ありまくるんですよ
場所によってはね
279 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 00:57:16 ID:NWDsxAeY
>>276 >>277は言い過ぎだと思うが、おそらくは存在しないものに希望を懸けても,結局は虚しい気がする。
280 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 00:59:58 ID:x4DaWj+y
その場所って、おまいの脳内だろ?
281 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:02:15 ID:wl5xOWTR
>>279 しかし無いと思っても有ると思う方が
精神衛生上良い気がするんですが。。
やっぱり皆考え方は違うんですね。
気功の気はプラシーボという論理かな
美輪大社はすごいですよ
あれは素人目にみてもわかるようだ
284 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:08:32 ID:9F8GPVnu
私が知りたいのは真理であって、矛盾や見込みの無い希望的観測ではない。
ご立派ですね
286 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:13:23 ID:wl5xOWTR
でも宗教っていろいろあってどれが本当か分からないし
迷いますよね。
287 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:18:00 ID:/Ifvf7db
宗教はほぼ全部欺瞞じゃよ
288 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:19:09 ID:wl5xOWTR
どれも言ってる事はほとんど一緒
言語上で矛盾しているだけ
解脱はこの世の執着を離れるので天国に似てる
天国に行くことはこの美しい自然と同化することに似てる
まずは魂を磨くことだというのは一緒
隣のスレにはなんでも派がたまってるよ〜
霊的感応力ある人はなんでも派になる
超ヒモ理論も宗教の一種じゃないかと思う今日この頃w
人の眼では見えないんだよね
292 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:25:45 ID:8GKtEJ/H
人の目で見えるのは、特定の波長帯の光子だけだつよ。
293 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 01:30:59 ID:VTSz1t4z
触ってるのもモノじゃなくて電磁場なんだけどね。と、言ってみるかい?
295 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 22:47:23 ID:rw9+qLOQ
>>294 言い切るってのは、「完全に欺瞞」じゃないの?
「ほぼ」って言い切りなの?
細かちゅう
297 :
名無しさん@3周年:2006/06/04(日) 23:12:42 ID:EdwJLBls
>293
それはどういう風に考えるかという意味での選択肢の一つか。
298 :
名無しさん@3周年:2006/06/05(月) 00:10:27 ID:9z4WOASB
>>297 原子核の並び具合から言うと、中性子星以外のどんな物質も、ほとんどスカスカだからね。
それが接触しても互いにめり込まないのは、電子の雲のおかげ。
電子の雲と言っても、波動関数の広がりからくる確率で、電子同士がぶつかって押し出してる
わけではない。
押し除け合ってるのは電磁場としか言いようがないってことかな。
299 :
名無しさん@3周年:2006/06/05(月) 13:05:53 ID:tYP0VgRX
どあふぉ!!
300界
301 :
名無しさん@3周年:2006/06/05(月) 20:33:44 ID:XUKE/3Zv
302 :
名無しさん@3周年:2006/06/06(火) 12:28:49 ID:iN2vWV3j
宗教はオバカ
303 :
俺様 ◆f0ugTrYQRI :2006/06/14(水) 15:36:24 ID:VHTsEZLA
カール・ポパーの反証主義を乗り越えない限り
科学は宗教を否定することなんてできないんだよ。
科学は永遠の仮説にすぎない。
こんなスレを立てて議論すること事態オバカの証明だな。
304 :
名無しさん@3周年:2006/06/14(水) 21:20:03 ID:wsHtV/JF
ポパーの説は悪くないと思うよ。
科学は永遠の仮説であるが故に進み続ける。
教義で決まっちまった宗教は、最初からオシマイw
偏っている人間ばかりですね科学側にも
306 :
名無しさん@3周年:2006/07/01(土) 07:21:18 ID:F5pgSE/k
>>305 この板の自称「科学的な」連中は実際には「科学教の信者」に過ぎませんからね。
実際には「科学的」なスタンスから一番遠いところにいるのがこの板の「科学教信者」。
307 :
名無しさん@3周年:2006/07/21(金) 17:18:56 ID:V0rtDCfG
308 :
名無しさん@3周年:2006/08/17(木) 01:15:43 ID:7faeM6q/
科学=存在を定義・考察する手法
宗教=価値を定義・考察する手法
それぞれ扱う領域が異なる。
宗教がその領域を逸脱して物理現象を説明しようとしても徒労に終わる。
物理現象を宗教的教義で説明しようとしても容易に科学的手法によって
論破される。科学は存在の有無を定義する最も優れた手法であり、優れた
宗教家は科学的手法を否定することはない。
科学は存在を定義する手法であるが、価値や意味、善悪を定義する
手法ではない。科学がその領域を逸脱して、モノの価値や善悪を定義
することは不可能である。時に蒙昧な科学者は科学で考証できない
事象は無意味であると言い放つが、優れた科学者はそもそも科学が
意味や善悪を定義する手法でないことを知り、宗教的手法を否定する
ことはない。
科学的手法と宗教的手法は対立するものではなく、どちらが優れているか
という問題でもない。
309 :
名無しさん@3周年:2006/08/18(金) 16:34:35 ID:vP/qWvBL
大体、308に同意。
ちょっと補足すると、
科学は、「普遍的事実」だと万人が認められるような、「単純なもの」だけ
を対象にしている(たとえば、存在とか、質量、長さ、体積など、誰もが
納得できる対象)。
また、科学は「再現性」を重視している。一度は成功したが、再現できなかった
ものは事実を認めない。
上の2つの条件に当てはまるものは、世界の中のごくわずかでしかない。
世界から「科学で扱えるもの」を除いたものを、宗教が扱うことになると考えて
よいだろう。だから、宗教では、
1.誰もが認める普遍的価値というものはない
2.再現性がない(「われ、ここ、いま」が揃った体験は、唯一なので、再現して
確かめることができない。「砂糖は甘い」という体験は、他人の舌を借りない限り
確かめられない)
科学的手法はスッキリしているが、それは、最初から対象を厳密に絞っているから。
守備範囲から言えば、圧倒的に科学的手法<<<宗教的手法ということになるだろう。
310 :
220:2006/09/26(火) 02:06:44 ID:az46ot3Y
人間とは妄想する生き物です。
曇ったレンズでは真実を見極めることはできません。
だから科学においては、できる限り主観を排除して客観的に見る必要があります。
それとは逆に宗教の場合、真実を語る必要はありません。
科学では取り扱わない主観的命題に対して、
特定の人々から共感を得られる答えが提示できれば良いだけです。
311 :
220:2006/09/26(火) 02:46:23 ID:az46ot3Y
>>309 >> 守備範囲から言えば、圧倒的に科学的手法<<<宗教的手法ということになるだろう。
「誰がこの世を創ったのか?」
「なぜ自分はこの世に存在しているのか?」
「人は何のために生きているのか?」
「人は死んだら如何なるのか?」
などの主観的命題に対して、
絶対的な答えを出すことはできませんが、
数としては大したことはありません。
だから少人数の宗教学者(預言者、創唱者)でも答え(納得案)を提示することができるのです。
それに対して客観的命題は、この世の全てが相手なので、
世界中の学者や研究者達が骨身を削って答えを探し続けるのです・・・
312 :
220:2006/09/26(火) 03:24:30 ID:az46ot3Y
科学=客観的命題に対する答えを見つける。
宗教=主観的命題に対する納得案を提示する。
宗教の利点は、この納得案(教義)を通して宗教的な人生観や道徳観などを身に着けさせることが可能なことです。
313 :
220:2006/09/26(火) 04:41:28 ID:az46ot3Y
>>308 > それぞれ扱う領域が異なる。
> 科学的手法と宗教的手法は対立するものではなく、どちらが優れているかという問題でもない。
科学そのものが主観的命題に対して彼是言うことはありませんが、
宗教は客観的命題に対して根拠の無い答えを出し、それが真理であると世界に言い広めています。
それが問題です。
>>309 > 科学は、「普遍的事実」だと万人が認められるような、「単純なもの」だけ
> を対象にしている(たとえば、存在とか、質量、長さ、体積など、誰もが
> 納得できる対象)。
ちと科学に対する認識が狭過ぎやしませんか?
「科学」
・自然科学(物理学、化学、生物学、地球科学、天文学、数学)
・社会科学(経済学、法学、政治学、社会学、経営学、歴史学、地域研究、社会福祉学、社会人類学、人類学、教育学、心理学、言語学)
・人文科学(哲学、芸術学、美学、心理学、教育学、宗教学、神学、歴史学、考古学、地理学、民俗学、文化人類学、文学、言語学)
※分類は曖昧ですw
314 :
名無しさん@3周年:2006/10/05(木) 18:10:34 ID:rf5yHsWe
人間にとって、真実なんてどうでもいいのかもしれないな。
ただ「真理」さえあればそれに矛盾する事実なんていらないのかもな。
宗教は「仮説」で科学は「定説」。
一応はこれが基本。
もっとも、仮説でありながらも真実を衝いていることもあるのだし、定説がひっくり返ることもよくあるわけだけど。
316 :
308:2006/10/11(水) 06:33:18 ID:vQy59ZQP
>守備範囲から言えば、圧倒的に科学的手法<<<宗教的手法
>>309 私が最初に「扱う領域が異なる」と書いてしまったので、多少誤解を招いたかもしれません。
どちらの取り扱う対象が多いとか少ないとか、守備範囲が広いとか狭いとか言いたいわけではありません。
>>220 まったく同一の対象を科学、宗教両方の手法でアプローチしても良い訳です。
そういう意味では、扱う対象の守備範囲は同じと言っても構いません。
例えばあるメロディに対して、科学的手法でアプローチすると、音量とか、音の波形や波長とかがどうなっているかを測定する。
また、宗教的(直感的)手法でアプローチすると、心地よいとか不快とか、自分にとって価値が有るとか無いとかを考えることになる。
これらのアプローチはどちらが優れているとか言う問題ではないし、どちらの手法でアプローチすべきとか言う問題でもない。
317 :
308:2006/10/11(水) 07:48:11 ID:vQy59ZQP
>>313 >科学そのものが主観的命題に対して彼是言うことはありませんが
しかし、科学的手法を絶対と考えるあまりに科学教に陥る人もよく見かける。
常に客観的に思考するべき科学者が科学的手法こそ絶対であると言い放ち、
科学的にナンセンスとか、科学的に無価値とか言い出す始末。これも問題です。
>宗教は客観的命題に対して根拠の無い答えを出し、それが真理であると世界に言い広めています。
>それが問題です。
仰るとおり、これも問題ですね。
本来、人は科学的手法(科学の眼)と宗教的手法(宗教の眼)の
両方を持ち合わせている。物事の本質を科学の眼で見極めると同時に
宗教の眼で自分にとっての価値の有無を判断する。
どちらの眼が優れているとか、どちらの眼で見るべきとか言う問題ではない。
>>315 ちがうだろ。
科学こそ仮説を扱うもの。いわゆる「定説」というのはその時点での
観測事象をよく説明できており、支持を集めているところの仮説。
一方、宗教には通常、仮説などというセンスはない。
自分こそが「真理」だと主張する傾向にあり、否定されうる「仮説」
であるなどとはまず言わない。
>>317 価値の有無の判断は宗教の専売ではない、と一応釘をさしておく。
事実の判定に対して科学は常に重要な地位を占めうるが、宗教の
価値判定における位置はそれほど確固としたものではない。
価値判断において宗教を参考にしないというチョイスは十分に
ありうる。
320 :
308:2006/10/11(水) 09:22:07 ID:vQy59ZQP
>>319 科学が普遍的な真理を解明する最も優れた手法であり、科学的手法によって
得られた真理は万人にとっての真理であること。それに対し価値を判断する
手法は宗教だけでなく、また価値を判断するという性格上、常に対立を生む
ということ。
これらをもって、科学が宗教より優れていると結論付けたがる人たちがいるが、
あえてもう一度言わせてもらいたい。どちらが優れているとか言う問題ではない。
321 :
308:2006/10/11(水) 09:47:12 ID:vQy59ZQP
価値の判断基準が宗教の専売特許ではないと言うことについてはその通りだろう。
価値の判断基準はいろいろと挙げることが出来るが、大きく二つに分類されるのではないか。
・経験的価値基準(歴史、文化、伝統、倫理、習慣・・・):価値観の共有・伝達が容易
・直感的価値基準(啓示、ひらめき・・・):価値観の共有・伝達が困難
本来、宗教的価値観とは後者によってもたらされるものであると思うが、それが如何なるもの
かは私にはわからない。
>>320 まちがいその一。科学は「真理」を解明するためのものではない。
まちがいその二。価値を判断する性質があるからと言って常に
対立を生むわけではない。当然結論が一致する場合もある(たとえば
「殺人をしてはいけない」)し、妥協が可能な場合もある。
はっきり言って、308の言ってることは初歩的すぎてヘソが
お茶をわかすような内容ばっかりだな。
せめて哲学や倫理学あたりの入門書ぐらい読んできてくれないか。
325 :
名無しさん@3周年:2006/10/29(日) 18:59:23 ID:fV/whxQw
vghu
326 :
名無しさん@3周年:2006/12/06(水) 12:41:50 ID:jlueLnps
宗教の意義は信じることそのものにあるじゃないかって思う。
人間は昔から飢餓、病気、天災などの自然現象に悩まされてきた。
今でこそ予測や予防、改善の手段が見つかっているけど、
当時の人間にとってはどうしようもない、それこそ神の悪戯だった。
例えば天候の問題。雨が降って欲しいのに降ってくれない。
いつ降るかわからない。どうやったら降るかもわからない。
不安で不安で堪らない状況だよ。死活問題だ。
そんな中で精神を安定させられるはずがない。
では、どうするか?
327 :
名無しさん@3周年:
人は理屈を作った。すなわち心の拠り所を創造した。
雨が降るまで手をこまねいて待っているのは苦痛だ。
ならば、自分たちで具体的なルールを定めてしまえばいい。
儀式を行って生贄を捧げれば雨が降る。そう関連づけてしまえばいい。
そのルールに実質的なメリットがあるかどうかは問題じゃない。
一番の目的は安心できること、不安を取り除くことにある。
先が見えないから不安なのであって、
手段と結論が繋がっていればそこには何の恐怖もない。
根本的な解決にはならないだろう。が、束の間の安らぎだけは得られる。
宗教の原点であり本質は、こういった部分にある。
神に祈ること。仏壇を拝むこと。これらに物質的な意味はない。
けれど、信じるものさえあれば人は幸せになれる。
理屈が通ってなくても非科学的でもいい。
何か一つ、無条件に信じられるものがあれば人は生きていける。
要するに、信じられるならそれは宗教でなくてもOKってことですね。
例えばそれがお金だったり、あるいは科学だったりしても。