座ったり立ったりする修行なんていうの?

このエントリーをはてなブックマークに追加
654たか:2008/07/20(日) 20:03:38 ID:wTjEjYAn
金曜日にテレビを見てたら、クローズアップ東北、平泉の文化遺産登録延期を検証する、という番組があった。
去年11月に中尊寺を見に行ったのはもしかしたら登録になるかもと思って見に行ったのだけれど、その時実際は登録が難しいのではないかと思っていた。
なぜかというと、平泉で思い浮かぶのは金色堂と毛越寺の浄土庭園だけだったからだ。
実際に中尊寺の景色や建物を見ても金色堂以外感銘しなかった。
また毛越寺の浄土庭園はそれなりにいいけれど当時の建物はほとんど消失していて風景がまったく変わってしまいその場に行っても、平泉の文化はこれか、と感銘を受けるものはほとんどない。
長者ヶ原寺跡、白鳥館遺跡、金鶏山、柳の御所遺跡、無量光院跡、達谷窟、骨寺村荘園遺跡。
どうも世界文化遺産に登録されたいがために無理やり学者が寄ってたかっていろんなものを理屈づけてくっ付けたよう感じがする。
登録委員会の各国代表の議論でもあまりにも解りずらい説明の案件だとの批判がぞくしつしたみたいだ。
平泉ー浄土思想を基調とする文化的景観、という題名と、遺跡などに上げられた地に実際に立ったときのギャップ、これが審査委員には素直に受け入れなかったようだ。
三年後に再度登録を目指すというが今の説明では登録などまず無理で、根本的に見直すか、金色堂を中心とした中尊寺と浄土庭園の毛越寺に絞り込んで、清衡や基衡、秀衡の描いた浄土の世界を観光客にすぐに感じられるように示さないとならないだろう。

それにしても平安時代のその当時の中尊寺や毛越寺や宇治平等院を模してそれ以上の大きさだったといわれる無量光院が少しでも残っていたらよかったのにと思わずにいられませんね。
655たか:2008/07/20(日) 20:37:39 ID:wTjEjYAn
学者がいくら説明してもわからないものが、そんな説明などされなくともその場に立っただけで一瞬でいっきに身体の内部から沸き起こるように感動し、身体全身で納得するということがあります。
例えば、目を閉じていても、その場のなんともいえない雰囲気が身体に伝わってくるのでしょう。
これは何も日本人だからどうだというものでなく、多くの人達が理屈ぬきに感じられるものなのでしょう。
だからこそこれを、世界文化遺産というのでしょう。
理屈や理論などなしに感じられるものがあるはずなのにゴチャゴチャと理屈をつけるから、そのまま、ありのまま、感じられるものさえぼけてしまい本来受ける感動が霞んでしまいます。
大乗仏教がいう、悟りや見性も、まさにこれと同じようなものです。
いくら釈迦が言おうが、理論や教えなど忘れて素直に、今いるその場所のその雰囲気をそのまま感じそれを喜びとすればいいだけのこと、いろんなことを付け加えてかえってつまらないものにしてしまうことがあります。
まずは、そのまま、ありのまま、感じて、ゆっくり深呼吸して、その場の雰囲気を身体全体に取り込んで、まずは取り巻く環境と一体となって初めて落ち着いてそれを味わうことができます。
その後ですよ、理論や理屈や教えが活きてくるのは。
どうしても理屈や理論、教えが先になってしまいますが、それを忘れ去ってまずは素直にその雰囲気と一体となってそれをそのまま味わう、これを無心というのでしょう。
656たか:2008/07/21(月) 11:32:58 ID:rx0/XKo2
もうすぐ北京オリンピックが始まります。
チベットの問題、四川大地震、公害問題、貧富の格差や都市と田舎の格差、官僚の汚職、あげればきりがありませんが。
でも、オリンピック開催中は無事に競技がおこなわれてほしいものです。
オリンピックに出場される選手のなかには必勝やよい成績になることを願って神や仏に手を合わせさらには祈祷さえする人もあるでしょう。
まぁ、オリンピックじゃなくても何かことがおきれば仏や神様に手を合わせたくなるのは人情とも言えるでしょう。
神や仏の更なる不思議な力が加わることを願って神仏に祈ることを加持祈祷といいます。

ところで競技中は無心になるとか、無心の状態でとかよく言われます。

仏や神に手を合わせる、ことと、無心になる、こととはどう関係があるのでしょう。
657神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 22:58:23 ID:k6W6SRqe
安っぽいエッセイの垂れ流しになった。
658たか:2008/07/25(金) 02:59:47 ID:/6UMQSOM
私がやったことはただ一つ。
ただただ、仏鈴の音に身をこころを任せただけ。
これ以外、何もありません。
これ以外は何もないけれど、これをしなければいくら私が書いたのを読んでも、いつまでたっても何故、一音、ばかりいうのか解らないでしょうね。
座禅や、念仏、真言、その他いろいろ言う人はいくらでもいますよ。
いくらでもいるんだからそれがきっと正しいと思うのなら、どうぞそれをやればいいでしょう。
何度も書いてるように、私はそれも否定してはいませんよ。
でもね、それで、本当に仏法が解るのか、さあどうでしょう。

阿弥陀経が説くのは色や音だけですよ。
あれをしなさい、これをしなさいなどということは何もない。
釈迦の教えもなければ縁起思想などまったく書いていない。
自分でどうしようもなくなったら、阿弥陀仏と唱えなさいだけです。
阿弥陀仏と唱え、身も心もあずけることで、初めて自我というものを手放すことができるのだよと説いているといえます。
自我を手放すとは、自分でこうしようああしようという思い上がった心を手放すのですよ。
この手放したことを、状態、心を無心といいます。
多くの人は、仏や神を拝むことで仏や神から不思議な力が加持が得られると教えられ考えていますがまったく逆です。
今の自分の力をその時の環境や状況の中で充分に発揮できるように自我を無くすのです。
これを無心になるというのです。
659たか:2008/07/25(金) 03:09:02 ID:/6UMQSOM
無心になるために身も心も預けてしまう。
残っているのはその時の環境や状況ただそれだけです。
こうしなければならない、ああしなければ恥ずかしい、そんなことなどまったくおもいもしないその時まっしぐらでしょう。
660たか:2008/07/25(金) 04:22:23 ID:/6UMQSOM
私はここに書き込むときいつも一音を書きたくて書いているのです。

先日、プロフェショナル名人戦森内俊之 VS 羽生善治という番組がありました。
なかなか二人の真剣な戦いを面白く見てたのですが、互いに名人を極めた二人が今の境地をその番組の中で森内さんは無心をいい、羽生さんは玲瓏という言葉で言っていました。
森内さんのたどり着いた今の無心はいろいろ考えて差すということではなく熟慮はするけれどその時心にわきあがったものに身を任せるのだそうな。
ところで羽生さんのいう玲瓏とは、透き通り、曇りのないさま、透きとおった静かな心持ちをいう。
対局中に襲われる不安や迷い、雑念を取り払い、澄み切った心で盤面に向かうよう、自らを戒める心でしょうか。
私は今まで玲瓏という言葉を知りませんでしたが、辞書で引くと次のようにでてきます。
1 玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。「―たる山月」「八面―」
2 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。「―たる笛の音

私は今まで私たちが水滴のごとくでありそしてそれを智るために一音を書いてきましたが、玲瓏の、玉のように輝き音声の澄んで響くさま、はまさに見性を表す言葉にふさわしいような気がしますね。
661たか:2008/07/25(金) 04:42:31 ID:/6UMQSOM
ただ単にメダルに執着するのではなく、選手の皆さんにはオリンピックやその雰囲気に飲み込まれることなく逆に会場と一つになって自分の競技を楽しんでもらいたいと思いますね。
会場と一つになってその瞬間を全身で楽しむ、真剣なその瞬間の世界こそ、それが、無心の境地であり、玲瓏の境地といえるかもしれませんね。
662たか:2008/07/30(水) 11:13:07 ID:husKkAdo
森内前名人、羽生名人、共に永世名人位を獲得していますが、二人の話を聞くと先人の指し手や定石を熟知しているがゆえにかえってそれに拘らないところに何かを求めているような感じがしました。
互いに自分の思いもよらない手を相手が指してくるといい、それが常に新しい展開を作り出していて、それに対するには定石など今までの知識さえ離れた無心の境地があるのでしょう。
彼らのようにその道を極めて無心、というわけには私たち凡人はなかなかいきません。
日頃の生活では無心になるどころか気づくどころか次々に沸き起こる煩悩で一層で自分で自分を縛ってしまっています。
それを振りほどくための教えが、仏に一切を預けてしまいなさい、これが仏教でしょうか。
悩みも何もかもそのまま預けてしまう、私たち凡人にはいつでもどこでもできて簡単でたやすい方法といえるでしょうか。
663神も仏も名無しさん:2008/07/30(水) 18:27:46 ID:0Gk3Jnq/
音に身を任せる、とはどういうことでしょう?
聞く事ではないですね。
もたれかかるような事でしょうか。

やっと200くらいまで読みました。
徐々に読み進めていきます。
664たか:2008/08/01(金) 11:30:53 ID:Ux6DomLF
663さんへ、
音に身を任せる、言葉で書けばこうですが、実際は言葉では言い表せないですね。
ですから時間をかけて少しずつですが書いてきました。
言葉にすればそれを受け取った方は、それはこうではないかとかああではないかとかいろいろと思い描きますが、実際はそれさえ思わないのです。
音に身を任せると書きましたが見性の直前は実はそのことさえ忘れた瞬間ともいえるでしょう。
聞いてやろうとか、聞こうとか、そういうことも忘れた瞬間です。
自分でこうしてやろう、ああしてやろうなど忘れた瞬間、捨てた瞬間ともいえます。
だから一切を捨てて生まれる前に戻れというのです。
それを解ってもらおうと思ってここにずーと書き込んでいます。
読んでもらい少しでも参考にしていただければと思っていますが、でも実際はそれさえ忘れて実行してもらえればよいなァと思っているのです。
空いたわずかな時間にいつでもどこでもできることですから是非とも実行してほしいですね。

人は誰でも、音は耳で聞いているのだ、と考えています。
確かに耳でも感じているのですが、実は身体全身、又は心で感じているのだという感動があります。
そう考えてみると、見るということも同様に単に目で見ているのではないのだと解ってきます。
匂いなども同様です。
多くの人は観の字を見ると目で見て観察するのだと勘違いをしますが実際は全身で感じることです。
その時のその場所その瞬間をそのまま全身で味わう感じる、これを観というのでしょう。
前にも書きましたが観光旅行の観という言葉はその場所のその瞬間を全身で感じる味わってこそですね、いくら画像や話を聞いて納得したと思ってもそれは観とは程遠いものです。
その全身で観じた瞬間に同時にその心が生じる。

音は自分で聞こうとしていなくてもそのまま入ってきて全身を振るわせている。
あらゆる一切はその一音のようなものである。
その一切を智る最初の切っ掛けこれがまさに見性の時の一音ともいえるでしょう。
それは同時に自己を知ることなのです。
665663:2008/08/02(土) 08:21:50 ID:zEAj8Uvm
おリンを買って始めてみました。
5秒も無理です。「違うなあ」って思いながらやってます。

まずは続けてみますね。
666たか:2008/08/02(土) 20:07:04 ID:fM/t/WHh
663さんへ、
仏リンの響き、30秒ですが、やってみればわかるように誰でもその間最初から何も考えず空っぽにはなれません。
逆に言うとそれだけ常に何かを考えている、それだけ常に頭を働かせているということなんでしょう。
30秒を続けていけば少しずつ段階を踏みいろんなことに気づきながら身体も心もそれになじんできます。
途中うまきいきそうだと思ったりしても次にやってみれば前に戻ったと感じたり、まぁそう簡単ではないでしょう。
でも、実際はこのことが簡単でないことを知ることが本当は最も大切なことです。
自分には到底知ることはできないのではと心底感じる、これに至って初めて、自分ではできないことを知る、つまり、やっと自己を手放すことができる、ともいえます。
釈迦にしろ、空海にしろ、道元にしろ、もちろん親鸞も同様にこれを踏んでいた、踏み越えてきたと私は考えています。
だからこそ、無我や無心だけでなく、他力や自然法爾という言葉が使われるのでしょう。
667663:2008/08/03(日) 11:26:33 ID:adzP1HoZ
>自分には到底知ることはできないのではと心底感じる

色々試してダメでいるので、早いうちに感じそうです。
ただ、それを心底感じて尚、おリンを鳴らす意思が存在するのか。はなはだ疑問ではあります。
それが竿の先から飛び降りるという事でしょうか。

とにかく続けてみます。
668たか:2008/08/03(日) 12:57:16 ID:fGIuJ7rF
まぁ、竿の先から飛び降りるという、そういうことも頭からすっかり無いわけで、そこに至ってみれば、仏に任せるしかないということでしょうか。
後は、今までどうり仏リンを鳴らして手を合わせるだけです。
観音菩薩や阿弥陀仏や虚空蔵菩薩に、どうしてくださいもない、音を鳴らして手を合わせるだけです。

鳴らす意思が存在するのか、との疑問ですが、今までそうしてきたんだからそんなことさえも考えずに、いつも通りすればいいこと。
音が鳴っている間はただただそれをすればいいだけです。
付け加えれば、ゆっくり大きく呼吸、息を吸い込むことでしょうか。

まあ、とにかく続けなければ話になりません。
669たか:2008/08/03(日) 13:33:51 ID:fGIuJ7rF
中尊寺の話題が出て、それを考えてるうちに実家の墓のある寺をヤフーでまた検索しました。
またというのは、以前この寺に60年ぶりに再び梵鐘が戻ってきたことを書いたときにその新聞記事が検索できるのではないかと思ってその寺の名を検索したことがあるのです。
その時検索してみて驚いたのは、自分が思っていた以上にこの寺の写真が何枚もきれいに写っていたことです。
文化財でもなんでもない寺ですが、いろんな角度で写真が撮られていました。
檀家もわずかでこの地区の人のための寺で葬式と墓参りぐらいしかほとんど訪れることがない寺ですが、検索の中にははるばる遠くからわざわざこの寺の観音堂を見るために訪れて、いいものを見せてもらったと賞賛した人が何人かいたことにたことに驚いたですね。
私は小さい時からこの寺しか知らなくて寺といえばこの寺だけでそれ以上には思ってもいませんでした。
でもそれを読んでみると、その人達が言うように、なるほど特徴的な観音堂のつくりになっていることに初めて気づきました。
670たか:2008/08/03(日) 22:25:18 ID:fGIuJ7rF
興味のある方は、 猿沢 観福寺 、で検索してみてください。
その中で面白かったのが、平泉・水沢巡覧 2005年1月9〜10日、という旅行記です。
2日間の旅行記ですが、東京からはるばる来て、猊鼻渓は見たものの、最初の一日目はどう読んでもこの観福寺を訪れるために一日を費やすために来た感じです。
それもこの観福寺にいたのはおそらく5分間もなかったでしょうね。
この旅行記を見ると状況があまりにリアルに目に浮かんできて何度読んでも笑ってしまいます。

ところでこれを読んで初めて気づいたことがあります。
数知れぬくらい行った観音堂ですが、この観音堂全体が岩の上に組まれて立っていたとは考えたこともありませんでした。
まさしく岩と観音堂が一体になっている構造です。
いやいや、岩と観音堂とその中の聖観世音菩薩とひとつに、いやいや、もしかしたら岩の上に立ちこの観音菩薩の前で手を合わせている人も加えて全体が一体の空間を作り出そうとしたのではとだんだん思えてきました。
そういえばこの寺は石清山という名の山号ですのでもしかしたら石清とはこの岩のことを示しているような気がしてきました。

小学校の頃、墓参りの後、この観音堂の前の小さな塔の横に立って観音堂を背景に撮った写真が今もあります。
写真をとった後、観音堂の柱にしがみついて鳴いていた蝉を取ったことを思い出しました。
  閑かさや 蝉鳴く堂は 岩に立つ
この寺の開山は800年前1191年の記録がありますが、その時から今日までズーッと、観音菩薩はこの岩の上に静かに立ち続けていたのでしょうか。
671たか:2008/08/03(日) 23:18:55 ID:fGIuJ7rF
この観音堂から下の本堂の前に続いている回廊も多くの人が書いているように写真で見ると非常に趣がありますね。

この観音堂の後ろの岩山には石仏がいっぱいありました。
どうやらこれは霊場四国八十八ヶ所の仏像だったようで、弘法大師空海の四国からはるか離れて四国に行くことさえも思いも寄らない人達を少しでも救ってあげたいという思いがこの辺境地に寺を作らせたのででしょうか。
そう考えてみると、この観音堂を中心にしたこの岩山全体がひとつの仏の空間ということなのでしょう。

義経は平泉の高館で1188年に死んだといわれていますが、その時生き延びてこの地に立ち寄ったという伝説があります。
開山が1191年ということから見れば3年の誤差があり変ですが、その当時、実はこの寺のすぐ前の小さい川で砂金取りをしていたといわれていてその砂金が中尊寺金色堂にも使われたといわれています。
もしかしたらその当時のその仕事に関連してこの寺もこの地に作られたのかもしれません。
672たか:2008/08/09(土) 19:06:45 ID:rJMhBsLY
663さんへ、
仏鈴を鳴らして何も思わずに30秒間手を合わせる、これだけですが、もしかしたら速く解るのではと思ってからそれからが長かったりします。
室内の静かなところで鳴らして手を合わせるだけでなく、時には外に出て外のその時聞こえる音に身を任せることも大切だと思います。
手を合わせ、ゆっくり息を吸い込むと、その時響いている音と一つになっているのです。
もっとも、手を合わせなくてもよいのですが、手を合わせると誰しも心が落ち着くものですので、まずは手を合わせてゆっくり息を吸い込んでみましょう。

どんなところにいても私たちは音に包まれています。
その一瞬一瞬変化し続けるそれらの音がその時の私たちを作り出し変化させているのです。
仏鈴の音からそれを知ることが多いでしょうが必ずしも仏りんの音だけではありません。
ですから仏りんが鳴っている間に聞こえる多くの音も大切でありぶつりんの音だけを分けて聞こうとすることではないのです。
音に身を任せるとは何かの音を聞こう、聞こうとするのではなく、聞きとろうとするのではありません。
鳴っている音がそのままです。
そしてまた、多くの人が間違っているような、鳴っていない音が聞こえるというような特殊な能力をいうことではないのです。
これがしっりわからないと、いつまでたっても妄想の中です。


673たか:2008/08/09(土) 23:44:44 ID:rJMhBsLY
昨日の開会式からテレビはオリンピック三昧ですね。
期待しないで見ろといわれてもついつい期待してみてしまいます。
どの国の選手もメダルがほしくて参加してるのですからなかなかメダルに届かないのは仕方がありません。
前にも書きましたがとにかく楽しんで自分の競技をやり抜いてほしいものです。
今日一日テレビをつけていましたが次々に日本選手が出てくる競技があってうまい具合に競技が重ならずにできてるんだなァと思ってみてました。
674663:2008/08/10(日) 08:46:10 ID:0+mnfQAy
>もしかしたら速く解るのではと思ってからそれからが長かったりします

おっしゃる通りです。捨て切れません。
上手くいっている時に「よし!」なんて思って思考の上塗りを始めてしまったり。

引き続きやっていきます。
675たか:2008/08/10(日) 23:47:26 ID:MyiVrioj
捨てきろう、などということさえ考えない。
つまり、何も考えない。
これ、音と一つになる最短の方法です。

一度だけでなく、何度も読み返してもらうためにここに書いているのですが、読んでもらえれば解っていただけるでしょうが、皆さんにもう一度生まれたときと同じ体験をしてほしいと思っているんです。
身体という入れ物は今の自分でいながら、心は生まれたときと同じ状態にする、一瞬だけでもいいからそれを心と身体で味わう、思い出すのです。
これが見性だと私は思っています。
だからこそ空っぽというんですよ。
生まれたばかりの赤ん坊は生まれたばかりの身体をした空っぽだし、今見性すれば、今現在の身体をした空っぽです。
空っぽだからこそ何でも受け入れるんです。
余計なものなど入る隙がない、そのままです。
だから、生まれてすぐ赤ん坊は小さな口で精一杯吸い込んだんです。
これ、釈迦の明星ですよ、空海の朝日ですよ。
676:2008/08/11(月) 02:11:27 ID:LgPmO0s0
ちょっと、散歩。
変わった、方法を、提示する人ですね。  風鈴?
うける感じでは、観世音 が好きで、観世音に縁がある人かな?

音 と言えば、人間は、目は閉じることはできるけれど、
 耳は、いつでも、開いていますね。
677たか:2008/08/11(月) 14:46:36 ID:t2YL4mvG
余計なものなど入る隙がない、そのままです、、というよりも、外のものと思われてたものがそのまま入ってた。
内と外の区別がない、仕切りがない、分別しようがない、つまり無分別ということですね。
これを智る、これ即ち無分別の智とでもいうんでしょう。

このことを水滴に例えて何度も書いてきたわけです。
水滴のかたちも、そして水滴に映るあらゆる一切が瞬時変化しているのに、霊魂というものがあって他の一切とは関係なく霊魂だけ永遠に変わらないなどというほうがどうかしてます。
ましてその霊が他の因果とはまったく関係なしにそれ以上に力を及ぼすなどと考えるのは妄想以外にはないでしょう。
678たか:2008/08/11(月) 15:28:43 ID:t2YL4mvG
宝さんへ、
私は観世音が好きだから、仏鈴を、音を知りたかったわけではありませんよ。
実は逆であって、見性、そのときの音を思うとき、なるほど般若心経の菩薩を何故鳩摩羅什が観世音と訳したのかが解ったのです。
多くの人は、同じく鳩摩羅什の名訳といわれる法華経の二十五品の観世音菩薩のいわれにだけ拘って観世音がよくみえていないと思います。
世の音を観じて悟りに至った菩薩つまり観世音菩薩、その別名である光世音菩薩という名もまさしく見性の時の、光と音、に由来する名ですね。
音を知って観世音がわかれば、般若心経は当然理解できるし、般若心経に書かれた、空、も理解できるのです。
679たか:2008/08/11(月) 16:08:00 ID:t2YL4mvG
生まれたばかりの赤ん坊、まだ呼吸していない時点では光に照らされ音に包まれた単なる赤ん坊という名の器(うつわ)なのかもしれません。
ただ光といっても暗い時や場所で生まれることもありひかりよりも音の方が大きな意味を持つかもしれません。
私のかってな推測ですが、多くの場合生まれたとき最初に聞いた音に驚いてというか促されて呼吸つまり産声を上げるのではないのかなぁとも思っています。
身体全体は素っ裸でいながらどういうわけか包まれているような安らぎや喜びがある。
そして同時に稲妻に例えられるような身体を突き抜けるような驚きの音がある。
そこにはこの世に生まれ出た大いなる喜びがあったのではないかと私は思っています。
出からこそ、それを皆さんにも体験していただきたいと思いながらいつも書いています。

古来より多くの名僧が同じ体験をしていると考えていますが、どうでしょうか。
680:2008/08/12(火) 03:17:39 ID:0UX2omNF
>>678 たかさんへ 
    「私は観世音が好きだから、仏鈴を、音を知りたかったわけではありませんよ。」

そうですか。 案外、人間は、自分がなにゆえ、動いているか、わからない、ということも
 ありうる、と、わたしは思ってしまいます。  私の考え方で、他意はありません。

経典の中の、音に関する、記述をずいぶん、勉強なさったようですね。
音と言えば、宗教的には、意外に、オーソドックスで、古代の神道などでも
棒の先にぶどうのようにたくさんの鈴をつけたものを両手に持って、振り、
というものなど、あったようです。

音は、不思議な作用をするようで、脳にも、生理機構にも、影響を与え、
爽快になる音楽、不安になる音、など、映画でも使われますね。

漢字の成り立ち的には、 音 = 日(太陽)、 立つ、 で、明けの明星、 
 にも、おっしゃるように、関係あるかもしれませんね。
681たか:2008/08/13(水) 00:50:29 ID:9SvtoGp5
宝さんへ、
>>678
経典の中の、音に関する、記述をずいぶん、勉強なさったようですね。
音と言えば、宗教的には、意外に、オーソドックスで、古代の神道などでも
棒の先にぶどうのようにたくさんの鈴をつけたものを両手に持って、振り、
というものなど、あったようです

読んでいただければ書いていますのでわかるはずですが、私のつたない大乗経典を調べる中では何故自然の音、鳥の声や小川の音などを記述しているのか結局はわからなかったのです。
最終的には体験そのもので一発で了解、納得です。
これは、あの一休禅師も同じです。
おそらく親鸞もでしょう。

私の田舎ではおそらく今でも子供たちが神楽を継承しているでしょう。
これもまた、前に書いていますので読んでください。
実は神楽のことなど書こうとなどとは思ってもいなかったのですがよくよく考えてみるとあの法華経の24品に妙音菩薩が踊りと音楽で菩薩になったと書いていますので、以前そのこともかきました。
小さな地域ですが、昔は山伏神楽、南部神楽、伊勢神楽などの神楽があったようで当然それぞれの神楽では太鼓や笛のほか、宝さんがおっしゃるように身体や道具に鈴をつけ舞います。
妙音菩薩は舞って仏をいっしんに供養したそうですのでこれでも悟りに至るのだということでしょう。
おそらくこの経典の作者は、音と心と身体がまさしく一体になることをいいたかったのかもしれませんね。
でも、ほとんどの人はいくら何百回法華経を読んでもそのことに気づかないでしょうか。
これこそ、馬の耳に念仏、とでも言うのでしょうか。
妙音菩薩は西の観音菩薩と同じ功徳のある東の国の菩薩だそうで別名を文殊菩薩や毘沙門天のことだという記述もありますが、さてどうでしょうね
682たか:2008/08/13(水) 00:51:41 ID:9SvtoGp5
このように音に関連して書いてきたわけですが、結局はいくらいろんなものを読んでも自分ではっきり納得しなければ、というところがあります。
法然他道元にしろ親鸞にしろ比叡山でいくら経典を読んでもわからないといい山を降りてしまいます。
知識だけ修得すれば納得できるものではないのですが、何もいわなければいい加減な話だけが仏法だと思われてしまいます。
ここを読んでいただいた方が見性してほしいのはもちろんですが、もしなかなかそれができなくとも巷に広がっている間違った捉え方をしてほしくないという思いもあってこれまでずっと書いてきました。
もし見性された方がいた場合でもここを読んでもらい是非とも自分と照らし合わせていただき悟りの後の修行に役立てていただければと思うのです。


683たか:2008/08/13(水) 09:55:48 ID:9SvtoGp5
681訂正
 毘沙門天ではなく、吉祥天又は弁財天です。
法華経の妙音菩薩品には妙音菩薩のことを文殊菩薩が尋ねているところもあり妙音菩薩と文殊菩薩が同一だというのも少し変ですが、まぁあまり拘らなくてもいいでしょう。
妙音菩薩は一心に何かに打ち込むことで無我の境地にいたることができるのだと伝えたいのだとも思えてきます。
ただ、音楽や踊りをすることだけで見性するかどうかは疑問ですが。
かえって、単純な一音の方がハッキリすると思います。
684:2008/08/14(木) 02:42:23 ID:qBgpI5wS
>>681 たかさんへ
音 ということであれば、
日本人に起こることであれば、アメリカ人にも、起こるでしょう。
モンローという人で、臨死体験者らしいのですが、
〜音響研究所というのをつくっています。
特殊なリラックス法と音、その周波数による違いを研究しており、(このへんが白人)
マクモニーグルなどが、ここの特待生とのこと。
日本にも、独自に開発し、すでに密かにあるかな?    ちょっと脱線でしたか?

比叡山に行ったとき、「 天鼓雷音如来 」という如来をまつっているのを
見ました。 人によっては 「 雨乞いの為の神様? 」と、推理なさる人も
いるでしょう。 
685たか:2008/08/14(木) 16:15:46 ID:ayCxG0ei
お盆はオリンピック三昧ですね。
勝つだろうと思われていた人が負けて、思いもよらない人が勝ち進んでなかなか予測が当たりません。
今日の男子体操では内村選手が鞍馬で二度の落下でもうメダルは駄目だろうと解説者が話し、おそらく本人もそのように思ったかもしれませんが最終的に銀メダルになりました。
緊張しいつものようでなかったそうですが鞍馬の失敗でかえって緊張がほぐれ素直なというか捨て身とでも言うのか、後の演技はすばらしいものでした。
競技が終盤になるにつれ他の選手はメダルを意識したせいかどんどん失敗や落下をして順位が落ちていくのがテレビの画面でリアルに映し出されてました。
よく平常心を保つことといわれますが、きっと選手の誰もが心の中にそれを念じたでしょうが、周りの状況がどんどん変化し、歓声もどんどん変わっていき順位も変わっている中で、平常心を保つことがいかに難しいことか見せられたような気がします。
平常心、言葉ではよく言われますが、どんどん変化する中でそれを保つことがいかに難しいか、平常心という言葉がでれば出るほど平常心でなくなるかもしれません。

男子の柔道はまさかと思われる相手に連日負けています。
当然私は常に日本人を応援しているのですが思いもよらない段階で負けてしまってます。
優勝候補一番の日本人を相手に捨て身でしゃにむに攻め込んでくる対戦相手にそれをはかっていて動きを考えているうちに勢いで一本負けしているようにも見えます。
まさにオリンピックという一発勝負の難しさですね。
686たか:2008/08/14(木) 17:58:25 ID:ayCxG0ei
宝さんへ、
私の言う見性はおそらく生まれた瞬間の赤ん坊が体験したものと同じだと考えてもいいでしょう。
生まれた赤ん坊に戻るといっても赤ん坊に戻れるわけもないわけで、実際は今まで溜め込んでいた自我というものをストンと落とす、払い除けることだと思えばいいのです。
つまり自我を捨てればこの身でありながら赤ん坊の状態、無我、無心、空の状態でしょうか。
これを先人は、一切の万物草木悉有仏性、あらゆるものが仏性によってまたははたらきで成り立っているのだと教えているのです。
ですから仏教を信じようが信じまいが、仏教を知ろうが知るまいが、我々一人一人仏性の現れであるともいうのです。
ですからアメリカ人だろうがアフリカ人だろうが日本人だろうが関係なくまた僧侶だろうが一般人だろうが仏性のあらわれに違いはありません。
見性、悟りとはそのことをはっきりすることともいえますから、誰もがそれを観じることができるといえます。
よく絶望のふちにいた人が雲の隙間から差し込む光などで覚醒する話がありますが、それは自我を捨て去った瞬間に光や音が切っ掛けで覚醒するのであり、それは東西を問わないでしょう。
でもここからが大事で、これを大乗仏教的に仏法と見るか、つまりあらゆる一切がその働きの中にあると見るか、西洋の一神教のように神がいて神の啓示でありその神を信じることだけが今の自分が救われる唯一の方法だと見るのかという大きな違いがあります。
大乗仏教、仏法は、あらゆる一切が常に変化し実体を持たないと観ています。
実体のない働きが常に変化しながら今そん瞬間を現しているということで、あらゆるものに我というものがなく、言葉を変えれば他のあらゆるものと一体となって変化し続けていてると観じとるのです。
一方、一神教は絶対神いて、その神を信じることだけが自分たちが救われるただ一つの方法だと信じることですね。




687たか:2008/08/14(木) 18:07:12 ID:ayCxG0ei
例え同じような体験をしてもまったく違う教えになってしまいます。
よくよく観ればあらゆる全てのものが常に変化しているのであり、何一つ変化していないものはありません。
あの宮城の地震で崩れた山でさえ誰も一瞬で形がなくなるとは思ってもいなかったですね。
体験の後の先人の教えを自分の見性体験と照らし合わせて深めていく、それを悟りの後の修行というか、何度も書いていますが、大乗経典、先人の教えは実は見性の後に本当は身にしみて心にしみてくるのです。

ですから、誰もが体験でき悟れるのだ、というのが大乗という意味のひとつでしょう。
でも普通に生活している中ではなかなかそのように気づくことはできないようです。
だから多くの場合、師を求め師のもとで仏法を学ぶのでしょう。
688たか:2008/08/15(金) 00:03:35 ID:5p31oaeK
読んだ人は私が書いた一音をなんか特別の意味のある、例えば特別の周波数とかアルファ波とかとか考えるでしょうがそれは間違いでしょう。
だからその一音をいくら調べて何か特別のものと研究してもおそらく無駄です。
将にやってることが、捨てる、と反対のことをやってるのです。
これが解らないうちはいくら経典を読み込んでも無駄で、道元だったか誰かが言ってるように、北だったか南だったか忘れましたがそちらに行こうと向かいながら、反対方向に舵を切ってるようなものです。

如来の名前はいろいろありますがそれらの名前の多くに光や音に関連した文字が見られます例えば無量光寿、大日如来などや、雷や稲妻に関連したものも多いですね。
それはそれらへの畏敬の心や恐れの意味もあるでしょうがもっとも大きな点はおそらく見性の時の印象がその名前に大きな影響をしてるのでしょう。
前にも書きましたがどの如来も無量の光の如来です、薬師如来もです。
私は曼荼羅のことはよくは知りませんが中央にいる毘盧遮那如来、大日如来、それをかこむ如来や菩薩も、それらをさらにかこむ明王なども全てが一体ひとつであり、さらには私たち衆生まで巻き込んであらゆるものが一体であるという教えでしょうか。
きっと毘盧遮那仏の光が届かないところはないのでしょう。
689たか:2008/08/15(金) 00:15:44 ID:5p31oaeK
>>675で書いた内村選手が鉄棒の演技のとき鉄棒から手を離すコバチなどの技が3連続で続いた時、成功するたび会場内が三回連続でどよめきました。
内村選手もそれを感じたといっていましたが、それこそ彼と彼の演技と会場が一つになったということでしょうか。
690:2008/08/15(金) 05:36:47 ID:O2OZlmJq
>>688「読んだ人は私が書いた一音をなんか特別の意味のある、例えば特別の周波数とかアルファ波とかとか考えるでしょうがそれは間違いでしょう。
    だからその一音をいくら調べて何か特別のものと研究してもおそらく無駄です。」

まさか。 そのようなことは、杞憂でしょう。 仏鈴にそのようなことを思うかたは
いないと思います。

あるいは、昨日述べた、アメリカの、〜研究所が、そういった研究をしていると、
思ったのであれば、それは、違います。 興味のあるかたは、調べてみると、
よいでしょう。
ここで、おもしろいのは、そのリラックス法で、暗黒の中で、体温ぐらいの湯に水平に
つかり、(塩分とかも入ってる?・・ 詳しくは知りません) その上で、特殊な方法で
音を使う、のです。

気づいた人もいるかもしれませんが、これは、赤ん坊状態というより、さらに、
母親の揚水のなかの状態、をリラックスと、想定しているのかもしれません。

私は、彼らの研究は、大いに、みのりあるものとなると、みています。
捨てるということも、捨てられるものが、捨てるものに。



 
691:2008/08/15(金) 06:41:51 ID:O2OZlmJq

でも、考えてみると、母体、羊水、そのなかに浮かんでいる存在、というのは
物質的にも、精神的にも、究極的、世界との一体化、 とも、見えなくもないですねぇ。
ある意味。
692たか:2008/08/16(土) 13:33:12 ID:1NgqB1GP
連日、オリンピック三昧ですが、それにしても日本の女性の活躍はすばらしいですね。
見ていて真剣勝負の緊迫感の中にどの選手も輝いて見えます。
テレビを見ていて声援しても届かないのですがかってに声をだしていて、、勝ったときやうまく演技ができた時など思わず拍手してしまいます。
でもそうすることで気持ちがスッキリしますね。
それにしてもその競技の今のできる最高の技術や演技がライブで間近に見れるわけで、演技の凄さもさることながら彼らの心の動きも会場の雰囲気と一緒に伝わってきて見ている私たちにも感動を起こさせます。
特に絶望の窮地に至った人がそれを跳ね返して勝ち、メダルやよい成績をとったときには敵味方の区別なく中国の観衆もおもわず大きな拍手をするところを見るのもの以前危惧されたことが払拭されたようで快く感じますね。
693たか:2008/08/17(日) 00:48:54 ID:armkRsds
男子100メートルで9.6秒台の世界新がでたそうでテレビではおおさわぎですが、テレビで騒ぐほど興奮しないのは何でしょう。
テレビで見る限りトップの選手はダントツで最後の2,3メートルは完全に遊んでた感じです。
他の人とスタートは同じなのに一歩踏み出すごとにどんどん差が開いていくんですから身体能力が凄いんでしょうか。
でもどうも私は興奮しないですね。
ただ速さだけ追い求めてるのを見るのが飽きてきたんでしょうか。
例えばよい靴を履けばみんな記録が伸びるとか、競技場の地面の具合が記録が出やすいとか、水泳で言うとこの前までもめてたようにスピード社の水着を着たとたんに着た人全員の記録が大幅に伸びたように。
記録の更新は凄いことだけれどそういうのばかり聞いてるとそれに馴れっこになっちゃってね。
これまでの凄い努力は賞賛するけれどただ単に記録が凄いと騒いでもどうも自分の心に響いてこないんだよね。

逆に昨日の男女それぞれの卓球の団体戦ははじめから終わりまで緊迫の連続で凄いラリーの応酬で凄い試合だと思いました。
まさに双方力の限り能力を出し切ったような試合でした。
100メートルの記録を塗り替える能力は確かに凄いけれど、一打で勝敗が決する瞬時に互いに球に反応してそれもカットしているかどうかを見分けて打ち返してラリーする選手の能力もまた驚きでした。

真剣に精一杯というかぎりぎりのところで取り組んでいる人の姿にはなんか心が動かされますね。
694たか:2008/08/17(日) 14:23:53 ID:armkRsds
試合後、メダルを取った人のインタビューがあって、その言葉や様子に心が動かされます。
特に二度目の金を取った柔道の各選手や水泳の北島選手、女子レスリングの選手など今度のメダルは一度目とは比べようがないほどいろんなものがぎっしり詰まっていると言い、湧き上がってくる涙をこらえていました。
各選手インタビューの開口一番に応援してくれた人への感謝を言います。
それは単に普通のインタビューで言われる儀礼の意味でないですね。
試合前など彼らがこのオリンピックに至るまでの様子が放送されますがこれらの人たちのほとんどが大きな挫折を味わってきた様子がテレビでながされます。
それを受けて試合を見て、彼らの試合後のインタビューを聞くと、ことばだけでなく震えて話すからだ全体からそれが伝わってきて、さらにまた感動します。
言葉にならない言葉があると改めて感じます。

私の言っている一音はあまりの単純なことですが、実はなかなかというものです。
これは座禅や念仏でも同じです。
何故なかなかできないかというと、自我を放して初めてという過程が必要だからです。
だから気持ちよい状況を作り出して心地よい音を響かせればリラックスできてそれで良いというのではありません。
挫折とは行かないまでも自分ではできない限界を思い知って感じ取ってやっと今まで積み重ねていた慢心の心や自己中心の心がストンと落ちるのでしょう。
これを心身脱落とでもいうのでしょうか。
ですから自我をそのままにして慢心をそのままにしていくら、赤ん坊に戻った、心身脱落した、悟った、などといってもただ気持ちがいいだけでしょう。
当然リラックスすることは大切ですから、それが駄目だというのではありませんよ。
ただ多くの先人が言うものとは違うだろうといいたいだけです。


695:2008/08/20(水) 01:54:31 ID:yucahWLI
そうですか。
いや、興味がわかなければ、それでいいんです。音の研究所ということで、紹介しただけ
ですので。たかさんと、彼等は、馬が合うかと思ったのですが、合わなかったのですね?
ちょっと、彼等の立場から見て、バランスをとり、補足して、それでこの話題は、終わりに
します。 こういう考え方もあるくらいに、思って下されば幸い。


>>694 「 ですから自我を そのままにして慢心をそのままにしていくら、赤ん坊に戻った、
       心身脱落した、悟った、などといってもただ気持ちがいいだけでしょう。」

自我をそのままに、慢心をそのままに、手をつけず・・    静かさ。
そうであれば、あらゆるものに、死がおとずれるように。 むこうから。  
取り上げることは、ほこりをわざわざ、舞い上げる行為かもしれません。

なんとかしようとすると、それが,、より強烈に仮面をつけて、生き延びるのかも
しれません。 それが夢の展開、をつぎつぎに創っているのかもしれません。

先人の権威を、うちやぶって、きたのが、本当のところと思います。
一人一人の先人が。 オリンピックのように。 より正確に、より平易に。
696:2008/08/20(水) 01:56:52 ID:yucahWLI
>>694「ただ多くの先人が言うものとは違うだろうといいたいだけです。」


 彼等は、違う部分もあり、方向も、それています。 今のところは。
 ですが、観音的現象は、彼等によって、 可能になりやすいでしょうし、
 ある種のスタッフが入れば、大日、明星にいたる変貌をとげる可能性があるように、
 思えます。もともとモンローは、観音的現象、音と光の一体化、バンなどは、ひんぱんに
 起こっていた人であったということです。(もちろん、てんかん、とかとは違って。)
 設立者の彼は、すでに亡くなっていますが、運営は娘さんに受け継がれているとのこと。

 さて、以上で、彼等の話題はこれで、終わりにします。
697たか:2008/08/22(金) 12:08:30 ID:U6yk++vn
よく何度も悟ったとか、何度も体験したとか言う人がいますが、わたしはそういう人の話は疑っていますね。
私が言っている見性、一音はまさに一音であって、一音という以外にないものです。
それは言葉のように何かを直接に意味するものではありませんので、言葉ではなくといえます。
しかしながら、同時に、維摩経に「仏は一音をもって法を説く」という有名な言葉があるように、この一音こそ仏法の真髄、出発点だと思います。
言葉ではないのに、言葉よりはるかに大きな意味を持つ一音、この一音から無常も、無我も、無分別智も、慈悲も、涅槃寂静も、生きているとはどういうことかも、仏法の全ての教えが発せられたといえます。
だからこれを言おうとしてもとてもとても言い尽くすことはできないというのです。
体験自体は単なる一音ですが、先人の全人生をかけて残した教えや考え方に触れた時その教えの深さに気づかされ、引き込まれ、感動するのです。
頓悟というように見性は俄かにさとりに至りますが、実際はその体験と先人の教えがひとつになって初めて大悟といえるでしょう。
先人の書き記したものが今私に至り私の心にしっかりと入りましたという感動があるはずです。
だから、気持ちよい体験をしたから仏法がわかったなどと思い込むのはまだまだはやいでしょう。
経典を読んでまだ理解できないのなら体験そのものを疑う必要があるかもしれません。

698たか:2008/08/22(金) 13:46:30 ID:U6yk++vn
親から子に伝わり、子が孫に伝える、当たり前のことですがこれがもっとも基礎になることですね。
同じように師が弟子に伝え、その弟子も孫弟子に伝える、これもふつうに大切なことです。
でも心は必ずしも直接というばかりではないようです。
はるかたとえ昔の顔も名前も知らない人でも大きく今の自分の心に響きこんでくることがありますね。
まさに時空を越えてという感じがします。
ですからそれをなんとなく知っていて先人は書き残そうとしたのかもしれませんね。
当然その時の同時代の人にも知らせたいという思いが強いのはもちろんですが。

この自分が得た喜びを人にも感じてもらいたいという思いは実に大切なことだと思います。
この世は苦だと思う人がいてその人が自分の子に苦を味わわせてやろうなどと思って子供をつくる人はいませんね。
今在ることに喜びを感じて生きていく、そしてその喜びを次に伝えていく。
生の喜びを知ってもらい、いい人生をおくってもらいたいと思うのが誰しもですね。
これを外れたらすべてが味気ないものになってしまいそうです。
699:2008/08/23(土) 00:50:17 ID:DbdcQjTp









>>697
 なるほど。 それもよい考えですね。 でも、そうすると、「白隠とか、青野敬宗老師(面
白い人)とか、インドのヨガ行者、とか ラマナマハリシとか、・・」可哀想なことになって
しまいませんか? それとも彼等は何かの病だったのか? ブッダウイルス病とか。
シーザーもある種の病だったと言うし、インドのkという人は、散歩してて、いきなり、
後ろに、垂直に倒れる・・病・・(危なくて彼運転の車になど乗れん) とも考えられますね。

音、のど、のことなら、それほど大仰なことでもなく、
せっぱつまった受験生などで、よく、何度も、起こり、自分でも原因がわからず
報告するということは、みかけるようです。

このあとは、人により意識というもの、の研究になるかもしれませんが、
結論、決めつけ、を持ってしまっては、なにごともそこまでになってしまい
つまらないのではないでしょうか?

例えば、インドのkは、(あの人の論を直接的「方法」だと思ってはいけないのですが)
ここからの人であり、維摩より、はるかに、現代の9.51秒/100mの人だと、私は思います。
より正確に、より平易に、より精妙に、のメダリスト、という意味での。
今、kを、超えられることを伝えられるでしょうか?  維摩に? 
それでも、さらに、k をも超えて、人は行くでしょう。 時間は問題になりません。

現在497kB。 残り少ないのに、いつも3レス書かれるのに2レスなので、
「要求」されてるのかと思い書いてみました。  喜び・それは素晴らしいですね。1.5KB。
700神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 20:44:26 ID:uNKySwwN
なぜ一休にしろ、Kにしろ男性ばかりなのだろう。
701神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 21:00:49 ID:uNKySwwN
あと、まれに見る良スレなのでできれば続スレ希望です。
702たか:2008/08/24(日) 13:01:10 ID:8tivvPzN
あのね、見性とは今在るのをそのままですので、見性の時にひっくり返ることなどないのです。
それこそ妄想を振りまいてるような話です。
維摩経の維摩居士に限らず大乗の経典は人を導くためにそして教えを伝えるためのたとえで書かれています。
ですから釈迦及び弟子たち、菩薩などを登場させそれを時に批判しながら大乗の悟りというものを読者にうまく筋書き立てて面白くかつ解りやすく書いています。
登場する維摩居士もモデルはあったでしょうが架空の人物です。
この中には観世音菩薩は登場しませんが、もしかしたら維摩という名の観世音菩薩かもしれませんね。
前にも書きましたが、この維摩経の内容及びこの作者は優れていると思いますね。
703たか
700さんへ、
よくは解りませんが、釈迦をはじめ男は女より馬鹿だからといえますかね。
それは冗談ですが、女性の特性もあるかもしれませんが、女性は男性よりどちらかというと現実的なのでしょう。
また、昔から女性は一定の年になると自分の意思に限らず結婚をし、家庭に入り子供をもうけます。
男のように自分だけで自由に何年も好き勝手に悟りや真理を追究する状況にはないのでしょう。
家庭に入った成人の女性の多くは自分ことより家庭や子供の日々の世話に追われています。
これはこれでもっとも大切なことですが、真理を追い求めるような状況にはなかなかならないでしょう。
一方釈迦をはじめ僧侶の多くは幼いときから仏門に入り日々悟りや真理を追究しているわけでその環境の違いが大きいのかもしれません。
自分ならば真理を得て人を救えるのだなどと釈迦をはじめ妄想?をはじめたりしますが、最後は自我ではどうにもならないところに至り、諦めの状態に至ります。
自我、それが落ちて、ありのままに喜びがあるとやっと気づきます。
ただ仏性、真理は女性男性の区別などあるわけなどないわけですので女性が悟らないというわけではありません。
>>698で書いたように、悟ってみれば苦しみの中にいると思っていても実は生きる喜びの中にあるわけでそれを伝えたいという思いは女性の方が男よりも無意識的に本能的に強くあり自然に振舞っている分だけ気づきづらいかもしれません。
胸の奥底にあるこのこころに気づかずに迷い悩み苦しみますが男女ともに自我強くなればなるほど振り回されてそれから遠くなって気づかずじまいになってしまいますね。