座ったり立ったりする修行なんていうの?

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1名無しさん@3周年
教えて
2名無しさん@3周年:2006/05/13(土) 04:47:45 ID:0fnAX2l7
ヒンズースクワット
3名無しさん@3周年:2006/05/13(土) 05:12:15 ID:g62/oniX
広島東洋カープ
カープ、カープ、カープ広島!広島カープ!
4名無しさん@3周年:2006/05/13(土) 05:43:00 ID:R6sqY1RP
単なる多動性障害
5南無大師遍照金剛:2006/05/13(土) 08:26:43 ID:bMLxdrf5
ヽ(´∇`)ノ
6森繁久弥K-1参戦:2006/05/26(金) 16:13:00 ID:0Xf94yJC
昭和62年1/20神奈川新聞、朝日新聞に「密教食は違反食品」
無許可の漢方薬品を混合した「密教食」を600〜635円で仕入れ3000〜4500円で
信者に7億円売りさばく。光和食品社長(当時)桐山靖雄ら7人が神奈川県警と横浜港南署に
薬事法違反で書類送検される。
7名無しさん@3周年:2006/05/31(水) 07:31:47 ID:DpP1sqSJ
>>2
8ガブ:2006/05/31(水) 07:43:17 ID:uVp8NIGe
>>7
さとるどのかい?

なんだ >>100 さんか。
9さとる ◆bR2Z7MksB6 :2006/05/31(水) 08:18:12 ID:1D3aEXO/
>>108

ガブさんへ
色々とご忠告をありがとうございます。
とりあえず東山寺のHPを見てみます。
私はあのスレで最初から「池に石を放り込もう」という気持ちでレスをしています。
10ガブ:2006/05/31(水) 09:01:53 ID:vMfLOEr4
ガブって呼び捨てにしてやっておくんない。
あんたのことも、さとる兄ぃって呼ばせてもらいやすから。

で、さとる兄ぃ。
出すぎた事言うようだが、しばらくあっちのスレは休んだ方が良かないスか?
池を濁しちゃ何にも見えなくなっちまう。
そっと静かに観察するのが上策ってもんだ。
しばらくここで、あっしとまったりしやしょうぜ。
兄ぃとはウマが合うような気がするんでガスよ。
11さとる ◆bR2Z7MksB6 :2006/05/31(水) 20:30:36 ID:14xxjDYr
>>10
ガブさんへ
いいえ、やはりガブさんと呼ばせて頂きます。
それから兄いはやめて下さい、私は貴方の上でも下でもありません。対等でお願いします。
それから、私の説明不足の為に誤解を招いたらいけないので補足説明をさせて頂きますが「池に石を放り込もう」というのは「一石を投じよう」という意味です。
あのスレを荒らす気は全くありません。
ただ問題提起をすると波風が立ちますから。
12ガブ:2006/05/31(水) 21:22:52 ID:uVp8NIGe
>>11
ははは、それならそれでよござんすが・・・

また、出すぎた事を言っちまうけど、
さとるどのの投げた石は池まで届いていないような気がするんでガスよ。
奴らの心にゃ波風立ってる様子は見えやせんぜ。

あっしも長らくあのスレを覗いていて気がついたんでやんすが、
一見さんお断りみたいなとこありやして、
それはやっぱり、初心者の質問に答えるのはかなり面倒くさいってことなんざんしょねぇ。
的外れな質問なんかにゃ苛立つんじゃないですかい。

まぁ、あそこは奴らの土俵なわけでやんすから、
核心を突いて波風立たそうってのは、並大抵の事じゃできやせんぜ。

あっしも禅の初心者で、いろいろ勉強しようと思ってるんでやんすが、
さとるどの、本を買われたそうで、
どんな本か教えてもらえやしませんかい。


13さとる ◆bR2Z7MksB6 :2006/06/01(木) 02:11:56 ID:mMKKG/Dz
>>13
こんばんは、色々とご忠告をありがとうございます。
「禅を一言で言うと何ですか?」ガブさんは的外れな質問だと思いますか?
14さとる ◆bR2Z7MksB6 :2006/06/01(木) 02:19:08 ID:mMKKG/Dz
すいません、上記アンカー間違えました。>>12です。
15ガブ:2006/06/01(木) 06:04:37 ID:3MKzDRz8
>>13
さてね。あっしみたいな初心者にはわかりかねやすが、
答える方にとっちゃぁ面倒な質問ってことになるんじゃねぇですかい。
禅のあれこれは、既に禅(単に示す)の一文字で括られちまっているわけでやんすし・・・
他の一言を持ってきて、誰かさんの理解の役に立つんですかい。

公案本なんか読むと、「仏とはなにか」「○○」てな問答がいくつもありやして、
○○は麻だったり、糞べらだったり、柏の木だったり、数限りなくでてきやすが、
どれにしたって、その意味はあっしにゃとんと見当もつきやせん。
さとるどの、いかがでやんすか。どんな答えなら理解できやすか。

初心者の質問だっても、なんでもかんでも次から次へ尋ねられるばかりじゃ、
答える方はたまらねぇ。
一人終わったと思ったら、また次がきておんなじ質問ってこともあるんでさ。
少しゃ勉強してますぜってところを見せねぇと。
今のことなら、禅を一言で言ってるヒトを探すとか。
「禅僧の言葉」
http://www.ne.jp/asahi/sindaijou/ohta/gendaijinnozen/ix-zensou.htm
なんてサイトもありやすぜ。
役に立つかどうか、保証しやせんが。

16ガブ:2006/06/01(木) 06:05:21 ID:3MKzDRz8
さてと、お見受けしたところ、
さとるどのも奴らの仲間にうまく溶け込めそうで、よござんした。
もう、こっちへ来る必要はありやせんぜ。

教えを乞う者は謙虚さを忘れちゃいけやせんぜ。
奴ら、教えたくってしょうがないんだ。そこを利用する。
ヨイショも修行の内でさ。

じゃ、どなたさんも、
真っ平、ご免なすって。

17さとる ◆bR2Z7MksB6 :2006/06/01(木) 12:00:23 ID:vDKIZ5kq
ガブさんへ
こんにちは。
もうこちらには来る必要が無いとのことですが一言だけ。
ガブさんが上手く中に入って頂いたおかげで平常心を取り戻す事ができました。
それから色々と教えて頂きありがとうございました。
何から何まで親切にして頂きありがとうございました。
18ガブ:2006/06/01(木) 18:22:15 ID:3MKzDRz8
さとるどの。
もうこっちにゃ来ねぇとは思うが、これだけ書き置いておく。

あんたの書置き見て泣きやした。ホントでさぁ。
礼を言うのはあっしのほうだ。久々に気持ちの良い会話ができやした。
ありがとうございやした。

あんたの縁は東山寺にあるとあっしは信じてる。
参禅でもなんでもやってみたらいい。
できるとこまで、まっしぐらでやんすよ。

また会うこともございやしょう。

その時まで、

お元気で。

                     御返事不要  ガブ
19名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 05:50:27 ID:qOLvn01t
「門前払いか、ぶんなぐられるかのどっちかですよ、これもっとも親切」

 臨済は若い頃、黄檗のもとで3年間まじめに修行していたが一度も参禅(個人指導)に赴いたことがなかった。そこで首座(筆頭弟子)は彼に参禅を強く勧めた。
 臨済「しかし、何を問うて良いのやら分かりません。」
 首座「仏法の大意とは何かと問うてみなされ。」
 臨済は黄檗に参禅し、その指示のまま「仏法を一言で言うと・・」と問おうとしたが、そう言う暇もなく棒でぶん殴られた。
 三度参禅したが、その度に黄檗に殴られ、意気消沈した臨済は黄檗のもとを去り、大愚和尚を訪れてそのことを話した。
 臨済「私のどこが間違っていたのでしょうか。」
 大愚「なんとまぁ、黄檗の指導の親切なことよ。それなのに、お前さんは叱られたとばかり思い込んで、その真意を分かろうともせず、迷ってばかりおって。とっとと帰れ。」
 黄檗の三打は罰棒ではなかったのだ。
 ちなみに、臨済はここにおいて大悟し、黄檗のもとへ戻ったという。
 
 
20名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 10:13:14 ID:qOLvn01t
「仙台にある大寺の開山和尚」

 松島円福寺(今の瑞巌寺)の開山和尚、法身性西(ほっしんしょうさい)のこと。
 法身は俗名を平四郎といい、常陸国真壁郡で領主真壁時幹(ときもと)の従僕をしていた。
 ある冬の日、平四郎は胸元で暖めておいた時幹の履物を差し出したが、時幹は平四郎が自分の履物を尻に敷いていたものと勘違いして激怒、平四郎の額をその履物でかち割った。
 真壁に居れなくなった平四郎は人生を諦観して僧になる決意をし、偶然乗ることを得た遣唐使船で中国に渡り、径山寺(きんざんじ)の仏鑑禅師のもとで修行を開始する。
 言葉も通ぜず、字も読めない法身のために、仏鑑はただ、掌に十文字(丁の字ともいう)を標した。
 法身はこれに参ずる事9年(13年ともいう、諸説あり)、尻の肉が腐って蟲が湧くほどに修行をなし、終に大悟徹底。日本へ帰国する。
 帰国後の法身は松島延福寺(天台宗)の境内の岩窟に身を潜めていた。
 1248年、最明寺入道と称して行脚姿で全国を視察していた執権北条時頼が延福寺を訪れたが、宿泊を断られたために、岩窟の法身に出会い一夜を語らった。
 法身の境地に感心した時頼は鎌倉へ帰ると延福寺へ兵を差し向けこれを滅ぼし、1259年、円福寺と改名して法身を開山とした。
 その後、円福寺は何世にも渡って隆盛を極めたが、鎌倉の勢力が衰えるとともに衰退した。1608年に伊達氏の菩提寺として瑞巌寺と改名し、場所移して復興され今に至る。
21たか:2006/06/04(日) 12:49:15 ID:L8b6TAoA
先月、宮城の放送局で瑞巌寺の一時間番組を放送していた。
瑞巌寺の国宝、瑞巌寺を訪れた松尾芭蕉、瑞巌寺で修行をする雲水の生活。
松島の町を托鉢して歩く雲水の姿。
多くは坐禅で悟りを求めるが、実は悟りの究極なところは地域やその中の人々と
一体になって生きていくことにあると思う。
坐禅はしてもそのことに気づく人はなかなかいない。

私は悟りました、何かの体験をしましたとインターネットに出てくる。
でも読んでみると仏教を知らなかったり、間違って解釈していたり、
一人よがりの場合がほとんどだ。
何度も書いているが、仏教はまず捨てるを教えている。
捨てきって初めて、無心や自他一体が観えて来る。これが見性だ。
仏性を見る、だから見性。
そして、無分別。
仏のすがたなど、何か特別なものが見えるのでは無い。
多くの人が間違っているのがこの点だ。

誰かに認めてもらおうなどというところは捨てて、さらに捨てるに専念することだ。
22たか:2006/06/04(日) 13:18:05 ID:L8b6TAoA
何年か前に山形の立石寺、つまり山寺に行ったことがある。
松尾芭蕉にゆかりという訳で行ったわけではないけれど。
芭蕉が残した句
  閑さや 巌にしみ入 蝉の声
は 
石段を登って山の上の堂で坐禅を終えた後に自分を読んだ句だろう。
23:2006/06/04(日) 13:24:38 ID:gX9/Oc2c
蝉の声を聞いているのは、誰だと思われますか
24名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 15:12:51 ID:qOLvn01t
>>23
メスの蝉。ナンチテ。
25名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 15:37:46 ID:qOLvn01t
>>21
>何度も書いているが
URL キボンヌ
26たか:2006/06/04(日) 15:48:28 ID:L8b6TAoA
半さん、
聞いているのではないのですよ。

芭蕉は
   蛙飛び込む水の音
で、
悟りの境地を示したと何かに書いてあったけれど、将にそのとうりです。

私は仏鈴のことを書いていたので覚えている人もいると思う。
仏鈴をとおして大乗仏教、悟りについて、そして道元禅師が疑問だった悉有仏性について
少し書いていきたいと思ったけれど、流れが速くじっくり伝えることができないのでやめてしまった。

仏教は知識や言葉で理解することで無く、まずそれらを捨てることからはじめなければなりません。
そのために坐禅があり、念仏をするのです。
つまり捨てるためにするのが、坐禅であり、念仏です。
27名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 16:34:45 ID:qOLvn01t
このスレの住人の方ですか?
廃寺かと思って書き込みテストに使ってました。
迷惑なら他へ移りますが。
28:2006/06/04(日) 16:54:49 ID:gX9/Oc2c
>>26
ああ仏鈴のお方ですか、覚えておりますよ

なるほど、よいお応えです
芭蕉のこの句、誰が聞いてるんだかわからない、聞いている者が誰もいない
ようにも観える、そんな句ですね

よかったら、ここにでも書き込んでみてはいかがです
聞かせていただきますがね
29たか:2006/06/04(日) 17:12:30 ID:L8b6TAoA
悟りとは何か?
禅とは何か?
空とは何か?
仏性とは?
仏教とは?
一言で示せと人は言う。
そー言う人の多くは解っていないものだ。
まず自我を捨てる、このことが解っていないのに他の答えなど。

さとるさんの言う心理学、深層心理も、仏教においては同様に捨てるを知らないと解らない。
いくら理論や理屈、教学など積め込んでもうわべだけのもの。

理論などでわかるものなら、般若心経の解説書などごまんとあり、頭の善い人ならすぐにでも解りそうなものだが解らない。

理屈を積み上げることによってなんでも理解できる、そのほうが簡単であり正しいと考えている。
ところが、いっこうに迷いから抜けきれない。
30たか:2006/06/04(日) 17:35:47 ID:L8b6TAoA
私は住人ではありませんが、他と違いゆっくり書きこめると思い書いているだけです。

他でも書いたが私の書いたものを押し付ける気持ちなどありません。
何故かというと、何度も書いているように、一度捨てるということを智らないと解らないのです。
これができていないから、何度も何度も同じことの繰り返しです。

捨てるということがどー言うことなのか、身につけるためには時間が必要です。
急ぎすぎると、言葉だけが踊ってしまい、身に付かないのです。
31たか:2006/06/04(日) 18:00:02 ID:L8b6TAoA
私は岩手の生まれで、平泉にも何度か生きましたが、芭蕉が平泉で読んだ句も、今ある景色と無常を
句の中に積めこんだのでしょう。
32:2006/06/04(日) 20:29:46 ID:gX9/Oc2c
>>30
仰っておられること、いちいちご尤もかと思います。

私としては、直観と論理の両輪であってほしいと思っておりますがね。
直観のみでは個人の体験にとどまってしまうでしょう。

また、論理のみでは仰るように、至ることはかないません。
しかし、論理もとことん突き詰めますと、最後には論理を放棄する、
あるいは乗り越えるという所まで至ります。
公案による手法がこれに当たると思います。

「捨てる」、「一度死ぬ」というのも一つの方便でして、それが具体的に
どおいう状態をいっているのか、これは体験したものにしかわからんこと
ではあるわけですが。

夏草や兵どもが夢の跡
五月雨の降り残してや光堂

私は、五月雨の句の方が好きなんです。
では、ご縁がありましたらまた。
33たか:2006/06/05(月) 00:50:22 ID:TOdrFNi4
半さん、
体験自体は単純で強烈でしかも心地よいものですので、ああこれだなと解ります。

別のところで何度も書いていることですが、見性はその強烈さの為に自分を特別なものとみてしまう人がいるでしょう。
つまり見性したが為に逆に見性体験自体に囚われてしまう人がいるのでしょう。

それから抜け出すためには見性した後、
自分が何を体験したのか?
自分の体験が何を意味しているのか?
そして何より本当に悟りの体験なのか?
 を知ることが必要です。

そのためには、自分の体験と、経典や先人の残した教えや彼らの生き方とを照らし合わせてみることが必要です。
見性の為にある意味で邪魔だったこれらのことが、見性体験の後には逆に大切になるのです。
自分の体験と、先人が伝えようよしたこととを照らし合せて理解していく中で、仏教をそして将に今生きている自分を明らかにしていくのです。
よいことに見性体験を踏まえて読むと経典や先人達が何を伝えようとしたかがよく解ります。

多くの人の中には公案、公案という人がいますが、釈迦をはじめ、つぎの迦葉、その後に続く人達、大乗経典の作者、それらを漢訳した羅什ら、
何より禅を中国に伝えた達磨などから、公案という話は聞いたことがありません。
私の体験とこれらの人達をいっしょにするつもりはありませんが、少なくも公案など必要無いと思います。
34たか:2006/06/05(月) 05:24:36 ID:TOdrFNi4
訂正
最後の部分
 公案は必要無いと思われます。
に訂正します。
35九尾狐 ◆DxuhfoDKlM :2006/06/09(金) 19:16:52 ID:nRCCdODK
ageとく?
36名無しさん@3周年:2006/06/09(金) 23:44:13 ID:A6P0Y6AY
単発質問age
37名無しさん@3周年:2006/06/11(日) 21:36:03 ID:x8klrSto
あまり立ったり座ったりは、膝が悪くなりそうだよね。
38たか:2006/06/12(月) 19:26:33 ID:yR3Ovudy
立っていても禅、坐っていても禅。
ただ、只に徹してみる。
漠然とすごしていたのではなかなか気づくことがができない。

いろんな事に思いをめぐらす事を止める。
そして静かに音に身を任せてみなさい。
39たか:2006/06/12(月) 20:10:05 ID:yR3Ovudy
観音菩薩の観音は、音を観るということだ。
羅什の般若心経は、観世音菩薩。
世の音を観じて悟った菩薩が、理屈で仏教を理解したと思っている舎利子に悟りを説いている。

100円ショップの般若心経に、
  あの一休禅師をして、釈迦一代であまたのことを説いてはいるが、この空、無、
  については、説き尽くしてはいないというのです。
 と書いてあったけれど、将にその通りでしょう。

般若心経の観世音菩薩は、理屈ではない、そこを説いているのです。
40たか:2006/06/15(木) 16:09:14 ID:77jwzz+2
多くの人は観音と聞くとほとんどが石像や木造の観音菩薩を思い浮かべるだろう。
悟りの観音は仏像のような頭で描けるものではない。

維摩経や正法眼蔵の仏性の中で書かれている一音、仏法を説く一音。これこそ観音だった。
道元禅師は
  一つの法を会得することにより、全ての法に通じる
と、現成公案に書いている。

一音から多くの先人が悟った事は多くのところに記されているのでおわかりだろう。
41たか:2006/06/16(金) 17:20:32 ID:wQTAb5XM
一切衆生、悉有仏性。
道元禅師はこれを知りたくて知りたくて中国まで渡った。
道元禅師は言う。
  多くの人はこれに仏性があるとか無いとか、仏性の有る無しだけを問う。
  でも、悉有仏性とはどう言うことか、仏性とは何か、を求める人は居ないという。

一切衆生悉有仏性、
一音こそ、その答えの入り口であり、答えそのものだった。
42:2006/06/16(金) 21:28:21 ID:RxgL8/nH
観自在は音だけではありませんよ。色、形、香りすべて観じて観自在です。
古来より音によって見性する者は確かに多いですがね。

問いが答えそのもになる瞬間、これが見性。おっしゃるとおりです。

さしでがましい事を言いますがお赦しあれ。
タカさん肩に力がはいりすぎているように観じられます。
見性体験など早く忘れることです。迷悟、捨てきって大悟あるいは
迷悟もとよりなしとも言いますが。

生涯懶立身   生涯 身を立つるに懶(ものう)く
騰々任天真   騰々(とうとう)として 天真に任(まか)す
嚢中三升米   嚢中(のうちゅう) 三升の米
炉辺一束薪   炉辺 一束の薪
誰問迷悟跡   誰か問わん 迷悟の跡
何知名利塵   何ぞ知らん 名利の塵
夜雨草庵裡   夜雨 草庵の裡(うら)
雙脚等閑伸   雙脚(そうきゃく)等閑に伸ばす

 大愚良寛     
43たか:2006/06/17(土) 23:56:44 ID:5/Da6QwF
半さん、
半さんのおっしゃっていることはごもっともです。半さんの御指摘のことは重々承知の上で書いています。
観自在菩薩と観世音菩薩は同じ菩薩です。
見性して悟ったおおくの先人と同じように、音を切っ掛けとして見性し、そして音も含め、
全てのことを拘り無く自在に観る、または自在に観ることができる菩薩として観自在菩薩という名でも呼ばれていると私は考えています。
仏教では同じ如来や菩薩が複数の名で呼ばれる事も多いものですです。
見性とは仏性を見る事です。仏性の一部分を見る、この場合、一音が仏性として観じられたということです。
ところで、問いが答えそのもになる瞬間、と半さんはじめ他の多くの人も書いているのを見ます。
このことについてはどうも納得できません。
私のことで言うと、諸々の問いをやめた後、つまり問うことさえも捨てた後、しばらく経って見性が起こったと言えます。
もうひとつ、
私が見性体験や無心、無分別を書くのは自分のために書いているのでは有りません。
見性体験も、その後の興奮状態もとっくに終わっていますので、見性体験に変に拘っていません。
私は道元禅師や法然上人、親鸞聖人などのことを書きますが、かれらの多くを知っているわけでは有りません。
でも、何年も修行した比叡山から降りてきて、苦しみや不安の中で生活している民衆に、自分が得た仏法を伝えることにより、
その苦しみから救おうとした。そのことに感動します。
これらの先人はどう考えても楽な人生ではなかった。でも自分の人生に満足して死んでいったのでしょう。

私は、私が書きこむことによって、私と同じ体験をされる方が一人でもでてきたならと願うだけです。
坐禅と見性でせったん和尚の名を見たとき、一番最初に声をかけたのは私ですが、何か共通するものを感じた次第です。
2チャンに出てきたエロ坊主とか好き勝手なことを言われていますが、なかなかできる事ではないでしょう。
良寛さんはたいへん素晴らしい人ですが、私にはもうひとつ魅力を感じません。


44:2006/06/18(日) 07:45:38 ID:sOqdxdGE
そうですか、ならよろしいのです。どこかまだ熱が冷め切っていないように
見えましので、つい申しあげました。お気を悪くなさいませんように。

ご承知のとうり問いを放棄するというのは簡単なことではありません。
人は問う生き物ですからね、人は問わずにはおれない。
最大の執着は、問いではなかろうかと私は思ってるくらいですから。
問いを放棄する、すなわち執着を手放す。この時、無心となり空っぽとなる。
このような時、見性はえてして訪れるようです。

私も、良寛さんのことも道元さんのこともろくに知ってはおらんのです。
良寛さんに関して言えば、あの人は生来の人でしょう。いくら修行したって
ああはなれんと思います。
多くの逸話、歌、漢詩を遺されおりますが、さして感心はありませんでした。
が、ある歌を見まして響いてくるものを観じまして、それから良寛さんが好き
になりました。

淡雪の中にたちたる三千大千世界またその中に沫雪ぞ降る  良寛



45たか:2006/06/23(金) 01:27:21 ID:Ip/Iffah
歌で響くので無く、音そのもので響きなさいよ。
46たか:2006/06/23(金) 23:30:09 ID:Ip/Iffah
思考など入る余地が無い。
将に空っぽ。
維摩経では維摩居士の空っぽの病室で喩えている。
空っぽゆえにあらゆるもの、つまり宇宙全体さえも一瞬に入ってしまう。
たった一粒の芥子の種に全宇宙、仏の世界までも入ってしまう。

半月ぐらい前だったろうか。
所さんの目が点と言う番組で芥子をやっていた。
芥子の種はあまりにも小さくて少しの風で簡単にこのたねがまきちらされる。
小さいものの代表が芥子の種だ。
アンパンの上に乗っている白い粒つぶ。あれが芥子の種だそうだ。

音によってこれを智る。
さて、空とはどう言うことか解りますか。
47:2006/06/26(月) 22:52:35 ID:blgEWPJQ
たかさん、どうしても音から離れられませんか。
せっかくそこまで行ったのにもったいないと思いますがね。

たかさんが揚げた芭蕉の句

閑さや巌にしみ入蝉の声

ここにおいては、芭蕉はすでに音から離れております。
芭蕉が観じているのは蝉の声ではない、蝉しぐれの背後にある
静寂というものを観じているのです。

48たか:2006/06/27(火) 21:03:15 ID:RavRxSAF
半さん、
私がここで書こうとしているのは、音を入り口として、大乗の仏法、仏性を伝えてみたいと考えているからです。
ですから、敢えて音を中心にして書いているのです。
音の性を智ることにより、仏性、及び仏法全体が解ってくると思います。
49たか:2006/07/02(日) 15:40:02 ID:bYk3EnW3
蝉の声と静寂、
多くの人は閑さや蝉の声の文字だけ捉え、閑さと蝉の声を分離して読もうとする。
つまり、閑さと蝉の声を分別して詠んでしまう。
これこそ文学的に読もうとする事だ。
また、普通音をもはじき返すと思われる巌、音と巌という対比を感じながら読んでしまう。

実は
音をもはじき返すような巌に、閑さと蝉の声が一つになって染み込んでいく。
それだけでなく、その光景全体がそのまっただなかにいる自分の中に将に一つになって飛び込んでくる。 
芥子の種一粒に、宇宙全体が入るというということは将にこのこと。
今その時の自分。
蝉の一音が、法を教えているのだ。
50たか:2006/07/02(日) 21:34:36 ID:bYk3EnW3
今年ももう7月、お墓参りに行く人も多いだろう。 
お墓を前にして手を合わせながら、亡き人の姿を思い浮かべ、ご供養とともに家族安泰だけでなく
目標達成、祈願成就を先祖や仏様にお願いする人も多いはず。
このことは別の悪いことではないが、もし法を得たいと思うなら少しかえて実行してみたら如何だろう。

それは
前後は別として、私はお墓に手を合わせている約30秒間は何も考えない、何も思い浮かべない、つまり
頭を空っぽの状態にすること。
そして、できればお墓参りに限らず、仏壇の前でも、道端の観音様や地蔵様の前でも同じ様にしてみると善いでしょう。
何も思い浮かべない30秒は簡単に見えて結構難しい。
実行してみるとよく解ります。根気よく続けてみる。できそうでいながらなかなかできないものです。
51名無しさん@3周年:2006/07/03(月) 10:19:43 ID:/Mn2CENV
age
52 ◆LjoCgW7m92 :2006/07/03(月) 22:15:23 ID:15DQ/g2D
>>1
その修行はキリスト教の「主日礼拝」というものだと思います。
マジで最近膝と足首がキツイ。
53名無しさん@3周年:2006/07/04(火) 23:42:00 ID:+FEf4jrU
そうですね
頭をからっぽは結構難しい。
疲れてるときにボーとなるけど
54たか:2006/07/05(水) 23:45:08 ID:3+cGtX/7
たった30秒。そんなことして何が得られるの、と人は思う。

そんなことをしてるよりもっと身になりそうなことした方がいっぱいありそう。
いつぱいあると本当に思うなら思うなら、さぁどうぞそれをおやりなさい。

たった30秒、何も考えないで手を合わせる。
たったそれだけ、苦行でもなんでも無いし、何処でもできる。
ところがなかなかできないし、またできたと思った瞬間に、思った自分が邪魔をする。

前から書いているけれど、まず捨てる又は捨てさせていただく事を身につけることが必要だ。
55名無しさん@3周年:2006/07/07(金) 00:40:25 ID:pp4cTqMY
捨てるというか諦めたら楽になることは日常でありますよね。
家畜とか人の犠牲になる動物とかひどいことをしてるよなあとか感じる
ことがありますけど
自分がもしそんな家畜のような扱いをされて
悔しいとき
ああ、自分も動物とかに対してひどいことをしてきたから仕方がないのかなー
とかが諦めに繋がれば捨てるになるのかなあと
56たか:2006/07/07(金) 23:12:00 ID:eRzzbT8B
55さん、私が言っている捨てると言うのは一切です。
よいことをしたからどうだとか、わるいことをしたからどうだとか。
そんな善悪一切、つまり全て考えるな、頭を空っぽにしろ。
善いことをした、悪いことをした、それは即ち、自我に縛られていると言うことだ。
57たか:2006/07/08(土) 19:32:38 ID:xd4eXlLY
空っぽにした途端に全てが入っていると智る不思議。
実は不思議でもなんでも無く、この世のもの全てがそうだった。

このことは生まれたての赤ん坊を見ればよく解る。
58名無しさん@3周年:2006/07/08(土) 23:57:30 ID:lrSYsNZc
うーん
凄く難しいですね。
でも最近自我って何だろうなとか思ったりします。
現実だと思い込んでいる夢を見てるようなもんですよね。
人生なんて
59たか:2006/07/16(日) 20:26:48 ID:qprEDKqU
58さん、
難しいですが、解ってみれば凄く単純な事です。
私の言っているのは、維摩経でいう不可思議解脱の事ですが、これが見性であり、悟りと言えます。
多くの場合、音から入ります。

私の書いていく事を実行しながら読んでいっていただければ、それが何か解ると思っています。
私が言う解ると言うのは、頭で解るのではありません。
まず、空っぽにする事を身につけなければならないでしょう。
出家僧だけでなく誰もができると言うのが大乗の考えです。
60名無しさん@3周年:2006/07/16(日) 22:31:03 ID:BZWBHl7f
わかりました。
最近神社にお参りにいくのですけど、手を合わしている間は
なるべく何も考えないように無心をこころがけています。
あとは恐怖や不信も心の生み出した幻なんだろうなとか思って
平常を心がけたりも、どちらも難しいですけど。
61たか:2006/07/17(月) 00:52:22 ID:wsnse29r
一日に最低数回手をあわせている時だけ何も考えない。
当然、願いごとも、報告もしない。手をあわせている事さえも意識しない。
何に対しても同じ、なにしろ手をあわせている対象さえ意識しないのだから。
対象も自分もない、ただただ30秒。
やろうと思えば、どこでもできる。
62名無しさん@3周年:2006/07/19(水) 14:35:07 ID:M2tU7jR5
たまにはageなよ落ちちゃうよー
63名無しさん@3周年:2006/07/22(土) 00:15:57 ID:yT/Tj9Lj
今日は良い風が吹いて何度も考えをとめようと試みました。
何か子供の頃はそうだったなあと思い出しましたよ。
あまり勉強できるほうではなかったから
シンプルだけど理にかなった賢い生き方をしたいものです。
64たか:2006/07/22(土) 19:16:44 ID:JiwH/Pr8
62さん、
少しずつ少しずつやっていけば何かを感じる時が来ます。
ただ見性はそう簡単には体験できません。最低でも半年はかかるでしょう。
なぜかと言う事はしばらく経ってから話そうと思います。

無心にいたるためには何もいらないのですが、でも私はただ一つの道具として仏鈴を使います。

ただただ30秒、
と書いていますので、
30秒は何なのか?、30秒にどんな意味があるのか?
疑問の人もいるでしょう。
30秒にはたいした意味はありません。
この30秒は私が持っている仏鈴の音の響いている時間です。
でも私はこの仏鈴の響いている30秒を大変気に入っています。
ですから皆さんに30秒と言うのです。
65名無しさん@3周年:2006/07/23(日) 00:27:24 ID:1QXP7FMb
いやいや
見性なんてとてもとてもです。
ただ性格が少々のことで動じる性格なのでそこを鍛えたいです。
たとえば怖がりだったりするのですが
何を怖がっているのか冷静になってみると馬鹿みたいだなあって
66たか:2006/07/23(日) 21:26:28 ID:pqcZFyqx
私の伝えようとしているのは鍛えるのでも、一生懸命修行をする事でもありません。
仏鈴をならして、ただただその音に身も心もゆだねてしまう事です。
なぜそんなことをと思うでしょう。
でもそれを続けることです。
手をあわせている時以外は、座禅をしても、念仏をしてもかまいません。

おそらく見性の体験がないと仏法が解らないでしょう。
般若心経の本はいっぱいあるけれど、その作者がそれを体験しているか、また正しく理解して書いているのか大変疑問に思います。
私訳だなどと言って平気なものもあります。
そこが大変心配です。
67名無しさん@3周年:2006/07/25(火) 00:41:37 ID:tpxGG8lm
うーん、やはり難しくなるのですね。
結構暇があれば思考ストップをチャレンジしてますけど
体が痛いとか痒いとか肉体感覚があるから
それを紛らわすために考えたり心をさまよわしたりするような気がします。
いや、まったく意識と体のメカニズムとかの知識は皆無でよくわからない訳ですけどw
ただ確かに鍛えようとか中途半端は良くないかもですよね。
熟睡中は考えたりしないし逆に眠りが浅いと疲れも取れないですしね。
見性体験とかはよくわかりませんけどそんな感じかなと
68うすら:2006/07/25(火) 11:13:49 ID:weKmKOoM
半年かー半年くらいすぐだよー
69うすら:2006/07/25(火) 12:05:05 ID:weKmKOoM
ついでにageー
70たか:2006/07/26(水) 19:07:57 ID:eMaVWoI8
自然法爾とか他力とか言いますが、確かにそんな感じです。
自分で自分でと思っているうちはなかなか難しい。実際私もそうだった。
とにかく続けることです。

うすらさんが鈴を買って、鈴は何のためにあるのかという疑問に、以前、正法眼蔵の如浄禅師のチリンチリンでこたえたのは私です。
でもこのチリンチリンは意味を考えてはダメなのです。
ただただチリンチリンです。

仏鈴をならしてただただその音に身も心も任せる。
私の言うのはこれだけですので、仏鈴を一つ用意して下さい。
口径2寸3分の小さいものでかまいません。
71うすら:2006/07/26(水) 19:21:37 ID:cWLybjJX
はい、なんで鈴があるのだろう、覚えてますよ
来月中頃に鈴買ってきます。今金欠なんで買えません。
おへんろさんの鈴なら有るんだけど駄目かな?
72うすら:2006/07/26(水) 19:40:34 ID:cWLybjJX
そうですねー、あの頃の私はニヒルにはまってて、ニッチもサッチもいかん状態でした。
やっぱり金借りて鈴買ってこよ、でどうするの?
73うすら:2006/07/26(水) 19:45:52 ID:cWLybjJX
あー鈴の音に身を任せるですね
俺ってそそっかしい

やってみます。
7467:2006/07/27(木) 00:11:55 ID:NCcrAuVb
はい、とにかく続けます。
今の時期は蝉の声や雨の音
なんとゆーか平安があります。
鈴の音も良いですよね
7567:2006/07/30(日) 01:20:43 ID:LkX0UGUR
やっぱり
働きながらはきついですね。
クタクタになって家に帰ると気が緩むんですよね。
76たか:2006/07/30(日) 08:08:41 ID:uk2KKiDV
67さん、
私の言っているのは、
頭も心も空っぽにする、
そのためにはいろいろ考えていることをやめてしまう、、
そしてそのとき流れれいる音に身も心も任せてしまう、
それもたった30秒です。
しようと思えばいつでもどこでもできるはずです。
仏像や仏壇があって鈴をならしてすることが良いでしょうが、必ずしもそうしなければならないとはいっていません。
朝起きた時ふとんの所でしてもかまいませんし、出勤前に玄関の所で手をあわせても良いし、
車の中で30秒間手をあわせてもかまいません。それは、休憩時間でも、仕事が終わった後でも同じです。
一日に何回しなければならないとか、何時間しなければならない、何処でしなければならないなどと言っていません。
自分の気の向いた時にはじめたらよいでしょう。
こうしなければならないなどと言うのは自分の勝手な思い込みです。
何度も言いますが、何も考えないでそのとき自分を包んでいる音に身を任せなさい。

聞鈴悟道という言葉を見たことがあります。
私の言っているのもこのことです。
おそらくお釈迦様から続いていることです。

77たか:2006/07/30(日) 21:56:16 ID:uk2KKiDV
焼香、礼拝、念仏、修懺、看経に携わることなく専ら坐禅して赤裸々な生命に達しなさい。
如浄禅師は道元禅師にこのように言ったと弁道話に書いている。
坐禅を念仏に変えれば似たようなことを法然上人も言っていたような記憶がある。
多くの人はこのようなことをすることが功徳を積み、悟ったり、仏法を知ったり、救われると考えているけれど、宗派の祖であるこれらの人たちはそうではなく、ただただ坐禅、ただただ念仏と言うのみだ。

また、知識人や学者の言うことに気をつけろと言い切る。
私達を盲人にたとえ、私達を何処につれていくか解らないから危険だと言う。
78たか:2006/08/02(水) 23:09:12 ID:meDlYcLd
道元禅師や法然上人の言う、ただは、自分と言う余計なものを捨てるためのものだ。
余計なものを捨てるからこそ赤裸裸になり、赤裸々な生命つまり本来の自分が見える。

知識人や学者は、捨てると言うことを知らないがために、逆に単に教典の文字や先人の語録ばかりを組み合わせて勝手に解釈する。
だから読んでいるものには分かったようでいて結局解らなかったり、間違った解釈を教え込まれる。
7967:2006/08/03(木) 00:33:22 ID:Mr9bT013
あれからもたびたび暇があれば思考をとめるように心がけてます。
疲れてるときとか、雑踏を離れて意識を平安に向けたいとき
なるべく場所を選ばないようにこころがけ行っています。
変化を求めたいですけど変えれるような人間力がありませんから残念です。
捨てるとか難しいですよね。
80たか:2006/08/04(金) 00:33:46 ID:tyvP2CZ9
67さん、
自分、自我と言うものを捨てると言うのは言葉では簡単ですが、実際は大変なことです。
釈迦で6年、仏門にはいってから道元禅師で十数年、親鸞聖人、法然上人においては20年以上かかりました。
心も身体も根本から払い除けてしまうから心身脱落です。
別な言葉で、心と身が一つになることだとも道元禅師は言っています。

私が言うとすれば、、、、、、、。

自我を捨てると言うのは最終的には自分では、自分の力ではどうにもならないと言うところまで到らないとよく解らないのです。
だからこそ自然法爾、他力というのでしょう。

まだまだ始めたばかりでしょうから、焦らずに、まず、仏鈴をならしてその間手を合わせることから始めることをお勧めします。
81たか:2006/08/09(水) 19:22:13 ID:6bgZznFv
67さん、
少しは続けていますか。

私の書いていることを、今まで聞いたことがないとか、下らないとか、と思う人も多いでしょう。
でもね、私は自分で実践し、体験してみて、間違いの少ない一番よい方法だと思っているんです。

仏鈴は何故あるのか?
その音は何なのか?
これを知りたくて仏鈴を鳴らしていた。
鳴らしていれば何か解るのでは?
ただそれだけでした。
だから、悟りたいとか、仏教を理解したいとか、そんな気持ちは毛頭なかった。

見性してみて、これがどういうことなのかを調べていく中で、2000年も前に私と同じことをしていた菩薩がいることに気付いたのです。
このことについてはそのうち、また書きますが。
8267:2006/08/10(木) 00:00:10 ID:V+2m9/x5
ありがとうございます。
お釈迦さまで6年ですか・・・
捨てるとは本当に難しいことですよね。
僕なんて今の便利で快適な生活から離れることすら難しく感じますから
思考をとめる修行法はこんな僕にはベストのように感じます。
8367:2006/08/12(土) 00:09:46 ID:aZRcYUoi
頭をからっぽにして
そのとき流れれいる音に身も心も任せてしまう
シンプルだけど、本当に良いですね。
平安そのものがありますから
84名無しさん@3周年:2006/08/14(月) 10:52:33 ID:SU+JUBvz
67さん、
あなたは阿弥陀経をよんだことがありますか?
当然、現代語訳です。ネットで検索すればいっぱいでてきます。
般若心経とは違い簡単な内容ですが、中には自分勝手な解釈をしているのもありますので注意も必要です。
どういう内容か、知っておくことはよいことです。
85たか:2006/08/14(月) 12:17:25 ID:SU+JUBvz
67さん、
84はわたしです。
お盆ということで、昨日書き込もうとしたのですが書き込めなくて、いじくっている間に名前等を消してしまいました。
阿弥陀経を読んでほしい理由は読んでいただいた後に申し上げます。
8667:2006/08/15(火) 00:08:21 ID:gpA1we2h
阿弥陀経は読んだことはありません
というか仏教のこともほとんど知らないです。
映画のリトルブッダかな?それを見たことがあるくらいですね。
よくわかりませんが悟るとかのレベルになると
東大の医学部に入るとかプロ野球選手なるとかと一緒で才能が必要な気がするんですよね
たかさんのアドバイスの中でも考えることをやめるとか
シンプルで効果的だし
私のような凡人でも実践できますから気に入ってます。
仏鈴は風鈴を代用に備え付けて涼みながら寝転んでますけど
阿弥陀経は今度本屋に見に行きます。
8767:2006/08/15(火) 00:18:01 ID:gpA1we2h
本当
考えるのをやめるとか
心のさまよいを捨てるとか
私のような凡人には究極ですよ。
88たか:2006/08/15(火) 11:32:19 ID:qbM3ejX7
阿弥陀経は般若心経同様短いお経です。
ヤフ−で検索すれば現代語訳がでていますので、本を買う必要はありません。
解説などひつようありませんんので、素直にそのまま読むことです。
阿弥陀経は浄土宗や浄土真宗のお経であり、禅には関係ないと思っている人が多いでしょう。
逆に真宗では般若心経は必要無いといっている人も多いのですが、これは極めて狭い考えに捕われています。
阿弥陀経は羅什が初めて漢訳したお経で、羅什はこの後般若心経、法華経、維摩経他を訳しており、中国、日本の仏経に多大な影響を与えます。
 
89たか:2006/08/15(火) 12:11:57 ID:qbM3ejX7
尚、仏鈴の代わりに風鈴をお使いの様ですが、私のいっていることを理解したいと思うならば仏鈴を使うことです。
仏壇があれば仏壇の鈴を使ってもよいし、無い場合でも安いものでかまいませんので用意して下さい。
私が用意してほしいのは仏鈴だけで後にも先にもこれだけです。
何度もいいますがこれだけです。
仏鈴を鳴らしてただただその音、その響きに身を心を任せる。
ただただこれだけです。
90たか:2006/08/15(火) 16:30:12 ID:qbM3ejX7
67さん、
悟りや見性に才能など関係しているわけなど無いでしょう。
大乗仏教はあらゆるもの完全絶対平等です。
だからこそ般若心経で観音菩薩が出家して縁起を悟ったとして自惚れている舎利佛に空を説いているのです。
これは般若心経だけでなく、大乗教典全体全般の構図です。
確かに仏教史上でてくる名僧はみんな天才的な人たちです。
だからみんな自分の力で悟れると思っていた。ところがいくら頑張ってもその糸口さえ見えなかった。
どうしょうもなくなって、やっと自惚れを捨てることが出来ただけです。

生まれたばかりの赤ん坊は自分で何もできない、自惚れなどのない、まさに空っぽの状態です。
誰しもが一度経験しているのだからもう一度そこに戻せば良いだけの事です。
唯識なども説くのはこのことです。
般若心経の最後の真言といわれる、ギャテイギャテイの言葉も、一部の特別な人に悟りがあるのではなく、あらゆる人に悟りが開かれていると宣言し励ましている言葉です。
91たか:2006/08/18(金) 09:38:19 ID:0LOL0uek
才能がある、つまり天才的な人は道元禅師や親鸞聖人の時代にも他にもいっぱいいたでしょう。
では違いは何だったのか。
それはただ一つ、自我を捨て、または自我を捨てさせていただいて、生まれた時と同様、自分を空っぽにすることが出来たかどうかです。

逆にこれらの天才的な人とは程遠い人たちはできないかというとそうではありません。
誰しもができるはずです。

釈迦以降で仏教史上最も有名な人たちである龍樹、無しゃく、世親、羅什などの人たちは小乗を極めた人達ともいわれています。
しかし、悟りを体験し理解する中で仏教があらゆる人に平等に開かれていることを知り、このことを多くの人に伝えなければと決意したのです。
それは悟っている人についていきおこぼれをいただいて救われるのではなく、誰もが悟ることによってこの世の中を生き抜いていく積極的な考えです。
92たか:2006/08/18(金) 22:20:17 ID:0LOL0uek
わたしは仙台の近くに住んでいますが、ちょうど一年前仙台市博物館で興福寺国宝展があり、仏教彫刻上で最高傑作といわれる無じゃく菩薩立像、世親菩薩立像を見た。
これは運慶の指導のもと弟子が造ったもので運慶最晩年の作品といわれる。
数年前にNHK放送を見て初めて知り、一度は実物を見たいと思っていた。
当時私は仏教にあまり関心がなかったのけれど、番組の中で語られていたこの兄弟のエピソードを聞いて感動したのだ。
兄の無ジャクは、小乗の第一人者で大乗を批判していた弟の世親を呼び寄せて、大乗の優れた点を説いたという。
世親は自分の未熟さを感じ、逆に唯識思想を完成させたといわれる。

展示場の薄いライトに浮び上がる二つの仏像のキラリと光る目が何を見ようとしていたのだろうと思った時、私は思わず目の前の仏像に手を合わさずにいられなかったのを憶えている。
また、このふたりの像を造ろうとした運慶は何を伝えたかったのだろうと思わずにおれなかった。
93たか:2006/08/18(金) 22:26:25 ID:0LOL0uek
わたしは仙台の近くに住んでいますが、ちょうど一年前仙台市博物館で興福寺国宝展があり、仏教彫刻上で最高傑作といわれる無じゃく菩薩立像、世親菩薩立像を見た。
これは運慶の指導のもと弟子が造ったもので運慶最晩年の作品といわれる。
数年前にNHK放送を見て初めて知り、一度は実物を見たいと思っていた。
当時私は仏教にあまり関心がなかったのけれど、番組の中で語られていたこの兄弟のエピソードを聞いて感動したのだ。
兄の無ジャクは、小乗の第一人者で大乗を批判していた弟の世親を呼び寄せて、大乗の優れた点を説いたという。
世親は自分の未熟さを感じ、逆に唯識思想を完成させたといわれる。

展示場の薄いライトに浮び上がる二つの仏像のキラリと光る目が何を見ようとしていたのだろうと思った時、私は思わず目の前の仏像に手を合わさずにいられなかったのを憶えている。
また、このふたりの像を造ろうとした運慶は何を伝えたかったのだろうと思わずにおれなかった。
94ダミアンうすら:2006/08/20(日) 05:01:34 ID:ftZuAN/c
おはようございます。実家に仏壇あるんで、そこでチーンすることにしました
9567:2006/08/23(水) 01:03:23 ID:oNQ9VGr5
阿弥陀経を読みましたよ。凄く古い話しなんですよね
天国に行くには徳を積めば良いのだろうけど・・
そういえば昔こんなことがありました
誰もいない夜中に祭りのような音頭が聞こえたり
お経が聞こえてきたり
あれが何を意味しているのか?
多分一生わからないでしょう
悟ればわかるのかどうかもわかりませんし
とにかく仏鈴を鳴らして思考をとめるなら簡単で良いです
9667:2006/08/24(木) 00:04:49 ID:jWVCH7a2
悟るのが捨てるとか言うのなら
才能は関係ないのかもしれないけど
悟りの境地とかがまたよくわからないですよね
僕の書き込みを見ただけで年齢とか何処に住んでて何をしてるとか
正確にわかるなら凄く驚きますけど
それで悟った人間かと言われたら
凄い人とは思いますけどそれで悟ったかどうかは僕にはよくわからないですし
結局自分が悟らないとその境地に近付かないとよくわからないですしね
仏陀もイエスも周りの人が理解できない
教えより奇跡にしか群がらないから
誰もその本質を理解できないから孤独だったらしいですしね
97たか:2006/08/24(木) 02:33:37 ID:UmVdt/fl
67さん、
阿弥陀経を読んでみてわかるとうり、阿弥陀経の内容は非常に単純で簡単なものです。
極楽という苦しみのない世界があり、その世界の光景が簡単に述べられています。
何度か読んでみるとわかるでしょうが、この中で悟りに導くものが書いています。
それは鳥の声であったり、微風吹動の声であり、それが仏の教えの真髄を教えているのだと説いています。
それらの音や声が自然に法に導くものであり、仏法僧を敬う心を起こさせるのだと説くのみです。

そこには普通いわれる仏教の教えはありません。
ただただ音や声を感ずるのみです。

9867:2006/08/25(金) 00:27:00 ID:lK/PNIYA
そうですよね
音や声
雨や風の音とか人は無機質で物質なんだって思うかもしれませんが
それらにこそ答えがあるのだと思いますから
無知で一生を終えるのは勿体無いですもんね
9967:2006/08/27(日) 01:21:07 ID:LA7tNKz8
>>95
この話しの続きですけど
高校の同級生も友達と2人で山にいたら年寄りの念仏がどこかから聞こえてきた
と言ってたんです
で近所で山崩れがあって人に不幸があったからそれじゃないかって
ここからは僕なりの勝手な解釈ですけど
私たちは生きている間は世俗的な人生を送ってきた
だけど生きているあなたたちは神を讃え真理にこそ人生を捧げるべきだ
みたいな感じの意味に受け取っています
10067:2006/08/27(日) 01:51:41 ID:LA7tNKz8
死んだら後悔するのかな?
でも生きていたらきっと誰でも心をさまよわして落ち着かない人生を送るような気がします
あるトンネルを自動車で通ったときも後悔の想念を感じたときがあります
こんなところで死んでしまうのは嫌だってそんな風に感じました
車に乗っていた他の人もさっきのトンネルは何か変だってそのとき言っていました
あとで調べたらそのトンネルはよく幽霊が出るんだって聞いて
やっぱりそうなのかなって
今、僕は生きていて
抜けるような天気の下
けっして満足して充実した気持ちでいませんけど
きっとそれはもったいないんだってその経験から感じています
101たか:2006/08/27(日) 20:29:16 ID:ghIqOswc
私が阿弥陀経を読んでほしかったのは、必ずしも念仏をして極楽浄土に往くことをすすめるからではありません。
阿弥陀経は浄土三部経の一つで他の二つ無量寿経、観無量寿経も阿弥陀経と同様、音が法の道を説いていることを教えています。
このことは他の大乗経典でも同様です。

私は以前般若心経しか読んだことが無かったのですが、仏鈴、鈴を調べている中で阿弥陀経にであったのです。

微風吹動、かの国では心地よい微風が吹きわたり宝の並木や宝の網を動かして鈴のような妙なる音が流れている。
実はこの微風吹動が阿弥陀経との出会いです。
阿弥陀経の中で音が法をおしえているのだということを読んで、音が法を教えているとはどういうことなのか知りたくなったのです。

ずっとあとでしることになりますが、正法眼蔵の如浄禅師の風鈴のチリンチリンもこのことを云っています。
道元禅師はこの如浄禅師の言葉をあえて般若波羅密多つまり仏の智慧、到彼岸のところで書いたのでしょう。

尚、悟ってみれば、来世がどうのこうのと云うことにこだわらないと云うことです。
10267:2006/08/31(木) 00:59:10 ID:56qwpOYP
テレビ見てたら1500年前の外国の仏教遺跡が出てましたけど
壁画にお釈迦様が人に生まれるまでの過程
猿だったとき仲間を助けるために枝と枝を掴んで仲間の猿を助けて息絶えた
とかお釈迦様の前世の高徳が描かれてました
霊的にみたら1500年前も現在も変わってませんよね
むしろ退化してるかもしれないです。
103たか:2006/09/02(土) 02:46:13 ID:oZviib86
仏教では多くの人を導こうとしていろんなたとえが使われます。
例えば、釈迦が飢えたトラに自分の身体を与えたという話があります。
自我を捨てることや慈悲を説くたとえなのでしょうか。
多くの場合釈迦を特別なものに祭り上げようとする傾向があります。
私は釈迦を敬いますが、私達と違った特別な人、つまり特異な能力のあった人とは思っていません。

67さんの霊的という言葉がどういう意味かわかりませんが、大乗経典の書かれた2000年前と今の人が違っているとは思いません。
ただ今は知識や情報によって科学的に何でも実証でき、解決できるものであり、それが幸せに通じるものだというように思い込んでいる人がほとんどです。

でも本当にそうなのか?
大乗仏教の教えとは、一度根本に戻してみる必要があると説いでいます。
道元禅師の
  仏道をならふといふは、自己をならふなり。
  自己をならふといふは、自己をわするるなり。
  自己をわするるといふは、万法に証せらるるなり。
という言葉も、自分を明らかにすることです。

私がここで伝えたいのもこのことで、自我を捨て去ることによって自己を明らかにすることです。
その最も簡単な方法と言えます。
104たか:2006/09/02(土) 03:06:51 ID:oZviib86
一度根本に戻してみる、それが身心脱落であり、般若心経でいう空のことです。
縁起のことを空だと勘違いしている人が人がほとんどですが、それは大乗の空ではありません。
世の中すべての事柄は確かに原因と条件によって結果が生じますがそれをふまえた上でそれにこだわらない、囚われない、振り回されないことが空、空の心といえます。
105たか:2006/09/02(土) 11:33:57 ID:oZviib86
昨日、フジテレビの特ダネという番組の中で佐渡の賽の河原を映していました。
賽の河原に通じる一本の細い道、そこで暮らす人達の日頃の生活を映したものです。
そこの人達は道ばたの地蔵や観音菩薩、神社があれば立ち止まってなにげなく手を合わせるそうです。
特別な願いをするわけでもなく、手を合わせることが日頃の生活の一部となっている。
そしてそれは菩薩や神社という対象だけでなく、自分の周りにある海や山、緑の木々などの自然に対しても同様で、ときによってはあいたいする人に対しても同様に手を合わせることでしょう。
賽の河原で無数にある小さな地蔵の転んだものをひとつ一つ起こしている老人に『どうして起こしているのか』とレポタ−が尋ねたところ、『海風で転んでいるからただ起こしていのです。』とこたえていた。
『私は今まで神や仏を信じたことはないけれど、ずっと手を合わせている』とその老人は言っていた。

如浄禅師は仏道は焼香、礼拝、看経に携わることではないと言う。
自分の周りに今あるすべてのものに感謝し生きていく、このことこそ仏道の最も大切な根幹といえるだろう。
10667:2006/09/03(日) 01:24:03 ID:2/8a/xhM
>>103
そうですね
古い話しですし事実かどうかなんてわからないですしね
最近ダビンチがキリストの秘密を知っていたとか話題になってましたけど
500年前のダビンチが1500年も以前ののキリストの秘密を知っていたとか
ありえないですしね
仏教の伝来はシルクロードの貿易人が広めたとか昔NHKで放送してましたけど
とにかく古い話しになりますよね
あと僕の言う霊的とは単純に科学を信仰しすぎる
物質主義のひとが多いって意味ですよ
107たか:2006/09/03(日) 01:43:34 ID:nETEyUxH
春は花 夏ほととぎす 秋は月 冬雪冴えてすずしかりけり
これは道元禅師の有名な句ですが、多くの人は川端康成の美しい日本という美しいという言葉に騙されてしまう。
この句は、四季、季節の代表的なものをあげたもので、これらのものがその季節を感受しているのと同様に自分もその季節を受け取っているのだということを詠んだ句だと理解すべきです。
以前芭蕉の句で半さんにいったことと同様で、美しいとかという感情を挟まないでストレイトに受け取るべきなのです。
全てのものは自然をそのまま受け取っているわけで感情などはいる余地のないものです。
これを般若心経では無で示しています。
また、阿弥陀経では蓮の花が、青色青光、黄色黄光、赤色赤光、白色白色という表現で示しているのでしょう。

私達は季節をそのまま感受して生きてるのであり、言葉を変えていうと季節が私達を造っているのだと理解すべきです。

67さん、私のいっていることが理解できますか?
10867:2006/09/03(日) 02:02:53 ID:2/8a/xhM
>>107
いや、難しくてよく理解できません
たかさんは凄いですね
時代も超えた過去の人の心情まで理解できるなんて
僕の好きな漫画にスーパージャンプ連載のゼロ ザ マン オブ ザ クリエイション
って過去の芸術品を現在に複製する天才が活躍する漫画があるのですけど
それの解説みたいですね
僕はわからないことだらけですね
毎日出会って喋っている相手の気持ちですらよく解りませんから

109たか:2006/09/03(日) 02:45:20 ID:nETEyUxH
67さん、
私は凄くもないし、天才的でもありません。
4、5年前まで仏教に興味があったわけではないのです。

私の書いていることが今は67さんに解らなくても、将来私の書いていることを理解する時が来ると思っています。
110たか:2006/09/03(日) 15:06:58 ID:nETEyUxH
67さん、
私が書いていることが解らないのは普通です。
早く解る私が勧める一番のやり方が、自分で仏鈴を鳴らして何も考えずにその音に身も心も任せることです。
これはたまたまですが私がやったことですし、2000年前の大乗経典を残した菩薩つまり経典の作者達もしていたことだと思っています。
それは自分が体験した後、経典を読んで感じることです。
そのことについてはまた後で書きます。

道元禅師は只管打座つまりただ座るを言いますが、同時に日頃の行い、生活全体が禅であるといいます。
悟りと日頃の生活は切り離せないものです。これを日々これ好日といいます。

道元禅師は坐禅によって悟りに至ったので坐禅をすすめます。
同様に、親鸞聖人は念仏によって信証を得たので念仏だけを勧めるのです。
弘法大師空海もまた夢中で真言を唱えていて悟りました。
例え他の方法があったとしても、自分が得た方法でしか人に勧めません。それが確実だと自信をもって言えるからです。

自我を滅して、または自我を滅していただいて、無心になる。
これはどの人達にも共通のことなのです。

11167:2006/09/03(日) 19:48:54 ID:2/8a/xhM
わかりました
自分で仏鈴を鳴らして何も考えずにその音に身も心も任せる
これを行なってみます
それにしてもスレタイが良くないですよね
それはヒンズースクワットで終わりですからw
今の流れからいくと
「芭蕉の句から仏教を知ろう」とか別のスレタイのほうが良かったですよね?
11267:2006/09/04(月) 22:43:23 ID:6aegVTO8
たかさんはそれにしても凄いですよね
たったの4、5年でここまで詳しくなれるなんて
しかも阿弥陀経とか芭蕉の句とかそこから思考を止めるとかに行き着くなんて
コロンボみたいな考察力ですね
僕とか霊的なことに興味をもった経緯は
火の玉をみたとか奇跡体験をしたとか動機がオカルトチックですからね
たかさんはそのような不思議体験ははないのですか?
113名無しさん@3周年:2006/09/04(月) 23:03:01 ID:6aegVTO8
火の玉は今まで2回見たことがあります
2回目に見たのは特に印象的でしたね
友達と夜、喋りながら犬の散歩してたら
家の屋根のあたりに火の玉が燃えてるんですよ
大体テレビに出てくるイメージどおりのです
それがスーとなめらかに地面から胸くらいの高さまで降りてきて
(このとき一緒に見ていた友人は背筋がゾーとしたと言ってました)
でゆらゆらと家の裏玄関まで動いて
その家に住んでる人が「何だろ?家の外で何か燃えてる」とでも
思ったのか扉をあけたら消えました

人間の想念と言うか執着というかそれらは
現代科学のどれだけ微細な物質を測定する機械でも測定できないけど
それらは確かに存在する、物質的には存在しないけど確かに存在する
そんな風に思いましたね
まあ、実際見た人間じゃあないと信じられない話しでしょうけど
114たか:2006/09/05(火) 00:49:38 ID:U5rs4kap
何も凄くはありません。
見性し、その見性体験と、経典や先人達の書き記したものとを照らし合わせて読んでいく。
そうすると、作者の伝えたかったことが一気に理解できます。
それは見性しない時に読むのとくらべることができない程でしょう。

空海は室戸岬で見性したといわれています。
その後中国に渡って、たった2年間で密教を修得し、数ある僧の中でトップクラスになったと言われていますが、それは単に空海が天才だったということだけでなく、まず見性体験をしていたことが大きいと私は思います。
私は密教のことはよく解りませんが、おそらく自分の体験と密教の教えとを照らし合わせることで一気に修得できたのでしょう。
良寛さんは正法眼蔵を読んで、これは私のために書かれたものだといって涙を流したそうですが、まさにこういうことなのでしょう。

私も維摩経の一文で涙が止まらなくなったことがあります。
その時、私が仏鈴に興味をもったのはこの文にめぐりあうためだったのだ、と思えた程でした。
以前はこのようなことは考えられなかったことです。
11567:2006/09/07(木) 05:27:06 ID:qhxMLBis
キリストの弟子にキリストが生き返ったと他の弟子から聞いてもまったく信じなかった
キリスト本人に出会うまではまったく信じなかった弟子がいるらしいですけど
僕は平たくいえばそのタイプかもしれないです
何か大体な表現ですけど日本人とか特にネットをしてる人とか実際に
見たり体験したりしないと絶対信じない人は多そうな気がしますけど・・
たかさんがそこまで信じれる何かが、見性体験には存在するみたいですね。。


11667:2006/09/07(木) 05:42:35 ID:qhxMLBis
>>113の話しの続きですけど
宇宙人がUFOに乗って地球にやってくるとかいかにも地球人的発想ですけど
もし意識と言うかたましいというかそんなものが物質の制約を受けないのなら
地球人がどこかの惑星に生まれ変わったりまたはその逆もありえますよね?
因果とかを持ってまた地球に生まれ変わるより
何といっても夢がありますから楽しい気がしますね
光ってる星は何か太陽のような燃えている星らしいですし
惑星の数はもっと多いらしいですから生命が住んでいる星も充分ありえます
馬鹿馬鹿しく聞こえるかもしれないですけど
お釈迦様なら笑わずに聞いて他の惑星の住人のこともお知り合いかもしれません??
でもやっぱり地球が一番すばらしいかもですね
117たか:2006/09/07(木) 22:55:15 ID:xJsbauZL
67さんを始め、ほとんどの人が見性を間違って考えています。
見性は今在るものをそのまま観る、今響いている音をそのまま感じることです。
つまり、ないものは見ないし、鳴ってもいない音は聞こえないのです。
仏像が見えたり、何か特別の普通見えないものが見えるとか、鳴ってもいない音が聞こえるとか、特異な超常現象的なものではないのです。
みえてるものがそのまま、鳴っている音がそのままです。

私が阿弥陀経の話をしたのは来世に極楽があるから念仏をした方がよいと伝えるためでは在りません。
大乗仏教でいう悟りとは過去や未来に変な妄想を抱かずに今の自分を大切にしながら生きることです。
見性体験をした誰もが、自分がこの世に生まれたことを本当に幸せなことだと思うものです。
本来の自分に気付いた時そう感じるものです。
私がここで書いている理由の一つはそのことに気付いてほしいからです。
118たか:2006/09/07(木) 23:37:37 ID:xJsbauZL
極楽往生を説く法然上人も親鸞聖人も一遍上人も自身の極楽往生には最終的にはこだわりません。
死後は一切を阿弥陀仏に任せ、今を大切に生きることに還ります。
11967:2006/09/07(木) 23:45:03 ID:qhxMLBis
なるほど
今の自分を大切にしながら生きる
これは大切ですよね。
あれこれまだ来ない未来に想いを寄せてもどこにも行き着きませんからね
ほんとう霊的な物事ってまったくわからないことだらけです
電気に例えると「何だかわからないけどさっきビリッときた」とか
ほとんどの人が喋っていることは、そのレベルのような気がします。
魚が筋肉とか感覚とかまったく理屈で理解せずに流れに頭を向けるのと一緒で
僕も悟りの流れの方向に頭を向けて行きたいものです。
120たか:2006/09/09(土) 00:28:58 ID:igvwFlNh
仏教は無我、無心を説くのに何故、今の自分を大切にしながら生きる、というのか疑問の人もいるでしょう。
見性とは無心であり無分別を体感することです。
無分別というのは自分と自分を取り巻く全てのものと分けられないものということであり、自分の周りの全てのものがその瞬間の自分を造っていることになります。
ですから、今の自分を大切にしながら生きるということは、つまり自分の周りに在るあらゆる全てのものを大切にしながら生きるということになります。
121たか:2006/09/09(土) 22:35:01 ID:igvwFlNh
生まれたばかりの赤ん坊は思慮分別などはなく、ただただ全てを受け入れるだけです。
あれが善い、これが悪い、などということはないでしょう。
空気を吸って、光を浴びて、音に響くだけです。
これらは生まれる前からあったものであり、生まれた瞬間にその赤ん坊を包むものであり、その赤ん坊を形作るものなのです。

まあ、いろいろといいたいことはありますが、取りあえずいろんな理屈や解説など忘れて私のいっていることを実行、実践してみることです。
たった30秒ただただ手を合わせて音に身を任せる、たったこれだけのことです

解ってもいない人の理屈に惑わされないように。
122名無しさん@3周年:2006/09/13(水) 17:26:22 ID:FmDne3xV
自分は大切と同様に、自分を取り巻く全てが大切。だから慈悲の心が芽生えるのですか。
123たか:2006/09/17(日) 15:18:36 ID:BKsg9Yal
私のいう自分は、自分自分という自我に捕われてしまっている自分をまず捨てることから始めなければなりません。
釈迦の悟りの始まりは将にこの捨てるということから始まったと言えます。
自分だったら自分の力で悟れるんだと思う。でも、実際はそう思っている間はほとんど悟れない。
自分の力ではどうにもならない、どうやっても解らないという壁に突き当たって初めて、この壁つまり自我を捨てることが出来ます。
自我の壁を感じる前に悟ることはないと言えます。
ですから、私は悟った、悟ったといっている人のほとんどが不完全です。
この壁を乗り越えてこそ、取り払ってこそ、自他一体ということが体感できます。
自分と他が仕切りのない一体なのだから、自分も他もない、自分も他もなく大切なのです。

困っている人がいれば自分のできる限り何かしてあげたいとなるのは自然なことでしょう。
124名無しさん@3周年:2006/09/17(日) 22:41:29 ID:wXUulllw
           修行するぞ   ■■■■■■■■  修行するぞ
          修行するぞ  ■■■■■■■■■■■■  修行するぞ
         修行するぞ ■■■■■■■■■■■■■■  修行するぞ
        修行するぞ ■■■■■■ 〜〜 ■■■■■■  修行するぞ
       修行するぞ ■■■■■■〜〜〜〜〜〜■■■■■■  修行するぞ
     修行するぞ  ■■■■■ 〜〜〜〜〜〜〜〜 ■■■■■  修行するぞ
     修行するぞ ■■■■■   ■■〜〜■■   ■■■■■  修行するぞ
    修行するぞ ■■■■■  ■■■■〜〜■■■■  ■■■■ 修行するぞ
   修行するぞ ■■■■         ||          ■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■■   〓〓〓〓||〓〓〓〓   ■■■■■  修行するぞ  
  修行するぞ ■■■■   〓〓     ||    〓〓   ■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■        //  \\       ■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■      //( ●● )\\     ■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■    // ■■■■■■ \\   ■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■■  / ■■■■■■■■ \  ■■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■■   ■/〓〓〓〓〓〓\■   ■■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■■■ ■ /▼▼▼▼▼▼\ ■ ■■■■■■  修行するぞ
  修行するぞ ■■■■■■■■■ ▼▼▼▼▼▼ ■■■■■■■■ 修行するぞ
   修行するぞ ■■■■■■■■■   ■■   ■■■■■■■■ 修行するぞ
   修行するぞ ■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■■  修行するぞ

125たか:2006/09/20(水) 21:58:24 ID:Z8JJefNl
修行ね。

私は修行など一度もしたことなどないですね。

修行、修行といっては間違ったものを教え込む。
人を救うように見せて、逆に間違いから抜けだせないような人を造ってしまいます。

126たか:2006/09/20(水) 22:56:49 ID:Z8JJefNl
仏鈴を鳴らしただけ。
そして、その音に身も心も任せただけ。
ただただそれだけです。

阿弥陀経と同様に無量寿経、観無量寿経も、小川のせせらぎや風のそよぐ音など多くの音について語っています。

みなさんは
これらの音が何を伝えているのか知りたくないですか?
これらも音がなんなのか?
自分で確かめたいと思いませんか?

私はそれが知りたかった。

仏典に書いてあるからそれを信じるではなく、それがなんであるかを自分で確かめる、それこそ法を智ることでしょう。
どうです、違いますか。

悉有仏性。
道元禅師はそれを自分で確かめたくてはるばる中国までいったのでしょう。
そして自分で確かめることができたらこそ日本に戻ってきたのでしょう。
如浄禅師の、仏法は看経にあらず、修懴にあらずはそう言うことでしょう。

私がここに書く理由はそれを皆さんに確かめてもらいたいのです。
経典の内容が本当かどうか、自分で確かめて観て下さい。
127名無しさん@3周年:2006/10/04(水) 23:46:34 ID:LVMzM9hl
無心と音ってどうつながるの?
128あぼーん:あぼーん
あぼーん
129たか:2006/10/09(月) 19:33:16 ID:5r9dCJ46
127さん、
無心と音。
無心になった時にはじめてきこえる、感じる、響く音があるのです。
維摩経や正法眼蔵の仏性に書かれてある一音です。

この一音、一音ですが実は仏教の全ての教えの元になる音です。
悟りはこの音を観ずることから始まります。
ですから、羅什は悟りの菩薩つまり観自在菩薩を観世音菩薩と訳したのです。
仏性とは何かも解るようになります。
130neo ◆u12SwCEviQ :2006/10/21(土) 20:38:12 ID:bca3Vvrg
おーす、たか!
こんなとこいたんか、
居るなら返事してみー
131たか:2006/10/22(日) 08:30:44 ID:3/Mv1Wy3
ネオさん、
お久し振りです。
せったん和尚のところで禅をされて以前と変わった点があるでしょうか。

道元禅師が述べているように、仏道は自己を習う、つまり自己を明らかにすることに始まります。
それは自己を忘れることであり、万法に証せられることです。
それを一音が教えてくれます。
般若心経でいう空のことです。
涅槃経でいう悉有仏性、華厳経で説く一即多、多即一もこの一音から解ります。
道元禅師が一つの法を知ることが全ての法を知ることだといっているいるのはこのことをいっているのです。

ネオさんはじめ、多くの人が仏法とは何かを真剣に知りたいと求めていることは大切なことです。
微力ながら私が手伝うことがあればどうぞ。
ただ、私も理屈はいくらでもいえますが、理屈や教えを伝えることが私の目的でありません。
できるだけ本来の自分つまり自己を明らかにできるように伝えたいと思っています。
その方が仏法を間違えることなく、早く身につけることになると思っています。
132neo ◆u12SwCEviQ :2006/10/22(日) 10:18:17 ID:YKtnCHuN
タカさんこんにちは、そうですねせっしんには毎回行くように
なりましたよ。

そこでね、タカさんにちょこっと相談なんだが、ヤフーの掲示板
の「※--仏とは何か-*-東山寺談話室--※」にも書き込みをして
もらいたいなーって思ってます。せったん老師もそこで書き込みを
されてますが、タカさんのように語れる人はそういないのです。
ここで以前のように書き込みをされて、お暇なときにちょこっと
覗かれる程度でいいのですが。 もし宜しければ一度おたずね
ください。

http://messages.yahoo.co.jp/bbs?.mm=GN&action=l&board=552019920&tid=a2a8ja9a4ha4o2bfa4abelbb3bbfbclocbcbca2a8&sid=552019920&mid=6159

ここのtozanji06がせったん老師です。

待ってるよー
133たか:2006/10/22(日) 21:36:44 ID:3/Mv1Wy3
ネオさん、
御招待頂き有難う。
何度か見せていただいていました。
ただ、そちらは流れが早くて多くを開くとうちの古いパソコンではすぐに固まってしまいます。
時々読ませていただき、時には書き込ませていただくかも。

仏教は実践しかありません。
なぜかというと、実践しながら自分の限界、言葉を代えると自我の限界を自分で体験しなければ本当に自我を捨てることが出来ません。
そしてはじめて仏や自然に身もこころもゆだねることが出来ます。
そしてはじめて無心になるのでしょう。
この自我の壁に触れないうちに仏教を解ったと思っている人がいますが、そういう人はほとんど自分の勝手な思い込みで仏教をまた先人の教えを解釈してしまうのです。
大乗の経典に書いてあるからそれを信じるのではなく、経典の作者が何故そのようなことを書き残したのか自分で確かめることが大切です。
その時はじめて経典と経典の作者と自分の心が一つになったと言えます。
法だけでなく遥か昔の人と心が一つになり、それを今の自分が引き継いでいる、道元禅師はそれを感じて喜びに感じたはずです。
ネオさんも是非そのように。
134neo ◆u12SwCEviQ :2006/10/22(日) 22:25:39 ID:YKtnCHuN
見ていただいてありがとう、実践に次ぐ実践を日々している人も
いれば、書物を見ながら実践し暗中模索、または、書物によって
頭の中だけで行き着いたかのように錯覚している人、いろんな人
がいます、そのなかBBSに書き込んでいる人の多くは、知識ベース
の人が大半です、だいたいが論理でもってあーだこーだやってるん
ですね。ですから、たかさんのように実践をされている人の言葉
を是非伝えてほしいと思っています。日に1レス、2レスでも結構
ですので書き込んでいただくと、やはり感心の在る方はレスを付けて
きます、そのことによって掲示板の質も変わってきます。
今は結構ヤフーも荒れてますので、一人でも多く実践されている人の
言葉が聞ければと思います。

と、いうことで、今後もよろしくね
135neo ◆u12SwCEviQ :2006/10/22(日) 22:26:15 ID:YKtnCHuN
>ネオさんも是非そのように。

どうもありがとう、そうしてみるよ
13667:2006/10/23(月) 12:25:08 ID:CubTTpPN
たかさん、おひさしぶりです。
あれから、たかさんの仰る見性体験
ブラフマンとは?悟るとは?
これらの持つ本当の意味をわからないながらも度々考えています。
今も般若心境を聞きながら書きこんでいます。
深いです
13767:2006/10/23(月) 12:28:07 ID:CubTTpPN
ではでは
138たか:2006/10/24(火) 12:12:20 ID:QpsL04Az
67さん、
釈迦をはじめ、ほとんどというか全ての人が自分でいくら考えても自分でいくら苦行をしても見性体験はできなかったのです。
自分で、自分で、という自分を取り外さなければなりません。これが厄介です。

見性体験は時間的にも短いし、実に単純なものです。
見性、見性と言っていますが、実は私は見性という言葉を知りませんでした。
はじめて知ったのは体験後およそ2ヵ月経ってからです。
よくよく考えてみれば仏教の知識など対して無かったのですから。
経典で言えば般若心経、阿弥陀経、観無量寿経、無量寿経、法華経の現代語訳だけです。
これも悟りたくて読んだのでは無く、仏鈴や音のことについての記載が何かないかと思って読んだのです。
また、宗派の教えに何かないかと思って少し調べましたが、これはと言うものに巡り会いませんでした。

ただしその間、67さんに勧めるように、何も考えないようにして仏鈴の音に身を任せることだけはしてたのです。
何故このようにしてたのか。
それは、きっと、この音に何かあると思っていたと言うしか言い様がありません。
139たか:2006/10/24(火) 12:30:12 ID:QpsL04Az
光世音菩薩という名の菩薩がいます。
この菩薩の名を知ったのは見性体験の約2年後です。
この名前、私の体験をよくあらわしている名前です。


光世音菩薩、実はこの菩薩は観世音菩薩、観自在菩薩の別名です。
私はこの名前について、なるほどと言うしかありません。
140たか:2006/10/25(水) 10:22:40 ID:ivYmh7Us
67さん、
67さんだけでなく仏教に関心のある人は皆いろいろと考えるものです。
経典を読みこなせば解るのではないかとか、名僧の語録を一字一句よみこなせばとか、みんないろいろします。
名だたる名僧もみなそうです。

縁起ならよくわかるのに、空とは何だ、仏性とは、悟りとは、仏とはいったい何ものだ。
まぁ、いくら勉強してもなかなか納得できないものです。

考えるなとは言いませんが、ただリンの音が響いている30秒だけ頭も心も空っぽに。

般若心経の空はこの状態です。
実は生まれた瞬間の赤ん坊もまたこの状態です。
14167:2006/10/26(木) 01:25:49 ID:XZDDMA8J
たかさん
お久しぶりです。
ここまで来て、こんなことを書いたらネタに思われそうですけど
見性体験では無いのかも知れないけど、自分の意識以外の全てと一体に
なったと思える経験が僕にもあるんですよね。
当時は何の宗教も興味が無かったのですけど、周りのいた女の人ですけど
驚いた顔をしていたから気のせいではなくてあれがそうなんだって思えます。
その瞬間は至福のみでした。意識が地平線に広がっていって肉体意識もありませんでした。
考えたりして利己心が芽生えたら神経が切れたように意識が肉体に戻りましたけど

14267:2006/10/27(金) 01:04:38 ID:VkIBAdXQ
神様は我々を見守ってくださってるとは凄く感じます。
だからもっと真剣に生きなくては駄目ですよね。
人間には神様の偉大さは到底理解出来るわけが無いのですから
だから好きなんです
鈴を叩いて思考を止めたりも般若心境を聞いたりも聖書を読むのも簡単で単純だし
真剣に生きれずただ時間だけが過ぎてるなあとは感じますけど
何もしないよりはましですからね
お兄さんがいるんですけどそこそこ大きい会社に勤めてて
その会社に班長がいたらしいんですけど
いきなり会社を辞めて僧になって四国を歩いてるって聞いて
真剣に生きてるなあって
僕は駄目です。そこまで真剣に生きれませんから
死んでしまうギリギリまで緊張感ないんだろうなあって
昔のほうが少しはマシだったんですけどね
143たか:2006/10/27(金) 13:02:11 ID:xlEiPocP
見性体験の時、誰もがなにかに包まれているような大変安らぎを感じるものです。
私はこの感覚が生まれてはじめて感じる感覚だと考えています。
空っぽの身体に全てのものを分別すること無しにただただ受け入れる。
その時から身体も心も脳も動きだしたのでしょう。

人は興奮した時やあがった時など深呼吸をすると心が落ち着くものです。
同様に山頂や若葉の緑の中で深呼吸をしたくなるのは、空気が美味しいだけでなく、その場の空気や景色と一つになりたいと無意識に思っているからかも知れません。

人は、一つになる、つまり一体となる、いや、一体となっていることを感じた時大変な喜びを感じるものです。
見性とは自他一体、自分と他が分けられないものだと知る体験であり、他がそのまま自分に働いている体験と言えます。
音でそれを知る。
カンでも、コンでもかまいません。
144たか:2006/10/27(金) 13:38:23 ID:xlEiPocP
前にも書きましたが、見性、またはそれと同じような体験をした時、自分の体験と経典や先人の書き残したものと照らし合わせていくことが必要です。
それをすることにより自分の体験が確かなものだったかどうか解ると同時に、仏教を理解し深めていくことが出来ます。
多くの人の中にはそれをしないために間違った自分勝手な解釈をしてしまう人が多いと言えます。
また経典も般若心経だけで良いとか、浄土三部経だけ、法華経だけというのでなく、代表的なもの全般に見ることが大切です。
見性は仏教の入り口と思った方が良いでしょう。

般若心経で釈迦の教えのほとんどを無と言っているように、空とは教え以前のことだといっているのです。
145たか:2006/10/27(金) 14:58:37 ID:xlEiPocP
小さいころ、畑の里芋の葉の一つ一つに小さい水の固まりがあり、風が吹いて大きな葉が揺れると水も揺れてその一つ一つが日の光に輝いていました。
太陽の光はその一つ一つの水の固まりの中にはいってたんですね。
考えてみるとその小さな一つ一つに太陽だけでなくいろんな景色がそのまま映し出されていたんです。
そしてその時の水の固まりを形作っていたんですね。
14667:2006/10/27(金) 23:56:33 ID:VkIBAdXQ
なるほど、理解を深めるためには色々な経典を読んだほうが良いのかもしれませんね。
僕の場合、最初この境地を体験したときに死んでも良い
何の未練もない、そう思ったらなおさら世界との一体感が深まったように感じました
子供のとき憧れた永遠そのものの境地でした。
生きながらもその瞬間は成仏しました。
あの境地が空なのか見性なのかブラフマンなのか
何なのかは僕にはわかりませんけど
14767:2006/10/28(土) 00:10:06 ID:TTckbmmj
今はさっぱりですけど
当時はそれくらいに純粋でした。
14867:2006/10/28(土) 23:30:18 ID:TTckbmmj
自分以外にその境地に立っているって感じた人に一回だけ会ったことがあります。
その人はミュージシャンでした。
ここまで深く人を愛せるのかとその人の歌を聞いたとき心底感動しました。
でもその人も自分が空とかブラフマンを体現しているとかは言ってませんでしたけど
多分まだまだなんですよ。
聖書を読んでたらイエス様は人の心が分かったり数多くの奇跡を行った記述が
ありますけど、僕とかさっぱりそんなことは出来ませんから
多分天国の入り口付近を知っただけかと、その程度の経験です。
14967:2006/10/28(土) 23:39:14 ID:TTckbmmj
まったく関係ない話になりますけど
よく神社の大木を切ったとか神社の池の鯉を釣って
バチが当たって死んでしまったとか聞きますけど
この不幸は死んだ本人にとっては本当に不幸なんでしょうか?
できれば死んだ本人には幸福なことで会って欲しいです
死んだ代償に輪廻して生まれ変わっても神様に見守って欲しいです。
最近自分の身の回りで不幸なことが続いてるのですけど
だからこそ、そうであって欲しいものです。
15067:2006/10/31(火) 00:13:02 ID:fz6LXQyl
そのロック歌手のミュージシャンはもう死んでしまったんですけど
生きてる時に雑誌でこんなことを言っていました。
世界中の人がひと時でも幸せだって思える瞬間があって欲しいみたいなことです。
コンサートに行って歌を聴いてみてその言葉を信じれます。
普通の人が言ってたら偽善的に聞こえますけど
イエス様も「汝らの敵を愛し、汝らの憎む人を恵み、汝等を迫害する人のために祈れ」
と聖書に書いてますけど心の底から言ってるんだろうなあって
15167:2006/10/31(火) 00:41:22 ID:fz6LXQyl
仏教とは全然関係のない話ばかりですけど
色々な角度から悟りや解脱に近付ければ良いなって思う。
15267:2006/10/31(火) 01:27:51 ID:fz6LXQyl
よくよく考えてみたら
修行僧って辛い生活してますよね
以前街中で念仏唱えながら托鉢してる僧がいたけど
今度見かけたら小銭じゃなく
反省の意味を込めて多めに賽銭を入れさせてもらいます。
捨てるというのはああいった生活なんだろうなあ。
153たか:2006/10/31(火) 01:37:30 ID:X/CCneb1
私はブラフマンもキリストも知りません。
大乗仏教は何か対象物があってそれに崇拝するのではありません。
他と自分とを分けられないもの、同じものと気付いて生きることです。
そのためにはまず自己を知らなければなりません。
何度も書きますが道元禅師の
  自己を習うというはは自己をわするるなり、
  自己をわするるというは万法に証せらるるなり。
という言葉の意味を知らなければなりません。

よく慈悲を多用する人がいますが、自分を知らないのに何で人を救うことができるでしょう。
自分というものがど−いうものであるかを知ることによって自然と他を思いやる心が生まれてくるものです。
これが慈悲というものです。
単に誰かに何かをしなさいといわれたからするというものではありません。
当然だれそれの教えだからそうしなければならない、というものではないのです。
このことは大乗仏教と他の宗教と決定的に違うところでしょう。

私がここで何度も繰り替えしていることは、自己、自我を捨てることによってはじめて本来の自分、元々の自分が見えてくることを伝えようとしているのです。
本来の自分を知らずして、何かをする場合、多くの場合自己に酔って自己中心的になるものです。

私のいっている一体は何か特別なものと一体になることではありません。
67さんの言っているブラフマンがどう言う意味か知りませんが。
ですので、あなたの信じているミュージシャンの空とと私の伝えようとしている空とは、違う気がします。

多くの人が一部の経典を勝手に解釈している、67さんにはそのようになってほしくないのです。
15467:2006/10/31(火) 23:41:53 ID:fz6LXQyl
なるほど
でもまあ、よくよく考えてみたら
>>142で書きましたけど安定した生活を捨ててまで僧になったりするのは
僕にしてみたら清水の舞台から飛び降りるくらいの覚悟ですよ。
この班長の人とかボーナスが60万円以上、毎月高給貰えるような会社を辞めてまでも
僧になった訳ですからよほどの覚悟なんじゃないのかって思います。
その道元禅師も我々が自動車で移動するところを
歩いて空を見風の音を聞きながら
あるいは今日寝泊りするのもままならない生活で
そのような境地に達したのなら、私のような世俗人の計り知れる所ではないのかもしれませんね。

155たか:2006/11/01(水) 19:22:34 ID:6dhlOs4P
世俗も出家もない、皆一緒に往きましょう。
言葉を代えて言えば、苦しみ、執着にとらわれることがないように、それを除くことを身につけて、一緒に生きて往きましょう、ということでしょうか。

大乗の菩薩の代表でもある観音菩薩はこの世つまり娑婆の、それも僧ではない在家の人だったということです。

出家しなければ悟れないと思うのは勝手ですが、私は全くそのように思っていません。

あなたのいう班長さんの気持ちも詮索するつもりもありません。まぁ、いろいろあったのでしょう。

私は僧でもありませんし、僧になりたいとおもったこともありませんし、悟れるとも思ったこともありません。
でも今は私のやっていたことが一番最短ではないかと思っています。

仏教に関心のある人に参考になるはずと思っていますので、少しずついろんなことを書いていきたいと思っています。
156たか:2006/11/01(水) 19:34:19 ID:6dhlOs4P
145で里芋の葉の上の水の固まり、つまり水滴のことを書きましたがこれはただ適当なことを書いているのではありません。
何をいつているのか、67さんに解りますか?
15767:2006/11/02(木) 00:19:13 ID:Hhy624Hg
たかさんは本当に音とか自然の景色とかが好きなんですね。
僕も好きです。
>>145
の景色を見て自分が何を感じるのか
海や山を見るのと一緒で綺麗な景色だなとしかおそらく思わないんじゃないのかな?
北海道を旅行した時は風も涼しくて、鹿とかもいて凄く景色が良かったけど
それがリゾート地とかでなくたとえ平凡な景色であっても
子供の時見たり感じたこととかは特別な思い入れがあるのかも知れないですね。
正直言うと、たかさんほどには蛙が飛び込む音だとか蝉の声だとか
水滴だとかそれらの物事に人生の何かを見出そうと思ったことはありません。
ただこんな経験はあります。
自殺の名所があって僕は旅行先で知らずにそこに行ったんですよね。
ですることが無くベンチに横になって蝉の声を聞いてると
なんというか独特なんですよね。蝉の声が
もの哀しいというか、ただの蝉の声なのに空しく切ないというか
あの時の蝉の声は耳に残りましたね。

15867:2006/11/02(木) 00:38:25 ID:Hhy624Hg
今もその時のことを、その場所のことを思い出して
気分が悪くなりましたよw
たかさんの書き込みを見ていたら本当に同じ世界で暮らしているのかと
思うことがありますけど、でも同じ太陽の下で暮らしているんですよね?
たぶん、もし一緒に行動したとしても同じ場所に行ったとしても、
見るものや感じることが全然違うんだと思います。
15967:2006/11/03(金) 02:46:10 ID:XPYjYdtB
芭蕉さんが生きていた頃は、本当に静けさや平安があったのでしょうね。
今みたいなどこにいても自動車の騒音、重機の騒音やこれらのない時代だから
夜も真っ暗闇で森にいたら鳥や蝉の声が響く
ともあれ、現代人と昔の人は感覚が違えど
鈴を聞きながら思考を止めたり、問いを放棄して執着を捨てたり
それらは僕も大変重要に感じます。
歩く道筋は違っても結局目的地は同じなんですよね。

160たか:2006/11/03(金) 20:20:52 ID:M3+/6kSv
広い湖や池に山なみや青い空、今の季節なら木々の赤や黄色に色づく紅葉などがハッキリと映っているのを見たことはありませんか。
夜になれば、月だけでなく天の川も含め星星さえハッキリ映っていることがあります。
その時のその瞬間の、その場の光景をそのまま映し出しているんですね。
これは湖や池の話ではありますが、よく観察してみると小さいながらも里芋の葉の上の水滴も湖や池の水面と同様にその時のその場の光景を映し出しているように見えます。
映し出しているというよりその小さな水滴の中に畑の光景をそのまま入れている、いい代えればその水滴に光景全体を宿していると言えそうです。

161たか:2006/11/03(金) 20:59:26 ID:M3+/6kSv
以前書いた立石寺の芭蕉の有名な句、
蝉の響きの中にいる芭蕉を小さな水滴に置き換えてみたらいかがでしょう。
ただただそのまま。
その光景と何の違いがあるでしょう。
16267:2006/11/05(日) 00:16:15 ID:QnkX6EBa
良い句っすよね。

 閑さや 巌にしみ入 蝉の声

深い意味は解りませんけど、静かな木々の間から蝉の声が
じーわじーわ鳴いてくるのが聞こえてきそうな感じで
163たか:2006/11/05(日) 02:56:06 ID:QOCjxGD/
自分以外の全てが自分の中にある。
万物、全てがその瞬間の自分を造っている。

145の葉の上の水滴の隣に別の水滴があるとする。
別々の水滴だけれど互いに相手の水滴を映し出している。
同様に隣の水滴も。

多が一になり、一が多となリ、互いに影響しあいながらそれぞれをかたちづくっている。
一つが動けば全てが動く。

また単に光景を映し出しているだけではなく、音や、風、気温や、気圧、その他全てに影響されてその瞬間の色や形が造られているのだ

人は自分の身体は自分が造っていると思っている。
そして、自分が自分がと自分中心に考えてしまっている。
この自分中心という殻が執着心であり、苦しみだと大乗は説く。
この殻に穴をあけ、外の空気を入れて、執着に囚われない生き方をしょう。
仏教の教えとはそういうものでしょう。
164たか:2006/11/05(日) 09:30:21 ID:QOCjxGD/
67さん、
自然だけがそれぞれを造っているのではありませんよ。
鳥の声や蝉の声、小川のせせらぎ、髪やホウにふれながら吹き抜けていく風は勿論ですが、自分の周りにあるものすべてですから当然車の騒音も、急ブレーキの冷やっとする音も全てがその時の自分です。
書いてきたように仏教の教えは自分と取り巻く環境や自然と一体のものだと教えているのです。
ですから見性体験の人はおのずと自然が好きであり周りの全てを大切にしたいと思うし、困っている人や悩んでいる人とも一緒に生きていきましょうと励ますのでしょう。
16567:2006/11/07(火) 00:48:22 ID:m1DerRiA
解釈が深いですねぇ。
地球って丸いけど、光や虹も丸く見えたりするし
突き詰めたら
あらゆる物から
こう、なんて言うか。円の中心を辿れば、
いわゆる真理に行き着くのかも知れないですね。
もしかしたらそんな風に、世の中が出来ているのかも知れないです。
166たか:2006/11/08(水) 21:32:51 ID:cocybfVG
これは私の解釈というより華厳経や維摩経の内容を解りやすく書いたのです。
世の中万物全てこのようになっているといえばそう言えます。
大乗仏教は釈迦に始まりますがその釈迦の教えというものにさえこだわらない、釈迦の教え以前のこと、万物の根源まで見つめたものかも知れません。
互いに影響しながら万物それぞれに変化し続けている。それを無常といい、無常だからこそ私達は生きている、生きておれるのでしょう。
縁起はそのとうりですが、それにさえこだわると実際には苦から逃れられない場合が多いのです。
ですから、観音菩薩が、縁起思想で釈迦の弟子になった舎利子に空を説いているのでしょう。
16767:2006/11/10(金) 00:42:24 ID:NCh5Zxuh
最近めっきり寒くなりましたよね。
寒さにもただ寒いと気持ちのいい寒さ
とか様々あるような気がします。
気持ちのいい寒さの時はとにかくイイ!
寒くても落ち着きます。
あと鶴とか寒さの似合う気持ちのいい鳴き声しますね。
何と言うか、あの鳴き声の間が我々の生活と違いマターリしていて聞いてて心地良いです。
あんな風に自然と一体になりたいものです。
168たか:2006/11/10(金) 22:23:27 ID:ZkDJTS8i
冬になれば決まったように季節の鳥がはるばる海を渡ってきます。
季節を環境を取り入れて自然に行動を起こしているのでしょう。
これは動物は勿論ですが植物も同じでこれを仏性の現れというのでしょう。

67さんのいうように、寒さにもただ寒いと気持ちのいい寒さとかいろいろあります。
その時の寒さはたった一つなのに、感じる寒さは全く違います。
どうしてでしょう?

全ては心がつくり出しているのだ、と華厳経は説きます。
私達は心というフィルターを通して全てを見ているということでしょう。
この世に生まれて以来、常にこの心というフィルターを通して全てを見ることを身につけてしまつていますが問題も多いのです。
実際に身に受けているものと、心が勝手に描いているものとのギャップ、これが苦の原因なのでしょう。

前にも書いたように、道元禅師は仏道は身と心を一つにすることだといっています。
勝手に描いているフィルターを取り払って、つまり無心になって、身と心を一つにする、これが身心脱落なのです。
169名無しさん@3周年:2006/11/14(火) 14:46:55 ID:SegDT0es
>>1
ヒンズースクワット
170たか:2006/11/15(水) 00:16:29 ID:d5XKYBsm
小学校の理科の時、音叉を使った実験があった。
一つの音叉を鳴らして、その音叉に別の鳴らさない音叉を近づける。


それにしても小さな子供が親に平気で安易に親の一方的な理由で殺されていく。
殺される前も親からのいじめの連続だ。
いじめられ、身体にアザをつくりながらも必死に親をかばったりする。
なんとも言えない悲しさがあります。

少年少女のいじめの自殺も多い。
テレビを見てたら、今の子どもは、人は死んでもまた生まれ変わると思っている子がほとんどだという。
テレビでは毎日、前世がどうの、あなたは何々ですとやっている。

人としてこの世に生まれることは稀なことだと、ほとんどの名僧がいう。
この世に生まれることが本当に有り難いことなのに。
171neo ◆u12SwCEviQ :2006/11/17(金) 22:18:16 ID:b2Wsz2UL
人身得ること難し、佛法値うこと希れなり
17267:2006/11/17(金) 23:48:25 ID:pu/IKzmg
pcが壊れてしまって、漫喫で久しぶりにネットです。
「風の大地」ってゴルフ漫画があるんですけど、ゴルフを知らなくても面白いですよ、たかさん
最近たかさんが仰ってた
>多が一になり、一が多となリ、互いに影響しあいながらそれぞれをかたちづくっている。
>一つが動けば全てが動く。
みたいなことを考えてしまいます。
つくづく深いなと
173たか:2006/11/19(日) 01:17:30 ID:m7Ls09N9
ネオさん、
道元禅師のいうように、人身得ること難し、と思うからこそ命の大切さがあるのでしょう。
実際は何もできない自分でありながらも他の人に何かしてあげたいと自然に沸き上がってきます。
この自然に沸き上がってくるものこれこそ慈悲であり、仏のはたらきとも言え、仏性ともいえます。

音がただそのままとは、鳴っている音叉に鳴っていない音叉を近づけると鳴っていなかった音叉までもがそのまま鳴るようものでしょうか。
ただ、心の底からということについてはなかなか伝えられません。

せったん和尚の教えはそのとうりですが、坐禅をしてる間はそれさえ忘れる、捨てることです。
多くの場合、教えの多くは見性のあとから生きてくるものです。

すべてが通過点ですので諦めないで、続けることが大切です。
インターネットでいろいろ見てると、仏法値うことまれなり、という言葉もなるほどとも思えますが。
ネオさんにも参考になると思いますので、是非ここも何度か繰り替えして読み返してみて下さい。
174たか:2006/11/19(日) 21:06:15 ID:m7Ls09N9
昨夜9時からのNHKのお遍路のドラマで弘法大師空海は室戸岬の洞窟の中で修行中、明星が口の中に飛び込んだといっていました。
これもまぁいろいろと解釈はあるでしょう。

以前、坐禅と見性に、
  音は耳で聞くのではなく、鼻から吸い込むのだ。
と、書いたことがあります。
これは私の実感でした。しかし、このことはなかなか理解できないでしょう。

何処から見ても人間にしか見えないこの身体も、元はと言えばたった一個の細胞。
何処にも眼も耳も鼻も口も見えません。
というより、この一個の細胞全体が眼であり耳であり鼻であり口であり皮膚なのかも知れません。
175たか:2006/11/22(水) 21:20:14 ID:ZR0g94Qb
67さん、
人間を含め、全ては生まれた時から他からの働きで成り立っていると言えます。
自然やその移り変わりは勿論ですが、環境も、ともに生きている人達も同じく今の自分をつくっていると言うことです。
それが解ってくると、誰かにいわれたから、自然や環境は大切だからこうししなさいでは無く、他人に優しくしなさいということでも無く、自ずから他を大切にするというものです。
私が、法は教え以前の問題だ、ということが少しは解っていただけますか。

以前も書いたことがありますが、
道元禅師や親鸞聖人は、仏道を習えば善き人に成るといいます。
この善き人に成り、善き人として生きる、これを仏のはたらきというのでしょう。

観音菩薩の仏像の頭に仏像があります。
67さんは何故観音菩薩の頭に仏があるのか、解りますか?
17667:2006/11/23(木) 01:16:27 ID:CsXKXHmD
確かに今までじっくりとは見たことがなかったですけど
頭の部分に仏が彫られてますね?
菩薩だから存在そのものが単ではない多であるとか
そんな意味がこめられてるのでしょうか?
自分としてはそんなイメージです。
177たか:2006/11/25(土) 19:04:05 ID:YNkGYGZY
67さん、
観音菩薩の頭の仏は阿弥陀如来です。
無心になり、見性し、自我のなくなった観音菩薩に素直に自然に働く仏のはたらきを象徴しているのでしょう。
観音菩薩は私達と同じようにこの世界つまり娑婆に生まれ、死んだ後阿弥陀如来の元で法を学び、衆性救済のためこの娑婆にもどって来た菩薩とされています。

困っている人を助けることを慈悲と考えている人がほとんどですが、それは必ずしも正しく無いでしょう。
あの人は貧しくて困っているから助けてやる。これでは優しさという押し付けになる場合も多いのです。
まず自我を捨て、無心の状態で自然に沸き上がってくる優しさ、苦しんでいるものの苦しみを少しでもやわらげてあげたいと自然に起きてくる心、これが慈悲というものでしょう。
自分というものを入れないで自然に沸き上がってくる心、これが慈悲であり、それを働かせているもの、それが自然のはたらきであり、大乗仏教では仏のはたらきと言えます。
無心になって苦しんでいる人と同じ立場にたってその人を救済する。これが観音菩薩でしょうか。

私達の理想の菩薩である観音菩薩になる叉は観音菩薩に近付くためには、まず自我を捨て無心になることが大切なのでしょう。
そうはいっても、実際は何にしても言うはやすくおこなうは難しです。
17867:2006/11/26(日) 00:05:10 ID:NZ2j0Pgz
勉強になります。
最近気付いたんですけど実家が弘法大師の仏教なので、お経のなかで色々な菩薩や如来の名前を
唱える部分があるのですけど
お経のなかでそこが好きだったりします。
>そうはいっても、実際は何にしても言うはやすくおこなうは難しです。
まったくですね。
外国の恵まれない子供たちに毎月募金するようなシステムがあるのですけど
結構申し込むのに勇気がいりましたから(W
昔のお坊さんはわざわざインドや中国あたりまで仏教の極意みたいなものを
求めて行ったらしいですけど、現在はネットで何でも知れるのに
言うはやすく行うは難しとは現在も過去も同じなのかも知れませんね。
179たか:2006/11/26(日) 14:40:33 ID:K3F51Er4
無心のときのこのような自然のはたらきを仏のはたらきを、ある時には自然法爾と呼び、他力とよび、密教では加持と言うのかも知れません。
親鸞聖人は自分のように何をしても自分では悟れなかった愚かなものを悪人とよび、自分の全てを阿弥陀仏に任せることで悟れる、極楽往生できると説いたのが往相回向というものです。また阿弥陀仏のはたらきで慈悲の心で生きる、これを環相回向とよんだのです。
密教でも同様で自我を捨てることにより無心になった時に加持が働き仏と一体になって善い生き方ができるのだと教えているのでしょう。

見性とは無心になって自他一体、自分と他を分けられないもの無分別を智る体験であり、これが仏教の入り口出発点であることは間違いないことです。

一切を捨て音でこれを智る。
観世音菩薩は悟りと慈悲を教えてくれる菩薩あり、わたしたちにそのように生きなさいと言っているのでしょう。
180たか:2006/12/03(日) 19:35:26 ID:pjjiB1pJ
この世のもの一切つまりことごとく全てが空である。
多が即一つを現わし、その一つもまた多のことごとくに働きかけている。
その働きかけの姿を現れを、仏の働きと言い、仏性の現れと言うのでしょう。

大乗仏教は万物の根源を見つめたもので、他の宗教とは全く違います。
だから、物理学、化学、深層心理などの心理学、ダ−ウインの進化論ほか全てのものが説明できます。
当然、誰もが知りたがっている、
   自分は何のためにこの世に生まれてきたのか
という疑問もわかりますよ。

67さん、ネオさん、
それを知りたいのなら、自分を捨ててまずは一音からです。
181名無しさん@3周年:2006/12/26(火) 00:36:32 ID:mm1T+4dz
はじめまして
縁起と空は同じものですか?違うものですか?
18267:2007/01/17(水) 05:16:03 ID:zM/MOX2k
確かに突き詰めたら全てのことが解るのかもしれないですね。
たとえばマリア像とかが涙をながす奇跡が行われたとして
それが最近のスパコンの地球環境予測とかで、どうも地球温暖化でこの先
地球の未来やばいのかもしれないような予言的な深い意味での神の御心であったとしても
人の能力ではそれが何なのか理解できない。
犬や猫に外国の事を話して聞かせるのと一緒のように
人間には全てを知るのは遠い事柄なのかもしれない。
でも大昔の恐竜とかがいた時代よりは遥かに世界を理解している方向に進化してるし、
手の中に虫が居たとして握りつぶすことはできますけど、虫の心、視点
そんなことすら解らない。当然、他人の意識や心も解らずに
誰だって死んでいく訳ですけど
いつかは進化の最終、魂の最終には誰だって
神の御心も含めて全てが解るときが来るんじゃないのかと思いますから。。
18367:2007/01/20(土) 02:32:20 ID:ghUCuY2u
マリア像とかが涙をながす奇跡を信じるかどうかは
神は人間のハートに住んでいて、何人も神の目は誤魔化すことはできない。
とは僕以外の誰かの言葉ですけど、そんな感じなのかな。
184埼玉支店長:2007/01/20(土) 11:45:50 ID:iGIh4X5U
ここでいいんかい?
イチゲンでも普通のレートで打たしてくれるっていうマージャン屋は。

ネオって変わり者が話しているの、小耳にはさんだんけど・・・・・。
185名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:19:30 ID:kawMJFiF
なにこの糞スレまだあるの?
186埼玉支店長:2007/01/20(土) 12:57:27 ID:iGIh4X5U
まあ、クソっていうやつが、たいがい一番のクソだあな。
187名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 13:26:48 ID:K2cHnSfb
そお、馬鹿というしとが馬鹿なの、たかさんまだ〜〜〜
188neo ◆u12SwCEviQ :2007/01/20(土) 17:22:42 ID:+f07FNNO
とりま、sageてね
189埼玉支店長:2007/01/22(月) 09:07:48 ID:PvjRHFgs
タダ事 タダする タダのひと あーこりゃこりゃ。
190241:2007/01/28(日) 04:26:18 ID:kVEndDma
世界は幻想に満ちているのかも知れないです。
なにしろ聖者ですら悪魔の誘惑に苦しんだらしいですから
普通の人間では生まれ変わりがあって
もし生まれ変わったとしても性格的な欲とか恐怖や不信を
克服するのはおそらく並ではないはず
生きているすべてのひとにとって実際世界そのものが宗教みたいなものです。
191たか:2007/01/29(月) 00:26:58 ID:etcCBoUV
ネオさん、久しぶりです。
埼玉支店長さん、ヤフ−を読ませていただいています。

ただ、ただ、ただに徹するとは言葉では簡単ですが実際はなかなか難しい。
ただに徹しょうと思うとただにならないものです。
でもそれを続ける事が必要です。
続けてるうちに自分ではどうしようもならないと言う瞬間が訪れます。
自分では自分の力ではできない、自分ではどうしょうもない、自分ではどうしようもありませんと言う思いが心底からでてきます。
このことにぶつかって初めて自分と言う殻から抜けるのだと思います。

見性は必ずしも坐禅や念仏や仏に手を合わせている時にだけおこるのではありません。
何気ない時、おそらくは自分を意識してない時、つまり自分を忘れた時、なんらかの音を切っ掛けにして起こるものです。
何故見性があるのか、自分なりには理解しているつもりですがそれを書くと書き過ぎになるかも知れません。

自分ではどうしようもなくなった時、はじめて仏に全てを預けよう、任せようと心底思うものです。
この時はじめて自分と言う縛りから放たれるのでしょう。
192たか:2007/01/29(月) 00:38:39 ID:etcCBoUV
もっとも、見性の瞬間は仏教の教えは勿論、仏など意識していないものです。
ただ、音と空気があっただけです。
193埼玉支店長:2007/01/30(火) 16:08:28 ID:3Zh1XX4A
オイラは女房の洗う食器のガチャガチャってぶつかる音。
194たか:2007/01/31(水) 01:28:14 ID:I7QahRKf
鳴っているものをそのまま受け取っている。
今生きていると言うことは、そう言うことなのだと気付く。
でも、これがなかなか解らない。 

自分以外のものだと思っていたら、実はそれがその瞬間の自分をつくっていた。
仏教で言う自他一体とはそ−言うものでしょう。

釈迦をはじめ、多くの先人は自分ではどうしようもなくなった。
如浄禅師にあう前の道元禅師、比叡山からおりてきた親鸞聖人、悟る直前の盤ケイ禅師、その他いろいろ。
きっと、せったん和尚もそうなのかも知れません。
 
195たか:2007/01/31(水) 01:50:57 ID:I7QahRKf
長谷川等伯という人の松林図という日本画の最高傑作といわれる屏風絵がある。
この絵、墨で数本の松が描かれているだけだ。
松以外は描かれていない。
なのに、多くの人を引き付ける。最も人気のある絵だという。
何故だろうか。
196埼玉支店長:2007/01/31(水) 09:44:31 ID:ocPjlHM4
そう、せったんに出会えて悟りという憑き物落ちた。
自縄自縛の縄ほどく、ほどけばもと仏。
悟ったんだー、というのも己を縛る縄。



どうです、たかさんもぼちぼち掲示板書き込み、しませんか?
19767:2007/02/07(水) 01:07:58 ID:2I8s28Ft
見性体験を重んじるのはきっと正しいと思います。
自分ではまだそれを実感できるまでではないですけど
ある出来事をきっかけにして
自分の考えや世界観のほうが幻想なんだって感じました
肉体や自我を本当の自分なんだと思いこむほうが不自然らしいです。
198埼玉支店長:2007/02/07(水) 11:51:15 ID:8IUACDY9
見性って偽りの自分に振り回されていたことに気が付いた程度のこと。
大層なこっちゃないですよ、ただ自分が本当の自分に気が付いただけのこと。
ま、解脱への道のやっとスタート地点、ってな具合ですか。
199たか:2007/02/08(木) 13:02:14 ID:C8BvqX2S
埼玉支店長さんの書かれているように、私達は見性と同じことを瞬時瞬時受けながら生きているに過ぎません。
県性体験を求めるのは、呼吸をしていながら空気を探していたり、水の中にいながら水を欲しがるようなものです。
ただ、これを体験しないといくら読んでも大乗経典の作者や名僧といわれる先人が何を伝えようとしたかが正しく理解できないでしょう。

支店長さんのいわれるように見性は仏教のスタートにすぎません。
捨てることにより見性を体験しますが逆に見性によって沸き起こってくる自我をさらに捨てなければなりません。
自分は仏に特別に認めたのかも知れないというような特別な思いが沸き起こってくるものです。
それを捨てるために大乗の経典や先人の残した教えが必要となります。
自分の見性体験とこれらの先人が残したものと照らし合わせながら新しく沸き起こった自我をさまし捨てていきます。
これを時間をかけながらすることで、生きているとはどういうことなのか、ものが存在するとはどういうことなのか、そして自分とは何かが解ってくるのです。

釈迦は死の前に、自灯明、法灯明を残しましたがこのことをいっているのでしょう。

見性を体験した人の中で先人の残した教えを学ばない人がいますが、ほとんど自己中心の間違った考え方です。
先人が命をかけて伝えようとしたことを曲解して自分勝手に解釈し正しいかのように伝えている人が多いのです。

私がここに書き始めたのも、この勝手な解釈があまりにひどいと感じたからです。
200たか:2007/02/08(木) 14:03:26 ID:C8BvqX2S
昔、天気の良い日に屋根にのぼって空に浮かんでいる雲を眺めていました。
風に吹かれて西から東へとゆっくりと移動していました。
ぽわっと浮かんでそのままの形で流れていると思っていましたが、よく見ると雲の先端部分など端の部分は雲が消えては現れ、現れては消えを目まぐるしくくり返しながら移動しているのが解ります。
当たり前のことですが雲は自分はこの形だなどと思って雲の形をつくっているわけではありません。
気流や風、気圧や温度、太陽の光など周りの環境、その状態によって形を変えて私達に見えるのでしょう。

以前書いたように水は鏡のように全てを映します。
それだけでなく法に従ってというか高いところから低いところに流れ、入れる器によってその形となり、寒くなれば凍り、暑くなれば蒸発して姿さえ無くしてしまいます。
空にのぼってはいつの間にか雲となり、冷えては雨となって落ちてくる。

修行僧を雲水といいますが、将に、お前達は、雲のごとく、水のごとし、といっている様です。
201埼玉支店長:2007/02/08(木) 14:35:47 ID:HeYnXQaW
そだね、呪縛から解き脱がれるための般若の智慧を手に入れたことで、自分がよけいに縛られてしまう。
はっきり言って漫才だね。
でもこれやっちまうんだよね、ていうかオレもやっちまっていた。
見性したんだ、偉いんだってなもんよ。

これを救ってくれたんが東山寺の住職、川上雪担老師。

それまで白隠の遠羅天釜(おらてがま)だったかな、夜船閑話にでていた長五と長六のはなし、解らなかったんだけど雪担に悟を奪われてはっきりわかるようになった。
悟りすら捨てなければいけないんだってことが。

兄の長五と長六、ともにいくばくかの金を道中で拾い道を違えたけど、数年たって弟の長六が兄の長五に出会うと兄は尊大、怖ろしいほどの大金持ちになっていた。
そこで弟長六は拾った金の量が違ったのか、あこぎな事で尊大になったのか、大泥棒にでもなったのかいぶかり、兄の長五におそるおそる質問をした。
すると兄は答えた、捨てることで尊大になったと。
弟のそれは金を盗人に盗まれんよう、金を持ってることを人に悟られぬよう、金を二重三重にくるみ後生大事腹に巻いて乞食の暮らしをしていた。
兄は捨てること、つまり薪を買いそれを売り儲け、次に塩を買い、次に油を買いと、金などに少しの価値もない事を知り、捨てることで尊大になったと・・・。

うん、たかさん大したもんだよあんた。
ネオちんもそうだけど、こういう人が世の中にいるってのはすんごく嬉しいこったね。

どう、ヤフー来な〜い?
これコピペして、むこう貼っていい?
202埼玉支店長:2007/02/08(木) 14:38:35 ID:HeYnXQaW
>>200

行雲流水・・・・だね。 
203たか:2007/02/13(火) 21:24:50 ID:czvhtg8l
67さん、
とにかくいったん心を生まれた瞬間に赤ん坊に戻すことが大切です。
それ以外のことをああだこうだと言っているうちは同じことの繰り返しで先人の言っていることは理解できないでしょう。
坐禅にしろ、念仏にしろ、私が言うようになにも考えず音に身を任せることにしろ、常に動き回っている心をとめて、前後裁断することが必要です。
とにかくやり続けることです。
そして壁にぶつかり、やっと自我を手放すことが出来ます。

般若心経の最後の部分ぎゃていぎゃていは、誰もができるのだからさぁやりましょう、と観音菩薩が大衆に呼び掛け励ましているのです。
だからこそこれを大乗では真言と言うのでしょう。
204たか:2007/02/14(水) 00:11:59 ID:PZStx5e0
埼玉支店長さんへ、
私はたいしたことは書いていないのでおはずかしい限りです。
でも何か使えるところがあるのなら自由に使って下さい。

私もほかの人が書いたもので気付かされたり、なるほどと感心したり、感動することは多いものです。
経典や先人の残したものはその人達がその時代に生き、自分が感じたものをそのまま伝えたいという思いから書れたものでしょうし、それを伝え残そうとした人達も同じ思いだったのでしょう。
以前書きましたが私は維摩経の一文で涙が止まらなくなったことがあります。
遥か昔の人が書き残したものが今生きている私を動かしている、本当に凄いことです。
松林図のことを少し書いたのもそのことを伝えてみたいと思っているからです。

支店長さんがヤフ−にせったん和尚の話をのせて自分を磨きながら、同時に多くの人に伝えようとしていることはすばらしいことだと思って読ませていただいています。
205埼玉支店長:2007/02/14(水) 14:59:09 ID:nTaMx3+C
たかさん、あーりがとー。



仏教オタクの枝葉末節談義に辟易、百万回ああでもないこうでもない言ってもまったく無意味で役立たず、見性一回するにしかずと思ってるんでやんすがね。
世の人たち、多く知ってるのが偉く、知れば知るほど仏教の完成に近づくとでも思ってるやからのなんと多いこと。
まったく逆だっつーのにね。
念仏・公案・只管打坐、いずれをとわず見性してもらわんとね。
オイラは打坐して見性、だからヤフー掲示板「只管打坐」
遊びに来てくださいね。
20667:2007/02/19(月) 01:25:04 ID:F5yaPODU
参考になります。
まさに心が健やかに働いてないと
寺院にいようと森にいようと、何の変わりもないといった感じですか
207たか:2007/02/20(火) 18:36:02 ID:4lBaymxK
67さん、
あなたの言っている、心が健やかに働いていないと、という意味がハッキリとは解りませんが、私の言いたいのは手を合わせている時だけは心をしずめてあれこれ考えずに手を合わせることだけしなさいと言うことです。
ですから、しようと思えばところ選ばずどこでもできるはずです。
寺にいても、森のなかでも、観音菩薩の仏像の前でも、日常の生活の中のどこでも同じでしょう。
その時聞こえる音に身を任せれはいいのです。たった30秒です。

古来より人は自然を音を身体で感じて生活してきました。
自然を受け入れて自然の恩恵を受けて自然と一つになって、つまり一体となって生きてきたのです。
禅ということだけでなく、多くの人達がいろんな形でこれを伝えようとしたのです。
それが日本の国宝、名作、最高傑作と言われ残っていいます。
208たか:2007/02/21(水) 15:55:39 ID:iL3Fketn
国宝に京都高山寺の明恵上人像があります。
寺の裏山の松の木の上で坐禅をしている上人の姿を没後いつも付き添っていた弟子が描いたものだと言われています。
うっそうと茂った松林の中、小鳥が飛び、イタチでしょうか動物も描かれていて、無精髭でしわの穏やかで優しいそのの顔が自然を憩い自然を愛したことを物語っている様です。
松林を吹き抜ける風を感じ、日の光を全身に受け、小鳥のさえずりや動物達の声を聞き、その時のそのの瞬間を身体全体で感じていたのでしょう。

明恵上人は仏道を求め、仏道を極めたいと、耳を切り取り、インドへの渡航を計画していたそうです。

そんな上人を付き添った弟子がどうしても描き残したかったのでしょう。
209たか:2007/02/21(水) 16:13:13 ID:iL3Fketn
高山寺には、鳥獣戯画と言う名作が残されています。
人間の仕種をウサギや蛙、猿などで書き表わしていて思わず笑ってしまいます。
この絵もすばらしいテクニックで描かれていますが、人間と動物などと言う垣根を飛び越えたところ、その発想に驚かされます。
210埼玉支店長:2007/02/22(木) 14:26:55 ID:BUdvam5k
鳥獣戯画っていえばたかさん、孫悟空のはなしだってにたようなもんじゃないかな。
猿は怒り、豚は貪り、河童は愚かさを表してお師匠は仏性を表している。
毎回出てくる妖怪=妄想煩悩を、この人心でどう克服してゆくか、ってね。
211たか:2007/02/22(木) 15:41:51 ID:Yc1BlYO2
高山寺は日本の茶の発祥地としてしられています。
栄西禅師が中国から持ち帰ったものを明恵上人が植えたが日本の茶の始まりとか。

茶と言えば千利休が茶道を大成したと言われています。
利休は生涯のうちで40程の茶室をつくったそうですが現存しているのはたった一つ晩年に作れられた国宝茶室待庵だけです。
小さい小屋のような小さい入り口のにじり口を体をかがめてはいると2畳の簡素な部屋があるだけです。
通常4畳半の茶室ですが利休はあえて半分以下の2畳にしたと言われています。
狭い茶室の中はむきだしの土壁、うす明かり簡素な茶室のなかで亭主の利休と招かれた客人は向い合います。
客人は狭いにじり口であらゆるものを脱ぎ捨てて飾らない部屋で素になる。
なにもないむき出しの部屋、薄明かりの中、素になって亭主と客人が心を通わす。
この相互の心ずかいが一身一体となって結ばれることを茶道の根本条件とし、一座建立と言うそうですが、この飾らない空間が将にその時のふたりをつくっていると言うことでしょう。
一期一会、まさに出会い、この瞬間を大切にする。
禅を学んだ利休が、空とはこれですよ、と示してる様です。

さぁ、その自我というがんじがらめの重い鎧を脱ぎ捨てて裸になりなさい、
それではまず、茶をどうぞ。
そういっている利休の声が聞こえてくるようです。
212たか:2007/02/23(金) 15:14:31 ID:pJasGEIV
埼玉支店長さんへ、
孫悟空の猿は納得できても何故豚と河童の組み合わせなのか小さいころから疑問でした。
なる程、三毒を表していたのですね。

戦国時代信長や秀吉のように権力をもった人達は自分の力を誇示しようとして狩野派に代表されるような力強く金ぴかできらびやかなものをつくらせて、俺とお前達は違うのだ、を見せつけている様です。
その時代にあって禅を学んだ利休はそれと全く対照的な価値観である侘びさびといわれる価値観を示しました。
仏教の教えは万人を平等にうるおすものであり、すべて人間は平等なものだ。
利休は茶道でそれを実践したのでしょう。

支店長さんは猿は怒りとかいていますが、このことを解らない秀吉という猿は怒り貪りい愚かさの三毒を合わせもった悲しい姿にきっと利休には見えたのでしょう。
213埼玉支店長:2007/02/24(土) 00:07:14 ID:mYH7Cyii
たかさんへ、

千利休も秀吉・信長も狩野派も、おれまったく知らないのね。ほんとうに無知で。
でもそのおかげで、とやかく言わず高いびきかける。
仏法でいえば自縄自縛の縄ほどく、ほどけばほとけって。
知ってるのただそんだけ。
214たか:2007/02/25(日) 17:33:52 ID:8Zm+LsG0
国宝になっている作品で雪舟の水墨画が6点で一番多いのだという。
学校の教科書に必ず載っており、テストにも必ず出題される名前だ。
雪舟等楊は室町時代の人で京の禅寺で水墨画を学んだが形にはまった当時の水墨画に飽き足らずに中国におよそ3年間渡ったらしい。
帰国後名作を描き始めた。
中国の厳しい大自然。その真っただ中の自分。
するどく大胆な描写と構成、筆さばきで写実を極めたともいわれており、墨の濃淡や筆さばきで力強くそして柔らかく描き見るものを圧倒する。
従来の想像で描く水墨画と違いその時その場面を見なければけして描けないものだそうだ。
破墨山水図、山水長巻、秋冬山水図、四季山水図、天橋立図。
215たか:2007/02/25(日) 17:51:51 ID:8Zm+LsG0
67さん、
多くの人が見性した後の気持ち、境地を聞くけれど、それをあれこれといっぱい言ったとしても、聞いてスッキリしたと言うものではないでしょう。
頭で考えてなっとくするなら、たいして苦労もないでしょう。
自分で心底感じてはじめて納得するものです。
216たか:2007/02/25(日) 18:27:53 ID:8Zm+LsG0
私は以前、雪舟は墨絵の絵師とだけ思っていました。
でも、雪舟の中には禅僧としての心が常にあったのですね。
先にあげた雪舟の代表作もその光景の真っただ中の自分です。
多くの人は雪舟の絵を見て、理由が解らなくても感動しますが、各自がその絵の真っただ中の自分を感じるのかも知れません。

217たか:2007/02/27(火) 22:50:12 ID:ICjtxhYg
雪舟の山水図はその絵の中に見ている人を引き入れる感じがしますが、山水画と全く違う名作として国宝慧可断臂図があります。
禅宗の歴史上最も劇的な場面を描いたものです。
壁に向かって坐禅をしている達磨に神光が切り落とした自分の左腕を差し出す場面です。

神光つまり慧可は儒教や道教などを学びますが自分に納得できません。
少林寺で坐禅をしている達磨に弟子入りを望みますが何度も断られ跳ね返されます。
隠しもっていた刀で左腕を切り落とし達磨に決意を示します。
雪舟の絵の中の左腕を差し出す神光の姿、表情は苦悶に満ちています。
何をどう学んでも自分に納得できない、安心できない。
神光の姿、表情は腕を切り落としたいたさだけでなく、自分で解決できない苦しみなのでしょう。
全てを投げ出して、どうぞ、お願いします。

一方、はるばる南インドから法を伝えようと中国に来た達磨は梁の武帝と会って問答するが、善功功徳をひけらかし仏教教理をひけらかす武帝に失望し、少林寺に籠ってしまう。
それから9年壁に向かって坐っていた達磨に自分の全てを投げ出したものが現れた。
その時達磨の眼がカッと開いた。
雪舟の達磨の姿は、その瞬間だ。

雪舟は禅僧として、達磨と神光のこの場面をこの表情を絵をもって表して、仏教が伝わるとは、法が伝わるとは、ということを示したかったのではないだろうか。

この後達磨の最初の弟子となり、慧可となった。
218名無しさん@3周年:2007/03/07(水) 00:47:31 ID:guj6DZLd
瞑想してても、思考や想念が止みません。
219名無しさん@3周年:2007/03/07(水) 01:28:04 ID:guj6DZLd
・・・そして段々頭がこくこくしてきます。だめですよね。

>見性とは自他一体、自分と他が分けられないものだと知る体験であり、他がそのまま自分に働いている体験と言えます。
この体験は持続されるものなのですか?見性すると。
220たか:2007/03/07(水) 21:17:17 ID:zM6jZ9gy
218さんへ、
心配ありません。みんなそんなもんです。
私は仏鈴が響いてるおよそ30秒間何も考えず音の響きにだけ身を任せなさいと言っています。
でもたったその30秒だけでもいろいろと浮かんでくるものです。
ましてやそれ以上となるとわたしにもできません。
まずは30秒仏鈴の音からはじめてみて下さい。
いろんなことが浮かんできても大丈夫、浮かんでは消え、浮かんでは消えをくり返してみることです。
音に関してもそうでして初めは仏鈴の音だけ聞こう聞こうとしますが、そのうち仏鈴の音とその他の音を分けるのではなく、その時聞こえている全ての音をそのまま受け入れるようになります。
仏鈴の音とその時たまたま聞こえる音とをわけて聞こうと言う心が消えてきます。
音や響きをそのまま受け入れるとはそのようなものです。
今響いているものを丸ごとそのまま。
阿弥陀経の音の世界や明恵上人図の小鳥や風の音はそのことを示している様です。

私の見性体験は自分の身体と仏鈴の響きが分けられないものだと身体で心で心底から知った体験です。

昨日もヤフ−で私はこのように知っていますのようなことを書いている人がいますが、本当に浅いです。

たった仏鈴の一音が普通言われる仏教だけでなく、ほかの全ての事にも通じることになるとは全く思いもよらないことでした。
道元禅師が正法眼蔵で万法に通じると書いてるのもよく解ります。

見性は自他一体、無分別を智るこのことを抜きにしてはあり得ません。
でもほとんどの人はこのことを言葉では分ったといって使っても、実は解っていないと感じます。

釈迦の自灯明、法灯明の自灯明はこの見性のことだといえます。
221あん:2007/03/07(水) 22:20:00 ID:guj6DZLd
ありがとうございます。

>音に関してもそうでして初めは仏鈴の音だけ聞こう聞こうとしますが、そのうち仏鈴
>の音とその他の音を分けるのではなく、その時聞こえている全ての音をそのまま受け
>入れるようになります。
前者と後者のその別れ際には一体何が起こっているのでしょうか?前者は自我があり、
後者が自我を捨てるということですよね。まさにこの瞬間、一体何が起こっているの
でしょう。それにすべての音をそのまま受け入れるとありますがこの言葉が私には全
く理解できません。「そのままをあるがままに受け入れる」という類はよく見かけるの
ですが何を言っているのかさっぱりです。体験しないとわからないのでしょうか。

>見性は自他一体、無分別を智るこのことを抜きにしてはあり得ません。
>でもほとんどの人はこのことを言葉では分ったといって使っても、
>実は解っていないと感じます。
他の箇所で「見性とは無心であり無分別を体感することです」とありましたが、
それなのに「でもほとんどの人はこのことを言葉では分ったと
いって使っても、実は解っていないと感じます。」と有心・分別があるように見えるの
ですが、これは私の自我のせいでしょうか。

たかさんのレスはすべて見させてもらいましたが、難しいです。ハイ・・・

222あん:2007/03/07(水) 22:44:31 ID:guj6DZLd
だいぶ前になりますが、
>実際は何もできない自分でありながらも他の人に何かしてあげたいと自然に沸き上が
>ってきます。
>この自然に沸き上がってくるものこれこそ慈悲であり、仏のはたらきとも言え、仏性
>ともいえます。
>まず自我を捨て、無心の状態で自然に沸き上がってくる優しさ、苦しんでいるものの
>苦しみを少しでもやわらげてあげたいと自然に起きてくる心、これが慈悲というもの
>でしょう。
「見性は自他一体、無分別を智る」ならば他の人に何かしてあげたいと思うもの
でしょうか。苦しんでいる人なんていないのに苦しみをやわらげたいと思うのは
自我があるからではないのでしょうか。それに他の人なんてのもいません。
むつかしいです。

すいません、質問ばかりで。
223たか:2007/03/08(木) 21:02:40 ID:Y1yrVbqK
あんさんへ、
わたしの言っているあるがままは、解ってしまえば何も難しいことではありません。
また音と一つになるも、自他一体も、その他私が書いていることも同様に解ってしまえば気付けば当たり前の事です。
ところが多くの人は一生懸命、言葉で、頭で考えようとする、理解しようとする。その方が速いとかってに思い込んでいる。
ところがそれは全く逆で、まずは言葉や知識で理解するのではなく、頭を働かせるのでもないと言うことを何度言っても解ろうとしないし実行しない。

比叡山で20年も、30年も修行し一切経を何度も読んでも解らないダメだ後は阿弥陀仏にすべて任せるしかないと言った法然上人や親鸞聖人、道元禅師も同様に知識を貯えてもどうしょうもないところで初めて経をよんだり仏教知識を積み重ねることでないことに気付く。
彼ら以外の高僧と言われる人達は皆同じで自分のもっていたものを捨ててはじめて悟りに至っていることは多くの文献で証明済みだ。
この捨てるということを実行しないと仏教は始まらないのだ。

やってみましたがどうにもこうにも私では解りません、すべてお任せします、と私も観音菩薩に言ったのを憶えています。見性体験前の事です。
224たか:2007/03/08(木) 21:11:17 ID:Y1yrVbqK
やってみたと言っても、私の場合、仏鈴を鳴らして、手を合わせてただけでしたが。
阿弥陀経をはじめて読んでちょうど2年でした。
225あん:2007/03/08(木) 21:25:18 ID:2WPn0+IF
ありがとうございます。
>ところが多くの人は一生懸命、言葉で、頭で考えようとする、理解しようとする。その方が速いとかってに思い込んでいる。
>ところがそれは全く逆で、まずは言葉や知識で理解するのではなく、頭を働かせるのでもないと言うことを何度言っても解ろうとしないし実行しない。

おっしゃるとおりですね。
たかさんは言葉でもって見性について語っていますがどうしてですか。
確かに頭で、論理で、知識で、文章で見性について書かれていれば、やはり
頭で、論理で、知識で、文章でわかろうとしてしまいます。悪循環ではないのですか。
たかさんが書かれているレスについてたかさんは何か意図があるのですか。
そしてレスを見る側にとって、意味があるのか、何か関係するのでしょうか。

また見性について対話することなぞできるのか・・・色々疑問が湧きます。
こんなこと捨てなきゃいけないのかもしれませんが。

226あん:2007/03/08(木) 22:05:28 ID:2WPn0+IF
>仏教は実践しかありません。
>なぜかというと、実践しながら自分の限界、言葉を代えると自我の限界を自分で体験し>なければ本当に自我を捨てることが出来ません。
>そしてはじめて仏や自然に身もこころもゆだねることが出来ます。
>そしてはじめて無心になるのでしょう。
>この自我の壁に触れないうちに仏教を解ったと思っている人がいますが、そういう人は>ほとんど自分の勝手な思い込みで仏教をまた先人の教えを解釈してしまうのです。

上のように自分の限界、自我の限界、自我の壁って結局、すべてに言い換えることが
可能ではないでしょうか。
つまり、恐らく、論理で、頭で理解しようとする人は、
>ところがそれは全く逆で、まずは言葉や知識で理解するのではなく、頭を働かせるので>もないと言うことを何度言っても解ろうとしないし実行しない。
これより、
何度言っても解ろうとしないし実行しないのは、限界・壁が来ていないからと
思います。というか解ることができないし、実行できないのではないか。
それは限界も壁もきていないから・・・。つまり、頭で論理で理解する
限界・壁が来なければ、解ることも実行することもできないと思いますが。

>やってみましたがどうにもこうにも私では解りません、すべてお任せします、と私も観>音菩薩に言ったのを憶えています。
もうどうしようもない、どうすればいいのか、もう限界だ、なんとかしてくれ
と手も足も出ない状態になったときになるまで、解ることも実行もできない。
死刑がきまった犯罪者が牢獄で悟ったというのを見かけましたが、こんな状態では
ないでしょうか。
227あん:2007/03/08(木) 23:03:14 ID:2WPn0+IF
たかさんのレスはいつもいらない、余計な言葉がそぎ落とされた構成に
なっていますね。”核心”をついた言葉というか、そんな印象です。
私も色々本を読んできて、知識といえないいらないものをたっぷり
頭に詰め込んできましたが、そろそろ、疲れてきました。
しかし、これはこれで誰もが通るものじゃないのかなあ
228たか:2007/03/09(金) 13:34:14 ID:uZurLKp0
何も考えないで仏鈴の音に身を任せること。
仏壇やお墓、仏像の前で手を合わせている時、ほとんどの人が亡くなった先祖や親、仏の姿など思い浮かべてるでしょう。
私も仏鈴を鳴らしながらできるだけ強くおもいうかべることがよいだろうとおもっていた。
観無量寿経、無量寿経などを読めば強く浄土を思い浮かべなさいと書いてある。
思い浮かべることが死者やほけのくようになるとおもっていたのです。

ある時テレビで老いた禅僧が、私は坐禅の最中何も考えない考えるのは余計だ、前後裁断、一時一時を大切にすると言うのを眼にした。
また法然上人の一枚起請文をめにした。
これは弟子のたっての希望で法然上人自らが死の2日まえに書いたもので、私の言っている念仏はインドや中国でしている頭に思い描く念仏つまり観想念仏でなくただただ阿弥陀仏の名を唱える念仏だという内容でそれを証明するために自分の両手形をおすと書いてある。

たった30秒だけならできるだろうと思ってこれを取り入れて、普段は別としても、手を合わせている間だけは何も考えないようにした。
たった30秒だけれどやってみれば、考えたり思い浮かべたりするよりずっと難しい。
229たか:2007/03/09(金) 14:54:01 ID:uZurLKp0
あんさんへ、
仏鈴の音と他の音とを分けないであるがままに受け入れる。
前から書いているように仏鈴の音に何か見つかるのではと思って仏鈴を鳴らしてたのですが、確かに静かな部屋の中だけで仏鈴の音に身を任せるならそれもよかったでしょう。
しかし、私は外で仏鈴を鳴らすことが多くて、外で鳴らしてその仏鈴の音にだけに身を任せることはむずかしいのです。
例えば、お寺の観音菩薩の前で仏鈴を鳴らしてそれに身を任せようとするけれど、鳴っている30秒の間にすぐ隣を車やバイクが通りすぎたりして、またほかのいろんな音が一緒に聞こえてきます。
最初はもう一回もう一回などとやっていたのですが、どうやっても他の音が一緒に混じってくるのです。
ある時から、どうしても混じってわけられないのならそれならそれで、仏鈴が響いてる間、仏鈴の音と一緒にほかの音もうけれる、そのとき聞こえる音全てに身を任せることにしたのです。

そのとき、その場所でしか聞こえない風の音や水の音、小鳥のさえずりや猫の泣き声、車の音や飛行機の飛ぶ音、赤ん坊の泣き声やおっさんの笑い声、みんなみんなその時、その場所、その瞬間の音ですよ。

頭の中だけで考えるとなぜか解らない、答えががでないことはおおいはず。
その現場、その場所に行って初めて解る、感じることも多いのです。

松尾芭蕉は中尊寺に行って俳句をふたつ読みましたが、芭蕉がその時その場所にいたから今に残る名句になったのでしょう。
230あん:2007/03/09(金) 16:02:13 ID:6ztRYxid
たかさん、レスありがとうございます
古池や蛙飛び込む水の音・・・これ芭蕉が悟った俳句ですよね?
音ですか・・・
>たった30秒だけならできるだろうと思ってこれを取り入れて、普段は別としても、手>を合わせている間だけは何も考えないようにした。
>たった30秒だけれどやってみれば、考えたり思い浮かべたりするよりずっと難しい。
30秒にしろ、思考・想念から離れることできません。思考と戦おうとすると思考に
とらわれてしまいますし、思考から離れてしまおうと任せてしまうと、また
想念が復活します。そして、その悪循環にとらわれることが多いですね。
>仏鈴の音と他の音とを分けないであるがままに受け入れる。
だからこれでもわかるように「あるがままに受け入れる」「身を任せる」・・・
こういった言葉は、「私が思考のとらわれにはまっているままの状態でいる」
というように、思考のとらわれでよいことを意味しているようにしか解釈できません。
未熟かもしれませんが。
正直、時計のちくたくの音に集中し、日常からの想念・雑念から離れようと
したこともありました。確かに、雑念からは離れることはできましたが、
音にとらわれてしまいました。すると瞑想中夜、静かな部屋で出るささいな音に反応
してしまいました。

>頭の中だけで考えるとなぜか解らない、答えががでないことはおおいはず。
疑問を持つ、悩む、どうするか解決しようとする・・・もしかしたら
これ自体がもうすでに思考のわなにはまっているのかもしれません。
231あん:2007/03/09(金) 16:04:58 ID:6ztRYxid
確かにたかさんの言おうとしていることはなんとなくわかります。
しかし、どこにでも解決しようとする自我が顔を出してくるんですねえ。
232たか:2007/03/09(金) 21:03:37 ID:uZurLKp0
あんさん、
気楽に、気楽にです。
自分でどうしょうでなく、気楽に気楽に。
233あん:2007/03/09(金) 23:10:51 ID:6ztRYxid
たかさんは、そんなことなかったのですか?
まあそんなにいつも気を張っているわけではないのですがね。
極論といいますか、つきつめれば同じ事で行き詰っている感じです。
解決する方法に問題があるわけではなく、解決しようとする意図に
問題があるといったところなのか。
234たか:2007/03/10(土) 17:41:00 ID:NzwCAubY
雪舟の国宝山水長巻のはじめの部分に石段を歩く老人が描かれています。
雪舟自身ではないかとも言われていますが作者雪舟自身がその光景を真のあたりにしなければとても描けないもの、写実を極めたものと言われています。
雪舟以前の空想、想像で書いた水墨画を一変させたそうです。
その場に行ってその光景を、心に映ったそのままを描く、人はそれに心を動かされます。
雪舟の写実の鋭さは、光景に包まれて安らぎを感じていながらも一瞬で全身を震わせる見性の時の響きの鋭い衝撃に似ているでしょうか。

芭蕉の悟り、蛙飛び込む水の音、は単なる音にみえますが芭蕉の中では鋭く響いていたのでしょう。
私は俳句に詳しくはないのですが、芭蕉はこの後作風が変わったと言われています。
名作奥の細道の旅は、旅の中で自分が感じる光景そのままを句で表したいという芭蕉の沸き立つ思いから始まったと言えそうです。
235たか:2007/03/10(土) 19:02:34 ID:NzwCAubY
見性は続くかと言う質問がありましたが、見性はわずかの間、一瞬の事です。
その体験を活かすも殺すもその後にかかっていると思います。
体験をした後、何もしなければ特異な体験をしたで終わるでしょう。
また支店長さんが言うようにその体験さえも捨てなければ見性に捕われた、間違った思い上がりの欠陥人間ができあがります。
法を正しく受け継ぐためには見性の後が大切です。
何度も書いていますが、見性のために不要、邪魔だった仏教の教えが逆に大切になります。
釈迦をはじめ、大乗の先人達が人生をかけて伝えてきた経典、語録、生きざまと、自分の見性体験を照らし合わせながら教えを深めると同時に見性で思い上がっているものを冷まし捨てなければなりません。
また同じく法則や世の中の流れなどとも照らし合わせてみなければならないでしょう。
そのようにすることによってしっかりと身につくのでしょう。
ただ私は今でも見性はよく憶えています。
236たか:2007/03/11(日) 10:50:19 ID:+q1I0/l6
私は今でも見性をよく憶えていますが、それはあらゆる意味で原点を観る、原点を智るからでしょう。
原点に戻って、原点を観て、原点を智って、それとあらゆるものとを照らし合わせて生きていく。
自灯明、法灯明とはそれだけのこと。

あんさんへ、
あんさんは苦しみなどなく苦しみなどないと書いていますが、現実に生きている中では苦しみの中で生きていると感じることは多い多いはずです。
私のそばに鬱病で苦しむ人がいました。
私達から見ればたわいもないちょっとしたことを切っ掛けにして、私達らからみたら遠く過ぎ去った解決済みと思えることに悔やみ苦しみ、まだ来てもいない遥か先の将来を不安がり、それを一日中くり返す、そしてそのようにしている自分が嫌になりいっそ死のうとまた苦しむ。
こんな自分をだれも解ってくれない、自分はひとりぼっち。
うつで苦しむ人は大体この様なものですが、そのような人に教えだと言って法を言葉で説いても縁起は正しいからなどとそれを説いても聞き入れないだけだけでなくかえって本人を苦しめるだけです。
話を聞いてあげてあなたはひとりぼっちじゃないんだから、大丈夫だからといって手をそっと握ってあげる。
過去と将来にふらふらぐらぐらしている心を今に落ち着かせる。
菩薩の慈悲とはまずはこんなところから始めるのでしょうか。

見性体験は元々は苦しみがない喜びですが、人は生きている中で苦しみの原因を多く蓄積させていきます。
それがある時ふきだす。
此れはだれもがなりうることですよ。
このよに生まれ生きると言うことは喜びだったのにいつの間にか苦しみが覆い尽くして生きる喜びが見えなくなってしまっている。
そのおおっているものを根元から一瞬で払い去って本来の自分に立ち返る。
これを般若の智慧、仏の智慧といい、立ち返って感じたものを観たものを見性と言うのです。
私の場合、仏鈴のたった一音、ひとつの響きです。
237あん:2007/03/11(日) 13:53:14 ID:XRB06drv
たかさん
よく仏教用語はわからなく、禅もお経も縁のないものでして、
(維摩経の解説書くらいは読んだことありますが)
>見性は続くかと言う質問がありましたが、見性はわずかの間、一瞬の事です。
そうだったんですね。大悟という言葉もありますね。

苦しみの重度とは結局、愛を感じれない度合いに応じるものだと思います。
物質的豊かさとかで図ることはできず、感受性に反応するものではないでしょうか。
私も何をしても(愛に)満たされる気持ちがないものでした。結局、愛を
感じることができない人間の一人です。その愛とは何もかも
相対的に出来上がったものであり、それに気づいてしまうと快楽を感じる
ことが極めて少なくなります。そんな相対的な愛(つまり快楽)に満たされない者が
絶対的至福を求めて、悟りだのなんだのと求めるものではないかな。
238たか:2007/03/11(日) 18:02:43 ID:+q1I0/l6
あんさんへ、
私が仏鈴の事を知りたかったのは仕事上の事がきつ掛けですので、相対的な愛や、絶対的な愛や、そういうものを求めたわけではありません。
でも、見性体験は無分別の体験、自分とほかの全てがしきりないものであると感じるものですからそういう意味では絶対的と言えるものかもしれませんが、私にはそのようにわける気持ちもありません。

仏教用語も禅もお経もあんさんとわたしは同じ程度でしょう。
見性と言う言葉も知らなくて知ったのは体験2ヶ月後の事で、自分のあの体験は何なのか、どう言うことなのか、を知ろうとしたなかでインターネットで初めて知ったのです。
その時インターネットを見てとても驚いたことは禅をはじめ仏教に関心をもっている人が多いことでした。
ただ私の体験したこと、その後学んだことと、インターネットのその中に書かれれいることに違いを感じていくつかのところに書き込みましたがそのひとつが坐禅と見性です。

私が最も好きな経典が維摩経です。この経典に出会ったのも見性体験2ヶ月後です。私も当然解説書です。
一休禅師は維摩経を13歳で読んで感動したと言うことをよんだことがあります。
在家の亡くなった人に戒名に居士とつけるのは維摩居士から来てるのかも知れません。
利休という名も居士名だそうです。
大乗の経典の作者は皆すばらしいですが、特に維摩経はその構成と内容がすばらしく、この名の知れない作者はとてつもなく凄い人だといつも思ってます。
まず、
読んでみて驚いたことは自分の体験と照らし合わせて読むと読む程にその内容が自分の中にそのまま入ってくるように感じたことです。
維摩経の中で維摩居士に文殊菩薩が菩薩の見舞いの心得をたずねる場面があります。
維摩居士のその見舞いの心得を読んだ時、涙が止まりませんでした。
まえにあげた鬱の人とはわたしの母親ですが、母にもっと違う接しかた、言葉ができなかったものかとずっと10年間胸に引っ掛かっていたのです。
母は最後に別れた10日後、風呂で事故で亡くなりましたが。
およそ2000年前に書かれたものが遠く離れた日本の今の私に感動させる凄さには言葉もありません。
239あん:2007/03/11(日) 20:02:34 ID:XRB06drv
たかさんへ
>私にはそのようにわける気持ちもありません。
それは見性した者のみぞしることではないでしょうか。私が言える立場ではないですが
分けるつもりはもちろん私もありません。

>仏教用語も禅もお経もあんさんとわたしは同じ程度でしょう。
まさか(笑)たかさんに学ばせてもらってます。ありがとうございます。

>一休禅師は維摩経を13歳で読んで感動したと言うことをよんだことがあります。
私は小説として維摩経が大好きです。いくつか解説書読みましたが、おもしろいですよね。
一時期、維摩詰に憧れを抱いた学生時代がよみがえります。
不二入門の文殊菩薩の答えに維摩の沈黙の切り替えしでの答えはかっこよかったです。
この時点で、悟った一休さんと悟ってない私の差が光と闇ぐらいのちがいが
わかってむなしいです。

>大乗の経典の作者は皆すばらしいですが、
>特に維摩経はその構成と内容がすばらしく、この名の知れない作者はとてつもなく凄い人だといつも思ってます。
維摩経の作者に携わった人は、覚醒した人であるとどの解説書にも書かれてて
その構成・出来映えには言葉がないとほめたおしだったのを覚えています。
大乗の経典では維摩経のみが物語り風になってて珍しいと書かれていた覚えもあります。

>まえにあげた鬱の人とはわたしの母親
お母さんのことだったんですね。失礼なことを言ってしまいました。
申し訳ありません。
お母さんのことはご冥福お祈りいたします。
240あん:2007/03/11(日) 20:18:39 ID:XRB06drv
しきりのたくさんある相対的世界には、しきりのないまま過ごす(過ごそうとする)ほうが
緊張を生み出すものだと思うなあ。それを感じる自我より・・・笑
241埼玉支店長:2007/03/12(月) 13:42:04 ID:y2soL6pz
いちいち物差しあてがって、良いの悪いの好きだの嫌いだの、そんなありもしないことに一日中神経すり減らし、それでも分別心があると言って半ノイローゼ状態になっている大人。
かたや善悪好憎ことさらなんも意識しないで自由気ままな生き方している二つか三つの子供。
どっちが緊張しいられてると思う?
そんなきれいさっぱり、スッカラカンの二つか三つのアンポンタンの時の、不苦不楽の心に戻る方法を教えているんだよ、仏教って。
そんな無分別の世界の入り口が見性。
242あん:2007/03/12(月) 16:16:24 ID:L8fHsfju
コピペだけど・・・
>焦らなくてもいずれそうなる
>生まれたものは死ぬことが決まっているように
>出来上がった既成概念はいづれ消える運命であるように
>迷いはいづれ悟る運命にある
243埼玉支店長:2007/03/12(月) 16:30:41 ID:y2soL6pz
問題はそれがいつかってことだわね。
今生か来世か、そのもっとずうっとあとかって・・・。
こんど生まれてきた時、人間って保証はないけど。
244あん:2007/03/12(月) 16:58:10 ID:L8fHsfju
そして消えればまたその既成概念は現れるよね。
245あん:2007/03/12(月) 17:09:52 ID:L8fHsfju
それは問題なの?問題でもなんでもないと思うけど
ただ消えた・・・それだけのこと
246たか:2007/03/13(火) 22:26:39 ID:8fnrWZ0K
埼玉支店長さん、毎日御苦労さまです。
元気ではち切れんばかりの笑顔の子は目がいきいき輝いていて見ているこちらまで元気を貰えそうです。
私はこんなに知ってるんだと言ってはそれを少しでも否定されると今度は人の揚げ足取り。
まずはスッカラからりん素っ裸になって出直してみな、スッキリするよと何度も言っているのにねぇ。
でも、きっと、努力が少しづつみんなの心にしみ込んでいってると思いますよ。
ずっとまえにせったん和尚と支店長さんのやり取りを見ていて私も書き込もうと思ったことがあったけれど、支店長さん、スパット自分を切り捨てることができたですね。
一度変なものが入り込んで人の心に住み込んでしまうとそれをその原因をひとつずつ取り去っていこうとしてもなかなかうまくいかないですね。
だからこそ般若の智慧が大切なのですが、手放すことが嫌だとだだをこねる人が多いですね。

247埼玉支店長:2007/03/14(水) 16:29:30 ID:Jr4rsMrf
>>245

病気を病気と気付いてもらえないうちは、いっくら名医であろうとも治しようが無いわね、あっはっは。
自分が苦痛にあえいでる病人であることに気付いてはじめて病院の門を叩くもの。
248埼玉支店長:2007/03/14(水) 16:37:08 ID:Jr4rsMrf
あら、たかさんにお恥ずかしいとこ見られてやした、ヒッヒッヒ。

ほんと、悟り持ってまわってアホでした。

今は手付かずの工夫、ライフワークになっておりやす。

いつ決着つくのかって・・・・・・それも余計もの。

仏法深遠なり、行深般若波羅蜜多。
249たか:2007/03/15(木) 00:04:52 ID:5XcZEGY0
あんさんへ、
私の見性体験を思い出しながらいつも思うことは、生まれた時はこのように感じたんだろうなぁということです。
見性の時のあの包まれたような安らぎやなんとも言えない喜びはおそらく生まれたばかりの赤ん坊はみんな感じてるのではないかなぁと思っています。
ですから、赤ん坊の産声を聞くと喜びの声に聞こえてきます。
オギャーオギャー、ウォ−ウォ−は、単に呼吸するだけの声でなく、命が回転し始め、体全体からかってに沸き上がる喜びの声です。
だから真っ赤になって全身を震わせて泣いています。

この喜びに包まれたものが相対愛だろうが絶対愛だろうがどうでもいいことで、ただただ嬉しぃ−、うれぴぃーよー、どうしょうもなくうれぴぃー、それだけなのではないでしょうか。
絶対だの、相対だのと難しく考えることなどないと思いますよ。

赤ん坊の形のしたすきまだらけの空っぽの入れ物に空気や光や音が飛び込んできて、人はこの世で動き始めたんです。
それ以外に何ものもないのに勝手に自分で基準をつくりだし付け加える。
ありのままに見るとはただそれだけなのに何かを付けないと満足しなくなってしまう
それをも一度始めに戻す、それが般若の智慧でしょう。
そして赤ん坊に戻った一瞬が見性。
ああだこうだ、余計な知識や言葉などあるわけないでしょう。

それにもうひとつ、
今解ることを今解らずにどうするんですか。
死んでから解ろう、わかればよいとでも言うんですか。
250名無しさん@3周年:2007/03/15(木) 02:04:12 ID:lTo8rvxQ
ううむ・・・もう少し”降りてきて”ほしいものでした。
名医ならなおさら。
その期待があったから書き込みしました。
(それにスレ名からもスレ違いでは
なさそうだったので・・・流れ違いだったのはあるかも)

しかし、
>自分でどうしょうでなく、気楽に気楽に。
>いつ決着つくのかって・・・・・・それも余計もの。
>ああだこうだ、余計な知識や言葉などあるわけないでしょう。
仏教は実践・・・そのとおりですよ。それなら疑問や、考え
をこのスレに書き込みしてません。降りてきてほしいものでした。

>今解ることを今解らずにどうするんですか。
私は解ろうとはしていないとは一応書いていませんよ。
解りたいですよ。

ではロムに戻ります。
251埼玉支店長:2007/03/15(木) 08:24:56 ID:2JaR40JH
>>250
自分で自分を知ることぐらい、近くて簡単なこと無いのにね、この近くて簡単なことがわからない。
そりゃ思いの及ばぬところを思いで、考えの及ばぬところを考えでつかもうとしてしまうから。
だから思ったり考えたりを重ねても無である自性をしることができない。
ただそうは言ってもそりゃ求めなきゃ得られないんです。
ただ一途に求めること、自分とはなんぞや、自性とはなんぞや、無ってなんだ、ってね。
あきらめなきゃ絶対えられます、ただひたすら求めること。
その時は必ず来ます、自分をぶち抜いてください。
252たか:2007/03/15(木) 21:26:54 ID:n69agZb0
あんさんへ、
何か考え違いをしているようですね。
降りてきてほしいと言うことですが私などあらゆる意味で人の上などに立ったことなどないので降りてこいと言われても。
私の書いているのを読めば解るとおり、難しい表現や言葉などありません。
難しく書きたくてもそんな知識もなくて精一杯書いてこんな程度です。

私の書いたものをどのくらいの人が読んでくれてこれからどれくらいの人に読んでもらえるか全く見当もつきませんが、一度でも読んでいただいたなら、もしそれが今は解らなくてもきっといつかは役に立つのではとの思いだけで書いています。
本屋に行けば般若心経の本を始めとして何十万部売れてますと書いてあって並んでいます。
でもその内容を見てみると、一見読みやすく解りやすく書いていてよさそうですが作者の自分勝手な解釈だけで、多くの先人が伝えようとした般若心経の空の心を伝えてるとはとても思えません。
テレビや雑誌や新聞の宣伝力、販売力でそれがさも正しい内容だといわんばかりで、読んだ人に間違った先入観を植え付けてしまい、法を、その精神をかえって遠ざけてしまいます。
そういうことへの危惧感から、音を切っ掛けにする悟り、空を書いて、それを求めている人の参考になればと思っているのですがね。

悟りは自分で自分を智ることで、そのためにはいったん自分を捨てるしかないと私は思っています。
それは釈迦以来多くの人が釈迦と同じようにすることで伝えられて来たことで、他人から教えられてそれで良いと言うものでなくて、自分の心で感じるしかないものです。
一見下らないように見える只に徹することがもっともよい方法だと私は思っていて皆さんに勧めるのです。

何の知識も経験もないのにかってに雪舟や利休や等伯、芭蕉を書くのもただただ空や悟りを伝えたいからにほかなりません

あんさん、いろんな人の話を聞くのもいいでしょう。
ただ、変に染まらないように。
仏法が遠くなりますよ。
253あん:2007/03/15(木) 22:35:57 ID:lTo8rvxQ
返答来てますね。
>>251 埼玉支店長さん
そうですね、そのとおりだと思います。
ひとつひとつが身にしみるお言葉ですね。

>>252 たかさん
>降りてきてほしいと言うことですが私などあらゆる意味で人の上などに立ったことなどないので降りてこいと言われても。
いや、そういう意味ではなくて、
>そりゃ思いの及ばぬところを思いで、考えの及ばぬところを考えでつかもうとしてしまうから。
>だから思ったり考えたりを重ねても無である自性をしることができない。
降りるとは方便でした。どうやら支店長さんのおっしゃるとおりだと感じます。

>あんさん、いろんな人の話を聞くのもいいでしょう。
>ただ、変に染まらないように。
どうもです。了解です。
254埼玉支店長:2007/03/19(月) 13:48:53 ID:Fj4b9+Tg
>>253
がむばってね、一途にもとめりゃいずれ歓喜しまっせ。
255たか:2007/03/20(火) 19:27:24 ID:Lj0sMunG
長谷川等伯の松林図のことを書こうとして利休を書き雪舟を調べてる中で、
芭蕉が笈の小文に、
 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫くものはひとつなり、
書いているのを知った。
西行は僧であり、宗祇も僧となり仏教を学び、先に書いたように雪舟や利休は禅を学んでいて、しかもそれぞれを大成した代表者だ。
芭蕉は、西行、宗祇、雪舟、利休という4人をあげて、その道を貫くものは一つなり、と言っているが、その貫くものとは何だろうか。
芭蕉のこの言葉には、この4人の貫いているものを私は理解し受け継いでいこうとする意志、そして受け継いでいるという自負心が感じられる。

また、逆に
 この道やゆく人なしに秋の暮れ
という句を死の一ヶ月前に読んでいて、この道を受け継いでいる人がいないと嘆いているように感じられる。

芭蕉がいう、貫くものとは、貫く一つとは何だろうか。
256埼玉支店長:2007/03/20(火) 19:35:31 ID:xTCuqNif
涅槃妙心
257たか:2007/03/20(火) 20:29:23 ID:Lj0sMunG
埼玉支店長さんへ、
人に何かを伝えようとすることは普通の事ですが、でも伝えたいことをそのままにというのは本当に本当に難しい。
あの道元禅師でさえも中国から帰ってきた時は多くの人に伝えられると思っていたでしょう。
でもなかなか難しかったように思います。
支店長さんのヤフ−もいろんな人が来てかき回し、苛立つこともあるでしょうが、根気よく伝えていくしかないでしょうね。
観音菩薩は蓮華をもっていますが、よく肥えたどろどろの泥だからこそきれいな蓮の華が咲くことを伝えようとしてるのでしょうから。
私はこのように知っているという人の多くは、本当は私のいっていることが正しいのでしょうかと問いかけているようにも見受けられます。
258埼玉支店長:2007/03/21(水) 09:31:34 ID:0SGLoq/w
まあ、わからずも良し、わかればなお良し、ってんでいいんじゃないかな。
観世音菩薩はいかなれば娑婆で遊ばれるか。
「知らーん」ってね。
為して為すことを知らず、語って語ることを憶えず。
菩薩の不可思議な禅定。



蓮の花は濁った泥の中にあっても穢れに染まることなく美しき花をひらく。
妄想煩悩の穢れの中にあっても穢れに染むことなき仏心を蓮はあらわす。
妙法蓮華経の五字は妙法の二字に帰し、妙法の二字は心の一字に帰すると白隠禅師。
仏性たる心は一切衆生のなかにあり。
直指人心、見性成仏。
259たか:2007/03/24(土) 19:47:56 ID:ppaZiYMg
芭蕉が先人に感じた、貫くもの、は何か。

晩年西行法師が平泉に行き秀ひらに東大寺の復興の協力願いから帰った後、十代の若き明恵上人に和歌について仏道について語ったと明恵上人伝記に記されている。
万物全て虚妄の相でありその万物を詠むつまり和歌を詠むことは真言を唱えることと同じであり如来の仏像を刻むのと同じだと言っている。

旅にでてその時その場所で感じるありのままをそのまま歌にする、それは西行法師にとって仏道であると言えるのだろう。
旅の中にその空間に身を投じることで初めて詠めるもの、それが西行法師にとって和歌であり仏道であり、和歌で空を表そうとしたように私には思える。

仏教を僧として経典などを伝えるのではなく、西行は和歌で、雪舟は絵で、利休は茶道茶室で、空を示した。
先人にそれを観て、自分は自分のやってきた俳句でと芭蕉は思ったのではないだろうか。
江戸深川にいて弟子達に俳句を教える生活、それだけでは我慢できない思い、それが奥の細道で書かれている漂泊の思いであって、芭蕉は旅の中でその時その場所を詠み、空や仏道を伝えたかった。
でもそれがなかなか弟子たちに伝わらない、そんな思いを感じていたのでは。
260たか:2007/03/24(土) 20:04:13 ID:ppaZiYMg
西行法師と会った秀ひらは砂金をすぐに送ったという。
私の故郷でも昔砂金をとったと聞いているので、もしかしたらそのひと粒が東大寺大仏に使われたかもなどとふと思った。
261埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:10:26 ID:0bht6Pmc
求道のひとへ。

東山寺住職、川上雪担和尚の坐禅について、只管打座あげときます。
どうそじっくり読んでみてください。
262埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:10:59 ID:0bht6Pmc

∽ 座禅について--只管打坐 ∽   

  
 只管とはただ、只管打坐ただうちすわる、まるっきりただということです、手つかず、自分が自分に手をつけない、心が心を見ることをしない、もとのまんまです、他にはないんです。だれだって足を組み、両手を膝の上において、目を半眼にして、せいせいとして、
「ただ坐っている。」
と云います。それがただにはならない、必ず手をつける、ぼんやりしている、眠くなる、そういう自分を見ている、影を眺める、かってな空想を追うなどです。
 只管打坐にはならない。
263埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:11:29 ID:0bht6Pmc
自分とはたった一つです、自分が自分を観察することは不可能なのに、なぜかしている。心はたった一つなのに、空想し、それを追う心があって、またそれをという二人三脚です、もとありえないのに、なぜかしている、心身症ノイロ−ゼのこれが原因です。
 人はあることには苦しまない、ないことに苦しむんです。
 石につまずいて生爪を剥がしても裁判沙汰にはならない、人が踏んずけると厄介ごとです。
264埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:22:20 ID:0bht6Pmc
まるっきりただの方法とは、元の木阿弥。
 無眼耳鼻舌身意、無色声香舌味触法です。
 無心ということです。心がないとは心がたった一つということ、心のすることを別の心が観察しないんです、もとそんなことがありえないことを知るんです。
 生まれたまんまに立ち返ってみる、元の木阿弥法です。
 そう簡単ではありません。
 
265埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:23:07 ID:0bht6Pmc
一にはただ坐ってはただにならないことを知る。けっかふざして精神修養などでは、なんにもならないことを知るんです。
 二にはそうと知ったら本来を求める、どうしたらほんとうになれるか。
 本来ほんとうになろうとするかぎり、ほんとうになれない。
 ほんとうになろうとしなければ、ほんとうは得られない。
 どうすればいいんですか。
 まったくの手付かず。
266埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:34:57 ID:0bht6Pmc
「まるっきりただ坐ってごらん。」
 と云うよりないんです、いいご機嫌で、とやこういいの悪いの、云わないで、そうそう、むちゃくちゃでいいんです、やってごらんなさい、そんなふうに云います。
 坐るほうは、ご機嫌にやっているうちに、どうなったああなった、妄想が出る、背中が痛い、いい気分だった、風景が見えた、仏さんがいた、いや女のあっこが見えた、だからどうだと云って来る。
「なりふりかまわず坐りなさい。」
 だからどうだってことない、まっしぐらです、自分を観察しない、結果を予測したってだめだってことです。
267埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:49:37 ID:0bht6Pmc
 人生というものがまさにそうなんでしょう、どう予測しようが、反省しようが、いったいどうなるかわからない。
 だから人生として面白いんです。
 観念がんじがらめに自分を縛る、閉塞社会そのものです、仏とは何か、ほとけはほどけだと云った人がいます。自縄自縛する縄をほどくんです、ほどき終わればもと仏。
 いいですか、そうやってむちゃくちゃわけのわからんというほどに坐っているんです、わけのわかる、清々と云ったほどに、手付かずただから遠いんです、わかりますか、よくよく解かって脱する、ほどけ終わるのを解脱と云います。 すると、いろいろあったりする。
268埼玉支店長:2007/03/27(火) 15:51:23 ID:0bht6Pmc
「コ−ンと鉦の音を聞いたとたん、ばかっとこう体ごとなくなって、しばらく動けなかった。」
「動けば動けたでしょう。」
「はい。」
 体をあるものと思い込んでいた、その自縛から抜け出たんです。
「電車に乗ろうとしたら、それが乗れないんです、停車の動きに併せてもっちが動く。」
「なに乗れますよ。」
「ええ。」
 自分と自分以外と思い込んでいた垣根がふうっと外れる。
「向こうに酒を飲んでいるやつがいた、見ているうちに自分もこうとっくり持って、− 」
 などいうのはなかなかに行けている。
「坐っていてどうしてだか地球とさ、一発やっちまった、大地と性交っていう、それがスペルマは出なかった。」
「汚いやつだ。」
「どうもあの。」
269埼玉支店長:2007/03/27(火) 16:20:20 ID:0bht6Pmc
自分および人類の観念知識から抜け出る。
 さまざまにあります。人間というものがいかに常識、社会通念など思い込みの虜になっているのかを知る、
  知って別にどうってことはないんです、歴史宗教イデオロギ−など、もと人間のかってに作り出したものです、作り出したものに人間が支配されることはないんです、出入り自由です。
 ついには自分というものがまったく失せるんです。
 自分という思い込みの殻を抜けるんです。
 体がなくなって風景と自分が一体化している、それを見つめている自分があったらだめです。
 いったんなくなるんです。

 忘我といいます。
 ほんとうに忘れ切って、そうして一念起こるんです。
「至りえ帰り来たって別事なし、柳は緑花は紅。」
 と、むかしの人も云っています。
 このときはじめて仏教としてものみな掌するんです。
 只管打坐の本来はここにあります。
270埼玉支店長:2007/03/27(火) 16:21:58 ID:0bht6Pmc
  只管打坐でなく、無字の公案とか眉間に意を置くとか、アルファ波の追求とか、いろいろあるんですが、なにかしら手段を取ると手段倒れです、
  悟ったと云いながら悟りというものを持ち、それによって人生をしきってもって、結局は生活そのものにならない。
 お釈迦さまにはなんの手段もなかったんです、あらゆる一切事において、仏だったんです。
 ちらとも手段を仮ると仏にならない、仏教という木偶に巣食う虫です。
 まるっきり手つかずの法しかないんです。
 なぜかといって、私たちの生活このありようがまるっきり手つかずに出来ているんです。

 悟りおわって悟りなし、廓然無聖がらっとこう個々別々なんです、ヒエラルキ−やカルト教団ではないんです、人みな知らん人になって下さい、花のように知らないって云うんです。
  そうして初めて人間も地球の仲間入り、いったん人間を卒業するんです。
 やさしいって云えば元の木阿弥、難しいって云えば、一句を持って来なさい、是は是、不是は不是。

271たか:2007/03/30(金) 22:02:59 ID:0p2fl853
埼玉支店長さん、
どうも、有り難うございます。

以前、音に何かあると考えていた時、アルファ波とか、F分の1とか、胎児の時の母体の心臓の音とか考えた。
でもそれは違っていたように思う。
生まれた時の初めて聞こえた音ともいえるし、今その時その瞬間のその音とも言える。
また、過去や先の事にとらわれている心を今に戻す音であり、一切の迷いを振払う仏門の入り口とも言え、喜びと感動の音だった。
自分と他のものとの仕切りがないということ。
音と一つになるとはこういうことなのか、と。
272埼玉支店長:2007/03/31(土) 08:31:19 ID:9cmbW+xf
自分っていうのは後天的にできあがったもの。
本来、人境は不可分のもの。
それを迷いの人たちには人境一如って示すんだけど、自分という砂上楼閣消えうせたあとには人も境もない。
不可分であるところのいわゆるさとりの世界が開かれてくる。
音と一つになるっていうのは、そんな自分という偽りの意識が引っ込んでいる、真実本来の心に立ち返った様をであるといえる。
自分という架空を除けば己も無ければ己で無いものもない。
音はたしかに本来の心のありようをあらためて示してくれる手がかりになるでしょうが、その心本来に立ち帰ったならば、音は言うまでも無く、すべての事柄において捉われをおこさず、無心を相続していくよう心がけなければならない。
それから肝心なのは、やはり坐禅をしなければならないということ。
おたがい頑張りましょう。
273神も仏も名無しさん:2007/04/08(日) 03:26:36 ID:XatAH+ta
age
274埼玉支店長:2007/04/10(火) 22:32:08 ID:lIkVfbqM
んだ。
275たか:2007/04/13(金) 17:01:16 ID:jCQrFwQz
パソコンが壊れて使えなくなって書き込みしませんでした。
また続きを書きますのでよろしく。

276埼玉支店長:2007/04/14(土) 20:36:41 ID:AjuWitbx
はーい、たのんまーっす。
277神も仏も名無しさん:2007/04/14(土) 20:41:16 ID:cytbXFqA
>座ったり立ったりする修行なんていうの?

ヒンズースクワットかな
278たか:2007/04/15(日) 16:47:17 ID:95La2pLY
俳句の続きをもう少し。
芭蕉に続いて有名な俳人といえば与謝蕪村でしょうか。
蕪村は芭蕉を慕って東北を旅し、各地を放浪し晩年京都に住んだといわれています。
蕪村の俳句は写実的だそうで、忘れられていた蕪村を明治の正岡子規が再評価したといわれています。
蕪村は俳句だけでなく絵も有名で、池大雅との競作の国宝十便十宜は自然の中で大自然に抱かれておおらかに生きる喜びを表している名作です。

子規も芭蕉を慕って仙台を訪れたそうで、蕪村を評価したように技巧によらず写実に徹することを訴えて俳句を流れを変え、今日の俳句の元を作ったといわれていて、俳句俳人という言葉も子規が使い始めたということです。
私が知っている子規のただ一つの句が、
 柿食えば鐘が鳴るなり法隆寺
柿を食っていたら鐘の音が響いた、あぁ法隆寺が、ということででしょうか?
この句を調べていたら、この鐘の音は法隆寺ではなく、実は興福寺だとか東大寺だとかいっている人がいます。
それを読んでいると、なんてつまらないことをがっかりします。
子規が旅館に着いてホッとしてくつろいで柿を食べてたら寺の鐘が聞こえてきた、ハッとして、法を観じたのでしょう。そのとき浮んだのが法隆寺、ということでしょう。
もしかしたらその鐘の音で日本の仏法の始まりであり、日本の祇園精舎ともいえる法隆寺としたのかもしれません。
柿を食ってくつろいでいたその瞬間、その空間、その一場面が鐘の響きとともに浮んできます。

誰もが知っているミレーの晩鐘、教会の鐘の音に仕事を休めて手を合わせている農夫の姿が描かれています。
この絵を見て多くの人が感動します。
古今東西をとわず、鐘の音は響きは心を今にその瞬間に戻す力がありそうです。
279たか:2007/04/15(日) 19:12:08 ID:95La2pLY
先週、新日曜美術館を見ていたら「日本の品格」の著作で数学者の藤原正彦氏がでていて日本画の福田平八郎氏の作品について語っていた。
平八郎の作品「瓦」「雪」「筍」「漣」など、見ていてなるほどと思うところがあった。
これらの作品そのものを単調にそのものだけを書いている。
例えば、「瓦」は雨が降り始めた瞬間の瓦だけを書いている。雨の降り始めの一瞬なのに瓦に落ちた雨の色使いでほんのわずかな時の流れを感じさせる。
「筍」は竹の傾きや節の位置、竹の色使いで遠近感やなに一つ同じ竹がないことを暗に示している。
「雪」や「漣」はその絵だけで雪や漣の絵だけれど、綿密に観察された大きなスケッチの中のほんの一部分であってその一部分の作品が無限の広がりを知らせてくれる。
平八郎氏についてわたしはまったく知識がなかったけれど鋭い観察と描写によってそのまま描かれれいるその作品がそれに描かれている一瞬の空間の場面にとどまらず、そこに描ききれなかった広がりを感じさせた。

また、藤原氏の話の中で興味深いものがあった。
短歌は音楽に似ていて、俳句は絵に似ているという話だ。
確かに短歌は感情などを込める場合いが多いが、俳句は感情をいれずにその場面をありのまま現しながらも読む人になるほどとうならせる所がある。
一場面をそのまま切り取っていながら、実は無限の広がりや空間を感じさせる。

私は音で法について空について書いているけれどこの話に近いところがある。
前から話しているように観音菩薩は一音から見性して宇宙のあらゆることを自由自在にすることができた菩薩だ。
まずは一音、一場面からどうかはじめてください。
280神も仏も名無しさん:2007/04/18(水) 00:58:51 ID:PKCOPHuj
281たか:2007/04/18(水) 18:35:24 ID:iUW516Rf
無心になるという。
心が無い状態、すべて捨て去って余計なもの、つまり邪心が無い空っぽの状態だ。
維摩経では維摩居士の空っぽの部屋で表されている。
何も無い維摩の病室に見舞いに来た一行は驚いてしまうが、特に舎利子は座る椅子さえも無いのかと・・・。
でもそれは無や空を教えるために維摩の計算されたことだった。
無、何も無いからこそなんでもいれられる。
空っぽだからこそ何にも邪魔されることが無い。
こんな小さい部屋なのに部屋よりも大きいと思っていたものまで自由自在に出し入れでき、しかも何にも差しさわりが無い。
大宇宙さえもこの小さい部屋に一瞬で入ってしまう。

邪心や屁理屈が少しでも残っていたら何も入らないだけでなく、迷い苦しみの中にいるだけでそこから抜け出せない。
仏教で無心をとくのは、人間生まれたときはまるっきりの空っぽなのだからもう一度その空っぽに戻しなさいということだ。
見えるものはもちろん、見えない風や匂い、気温さえ、自分を包んでいるすべてのものをそのまま受け入れる、自由自在とはそういうことだ。
私が言う一音もこのことで、この一音で仏法のすべてがわかってくる。
道元禅師が正法眼蔵で現成公案で説くのもこのことだ。
私は公案など要らないと思っているけれど、公案など全く知らなかったのに、見性の一音と照らし合わせることでほとんどの公案の示すことがよく解る。

すべてを捨てて、まずは一音から、だからこれだけをいっている。
282埼玉支店長:2007/04/19(木) 18:38:01 ID:dZHlCmlH
無いものは疵付かない。
283たか:2007/04/20(金) 15:34:27 ID:4b0ur+Xz
羅什が観世音菩薩、玄奘が観自在菩薩と使う前、観音菩薩を光世音菩薩とよんでいたという。
131で書いたように私はこの光世音菩薩という名を知ってなるほどと思った。
私の見性のときを思い出したからだ。

見性体験の前、近くのいくつかのお寺の前の観音菩薩や地蔵菩薩に仏鈴を鳴らして手を合わせていた。
私は手を合わせているときはいつも目を開いているけれど、いつものように鈴を鳴らして手を合わせていた時、一瞬、ほんの少し明るくなったのを覚えている。
そしてその直後仏鈴の一音が響いた。
この明るくなったのをことばでいいあらわすのはむずかしいけれど、強い光ではなく薄い膜が取れて少し明るく少しはっきり見えるような感じだったろうか。


光世音菩薩という名は光と世の中の音の菩薩ということだろう。だからなるほどと思えるし、はるか昔の人たちも同じように感じてそれを菩薩の名にしたのだろう。
前にも書いたが羅什が観世音菩薩としたのも観音経の内容から観世音としたのでなく、見性のときの世の中の衝撃的な一音を意識して般若心経であえて観世音としたと私は思っている。
あえて言うなら観世音は見性したすべての人たちに羅什から送られたそして手渡された名前なのかもしれない。

もうひとつ、以前、観音菩薩の頭部に仏があってそれは無量の光の仏である無量光寿つまり阿弥陀仏だと書いたけれど、それもこのこと光世音菩薩という名を考えると解りやすいと思う。
娑婆の世界に来れない阿弥陀仏に代わってあえて菩薩にとどまり自由自在に娑婆と極楽浄土を行き来でき、苦しみのものに手を差し伸べる、多くの人は名前の由来をよく解らなくても一番親しい仏と感じてるのでしょう。
284たか:2007/04/21(土) 21:12:41 ID:xCqpXv8k
前に座禅と見性に書いたことだけれど、脳のことについて少し。
ずーと前だがテレビを見てたら脳についての番組があった。
その番組の中でなるほどというところがあって。
普通大人の脳を調べてみると、例えば目で見ると脳の視覚の部分が反応し、耳で音を聞くと脳の聴覚の部分が激しく反応する。
同様に匂いでは臭覚の部分が、何かを食べれば味覚の部分が反応する。

ところが生まれて3ヶ月ぐらいまでの赤ん坊は音がなると脳の聴覚の部分だけでなく視覚の部分も臭覚の部分も味覚の部分も脳全体が激しく次々に反応するという。
これは見たり場合も匂いをかいだりした場合も同様に3ヶ月ぐらいまでは脳全体が反応するらしい。

せったん和尚の話でも書いてあったけれど、生まれたばかり3ヶ月ぐらいまでの赤ん坊は音を聞いて体全体で反応を現す。
脳と体は一体なのだから音が鳴ったとき脳だけでなく身体全体で反応するのでしょう。

私が音と一体となる、音と一つになる、まずは一音からというのはこのことをいうのです。
無心になったとき、心も身体も空っぽになったとき、耳で聞くなどというような状態ではなく、音を身体全体で受け留めているということになるのでしょう。
おそらく目も耳も鼻も口も無いと般若心経で教えています。
目を通してみて耳で聞いて鼻で匂いをかいでなどという自分という膜を通さずにそのまま受け入れる、これが自分の垣根の無い、本来取り巻くすべてと一体のものだったと思うのです。
自分と他の全てと分けることができないものだと知る、これを無分別智といいます。
それを智れば自分の周りのどんな小さいものでさえもいとしく大切に思えてくるのです。

見性のとき音と共に私が感じた光というより明るさはきっとこういうことだったのでしょう。
これを昔の人は光世音と呼んだのかもしません。
285たか:2007/04/22(日) 21:49:25 ID:sci1TdK1
生まれたときに空っぽで中に何も無かったところに、空気や光や音が一気にそのまま入って赤ん坊としてこの世に初めて成立します。
見性のときの、如来、つまり、来るが如しの光と音の感動はこの世に生まれたときの生きとし生けるものの感動に近いのでは。
仏教の知識を重ねて溜め込んで悟ろうとするのでなく、あらゆる一切を捨てて無になって、音と感動を身体全体で味わってください。
これが私の望むことです。
286たか:2007/04/22(日) 22:21:14 ID:sci1TdK1
生まれることも難しいが、平気で生きることもむずかしい。

数年前、百歳を超える永平寺の宮崎住職のNHK特集があった。
その中で正岡子規の一文を紹介していた。
子規は脊髄カリエスという難病で若くして晩年床にふしていた。
子規の「病床六尺」に次のように書いてあるという。
「私は悟りということを誤解していた。悟りという事はいかなる場合にも平気で死ぬことだと思っていたがそれは間違いで、悟りという事はいかなる場合も平気で生きることだった。」

287埼玉支店長:2007/04/23(月) 08:43:25 ID:K/HCmU7g
そう、世の中手を付けなければ空、つまるところ色即是空。
あれがいい、これが悪いって分別おこすからさまざまな世界ができあがる。
本来きれいもきたないもないのにね。
畢竟生も死もないざんす。
288たか:2007/04/26(木) 13:04:39 ID:8OycoDmY
如来、来るが如しとはうまく言ったもので見性のときの一音の実感だ。

多くの人は如来と聞くと、いぼいぼ頭の奈良の大仏や釈迦仏、阿弥陀仏、薬師仏などを思い描くだろう。
私は仏を見たとか仏に出会ったとか言う人がたまにいるけど、私は言う言葉もないなぁ。

正法眼蔵の仏性の終わりの部分に風火未散の説明で次のように書いてある。
 たとえば、一音の法を説く時節到来なり。
 説法の一音なる。到来の時節なり。
 法は一音なり。一音の法なるゆえに。

いろんな知識で如来を思い描くのではなく、鳴った音をそのままだ。これが来るが如しだ。
仏教知識など入れずに、ただ空っぽの中にそのまんま。
手を付けない、ありのまま、来るが如しとは如来とはそういうことだ。
289神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 13:57:20 ID:P7S7h5KB
突然ですが、テレビでは魂が死後もあり来世もあるように言っていますが本当にあるのでしょうか。
290神も仏も名無しさん:2007/04/28(土) 14:08:25 ID:UibAKDLX
>>289
知らねえよ。

でも俺はこのことだけは知っている。

「テレビは視聴率さえ取れればいい。」
291たか:2007/05/01(火) 14:05:34 ID:yrQU8jPX
私も290さんと同じでしょうか。
252で書いたようにテレビをはじめ書籍でも一時的な自分たちの解釈や理屈で仏教がこのように伝えているのだというようなことを散々言い放って間違った先入観を植えつけて平気です。

考えてみれば釈迦が悟る前からまた悟った後も繰り返しされたことです。
仏教以外のほとんど全ての宗教は魂は永遠ということが元になっているようで、その死後の魂が今生きている人たちに魂の好き勝手に働き影響を与えているようです。
釈迦は悟りを開いた後、魂や死後やらいせについて無記で通したと言われています。
自分の知っていることは説くが自分が出会ったことも無い死後や来世について勝手な想像をすることは独断に過ぎないと。
誰も見たことの無いことを勝手な想像で説くのではなく、今をそのまま感じ見つめて、そのまま受け入れる、そのことが本当に人を煩悩の闇から救うことができるのだといっているのでしょう。
自分の愛する人が亡くなって悲しみの時など、魂という言葉で、なくなった人たちが自分たちをやさしく見守ってくれてるといわれれば誰でもうれしいに違いはありませんが、でもそれは自分勝手によい解釈をしているだけなのでしょう。
釈迦をはじめとして名僧と言われる人たちがいますが、その名僧と言われる人の中に魂や死後の世界や来世を見たなどという人をしりません。
過去を見ても来世をみたなどと言い切る人は胡散臭いでしょう。
292たか:2007/05/01(火) 15:08:18 ID:yrQU8jPX
続き、
あれほど極楽浄土を説く法然上人にしろ、親鸞聖人にしろ、私は来世を見てきたなどという話は聞いたことがありません。
浄土往生を説きながらも逆に、法然上人は善導の念仏を信じて結果として騙されても、親鸞聖人は法然に騙されて浄土でなく地獄に落ちても仕方ないといってるくらいです。
今生きている自分の明日さえわからないのに、死んだ後など言い切れるものではないでしょう。
道元禅師は心と身体を一つにすることが心身脱落と言っているくらいで、身体なくして魂だけ永遠ということは無いのです。

全ては万物の働き、変化によってかたち創られているのであり、その常に変化していつことを、常で無い、つまり無常というのです。
仏教では万物は無常と教えてるのであり、何ゆえ、魂だけ常、永遠といえるでしょう
293たか:2007/05/01(火) 17:25:54 ID:yrQU8jPX
去年の8月だったかテレビで江守徹さんの質問に瀬戸内寂聴さんが、死んでも魂はあるのだというようなことを力説していましたね。
詳しく見てなかったからあまり覚えてもいないけど、魂を力説していたのには驚いたね。
その映像を見た江守氏はじめ出演者もその話に驚いた表情だったな。
誰だったか忘れたけど司会者が、「まぁ、いろんな考えがあっるのでしょうから」などといってとりあえず収めていたな。

死後魂があるとか、あなたの前世は何だとか言い切って、それを仏教の縁起とからませて今あなたがあるのは前世の何々のためだと平気で言い放つ。

よく心霊写真もテレビでよくやるけれどこれもどういうものだろう。
昔ある番組で、投稿された心霊写真のとられた場所に行ったり、その場面を再現して写真のシャッタースピードや照明の当て方などを調整すると驚くほど同じような心霊写真ができたのを覚えている。
不安を取り除くための番組だったんだろうけれど、きっとこれでは視聴率を取れないのでしょう。
それに出演者の本も売れないだろうからね。
294たか:2007/05/02(水) 16:54:04 ID:N8dZQ2mu
釈迦は自分が知ったこと以外のことつまり形而上学的なものは説かなかったという。これを無記というそうだ。

では何故、古い経典といわれるものに釈迦が一言も触れていない如来や菩薩などいっけん架空といえるようなものが大乗仏教にはでてくるのか?
そう言えば、経典を見れば、多くの如来は釈迦よりも優れているようにも読める。
釈迦が悟ったとき、阿弥陀如来や観音菩薩に出会ったなどという話があったりして、本当に大乗は仏教なのか、仏教として大乗は大丈夫なの、などといって笑われてしまいそうだ。
だから、原始仏教や釈迦の言葉だけが正しいなどといいきる先生までいるそうで。
こういう考えは本当に浅いなぁ、などとわたしは思ってしまうけれど。
道元禅師や法然上人、親鸞聖人が学者や知識人の話など信じるなといっているのが心に響くけれど、
でもそういう人たちが仏教をまずはじめに学生に教えてるんだろうから、先人の忠告はどうなってるんだろうね。
295たか:2007/05/03(木) 18:37:22 ID:F932R4xE
今日NHKBS11で五木寛之「21世紀仏教の旅(4)禅、混迷の時代を生きる中国フランス」が放送されていた。
フランスでも中国でも禅をする人が少しずつ増えてるらしい。

この番組の中国の禅の話はほとんどが禅宗中興の祖といわれ禅を革新したといわれる六祖慧能の禅の捉え方を伝えていた。
 菩提本樹無し
 明鏡も亦台に非ず
 本来無一物
 何処に塵埃を惹かん
慧能禅師については今までこれしか知らなかった。
番組を見ていてなるほどと思うところが多かった。
内容はここで私が伝えたいことと同じなので、この番組を参考にしながらそのうち書いてみたい。
慧能禅師の生き方は維摩に似ていると思った。

ところでこの番組の中で慧能禅師が始めて寺を開いたとか言う光州市の光孝寺という寺の修行、座禅の様子が映されていてあまりに日本の座禅の光景と違うのに驚いた。
進行役の五木氏も想像もしていなかったみたいで「こんな禅風景があるのか」といっておどろいていた。
私たちが考える坐禅の修行風景は永平寺などで行っている厳しそうなものだけれど、その寺では、僧が時間になって集まってきてゆったり足組んで、手を組むわけでもなく扇子や団扇を扇ぎながら瞑想している人もいるようでいながらそうでない人もいる不思議な坐禅風景だった。
背筋をピンと張って微動だにせずというような日本の坐禅ではなく、夏の夕べ路地に出した板台をに坐ってあぐらをかいてくつろいでいるようなそんな姿だった。
坐禅の終わりの合図も木魚を一音鳴らしただけのそっけないもので、そのあとはみんなばらばらに散っていく。
慧能禅師の残した言葉に、
 外相を離るるを禅と為し、
 内乱れざるを定と為す、
 外若し相に着せば、
 内心は即ち乱る。
つまり、外から見える形にとらわれないことが禅であり、心が乱れないことが定である、形にとらわれてしまうとたちまち心が乱れる。
形にこだわるなという禅のようで、まさにいろんな禅があるものだ。
296たか:2007/05/04(金) 15:01:52 ID:EynMzHv9
295の続き、
形にこだわるなという慧能禅師の言うことは解るが、この中国の坐禅風景のようなことで、はたして自己を捨て、本来の自分を心身ともに感じてそれに気づくことができるのかとても疑問だ。
古来より多くの人がそれを求めて修行をしてきたのであってそれでもなかなかできなかった。
たとえ経典や先人の残した語録を読んで頭で理解しても身体全体で震えるような感動を得ることができるかどうか。

一度見性し、大乗の経典と先人の残した語録および生き様を、自分の見性体験と照らし合わせていくならば、慧能禅師の形にとらわれないという意味がよく解るのだけれど、見性なくしては間違って理解してしまうと思う。
見性の後、生きていることが即ち仏性をうけとっていること、言葉を変えると、生きていることが仏性の現れだということがわかるのだが、見性がないとおそらくそれが解らないだろう。
画面に映った坐禅風景でその中からどのくらいの人が慧能禅師を本当に理解できてるのだろうか。
297たか:2007/05/04(金) 23:20:55 ID:EynMzHv9
慧能禅師は小さいときに父を亡くし貧しく薪を売っていたらしく、出家する前の20代の半ばに道端で金剛般若経を聞いて突然悟ったと言われている。
これを頓悟禅といわれていて、慧能禅師は、自分の中の仏性に気づけばよい、と言っている。
確かに、自分の中の仏性を智ることは、即ち、空を智ることだ。

この団扇を片手に坐禅していたこの広東省の広州市の光孝寺の僧はこの寺が六祖慧能の直系だと言っていた。
この寺で興味深かったのがもうひとつあった。
本殿の本尊、たぶん釈迦仏ではなく観音菩薩だと思われるが、その真上に大きな釣鐘があってそれを撞きながら僧が鐘声偈を歌う。
鐘声偈を歌いながら鐘が響くその真下で信者が本尊にひたすら礼拝していた。
 悟った自分すらない、
 悟りはあまねくすべてのものとともにあり、
 命あるもの全ての苦悩を取り払うために
この大鐘の体のしんまで届く響きと鐘声偈を心に刻みながらひたすら礼拝する。
298たか:2007/05/04(金) 23:57:44 ID:EynMzHv9
この寺の扇と団扇を使いながら坐禅をしている姿を思い返していて、そういえばと思い出すことがあった。
それは正法眼蔵の現成公案の最後の部分に、麻浴山宝徹禅師が扇子を使ってるときに僧が来て師に問うところがある。
私は何故扇子の話が突然でてくるのか不思議だったが、中国のこの坐禅の光景を思い返して謎が解けた気がする。
299(^ω^):2007/05/05(土) 22:33:44 ID:gjjJPs7F
(^ω^) 擦って勃って吸って・・・?
300たか:2007/05/06(日) 21:43:54 ID:yj4cY2yA
師いはく、なんぢただ風性常住をしれりとも、いまだところとしていたらずということなき道理をしらず、と。
301たか:2007/05/06(日) 23:16:01 ID:yj4cY2yA
きのうの早朝岩手の実家の墓参りに行ってきました。
朝6時前に日の光の中で鶯などの小鳥の声を聞きながらお墓にいつものように手を合わせていると寺の鐘が6回響きました。
実は、墓参りために実家に帰ったときに寺の鐘を聞きたいと年初から考えていて、298を書いた後深夜車をとばして早朝寺に着いたのです。

昨年末、実家から届いた小包の中に地元の新聞記事が入っていて実家の墓地のある寺に60数年ぶりに梵鐘がつけられたと書いてありました。
太平洋戦争のとき金属不足を補うため多くの寺から釣鐘が没収されましたがこの寺の鐘もそのときから無くなったのです。
この寺は源義経の家来の言い伝えが残っているほど古い寺です。
この小さな寺は檀家が少なく、実家も含めこの地域の多くの家はここから4・5キロ離れた曹洞宗の檀家ですが、葬式はこの寺で行うため私にとって寺と言えば真っ先にこの寺を思い出します。
小さいとき寺の前を通るたび鐘撞き堂はあるのに鐘がないのを寂しくかんじていました。

新聞の記事を読んで、私の父や祖父など先祖、また昔のここに住んでいた人たちが山に囲まれている寺の鐘の音を響きをどのように聞き、どのように感じていたのかを知りたくなったのです。
きのうの早朝、きのうの夕方、今朝、三度聞きましたが、それぞれ受ける印象が違うのは印象深いことです。
302たか:2007/05/09(水) 01:27:54 ID:FOeqw+8y
朝に墓の前ではじめて鐘の音を小鳥のさえずりとともに聞いた後、今度は鐘堂のすぐ近くで聞きたくなり夕方6時前に寺に行きました。
6時5分前、鐘を見てると機械の動く音とともに突然鐘が自動的に撞かれてなるほどこうなって時間が来れば鐘が打ち鳴らされるのかなどと思って音を聞いていました。
寺の前を川が流れていて子供のころ蛍が飛び交い川で釣りをしたことを思い出していると、鐘が鳴り終わってから2分後ぐらいでしょうか、山全体に響くように夕焼け小焼けのメロディがながれました。
 夕焼け小焼けで日が暮れて
 山のお寺の鐘が鳴る
 お手手繋いで皆帰ろう
 カラスと一緒に帰りましょう
この夕焼け小焼けはメロディを聞いただけで思わず口ずさみますが、寺の鐘と夕焼け小焼けのメロディは一つだったんですね。
 子供が帰った後からは
 まあるい大きなお月様
 小鳥が夢を見るころは
 空には大きな天の月
夕暮れが来て暗闇が包み込むときいつものように月が私たち万物を照らし出してくれている。
慧能禅師の直系といっていた光孝寺でいえばこの地域では夕焼け小焼けが光孝寺の鐘声偈といえるでしょうか。
寺の鐘と夕焼け小焼け、意識しなくてもいつの間にか心に刻まれているのでしょう。

川を渡って寺から300メートル位に実家があって次の朝に寝床で鐘の音を聞こうと思ったんですが、夕方鐘のすぐ近くで聞いた音がもう一つしっくりこなかったので、朝早起きして村社と言っている神社に登ってそこできくことにしました。
村社は川をはさんで寺から1・2キロ先の山の上にあります。
村社からは寺はもちろん小さな町全体が見えるのですが、行ってみると杉の木が伸びていて寺も町もよく見えなくてざんねんでした。
手を合わせながら待っているときのうと同じ時間に梵鐘が響いてきました。
この町の四方をを包む山にこだましながら響いている音には機械の音はなくて小鳥の声とともに聞きながらこの場所は最高だなぁとおもいました。
ここで一句、
 蓬莱の生い立つ若葉に古寺の鐘

帰路の途中、正岡子規の柿食えばの句も、鐘の音を聞いてこの鐘の音を聞いた昔の人たちに思いをめぐらしたのかもしれないなぁなどと思いました。
303たか:2007/05/09(水) 01:52:47 ID:FOeqw+8y
訂正、
空には大きな天の月、ではなく、空にはきらきら金の星、でした。
304たか:2007/05/09(水) 23:34:08 ID:FOeqw+8y
禅と瞑想について、
 菩提本樹無し
 明鏡も亦台に非ず
 本来無一物
 何処に塵埃を惹かん
と六祖慧能禅師が言っている様に、禅は自分を本来無一物の状態に近づけることが大切です。
ところが多くの人は瞑想、瞑想と言ってわけのわからないことをひたすら思って頭を働かせます。
いっけん瞑想のほうがカッコよさそうで早く悟れそうですがまったく逆です。
本来は無一物なのですから頭の中は、無、つまり空っぽなのです。
おそらく瞑想と言っているうちは見性しないでしょう。
今日の禅、座禅の流れを作ったのは慧能禅師だと言われていますが、頓悟禅、見性して即座に仏と成る、言葉を変えれば見性は釈迦と同じ体験をすることとと言えます。
瞑想は見性体験の後です。
このことが解らないと迷いの中でただむなしく座っているだけです。
305(^ω^):2007/05/11(金) 15:04:18 ID:o3Al57k+
勃ったのお吸ったり摺る就業〜
306たか:2007/05/12(土) 12:53:00 ID:t3gtsZMD
見性は釈迦と同じ体験をすると書きましたが、それは釈迦が説いたと伝えられている四諦、苦集滅道や十二縁起などを説く前の釈迦、つまり明星と一体だと気づいた時の釈迦と同じになると言うことです。
般若心経では、世の音を観て真理を体得した在家の信者である観音菩薩が、小乗仏教の代表である舎利子に対して、観音菩薩自身が釈迦と同じ体験をしてみたら小乗の言う四諦も十二縁起もあらゆる一切が無だったと言っているのです。
六祖慧能の言葉、体験で言えば「本来無一物」と言えます。
本々無かったのだからあれやこれやの理屈などなどありません。
理屈や教義を学んで塵埃を払って悟ろうとするのではなく、何よりもまず、無心になって、自分の中の仏性に気づくことが大切なのです。

釈迦は出家して六年間多くの苦行や瞑想を繰り返した。
ところがいっこうに納得できなかったのでしょう。
疲れ果ててどうしようもなくなって菩提樹の下で座っていた。
なにかの音をきっかけに明星の光が自分の口に飛び込んできたと感じたのでしょう。
きっと空っぽ、無心だったんです。

このようなことが294で書いた、釈迦が悟ったとき阿弥陀如来や観音菩薩に出会ったという話になったのかもしれません。
307たか:2007/05/12(土) 23:59:26 ID:t3gtsZMD
如来は将に来るが如しとの感じがします。
釈迦においては明星の光が来るが如し、私においては仏鈴の音が来るが如しでしょうか。
弘法大師空海においても釈迦と同じように明星が口の中に飛び込んできたとか言いますが、私にはよく解ります。
空海は多くの先人と同じように天才的な人で中国に渡っておよそ二年で密教を修得してトップになったと言われているけれど、それは室戸岬での見性体験があったからこそだと思う。

文字が読めない慧能禅師が単に金剛経を耳にしただけで悟ったと言うのは考えられなくて、おそらくこの前に何らかの見性体験があったのではないかなぁと私には思える。
だからこそ金剛経の一文で何かを感じ、五祖弘忍禅師に学びたいと思ったのだろう。
私が番組を見ていて一番驚いたのは実は慧能禅師の生き方だった。
功績は頓悟禅で優秀な弟子たちを育てて後の禅宗の道をつくっただけかと思っていたが、実はそれだけでなく、慧能禅師自らが民衆の中に入って行って貴族や金持ちだけでなく農民や町民に禅や仏教を広めたことだ。
そういう意味でも慧能禅師は禅を革命的に中国に定着させる基を築いたという。
308たか:2007/05/13(日) 10:40:47 ID:YxwMTgWR
見性したら悟りが完成したと思う人が多いだろうがそれはまったく間違った考え方で実際の見性を智らないからだと言える。
道元禅師の正法眼蔵、現成公案に次のように書いてある。
 身心に仏法が満ちあふれていない状態では仏法がすでに充足していると思うものだ。
 仏法がもし身心に充足すれば何かが足りていないと感じるものだ。

自分の体験は何なのか?
どういうことなのか?
それを知りたいと自然に沸きあがってくる。
だからこそ、見性の後、空海は中国に渡って密教を深く学びたいと思ったろうし、慧能禅師は金剛経を聞いて五祖弘忍禅師に教えを願ったのだろう。
先人に学びながら、しかも実際の生活に活かしそれを伝えていく、このことが最も大切なのでしょう。
309神も仏も名無しさん:2007/05/16(水) 13:35:13 ID:0OhV7n8s
 類稀な教えであると思い、実践し始めた次第です。
私には仏鈴がありませんので、路上の雑踏を聞きながら
30秒間、無心に手を合わせ目を閉じました。
どうか「たか」様、今後も書き込みを続けてください。
310たか:2007/05/16(水) 22:35:38 ID:S+mlFdKN
309さんへ、
何も考えないようにして、ただただ30秒、ゆっくりと鼻から息を吸いながら呼吸をして静かに手を合わせてください。
どこでやってもよいし、一日に何回しなければならないと言うこともありません。
だから人目を気にするならば、まずは自分の部屋でもよいし、個室のトイレの中でもよいし、自分の車の中で座席に座りながら始めてもかまいません。

私自身は今は仏鈴にこだわっているわけではありませんが、経験上、仏鈴を鳴らしてその音に響きに身をゆだねるようにした方がよいと言えるのでできるだけそのようにしてください。
仏鈴は口径7センチぐらいのもので3千円位のもでしょう。
自然に普通にきこえている音に身を任せるのだから仏鈴などなくてもよさそうですが、仏鈴があると仏鈴が鳴っている間その響きに身を任せることが容易になると思います。
また、気が向いたときにいつでも鳴らすことができるわけで大変便利です。
以前、寺の前にあるお地蔵さんに仏鈴を置かせてもらったとき、曹洞宗の若いお坊さんに「仏鈴は何のためにあるのですか?」と聞いたことがあります。
そのときそのお坊さんは「仏鈴の音は仏の声だと聞いています」と言っていたのを覚えています。
私が見性体験した少し後だったので、「なるほど」と思ったものです。

頭の中でばかり考えていては駄目なのですから、まずはとりあえず309さんの想ったとおりにやってみたらいいでしょう。

私はここで仏性や空についてできるだけわかりやすく書こうとしていますので、ここのはじめのほうからときどき読み返してください。
世の中に多くの本があり、解説書がありますが、難しいと言うか間違っていると言うか、最後まで読むと作者自身もよく解らないなどと書いてあったりして何のために読んだのか解らなくなるものが多いです。

先日の五木博之氏の番組で紹介された六祖慧能の仏教、禅の捉え方は私の考え方とおそらく同じですので、番組で紹介されてることを基にもう少し書いていきます。
長谷川等伯ほか書きたいことはまだまだありますので、309さんも実践しながら読んでください。
311309:2007/05/18(金) 06:24:44 ID:GNcGOuzL
 レスありがとうございます。
仏鈴、暇を見つけてぜひ買いに行きたいと思います。
質問ですが、たか様はこの「音を聞く」という事を
始められる以前に、何らかの瞑想、修行の経験はある
のでしょうか?
312たか:2007/05/19(土) 00:56:39 ID:rwASX66t
309さんへ、
私は瞑想も、修行もまったくしたことがありません。
前に書いたようにお経も般若心経を時々間違えながら暗唱できるぐらいで仏教的にはまったく無知でして関心も無かったのです。
だから、法然上人も親鸞聖人も道元禅師も名前以外まったく知らず関心もありませんでした。
そんな私ですから仏教を理解しようとか、修行や瞑想をしようとか考えたことも無く、ただただ仏鈴に何か意味があるのではないかと勝手に思いはじめたのです。
でも調べても、納得いくことが無くて、これもまた変に聞こえるでしょうが、鳴らしてたらそのうち解るかもしれないと思うようになったのです。
ですから、仏教の教えや修行からは遠いものでした。
でも今思えば大乗の空を理解する上では遠いようでかえって近かったのかもしれないですね。

般若心経は短い文ですがなかなか難しい内容で人によって立場によっていろんな解釈をされます。
般若心経のほとんどの解説書は空を縁起とからませて理解しようとします。
また、仏教は釈迦の教えであり、釈迦の教えのもっとも大切なものが四諦や十ニ縁起などですが、般若心経を理解しようとするときも、釈迦の教えが頭から離れない。
ところが般若心経を読んでみると、この釈迦の教えを無で示しており、自分の中の釈迦の教えと般若心経の内容とがまったく違うので解説者自身がどう理解してよいかわからず、ただただ無理やりむすびつけて解釈しようとしているように見えます。

般若心経は観音菩薩が空を体感した瞬間の状態を書いたものであり、釈迦が教えを説く前、教えを考える前を書いたものだと理解しなければなりません。
誤解を恐れずに言うと、観音菩薩は釈迦の教えを一つずつ無と言いながら、釈迦の教えにさえ拘るなと言っているのです。
般若心経にはこの文の前後があるらしく、観音菩薩の話を聞いた釈迦は「すばらしい」と言って絶賛します。

大乗の経典は釈迦をまねて修行をするなかで釈迦と同じ体験をした先人がその時代の人たちや後世の人のために自分たちの体験を書き残したものだと理解すべきですね。
313たか:2007/05/19(土) 18:14:26 ID:rwASX66t
修行と言われるものは世の中に数限りないほどありますね。
何年か前に、NHKで比叡山で若い修行僧がいろいろな修行をしているのを見たことがあります。
法華堂で五体投地、常行堂と言われるところでは阿弥陀仏のまわりを90日間念仏だけを唱えながら寝ないでぐるぐる歩く、千日行というものもあって何年間かかけて夜中の比叡の山を呪文を唱えながら歩く。
侍真といわれる修行僧がいて、最澄の霊はまだ生きていると言うことで浄土院といわれる最澄御廟を12年間一歩も出ないで最澄の霊を世話する修行もあるそうだ。
そのほかいろいろな修行があるのだろうけれど、経典を何度読んでも解らないしどんな修行をしてもわからないといって鎌倉仏教の祖師は今までの修行を捨てて比叡山から降りてきた。
そして民衆の中に入って言うことは、ただただ念仏、ただただ座禅、どこでやってもかまわないと言うだけだ。
考えてみたら当たり前のことで、多くの人ができそうもないことを続けたってそれは自分だけの満足ってものだろう。
大乗は誰もができるから大乗と言われるわけで、特殊な修行、苦行をしなければ悟れないのだなどというのは大乗仏教からかけ離れてしまいそうだ。
314309:2007/05/19(土) 19:21:44 ID:uxBW/3Mm
手を合わせて音を聞く行は仕事が終わってからやる
ようにしています。疲れていると雑念が比較的少ない
ので。何事に対してもすぐ効果・結果を求め、
思い通りにならないことをずっと気に病んで落ち込む
愚かな私ですが、今回は気長に無心に実行したいです。

悩み悩んでそれでも自分の愚かさや甘え、こだわりの
ために前に進めずにまた苦しんで、時間を浪費することの
悪循環、繰り返し。
やがて気が付くと、対象を手放しこだわりが消えており、
肥大しきった自我のほんの一部が崩れ気持ちがすこし
楽になっている。自我を手放せたら楽になるというこを
今頃になり身をもってわかりました。
そんな時、ちょうどこのスレを発見、内容に即座に共感
しました。このタイミングといい、何かのご縁でしょうか。
これからもたか様のカキコを楽しみにしています。
315たか:2007/05/20(日) 08:48:13 ID:275MJMbo
私の実家は曹洞宗の檀家ですが寺が離れていたためか座禅をしている人をこの目で見たことがありません。
周りの家もみんな曹洞宗の檀家ですが誰も座禅をしていないですね。
道元禅師は只管打座をいい、禅を中国から伝えたわけですが、しかし、おそらく禅宗の檀家の人はほとんど座禅をしたことがないのでは。
考えてみれば不思議なことだと思ったことがあります。

念仏もほとんど唱えたことは無かったのですが、亡くなった日から葬式の前の晩まで夕方親戚や近所の人たちが集まってきてみんなで念仏を唱えます。
百万遍とか言って寺から数珠のばかでかいのを借りてきてそれをみんなで持って少しずつ隣の人に渡しながら念仏を唱えるのですが子供のころそれをやっていると可笑しくてニヤニヤしながらしてたのを思い出します。
でも死者のために自分がしてあげることができて少しは役立っているのかと思うと子供ながらにもうれしく思いましたね。
それ以外に念仏を唱えるのは納骨のときや初盆のときお墓でみんなで唱えるだけでしょうか。
ですから念仏もほとんどしたことがありません。
大人になって曹洞宗では南無阿弥陀仏ではなく南無釈迦牟尼仏と唱えるのだと本で知って、驚いて、今までなんてことをしてたんだろうと思ったことがありました。
今となってはどっちでもいいことですが、昔は阿弥陀仏などという知識など無かったですね。

こんな人間が禅や念仏などと書いてるわけですからここを読む人にきっと怒られるかも知れないですね。
でもこんな私が仏鈴の音で見性したのですから、その体験が何か、どうしておきたのか、何を示しているのか、を知りたくなるのはかえって自然のことだったと言えます。
316たか:2007/05/20(日) 18:08:39 ID:275MJMbo
禅は達磨大師が中国に伝えたというより、達磨大師から始まったとも言われている。
それまでの仏教の多くの宗派は経典を学ぶことに重点を置いてたという。
達磨の教えは以心伝心、不立文字といって文字や言葉で表せない悟りの境地を静かに座る修行から得ようとするもので師から弟子に心から心へと直接伝えるものだった。
しかし、達磨の教えは大変難しく難解であり修行も厳しく、一般民衆に広まらなかったという。
おそらく五祖までは禅は、修行者のための禅もしくは高貴な人の禅という域にとどまっていたのだろう。

8世紀はじめ五祖弘忍禅師から法衣を受けて六祖になった慧能禅師は自分の体験から頓悟禅を説いたという。
頓悟禅は誰でも即座に悟れるという教えで、人にはもともと仏性が備わっていてそれに気づくことが悟りだと説いた。
 菩提本樹無し
 明鏡も亦台に非ず
 本来無一物
 何処に塵埃を惹かん
これは慧能禅師の禅の真髄の言葉で、
 知恵や悟りに必要なものなど無い、
 きれいな鏡や台もいらない、
 本来、無一物なのだ、
 ちりやほこりなどつきようが無い。
本来、人には煩悩など無く、自らの仏性に気づきさえすればよいというものだった。
達磨大師から受け継がれた禅のかたちを変えたという。
慧能禅師の登場で禅が一般民衆にいっきに受け入れられ広まったという。
317たか:2007/05/22(火) 23:09:08 ID:HGnWsuP6
慧能禅師は3歳の時に父を亡くし、母と二人で野菜や薪を売って貧しく生活していたといわれている。
そのため、字を書くことも読むこともできなかったといわれている。
五木寛之氏の番組では、六祖の慧能の登場で中国の禅に革命が起きたといっていた。
文盲の一人の農夫だった人間がどうして後世の人にそのように言われるのだろうか?

318309:2007/05/25(金) 03:56:17 ID:tsSK2Kw+
やっと仏鈴が届きました。手を合わせる事は
毎日していますがさすがにまだ何も変わりませんね。
ただ仏鈴が手に入ったことで一歩進んだ感じです。
319神も仏も名無しさん:2007/05/25(金) 04:48:52 ID:FV2mcOHm
>>318どんな方法でもいいと思いますが、あんまり結果を気にしないでください。


たかさん、すごいね、見性したとは、まあ気を付けてね。
320たか:2007/05/25(金) 21:30:13 ID:i7I+sDoT
309さん、
仏鈴を鳴らしたしたからといってそう簡単にはいきませんよ。
簡単でないのは何度か書いていますので読み直してください。
でもおそらく座禅や念仏、他の方法はそれ以上に難しいようにも私には思えます。
まあ人によるのでしょうけれど。

見性と同じことは、日々、いっとき一時体験しているわけですから、解ってしまえば見性したことはすごいことでも何でもありません。
わかっていない人が「きっとすごいことだろう」と思っているだけです。

慧能禅師は中国の禅に革命を起こしたと番組で言っていましたがそれをどのように伝えたらよいかといろいろ考えてみて勝手ながら番組の内容をそのまま伝えたほうが慧能禅師をそしてその禅を知るのに一番いいと思いました。
一言で言うとこの禅師の生き方、生きる姿勢がその後の多くの名僧といわれる禅師の禅の手本とも言えます。
321神も仏も名無しさん:2007/05/26(土) 08:41:03 ID:gfZCKPcV
自己中心にならなければいいだけです。





見性という言葉はつかうべきでは、ないよ。ご存知とは思いますが、見性は入門、その後が大変。
322たか:2007/05/26(土) 09:02:22 ID:QawEHz8h
テレビでは五木氏は有名な禅寺である広州市の光孝寺を訪れた後、慧能禅師が後半生を過ごした韶関(しょうかん)市を訪れます。
慧能禅師はこの町で農民に禅を教え広めます。
 修行しようと思うならば家にいても良い、寺に居らねばならぬということは無い。
 家にいても良く修行をするならば、ちょうど東の国にいて心がけの良い人のようなものだ。
 寺にいて修行をせねば西方にいて心がけの悪い人のようなものだ。
 心がけが清ければそのまま自己の本性という西方にいることになる。
 寺で座禅を組むだけが修行ではない。
 農作業や普段の暮らしもまた修行になりうる。
と説いたという。
また、自ら率先して農作業を行い、それも修行になりうることを示し、その姿を見た農民は慧能に惹かれたという。
六祖裁断図という絵があり、それは慧能が竹を切っている姿を描いたものだそうだ。
農民の中に入って教えを広めていったということだろう。

次に南華寺という慧能禅師の拠点とした寺が映された。
この寺は慧能禅師の真身像つまりミイラが祀られている。
この時代仏教は貴族たちのもので彼らの寄進によって成り立っていたという。
しかし慧能の優しくぜんを説く様になるとそのうわさを聞いてさまざまな階級の人がやって来るようになったという。
慧能禅師と農民との深いつながりを示す六祖買田碑があり、貧しい農民などがみんなでお金やものを出しあって慧能に田んぼを寄進したという碑だそうだ。
お金持ちや役人は多くのお金を寄進したが、貧しくてお金を出せない農民は例えばお碗一個、さじ二個寄進したという記録さえも石に刻まれていた。
お金は出せないけれど慧能を慕う農民が如何に多かったかがこの碑から感じられる。
五木氏は、農民たちの非常にわずかな寄進でさえも石碑に刻み込んで壁にきちんとはめ込んであるのを見て、慧能の禅の姿勢がこれなのかと改めて知ったという。
323たか:2007/05/26(土) 09:52:02 ID:QawEHz8h
慧能禅師の教えは町で働く商人にも広がっていったという。
その教えは、死んで来世で救われるよりもこの世で救われたいという人々の現世利益に答えるものだった。
慧能禅師は休むことなく出かけていって説法を重ねたという。
町の中心部に大鑑禅寺という小さな寺があり、この寺で後世に伝わる説法を行った。
その説法を弟子が書き残したものが六祖壇経である。
 正しい悟りの智慧は誰もが本来持っているのだ。
 ただ心の迷いを起こすために自覚することができないだけだ。
 愚者も知者も仏と成る本質にかわりはない。
 ただそれを見失うか気づくかという違いにより愚者と知者との別があるだけである。

誰もが悟りを得ることができる。けして特別なことではない。
慧能禅師の説く禅の教えは多くの人々の心を捉え中国の大地に深く根をおろしていった。
慧能禅師の教えが中国の風土にあった中国の禅として確立されたという。

悟りを得た慧能禅師は最後は民衆の中に入って手を差しのべる。
六祖慧能禅師のその姿は十牛図の入てん垂手(にゅうてんすいしゅ)を思わせるものだ。

慧能禅師が死を前にして書き残した偈、
 心地含種性
 法雨即花生
 頓悟花情己
 菩提果自成
心という土壌は仏性の種を含んでいる。
教えの雨を受けると智慧の花が開く。
即座にこの花の心を悟ってしまえば悟りの花は自ずから実る。

禅の悟りを解りやすく絵で示した十牛図は六祖慧能禅師の人生を絵で表してるようにも見える。

番組の内容をほとんどそののまま書いた。
見る機会があったらぜひ見たらいいでしょう。
324たか:2007/05/27(日) 22:09:34 ID:aAkAdFRH
慧能禅師は薪売りのとき道端で金剛経の、応に住するところ無くしてしかもその心を生ず、という言葉を聴いて悟ったと言われている。
応に住するところ無くしてしかもその心を生ず、とはどういうことだろうか?
まぁ考えてみることもたまには大切だ。

慧能はこの後五祖弘忍禅師のもとに向かったといわれているけれど、薪売りだけしていた無学ままの男がそのまま母を残して師をおとずれたとは考えづらい。
正法眼蔵の仏性に、五祖弘忍禅師と六祖慧能禅師が初めて会ったときの問答が道元禅師の解説で書いてあるけれど、到底無学でまったく仏教を知らない人があのような仏性についての問答をできるとは私には考えられないのだ。
おそらく師に出会う前に体験とそれに基づく仏教知識を得ていてそれを確かめに五祖のもとを訪ねたと思えてくる。
五祖弘忍禅師に会った後、慧能は出家僧ではなくただ寺で8ヶ月間米つきだけしてたという。
この米搗きだけしている慧能禅師の姿でさえ、もしかしたら港で足止めされた道元禅師に阿育王山の老典座の出会い、典座教訓に少なからず影響を与えてるかもしれないですね。
325たか:2007/05/27(日) 22:27:51 ID:aAkAdFRH
309さん、
仏鈴を鳴らし、ただ手を合わせるのは、観音菩薩を前にしていながら観音菩薩さえも意識しないということに似ています。
言っていることがなかなか解らないでしょうが、あせらずに続けることです。
帰宅した後だけでなく、仏鈴はなくとも気が向いたとき、時々何も考えず、心を整えてみることも大切でしょう。
326309:2007/05/28(月) 04:26:20 ID:MFnqUyWI
おはようございます。
行の難しさはひしひし感じていますね。
わずか、いや、30秒もの間ですと
「見性体験したい!」「悟りたい!」という
スケベ心は出ますし、それ以前に雑念で頭が
いっぱいです。
でも結果や成果を考えずにやっていますよ。

内的な感覚ゆえ、スポーツなどと違い、
たかさんに脳の中の状態を見てもらうわけにも行かず、
その辺がちょっともどかしいです。

今日もさっそく仕事前のチ〜ンを終えてのカキコです。
行ってきます。
327神も仏も名無しさん:2007/06/02(土) 18:40:44 ID:XbnZ1ea2
ありのままを観て、ありのままを聞くとは?
そして本来の自分とは?
328たか:2007/06/03(日) 12:44:09 ID:9tRoInLb
慧能禅師が禅を変えた、革新した基にあるのは幼少期からの貧しい暮らしの体験があったからと思えてきます。
貧しくて社会的に弱い農民や商人に自分の体験を基にして仏教の教えを解りやすく説き、彼らに少しでも安らぎと生きる希望を教えたかったのでしょう。
幼少期の環境だけを考えると、王族の息子として何不自由なく育った釈迦や達磨大師とは少し違ったものもあるかもしれないですね。
テレビでも言っていたように慧能禅師の時代も仏教は貴族や一部の出家僧のものでしかなかった。
これを庶民のもとに広めることができたのは頓悟禅といわれる見性体験があり、悉有仏性に気づくことができたればこそといえます。

でも過去を見ればこれはなにもこの時代の慧能禅師だけのことではないことが解ります。
例えばインドでは釈迦の死後四五百年たって小乗の上座部に対し大衆部つまり大乗仏教が生まれてきます。
このときも慧能禅師と同様に庶民の中から革新が始まったのかもしれません。
その代表が観世音菩薩や維摩居士のような人たちでしょうか。
この世のあらゆるものが空であり仏性なのだから貧富の差無くその教えを広め伝えたいと思えたのでしょう。
わが国でも平安時代から鎌倉時代に変わるとき法然上人や親鸞聖人や道元禅師、日蓮上人、一遍上人などによって貴族や僧だけの仏教から一般大衆、庶民の仏教に変革が始まります。
私が彼らの名を出すのは彼らの念仏や禅の教えがすばらしいからということだけではありません。
慧能禅師と同様に彼らの教えを説く姿勢、つまり生き様に感銘を受けるからでしょう。
自分の得たもので少しでも生きる希望を伝えたい、そういう姿勢、行動が大切なのでしょう。
329たか:2007/06/05(火) 21:23:22 ID:1AEounHw
ありのままに観て、ありのままに聞く。
これを智るには見性するしかないでしょう。
当然言葉でも伝えることはできるわけで、私が何度も書いてるように見性した後、先人が残したものを読んでなるほどと思うわけです。
ありのままとは、今在る自分以外のもの全てをそのままと言うしか言いようありません。
釈迦は苦行の後菩提樹の木下で明星を見て悟ったといわれています。
以前、水滴の中にあらゆるものが映し出されていると話したことがありますが、このときの釈迦がまさにこの水滴だったといえます。
釈迦という水滴の中に明星がそのまま入っていた、釈迦という水滴の中に明星がそのまま映っていたということです。
釈迦や空海が見性のとき明星が口の中に飛び込んできたといわれるのはこのことをいうのです。
このときの感動は大変なものですが、冷静になってよくよく見れば明星だけでなくそのほかの星星もそれだけでなくそのときのあらゆる一切がそのまま映っていたのです。
このときの釈迦には明星などの光だけでなくだけでなく、そのとき鳴っていた音もそのまま入っていたのでしょう。

仏教では不二一体を言います。
自分と他とを分けることができないといいます。
自分の中に他が入っていてそのときの自分を創っているのだから、当然自他一体という事です。

解るでしょうか。
330たか:2007/06/06(水) 00:10:40 ID:D8O+GStR
だから、科学者や知識人といわれるような人たちが言うような自分たちが後から得た知識を振りかざしては空または仏性を理解するのではないのです。
粒子や原子が結合して物ができて人ができて、だから、元々は無だったのだなどという解りきった理屈を言ってるのではないのです。
そんな事など科学者や知識人に言われずとも小学生以上なら、元々の脳タリンのわたくしなどわかりきっていたこと。
そんな事など解っていても救われないと思っている人が多いはずです。

この人たちのようにものを分析するするのではなく、逆に、あらゆるものと一体であるという身体の中からから湧き上がる感動から仏教は始まっているのです。
合唱コンクールでクラスのみんなと一つになったという感動、部活でチームのみんなと苦心しながらも目標を達成しようとしているときの一体感。
犬などのペットを飼っていても思いますが人も動物も同じで、相手と一つになったときに安らぎあったり、喜びがあり、感動があるものです。
恋愛も同じでしょう。
ただ、多くの場合、永遠の愛と思えていた異性との愛でさえ永遠とはいかない場合も多いもののようです。

見性の体験とは体験の後先人の教えを正しく理解すれば退くことが無い不退の一体感、喜びといえます。
331神も仏も名無しさん:2007/06/12(火) 07:05:15 ID:gAl/UR5C
一体感。
332309:2007/06/13(水) 18:20:50 ID:BRogQ5bf
暑くなってきましたが、順調にやってます。
見性云々抜きにしても手を合わせて30秒間、
をやった後は心が落ち着いていいですわ。
これからも励もう。
333たか:2007/06/13(水) 22:03:11 ID:bdxSoo9U
309さんへ、
手を合わせて30秒は、あまりに簡単なことですが、とにかく続けようと思わなければなかなか続けられません。
なぜなら、そんなことなどとくだらないときっと思ってしまうからでしょう。
でもね、多くの経典が教えとして残しているように自然の音や仏リンの音にわずかな時間でも身も心も任せると言うことを身につけていくと、見性は別としてもその人自身の心が落ち着いてくることでしょう。
前にも書いたように私自身は見性体験前はもちろんですが体験の後もしばらくは見性という言葉は知らなかったですね。
座禅は釈迦の悟りをまねた姿でしょうが、当人の釈迦は座禅をすれば悟れるのだなどと思って座ってはいなかったのでしょう。
なにも考えずに、目の前に見えるもの、在るものをそのまま、聞こえてる音、自分を包んで響いてる音そのまま、ほのかな香りもそのまま、髪を揺らし肌に触れて通り過ぎていくそよ風もそのまま、みんなみんなそのときのその瞬間の自分を創ってるんですよ。
マァ、そんなことさえ考えることなど邪魔といえば邪魔で、その邪魔さえ思わないことです。
なかなかできないものでしょうが、どうぞ気長に続けてください。
334たか:2007/06/16(土) 00:11:18 ID:Y2hS3L3C
国立新美術館でクロード・モネの大回顧展が開かれている。
印象派の巨匠として知られれ、「印象、日の出」という絵が印象派の語源になっているという。
この日の出をはじめ彼の絵は当時なかなか理解されなかったらしい。
現在モネは日本人の多くがもっとも好きな画家の一人であり、時の移り変わりに微妙に変化していく光景を光と色彩で描いているモネの絵は多くの人をひきつけている。
彼の絵の何がそんなに私たちをひきつけ、その絵に引き込むのだろう。

モネの絵はどれもすばらしいけれど、例えば、「散歩、日傘をさす女」という絵があって彼の愛すべき妻と子供が白い雲と青い空から降り注ぐまばゆいばかりの光に包まれるとともにさわやかな風が吹き抜ける瞬間を描いている。
光も風もその瞬間、そしてこの家族の安らかな瞬間、その瞬間をそのままありのまま、絵を観ている私たちがモネの目を通して心を通してみているといより、モネ自身になってこの愛する妻と子の光景に入り込んでいる。
「かささぎ」は白い雪の光景を描いている。
当時の画家はまったく描こうともしなかったこのような雪の光景を描くためにいくつものキャンパスを並べて時の移ろいの中で光と色彩が変化していくさまを描き分けていたと聞いたことがある。
季節はもちろん、そのときそのときのそのままを、その瞬間その瞬間のありのままを色彩と光をとおして映し出していく。
のどかな光景の絵の中にモネと一緒になってその変化をその光景を見つめている私たちがいるのでしょう。

少しはなしは変わりますが、見性の後、大乗の経典や正法眼蔵などを読むと、なるほどと思えるものです。
おそらくそのとき初めて作者と同じ視線でものをみることができた、捉えられることができたのでしょう。

何気なく見る絵でも、画家と同じ視線で見ることができたならなんてすばらしいことではないですか。
335たか:2007/06/18(月) 00:40:01 ID:BiU4S906
常に変化するさまを時々刻々とそのまま受けとめていく。
モネは「つみわら」「ポプラ並木」「ルーアン大聖堂」などの連作で季節や時刻で変化するさまを印象を光と色彩で描いた。
でもモネの作品といえばジヴェルニーの彼の庭と池の睡蓮の連作だろう。
晩年モネは庭と睡蓮の絵を200以上を描いた。
庭全体を描く絵からだんだんに池の睡蓮とその水面に刻々と変化していく光と色彩の変化を描くことに変わっていったようだ。
同じ自分の庭の池であるのに季節や時刻で光が移り変わるとともに睡蓮の花が咲き水面に映る、青空や白い雲、池の周りの木々や草花。
池の水や花の香りに小鳥や昆虫も集まってきて、きっと描いているモネの心も穏やかに和んでいたことでしょう。
まわりをそのまま映している蓮華の池をキャンバスに筆を走らせているとき、彼の心は無心だったのかも。
白内障で目が見えなくなっても、自分が見えるそのままに池を描き続けたようです。
彼の最高の大作といえるものがオランジュリー美術館の8枚の蓮華でしょう。
楕円形状に見る人を包み込むように描かれた蓮華の絵はその中にいる人を圧倒するといいます。
モネはこの絵を展示する条件として、絵の前に仕切りを立てない、公開は自分の死後にすること、と求めたそうです。
美術館を訪れてこの絵を見る人は、モネと同じ視線になって、もっと踏み込んで言うと池と一つになってほしいと望んだのかもしれません。
336神も仏も名無しさん:2007/06/27(水) 23:35:22 ID:Eh2XbzV6
自分一人だけよければ、ではうまくいかないなあ。
337たか:2007/06/29(金) 01:32:25 ID:F0mTeOzs
モネにしろ、雪舟にしろ、芭蕉にしろ、そのとき観たものをそのとき聴こえたものをそのとき感じたものをそのまま映しただけなのに時代を超えて多くの人に感動と感銘を伝えます。
仏教の教えを学ぶまでも無く、ものが存在している生きているということは、常に変化している周りとの係わり合いの中でなりたっているですが、それを忘れてしまい自分の都合に合わせて判断し結果的に自分を苦しめているのでしょう。
自分というものを捨てて、その時自分を包んでいるものに任せてみることが大切なのです。
多くの人は意識はしてないつもりでも、常に自分というものを中心において判断し行動をしていますがそれが周りと違ったり、周りについていけなくなったとき、苦しみや身体の変調が起こったりします。
うつ病などはその代表的なものでしょうか。

たった30秒だけでも自分を意識しない時間をつくってみる、それを繰り返していることがもっとも手っ取り早い解脱の方法と思いますが、如何でしょうか。
338たか:2007/07/01(日) 04:19:52 ID:eO5G1EYH
国宝に一遍上人絵伝、一遍聖絵ともいわれている12巻の絵巻がある。
時宗の開祖である一遍上人の姿を一遍に付き添っていた弟子によって没後およそ10年後に描かれた絵だという。
念仏、阿弥陀仏の名を唱えれば誰でも極楽往生できると説き、誰にでも往生決定の札を渡したという。
339たか:2007/07/05(木) 00:43:27 ID:cefs93YZ
夫れ、念佛の行者用心のこと、示すべき由承り候。
南無阿彌陀佛と申す外さらに用心もなく、此外に又示すべき安心もなし。
諸々の智者達の樣々に立てをかるる法要どもの侍るも、皆誘惑に對したる假初の要文なり。
されば念佛の行者は、かやうの事をも打ち捨てて念佛すべし。
むかし、空也上人へ、ある人、念佛はいかが申すべきやと問ひければ、「捨ててこそ」とばかりにて、なにとも仰せられずと、西行法師の「撰集抄」に載せられたり。
是れ誠に金言なり。
念佛の行者は智慧をも愚癡をも捨て、善惡の境界をも捨て、貴賤高下の道理をも捨て、地獄をおそるる心をも捨て、極樂を願ふ心をも捨て、又諸宗の悟をも捨て、一切の事を捨てて申す念佛こそ、彌陀超世の本願に尤もかなひ候へ。
かやうに打ちあげ打ちあげ唱ふれば、佛もなく我もなく、まして此内に兎角の道理もなし。善惡の境界、皆淨土なり。
外に求むべからず。厭ふべからず。
よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。
人ばかり超世の願に預るにあらず。
またかくの如く愚老が申す事も意得にくく候はば、意得にくきにまかせて、愚老が申す事をも打ち捨て、何ともかともあてがひはからずして、本願に任せて念佛し給ふべし。
念佛は安心して申すも、安心せずして申すも、他力超世の本願にたがふ事なし。
彌陀の本願には缺けたる事もなく、餘れる事もなし。
此外にさのみ何事をか用心して申すべき。ただ愚なる者の心に立ちかへりて念佛し給ふべし。
南無阿彌陀佛。

多くの先人がいるけれど、一遍上人ほど凄いといえる人はそうはいない。
多くの人に念仏を説き、往生決定の札を渡しながら、自分は一切を捨てることに徹している。
340たか:2007/07/08(日) 23:23:46 ID:jM5g93JC
自我を、全てを捨て去って初めて解ること、
浄土往生を人に懸命に説いていた法然にしろ、親鸞にしろ、一遍にしろ、最後に行き着いた先は今に生きることに帰ってくる。
親鸞はこれを還元回向といったのだ。
では何によって、何がきっかけで法、真理を智ることになったのか?

よろづ生きとし生けるもの、山河草木、吹く風、立つ浪の音までも、念佛ならずといふことなし。
一遍上人さえもが書き残すように一音だったのだろう。
何度もいっているように、般若心経の菩薩はまさに一音から悟ったのだ。

いつ買ったのか解らないけれど、ひろさちや氏の「般若心経の読み方」という本をめくってみたら、何故羅什が般若心経の菩薩を観音世菩薩と訳したか解らないと書いているけれど、多くの本を書いている学者でさえも、先人の伝えようとした空を解っていないといえる。
観音経の内容で観音菩薩を理解しょうとするために観音経に縛られて、自由自在ではないのだ。
悟りの一音は無分別の音であり、あらゆるものと一体であることを教える音だった。
音によって無分別、自他一如を智ることができたればこそ観音菩薩であり、自由自在の菩薩であり、空を智ることができたのだと般若心経は伝えようとしている。

このことが解らないと仏や阿弥陀仏を拝む対象物にしてしまいそこから抜けることができない。
多くの学者や僧侶は自他一体と言葉では言いながら他の宗教の神と同様自分とは違うもの、つまり崇拝する対象から抜け出せない。
341たか:2007/07/12(木) 01:17:23 ID:Sl1Rt9Ax
一遍は禅僧の法燈国師に参禅した。
一句目、
  となうれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏のの声ばかりして
二句目、
  となうれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだぶつ
一年後、
三句目、
  捨て果てて身はなきものとおもいしに寒さきぬれば風ぞ身にしむ

南無阿弥陀仏の声も響きも、寒さも風も今の自分。
342たか:2007/07/14(土) 23:20:54 ID:+VktQIdR
340の還元回向は環相回向の書き間違いです。訂正します。

来世の浄土往生を追い求め、行き着いた先、つまり悟りに至った世界は将に今この世界に生きるということだったということです。
阿弥陀経や無量寿経、観無量寿経に書かれている極楽浄土の鳥の声や小川の音などこれらは悟りを気づかせ、変な迷いに捉われずに今のこの世を迷いなく自由自在に生きなさいと大乗の先人は伝えたかったのでしょう。
阿弥陀仏の名を呼ぶことも阿弥陀仏を崇拝することではなく、自分を捨てきるために阿弥陀仏という音に全てをなげうってしまうことにより、音と一つになることなのです。
空也上人も、法然上人も、親鸞聖人も、一遍上人も、みんなこれをわかっていた、だから、極楽往生と説きながら、一方では自分など地獄に落ちてもかまわない、と言い切るのです。
だから観想ではなく、称名だけにしろ、称名に徹しなさいとただそれだけ言うのです。
前に何度も書いていますが観音菩薩の頭には阿弥陀仏がありますが、これこそ親鸞聖人が著書「教行信証」の冒頭で言うを往相回向、環相回向、つまり往環回向を仏像という形で示しているものです。
親鸞聖人はこの思想に気づいて世親菩薩と浄土教の祖師である曇鸞から一字ずつとり親鸞と名乗りました。
阿弥陀仏という称名や自然の音と一つになっていると気づいたときに初めて、先人の言う空も、仏性も、自他一体も、無分別も、無心も、身体全体で心底からわかると言うものです。
それを中途半端にし、経典に書いていることさえ理解すればよい、誰かが言っているからそれでよいのだなどと思っていてはだめだといえます。
自分で心底感じなさい。これが名僧と言われるほとんどの先人の伝えたいことなのです。

書店でこの本は何十万部売れていますなどと宣伝がありますが、このことを解っていないのでは間違いを広めてるようなものともいえます。
343たか:2007/07/16(月) 13:49:43 ID:ZfSzbMy4
地動説と天動説。
昔の人は天が動いてるとおもって天動説、今のほとんどの人は科学の知識で地動説で天動説などいったら馬鹿にされてしまう。
変な知識や自己に捉われると思い込みに固執する。
でも、仏教は昔からどちらでもない。
釈迦の時代から万物一切無常で常なるものなど何もないと説く。
自分勝手な基準を作ると自由自在でなくなる。
法華経だけが最高だとか、無量寿経が最高の教えだとか、そんなことに拘っていたのでは、大乗の教えからどんどん離れてしまう。
座禅も同じで座っていれば良いなどと思い込んでいる人がもしいたら自由自在の観自在菩薩に近づかない。
344神も仏も名無しさん:2007/07/17(火) 12:51:36 ID:OrEbCJIw
ならどうにもできないなぁ
345たか:2007/07/19(木) 14:01:02 ID:jU+lazaM
正法眼蔵、仏性。
おほよそ仏性の道理、あきらむる先達(センダチ)すくなし。
諸阿笈摩教(ショアギフマケウ)および経論師(キャウロンジ)のしるべきにあらず。
仏祖の児孫(ジソン)のみ単伝するなり。仏性の道理は、仏性は成仏よりさきに具足せるにあらず、成仏よりのちに具足するなり。
仏性かならず成仏と同参するなり。
この道理、よくよく参究功夫すべし。三二十年も功夫参学すべし。
十聖三賢のあきらむるところにあらず。
「衆生有仏性、衆生無仏性」と道取する、この道理なり。
成仏以来に具足する法なりと参学する正的(シャウテキ)なり。
かくのごとく学せざるは、仏法にあらざるべし。
かくのごとく学せずは、仏法あへて今日にいたるべからず。
もしこの道理あきらめざるには、成仏をあきらめず、見聞せざるなり。

仏性の道理というのは成仏、悟りが成就するより先に具わるものではなく、悟りを成就してから後に具わるのだ。
仏性、仏性のはたらきは成仏、悟りとともに具わるのだ。
仏性の道理とはこのことだ。
成仏とは悟りとは、仏性を悟るのであって、この道理を参究し、よくよく会得し修行に努めなければならない。

「衆生有仏性、衆生無仏性」というのは、この道理のことだ。
成仏してのち、悟ったのちに具わる法であると参学するのが正しい在り方だ。。
このように学ばなければ仏法ではない。
このように学ばなければ、仏法は今日に伝わっていないはずだ。
もしこの道理を明らかにしなければ、成仏を明らかにしていないし、経験していないのだ。

346たか:2007/07/21(土) 13:27:55 ID:NpqZWWD2
成仏とは、悟りとは、仏性を悟るのである。

正法眼蔵、仏性。
尊者曰、「汝欲見仏性、先須除我慢。」
(竜樹尊者「あなた方が仏性を見ようと思うならば、まず我慢を除くべきである。」)

見仏性、仏性を見る、つまり見性しょうとするなら、まず我慢を除くべきである。
我慢を除くために座禅をするのであって、座って足を組んでるだけならそれこそ座っているだけだ。
念仏も同じでただ、南無阿弥陀仏といっているだけなら口を動かしてるに過ぎない。
我慢を除くために座禅や念仏をするのであって、我慢を除いたときに、または、我慢を除いていただいた時に、仏性を知ることができるのだ。

慧能禅師がいわれたように、頓悟禅は
本来、人には煩悩など無く、自らの仏性に気づきさえすればよいというもので、将に、除我慢である。

見性すればわかるけれど、座っていようが座っていまいが、念仏していようが念仏していまいが、その時その時、一瞬一瞬が禅であり、仏性の現れであることに気づくのだ。
347神も仏も名無しさん:2007/07/21(土) 22:58:43 ID:csB5Bi1/
スクワットって書こうと思って、ウハウハしながらこのスレを開いたら、、、、。
348たか:2007/07/22(日) 19:04:00 ID:byLRdpuB
我慢。
 (仏)自分を偉いと思い、他人を軽んずること。高慢。

除我慢とは、自己を捨てる、自我を捨てる、つまり無我、無心のことだ。

竜樹尊者、竜樹菩薩は釈迦以降では最も有名な人で大乗仏教の教えをたどると宗派を問わずあらゆる宗派で必ず宗祖として名前が出てくる人で、
 「あなた方が仏性を見ようと思うならば、まず我慢を除くべきである。」
という竜樹の言葉をかみ締めなければならないだろう。

考えてみれば弘法大師空海も、法然も、親鸞も、道元も、一遍も、そのほか多くの名僧と言われる人たちも皆、仏性を知ろうとして20年30年と人生をかけたし、除我慢に苦労した。

前にも書いたように大乗仏教はあらゆる一切の存在の根本を説いたもので、だからこそ真理、真如といわれるのだ。
万物が存在するとはどういうことなのか、悉有仏性とはどういうことなのか、自分と思っているものは何なのか、それを自己の体験上に明らかにすることだ。
単に、仏を崇拝し、経典を拝み,宗祖を拝むということをいまさら批判するつもりはないけれど、もし釈迦や竜樹、宗祖の人たちに近づきたいなら自我を捨てることだろう。
あらゆる一切が仏性の現れだから、進化も、環境問題も、当然仏教に関連してくる。
道元禅師の「実相は諸法なりなり」を自己の体験上に明らかにすることにより、自ずと自然にも、環境にも、人にも優しくなれるのだ。
これが菩薩の生き方だといえるのでしょう。

音によってこれを智る。
最初の始まりがたった一つの音。
だからこそ多くの経典に音のことが書かれているのであり、それに気づいた菩薩として観世音菩薩の名で羅什は訳したのだ。
349309:2007/07/24(火) 00:29:59 ID:DQCcgg+T
コツコツやってます。
あれ以来進歩したのかしてないのかわかりませんが、
ただ習慣化したのは事実。
お寺の多い地区を仕事で回るようになって
リンの代わりにお寺の鐘の「ゴ〜〜ン」に
合わせてやってます。
ある意味便利というか・・・これも何かの縁かな。
350たか:2007/07/25(水) 01:24:33 ID:PEzZ5vIH
309さんへ、
先ずは続けることが大切です。
続けることで自分では解らなくても少しずつ進んでいるものです。
人から見ればそんなことなどと思われそうですが、最も単純で最も速いやり方だと私は思っています。
だからこそ阿弥陀経には音の世界を書いているのだと理解してます。
さきにもかきましたが、大乗経典には必ず釈迦が登場し釈迦がこのように話したと書いてありますが、実際の釈迦が大乗経典の内容と同じことを話したわけではありません。
釈迦に近づこうとして実践し、釈迦と同じ体験をした先人が、その時代の人や後世の人達、特に一般大衆を法に導くためにかかれたもの、つまり一般大衆を法に導くための方便だと考えるべきでしょう。
ですから、経典をいくら唱えたり拝んだりしても仏法は身につかないでしょう。
こつこつながらも、己を捨てる、自然に身を任せる実践が大切なのでしょう。

道元禅師の『随聞記』には次のようなことが書かれているそうです。
道元が古人の語録を一生懸命読んでいたところ先輩の僧がやってきて、
 私に問うていう。古人の語録をみて何の用にするのか。
 答えていう。古人の行動を知りたいためである。
 僧がいう。何のためか。
 私はそれに答えていう。故郷にかえって人々を教化するためである。
 僧がいう。何のためか。
 私は利生のためであると答えると、僧はさらに、畢竟して何の為であるかと問うのである

経典の文字や知識を追い、それに捉われるのでなく、実践して法を自分のものとすることだと言いたかったのでははないでしょうか。
351たか:2007/07/25(水) 01:35:11 ID:PEzZ5vIH
実践して法を自分のものにすることが大切だと僧は言いたかったのでは、に訂正。
352神も仏も名無しさん:2007/07/25(水) 06:00:41 ID:iPrxv8y6
たかさんて坐禅と見性スレにいた?
353たか:2007/07/26(木) 02:08:13 ID:nOlY/ZKI
352さんへ、
ここをはじめから読んでいただければ書いているので解りますが、いつ頃だったでしょうか、坐禅と見性スレに何度か書き込みしたことがあります。
ここに何の度も書いていますが、私はそもそも仏教の真理や空や仏性やそのほか仏教の教えが知りたかったのではありません。
ただ単に、仏鈴が仏壇に何故あるのか、逆にお墓に何故ないのか、仏鈴が必要なものなのか知りたかったのが始まりです。
でも私の調べた限り解らなかったですね。
たまたまネットで調べていたら鈴という言葉で阿弥陀経を知ったのです。
そこには自然の音がことが描かれていて音に何かあるのかもと思い始めたのがここに至る始まりでしょうか。
解らないならとりあえず鳴らしていれば何かあるのかも、まあそんなところだったのです。

多くの大乗経典を訳し、中国や日本の仏教を方向ずけたといえる羅什が王の求めで最初に薦めたのが阿弥陀経といわれています。
釈迦や竜樹を敬った羅什が釈迦のまったく言っていない来世や極楽浄土を描く阿弥陀経を王に何故に薦めたのか疑問だったときもありましたが、今はそういう疑問も解決済みだといえます。

道元、法然、親鸞、一遍、他、まぁいろいろ勝手に書きますが、この人達のこともはじめはまったく知らなかったですね。
大体見性などという言葉など聴いたこともなく、初めて目にしたのが見性体験およそ2ヵ月後だったでしょうか。

道元禅師は自分たちを何々宗とはしなかったそうですが、解ってしまえばそんなことなどどうでもいいことです。
先ずは自己を捨てることが必要でそのために仏を借ります。
よく仏の家に身を投げ入れるとか言いますが、南無阿弥陀仏も、南無観世音菩薩もこの投げ入れることが大切なのです。
354たか:2007/07/26(木) 02:46:41 ID:nOlY/ZKI
時々、禅という字は単を示すということだ、と目にします。
そうではなくて、単を示される、が正しいでしょう。
だから道元禅師は、
 仏道を習うというは、自己を習うなり。
 自己を習うというは、自己をわするるなり。
 自己をわするるというは、万法に証せらるるなり。

万法に証せらるるなり、是非、万法を感じてください。
355たか:2007/07/27(金) 02:52:08 ID:IT8Hg8zp
実相は諸法なり。(あるがままのすがたは諸法である。)

これは釈迦も、竜樹も、羅什も、慧能も、道元も、そのほか覚者といわれる方たちに貫かれた考えです。
大衆を大乗仏教に導いた名の知れない先人には凄い人がいて、この苦しい現世で来世に心が向いている人や死後がどうなるか不安がる人を浄土に導き安心を与えながら、究極的には「実相は諸法なり」に導きます。
多くの宗教指導者や宗教学者にはこのことがわからない人が多いのでしょう。
文字や文章だけを追っているとそれに捉われて先人が伝えようとしたことに気づかなく、仏教を変な方向で捉えてしまいます。

356たか:2007/07/29(日) 19:35:33 ID:FJkf9ob3
309さんへ、
私が座禅と見性に書き込みしてたのはせったん和尚が書き込みしたおよそ半年、一年前からくらいで、ほかも見ることはありますが、今はここ以外はずーと書き込みしていません。
唯一したのが埼玉支店長さんのところです。あそこも突然やめてしまいましたが、続けることを願っていたのに残念です。

ほかのところを読んでいると、私や支店長さんと同様に音で何かを感じたと書いている人がいますが、そのほとんどの人が仏教を間違って理解しています。
自分を特別のとしてみることに陥っています。
大乗仏教の見性、仏性を見るとは、無分別を身体で知る体験なのです。
だからこそ自然に身体の心底から慈悲の心が生まれ、苦しんでいる人の手をとって、私がそばにいるから大丈夫と言うのです。
この無分別を智り、自他一如が解らずに、俺は悟ったなどとはいえません。
だから、見性後、自分の体験が本当に正しかったのかどうか、改めて経典や先人の残したものと照らし合わせることが大切なのです。

357神も仏も名無しさん:2007/07/31(火) 23:48:29 ID:x4vp470D
ステップ体操
358神も仏も名無しさん:2007/08/01(水) 00:49:13 ID:a6T5ugHC
ちげぇよ。
スクワットだよ。
腰が強くなるからセックス上手くなるらしいぞ。
359神も仏も名無しさん:2007/08/03(金) 01:30:22 ID:nSf20GXO
広島カープの応援
360神も仏も名無しさん:2007/08/10(金) 11:08:40 ID:TuIikXFt
355で、
これは釈迦も、竜樹も、羅什も、慧能も、道元も、そのほか覚者といわれる方たちに貫かれた考えです。
大衆を大乗仏教に導いた名の知れない先人には凄い人がいて、この苦しい現世で来世に心が向いている人や死後がどうなるか不安がる人を浄土に導き安心を与えながら、究極的には「実相は諸法なり」に導きます。
と書かれていますがどういうことでしょうか?
前に釈迦は来世などの形而学上の事柄について喋らなかった、無記で通したということですが、それと極楽浄土や来世、如来、菩薩などは矛盾しないのでしょうか?
どうも解らないので教えてください。
361神も仏も名無しさん:2007/08/13(月) 20:45:28 ID:9jPr6C9A
法名をネットオークションで販売
http://kazoku.sub.jp/etc/070606houmyou.htm
362たか:2007/08/13(月) 23:59:43 ID:ktHhSydc
360さん、
多くの人がやっているように仏像に自分や家族の無事や幸福を願い、亡くなった故人の冥福を祈ることだけが仏教だと思っているときは、釈迦や竜樹など覚者や賢人といわれる人の伝えようとしたことはまったく解りません。
しかしいったんこれらの人達のことを学び始めるといろんな疑問にぶち当たります。
その最も大きな疑問の一つが釈迦の無記ということと、極楽浄土など来世や如来、菩薩のことでしょう。

これは釈迦も、竜樹も、羅什も、慧能も、道元も、そのほか覚者といわれる方たちに貫かれた考えです。
大衆を大乗仏教に導いた名の知れない先人には凄い人がいて、この苦しい現世で来世に心が向いている人や死後がどうなるか不安がる人を浄土に導き安心を与えながら、究極的には「実相は諸法なり」に導きます。

これは釈迦の死後、釈迦と同じように修行をして悟りを得た先人が、釈迦の教えをなかなか理解できず、死後の世界などばかりに心の向いている人を釈迦の教えに近づけるために説いたものと私は思っています。
このことについてはまた後で少し詳しく書こうと思います。

今日のこの後、0:10からNHK総合テレビで、ハイビジョン特集五木寛之21世紀仏教への旅が今週続けて再放送されます。
16日の夜というか17日の0:10には私が以前ここに書いた六祖慧能禅師のことが放送されますので是非見てください。
前にも書きましたが、私の仏教の捉え方は慧能禅師とほとんど同じです。
ここを読んでいただいているのでしたらぜひとも見てください。
禅の考え方、仏教の捉え方がわかると思います。
363神も仏も名無しさん:2007/08/14(火) 01:17:03 ID:vY/Qi9At
スクワットでしょ
364たか:2007/08/14(火) 03:02:08 ID:IuBDMOog
363さん、
あんた何も解ってないね。
大乗仏教は真理を説いてるんだよ。
あらゆる万物の根源を説いてるんだよ。
だから、座ったり立ったりする修行もまた法なんだよ。
だから、慧能禅師は悟った後もさらに農民とともに働き、雲門は悟ったならばいつまでも座ってないで動け、働けという。
スクワットだ、スクワットだなどと言葉におぼれて身動きのできない心でいないで自由自在を知りなさいよ。
そのほうが本当の意味でスクワットが身につくものさ。
生きるとは、禅とは何か、よくよく考えてみな。
365sora観たか:2007/08/14(火) 04:35:45 ID:d8E5GepM
この世には三種類の人間がいるという、自然的人間、感覚的人間、霊的人間。
釈尊は全ての人を霊的人間ならしめようとされた。物質的なこの世的なものから、
遠ざけようとされた。そこで考え出されたのが空や無の教えでありました。五感の
支配から遠ざけようとされたのです。72歳になった時、今こそ本当の教えを説こう
と言われたので、それまで説かれていた空や無の教えは小乗仏教と呼ばれるよう
になった。しかし、輪廻の教えは真実でありました。
これを説いたとて誰ひとり理解出来る者はいないであろう。と考えられて説かれた
仮の教えである、空や無の教えで悟れるものは一人もいないだろうと思う。
366sora観たか:2007/08/14(火) 05:10:15 ID:d8E5GepM
諸法実相
相手の中に観るものは、実は自分自身。相手に対して腹を立てると
したら、その相そのものが自己の姿を現わしている。
ある人には親切で、ある人には不親切だとしたら、その相こそ自分
自身を現わしている。
人間は鏡を見るが如く自身を観る。常に自分自身と出会っているのです。
367神も仏も名無しさん:2007/08/14(火) 06:34:17 ID:tJdFiYjw
ヒンズースクワット
368sora観たか:2007/08/14(火) 15:32:28 ID:d8E5GepM
あらゆるものには目的がある。目的なくして出現してくるものは無い。
始めに原因があった。そして目的が生まれた。そして、それは結果に行き着かなくてはならない。
原因=目的=結果だからだ。
人間の出現の目的は、結果に行きつく事である。

369たか:2007/08/15(水) 12:09:17 ID:pN+X+hPD
釈迦が弟子たちに送った最後の言葉があります。
  この世で自らを島とし
  自らをたよりとして
  他人をたよりとせず
  法を島とし
  法をよりどころとして
  他のものをよりどころとせずにあれ
ほかの人の知識や言葉に振り回されずに、自分自身が無心になって感じたそのままを島として、それと世の中の法と照らし合わせて生きなさいと伝えたかったのでしょう。
大乗仏教といわれる中にも今日放送されるブータンなどチベット仏教などは後世にバラモンやヒンズーの影響を色濃く受けて輪廻思想が強いのでしょう。
釈迦はバラモンの教えの真っ只中にあってその不安や苦しみの元であった輪廻思想からの解放つまり解脱の道を示したのでしょう。
だからこそ当時の多くの人達が釈迦の教えを聞こうとしたのでしょう。

私などは元々輪廻などの知識がないので死後の不安などありません。
もしあったとしても、観音菩薩に全て任せてしまってますので死後は阿弥陀仏と観音菩薩の意のままということです。
死後極楽浄土に往生する前に観世音菩薩と大勢至菩薩が法を説きますが、それは諸法実相を説くと大乗経典に書かれています。
赤い色は赤、青い色は青、黄色は黄、白い色は白、小川の水の音はそのまま小川の水の音ですし、鳥の声はそれぞれの鳥の声そのままです。

諸法実相といいながら輪廻の知識で惑わされる。
正法眼蔵の中に次の言葉があります。

自己をはこびて万法を修証(シュショウ)するを迷(マヨヒ)とす、万法すすみて自己を修証するはさとりなり。
迷を大悟するは諸仏なり、悟に大迷なるは衆生なり。
さらに悟上に得悟する漢あり、迷中又迷の漢あり。
諸仏のまさしく諸仏なるときは、自己は諸仏なりと覚知することをもちゐず。
しかあれども証仏なり、仏を証(アカ)しもてゆく。
(自己を離れないで真実を明らかにしようとするのが「迷い」であり、真実を自己の体験の上で明らかにしていくことが「悟り」である。
 迷いを迷いであると悟るのを「仏」といい、悟りの中にありながら、迷っているのを「衆生」という。
 人間には、悟った上にも悟り抜いていく人と、迷いの中に迷いを重ねる人とがいるだけだ。)

迷いの中に迷いを重ねる人にならぬように。
370たか:2007/08/15(水) 12:56:00 ID:pN+X+hPD
0:10からのNHK総合テレビで、ハイビジョン特集五木寛之21世紀仏教への旅を見ていたらインドでも、韓国でも多くの人が礼拝をしている姿が映し出されました。
仏に手を合わせ、その後ひざをつき身をかがめ頭を地面につけて礼拝をし、これを何度も繰り返しています。
私たち日本人は僧侶でもない限りあまりこのような礼拝をしません。
五体投地というのでしょうが、自分の全てを投げ打って仏に帰依する姿でしょう。
進行の五木寛之さんも、立ったり座ったりする修行という言葉を使って彼らの姿に感動されていました。
おそらく今日放送されるブータンの仏教、明日放送される中国仏教の映像の中にもきっと座ったり立ったり何度も繰り返しながら礼拝する姿が映し出されることでしょう。
仏の慈悲を願って、実際に仏に一身に身をなげうっている姿は五木氏の言葉でもなく感動的なものでしょう。

私がこの座ったり立ったりする修行という題名のスレに書いているのはまったく意味もなしに書いてきたのではありません。

スクワットしか知らない愚かさについつい書いてしまいましたが、まったくもって腹など立ててなどいませんよ。
誰かは知らないけれど自分の愚かさに気づいてほしいだけですよ。
371たか:2007/08/15(水) 14:15:25 ID:pN+X+hPD
釈迦の足跡をたどるインドでの放送の中で五木氏が旅の途中道路のそばの掘建て小屋のようなところでミルクティーを飲んでいる場面がありました。
本当においしそうに飲んでいる姿を見て私も20年前に仕事で2週間ほど南インドに行ったことを思い出しました。
昔マドラスと呼ばれていた町で今はチュンナイと都市名が変わっています。そしてバンガロールのあたりだったです。
ジープで移動しましたが番組で放送されたような掘建て小屋のようなところでインドのミルクティーを飲んだことがありました。
生水は飲めないのでミネラルウォターをホテルからもってきて飲んだのですがそれもなくなってすっかりのどが渇いていました。
道路のそばの掘建て小屋の前でだされたミルクティは予想に反して凄くおいしくてこのいっぱいのミルクティで生き返ったような感じがしたのを覚えています。

釈迦は苦行に疲れ果てて川べりで村の娘のスジャータからかゆを勧められて生き返ったといわれっていますがそれも一緒に思い出しました。
生きていればこそ悟りもあり教えも伝えられるものです。
今生きている人に教えを説かないで、伝えないでなんとしましょう。
悟りを得た釈迦はそう思ったに意違いありません。
372たか:2007/08/16(木) 21:49:24 ID:7opxWGf/
今晩放送されるフランスでの禅、中国慧能禅師の禅、その中で特に印象深いのは禅師の直径といわれる寺での禅風景です。
扇や団扇を仰ぎながら各自思い思いに座る姿です。
私たちの日本人の思っている座禅の様子とは違うため驚きます。
でもよくよく考えればこれもよいのだと解ってきます。
もうひとつ、慧能禅師が農民と一緒に農作業に励んだと言うことでしょうか。
釈迦や達磨大師のすがたではまったく考えられないことです。
悟りを得た覚者は仏道修行と法を民衆に説けばよいというものとはまったく違います。
水田には季節によって温かい風が水田の稲穂を揺らします。
その温かい風に身を任せながら稲は大きく育ち、稲穂を大きく垂れます。
正法眼蔵の現成公案の最後の部分、麻浴山宝徹禅師の扇の話に続く、
「風性は常住なるがゆゑに、仏家の風は大地の黄金なるを現成せしめ、長河(チャウガ)の蘇酪(ソラク)を参熟せり」
 (風の性が豊かな恵みをもたらしているのだ)
につながるのでしょう。
農夫は気づいているかどうかは別として、将に風の性の真っ只中に暮らしているのだよ、と慧能は農民に語りかけているようにみえます。
322で書いた、
慧能禅師はこの町で農民に禅を教え広めます。
 修行しようと思うならば家にいても良い、寺に居らねばならぬということは無い。
 家にいても良く修行をするならば、ちょうど東の国にいて心がけの良い人のようなものだ。
 寺にいて修行をせねば西方にいて心がけの悪い人のようなものだ。
 心がけが清ければそのまま自己の本性という西方にいることになる。
 寺で座禅を組むだけが修行ではない。
 農作業や普段の暮らしもまた修行になりうる。
と説いたという。
また、自ら率先して農作業を行い、それも修行になりうることを示し、その姿を見た農民は慧能に惹かれたという。

だからこそ、慧能の禅が農民、商人に受け入れられたのでしょう。
373神も仏も名無しさん:2007/08/17(金) 20:35:31 ID:5k/5Ej0A
迷いの中に迷いを重ねる人にならぬように・・・そう望みたいけど
ごく一握りの人間にしかできないのはどういうことだろう
374たか:2007/08/18(土) 00:10:14 ID:r97nwqzM
373さんへ
 ごく一握りの人間にしかできないのはどういうことだろう
という疑問ですが、これの答えを早急に出そうとすると間違って受け取られることもありますのでもし知りたければ引き続きここを読んでいただくことを薦めます。
ここはいっけん題名と内容が違っていて、誰も読まないようなところなのにたらたらたらと長い間かいていて、仏教のことかと思えば絵や俳句のことなど突然別な話になったりして、よくわかんねぇなどと思われてるかもしれません。
でも、私がここに書いているのは、ここを読まれる方に、大乗の教え、および仏性、空をできるだけ間違えることなく伝えたいという気持ち以外はありません。
変に聞こえるでしょうが、私は見性したときには僧侶のほとんどが悟りの体験をしているものだろうと思っていました。
こんな自分でも体験したのだからみんなしてるものだと思ったんですがいろんなものを読んでそうではないのだとわかりました。
一生懸命修行をしてもできないのは何故か、何故自分は体験したのか、その違いは何なのか、私なりに思えることがありますのでそれも含めて引き続き書きたいと思います。

今日のテレビの冒頭部分に五木氏がセイタチアワダチ草の話をします、環境が周りがこの草をその環境に適する草に変えたということでしょうし、大きく考えればこのことは環境が生きとし生けるものの進化を促してるともいえます。
仏のはたらきとは、他力とは。
375たか:2007/08/19(日) 08:29:03 ID:miOB41yZ
テレビでの五木氏の話ではセイタカアワダチ草は外来種だそうで戦後奈良や大和などおそらく多くの場所で大繁殖していたらしい。
ところが60年たってみると猛威は過ぎ去ってセイタカアワダチ草が小さくそそととなり丸くなっているというか、その環境となじんでいるようにも見え、まえからそこにあった在来種と共生してるようにも見えるという。
仏教や文化というものも案外このようなものではないかと五木氏は話していた。
私もこのような見方には賛成だ。
セイタカアワダチ草がどんなに猛威をふるって繁栄しそうに見えてもしばらくするとその場所の自然や環境にあった体形に変えざるを得ない。
また、セイタカアワダチ草に対抗できる植物もだんだんに増えてくるものだ。
仏教も釈迦が言ったものに近いという原始仏教だけが正しいなどという人がいるが、それでは到底中国や韓国、日本にこんなにも受け入れられたとは思えない。
仏教が伝わったところで釈迦の仏教をまね、教えの基本を受け継ぎながら優れた先人によってこなされ磨かれることによって伝えられた地域に受け入れられ、またほかの地域に伝えられたのだろう。
いろんな政治的なこともあるにしろ今日のインドでは仏教はごく少数派になっていることからもうかがえる気がする。
釈迦が言ったそうだから原始仏教だけが正しいなどという単に釈迦を崇拝する狭い考えの人がいたらそれも捨てるべきだろう。
376たか:2007/08/19(日) 09:36:23 ID:miOB41yZ
稲のひと株ひとかぶ、穂の一本一本に日の光が降り注ぎ、雨が適度に降り、温かい風が穂を揺らし、かえるや虫の声が心地よく稲に響くのでしょう。
風に揺れる稲穂を思い浮かべていたら、正法眼蔵の摩訶般若波羅蜜の如浄禅師の風鈴がうかびました。
東西南北いずれより風が吹いてもゆらゆら。
稲穂の一本一本がお前たち一人一人なのだよ、と。
米を作るのには、八十八の手間がかかりそれで米という字だそうで、途中病気になったり虫に食われたり台風に倒されたり、一年間の寿命でも生きるのはなかなか大変です。
でも、生きたいと必死なのでしょうし、子孫を残しこの地での生き方を後に必死に伝えようとしているようにも見えます。
春になり種から芽が出て日の光や春風を受け、梅雨の雨を受け稲がぐんぐん育つように季節のその時その時を身体全体で受け入れて豊かな稔りをもたらします。
道元禅師は正法眼蔵、現成公案の終わりの部分に、風の性を示して現成公案を締めくくっています。
377神も仏も名無しさん:2007/08/19(日) 11:44:27 ID:TEyeNthJ
迷いにとらわれない・・・欲望やら悩みやら苦しみやらにとらわれない
しかし人間なら誰しも抱くもの
悟りというものにもとらわれないとまで言われてる
また酒もたばこもセックスも肉食もやめたほうがいいとかいうけれど
まるで人間に生まれながらに備わっている機能をことごとく否定して
いるようにも見え、悟りとは人間でなくなるようにも見える
378たか:2007/08/19(日) 13:32:51 ID:miOB41yZ
377さんへ、
俗に言われている知識や言葉だけに捉われるとあなたのような話になる。
例えば、番組で放送された中国の慧能禅師直系の禅寺の禅風景、おそらく日本の禅寺では話にならないふざけた禅の姿でしょう。
また別の番組だったかもしれないが中国の禅寺だったと思うが、肉だけでなく何でも食べてました。
釈迦でさえ布施で出されたものは何でもありがたく食べていたという。
この番組の一回目の釈迦の足跡を追ったインドでも鍛冶屋のチュンダのだした釈迦が最後に食べた食事が豚料理か、きのこ料理の二つの説があると地元の人が言ってました。
辛いものはだめ、にんにくはだめ、納豆はだめ、匂いのあるものはだめそんなことは言いたい人に言わせておけば良いこと。
ただ程度ってものはあってなんでも程度を超えることはどうかと思います。
道元禅師の言うように自己を明らかにできれば、自分と他は一体であるし、そのことから他の全てから活かされている感じれば無用な殺生はしないし、生き物だけでなく全てのものを大切だと感じるものです。
そんな言葉に迷わされずとも、自ずと自分の行動があるものです。
酒も、タバコもセックスも同様に程度であって子孫を残さなければ悟りも教えも必要ないし、多くの人に伝える必要もないでしょう。
何度も書きますが、大乗仏教は多くの人達とともに生きていこうとするものですよ。
私が釈迦の教えも、仏教の教えも、観音菩薩も、道元も親鸞も全て忘れて、言葉も知識も捨てて、心も頭も空っぽにしなさいというのはというのはそういうことです。
変な知識があるといつまでも本来の自己が見えないで、人の言葉に惑わされるのです。
人も動物も植物も、それぞれに具わったものを受け継いでるわけですから、それを活かして環境と同化して生きていくことが大切なのです。
それをわかって、親鸞も一休禅師も肉を食いセックスもした。
親鸞が比叡山を降りて六角堂で観音菩薩に出会いいくらでもさせてやるとつげられたそうですが、あの話は面白くするため誇張されているのでしょう。
379たか:2007/08/19(日) 14:21:54 ID:miOB41yZ
20年前に南インドに行きましたが、行く前にテレビで、インドでは牛肉など食べてはいけないし、それどころか牛は神様だと聞いていました。
あの当時マドラスはインドでも4番目に大きい都市とか言われていました。
シンガポールからマドラスに真夜中着いて次の日市内を車で移動しましたが、町の中心部を多くのやせこけた牛が寝転んだりうろうろする姿には驚きました。
牛に綱をつけてるわけでもないのですよ。どうなってるのと思いました。
しかし、4,5日後郊外に車で移動してよくわかりました。
多くの牛がいっぱいの荷物を積んだ牛車をひいているし、田んぼや畑を耕しているのです。
カレーを食べたときにはヨーグルトがだされたし、牛の糞は強い日差しで乾かして燃料や肥料にするのでしょう。
なるほど牛がいなくては生活がままならない大切な生き物だと思いました。
中国と同様インドは人口が多いのです。こんなに役立つ牛を大切にし、牛とともに生きてゆく、言葉を変えれば共生とも言えそうです。
宗教とはこーいうものかの知れないなとその時思いました。
わが故郷の岩手でも昔南部曲がり屋といわれる家が多かったのです。牛小屋と住まいが続いていて住まいと牛や馬が一体だったのです。
芭蕉の奥の細道にも馬か牛が枕元で小便をしたという俳句があった気がします。
当然牛や馬を大切にしていて岩手では遠野では馬を神様として祀っています。
380たか:2007/08/19(日) 15:54:48 ID:miOB41yZ
道元禅師のただただ座禅も、親鸞聖人の絶対他力の念仏も、空海弘法大師の真言も、私から見ればそれぞれの人が自分が悟った瞬間これをしていたから悟ったんだ思っているからそれを弟子に
薦めるのでしょう。
勝手な想像ですが慧能禅師は座禅した後悟ったのではないおもえます。
だから、民衆に仏性に気づきすればよいのだといったのかもしれません。

道元禅師が船で足止めされたとき老典座がたずねてきてその人の話をもっと聞こうとして引き止めると、私には明日僧に食事を作る仕事があるといわれ、あなたは仏教をわかっていないですね、また後日話しましょうといわれた。
またあるとき年取った僧が暑い日差しの中で海草を干していたのを見て、時間をずらしたり、他の人にさせたらどうですかというと、今自分がしないでどうするのですかといわれたそうだ。
この中に、慧能の精神が表れていると私は思います。
百丈は、働かざるものは食うべからずといったそうな。
釈迦の仏教と違うといえば違うのでしょうが、だからこそ中国禅が精神が多く人に受け入れられたのでしょう。

私たちの生活をみても、酪農をする人は毎朝朝早くおきて牛にえさをやり、草を刈り、乳を絞る。
漁師は夜が明ける前に船を出して魚や昆布を取ってくる。
誰に言われなくとも一番良いタイミングで仕事をするものです。
それは案外言葉で教えられたものではなく、なんとなく自然に親から受け継いだものだったり、自分の身体で自覚しないうちに修得したものかもしれません。
今、自分がすべきことを自然にしていく。
季節や、環境に逆らわずにひとつになっていきていき、周りの人達と助け合いながらそれを伝えていく。
悟った上で悟りに捉われずに生きるとはそういうものでしょう。
十牛図の最後、入てん垂手とは
  悟りを得たものは最終的には市井で飄々といきながら救いの手を差しのべる。
  この大愚にも似ている姿こそ、禅の最高の境地であり、それが観音菩薩に近づくことなのでしょう。
381たか:2007/08/21(火) 05:26:50 ID:0XEh9rjE
378に続く、
本来の自己、己というものがわかれば、また万物が存在している道理というものが解れば、あれこれ人の言葉に惑わされずに自ずと答えがあるものでしょう。
逆に本来の自己、己を知らず、万物の道理も知らずに、人の知識で納得していると平安末期の僧のように、俺は仏性を持っているから何もしなくていいとか、他を省みず何をしてもいいなどと間違えます。
先ずは本来の自己、万物が存在している道理を、言葉を変えれば真理を自分のものとしなければならないでしょう。
そのためには先ずは自己を捨てることが必要なのです。
そのために、座禅をし、念仏をするのでしょう。
382たか:2007/08/21(火) 23:43:05 ID:0XEh9rjE
自己を捨てるとは言葉では簡単で、一行ですみますが、実際は難しいですね。
親鸞聖人は阿弥陀仏を信じる信じきること、信こそ大事だと言っているように思いますが、私は体験を振り返ってみてこれでも不十分だろうと思いますね。
こー言うのも変ですが、これではまだ、仏を信じようという自分が残っているような気がします。
373さんが、
 迷いの中に迷いを重ねる人にならぬように・・・そう望みたいけど
 ごく一握りの人間にしかできないのはどういうことだろう
ということを書いていましたが、多くの人は、自分でもやれるとか、仏を信じればなどというところで止まっているのですよ。
実はその先があって、信じるとかどうとかでなく、どうにもこうにもできない、何かに身をあずけなけれいられない、何かに身をあずけなければどうにもならない、そんなところ瞬間があるような気がします。
私がここでたらたらたらと時間をかけて書いている理由のひとつとして、そういう壁のようなものにぶち当たった人が出てこないかなぁと時間をかけながら待っているといえます。
釈迦にしろ六年の苦行の末、なにをしてものだめで、どうにもならなくなって菩提樹のしたにすわりこんでいたし、
道元禅師もはるばる中国まで来たけれどいくら学んでもそこから先に進めないことを痛感したのであり、如浄禅師や仏に身を任せるしかなかったろうし、
親鸞聖人も比叡山から降りてきて六角堂で100日の願をを掛けたもののどんどん100日がが迫ってきて仏に身も心も預けるしかなくなったのでしょう。
盤けい禅師にしてもそうだろうし、そのほか見性した多くがそのようなじぶんではどうにもならない瞬間を経験しているように思えます。

仏教には易行道という言葉があって、阿弥陀仏の名を呼べばたやすく救われるように言われますが、実際は一切をあずけてしまう以外にないと思える瞬間になるには時間がかかるだけでなくなかなかたいへんです。
大乗仏教の如来や菩薩などの仏はこのどうしようもならなくなったときその身を預けるものとも言えます。
383309:2007/08/26(日) 04:40:21 ID:XH4SjwjV

暑い、暑い。死ぬほど暑い。
外でやっている故、無心に向かう筈が、暑くて集中が
落ちてます。これではいけません。
家でやる回数を増やすように工夫します。
涼しくなればまた心地よくできるようになるかな。

この音を聞くという行を始めてから昔の記憶の底に
沈んでいたような事をふと思い出すことが増えました。
気のせいかもしれませんが。自分の罪?を思い出し、
少し苦しくなってしまいました。まさに自業自得。
384たか:2007/08/26(日) 16:05:54 ID:qN5DzeV9
309さんへ、
今年は毎日暑い日が続いています。
さすがに宮城は朝晩は涼しくなってきましたが。
大切なことはその時の自分の体調にあわせておこなうことですね。
暑いときは涼しいところでやればいいし、少し涼しくなってからしてもかまわないでしょう。
外的な苦痛に我慢することや苦しみに耐えることが悟ることではないのです。
私の言う30秒間なにも考えずに音に身を任せることは苦行でもなく、行といえるものでもないでしょう。
でも、続けてみてはじめてある時気づくことがあるものです。
なんでもそうですが、はじめはぎこちなく考えながらするものですが続けているうちに自然に身につくというか行為そのものが自然に行えるようになります。
例えば車の運転で交差点を曲がろうとするときなど、はじめは前進方向を確認してミラーで後ろの安全を意識して確認するしますが、運転が身につくとあえて意識してもいないのに自然に安全を確認しながら交差点を曲がるものです。
変な話ですが、歩くときも同じで右足を出した後左を出して姿勢を正しくして前を見て一歩ずつ確実に、などと意識し考えながら歩いている人はほとんどいません。
音に身を任せながら、心を空っぽにする、こんなたわいもないことですが、でも自然に確実に身についていると言えるでしょう。これはやり続けないとわからないことです。
ただこれだけでは、大乗でいう一音が何なのか、何を示すのかはわかりません。
続けているうちに自分ではこれを知ることができないのでは思えてきます。
自分は解ることがでないだけでなく、まったく無駄なことをしているのではと思えたりもします。
でも、こういう思いが心の中から底からでてこないと、自分を自我を手放すことができないと私には思えます。
少し長い道になるかもしれないですが、309さん、是非続けてください。
経典の言葉がわかるのではなく、多くの先人が伝えようとしたことが真に解るのです。
385たか:2007/08/26(日) 16:42:06 ID:qN5DzeV9
大乗を究めた人達、竜樹も、無しゃくも、世親も、羅什も共に一時は小乗を究めた人達だったといわれています。
しかし、大乗を知って、今までなんて自分は愚かだっただろう、と悔やみます。
何が彼らにそんな思いをさせ、彼らを変えさせたのでしょう。
彼らだってかなりの苦労をし、小乗の教えを身につけたはずです。
苦労をし修行をしたものだけが悟りにいたるはずと思うのが自然のように思えそうですが。

での彼らはいっきに大乗に移りました。どうしてなのでしょう。
単に大乗の教えを学んでみんなが悟れるといいたかったからなのでしょうか。
世親は兄である無しゃくに死んで詫びたいといったそうですが、今死ぬよりも大乗を伝えることがお前のできることではないかと無しゃくに諭されたと言われています。

誰もが悟れるとはどういうことなのか、どうしてそのように言い切れるのか、だれか解るでしょうか?
386神も仏も名無しさん:2007/08/28(火) 00:01:08 ID:QzujpcGA
イスラム!
387神も仏も名無しさん:2007/08/28(火) 22:17:22 ID:W/3mr40l
カープと書こうと思ったら3で既に書かれていた
388神も仏も名無しさん:2007/08/30(木) 21:01:19 ID:4eG2aLmm
心を空っぽにするとは思考を停止することだろうか

389たか:2007/09/01(土) 16:03:01 ID:poxIYwFE
388さんへ、
この世の生きとし生けるものは皆生きるのに必死のように見えます。
自然の環境の状況にそして刻々と変わる変化に応じながらその時その時を生きその環境に適応したものを子孫に伝えようとしているようです。
それは必ずしも自分でこうしてやろうとかこのように変えてやろうとか考えて行動しているのではありません。
先祖や親から受け継いだものをうまく生かして環境の変化に適応して生きてきたのでしょう。
ところがその中にあって人間は生まれてから思考をし続けてそれを積み重ねてため込んで生きていくことが幸せに生きることだと思い込んでいるように思えます。
思考することでそれによって多くの知識が蓄えられますがそれが意識的なものにしろ無意識なものにしろその後の生き方を左右し常に大きな影響を与えます。
思考することは良いことですが必ずしも良いことばかりではありません。
過去に蓄えられた知識によってその時その時を判断しますが、その知識がそもそも間違っていたりそれに捉われたり拘ったりすることで苦しむものです。
仏教の教えのとうり、原因があり条件があって結果が生じることは確かでその条件や原因を変えたり取り除けば苦しみから救われそうですが、実際は多くの原因や条件が複雑にからみあって常に変化しているわけですから単純ではないのです。
一つのことを解決しようとして苦心しているうちに別のことが次々の吹き上がってきてますます苦しむ場合も多いものです。
また、過去のことや将来のことに常に思いをめぐらしグルグル思考をめぐらしているときは案外今をその時その時観ていないものです。
この思考をとめることは今その時を観ることですのでグルグル廻っているものを断ち切ることになるでしょう。
唯識など大乗では全ては心の目を通してみているのだと説きますが生まれてずっと蓄えられたものをいったん空にして空っぽにしてみなさいと説きます。
空っぽにするためには先ずは思考を止めることからはじめることが良いし最善の方法だと思います。
般若心経ではこの思考がないことも無といい、この空っぽのことも含めて空といいます。
390たか:2007/09/02(日) 13:59:57 ID:K+cxoeUZ
2,3日前のNHkのためしてガッテンという番組で集中力を高める方法をやっていました。
番組の内容は番組名を検索してみると詳しく書いていますし5日に再放送もあるのでみられたら良いと思うけど。
集中力を高める方法を結論的に言うと、一つが脳を無駄なことに使わないことだという。
余計なことに思いをめぐらせたりしないことが集中力を高めることでそのために良いのは自然に流れている音、例えば小川のせせらぎの音や鳥のさえずりの音の中にいるほうが脳が余計に働かずに休まり集中力が高まると言う。
もう一つは脳の前頭前野を使用することで、小刻みな目標をたてることも良いと実験から言えると伝えていた。
番組を見ていてなるほどというところがあった。
集中力がどうかという思いはまったくなかったけれど、見性のときほとんど余計なことは考えていなかったと思う。
おそらく余計なことに脳を働かせていなかった。
なにも考えずに仏鈴の一音にただに身を任せるだけ、身を任せることさえも意識してなかったような気がする。
私が何度もなにも考えないでといっているのはこれを繰り返すことで自然にいつの間にか余計なことに脳を、心を働かせないことを身につけさせることなのです。
繰り返しているうちに知らず知らずにそれが身についてくるのでしょう。
ですから多くの人達が言うようなこと、釈迦の教えがどうの、仏教の教えがどうの、六道輪廻がどうの、前世がどうの、そのほか一切頭の中にはなかったのです。
一切を託すというのはこのようなことでしょうか。
その時、一音で気づく。見性の体験が大乗の教えの根源ですよ。
見性という言葉を使うべきでないという人がいますが、おそらくその人はまったく大乗を理解していないか、先人の教えを間違って理解しています。
誰か体験のない人の話をそのまま聞いて真を解らずに書いていますね。

教えや知識を理解し積み重ねるのではなく、逆に捨てるところからはじめるのが大乗を身につけることなのです。
391たか:2007/09/02(日) 21:14:33 ID:K+cxoeUZ
知識を積み重ねて溜め込んで頭を働かせなければ、そして厳しい修行をしなければ、仏教を理解したり悟れぬものなら、とても誰もが悟れると説く大乗という言葉はありません。
でも、一切を捨てて元に戻ることで、無になることで悟れるなら、竜樹や世親や羅什や慧能禅師や道元禅師や親鸞聖人や弘法大師のような名僧でなくとも誰でもできるというものでしょう。

釈迦はバラモンの説く六道輪廻からの脱却の方法を示しましたが、それを解脱といいますが、解脱とは六道輪廻や前世思想からの脱却つまりそのような思想にとらわれない拘らない生き方を示したのですよ。
ところがそれを間違って大乗を理解している人達の言葉を信じてその間違いで心を惑わされる人が多いのです。
392神も仏も名無しさん:2007/09/09(日) 20:18:48 ID:i27nDoeI
まともな禅寺ってどこだろう
393神も仏も名無しさん:2007/09/09(日) 21:45:53 ID:mqZRxPic
禅がまともかどうかの論は別として、
師家分上が住職していて、尚且つ、観光寺院ではない寺かな。
394神も仏も名無しさん:2007/09/10(月) 20:01:53 ID:bmFoi9cb
>禅がまともかどうかの論は別として、
いや、むしろそこ大事よ
395たか:2007/09/12(水) 23:53:43 ID:gHA08owm
355で、次のように書きました。
実相は諸法なり。(あるがままのすがたは諸法である。)
これは釈迦も、竜樹も、羅什も、慧能も、道元も、そのほか覚者といわれる方たちに貫かれた考えです。
大衆を大乗仏教に導いた名の知れない先人には凄い人がいて、この苦しい現世で来世に心が向いている人や死後がどうなるか不安がる人を浄土に導き安心を与えながら、究極的には「実相は諸法なり」に導きます。
多くの宗教指導者や宗教学者にはこのことがわからない人が多いのでしょう。
文字や文章だけを追っているとそれに捉われて先人が伝えようとしたことに気づかなく、仏教を変な方向で捉えてしまいます。

この中で羅什は釈迦はもちろん竜樹を敬っていたと言います。
前にも書いたように羅什は、阿弥陀経、般若心経、法華経、維摩経などの大乗経典を漢訳し中国はもとより朝鮮半島や日本におおきく影響を与えましたが、そのほとんどが名訳といわれています。
でも、それは単に古い経典をそのまま訳したのではなく羅什のオリジナルの言葉と羅什の大乗の解釈がいっそうその経典を引き立てているといわれています。
考えてみれば、ほとんどの宗派が色即是空の般若心経を唱えますし、般若心経を読まないといわれる浄土宗、真宗は阿弥陀経の阿弥陀仏を唱えますし、法華経を言う人は将に羅什の法華経の訳なくしては話にならないでしょう。
いくら日蓮がどうのといっても羅什の名訳なくしては今のように法華経が親しまれたとはいえないでしょう。
日本の仏教の父とも言える聖徳太子は法華経と維摩経を解説し、その聖徳太子を敬った親鸞は聖徳太子のゆかりの六角堂で悟りを得ています。

般若心経で最も有名な言葉は色即是空、空即是色ですが、これもまた羅什のオリジナルの訳、言葉だと聴いたことがあります。
般若心経の解説書は無数にあるのに何度読んでも何故般若心経の空が解らないのか。
396神も仏も名無しさん:2007/09/13(木) 06:55:29 ID:Jyp9rKqL
ヒンズースクワット
397たか:2007/09/16(日) 18:41:09 ID:UppyyyZT
羅什が訳さなければ般若心経の色即是空も、阿弥陀経の極楽も、南無阿弥陀仏の念仏も、妙法蓮華経と題さなければ南無妙法蓮華経という題目はなかったのではと思えます。
般若心経も玄奘三蔵の新訳も少し違っていたかも知れません。

羅什は弟子たちに諸法実相をよく説いたといわれています。
諸法はあるがままのすがたであり、あるがままのすがたこそ諸法ということです。
そしてあるがままに観なさい、あるがままに観ることが大切なのだといいます。
あるがままに観るとはどういうことで、どうしたらあるがままに観れるのか、そして気づくことができるのか。

般若心経の色即是空の後に諸法空相という言葉が出てきます。
羅什が説く、諸法実相と諸法空相、羅什はなにを言いたいのでしょう。

398たか:2007/09/21(金) 20:47:04 ID:JrlVsOGG
観、観ずる、を辞書で観ると
 1.外から見た様子や感じ。外見。
 2.真理を悟る。物事を細心に分別して観察し道理を悟ること。
とあった。
観と言う字を見て最初に思い出すのは、観世音菩薩、観自在菩薩、の観だろう。

観光旅行をする、という時も観という字が使われている。
観光するの観はただ外から見るよいうのではない。
テレビや絵葉書を見るのとは違う。
観光の観は目的の地に行って目的のものをただ目で見るのだけではなく、その場所その時の光や音や匂いや気温や湿気その他諸々を身体全体で感じることだといえる。
同じ場所でも時刻や季節で静かな静寂な時もあれば人が多くでて騒々しい時もある。
当然受ける印象も違ってくる。
単に目で見る、音を耳で聞く、のではなくて、その場の光景を身体全体で身体全体をフルに使って感じ取ることだ。
あるがままに観るとは自分の五感を通してなどという意識は離れて、その時のその場所の光景をそのまま受け入れることだ。
般若心経はこの上ない智慧の心の教えといわれるように心を説いている。
自分とは別の違うものだと思っていたものが、実はそっくりそのまま自分の中に入っていて自分を突き動かしているのだ。
自他一体とはそういうことで自我などというものを無くした無心の時に雷鳴のごとく身体全体に感じられるのです。
399たか:2007/09/22(土) 19:44:21 ID:xKS9cIQg
月日は百代(はくだい)の過客(かかく)にして、行きかふ年もまた旅人なり。
舟の上に生涯を浮かべ、馬の口とらへて老を迎ある者は、日々旅にして、旅をすみかとす。
古人も多く旅に死せるあり。

松尾芭蕉は奥の細道の冒頭で月日も永遠に旅する旅人だといっている。
拡大解釈すると時と共に移り換わるあらゆる万物もまた旅人だ。
船頭も馬子として暮らす人もまた旅人、旅にでて観光旅行する人だけが旅人ではない。
日々のなにげない暮らしも旅であって、観ということに気づけば同じところにいても季節の変化を味わうことは旅人が観光することと同じだ。

良い師を求めその師に出会うことも大切ではあるけれど、仏法は良い師のところにだけあるのではない。
良い師のところにいくらいても心がけが悪ければ法が身につかないだろうし、師のところにいなくても心がけ次第で法にめぐり合うと慧能も言っているし、狗子の公案の趙州和尚も全く同じことを言っている。
維摩経では人里離れた静かなところで安座しなければなどと思い込み考えていた舎利佛のところに維摩居士が現れて、お前さん、仏法とはそういうものでなく暮らしの中にもあるのだよと説きます。
良い師を求めることは大切でしょうが、どこにいても、己を捨てることからはじめることを忘れてはなりません。
道元禅師の師である如浄禅師にいくら弟子がいたか解りませんがみんなが道元のように悟ったわけではないでしょうから、先ずは心がけともいえるでしょうか。
400たか:2007/09/23(日) 02:15:25 ID:9RyaFr6O
見性体験の時のあの包まれているような安らかな喜びの感じ、他のものと一つになっているという感動は般若心経をいくら理解しようとしてもおそらく絶対理解できないですね。
そしてそれは同様に他のあらゆる経典をいくらいくら読んでも読んでもその感動を味わうことができないものです。
ですから多くの僧がいくら経典を読んでも解らないといっているのがよく解ります。
法然も親鸞も道元も全く同じことを言っています。
解ろうわかろうとする心が邪魔しているともいえます。

見性を体験するのにみんな苦労をしています。
過去の先人の生涯を見ればよく解ります。釈迦に近づきたいという思いがそうさせたのでしょうか。

でも、私は誰もが必ず体験できると思っています。
見性体験の時には解らなかったことですが、その後経典や先人の語録などを読み同時に自分の体験を振り返ってみるとあの体験と同じことが自分の過去にあったと思えてきます。
つまり見性体験は人生で二度目の体験だということです。
どういうことかというと、実は誰もが一度体験していてそれを忘れてるだけだということです。
ですから、もう一度一度目のの状態に戻してみるのです。
戻すことを身につけるとでも言い換えられるでしょうか。
戻すということは釈迦が言う人生は苦であるという四諦の教えや十二縁起の教えさえも振り払った状態になります。
その状態のことを般若心経では何度も無という言葉を連発しながら示し、不や非の文字を使い打ち消して示そうとしているのです。
空とはこの心の中が般若心経で言う無の状態のことを言います。
例えて言えばこの状態の空とは良く磨かれた曇りのない鏡のようなもので、諸法実相のありのままのすがた(色)を全く手を付けずにその鏡にそのまま映されていることをいいこれを空相、空のすがたというのです。
空のすがた空相は受相行識の心にダイレクトに映ると言うことでありそれが生きようとする生命体に直接働いて生かしているといえます。
401たか:2007/09/23(日) 02:51:53 ID:9RyaFr6O
最後の部分を訂正します。
例えて言えばこの状態の空とは良く磨かれた曇りのない鏡のようなもので、諸法実相のありのままのすがたを全く手を付けずにその鏡にそのまま映されていることをいいこれを空相、空のすがたというのです。
空のすがた空相は色という身体と受相行識の心にダイレクトに映ると言うことでもありそれが生きようとする生命体に直接働いて生かしているといえます。
402たか:2007/09/24(月) 13:22:41 ID:+85vsP1P
身体(色)という空っぽの皮袋の中に外のものだと思っていたものがそっくりそのまま入って身体を突き動かしている。
受相行識の心もまた同様である。
普通私たちは常にいろんなことを考えいろんな思惑を心に持っている。
人間という皮袋の中はもやもやした霧や霞でいっぱいに満たされている。
あるがままに観ろと言われてあるがままに観てるのだと思っているが、このような状態では霞や霧を通して歪んだものをみているに過ぎない。
仏法の教えはこの霧や霞を一瞬で取り去って捨て去って、この充満している霧や霞を無くして初めてあるがままということに気付けるのだといっているのだ。
仏教知識を詰め込むのではいつまでたってもこの霧や霞を取り去ることはできず、かえって妄想をさらに増すことになる。

ただに徹することでこの霧や霞を取り去り無の状態にすることができる。
無の状態、つまり皮袋が空っぽの状態のとき、この皮袋にダイレクトに入り込む、映し出されることを空相という。
この空想を感じた観じた瞬間を見性というのだ。
諸法はあるがままの実相であり、かつ、諸法は実相をダイレクトに映し出されている空相なのだ。
また、実相は常住ではなく常にめまぐるしく変化しているものであり常ではない無常であり、無常で常に変化してやまない実相が映し出される空相も常に変化している。
その変化に順応するように私たちの身体も心も自然に変化する。

403神も仏も名無しさん:2007/09/25(火) 20:59:23 ID:G1HpXkiq
ていうか、ヒンズースクワット
404神も仏も名無しさん:2007/09/26(水) 05:15:02 ID:dJgbVqT5
完璧に全てを含んでいるようで、何も含んでいないような透明感
を持った意識?が溢れ出し、
見るもの全てが自分の事の様に感じ
言いようのない幸福感に包まれました。

これが見性というものなのでしょうか?
405たか:2007/09/26(水) 11:36:40 ID:KJkWGEPO
404さんへ、
2チャンネルを読むといろんな人が書き込みをしていてその中でも多いのが404さんと同じような体験をしたというたと言うものです。
でも、その人達の話を読んでみると解っていないな、間違っているなと思うのがほとんどです。
見性体験は確かに何かに包まれてる喜びを感じるものですが、それだけではなくその瞬間に他にも多くを感じるものです。
無分別を知る、無分別の智という言葉があり、自分と他が分けられないもの一つになっていると気づく智る体験があります。
これも見性の瞬間に感じられるのです。
釈迦や空海は明星が自身に飛び込んできたと感じたそうですが、私が思うには見性は音をきっかけに音を伴っておこる場合がほとんどでしょう。
2祖迦葉は旗が倒れる音で、一休禅師は闇夜のからすの飛び立つ音だったか鐘の音だったかで見性した悟ったといわれます。
何度も書いていますが、羅什が般若心経の菩薩を観世音と訳したのはそれを暗に示そうとしたのでしょう。
多くの人の中には光明つまり光を言う人がいますがそれでは何か仏に自分だけ認めてもらい、自分だけ特別になったように錯覚し、本来悟るべき無我や無分別とかけ離れてしまいます。 
私が音を何度も言うのは見性の時に感じる、つまり音を観るということを体験してほしいのです。
私から見ればこの音が将に仏法の始まりの音であり、あらゆる教えの基となるものであり、己自身に気づかせるものであって、だから維摩居士もそれを訳した羅什も一音を説き、道元禅師も、正法眼蔵仏性で、
 たとえば一音の法をとく時節到来なり。説法の一音なる、到来の時節なり。法は一音なり、一音の法なるゆゑに
と説くのでしょう。

私は404さんの体験を否定もそうだと肯定もしませんがただそれだけに留まってしまっては残念です。

見性すれば悟りは完成だと思う人もいるでしょうがそうではなく実際は仏法の始まりだと思えてきます。
大乗の経典は人を法、仏法に悟りに導くための方便ですが、それだけではなく、実際は見性の後それぞれの経典の示そうとしたことが本当に身に染みて解るものです。
ですからもし自身で何かを感じたなら本当に自分の体験が経典に書かれていることや、先人の残した教えにあっているかよくよく照らし合わせることが大切です。
それを怠ると、自分を特別なものにしてしまうのです。
406たか:2007/09/26(水) 12:24:35 ID:KJkWGEPO
般若心経の是諸法空相の後はこの空相の説明です。
つまり、実相とそれをそのまま映した空相とは全く違いがなく同じものだと説いていきます。
空相が実相とまったくまじりっけのない同じものだと示すために、不生不滅、不垢不浄、不増不減、と続きます。
少しでも思惑や知識が入っている実相がありのままでなく空相にはならないのです。
だから余計なものがついていない、また欠けてもいないのだといっています。
これと同様この後も一切無であるといっており、仏教徒には尊い釈迦の教えさえ無と言い切ります。
自分というものがないから無所得、あるがまの世界だけがあってそれに気づくことによって、一切の迷いから離れることができ、世界と一体となっているという安らぎに至るのだ。
407たか:2007/09/26(水) 12:29:58 ID:KJkWGEPO
訂正
般若心経の是諸法空相の後はこの空相の説明です。
つまり、実相とそれをそのまま映した空相とは全く違いがなく同じものだと説いていきます。
空相が実相とまったくまじりっけのない同じものだと示すために、不生不滅、不垢不浄、不増不減、と続きます。
少しでも思惑や知識が入っていると実相がありのままでなく空相にはならないのです。
だから余計なものがついていない、また欠けてもいないのだといっています。
これと同様この後も一切無であるといっており、仏教徒には尊い釈迦の教えさえ無と言い切ります。
自分というものがないから無所得、あるがまの世界だけがあってそれに気づくことによって、一切の迷いから離れることができ、世界と一体となっているという安らぎに至るのだ
408たか:2007/09/26(水) 12:43:59 ID:KJkWGEPO
ほとんどの般若心経の解説書は見性の体験というより自分の日ごろの生活や知識で般若心経を説明しようとします。
それは皮袋の中の霧や霞を通してみたもので説明しているようなものです。
だから何度読んでも空が解らないのです。

般若心経は見性の瞬間そのままを文で示しているだけなのです。
409たか:2007/09/26(水) 13:25:37 ID:KJkWGEPO
 菩提本樹無し
 明鏡も亦台に非ず
 本来無一物
 何処に塵埃を惹かん
これは慧能禅師の禅の真髄の言葉で、
 知恵や悟りに必要なものなど無い、
 きれいな鏡や台もいらない、
 本来、無一物なのだ、
 ちりやほこりなどつきようが無い。
本来、人には煩悩など無く、自らの仏性に気づきさえすればよいというものだった

これまさに般若心経と同じことを言っています。
410神も仏も名無しさん:2007/09/27(木) 22:35:37 ID:DPokGQIa
このスレを読み返してみたのですが、
たかさんの見性体験と自分の体験は非常に似通っている様なので
やはりあれは見性だったのだと思います。

ちなみに体験前は、自殺を考える程に追い込まれていたのですが
今は大変リラックスして暮らしています。

これから、たかさんが言うように自身の体験を仏典と照らし合わせてみようと考えています。

そこで、理解者が書いていると思われる良書があれば教えて頂けませんか?
411たか:2007/09/30(日) 17:04:37 ID:0I8+zPUC
410さんへ、
良書を教えてほしいとのことですが、私はこれを読みなさいとあなたに指導できるほどでもありません。
ただ多くの人達が読み伝えてきたもの大乗経典の代表的なもの、例えば羅什の訳した阿弥陀経や法華経、維摩経や般若心経、観無量寿経、無量寿経、など各派で読まれてるものなどは一応読むべきです。
これらのものの中にはインターネットで検索すれば現代語訳などがでてる場合もあり内容を知ることができ、本を改めて買うこともないでしょう。
多くは純粋に原文に沿って訳しているでしょうが、宗教団体や個人でも偏った見方で訳している場合もありますのでそれを割引き考慮していくつかを見比べながら読むことも、理解することも大切でしょう。
また同様にそのほか道元、親鸞、法然、他の先人が書き残したものもおおく訳されていますのでその人達がどのように伝えようとしたか、何を伝えたかったか知る必要があるでしょう。
その他多くの人達がホームページで多くの人達の語録など載せていますのでそれを読むことも大切でしょう。
これは良いこれはだめというのではなく、多くを読んでみることが大切です。
ただ最も大切なことは410さんが体験したことと照らし合わせながら読んでいくことです。
釈迦は死後の直前、自灯明、法灯明を言い残していったといわれるように、あなたの体験と法や先人の書き残したものとが合っているかどうか検証し照らし合わせなければなりません。
そのことをしないでいると勝手な妄想に入り込んでしまいます。
私の経験上では、見性体験があると少し時間はかかったとしても自分のものとして感じる時、納得する時がきます。

自分の見性体験が違っていなければ維摩経の教えや正法眼蔵は素直に理解できるようになるでしょう。
本によっては、維摩経や正法眼蔵は看経の目つまり悟りの目を持たぬ者には到底眼蔵つまり真理真実は読み取れないと書いているものがありますので先ずはその辺でためしたらよいでしょう。。
言葉を理解するのではなく、自分の体験と照らして理解していくことが法に気づく、法を身につけることになります
412たか:2007/09/30(日) 17:32:37 ID:0I8+zPUC
411の続き、
私がここに書き続けているのはいくつか理由がありますが、その一つは見性の体験した人にここを何度か読み返していただいて体験が間違えのないように身につくように役立ててほしいと思っています。
ですからこの先も続いて長くなるかもしれませんが、時折読み返していただき役立てていただきたいのです。

見性し、仏法を学ぶと実際は経典だけに教えられるものだけではなく、あらゆるところに教わることがあると気づくものです。
ですから大乗は僧堂だけに居らずに周りを見回してみろ、世間と触れ合ってみろというのです。
これは良いこれは悪いと分けて拘らずに、最初から良書、悪書と分けずに悪いところにも学ぶこともあるなぁと気づくことも大切でしょう。

410さんに質問ですが、あなたは392の禅寺を探している方と同じ方ですか?
もし同じ方なら寺で師のもとで指導されることも良いでしょう。
見性の後しばらくはその体験によってしまい自分を見失いそうになります。
それから醒ますために私は先人の教えを読んで体験と照らしなさいというのですが、指導者があればそのほうが良いのでしょう。
道元禅師は如浄禅師の脱落身心という言葉に心身脱落、すっかりおちてしましまいましたと即答したそうですが、印可を受けたのはそれから半年後だそうです。
見性をさますのにも時間が必要です。
413たか:2007/10/04(木) 22:30:15 ID:2M7qOaJA
般若心経の本はいろいろありますがその訳し方や解説は本によって違うような気がします。
どれを読めば般若心経がよく解るのでしょう。
たかさんの空の捉えかたも他の方と違うような気がします。
多く読まれてるものに、瀬戸内寂聴さんの般若心経や柳澤桂子さんの生きて死ぬ智慧というのもがありますが、たかさんはどう思いでしょうか。
414たか:2007/10/04(木) 23:40:52 ID:2M7qOaJA
413続き、
という質問をされたことがあります。
瀬戸内寂聴さんや柳澤桂子さんにかぎらず、ひろさちやさんなど般若心経の本だけで何十万も売れているそうです。
多くの人が般若心経から安らぎを得たい、本を読んだら般若心経を唱えたなら理解し救われれるのだ、安楽が得られるのだと思って読まれるのでしょう。
この人達の本は言葉も優しく接しやすい事は確かです。
ただこの人達の空の捉え方と私のいう空はかなり違います。
多くの般若心経の本は理屈で般若心経を説明し理解させようとしますが、私のいう空は一切の理屈なしの空なのです。
今、在るものがそのまま、いまその瞬間に存在する現象がそのまんま、その瞬間の自分だということです。
自分以外の全てのものと、自分は全く同じものだということです。
火が、炎が燃えてるとすると炎が燃えてるというだけです。
それ以外の余計なものをつけて炎を理解しようとするのではありません。
多くの人は自他一体、自他不二ということをいいながら知識などという余計なものをつけて理解しようとするため、実は自分と他が同じものだと気づいていないのです。
例えば柳澤桂子さんは粒子などという言葉を使っていますが粒子などという科学の知識は空の理解には不要です。
光は光、音は音、炎は炎であり、阿弥陀経のように赤は赤、青は青ですべてはあるがままの実相、その瞬間のそのままのすがたなのです。
余計なものをつけるな、無いのだ、と般若心経で言っているのに余計なもので説明しようとしています。
私から見ると、空をわかっていないと見受けられます。
415たか:2007/10/05(金) 00:00:37 ID:2M7qOaJA
ありのままとは、なにもつけずに、ありのままです。
だから、是故空中、つまりこれゆえに空の中は空というものは無色無受想行識といいきり、なにも無いといっているのです。
実相だけがあるということであり、実相と空相は同じだといっているのです。
自他一体、自他不二とは不二の如しとはこのことです。
416たか:2007/10/08(月) 21:20:59 ID:ypQvA9pS
3ヶ月ほど前NHKのクローズアップという番組で茨城県の霞ヶ浦の水質浄化の活動がとりあげられていた。
以前どこの河川でも同じだったけれど全国的に河川の汚染が大変な問題になっていて霞ヶ浦も工場の廃液や生活廃水でとても汚れていた。
汚染のため赤潮が発生して魚の大量死がテレビのニュースでも何度も取り上げられていたのを覚えている。
その霞ヶ浦の水質浄化の取り組みを取り上げてる中で面白い話があった。
水質浄化のために工場廃水や生活廃水を規制抑制する政策が取られたのはもちろんだけれど、それ以外の方法で植物の浄化する力、はたらきで水質浄化を進めようとしたのだ。
まず、水辺に育つ葦(あし)は水質を浄化するはたらきをすることが知られており葦を植えればよいのではないかということで葦を植えたそうだ。
ところがうまくいかなかったそうだ。
詳しくは聞き逃したけれどうまく葦が育たなかったのだろう。
その反省に立って数年前から別な方法をとっているという。
それは単に葦だけを植えるのではない。
霞ヶ浦の湖底から泥をすくってその中から十数種類の植物の種を取ってそれを育てそれらの植物が育ちやすいような環境をつくってそれらを同時に植えたという。
そして今はそれが順調に育っているという。
417たか:2007/10/08(月) 21:21:58 ID:ypQvA9pS
良いといえば人は最短の良いことばかりを考えてその良いということばかりしようとする。
この場合も葦が良いということで最初葦だけを植えてしまったが、それでは不十分で結局失敗してしまった。
葦以外の植物が複雑に関係し合い影響しあって葦を育て葦の水質浄化する力を後押しし促していたと考え学ばなければならないだろう。
つまり私たちが良いと思っているものだけが良いのではなく、場合によっては必要と思われていないものでも何らかの形ではたらきがあってほかのものに影響を与えてうまくバランスをとっているといえそうだ。

これは目に見えるものだけでなく、心の中も同じだと思う。
誰かが言っているから正しいとか、私は名の知られた科学者であり科学を知ってるからこうだ、宗教を何年も学んだ学者だからこうだこれが正しいとはいえないし、言い切れない。
般若心経は見性の瞬間を現しているけれどその中身を理解しようとするなら般若心経の言葉文字を追うだけでなくほかの大乗経典も含めて総合的に理解するように努めなければならないだろう。
単にあれが良いからあれだけでなく、あれもこれもいろんなものに触れながら本当に自分のものとして身につくものではないでしょうか
418たか:2007/10/09(火) 16:52:46 ID:/Q/u+fbh
葦だけでなくいろんな植物が育つことで風の流れも、水の流れも自然に変わってきたのでしょう。
また、葦以外の植物もいて小さな微生物も魚も昆虫も集まって来やすくなったのかもしれません。
そしてそこには小さな生態系がうまれて、うまく循環し始めたのかもしれません。
それが結果的に水の浄化につながっているのでしょう。
よそでは葦が水質浄化に良いと聞くから葦だけでよいではなくて、本来その環境がどのようであったかを知ることが大切ですし、一番速い解決方法だったりします。
419たか:2007/10/10(水) 17:14:10 ID:y2rYwaEy
ありのまま。
春は花、夏ほととぎす 秋は月
      冬雪さえて すずしかりけり
420たか:2007/10/10(水) 18:35:35 ID:y2rYwaEy
なにも付け加えない。分析もしない。
現代人の知識などまったくいらない。そのまま受け入れる。
そなまま受け入れるのだから他との垣根など無い。
空相とは瞬時変化する実相をそのまま映し出したものだから実相に何も付け加えるものも無い。
だから空相は不生不滅であり、不垢不浄であり、不増不減なのだ。
これゆえに空の中は無色であり、無受想行識であるのだ。

観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 
観世音菩薩(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行した時、五蘊は皆空であると照らし観た。
世の中のすべてと自体一体、自他一如であると悟って一切の苦厄から解放された。
これを解脱といい、至彼岸といい、涅槃に入るといい、悟りといい、慈悲の心がわかった瞬間なのでしょう。
慈悲の心は他との境の無い自他一体に気づくことから始まります。
多くの本は無我や無常は説いても何故それが慈悲のこころに転換されるのか明確ではありません。
自分と隣の人は一緒なのだと感じるからこそ自然に手を差しのべやさしく接しられるのでしょう。
慧能禅師がが悟ったといわれる金剛般若経の一節、応無処住而生其心(将に住するところ無くしてしかもその心を生ずべし)。

ごちゃごちゃ現代人の知識で解説しないほうが間違って捉えることが無いのです。
421たか:2007/10/12(金) 21:18:51 ID:ivbwDowU
本来の自己とは空であり空相である。
無我というのはこの空相のことでもあり、無我ということは瞬時瞬時変化している実相(色)そのものだ。
このように瞬時瞬時に変化するの実相は空であり、空は実相そのままであり、本来の自己であり、本来の自己(空)と実相(色)はつまり本来の自己(自)と実相(他)は一体、一如である。
自他一如、無分別を智ることで自己は無でありながら取り巻く世界と一体であったという感動にいたる。
自己というとらわれから解放されることで苦がうせて安楽、涅槃寂静を智る。
これを般若心経では
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 
一切の苦厄から解放されることを智ったのだと言っている。

つまりこれを智ることで
三宝印
諸行無常(あらゆる現象は変化してやまない)
諸法無我(すべての存在に我という実体は無い)
涅槃寂静(迷いの消えた悟りの境地は寂静である)
という、仏法の教えの根本に至のです。

観世音菩薩は音によってこれを智り、別名自由自在の菩薩、つまり観自在菩薩といわれる。

即説呪日 羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶 般若心経
422神も仏も名無しさん:2007/10/13(土) 20:17:02 ID:9yTrW4Po
423たか:2007/10/14(日) 05:32:13 ID:zHJvsMsT
山修山学・12年籠山行
“最下鈍の者も12年を経れば必ず一験を得ん”の宗祖伝教大師最澄の教育方針に基づき、12年間定められた浄域、結界から一歩も外に出ず、新聞もTVもご法度でひたすら比叡山で宗祖に仕える行。
四種三昧行
 三昧とは精神を集中して散乱させぬことを言う。
 〈常座三昧〉 90日間、眠気を覚ますための歩行、食事、トイレ以外は結跏正座して堂に籠もる行。
 〈常行三昧〉 90日間、堂に籠もり念仏を唱え、阿弥陀佛を廻り一日20時間以上歩き続ける行。座臥することなく1メートル四方の縄床で2時間の仮眠のみ許される。
 明治時代にある僧がこの行に挑み、足が腫れあがり歩行不可能となり死去。過酷さから以降途絶えていたが、酒井大阿闍梨が千日回峰に入る前の昭和48年に満行している。
 〈半行半座三昧〉  
 〈半行非座三昧〉 隋自意に24時三昧に入る。形、期限のない至難の行。
千日回峰行
 天台宗独特の不動明王と一体となるための厳しい修行である。
 839年、天台宗第三世座主、慈覚大師円仁が遣唐使として唐に渡り、山西省五台山で修行。
 当時行われていた五台山五峰を巡拝する行を、帰国後弟子の相応和尚に伝授。
 これに「山川草木悉有仏性」(山や川、一木一草、石ころに至るまで仏性あり)の天台の教義と、日本古来の山岳信仰の流れが加わり、
一千日を7年間で回峰巡拝する修行法の基礎が創られたと伝えられる。

424たか:2007/10/14(日) 05:55:07 ID:zHJvsMsT
天台宗の荒行「千日回峰行」に挑んでいる星野圓道さん(32)=延暦寺大乗院住職=が13日、比叡山の無動寺谷・明王堂(大津市坂本本町)で、「堂入り」の行に入った。
千日回峰行で最大の難関とされ、断食、断水、不眠、不臥で9日間こもる。
堂入りする行者は6年ぶり、戦後12人目。(京都新聞)
という記事がヤフーに載っていた。

前に書いたけれど、以前NHKで放送さた千日行をされていた修行僧と同じ人なのだろか。
423は千日回峰と比叡山の行をコピーしたものだ。
四種三昧行というのがあって常座三昧、常行三昧のほかに半行半座三昧、半行非座三昧というのがあるのを初めて知った。
425たか:2007/10/14(日) 19:36:21 ID:zHJvsMsT
424に続く、
特に、〈半行非座三昧〉 隋自意に24時三昧に入る。形、期限のない至難の行、というのがよいなぁ。
本来生きるということは半行非座三昧のようなものであって、もう少しはっきりいえば非行非座三昧ともいえそうだ。
でも非行非座三昧などというと仏法などどうでも良いと誤解されてしまいそうであえて半行非座三昧としているようにも思える。
前にも何度か書いたけれど、私は座禅も念仏もしないけれど、先人たちが何を伝えたかったかを理解できる。
それぞれの先人の考えや教えは少しずつ違っていても多くの人に自分の得た仏法を伝え、少しでも悩みや苦しみをやわらげてあげたいという気持ちはひしひしと感じる。

釈迦は悟った後苦行することではなかったといっているのに何故こんな苦行のようなことに執着するのだろう。
千日回峰行を終えれば阿闍梨と呼ばれるらしい。
確かに普通の人に
はその行を成し遂げることはできないことでその行を終えた人にとっては達成感もあり名誉なことだろう。
でも誰もができることをして、自他一如、宇宙との一体感を得て苦しみから救われるのだとしているのが大乗仏教の根本の中の根本だ。
般若心経の最後の部分の、
  羯諦 羯諦 波羅羯諦 波羅僧羯諦 菩提薩婆訶
は、
 あなたもできるのだから、さぁ一緒に苦しみから脱却解脱しましょう、と菩薩の先人たちが私たちに呼びかけ励ましているのだ。
そのことを忘れてしまっては、山川草木悉有仏性、という言葉や教えも全く霞んでしまう。
426たか:2007/10/15(月) 11:16:51 ID:pE+kPmCv
ニュースを見ると地球温暖化をはじめ環境問題が話題にならない日はない。
考えてみれば私たちは限られた条件の中でやっと生きてる、活かされているに過ぎないと思えてくる。
猛暑といっては室内の冷房の中にいて熱い空気と二酸化炭素を外に際限なく放出している。
ニュースでは温暖化を毎日聞きながら、でもねぇ、暑いんだから冷房がなけりゃいられないよ、と。
昨日は中国の黄砂が取り上げられていて温暖化が中国内陸部の砂漠化を招き乾いた砂が風で巻き上げられて中国の大気汚染物質と一緒に朝鮮半島や日本にひっきりなしに流れ込んでるらしい。
部屋の中の冷房の効いた中で大型テレビでニュースを見ればなんとなく他人事だ。
理論や理屈はよく解っていますよ。私はいっぱい本を読み、人より研究しているのだから。
でもきっと部屋の中で理屈を練っているだけでは解らない。
黄色い空気、黄砂の中に入ってみて始めて感じる、心身ともに感じることがあるはず。

仏法の教えも同じように理屈理論だけではだめだと先人たちはいっていると思う。

ニュースの中で、北京オリンピックへの影響を恐れて中国は最近黄砂や気象の情報を出し渋っているという。
いくら部屋の中が快適で機械できれいな空気で満たされていて満足だなどと思っていてもそれはほんの一瞬のこと。
周りの環境が大きく変化すれば、そしてそれに対応できなくなれば生存できなくなることは解り切った事のように思えるのだが。
427たか:2007/10/15(月) 13:07:00 ID:pE+kPmCv
最近は動物や植物、つまり生き物の習性や生き方を教えてくれっる番組が多くある。
それを見てると凄い環境の中で驚くような対応で生きている生き物が多いのに驚くものだ。
動物の中には鮭のように生まれた川に4年後に戻ってきて子孫を残したあとすぐに命尽きるものも多い。
昆虫などはほとんどがそうだし、植物の一年草などもそうだといえる。
また、ミツバチの働きバチのように自分の子孫を残すというより一生懸命働くだけ働いて1ヶ月の命を尽きてしまうものもいる。
それを見ていて私などはこれらの生き物ははたしてこの世に生まれて喜びが何か在るのだろうかと考えてしまう。
生きることが本当に苦しみだけであり、本当に苦しみだけであるだけではたして生命が今まで続いてきたのだろうかと疑問に思う。

そのことについて少し書いていきたいと思う。
428たか:2007/10/20(土) 22:19:55 ID:/MoMmeWQ
以前、何かを読んでたら、
 AはAでない、それゆえに、AはAである。
というのが書いてあって、金剛般若経にこのような考えが書いてあって空を説いているという。
これだけ見ると何を言いたいのかさっぱり解らないだろう。
金剛般若経の作者はいったい何を伝えたいのか? 解るだろうか。

429たか:2007/10/22(月) 23:56:52 ID:Z2YwdOhx
AはAでない、それゆえに、AはAである。
Aを火又は炎に変えたら解りやすいだろうか。

今、目の前で燃えている炎は炎ではない、それゆえに、炎は炎である。


雲は雲ではない、それゆえに、雲は雲である。
あなたはあなたではない、それゆえに、あなたはあなただ。

雄也くんは雄也くんではない、それゆえに、雄也くんは雄也くんだ。
309さんは309さんではない、それゆえに、309さんは309さんである。

Aはいろんなものに置き換えることができて、いろんなもので置き換えるとなかなか楽しい。

でも、何故に先人たちは、
  AはAでない、それゆえに、AはAである
などというのだろう。
大乗の悟りを得た先人は何を言いたいのか。
430309:2007/10/24(水) 23:03:06 ID:zAKQg/wf
 お久しぶりっす。コツコツ続けてます。もう癖みたいになりました。
たかさんに質問ですが、見性する上で邪魔になる自我って何で存在していると思い
ますか?実に余計なものですよね。

 ずっとたかさんのカキコ楽しみにしてますよ。僕以外にもROM専の人も
結構いると思いますので、どうかこれからもカキコよろしくお願いします。
431たか:2007/10/26(金) 00:58:36 ID:nQ99yzc7
309さんへ、
お久しぶりです。
続けているということですので、是非そのまま続けてください。
座禅や念仏も良いのですが、仏鈴の音や自然の音に身を任せることが一番よいと私は思います。
自分で悟りを得てやると力まずに、自然に身を任せることが大切です。

私たちがこの世に生まれてきた時は赤ん坊の身体をした中身が空っぽの状態で生まれてきました。
仮死状態で生まれたともいえます。
そして、オギャアと泣きながら初めて空気を吸い、初めて光や音を全身に浴びて初めてスタートしたといえます。
以前、400で、見性体験は人生で二度目の体験だと書きましたが、誤解を恐れずに書くと、最初の一度目の体験はいつかというと、母親から生み出された瞬間、初めて息を吸い込んだ瞬間ではないかと私は考えています。
こんなことを書いている人はほとんどいませんが私たちがこの世に生まれた瞬間は、見性の時のなんともいえない安らかな大いなるものに抱かれているような喜びとも言えるようなものだったのだろうと。
私の体験を振り返ってみて、見性とはなんだったんだろうと考えてみると、いちばん納得できます。

432たか:2007/10/26(金) 01:14:49 ID:nQ99yzc7
般若心経に、観世音菩薩が、深般若波羅蜜多を行じた時、五蘊は皆空であると照見して一切苦厄を渡したもう、と書かれています。
この一切の苦、厄がない瞬間に、かって一度体験した喜びを思い出して苦、厄を克服しなさいと導いているように思えます。
433たか:2007/10/28(日) 17:58:38 ID:qISQ9g4/
生まれた時には空っぽですべて他のからの条件を受け入れるだけですので、それで自らは無といっているわけです。
赤ん坊の身体でさえも次々に変化する他からの条件を受け入れて一定の条件下の中で他の変化に適応し常に変化しているといえます。
ただ人間の赤ん坊をはじめ鳥類や哺乳類と呼ばれるものは赤ん坊のままでは自らが餌もとることはできず、そのままでは餓死したり他のものに食べられて生きることはできません。
ある程度に自立できるまで親や仲間が面倒をみることになります。
そして最初はただただ受け入れるだけだったものが成長に伴って知識や自我が芽生えてくるのでしょう。
ですから自我がすべて悪いわけではなく成長の上で、逆に生命を維持する上で大切なものと言えます。
生まれた時のようにすべては受け入れているだけに過ぎないのには違いなくそれが根本であるのに違いないのですが、それがあまりにも当たり前のことになってしまいすっかり忘れ去られてしまいます。
一方経験をつみ知識や知能を高めることですべてが思いどうりにいくようなある種の錯覚を持つようにもなります。
経験をつみ知識をつむことは大切ですが、すべては他からの働きかけ、他からの無数の条件の変化によって成り立っているものですのでいくら知識を駆使しても自分の思いどうりにはなりません。
そこに自分の思いと現実のギャップが生じ、苦、苦しみが生じるのでしょう。
434たか:2007/10/28(日) 18:02:17 ID:qISQ9g4/
433続き、
多くの人は無常や無心、無我という仏法の知識教えを聴いてなるほどなるほどといっては頭や知識で理解し考え納得しようとします。
つまり日ごろ慣れ親しんでいる自我から離れないで理解しようとしているといえます。
実際これ自我を自らはずすことはできないのでしょう。
ですからまずは私たちが生まれた時にはなかった言葉や意識、イメージなどを浮かべない瞬間を時間をつくることが大切でしょう。
でもそれでもなかなかいかない場合が多く、最後は自分では力尽きて他に身をゆだねるしかなくなるのでしょう。
この時仏に一切を委ねることを易行道などといいますが、単に念仏を言うだけでは身を委ねたことにはならないのはお分かりだと思います。
私が仏鈴の音を繰り返し言うのは、先ずは自我や知識でいっぱいに満たされている心を空っぽにする瞬間を身につけることにあります。
言うは易く行うは難しでなかなかうまくはいかないでしょうが、309さん是非続けてください。
前にも言ったように誰もが一度経験しているものに帰るのですし過去多くの人が経験しているのですからできないはずはないのです。
私のいっているのは日ごろの生活の中でもできることであり苦行でも何でもありません。
ただただ音に響きに身を任せてみることを薦めているのです。

435たか:2007/10/30(火) 19:16:15 ID:gTgB1cdV
私は観音つまり音を観るということを中心に書いているけれど見性の時にもう一つ大事なきっかけがあったのを覚えている。
それは呼吸だった。
私が書いているのを読み返していただければ息、呼吸のことがところどころに書いている。
私が言う呼吸は座禅で言う数息観という意味ではなく、そのままの呼吸だ。
全身を包み込む空気と光と音。
それを感じる、観ずることが見性とも言えそうだ。
多くの人は光、無量光のことだけいうけれどでもそれでは偏った思い込みになってしまう。
まぁ、このようなことを書いているのは他に見当たらないけれど。
436たか:2007/10/30(火) 19:44:52 ID:gTgB1cdV
見性は無我であり無心であり空なのだからその時のことを覚えているのは変ではないかと思う人も多いだろう。
でも、実際に記憶に残っているものだ。

唯識などでいう識ということもここから来ているかもしれない。

空論  一切に実体がない、という唯一の実感がある。
中観  一切に実体がないだからすべては空である。
唯識  唯一実感がある、だからすべては識である。
解脱
非想非非想処  
    中観と唯識を超えた、一元の世界
    空論の前半を説くと 中観になる。
    空論の後半を説くと 唯識となる。

理解できますか?
437たか:2007/10/31(水) 16:15:49 ID:vWPx1MAS
中観派の代表的な人が竜樹で、唯識派では無著(アサンガ)、世親(バスバンドゥ)の兄弟です。
西遊記で有名な玄奘三蔵は唯識を学ぶためにインドに渡ったといわれています。
般若心経のなかで
観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄 
観世音菩薩(観自在菩薩)は深淵な“智慧の完成(般若波羅蜜多)”の修行した時、五蘊は皆空であると照らし観た。
としていますが、一切は空であるということを実感した、実体験したといっているのでしょう。

唯識では6種の識(眼,耳,鼻,舌,身,意の六識)のほかに末那識(まなしき)と阿頼耶識(あらやしき)という二つの深層心理をたてます。
末那識は私たちがこの世に生まれて後たくわえ蓄積されてきた経験や知識であり生きるためには必要ななものともいえます。
これが自我といわれるもので私たちの深層にありながらその後の行動や心のはたらきに大きく影響を与えます。
自分を守る、自分を生かすものである反面、外から入ってくるものをそのまま、ありのままに受け入れずにその自我に沿った見方や判断に曲げてしまいます。
瞬時変化する現実をありのまま受け入れずに自分勝手な自我をとおすことで現実と自分の心にズレが生じそれが大きな苦しみともなります。

仏法はこの自我をいったん取り去るということを経験し、本来あった阿頼耶識に触れることで、今まで得た生きるために必要な知識や経験を生かしながらも自我に捉われない生き方ができるということを示します。
自我に拘らずに、捉われずに、偏らずに自由自在に生きることができるのだと説いているのでしょう。
これを別な言葉で涅槃寂静の境地とも言えるのでしょう。
438たか:2007/10/31(水) 16:56:23 ID:vWPx1MAS
私たちは窓が大きく開いた空気も光も音も自由に入り込む部屋にいたのですが、いつの間にか窓を締め切りガラス越しに壁越しに外を見てしまいそれにも気づかないといえます。
いくら透明なガラスでもあるのと無いのでは全く違います。
ましてやガラスの窓も無く厚い壁に塗り重ねて部屋に閉じこもってしまってはせっかく生まれてきたのに台無しのように思えます。
大乗はこの窓や壁を般若の智慧で開け放ち外の空気や光や音を自由自在に取りこもうとするものです。
この体験が見性というものです。
空気と、光と、音と一つになる、なっていたという実感が大きな安らぎと感じられるのです。
時には窓を開け時には窓も閉め、自然にそれを行っていく、これもまた自由自在というものでしょう。
本来の自分を取り戻して、同時に自我ともうまく共存していくことが煩悩即菩提といえるものでしょう。
439たか:2007/11/01(木) 17:50:41 ID:C8jqqLjY
309さんへ、
見性したからといって、例え悟ったとして、今までいきてきた自分またそれまでの知識が無くなるわけではありません。
空を智ることで自我に捉われずに自我に振り回されずに生き、逆に今までの経験を糧にそれをうまく生かして生きられるというものでしょう。
例えば悩み苦しんでいる人を見てその人の苦しみをやわらげたいと思う慈悲の心も自分が苦しみという経験をしていたからこそ自然に沸き起こるのでしょう。
今まで自我に捉われてしか観ることができなかった見方が全く違った見方、空という捉われの無い捉え方でみることができるということです。
そのために時に自我は無用といって導くのです。
まずは末那識という深層にしまっているものを一切払いのけて空っぽにし、自己本来、最初に立ち返ることが大切なのです。
440たか:2007/11/01(木) 18:57:04 ID:C8jqqLjY
炎は炎ではない、それゆえに炎は炎である。

庭で枝や枯葉を燃やしている時の炎はその時その時、瞬時瞬時形を変えます。
いっときとして同じ炎の形は無いでしょう。
枝や枯れ葉が乾いて燃えやすい時には炎が生きよいよく燃えます。
空気が乾燥しているか風が吹いているかなど無数の条件のバランスで炎の形が成り立っていますし、常に変化しているものです。
またそれに水を掛ければ一瞬で炎は消えてなくなります。
炎は自らが炎の形を生み出しているものではなく他の条件で成り立っているといえ、かつ、瞬時瞬時は条件で断絶されているともいえます。
炎は炎ではない、とはこういうことでしょう。
ではその炎はないかというと無いというのではなく、その時のあらゆる条件が炎という現象を生み出しているともいえます。
それゆえに炎は炎である、といえます。
その時のあらゆる一切が瞬時の炎を生み出していたのです。

これは他にも言え、AはAでない、それゆえに、AはAである、とも言えます。

ユキさんはユキさんでない、それゆえに、ユキさんはユキさんである。

多くの般若心経の解説書は、すべてに実体が無い、つまり、前半部分のAはAでないというところだけ書かれていて後半部分が抜けています。
般若の智慧とは、
  AはAでない、それゆえに、AはAである
という全体を智ることも大切なのです。

これは言葉を変えれば、色即是空、空即是色、ともいえそうに思えます。
441たか:2007/11/01(木) 21:24:32 ID:C8jqqLjY
色は実体はない、実体が無いものが色であり、それゆえに今ここに現れている色は色である。
442たか:2007/11/03(土) 02:20:08 ID:59vopFS2
すべての事象や現象は他からの多くの条件、縁によって現れてるのであり自性はないので実体は無いけれど実体は無いに拘り虚無に拘ってはいけなません。
逆にそれを智ることで自分も他もその時のその出会いがいかに偶然でかつ尊いものであるのかを知り悟るべきなのでしょう。
千利休の茶道の言葉に一期一会という言葉がありますが将にこれを云わんとしているのでしょう。
あい対する人のすべてが尊く、周りにあるものもすべて尊い。
そして茶室という空間も尊く、その一瞬一瞬の時も本当に尊い。
飾り気無いものであっても将にそれ故に今の自分をかたちづくっていてかけがえの無い尊いものでしょう。

空を智り、空を智るがゆえに空も拘らない、、空を空じるという言葉もあります。
座禅にしろ念仏にしろそれで見性したと思える人はその後座禅することも念仏も苦ではなく安楽と言われるのはその尊さに気づいてその尊さの中に身も心もおいているからかも。
だからこそ、その姿を悟りの姿というのでしょう。
443たか:2007/11/05(月) 05:01:32 ID:OsRP0TPO
一期一会とは、原因があって条件、縁があってだからこうしてここにあるなどということもはさまずにただ目の前にあるものとの出会いだけをその尊さだけを楽しむ喜ぶのでしょう。
人生は苦だなどといって迷いの中ばかりを堂々巡りせずに、今在ることの喜びに気づき知ることです。

考えてみると釈迦でさえも王子として庶民から見れば極楽のような環境にいながら、心は末那識に操られた不安と苦しみという地獄にいたのかもしれません。
444キリトリス:2007/11/05(月) 05:14:18 ID:mBKcz5i7
プロレスよ
445たか:2007/11/12(月) 02:34:13 ID:tWjmDPtx
多くの人は阿弥陀仏にしろ観音菩薩にしろ大日如来にしろ他の如来、菩薩も拝む対象、崇拝する対象だと考えています。
だから、キリスト教や他の宗教とごっちゃに同じにしてしまいます。
たしかに阿弥陀仏や観音菩薩に救ってもらいたい願って仏法を学ぶ人がほとんどですので宗教者僧侶も含めそのように間違ってしまいます。
しかし、大乗仏教の如来、菩薩は最終的には拝む崇拝する対象ではありません。
見性、または悟りにおいては、自分の身体、心の中にもあって自分を突き動かし、自分を生かさせているのだと知るのです。
これを大乗では一切衆生悉有仏性といい、道元禅師においては、悉有は仏性の現れであると言い切ります。
親鸞聖人は環相回向で説明します。
観音菩薩は頭に阿弥陀仏を掲げていますが、将に阿弥陀仏と観音菩薩は一体であり、見性悟りに気づいたものは観音菩薩と同じだと示しているのです。
観音菩薩は智慧つまり悟りと慈悲の象徴ですが、それは見性の時の自他一体の体験、無分別の体験から慈悲の心が強く芽生えるのです。
446たか:2007/11/12(月) 03:28:53 ID:tWjmDPtx
仏に手を合わせていながらも阿弥陀仏も無ければ観音菩薩も無い、釈迦も無ければ釈迦の教えさえも無い、一切無いから本来無一物。
とは、空であるということは本来無一物であり、仏性の現れであり、言葉を変えれば環相回向のあらわれだという事を言いたいのです。
447たか:2007/11/17(土) 12:03:51 ID:lm26yWbp
音が鳴るとともに、あっ、と息を呑む、吸い込む。
息と光と音とが自分の中で一つになる、これを如来といい、仏といい、観音という。
故に、自他一如、無分別という。

光も音も己も一つ一つが別々のものでなく一体をなしている。
一体をなしながら常に変化していてその変化は止むことが無い。
これを無常といい、己が別の単体で無く他とのかかわりの中で変化し続けていることを無我という。
一体となった時、または一体となっていると気づいた時、例えようの無い安らぎと喜びがあり、この不退の安らぎを涅槃寂静という。
釈迦は一切苦と説いたが、一音を得た観音菩薩はこの一音で現世にいながらにして一切苦を克服することができた。
 観自在菩薩 行深般若波羅蜜多時 照見五蘊皆空 度一切苦厄
と般若心経で示している。
448たか:2007/11/17(土) 13:11:03 ID:lm26yWbp
この世にいながらにして、穢土から浄土への心の転換がある。
これを煩悩即菩提という。
般若心経は般若つまり智慧のこころを説いていることを忘れてはならない。
心を説いていることを忘れて物の分析にばかりに気をとられているから般若心経を解らなくしてしまうのだ。

穢土苦しみに満ちた世界が一瞬で安らかな喜びのかけがえの無い世界に変わる。これを頓悟という。
これによって一期一会、瞬時瞬時の出会いが大切であり、自然にものや人に対してやさしく接するようになる。
この自然に沸き起こる心を慈悲といい、悩み苦しむ人に手を差伸べたいと思うのだ。

音によって悟りに至ったもの皆は観音菩薩の道を歩んでいるのだから躊躇無く手を差し出しなさい教えは説いている。

449神も仏も名無しさん:2007/11/25(日) 22:47:50 ID:JDXfzA5S
観世音菩薩。
450たか:2007/11/29(木) 11:58:59 ID:nYt9Tpyv
如来、菩薩の中で宗派を越えて、愛され信仰の対象となり、理想像とされるのが観世音菩薩だろう。
禅宗では観音菩薩の般若心経、観音経を読み、浄土宗真宗では観音菩薩の徳を説く無量寿経観無量寿経、日蓮系でも法華経の中の観音経を読む。
天台宗は般若心経や法華経、真言宗も般若心経が大切な経典だし、このように宗派の垣根を越えて読経では常に重要な役割の中心の存在だ。
信仰の対象とされる一方、衆生の理想の菩薩であり、現世利益の徳を持ち、あわせて死後真っ先に現れて法を説き、浄土へと導くのも観音菩薩とされている。
451たか:2007/11/29(木) 12:30:46 ID:nYt9Tpyv
観音菩薩の仏像の多くは立像が多いというかほとんどが立像だ。
衆生の救いの声を聴いてすぐに行動することを形にしたのが立像だという。
観音経では救いの声を聴いて最も良い形に姿を変えて衆生を救うとされる。
時には仏に姿になり、時には隣人の姿に成り代わって救いの手を差しのべる変幻自在の菩薩だ。
多くの人は観音経に書かれている観音菩薩の名の由来を聞いて信じて観音菩薩に手を合わせ、願い事をする。
これは庶民を仏法に導くためにはうまいやり方だろう。
452たか:2007/11/29(木) 12:49:49 ID:nYt9Tpyv
禅はおおくの場合坐禅を指導するけれど、悟りを得れば坐ってだけではおられぬのが観音菩薩というものだろうか。
坐っては衆生の苦しみと救いを考え、立っては即座に救いの手を差しのべる。
悟ってみれば、座る、立つという二極に拘らない、これもまた菩薩の見方と言えるようにも思えます。
453たか:2007/11/29(木) 13:01:01 ID:nYt9Tpyv
礼拝するためにだけの座ったり立ったりする修行ではなく、見方を変えれば、これもまた菩薩の修行。
454309:2007/11/30(金) 17:38:48 ID:r4dMKZ5d
ようやくアク禁抜けれました。何でだ?荒らしてないぞ。
たかさん質問ヘのお礼、遅れてすみません。ありがとうございます。
思考をストップする、ということに少し慣れてきたかもしれません。
コツがつかめて来たと言うか。ただ、意識の力で無理やり力まない
ように気をつけます。
455たか:2007/12/01(土) 19:21:55 ID:ycdT49H9
309さんへ、
自我についての309さんの疑問にうまく答えられたでしょうか。
仏教では無我を説き無心を説くため、自我など全くいらないと教える人もおりそのように思っている人も多いでしょう。
でも実際は、無秩序に自我に振り回され苦しむことから抜け出して、見性、悟りを得て自我を自然にうまくコントロールしながら生活に活かしていくというほうが正しいでしょう。

仏教では自我の苦しみ迷いの世界を煩悩の世界といいその煩悩の混沌としていることを池の底の泥に例え、その混沌とした泥の中から芽生え池の上にきれいな花を咲かせる蓮華を見性悟りに例えます。
迷い苦しみのドロドロの泥の中で仏法というひかりまたは観音という音に出会ってそのはたらきで茎を伸ばし逆にその苦しめていた煩悩さえ栄養養分にして蓮華は育ち花を咲かせると考えるのでしょう。
観音菩薩の絵、仏像を見ると必ず水つぼ、または蓮華のつぼみを手に持っています。
水つぼは蓮華の池を表しそこから蓮華の花が咲くことを暗示しています。
自我及び煩悩の中を通ってこそ悟りというきれいな花を咲かせることができるのだと教えているのでしょう。
蓮華の花は不思議にも花が開いた時には花の中に新しい種を宿していると言われています。
その種が池に落ちてまた新しい命を伝える。
仏法も同じように人を通してその教えを多くの人に伝え未来に伝えてゆく。
迷いの衆生を救いながら同時に仏法の教えを伝えていくそれを形にしたのが観音菩薩像かもしれません。

456たか:2007/12/01(土) 19:56:06 ID:ycdT49H9
大乗の経典には他の浄土の国から娑婆に来た菩薩が登場しますが、そのほとんどがこの娑婆の迷いに満ちた煩悩の中で悟りを得ることの難しさと尊さをたたえますね。
清浄な煩悩の無い浄土では迷い苦しみが無いため煩悩の中で悟りを得ることの困難さを知らないといいます。
煩悩即菩提とは言葉を変えれば自我即無我、自我即無心の転換と言ったら言いすぎでしょうか。
457たか:2007/12/01(土) 20:56:01 ID:ycdT49H9
309さんはだんだんコツがつかめてきたということでよろしいような気がします。
是非そのまま続けてみてください。

これから少し書きますが名だたる禅僧などほとんどが必ず壁にぶち当たります。
いくらやっても突破できない壁があります。
でもこれがあって初めてというところがあってその壁を感じることも大切です。
自分では突破できない壁を心底感じて初めて仏、如来、菩薩に身を任せようと思います。
これを、仏の家に身を投げ入れろとか、百尺竿頭一歩踏み出せとか言います。
実際の釈迦は如来も菩薩も言っていないのに何故大乗では如来や菩薩を敬うのか、名だたる大乗の名僧が如来菩薩を敬う理由の一つがここにあります。
つまり多くの僧が如来や菩薩に身を任せることで悟りに至ったという経験を持っているのでしょう。
何度も書いていますがこれを易行道といいます。
たいていの人はこれを聴いてそんな馬鹿なと思うものですが、実際はこれが一番速い自我を手放す方法であり、道といえるでしょう。
親鸞聖人は阿弥陀仏か観音菩薩か、弘法大師空海は虚空蔵菩薩でしょうか、禅宗なら観音菩薩でしょうか、仏に身を任せて、同時に音に身を任せて見たらいいでしょう。
458たか:2007/12/02(日) 01:26:30 ID:cyB9Wbn2
香厳撃竹(きょうげんげきちく)という話があります。
香厳は聡明で経典もよく理解していた学者肌の人だったという。
師の偽山禅師は父母未生以前の面目という現代でも公案で使われる問いを出したというが香厳はこたえられなかったという。
自分では答えをみつけられずしかたなく作務をして暮らしていたという。
ある時庭掃除でほうきで庭を掃いてたとき小石が竹に当たった音を聴いて即座に悟ったという。

香厳の聞いた音、これが一音であり観音であり観世音なのである。
459たか:2007/12/02(日) 14:47:27 ID:cyB9Wbn2
私は前から公案に拘って悟りを開こうという姿勢に否定的です。
香厳和尚の撃竹の一音でもわかる通りこの一音でほとんどの公案が解決します。
それだけでなく安楽、安らぎを身体全体で感じ、生きる生きている喜びを強く感じます。
この安らぎ生きる喜びを体感することが大切であり、それを多くの人達と一緒に伝えようと行動しながら生きていくことが大切なのでしょう。
果たしてただ公案を解くことでこれを感じることができるのだろうかと疑問に思うのですね。
460たか:2007/12/02(日) 15:51:05 ID:cyB9Wbn2
香厳撃竹は般若心経で言えば、無眼耳鼻舌身意 でしょうか。

香厳上樹という公案もありますね。
461たか:2007/12/02(日) 17:13:21 ID:cyB9Wbn2
即心即仏、非心非仏は馬祖道一禅師の言葉。
観音菩薩の前で手を合わせていながらも観音菩薩などひとかけらも無い。
ましてや、心など無い。
ある時突然、即心即仏と智る。
即ち、観音を知る、これを見性という。
462たか:2007/12/06(木) 21:47:12 ID:dYyYkipO
鐘声七条。       この公案は一音を観じればいちごんも加えず、ということです。
自己の壁にぶつかってもがいていたものが、一音で壁が無くなって清々、喜びになる。
463神も仏も名無しさん:2007/12/07(金) 20:01:04 ID:pl2g1KTo
松島は待つ島だったそうです。
464309:2007/12/09(日) 22:51:42 ID:7bJ0oF/H
>たかさん

質問の回答、すごくわかりやすく腑に落ちましたよ。
ありがとうございます。

手を合わせている間は頭の中のおしゃべりはだいぶ止むようになりました。
しかし、心が鎮まる一方で、静寂を嫌い対象を求めて心がさまようのを
感じます。また、上手く言えないのですが、言語化以前の意味の塊?
思考の塊?のような物が心の中に生起し、素早くササッと動くのも見えます。
でかい音が消えたら小さい音が気になりだしたような気分です。
中々奥が深い。というかなんだか面白いです。
465たか:2007/12/11(火) 13:13:56 ID:ZlbJ0uuU
OCNということでアク禁だそうです。
書きたいことはあるのですが思うようにいきません。
これも、法、無常といえるでしょうか?

463さんへ、
松の木ばかりがまつじゃない、という歌が昔ありました。
何度か松島に行きその時松の島だとおもっていましたが、違う意味があったのでしょうか。
松という言葉で、庭前柏樹、という公案が思い浮かびます。
466神も仏も名無しさん:2007/12/11(火) 21:57:35 ID:8zKlp9K2
463です。庭前柏樹の公案ちんぷんかんぷんです。
松島で食べた牡蠣は美味しかった、牛タンがなんで名物なのか、肉の部位は他にもあるのに。
瑞巌寺は入場料高くないですかね?
やはりあの辺で一番は鳴子ですか。
467たか:2007/12/13(木) 13:35:39 ID:ktTCtOXf
冬といえば牡蠣がおいしいですが、去年は殻つきの牡蠣を買ってノロウイルスのためか、ひどい下痢になりました。
今年も牡蠣を食べておいしかったのですが以前ほど感動がないのがざんねんです。
私は牛タンのほうが好きですね。
一番の老舗の太助に牛タンの由来が書いてありまず。
この店にはじめていったのはそうとう前ですが。
468神も仏も名無しさん:2007/12/15(土) 13:34:20 ID:E1f8VeEZ
「この世の実相を会得せずして、どんな宇宙や天地の虚相を究めても、
 それは皆、依草附木、野狐の妖怪にすぎない。」
469たか:2007/12/18(火) 23:14:07 ID:mVa/cg9B
禅宗無門関(無門慧開の自序

仏が説く清浄な心こそ要とし、入るべき門の無いのを法門とする。
では、入るべき門がないとすれば、そこを如何にして透過したらよいのであろうか。

 
「門を通って入って来たようなものは家宝とはいえないし、縁によって出来たものは"始め"と"終わり"、"成る"と"壊れる"がある」
 と言うではないか。

わたしが集めた仏祖の話にしても、風もないのに波を起こしたり、綺麗な肌にわざわざ瘡(きず)をえぐるようなものだ。

ましてその言葉尻にのって何かを会得しようとすることなど、もってのほか。棒を振り回して空の月を打とうとしたり、靴の上から痒みを掻くようなことで、どうして真実なるものと交わることができよう。

わたしは………これを『無門関』と名付けた。

もし本気で禅と取り組もうと決意した者ならば、身命を惜しむことなく、ずばりこの門に飛び込んでくることであろう。その時は三面六臂の大力鬼王でさえ彼を遮ることはできまい。インド二十八代の仏祖や中国六代の祖師でさえその勢いに命乞いするばかりだ。

しかし、もし少しでもこの門に躊躇するならば、まるで窓越しに走馬を見るように、瞬きの間に真実はすれ違い去ってしまうであろう。

参考資料   無門関・西村恵信訳注/岩波文庫
470たか:2007/12/18(火) 23:47:28 ID:mVa/cg9B
自分ではどうにもならない壁にぶつかる。
この壁に連なってきっとあるだろう入るべき門や関も見あたらないし、ましてやそんな門や関など通り抜けることなどできそうにない。

ところが、自己を離したとたんに、言葉を変えれば、自己を離していただいたとたんに、この壁も門も関も元々無かったんだと気づき、驚き、歓喜する。。
それを無門関というのだろう。


471たか:2007/12/20(木) 23:38:24 ID:T+h2snnt
463さんへ、
この柏の木は松や檜に似た木とか。
まぁ、そういうことから言えば、達磨大師も、この柏の樹も、松島の松の樹も、そして我々自身一人一人も、同じでしょう。

472たか:2007/12/21(金) 00:00:12 ID:T+h2snnt
309さんへ、
自我について、腑に落ちましたよ、ということですので、少しは書いた甲斐があったでしょうか。
空、仏性について書いてきましたが、309さん、私が書いてきたのを読んでみて少しは理解できるでしょうか?
私は文を書くのは苦手ですが誰にでもわかるようにという気持ちでできるだけ書いています。
473神も仏も名無しさん:2007/12/22(土) 14:27:28 ID:CtnzMapl
無師独悟ってなんですか?
474たか:2007/12/23(日) 16:41:11 ID:RCD96aF9
473さんへ、
まぁ、このような仏教の言葉は私の聞くよりも、無師独悟を検索してそのいくつかを読んでみることも大切です。
何故ならこの無師独悟という言葉一つとっても全く逆の意味合い、解釈で書かれてたりします。
ですからどうしてそうなのかという事も考えてみることも大切でしょうから、先ずは検索してそのいくつかを自分で読むことです。
とはいってもせつかくのご質問ですから私なりに書いてみます。

無師独悟、無自独悟とは、釈迦は仏教の開祖であるので師と言える人はいなく自分自らが一人で悟ったのだということでしょう。
でも釈迦のあとに続く人達、仏法を学ぶものは先人及び師と言われる人の指導または導きで仏法を深めていきます。
その時、代々伝わってきた経典を読み、作法を知りそれを修得しようとします。
多くの人は釈迦や師の言葉や教えを学び、作法や経典を修得し身につけることが悟りに通じるのだと思い違いをしてしまいます。
何度も書いてきたことですが、悟りとは、生まれて後心身につけてきた自我をいったん捨てきって元々の自分又は真理に気づくことでしょう。
釈迦が悟った時、いっさいのことを考えられなかったように、仏もなければ仏法もなく、師もなければ自らもなく、経典もなければ教えの言葉さえなかったでしょう。
見性前においては、師は弟子にいっさいを捨てるように導くことが大切であり、仏法知識を教えることではないのです。
無師、無自になってこそ、悟りが独りでに身につく、身についていることに気づくのでしょう。


475たか:2007/12/23(日) 17:15:52 ID:RCD96aF9
私が何度も書いている、仏、仏像に手を合わせていながらも、そんなことさえいっさい頭にはない、当然釈迦や師匠など頭にあるはずもないのです。
仏にいっさい身を任せながらも、仏に身を任せていることさえもまったくよぎらない、忘れ去っている。
見性体験の状態とは、まさに釈迦が悟りを得た瞬間、道元禅師が心身脱落した瞬間と同じ体験をするのです。

これもまた何度も書きますが、見性のあと、師の指導又は先人の残した経典や教えが大変重要になります。
見性で感じたものをどのように理解すべきか、どのように自分のものとすべきか、これを怠ると全く違うものになります。
先人の教えを正しく身につけることは、後に、後進を導く場合も大切であり、間違った妄想を伝えないことになります。

多くを読むと見性らしきことをした人はいてもその後、自己の見性体験と法、又は先人の教えと照らし合わせることをしない人が多く、自分の更なる妄想を仏法だと思い違いをしている人が多いのです。
476たか:2007/12/23(日) 18:09:50 ID:RCD96aF9
無師、無自とは、師と自の境がなくなった状態、師自一体、如浄禅師と道元禅師の脱落心身、心身脱落でしょうか。
477たか:2007/12/23(日) 18:55:05 ID:RCD96aF9
松といえば、長谷川等伯の国宝、松林図が浮かびます。
千利休と関係があり、長谷川等伯が出入りしていた禅寺大徳寺には柏の樹があるそうな。
庭前柏樹の公案と等伯自身の故郷七尾の松林を重ねて、等伯は日本画の最高傑作松林図屏風を描いた、と私は思っているのですがどうでしょう。

僧が聞いた。「達磨がインドから来た理由は何でしょうか」 趙州和尚が答えた「庭の柏の樹だ」

等伯は雪舟の弟子と自らを称しています。

仏とは何でしょうか?

松林図にはただただ松の樹が描かれているだけです。
松の樹以外は全くの白であり、霞でしょうか。
でも私にはこの松以外の余白、空間にあらゆる一切が隠され、逆にあらゆる一切が描かれているように感じるのですがどうでしょう。
松のほかに何かを描けばたちまち余計になる。
ただただ松林を漂う風や空気や光が感じられます。

松を描きながら、あらゆる一切がこの瞬間の松をかたちづくっているのだよ、と作者が言っている様に観えないでしょうか?
478神も仏も名無しさん:2007/12/23(日) 23:56:20 ID:SnCiKdTw
無師独悟では悟りにくいと言いますが、その点はどうですか。
正師の指導に従うほうがよいと聞きます
479たか:2007/12/24(月) 02:12:02 ID:AVAJPpX3
478さんへ、
473の質問は実は478さんの質問のことだと思っていました。
478さんが、正師の指導に従うほうがよいと、思っているのなら正師の指導に従ったらいいでしょう。
でも、世の中、そういう状況にない人のほうが多いのではないですか?
出家して、又は在家であっても同じですが良い指導者に本当にめぐり合うのか疑問ですし、その指導によって必ず見性、悟れるということもないかもしれません。
例えば、弁道話を見れば中国から帰った道元禅師は出家僧や在家の人に限らず自分の指導で只管打座をすれば悟れると思っていたのだろうと思えます。
でも現実は自分の指導した僧さえなかなか、という思いがあったのでしょう。

私がここに書きはじめておよそ一年半になりますが、直々に指導する師がいなければ見性できない、悟れないのだなどと思っていたならはじめから書いていませんよ。
前から書いているように誰もが一度体験したことにいったん戻すことなので、出家する、在家のままの違いはないのです。
先ずは何よりも自我を捨てること、生まれたての赤ん坊のように心を空っぽにすることを日々行うことが大切でしょう。
これを修行といえば修行ですが、私の言う時々30秒間だけ何も考えないでいるだけなら修行ともいえそうにないくらいです。
誰もができないことをしなさいということは大乗ではないとおもいますがどうでしょうね。
私は前から坐禅も念仏もしていなかったと書いていますがそれは本当のことです。
だから逆に言えば自我を捨てる指導なら坐禅も念仏も真言も何でも否定はしません。
何度も書きますが、大乗においては捨てることを指導しない人を師に選ぶべきではないでしょう。
478さん、どのような師を選ぶともくれぐれもその点は注意してくださいね。

まぁ、ここを読んでいきながら一音に身を任せてください。
あわせて、坐禅や念仏してもかまいません。
ただ、30秒間は何も考えずにてを合わせるだけにしてください。
480たか:2007/12/24(月) 09:52:53 ID:AVAJPpX3
昔は出家する僧はエリート中のエリートだったのかもしれません。
その中でも飛びぬけていた人達が名僧として名が残っているのでしょう。
何しろほとんどの人が文盲の時代に経典の漢文を自由自在に読みこなし、空海や道元はじめ中国に乗り込んで行って中国人の優秀な僧を相手に圧倒してくるのですから。
まぁ、私などのレベルとは格段に違っていて比較も何もできないですね。

ただ今日私たちはパソコンや書籍を通じて過去の先人が残したものを現代語訳で自由に見ることができます。
昔は情報もないため、出家して師の下で仏法を学ぶ、指導を受けるしかなかったのでしょう。
当然指導者の仏法の理解度によって教えも全く違ってきます。
正師に出会うことも、その教えを受け学ぶことも大変なことだったと思います。
このような優秀な先人の積み重ね、努力があってこそ、今私たちが仏法を学ぶ環境があることを忘れてはならないでしょう。
私が何故芭蕉、利休、雪舟、等伯など名前を挙げて書いているか解るでしょうか。
これらの人達の伝え残したもののうえに今の文化があり私たちの今の生活があるということを気づいてほしいのです。
481たか:2007/12/24(月) 10:19:39 ID:AVAJPpX3
ですから、釈迦の教えはこれだけだとか、原始仏教こそが正しいだとか、俺は釈迦の教えだけを受け継いでいるとか言っている人を見ると情けなくなります。
もし釈迦の理解が原始仏教に書かれていることだけだったなら、釈迦の理解度は不十分だったとも言える気がします。
釈迦に続く多くの人が釈迦と同じ体験をする中で少しずつ修正し高めていったものが大乗の経典であり、先人の体験や教えとして残ってきたのでしょう。
前にも書いたように、地域や環境、そしてその地域に前からある文化とうまく融合しながら今の私たちに伝えられてきたのが今の仏法なのでしょう。
482たか:2007/12/26(水) 09:01:25 ID:hyQAjVfj
松林図屏風の景色、霞、きりに包まれた松林は等伯の故郷の能登の七尾の松林というだけでなく、松島でも、私の生まれた山間部の松林でも普通に見られる気がします。
この絵を見る人は自分が以前見た光景を思い出すのかもしれないですね。

この絵はもとは金が塗られていたという話もあるようです。
それを白と黒の墨絵に変えた。

松林図屏風と対極ともいえそうなのが息子久蔵とともに描いた金碧障壁画でしょう。
大胆な構図でありながら木々草花が華やかで美しくそしてやさしく描かれています。
私には自然への賛美と草花の生きる喜びが感じられます。

金碧障壁画の完成の後、あととりと思われた久蔵が急死しますが、その後描かれた絵が松林図だといわれています。


483たか:2007/12/26(水) 09:15:09 ID:hyQAjVfj
21で書いた瑞巌寺の僧侶の番組の中で、大晦日の夜に僧侶が仏を背負って檀家の家をまわっていたような気がします。
その僧侶が来るのを家族全員で待っていました。
大晦日の晩にはまたそのような光景があるのでしょうか。
484たか:2007/12/30(日) 00:59:48 ID:pUrhSpnk
見性の体験自体は前から書いているように前に一度体験していることだから坐禅の体験をしていようが、念仏や真言を唱えていようが自分を入れない状況、つまり無心の時には起こりえると思います。
ただその体験が特別なものと感じられ、ほとんどの人が自分を特別ものと思い込んでしまいます。
それをそのままにしておくと間違った思い込みに自分をおくことになります。
自分で体験した人の中にはそれをそのままにしておかずに見性体験をどう理解し、どう受け入れるべきか求め続ける人もいます。
例えば、見性後、慧能禅師が母を残してはるばる五祖弘忍禅師のもとへ行って禅で理解し法を深めたのも。
同様に弘法大師空海が中国の恵果和尚のもとに行って密教で理解をしたのも、親鸞が六角堂で観音菩薩に出会った後法然の指導の下で仏法を理解しようとしたのも。

見性後、どの師につき、どの師のもとで仏法を理解するかによってそれぞれ違った解釈になって行きます。
正師の指導が大事だといえるのは特にそういう理由がいえると思えます。
また、道元が如浄から直接受け継いだという強い思いもあります。
同様に空海が中国に行き般若三蔵や恵果に出会うことで初めて密教を学ぶことで初めてその経典を目にすることができたのでしょう。
親鸞においても法然の門弟の中でもごく一部の者にしか許さなかった選択集の書写と法然の肖像画の制作を許されたのです。

良い師に出会うことで初めてその師の教えを知ることができ、現在のわたしたちとは違い、はじめて経典や教えと出会うこともできたのといえるでしょう。
485たか:2007/12/30(日) 01:15:30 ID:pUrhSpnk
野狐などと言いたい人に言わせておけばいいこと。
自己にいまだいらない人ほど使いたがるものです。
言葉にしがみつき真如に至っていないからそのような言葉を他者に使うのでしょう。

先ずは、自己を明らかにすることが大切であるのであり、いかにいい師がいても最後は自分です。
そのことを忘れ去っていては大笑いといえます。
486たか:2007/12/31(月) 02:41:19 ID:BaAO4g+d
今年ももう終わりの大晦日。

今月はじめテレビを見てたら瀬戸内寂聴さんの1時間半の特集番組があった。
自分が意識がしっかりしているうちに今の自分、ありのままの自分をそのまま映してほしいと寂聴さん自身がNHKに手紙を出したのが切っ掛けだという。
昨年春から今年の正月までの一年間のドキュメンタリー。
この間に寂聴さんは世阿弥の晩年、佐渡に流された世阿弥の心境を書くことで、人が何のためにうまれてきたのかがみえるのでは、もしかしたら寂聴という自分とは何か知ることができるのではという。

この番組の中で、寂聴さん次のようにインタビューにこたえていた。寂聴さんの発言そのままのを書く。
487たか:2007/12/31(月) 03:56:02 ID:BaAO4g+d
寂聴さん。
今、私のいちばん、その、考えることは、いかに死ぬかということなの。
そうすると、死に向かって歩く自分がどういう死にかたをするかで、小説だけを頼っていきてきたけれども、自分が書いた小説ってものはどうせ死んだら2年と残らないといわれていますからね。
本当に何のために生きてきて何をして死んでいくのかなってこと、やっぱり考えますよね。
で、いろんな人が身の上相談に来たりするでしょう。
それでね、まことしやかに答えてますけどね。
それでね、そういうこと全部むなしいですよね。
だから、本当にむなしくないものは何なんだろうということ、それをもうちょっとこうきちんと自分に言い聞かせて死にたいですよね。
だからそのためにじゃぁ、ああいう栄華を極めた人世阿弥の晩年、だめになってそして無実の罪で流されて、、、あまりよくわからないでしんでゆく、、、
何を考えて、世阿弥が何を考えて死んでいく、、、、

どういう死に方をするかということが、書いたものが導いてくれると思われるんですよね、、、、、。

ご存知のように寂聴さんは出家をし、多くの人に説法をしています。
そして子供や連れ合いを亡くした多くの人が寂聴さんの話で救われたいと集まってきます。
488たか:2007/12/31(月) 13:27:49 ID:BaAO4g+d
大晦日で多くの寺で鐘が響きます。
鐘の音は百八つの煩悩を払うために百八つならすとか。
でも一切を払うのは最初に心に響く一音でしょう。
その一音で一切。
是非ともその最初の一音で観音を。
489神も仏も名無しさん:2008/01/02(水) 11:17:20 ID:X140YZUB
世の中、常に音が響いていてその音の中ですべて成り立っているともいえます。
除夜の鐘の百八つの音をすべて聞いたら全ての煩悩から放たれるわけではない。
たった一個の音できれいさっぱり無門関。
これを心身脱落といい、観音という。
音を聞こうとするのではなく、音をそのまま受け入れる。
これができれば、全てはなるほど、と納得する。
あらゆる音が楽しく感じるものです。
鳥の声、風の音、音楽も、世の中の何もかも。
490たか:2008/01/02(水) 11:50:00 ID:X140YZUB
それにしても日本人は初日の出が大好きで、日の出を見ると日の出に向かって思わず手を合わせてしまいます。
テレビのニュースで初日の出を見るために飛行機を飛ばして富士山の上を旋回しながら飛行機の座席に座って初日の出をゆっくり見たそうな。
今迄でいちばん感動しました、と参加した人は感激していました。

この世に生まれてはじめて見た光が、如来。
盧舎那仏も、大日如来も、阿弥陀如来も、薬師如来も、その他全ての如来もまた無量の光を放ちます。
太陽の光だけでなくても、たった一つのろうそくの明かりでも、マッチ一本のひかりでも安らぎを感じるときがあります。
人、どんな立場にあってもたった一つの、初めてのひかりを覚えてるのでしょう。
特に、苦しみにいるときほど、そのひかりがありがたく感じられるのですね。
491たか:2008/01/02(水) 20:56:03 ID:X140YZUB
釈迦は死の前の最後の旅の途中で次のように言ったという。
そして弟子たちはその言葉を聴いて、皆驚いたという。
なにしろ、釈迦からそのような言葉を聞いたのは初めてだった。
その言葉は、

アーナンダよ、ベーサリーは楽しい。
ウディーナ霊樹の地は楽しい。
ゴータマカ霊樹の地は楽しい。
七つのマンゴウ霊樹の地は楽しい。
タフプッタ霊樹の地はたのしい。
サーランダ霊樹の地は楽しい。
チャーパーラ霊樹の地は楽しい。

この世界は美しい。
人生は甘美である。
492たか:2008/01/02(水) 21:20:42 ID:X140YZUB
釈迦の教えとして以前あげた、三宝印に、一切皆苦、を加えて四宝印といいます。
が、私はこの一切皆苦という考えには反対です。
私は見性して思うことは、この世に生まれて生きることは限りなく尊くてすばらしくて楽しいということでしょうか。

たしかに生きることは辛く、悲しく、苦しいことも多くあります。
でもね、人間だけでなく、生きとし生けるもの、動物も、昆虫も、植物も、皆必死で生きてる姿を見るとそこには生きる喜びがあるとしか思えません。
493神も仏も名無しさん:2008/01/03(木) 06:48:35 ID:nxfv+4R4
たかさんあけましておめでとうございます。
昨年はありがとう御座いました。
本年もカキコ楽しみにしています。

>>472

わかるといえばわかりますが、そこは見性していない身ゆえ、
知解だと思っています。たかさんの言葉も仏典もやはり自分が
見性して初めて本当に理解できるものでしょう。たかさんに
教えてもらって昨年からつづけていることを淡々とやって行く
つもりです。
494たか:2008/01/05(土) 01:14:21 ID:4aFPMgJZ
309さん、明けましておめでとうございます。
返事が遅れてしまいました。

私が309さんに、読んでみて少しは理解できるでしょうか? 、とたずねたのは普通書店で売られている般若心経の解説書としこし違うかもと感じていただければいいのです。

前にも書きましたがおよそ2年前仙台の書店に行ったとき般若心経の本が多く平積みにされていました。
そのそれぞれに40万部と突破という文字が書かれていました。
でも、私が思う空、私が感じたものとは違うものですし、般若心経の内容も違うものです。
般若心経をどう解釈しようがどうでもいいじゃないかとも言えそうですが、でも、作者やそれを訳した人、そしてそれを人生をかけて伝えてきた人の 気持ちと、本屋で並ぶ現代語訳や私訳と全く違うものであるのならそれは良くないだろうと思います。
知名度やテレビや宣伝だけで、それがあたかも正しいと思えるように刷り込まれてしまう、そしてそれに僧侶をはじめ、誰も疑問を示さない、それではダメではないかと感じたのがここに書き込み始めたきっかけの一つです。
多くの本が何十万部売れているといわれるように今は仏教ブームと聴いたことがあります。
だからこそただ単に変な解釈を刷り込まれないようにすることも大切です。
一度思い込むとそれを捨て去るのは大変です。

309さんに聞いたのは私が書いたことと、有名人が書いた空、仏性に少し違いがあるなと思っていただけているのかを確かめたかったのです。


495たか:2008/01/06(日) 20:00:05 ID:joD3icxf
およそ2年前に秋田県で川で男の子が殺されてる事件があり、その少し前に同じ年の女の子が川で死んでる事件がありました。
結局事件は女の子の母親が二人を殺したことで逮捕されたわけですが、その他にも小さい児が幼いうちに親に平気で殺される事件が続きました。
秋田の女の子は母親との母子家庭で、母親が男を家に連れ込んでいた時は家の外に追い出され寂しく一人遊んでいたと近所の人が言っていました。
母から川の魚を見せてあげるといわれ、橋の欄干に立たされ喜んだその瞬間に母親から突き落とされた女の子の気持ちを思う時、何度も涙が出てきます。
こういう事件を聞くたびついついこの子達は何のために生まれてきたのだろう、人は何故生きてるのだろうと思わずにはいられないときがありますね。

そのことも含めて少し書いて生きたいと思います。
実はここに書き始めたもう一つの理由はこのことについても書きたいと思っていたからです。
仏教的にはこういうことに言及することはどうかとも言われそうですが、でもこのことは多くの人の最大の疑問なのでしょうから、これを避けることはかえってよくないように思います。

496神も仏も名無しさん:2008/01/11(金) 23:52:20 ID:3lLDHe+q
見性する前とした後ではなにか変化があるんでしょうか。
また見性するとき「至福」といったような明らかな変化として
現れるものなんでしょうか。
497たか:2008/01/13(日) 11:12:26 ID:LbNGOfKC
496さんへ、
見性は、一瞬、一音、一息ですが、ここから多くのことが言えるため、一言で言うことはできないといえます。
見性を体験した人達が釈迦の後に続く先人の教えと自身の体験をもとに書き残し伝えたものが各種の大乗の経典などとなります。
ですから、見性体験をもとにかかれたものですので、見性した人にとっては読めばなるほどと納得できるものです。
見性する前は読んでももう一つ納得できなかったものが見性の後なるほどと言えるようになります。
法然も、親鸞も、道元も、一切経を読み込んだといわれますが、実際にそれが活きてくるのは体験後ということでしょう。
そしてそれを弟子や後進に伝え残そうとして書かれたものが、先人の残したものから多くを引用して書かれた正法眼蔵や教行信証でしょう。
同様のことは空海や他の人達でも言えるでしょう。

でもそれでは、見性する前とした後ではなにか変化があるんでしょうか、という質問の答えにならないでしょうか。
観音菩薩が般若心経で説くように、見性は般若の心、智慧の心への転換と言えるでしょうか。
また道元禅師が言うように、自己を明らかにする、とも言えます。
自己を明らかにすること、これが、仏性を智ること、悉有仏性、そして、無分別の智と言えます。
また見性と同時に至福というか歓喜というか極楽と言うか、喜びが心に満たされます。
498神も仏も名無しさん:2008/01/13(日) 12:06:43 ID:3LWmVH/F
心を空っぽにするという言葉が何度も見られますが、
これは身心脱落という言葉に置き換えても差し支えないのでしょうか。
私の場合坐るとき、呼吸の音に任せていると次第に体の感覚(五感)が抜け落ちていきます。
すると顔の周りだけ意識が残ります。これが「身」が脱落したものだろうと思います。
しかし、「心」はまだ残っています。確かに「身」が脱落したときそれまであった雑念は
なくなりますが、「心」はまだ残っているのです。今、私は「雑念」と「心」を使い分けましたが
「雑念」はとらわれ感のある思考、「心」はとらわれのない思考とでもいいますか・・・
これ以上うまく説明できませんが伝わったでしょうか。
この間になるまで時間は様々ですが、気づくと30分は超えています。
まして、たかさんのおっしゃる”30秒”ではとてもじゃないですができません。
アドバイスお願いします。
499496:2008/01/13(日) 12:37:45 ID:3LWmVH/F
498の補足
「身」が脱落すると、顔の周りだけ意識が残っています。
このとき顔の周りは光に包まれ、同時に何かこみ上げてくるものがあります。
時に感極まって、涙することもありなぜか感謝したくなります。
理由はないのですが・・・「至福」までとはいいません。
次第に高ぶる気持ちはおさまるのですが、
やはりそれを感じ見つめている私(心)がありますし、残っています。
500たか:2008/01/13(日) 12:47:51 ID:LbNGOfKC
私がここで見性と言う言葉を何度も使って書いているのは、誰でも見性ができるのだから見性を是非体験してほしいということです。
実は、私はこの生まれて初めて感じるこの喜びが、生きる喜び、辛く苦しくても生きようとする心を無意識的にしたささえしてるのではと考えています。

釈迦は一切皆苦、生老病死の苦を説いたといわれっていますが、そのような思考を持つ前に私たちはこの生きる喜びを心身全体で感じていたように思います。
般若心経の菩薩が釈迦の説いた生老病死を無としたのは、そのような思想よりもう一つ前に戻せと言うことでしょう。

釈迦は子供の時畑で掘り出された虫が小鳥に食べられ、またその鳥もそれより大きな鳥につかまったのを見て無常、苦を感じ、この苦からの救われる道を求め出家したとか。
最もこの釈迦の苦が仏教の始まりとも言えますのでそれを無視することもないわけですが。
一切皆苦といっても釈迦や達磨大師の王子の立場としての苦と、貧しい生活の中にいて悟りに至った六祖慧能とでは少し違うように思います。
貧しい体験のもとで悟りに至った慧能は貧しい農民や商人の苦しさや不安をよりいっそう肌身に感じていて、だからこそそれを感じた民衆が慧能を慕ったのだろうと思えてきます。
だからこそ、慧能の言う、仏性に気づけばよい、と言う言葉が重みを持つのでしょう。
501たか:2008/01/13(日) 14:11:20 ID:LbNGOfKC
496さんへ、
私が、音が鳴っている30秒間心を空っぽにする、と言うのはその間、何も考えない、思考を止めてしまうようにすることです。
先ずはこれになれることが大切と思います。
たかが30秒と言ってもなかなか簡単ではありませんよ。
次々にいろんなことが浮かんできますからね。
でもこれを続けることが良いと思います。

何度も書いていますが私は坐禅をしてません。
でも、一日に何度か繰り返していれば見性と言うことにおいては坐禅と同じことをしてると思っています。
坐禅も念仏も私のやり方も同じですが、やり抜いてみてどうしようもなくなったところで、心身ともに仏に任せる、身も心も預けてしまうことが良いでしょう。
これは言葉で言い表せませんが将に身をあずけるといえる心の状態でしょう。
このような状態を空っぽの状態、意識はあるのに心が空っぽの状態、心が無の状態と言えるでしょう。
この時何かの音をきっかけに音を観ると言える体験になります。
この体験は一瞬、一音、一息とも言えるように短いものです。
ですから長い間じっと座っていたからできるのだなどと言うものではありません。
坐禅を常にしていれば坐禅の時に見性するでしょうが、香厳撃竹であるように、坐禅をしてる時に起こると言うものではないのです。
今どうこうしてると思わない瞬間に、あっという瞬間に。
心身脱落などと思う間もなくですが、後で振り返るときれいさっぱり納得といえます。
霧や壁に阻まれていたようなもやもやが一瞬ですっきり無分別の感動が心身に響きます。

まぁ、あせることはありません。
そのうちきっと体験できるでしょう。
502たか:2008/01/13(日) 20:19:31 ID:LbNGOfKC
私が何度も数息観でないと言うのは最初の一息そのものに切っ掛けがあるのです。
生まれたての赤ん坊は最初の一息で取り巻く環境と、地球と、全宇宙と一体化ですよ。
わかりますか。
瞬時、瞬時、私たちは宇宙と一体化してるんです。

ほとんどの人、僧侶も含めて、このことが解らないからこのように言い切ることができないんですね。
つまり見性体験をすることなしに空や仏性を説く、だからピントのずれた話になってしまうんです。

何度も書きますが観念で空を感じようとするのではなく、先ず一切を捨てた瞬間から空を観じるんです。
空を観る、空観、観音とはそういうものでしょう。
503たか:2008/01/13(日) 20:31:00 ID:LbNGOfKC
だから、必ずしも坐にあらずとも、立って手をあわせゆっくり息するだけで心が落ち着くのです。
496さんも是非とも時折ゆっくり手を合わせてみてくださいね。
立ってしようが、寝てしようが、坐ってしようが、どう違うんですか?
504496:2008/01/14(月) 00:56:53 ID:1sbv7MH3
>>503
特に形は気にしたことはないですが、寝ながらすることもありますね。
手もあわせることもあります。お返事ありがとうございます。
力まずに日々続けたいと思います。
505たか:2008/01/15(火) 12:38:31 ID:zBlcHlr9
たったひとつのことでもしつくして、もう自分ではどうにもならなくなった、こんな状況でやっと仏に、音に身を預けるものです。
なかなかこういう状況に心にならないのがむずかしいといえるでしょう。
でも釈迦をはじめ名僧と言われる人はほとんどこれを通ってきたように思います。
これは目に見えない壁、垣根とも言えます。

釈迦や空海は明星が自分に飛び込んできた、口に飛び込んできた、そして一体となったそうですが、まさにこれこそ最初の一息でしょう。
この時おそらく釈迦も空海も何か小さい音を切っ掛けとしたと私は思っています。
きっと小石が転がるほどの些細な音だったのかもしれないですね。
でもこの音、自分の中では雷鳴がとどろくほどの驚きですよ。

見性する前と見性した後ではなにか変化があるんでしょうか、の質問に対してもう一つ付け加えます。
255に、
 芭蕉が笈の小文に、
  西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫くものはひとつなり、
 書いているのを知った。
と書いたように見性を体験し、又は仏法を学ぶことでこれらの先人が何を感じ取ったか、そして何を伝えたかったかが解るのではないでしょうか。
これらの人達は誰もが認めるように今日の日本文化の礎をなした人です。
多くの研究者が日々彼らを研究してるでしょうが、芭蕉が言うようにこの貫くものが何かわからなければ真に彼らを理解できないでしょう。
日本の文化は彼らはもとより多くの先人の積み重ねで今日に至っているのでしょう。
それを自分で感じ、それを後世に伝えていく、後世に伝えるという意識がなくてもごく自然に後世に伝わっていく、ここにも生きる喜びがあるように私には思えます。
単に釈迦の教えだけが仏教だなどという固まった考えは自由自在とはいえないでしょう。
506たか:2008/01/16(水) 12:29:58 ID:rta9WrjM
あがつた時、興奮した時など人は心を落ち着けるためにごく自然に深呼吸をします。
山に登ったとき、緑の多いところ、いい景色のところでも深呼吸をしたくなります。
深く息を吸い込むと心が落ち着き少しリラックスしますね。
息を深く吸うと脳にいく酸素の量が多くなるからなどということもあるかもしれませんが、私たちは無意識に体がその場の環境、状況と一体化したいと求めてるからかも。

深く息を吸う、深呼吸をしている時は、案外何も考えられないというか、余計なことを思おうとしても頭に浮かびません。
周りの景色は見え、音も聞こえるのにもかかわらず、まさに息するだけで、頭の中は空っぽでしょうか。

ちょっと試してみてください。どうでしょうか?
507たか:2008/01/17(木) 13:10:27 ID:vEckOi6F
496さんへ、
見性といっても、ひかりを感じ、至福、歓喜を感じるだけではなかなか納得できないでしょう。
なぜなら、至福と言葉でいっても人によって感じ方が違います。
いくら喜びがあってももっともっとと求め続けてばかりではなかなか納得などできません。

私がここで当初から音、一音を何度もしつこいくらい書いているのも、見性の時の無分別を感じる音があるのです。
この音を観るかどうかで全く違った捉え方になってしまいます。
光に包まれ、至福の観があっても、逆に多くの人が仏から特別に得られた認められたと思い違いをしてしまいます。
大乗の捉え方はそうではなく、つまり仏に認められたというのではなく、今、自分を取り巻くあらゆる全てのものと一体である、一つで生きていると観じるところにあるのです。
自分と他が瞬時瞬時隔てなく互いに完全にかかわりあって同時進行で変化し続けているということなのです。
これを知ることで、そよふふく風も、今の季節の寒い北風さえもいとおしいものに思えてきます。
当然、さえずる小鳥の声も、春の日光を受けて香りたつ土の匂いも、木々の芽吹き始めた緑の色にも、空から舞い落ちる雪の冷たさも。
みんなみんな大切なものと思えてくるのです。
以前書いた明恵上人坐図の松の枝の上で坐禅を組む上人のなんとも温和な顔はそれを物語っているのでしょう。
山の緑、飛びさえずる小鳥、動物たち、周りを見ればみんなみんなかけがえのない大切なものに思えてくるでしょう。

何度も書いていますが是非一音から見性の体験、無分別の智の体験をしてほしいと望んでいます。
508たか:2008/01/18(金) 13:22:06 ID:/fcxGm3a
NHKの番組の中で谷啓さんが案内役をする[美の壷]という番組があります。
朝早いですが、私は土曜日の朝5時10分頃放送されるのを時々見ますが、いろんな時間帯に放送されてるかも。
その中でいろんなものをとりあげてそれぞれの美の壷を見せてくれるわけですが、毎回なるほどと感心したりくすっと笑ったりしてますね。
本当にちょっとしたところに美の壷があってその中に巧みの技があり美しさがあるものです。
見ている瞬間はそれを知ったちっちゃな喜びを感じますが頭が悪いせいか実生活にすぐに役立たないせいかすぐ忘れます。
でもそんなものでもちょっと知った喜びがあり、それに出会った喜びがあります。
日ごろの生活の中でも同じようなものでほんのちょっとしたことに喜びがあるのでしょう。
こんな小さいことでも生きているから感じられるものですから、そのちょっとした楽しみ喜びを感じながら生きていけたらいいのではないでしょうか。
苦しみだけを考えていたら、ほんの小さなこの喜びもなかなか気づきません。

496さんも光に包まれ至福の体験があり生きている喜びに気づいたなら、あらためて自分の周りの小さなことにも目を向けてみたらいいでしょう。
きっと喜びがいっぱい転がっているかもしれませんよ。
それらが私たちを包んで私たちを動かしているのでしょう。
なるほど思うこと、面白いこと、楽しいこと、美しいと感じること、出会ってよかったと感動すること、きっといろいろあるはずです。
509たか:2008/01/19(土) 11:01:37 ID:QpG/uomm
43で、
 見性とは仏性を見る事です。仏性の一部分を見る、この場合、一音が仏性として観じられたということです。
 ところで、問いが答えそのもになる瞬間、と半さんはじめ他の多くの人も書いているのを見ます。
 このことについてはどうも納得できません。
 私のことで言うと、諸々の問いをやめた後、つまり問うことさえも捨てた後、しばらく経って見性が起こったと言えます。
と書いたように、問うことをやめてただに徹する、空っぽになることが大切だと思います。

誰でもそうですが仏教を意識する前に何らかのイメージや教えなどが自分の中に入っているものです。
だからただに徹しようとしてもそれが浮かんできてただに徹することがなかなかできません。
いくらやっても自分でできないなら居るかどうかはわからなくてもみんなが言う仏というものに、一切、身を預ける、のも方法です。
これを易行道といいますね。
まぁ、信じるか信じないかは別としてやってみればいいのです。

自分が何かを体験したなら、それがどういう時におきたのか?なぜ体験できたのか?などを先人の教えの中から学び自分の体験と照らし合わせることが大切なのです。
これを怠ると自分勝手な妄想になりなかなか抜け出すことができないようです。
多くの先人はそのためにそれぞれの体験や考えを後進のために書き残したのでしょうからそれを参考にして仏法を深めることが大切でしょう。
そうしているうちに見性後に新たに生まれたものも自然に取れていくのでしょう。 

自分の周りにあってあまりにありふれていて気にも留めなかったものになんともいえないいとしさや喜びや楽しさを感じるのでしょう。
阿弥陀経や無量寿経に書かれた極楽浄土の世界に少し似てると感じたならしめたものではないでしょうか。
510たか:2008/01/19(土) 11:46:12 ID:QpG/uomm
先週NHKのBS2を見てたら坂本龍一と役所広司がでていてハリウッドなどの映画の話をしていた。
話の内容など気にもせずに見ていたら、一瞬アッと思う画面が映った。
ほんの一ヶ月前に見た景色。
そのあと番組を見ていたら今日から公開される米映画「SILK(シルク)」の話になっていたので検索すると。
この映画の撮影場所のひとつが猊鼻渓で、11月24日に実家の墓参りの時と息子と途中立ち寄った時見た猊鼻渓の景色だった。
ということでその時のことを少し。
511たか:2008/01/20(日) 17:52:49 ID:BnaCDgby
11月22日は母の命日、12月4日は父の命日で11月24日に行くことにした。
一関インターを降りて厳美渓で有名なかっこう団子を食べ、そして猊鼻渓へ。
猊鼻渓のある町は母の実家の町で子供の時何度も来た。
中尊寺を訪れる人は三陸海岸に行く途中猊鼻渓による人も多い。
折角だから簡単に猊鼻渓の説明を。
北上川の支流の砂鉄川に猊鼻渓がある。
出発地点の船乗り場から船頭さんが途中の岩や名所を説明しながら川に竿を差しながら上流に船を進めていく。
川の両岸は高いところで100メートルを超える断崖で、その景色と小鳥や水の音などを聞きビールやコップ酒を飲みながら、そして船頭さんの軽いジョークを聞きながら。
船を下りて少し歩いて獅子が鼻という所が最終地点。
帰りは船頭さんが歌い、渓谷にこだます猊鼻追分と南部牛追い歌又はさんさ時雨をききながら川を下る。
年中無休だそうだけれど、新緑や藤の花の季節の春から暑い夏、紅葉の秋が良い。
船が進むと船に魚が寄ってきて鳥の声や蝉の声も良いでしょう。
512たか:2008/01/20(日) 19:34:20 ID:BnaCDgby
私の実家から3キロほど離れたところに親類が7軒ほど集まっているところがあり、その中ほどの畑の中に小さなお堂があります。
観音堂と書かれているその中は一畳ちょっとの空間があり奥の段に聖観音菩薩坐像を祀っています。
高さは80センチ位でしょうか、手には蓮華のつぼみを掲げています。
仏像全体は黒くところどころに紅などの痕跡があるので昔は全体に色彩が施されていたのでしょう。
以前、文化財に詳しい人に鎌倉時代のものだろうといわれたと親戚の爺さんに聞いたことがあったけれど実際はどうだろう。
過去に3度盗まれたことがあったといわれていて遠くの町までとりに行ったそうです。
昔はかやぶきの屋根だったけれど20年ぐらい前に立て替えました。

実家は今のところに来る前はこの観音菩薩堂の前にあったのでおそらくこの観音菩薩が親戚一族の守り仏としてずーと見守ってほしいとの願いで中心部に建てらていたのでしょう。
山間部で自然の厳しいところだったのでしょうからこの観音菩薩に寄り添って親類がひとつになって互いに助け合って暮らしてきたのでしょう。
季節のものが取れれば真っ先に観音菩薩にお供えし、苦しい苦難の時があれば観音菩薩に愚痴をこぼし、喜びがあれば観音菩薩の前で歌を歌い、観音菩薩はそれを聞きながら蓮華を掲げて静かに座って微笑んでいたのかもしれません。

このように親類の家が観音堂を囲むようにあるのに気づいて、ふと私がここに書き込みを始めた、21で書いたの瑞巌寺とその寺を囲む町の人々の生活が思い浮かびます。
瑞巌寺のような大きい寺はもとよりでしょうが、私の田舎のほんとうに小さい観音堂も同じように、仏様を中心に人々が一体となって助け合って暮らしてきたのでしょう。
ほとんどの門前町もこのようにできたのでしょうが、全国には私の故郷の観音菩薩のような形の信仰も多かったのでしょう。
釈迦の教えは教えとして、インドから遠く離れた岩手の地ではインドや都の寺とは少し違った信仰があるのもごく自然のように思えてきます。
513たか:2008/01/20(日) 20:54:01 ID:BnaCDgby
この観音菩薩には忘れられない思い出があります。
11月11日仕事の途中で実家に寄ったことがありました。
その時母は体調がよくなく、うつ病気味だったのです。
見るからに体調が良くないみたいであまり外に出ないのを心配して父に少しの間母を私の家に連れて行ってほしいと頼まれました。
実家に寄った理由は15日から21日まで中国に出張の予定があったのでその前にと思って寄ったので連れて行くことはできないので、気分転換にこの観音菩薩に病気がよくなるように拝みに行こうと連れ出しました。
親戚のうちでお堂の鍵を借りて観音に二人で手を合わせたのを良く覚えています。
出張から帰ったらすぐ寄るからと伝え、少し歩いたほう良いだろうからとこの菩薩の前で別れました。

21日夜中国の出張から帰って床についた瞬間に母の危篤の電話がなってすぐに実家に向かったのですが間に合いませんでした。
風呂湯の火傷で原因で翌日深夜亡くなりましたが、結局観音菩薩の前で別れたのが最後になりました。
まぁ、ものは考えようですが、あまり苦しまないようにこの観音菩薩が連れてくれたのかもしれませんね。
514たか:2008/01/22(火) 23:37:07 ID:uWVqNpq8
昨夜、NHK特集で赤ちゃんの脳についの番組があった。
誕生から一年間赤ちゃんの脳と体の成長を追った番組。
生まれたばかりの赤ん坊は大人には無くなってしまったすぐれた能力があると言う。
なんでも吸収しようとするともに、大人よりも、違いを見分ける能力があるらしい。
番組では赤ちゃんの脳と言葉の関係について詳しく説明していた。
いっけんすやすやと眠っているようでも周りで話されている言葉や物音に敏感に脳の中は働いている。
脳がはたらく時に脳神経のシナプスというものが活発になるそうでシナプスの活動は生まれてから急激に増えて生後8ヶ月から1年で最高に達するという。
その時のシナプスの量は成人の1.5倍でその頂点を境に少しずつ減って行き、それは体の成長と逆のようだ。

赤ん坊は生まれた時生まれた環境をなんでもとりこもうとし、見極めようとする。
そして成長の中で自分に取り入れるべきかどうかを取捨選択をし、最初は何でも取り込もうとしたのが、必要ないものは捨て、必要なものを新たに取り入れていく。

こうして私たちは少しずつ自我というもの、自分をつくりだしているのでしょう。
自分に役に立つものを常に取り入れ、いらないものを切り捨てて大人になっていく、それも必要なことですが、大人になるとどうしてもついつい自分勝手な妄想に翻弄されることになってしまいますね。
 
515たか:2008/01/23(水) 20:39:20 ID:ivVtd3pt
番組の後半では赤ちゃんの豊かな成長を育てるのは何か?ということを実験を交えてしめしていた。
結論を言えば、人との交わりつながり、社会的なつながりが豊かな人間を育てるということだった。
同じ時間同じ条件下で同じ人が同じに教えようとした時、ビデオで見せたのと、人が対面したのでは全く違う結果がでた。
ビデオを見せた方は全くビデオを見せなかったのと同じで効果はなく対面したほうは確実に赤ちゃんがそれを学習していたという。
大人も同じだろうけれど単に目で見、耳で音を聞くだけではなかなか身につきません。
その中その環境の中に入って身体全体で見たり聞いたりその他感じているのでしょう。
セミナーなどに行って講師の話を聞いているときは、おぉなるほどと思うものですが、会場を出たとたんに忘れてしまい身に付くことがなかなかありません。
ところが環境のその中に入ってそれを見たり聞いたりすることは身体全体でなるほどと納得したり、そして身につき忘れることはないですね。

同じ情報が映像をとおして与えられても身に付かなかったのに人間が居れば身についていくんです。
生まれながらにもっているのは所詮原始的ものに過ぎません。
それに対して人とのかかわりの中で学ぶことには極めて強い力があります。
これは言語だけでなくその他のありとあらゆるもの学習にも当てはまると思います。
と実験を行った教授はこたえていた。

釈迦から始まった仏教の教えや悟りといわれるものも単に言葉として知識として理解しようとするのではなく、自分で体験したならそれをその時代の人や子供たちに環境を保つように努めながら身体全体で伝えていくことが大切なのでしょう。
516たか:2008/01/26(土) 18:34:36 ID:W+RHuVzo
明日朝9時からの新日曜美術館は長谷川等伯の松林図屏風。
パティシエとして活躍している辻口博啓さんがこの水墨画の最高傑作を語るそうだ。
黒と白のだけの世界にこの絵を見た多くの人の心を揺さぶったものは何か。
私の見方と違うだろうけれど、興味のある方は是非ごらんあれ。
517たか:2008/01/26(土) 23:24:20 ID:W+RHuVzo
一休禅師の話を少し。

一休さんの禅問答。

邪正一如とは何か?
(邪と正とは別々のものではなくて、一つの心から出たものだから、もとは同一だということ。)
一休禅師、
「生まれては 死ぬるなるけり おしなべて 釈迦も達磨も猫も杓子も」

空即是色とは何か?

 「白露の おのが姿は 其のままにもみじにおける くれないの露」


色即是空は如何に?

 「花を見よ 色香も共に 散り果てて 心無くても 春は来にけり」

仏法とは一口に言えば?

 「仏法は なべのさかやき 石のひげ 絵にかく竹のともずれの音」


25歳の時、『洞山三頓の棒』という公案に対し、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と答えたことから、師の華叟より一休の道号を授かった。
なお「有ろじ(有漏路)」とは迷い(煩悩)の世界、「無ろじ(無漏路)」とは悟り(仏)欲に迷わされない境地。
一休は、二つの間のわずかな境地に身を置いて、さあこれからが正念場、無漏地へ向かうまで一休みだと、豪快に言ってのけました。

その後、夏の夜カラスの声を聞いて一休は一切晴ればれと拘りなく悟ったと言われています。
このとき師の華叟和尚は印可状を授けようとしたが一休は受け取らなかったといわれています。
まぁ、一休にしてみれば、そんなものにも捉われないよというところでしょうか。
518たか:2008/01/27(日) 12:56:53 ID:6MalawmN
25歳の時の、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」ではまだ、有漏路と無漏路つまり、有と無の分別のこころがあります。
公案に対しすばらしいともいえる返答、でもそれを言った一休にはもう一つ納得できなくすっきりしなかったのでしょう。

これより2年後の琵琶湖河畔の闇夜の鴉の声には、有も、無も、ないそんなものをも意識しない無分別があったのでしょう。
心の一切を捨て去った時響き渡る声、一切が一体化しているのだという瞬間、釈迦など知らなかった瞬間、いやいや、釈迦の悟りと一体化した瞬間とも言えそうです。

心を無くして、ありのまま。
白露のおのが姿は其のままにもみじにおけるくれないの露。
己のかたちはそのままだけれど紅葉の紅がそのまま心に入っている。
無心とはそういうことでしようか。

深呼吸をする時頭の中は空っぽで何も考えていないのに、見える風景も、聞こえる音もそのまま、自分の心を取り去ってみれば、これがすなわち、ありのまま。
519たか:2008/01/27(日) 15:47:05 ID:6MalawmN
数いる禅師の中で一休さんほど面白い人はないね。
やってることも言ってることもいっけん滅茶苦茶だけど、なるほどと、にやけてしまう。
寺に泊まって仏像を燃やして仏舎利を探してるんだと坊主にこたえてみたり、仏像を枕に寝てみたり、地蔵に小便かけたり。
まさに自由奔放であり、でも憎めない。

極楽は十万億土はるかなり、とてもゆかれぬわらじ一足
世の中はくうてかせいで寝て起きて、さてその後は死ぬるばかりぞ
この世にて慈悲も悪事もせぬ人は、さぞや閻魔もこまりたまわん
振袖と留袖とこそかわれども、はだかにすればおなじからだよ
門松はめいどのたびの一里塚、馬かごもなくとまりやもなし

茶道も侘びさびも一休が居てこそ、能の山姥も一休の作とか言う。
利休や芭蕉やその後の文化に大きな影響を与えましたね。

2度の自殺未遂で、老いては女を愛し、最後に何を言うかと思えば、死にとうない。
520たか:2008/01/29(火) 13:30:45 ID:DIB6oaEu
「婆子焼庵」(ばすしょうあん)という公案があります。
中国での話ですが、あるお婆さんが、美しい娘と暮らしていました。このお婆さんは信心深く、二十年来、一人の仏道修行者に庵まで建てて、面倒をみて供養に勤めました。
そしてある日、老婆は何を感じたのか、娘に言い含めて誘惑させます。
修行者は、「枯れ木が凍りついた岩に寄り添ったようなもので、何の色気も感じない」といって、突っぱねました。
娘がそのことを伝えると、老婆は「見損なった」と、すぐさまその修行者を追いだし、彼が住んでいた庵も焼き払ってしまった、というのです。

僧とはこういうものだ、戒律を守ることが最も大切だ、などというこだわりに執着することは自由自在ではないのでしょう。
それは釈迦の教え、仏教の教えにおいても同じで執着しだすと自在でなくなります。

人と出会い、人を愛し、また多くのものに出会い、生きる喜びを感じる。
あらゆる生きとしいけるものの生きようとする根源には、生きる苦難は有るにしろ、生きる喜び、生きようとする喜びがあるように思えます。
見性のときの喜びがその始まりではと私には感じます。

釈迦の悟りと一体化したと一休が感じたからこそ、釈迦や教えからの執着も捨てることができたのかもしれません。

521たか:2008/02/01(金) 12:59:35 ID:BDLaTD+G
25歳の時の、「有ろじより 無ろじへ帰る 一休み 雨ふらば降れ 風ふかば吹け」と、
27歳の時の、からすのカァという鳴き声と、
一般的には、一休み、のほうがわかりやすいと思うだろうけれど、実際はこのからすの、カァ、のほうが格段といえます。
13歳でしたか一休は維摩経を読んで感動したといわれていますが、この、カァ、の瞬間に維摩経の一切を体得したといえます。
6歳の時に寺に預けられ、貧乏寺で修行をし、およそ20年、やっと仏法が何かわかった瞬間にめぐり合ったのです。。
だから師の華叟和尚より印可状を授けるといわれても、そんなものに用はないと言い切れるのでしょう。
それにしても名僧といわれる人でもみんな寺に入ってから20年位かかってますね。
というか、30歳くらいにならないと凄い修行をした人でも悟れないのかもしれません。

以前100円ショップの般若心経に、釈迦は空を解き明かしていないと一休禅師は言っていると書いてあったと書きましたが、私も同じような見方をしています。
釈迦の体験を補うために般若経典他大乗の経典が後の人によって書かれたのでしょう。
釈迦の教えは尊いけれど釈迦の教えにさえ拘るな、捉われるな、それが空ということでありさらに言えばその空という言葉にも捉われないことが大切です。
これは見性という体験があってこそ言い切れるのです。
からすのカァをそのまま自身の身体全体で知る。
一休禅師も芭蕉も道元禅師も多くの人は皆、私の言っていることを理解できないと嘆きますが、きっと誰でもできるはずであり、これらの人達の感動と同じ感動を誰でも体験できるはずです。


522たか:2008/02/03(日) 10:31:17 ID:rKmKJvC0
一休は夏の夜、鴉の声を聞いて悟るところがあり、すぐにその見解を華叟和尚に示した。
華叟は「それは羅漢(狭い範囲の悟り)の境涯であって作家の衲子(すぐれたはたらきのある禅者)にあらず」といわれた。
そこで一休は「私は羅漢で結構です。作家などにはなりたくない」といった。
華叟は「お前こそ真の作家だ」といい投機の偈(悟りの詩)を作って呈出するようにいった。
「凡とか聖とかの分別心や、怒りや傲慢のおこる以前のところを即今気がついた。そのような羅漢の私を鴉は笑っている。」

仏は自身の心にある。
つまり、仏とともに生きる。
自身も苦しみにもがいて生きていながらも、困っている人を見る手助けしてみたくなり、ついつい仏の心が出てしまいます。
人は心の中の仏とともに生きてるのだ。
その心に気づきなさい。

見性して高慢になることをいさめた華叟の「それは羅漢(狭い範囲の悟り)の境涯」であるという言葉に、「私は羅漢で結構です。」とこたえる。
菩薩や羅漢など、そんなの関係ない。
道元の空手還郷(くうしゅげんきょう)と同じであり、六祖慧能の仏性に気づけさえすればよい同じといえるでしょう。
523たか:2008/02/03(日) 15:24:38 ID:rKmKJvC0
鴉のカァの鳴き声、これ即ち、一休禅師にとって観音の音。
何でカァが観音なんだと文句も言いたいところでしょう。
でも、来るが如し、如来と一体化、仏と一体化です。。
阿弥陀経、無量寿経、観無量寿経、法華経その他大乗経典にはこの自然の声、音が書かれています。
何でこれが書かれているのか自分で知ることが大切ですね。
道元が言う自己を知るとは、この声、音を智ることから始まります。
だからこそ、観音菩薩なのですよ。
死んで無になったときに真っ先に法を説くのが観音菩薩。
観音菩薩の法を聞いて初めて極楽浄土ですよ、これ浄土三部経のそろって説くところです。
なぜ、大乗の先人たちはこれを伝えてきたのか、よくよく知ることが大切です。

524たか:2008/02/03(日) 16:06:40 ID:rKmKJvC0
中国の慧能禅師のゆかりの寺での仏に向かい観音を聞きながら五体投地で祈る人々と、わたしの田舎の小さな観音菩薩に手を合わせる人。
場所や時は違っても仏と一緒にいるという安らぎ。
日頃の生活は苦しくとも、小さな喜びを感じながら生き、身近な人が困ってる時には仏と一体になって互いに助け合う、困難を乗り越えて生きていく。
極々小さな地域でも、法華経の世界、観音経の説く世界がそこにはあるように思えてきませんか。
困った人の最も良い姿で手を差しのべる観世音菩薩はきっとすぐ身近の人なのでしょう。
525たか:2008/02/03(日) 21:27:45 ID:rKmKJvC0
「伝え聞く 法然生き如来
 蓮華上品に安座し 尼入道の無智のともがらに同じくす
 一枚起請 もっとも奇なるかな」
これ、一休禅師が法然上人が死の直前に書いて手形を推して弟子に残した一枚起請文ぶんをたたえたものだそうです。

一休禅師は真宗の蓮如と意気投合したそうで、親鸞聖人をもたたえています。
一休禅師も、親鸞聖人も、維摩経の維摩居士を理想として生きたのではないかなぁと私は思っていますがはたしてどうでしょう。

一枚起請文
 もろこし(唐)・我が朝(日本)に諸々の智者たちの沙汰し申さるる“観念の念”にもあらず。
 また学問をして念のこころを悟りて申す念仏にもあらず。
 ただ、往生極楽のためには南無阿弥陀仏と申して疑いなく往生するぞと思いとりて申すほかには、別の仔細そうらわず。
 ただし三心四修ともうすことのそうろうはみな、決定して南無阿弥陀仏にて往生するぞと思ううちにこもりそうろうなり。
 このほかに奥深きことを存ぜば、二尊のあわれみにはずれ、本願にもれそうろうべし。
 念仏を信ぜん人は、たとい(お釈迦さま)一代の法をよくよく学すとも、一文不知の愚鈍の身になして、尼入道の無智の輩に同じうして、智者のふるまいをせずして、ただ一向に念仏すべし。
 証のために両手印をもってす。
 浄土宗の安心起行、この一紙に至極せり。
 源空が所存、この他にまったく別義を存ぜず。
 滅後の邪義を防がんがために所存を記しおわんぬ。
 建暦二年正月二十三日    (大師在御判)
526神も仏も名無しさん:2008/02/04(月) 23:32:35 ID:o/fQgn0g
岩手県奥州市の黒石寺の蘇民祭、ポスターの裸男が、きもかわいい。
岩手県奥州市の黒石寺で2月に行われる裸祭り「蘇民祭」の観光ポスターについて、JR東日本が掲示を取りやめた。
上半身裸のたくましい胸毛の男性がモデルとして登場するが、JR東では「胸毛など特に女性が不快に感じる図柄で、見たくないものを見せるのはセクハラ」と判断した。
JR東日本広報は「このような措置は今回が初めて。(ポスターに出演する)個人の問題ではなく、デザイン全体に関して変更を要請したものの、時間の関係で受け入れて頂けなかった」と話している。
ただ、男性にとっては1年間待ち続けた、一生に一度あるかないかの晴れ舞台。
ああー。
527たか:2008/02/06(水) 23:49:09 ID:Rjv0VXdz
一枚起請文を書いて手形を押した2日後法然は亡くなったそうで、この一文に法然自身の人生の全てと後進へのメッセージが詰まっていますね。
インドや中国、日本の多くの人が言う観念ではないのだと言い切ります。
龍樹天親曇鸞道綽善導の七高祖が観無量寿経などの観念の念仏をとくのにそれを否定して念仏を唱えるだけだと言い切ります。
それだけを言いたいからその印として証拠として自分の手形を押す。
法然の人生をかけた遺言なんでしょうが、でもその心が浄土宗系の人の中にもよく解らないで、あれこれ頭に思い浮かべながら念仏をしてます。
これでは法然や親鸞の本心と全く逆の念仏をしていると思いますが、それに気づかない。
528たか:2008/02/07(木) 00:34:47 ID:KFAFpbrz
奥州市の黒石寺はわたしの実家から車で30分ぐらいでしょうか。
重要文化財の薬師如来が本尊でなかなかのものです。
住職は女性だったと思います。
蘇民祭は2月半ばの極寒の中檀家の男性が川で身を清め、裸、素っ裸で蘇民袋の護符を取り合う祭りです。
興味のある方は蘇民祭で検索を。
それにしても、インパクトのあるポスターですね。
なんともいえない恍惚の表情なんでしょうが、別なイメージに受けとめられてしまいましたね。
きっと純粋な気持ちだったのに。

盆踊りの起源は一遍上人の踊念仏から始まったといわれています。
念仏を唱えているうちに感極まって踊りだしたのでしょう。
本当に感動した時、喜びのまっただかのとき、頭が空っぽになって、身体が勝手に動き出し、踊りだしたりします。
これも無心の状態なのでしょう、そして、純な喜びの姿なのでしょう。
わたしはこの姿、この時が最もよい瞬間だと思います。
いやいや、よいも悪いもない、ただただうれしい喜びの中にいるのです。
529たか:2008/02/07(木) 23:52:46 ID:KFAFpbrz
昨夜深夜、NHKスペシャルでアポロ11号が初めて宇宙から地球を映した写真が出ていた。
真っ黒の漆黒の闇の中に光り輝く地球はまさに宝石のようでした。
宇宙に出てみればほんとにはかなく小さな地球に見えてきますが同時になんともいえない愛おしさがこみ上げてきます。
おそらくこれをじかに見た宇宙飛行士はもとより、この映像や写真を見た誰もが同じ感情、感激がこみ上げてくるでしょう。
宇宙飛行士の多くは宇宙から地球を見たときから人生観が変わるといわれます。
自己と宇宙全体が一体になっていると衝撃、感激が沸き起こるといわれます。
この真っ黒の宇宙の中で宝石のように光輝いている地球は太陽のひかりで輝いているのはもちろんですが、太陽だけでなく地球を取り巻く宇宙全体の本当に微妙なバランスの中で変化しながら成り立っているのでしょう。
そしてこのバランスの中で宝石のような輝いている地球の中でこれもまた微妙なバランスの中で成り立ち存在しているわたしたちも。
この有るないでも無いでもないような関係、存在を大乗では仏性といい、空といいます。
狗の公案、無の公案はこのことを言っていてある時は無といい、ある時は有といい、そして同時に有にも空にも拘るなとするのです。

見性体験は宇宙飛行士が宇宙の真っ只中にいて地球を見た瞬間の衝撃に感動に似てるでしょうか。
わたし達は宇宙に行くことはできませんがここにいながらこの大宇宙から与えられている感激、衝撃に出会うことができます。
一音でこれを智るとはこういうことですね。
だから大乗では大宇宙観、華厳の宇宙観に広がるのでしょう。
530たか:2008/02/07(木) 23:57:37 ID:KFAFpbrz
訂正。
昨夜深夜、NHKスペシャルでアポロ11号が初めて宇宙から地球を映した写真が出ていた。
真っ黒の漆黒の闇の中に光り輝く地球はまさに宝石のようでした。
宇宙に出てみればほんとにはかなく小さな地球に見えてきますが同時になんともいえない愛おしさがこみ上げてきます。
おそらくこれをじかに見た宇宙飛行士はもとより、この映像や写真を見た誰もが同じ感情、感激がこみ上げてくるでしょう。
宇宙飛行士の多くは宇宙から地球を見たときから人生観が変わるといわれます。
自己と宇宙全体が一体になっていると衝撃、感激が沸き起こるといわれます。
この真っ黒の宇宙の中で宝石のように光輝いている地球は太陽のひかりで輝いているのはもちろんですが、太陽だけでなく地球を取り巻く宇宙全体の本当に微妙なバランスの中で変化しながら成り立っているのでしょう。
そしてこのバランスの中で宝石のような輝いている地球の中でこれもまた微妙なバランスの中で成り立ち存在しているわたしたちも。
この有るないでも無いでもないような関係、存在を大乗では仏性といい、空といいます。
狗の公案、無の公案はこのことを言っていてある時は無といい、ある時は有といい、そして同時に有にも無にも拘るなとするのです。

見性体験は宇宙飛行士が宇宙の真っ只中にいて地球を見た瞬間の衝撃に感動に似てるでしょうか。
わたし達は宇宙に行くことはできませんがここにいながらこの大宇宙から与えられている感激、衝撃に出会うことができます。
一音でこれを智るとはこういうことですね。
だから大乗では大宇宙観、華厳の宇宙観に広がるのでしょう。
531たか:2008/02/10(日) 21:19:03 ID:t094gNCZ
宇宙という漆黒の闇のなかにありながら太陽の光で宝石のように輝く地球。
でもその中にありながらも太陽の光など全く届かない漆黒の深海の中で生きる生物もいます。
水深何千メートルの水圧の中で地球内部から放出されるガスと熱の中で生きるすべを見つける生物がいるのには驚きます。
その生物たちの中には漆黒の闇の中にあって逆に自らまばゆい光を出して敵を威嚇したり獲物を捕らえたりするものも多くいます。
生きるもののたくましさと驚きを感じますね。
光を見たこともないだろうに何故光を出すことを身につけたものか不思議です。
この深海の海の生物、いっけん太陽とは全く関係なさそうに見えますが実は大きな関係があって太陽なくしてはこの生物たちも瞬時存在しません。
太陽の光や引力があってその時の地球があり、地球内部の活動があり、海の環境があり、その瞬間の深海の環境があるといえます。
こうして考えてみると夜空はるかかなたに見えるか見えないかで輝く星もなんらかの形でわたしたちに影響してるのかもしれませんね。

以前、水滴に宇宙一切が宿る、宇宙全体がこの一滴に映し出しているのだと書きましたが、同じことですね。
維摩経では、芥子の種一粒にも宇宙全体が入っているのだと説きます。
これを体感することを見性といい、維摩経では、不可思議解脱といいます。
別の言葉では、無分別の智でしょうか。
地球、深海の生物、樹の葉の上の水滴、芥子の種、そしてわたしたち人間一人一人、姿も環境も違うように見えますが、それぞれその瞬間の宇宙を映し出しているといえます。
532たか:2008/02/10(日) 21:53:52 ID:t094gNCZ
フランスの画家マティスのダンスという絵があります。
おそらく世界で最も有名な絵の一つですね。
五人の裸の女性が手を繋いで輪になって踊っているだけの絵です。
色も五人の裸の女性は朱で、後は空の青と地球の緑でしょうか。
たった三色だけです。
この誰でも描けそうな絵がピカソと並び称されるマティスの最も有名な絵だとは最初何故なのか解らなかったですね。
533たか:2008/02/16(土) 20:29:20 ID:5Hum1Gsz
2月13日のテレビのワイドショウは蘇民祭が必ずでてました。
ポスターの男性はテレビに引っ張りだこでした。
警察もいつもの2倍の40人が出て全裸を取り締まるとか。
祭りの伝統を守るために世話人といわれる人が唯一人全裸で登場する時にはライトを全部消していましたが。

蘇民祭は寺だけでなく神社などでも行われていて祭りの参加者が素っ裸で身を清め、祭りのなかで仏や神と一つになる。
一体になることで無病息災、家内安全五穀豊穣を得ることができるのだということにあると思いますね。
一切を捨て、素っ裸の赤ん坊のようになって初めて如来や神と一体になることができる。
そして自分だけでなく家族や地域の人達にもその徳を分けてあげられるというのがこの祭りの最も大切なことだと思うけれど、その肝心のところが忘れ去られてセクハラや露出だけをとりあげてしまう。
警察も出てチンコをだしたら逮捕するなどというんではちょっとねぇなどとおもうけれど。
セクハラや露出などというそんなちんけなことに捉われずに仏のはたらきでこの世を生き抜こうとする自由、自在の考え捉え方が昔の人にはあったと思うね。
それが祭りを生み出し祭りを育てそして祭りを続けさせたものではないかな。

でも、去年までは地元のテレビでしかニュースでしかとりあげられなかったものが今回は全国に知られるものになりました。
まぁ、現代ではこれもこれでよいかもしれませんが。
534たか:2008/02/17(日) 17:52:42 ID:xFE43AxT
仏や神と一つになって生きていく。
わたしの田舎では昔からいくつかの神楽があって祭りの時に舞われます。
昔、小学校の運動会でも上学年の生徒が全員で舞ったことがありました。
その時何で運動会でこんなことしなきゃならないんだと思いましたが。
今でも神楽を小学生が受け継いでいます。
ちょっと北上市の鬼剣舞にも似てるでしょうか。

ずーとこれら神楽は神社の神に奉納するものだと思っていましたが少し考えが変わっています。
普通思われているように神に奉納することは否定はしませんが、神と自分というそれぞれが別々なものとして捉えるのではなく、神楽を舞っている間に無心になって神と自分が一つになることに大きな意味があると思えます。
舞っている人だけでなく、笛を吹き太鼓をたたき鉦を鳴らす人も同様です。

法華経の妙音菩薩品第二十四に観音菩薩と同じ徳を持つ妙音菩薩が出てきます。
この妙音菩薩が菩薩になったいわれがこの中でいわれていますが、これも興味深いものです。
雲雷音王仏に一心に伎楽をもって供養し宝器を奉上して菩薩になったのだと書かれています。
妙音菩薩は別名文殊菩薩とも妙吉祥菩薩とも言われていて、無分別の菩薩ですね。
535たか:2008/02/17(日) 21:25:48 ID:xFE43AxT
妙音菩薩は文殊菩薩、弁財天とも言われる。
名前から感じられるように妙なる音の菩薩だ。
だから弁才天とも言われるのでしょう。
観世音菩薩と同じく、非心というか無心の時に音を切っ掛けに菩薩となり、無分別智を体得し、別名文殊菩薩といわれるように智慧の菩薩として親しまれている。
音を観じて身体の中から沸き起こる喜び、これを喜見と呼ぶのだろうか、身体が勝手に踊りだすような喜び、これを見性の時の大歓喜と呼ぶのでしょう。
文殊というように何でも知っていて分別できそうなのに、この菩薩は無分別で、それを文殊の智慧という。
多くの人にはこれが解らないのでしょう。

維摩経ではどの菩薩も維摩居士の見舞いをためらった中で唯一このも文殊菩薩だけが維摩居士と対等に問答する。
特に有名なのが、入不二法門品、でしょうか。

菩薩が不二の法門にいるとはどういうことか、おのおのが自分の思うところを述べてほしい。
という維摩居士の要請に文殊菩薩に同行した菩薩たちが自分の思う不二を話します。
536たか:2008/02/20(水) 03:03:02 ID:YwH6d39N
昔話を一つ。
こぶとりじいさん,
昔、昔あるところに大きなこぶをもつおじいさんが住んでいました。ある日おじいさんは山へしばかりに行きました。突然雨が降ってきたので、おじいさんは小さなお堂の中に逃げ込みました。やがておじいさんは眠ってしまいました。
お堂の外のにぎやかな音でおじいさんは目を覚ましました。沢山の鬼たちが音楽に合わせて踊ったり、お酒を飲んだりしていました。
おじいさんも踊りたくなって、お堂から出ると鬼たちの輪の中に入ってしまいました。おじいさんの踊りのうまさに鬼たちも大喜びです。夜が明ける頃、鬼のかしらがおじいさんに言いました。
「実に踊りが上手じゃ。また明日の夜来なさい。それまでお前さんのこぶを預かっておく。」と言ってこぶを取ってしまいました。
おじいさんは家に帰るとおばあさんに話しました。ところが隣りのいじわるじいさんが聞いていました。
次の夜、いじわるじいさんはお堂に隠れると鬼が来るのを待ちました。しばらくすると鬼たちがあらわれ、踊り始めました。
いじわるじいさんは鬼が恐くてしかたありません。でもこぶを取ってもらいたいので鬼の輪の中に入って踊り始めました。
でも踊りも歌もとても下手です。鬼たちはとても怒ってこぶをつけてしまいました。
537たか:2008/02/20(水) 13:49:16 ID:YwH6d39N
二人のこぶのある爺さん、二人の違いは何だったのでしょうね。

こぶを取られた爺さんは踊りや音楽がとても好きだったのでしょう。
鬼たちが楽しんでるのを見ていて、鬼の怖さも一切忘れて忘れて音と一体、身体全体が踊りと一体になって全てが喜びいっぱいだったのでしょう。
これもまた非心無心、無我の状態とも言えるでしょうか。
この無心で無邪気にそして楽しんで喜びいっぱいで踊る姿に鬼たちもすっかり楽しみ爺さんに魅了されたのでしょう。
一方、隣の爺さんは踊りや音楽がそもそも好きではなかったのでしょうか。
それよりも、鬼に気に入られてこぶを取ってもらおうという下心がきっと踊りやしぐさにでて踊っている本人も見てる鬼たちも全く楽しめなかったのでしょう。
妙音菩薩の修行した雲雷音王仏の世界は国名現一切世間、劫名喜見、そのままの世界が喜びを見る世界といえ、妙音菩薩はそこでおどりと音楽の中で自我を捨てることができ無心の境地になったといわれます。

音楽、音で自我を捨て無心になった踊りと、下心があってそれに執着した踊りの違いを、鬼たちは見破ったのかもしれません。
538たか:2008/02/20(水) 16:22:15 ID:YwH6d39N
人間誰でも自分に欠点や不満はあるもの。
ああいうふうに生まれたらよかったのにとか、こうだったらもっと良かったとか、いいだせばきりがないですね。

こぶのことなど忘れたならこぶなど気にならないでしょうか。
少なくとも鬼も喜んだくらいだから踊りには邪魔にならなかったのでしょう。
一方こぶを常に気にしていたならこぶが気になって素直な気持ちで生きられません。
こぶは自分とくっついていて一体なのに、醜く感じるこぶは自分と別物なのでしょうか。
こぶが一つなのにそればかり思っていればこぶが一つというより2つや3つに思えてくるようなものでしょうか。

維摩の部屋を訪れたもの達に部屋の中にいた天女は花びらを振り掛けます。
悟りに至った菩薩たちには花びらが身体に付かずに床に落ちますが、悟りに至っていないものたちつまり執着心のあるものには花びらがまとわりつきます。
舎利子が花びらを手で払ってもすぐにまた身体に纏わりつきます。
経験上、執着すればするほどそのものが気になってさらに一層執着心が強くなりますね。
花をはらわなければならないなどと分別心を起こしそれに執着することでそれがさらに纏わり付く。
花びらは修行者には駄目など気にせずに、あるがままに受け入れれば花ビラは身体からそのまま床に落ちたのでしょう。

醜く邪魔なほっぺのこぶも恐ろしい鬼も無分別、そんなもの気にならなくなれば苦しみなどに捉われず恐れもなく、自己と一体、仲間となって喜びが見えるのでしょう。喜見。
539たか:2008/02/20(水) 18:55:02 ID:YwH6d39N
中国福建省に円楼と呼ばれるドーナッツに似た住居がある。
直径が約80メートルもあってその中で60〜70世帯が生活しているらしい。
ドーナッツのパンの部分は4階建てになっていて、1階は炊事場で、2階は倉庫、3階以上で就寝するというパターンが多いようだ。
元々は福建省の人達でなく、かつて華北に住んでいた漢族が、戦乱や自然災害を避けるため南下し、唐代末から宋代はじめにかけて福建省南東部などに住み着いたらしい。
円の中央には観音菩薩や先祖を祭っていてこの中に住む一族皆を見守っている。
観音菩薩に供物を上げてお茶をあげて一日が始まる。
前にも書いたけれど世界どこでも神や仏が一族全体を見守っていて、一緒に生きているという考え方があるのでしょう。
寺を中心に人々が住む、ごく自然なことなのでしょう。
540たか:2008/02/21(木) 02:23:47 ID:HJbo+jAq
若いマティスを支持したのがロシアの富豪シューキンです。
シチューキンはマティスに玄関に飾る大きな絵を注文した。
その時シチューキンは家族に不幸が続いていました。17歳の息子の自殺、妻の病死、そして息子の自殺。
悲劇の中にいるシチューキンを励まし癒すために描かれた絵が名画ダンスだといわれています。
マチスは法律家を目指してパリに来たそうですが、身体が弱く病の時に出会ったのが絵であり、絵画が癒しであり、そして画家を志したと言われています。
ダンスを書く前に描かれた絵に、生きる喜びという題名の絵があって、その中央にダンスのモチーフになった手を繋ぎ裸で踊る女性の絵が描かれています。
マティスはこのダンスを書く前に人の動きをデッサンしにダンスホールに行って動きを幾日も観察したといわれています。
完成した絵を見たシューキンは喜んでこの大きな絵を玄関を入った正面に飾ったそうです。
このダンスの絵に描かれた女性の動きはマテxスが何度もデッサンした絵からえがかれたもので、この絵を見る多くの人に癒しと生きる喜びを伝えています。
541たか:2008/02/21(木) 22:26:36 ID:HJbo+jAq
身体の中から沸き起こるような生命の喜び、生きる喜びがこのダンスという絵の女性たちの動きから伝わってきます。
全国、全世界にはいろんな祭りがありますが、リズムと音の中にいるとジッとしていられずついつい身体が動いてしまいます。
隣の人と手を取り合って、時に手をつないで、音にあわせて身体を動かすと喜びとともにすがすがしさもありますね。

マチスのダンスの絵にはそこの絵を見る人にこの時の喜びを思い起こさせるのでしょう。
悲しみの中にいたシチューキンは絵を送られたその絵を見て心の底にあった生きる喜びを思い出したのでしょう。
どんな困難な中でも人の心の中にはこの生きる喜びがあるように思えています。
いえ、人だけでなく生きとし生けるものは皆これをもっていて自分の命をとおしてこれを伝えたいのかもしれません。
だからこそ、どんな困難に思える自然環境の中にいても生きるすべを見つけるのでしょう。
542たか:2008/02/24(日) 17:50:27 ID:DtmSotwJ
生まれた時に、生まれた時からそして見性した時に感じる喜びこれが人生をどんな苦しみや悲しみの中でも下支えしているものではないかなぁとわたしは思っています。
これは生きてる限り、一生を貫いてあるものだけれど、ある時から、もう一つ別の生きる喜びが自然に生まれてくると思っています。
それは、伝える喜び、別な言葉で言うと、伝えることができる喜び、といえるものでしょうか。
自分をとおして伝えることができる喜びでしょう。
この自分を通して先に伝わる伝えられる喜びはこれもまたいくら金を積まれてもかえることができないものだし、いくら言葉を尽くしても言い尽くせないものですね。
それは血縁をつないで子孫として伝えていくことはもちろんですが、単にDNAを伝えることだけではありません。
その人のその生きものというからだを通じて、そしてその人の心を通じてその時代やその瞬間を初めて伝えることができるものであり、それでしか伝えられないものであり、その人だけでしか伝えられないものですね。
それは変化めまぐるしく変わる環境で生き抜く方法だったり、文化だったり、風習だったりいろんなものがあります。

そしてそれは意識してるにしろ無意識であるにしろ、時には単に自分だけの生きる喜びをも捨てて、他の人に伝えることを優先しようとするときがあります。
543たか:2008/03/02(日) 18:20:29 ID:yHKZEFdK
自我を捨てることができ自己を離れた時に、見性を体験することが多いわけでそれを本来の自己といいます。
ですから仏教を学ばなければ見性しないというわけではないでしょうが、ただし、見性後、先人が残し伝えてきた仏法を学ばなければ正しく本来の自己を理解し会得することはできません。
多くの人は見性体験をし悟ればそれで完成と思うでしょうが、ところがそうではありません。
見性体験のままであれば、その人の勝手な思い込みにはまってしまい、新たな執着が生まれそこからなかなか抜け出せません。
釈迦から始まった仏教は釈迦と同じ体験をしながらもそれを受け継いだ先人たちの心と身体を通しながらその地域や時代を反映しながらその教えを深めてきたのだと理解すべきでしょう。
それが大乗の経典や先人の教えという言葉とかたちで受け継がれてきたのです。
釈迦が悟りを得てから今日でおよそ2500年、その間それぞれの人が将に一生を賭けて伝えてきたわけで、ちょっと包まれたような体験をしたから安らかな体験だからそれで良いというのでは不十分です。
もしそのような体験があったらなおさら先人たちの教えを深めなければならないし、それによって自分にしっかり仏法が身に付くものでしょう。
そしてそれができて今度はそれを他の人に伝えるということが始まります。
自分が仏法を深めていてこそ伝えることができるわけで、この伝えるということもなかなか大変なわけで常に常に学ばなければうまく正しく伝えることはできません。
観世音菩薩や妙音菩薩が悟りの完成の立場にありながらも常に衆生を見性や悟りに導く立場をとり続ける理由はここにあるといえます。
ですから見性体験に留まることなく自分以外の多くの人に仏法の心を伝えることが大切なことで、観音菩薩や文殊菩薩を理想とし、その菩薩のように多くの人に伝えることが一生の仕事であり、同時に新たな生きる喜びといえるでしょう。

544たか:2008/03/02(日) 21:54:39 ID:yHKZEFdK
最も生きる喜び、自分を通して子孫や後進に伝える喜びは何も仏法だけにあるのではありません。
漁師は魚の取れる時期や方法などを伝え、農民はその地域での作物やその作り方、職人も先人から伝えられまたそして新たに自分が身につけた技を伝えます。
これは何も人間だけではなくて全ての生き物は同じように親から自分そしてその子供にというように、世代を代えながらその時代や環境に適し生きていくために少しずつ変化しながら伝えていきます。
子供をある程度まで育てる哺乳類などは身体だけでなく育てながら親の心も伝わっていくのでしょう。
人の場合、身体や生きるテクニックだけでなく、生きる心も一緒に自然なかたちで伝えられているのかもしれません。
545たか:2008/03/02(日) 22:51:52 ID:yHKZEFdK
法華経の妙音菩薩品では、音とリズム、音楽と舞の供養で妙音菩薩は雲雷音王佛のもとで悟りを得たと敢えて釈迦がいっています。
そして観音菩薩と同じように天楽、天の音で我々衆生を悟りに導くということを言いたいのでしょう。

一遍上人は全国を遊行しましたが、長野でのこと念仏の中でその中の人達が踊り始めたのが盆踊りの始まりといわれています。
念仏の声、太鼓の音、鈴の音、それらの音とリズムの中でついつい踊りだしたのでしょうが、きっと無心の状態、阿弥陀仏という音の中で阿弥陀仏と一つになった状態なのでしょうか。
一切を仏に任せきった中で心も身体も一体となったのでしょう。
 となふれば仏もわれもなかりけり南無阿弥陀仏なむあみだ仏
音と念仏と仏と身体と心が一つになって踊りだす。
もう理屈や知識などと入り込む以前の瞬間でしょうか。
546神も仏も名無しさん:2008/03/10(月) 11:15:58 ID:pbygpIkV
見性とはいかなるものか?
547たか:2008/03/11(火) 11:22:38 ID:4ILn3J2X
見性は、頭で考えたり、自分でどうこうしようというものでもない。
なすがままともいえるのであり、自分では手を付けないのだ。
この状態を無心という。

例えば、芭蕉の悟りを現した句である、
 古池や蛙飛び込む水の音
も、水の音だけでなく、芭蕉を取り巻くその時の古池の周囲全体が、音の鳴った瞬間に芭蕉の心の中に入っているということを詠んでいる。
この音の鳴った瞬間、その時の自分を取り巻く環境を色といい、その時の心を空と言う。
これを色即是空、空即是色といい、色と空は全く異ならない状態、余計なものがない、不生不減不垢不浄不増不減、つまり色と空は全く異ならない、これを自他一体という。
またこれを心身で受け止めることを見性といい、ゆえに、これを来るが如し、つまり、如来といい、このときの音を観音という。
548たか:2008/03/12(水) 12:18:59 ID:MtpAoRBe
3月に入ってNHKのこころの時代という番組でおよそ20年前1988年に放送されたものを、こころの時代のアーカイブス、として放送している。
先週2回目は延暦寺の酒井大阿闍梨の千日行の様子とインタビューだった。
このとき2回千日行を満行したそうだ。

1回目の放送は岐阜の臨済宗の正眼僧堂の臘八大接心(ろうはつだいせっしん)の修行を中心に谷耕月師家のインタビューだった。
この寺は修行は厳しいそうで臘八大接心は7日間不眠で座禅と参禅と動く座禅である経行(きんひん)の修行に徹する。
不眠といっても夜中3時間ほど座禅の姿で寝る、これを座睡という。

ところでこの放送の中で見性について二人の師の考えがあった。
一人は天龍僧堂の平田精耕師家ともう一人が正眼僧堂の谷耕月師である。
この二人の話を見ていて見性に違いがあるのでそれを少し書いてみたい。
549たか:2008/03/14(金) 11:04:11 ID:iRgFzxiC
見性はじつに短時間であって、それを一音という。
見性の一音のという短時間の体験の中に大乗仏教の根本が凝縮されている。
代表的な大乗経典は全てこの見性体験が基礎にあって書かれたものであるから自分の体験と照らし合わせて読めばほとんど理解できる。
禅の公案でとわれていることも同様に理解できるのだ。

ただ、俺は体験したのだ、俺は偉いのだ、俺は凄いだろう、などという時に本人では気づかない、気づいても自分ではすぐにどうしようもならない高慢さが出てくる。
これをそのままにしているとひとりよがりの高慢な人間で終わってしまう。
理想の菩薩である観音菩薩は悩み苦しむ人と同じ立場に立って、一緒に生きましょう、と励ます人を言い、だから菩薩という。
仏法の真髄をしった上で、新たに出てきた高慢さを捨てきって生きることが菩薩行なのだ。
だから見性は仏法の入り口にやっと入った段階なのだ。
550たか:2008/03/14(金) 11:39:48 ID:iRgFzxiC
だから自分は悟った見性したと騒いでも、大乗経典および先人の教え、体験が理解できなければ、どこか間違っている、見性ではないかもと思ったほうが良い。

なお、座禅も念仏も真言もその他、見性の後はそれをしていること自体が楽しくなるはず。
だから何時間していても苦にならない。
だからこれを、つまり座禅の姿、座ることを、悟りの姿そのもの、などというけれど、言葉だけが一人歩き捨ている。
悟りにおいては、30秒座っても座禅、1分座っても座禅、2時間3時間6時間座っても座禅だ。
一息、一息、一音、一音、これもまた禅である
551たか:2008/03/20(木) 22:41:39 ID:FsSZitEN
こころの時代のアーカイブスを見て初めて谷耕月師家という人を知りました。
谷師家の話は私が書いてきたこととほとんど同じで解りやすいので少しずつ書いていきたいとおもいます。

ところで、昨日秋田の連続児童殺害の畠山鈴香被告に無期懲役が言い渡された。
罪状について言うつもりはないけれど、本来娘に生きる喜びを伝えるべきなのに、唯一母だけを信頼していたのにそれを裏切るとは。
なんとも悲しいですね。
552たか:2008/03/20(木) 23:57:28 ID:FsSZitEN
今中国のチベットの問題が連日放送されています。
昨年NHK特集でラサのことがとりあげられました。
ラサに鉄道が開通し多くの観光客が訪れていて観光客を受け入れるためのホテルが建設ラッシュとだそうです。
多くの日本人も訪れていました。
チベットのラサの観光の一番はなんといってもチベット仏教でしょう。
四川省から来たホテルの経営者が田舎のチベット人を雇うところから番組が始まります。
このホテル経営者は利益重視、儲け重視の人で当然のごとくホテルのイメージアップのためにチベット仏教を前面に押し出す戦略を立てます。
田舎に行っては生活に苦しい寺や民家から先祖から伝えられて大切にしてきた仏像や仏教の品を中心に買い叩いてホテルで高値で観光客に売ります。
今の中国はどこでもですが自給自足では生活できない急激な貨幣経済の波が押し寄せていて買い叩かれても生活するために仏像などを手放さざるをいない人が多いのです。
でもそれを売ってもほんの一瞬の一時しのぎに過ぎなく、生活はさらに困窮します。
ホテルではつけられた高い値段を見て、高いんじゃないのと観光客が言うと、買値が高いんですといってる様子が放送されていました。
ホテルに寺の僧を招いてチベット仏教の法要をショー化して金を取って観光客にそれを見せます。寺も金が必要なんでしょう。
だんだん僧侶がホテルの経営に取り込まれてピエロ化していきそうな気さえし懸念します。
ホテルに雇われていたチベット人の従業員は評価基準の変更といわれて突然給料が半減しました。
番組にでていた従業員はこれでは生活できないと言ってホテルをやめ、チベットのこころまでけして渡せないと言って夜のラサの街に去っていきました。

中国政府はチベットの人々の生活と文化を守ると言いながら、チベットの文化と心を無視した儲け重視の経済ばく進中に見えます。
テレビを見ていてそのうち爆発するのではと思ったのは私だけだったでしょうか。
テレビを見てると、まるで鎖国のミャンマーの僧侶への鎮圧を思い起こさせます。
遠い昔から人々が大切に守り育て伝えてきたチベットの仏教文化とそれを守ろうとする人々の心を中国政府はもっと大切にすべきです。

553たか:2008/03/21(金) 00:14:31 ID:D0sOr7mL
運慶作の仏像がイギリスのオークションに出されて競り合って三越が落札すしたという話題がありました。
国宝級ということで文化の海外流失を食い止めなくてはとコメンターが言っていました。
たしかに明治時代には特に国宝級の仏教美術品が大量に海外に買われてしまいました。
美術品の価値は別としても今のチベットでは似たようなことが起きてるかもしれませんね。
554たか:2008/03/23(日) 18:01:54 ID:fK7a/W4O
584で書いた岐阜の臨済宗の正眼僧堂の臘八大接心(ろうはつだいせっしん)の修行を中心に谷耕月師家のインタビューは大変いい内容でした。
今から20年前に放送されたものですが番組を見ていると臘八大接心の7日間は不眠で座禅と参禅と動く座禅である経行(きんひん)の修行に徹しています。
経行では修行僧が寺を走り回っていて、座にだけに禅があるのではなく動、うごきも禅の本質があると昔から言われていると谷耕月師家は言うのです。
この臘八大接心を見ていると参禅の時の喚鐘もちろんですが、何度も鐘がならされる場面が出ます。
無の公案、隻手の声音の公案があるわけでしょうが、先ずは考えるよりも前に何も考えずにこの目の前の鐘の音を智るべきだと思いました。

2チャンネルの宗教版を見る人も、当然参禅の雲水もそれぞれ程度はあれ仏教の知識を事前に持っています。
谷耕月師家は雲水がもっているこの知識を吐き出させ、何もいえないところまで追い詰め導くのですとこたえてました。
これこそ捨てさせると言うことでしょう。
何も言えなくなった時、言葉さえ思うことができなくなった時、というのは、このスレの43で、わたしが半さんに、
 ところで、問いが答えそのもになる瞬間、と半さんはじめ他の多くの人も書いているのを見ます。
 このことについてはどうも納得できません。
 私のことで言うと、諸々の問いをやめた後、つまり問うことさえも捨てた後、しばらく経って見性が起こったと言えます。
と書いたのと同じことでしょう。
言葉もなくなって、ただただ、になる。

このときにこの状態に至ることが大切なように思います。
555たか:2008/03/23(日) 18:41:21 ID:fK7a/W4O
司会者の、何をもって見性、悟りとするのですか、という質問に谷師家が次のように答えていました。
悟りと言う言葉を言ったら悟りでなく、悟りを求めていたら悟りでないんです。
それさえも、見性、悟りさえも、捨てるんです、求めるものがあってはだめなんです、求めることも捨てるんです、お解かりでしょうか。
ともかく徹するんです、日ごろの親からもらった自分を捨てて捨てきって、もう一人の自分を見つける、これが見性に通じるんです。

556たか:2008/03/26(水) 12:41:33 ID:07kNcl0s
参禅する僧が何を言ってきても、だめ、言葉の尽きたところが始まり、何もいえないところに追い詰めて、百尺の竿頭一歩を進める。
誰でも、百尺の竿頭まではいく、そこからどう進めていくか、これが参禅の生きた修行の仕方、それだけいい加減ではだめなんです。
557安芸門徒:2008/03/26(水) 17:02:37 ID:/Njz3BVx
>>1
広島カープの応援。
カープはやたら負けるので、心の修業にもなる。
そして諦めから出発する、ある種の悟りににも似た心境にもなれるw
これぞ易行にして難行。広島に真宗門徒が多いのも分かるような気がしてくる修業ですw
558たか:2008/03/27(木) 11:09:30 ID:kM6jBhjE
安芸門徒さんへ、
諦観、諦念、諦聴、という言葉があります。
諦めに至って初めてというところがあります。
見性して振り返ると、将にこれだったと思えてきます。
だから、釈迦の最初の悟りの四諦に諦と言う字を使うのだろうとも思えてきます。
俺はやってやる、悟ってみせる、と意気込んでみんな出家をするのでしょう。
でもみんないったん行き詰ってこころがボロボロになりますね。
釈迦も城を抜け出して6年間好き勝手に修行らしきことをしてどうにもならなくなって疲れ果てて村の娘のスジャータに出会った。
もしかしたらそれまで修行しているものは布施してもらうのが当たり前と釈迦は思っていたのかもしれません。
でもそんなこころさえも崩れ去って初めて本当のやさしさに出会ったような気がしたのでしょう。
あぁ、俺って、なんて情けないやつだ。
でもこれは釈迦だけではなくて、先人を見ればみんなそんな心境の時があったように思えます。
真宗の祖の親鸞も京都六角堂ではそんな心境だったのでしょう。

でも、安芸門徒さんの広島カープの応援の修行は大変楽しそうな修行ですね。
あまりにカープが勝ちすぎたときにはあまりにうれしくて心も踊って安芸門徒さんも増上慢になるかもしれませんよ。


559たか:2008/03/27(木) 11:57:10 ID:kM6jBhjE
闇夜の鴉の、カァ、の一声に見性した一休禅師は真宗の蓮如とも親交があったそうですが、おそらく一休さんには親鸞にあい通じるものを感じていたのでしょう。
前にも書いていますが、見性の後大乗の経典や先人の書き残したものを読めばその内容や伝えたいことが良く理解できるのです。
わたしにとっては維摩経が一番衝撃があったでしょうか。
一休さんもそうだったかもしれません。
良寛さんは道元の正法眼蔵をみて、これはわたしのためにかかれたものだといって、涙で読み進むことができなかったとか。
先人の生き方や教えを知ると、きっとこの人はこんな心境だったんだろうと思わず感慨に浸ります。
それは多くの公案においても同じです。
一音を知ればほとんどの公案が何を云わんとしてるかよくわかります。
当然、公案に登場している名僧の心境も心に響いてくるものでしょう。
560たか:2008/03/27(木) 13:13:55 ID:kM6jBhjE
美空ひばりさんの歌に、川の流れのように、があります。
ある年になって振り返ってみると、人生は生まれ故郷から始まって紆余曲折困難があっても川の流れのように今の私に続いていると言う歌でしょうか。
楽しい思いでもあれば涙に暮れる悲しい時もあります。将に川の流れのように思えてきます。

ここで、ちょっと視点を上げてズーッとズーッとはるか遠くに2500年前に目を向けてみれば釈迦が見えてきます。
そこからゆっくりと自分のほうに目を向けてくると点々と点の連なりが見えてくるでしょうか。
その中には名もなき大乗経典の作者や竜樹や無じゃくや世親、羅什や玄奘や達磨や慧能やその他多くの人の姿が浮かび上がってきます。
その点の連なりを釈迦からつなぎ合わせていくと川の流れのように、道のように思えてくるのでしょう。
その釈迦から始まった仏法がそれぞれ点を通過することで今の自分につながっていることに気づきます。
仏法を学ぶと言うことは単に今瞬間の悟りを智ることだけではなく、その流れの中にいた人達たちそれぞれ心も感じる、その当時のその人の心を今の私たちが受け取ることとも言えます。
竜樹が何を感じ何を伝えようとしたか、同様に世親や羅什、その他の人達が何を感じ何を伝えようとしたのか彼ら自身になって味わうことができるのでしょう。
見性後大乗の教えを学ぶことは単に釈迦になることだけではなく、彼らそれぞれの心も直接感じることにもなります。
大乗を学ぶ喜びは、見性の悟りの喜びはそこにもあるでしょう。
そしてそれがまた自分を通して、先に伝えられることができるのなら、と思えたなら、きっと更なる使命と喜びに思えるのでしょう。

以前、永平寺の修行の場面がテレビの映されました。
毎朝でしょうか、僧たちが釈迦大和尚始まって歴代の和尚を次々に呼び上げていき、現在の永平寺の和尚までつぎつぎに。
そして、今、この自分に至っているのだ。

まさに、川の流れ、釈迦から始まった仏法の道でしょうか。
561安芸門徒:2008/03/28(金) 01:22:26 ID:/An/j9z3
>>558
すみません、ふざけてました。
あれは半分冗談で、半分本気です。
増上慢にならぬよう、は日々気をつけるようにはしております。私は教職に就いております。言わば宗教的信念では「凡夫」でありながら、時と場合によっては、それを捨てて仕事に臨まなければならない訳です。

あまりにも真面目な顔をして話をした後だいぶ経って、凡夫のくせにwって自分にツッコミたくもなり、時に悪ふざけが過ぎてしまいます。その悪ふざけに丁寧なお返事を下さり、ありがたいやら申し訳ないやら…

本当に気をつけます…
562たか:2008/03/28(金) 11:49:11 ID:Y5Fr8Oef
安芸門徒さんへ、
私こそジョークで書いたつもりでしたが増上慢と言う言葉を少しきつく受け取られてしまったかもしれません。
人生は喜びも悲しみもあり、だからこそ面白いと言えるところもあります。
極楽浄土は安楽の地ですが、単に安楽だけではきっと飽きてしまいますね。
無常と言う言葉を聴くと、なんか今の自分がなくなってしまう、と思ってしまう人がたいていで、だから無常という言葉に悲しみや寂しさを感じてしまいます。
でも、常に変化しているからこそ新しいものに出会う、新しいものを見つける、ちょっとした喜びに気づくものです。
常に瞬時瞬時変化しているから楽しいのだと感じることが大切でしょう。
まずはこのこころの転換が大切ですね。

生きてるうちには困難や悲しいこともありますがそれを互いに助け合いながらうまく乗りこなして、生きる喜びや生まれてきた喜びの心を伝えられたならきっと最高の人生でしょう。
安芸門徒さんが日ごろの生活の中でこれから育ち、旅立つ人にそれを少しでも伝えることができたなら最高の職業に就いたのではないでしょうか。

広島はカープでしょうが、宮城県は地元のニュースになったとたんに毎日どこのテレビ局も野球の楽天とサッカーのベガルタ仙台の話題ばかりです。
他に流す話題がないものかとも思えるほどです。
と言うわけで、毎日刷り込まれてしまいついつい弱い楽天を応援してしまいます。
熱心に応援している人の中には狂うほど勝ってほしいと願っている人も多いでしょうね。
563たか:2008/03/28(金) 13:11:21 ID:Y5Fr8Oef
私がここに書き始めたとき、最初から、等伯の松林図とマティスのダンスという絵のことを書こうと決めていました。
松林図では空の捉え方を、マティスのダンスでは生きる喜びを、書くのにずいぶん時間がかかってしまいました。
なかなかうまく書き表すことができませので、うまく伝わっているか解りませんが。
564たか:2008/03/30(日) 13:08:00 ID:cDvz1mnE
マティスのダンスを見るといつも強く思い出すことがあります。
長男が3歳の時妻が入院して妻の実家のの青森の母に長男を預けたことがあります。
数日後仕事で近くにいった時に長男と目が合った瞬間、一瞬立ち止まって、長男が突然踊りだしたのです。
少しは喜んでもらえるかなぁ、とは思っていましたがまさか踊りだすとは。全く思っていませんでした。
突然おばあちゃんに預けられておばあちゃんとは楽しくしているように見えても、3歳の心の中は寂しくてなんとなく不安だったのでしょう。
目が合った瞬間にその不安が吹き飛んでうれしさでいっぱいになって突然それがそのまま身体を動かせたのでしょうか。
このとき以来、人間は本当にうれしくなった時踊りだしたり飛び跳ねたりするものだ、と思うようになりました。

ずーとたって初めてダンスという絵を見た時、最初は何も感じなかったのですが、この3歳の時の長男を思い出すにしたがってどんどんこのダンスの絵に引き込まれていきました。
手と手を取り合った瞬間何もかも忘れて輪をつくって思わず踊りだしたくなる、歓喜の瞬間、その一場面でしょうか。
生まれた瞬間、赤ん坊が小さい手足を動かしてウギャァ、ウギャァ全身で泣いている姿はこの時に通じるような気がします。
565たか:2008/03/30(日) 20:57:14 ID:cDvz1mnE
>>548の臨済宗の正眼僧堂の谷耕月師家の話はビデオに録っていたので何度か見たのですが、驚くくらいに私がここで書いてきたのと全く同じことを言っていますね。
谷耕月師家は全く同じことを話しています。
この番組では天龍僧堂の平田精耕師家ともう一人が正眼僧堂の谷耕月師の二人が見性について話していますが二人には少し違いがあります。
その二人の違いをどのように書いたらここを読んでいただいている人に一番解りやすいかいろいろと考えているのですが。
一番いいのはこの放送をそのまま書けばいいのですが長くなりそうでどうしようか思案中です。

566たか:2008/03/30(日) 23:17:48 ID:cDvz1mnE
今月はじめでしたかテレビを見てたら、ソロモン流という番組の中でアリスの谷村新司さんが出ていて京都の正伝寺という寺にひと月に2度はその寺にいくといっていました。
何しにいくのかというと、本人曰く、
 空っぽにするために、何も考えないんです、

それを見ていながら、そういえばNHKの日本の仏像100選という番組でカノンという歌を歌っているのを思い出しました。
カノンとは、きっと観音菩薩のことでしょうね。
何度も書いていますが、空っぽにした時、つまり無心になって、観音に気づきます。
大乗のあらゆる宗派の教えのもとです。
白隠の、隻手の声音を聞いて来い、も観音です。
567たか:2008/03/30(日) 23:25:11 ID:cDvz1mnE
隻手の声音を聞いて来い、
これ頭で考えてるうちは駄目なんです。
いくら理屈で解っても駄目なんですね。
白隠はそれを言っています。
568神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 16:54:41 ID:QvqBDFWW
>>565
たかさん
はじめまして、
放送を見逃したので、
是非要点だけでも教えて頂けないでしょうか。
569たか:2008/04/04(金) 23:26:55 ID:Nqnh5Wnt
568さんへ、
書く予定ですので、もう少し待ってて下さい。

どういうわけか、楽天はこの間から昨日まで7連勝で首位になってしまい地元のテレビニュースを見ている限り、増上慢に半歩足を踏み出して地面につきそうな盛り上がりですね。
今日は負けてしまって増上慢の地面に足をつかずにすみましたでしょうか。
私は勝負の勝ち負けよりも、試合後の野村監督の一言が面白くて好きですね。
570神も仏も名無しさん:2008/04/04(金) 23:58:27 ID:QvqBDFWW
>>569
ありがとうございます。
どうぞお時間の余裕のあるときで結構でございますので、
よろしくお願い致します。

野村監督はユニークですね。
私はメジャー・リーグの斎藤投手が好きで、
もっと報道されても良いと思ってます。
571たか:2008/04/07(月) 10:25:24 ID:zfYoJudD
見性、何をもって悟りとするのか?
この辺が私共にはまだ明らかではないのですが、どういう体験なのか、という質問に。

天龍僧堂の平田精耕師家

今から35年ほど前にいまの白隠和尚の隻手の声音の公案をいただいておってね、日夜工夫をするですがね、なかなかこの室内といって参禅するんですが許していただけない。
だから頭で工夫しては室内にその答えをもっていく、、全部いかんと言ってもちろん拒否されるね、そうすると最後に詰まってくるんですね。
そういう時に一つの新しい体験の世界というものがでてくる。
隻手の声音、隻手の声音とこう自分でそればかり思っているものだから、踏破することに限らず、その前からずーっと1年間その問題に取り組んでおりましたから托鉢して町を歩いておってもずーっとこう片手が出てくるんですね。
あるいは飯を食っても自分の目の前にその片手が出てくるんですね、なんだか片手に取り付かれてどうにもならない。
そういう体験をしたあげく、いまいったのは、臘八大接心になって5日目の11時から座布団を持ち出して泣く泣く寒風に向かって今日は2時まで座ってやろうと思ってふうっと座っている。
池のところにスーッと黒い片手が出てくるんですね。
はァ、奇妙なことがあるもんだなぁと思って、その時になっていちじんの風が愛宕山から吹いてくるんです。
一生懸命座っていると冷たい風なんてものはあまり気にならない。
風音と共にずーっと自分が風に吹き飛ばされそうになった。
その時に風と自分が一つになってしまったような、そういう体験がありましたですね。
572たか:2008/04/07(月) 10:59:30 ID:zfYoJudD
それからそのまま座ってふっと肩をたたかれて気が付いたら、2時だ速く僧堂に帰れ、こういって先輩が注意しにやってきた。
考えてみれば3時間ほどまるっきり風と一つになったような気分のまま座り続けたわけなんですね。
ふっと我に返って見たらその時の夜景がすばらしく美しかった。
はぁ、これがいつも言われている見性体験なのかなぁ、といったようなことを経験したことがあります。
まぁこんなことが悟りと呼ぶ、あるいは見性というのかどうか私はしりません。
知りませんがそういういささか禅の上での体験があってこれがまぁ私の禅体験の基礎になったことは確かですね。
しかし、だからといって何も特別に私自身がまったく変わってしまったり、人間が変わってしまったというわけでもない。
あるいは皆さんが美しく見えるものが私に汚く見えたり、皆さんが汚いと思うのがきれいに見えたりするものではない。
綺麗なものは綺麗だし、きたないものはきたないし、ちっともそれは変わりません。
ただそういう基礎体験というものがあって、非常に人生が大らかになったというか、自分の一存在の底にまったく底のない世界があるという、そういうことを自覚したということがあります。
573たか:2008/04/07(月) 11:40:01 ID:zfYoJudD
この平田精耕師家の話を聞きながら、平田精耕師家の話していることはその通りだけど、もう一つという思いが私にはありましたね。

画面が変わって、白鳥元雄さんという司会者と正眼僧堂の谷耕月師の話が続きます。

司会者
何か、私共こう俗の世界にすんでいるものから見ると、悟り、行を終わってからの悟り、といいますとですね、何かこう大きな人格変化とかですね、
何かあのキリスト教の言葉で言うと改心、コンバージョンなんてことばがありますが、大変化のようなものをどうしても考えてしまいますが、
禅の場合にはもっとさりげないものでしょうか?
574たか:2008/04/07(月) 13:38:09 ID:zfYoJudD
チベット問題を見いて、アメリカと中国との関係とついつい比較します。
中国はアメリカ他先進国の経済開放、環境問題、温暖化、人権等の要求に対して、途上国だからという理由で多くをはねつけています。
中国の言い分も少しは理解できないわけではありません。
でも、この中国とアメリカの関係をチベットと中国の関係に置き換えたらどうでしょう。
チベットのまだ経済的に豊かに成長していない中でそしてまだ充分にチベットの人達の心と体制が整ってない中で急激に変わっている自由経済、資本経済、儲け主義だけをそのままチベットに持ち込んだのではチベットの人はとても対応できません。
金に物を言わせ、自分たちに都合良いようにつくられた法律を熟知したハゲ鷹みたいな人間に荒らされるのは明らかです。
中国漢民族にも誇りとする文化や歴史がありそれを大切にするように、チベットの人達の心の中にあるものにもっと心を払うべきです。
ただ単に共産党主導の経済を持ち込んだのではチベットの人達の中に憎しみや恨みが残ってしまいそうです。
本来チベットの人達は心が優しいのでしょうからチベットの人達にもっと注意しながら保護すべきことに注意を払ってもっとゆっくり進めるべきでしょう。
575たか:2008/04/08(火) 10:41:44 ID:7T8E0Sqg
手を組んでいるのに、片手、片手などと考えてるから片手が出てくるし、仏、仏などと考えてるから仏の姿が浮かんできます。
考えてるうちは、なかなか、ですね。
今在るものをそのまま。
576たか:2008/04/08(火) 12:30:45 ID:7T8E0Sqg
573続き、
谷耕月師家

そうですね、あの、平田老師、非常に解りやすく非常に親切にお話をご自分の体験をなさいましたけれどね。
やぁあの、けしてね、見性体験そのものがですね、まったくそのもう、別の世界にパッとこうですね。
私はあのそれでなければいけないと思うんですね。
しかし、それはもう、その人その人のものなんですから、けしてその言いふらしたり、押し付けたりするものではないんですね。
しかし、いっちょうじきにならい、といいましてね、シャットね、まったく別の世界にですね、外には別に見えませんよ。
それはどういうことかって言うと、ありのままのものをハッキリとありのままにままに見れるということですね、見るということですね。
別に特別なものではありませんよ、ありのままのすがたを全く何のあれもなしに、素直にそのまま自分は受け取っていける、これが大事なんですね。
うん、たしかにおっしゃる通りですね、そういう意味においては全くあれもないわけですよ。
今も、平田老師がおっしゃってみえた様にですね、別に特別きたないものが綺麗なように見える、そういうものではない。
しかし、その奥なんですね、
その奥にはっきりしたものをキチッと、自分というものが確立されなかったらですね、うやもやでは駄目なんです。
いっぺんに、これ、ご承知のように、煩悩即菩提と言うでしょう。
いっぺんに、ピヤッと、そこまで、まさに天にも昇る。
世界が今までの、人生観、社会観、ですね、ガラッとひっくり返るんです。
この体験が大事なんです。
577神も仏も名無しさん:2008/04/08(火) 22:45:28 ID:ocqYPwPc
578たか:2008/04/09(水) 10:50:02 ID:WHXukqnj
>>576続き、
司会者
あのさっき百尺竿頭一歩という飛躍感があるわけなんですよね。

谷耕月師家
そうなんですよ、まったく今までの世界が逆転するわけなんですよね。
まぁこれは、ですから、白鳥さんも一つご自分で、あの、なんて言うんですかこれはもう臘八をやって。
私が先ほどの申し上げたようにですね、この醍醐味、すばらしさというものをですね。
やっぱり、自分が座りぬいてですね、自分でもって、水を飲んで冷暖実例。
自分で、なるほどそうだ、もう、足のつま先から頭のてっぺんまで。
朝から晩まで、晩から朝まで、雲水には言うんですけれど、もうそこに窮して窮して窮し切って本当に窮しきって、初めて、くらっと変じて通ずるんですね。

白鳥司会者
先ほどね、悟り見性なんてことを求めて、あの、座禅を求めて座禅に入ってはいかんというお話があったわけですが。
そういった意味ですね、なんか私共今の俗なる世界について、心の安らぎとかですね、宗教的な完成へのようなものへの憧れとかかなりあるわけですよね。
そういったものがいったいどうやって見つけられるのかというもがきというものが、誰もが持っているような気がするんですよ。
そういったところがやっぱり行といわれるようなかたちへのひとつの関心になっているのかなぁという気がするんですよね。

谷耕月師家
それは確かに洋の東西を問わずですね、ございますね。
ですから、私共のところへも今外国人が参っておりますけれどね。
彼らもある程度そういうこと研究してですね、そして、結局座らなきゃ解らないんだとね。
いろいろやってみたけれど、結局、座禅をしなきゃ解らないんだというところに気が付いてきますからね。
こりゃ、真剣です。
だから雲水の場合でも、まぁ、本当にそこまでいってきているのも居りますけれども、そうでないものも来ている場合もおりますから。
もやもやして来ているのもおりますから、だからこちらがそこにもっていく、これが私の役目の一つなんですね。
いかにそれを持っていくか、ただ理屈ではなくて、やっぱり、身体で示していくっていうんですかね。
そのへんがもう、こちらが修行させてもらうという、その辺なんですかね。
579たか:2008/04/09(水) 13:56:43 ID:WHXukqnj
>>578続き
白鳥司会者
まぁ、常に信仰の中で問題なのが、かたちと、やはりですね、こころの問題。
行というのは形というものがひとつあるわけなんですが、行から入れる、行がその心を変えていくという部分が当然あるわけですよね。

谷耕月師家
これはうちの場合はそうですよね。行ずることによってですね。
これはもうやってみなければわからないですよね。
幸い先輩がそういうかたちで残してくださっていたものを、まぁ、私はただどういうめぐり合わせか師匠の厳命でですね、引き継いだという形なんですね。
だから雲水に言うんですよ。
もう、俺が師匠から受け継いでね、何が受け継いだかって言うと、叱られぱなしだけですね。
叱られってきたものをね、お前たちに、叱らない、それからかえさないとね、死ねないのだと言うんですけれど、なかなか、その叱られただけで叱り返すということはできませんね。
しかし曲がりなりにもですね、これを受け継いで次に譲っていくという、ね。
これがやっぱり私なりにですね、曲がりなりにも受け継いだものを次に譲っていく。
まぁそういう阿呆もやはりだいじなんじゃないですか、とそんなことを時々雲水に言うんですがね。

白鳥司会者
まぁ、禅の場合には本当に長い歴史の中でその練り上げられた一つの行としてのね、かたちがありますからね。

谷耕月師家
だから、他のことは知らないんですよ。
本当にもうただ師匠から譲り受けたものをいかにして次の世代に。
幸いあういう関山さん自らご指導をなさったいわゆる霊地というか、聖地ですから。
開山さん、関山さんの生きざまですね。
本当にうちの場合は関山さんが自らすっかり修行を済まされて、なおかつ、あの伊深の地でご修行をなさったという、そういう伝統がございますのでね。
私にとっては本当にそう、毎日毎日が関山さんと一緒に修行させていただいているという感じでございますけれど。
まだまだ、いたりませんけれど。

白鳥司会者
どうもありがとうございました。

1988年2月7日  放送
580たか:2008/04/10(木) 11:52:39 ID:7gCS01/7
568さんへ、
谷耕月師家の話の前半部分は割愛しましたが、>>554,>>555,>>556を読んでください。
見性とは悟りとはいかなるものか、の質問に答えている天龍僧堂の平田精耕師家の話と、正眼僧堂の谷耕月師家と白鳥司会者との対談は放送をそのまま書きました。
放送そのままを、話された人の話をそのまま書くことが、ここを読まれる方に最も良いだろうと思うからです。
まぁ、機会があれば是非映像を見てください。
話されてる方々の人柄、表情をも、受け取ることができるでしょうから。

私は放送を見るまでこのお二人のことはまったく知りませんで、放送で初めて知りました。
568さんの学びに役立てればと思います。

私は座禅も念仏もしませんので違いは座や南無阿弥陀仏と唱えないだけでしょうか。
最も、これを言うと怒りだす人がいるかもしれませんが。

私の言う一音は谷老師のいう煩悩即菩提のことです。
行は確かにかたちから入ったほうがいいともいえますが、気づけば形にさえ拘らないとも言えるでしょう。
以前書いた中国の禅風景、団扇を仰ぎながらゆったり座る、これ、なかなか解りづらいでしょうか。
581たか:2008/04/10(木) 12:07:27 ID:7gCS01/7
楽天には困ったものです。
土曜日にテレビを見てたら野村監督が出ていて、話の中で司会の人が野村監督に、
楽天、字をひっくり返すと天楽、つまり転落
などと物騒なことを言っていましたが、まさに、司会者の予想的中です。恐れ入ります。
桜もやっと満開になりそうなのにいっきに葉桜になるかもしれませんね。
582神も仏も名無しさん:2008/04/11(金) 00:51:10 ID:TuVxPqkH
568です。
お忙しい中、本当にありがとうございます。
私は、御二人とも芳名を存じ上げておりました。
谷老師は非常に良く説明されてますね。
平田老師は御自身の見性体験を十分にお話されていないような感じがありますが、
もしかしたら当時の天龍僧堂師家であった関牧翁老師は、
とりあえず初関を透されたのでしょうか。

牧翁老師は「てにをは、が違っても法が曲がる」とか仰ったそうですが、
室内のことは口外しないことであるから、テレビで話せる範囲のことを
平田老師はお話くださったのかもしれない。

十分、時間の取れる日にレスの内容をまた読み返してみます。
ありがとうございました。

583たか:2008/04/13(日) 11:46:27 ID:dZsi624z
568さんへ、
岐阜の臨済宗の正眼僧堂の臘八大接心(ろうはつだいせっしん)の修行の映像を中心にその修行について谷耕月師家のインタビューだったのですから当然臘八大接心の大切さも話しています。
不眠で集中的に師と先輩と寝食を共にしながら一つの空間と時間も共にする。
確かにそれは大切なことなのでしょう。
その張り詰めた瞬間も時間も先輩たちの一つ一つの動き、行動も。
きっとその中に身を置いて感じるものもあるはずですね。
谷老師も司会の白鳥氏に、大接心に参加されて是非見性体験をしてくださいと薦めていましたね。
584たか:2008/04/13(日) 11:49:15 ID:dZsi624z
わたしがここで長々と書き込んでいるのも、ここを読んでいただいた人に、大乗を知りたいという人に、見性を体験してもらいたいと思うからです。
だから、ゆっくり時間をかけて書き込んでいます。
谷老師が話しているように捨てきるには時間がかかります。
もうそこに窮して窮して窮し切って本当に窮しきって、初めて、くらっと変じて通ずるんですね、 と言っています。

観察するとか、いち、に、さん、しなど数息観などという人が多いけれど、それ以前のことですよ。
どこにそんなことを思って生まれてくる赤ん坊がいるものですか。
観察など、見性後のことですよ。
まったく逆ですよ。
頭で考えてるから観察が大切だと言ってみたり、観察が大切だと思ってしまう。
だから、見性しないんですよ。



585たか:2008/04/15(火) 18:03:31 ID:oSNZdphW
>>510で、米映画「SILK(シルク)」という題名を見て養蚕の仕事で一生を終えた祖父を思い出しました。
中学の時でしたか、祖父が亡くなって5キロほど離れたところに住む祖父の妹のおばあさんが来たので、一緒に墓参りに行きました。
その当時、うちの墓地の墓は先祖代々というような立派なお墓ではなくて、夫婦ごとに一基ずつの小さなお墓がいくつかありました。
墓地の最前列のあいたところに埋められていて、亡くなって日が浅かったため、祖父の墓は埋められたところに土が盛られそこに木で作られた机や線香立てがあるだけの墓でした。
土の盛られた後ろに太さが2センチくらいの竹が4〜5本地面に刺さっていました。
おばあさんは墓に着いた時、墓参りの荷物を地面に置いて、真っ先に墓の後ろの地面に突き刺さっている笹竹を握って、トントントントンと地面を何度も撞きながら、墓参りに今来たよ、墓参りに来たよ、などと少し涙を浮かべながら話しかけているのです。
私はそれをまじかに見て、本当に驚いたのを覚えています。
墓は火葬された骨があるだけですがその骨の間直に突き刺さっている竹をついて眠っている死者を音と振動で起こさせて、墓参りにきたことを知らせていると思ったからです。
よくは解らなかったけれども、とにかく驚いたことは今も忘れません。
これが墓参り、墓参りの真髄を見たような気がしたのでしょうか。
そっと手を合わせて死者を悼むなどというのとは違う、凄さを感じたような気がします。
というわけで、その後私も墓参りに行くたび墓に着いて真っ先に笹竹を握ってトントン撞きながら、墓参りに来たよと、つぶやいたのを思い出します。


586たか:2008/04/15(火) 20:42:43 ID:oSNZdphW
考えてみれば、私が仏鈴が何のためにあるのかを知りたいと思った理由のひとつがこの墓参りの笹竹のトントントンだったでしょうか。
仏壇にあって、お墓に仏鈴はほとんどないですが。

以前は、見性などという言葉もまったく知らなく、悟りということを考えたことなどなかったですね。
だから、座禅も念仏もまったく興味がなかったというか。
悟りという言葉は聞いても興味もないから、お経を読んで葬式をしてるんだから和尚はみんな悟っているんだろうと思っていましたね。
南無阿弥陀仏ととなえるのもまさか仏の名を呼んでるとは思ってもいなかったですね。
初めて阿弥陀経を見て阿弥陀仏の名を呼べと書いてるのを見て、なるほどと。
余計な知識も少ないのが、音だけを知りたかっただけなのが、とも思えますね。
587たか:2008/04/23(水) 11:52:50 ID:JA/F/uOe
文豪夏目漱石は「門」という小説の中で参禅の様子を書いていますね。
漱石は正岡子規と親交が深かったようですね。
明治27年8月宮城県松島の瑞巌寺の南天棒に参禅したそうで、その後、鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられたそうです。
この時の円覚寺の参禅体験をそのまま書いたのが「門」であり、主人公の宗助が漱石自身のようです。
父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案、、本来の面目、つまり本来の自己を見てきなさいという公案に、自分では到底答えを見出すことができないと感じたようです。

老師の前で宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。
「」
宗助は喪家《そうか》の犬のごとく室中を退いた。後に鈴《れい》を振る音が烈《はげ》しく響いた。

知識や学問それらをいくら寄せ集めても、老師にとっては、そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える、程度のもの。
知識、学問を一切捨てきって、一歩前に出ないと老師を唸らせられないでしょう。
後に烈しく響く鈴の音。
この音、老師の励ましの音なのでは。
588たか:2008/04/23(水) 11:54:43 ID:JA/F/uOe
この小説の中で宗助が世話になった宜道という僧のところでひとりの居士に会います。
この小説に出てくる居士が鈴木大拙だそうです。
 
ある日宜道(宗活さん)はかまどの下をたきつけていながら、手に一冊の本を持って読んでいた。
 「なんという本ですか」
 「碧巖集《へきがんしゆう》。けれど、本はあまり読むものじゃありません。いくら読んだって、自分の修業程度しかわからぬから」
 
 書物を読むのはごく悪うございます。有体(ありてい)に云うと、読書ほど修業の妨(さまたげ)になるものは無いようです。
私共でも、こうして碧巌などを読みますが、自分の程度以上のところになると、まるで見当(けんとう)がつきません。
それを好加減(いいかげん)に揣摩(しま)する癖がつくと、それが坐る時の妨になって、自分以上の境界(きょうがい)を予期して見たり、悟を待ち受けて見たり、充分突込んで行くべきところに頓挫(とんざ)ができます。
大変毒になりますから、御止しになった方がよいでしょう。
もし強(し)いて何か御読みになりたければ、禅関策進(ぜんかんさくしん)というような、人の勇気を鼓舞(こぶ)したり激励したりするものが宜(よろ)しゅうございましょう。
それだって、ただ刺戟(しげき)の方便として読むだけで、道その物とは無関係です。


589たか:2008/04/23(水) 12:08:41 ID:JA/F/uOe
587、少し訂正。
文豪夏目漱石は「門」という小説の中で参禅の様子を書いていますね。
漱石は正岡子規と親交が深かったようですね。
明治27年8月宮城県松島の瑞巌寺の南天棒に参禅したそうで、その後、鎌倉円覚寺の釈宗演に参じて、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案を与えられたそうです。
この時の円覚寺の参禅体験をそのまま書いたのが「門」であり、主人公の宗助が漱石自身のようです。
父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案、、本来の面目、つまり本来の自己を見てきなさいという公案に、自分では到底答えを見出すことができないと感じたようです。

老師の前で宗助の、口にした言葉はただ一句で尽きた。
「もっと、ぎろりとしたところを持って来なければ駄目だ」とたちまち云われた。
「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」

宗助は喪家《そうか》の犬のごとく室中を退いた。後に鈴《れい》を振る音が烈《はげ》しく響いた。

知識や学問それらをいくら寄せ集めても、老師にとっては、そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える、程度のもの。
知識、学問を一切捨てきって、一歩前に出ないと老師を唸らせられないでしょう。
後に烈しく響く鈴の音。
この音、老師の励ましの音なのでは。

「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」

590たか:2008/04/26(土) 10:38:06 ID:JBkK4gXk
臨済宗の正眼僧堂の臘八大接心(ろうはつだいせっしん)の修行でもそうですし、夏目漱石の小説「門」の参禅の場面でも度々というか何度も鈴や鐘など音が鳴らされます。
この音が見性には大切ですね。
空気を吸って生きていながら空気を追い求めていたり、水の中にいながら水を求めていると例えられますが、音そのものがそれを気づかせるのです。
何度も言いますが、観察するのではありません。
観察を抜きにした、つまり、観察以前に観察などしない瞬間に戻すのです。
観察をしない瞬間、思考を入れない瞬間、を体験することが必要なのです。
それが、ありのまま、ありのままに観る、ということなのです。
>>576、谷耕月師家
 それはどういうことかって言うと、ありのままのものをハッキリとありのままにままに見れるということですね、見るということですね。  
 別に特別なものではありませんよ、ありのままのすがたを全く何のあれもなしに、素直にそのまま自分は受け取っていける、これが大事なんですね。
 その奥にはっきりしたものをキチッと、自分というものが確立されなかったらですね、うやもやでは駄目なんです。
ありのままということをハッキリと確認した、納得した上で、それからやっと初めて、観察ですよ。
逆なんですよ、やってることが。
観察することで悟りを得られると思っているなら、
「そのくらいな事は少し学問をしたものなら誰でも云える」
と叱りの声が響きそうです。

自己を捨てないで何とかしよう、観察し理解しようとする者を、捨て切らすように導くのが師というものでしょう。
自分が捨てきった経験がなければそれが解らない。
591たか:2008/04/26(土) 11:01:01 ID:JBkK4gXk
般若心経の観自在菩薩の観は普通言われる、見る、ではありませんよ。
色即是空の空と同じ意味のある観なのです。
見るのでも、聞くのでもありません。
目も無く、耳も無く、身体全体丸ごと全身ですよ。
色受想行識 そのものが即、空であり、すなわち、その瞬間の私たちの身体全身そのものだといっているのです。
592たか:2008/04/27(日) 05:31:48 ID:n33UR0Sa
教育テレビで、こころの時代〜宗教・人生 「道元のことば〜正法眼蔵随聞記にきく@仏道の手引き」というのを先週から放送しています。
再放送が今日は14時からあり、駒澤大学教授・角田泰隆という先生というか僧侶が話しています。
先週見ましたが、私がここで書いていることとたいへん近いので、仏教、坐禅、禅を学びたいのなら是非見ることも良いでしょう。
その中で、最後のほうで脳の話しがあります。
坐禅の最中は大脳を止める、小脳のはたらきをしずかにする、間脳の働きだだけにする、つまり何も考えない、何も考えない状態にする、草木のようにただ生きている状態にする、という話がでてきます。
そこに功徳がある。
月一回12回シリーズということですが一回目を見るとなかなかよさそうなのでご覧になったらたら良いでしょう。

ご存知でしょうが正法眼蔵随聞記というのは道元禅師の弟子懐奘禅師が道元禅師の話したものを懐奘自身の学びのために書いたものだといわれています。
つまり、書いてそれを人に見せようとしたものではないということです。
純粋に懐奘禅師自身のの仏法を深めることためだけに書き残したといえ、そこには道元禅師の弟子に伝えようとした心も見えてくるかもしれません。

593たか:2008/04/30(水) 22:23:39 ID:4R9H800e
ためしてガッテンというという番組を見てたら耳の話を取り上げていて番組の最後のほうで次のような話がありました。
 目で聞く、と言っていました。
それを示す実験。
一つ目の実験は音が聞こえないようにしてテレビの画像を2つ見せ、画面の人が何を話しているのか、が解るかという実験です。
全身を映し出しているものと、顔をアップしたものです。
聞こえない状態で、全身を映した時には多くの人が間違いましたが、、顔をアップして口元がハッキリ見えた場合は全身を映した時よりも正確に伝わっていました。
二つ目の実験は音を聞き画面も同時に見せた実験です。
顔をアップした画面を見せながら声も同時に見せます。
映像を見ている人は画面にでている人の顔を見ながらほとんどの人がダダダダ、ダと聞こえたでしょうか。
今度は画面の人の口元だけ隠して同じ声を聞かせたものですが、ほとんどの人がババババ、バと聞こえたようです。
実ははじめの口元を出してる画面では声を出している人の画像はダダダダ、ダと声をだしている画像に声だけはババババ、バという画像を流していたのですが、見ている人には口元のうごきと同じダダダダ、ダに聞こえたのです。

この実験を見ると、いかに私たちが今までの経験や先入観に影響されて音を聞いているかが解るように思います。
音は耳で聞く、と先入観を持っている私たちには面白い実験です。

よくよく考えてみると私たちはいろんな先入観でいろんなものを感じ見ています。
ところが正確に受け取っていると思っていることが先入観で曲がって受け取っている場合も多いのでしょう。
先入観をすてる、とは、自我を捨てる、ということと通じる、同じ意味があるのかもしれません。
先入観を持って日ごろ生活しているのだ、と気づくことも大切です。

ただ、誤解を抱いては困るので言いますが、この実験が、見性の体験と同じだということではありませんので。誤解の無いように。
594たか:2008/05/06(火) 19:37:06 ID:IzsWAZO8
>>585>>586の続き、
墓参りに行って竹を握って地面をつついてトントントン。
竹があるうちはそれをしていたのですがそのうち竹がなくなって、普通に静かに手を合わせて墓参りをしていましたが、ずーと経って、ある時、あの墓参りの竹に代わるものが何かないかなとかんがえるときがあって。
その時頭に浮かんだもののひとつが仏鈴だったんです。
仏壇にあって仏に手を合わせる前にいつも鈴を鳴らします。
仏と、鳴らす人の間に、仏鈴の音が何らかの意味がきっとあるだろう、そう思えてきたのです。
まぁ、そういうことが切っ掛けで、仏鈴が何のためにあるのかを調べ始めたのです。
でも、調べてみれば、区切りをつけるときに鳴らすとか、仏を呼ぶのだとか、今ひとつつまんないことしか書いていないし、坊主もそんなことしか言っていない、どうももうひとつハッキリ、スッキリしないんです。
そしてある時、前にも書いたように、阿弥陀経にであったということになります。
私はそれまで、般若心経の現代語訳しか知らなくて、お経は難しいものだとしか思っていなかったですが、阿弥陀経を読んだ時、へぇお経はこんなことが書いてあるんだと驚きました。
それと同時に、音、声に何かありそうだと思い始めたのです。

この阿弥陀経をはじめて見てからちょうど2年だったですね、見性したのは。
もうすぐ2年、無駄に過ごしたかもと諦めていた時だったですね。
今でもハッキリ覚えています。



595たか:2008/05/06(火) 20:00:29 ID:IzsWAZO8
その間、ただただ音が何か知りたくて、仏鈴を時々鳴らしていただけですね。
座禅も、念仏もほとんどしてないですね。
だいたい私などが座禅などしても解るわけがないと思っていましたから、だからしなかったと言えます。
念仏も同様ですね。
音に身をゆだねる、
観音に身をゆだねる、これだけですかね。
だからもう、いろんな人が、これをやれ、このやり方だと言っているのがねぇ、まぁそれを否定するつもりはありませんが。
まあその人がやった方法でしょうから。
いろんなやり方があっていいんですが、ただいえることは、それが自我を捨てる、自我を手放す方法かどうかということが一番大切であって、そこに注意しなければならないことでしょう。
596たか:2008/05/13(火) 11:41:01 ID:KPKIwgoU
一遍という人は凄い人だと思いますね。
死に臨んで、一遍は「一代聖教みな尽きて、南無阿弥陀仏になりはてた」と言い、一遍は手元にある経典の一部を書写山の僧に託して奉納し、残りのすべての書籍を焼き捨ててしまいます。
亡骸は「野に捨てて獣に施すべし」と言い残し、すべてを捨て切って、一遍は静かにこの世を去りました。

そういえば、
親鸞も、死に臨んで、遺骸を加茂川の魚に与えよと葬儀一切を無用、と言い残したという。

この二人、念仏を説き、極楽往生を説いた人達である。
死んだなら、すぐに極楽往生できるから、残った屍など無用と言おうとしたのだろうか。
多くの人はそう思っているだろうが、私はそうではないと思っています。
597たか:2008/05/13(火) 13:53:14 ID:KPKIwgoU
先月だったでしょうか、NHKの心の時代に飛騨千光寺の大木大圓さんという住職のインタビューがありました。
飛騨千光寺は円空仏で有名だそうです。
大木住職は末期の患者さんへのスピリチュアルケアをしているとか。

この大木住職のインタビューの中で死生観の話がありました。
死んだら自分はどうなるかという問いを誰もが持っているのでしょう。
住職は4つの死生観に分類していました。
1、この世だけ、死んだら終わり、何にもないんだ、死後もない、神も仏もない霊魂もないという考え。
2、人間は死んでもずっと霊魂があり魂があって生き続けていくんだという、死後生があって死後の世界を信じて生きていこうとする考え。
3、自分の子供や孫に自分の命が受け継がれていけばいいではないか、自分の子供や孫に命を託していけばいいという考え。
4、自分というものが死後の世界はもっと大きく広く統合的というか超越的というか、もっと大きな命に溶け込んでいく、融合という言葉がありますが、そういう命に溶け込んでいきたいという考え。

598たか:2008/05/22(木) 21:55:46 ID:iK58PaA4
一遍も、親鸞も、極楽往生ですから、
 2、人間は死んでもずっと霊魂があり魂があって生き続けていくんだという、死後生があって死後の世界を信じて生きていこうとする考え。
のようにみえますが、私は本当は
 3、自分の子供や孫に自分の命が受け継がれていけばいいではないか、自分の子供や孫に命を託していけばいいという考え。
 4、自分というものが死後の世界はもっと大きく広く統合的というか超越的というか、もっと大きな命に溶け込んでいく、融合という言葉がありますが、そういう命に溶け込んでいきたいという考え。
のような気がします。
ただこれだけでは不十分な気がします。
特に、3、自分の子供や孫に自分の命が受け継がれていけばいいではないか、自分の子供や孫に命を託していけばいいという考えだけという解釈では不十分です。

599神も仏も名無しさん:2008/05/24(土) 11:19:34 ID:G6+YaS5I
リハビリ
600たか:2008/05/25(日) 00:37:52 ID:/NS82P/9
四川大地震はテレビで状況を知れば知るほど凄い状態ですね。
これほど大きい地震が起こるものとは考えたこともありませんでしたが、報道を見ると過去に中国ではひとつの地震で20万人以上も亡くなっている人が何度もあったんですね。
およそ20年前から6年位前まで何度も中国に行く機会がありました。
福建省、遼寧省、北京市、山西省、その中でも多かったのが福建省のアモイとその周辺です。
車の中から見ると多くの建物が建設中で私から見るとなんとなく細い柱で、部屋の仕切りはレンガを積み重ねて仕切っていて、こうやって建物を建てるんだと思ってみていました。
でも同時にそれを見ながら地震がきたら大丈夫なのだろうかと当時いつも思っていて、ホテルでは心配もしましたが、でもあまり地震の事を聞かないから地震は心配ないのかなと思っていました。
民家もほとんどが近くで切り出した石を積み重ねて造り、又はレンガを重ねてそのすき間にセメントや土を埋め込んで造っているように見えました。

今度の惨事をテレビで見ていてほとんどの家、建物が跡形もなく崩れ去っている姿に心が痛みます。
夜にNHKで四川の地震を報道していましたがその中で小中学校の校舎が何故崩れて多くの児童たちが生き埋めになって大きな被害が起こったのかを分析してましたが、それを見ててなるほど過って私が見た造りの建物と同じなのかと痛感しました。

それにしてもたいへんな被害で被害にあわれた人に何もできないのが残念です。
また報道ではほとんどされていないチベットや少数民族の人達の安否や状況も心配ですね。
601たか:2008/05/26(月) 18:04:26 ID:t1qgvBQj
四川大地震は多くの人の命や多くを破壊しました。
世の中には霊感や特殊な能力でいろんな事を言い当てるという人がいますが、今回の大地震やミャンマーでの災害をはたして正確に言い当ててる人がいたでしょうか。
あなたの前世は何だとか、霊や守護霊がどうだなどとばかり言って金儲けに走らずに、もし本当に特殊な能力をもつならこのようなことにそれを発揮していただきたいと思うのは私だけでしょうか。

四川大地震は多くの被害をもたらしていますが、核の問題やダム決壊など次々に新たにおおきな不安もどんどんでてきています。
ダム決壊したら下流の何十万人の人の命が危ないなどと聞くと、心配です。
地震発生する直前、地震の瞬間まで自分の命、生活がガラット変わるなどとは誰一人考えていなかったでしょう。
誰でも今の生活がそれなりに継続すると考えているものですが、でも、多くの名僧は、瞬時瞬時遮断されていて瞬時瞬時が原因や条件でかたちづくられていると説きますね。
この瞬時瞬時かたちづくられていることをそしてそのはたらきを仏性といい、時に他力といったりもします。

602たか:2008/06/05(木) 11:58:19 ID:HNk4HCnu
ここに書き込んでから2年になりました。

よく、悟れば何かいいことがありますか?、という質問がありますね。
いろいろあると言えばあるし、ないといえばない。
ただこんなことは言えますね。
古池や蛙飛び込む水の音
この句を聞けば何かはわからないけれども心に感じるものがありますし、そしてそれをおそらく誰もが感じるのでしょう。
でもそれが何かといわれると何なのかおそらくたいていの人は解らないしうまく答えられないような気がします。
例えば、松尾芭蕉を取り上げても、世の中に芭蕉を研究している学者、俳人は無数にいて皆さんおそらく頭のいい方ばかりでしょう。
そして、芭蕉の生涯をこと細かく調べ上げて一生懸命芭蕉のの心を理解し自分のものとしようと努力してるのでしょうが、はたしてどうなのでしょう。

私などは俳句も、芭蕉もよくは知りませんが、見性した後、この句を読むと、なるほど芭蕉は、これを言いたかったんだなぁ、と芭蕉の気持ちが心が解る気がします。
たった古池の水の音、一音ですが芭蕉のその時の一音に感じた心がわかります。

これは何も芭蕉に限らずここに書いてきた人達全てにいえるわけで、自分のたった一つの見性体験それだけで多くの人達の、先人のその時の心、そして伝えたかった心がよくわかってきます。

道元禅師が何を感じたか、一休禅師が、親鸞聖人が、雪舟や利休が、その他多くの人達が今の日本の文化を築いてきたわけですが、その根底にある彼らの心にふれた、いや、一つになったという喜びは確実にあります。

603たか:2008/06/05(木) 12:13:41 ID:HNk4HCnu
芭蕉が笈の小文に、書き残した
 西行の和歌における、宗祇の連歌における、雪舟の絵における、利休の茶における、その貫くものはひとつなり
芭蕉のこの言葉には、この4人の貫いているものを私は理解し受け継いでいこうとする意志、そして受け継いでいるという自負心が感じらます。
また、逆に
 この道やゆく人なしに秋の暮れ
という句を死の一ヶ月前に読んでいて、この道を受け継いでいる人がいないと嘆いているように感じられます。
604たか:2008/06/05(木) 12:56:26 ID:HNk4HCnu
悟り、というと釈迦のことばかり言う人が居ますが、それでは面白くもないですね。
仏法の教えは確かに釈迦から始まったわけですが、多くの人の積み重ねがあって初めて今の自分に届いているのだと気づかなければなりません。
原始仏教の釈迦だけ理解したからなどというのは、まったくもって、というほかはありません。
自分に届くまでに多くの人を経て今の自分に初めて届いているのだ、ときっと多くの先人、名僧はそう感じて涙を流したことでしょう。

身体は両親から受け継いで今を生きていて、同時に両親の心も受け継いでいます。
でも単に両親から受け継いだものだけで成り立っているのではなくて、多くの人の心も受け継いでいるのだと気づかなければなりません。
>>598
特に、3、自分の子供や孫に自分の命が受け継がれていけばいいではないか、自分の子供や孫に命を託していけばいいという考えだけという解釈では不十分です。
と書いたのはそのためです。
与えられた命、そして生きる喜びをいっぱい受けながらそれをまっとうしていく、そしてその喜びを次の世代に受け渡していく、そのように考えることが大切だと思います。


605たか:2008/06/07(土) 17:44:29 ID:tPtf7fp+
温暖化や環境問題、北極や南極の氷が解け、海面が上昇し島が海に沈んでしまうといいます。
まさに環境と一緒に同時に刻々と私たち生き物も変化しているのですが、テレビなどで叫ばれてはいても私たち人間はそれぞれが自分勝手に行動していてこの危機を避けることができるかどうか。
ここで書いてきたように大乗仏教では神がいてこの世を作っているという他の一神教と違い、私たちは瞬時瞬時環境でかたちづくられて生きているのだということに気づくことが大切なのです。
自分の目先の得ばっかり追い求めていくならばかけがえない子孫や多くの生き物が環境の大変化に対応できなくなってしまいます。
宇宙船から見れば暗黒の中に小さく青くかすかに輝いているだけの地球です。
考えてみれば見るほどかけがえなく思えてきて、愛しく愛しく思えてきます。

一音を観るとはこの一音で自分が他の一切から全てから成り立っていることに気づくことだったんです。
他と一体になっているのだからそれが解ったときからなにを見ても愛しくかけがえないものに思えてくるのです。
慈悲といわれるのはまさにこのことです。
我を取り去ればまさに一体感の世界、そしてかけがえのない世界だったんです。
606神も仏も名無しさん:2008/06/07(土) 18:11:19 ID:68mUliB6
踏み台昇降
607神も仏も名無しさん:2008/06/08(日) 17:15:50 ID:4xOwjdm5
608たか:2008/06/08(日) 22:02:21 ID:DEH4YeUA
607さんへ、
読みましたが、これでは駄目です。
見性を勘違いしています。
かえって、真理から離れていってしまっています。
何度も書いていますが、このような人は2ちゃんねるにはいっぱいいますが、なにかに包まれているような体験を特別なものとしています。
捨て切れていないです。
>>576で谷老師が言っているように一発ですよ。
見性は一音、一回だけです。
つまり一回の体験で充分であり、一回の体験が仏法の一切を解決するといっていいのです。
私の言う一音は、理屈や言葉ではありません。
単なる音です。
だから私はここに書き始めたときからたった30秒と繰り返しているのです。
夏目漱石の門のことも書いていましたが、父母未生以前の本来の面目を見てこいという公案、これも一音で見性すれば納得ですよ。
だから、私はここに書き始めたとき、公案は必要ない、といったのです。
どの公案もこの一音で解決です。
そのためには、数息観、観察など考えずに、何も考えずにただ音に身を任せるほうが良いと思います。
今その瞬間に心もからだも任せてしまう、これを仏に身を任せる、仏の家に身を投げ入れる、と言うのです。
この単なる一音の時の体験を基に書かれたのが多くの大乗経典です。
般若心経はもちろん、阿弥陀経も、法華経も、華厳経もです。
これも何度も書いていますが見性と同じことを私たちは瞬時瞬時体験してるのです。
だから、誰もが悟れるのだ、ということです。

私のいっている意味が解らないでしょうか。



609たか:2008/06/09(月) 00:46:27 ID:vxab7R26
一音に身も心も投げ入れる、観音に観音菩薩に身も心も投げ入れるんです。
だから、観音菩薩と、観世音と一体、観世音菩薩と一つなんです。
一体化ですよ、観世音と、解りますか。
これを如来、来るが如し、と言うんです。
このとき音と同時に感じる光、これを阿弥陀如来、大日如来、盧舎那仏、薬師如来、その他無量の光の如来です。
この音と光と呼吸、全身を震わす感動、これを如来と言うんです。
まさに、きたー、入ったー、  後から考えるとそんな感じでしょうか。
610:2008/06/14(土) 11:37:27 ID:zeafuJed
>>607
ランダム巡回してたら、面白いの見ました。 ありがとう。
「空うちピクンピクン」って笑ってしまう。
途中まで、おおっ、という感じで、楽しめました。
そのあと、は「雨天のため、本日の花火大会中止」みたいな感じでしたが。
それにしても、あけすけな人ですね。
嫁は美人で選んだら、かたずけられない病だった、で、どツボ、とか、
自分は、50代始めで、うつ病で、ED、とか、ホントに笑える。
御自身は、格闘の天分が、と言ってますが、それもありましょうが、
この人の、あけすけさ、というか、それこそが、宝のように、思えました。
611神も仏も名無しさん:2008/06/14(土) 22:56:49 ID:9Q1I2FQX
如来の「如」は如しではなく、真如・ありのまま。

常住・不変不改の如。

「真如(tath?)から来るもの」
「如実に来至した者」
「如実から到来した者」
612たか:2008/06/15(日) 01:00:42 ID:cn1luHPJ
610さんへ、
確かにこの那田尚史さんという方はおもしろい人ですね。
あっけらカランと言いたいことを何でも書いて。
613たか:2008/06/15(日) 02:17:59 ID:cn1luHPJ
611さんへ、
あなたの言うような意味も確かにあるでしょう。
ただ実際の見性の時には私が書いたように音が来た、からだと音がひとつという体験があります。
また同じく、音と息がひとつという強烈な感じもあります。
だから、見性の時のことを、釈迦は明星が身体にとび込んできたといい、空海も同じく光が口に飛び込んできたといいます。

私が書いてきたのを読み返していただきたいのですが私が如来や菩薩というのは私たちが無心に、無我になったとき感じる光や音のことで、それは今あるものをそのままダイレクトに感じることなのです。
心が無になったときに感じる音を観音といい、如来というんです。
当然、今まで感じていた耳で聞いているという感覚とまったく違い、それを、光がありのまま、音がありのまま、です。
般若心経ではこの体験を無眼耳鼻舌身意と表し、光を目で見るのでもなく、音を耳で聞くのでもない、まさに身体全体で受けとめていると言っているのです。
これは頭でいくら考えてもいつまでたっても納得できないでしょうが、体験すれば一発で納得です。
だからその今までとは違ったことを、来るが如し、如来とも言うのでしょう。
音をそのまま受け取っている、これを観音といい、この音から無分別を身体、身体全体で知ります。
この無分別の体験こそ、あらゆる一切と一体であり、一如、そこに安らぎも、喜びも、そして慈悲もあります。
私たちは他のものと違うというところに優越感も劣等感も感じ、それは常に安らぎのない不安な状態です。
この不安、言葉を変えれば苦しみの克服のためには、あらゆる一切のものと一体であると気づくことが大切です。
614たか:2008/06/15(日) 02:46:44 ID:cn1luHPJ
あらゆる一切のものと一体であると気づくことが大切です。
つまり、自分を取り巻く環境と一体になって変化しその時を味わいながら生きている。
これを感じて生きていくことこそ安楽の生き方であり、そして同時に人を導く。
これを禅では入鄽垂手(にってんすいしゅ) というのでしょう。
615たか:2008/06/15(日) 10:20:24 ID:cn1luHPJ
道元は中国で二人の老典座と出会います。
ひとりは入国できずに船に留まっていた道元を訪ねてきた典座で、話を聞きたくて語り明かしたいととどめる道元に対して、私には明日僧に食事を作らなければしなければならないと言います。
もう一人は灼熱の太陽が照りつける中、汗を流しながら苔を干している老僧で、今がこの仕事が私の修行の時ですとこたえます。
二人とも今が私の修行の時というのですが、単に修行のためにしているのではなくて、実はそれ以上に、それをすることが彼らの楽しみ、喜びのように私には思えてきます。
おそらく道元だけでなくほとんどの人がそして釈迦すらもその時の彼らを見たら、人生はやっぱり苦だ、と言ったかもしれませんが、彼ら自身はその瞬間を生きていることを身体で感じ、その仕事ができることに喜びに感じていたように私には思えます。
他人から見たら苦行と思えることもその人にとって見ればかけがえのない一瞬であり、それが解ればかけがえのない喜びの一瞬なのでしょう。

松尾芭蕉は年とって周囲の反対にもかかわらず、旅にいって死も覚悟の中、奥の細道に旅立ちました。
今このときを逃してどうしよう、今この時をその空間を味わうことなくてどうしようという思いがあったのではないでしょうか。
利休の茶室もまさにその空間とそのひと時を味わっているのかもしれません。
慧能はじめ名僧の悟りの後の農作業や作務も大切なひと時だったのでしょう。
そこには、仕事は苦、生きることは苦、などとはいえないものがあるような気がします。
616たか:2008/06/15(日) 10:36:46 ID:cn1luHPJ
島田洋七さんの佐賀のがばいバァチャンが漫才ブームが去って落ち込んでいる洋七さんに、山のてっぺんは住むところではないてっぺんにのぼったならば後は普通のところで生活するのだ、といったそうです。
山のてっぺんは草木も生えず、水もない、平地に降りてきてみんなと寄り添って助け合って生きていくものだよと言っているような気がします。
悟ってみて拘りをなくして初めて生きていることの大切さを知ると言うことでしょうか。
617神も仏も名無しさん:2008/06/15(日) 10:42:26 ID:wYDXMD9p
見性している人か、禅坊さんの書き込みに対してなら少し滑稽かも。
618:2008/06/15(日) 10:51:37 ID:ZMFaYbUS
>>612
ほんとうに。 こういう人は、運もよくなるような気がします。
619たか:2008/06/15(日) 11:33:04 ID:cn1luHPJ
昨日岩手南部、宮城北部では大きな地震がありました。
地震を感じていたのですが、これほど凄い状況だとは午後にニュースを見るまで解りませんでした。
奥州市、一関市が震源地と聞いて岩手の実家はどうなっているか心配になって電話をしました。
今回の地震ではほとんど被害はなかったようで安心しましたが。

ニュースを見れば凄い映像もあってまさにやなが無くなったと言うか、山が動いたと言うか、。
石像が宙を舞い、石灯篭や墓石も突き上げる振動に踊るように空中に舞い上がったかもしれません。
山も石も動かないものだと思い込んでいた頭が吹っ飛んでしまいます。
それ自身では動きようがありませんが、条件が変われば土も水のように流れ、家も橋も材木も跡形もなく押し流してしまいますね。
震源地の近くの栗駒山は岩手では須川岳といわれていて山の上に須川温泉と言う温泉があります。
まさにどんどん湧き出すイオウ温泉で昔は広い露天風呂があり私も何度も温泉に行きましたが、今度の地震で道や橋が寸断されていつ復旧できるでしょう。
四川地震でもいえますが、自然の前には人はなすすべがないということもわきまえなければなりませんね。
火山灰で積もった地層に、急斜面のやまを削り取って無理やり道をつくっているからなどと解説者がテレビで話していました。
620:2008/06/15(日) 12:20:40 ID:ZMFaYbUS
今、テレビを見ていました。
東北で地震があり、大変なことになってるようですね。
空は青く、山は緑にさえているのに、道路の真ん中に巨岩が落ちてたりして、
これは、と思うような光景です。
地震に限らず、大雨など降ったあとは、山などには車などで行かないほうが、
賢明です。 
山のまわりの道路というのは、川の地形にそっていることが多く、
道路の下の土が、流されてしまうから。
以前、そういったときに、友人とドライブして、突然、目の前の道路が、全く、
消滅している場所にでくわして、驚いたことが、あります。
621たか:2008/06/15(日) 12:59:00 ID:cn1luHPJ
昨晩スーパーに行ったらホヤがあったので5個買ってきました。
普通1個100円ぐらいで売っているのですが閉店間際で1個19円。
ここを見た人の中にも三陸の特産と言うことで食べたことがある人もいるでしょう。
特徴は変わった形と硬い殻、そしてなんといってもあの強烈な匂いと、風味、のどを通る独特な感触。
まぁ、好き嫌いがハッキリ分かれる食べ物で好きな人は好きだけれど、嫌いな人はあの独特な匂いでまったく遠ざけますね。
私はホヤがのどを通る時の風味が好きですね。

小学校4年の時学校の遠足かなんかで気仙沼の南の潮吹き岩の岩井が崎というところの岩場で一つ見つけて家に持ち帰ったのがホヤとの出会いだったですね。
海にこんなものがいるんだと知ったのが切っ掛けで食べ始めました。
とにかく匂いが強烈でこれに包丁を入れただけで家中がホヤの匂いで充満です。
世の中嫌われても食べたくなる時はあるもので家族に嫌われる覚悟の上でないとできないこともあるもので。
でも5個は少し多すぎました、昨晩残ったので今朝もホヤです。
おかげで口の中はホヤの匂いで充満中です。

ホヤを食べて腹に入れるのはいいのですが、自他一体だから、お前はホヤだ、などと間違っても言われたくないですね。
622:2008/06/15(日) 21:07:05 ID:ZMFaYbUS
ホヤ?
ほほう?  せっかく聞いたことだし、今度、食べてみましょう。

むろん、わかる人には、すべてわかっているのでしょう。

ホヤというのは、鮮度が一番大事とか。
そして、一番おいしい部分は皮に付いてるちいさな部分とか。
でも、そうなると、鮮度から遠い地方の人には
怒られてしまいますね。
仙台のほうに行った時に、買い、自分で料理するのがおいしいかな。
623たか:2008/06/15(日) 23:21:44 ID:cn1luHPJ
宝さんへ、
ホヤは独特な強烈ともいえる匂いがあるため嫌いな人は数多くいます。
ですから先ずは飲み屋さんのメニューにあるところもあるのでそれで試すことがいいでしょう。
ただ風味を抑えているところもあります。
においの感じで言えばクサヤに近いでしょうか。
ですから酒好きでないと好みに入らないかもしれませんね。
世の中には、よくこんなものを食べてるなぁ、と思う食べ物も多くあります。
ちょっとしたことが切っ掛けで好きになったり、逆に嫌いになったり、いい悪いはその時の状況や心の状態でころころ変わります。

那田尚史さんの奥さんも、悪いところだけを見れば一緒にいること自体苦でしかないかもしれませんが、よいところを見ればきっと今でも魅力的なのでしょうね。
自分の考えるいやな原因や条件の除去ばかり考えてるとこればかりに振り回されそこから抜け出せません。
しかめつらしていた自分の顔をちょっとにこやかにしただけで、奥さんもお嬢さんもにこやかになったような気がしますがどうでしょうか。
自分が知らない間に相手もにこやかにし、それがまた自分に還ってきているのでしょう。
624:2008/06/16(月) 00:27:07 ID:Vzw+Mpos
>>623
お話の仕方からすると、ホヤの玄人、のようですね。
  何でも、鮮度が少し落ちると、ホヤは、味も落ちるし、匂いが強くなるが、
  ホヤにハマった人は、それすら好きになるとか。
  私の味の趣味範囲はとても広いので、好みの一つとなるでしょう。

  那田さんの奥さんに対する思いは、私も、そういう印象です。
  或る小説家に言わせると、
  1 ついに家族のことを書いてしまう小説家は、信頼できる。
  2 妻のことを書いてしまう小説家は基本的に愛妻家である。
  だそうで。
  ただ、お嬢さんに「じじい」呼ばわりされるのは、つらいものがあるような。
  男性は、「いつか成長した娘とパリの街を歩く・・」などと夢みていることも、
  なきにしもあらず なので。
625たか:2008/06/16(月) 22:31:57 ID:LZ+7HanL
宝さんへ、
私はホヤの玄人ではありません。
ただ今回もですが、買うときはほとんど殻つきです。
殻に包丁を入れて身をだして、中の汚らしいところだけちょっと洗うだけです。
剥き身のものや、水で洗うと風味が損なわれる気がします。
出した身を手で小さく引きちぎってどんぶりに入れ、塩をふっただけで一晩で塩辛みたいなものができました。
市販されているものよりおいしい気がしました。よく酢を入れる人がいますが私はなまこを食べる時も酢は入れませんね。

ホヤでは亡くなった父がつくったホヤにからしをつけて大葉紫蘇の葉で巻いてタッパに入れて塩で2日位漬け込んだものは絶品だったので以前やってみようとしたのですがうまくできませんでした。
ホヤの風味をそのまま残しながらからしのピリッとした辛さと紫蘇の香りと塩辛さが酒好きにはたまらないものでした。
こう書いてきて親父の料理がひとつ浮かんできました。
小さいころ割きざめといっていたのですが、今思い出すとマンボウだったかもしれないですが。
その刺身の割きざめを手で引きちぎって山椒の葉をすりつぶして酢味噌に混ぜそれと割きさめを混ぜ込んだだけのものでしたが、これもまた絶品でした。

年をとるにつれ小さいころ食べたものを懐かしくまた食べたいなと思うものですね。
三歳までに味覚は形成されると聞きましたがまさにその通りなのかもしれません。
こういうもの例えば母親の手料理など自然に受け継がれていく、本当に大切なものかもしれませんね。
今はどこで食べても画一的な味になっています。
恐れずにその地域の特産を味わうこともまた生きる喜びと言うものでしょうか。
626神も仏も名無しさん:2008/06/18(水) 03:42:18 ID:qHoGOxJP
>>625 たかさんへ
 すてきな食生活をなさっているようですね。
 ホヤに関して調べてみると、それが、一般的な食べ方のようです。
 もちろん、買うときは殻つき。
 我が家では、基本的に、食材は、原形の見える形で買うことにしています。
 肉などは、それなりですが、ひき肉は買いません。

 お父様は、もう、いらしゃらないのですか。 好物をおそなえするのもよいでしょうね。
 人は、その人が答えてくれるうちは、本当のことが、わからず、もう、二度と答えて、
 くれない、となったとき、はじめて、本当のことが、みえてきて、後悔したり、感謝で
 いっぱいになったり、しますね?

 マンボウは、私も、食べることがあります。 
  (が、これこそ、鮮度が大切で、この前、うっかり冷蔵庫に残っていたのを食べたら、
     すこし、ジンマシンが。 もっと、注意しないと。 )

 現代では、例えば、高速道路のサービスエリアの食事処など、すべて、業務用食材
 かもしれません。  当然、コックさんを必要としないかもしれません。 
 画一的な味にもなりましょう。   よくないですね。 いつから日本はこんなことに。

 独身のかたは、できるだけ、料理を自分でつくるのが、よいですね。

 

 
 
 
627:2008/06/18(水) 03:44:18 ID:qHoGOxJP
 
626 は 宝 です。
628たか:2008/06/20(金) 23:07:42 ID:6muKFn8d
親父が時々言っていた言葉に、順番どうり死ぬのが一番良い、と言うのがあります。
順番どうり死ぬとは、爺さん、婆さん、父、母、子供たち、孫たちと言うように年の順に死ぬと言うことです。
親父は時々親戚親類の葬儀の時に会計、帳簿付けを頼まれて死んだ時から葬儀一切が終わるまで任せられていましたので多くの死に接してそう思ったのでしょう。
順番に死ぬのは一番自然のようで当たり前のようでいながら実際は順番どうりに行かないことが多いと言えます。

この順番通りということを考えると、一休禅師の言葉が浮かびます。
一休禅師は、ある時信者の一人から、「和尚さま、家の宝にしたいと思いますので、何かめでたい言葉を書いてくださいませんでしょうか」と頼まれました。
一休さん、「喜んで書きましょう」と気軽に引き受けた。
さらさらと、『親死 子死 孫死』と達筆に書いて渡しました。
それを見た信者は、かんかんに怒って、「私は、何かめでたい言葉と言ってお願いしたのに、死・死・死とは何事ですかと怒りをぶちまけました。
まさにその紙をやぶり捨てようとした時、一休禅師は静かに、「ほほう、それでは何か、お前のところでは、『孫死 子死 親死』の方がめでたいのかな」と言ったということです。
順番どおりに死ぬということは当然のようで、とても難しいことのようです。

親死、子死、孫死、当たり前のようでいてそのよのように望んでいるようでいて実際はそのようにいかないところに苦しむ人も多いですね。

以前放送されていた瀬戸内寂聴さんの説法のところにも子供を亡くした人が多く来ていました。
その時寂聴さんは霊魂が見守っているのですと話して慰めていましたが、寂聴さんが独りになったときのインタビューでは、反対に、説法していてもなんか虚しい、とも言っていましたね。

629たか:2008/06/20(金) 23:19:43 ID:6muKFn8d
私は寂聴さんを全面的に否定しているのではありません。
実際寂聴さんの説法によって心の平安、安らぎを取り戻す人が多くいることも確かでしょう。
でもそれを説く本人が、なんか虚しい、と言ってしまうのは何でしょうね。
630たか:2008/06/21(土) 00:15:20 ID:s656eGvR
今日も宮城のテレビでは今回の栗駒の地震の特集番組が放送されています。
日が経つほどいろんな意味で深刻です。
もうあそこには戻れないかもしれませんと涙ぐんで非難して来た人もいました。
今回の地震のメカニズムの分析もされていますが日が変わるたびに説明も変わります。

宮城では一年中宮城沖地震にどう備えるかばかり言っていますが、考えてみればここ何年かの地震は専門家が一切指摘していないところでたいへんな大地震がおきています。
例えば何年か前の松島の北、鳴瀬の地震、気仙沼付近の地震、鳴子付近の地震、今回の地震、みんな専門化が想像もしていないところで起きて大被害が起きています。
専門家の人達はみんな、宮城以外でも東海沖地震、首都圏地震ばかり年から年中言っているのにそれはさっぱり起こらず、専門化が想像もしていなかった神戸の地震をはじめ、奥尻、新潟、能登、福岡、まぁ、当ったためしがないですね。
日本は全国どこでも起こりうるのです、などといっていますが、東海沖ばかりテレビで分析するだけでなくそれならもっと全国に共通する対策を立てたらよさそうですが、それなど言えないのでしょうか。
まぁ、専門家は過去の記したものだけを重視しますから、そこから一歩抜け出て気づくことはできないのでしょうか。
最も、実際に東海沖地震がおきたなら、やっぱり私が予想した通りです、などとほこらしげにいうかも。
みんなでわたれば怖くないでしょうか。

仏法でも一歩前に進むことが大切でしょう。
先に経典がこれこれ、だれそれがこういっていたからどうとか、これではその一歩前に進めません。
>>588の宜道の言葉の、いくら読んだって自分の修業程度しかわからぬから、が浮かびます。
道元、法然どちらも、学者を信用するな、ですかね。
己を捨てて、仏に、自然に、身心を任せて初めてスッキリするといえるのでしょうに。
どうしても、ついつい目に付くものにすがってしまいますね。
631たか:2008/06/22(日) 21:21:49 ID:ixqiE2YS
昨日知人と話していたら今日奥さんと梅干を作るための梅を買いに行くといっていました。
いつもおにぎりに梅を入れるそうで、その梅干を自宅で作るのだそうです。
店で売っている梅干はいろんなものが入っていて自宅で作った梅でないといやだと言っていました。
梅雨という言葉があるように、今が梅干を作る時期ですね。
梅を塩で漬けたり梅雨明けには暑い日差しの中で天日干しをします。
この暑い日ざしが天日干しがおいしい梅干を作る必須条件なんでしょう。
そういえば小さいころ田舎ではどこの家でも梅を干していました。
近所の人と世間話をしながらうちの婆さんも梅を干していました。
その時期を逃すとおいしい梅干は作れませんが、それは他の全てにいえているようで自然の移り変わりに沿って季節を的確に捉えてそれでいて当たり前のごとく仕事をします。
この仕事が苦だと思いながら作業をする人は少ないのではないでしょうか。
この作業をすることも自然と共にあり、そして出来上がった梅干を味わうのもまさに季節と共にありというところでしょうか。

今がその時、私がする仕事ですよ、と老僧の声が聞こえてきそうです。
632たか:2008/06/28(土) 19:16:04 ID:jNibUFph
朝や夕方、車で出かけてみると散歩、ウォーキングをしている人がかなりいることに気づきます。
もっとも40代〜60代の人が多いでしょうか。
朝早く散歩をすれば新鮮な空気も季節の移り変わり感じ、朝日の光を受けて気分もいいのですが、何よりいいのは体を動かすことでしょう。
特にいいのは足腰を動かすことでしょうか。
前に話した禅寺の大接心でも修行僧が経行と言って歩き回っていましたが、考えてみれば釈迦も坐っているばかりではなく遊行と言ってけっこう歩いていたのでしょう。
釈迦の最後も故郷を目指しての旅の途中でした。
先日も千日行が放送されていましたがまさに歩き回る行です。
以前、永平寺の100歳を越える僧の話の中で、60代で生死にかかわるような大病の後、弟子達を連れて市中を托鉢行脚していましたが、歩いて動き回る、体をよく動かすことも心も身体も平安に保つことなのでしょう。
これを普通僧侶がすれば修行と言うのですが、普通の人がすればウォーキングと言われるかもしれませんね。
633たか:2008/06/29(日) 21:19:09 ID:cschmjFF
昨日の午後、保存版日本の仏像100選と平成の名仏師松本明慶さんの再放送がありました。
日本の仏像100選は前に一度見ていたのでビデオに録っていただけでしたが、松本仏師の放送は放送をそのまま見ました。
その放送の中で松本さんは次のようなことを言っていなした。
若いころは思わなかったが、仏像を多く彫っている中で、仏像とは何であるか、という問いが生まれたと言っていました。
そして、多くの人が自分のつくった仏像に心から手を合わせている姿を見ながら、仏像は器だ、仏像とは器のようなもの、という思いに至ったという。
多くの人の苦しみの時も、喜びや楽しい時も、そして悲しみや心配なことも全て受け入れてくれる、器、だというのです。

私も前からだいたいは松本さんと同じように思っております。
この苦しみや悲しみ、心配、そして喜びも楽しさも全て受け取って、受け入れてくれるものがあって、人は無心に至りやすいのです。
この受け入れてくれるものを仏ともいい、如来、菩薩などともいいます。
本来は自然や音に身も心も任せることで無心に至りそれに気づけば充分なのですが、そうはいっても普通の人にそれを言ってもなかなか解らないですね。
大乗仏教の場合、悟った名僧はそれを知るがゆえに、釈迦が一言も言わなかった如来や菩薩を否定しないんです。
前にも何度も言っていますが、仏に身も心も任せることを、仏の家に身を投げ入れる、といいます。
松本さんの言葉で言うならば、仏の器に何でも受け取ってもらう、でしょうか。
このことを先人たちは、易行道、といいました。
見上げるような大きな大仏から、手のひらにも乗りそうな小さな仏様もいますがそのそれぞれが、多くの人それぞれにとって何でも受け入れてくれてその人とひとつになって、煩悩を払い、時に無心に導いてくれるといえますね。
634たか:2008/06/30(月) 00:54:45 ID:FOUENo8I
この松本仏師も以前出たことがあった番組で朝10時から30分間放送してるNHKの、知るを楽しむ選 この人この世界、というのをみてたら、瀬戸内寂聴さんがでてました。
日本文学の最高傑作といわれる源氏物語を以前寂聴さんが現代語に訳して話題になりましたが、それを寂聴さん自らが物語に沿って解説する、瀬戸内寂聴 源氏物語の男君たち、という8回の番組です。
最初はなにげなく見てたのですが、登場人物の個性や寂聴さんの話も面白くて火曜から金曜まで続けて4回みてしまいました。
私は源氏物語は国語の授業で習っただけの知識だけだったですが、なるほど登場する人物それぞれが女性も男性もそれぞれ個性的で性格もいろいろ、身分もいろいろでまた魅了的に描かれています。
六条御息所の生霊がでたり、恨み嫉妬があったり、父の帝の妻藤壺と関係を持って子供をつくったりや兄の帝のいいなずけ朧月夜と平気で関係したり、まぁ凄いと言うかなるほど面白いですね。
主人公の光源氏は会う女性をことごとく惹きつける魅力があったようで20才前なのに次々に関係を持っていきますが、それでいて女性に悪い印象を与えない美貌と魅力があります。
話は違いますが、さっきまで見ていたNHKのサラリーマンNEOにでてくるセクシー部長という人がいますが、源氏とは性格も見た目や風貌もまったく違いますが、人をとろけさせる魅力は同じようだろうか、などと笑ってみてました。

ところで寂聴さんの話も面白くて。
帝の妻つまり義理の母の藤壺と源氏が関係した場面が源氏物語にははっきり書かれていなくてどうにも気になってその場面を想像して別なものに詳しく関係している場面を書かずにいられなかった、などと寂聴さんが話しているのを見てて思わず笑ってしまいました。
残りあと4回あるのですが時間的に見られないのが残念です。
それにしても男女いろんな関係がありあらためて驚かされます。


635神も仏も名無しさん:2008/07/03(木) 23:36:06 ID:Ugg3CL8l
保守
636神も仏も名無しさん:2008/07/05(土) 18:36:15 ID:4rEexdn5
なな
637たか:2008/07/05(土) 23:51:11 ID:SkNzxqTp
結局、寂聴さんの、源氏物語の男君たち、という番組残り4回は見れなくて残念でした。
源氏物語の場面を人形と語りがうまく表していてそれがまた物語をわかりやすくしていました。
再放送の再放送はもうないでしょうか。

帝の妻つまり義理の母の藤壺と源氏が関係した場面が源氏物語にははっきり書かれていなくてどうにも気になってその場面を想像して別なものに詳しく関係している場面を書かずにいられなかった、
という場面どうしても書きたくて書きたくて仕方がないんです、という笑い顔に80才を超える婆さんにも少女のような面影も見えるようでした。

父の帝の妻つまり義理の母の藤壺と源氏の一度の関係で藤壺に子が生まれるわけですが、寂聴さんの話によると、藤壺や源氏はその子が源氏の子だと当然知っているだけでなく父の帝もおそらく気づいていたろうと話していました。
父の帝の心がなんとも広いというか、そういえば次の帝の兄のいいなずけ朧月夜と源氏との関係を兄の帝も知っていながら朧月夜と源氏を許しているようなところもあります。

まぁ、物語ですから生霊はじめいろんなものが出てきて急展開させて話をいろんな意味で面白くしていて読み手を常に惹きつけているのでしょう。
考えてみれば私たちは子供のころから漫画やアニメ、テレビや映画で、霊魂や占いや超能力などに常にさらされていてそれなくしては面白みがかけてしまうような自分では気づかない麻痺しているようなのもに常に浸っているのかもしれません。
それは仏教を語り合っている場合でも同じようでそれから抜け出せない、何か超能力のようなものとして悟りに求める人が多いですね。
自分は人とは違うんだ、特別な修行をして人とは違うくなるんだ、そして包まれたような体験で俺は人と違うくなったんだと勘違いをしてしまいますね。

638たか:2008/07/06(日) 00:25:33 ID:Xbjn1aZA
あるがままに観る、よく使われる言葉ですが、これがよく解らない。
何であるがままに観ることが、苦を克服して、生きる喜びになり、涅槃寂静に到るのか。
いつもあるがままじゃないか、どうしてこれが、苦の克服なのと疑問は尽きないですね。

何を見ても苦しみばかりだ、一切苦だ、と釈迦は悟って仏法は始まりましたが、>>491のように最後の旅で釈迦はいろんなものを挙げて、この世界は美しい、人生は甘美である、と言ったそうです。
何を見ても面白い、いろんな変化も面白い、あの人はこんなこともしてる、この人はこんなこともしてる、あっはっは、あっはっは、ああ、ああ、ほんとに面白い。
639たか:2008/07/06(日) 22:15:34 ID:Xbjn1aZA
先週BS2で、山下清の愛したニッポン、という2時間番組がありました。
再放送の要望があったようで、私も面白く見ることができました。
山下清は、裸の大将のドラマ、貼り絵、放浪の画家で有名ですが、私もドラマで見てる知識ぐらいしか知りませんでした。
言葉と知能の生涯で12歳の時、八幡学園に預けられ、18歳の時に突然放浪のたびに出ました。
学園では帰ってきた清に旅先での出来事を貼り絵で書くように清に義務ずけたという。
番組は清が駅のベンチで寝泊りし、物乞いをしながらも訪れた地域の人達と解け合ったエピソードを、絵とその地の実際の場面と人々の証言を交えた内容のあるドキュメンタリーでした。

五回目の脱走のいきさつをその3年後に書いたもの。
学園にいて毎日貼り絵をやったり油絵の具をやっている生活と毎日ルンペンをしている生活とどっちがいい
かとよく考えているといつまでも迷っていると決まりがつかないから、思い切って決まりをつけてしまおう
とおもい、じゃあ、ルンペンになろうとおもってルンペンになる支度をして昭和26年5月3日の朝早く少し
明るくなったころ起きて先生に断って出かけるのが恥ずかしいと思うから、先生に断らないで学園から出か
けた。

貼り絵はほとんど学園に戻ってから制作されているそうで旅先では作られていないという。
驚異的な記憶力と貼り絵のその緻密さと色彩と制作のスピードに誰もが驚くという。

僅かの着物と茶碗以外ほとんどもたずにそれでいて会う人に受け入れられていく彼の魅力と今も展覧会をおとづれる多くの人に感銘を残す魅力はなんだろう。
640たか:2008/07/06(日) 22:18:38 ID:Xbjn1aZA
訂正。生涯ではなく障害。
先週BS2で、山下清の愛したニッポン、という2時間番組がありました。
再放送の要望があったようで、私も面白く見ることができました。
山下清は、裸の大将のドラマ、貼り絵、放浪の画家で有名ですが、私もドラマで見てる知識ぐらいしか知りませんでした。
言葉と知能の障害で12歳の時、八幡学園に預けられ、18歳の時に突然放浪のたびに出ました。
学園では帰ってきた清に旅先での出来事を貼り絵で書くように清に義務ずけたという。
番組は清が駅のベンチで寝泊りし、物乞いをしながらも訪れた地域の人達と解け合ったエピソードを、絵とその地の実際の場面と人々の証言を交えた内容のあるドキュメンタリーでした。

五回目の脱走のいきさつをその3年後に書いたもの。
学園にいて毎日貼り絵をやったり油絵の具をやっている生活と毎日ルンペンをしている生活とどっちがいい
かとよく考えているといつまでも迷っていると決まりがつかないから、思い切って決まりをつけてしまおう
とおもい、じゃあ、ルンペンになろうとおもってルンペンになる支度をして昭和26年5月3日の朝早く少し
明るくなったころ起きて先生に断って出かけるのが恥ずかしいと思うから、先生に断らないで学園から出か
けた。

貼り絵はほとんど学園に戻ってから制作されているそうで旅先では作られていないという。
驚異的な記憶力と貼り絵のその緻密さと色彩と制作のスピードに誰もが驚くという。

僅かの着物と茶碗以外ほとんどもたずにそれでいて会う人に受け入れられていく彼の魅力と今も展覧会をおとづれる多くの人に感銘を残す魅力はなんだろう。
641たか:2008/07/06(日) 22:33:38 ID:Xbjn1aZA
ぼくとつでなんら飾りっけはなく、笑うえわけでもなく、誰が言うわけでもないが将に、あるがまま、そして彼が描いた貼り絵も、あるがまま。
でもその絵の中に描かれた一枚の絵にはその場面その一瞬だけをただ写しただけではない、あるがままの集合体、印象の集合体、のようなところがありますね。
それが多くの人をひきつける大きな魅力のひとつでもあるようです。
642たか:2008/07/06(日) 22:49:43 ID:Xbjn1aZA
どうすれば絵がうまくなるかというと、本物そっくりに描けば写真と同じだといわれるし、本物と違って描けば
嘘の絵といわれるので、景色を描く時はその特徴を表せばいいので、はじめてみる景色は何が特徴なのかよく解ら
ない時は、よその人にこの景色はどこが特徴ですかと聞くと聞く人によっていろいろ違うので、僕は自分の好き
所だけところだけを覚えていて学園に帰ってから貼り絵にするのです。
643たか:2008/07/06(日) 23:12:18 ID:Xbjn1aZA
山下清に、一番好きな絵はどれですかと聞いたところ、草津の露天風呂の絵を示したそうです。
西の川原といわれる露天風呂がただで入れると聞いて何度か訪れたみたいで、その河原を描いた一枚の絵の中にいくつかの場面をひとつにまとめて描いています。
風呂にはいってからだが温まると小便大便がしたくなるといって入浴しているすぐそばでおしっこしている子供やうんこしている人が描かれていたり男女混浴の場面がそのまま描かれています。
>>638で書いた、
何を見ても面白い、いろんな変化も面白い、あの人はこんなこともしてる、この人はこんなこともしてる、あっはっは、あっはっは、ああ、ああ、ほんとに面白い、
というところでしょうか。
美しいところ、面白いところ、印象深いところを、そのまま、ひとつの画面に入れたとでもいえるでしょうか。
他の絵でもそのようにいえるようです。
644たか:2008/07/07(月) 00:48:25 ID:zd0iSaJO
失敗したと思う経験があって、そのすぐ後凄く良かった体験があったなと思うことがあったりします。
4,5日前地元のニュースを見てたら地震でよくでる栗原市の金成というところで源氏蛍が飛んでいるという話題がありました。
今から20年以上前に一関に住んでいて仕事から帰るときたまたま金成インターから東北道にのったことがあります。
高速に入った瞬間にガス欠なことに気づきました金成サービスエリアを過ぎた瞬間にエンジンが止まってしまいそのまま緩やかな下り坂を下ったところで完全に車がとまってしまい、非常電話で連絡の後ウインカーをつけながら待ったことがあります。
ああ、気づいていたはずだったのにと悔やんでいたところ、ふと見上げると蛍が車の周りを飛んでることにきづいたのです。
おそらく蛍は車のウインカーの点滅に集まってきたのかもしれません。
あぁ、蛍が飛んでることが綺麗でうれしくなり慰められるような気になったことがありました。
あそこは金成サービスエリアのすぐ北で東北道の下は辺りは田んぼがあっただけで川があった記憶はありませんでしたが。
今の季節ニュースで蛍の話題が出る度、この体験と、故郷の寺の前の川で蛍が飛んでいたことを思い出します。
645たか:2008/07/07(月) 13:14:25 ID:zd0iSaJO
20年前ではなく30年近く前ですね。
JAFが来るまで40分ぐらい、すぐ片側を100キロをゆうに越えてトラックや車がビュンビュンすぎていく、一方では無数の蛍が音もなくふわふわと点滅しながら飛んでいました。
まぁたとえで言えば変ですが、地獄と極楽とでもいえましょうか。
646たか:2008/07/07(月) 13:33:32 ID:zd0iSaJO
清さんは風呂に入ってすっかり温まって、ほんとに多くの人が思い思いにワイワイガヤガヤする姿を見ながら音を聞きながら涼しい風に当たるのが好きだったのでしょう。

彼の絵の最も代表的な絵が花火の絵ですね。
多くの人がその絵を見て、、えぇ〜、こんな小さなとこまでぎっしり貼り絵なんだ、と感嘆の声を上げます。
代表作に、長岡の花火、というのがあります。
そのエピソードも面白かったですね。
647たか:2008/07/08(火) 14:04:29 ID:MekphRX/
この番組の中で同志社女子大の村瀬教授という方が次のようなことを話していました。
言葉を覚えるようになって言葉で覚えたり文字で覚えたりしてしまう人にとってはなかなか見た記憶を鮮明に覚えることが
できにくくなっているといわれています。文字の力がたぶん見たものの力を減少させていると思うんです。理解の遅れる子
供たちや知的障害の子供たちは言語能力というのがですね、言葉を喋ったり言語能力というのが不得手ですから、そのぶん
見たもので勝負するというか、見たものを覚えたり、それをつなぎ合わせるという力ではそういうのが残っているのではな
いかと思うんです。

私たちは普通、文字や言葉で置き換えて理解し人に伝えようとしますがそれではどうしても表せないものがありますね、その場の雰囲気とか熱気とか微妙な、その人がその場に行って初めて感じるもの、その時その場だからといえる感動というものがあります。
それを伝えようとすると、一つの画面の中でもここではこういうことがあって、こっちではこんなこともあって、こっちでもこんなことがあったんだよといろいろとつなぎ、重ね合わせますね。
648たか:2008/07/09(水) 12:52:28 ID:c6Cn0Uc6
昭和24年、長岡の花火師嘉瀬誠次さんが花火の打ち上げ準備をしていると一人の男に出会った。
そこは危ないから向こうに行って、といったら、花火はどうして危ないの、とその男は言って安全なところに行ったという。
数年後銀行で雑誌を見てたら「放浪の天才画家・山下清」というのが目に入った。見た瞬間に、あの時の、と思ったという。
その後展覧会に3度通って3度目に借金して、長岡の花火、を買った。
長岡の花火、何しろ自分が上げた花火が絵になってるんだからね、代々花火の仕事をしてる限り残っていくもんだと思って。
長岡の花火を清は2つ描いていてそのうちのひとつが加瀬さんの元にあって、以前画商が買ったときの20倍以上で買いたいといってきたが、奥さんの反対で売らなかったという。
確かにこの絵も色鮮やかで綺麗でまさに傑作中の傑作だ。

瞬間にパァッと消えちゃうでしょう、彼はどこの花火大会に行ってもズーッと2じかんもみてるんでないですか?
フイルムみたいに瞬間的な場面を捉えたんでなくて、長岡の花火を題材にしたんだから、ここからも上がったしここからも上がったし、ここからも上がったのを自分の頭に入れていて絵にしたんでしょう。
人に見せるためには消えた花火も、ここで上がったんだよ、ここで上がったんだよ、よく上がってますよということでつくって絵になったんだと思うんですよ。
見る人達の姿があって花火の大きさもある、これは一尺玉、7尺、5尺、うまく描けてます。
これは傑作だと思うなぁ。
加瀬さんは長岡の花火師といったら嘉瀬花火師と言われる人だそうでロサンゼルスオリンピックなどでも花火をあげてる人だそうです。
649たか:2008/07/09(水) 13:05:55 ID:c6Cn0Uc6
花火大会を見に行った子が家にいる母に花火大会の様子を話します。
簡単な絵をかき指差しながら、ここで大きな花火がドカン、中くらいの花火がドン、こんどはこっちで大きな花火がドッカン、小さな花火もドン、次におおきな花火がまた連発でドドン。
火の粉がいっぱいキラキラ落ちてきて、川にも花火が映って、花火が開くたび大勢の人がワァっと歓声を上げて、、、、、、。
母親に話す子供の話は尽きなく無邪気なのかもしれません。
私には旅から戻った清が学園の先生に、ここでこんなことをしてこんなことがあってこんな人に出会って、と。
話すことが不得意だった清は話す代わりに夢中になって一心に貼り絵をしてたのかもしれません。
花火大会の光と音と匂いという空間とひと時を、一枚の絵にしたそれが傑作の花火の絵でしょうか。

子供のころの花火大会に思い出は誰の心の中にもありますね。
その思い出をこの絵を見る人に強烈に思い出させてくれる、そんな絵ですね。

点描画を思うほどに無数に細かく何重にも貼り重ねています。
村瀬教授は、印象派が優秀な頭が集まって理論だてたものを清は自分の感覚で見つけ出したんです、と言っていました。
650たか:2008/07/09(水) 13:25:00 ID:c6Cn0Uc6
色彩が、色が世界をつくっている。
色のそれぞれが世界をつくっている。
空に大きく開く花火はもちろん、火のこの一つ一つも、花火が映ったキラキラのひとつひとつも、花火を見上げる一人一人も、遠くうっすら見える山並みも。

前にも書いたように、一粒の小さな水滴に、世界が映ってその水滴をかたちづくっている。
一つ一つが輝いて全体を作っていますね。
だから大乗では、何一つ余計なものはない、と言うのかもしれませんね。
651たか:2008/07/12(土) 19:48:23 ID:vPewVtrI
わたしは小学一年の時父と6歳上の兄と気仙沼の大島だったか大谷海岸だったか海水浴に言ったのを覚えています。
帰りに千厩という町に立ち寄って花火を見たのを断片的に覚えています。
また汽車に乗って最寄の駅で降りて、最寄の駅といっってもかなり離れていますが、だいぶ帰りが遅くなったのを母が起きていて心配したと言って待っていたのを思い出します。

清も6歳の時母親と新潟の花火大会を見たのを覚えていてどうしてももう一度見たくなって長岡の花火大会に行ったのでしょう。
他の貼り絵でもひとつの絵にいくつかの印象的なことを組み合わせて描いていますね。
勿来のトンネルの絵では路線工事で裸で働く人達と浜辺で素っ裸で遊ぶ子供たち、どちらも見ていて面白かったのでしょう。
大人になるとなんでちんぽにけが生えるのかなぁ、と人にちんぽを見せていて警察に捕まり精神病院に入れられた絵がありますが、その絵も病院にいれられるところから、外の様子、逃げ出すところまでが一前の絵にまとめられてるそうでそれを知ると見てる人を厭きさせません。
この絵でも看守の婆さんが裸で鍵を持っていたり、病院の前の畑で働く男もふんどし姿で、それらを格子越しに不安げに見てる姿も描かれています。
印象をありのままひとつの絵に重ね合わせて、同時に清のあみ出した独特の貼り絵の技法が合わさって彼の絵を世界を見る人はその面白さと感銘が湧き上がってくるのでしょう。

でもあまりに有名になりすぎて彼の周りの環境が変わってしまいました。
人の目を気にすることなく描いていた絵が、本人の気持ちとは裏腹に取り巻く環境が変わって、人を気にして描く絵に変わらずを得なくなったようです。

652たか:2008/07/17(木) 22:27:14 ID:KGNT6JM4
清はその場で油絵とかの絵も描いていましたが、なんと言うかキラキラさがないというか、明るさが無いというか、面白さが無いというか、絵に素人の私にももうひとつ魅力がありません。
旅から帰って描いた貼り絵と風景を写しただけの絵の違いは何でしょう。
きっと貼り絵を見る人には気づかないうちにその絵の中に清の感動を見るのでしょう。
大空に天井いっぱいにいっきにドンという音と同時に大きく広がる花火、それを見上げる人達のどよめき、水面にも瞬時に映し出される色ときらめき、そのどれもが同時に瞬く間に消え去っていきます。
ありのままの世界と、清の心と感動が一緒にいっきに伝わってくるのでしょうか。

清の絵だけでなく、名作といわれるものを見るとき、その作者がこれを感じたんだと気づいた時その作者と同じ感動を共有した豊かな気持ちになりますね。


653たか:2008/07/17(木) 23:22:18 ID:KGNT6JM4
今月はじめ、平泉の世界文化遺産の登録が認めれれななかったとのニュースがありました。
昨年11月に、中尊寺を見てきましたが、結果残念でした。
確かに金色堂はすばらしいもので比類ない浄土の世界観が伝わります。
仏像の一つ一つ、柱の彫刻や装飾のすばらしさは見る人を感動させます。

しかし、金色堂以外にというとどうももうひとつ感動しないんですね。
中尊寺や、平泉全体と、金色堂が一体化していないような感じです。
例えば、ある美術館に名画がやってきたような感じでしょうか。
名画じたいはすばらしいのに、それを取り巻く周囲と一体化していないような感じでしょうか。
テレビで世界遺産の場面が映し出さされますがそのほとんどはその遺産はもとよりですが、それを取り巻く環境やそこに暮らす人々とのかかわりの中にその遺産のすばらしさが一層引き立つように思えます。
その点で平泉の魅力か足りなかったように思えます。
戦火にあけくれた末に清衡が夢見た浄土の世界、遺産がもっと残っていてもう少しそれが地域の人に根ざしていて一体になっていたならと残念に思います。


夏草や兵どもが夢の跡
五月雨の降のこしてや光堂

芭蕉の見た平泉の方が、その時の平泉や光堂が一体化しているような気になるのはどうしてでしょう。
654たか:2008/07/20(日) 20:03:38 ID:wTjEjYAn
金曜日にテレビを見てたら、クローズアップ東北、平泉の文化遺産登録延期を検証する、という番組があった。
去年11月に中尊寺を見に行ったのはもしかしたら登録になるかもと思って見に行ったのだけれど、その時実際は登録が難しいのではないかと思っていた。
なぜかというと、平泉で思い浮かぶのは金色堂と毛越寺の浄土庭園だけだったからだ。
実際に中尊寺の景色や建物を見ても金色堂以外感銘しなかった。
また毛越寺の浄土庭園はそれなりにいいけれど当時の建物はほとんど消失していて風景がまったく変わってしまいその場に行っても、平泉の文化はこれか、と感銘を受けるものはほとんどない。
長者ヶ原寺跡、白鳥館遺跡、金鶏山、柳の御所遺跡、無量光院跡、達谷窟、骨寺村荘園遺跡。
どうも世界文化遺産に登録されたいがために無理やり学者が寄ってたかっていろんなものを理屈づけてくっ付けたよう感じがする。
登録委員会の各国代表の議論でもあまりにも解りずらい説明の案件だとの批判がぞくしつしたみたいだ。
平泉ー浄土思想を基調とする文化的景観、という題名と、遺跡などに上げられた地に実際に立ったときのギャップ、これが審査委員には素直に受け入れなかったようだ。
三年後に再度登録を目指すというが今の説明では登録などまず無理で、根本的に見直すか、金色堂を中心とした中尊寺と浄土庭園の毛越寺に絞り込んで、清衡や基衡、秀衡の描いた浄土の世界を観光客にすぐに感じられるように示さないとならないだろう。

それにしても平安時代のその当時の中尊寺や毛越寺や宇治平等院を模してそれ以上の大きさだったといわれる無量光院が少しでも残っていたらよかったのにと思わずにいられませんね。
655たか:2008/07/20(日) 20:37:39 ID:wTjEjYAn
学者がいくら説明してもわからないものが、そんな説明などされなくともその場に立っただけで一瞬でいっきに身体の内部から沸き起こるように感動し、身体全身で納得するということがあります。
例えば、目を閉じていても、その場のなんともいえない雰囲気が身体に伝わってくるのでしょう。
これは何も日本人だからどうだというものでなく、多くの人達が理屈ぬきに感じられるものなのでしょう。
だからこそこれを、世界文化遺産というのでしょう。
理屈や理論などなしに感じられるものがあるはずなのにゴチャゴチャと理屈をつけるから、そのまま、ありのまま、感じられるものさえぼけてしまい本来受ける感動が霞んでしまいます。
大乗仏教がいう、悟りや見性も、まさにこれと同じようなものです。
いくら釈迦が言おうが、理論や教えなど忘れて素直に、今いるその場所のその雰囲気をそのまま感じそれを喜びとすればいいだけのこと、いろんなことを付け加えてかえってつまらないものにしてしまうことがあります。
まずは、そのまま、ありのまま、感じて、ゆっくり深呼吸して、その場の雰囲気を身体全体に取り込んで、まずは取り巻く環境と一体となって初めて落ち着いてそれを味わうことができます。
その後ですよ、理論や理屈や教えが活きてくるのは。
どうしても理屈や理論、教えが先になってしまいますが、それを忘れ去ってまずは素直にその雰囲気と一体となってそれをそのまま味わう、これを無心というのでしょう。
656たか:2008/07/21(月) 11:32:58 ID:rx0/XKo2
もうすぐ北京オリンピックが始まります。
チベットの問題、四川大地震、公害問題、貧富の格差や都市と田舎の格差、官僚の汚職、あげればきりがありませんが。
でも、オリンピック開催中は無事に競技がおこなわれてほしいものです。
オリンピックに出場される選手のなかには必勝やよい成績になることを願って神や仏に手を合わせさらには祈祷さえする人もあるでしょう。
まぁ、オリンピックじゃなくても何かことがおきれば仏や神様に手を合わせたくなるのは人情とも言えるでしょう。
神や仏の更なる不思議な力が加わることを願って神仏に祈ることを加持祈祷といいます。

ところで競技中は無心になるとか、無心の状態でとかよく言われます。

仏や神に手を合わせる、ことと、無心になる、こととはどう関係があるのでしょう。
657神も仏も名無しさん:2008/07/24(木) 22:58:23 ID:k6W6SRqe
安っぽいエッセイの垂れ流しになった。
658たか:2008/07/25(金) 02:59:47 ID:/6UMQSOM
私がやったことはただ一つ。
ただただ、仏鈴の音に身をこころを任せただけ。
これ以外、何もありません。
これ以外は何もないけれど、これをしなければいくら私が書いたのを読んでも、いつまでたっても何故、一音、ばかりいうのか解らないでしょうね。
座禅や、念仏、真言、その他いろいろ言う人はいくらでもいますよ。
いくらでもいるんだからそれがきっと正しいと思うのなら、どうぞそれをやればいいでしょう。
何度も書いてるように、私はそれも否定してはいませんよ。
でもね、それで、本当に仏法が解るのか、さあどうでしょう。

阿弥陀経が説くのは色や音だけですよ。
あれをしなさい、これをしなさいなどということは何もない。
釈迦の教えもなければ縁起思想などまったく書いていない。
自分でどうしようもなくなったら、阿弥陀仏と唱えなさいだけです。
阿弥陀仏と唱え、身も心もあずけることで、初めて自我というものを手放すことができるのだよと説いているといえます。
自我を手放すとは、自分でこうしようああしようという思い上がった心を手放すのですよ。
この手放したことを、状態、心を無心といいます。
多くの人は、仏や神を拝むことで仏や神から不思議な力が加持が得られると教えられ考えていますがまったく逆です。
今の自分の力をその時の環境や状況の中で充分に発揮できるように自我を無くすのです。
これを無心になるというのです。
659たか:2008/07/25(金) 03:09:02 ID:/6UMQSOM
無心になるために身も心も預けてしまう。
残っているのはその時の環境や状況ただそれだけです。
こうしなければならない、ああしなければ恥ずかしい、そんなことなどまったくおもいもしないその時まっしぐらでしょう。
660たか:2008/07/25(金) 04:22:23 ID:/6UMQSOM
私はここに書き込むときいつも一音を書きたくて書いているのです。

先日、プロフェショナル名人戦森内俊之 VS 羽生善治という番組がありました。
なかなか二人の真剣な戦いを面白く見てたのですが、互いに名人を極めた二人が今の境地をその番組の中で森内さんは無心をいい、羽生さんは玲瓏という言葉で言っていました。
森内さんのたどり着いた今の無心はいろいろ考えて差すということではなく熟慮はするけれどその時心にわきあがったものに身を任せるのだそうな。
ところで羽生さんのいう玲瓏とは、透き通り、曇りのないさま、透きとおった静かな心持ちをいう。
対局中に襲われる不安や迷い、雑念を取り払い、澄み切った心で盤面に向かうよう、自らを戒める心でしょうか。
私は今まで玲瓏という言葉を知りませんでしたが、辞書で引くと次のようにでてきます。
1 玉などが透き通るように美しいさま。また、玉のように輝くさま。「―たる山月」「八面―」
2 玉などの触れ合って美しく鳴るさま。また、音声の澄んで響くさま。「―たる笛の音

私は今まで私たちが水滴のごとくでありそしてそれを智るために一音を書いてきましたが、玲瓏の、玉のように輝き音声の澄んで響くさま、はまさに見性を表す言葉にふさわしいような気がしますね。
661たか:2008/07/25(金) 04:42:31 ID:/6UMQSOM
ただ単にメダルに執着するのではなく、選手の皆さんにはオリンピックやその雰囲気に飲み込まれることなく逆に会場と一つになって自分の競技を楽しんでもらいたいと思いますね。
会場と一つになってその瞬間を全身で楽しむ、真剣なその瞬間の世界こそ、それが、無心の境地であり、玲瓏の境地といえるかもしれませんね。
662たか:2008/07/30(水) 11:13:07 ID:husKkAdo
森内前名人、羽生名人、共に永世名人位を獲得していますが、二人の話を聞くと先人の指し手や定石を熟知しているがゆえにかえってそれに拘らないところに何かを求めているような感じがしました。
互いに自分の思いもよらない手を相手が指してくるといい、それが常に新しい展開を作り出していて、それに対するには定石など今までの知識さえ離れた無心の境地があるのでしょう。
彼らのようにその道を極めて無心、というわけには私たち凡人はなかなかいきません。
日頃の生活では無心になるどころか気づくどころか次々に沸き起こる煩悩で一層で自分で自分を縛ってしまっています。
それを振りほどくための教えが、仏に一切を預けてしまいなさい、これが仏教でしょうか。
悩みも何もかもそのまま預けてしまう、私たち凡人にはいつでもどこでもできて簡単でたやすい方法といえるでしょうか。
663神も仏も名無しさん:2008/07/30(水) 18:27:46 ID:0Gk3Jnq/
音に身を任せる、とはどういうことでしょう?
聞く事ではないですね。
もたれかかるような事でしょうか。

やっと200くらいまで読みました。
徐々に読み進めていきます。
664たか:2008/08/01(金) 11:30:53 ID:Ux6DomLF
663さんへ、
音に身を任せる、言葉で書けばこうですが、実際は言葉では言い表せないですね。
ですから時間をかけて少しずつですが書いてきました。
言葉にすればそれを受け取った方は、それはこうではないかとかああではないかとかいろいろと思い描きますが、実際はそれさえ思わないのです。
音に身を任せると書きましたが見性の直前は実はそのことさえ忘れた瞬間ともいえるでしょう。
聞いてやろうとか、聞こうとか、そういうことも忘れた瞬間です。
自分でこうしてやろう、ああしてやろうなど忘れた瞬間、捨てた瞬間ともいえます。
だから一切を捨てて生まれる前に戻れというのです。
それを解ってもらおうと思ってここにずーと書き込んでいます。
読んでもらい少しでも参考にしていただければと思っていますが、でも実際はそれさえ忘れて実行してもらえればよいなァと思っているのです。
空いたわずかな時間にいつでもどこでもできることですから是非とも実行してほしいですね。

人は誰でも、音は耳で聞いているのだ、と考えています。
確かに耳でも感じているのですが、実は身体全身、又は心で感じているのだという感動があります。
そう考えてみると、見るということも同様に単に目で見ているのではないのだと解ってきます。
匂いなども同様です。
多くの人は観の字を見ると目で見て観察するのだと勘違いをしますが実際は全身で感じることです。
その時のその場所その瞬間をそのまま全身で味わう感じる、これを観というのでしょう。
前にも書きましたが観光旅行の観という言葉はその場所のその瞬間を全身で感じる味わってこそですね、いくら画像や話を聞いて納得したと思ってもそれは観とは程遠いものです。
その全身で観じた瞬間に同時にその心が生じる。

音は自分で聞こうとしていなくてもそのまま入ってきて全身を振るわせている。
あらゆる一切はその一音のようなものである。
その一切を智る最初の切っ掛けこれがまさに見性の時の一音ともいえるでしょう。
それは同時に自己を知ることなのです。
665663:2008/08/02(土) 08:21:50 ID:zEAj8Uvm
おリンを買って始めてみました。
5秒も無理です。「違うなあ」って思いながらやってます。

まずは続けてみますね。
666たか:2008/08/02(土) 20:07:04 ID:fM/t/WHh
663さんへ、
仏リンの響き、30秒ですが、やってみればわかるように誰でもその間最初から何も考えず空っぽにはなれません。
逆に言うとそれだけ常に何かを考えている、それだけ常に頭を働かせているということなんでしょう。
30秒を続けていけば少しずつ段階を踏みいろんなことに気づきながら身体も心もそれになじんできます。
途中うまきいきそうだと思ったりしても次にやってみれば前に戻ったと感じたり、まぁそう簡単ではないでしょう。
でも、実際はこのことが簡単でないことを知ることが本当は最も大切なことです。
自分には到底知ることはできないのではと心底感じる、これに至って初めて、自分ではできないことを知る、つまり、やっと自己を手放すことができる、ともいえます。
釈迦にしろ、空海にしろ、道元にしろ、もちろん親鸞も同様にこれを踏んでいた、踏み越えてきたと私は考えています。
だからこそ、無我や無心だけでなく、他力や自然法爾という言葉が使われるのでしょう。
667663:2008/08/03(日) 11:26:33 ID:adzP1HoZ
>自分には到底知ることはできないのではと心底感じる

色々試してダメでいるので、早いうちに感じそうです。
ただ、それを心底感じて尚、おリンを鳴らす意思が存在するのか。はなはだ疑問ではあります。
それが竿の先から飛び降りるという事でしょうか。

とにかく続けてみます。
668たか:2008/08/03(日) 12:57:16 ID:fGIuJ7rF
まぁ、竿の先から飛び降りるという、そういうことも頭からすっかり無いわけで、そこに至ってみれば、仏に任せるしかないということでしょうか。
後は、今までどうり仏リンを鳴らして手を合わせるだけです。
観音菩薩や阿弥陀仏や虚空蔵菩薩に、どうしてくださいもない、音を鳴らして手を合わせるだけです。

鳴らす意思が存在するのか、との疑問ですが、今までそうしてきたんだからそんなことさえも考えずに、いつも通りすればいいこと。
音が鳴っている間はただただそれをすればいいだけです。
付け加えれば、ゆっくり大きく呼吸、息を吸い込むことでしょうか。

まあ、とにかく続けなければ話になりません。
669たか:2008/08/03(日) 13:33:51 ID:fGIuJ7rF
中尊寺の話題が出て、それを考えてるうちに実家の墓のある寺をヤフーでまた検索しました。
またというのは、以前この寺に60年ぶりに再び梵鐘が戻ってきたことを書いたときにその新聞記事が検索できるのではないかと思ってその寺の名を検索したことがあるのです。
その時検索してみて驚いたのは、自分が思っていた以上にこの寺の写真が何枚もきれいに写っていたことです。
文化財でもなんでもない寺ですが、いろんな角度で写真が撮られていました。
檀家もわずかでこの地区の人のための寺で葬式と墓参りぐらいしかほとんど訪れることがない寺ですが、検索の中にははるばる遠くからわざわざこの寺の観音堂を見るために訪れて、いいものを見せてもらったと賞賛した人が何人かいたことにたことに驚いたですね。
私は小さい時からこの寺しか知らなくて寺といえばこの寺だけでそれ以上には思ってもいませんでした。
でもそれを読んでみると、その人達が言うように、なるほど特徴的な観音堂のつくりになっていることに初めて気づきました。
670たか:2008/08/03(日) 22:25:18 ID:fGIuJ7rF
興味のある方は、 猿沢 観福寺 、で検索してみてください。
その中で面白かったのが、平泉・水沢巡覧 2005年1月9〜10日、という旅行記です。
2日間の旅行記ですが、東京からはるばる来て、猊鼻渓は見たものの、最初の一日目はどう読んでもこの観福寺を訪れるために一日を費やすために来た感じです。
それもこの観福寺にいたのはおそらく5分間もなかったでしょうね。
この旅行記を見ると状況があまりにリアルに目に浮かんできて何度読んでも笑ってしまいます。

ところでこれを読んで初めて気づいたことがあります。
数知れぬくらい行った観音堂ですが、この観音堂全体が岩の上に組まれて立っていたとは考えたこともありませんでした。
まさしく岩と観音堂が一体になっている構造です。
いやいや、岩と観音堂とその中の聖観世音菩薩とひとつに、いやいや、もしかしたら岩の上に立ちこの観音菩薩の前で手を合わせている人も加えて全体が一体の空間を作り出そうとしたのではとだんだん思えてきました。
そういえばこの寺は石清山という名の山号ですのでもしかしたら石清とはこの岩のことを示しているような気がしてきました。

小学校の頃、墓参りの後、この観音堂の前の小さな塔の横に立って観音堂を背景に撮った写真が今もあります。
写真をとった後、観音堂の柱にしがみついて鳴いていた蝉を取ったことを思い出しました。
  閑かさや 蝉鳴く堂は 岩に立つ
この寺の開山は800年前1191年の記録がありますが、その時から今日までズーッと、観音菩薩はこの岩の上に静かに立ち続けていたのでしょうか。
671たか:2008/08/03(日) 23:18:55 ID:fGIuJ7rF
この観音堂から下の本堂の前に続いている回廊も多くの人が書いているように写真で見ると非常に趣がありますね。

この観音堂の後ろの岩山には石仏がいっぱいありました。
どうやらこれは霊場四国八十八ヶ所の仏像だったようで、弘法大師空海の四国からはるか離れて四国に行くことさえも思いも寄らない人達を少しでも救ってあげたいという思いがこの辺境地に寺を作らせたのででしょうか。
そう考えてみると、この観音堂を中心にしたこの岩山全体がひとつの仏の空間ということなのでしょう。

義経は平泉の高館で1188年に死んだといわれていますが、その時生き延びてこの地に立ち寄ったという伝説があります。
開山が1191年ということから見れば3年の誤差があり変ですが、その当時、実はこの寺のすぐ前の小さい川で砂金取りをしていたといわれていてその砂金が中尊寺金色堂にも使われたといわれています。
もしかしたらその当時のその仕事に関連してこの寺もこの地に作られたのかもしれません。
672たか:2008/08/09(土) 19:06:45 ID:rJMhBsLY
663さんへ、
仏鈴を鳴らして何も思わずに30秒間手を合わせる、これだけですが、もしかしたら速く解るのではと思ってからそれからが長かったりします。
室内の静かなところで鳴らして手を合わせるだけでなく、時には外に出て外のその時聞こえる音に身を任せることも大切だと思います。
手を合わせ、ゆっくり息を吸い込むと、その時響いている音と一つになっているのです。
もっとも、手を合わせなくてもよいのですが、手を合わせると誰しも心が落ち着くものですので、まずは手を合わせてゆっくり息を吸い込んでみましょう。

どんなところにいても私たちは音に包まれています。
その一瞬一瞬変化し続けるそれらの音がその時の私たちを作り出し変化させているのです。
仏鈴の音からそれを知ることが多いでしょうが必ずしも仏りんの音だけではありません。
ですから仏りんが鳴っている間に聞こえる多くの音も大切でありぶつりんの音だけを分けて聞こうとすることではないのです。
音に身を任せるとは何かの音を聞こう、聞こうとするのではなく、聞きとろうとするのではありません。
鳴っている音がそのままです。
そしてまた、多くの人が間違っているような、鳴っていない音が聞こえるというような特殊な能力をいうことではないのです。
これがしっりわからないと、いつまでたっても妄想の中です。


673たか:2008/08/09(土) 23:44:44 ID:rJMhBsLY
昨日の開会式からテレビはオリンピック三昧ですね。
期待しないで見ろといわれてもついつい期待してみてしまいます。
どの国の選手もメダルがほしくて参加してるのですからなかなかメダルに届かないのは仕方がありません。
前にも書きましたがとにかく楽しんで自分の競技をやり抜いてほしいものです。
今日一日テレビをつけていましたが次々に日本選手が出てくる競技があってうまい具合に競技が重ならずにできてるんだなァと思ってみてました。
674663:2008/08/10(日) 08:46:10 ID:0+mnfQAy
>もしかしたら速く解るのではと思ってからそれからが長かったりします

おっしゃる通りです。捨て切れません。
上手くいっている時に「よし!」なんて思って思考の上塗りを始めてしまったり。

引き続きやっていきます。
675たか:2008/08/10(日) 23:47:26 ID:MyiVrioj
捨てきろう、などということさえ考えない。
つまり、何も考えない。
これ、音と一つになる最短の方法です。

一度だけでなく、何度も読み返してもらうためにここに書いているのですが、読んでもらえれば解っていただけるでしょうが、皆さんにもう一度生まれたときと同じ体験をしてほしいと思っているんです。
身体という入れ物は今の自分でいながら、心は生まれたときと同じ状態にする、一瞬だけでもいいからそれを心と身体で味わう、思い出すのです。
これが見性だと私は思っています。
だからこそ空っぽというんですよ。
生まれたばかりの赤ん坊は生まれたばかりの身体をした空っぽだし、今見性すれば、今現在の身体をした空っぽです。
空っぽだからこそ何でも受け入れるんです。
余計なものなど入る隙がない、そのままです。
だから、生まれてすぐ赤ん坊は小さな口で精一杯吸い込んだんです。
これ、釈迦の明星ですよ、空海の朝日ですよ。
676:2008/08/11(月) 02:11:27 ID:LgPmO0s0
ちょっと、散歩。
変わった、方法を、提示する人ですね。  風鈴?
うける感じでは、観世音 が好きで、観世音に縁がある人かな?

音 と言えば、人間は、目は閉じることはできるけれど、
 耳は、いつでも、開いていますね。
677たか:2008/08/11(月) 14:46:36 ID:t2YL4mvG
余計なものなど入る隙がない、そのままです、、というよりも、外のものと思われてたものがそのまま入ってた。
内と外の区別がない、仕切りがない、分別しようがない、つまり無分別ということですね。
これを智る、これ即ち無分別の智とでもいうんでしょう。

このことを水滴に例えて何度も書いてきたわけです。
水滴のかたちも、そして水滴に映るあらゆる一切が瞬時変化しているのに、霊魂というものがあって他の一切とは関係なく霊魂だけ永遠に変わらないなどというほうがどうかしてます。
ましてその霊が他の因果とはまったく関係なしにそれ以上に力を及ぼすなどと考えるのは妄想以外にはないでしょう。
678たか:2008/08/11(月) 15:28:43 ID:t2YL4mvG
宝さんへ、
私は観世音が好きだから、仏鈴を、音を知りたかったわけではありませんよ。
実は逆であって、見性、そのときの音を思うとき、なるほど般若心経の菩薩を何故鳩摩羅什が観世音と訳したのかが解ったのです。
多くの人は、同じく鳩摩羅什の名訳といわれる法華経の二十五品の観世音菩薩のいわれにだけ拘って観世音がよくみえていないと思います。
世の音を観じて悟りに至った菩薩つまり観世音菩薩、その別名である光世音菩薩という名もまさしく見性の時の、光と音、に由来する名ですね。
音を知って観世音がわかれば、般若心経は当然理解できるし、般若心経に書かれた、空、も理解できるのです。
679たか:2008/08/11(月) 16:08:00 ID:t2YL4mvG
生まれたばかりの赤ん坊、まだ呼吸していない時点では光に照らされ音に包まれた単なる赤ん坊という名の器(うつわ)なのかもしれません。
ただ光といっても暗い時や場所で生まれることもありひかりよりも音の方が大きな意味を持つかもしれません。
私のかってな推測ですが、多くの場合生まれたとき最初に聞いた音に驚いてというか促されて呼吸つまり産声を上げるのではないのかなぁとも思っています。
身体全体は素っ裸でいながらどういうわけか包まれているような安らぎや喜びがある。
そして同時に稲妻に例えられるような身体を突き抜けるような驚きの音がある。
そこにはこの世に生まれ出た大いなる喜びがあったのではないかと私は思っています。
出からこそ、それを皆さんにも体験していただきたいと思いながらいつも書いています。

古来より多くの名僧が同じ体験をしていると考えていますが、どうでしょうか。
680:2008/08/12(火) 03:17:39 ID:0UX2omNF
>>678 たかさんへ 
    「私は観世音が好きだから、仏鈴を、音を知りたかったわけではありませんよ。」

そうですか。 案外、人間は、自分がなにゆえ、動いているか、わからない、ということも
 ありうる、と、わたしは思ってしまいます。  私の考え方で、他意はありません。

経典の中の、音に関する、記述をずいぶん、勉強なさったようですね。
音と言えば、宗教的には、意外に、オーソドックスで、古代の神道などでも
棒の先にぶどうのようにたくさんの鈴をつけたものを両手に持って、振り、
というものなど、あったようです。

音は、不思議な作用をするようで、脳にも、生理機構にも、影響を与え、
爽快になる音楽、不安になる音、など、映画でも使われますね。

漢字の成り立ち的には、 音 = 日(太陽)、 立つ、 で、明けの明星、 
 にも、おっしゃるように、関係あるかもしれませんね。
681たか:2008/08/13(水) 00:50:29 ID:9SvtoGp5
宝さんへ、
>>678
経典の中の、音に関する、記述をずいぶん、勉強なさったようですね。
音と言えば、宗教的には、意外に、オーソドックスで、古代の神道などでも
棒の先にぶどうのようにたくさんの鈴をつけたものを両手に持って、振り、
というものなど、あったようです

読んでいただければ書いていますのでわかるはずですが、私のつたない大乗経典を調べる中では何故自然の音、鳥の声や小川の音などを記述しているのか結局はわからなかったのです。
最終的には体験そのもので一発で了解、納得です。
これは、あの一休禅師も同じです。
おそらく親鸞もでしょう。

私の田舎ではおそらく今でも子供たちが神楽を継承しているでしょう。
これもまた、前に書いていますので読んでください。
実は神楽のことなど書こうとなどとは思ってもいなかったのですがよくよく考えてみるとあの法華経の24品に妙音菩薩が踊りと音楽で菩薩になったと書いていますので、以前そのこともかきました。
小さな地域ですが、昔は山伏神楽、南部神楽、伊勢神楽などの神楽があったようで当然それぞれの神楽では太鼓や笛のほか、宝さんがおっしゃるように身体や道具に鈴をつけ舞います。
妙音菩薩は舞って仏をいっしんに供養したそうですのでこれでも悟りに至るのだということでしょう。
おそらくこの経典の作者は、音と心と身体がまさしく一体になることをいいたかったのかもしれませんね。
でも、ほとんどの人はいくら何百回法華経を読んでもそのことに気づかないでしょうか。
これこそ、馬の耳に念仏、とでも言うのでしょうか。
妙音菩薩は西の観音菩薩と同じ功徳のある東の国の菩薩だそうで別名を文殊菩薩や毘沙門天のことだという記述もありますが、さてどうでしょうね
682たか:2008/08/13(水) 00:51:41 ID:9SvtoGp5
このように音に関連して書いてきたわけですが、結局はいくらいろんなものを読んでも自分ではっきり納得しなければ、というところがあります。
法然他道元にしろ親鸞にしろ比叡山でいくら経典を読んでもわからないといい山を降りてしまいます。
知識だけ修得すれば納得できるものではないのですが、何もいわなければいい加減な話だけが仏法だと思われてしまいます。
ここを読んでいただいた方が見性してほしいのはもちろんですが、もしなかなかそれができなくとも巷に広がっている間違った捉え方をしてほしくないという思いもあってこれまでずっと書いてきました。
もし見性された方がいた場合でもここを読んでもらい是非とも自分と照らし合わせていただき悟りの後の修行に役立てていただければと思うのです。


683たか:2008/08/13(水) 09:55:48 ID:9SvtoGp5
681訂正
 毘沙門天ではなく、吉祥天又は弁財天です。
法華経の妙音菩薩品には妙音菩薩のことを文殊菩薩が尋ねているところもあり妙音菩薩と文殊菩薩が同一だというのも少し変ですが、まぁあまり拘らなくてもいいでしょう。
妙音菩薩は一心に何かに打ち込むことで無我の境地にいたることができるのだと伝えたいのだとも思えてきます。
ただ、音楽や踊りをすることだけで見性するかどうかは疑問ですが。
かえって、単純な一音の方がハッキリすると思います。
684:2008/08/14(木) 02:42:23 ID:qBgpI5wS
>>681 たかさんへ
音 ということであれば、
日本人に起こることであれば、アメリカ人にも、起こるでしょう。
モンローという人で、臨死体験者らしいのですが、
〜音響研究所というのをつくっています。
特殊なリラックス法と音、その周波数による違いを研究しており、(このへんが白人)
マクモニーグルなどが、ここの特待生とのこと。
日本にも、独自に開発し、すでに密かにあるかな?    ちょっと脱線でしたか?

比叡山に行ったとき、「 天鼓雷音如来 」という如来をまつっているのを
見ました。 人によっては 「 雨乞いの為の神様? 」と、推理なさる人も
いるでしょう。 
685たか:2008/08/14(木) 16:15:46 ID:ayCxG0ei
お盆はオリンピック三昧ですね。
勝つだろうと思われていた人が負けて、思いもよらない人が勝ち進んでなかなか予測が当たりません。
今日の男子体操では内村選手が鞍馬で二度の落下でもうメダルは駄目だろうと解説者が話し、おそらく本人もそのように思ったかもしれませんが最終的に銀メダルになりました。
緊張しいつものようでなかったそうですが鞍馬の失敗でかえって緊張がほぐれ素直なというか捨て身とでも言うのか、後の演技はすばらしいものでした。
競技が終盤になるにつれ他の選手はメダルを意識したせいかどんどん失敗や落下をして順位が落ちていくのがテレビの画面でリアルに映し出されてました。
よく平常心を保つことといわれますが、きっと選手の誰もが心の中にそれを念じたでしょうが、周りの状況がどんどん変化し、歓声もどんどん変わっていき順位も変わっている中で、平常心を保つことがいかに難しいことか見せられたような気がします。
平常心、言葉ではよく言われますが、どんどん変化する中でそれを保つことがいかに難しいか、平常心という言葉がでれば出るほど平常心でなくなるかもしれません。

男子の柔道はまさかと思われる相手に連日負けています。
当然私は常に日本人を応援しているのですが思いもよらない段階で負けてしまってます。
優勝候補一番の日本人を相手に捨て身でしゃにむに攻め込んでくる対戦相手にそれをはかっていて動きを考えているうちに勢いで一本負けしているようにも見えます。
まさにオリンピックという一発勝負の難しさですね。
686たか:2008/08/14(木) 17:58:25 ID:ayCxG0ei
宝さんへ、
私の言う見性はおそらく生まれた瞬間の赤ん坊が体験したものと同じだと考えてもいいでしょう。
生まれた赤ん坊に戻るといっても赤ん坊に戻れるわけもないわけで、実際は今まで溜め込んでいた自我というものをストンと落とす、払い除けることだと思えばいいのです。
つまり自我を捨てればこの身でありながら赤ん坊の状態、無我、無心、空の状態でしょうか。
これを先人は、一切の万物草木悉有仏性、あらゆるものが仏性によってまたははたらきで成り立っているのだと教えているのです。
ですから仏教を信じようが信じまいが、仏教を知ろうが知るまいが、我々一人一人仏性の現れであるともいうのです。
ですからアメリカ人だろうがアフリカ人だろうが日本人だろうが関係なくまた僧侶だろうが一般人だろうが仏性のあらわれに違いはありません。
見性、悟りとはそのことをはっきりすることともいえますから、誰もがそれを観じることができるといえます。
よく絶望のふちにいた人が雲の隙間から差し込む光などで覚醒する話がありますが、それは自我を捨て去った瞬間に光や音が切っ掛けで覚醒するのであり、それは東西を問わないでしょう。
でもここからが大事で、これを大乗仏教的に仏法と見るか、つまりあらゆる一切がその働きの中にあると見るか、西洋の一神教のように神がいて神の啓示でありその神を信じることだけが今の自分が救われる唯一の方法だと見るのかという大きな違いがあります。
大乗仏教、仏法は、あらゆる一切が常に変化し実体を持たないと観ています。
実体のない働きが常に変化しながら今そん瞬間を現しているということで、あらゆるものに我というものがなく、言葉を変えれば他のあらゆるものと一体となって変化し続けていてると観じとるのです。
一方、一神教は絶対神いて、その神を信じることだけが自分たちが救われるただ一つの方法だと信じることですね。




687たか:2008/08/14(木) 18:07:12 ID:ayCxG0ei
例え同じような体験をしてもまったく違う教えになってしまいます。
よくよく観ればあらゆる全てのものが常に変化しているのであり、何一つ変化していないものはありません。
あの宮城の地震で崩れた山でさえ誰も一瞬で形がなくなるとは思ってもいなかったですね。
体験の後の先人の教えを自分の見性体験と照らし合わせて深めていく、それを悟りの後の修行というか、何度も書いていますが、大乗経典、先人の教えは実は見性の後に本当は身にしみて心にしみてくるのです。

ですから、誰もが体験でき悟れるのだ、というのが大乗という意味のひとつでしょう。
でも普通に生活している中ではなかなかそのように気づくことはできないようです。
だから多くの場合、師を求め師のもとで仏法を学ぶのでしょう。
688たか:2008/08/15(金) 00:03:35 ID:5p31oaeK
読んだ人は私が書いた一音をなんか特別の意味のある、例えば特別の周波数とかアルファ波とかとか考えるでしょうがそれは間違いでしょう。
だからその一音をいくら調べて何か特別のものと研究してもおそらく無駄です。
将にやってることが、捨てる、と反対のことをやってるのです。
これが解らないうちはいくら経典を読み込んでも無駄で、道元だったか誰かが言ってるように、北だったか南だったか忘れましたがそちらに行こうと向かいながら、反対方向に舵を切ってるようなものです。

如来の名前はいろいろありますがそれらの名前の多くに光や音に関連した文字が見られます例えば無量光寿、大日如来などや、雷や稲妻に関連したものも多いですね。
それはそれらへの畏敬の心や恐れの意味もあるでしょうがもっとも大きな点はおそらく見性の時の印象がその名前に大きな影響をしてるのでしょう。
前にも書きましたがどの如来も無量の光の如来です、薬師如来もです。
私は曼荼羅のことはよくは知りませんが中央にいる毘盧遮那如来、大日如来、それをかこむ如来や菩薩も、それらをさらにかこむ明王なども全てが一体ひとつであり、さらには私たち衆生まで巻き込んであらゆるものが一体であるという教えでしょうか。
きっと毘盧遮那仏の光が届かないところはないのでしょう。
689たか:2008/08/15(金) 00:15:44 ID:5p31oaeK
>>675で書いた内村選手が鉄棒の演技のとき鉄棒から手を離すコバチなどの技が3連続で続いた時、成功するたび会場内が三回連続でどよめきました。
内村選手もそれを感じたといっていましたが、それこそ彼と彼の演技と会場が一つになったということでしょうか。
690:2008/08/15(金) 05:36:47 ID:O2OZlmJq
>>688「読んだ人は私が書いた一音をなんか特別の意味のある、例えば特別の周波数とかアルファ波とかとか考えるでしょうがそれは間違いでしょう。
    だからその一音をいくら調べて何か特別のものと研究してもおそらく無駄です。」

まさか。 そのようなことは、杞憂でしょう。 仏鈴にそのようなことを思うかたは
いないと思います。

あるいは、昨日述べた、アメリカの、〜研究所が、そういった研究をしていると、
思ったのであれば、それは、違います。 興味のあるかたは、調べてみると、
よいでしょう。
ここで、おもしろいのは、そのリラックス法で、暗黒の中で、体温ぐらいの湯に水平に
つかり、(塩分とかも入ってる?・・ 詳しくは知りません) その上で、特殊な方法で
音を使う、のです。

気づいた人もいるかもしれませんが、これは、赤ん坊状態というより、さらに、
母親の揚水のなかの状態、をリラックスと、想定しているのかもしれません。

私は、彼らの研究は、大いに、みのりあるものとなると、みています。
捨てるということも、捨てられるものが、捨てるものに。



 
691:2008/08/15(金) 06:41:51 ID:O2OZlmJq

でも、考えてみると、母体、羊水、そのなかに浮かんでいる存在、というのは
物質的にも、精神的にも、究極的、世界との一体化、 とも、見えなくもないですねぇ。
ある意味。
692たか:2008/08/16(土) 13:33:12 ID:1NgqB1GP
連日、オリンピック三昧ですが、それにしても日本の女性の活躍はすばらしいですね。
見ていて真剣勝負の緊迫感の中にどの選手も輝いて見えます。
テレビを見ていて声援しても届かないのですがかってに声をだしていて、、勝ったときやうまく演技ができた時など思わず拍手してしまいます。
でもそうすることで気持ちがスッキリしますね。
それにしてもその競技の今のできる最高の技術や演技がライブで間近に見れるわけで、演技の凄さもさることながら彼らの心の動きも会場の雰囲気と一緒に伝わってきて見ている私たちにも感動を起こさせます。
特に絶望の窮地に至った人がそれを跳ね返して勝ち、メダルやよい成績をとったときには敵味方の区別なく中国の観衆もおもわず大きな拍手をするところを見るのもの以前危惧されたことが払拭されたようで快く感じますね。
693たか:2008/08/17(日) 00:48:54 ID:armkRsds
男子100メートルで9.6秒台の世界新がでたそうでテレビではおおさわぎですが、テレビで騒ぐほど興奮しないのは何でしょう。
テレビで見る限りトップの選手はダントツで最後の2,3メートルは完全に遊んでた感じです。
他の人とスタートは同じなのに一歩踏み出すごとにどんどん差が開いていくんですから身体能力が凄いんでしょうか。
でもどうも私は興奮しないですね。
ただ速さだけ追い求めてるのを見るのが飽きてきたんでしょうか。
例えばよい靴を履けばみんな記録が伸びるとか、競技場の地面の具合が記録が出やすいとか、水泳で言うとこの前までもめてたようにスピード社の水着を着たとたんに着た人全員の記録が大幅に伸びたように。
記録の更新は凄いことだけれどそういうのばかり聞いてるとそれに馴れっこになっちゃってね。
これまでの凄い努力は賞賛するけれどただ単に記録が凄いと騒いでもどうも自分の心に響いてこないんだよね。

逆に昨日の男女それぞれの卓球の団体戦ははじめから終わりまで緊迫の連続で凄いラリーの応酬で凄い試合だと思いました。
まさに双方力の限り能力を出し切ったような試合でした。
100メートルの記録を塗り替える能力は確かに凄いけれど、一打で勝敗が決する瞬時に互いに球に反応してそれもカットしているかどうかを見分けて打ち返してラリーする選手の能力もまた驚きでした。

真剣に精一杯というかぎりぎりのところで取り組んでいる人の姿にはなんか心が動かされますね。
694たか:2008/08/17(日) 14:23:53 ID:armkRsds
試合後、メダルを取った人のインタビューがあって、その言葉や様子に心が動かされます。
特に二度目の金を取った柔道の各選手や水泳の北島選手、女子レスリングの選手など今度のメダルは一度目とは比べようがないほどいろんなものがぎっしり詰まっていると言い、湧き上がってくる涙をこらえていました。
各選手インタビューの開口一番に応援してくれた人への感謝を言います。
それは単に普通のインタビューで言われる儀礼の意味でないですね。
試合前など彼らがこのオリンピックに至るまでの様子が放送されますがこれらの人たちのほとんどが大きな挫折を味わってきた様子がテレビでながされます。
それを受けて試合を見て、彼らの試合後のインタビューを聞くと、ことばだけでなく震えて話すからだ全体からそれが伝わってきて、さらにまた感動します。
言葉にならない言葉があると改めて感じます。

私の言っている一音はあまりの単純なことですが、実はなかなかというものです。
これは座禅や念仏でも同じです。
何故なかなかできないかというと、自我を放して初めてという過程が必要だからです。
だから気持ちよい状況を作り出して心地よい音を響かせればリラックスできてそれで良いというのではありません。
挫折とは行かないまでも自分ではできない限界を思い知って感じ取ってやっと今まで積み重ねていた慢心の心や自己中心の心がストンと落ちるのでしょう。
これを心身脱落とでもいうのでしょうか。
ですから自我をそのままにして慢心をそのままにしていくら、赤ん坊に戻った、心身脱落した、悟った、などといってもただ気持ちがいいだけでしょう。
当然リラックスすることは大切ですから、それが駄目だというのではありませんよ。
ただ多くの先人が言うものとは違うだろうといいたいだけです。


695:2008/08/20(水) 01:54:31 ID:yucahWLI
そうですか。
いや、興味がわかなければ、それでいいんです。音の研究所ということで、紹介しただけ
ですので。たかさんと、彼等は、馬が合うかと思ったのですが、合わなかったのですね?
ちょっと、彼等の立場から見て、バランスをとり、補足して、それでこの話題は、終わりに
します。 こういう考え方もあるくらいに、思って下されば幸い。


>>694 「 ですから自我を そのままにして慢心をそのままにしていくら、赤ん坊に戻った、
       心身脱落した、悟った、などといってもただ気持ちがいいだけでしょう。」

自我をそのままに、慢心をそのままに、手をつけず・・    静かさ。
そうであれば、あらゆるものに、死がおとずれるように。 むこうから。  
取り上げることは、ほこりをわざわざ、舞い上げる行為かもしれません。

なんとかしようとすると、それが,、より強烈に仮面をつけて、生き延びるのかも
しれません。 それが夢の展開、をつぎつぎに創っているのかもしれません。

先人の権威を、うちやぶって、きたのが、本当のところと思います。
一人一人の先人が。 オリンピックのように。 より正確に、より平易に。
696:2008/08/20(水) 01:56:52 ID:yucahWLI
>>694「ただ多くの先人が言うものとは違うだろうといいたいだけです。」


 彼等は、違う部分もあり、方向も、それています。 今のところは。
 ですが、観音的現象は、彼等によって、 可能になりやすいでしょうし、
 ある種のスタッフが入れば、大日、明星にいたる変貌をとげる可能性があるように、
 思えます。もともとモンローは、観音的現象、音と光の一体化、バンなどは、ひんぱんに
 起こっていた人であったということです。(もちろん、てんかん、とかとは違って。)
 設立者の彼は、すでに亡くなっていますが、運営は娘さんに受け継がれているとのこと。

 さて、以上で、彼等の話題はこれで、終わりにします。
697たか:2008/08/22(金) 12:08:30 ID:U6yk++vn
よく何度も悟ったとか、何度も体験したとか言う人がいますが、わたしはそういう人の話は疑っていますね。
私が言っている見性、一音はまさに一音であって、一音という以外にないものです。
それは言葉のように何かを直接に意味するものではありませんので、言葉ではなくといえます。
しかしながら、同時に、維摩経に「仏は一音をもって法を説く」という有名な言葉があるように、この一音こそ仏法の真髄、出発点だと思います。
言葉ではないのに、言葉よりはるかに大きな意味を持つ一音、この一音から無常も、無我も、無分別智も、慈悲も、涅槃寂静も、生きているとはどういうことかも、仏法の全ての教えが発せられたといえます。
だからこれを言おうとしてもとてもとても言い尽くすことはできないというのです。
体験自体は単なる一音ですが、先人の全人生をかけて残した教えや考え方に触れた時その教えの深さに気づかされ、引き込まれ、感動するのです。
頓悟というように見性は俄かにさとりに至りますが、実際はその体験と先人の教えがひとつになって初めて大悟といえるでしょう。
先人の書き記したものが今私に至り私の心にしっかりと入りましたという感動があるはずです。
だから、気持ちよい体験をしたから仏法がわかったなどと思い込むのはまだまだはやいでしょう。
経典を読んでまだ理解できないのなら体験そのものを疑う必要があるかもしれません。

698たか:2008/08/22(金) 13:46:30 ID:U6yk++vn
親から子に伝わり、子が孫に伝える、当たり前のことですがこれがもっとも基礎になることですね。
同じように師が弟子に伝え、その弟子も孫弟子に伝える、これもふつうに大切なことです。
でも心は必ずしも直接というばかりではないようです。
はるかたとえ昔の顔も名前も知らない人でも大きく今の自分の心に響きこんでくることがありますね。
まさに時空を越えてという感じがします。
ですからそれをなんとなく知っていて先人は書き残そうとしたのかもしれませんね。
当然その時の同時代の人にも知らせたいという思いが強いのはもちろんですが。

この自分が得た喜びを人にも感じてもらいたいという思いは実に大切なことだと思います。
この世は苦だと思う人がいてその人が自分の子に苦を味わわせてやろうなどと思って子供をつくる人はいませんね。
今在ることに喜びを感じて生きていく、そしてその喜びを次に伝えていく。
生の喜びを知ってもらい、いい人生をおくってもらいたいと思うのが誰しもですね。
これを外れたらすべてが味気ないものになってしまいそうです。
699:2008/08/23(土) 00:50:17 ID:DbdcQjTp









>>697
 なるほど。 それもよい考えですね。 でも、そうすると、「白隠とか、青野敬宗老師(面
白い人)とか、インドのヨガ行者、とか ラマナマハリシとか、・・」可哀想なことになって
しまいませんか? それとも彼等は何かの病だったのか? ブッダウイルス病とか。
シーザーもある種の病だったと言うし、インドのkという人は、散歩してて、いきなり、
後ろに、垂直に倒れる・・病・・(危なくて彼運転の車になど乗れん) とも考えられますね。

音、のど、のことなら、それほど大仰なことでもなく、
せっぱつまった受験生などで、よく、何度も、起こり、自分でも原因がわからず
報告するということは、みかけるようです。

このあとは、人により意識というもの、の研究になるかもしれませんが、
結論、決めつけ、を持ってしまっては、なにごともそこまでになってしまい
つまらないのではないでしょうか?

例えば、インドのkは、(あの人の論を直接的「方法」だと思ってはいけないのですが)
ここからの人であり、維摩より、はるかに、現代の9.51秒/100mの人だと、私は思います。
より正確に、より平易に、より精妙に、のメダリスト、という意味での。
今、kを、超えられることを伝えられるでしょうか?  維摩に? 
それでも、さらに、k をも超えて、人は行くでしょう。 時間は問題になりません。

現在497kB。 残り少ないのに、いつも3レス書かれるのに2レスなので、
「要求」されてるのかと思い書いてみました。  喜び・それは素晴らしいですね。1.5KB。
700神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 20:44:26 ID:uNKySwwN
なぜ一休にしろ、Kにしろ男性ばかりなのだろう。
701神も仏も名無しさん:2008/08/23(土) 21:00:49 ID:uNKySwwN
あと、まれに見る良スレなのでできれば続スレ希望です。
702たか:2008/08/24(日) 13:01:10 ID:8tivvPzN
あのね、見性とは今在るのをそのままですので、見性の時にひっくり返ることなどないのです。
それこそ妄想を振りまいてるような話です。
維摩経の維摩居士に限らず大乗の経典は人を導くためにそして教えを伝えるためのたとえで書かれています。
ですから釈迦及び弟子たち、菩薩などを登場させそれを時に批判しながら大乗の悟りというものを読者にうまく筋書き立てて面白くかつ解りやすく書いています。
登場する維摩居士もモデルはあったでしょうが架空の人物です。
この中には観世音菩薩は登場しませんが、もしかしたら維摩という名の観世音菩薩かもしれませんね。
前にも書きましたが、この維摩経の内容及びこの作者は優れていると思いますね。
703たか
700さんへ、
よくは解りませんが、釈迦をはじめ男は女より馬鹿だからといえますかね。
それは冗談ですが、女性の特性もあるかもしれませんが、女性は男性よりどちらかというと現実的なのでしょう。
また、昔から女性は一定の年になると自分の意思に限らず結婚をし、家庭に入り子供をもうけます。
男のように自分だけで自由に何年も好き勝手に悟りや真理を追究する状況にはないのでしょう。
家庭に入った成人の女性の多くは自分ことより家庭や子供の日々の世話に追われています。
これはこれでもっとも大切なことですが、真理を追い求めるような状況にはなかなかならないでしょう。
一方釈迦をはじめ僧侶の多くは幼いときから仏門に入り日々悟りや真理を追究しているわけでその環境の違いが大きいのかもしれません。
自分ならば真理を得て人を救えるのだなどと釈迦をはじめ妄想?をはじめたりしますが、最後は自我ではどうにもならないところに至り、諦めの状態に至ります。
自我、それが落ちて、ありのままに喜びがあるとやっと気づきます。
ただ仏性、真理は女性男性の区別などあるわけなどないわけですので女性が悟らないというわけではありません。
>>698で書いたように、悟ってみれば苦しみの中にいると思っていても実は生きる喜びの中にあるわけでそれを伝えたいという思いは女性の方が男よりも無意識的に本能的に強くあり自然に振舞っている分だけ気づきづらいかもしれません。
胸の奥底にあるこのこころに気づかずに迷い悩み苦しみますが男女ともに自我強くなればなるほど振り回されてそれから遠くなって気づかずじまいになってしまいますね。