■原始仏教談話室 その4■

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409素人
>>393
聖なる神通も、聖でない神通も、どちらをも説いた。中では後者が最上である。
常住論を三つ説いた。中では三つ目が最上である。


全てこうした構図だろう。最後の最上のものだけが仏説なのではない。
『説かれた』ということで言えば、全てが説かれている。如来は一切知者なのだから。
一切を了知せる世尊を賛嘆している。 (→ 最上のものを説いたから賞賛しているのではない。)
(だから舎利弗も、「私も同様に一切を知ったので、世尊が並ぶべき者の無い方であると言えるのです。」と言うのだ。)

常住論の部分は明らかに異質だ。
なぜ唐突に常住論が入らなければならないのか?(ここが、挿入・誤った混入と思わせる理由ではあるが・・。)
なぜ、断滅論等は述べられていないのか?各生を想起するという神通絡みで紛れ込んだのかもしれない。
だとするなら、仏説かどうかは問題ではない。明らかに編纂者の誤りであるのだから。
しかし、もし故意に挿入されたもの(或いは舎利弗がそのように言った)とするならば、
やはり吟味せざるを得ない部分であろう。

だとしたならば、やはり編纂者の意図を推量せねばなるまい。
編纂者の意図がどこにあったのか、明らかに誤った混入であるのか、あなたはどう見ているのか?
私は、(私には判断がつかないので)、
たとえ誤った混入であったとしても、代々の継承を可能にしてきた解釈が存在するであろう、
と考えているわけだ。なぜなら、梵網経(沙門果経)では斥けられている説なのだから。

疲れてなければ、今日の晩にでもまたレスを入れようと思う。(IDは変わっているだろう)
片山さんのパーリ仏典第2期の1と5も注文した。届いたらチェックしてみようと思う。

一連の流れの中での問題点は、この経の構成をどう解釈するか、
という所へ集約するであろうと思っているが・・・。