■原始仏教談話室 その4■

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>>550
 >細胞分裂(発生)や、食事によって成長することに関しても、
 >識が深く関わっているという印象を受けるのだがどうなんでしょう?

特に心経等は、学者・僧侶問わず様々な人が、解説書≒生き方指南書を記している。
そのように、現代へ・・・いや、自身の生き方へ敷衍させることを否定するつもりは毛頭ない。
原始仏典を座右の銘として生きることは素晴らしい。
また、仏教【的】視点を利用して、現代の様々な事象へ斬り込んで行くことも、
有効で有意義なことであろうと思う。寧ろ大いに各分野の人にやっていただきたい手法である。
けれども私は、
仏教の理論(理屈)を、そのまま現代へ持ってくることは良くないと思っている。
(特に古代の思考は)時代背景抜きに語ることは出来ないと考える。
同様に、現代の価値観・知識等を仏典に投射することもまた、
細心の注意を払って、慎重になされるべきだと考える。
輪廻や無色界、四禅、神通等等等w

  (最新の科学的知見との整合性を探るという作業も面白いだろうし、なされる価値はあると思う。
   現代においては、説法の際の武器の一つとして、かなり効果的なものになるだろうとも思う。
   しかし、それはあくまでも、仏教の周縁の周縁でしかない。プラスアルファ以上のものではない。
   たとえ、仏典を再編纂するとしても、本文ではなく新たな註として加えられるものであろう。)
5522/2:2006/06/08(木) 14:45:33 ID:Y4N/7cKg
また、余談になるが、(道場ちょこっと覗いてみましたがw)、
誰でもが、(特に2chでは)、理屈っぽい教義に走り、
論理としての普遍性をもって語ろうとする。(本スレもそうでしたねw)。大切なことだと思う。
釈尊は聡明な人物であったろうから、(菩提樹下ではまだぼやけていたかもしれないが)、
批判・反論をきちんと受け流すだけの思索があったろうと思うし、45年間の教化は、
そうした、自己の思想の点検整備の日々ではなかったかと妄想したりもするw

しかし、絶対に忘れてはならないことが一つある。
それは、仏教は、シッダッタ自身の苦悩が出発点であったということだ。
出発点は、慈悲でも運命でも神々の要請でもなく、
「人は皆、病み、老い、そして死んでゆく。私もまた、年老い死んでゆくだろう。
輪廻し、新たに生を受けても同様に苦悩することであろう。
なぜ、人は・・・いや、オレは、老病死を厭うのか?避けられぬことなのに・・・。
避ける方法はないだろうか?この苦悩を消し去ることはできないだろうか?」
ではなかったか。
そして、「ああそうか・・・『オレがオレが』と執着するから苦として受けとめてしまうのか・・・」と・・・。

どこかで書いたような気もするが、
縁起も無常も無我も苦も、遠いどこかの縁起じゃない。知らない誰かの苦ではない。
私自身が無常であり、無我であるのだ。私自身が縁起しているのだ。

この視点を忘れるならば、どれだけ精緻な論が重ねられようと、
無味乾燥な呪文にしかならない・・・。