キリスト教は真実だと言ってみるスレ

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193名無しさん@3周年
正統派ではないけども。
194名無しさん@3周年:2006/07/20(木) 15:43:47 ID:ySempTB/
>>192
つアリウス異端
195素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2006/07/22(土) 16:32:25 ID:1aAYxdBK
「神はいる」そして、神は全知全能で神により動かされないものは何も無いのだから、人とこの世を批判すること
が、神を冒涜することになる。神は人が善悪を知り、賢くなることをも知っておられたのだ。

【煩悩を全て断つよう、神が創造された自然の中で暮らさなくても】
―森に住み、心静まり、清浄な行者たちは〜明朗なのであるか?(尊師いわく)〜未来のことにあくせくすること
もなく、ただ現在のことだけで暮らしている―<サンユッタ二カーヤT>
―あすのことを思いわずらうな〜一日の苦労は、その日一日だけで十分である―<マタイ 6>
―智慧をまず第一に重んじて、善を喜び〜すなわち『わたしは何を食べようか』〜『今夜わたしはどこで寝ようか』
家を捨て道を学ぶ人は、これらの四つの憂いに導く思慮を抑制せよ〜適当な時に食物と衣服を得て、ここで少量に満
足するために、衣食の量を知れ―<スッタニパータ>
―信仰の薄い者たちよ。だから、何を食べようか、何を飲もうか、あるいは何を着ようかと言って思いわずらうな―
<マタイ 6>

―悪魔の征服者です〜あなたは煩悩の潜在的な可能力を断って、みずから彼岸に渡りおわり〜善悪の両者に汚されま
せん―(スッタニパータ 第三 6.サビヤ)
 煩悩の可能力を断つために家を捨てなくても、全知全能の神を信じて、悪い者も善い者も正しい者も正しくない
 者もこの世に存在することを認めず、人々のあやまちをゆるそうとしないから、神に動かされている世界に反発
 する。神には右になる人左になる人もある。人が誰かの自由意志に反発し、こちらが正しいと言い張り、自分た
 ちの言うことを聞かせようと必死になるなら、神に敵対することとなる。
196素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2006/07/22(土) 16:32:59 ID:1aAYxdBK
聖書を開いたら、ちょうど知恵について書いてあった。
【温順】
―上からの知恵は、第一に清く、次に平和、寛容、温順であり、あわれみと良い実とに満ち、かたより見ず、偽りが
ない―<ヤコブの手紙 3.17> そして霊の言葉があった「そうだ」と。
―美味を貪り、不浄の生活をまじえ〜怒り、驕り、強情、反抗心、偽り、嫉妬〜これがなまぐさである。肉食するこ
とがなまぐさいのではない―<スッタニパータ 2.なまぐさ>
―あなたがたの父の許しがなければ、その一羽も地に落ちることはない〜地上に平和をもたらすために、わたしがき
たと思うな。平和ではなく、つるぎを投げ込むためにきたのである―<マタイによる福音書 10 29〜34>

 今の日本は平和であり自由が得られ、様々な楽しみが自由にできる。これが神様の意向に適った世界だろうと思
 っていたから、戒めの言葉を聞くこととなった。「愚か者、愚か者」と。

人も神の許しで動いている。神は全知全能。人々が慈しみの心づかいを持てば平和になると論じても、人が自分を愛
する者しか愛せないなら、神の意向に適った存在になってない。人に反発、反抗していると「お前にあるのは心の闇
だ」と神に忌み嫌われる。神は見ている。人に対して温順であり、自分はこのことが良いと思っても、それを言い張
ることなく、他人に対しその人はその人だとある程度割り切って考えた方がよいだろう。

しかし、―人によくしてやり、また何も当てにしないで貸してやれ―という言葉を否定すれば「左だ」と言われた。
神を信じ、世の心づかいから離れて永遠を信じてから、徐々にそのような人となるのが神の意向なんだろう。


197素朴な言葉 ◆B2HNWyA9.. :2006/07/22(土) 16:33:29 ID:1aAYxdBK
世の中の平和を思い、何かを訴えても「神はいる」と霊は語る。全知全能の神を信じて、人が世の心づかいのために
自分の命を失ってはならないだろう。子供を殺した女の報道を見ても「ゆるせ」と。人を憎んでも何もならないから
だろう。

【第一に清く】
不倫のドラマや不純な恋愛ドラマさえ、それらを見る気にならなくなった。そう思ったら「あたり前だ」という言葉
があった。それくらい霊の言葉は、―情欲をいだいて女を見る者は、心の中ですでに姦淫したのである―それに結び
つくようなものを全て忌み嫌い戒める。
 ―肉に汚れた者に対しては、その下着さえも忌みきらいなさい―<ユダの手紙 16 23>
 ―〔神いわく〕下女の汚れた衣のように、汚れて荒々しい男に向かって、わたしは説いているのではない―<サン
 ユッタ二カーヤU>

世の中が平和で自由になった。デジタル家電で遊び自由に余暇を過ごせる。しかし、インターネットを見ても「渇く」
という霊の言葉があった。聖書を読もうとすると「生きよ」と。毎日インターネットを見ていても渇くだけで生きる
ことはない。別に人に迷惑かけて余暇を過ごしているわけではないしと自分で思っていても、霊の言葉はそれらさえ
あまり良いものではないと語る。おいしい物を食べることを趣味としなかった私は、ゲームやデジタルカメラ、ネット
サーフィン、携帯電話さえ「克て」と言われ、慎むように言われたのである。

自然遊歩道を歩いて自然を楽しんでいると、「そこも光だ」と言われた。感じとしては人間が作った仮想現実世界を
喜ぶことを嫌われ、神が創造した現実と自然から得たものの方が尊いと言われているような気がする。
198名無しさん@3周年
2ちゃんで罵詈雑言を繰り返すキリスト教徒の行為は真実かもしれないと思う。