宗教はいらない。自分の内に神は存在する

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892風の主:2006/04/08(土) 14:21:31 ID:XowklCXo
我々が目にしているもの、触れることができるもの、物体や物質と言われるものは、例外なく「人の思考」から生まれてきているのです。
それらは、当初「実態の無い想像」から始まっているのです。これらの事実は、最近の科学分野でも、医学分野でも証明されてきています。
要するに、現世と呼ばれているものは「思考の顕在化」にすぎないということです。
893ガストリア:2006/04/08(土) 14:26:26 ID:Ej8uvaWF
人間だけではなく、他の知覚生命体でもいいんですよね。
894風の主:2006/04/08(土) 14:29:39 ID:XowklCXo
ということは、「思考できれば、顕在化する」のです。これは例外などありません。
善悪の判断などありません。
ここまででお分りでしょう。犯罪は起こそうと思うから発生し、そのことに思い巡らせたことがあり人を引き寄せるために、悲劇がうまれるのです。
戦争も、飢餓も、地震も、台風などの災害も全てです。
895ガストリア:2006/04/08(土) 14:37:25 ID:Ej8uvaWF
892の考えは善悪のない世界混沌とした世界に人間が線を引いて分かりやすく分けたということですか。
896風の主:2006/04/08(土) 14:38:01 ID:XowklCXo
思考がわかるにつれ、私は恐怖しました。
強姦したければできる、人を殺したければできる、盗みをはたらきたければできる、戦争したければできてしまうのです。
しかし、同時にコントロールできることも知りました。なぜそれが可能か。人が神だからです。
897ガストリア:2006/04/08(土) 14:46:13 ID:Ej8uvaWF
神とは愛であり宇宙であり法則であり全ての生物ですよね。
898風の主:2006/04/08(土) 14:54:50 ID:XowklCXo
人が「神の子」と言われるのはこのためです。
あらゆる物事を支配することさえ、可能です。

そのためには、「神を知る」こと。「神とともに生きる」こと。「思考に支配されないこと。逆に支配すること」
これが大切だと考えます。
ですから、ある意味、成功哲学のマーフィーや、ナポレオンヒルも真実だと言えるでしょう。

それと、言葉ですが、これも顕在化します。なぜなら、その前にかならず思考があるからです。
ですから、「こうだ」と言えばそれを体験できてしまうのです。
899ガストリア:2006/04/08(土) 14:57:48 ID:Ej8uvaWF
ちょっと用事ができましたのでまた後で。
900風の主:2006/04/08(土) 15:00:18 ID:XowklCXo
ですから、言葉は力にもなり、癒しにもなるのです。
選んで使わないと、とんでもない経験をすることになるのです。
さらに、言葉にすれば、それがその人の真実となり、言葉にしたことを自ら経験することになるのです。

支配するな。押しつけるな。決め付けるな。と私がいうのは、自らを縛る足かせになることを知っているからです。
901名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:02:45 ID:J0/7/Xfw
>>900
あなたの理解も、またひとつの道に過ぎないんですよね。
902名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:03:35 ID:y2rPNJeM
>>886

自己満足のためなら、それでいいでしょうけど。
自分の周りには他人が居る。具体的に言った方がいいでしょうね。
例えば学生だとする。親友と励ましあって受験勉強をがんばっているとする。
それで、ある時ふと親友と自分と志願する大学と学部が同じだということに
気づいたとする。つまりは、望んでもいないのに敵同士になっていた。

そういう場合「神は愛だ。人は愛し合わなければならない。」という理想論
ではどうしようもない。「精神世界と現実世界は無関係」と切り分けたら、
偽善者でしょう。「人は愛し合いたくても、それが許されないことがある」
という現実に直面した時、自分の信念が本物か、それとも偽善かがわかる
のです。理想と現実の隔たりの中で悩みぬく以外に、「体験」も「実践」も
ないと思うのですけどね。矛盾に目をつむったり、矛盾と対決することから
逃げている内は、マ○ター○ーションにすぎませんよ。

「神とは愛であり宇宙であり法則であり全ての生物です」という信念から、
具体的にどういう行動が生まれるのでしょう。例えば、生物を殺して食べる
という行為とどう「妥協」するのですか。
903ライト:2006/04/08(土) 15:10:37 ID:qNOw1oAC
902さんへ
良い問いです。私もそこでひっかかっています。
904名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:12:10 ID:9NZGbGdb
朝起き会の奴ら最低
905名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:17:34 ID:J0/7/Xfw
肉食などしなくても、人は生きていけます。
906風の主:2006/04/08(土) 15:17:34 ID:XowklCXo
愛とはなんであるか。
確かに人はその体を維持するために、様々なものを殺して食します。それが罪だというならば、罪でしょう。
しかし、我々が生きる目的はそのことを病むことではありません。
現世だけを見るから、そういう発想になるのです。
何かを食すために殺したとしても、神はゆるしています。だから、存在できるのです。
907名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:21:17 ID:y2rPNJeM
>>906

神が許すか許さないか、誰が決めるのですか。
あなたが「神」ならば、前にも別スレで言いましたけど、石をパンに変えて、
飢餓で苦しむ人々を救ってあげてください。
908風の主:2006/04/08(土) 15:26:12 ID:XowklCXo
神の許しは「存在すること」です。生きつづけられるということです。
ただし、死が罰ではありません。死は、現象であって、罰ではないのです。

あなたが石をパンにかえればいい。あなたも神ですから。
909名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:39:28 ID:y2rPNJeM
>死は、現象であって、罰ではないのです。

ということは、殺人は許されるということですね。
全くの魔道としか言いようがありません。
あなたは動物以下です。
910名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 15:44:42 ID:J0/7/Xfw
>>909
あなたの。その発想の方が恐いんですが。。
誰が許して、誰が許さないっていうの?
911風の主:2006/04/08(土) 15:52:01 ID:XowklCXo
909さん、許されているから、やっていいわけではないのですよ。
暴力など断じて認めません。
912名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 16:05:16 ID:wVcPhNXw
>>902
「人は愛し合わなければならない」と同時に「誇れない」
「私が行いにより義人だ」と認めてくれる神はいない。
しかし、「誇らない善い行い」は認める。

「私が親友に試験に勝った」という誇りと、「親友のために試験に落ちてあげた」
という自負を認めない。誇らず善い行いができた人は認める。

たとえば勝負の世界で、互いにがんばって勝ち負けをつけたとしても、それは命の
世界では一時的な現象に過ぎない。この世の現象とは別に、勝ち負けとは別に、負
けた人も相手を憎まず愛し、勝った人も自分を誇らず相手を愛する。愛は永遠、地
のものは有限。

自分が義人と認められようとして、神様のために勝負に負けてあげましたと思う人
は善人ではなく、勝負に勝ち誇る人も善人ではなく、この世の現象を越えて、勝っ
ても負けても互いに人間として愛し合うこと。
913902:2006/04/08(土) 16:17:47 ID:y2rPNJeM
>910

私が「飢餓」を出したのに対して、風の主さんが「死は罰ではない」という
ことを言い出したので、「餓死しても放置しておけ」->「何なら、殺しても
同じこと」と連想したのです。
ちょっと早とちりだったかもしれない。

彼とはまともに論理だった議論ができたためしがないので、議論を続ける気は
ありません。
914902:2006/04/08(土) 16:28:30 ID:y2rPNJeM
>912

私も同意します。俗っぽい言い方をすれば、有形無形の「見返り」を求める
善行はすべて偽善だと思います。

>勝ち負けとは別に、負 けた人も相手を憎まず愛し、勝った人も自分を誇らず
>相手を愛する。

受験ならば、そういうことも可能かもしれない。しかし、やむなく殺しあう
場面だってあるはずです。バガヴァッド・ギーターを読まれたことはありますか?
時代背景の違いはありますが、クシャトリヤの使命とは、戦って敵を殺すことだ
と言われると、その通りのような、そうではないような複雑な気持ちになります。

実際に、自分が戦場に居て、相手がいきなり軍刀を振りかざして襲ってくる。
そういう場合、「善悪」をわきまえてから行動することは不可能です。「自己防衛
は許される」という神学的な「模範解答」は、相手を倒して、きれた息が安らかに
なり、余裕を取り戻してからの「解釈」にすぎません。
915名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 16:34:22 ID:5RZ+YRmN
今まで、神って人の中にあるのではなく、人の脳が創ったものだとおもいましたが、間違いですか?
916902:2006/04/08(土) 16:42:37 ID:y2rPNJeM
私が風の主さんに抱いている違和感は、要するに「すべて後付の神学的解釈」
になっているのではないか、ということです。
信念ないし行動原理というものは、行動の前にあるものです。
たとえば、「禁煙」を誓う場合ならば、「禁煙を守る」という行動が後に
ついてくる。禁煙を破れば、その人の信念は嘘だったことが証明される。

では、どんなに自由に行動しても信念が嘘だとばれない方法はあるか、と
言えば、「人間は神だから、何をやっても許される」というものを信念に
すればよいのです。これほど有効な「弁明」はありません。「ああ、これは
自分が神だから許されるんだ」と一言言えば、信念を守ったことになる。
入札に絶対に勝つには、白紙の小切手を入れておけばいい。

しかし、人間の自由には必ず責任がついて回る。二択問題のどちらかを選ぶ
と、合っているか間違っているかのどちらかという結果が出て、それに責任を
取らないといけない。禁煙で言えば、禁煙を守りきるか、それとも破るかの
「これかあれか」です。だから、「人間は神だから、何をやっても許される」
というのは、自由のようで実は自由でもなんでもない。むしろ、自由からの
逃走にすぎないと思います。
917902:2006/04/08(土) 16:47:23 ID:y2rPNJeM
白紙の小切手-->神を振出人にして、金額を空欄にした小切手
918名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 16:47:40 ID:gCycr3mi
< 宗 教 の 正 体 >
ttp://www.geocities.jp/sonomama_da/gaikann.html
もう答えは出ていますので。
919神を狩る者:2006/04/08(土) 16:59:08 ID:01GIUptP
神など所詮は人が造りし幻影。
幻影に縋る者達よ、今こそ全ての思想を捨て、己を解放せよ!
920名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 17:49:21 ID:BEiP4EdG
>>914
「やむなく殺しあう世界がないように」などと真剣に祈らねばならない時代はあったと思います。
無限の世界は、殺しあうことがない。神は愛だ、お互いに愛し、傷つけあうなと真剣に思わねば
ならなかった時代が。

今は、人の心の中に神があればよいと思います。宗教などいらない。神は平安でなかった時代に、
無限の世界を信じさせて世の中を平安にさせようとする方便に過ぎないだろうということ。

それぞれの人が、悩んだり苦しかったりした時のみに心の中の神を抱けばよいだけ。

宗教者に頼ってはいけない。少しの迷いで宗教に入ると、その人の人生は宗教に奪われてし
まう。どうしょうもなくこの世に悩んでいる人は、無限の世界に義を見つけ出し、たとえば
負債を抱え無所有になっても、幸せになる方法を自分でみつけだす。

普通に生きている人に医者はいらない。健康な人には医者はいらない。迷いがなかったら
その人は神。悩みがなかったらその人は神。自然に生きられる力があればその人は神。
神にすがることがない人は、その人が神です。

921名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 18:00:08 ID:y2rPNJeM
>920
最後の段以外は理解できるし、全部ではなくても賛成できるのですが、

>迷いがなかったら
その人は神。悩みがなかったらその人は神。自然に生きられる力があればその人は神。
神にすがることがない人は、その人が神です。

というのが正直わかりませんでした。
私のイメージは、神は全能で、間違いなどない存在です。しかし、人間は
間違うし、「よかれ」と思ってやったことがかえって悪い結果になったりする。
だから、反省しなければ道を誤る...。

どうしても、人間=神と考えることができません。
もちろん、人間には神との共通点、「神性」と言うべきものが備わっている
とは思いますけど、人間の身そのまま神であるとは言えないと思います。
922オデッサ:2006/04/08(土) 19:13:42 ID:X4c+XB2/
>>892  >物体や物質と言われるものは、例外なく「人の思考」から生まれてきているのです。

まず、出発点からオカシイ。 空に浮かぶ月や恒星は人間、又は誰かの思考
が作り出したのですか?この自然界の大多数は、決して人間が作り出した物
ではない。

 それから、”愛”という言葉で現実逃避しないでください。

923風の主:2006/04/08(土) 19:19:24 ID:XowklCXo
人は神です。全ての創造物は神がつくったものです。
ですから、そう表現しました。おわかりですか?

ことばのあらばかり探さないで自己を見つめたらどうですか?
924850:2006/04/08(土) 19:55:00 ID:AFWAz0CL
神様というのがどんなものなのか、わかりませんが
>>921にあるような
>私のイメージは、神は全能で、間違いなどない存在です。
という人間らしいものではないと思います。
そういう意味での神様は存在しないと思います。

例えば、地震が起こる、台風が直撃する、洪水になる、津波がおこる。
もし、神様というようなものがいて、人間のような意志があるとすれば
罪の無い人を何百何千人と津波が飲み込むのはどういう意図で行っているのでしょう。

あとから、神の意思として意味づけることはできます。
神の怒りだとか、死んだ人は前世の因縁だとか、なんとでもいえます。

人間は起きた現象に意味づけ、価値付けをします。
例えば空から雨が降ってくる。いいこと?悪いこと?
そもそもその自然現象自体には善いも悪いもありません。
物を手から離せば地面に落ちる。この現象の意味は?価値は?善悪どちら?
何をバカなことをと思うでしょう。
でも、そのバカなことをするのが人間です。

農作物が育ち食物を得られる、飲料水や工業用水が蓄えられる、だから雨は良い、
川が氾濫し洪水の被害にあう、そのための治水費用がかかる、だから悪い、
もっと単純に、気分が憂鬱になるからいいもんじゃない。

でも、もともと意味や価値などありません。
サンマとフグ、どちらが高級かなんてそもそも自然界にはありません。
人間が勝手に価値をつけてるだけ。

神はこのようなことはしないのだと思う。
私の言う神とは、どちらかというと法則とか摂理に近いものです。
人間に禁じることもしなければ命令もしません、善悪も教えてくれません。
925オデッサ:2006/04/08(土) 20:13:19 ID:X4c+XB2/
>ことばのあらばかり探さないで自己を見つめたらどうですか?
 
 もちろん、宗教板に書き込みするような者なので、日々自己を見つめております。
残念ながら、私は、例えば核ミサイルなどは神が創造したとは思えません。(他の多くも)
風氏的理論では、存在する物、事は全て”神”によって許されているはず
だから、それを許すのだ!と声高に宣言することでしょう。
それとも、神の光の当たらない闇がやらかしたのだ!的理論で、全ての人間は
”神”だ!といったことを真正面から否定するのですか?
 
 現実を感じて下さい。

>>862 氏の書き込みに、>>普段は俗世間の常識的な考え方で生きたいです。
そうしないと、人との関係ががなかなかうまくいきません。 ””
 と、あります。実社会と何らかの乖離を貴方の教えに感じたのではないので
しょうか。

 人間は、平均的日本人が考えるほど高尚な生き物では無いのかもしれません。
現実的には、日本の主要都市に核ミサイルの標準を合わせている行儀の悪い国
があるといわれています。その標準の十字線が貴方の家や、我が家の真上かも
しれません。そのうち、愛に気がつきますヨ、ナゼなら人は皆”神”なのだから!
 これを逃避といわず何といおうか?
>>「私は「精神世界は物質世界を内包する」と考えています。」」

 内包していない。大きく 物質世界と乖離している。


 
926名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 20:13:37 ID:J3vEqyue
宗教の入り口は泥棒の入り口
927名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 20:19:03 ID:heOrZhbq
旅先で知り合った坊主から人のことを何も知らないのに
偉そうに説教たれやがったので、怒鳴ってやったことがあったな。
928名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 20:24:43 ID:8/XQ61u4
>>921
神は今現在、全ての人で公平。
神を外に持たず、この世界で悩みも迷いもなく生きている人でも神の配下である。
神はもともと人に意識させようとしない存在。神という言葉を言わなくてもよい
のです。神が在って、その名を言わないのが正当なことなのです。

人が平安で、争いごとなく、幸せで、神が決めた肉体の死さえも悩まないならば、
その人が神です。そして神さえ言わない。

間違いを反省し、人々に迷惑をかけないように生きることを思慮できたら、神さ
え言わない人となっていいのです。

神はもともと人に「神と言え」「神を信じろ」と言わなかった。肉の思いで死を
意識した時に宗教は生まれる。悩まない人は宗教というものを基本的にしない。
それも神の摂理。死後でも神とは言わないし、神を信じることもない。しかし、
互いの平安だけは知っているだろう。

誰かが間違いを犯しそうだから神を信じろというなら、その人が人々の過ちを
ゆるしてやる人間になることが一番肝心なのです。人を自分の配下にしようと
する心があるから、争いが起きる場合が多いのです。人を自由にしてあげるこ
とも大切なことなのです。
929オデッサ:2006/04/08(土) 20:37:06 ID:X4c+XB2/
>>924
>私の言う神とは、どちらかというと法則とか摂理に近いものです。
人間に禁じることもしなければ命令もしません、善悪も教えてくれません。

私もそのように感じます。ただ、例えば美しい桜の花を見て感じる気持ちに
正直になることも大切だと感じます。
930850:2006/04/08(土) 20:47:05 ID:AFWAz0CL
>>924続き

人がする価値判断、価値付け、これは自分の利害を基準にして行われる。
利益をもたらすもの=善 害悪をもたらすもの=悪 という基準。
利益とは何か、つきつめれば、欲求を満たすものごと。
害悪とは何か、苦痛や嫌悪をもたらすものごと。

現実に人生を送っていて問題になるのは、エゴとエゴが衝突する場面です。
殺さねば自分や愛する家族が殺される。そんな場面。
善と善のぶつかり合いです。
こんなとき、どうすればよいのでしょう。


そもそも、何故、人間はエゴを持っているのでしょう。誰のせいでしょうか。
誰のせいでもないし、何故かはわからない。
神によってそう作られたと考えてもいいし、偶然そうなっていると考えてもいい。
でも、持っているという事実だけは厳然としてある。

ならば、それを認め受け入れるしかないのだと思う。
エゴを持っていることがいいことなのか、悪いことなのか、それを考えることは
意味がない。
自然現象に意味づけするのと同じことです。
931アールグレイなTAO:2006/04/08(土) 21:03:43 ID:O93Q9Rzx
 確かに、脳の働きとして、「思い込み」としての神、それはある。
 と、同時に、ある種のエネルギー的基礎をもつこともある。

 ユングが言った、共通の無意識。
 各自にこれをつなぐものがある。
 気とか、アストラルのエネルギーと呼ばれるものだ。
 単に、脳内の問題だけなら、なにも、人はこうも惑わされない。

 だが、この複数の人間の意識の底流を流れる影響力というものがある。
 これが、能動性を持ち、人々を、金太郎飴的な、類似の意識構造に
向かわせることがある。

 気のエネルギーや、アストラルエネルギーに敏感な体質を持つものは
これを知る。
 それを客観視できればだが。

 この潜在意識の融合体は、広い領域に及び、宗教団体や、政治団体、
あるいは、古くからの家の共同体などに働く。

 これを、信念形態とか、呼んでいるようだが、単純な、スタティックな
ものではない。
 あるいは、これと類似のものは、渡り鳥の群れの行動原理にも、働いて
いるかもしれない。

 ただ、奇妙なことに、この潜在意識の共同体に、奇妙な勢力が乗るとき、
それは、人々を、とんでもない方向に導くことがある。
 「奇妙な勢力」それは、霊とか意識体とか、呼ばれて来たものだ。
 禅では「魔」と呼ばれたものかもしれない。

 チャネリングなどと呼ばれているものは、その狭い範囲、個人的な範囲
に影響を与える「それ」だろう。
932アールグレイなTAO:2006/04/08(土) 21:04:44 ID:O93Q9Rzx
2

 こういった世界は、気という、モノと非物質の中間のような働きをする
「物質」が、媒介として、働く。人を迷わせるのだ。

 単なる、波動や波長という捕らえ方は、ものの一面しか物語ってはいない。

 先に述べた、潜在意識の共同体がもつ、影響力は、距離を問わない。
 この潜在意識の共同体のもつ、影響力は、神のそれであるかのような錯覚
を与える。
 しかし、これとて、被造物であり、迷いの世界の産物なのかもしれない。

 キリスト教世界の思考様式の悲劇は、気といった中間項を認めなかった
ことだ。それゆえ、いざ、不可思議な現象が生じると、神か悪魔か、どちら
かに分類したがる。

 泳がせておいて、どんな芽がでてくるのか、観察者の意識を離して、眺める
ことを、彼らキリスト教世界の人々は苦手とした。

 多くの場合、神と感じてしまうのは、こういった中間項的存在ではないかと
思う。霊と称されるものが、神を演じているのだ。

 神を神として捉えているうちは、神にあえないのかもしれない。

 我々は、無意識に神の道具として働くこともあるのだろう。
 振り返って、その仕事の成果に驚き、なんらかの力が働いたことに感謝する
ことになろう。そのとき、畏敬の思いがわく。これは自分がやったことではないな、と。
933850:2006/04/08(土) 21:05:35 ID:AFWAz0CL
>>930続き

話を戻します。
殺さねば殺される、こんな状況に直面したら、殺すべく頑張ります。
それが人間であり、人間として生まれた自分だと思うからです。
それが自然の摂理に従うこと、いわば神に従うことだと思うのです。

殺せば悲しみや自己嫌悪に襲われるでしょう。
それも、そのように作られているからです。

人間にはエゴや利己心もあれば愛や利他心も備わっています。
矛盾した存在です。
矛盾によって苦しむようにできています。
それを受け入れるしかありません。

しかしながら、人間には意思があります。能動的に選択することが出来ます。
それもそのように作られているからです。
では、そのときの選択の基準は何でしょう。
私は、世界の摂理、この世界を構成している、また、同時にさせているなんだか分からない力、
神だと思うのです。
(神と呼んでいいのかどうかわかりませんが、敢えて神と呼びます。)

それは何だと言われても、それ以上は言葉では説明できません。
ここから先は直感の世界です。


説明が下手で長くなりましたが
>>902
>「神とは愛であり宇宙であり法則であり全ての生物です」という信念から、
>具体的にどういう行動が生まれるのでしょう。

に答えたことになるでしょうか。
934アールグレイなTAO:2006/04/08(土) 21:06:46 ID:O93Q9Rzx
3
 人は神であると同時に、絶対に神そのものとはなれない存在でもある。
 人は人に徹して、神に近づきうる。
 おそらく、神は、神であることにとらわれていないのかもしれない。

 人が神にとらわれてタマネギを剥きはじめると、始末におえないこと
が起きる。
 尻尾を食べつづけたら、そいつはどうなるか。
 火を見るより明らかだろう。
 霊的存在を神と見誤る、疑似霊的エネルギー現象にとらわれたら、
命がいくつあっても足りない。
 
 こういった気やアストラルエネルギーの世界は、マナ識といわれる部分に
属するのだろう。
 これが、どれだけ人類を迷わせてきたことか。
 共産主義イディオロギーにも、それは働いたのだ。

 人は人として極めたとき、神に近づくはずだ。
 神を演じるしかないとき、それは、人以下になるときだ。

 本当の高い霊性は、徹底的な客観化を行い得る。相対化して、なおかつ
一元化された絶対へ、近似値としてにじりよってしまう。多分自ずと。

 問題は、迷いを払拭する道、そのものなのだ。
 アストラルの中間レベルの神霊をも体験しないものに、神など解るはずもない。

 さらに、気とか、アストラルなぞ、たいしたレベルでもない。
 ガンなどを治すこともあるが、たいしたレベルではない。

 霊的な成長の初心のバロメータは、客観化への力量だ。
 この道を辿り、客観から主観が重なるとき、それを悟りと呼ぶのだろう。
935オデッサ:2006/04/08(土) 21:09:10 ID:X4c+XB2/
>>923 人は神です。全ての創造物は神がつくったものです。

 しつこいようですが、”風氏的神”は、風氏の考えの中枢をなす重要な事柄
だと思うので書かせてください。
風氏の上記言葉は、無意識か意識的にかは分かりませんが、神が創ったであろう
受身的”神”と、其れを生み出した主体的”神”がありますネ。
 >>892から896の理論の理解しがたい思考を導き出す結果、分裂してしまった
のだとしたら十分理解できます。
そして、その受身的”神”は、いろいろと悪さをしてしまう。区別・制限は
お嫌いなようですが、ちゃんと区別してらっしゃる。
 
936名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 21:14:21 ID:y2rPNJeM
>>850さん

なるほど。あなたの神観がよくわかりました。

しかし、人間が殺人を犯した場合に感じる良心の声はどう解釈したらよいの
でしょう。あるいは、人間にだけ与えられた「他人の立場になって、あたかも
他人が自分であるかのように苦痛を感じ、同情する能力」は自然現象が生みだ
したものでしょうか。

私は、人間固有の「隣人を思いやる心」は、神の心から滲み出るものだと解釈
しています。私は禅思想に共感を持っていますが、禅では杓子で水を汲んで
飯の煮炊きなどする際、必ず最後の一杯の水の一部を残して、万物に捧げる
作法を行います。これは、人間が天地万物の立場に立って、万物に慈悲の心
を注ぐという意味だとされます。天地万物は、原子の単なる無機的な集合では
なくて、統一された一つの大きな心でつながっている。だから、見方によれば、
川のせせらぎは人間を含めた万物を潤そうという役立ちのためにある、と解釈
することもできます。

もちろん、「水が重力に引かれて低い方向を目指して流れている」と無機的に
見ることも可能ですし、どちらが真相であるかは誰にもわかりません。だから、
最後には自分の「世界観」が「神観」の違いになって現れるのでしょう。

もちろん、私は自分の「神観」をあなたに押し付ける気持ちはありません。
937オデッサ:2006/04/08(土) 21:37:47 ID:X4c+XB2/
>しかし、人間が殺人を犯した場合に感じる良心の声はどう解釈したらよいの
でしょう。あるいは、人間にだけ与えられた「他人の立場になって、

 難しいですね。私は仏教的無我に否定的なので、結局は刹那的感情に
悩みつつという感じになってしまいそうです。
 うろ覚えですが初期仏典に、肉親を亡くした者に釈迦が「悲しむのは、
やつれるだけで無駄です」といったことがあったが、心の部分も大切だと
思う。
938名無しさん@3周年:2006/04/08(土) 21:53:10 ID:y2rPNJeM
これはある本に書いてあった受け売りなのですが、禅ではよく「ある物」に
なりきった状態で禅定にはいるという修行をします。ある時、座禅中の僧が
隣の僧を見ると、そこには僧の姿はなく、柏の木が生えていたそうです。
後に、その隣の僧に事情を聞くと、彼は柏の木になりきった状態で禅定に
はいっていたと言う。

これはちょっと極端な例ですが、人間の心は万物に浸透し、その物になりきる
ことができる。この伝統は東洋芸術にも引き継がれていて、たとえば雀を画く
とき、西洋の画家は見たままをデッサンして、雀の形を写そうとするが、東洋
の画家は自分が雀になりきって、自分で羽ばたきしてみながら画くそうです。

この人間の心の不思議な働きを突き詰めていくと、決して原子の無機的な集合
と偶然だけではない世界の不可思議が見えてくるだろうことを確信します。
939850:2006/04/08(土) 22:23:45 ID:AFWAz0CL
>「他人の立場になって、あたかも
>他人が自分であるかのように苦痛を感じ、同情する能力」は自然現象が生みだ
>したものでしょうか。

そうです。神がそのように人間を創ったんだと思います。


>天地万物は、原子の単なる無機的な集合では
>なくて、統一された一つの大きな心でつながっている。

なんとなくわかります。
私の言葉であらわせば、この世界は一つであり一体であるて感じです。


論理的に説明するのはどちらかと言うと得意なほうなんですが
この世界観を言葉にするとみんな矛盾してしまいます。
それでいて自分の中では何も矛盾してなくてスッキリしています。
私には限界のようです、すみません。
940風の主:2006/04/08(土) 22:51:54 ID:XowklCXo
好きなように解釈すればいい。
どのみちそうするしかないのだから。

唯一絶対の道などない。
そう思っている人、自分だけが正しいと思っている人が、滑稽にみえる。
自分の感覚など、所詮、自分にしか通用しない。

それを統一などできない。それをしようとするから、摩擦がおきるのだ。
否定とは、非難とは、相手を「認める行為」ではない。認めていれば、そんなものはない。
違っていていいのだ。
941風の主
どれだけの知識をもってしても、「たった一回の体験」を超えることはできない。
錯覚というなら、そういうあなたの感覚こそが、「錯覚」なのだ。

決め付ければ決め付けるほど、あなた自身が「あなたの真理から遠くなる」だけ。
それを選ぶなら、それなりの体験をするだけだ。