真如苑−その真実・3

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204名無しさん@3周年
>>189 (追加)
信じるか信じないかの対象は大変不確かなものです。
信じるということは、論理的に確実でないものを飛躍して真実と思うことと考えてます。
だから、もともと宗教的なもの信じない人や何らかの動機で精進を始めてみたけれど信じられなかった人からみれば、その対象まったく出鱈目ものであり、信じる行動は馬鹿げたこととなる。
当然のことと思う。現世でサンタクロースの存在を信じようが、死後で閻魔様の存在を信じようが、論理は飛躍してます。

「途中で辞めた人らしい」は、「辞めた人らしい考え方だ」ということなんです。
「途中で辞めた人」はどういうことかといえば、入信暦が長かろうと家族信者であろうと、「初心者を越える第一段階で辞めてしまった人」という意味合い。

「初心者を超えるもの」は、2つあると思ってます。辞めた人はまっぴらのこと、だから続ける意味はないこと。
(辞めた人なら何人にも知っているけど、
掲示板での「途中で辞めた人」の反応は意外と強いが、この辺りに今回大変興味がわく。)
一つ目は導き親にくっ付いてるだけでなく子を持つ親になる。自分ごとだけじゃなく人ごとも考え努力する。
二つ目は接心において、何ら祈らないことから始まって、自分ごとだけの時、周りの人に向ける時、抽象的な世界に向ける時、導き子に向ける時など経て、
接心の基盤の両童子さまに向ける時などで、内容や自分の感覚などその違いを知って自分の霊性も感じる。つまり、霊界を信じる。
この二つを超えて、教徒としての精進が始まり、院生になり卒業後に得度したりする。

「らしい考え方」は、自分は信じないという観点から信者を信仰という面からではなく精神病にしたがる考え。
でも、多くの人が馬鹿にしているように、精神病からは遠ざかった感覚で行動してることを理解してない。
子をもってあれこれ考えたり努力していく精進から孤独感は少ない。自分のこだわりを減らす行動をとっていること。
これも馬鹿にされていることで、プレッシャーや悩みは当然あるけど因縁観や相談接心で解決したり、日日は祈り霊界を感じて喜びとする。