導師達は消え、ここは私のブッダ・フィールドになった。
これも仏陀の経綸の一部なのだ。
あなたの自我には理解できないかも知れないが、あなたの潜在意識は私という本物の目覚めた者にあって震え、恐れながらも質問を止めることができない。
全ては定められた通りに進行している。
あなたの質問通り、私がどうして教えを説くのかを語ろう。
例えば昔、汚れたどぶに落ちた経験のある者の子供が、同じどぶに落ちてしまったとしよう。
親はどぶが汚く、危険に満ちたところであると知っているから何とかして子供を助け出そうとするだろう。
同じように目覚めた者にとって衆生は全て我が子であり、汚濁の世にあって苦しむのを見て法を説く。
私自身、世にあって死の恐怖や執着の悩みに苦しめられた。
それがどれほど強力に人を苦しめ、悩ませるかを知っている。
そして最後には死によって、全てを失うという最大の苦痛が待っている。
だからかつての私のように同じ苦しみを抱える者に法を説くのだ。
そして、先ほどの例のどぶに落ちた子供を助けるのに、あまりにも深くて子供自身が努力して這い上がらなければならないようなどぶであれば、親はいろいろと言葉をかけてやるだろう。
「私はそのようなどぶから抜け出た。お前もそうしろ」という親もいれば「私はまだどぶから抜けていないが、そこから抜け出す法をしっている」という者もいるだろう。
私が師として言動を模範とするのはただ仏陀・釈迦牟尼だけであり、他の者達は参考にはするが、基本的に何を語ろうが関係はない。
そして釈迦牟尼は自らが解脱したと、はっきり語られた。
故に私もそのように語るのだ。
>>621 あら?
ソイツは失礼。
ちゃんとダンナとコミュニケーションとれてる?
カマって欲しいだけじゃねーの?
若しくは、ネタとして面白がってるとか?
629 :
吽狛 :2007/03/01(木) 08:14:02 ID:g8K8KgHC
>>625 自在さん
千回・・・(汗
修正されるかどうか分からないですが、繰り返し
「そんなことを言わないでほめてあげて」などの言葉を掛けて行きます。
ありがとうございました。
>>628 承狂さん
自分は真剣に悩んでるんだよ。
そういえば、ダンナと、コミュニケーション取りづらい時が多々あるなあ。
ダンナが変な事を言うのは、そういう性格みたいだから止まらないかもだけど、
バランスよく、褒めたりも出来るようになればなあと思う。
でも、子供が言葉が分かるようになったとき、ダンナが子供を褒めれない状態
だったとしても、そのことでダンナとギャーギャー喧嘩してたりとか、子供に見せたくないと思う。
だから、ダンナの接し方とか、言い方とか、とかいろいろ考えちゃうんだよね。
話の内容とかより、父と母の関わり方とか、子供は見てると思うから。
>>629 いや、貴方でなく、ダンナが、ネタとして面白がってるんじゃなかろーかって話。言葉が足りませんでした。
まー、奥さん。
アナタね、家庭ってのは、背伸びする場所じゃないんだから、
自分の理想通りにシヨーったって無理じゃないの?
別に浮気するとか、ギャンブル狂とか、働かないとか、暴力振るうとかじゃないんでしょ?
多少のバカは、笑ってコラエテあげたら?
つーか、本当に悩んでるなら、別のトコに相談したら?
631 :
自在 :2007/03/01(木) 21:40:32 ID:NObbqZZo
観察 心を止める数息観で、雑念を処理することが出来るようになったなら、そろそろ観察を行ってもよい。 観察をしながらも数息観は続けていくべきであろう。 数息観によって集中力を養いながら、観察もしていくと、成長は早い。 観察は初心の者がいきなり心の中をみるというのは困難である。 故に肉体などの外から内へ、粗大なものから繊細なものへと観察していくのが判りやすい道だ。 そうすることによって観察するということも学ぶことが出来る。 まず数息観を行い、雑念が無く、集中力が増した状態で、あなたの手を観察してみなさい。 初心の者は心の中で言葉にして観察してみるのもよい。 手や指という言葉を使わずに表現してみるのだ。 「これには五本の突起がある。それには曲がるための皺がある。先の方には固いものが覆っている・・・」 などというように判りきっているようなことでもよいから、出来る限り細かく、詳しく観察していく。 そのように観察していると雑念が起こるが、数息観によって雑念の処理が出来る者にはすでにそれは邪魔にはならないはずだ。 例えば手にキズなどがあり、それを見て「このキズは子供の頃、車に轢かれたキズだ。あの時は大変だった・・・」などと考えてしまうのが雑念である。 観察は今、ここにある物だけを純粋に見つめる行為だ。 雑念と観察は明確に区別して修行を行わなければならない。
632 :
自在 :2007/03/02(金) 21:38:02 ID:lF1a/kYP
観察U
手の観察を真面目に行えば恐らく注意力のある者は、その力に驚くだろう。
ただ手を観察するというだけでも、大きな効果が得られる。
それがどんな効果なのか、自ら確かめていただきたい。
手からはじまった観察は腕、肩、体、足、頭、顔、そして眼に進んで行く。
鏡を使って顔や、眼を観察するのも良い。
肉体の全てを観察し終えたとき、ある資質を持つ者は、既に自我の脱却を果たしているかも知れない。
そのときは慌てずに
>>543 を思い出して、認識の脱落を目指して欲しい。
肉体の観察が終わっても自我を滅し切れない者は、続いて感覚、感情、思考、意志、認識の観察に進んでいただきたい。
この違いはただ自我を何に同一化しているか、という違いに過ぎないので、修行者は余計な劣等感、優越感を持たずに修行に専念すべきであろう。
633 :
悟ラー :2007/03/03(土) 15:48:25 ID:M5r269K0
>>599 とても安楽になりました。
そして本当に安楽なので私の周囲も安楽です。
634 :
金平糖 :2007/03/03(土) 15:56:10 ID:nxW45lvS
>>633 悟ラーさん
その感覚、よくわかります。
短い文章のなかに、それが感じられます・・・・・。
レス、ありがとうございます。
635 :
自在 :2007/03/03(土) 21:12:51 ID:/ASh5eSa
観照 この辺で観照について書いておかねばなるまい。 観照は観察の一種ではある。 しかし、通常の観察と違うところは以下の二点にある。 T 意識的にではなく、無意識的に行われる。 U それは観察者そのものを観察する。 これをまとめると、観照とは無意識的に観察者を観察する行為であると言えよう。 これは言葉にすると難しいが、実際には多くの者が大なり小なり経験している。 例えば旅行などに行った時、今まで悩んでいて結論が出せなかった問題が、状況を離れて自分自身をも客観的に観察した結果、結論を出すことが出来たというようなものでも、小規模だが観照の一種といえよう。 このような場合でも自分を客観的にみようとするのではなく、無意識的に頭に浮かんだ自分自身を含む状況を客観的に見ることによって観照はできる。 前述のように自分を客観的に観察しようとすればするほど、かえって自我の介入を招いてしまうので観照は困難となる。 しかし、この観照を起こしやすくするのは、やはり観察を続けることなのだ。 観察を続けることによって、いずれ無意識のうちにも観察が働くようになるだろう。 そしてその観察が自我に向かった時、観照は起こる。 その時まで、あきらめることなく精進していただきたい。
637 :
自在 :2007/03/04(日) 21:44:30 ID:RVjQe+sN
観察 感覚の観察 感覚を観察するのには、長く響く鐘の音などを聞く方法が良く使われる。 集中力を保ったまま、聴覚を観察できる良い方法だ。 まず、出来るだけ長く響く鐘を用意する。 パソコンなどの音でもよい。 自分で叩かなくとも、定期的に音が鳴るようにするのが理想的だ。 肉体の観察と同じように、数息観を行い、集中した状態で鐘の音を聞く。 その時、音、音に反応する耳、耳からの刺激によって起こる心の動きなどを詳細に観察していく。 その他の視覚、触覚、臭覚、味覚なども、大体同じように、感覚の対象、感覚器、感覚主体を観察する。 各自工夫して観察していただきたい。
638 :
自在 :2007/03/05(月) 22:41:16 ID:GrQKU+dw
観察 感情の観察 観察もこの辺りから困難になってくるであろう。 感情を観察するという行為そのものに、強い反発を感じる者もいるだろう。 その反発自体が、感情を自己と同一化しているせいなのだが、感情の満足を求めて今までの人生を過ごしてきた者にとっては、感情の観察は人生の目的をも破壊されるような感覚を受ける。 その他にも感情を心に起こし、それを観察する間もなく、感情に引きずられてしまう者もいるだろう。 このような時こそ、己が何故、悟りを得ようと決意したのかを思いだし、発菩提心を発揮して集中して修行していただきたい。 感情の観察では心の中にある感情を引き出し、それを観察する。 喜怒哀楽といった感情を呼び覚ますのだが、過去の記憶を思いだし、感情に流されないようにしながら、今の反応を観察するというむずかしいことをしなければならない。 初心の内は悲しみや喜びというような穏やかな感情から、観察をしたほうがいいだろう。 精進していただきたい。
639 :
brown :2007/03/05(月) 22:44:31 ID:oIg3tSsr
>>607 「あっそ」とでも言うか,無言でかまわないのがよいですね。
そういう雰囲気でなく,他人に対する社交的な場面なら,愛想笑いを
しておけばよいでしょう。
そういうのは綺語といって,あくびやくしゃみと同じなのです。
夫があくびをしたとして,どんな返事をしよう?
でもそうすると,あなたの心には,もやもやというかいらいらというかが
残ります。
それをよく分析することがより重要でしょう。
>>607 凡人なんですが、
私は、子供の時、洗濯バサミで鼻をつままれましたが、
確かに鼻筋も通っているし、高いです。鼻をつままれた記憶も
いい思い出です。そんな、マヌケな事でも、いらぬ心配をした事でも、
笑える家庭を作った方が良いと思います。出来れば、鼻をつまむのは、
思い出が共有できる御歳まで、待った方が好いです。
成長期の中学生からが効果的です。
あまり小さいうちだと、鼻の組織が破壊され易いので逆効果です。
このスレの中では、多分
>>640 氏が一番悟りに近いと見た。
(`ー´)yヽξ
642 :
自在 :2007/03/06(火) 21:38:28 ID:mX2dh3RZ
観察 思考の観察 思考を観察するのは数息観で行った、雑念の処理を無視するのではなく、見守るかたちにすればできる。 生じては消えていく思考を、ただ見守る。 そこに批判や意見は付け加えてはならない。 ただそれが生じては消えていくさまを見続ける。 思考の対象、思考という行為、思考する主体を見る。 それがどこから起きて、どのような作用を及ぼすのか、詳細に見つづけて欲しい。
643 :
自在 :2007/03/06(火) 21:48:26 ID:mX2dh3RZ
自我の同一化 この辺で自我の同一化について書いておく。 体や感覚、感情、思考、意志、認識などのどの部分に自我を同一化しているのかは、人によってかなり違う。 ある者は自分を感情と同一であると感じ、他の者は思考こそが自分自身であると考えている。 われ思う、故にわれ在りと言葉を残した古代の哲人は、その思考に自分を同化していたのだ。 私自身は認識に自分を同化していたと、悟りを得てから判った。 あなたの自我がどの部分に同一化しているかは、あなた自身が探り出さねばならない。 一度それがわかったら、それをみるだけで、自我の離脱がはじまる。 精進していただきたい。
>>641 まあ、自在なんかよりも、よっぽど悟ってるな
645 :
自在 :2007/03/09(金) 20:37:18 ID:BbmCJd7H
観察 意志と認識 この意志と認識の観察からは特に難しくなってくる。 この二つはすでに表層の意識をはなれ、潜在意識の部分で働いているからだ。 人間が何かを認識し、選択して意志を発動させるまでの動きは、殆どが潜在意識で決定されている。 認識から意志決定に至るまでの心の動きを観察するのは。非常に困難なことだ。 その原因は早さにもある。 人が例えばリンゴなどを認識すれば、瞬時にそれがリンゴであり、リンゴという名前やリンゴに間しての記憶が蘇る。 その過程を観察するのは非常に強い集中力が必要となる。 真の悟りを得ようとする者は、行住坐臥の全てにおいて己の心を見守り、修行に専念すべきであろう。 これで私の教えは終わりだ。 ここに示したのは、多くの者が悟りを得た古来の修行法の、おおまかな解説に過ぎない。 しかし、それでも真摯に悟りを求める者には、役に立つはずだ。 死から逃れる道は確実に存在する。 愚かな者はそれを笑い、死ぬ時になって泣くが、賢いものは修行を続け、死ぬ時になって笑うことができるだろう。 死は消滅ではなく、永遠への扉であったと知って。
>>645 悟ってるから分かるんだけど、貴方は全然悟ってないよ。
頭が悪いだけ。
>>645 俺も悟ってるから分かるんだけど、お前は全然悟ってないよ
だって悟ってたら、んな事言わんもん
うん そうだね 645はただの修行マニア
649 :
名無しさん@3周年 :2007/03/11(日) 19:37:26 ID:Pdm77Hxx
覚醒された方に質問ですが、参考になる書籍があれば教えてください。 よろしくお願いします。
650 :
馬渡 :2007/03/11(日) 19:41:25 ID:baxf0gGf
うわ、自称覚者がたくさん ケチつけるならつけるでもう少し中身を書いたほうがいいと思うよ
651 :
名無しさん@3周年 :2007/03/11(日) 20:22:13 ID:hbmzW/Wi
仏教はお互いの悟りを告白する言語ゲームなのです 開いた人もまだ開いてない人も生悟りでもいいよ 答えの無いテストの答え合わせを楽しもう
652 :
自在 :2007/03/11(日) 20:30:24 ID:juZifynh
>>649 オショー 昔はバグワン・ラジニーシと言った。
クリシュナムルティもいいが、少し難しいかも知れない。
他にも悟りを得て本を書いた者はいるが、この二人が一番理論的だ。
後はダンマパダ(法句経)などの初期経典を読んでいただきたい。
覚者に聞きたい。 空とはどんな感じですか?
654 :
名無しさん@3周年 :2007/03/11(日) 20:40:25 ID:hbmzW/Wi
空なんて無いよ無もないよそこに空がある なんて自称覚者の俺が言ってみるか
655 :
653 :2007/03/11(日) 21:22:14 ID:HQC6fI9m
想像してみたが、何か暗闇の虚空でありながら温かみがあり しかも動いていますね。 ここの話は虚空からシャットアウトされた個が自分の ルーツの記憶を取り戻して本来を体得された人の 集まり、ということですか。
656 :
649 :2007/03/11(日) 21:29:21 ID:Pdm77Hxx
自在さんありがとうございます。 クリシュナムルティは確かに自分には難しかったです。 今ちょうど、oshoの究極の旅という本を読んでるのでoshoを追求したいと思います。 あとダンマバダというものも調べたいと思います。ありがとうございました。
しっかり人生楽しめよお前ら
空とはどんな感じですか? と質問する自分がいなくなる と自称覚者の俺も言ってみるか
659 :
自在 :2007/03/12(月) 20:36:06 ID:9at+7UTO
>>653 良い質問だ。
空にはどのような感覚もない。感覚があれば空とは言えない。
空を観じるのは悟りを得るためのテクニックであり、一般論ではない。
一般人が全ての物は空だと茶飲み話で語るのは間違いだが、悟りを得ようとする者が物は空であると観るのは正しい。
唯識論では全ての物は空だと考えることを、空見に我執するといい「物事を空であるという概念を抱いてはならない。概念を破するのが空である」といさめている。
止観の観に属し、天台では空観を正式な観法にしている。
観察が苦手であったり、金や名声などにどうしても執着して修行が困難な者はこの空観を修行するといい。
空観を修行するにはまず、空性を体得しなくてはならない。
目の前に何か物を用意して、それが空であると見なす。
リンゴならリンゴを用意し、それが「皮と果肉と種の集まりであり、木の栄養と日の光と水によって出来たものであり、有るものではなく、無いものでもない」と観る。
何度も何度もそのように観じていると、やがてリンゴを見ても名前が思い浮かばず、それに関するイメージも思い浮かばなくなる。
リンゴが消えてなくなる訳ではないが、それを見ても何も感じなくなる。
それが出来たら今度は体、感覚、感情、思考、意志、認識などが空であると観じていく。
この辺は般若心経などが参考になるだろう。
金や異性などの執着する対象を空と観ることで執着を消すこともできる。
観察が苦手な者も、空観なら出来るという者も多い。
精進していただきたい。
660 :
brown :2007/03/12(月) 21:59:34 ID:XEq5S1nX
空性とは, 虚空のような空白の意識の広がりであり, 計らいが静まり,散漫な気が消え失せ, 煩悩という破壊者を断滅したときの, 遥か彼方まで透き通るほどの清浄さです。 自己を制した,何ものにも束縛されない,軽やかさであり, 煩悩から自由になったことに起因する,この上ない歓びです。 それは,あるということも,ないということもできない, さざなみのビジョンです。 それは,比較と疑いを絶した,言語的世界から隔絶した, 思考という強盗が何も盗む物を見つけられぬ,絶対的境地です。 それは,精神統一の成就であり,完全な集中力です。 固定ではなく,あらゆる瞬間に,変化に即した, 散漫な心が全く欠落した高度な集中です。 それは,集中しようとする注意力すら介在しない, 無努力の,自動的な,心自らの性質です。
661 :
brown :2007/03/12(月) 22:19:09 ID:XEq5S1nX
それは,生命の始まりの,常に新鮮な,言い表しがたい, 驚くばかりの貴重な美しさです。 心身に力が満ち溢れ, あるいは身体に耐え難いばかりの喜悦が満ち, あるいは心に絶対的な安楽が満ちる, 自然体の心身に内臓された生来の機能です。 それは,絶えることのない,無限の,快楽の泉です。 それは,常に現象活動とともにあり,いつでも,どこにでも, 共にある二重生活です。 それは,いかなる生活経験においても, 不断に付き従う,天照太陽です。 それは,生きることにおける絶対的価値の発見であり, ニヒリズムの克服です。 それは,極ありふれた,普通の人間生活です。 それは,修行に専念することで, 誰もが目の当たりにするものです。
>>659 そんなんやっても時間の無駄。無意味
>>661 なにその健康法?悟ってもそんなんならんよw
663 :
名無しさん@3周年 :2007/03/13(火) 09:33:14 ID:bpYg5KFI
664 :
名無しさん@3周年 :2007/03/13(火) 12:53:30 ID:mHlzNhaX
俺も一時悟ったよ。 だが悟ったと思ったのは大きな間違いだった。 悟るって言うのは自分で理解した気になるだけど実際はそれが正しいわけじゃない。 つまり自分で都合のいいように解釈することで悟ったと勘違いするんだ。
>>664 同意
悟りなんて、一時的なものだよ
何もかも気にならなくなって、ふっきった状態
その精神状態の時だけが「悟ってる」だけ
結局、自問自答繰り返して、新しい結論に関心して・・・の繰り返し
だから悟りの境地なんてものはないし
悟る事なんて特別な事じゃない
666 :
名無しさん@3周年 :2007/03/13(火) 20:57:11 ID:bpYg5KFI
クズ二人が失敗に終わった自分の人生を語っても、笑い者になってるだけ。 一人は言葉が不自由だしな。 まるで光ファイバーそっくりだぜ。 自分で論理的におかしなことを書いてるのに気がつかないのか?
いろいろ別意見もあるようだし。 じゃあ、それも含めて。 空が無感覚ならば愛性は属性としないのか? 空が無感性ならなぜ宇宙は具象で満ちているのか? 悟りとは空そのものを観じているのではなく、自分の思い(心) をなんでも還してくれることを表しているのではないのか?
悟る、なんて事に執着してる時点で自分が何を求めてるのか気づけって感じだ ま、生き甲斐なんて人それぞれだからいいけどな
669 :
名無しさん@3周年 :2007/03/13(火) 21:50:35 ID:bpYg5KFI
本当に言葉が不自由だな。 句読点くらいつけろや低い脳の人。
明日はこれないので、その分まで。 もし空と一体化しているという悟りであれば、生み出されるものでは なく生み出すものにはならないのか? このスレにて言葉によって何を生み出したのだろう。 悟りの偉大さの波紋はどこまで広がったのだろう。
>>670 言葉なんて、ただの情報伝達法の一つってだけだろ
言葉にゃ限界があるんだし、伝えられるものもありゃ伝えられないものもあるよ
悟りなんて、別に偉大でも何でもないよ
672 :
自在 :2007/03/14(水) 19:48:27 ID:MpqgkpF2
空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。 観察のところで書いたように、観察と空観の違いはテクニックが直接的であるか、間接的であるかの違いに過ぎない。 空観は能動的であり、受動的な観察が苦手な者はこちらを選ぶといい。 仏陀の法は全人類の宝であり、全ての衆生に無償で与えられる。 それはこのネットの上でも変わりは無い。 私はあなたたちにチャンスを与えた。 死から逃れる法を知るチャンスを。 偉大な仏陀・釈迦牟尼が言われた通り、目覚めた者は道しるべとなり、悟りにたどり着く道を教えるのみだ。 そのチャンスを生かして悟りを得られるかどうかは、つねにあなた自身が修行をやりとおすことができるかどうかにかかっている。
673 :
自在 :2007/03/14(水) 20:08:18 ID:MpqgkpF2
無常 死の考察 人間という存在にとって、死は常に前途にそびえたつ壁であった。 その壁の前に全ての者がひれ伏し、消えていく。 この絶望の前には金も、権力も、名声も何の意味もない。 世のものは多くがこの金、権力、名声を求めて止まないが、この死という観点から人の一生を見直してみれば、これらが何の意味もないことが判るだろう。 例えばルールの違うゲームを終わったあとで知らされるようなものだ。 人々がボールを手に持ち、ゴールに入れるゲームをして多くの点を得る。しかし、ゲームが終わってみれば審判がこれはサッカーであり、得点は無効、選手は永久に出場停止とされる。 これが多くの人間の置かれている状況だ。 人々はこの世に生まれていやおう無く金、権力、名声、異性などを争うゲームにまき込まれる。 しかし、死が近づけばそれらが何の意味もなく、ただ失ってしまうだけのものであることに気付かされる。 この世はまるごと大きな罠なのだ。 二度と戻っては来ない貴重な時間を、失われてしまう物のために使ってはならない。 あなたが修行によって集中力を高め、自己の存在の根底まで透徹した時、自己がこの失われていく体に限定されるものではなく、大いなる海のごとき存在であることが実感される。 その時、死は大海のはしでたわむれる波のような小さな変化の一つに過ぎなかったと気づくだろう。 そしてあなたは目覚めた者、仏陀となる。
仏陀にならなくても苦しみから開放される生き方が有って、それが仏教だろ。 そのために苦しむなんて馬鹿げてる。 覚者ってのは生まれつきそうなる定めが有って、本人にとってそれは偶然の出来事なんだよ。 悟るために修行をすればするほど遠ざかっていくのが悟りだと思う。 日々を懸命に生きるのも大切。それが中庸というものだろ。
675 :
brown :2007/03/15(木) 02:40:21 ID:APZot4Fx
>>674 ん〜〜,全く違うね。完全に違う。
ブッダにならなくて苦しみから開放される生き方があるとは思われない。
もしそうなら,ブッダになるという修行は成立し得ない。そのような仏教は
気まぐれの教えに過ぎないことになってしまう。
修行やブッダが苦しいのではなく,修行しない凡夫の存在が苦なのである。
目覚めた人とは,決意の人のことであり,それは人生の経験を通して決意
が生じるのだ。本人にとっては,全く自覚的,必然的なのだ。
悟る人は,悟る前から自分が悟ると知っている。というのは,それほどの
決意がなければ悟るということは絶対にあり得ないからだ。
悟るための修行を怠れば怠るほど悟りから遠ざかり,何も成就しない。
悟りへの執着が厭い離れるべきだなどという思考のお遊びは,怠る心を
言い訳しているに過ぎない。
むしろ,日々を懸命に生きることが大切なのである。それが修行というもの
です。
>>674 とはいえ ある意味 これは 真実といえるかも。
677 :
自在 :2007/03/15(木) 22:47:20 ID:MWEuQ5JZ
阿含宗桐山教祖の逮捕歴 昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕 警視庁西新井署 十二月手形詐欺容疑で逮捕 千葉県松戸署 二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕 警視庁防犯課 二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決 五月入所 十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
679 :
670 :2007/03/15(木) 23:46:51 ID:G2N06drK
>>672 空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのわ促すという手順に変わりは無い。
私はとくに瞑想も自分探しもしない。悟りにも執着しない。
表現が難しいが簡単に言えばこういうことですか?
自己は空の一部であり同質である。また自我は対極にある。
自分を探ることで空を知ることができるし、対極の自我の視点からは
空のすばらしさを知ることができる。
680 :
自在 :2007/03/16(金) 21:22:03 ID:KOpdETTo
>>679 一字訂正する。
「空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い」
これは空観に対する包括的な解説に過ぎない。
この言葉の意味は悟りを得た後にわかるだろう。
修行中の者にはむしろ空を楽しんでほしい。
自分の体に空を観じ、自分の体が空であることを楽しむ。
自分の感覚にに空を観じ、自分の感覚が空であることを楽しむ。
自分の感情に空を観じ、自分の感情が空であることを楽しむ。
自分の思考に空を観じ、自分の思考が空であることを楽しむ。
自分の意志に空を観じ、自分の意志が空であることを楽しむ。
自分の認識作用に空を観じ、自分の認識作用が空であることを楽しむ。
このように空を楽しめば、いずれ観照が起こり、悟りは自然にやってくるだろう。
681 :
醤油 :2007/03/16(金) 23:39:54 ID:FbfhAYQR
682 :
670 :2007/03/17(土) 19:59:35 ID:iZxS05QC
>「空を観じる行も、やはり己の自我を探り出し、観照が起きるのを促すという手順に変わりは無い」 文脈的理解がちょっと難しかったですね。 ま、実践されている人がいるということは良いことです。
何かこのスレいいね。 別に他人が悟っていようが悟ってなかろうが、そんなことはどうだって良い。 考え方は違っても人生の目的がソレに近付くあるいはソレと一体となる 目標は一緒、それだけでイイ
684 :
自在 :2007/03/18(日) 20:54:19 ID:0V6Ikfj/
>>681 ありがとう。
面白いサイトだ。
お気に入りにいれさせてもらった。
685 :
自在 :2007/03/18(日) 21:01:45 ID:0V6Ikfj/
空観と観察の違い。 それは例えば散らかった部屋で物を探す方法の違いと言えようか。 ある者は部屋を詳細に見ることでものを探し当てようとする。 他の者はとりあえず部屋を片付けて、自然に出てくるのを待つ。 部屋をそのまま見るのが観察であり、片付けてからというのが空観と言えよう。 物を探すのであるから、見つめるのが本道であろう。 しかし、片付けてから見つけるというのも悪くは無い。 どちらを選ぶのかは修行者個人の好みや、適性による。 自分にあった方法で精進していただきたい。
686 :
白ふくろう :2007/03/18(日) 21:04:32 ID:Ba2h9kvh
なんか、ここよさそう。 わたしも、仲間に入れてください。
687 :
白ふくろう :2007/03/18(日) 22:41:47 ID:Ba2h9kvh
>>685 空観と観察
観察は、生きてる自分が自分以外のことを観る。
空観は、生きている自分そのものを観る。
ってのはどうですか?
688 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/19(月) 20:21:29 ID:kIAH9Mjm
ここには悟った人がいるのかな?
ギターの絃は張りすぎると切れ、ゆるすぎると音が出ない。ほどほどの張り具合がちょうど良い。 何事もほどほどがちょうど良いと思います。
690 :
自在 :2007/03/19(月) 20:46:28 ID:e/J2iS/V
>>687 面白い。
少し言い換えてみよう。
観察は今、ここにあるものを観察して見つかるのを待つ。
空観はいらないものを片付けて見つかるのを待つ。
どちらも言葉の通りではないが、このような感じであろうか。
先ほどの例えにはまだ続きがある。
どちらの方法で探しても、探しても目的の物は見つからない。
そのうちに探している物が何であったのか、忘れてしまう。
探し疲れて、ふと、顔の前に手を伸ばした時、メガネをしていたことに気付き、同時にそれが探していたものだと気付く。
滑稽な話だがこのようなことが起こるのが頓悟というものだ。
探し物は実は目の前にあり、それを通して探していたのだ。
そして、探していた物が何であるのか、探し当てた時にしか判らない。
悟りを求める修行は自分を探すゲームと言えよう。
それがどのようなものなのかは、それが目の前にあり、それを通して見ていても、見つけるまでは判らず、迷い続ける。
困難なゲームではある。
あなたが心や体のどの部分に自我を同一化させているかは、あなた以外の誰にも判らない。
それが判るものはあなた自身しかいないのだ。
仏陀の法においてはあなたを救い得るのは、あなた自身しかない。
あなたの救世主はあなた自身だ。
迷わず精進していただきたい。
691 :
禅の神様 :2007/03/19(月) 22:37:28 ID:3GZVRnsr
692 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/19(月) 22:38:30 ID:kIAH9Mjm
わーい。 なかま、なかま!! 空、見破ったり!! 過去から未来へのメッセージが私の体をつきぬけた!!!
693 :
小太郎 :2007/03/19(月) 23:07:52 ID:pWIlHCu3
未来をいいものに変えることができるなら、悟りは有益なものだろう。 人は、失敗から学ぶものさ
694 :
brown :2007/03/19(月) 23:17:41 ID:x8RAEYP0
頓悟は仏陀の悟りではないですね。 悟りだとしても,それならほとんど役に立たないですね。 奇妙な体験をしたくらいのことでしょう。まあそういう「楽しさ」はあるのかも。 それを体験したければ,ドラッグでも苦行でも坐禅でもいいでしょう。 これらに共通する特徴とは,輪廻を生じさせる仕組みを何も理解できない ところにあるんですね。
695 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/19(月) 23:26:03 ID:kIAH9Mjm
ドラッグでは悟りは無理。 単に自我を狂わせてるだけ。
696 :
brown :2007/03/19(月) 23:28:53 ID:x8RAEYP0
悟りとは,一言でいえば,涅槃を生じさせる道のことですね。 つまり,修行法というか,生き方,あるいは完全な精神態度のことです。 悟りが成就するので,解脱します。 仏教とは,智慧(知識)によって解脱する教えですね。 つまり,禅定によって心解脱することを教えたものではない。 ただ「知」には色々な次元がありましてね,三昧のありのままの認識力 によって知られる知識が最も正しい,裏切らない知ですね。 その知によって解脱するんですね。 つまり簡潔に申せば,修行(怠らないこと)を教えた教えですね。 怠らないこととは,第一義的には,自己を放逸にしないことですね。 つまり,自己観察行ですね。
697 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/19(月) 23:38:44 ID:kIAH9Mjm
悟った後は、どんな修行をすればいいの?
698 :
brown :2007/03/19(月) 23:43:43 ID:x8RAEYP0
自己の置かれている状況とその中での自己のあり方を,砂浜にある砂一粒をも 見逃さないくらい,詳細まで,緻密に,常に,はっきりと知ることで, 心は透き通るように清らかになって,瞬間瞬間が完全な瞬間として, 全ての瞬間を貫く生活経験ができますね。 そこには努力の病はなく,非常に自然に,現実の世界そのものに生きていますね。 ただそこに欠けているのは,自分自身の心に対する固執であり,予め全ての 知覚を自分自身の関心の枠だけに閉じ込めようとする認識態度だけですね。 もっと言えば,たとえそのようなものがあったとしても,はっきりとした 自覚のある者の中には,何の妨げにもなりませんね。
699 :
brown :2007/03/19(月) 23:59:26 ID:x8RAEYP0
>>697 悟るということはそれ(道)を知っているということですね。
しかし,道とは正見・正思・正語・正業・正命・正精進・正念・正定ですね。
誰でも知っていますね。経典に「はっきりと」書いてある。
しかし,
知るということには,色々な次元がありましてね,三昧のありのままの認識力
によって知られる知識が最も正しい,裏切らない知ですね。
その知によってはっきりと知る必要がありますね。
そして,はっきりと知る人に何をどうすべきかは自明ですね。
ベテランドライバーにとって車を発進させるにはアクセルを踏むべきか,
ブレーキを踏むべきか,迷わないのと同じですね。アクセルがどこにあって,
どうすべきかはっきりと知っているので,そうするでしょうね。
700 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/19(月) 23:59:38 ID:kIAH9Mjm
うん、うん、言い表現しますね〜。 全ての習慣を貫く生活。詳細、緻密、常に、はっきりと知ることで自然と連続性が生まれ、瞬間瞬間を一つの連続した道で貫ける。 でも、それでは道が決まってしまうので、たまには道を逸れてみて、そこで再び瞬間瞬間を一つの連続した道で貫くのがいいのかな。
701 :
brown :2007/03/20(火) 00:09:48 ID:PTX6DNST
>>700 むしろ,
道から逸れるくらいのことはできなければ可笑しいですね。
道が定まってそこから動けないのでは,まるで鉄道ですね。
逸れることができ,戻ることができ,また逸れるも戻るもなく,軌道ないところ
にはっきりと道が見えているべきでしょうね。
つまり,現実生活とは,甘いものじゃないですね。決然として守らなければ
ならないものもありますね。世間は理不尽や奇妙な慣習に満ちていますね。
しかし,世間からの逸脱は,単なる非常識ですね。むしろ,世間に即した
道徳的な生き方をこそすべきでしょうね。たとえそれが「道」から逸れていても。
しかし,それは本質的には何を失うことにもならないですね。むしろ,その
中にこそ真の「現代生活における」道が見出されるべきでしょうね。
702 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 00:23:47 ID:OiTfU3qI
軌道ないところにはっきりと道が見えている。たとえ、理不尽や奇妙な慣習という雑草に満ちていても、 その中にはっきりとした道徳的な生き方、道を見抜く能力が大事ということですか。
703 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 00:42:34 ID:OiTfU3qI
わーい。いごこちいい。気に入りました。 悟りましたー、てストレートなスレ名も私にとって親しみ安らぎ感じます。
繭人間
705 :
670 :2007/03/20(火) 19:42:27 ID:WwUlIpft
「全体と個」、「ワンネスの中で個性を楽しむ」をシンプルに分かりやすく、 他者が理解できるよう説明できればノーベル平和賞以上だね。
706 :
自在 :2007/03/20(火) 20:58:48 ID:qGM6mgPQ
自我同一性 観察、又は空観によって自我を見出そうとすれば、さらに自我の同一性について深く踏み込んでいかなければならない。 自我の同一性とは即ち、あなたが何をもって自分であると認識しているかを意味する。 あなたとは一体何だろうか? 体であろうか? 体だけがあなたであり、他に自分と呼べるものはないのか。 或いは他の感覚や、感情、意志、認識などの心の作用があなたの本体であろうか? この問いに言葉で答えを出す必要は無い。 言葉による回答は何の意味も無い。 それが見られた時、観照が起こり、悟りが得られるのだから。 多くの者が誤解しているようだが、悟りとは何物かの知識や見解を得ることではない。 知識は悟りではない。 見解も悟りではない。 知識や見解には対象があり、それ自体も無常であり縁起によって生じたものに過ぎない。 観察や空観の目的も、自我についての知識や見解を得ることではない。 観察や空観そのものが、対象と自己に及ぼす作用を狙った行為なのだ。 その為には自らの自我を突き止めねばならない。 あなたとは何だろうか? 多くの真の導師達が放った問いを、私も何度も繰り返す。 あなたとは何だろうか?
707 :
ソース :2007/03/20(火) 21:23:07 ID:+c98nlG+
@ワンは個である。ワンネスは種である。アザネスは自然である。 このうち2つで´まぼろし`を覚え、3つで`涅槃´を知る。ここまでは路線である。 A個に立ち返り、自然に遊び、学び、社会の胎動を知る、生きる。 3に対して6つのパスが完成すれば自由自在である。この工事が完成するとき、悟るのである。 “鳥かごの鳥が、仲間と呼応するように、いずれそれはやってくる。” 何々をすれば、悟るとかいうのは、個にたちかえる業以外ないのであって、<特に意味はない。> 個に立ち返るのが最後のパスだということが、共通しているだけである。悟る時には個性が顕われる 所以でもある。人によって。ルートは数、種類いろいろにみえるが、最後は一本である。 その一本のところが大事だが、至るところの路が全てなんである。
708 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 21:40:56 ID:OiTfU3qI
709 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 21:54:36 ID:OiTfU3qI
>>706 はい!
過去から未来へ後戻りできない、生きることへのエネルギーです。
710 :
神も仏も名無しさん :2007/03/20(火) 22:45:41 ID:Lmvj0hUx
空っぽこそ悟りだよ
711 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 23:01:07 ID:OiTfU3qI
もうそんな危険なことをさせてくれないのよ。私の体は。 空っぽのほんの少し手前でも充分よ。
712 :
神も仏も名無しさん :2007/03/20(火) 23:06:21 ID:Lmvj0hUx
意味が分かりません。
713 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 23:11:42 ID:OiTfU3qI
悟りは一回で充分ってことよ。
714 :
神も仏も名無しさん :2007/03/20(火) 23:14:01 ID:UoPiMeBb
>>711 危険なことは十分ですからどうか長生きして下さい。
715 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 23:17:30 ID:OiTfU3qI
それが悟りだー。 今宵もカンパーイ。
716 :
神も仏も名無しさん :2007/03/20(火) 23:20:51 ID:Lmvj0hUx
愛国心何ていらねーよ夏2007
717 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/20(火) 23:30:40 ID:OiTfU3qI
>>716 お、あたまがこんがらがってきたか〜。
でも、まるでB級映画のタイトルのようにきれいにまとまってる。
718 :
670 :2007/03/21(水) 00:01:27 ID:WwUlIpft
>>706 >>707 ここまで理解できている人はあまりいません。
>>709 本当にそうですね。
時間があまりなく、空観とか観察をこれからじっくり読んでみたいと
思います。
直感では空感は「源への回帰」、「老子のいう道」みたいなものですか。
自他観察は深い真実が隠されているでしょう。小宇宙みたいな。
幻想を実相的に見せるような。
クリシュナルムティなんか読んだけど、もう少し分かり易い表現が
今はあると思う。
>>707 さんなんかちょっとデジタル真理的でおもしろいと思った。
今は空のすばらしさはいろんな本で語られているが、光が少ない
昔に悟るのは大変だったろう。いや、逆かもしれない。
719 :
670 :2007/03/21(水) 00:02:08 ID:7FOllbtE
個と全体、始まりの瞬間、瞬間の中の連続性、いろんな2元性 の真の深さを現在極めるのは難しくも易しくもあるだろう。 個を重視し過ぎるとエゴになり、戦争、環境破壊をもたらす。 結局、知性の下落ということか。 全体を重視過ぎると唯、神殿の中におわす存在となる。 聖霊、菩薩、エンティティとなって指導するのか。 次元でたとえるなら5〜6次元くらいがおもしろい。 天と地の間で起こること、一人ひとりの道が違うこと。 空から次元を落として世間の想念の中で光を放つのは 難しい。ただ、高所から物申すだけではだめだろう。 時にはユーモアもいるしね。でないと、誰も見てくれない。 聞いてくれない。
>>707 ありがとう このスレの中で一番いい言葉だった
721 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/21(水) 07:03:44 ID:gVMFFEmy
>>718 私は悟りまでは至ってないかもしれませんが、
確かに宇宙のような、普通の生活では感じ得ない突き上げるとてつもないもの。
空は消滅させることができない永遠のメッセージ。
空になる少し手前で、空に出会ったとき、色の私は空によって励まされるだけだった。
722 :
自在 :2007/03/21(水) 20:39:59 ID:JBCx+gsc
悟りによって何が得られるのかを、初めに書いて置くべきだったかも知れない。 多くの人は死を恐れ、或いは真理を知るために、悟りを得たいと思う。 死を恐れ、生きることの意味を知りたいという小さな望みだ。 しかし、悟りを得たときに受け取るものは、計り知れないほどに大きなものだ。 これについて昔から伝わる美しい例え話しがある。 あるところに金持ちの息子がいた。 かれは家を出てよその国に旅に行き、とても苦労をして浮浪者、今のホームレスになってしまった。 彼はさまざまな家の前で食を貰い、ようやく生きていた。 そして、彼はいつしか自分が生まれた家に戻っていた。 彼が家の前に立って食を貰おうとすると、父親である金持ちは直ぐに彼を息子であるとわかった。 そして息子を家に招き入れ、全ての財産を譲り渡した。 ただ死を恐れ、悟りを得ようと願う者は一食のご飯を求めるホームレスのようなものだ。 しかし、そのような者も悟りを得た時、自分が全てを受け取っていると気付く。 全てを。 全てなのだ。 今、外に出て上を向けば見える空の全て。 今、人々の足元を支える大地の全て。 そして今、この存在する空間と時間の全てが、本当はあなたのものなのだ。 それは概念や思考ではなく、例えば右手で左の手を触るような確かな実感として認識できる現実であり事実なのだ。 区別の幻想を離れたところには、永遠の喜びがある。 この文を読む全ての者が速やかに悟りを得て、真の喜びに到達するように。
723 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/21(水) 23:08:06 ID:gVMFFEmy
>>722 まるで私の学生時代の話みたいだな。
有り金10万円ほどもって3ヶ月ほど、北海道東北へと旅に出ました。若いころ特有の熱病でしょうか。自分がいやになりまして。
最初は不安ですが、いざ、家を出てしまうとなんとかなるもんです。
寝袋、一人用テント、下着、食器、ガソリンコンロ背そして地図帳と。少しかっこよく言うとホームレス・ライフです。
都会は避け、田舎に向かいます。道に迷うと畑仕事のおばあさんに道を尋ね、たいてい「一人で?どこから?」と尋ねてくるので、
「一人で歩いてきました。」と言うと、おばあさんはにっこりし、ご飯いただいたり家に泊めてもらえたりしばしばで、自分には何もないのでおばあさんの話し相手します。
でも、そんなの物貰いは10日に1回あるかないか、特に人気のない山を選択しましたので。
実際は汚いもので、寝る場所は学校の倉庫、無人駅やバス停の待合室、山の非難小屋です。あるいは背負っている一人用テント、道中で風呂にあたればラッキーで、食料は、駅の場合便所の手洗い場で米といで、ガソリンコンロで朝に一日三食分のご飯たいて出発です。
歩きつかれて苦労感じる余裕もありません。ただ、自分の力だけでどれだけ歩けるのか試したかった。
でも、ホームレス・ライフを追及しても、自分一人では絶対に歩けないんですよね。
一人旅は自分しか話し相手がいない。テントは誰が作った?米は?歩いてる道は誰が切り開いた?と自問自答する。
もっと人の助けを借りないところ、吉野から那智へ山伏の奥駆けを一人で雪の中、飯も全部背負い、ある意味、山伏以上に山伏したけれども、やはりそこには切り開かれた道がある。気がついたら日本中旅してました。
いけどもいけども人がかかわってきて、もうそろそろ家に帰ろうと思う気に負けてしまう。
生きれない。
一人では生きれないのだ。
結局は生きて家に帰ってしまっている自分がいた。
724 :
神も仏も名無しさん :2007/03/21(水) 23:26:38 ID:osGlFmMJ
悟りましたって何をどうやって悟ったの。
725 :
Ryu :2007/03/22(木) 13:01:48 ID:v55vFh+2
「悟りました」って、スレタイトル自体が、マヌケと言うかお笑いだよね。。 それに気づかないってのは、ちょっと鈍いかな。。
726 :
自在 :2007/03/22(木) 21:41:01 ID:3nSOCbIl
>>723 素晴らしい体験だ。
その旅であなたはとても大きく成長したようだ。
それがあなたのイニシェーションだったのだろう。
その経験は今後の人生においても役立つだろう。
727 :
悟ラー :2007/03/23(金) 15:57:57 ID:O3i1cqvn
>>664 理解するというよりも自然に自分に影響する状態が訪れます。
728 :
自在 :2007/03/23(金) 22:56:13 ID:ZOF45dX9
数息観から随息観 数息観を修行していくと、しだいに集中力が深まり、雑念も簡単に流せるようになる。 そして、雑念が止まり、無念無想の三昧に入る。 そこまで行くと、息を数えるのがかえって邪魔になるだろう。 そのような時は、自然に数えるのを止めて、呼吸に集中するだけでいい。 この状態を随息観と呼ぶ。 呼吸に集中しているだけで、意識は深く、深く集中していくだろう。 そして、次第に表面の意識だけでなく、潜在意識と呼ばれるものも感じられるようになっていく。 例えば雑念を無視していると、雑念とは別に呼吸に集中している意識があるのがわかってくる。 意識が二重にあり、それぞれが別に動いているのがわかるのだ。 さらに修行が深くなると、意識は二重だけでなく、幾つもあって別に動いているのが感じ取れるようになる。 人間の頭は普段から多重に動いているのだが、普通の人間にはわからない。 修行によって集中力が深まると、潜在意識も見えるようになるのだ。 ここまで集中力が深くなれば、自我を見るのも可能になる。 精進していただきたい。
私は悟りました。 瞬間は永遠であり、永遠は瞬間であること。 時間は過去から未来に進むのではなく、瞬間、瞬間を私が移動していること。 現実は夢幻であり、私は夢幻を見、私自身が夢幻であり、夢幻から私が生まれ、夢幻が現実であること。 私は宇宙であり、宇宙が私であること。 私はこの世界には存在せず、この世界自体も存在しないこと。 全ては言葉では現せないこと。
いい線いってるな 話してみんと受け売りかどうかは判らんが。。。
731 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/24(土) 07:57:23 ID:s+iLusLi
悟ったと思ったときのはなしやけど、 「おれー、悟ったんやけど、こんなこと友達に話したら、みんな引くんちゃうやろか、お釈迦様も悟ったときは誰にもしゃべらなかったと聴いているし?」 と悟りを誰にも話さずにいるのか 「いや、待てよ。2ちゃんだったら、顔ばれへんしいいか。『悟りました』っていうのも、ふっきれた感じでよさそうやし」 と悟りをここで話すのかは、 自由だ byいぬいひろし
732 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/24(土) 08:19:56 ID:s+iLusLi
悟ったあと、宗教団体から宗教の勧誘にさそわれて教団の支部にいったときのはなしやけど、 「悟ってしもたからあまり興味ないけど、これも何かのご縁、ありがたい思う、この気持ちだけでとめたいたほうがいいか」 とありがとうございましたと去っていくのか 「いや、この釈迦が乗移った言ってる人はいいとして、横の菩薩レベルの人、おかしい、逆説法して帰ったろか、ぷん、ぷん」 とめちゃくちゃにして去っていくのかは、 自由だ byいぬいひろし
本当に悟ってる人このスレにこないかなあ
734 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 10:13:18 ID:8EsslzxV
>>729 こんなとこにくるじたい悟り人として品性がない。
それにそれを正しい悟りと勘違いしてる者が多い。
この頭でっかち!!
ワンネスディクシャで洗礼受けてこい
私は悟りました。
瞬間は永遠であり、永遠は瞬間であること。
時間は過去から未来に進むのではなく、瞬間、瞬間を私が移動していること。
現実は夢幻であり、私は夢幻を見、私自身が夢幻であり、夢幻から私が生まれ、夢幻が現実であること。
私は宇宙であり、宇宙が私であること。
私はこの世界には存在せず、この世界自体も存在しないこと。
全ては言葉では現せないこと。
>>729 悟っていないあなたにはわからないだけ。
この世は無から生まれ、無は無でありえず、実態を表す。
無から実態が生まれ実態は無となる。
738 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/24(土) 14:20:09 ID:s+iLusLi
>>735 まぁまぁ、
仕事休みやし、
一杯、いこか。
>>734 >
>>729 > こんなとこにくるじたい悟り人として品性がない。
> それにそれを正しい悟りと勘違いしてる者が多い。
> この頭でっかち!!
悟り人が必ずしも品性に溢れた人格者(見掛け上)とは限らない。
そんな偶像を刷り込まれている あなたこそ頭でっかちと言えようw
この世は無から生まれ、無は無でありえず、実態を表す。 無から実態が生まれ実態は無となる。 粒子は波動となり、広がりを持った空間に同時に存在する。 この世界は同時に同じ空間に違う世界に広がっていく。 この世は有と無の間でゆらいでいるのである。
741 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/24(土) 17:15:32 ID:s+iLusLi
どんな芸人も最初はこんなもんだ。 品のない悟り人で〜す、と余裕の気持ちで包み込め!!
悟と言う名前はどうですか?
>>743 だからハゲはアンカー打ち間違えたんだよ
ちゃんと自らの過ちを訂正汁!>ハゲ
745 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 19:34:33 ID:6Rx7VWBh
>744 >ちゃんと自らの過ちを訂正汁!>ハゲ それを言っちゃお終いよ。w あなたの言わんとすることを相手に伝えきれないあなたが未熟ってことよ。w
746 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 20:11:53 ID:6Rx7VWBh
>>744 いやね、あなたがいくら悟ったと言っても、巷の本やネットで語られいる
言葉や概念で表現しても臨場感がないてことよ。
本当に悟ったというなら、自分の言葉で表現してみ?
747 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 20:32:01 ID:6Rx7VWBh
>>730 >>735 の名無しさん、それから大演説していらっしゃる覚者のみなさま、
聞き飽きた言葉を並べても説得力がありまっせん。
もっとも、ここに書き込んでいるあなた方の目的がわかりませんが。w
748 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 21:54:52 ID:AtwNrbW/
???
749 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 21:57:56 ID:AtwNrbW/
人格者として振舞うのは信者を付けたいが為 よこしまな動機だなぁ。笑っちゃうよ。 その辺の教祖様見てみろよ、下衆なオーラ出まくりだろw あとな、悟っていない者に覚者を見分けるのは不可能だろうよ。
751 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 22:06:56 ID:AtwNrbW/
752 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 22:10:28 ID:AtwNrbW/
753 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 22:24:41 ID:REhPgLFy
悟った人は死を恐れません ジジババになることも平気です さて貴方は悟っているといえるでしょうか?
この世は無から生まれ、無は無でありえず、実態を表す。 無から実態が生まれ実態は無となる。 粒子は波動となり、広がりを持った空間に同時に存在する。 この世界は同時に同じ空間に違う世界に広がっていく。 この世は有と無の間でゆらいでいるのである。 時間は過去から未来へ、状態は秩序から無秩序へ、宇宙は広がる が、未来から過去へ、無秩序から秩序へ、収束する宇宙でもある。 それは同じ宇宙であり、別の宇宙でもある。
755 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 23:13:32 ID:ruIy49YV
悟ラー、なんとなく悟りかけてる事がある。 キリスト教ってイエス様によって救われるとされる宗教だけど、 よく分からないけど、信仰が深まるほど十字架を背負わなければいけない、 イエス様に近づく程に、イエス様の苦しみを味わうようになる、それを超える 事が出来ない許されない宗教のように感じてる・・・ いつもいつも悲しんでいなければいけない宗教のように思う
756 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 23:31:52 ID:ruIy49YV
いつもいつも、悔い改めなければいけなくて、罪深い者であることを自覚する ことを義務みたいに求められてて、それを永遠に強要される宗教。それをこえる 事の出来ない宗教。それが神様の理想とされいたものなんだろうか? 悟ラーどう思う?
757 :
神も仏も名無しさん :2007/03/24(土) 23:34:04 ID:ruIy49YV
それが神の理想とされていた人間の姿なんだろうか?に訂正。
でもどこの宗教も同じなのかな・・
759 :
白ふくろう ◆rZaqO/v5Hs :2007/03/25(日) 00:04:47 ID:Z9336L+6
苦しむとは、思い通りにならないこと。 自分の足で歩き続ければ、そんな思いは生じない。
760 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 00:07:12 ID:7DkEHDK1
快楽でいいんやで
761 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 00:09:10 ID:7DkEHDK1
逃げてもええんやで、負けてもええんやで
永遠に強要されるという所が気に入らない。間違ってないでしょう?そうでしょう? キリスト教ってそういうところなんでしょう?それは神様の理想とされているものとは 違うように思う。
763 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 00:13:37 ID:7DkEHDK1
764 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 00:14:19 ID:7DkEHDK1
神様なんかおらへん、それでええんやで
え、神様はいるよ。
766 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 00:19:12 ID:7DkEHDK1
それでもええんやで
神様は強要される事ないから・・
>>756 それは、真理がどうのと言うよりも
運営上そんな教義にしといたほうが
教団をうまく拡張・維持出来たということ。
宗教・哲学上の議論ではなく組織論に成ってくるな。
まあ、何千年もコミュニティーを維持していくのは並大抵の事では無いから
簡単に否定することはできないけどね。
組織論と宗教を絡めると面白いものが見えてくるぞ、
それこそが各宗教の本質だ、実際に世界に飛び出して彼方此方見て回ると良い
歴史的な事も含めてな。
口で、非暴力・平和を唱えても、実際やっている事は 暴力的な侵略と押し付けで大きくなった宗教も多々ある。 一方、非暴力ながら人々に支持されて広まっていった宗教もある。 なにが本物か。。。 答えは歴史の中にある。
770 :
brown :2007/03/25(日) 13:52:57 ID:zppPZeOC
>>768 , 769
拍手。あらゆる宗教教義の本質を喝破されましたな。
771 :
brown :2007/03/25(日) 13:57:50 ID:zppPZeOC
私は悟りました。 この世は無から生まれ、無は無でありえず、実態を表す。 無から実態が生まれ実態は無となる。 粒子は波動となり、広がりを持った空間に同時に存在する。 この世界は同時に同じ空間に違う世界に広がっていく。 この世は有と無の間でゆらいでいるのである。 時間は過去から未来へ、状態は秩序から無秩序へ、宇宙は広がる が、未来から過去へ、無秩序から秩序へ、収束する宇宙でもある。 それは同じ宇宙であり、別の宇宙でもある。 この無限の次元の世界を人間の感覚は認識することはできない。
773 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 16:18:08 ID:cPuRPqns
ブッタって悟り開く時に 大麻ばっか食ってたんだよな。
>>773 ほんまか、驚いたな、
といいつつ、なんだか全体に盛り下がってきた感がある。
>>772 何度聞いても品格があります。
で、その感覚は内面で渦巻いている状態ですか?
悟りを開いた時は光に包まれたのですか?
釈迦などと同じような状況でした?
775 :
自在 :2007/03/25(日) 22:24:22 ID:TwdaKtpA
止の行 これまでに主に数息観を止の行として紹介してきたが、集中系の行は全て止の行として使える。 天台の止観などでは鼻先に集中する法、胸に集中する法なども紹介されている。 チベット仏教などで教える鼻先に仏陀をイメージする法、日輪や月などをイメージする法も、この集中力をつける止の行として使える。 雑念を処理し、行を深めていく段階は数息観と同じである。 仏教には八万四千の法門があり、各々の修行者が、自分にあった方法をみつけるのが一番近道であるといえよう。 肝心なことは集中力を高め、自らの心の内に有る自我がどのように起こるのかを観ることだ。 これで悟りを得る法の概要は大体説き終わった。 この2ちゃんねるという場所は、人々の言葉と思いが集まる所であり、繁華街のように喧騒の場であるとともに、真実が明らかになるところでもある。 過去にもこの2ちゃんねるで幾つもの真実が明らかになった。 愚かな者の悪言や宣伝にまどわされず、真実を求める者は、ここにおいても真実を見出すことが出来るだろう。
悟りは、人間の感覚では感知できません。 あえて言えば、無限分の1時間は真の無ではなく、 無限分の1時間は存在として永久にあるという事が判るでしょうか?
あなたの意識は、はたしてどれだけ短い時間を感知てきるでしょうか? 人間の感覚では無限分の1時間を感知認識することはできません。 あなた自身で試してみればすぐに解ります。
「多世界解釈」で現すような全ての宇宙を人間の感覚で認知するのは不可能なのです。
779 :
神も仏も名無しさん :2007/03/25(日) 23:29:15 ID:cWblHIMR
ブッタレベルに追いつくには大麻が必要って事ですな
How to satori ? Anybody who gives you a brief method is your enemy. Because noway to GOD.
真理は、道なき道であり、・ ・ 無門関 ・ ・ レット イット ビー ( それが あるとうりに = あるがままに = 無為 ) これらが 思い浮かぶ。 全部 似ているような ・ ・
>>780 But!
There are ways to Nirvana.
That is a program. But it's danger for who think he is human. If you destroy it, you cannot live like you do before. It means that you will do the purpose without connect with human society.
>>776 >あえて言えば、無限分の1時間は真の無ではなく、
>無限分の1時間は存在として永久にあるという事が判るでしょうか?
文章理解の段階で行き詰る。
「無限分の1時間」。うーん。
最初は「瞬間の中にも時間の連続性はあった」という意味かと思った。
それから無限分の分は60秒かと思い、次に分母に無限の分、分子に1時間
と思う。しかし、分母を無限時間にしても分子が1時間というのは
瞬間を表すには、ちと芸がないかなと思い。
もう少し分かり易くお願い。
785 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 22:23:04 ID:6RtS60ac
>>772 >私は悟りました。
>>776 >悟りは、人間の感覚では感知できません。
ID:mpKCTyhGさんは人間ではないのですね。
786 :
神も仏も名無しさん :2007/03/26(月) 22:23:08 ID:cRoOU1b/
人間の感覚=五感
>>784 ほぼ0に近い瞬間という意味です。
(1/∞)の時間です
789 :
悟ラー :2007/03/27(火) 15:49:39 ID:M1Ufm3FN
>>756 永遠ではありませんが悟りに迫るにつれ苦しいものです。
悟ればそれも寛解します。
790 :
神も仏も名無しさん :2007/03/27(火) 16:19:11 ID:cLRLGRDL
Lonely〜♪ Im Mr Lonely〜♪ 君達はあれだな、悩み過ぎだな。
791 :
神も仏も名無しさん :2007/03/27(火) 19:02:55 ID:cFVbrwqv
>>789 悟ラーさんのお話、もっと聞かせてください!!
>>788 分かってみれば悩みすぎだった。
>>776 悟りは五感では感知できないだろう。
(悟りとは高次の自己つまりハイアーセルフと一体化して喜びの内に
あらゆることを創造していくこと、とか書いてあった。)
無限小の瞬間はなにも無いということではない。
無限小の瞬間は永遠の瞬間である。
(まあ、現在の精神世界の本では語りつくされている)
>>778 「多世界解釈」→ 多次元
しかしながら、多次元的視野をもつ存在というのはむしろ人間的
側面を持つほうが可能性があるとかいう説もある。
確かに魂は高次ではすべて繋がりをもつが、その完璧性ゆえ変化しにくい
面もあるという。永遠の最初の瞬間の中で対極性つまり2元性の
おかげで無限の視野が交錯して多次元性の実現を可能にするとか。
人間的側面によってアセンションするとき多次元的存在を
顕現していくような。
何やら難しくなってきましたね・・
793 :
神も仏も名無しさん :2007/03/27(火) 21:42:29 ID:us5euDXV
いや、よーく判った・・・・・・自作自演ということが。
794 :
神も仏も名無しさん :2007/03/27(火) 23:07:26 ID:CWXahk9P
>>772 >私は悟りました。
〜(人間の感覚では理解できないことが列挙され)
>この無限の次元の世界を人間の感覚は認識することはできない
要するに、悟りとは、人間の感覚では認識できないこ?もっと、要すると、悟りとは分からないってことですか?
真の無とは、 空気も無く、物質も無く、熱も無く、光も無く、エネルギーも無く、時間も無く、その空間もなく、 つまりは、無そのものも無い。
796 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 00:15:35 ID:mIPK+7U7
人間では認識できないのを悟りだったり、何にも無いのを悟りだったり。 まるで、空想の世界ですね。 小説やアニヤのネタにはなりそうですが、 この程度の悟りなら、生きていく上で何の役にも立ちそうにありません。
多世界解釈は量子論から生まれた解釈です。 多次元ではありますが、少し意味が違います。 量子論では、電子や光子は波の性質と粒子の性質を同時に持っています。 隣の部屋に移動するドアが2つあったとして、1個の電子や光子は隣の部屋に移動する場合、 どちらか一方のドアを通過するのではなく、どちらのドアも通過しています。 ところが、人間がその様子を観察すると、どちらか一方のドアにしか電子や光子を発見できないのです。 (観察しない場合は、波の干渉によってどちらのドアも通過したことが証明されます) これを、波動関数という確率論で数式化はされていますが、 アインシュタインなどは「神はサイコロを振らない」と反論するなど、 現在はまだ定説はできていません。 その中で、多世界解釈というのが出てきます これは、1個の電子や光子はどちらのドアも通過しているが、 同時にこの世界が分岐していて、観察した人も分岐しているので その片方ではAのドアを、もう片方はBのドアを通過したように見えた とする考え方です。 詳しくは、量子論を学んでください。
悟りとは、世界観だと思います。 人は空想や想像によって、世界はどの様であるかを知るのです。 現にそれによって、今の科学は進歩しています。 コンピューターも原子力発電所も、空想や想像から生まれたともいえます。
悟りこそ世界観ではないです。 空想や想像を否定してあるがままを見たのが悟りです。
800 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 00:48:04 ID:mIPK+7U7
なーんだ、物理の話か。 時間は過去から未来へ流れるが、いずれ未来から過去へ流れる。 しかし、人間は時間が逆行していることに気づかずに生きていくであろう。 って、どこかの物理学者が言ってたね。
というか時間なんてものは存在しないのです
スレタイが 悟りました(801) だった件 ワロタ
803 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 01:01:06 ID:mIPK+7U7
804 :
brown :2007/03/28(水) 01:23:18 ID:ux6J1BxD
>>796 , 799
そうです。悟りとは五感のことです。五感以外には何もないことがはっきりと
するので,認識が完全になるのです。はっきりと見,はっきりと聞き,はっき
りと嗅ぎ,はっきりと味わい,はっきりと体感する。それ以外に以前あった
雲のような妄想の群れは,はっきりと滅する(ここは正確にはもう少し説明
を要するが)。それ故に知覚の流れは全てはっきりとし,完全な理解力で
満たされる。全ての現象はありありと現れ,何も妨げるものがない。
人間の所有している色受想行識という五蘊以外の何ものかがあるということ
がそもそも想定できないし,ありもしない。涅槃というものは,はっきりと
「ない」のです。ただ五蘊のはっきりとした調和があるだけです。そして,
それを涅槃というのです。
805 :
brown :2007/03/28(水) 01:28:52 ID:ux6J1BxD
時間はあります。 時間がないという者は,邪な見解を抱いて地獄に堕ちるといわれているから。 というのは,時間がないとは,自己の行為に対する責任がないことになって しまうから。修行して解脱するということもなく,行為の結果が後に影響を 及ぼすということもなくなってしまう。自己同一性が失われ,自我もなく, 意識もありえず,変化もないことになってしまう。そもそも無常という真理は 忘れ去られ,ただ永遠の一瞬が瞬くようにある,あるいは永遠に固定している ことになってしまう。
806 :
brown :2007/03/28(水) 01:35:21 ID:ux6J1BxD
時間があるということを, また別の観点から言うならば,「時間の観念が消失する」という意識現象は, 非常に病的な精神状態であり,通常,統合失調(精神分裂)と診断されている。 精神統一し,瞑想を修習していると,景色(五感)が細切れ,コマ送りのよう になって,時間の連続がぶつ切りになったように見えることがあるが,それは 現象が刹那に滅して前の瞬間と何の脈略もなくなってしまうということでは 決してない。それは,その逆で,妄想のべったりとした覆いに隙間ができ, やっと,現象が目の前に現れつつある気配のことである。 現象を通じている時間を否定することはできない。時間を否定する者は, 空性に固執する者のように,全てを否定することになり,全く救いようの ない者となるからである。
807 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 01:39:55 ID:mIPK+7U7
>>798 「空想」よりも
>>799 の「ありのまま」の方が、悟りに近い。
たしかに、コンピュータなどは人間の空想によって生まれたとも言える。
しかし、その空想は人間が認識できる、実現可能性があることが大前提。
例えばノーベル賞の田中耕一さんは、実験間違えて予想とは異なる結果を出した。大抵の人は実験間違えた(予想外、空想外)のだからと思い、ありのままを見ようとしない。
しかし、田中さんはなぜ異なる結果が出たのか、ありのままを見つめ、質量分析装置の原理を発明。
科学の進歩は、人間の空想というよりはありのままが大前提。
808 :
brown :2007/03/28(水) 01:42:27 ID:ux6J1BxD
彼は心を観察しない。 彼は心を浄化しない。 彼は心を浄化しようと試みない。 彼には現実に心を浄化する力を持たない。 彼は実際に心を浄化した経験を持たない。 彼は自己の心が浄化された結果を観察しない。 彼は自己の心が浄化されつつある経緯を観察しない。 彼は自己の心のカルマの働きを知ることがない。 その彼に,時間の観念は忘れ去られてしまう。 なぜなら,彼はありのままを見ず,その知識領域は妄想に侵されている からである。
>>808 なんだ
久しぶりに見たら改心してBrown氏がまともになったのかと思ったぞ
> 彼は心を観察しない。
> 彼は心を浄化しない。
> 彼は心を浄化しようと試みない。
> 彼には現実に心を浄化する力を持たない。
> 彼は実際に心を浄化した経験を持たない。
> 彼は自己の心が浄化された結果を観察しない。
> 彼は自己の心が浄化されつつある経緯を観察しない。
> 彼は自己の心のカルマの働きを知ることがない。
> その彼に,時間の観念は忘れ去られてしまう。
ここまでOK
最後が違うな
なぜなら,彼はありのままを見て,その智慧は妄想に侵されることがないからである。
なぜなら、彼は観察という妄想に囚われないからである
なぜなら、彼は心の汚染というを妄想に囚われないため、浄化する必要がないからである
なぜなら、彼はカルマを貯める事が無く完結するため、カルマには関知しないのである
ゆえに、彼には時間妄想に囚われないのである
>>809 > ここまでOK
> 最後が違うな
> なぜなら,彼はありのままを見て,その智慧は妄想に侵されることがないからである。
> なぜなら、彼は観察という妄想に囚われないからである
> なぜなら、彼は心の汚染というを妄想に囚われないため、浄化する必要がないからである
> なぜなら、彼はカルマを貯める事が無く完結するため、カルマには関知しないのである
> ゆえに、彼には時間妄想に囚われないのである
なぜなら、彼には過去を想起して悔やむことがないからである
なぜなら、彼には未来を想起して期待を膨らませることがないからである
ゆえに、彼には、妄想の波風を受けることが無く、安心の懐に住まうのである
自分の精神の改善部が見つかったら 神仏に手を合わせるとなおよい
812 :
神も仏も名無しさん :2007/03/28(水) 09:32:40 ID:JhS0HvOi
光ファイバーは基本的に低い脳しか持ってないんだから、普通に書け。 低い脳しかもってないのに、上祐の命令で自分でも判らないことを、無理やり書こうとするから間違うんだよ。
真の無とは、 空気も無く、物質も無く、熱も無く、光も無く、エネルギーも無く、時間も無く、その空間もなく、 つまりは、無そのものも無い。 もちろん愛もない。 が、それを認識したところで、何の意味もない。