座ったり立ったりする修行なんていうの?

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697たか
よく何度も悟ったとか、何度も体験したとか言う人がいますが、わたしはそういう人の話は疑っていますね。
私が言っている見性、一音はまさに一音であって、一音という以外にないものです。
それは言葉のように何かを直接に意味するものではありませんので、言葉ではなくといえます。
しかしながら、同時に、維摩経に「仏は一音をもって法を説く」という有名な言葉があるように、この一音こそ仏法の真髄、出発点だと思います。
言葉ではないのに、言葉よりはるかに大きな意味を持つ一音、この一音から無常も、無我も、無分別智も、慈悲も、涅槃寂静も、生きているとはどういうことかも、仏法の全ての教えが発せられたといえます。
だからこれを言おうとしてもとてもとても言い尽くすことはできないというのです。
体験自体は単なる一音ですが、先人の全人生をかけて残した教えや考え方に触れた時その教えの深さに気づかされ、引き込まれ、感動するのです。
頓悟というように見性は俄かにさとりに至りますが、実際はその体験と先人の教えがひとつになって初めて大悟といえるでしょう。
先人の書き記したものが今私に至り私の心にしっかりと入りましたという感動があるはずです。
だから、気持ちよい体験をしたから仏法がわかったなどと思い込むのはまだまだはやいでしょう。
経典を読んでまだ理解できないのなら体験そのものを疑う必要があるかもしれません。