その時、クローヴィスが登場し、カトリックの洗礼を受け、カトリック教会の
擁護者として登場したのです。
彼はカトリック教会、民衆の支持をうけてゴート族を駆逐してフランク王国、
メロヴィング朝を創始したのです。
長々と書きましたが、つまり、メロヴィング朝はカトリックの擁護者であり
キリストを人とするアリウス派を駆逐する性格を持って登場した王権なのです。
逆に言えば、このタイミングでクローヴィスがカトリック擁護という立場で
登場しなければ、その後のヨーロッパ宗教史は異なった展開をみせたでしょう。
そして、そんなメロヴィング朝が、『ダ・ヴィンチ・コード』の言うように
「キリストの血脈」と姻戚関係を結んでいたか、という疑問があるのです。
『ダ・ヴィンチ・コード』では、その血脈のことがメロヴィング朝内で
伝えられていたからこそ、メロヴィング朝の末裔であるゴドフロワ・ド・
ブイヨンが、その証拠をえるためにシオン修道会を創始したとしています。
しかし、「キリストの血脈」はまさに三位一体というニカイア信条に反し、
アリウス派の正しさを示すものです。
仮にその血脈がメロヴィング家と婚姻を結び、その血脈のことをメロビング家
に伝えていたら、そもそもメロヴィング家はカトリックになど改宗しなかったでしょう。
また、クローヴィスの代になって破竹の進撃を行ったメロヴィング家よりも
それ以前からフランク族よりも大きな領土を持っていたゴート族の方が
100年前からアリウス派を信奉していました。
なぜ、キリストの血脈は、より信条的にも共通性のあるゴート族を選ばなかったのか。
やはりご都合主義、結果からの類推なのだろうな、と思わざるを得ません。
ニカイア(ニケーア)公会議について少し触れましたが、この件に関しても
『ダ・ヴィンチ・コード』にはおかしなところがあります。
1.ニカイア公会議まで、信者達はキリストは預言者であり、あくまで人間
だと見なしていた。
2.キリスト教の新しい伝統を確立するため、ローマ皇帝コンスタンティヌス
は、ニカイア公会議を開いた。
3.ローマ帝国の統一を強固にし、ヴァチカンの権力基盤を確立するために
ローマ皇帝コンスタンティヌスがイエスを神の子であると宣した。
4.『神の子』というイエスの地位はニカイア公会議で提案されたもので、
選挙の結果、イエスは神の子と決められた。
なんとも頭が痛くなってきます。
作者は西洋史の勉強をちゃんとしているのでしょうか。
ニカイア公会議が開かれた経緯はこうです。
4世紀の初頭、アレキサンドリアの司祭アリウスは、サベリオス主義(父・子
聖霊は単一の神の3つの様態であるとする説)への対抗のなかで、イエズスは
「人間」であり、神によって選ばれた人間ではあるが神性は持たず、天なる父
と本質を異にするとの説を主張しました。(この説を唱える人達をアリウス派という)
この主張は、同じアレキサンドリアの司教アレクサンデルにより誤りとされま
したが、ニコメディアの司教ユーゼビウスがこれを弁護します。
これによって東方の諸教会は、アリウスの説をどう扱うかで混乱してしまい
ました。
このため、コルドバの司教ホシウスの進言により、皇帝コンスタンティヌスが
開いたのがニカイア公会議です。
ですから、「イエズスは人間である」というのは、アリウスが言い出したことです。
「イエズスは神の子である」というのはニカイア公会議の前から言われていたことで、
ニカイア公会議で新たに提案されたわけではありません。
それに、ニカイア公会議の目的はヴァチカンの権力確立のためでもありません。
これは東方教会の混乱収拾のための会議です。
公会議には220人が参加したといわれますが、そのほとんどは東方諸教会の
人々でローマからの参加者は2名だけだったのです。
それから、ローマ皇帝が帝国の支配とヴァチカンの権力確立のために
ニカイア公会議でアリウス派を異端と決めたというのも、ナンセンスな話です。
もちろん、ミラノ勅令でキリスト教を公認したり、
ニカイア公会議を開いて教会の混乱収拾に努めたりはしています。
しかし、ニカイア公会議でアリウス派が異端とされた後も、
皇帝の取り巻きにアリウス派は存在し続けていましたし、
何より、その後、当の皇帝コンスタンティヌス自身が、
アリウス派の洗礼を受けているのです。
コンスタンティヌスに続き、その跡を継いだ子のコンスタンティウスもアリウス派でした。
また、その後を継いだユリアヌスはローマの伝統的な多神教を復活させています。
カトリックがローマ皇帝によってつくられた宗教なら、こんな展開には
なっていないでしょう。