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また、余談になるが、(道場ちょこっと覗いてみましたがw)、
誰でもが、(特に2chでは)、理屈っぽい教義に走り、
論理としての普遍性をもって語ろうとする。(本スレもそうでしたねw)。大切なことだと思う。
釈尊は聡明な人物であったろうから、(菩提樹下ではまだぼやけていたかもしれないが)、
批判・反論をきちんと受け流すだけの思索があったろうと思うし、45年間の教化は、
そうした、自己の思想の点検整備の日々ではなかったかと妄想したりもするw
しかし、絶対に忘れてはならないことが一つある。
それは、仏教は、シッダッタ自身の苦悩が出発点であったということだ。
出発点は、慈悲でも運命でも神々の要請でもなく、
「人は皆、病み、老い、そして死んでゆく。私もまた、年老い死んでゆくだろう。
輪廻し、新たに生を受けても同様に苦悩することであろう。
なぜ、人は・・・いや、オレは、老病死を厭うのか?避けられぬことなのに・・・。
避ける方法はないだろうか?この苦悩を消し去ることはできないだろうか?」
ではなかったか。
そして、「ああそうか・・・『オレがオレが』と執着するから苦として受けとめてしまうのか・・・」と・・・。
どこかで書いたような気もするが、
縁起も無常も無我も苦も、遠いどこかの縁起じゃない。知らない誰かの苦ではない。
私自身が無常であり、無我であるのだ。私自身が縁起しているのだ。
この視点を忘れるならば、どれだけ精緻な論が重ねられようと、
無味乾燥な呪文にしかならない・・・。