1 :
1:
究極を目指すので教義はありません。
究極を目指す人が参加してください
2 :
1:2006/02/16(木) 11:02:15 ID:uqbZOGwc
例えば「神がある」と言ってしまうと、必ず「神は居ない」と言うアンチテーゼが生じます。
この板で無数に見られる現象でもあります。
そしてこの結論の出ない議論が平行線のまま永遠に続いていきます。
究極を目指すスレですから、お互いの持つ不完全な真理をそれぞれ統合していくような態度が求められます。
3 :
1:2006/02/16(木) 12:09:35 ID:PdzlKwWt
あらゆる存在者の幸福は場所に規定される
↓
否、場所では無い
その本質に規定される
↓
否、本質でも場所でも無い、志し(思い)に規定される
↓
4 :
1:2006/02/16(木) 12:13:49 ID:PdzlKwWt
↓
否、存在に規定されるのではないか?
↓
では存在を規定して居るのはなんぞや
↓
言葉遊びで究極を目指せ!
6 :
1:2006/02/16(木) 12:18:14 ID:PdzlKwWt
↓
存在を規定しているのは因縁(関係)ではないか
↓
では因縁を規定しているのはなんぞや
↓
7 :
1:2006/02/16(木) 12:23:08 ID:PdzlKwWt
もろもろの存在は因縁により生ずる
あなたも私も動物も草木も石ころも台風も地震も因縁により生ずる
この因縁を支配して居る者、或いは因縁それ自体を神と呼ぼう
8 :
1:2006/02/16(木) 12:32:34 ID:PdzlKwWt
この宇宙も因縁によって生じて来た
人間を万物の霊長たる存在にいたらしめたのも良い因縁が付いたからに他ならない
恐竜が滅んだのは悪い因縁が付いたからである
現象的には不運と言う形を取ってそれはやってくるが
確かに我々は因縁によって成立するのだから
例えばあなたの幸福も無数の縁によって成り立っている奇跡的現象なのは御理解願えるだろう
9 :
1:2006/02/16(木) 12:39:04 ID:PdzlKwWt
事物は因縁(空)によって成立するという事が仏教の究極真理であるという
確かに良く練られた哲理であり一概には否定出来ない
確かに私が今2ちゃんで書き込みしているのは外の寒さに依って、暇に依って、好奇心に依って、ネットに依って‥無数の因縁に依ってる訳であり一つでも欠けたらそれは出来ない
10 :
名無しさん@3周年:2006/02/16(木) 12:46:04 ID:1++HAGjD
>>9 >一つでも欠けたらそれは出来ない
この言い方はよくないなw
一つでも欠け『ていたら』『そうはなっていなかったろう』 と言うべきだなw
11 :
1:2006/02/16(木) 12:48:08 ID:PdzlKwWt
10
正しい
12 :
1:2006/02/17(金) 06:11:18 ID:yHOPZypO
age
13 :
1:2006/02/19(日) 11:34:32 ID:wiKvuucL
私は実在しない。
しかして実在する。
一切は無数の縁起の積み重ねにより生じ、刹那刹那に移り変わっていく。
これは間違いなく真理である。
言葉だけでは無意味。
心身物質ともに、豊かにならなくては。
15 :
名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 01:29:41 ID:N/M0y/d7
>>1 大宇宙創造神を崇拝すること
宗教団体に配属しないこと
16 :
1:2006/02/20(月) 07:45:24 ID:xDf/PMC5
14
それこそ言葉だけじゃね?
15
根拠は?
>>16 2ちゃんでは、言葉の表現。
表現方法を見たら、すべて言葉になるよ、内容が大切。
のぞみが言いたいのは、すべて豊かになること。
宗教の教義に縛られることでなく、物質や経済的にも豊かになること。
スレ主無視か・・・・・(-_-;)スゲェ
毎晩真夜中始まるわ (´_`;)
21 :
1:2006/02/20(月) 20:43:52 ID:xDf/PMC5
何故科学の時代に宗教が必要なのかと言う事ですが
科学的、哲学的、宗教的に考えて、最強の護身は「愛」なんです
科学は愛が最強の護身であると言う事を教えはするが
愛が何であるかと言う事は説き伝えないし、説法に依って伝わる物ではないんじゃないかと思う
顕教が縁起渦巻く業の世界の実態をといたとして
ではこの世界をどう生きるのか
愛無くしてこの世を渉ろうとすると、地獄である
依ってたかって叩かれ、いじめられるでしょう
さもなくば阿修羅のように武装して生きなくては成るまい
しかし、こりゃその人に愛が欠けるゆえなんだよな
善因楽果と言うが要するに善因とは愛を持って生きる事だよ
因果律の分析は科学者に任せときゃ良い
しかし経済学者や物理学者は愛については語らない
確かに、需給の法則に依って経済現象が成立して居るかもしれない
しかし、政府が支出を拡大したからと言え、貴方が幸福に成るとは限らないわけです
やはり人生は苦しみかもしれない
景気が回復してもね
22 :
月見うどん ◆Zbk.TrDrMY :2006/02/20(月) 21:59:59 ID:p/2g9yqw
科学にも宗教にも愛にも、必要なのは、この世を生きる道具であるお金。
そのお金を得ること、大切。
労働(金)>>>>>>>愛>>>>>>>>>>>>>宗教
25 :
1:2006/02/21(火) 07:11:54 ID:npxPXsFZ
>23
確かに金は必要。しかし十分ではない。
高々手段に過ぎないお金を絶対化すると、ヒューザー小島やライブドア堀江みたいな失敗に陥る。
>24
愛無き労働の代表は「俺俺詐欺」であるが、これでは国は成り立たないのではないか?
実際、政治も経済も半分詐欺商法で動いているのが実態だぞ
希美、人様のスレ乗っ取るようなセコイ真似はやめて、自分でスレ立てろ。
そんなセコイ奴には経営はムリだぞ。
27 :
1:2006/02/21(火) 15:46:49 ID:MHRosdzp
ちょっと方向性を変えてマルクスの唯物史観やヘーゲルの自由主義史観、或いは戦前の皇国史観など一連の歴史哲学を検証して見たい
これらの歴史哲学、或いは歴史「科学」の母体になっているのが宗教である事は間違いない
超越者が存在者の運命を操り、歴史を思うままの方向に進めて居ると言うのは洋の東西を超えて普遍的な思想なのではないかと思う
古代中国の天命思想なんかにもそれはあったと思う
また、存在と言うのを眺めて見るとその本質は変化にある
日本国と言う実存にせよ、人間と言う実存にせよ、宇宙そのものにせよ時間の中で変化していくのだ
この変化(進化)を推し進めて行く無数の縁起、或いはその運動をヘーゲルは「弁証法」と言ったのだと思う
我々の存在もそれぞれが相互に関係し合い、生成消滅していく事に依って、それぞれが歴史の進歩を推し進める要素と成って居るようなのである
そういうアプローチでは、やがて限界が来るよ。
まあ、それも一つの過程であるのだが。。。
29 :
1:2006/02/21(火) 20:10:01 ID:MHRosdzp
>28
どういうアプローチが良かろうか
この通りじゃ、教えてくれ
30 :
月見うどん ◆Zbk.TrDrMY :2006/02/21(火) 20:26:37 ID:hZRh1f/a
宗教というカテゴリーの中で「真理」考えるのであれば
3つのパターンのいずれかになるのではないか?
@人格を持つ「神」の存在を肯定する
A「法」「法則」としての普遍的真理の実在を肯定する
B以上については不可知ではあるが、「それ」に至る
階梯を認める。
Bについて補足すると、目指すべき「もの」が人格を持つものか、
人格を持たない「法則」であるか判断を保留し、その「もの」自体
よりも「階梯」自体を重視する。
31 :
名無しさん@3周年:2006/02/21(火) 20:53:58 ID:bOhHp9e5
========================
≪希美(のぞみ) ◆55nynIr58w警報≫
・上記は”心と宗教板”に対し度重なる猥褻投稿、自慰行為の実況中継、自称本人の無修正・性器写真を頻繁に掲載しています。
・カトリック信徒を名乗ることもありますが、カトリック教会とは無関係です。利用者はご注意ください。
・なお、彼女がこういった不道徳な行為を改めた場合、以上の文章は削除され、警報も解除されます
32 :
名無しさん@3周年:2006/02/21(火) 20:58:03 ID:P6wDekIt
究極の宗教なんてイラね
>>25 お金を絶対化することは、間違いです。
お金は人を助ける道具、愛するための道具です。
そのための道具であるお金、たくさん得ることは、大切です。
お金は人を助ける道具ですが、お金を得る為に使うお金は
いったい誰のためなのでしょうか?
今日発売の、日経ビジネスAssocieの表紙が素晴らしい。
この表紙だけで、一つの教義と言える。
1冊買ったけど、明日もう1冊買おうかな。
カントがイエスの黄金律に反論してるのは凄みがあるな。
37 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:11:50 ID:RiMslBbW
>>25 お金を儲ける行為自体は善でも悪でもないしどんどん儲けりゃいいんだよ、
だが己の器が小さければお金がよってこない。きてもすぐ逃げていく。
自分が病気になったりとか事故ったりとかで出て逝っちゃうもんなんだ。
自分がdreamとして目標を持ちそれが正しければお金も自分に
集まってくる。つまり愛とお金は同一線上にある。
38 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:18:08 ID:sAZfzncg
748 :名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:09:50 ID:sAZfzncg
● __( "''''''::::. ドピュ
● ● ● ● ____,,,,,,---'''''''"""" ヽ ゛゛:ヽ
● ● ● ●:"""" ・ ・ . \::. 丿
● ● ● ●::: ・......::::::::::::彡''ヘ::::....ノ
● ● ::::::::::;;;;;,,---"""
749 :名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:14:53 ID:sAZfzncg
皆様、希美が来てから、このスレ卑猥になったでしょ!
191
39 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:39:33 ID:sAZfzncg
752 :名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 00:31:55 ID:sAZfzncg
希美は消えろ。
>>37>つまり愛とお金は同一線上にある。
同意。
既存宗教は、お金を軽視する。
だから本当の愛が、出ないのかなと思う。
41 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 01:03:28 ID:WW59wn8e
希美はNGワードにしときますた
42 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 01:04:46 ID:R6+4di8O
1の考え付いて行き詰ったとこまで述べよ
そこからだ
43 :
希美 ◇55nynIr58w :2006/02/22(水) 01:07:21 ID:sAZfzncg
私のアソコ素敵よ。
44 :
1:2006/02/22(水) 07:14:33 ID:fRQ1rL4D
42
哲学の限界というより、個人的な限界に突き当たってしまった
つまり、動機が愛に基づかない故に、段々馬鹿馬鹿しくなって来たのだ
金儲けも同じだと思うぞ
要は、愛も金もそれほど重要ではないってことか?
それとも、もっと、重要なものがあるってことか?
別に答えんくてもいいけど。
46 :
1:2006/02/22(水) 07:46:52 ID:fRQ1rL4D
青年の心に愛の炎を燈すのも縁起であると思う
仏教説話では宇宙窮極の真理を求めて彷徨するスメーダ青年は或る仏との出会いを契機に己の行いの空しさを悟るのである
仏はジャストタイミングでスメーダ青年の前に姿を現わすのである
所で、愛に関してだが、これは人間の無意識や本能に反した非常に高度に理性的な産物であり、アポステリオリな性質を持つ
故に常に無意識や本能の風雨に依ってかき消される可能性がある危うい燈火なのだ
万物をあらしめている縁起の哲理を見抜いたとしてもし菩提心が消えてしまったらその悟りになんの意味があろう
愛なき空虚な心が求めるのは破壊じゃ
愛が無くても原子爆弾は造れる
むしろ愛着を否定したところに縁起の哲理が見えて来るのだ
再びこれ、否定し愛に回帰せねばなるまい
菩提心を守り続け縁起を悟り、愛の為に知恵を用いる
こうなってこそ、最高にポジティブな存在者(仏)が成立する
しかし、下手をすると最大にネガティブな存在者、破壊の化身みたいなのが生じる紙一重にある訳で
仏はそういう存在者も一応一定程度作っては居るように思う
ナポレオン、織田信長、堀江門みたいな存在者である
彼らはある意味仏と紙一重の存在なのだ
47 :
1:2006/02/22(水) 07:55:11 ID:fRQ1rL4D
金だとか愛だとかを否定した所に見えて来るのが因果の世界だろう
要するに科学者が仮設的に眺め見る世界だ
最も、凡人でも未来を想定して今を生きて居る訳であり
仏の住む四次元空間に半歩は足を踏み入れて居るのだ
48 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 08:21:24 ID:YrwUgiNp
仏陀のコピーなら新宗教にならんぞ
普通に仏教やったほうがええ
49 :
1:2006/02/22(水) 08:33:04 ID:fRQ1rL4D
既成の思想を乗り越えずして新宗教も無いだろう
既存の思想をすべて消化した上でさらに一歩踏み出す事が重要
さもないと低級な「新興宗教」に堕してしまう
既存の思想宗教を統一し人類の新たな幕開けに相応しい思想を打ち出す事
これが目的なのだ
究極と称する限りはブッダもアインシュタインもヘーゲルもイエスも包含しなくてはならない
地上に存在する人類の一切にして「なるほどもっともだ」と言わしめる思想
それが窮極の哲学であり宗教なのだ
50 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 08:35:57 ID:QQM9wSPJ
ブンセンメイも麻原も似たようなこといっとったぞ。
51 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 08:36:59 ID:QQM9wSPJ
キリストや仏陀でさえ為しえなかったことがここで為せるとは思えなくなってきちゃった・・
52 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 08:38:19 ID:QQM9wSPJ
>>49 包括経過で仏教マスターした時点で解脱しちゃうんだからそこで終わっちゃうじゃないのさ
53 :
1:2006/02/22(水) 09:20:50 ID:fRQ1rL4D
窮極宗教は勝手に生じるのであり人間の意思で造ろうとして造れるのではない
しかし、そろそろ、そんなものが生まれて来ても良い頃なのではないか
と言う「想い」が在るの事実なのだ
そういう想いが人々の心に存在すると言う事は現在と言う時代はいわば思想の戦国時代と言う訳だ
この板の在れ様を見てもそれははっきりして居る
54 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 09:29:28 ID:f0jJoQis
思想自体はムカシとさほど変わっていないだろ
しょせん焼き直しだよ。
55 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 09:32:33 ID:BuVJJbZj
ブッダもイエスも弘法大師もモーツァルトもヘーゲルもアインシュタインもOpen Sという規定で統括される。
56 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 09:57:17 ID:BuVJJbZj
ベートーヴェンも1812年以降はOpen Sであった。
57 :
1:2006/02/22(水) 10:06:01 ID:fRQ1rL4D
「愛情なき人間と共に暮らす事は苦である」
まさにその通りですね
見知らぬ他人と共に生きていくと言うのはストレスです
しかし考えてみて下さい
貴方の親兄弟や親友だってかつては見知らぬ他人の一人では無かったですか?
ならば見知らぬ人同士でも肉親の様に親友の様に付き合える可能性はあるのではありませんか?
幼子の様な純粋な気持ちを取り戻せば何も恐れる必要は無いのでは無いですか?
58 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 10:06:56 ID:BuVJJbZj
59 :
1:2006/02/22(水) 10:18:08 ID:fRQ1rL4D
考えてみてください
世間の人同士が皆家族の様に相親しみあったら何も心配する事は無いのではないですか?
見知らぬ人を幼子を抱き抱える母の様な気持ちで慈しむ事が出来れば‥
貴方は他者に鬼を望まないでしょう
ならば貴方も他者に取って鬼としてではなく聖母のように現れたらどうですか
見知らぬ人は貴方を愛し信頼するのではないですか?
私は他者に対して鬼では無く菩薩でありたい
またなるべくなら鬼では無く菩薩と出会いたい
ならば菩薩として生きましょう
この世を鬼の住む世にしては成りません
しかし気がつくと私や貴方は鬼に成っています
地獄はこの世です
菩薩ばかりが住む世界ならばそりゃ天国です
絶えず天国たらしめましょう
彼岸の世界に天国を見るはこの世が地獄だからじゃ
地獄にあっても我々は敢えて菩薩道を行こう
「地獄に仏」の仏になろう
60 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 10:30:47 ID:BuVJJbZj
弥勒菩薩が地球に生まれる頃には地球は太陽に飲み込まれて消えているよ
61 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 10:36:14 ID:BuVJJbZj
俺が弥勒菩薩だったら良かったんだけど無理みたいだね。
62 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 15:00:00 ID:CTGAAoaJ
新しき啓示 明日の神
この2冊の本に、究極の智慧が書いてます
63 :
名無しさん@3周年:2006/02/22(水) 20:35:55 ID:sF5x1Ubx
究極を知らずに、究極を語ってもしょうもないぞ。
人はそれぞれに言う「これぞ究極である」と。
だが、それは究極ではない。
>>1 お前はエライな。少し協力してやろう。
まず、悪人は悪が楽しいからやっている場合もある。
宅間みたいに場当たり的犯行しかできない人間は、実は真の悪ではない。
インチキ宗教の教祖や、不正官僚みたいに積極的に金、快楽を求め、
要は「勝ち」を狙っている連中だ。
哀れな子羊”自称”善良な市民どもは、心に恐れが満ちているから、
上記の「勝ちを狙う」連中も戦々恐々で悪事を働いていると想像するかもしれないが、
それは違う。そもそもの勇敢さ、胆力が違うのだ。
特別な思考、覚悟で、それを擬似的に作っている奴もいるかもしれないが、
それはケースバイケースだろう。
要は真の悪人は「愛」など求めていないという事だ。
自己実現による狩猟的な喜びが彼らの生きる糧で、心は満たされている。
だから究極を目指すなら「愛」に勝る報酬を用意しなければならない。
期待しているよ。
65 :
1:2006/02/23(木) 15:43:38 ID:kdarKGA1
北斗の拳でいえばラオウとケンシロウみたいなものだが
この例でも分かるように最終的には徳のある方が勝つのである。
悪徳の持ち主が一時的に勝ち上る事はあっても
人を踏みにじるような人間は反逆の種を撒いて歩いて居るようなもので必ず失脚する
こりゃ道徳では無い
社会科学である。
あらゆる歴史的データがこれを証明して居る。
66 :
1:2006/02/23(木) 17:34:53 ID:kdarKGA1
64
放っときゃいい
そのうち消える
彼らはその悪運に依って「偶然」存在して居るに過ぎないのだ
消滅したくなきゃ改心してこの世の理法に従うしかないのだ
ちなみにヘーゲルは神の意を現実化するのは国家の法律だと言って居る
法が非現実的なものだとそのまんま悪がはびこる事に成る
悪の存在意義とはそれだけのことなのだ
67 :
名無しさん@3周年:2006/02/23(木) 22:04:15 ID:HPUc/QTK
>>1さん、あなたの理想を達成するためにはミハイル・プレトニョフというピアニスト・指揮者のCDを聴くことをお奨めします。
68 :
1:2006/02/24(金) 08:41:31 ID:lCNd7WsP
64
非常に重要な指摘だ
しかし実際は突発的な分だけ宅間の方が厄介な存在だろう
理非利害を説いても動かされん訳だからな
血に飢えた狼のようなものだ
君子危うきに近寄らず戦法がベターだが
向こうから一方的に接触して来る可能性もあるし、仕事上、そんなのと付き合わなくては成らない可能性もあるだろう
取りあえず、警察官の数を2倍に増強する事で一定の解決が計れるのではないかと思う
しかし馬鹿マスコミが国家権力の肥大化に反対しはじめたりするので困ったもんである
泣きを見るのは善良な市民だ
69 :
1:2006/02/24(金) 09:20:35 ID:lCNd7WsP
宅間とは『パックマン』で言うとモンスターみたいなもので、接触すると菩薩と言えども死ぬ可能性がある
それ位、負のパワーがでかいのだ
70 :
1:2006/02/24(金) 19:08:43 ID:lCNd7WsP
人生を幸福にする法則
人を信じ、神を信じ家族を信じ、社会を信じ、有りとあらゆるものを愛する心
これさえあれば大抵の事は上手く行く
究極宗教はさておき、幸福になるためには「信愛の心」を持つだけで十分
しかしつい人間は他者や世の中に疑念を抱いたり不信を抱いたりする
さらには嫉妬、怒り、その心に魔が付け入り誰も何も信用出来なくなる
こうなったら人間ももう終わりだ
こうならないようにしたい
しかし常に心のすきを魔は付けねらっている
不動明王に踏んづけてもらいたい
このような魔を
ハァ!ツァ!トリャ!と常に心に忍び寄る魔を浄化せねばならない
何か良い方法ないかね
71 :
1:2006/02/24(金) 19:13:31 ID:lCNd7WsP
嫌な言葉をかけられたら心は傷つく
傷ついた心は放って置くと命取りになる
しかし世の中で生きるとは毎日のように暴言悪口にさらされる事でもある
いつの間にか、気がつくと不機嫌な人として存在してしまう。そして不機嫌な態度を取り、不機嫌な人を増やしてしまう。この悪循環を断ち切りたいものである
72 :
まだ名前はない:2006/02/24(金) 19:16:19 ID:S0cDRxci
>>70 そんなのかんたん
死ぬか、無人島で自給自足する
あ、、、浄化にならないかあ、、、
やっぱ、死ぬまでこの世で生きていく事が
案外と浄化する力を身につける方法かもね
73 :
1:2006/02/24(金) 19:20:32 ID:lCNd7WsP
と言うのも不機嫌な人は嫌われるからね。ますます不機嫌になる。
機嫌がよい人は好かれるからますます機嫌が良くなりますます好かれると言った循環があったりする。
太陽のようにひたすら世の中を照らし、凍えた人の心を暖めるようなそういう人になりたいものである。
しかしどうすればなれるんでしょうか
人の世は同時に、妬みやっかみ中傷で満ち溢れ、ともすると我々は他者に嫉妬ルサンチマンを抱きがちです
気がつくといつもプンプン怒ってるいやなおっさんおばさんになってたりしかねません。
74 :
まだ名前はない:2006/02/24(金) 19:22:05 ID:S0cDRxci
>>71 「心」には姿かたちはなく
「言葉」にも姿かたちはない
心が傷ついたと思う、あなたの考え方を断ち切ればよいのでは、、、
75 :
1:2006/02/24(金) 19:27:26 ID:lCNd7WsP
72
しかしいつもニコニコ機嫌良く皆に愛される人も皆無ではないよ。
そういう人は少数ながら居る。
なにか秘訣があるのだろうか。
そういう人ほど本来、心は傷つきやすく、心を閉ざしやすいと思うのだけど
にもかかわらず、この人の世の中で、愛に満ち溢れた、感じのいい人も確かに居る。
その人の前に出ただけで癒される、元気になるというような人が。
76 :
まだ名前はない:2006/02/24(金) 19:36:12 ID:S0cDRxci
>>75 秘訣はすでに、あなたが
>>70で書き込まれているのでは、、、
全てを信じ、愛し、感謝シル!!
時は一瞬一瞬過ぎている
人からの、ナイフのような言葉暴言に傷付く日もあるが、とらえ方だと思う
あ〜暴言を、吐く奴はストレス人間だなと理解すると、良いですな
執着依存せづ今を、生きたい!
78 :
1:2006/02/24(金) 19:42:31 ID:lCNd7WsP
人間不信は成育環境で植え付けられる
虐待され続けて育った子は、やはり世の中に対する不信感を何らかの形で持ち続けるだろう。
幼少期、他者に思いっきり受け入れられた経験の持ち主は世界に対する信頼度が高いなんて説もある
まぁ有り得る事だろう。
虐待された子なんかは「オピオイド」という脳内麻薬が過剰分泌され、無感動、無表情といった性格が形成されてしまうという。
これにアドレナリンが加わると「騒音おばさん」そのものである
79 :
1:2006/02/24(金) 20:05:52 ID:lCNd7WsP
そうなんだよ
経験上感謝の心を持つと気持ちがすーっと楽になるような何ともいえない満たされた感情がわき上がる。
皆さんに感謝です。僕がかく存在するのも「有りとあらゆるもの」のお蔭であり。皆さんは俺をあらしめている根拠でもあるわけです
また俺は皆さんをあらしめている根拠の一つでもある訳です。
みな繋がってる訳です。
という哲理に気がつくと感動したり感謝するきっかけがベラボーに増える訳で
自然に、「ああ俺は有りとあらゆるものに守られ、助けられていてるんだなぁ」、と実感し、感謝の機会が多くなり、或いは「ああオレ自身があらゆるものを助け守る縁にもなっているんだな」という自覚も得られいつもニコニコという事もあるかもしれない
逆に、己の存在が有りとあらゆるものを傷つけ、消滅に向かわせる縁を形成していると思うと罪悪感で一杯になり、卑屈な気持ちや不安な気持ちになるのではないか
善き因縁を形成する主体は感謝される機会も多く、一方悪しき因縁を形成する主体は憎まれ、世の中からどうせなら消えてくれ、機会があれば切り捨ててしまおうとされるような存在な訳で
こんな存在であれば欝になるか病気になるかどっちかであろう
どちらにせよ長いことはない
逆に善い因縁を形成する主体はなるべくこの世に止どまって欲しい
有り難い有り難いと思われる存在なのだから
生きてても毎日楽しいんじゃなかろうか
80 :
まだ名前はない:2006/02/24(金) 20:19:05 ID:S0cDRxci
「知識」
長い年月をかけて人類が積み重ねてきた知識によって
人類は一瞬に滅ぶ可能性が出てきた、、、
今からの人類は「心」の成長を最優先すべきなのである
81 :
1:2006/02/24(金) 20:29:57 ID:lCNd7WsP
私の在り方が宇宙に取ってネガティブな因を形成すると宇宙は総力を挙げてオレをたたきつぶしにかかる
一方、私が宇宙に取ってポジティブな因縁を形成しはじめようとすると全世界は総力を上げてその個を助けようとする
そういうメカニズムがどうやらあるようである。
世界に取ってポジティブな縁を形成するよう勤める事
他者を助け、愛し、楽にするように働きかける事
このような存在を否定するような事が出来るだろうか
自分を無我夢中に愛し、信頼してくれる存在を切り捨てる事こそ人生最大の苦痛ではないか
一方人生最大の快は自分を愛し助けてくれる存在を愛し助け抱き締める事ではないか
まずは宗教を「社会を良くする為のフィクション」と考えることを止めることだ。
真善美は「真」から始まる。例え善意からでも事実でないことを信じこむ
という過程自体が著しく暴力的であり、破壊的な行為だ。
真実とは各人の外側に在る、誰でも手に取れる公共物みたいなものだろう。
自分の所持品、即ち「信仰」でもって事実、真実を圧殺した場合は、
然るべくして滅亡する。正確には「事実=世界」で無い、別な世界に導かれる。
ここは「心と宗教」板だが、心、経験と、宗教、世界はバラで考えろ。
そして判る範囲からつなげていけば良い。
いきなり「因縁」みたいなものを盲目的に信じるのが「真」の道か?
もちろん「偽」から始まる究極の宗教が作っても構わんが
俺には想像がつかんね
>>80 オカ板の教会では世話になったな
私事に追われていてログも取り損ねたよ。
ところで「心の成長」とは根源的な解決であり
格闘技でいえば己が肉体を鋼と化す、空手みたいなイメージがある。
では逆に心の不完全性を認めた上で、それを完全に制御する
いわば合気道みたいな道はなかろうか?
近代法やユダヤ教は、それに近い試みかもしれない。だが不完全すぎる。
仏教、キリスト教=空手、近代精神、ユダヤ教=合気道をミックスさせるか?
格闘技の世界では大方、総合=最強になっているが精神の世界はより複雑だ。
84 :
1:2006/02/25(土) 18:55:18 ID:IsYyOZxt
君の言う事はもっともだ。
縁起説に限って言えば釈迦自身その実在性を否定して居る、元より仮説的な教えなのだ。
85 :
1:2006/02/25(土) 19:22:41 ID:IsYyOZxt
82
例えば「世界精神が求めて居るのは何か」と言う形で考察して見ても良いと思うぞ
あくまで事実を根拠にしてね
>>85 デカイ概念を取り扱う際は言葉の意味に囚われすぎないようにな。
極端な話、方向性が正反対の全く同一の存在というのも在りえる。
存続を望む善、破滅を望む善、存続を望む悪、破滅を望む悪、
これら全ては現実に存在し、全て「人間」という枠でくくられている。
こういった言葉、意味を超えた一種のうねりを制御できたら
果てしなく究極に近いだろう
87 :
1:2006/02/25(土) 19:44:34 ID:IsYyOZxt
まいいや
ラレイヴさんの提案を踏まえて発言しましょう。
所で真理とは何か
真理=神=世界でいいですか?
>真理=神=世界でいいですか?
俺に聞くなよW
キリスト教徒に言わせれば目に見える「世界」は神ではない。
だが俺は目に見える世界こそが神だと、はっきり言おう。
でも、なんやかんやで真理は真理。誰が決めるものでもない。
だから君が「紛れも無い」と思う事を語っていくしかない。
「因縁」についても
>>1から今までの君の口ぶりから
道具主義的なものを見受けたから批判したまでで、案外やろうと思えば
実証その他で「紛れも無く」できるかもしれない。
89 :
1:2006/02/25(土) 20:08:20 ID:IsYyOZxt
いや目に見える世界が神で無かろうと我々に取っては五感で感じ取れる世界しか手掛かりは無い訳です。仮に世界の外に神を置こうと我々は外側の世界をしりようがない
神が何を思ってこの世界を創ったのかと言う事に関しても我々の五感に現れる現象を通してしか考察出来ない
>>89 やはりおまえは、こちら側即ち「この世」に属する人間みたいだな。
だからこそ協力する気になった訳だ。
しかし、ただそれだけの事で物質的、実証的である事は「真」とは関係無い。
例えば人類がみな死ねば「あの世」はフィクションではなく「真」そのものに成る。
具体的な内容はともあれ、少なくとも物質、実証とは無関係になる。
そして現代は「あの世宗教」であるキリスト教、(真の)仏教の
この世側の勢力に対する攻勢の、総仕上げに近い状態だ。
おまえの希望、経験、感情は人類の総合的な流れからは外れている。
言うなれば苦労を知らない日本人ならではの発想だ。
「地上」を選択した俺は可能な限り、おまえを助けるが
基本的に自分で考えろ。俺にも策は無いから、いちいち発言を待つな。
91 :
まだ名前はない:2006/02/26(日) 21:31:31 ID:bjLS9bl8
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/::::', / ノ、___ノ 〉
.,'::::::::i,へ/ 「 ̄ヽrー´i l  ̄iイ::|
92 :
1:2006/02/26(日) 21:42:56 ID:mKaMZAxn
>スレイブ
悪いが俺はもう他人の変わりに考えてやるのはやめたぞ
お前も自分で考えろ
あの世勢力の攻勢と言うがそりゃ現象だけ見てるからそう見えるだけだ
歴史の流れの本質を見よ
93 :
1:2006/02/26(日) 21:54:29 ID:mKaMZAxn
人類が皆死んだら何であの世がフィクションでなくて真になるんだよw
何でお前がそんな事を確信を持って言えるんだよ
一回死んだのかと問い詰めたい
94 :
まだ名前はない:2006/02/26(日) 22:02:10 ID:bjLS9bl8
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/./ / .l::::::::::::::/|::::::,!,!|:::_,ノ| ``ー---‐'" ト_ ::::::l !::::::::|l:::|l::::| !l
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. / ./:::::_, -'"::::::::``= ヽ::::::::::::::ヽ、ヽ / / :::::::::::::::!、 " ! ヽ! l:::l !.!
/ . / /ヽ: :: :::::::::::::::::::::ヽ:::::::::::::::::: !、 У ,/ :::::::::::::::::ノ`‐~~::::::::::::ヽl. | |
ていうか、スレイブでなくてライデブ、、、
>>91 紅茶dクス
>>92 俺も自分で考える。自分なりに最短最速、最合理を目指してな。
究極は究極、真理は真理で動かないものだろうからな。
ただし人間が全滅したら真理も糞も無くなる。
だから探求のプロジェクトは最速であったほうが良いだろう。
>あの世勢力の攻勢と言うがそりゃ現象だけ見てるからそう見えるだけだ
>歴史の流れの本質を見よ
これは考え直したほうが良い。
>>89のおまえの言葉は卓見だったぞ?
「本質」という言葉が真理ではなく、屁のつっぱりみたいなフィクションに
結びついているケースは非常に多い。最初のおまえの論のほうがイイ線いっている
と、思うよ。
>>93 この世に誰も居なくなる、という世界が「あの世」で無ければ何が、あの世だろうか?
色々な宗教が実証不可能なフィクションを並べ立てて、あの世を描写しているが、
この世、即ちこの物質世界以外という所は共通だ
補足するが俺は仏教、キリスト教=あの世宗教と断定してはいない。
両者共に叡智の源である「自由」を獲得する理論でもある。
叡智とは目的を的確に実行する「理」を知る事だが、
恐怖、怒り、自己本位の論理は目的を霧の中に隠してしまう故に、
叡智と正反対の存在で、全ては肉体に依存している。
しかし大方のキリスト教、仏教の愚かな点は肉体に依存する「間違いの元」
を消す為に、肉体からの欲望を否定し「極楽浄土、天の国」という別世界に、
欲望を向け現実逃避するだけでなく、欲望を否定するための殺し合いまでする始末だ。
古代ユダヤ教では人間の「意」が主で「欲」が僕である事を説いていたが、
キリスト教、仏教では全て欲だ。肉体に依存する間違いの元を捨てる為に、
肉体を養うという当初の「意」まで捨てた盲目状態に陥っている。
イエスキリスト(あるいはヤハウェ、アラー、大日如来)は宇宙よりもデカイ。
なぜなら宇宙が死んでもイエスは絶対生きる筈だからだ。
イエスの「死体」には再び完全な復活の命が宿り、40日間弟子達に教えた後、天に昇っていった。
この部分がキリスト教の真の核心(「福音」)であり、仏教・イスラム教などと完全に隔絶させる超常識的教義である。
99 :
1:2006/02/27(月) 08:31:58 ID:T68trqPF
97
俺もそう思うよ
神(無限)から見ればこの宇宙は胡麻粒みたいなものだろう。
100 :
1:2006/02/27(月) 08:56:58 ID:T68trqPF
我々科学者のしてる事と言えばこの胡麻の木の胡麻粒の機能と構造、その由来、全体像を研究しているにすぎないのだよ
しかしこの胡麻の実に湧いた人間と言う虫けらは何とも興味深い生き物であろうか。
愛でたい愛でたいと思ってらっしゃると思うよ。
何故なら宇宙と言う胡麻粒の構成要素たる地球に湧いた虫けらの中でこの虫けらが繁栄しているのは現時点での紛れも無い事実だからだ
害虫ではなく益虫であると現時点では判断してるんじゃないかな
101 :
1:2006/02/28(火) 05:48:47 ID:NsqtXNPb
ところで、神を立法者とする共同体、それを教会という。ただし啓示宗教のような
歴史的・経験的宗教ではない理性宗教にあっては、教会は「見えざる教会」であり、
「見ゆる教会」ではない。ささに言えば、それは内なる教会であって、外なる教会
ではない。つまり外形を有する教会ではない。しかし「見えざる」とはいえ、この
教会は一切の「見ゆる教会」の原型であり、そのかぎりでつねにそれらの根底にお
かれなければならない理念である。逆に言えば、「見ゆる教会」は「見えざる教会」
の単なる派生形にすぎないのである。(中略)この関係は、先に見た唯一の理性宗教
が諸々の歴史的信仰形態の原型であるのとパラレルである。この関係は転倒されるべ
きではない。通常は人間はこの関係を転倒させて考えているが、それは再び一種の仮象
であり、この仮象は人間本来の特殊な脆さに由来する。したかってここでも再び、転倒
そのまた転倒がなされねばならない。
このような純化によって言えること、それは、
「存在するのは唯一の(真なる)宗教である」。
この命題には宗教的厳格と宗教的寛容とが一体化している。まず、この命題は宗教の
唯一性を主張しているというだけで、すでに十分厳格である。次に、その宗教とは理性
宗教、道徳宗教という意味で、いっそう厳格である。しかし同時に、唯一の宗教が他の
諸々の宗教形態の基礎であり、この基礎が他の諸々の宗教形態を成りたたしめている
という意味では、カントの宗教論は寛容であり、ふくよかでさえある。なぜならそれ
は、宗教形態そのものの相違はもちろん、同じ宗教形態にも宗派のちがいや信仰形態
のちがいその他が見られるが、それでもなおそれらの中に同一の真の宗教が見られる
ということを意味しているからである。
―――『カント入門』(石川文康著、ちくま新書)より
103 :
1:2006/02/28(火) 06:36:38 ID:bXYcDVOG
>101
綺麗な日本語じゃと思ったらプロの書いた文章じゃったか。
「天空の星空と我が心の道徳律」だったか。しかしニーチェはカントの道学者っぷりに憤慨して居たようじゃの。
この「道徳律」すら取っ払い、宗教に汚染される以前のまっさらな心で生きる事を主張したのかも知れん
すると内なる教会すら残らん訳じゃ
宇宙神に取って道徳律など「馬鹿の壁」じゃろうからな
なにワシの口振りは別スレのキャラを引きずってるのじゃ
気にせんでくれ
104 :
あぎと:2006/02/28(火) 07:49:18 ID:I9mNVvX2
イスラムの創世記は、「2人が神に謝罪してる」そうです。だから、「責任転換」という「原罪はない」。
だから、「イエスは預言者でいいはず」です。「原罪」は普通に創世記見れば
分かります。でも「バチカンは、神秘で理解できない」といってるそうです。
2000年も。
105 :
1:2006/03/01(水) 07:39:06 ID:BJL9Eohr
精神分析と宗教―@
精神分析とは人間の神経症的不安に着目し無意識と意識の統合を目的とし人格の十全な発達を図る技術である
我々は他者と関係する事によって自己の性格の膨大な部分を抑圧する場合がある
抑圧された自己は意識されず、それゆえに支配出来ない
支配出来ない自己は自我にとって自我を脅かす不気味な他者として現れる訳である。
人間の不安に着目した思想家としてハイデッガー等が居る
彼は不安とは実存と存在の分離であると述べて居る
即ち、多くの人間は真実の自己から目を逸らしており、そのことにより罪悪感や不安感が生じるのであると考えた。
また、宗教にしてもそれは人間性を抑圧するものでもあった
あらゆる宗教の神は在るがままの人間を拒否し地獄に落とす恐るべき父で在った
天父に気に入られるためには己を抑圧し、去勢し、ありのままに振る舞う存在を否定せねばならなかった。
106 :
1:2006/03/01(水) 07:49:43 ID:BJL9Eohr
精神分析では自我が発達して居る
発達して居ないと言うような事を言う。
自我とは本能と規範に挟まれその調節を図る機能のようなもので在った。
ノイローゼ患者は本能を無視し規範にしがみついて人生を枯らし生の意欲を失って行くか或いは本能に支配され本能のままに生き社会生活が破綻すると言うパターンに分けられる。
彼らは自我が弱いので意識と無意識を支配出来ずに居る。
それゆえ自我を強化せねばならないとか言う話になる訳である。
107 :
1:2006/03/01(水) 08:10:41 ID:BJL9Eohr
巷に溢れて居る言説として「強さとは真の自己を直視する事である」などと言われる。
なるほど自己を偽って生きて居る人間は主人を恐れ己を否定する奴隷に似て居る。
宗教とはかつて奴隷解放の原理でもあった。
万人司祭主義を取るプロテスタントらは各々が神の奴隷として生きる事によって如何なる地上的権威の束縛からも自由であろうとした。
自由主義を徹底して行くと究極的には神をも切り捨てる事になる。
ニーチェの神は死にたもうたと言う宣言
精神無き大衆人時代の幕開けを嘆いた言葉であると言われる。
大衆人の自己実現とは現世でいかに自分の欲望を実現して行くかという「低さ」が特徴なのである。
108 :
1:2006/03/01(水) 08:34:43 ID:BJL9Eohr
神無き時代でいかにして高貴な精神を実現して行くかと言う事を考えた思想家にヘーゲルが居る。
彼の有名な言葉に「現実的なものは理性的なものである」と言う言葉がある
即ち現実を支配する理性的秩序を見ぬきそれを実現する事こそが人生の目的であると考えた訳である。
聖書の教えを忠実に実現して行くプロテスタントに対し
ヘーゲルは現実の中にこそ神の意志があるのであり、現実を生き現実に否定される事により個別的主観性を脱し、客観性社会性を身に着け
究極的には宇宙を支配する理さえ自己のものとし、人間は神性を身に着けると言った内容になって居る。
強固な自我と言えばこれほど強固な自我も無いであろう
これに対して無意識や性と言う不確定要素があるよと指摘したのがニーチェやフロイドの論理であり。むしろ、意識に反するもの、悪魔的なもの、人間のちんけな理性に対する不合理な情熱こそ神なのだと逆転させた訳である
理性は人生を枯らし生を萎縮させる
むしろ悪を為せ!自我体制からはみ出した悪こそ我々を喜ばせるものは無いのだ!‥と。
ニーチェは今から見るとノイローゼ患者であった
フロイトもそうであった。
自己分析を通して不安の正体は意識が気付きもしなかった己が存在する事の不安であると言う事を指摘した訳である
夢は精神分析の王道であると言った
夢とは意識に取ってヘンテコな世界であるがこの夢の中にこそ真の自分の願望が現れていると考えたのである。
さらにこのフロイドの理論を批判的に受け継ぎ独自に発展させたのがユングであった。
109 :
1:2006/03/01(水) 09:20:41 ID:BJL9Eohr
ユングの功績の一つに精神療法の目的は患者の個性化の手助けをする事であるとした事が上げられる。
ここで治療者本位の治療から患者本位の治療の転換が起きたのではないかと思う。
患者をある種の型にはめるのでは無く、患者の個性に応じた自己実現の道があるのだと彼は主張した訳である。
私は堕天使ライレブの中の人なんだがw今後はオカ板で使っている、このHNで
いかせてもらうよ。思ったより口調、キャラの使い分けってマンドクセ(’A`)
>精神分析と宗教
「汝の欲することを施せ」という黄金律以上の慈愛の法則は
「その者の欲することを施せ」である。という結論がユングの精神療法かもしれない。
これは、その通りであるかもしれないが「その者」の抑圧された自我の欲求を知る事や、
ある者とある者の、欲求の競合にどう折り合いをつけていくかも難行であろう。
そして、この道を歩んでいく際、はっきり言ってセンスが合わない
即ち「愛し得ない」欲求を、対象、その者の為に行わなければならない事もある。
慈愛の法則には通常の好悪、愛と異なる何かが含まれる。
この倒錯した状態を回避する為に「人類」や「理想」などの言葉を用い、
目の前の「その者」から逃れる技法も多々、追求されており、
イデオロギーや宗教が、その道具となる事もあるが、
その実効性の無さを考えると、2000年前のイエスの言葉
「汝の敵を愛せ」に立ち返らなければならないかもしれない。
111 :
1:2006/03/07(火) 21:13:51 ID:NLh/zCJl
究極宗教の黄金律はズバリ「神の欲するところを為せ」である。
そういう意味ではイエスの黄金律もユングフロイドの黄金律も包含される。
では神の欲するものとは何か。
それは創造であろうと思う。
神は宇宙開闢以来ありとあらゆるものを創造してきた。
人間もそのひとつである。
神が長い時間をかけて創造してきた人間に望むのが己の創造してきたものを無に帰す「破壊行為」であろうか。
人間は偉大な創造的能力を持っている。地球上に存在するもので、もはや人間の手が加えられていない事象を見つけ出すことが
困難なくらい、人間の創造力はあらゆる事象に行き渡っている。
たとえば、私が今存在する空間。漫画喫茶だが、これは一切合財が人為の創造物である。
パソコン、テレビ、イス、壁、電話、蛍光灯、コーヒーカップ、伝票。。私以外を除いて、すべてが人工物である。
(略)
ちょっと古いが、精神分析家のフロムが『悪について』の中で、人間性に潜むネクロフィラスな傾向とバイオフィラスな傾向について分析している。
この論文を元に、創造と破壊、ナルティシズム、愛などについて検討してみようと思う。
112 :
名無しさん@3周年:2006/03/08(水) 21:42:07 ID:uJnQQnHG
サーンキャ哲学
カピラを開祖とする婆羅門教の一学派。教論と漢訳される。世界は精神原理
プルシャ(神我)と物質原理プラクリティ(自性)からなり、物質原理はサットヴァ
(純質)、ラジャス(激質)、タマス(翳質)に分けられる。物質原理が開展すると
根源的な思惟器官であるブッディ(覚)、さらに自我意識であるアハンカーラ
(我慢)が現われる。根源的な思惟器官を精神原理と誤認すると、輪廻と苦の
原因になる。ブッディとアハンカーラ、ならびに微細な五つの要素からリンガ・
シャリーラ(微細身)が形成され、輪廻の主体となる。この知恵を獲得して、
精神原理を物質原理から独立させることによって、解脱が達成されるとする。
パタンジャリ
ヨーガ学派の開祖、『ヨーガ・スートラ』の作者とされる人物。ヨーガとは
「心作用の抑制」を意味し、瑜伽、相応と漢訳される。ブッディ(統覚器官)、
アハンカラ(自我意識)、マナス(思考器官)、の三つをチッタ(心)とし、
最高神イーシュヴァラを立てる。その修行法については、シュタイナー
『神智学の門前にて』(イザラ書房)の第一三講を参照されたい。
司馬遼太郎の著作活動は必ず究極宗教に内包・統合されるべきだ。
114 :
1:2006/03/11(土) 10:25:16 ID:KzPz4chU
私は宣言する
私は私が私であると言う事を許さない全ての勢力に宣戦を布告する。
決して妥協を許さない戦いを始める
「己」こそ最悪の敵。
まずは己をぶち壊す!
そして、私の感情、私の愛情、私の熱情、私の感動、私の存在を取り戻す。
私は自分の言葉で話し、自分の心で見、自分の手で存在に触れる
私は眼だ
妥協のないまなざしだ!!
115 :
1:2006/03/11(土) 10:33:44 ID:KzPz4chU
私は絶望する
私は日々絶望して居る
絶望を誤魔化さない
そこそこ幸せだなんて思い込んだりしない
私は私の情熱を誤魔化さない
私のちっぽけな幸福などぶち壊してしまわんとするこの恐るべき熱情の存在を誤魔化したりしない。
己は、これを常に恐れて来たのだ
それが存在する事実から眼を背けて来た
それは「在ってはならぬもの」だったのだ
熱情=○、己=×なのは、普通の「人格」みたいなのは
某かの外からの作為が加わった、不本意な色がついている偽者という事か?
そして熱情のほうは
>>111で述べられている、神や創造に近いのだろうか。
>私は私が私であると言う事を許さない全ての勢力に宣戦を布告する。
私見だが、純粋な「私である」になれたら、神様的にも100点だろうね。
かなりYHWHに近い性質になるからなw
禅や老荘思想も似たようなテーマだが、「偽」を撲滅すると同時に
「真」を見出す作業も必要だな。「然りを然り、否を否」というやつか。
117 :
1:2006/03/16(木) 21:55:33 ID:t61BrWri
文章の意を正確に読み取り、考えを正確に伝達したい。
118 :
1:2006/03/16(木) 22:08:27 ID:t61BrWri
前者だけでも十分だな。
何億、何兆と言う言葉たちがあるけれど。
言葉を単なる情報として受け取ることができない。
言葉を恐れている。
言葉の何をおそれているのだ?
言葉というのは単なるインクのしみのようでありインクのしみではない。
空気の振動のようで空気の振動でない。
意味がある訳ですよ。
たとえば、『家庭の医学』なんか結構怖くて読めなかったりする。
つまり何を怖がってるんですかね。読書というのは割りと億劫で世界観の変更を迫るようなものだとすると
下手すると発狂しかねないような本もあるわけです。
あるいは、人生を根底からひっくり返してしまうような言葉たちもあるわけだ。
だから言葉を恐れる。
あるいは、メッセージを発した主体が、何であるかによって、たいどが変わったりする。
これもよくわからん。
言葉を情報として扱うことができるか?
そして、その情報を正確に読み取り、その真理性を検証すればよいだけの話。
119 :
1:2006/03/16(木) 22:17:29 ID:t61BrWri
という単純な話でもない。やはり言葉と言うものは、その文意が私を否定するものである限り
それを読み取ることは億劫だ。
しかし、精神と言うものは否定にこそ強くひきつけられるものであって・・
結局それと対決することになるのだから運たら間たら
120 :
1:2006/03/16(木) 22:23:31 ID:t61BrWri
言葉を受け取るときこだわりがなければよいと思う。
あるいは、このことができるならば、人生の如何なる動向に際しても
落ち着いて、理性的に対処できるのではないか。
121 :
中観派:2006/03/16(木) 22:28:58 ID:IAi8bZO2
言葉は必要ですね。言葉を考えればすぐに状態が頭の中に浮かぶから。
しかし、言葉は嫌な事もすぐ頭に浮かばせるんですよね。
だったら、言葉で嫌な事を思い起こさせないようにすればいいんですかね。
122 :
1:2006/03/16(木) 22:33:13 ID:t61BrWri
言葉は必要です。と言うか、言葉が使えないと、生活が非常に貧困になります。
言葉が無ければ、人間ではない。下手すると「物」です。
123 :
1:2006/03/16(木) 22:35:01 ID:t61BrWri
存在者Aと存在者Bの魂の架け橋をするのが言葉なようです。
それぞれ世界を持っていますが、その世界に介入してくるのが言葉なわけです。
だから言葉と言うのは、存在者にとって重苦しいものでもある。
個人の世界観や意識と、物理的、生物的な各人の「実体」のようなものの
境界線を、はっきり設ければ、言葉や論理で一喜一憂することは無くります。
これは仏教でいう悟りに近い意識ですが、1さんが考えているのは
もっと他者、各人同士の調和みたいなものが含まれるでしょうから、
仏教的な悟りに留まらず、各人の「間」の存在である「言葉」を
より有益な形で制御する技術が「究極の宗教」に必要でしょうね。
しかし獣的な本能がメインで動いている人も多いので、言葉は各人の魂に
影響を与える絶対的なツールではないでしょう。
125 :
1:2006/03/18(土) 06:12:04 ID:26CU3au9
ヘーゲルと老子の哲学はちょっと似てるとオモタ
>>124 おまいさん、聖ルシフェル教会をなぜ途中で終わらせた?
漏れはファンだったのに・・・・('A`)
127 :
1:2006/04/07(金) 20:09:47 ID:jRBfH9j4
人間には物事を反省しより高次元の結論を出す能力がある。
もちろん一旦出された結論もさらに反省の対象になり、高次に高次に上り詰めて行く。
そしてもはや反省しようが無いと言う高みに上った時
我々は道徳的に完成を迎えるという事が言える
理性と言うのが常に自己否定する訳だ
「あーなんであんなことしちゃったんだろ」と言うのはまさに己や己の行為が理性にかなって居なかったがゆえの自己反省の弁だが
理性と自己に矛盾があることが見て取れる。この自己をどんどん打ち消して理性の高みに上らせる事が出来るならばもはや反省は無い
彼は常に理想的な行動を取って居るからだ
128 :
1:2006/04/07(金) 20:22:32 ID:jRBfH9j4
人間が悩んだり苦しんだりするのは理性が在るからである
この理性なるものを神は人間に付与した。
それゆえ動物性と神性の間に引き裂かれ常に矛盾葛藤を抱える存在になった訳だ。
打ち消し否定する力が存在する
この力に打ち消されつつ且つ己自身にしがみつこうとする場合
葛藤は永続し、或いは死をもってしか解決は計れまい
この力とは即ち良心の事であるが
良心にしたがって生きる
現代人はこんな自然な事が出来なくなって久しい
>>126 当時は私用に追われておりレスでなかったのが一つと
神秘体験や民俗学的な事は、あれで打ち止めにしたほうが
良いと思ったのも一つです。突然なのは申し訳ないですが・・・
現在も、より実践的に光の主=ルシフェルの道を実現するために
日々行動していますので、機会があれば宜しくお願いします。
>>127-128 私の見解では良心というのは能動的意識、あるいは理性に属する物ではないです。
獣的な欲求に限らず、幾何学的整合性、例えばよそ者、アウトサイダーを排するなどの
理性に基いた欲求に、道徳的に悪とされる行動が取られる事もあるでしょう。
例えば魔女狩りなんかも社会秩序を守る為の行動であるが、罰する側が悪、暴力を行う場合は
往々にして良心の呵責は無いです。つまり理性に基いて「損害が無い」と判断された場合は
葛藤も悩みも解消されるという事です。
むしろ真の良心は理性的判断を超えた、無意識の世界に属するでしょう。
必ずしも善に結びつかない単純な同情心と異なる、生物、事物に対する肉親的情愛、
そんな意識が私にも、たま〜に入り込んでくる事があります。たま〜にねw
おそらく、それが神。社会ないし自身を守るための知恵は良心でも神でもないでしょう。
131 :
1:2006/04/09(日) 11:18:53 ID:6xhW0CL8
神父は理性と言うものを狭く捉えて居るね。
理性とは即ち真理を捉える能力。
我々は真理を追い求めて居るのでは無かったか?
>>131 無反省、無葛藤の残虐さ、その他の世の悪もまた真理でしょう。
虚偽やミスの類ではない確信的判断が、理性に基く真理ではないはずが無い。
森羅万象は理解し難く、世界とはボサッとしていると痛手を受ける厳しいもの
であるからこそ「神」というのはユダヤの神に限らず、モンスター的性質で
現されていたが、何人かのマヌケが「愛の神、正義の神」を想像、創造してしまった。
良心や畏れは自明の理ではないよ。
何人かのマヌケが考えた「絵に描いた餅」
・・・というのは言い過ぎかもしれないが、ほぼそんなところ・・・だと思うよ
133 :
1:2006/04/09(日) 13:10:12 ID:6xhW0CL8
良心なんて言葉を使うから話しが混乱する訳で。真理もそうだな。
それはさておき、仕事に慣れて来ると自由感を得る。
初日は鉛筆一本削るにも難儀する訳だが、次第に行為するに当たっての筋みたいなものが見えて来て
つまり意識に取ってあらゆる事が必然となり、現実と衝突する事なしに、自由自在に行動する事が出来る。
職場では物が何処にあるか、何故物がそこに在るのかが十分意識され、これから何が起るのか予測が立ち、その予測に基づいて行動する事が出来る。
つまり仕事に習熟していく訳である
芸術家であれば一個の石と格闘し、その格闘を通して、どのようにどんな角度とスピードで道具を突き立てるとどのように石が削れるのか、前もってわかるようになり、素人では及びも付かない神業的技術で、あっという間に、複雑繊細な美を、具現化する事が出来る。
サッカー選手なら例えば中村俊輔のように芸術的なフリーキックを連続して決める事も出来よう。
仕事として家事をする事。
家の中で自由感を得る為には仕事として家事をしなくては成らない。
遊びで片手間にやって成し遂げられる事は何も無い。
(リアルにチラシの裏でごめんね)
134 :
1:2006/04/09(日) 13:20:15 ID:6xhW0CL8
その点に付いては同意見だな。
日本人はもっと質が悪く神を人間の趣向にあった愛すべき存在にまで歪めてしまった。
135 :
1:2006/04/09(日) 13:38:14 ID:6xhW0CL8
真理の探究にしろ、その伝道にしろ、遊び感覚でやっていては埒が開かない訳で、もっと大脳を酷使して真剣に取り組まなくては。
何故駄目なのか、どうすれば上手く行くのか、
世界を相手に挑み敗北し続ける事
136 :
1:2006/04/09(日) 13:58:17 ID:6xhW0CL8
無反省無葛藤に残虐で居られるのはまさに神のみであって
この残虐薄情なる上司に無我夢中で仕える事が人間の義務なのである。
この神に対する奉仕を通して仕事を覚えようやっと世界の内で自由を得ることが出来る。
彼に取ってはあらゆる事が必然となり常に理に敵った行動が取られる
まさに上司(神)の心を自らの心とした存在。神と人の意識に矛盾が無い。
それが理想的人間であり道徳的に完成された人。超人でありブッダなのである
>>136 物理法則の元で思ったことを実行する、即ち利用するには
物理法則を知り、それに従わなければならない、みたいなものか。
そこで問題なのは、この世界において無矛盾、無葛藤の究極の解放の本質
即ち「神」と呼べるものは動的な快楽、感動、仮に「光」と
静的な、言わば涅槃寂静の境地である、仮に「闇」とするものの両方であって、
その両極端は、その間の如何なる中間地点に勝って人間を引き付けるが故に
人間社会の文明、文化は常に中庸を欠いた、破滅的な性質を持ってしまう。
この2種類の究極の神さまと、どうやって付き合っていくか・・・
138 :
1:2006/04/11(火) 19:07:28 ID:/aGLZ3C2
行為→反省→行為→反省と高みに昇って行けばいいんじゃないっすか。
実行を欠く反省も、反省を欠く実行も共に空虚である。
精神は進歩する。
或いは精神が世界を覆う(絶対知)と言う事もあながち不可能では無いかもしれない。
実行を欠く反省の中では精神は自己のうちを逡巡する
反省を欠く実行も同様で同じ所をグルグル回る事になりかねない。
反省する事によって行為を高度に理性的な段階に秩序付け
自己がその秩序を飛び越えて行く事によってさらに自己を混乱に落としめ再び反省によって高度に理性的に行為を秩序付ける。
自己は一切の法則性を自覚した必然の世界の中で自由を自覚するが、支配者の退屈に襲われる
ここで再び自己が否定され自己の城を飛び出しまだ見ぬ大海原に自己を投げ出して行く
彼に取っては見る物全てが目新しく
一切は混乱として現れる。
しかし混乱して居るのは彼の意識なのだ。
彼は混乱の中に秩序性を見出だす事が出来ない。
自己の城の中では塵一つですらその過去未来を必然の法則の中で見出だし
あれやこれやと指図することが可能であった。
しかし一転、何も知らぬ分からぬ惨めな彼はここでは支配を受ける客体なのである。
彼は法則性にしたがって行為する事を覚える。と同時に法則性を体に刻み込むわけである
このことによって彼は世界の法則性を自覚し、再び玉座に返り咲く
139 :
1:2006/04/11(火) 19:27:24 ID:/aGLZ3C2
もっとも玉座に腰を下ろした途端進歩は止まる訳であり求めて止まない彼は永遠の奴隷なのだ。
人々は彼を哀れむかもしれない。
哀れむべきは彼ら自身だと言うのに。
精神の充実とは自己の殻に閉じ籠り、その卑小な世界の神を宣言する自己満足の境地から生じるのではない。
むしろ自己を否定し危険に晒す事によってかえって力の充足が生じるのである。
>>138-139 >行為→反省→行為→反省と高みに昇って行けばいいんじゃないっすか。
やはり、これが具体的な神、特に光の神に仕える方法でしょうね。
世界の居心地の良いポイントを一度見つけると、そこに安住し
実在する色々な事象、要素にベールを掛けて目をつぶっていく、
という一種の成人病、生活習慣病的な思考は私にも確かにある。
別に、光=高み、闇=低レベルと決め付ける訳ではないが、
エネルギーが余っている内は、易きをとらず光の道を歩もうかと思う。
逆にエネルギーが乏しくなっても細々と光の道を歩むノウハウも欲しいが。
>>140 >実在する色々な事象、要素にベールを掛けて目をつぶっていく
このことこそがまるで成熟であるかのように人々が思い込み始めたのは
いつからなんだろうな。
しかもこれが身に付いてしまった人は自分がそうだと気付いてないように見える。
「お前は超越したんじゃない、心で逃げてるだけだ」
そう言ってやりたくなる。
142 :
1:2006/04/12(水) 05:25:21 ID:0PCjg0J2
要は意識と無意識の関係か。
たぶん神父は長年光の世界の住人だったため無意識の世界の過大評価があるのだろう
143 :
1:2006/04/12(水) 05:39:34 ID:0PCjg0J2
結局、同じ事なんだよ、無意識の世界に沈着すると言う事はすなわち客体の無視に繋がるし意識の世界を広げて行くと言う事は主体を無視する事になる。
俺もぼんやりぼやぼやしているのは好きだがその時客観的世界は没落している。
逆に客体的世界の中で忙しく生きていれば広大な主観世界が失われてしまう。
144 :
1:2006/04/12(水) 05:55:02 ID:0PCjg0J2
フロイトの錯誤行為の分析って本人が思う以上に意義深い訳だが
実際は日常生活の中で我々は闇の神の支配を受けていると言う事なんだね。
145 :
名無しさん@3周年:2006/04/12(水) 07:42:58 ID:tpTtUHZd
人間の脳
神父に聞きたい。
太陽の光って実は意外と黄色い。
これがもし本当に真っ白な光になったら、人間にはどのような影響があると思う?
>>141 実際のところ世界から目を背けて思考を放棄しても、快楽という
大きなお友達が居れば気にならないのが人のサガ。
そんなこんなで、何世代も無責任人生送った結果が現在で、
真の破滅、闇の到来も見えなくも無い・・・が本当に破滅するまでは
各人に闇は訪れない・・・から、まいっか!と思わない1は本当にエライw
>1
1さんは、個人的な思考は無意識に属すると考えているの?
普段の思考は闇、涅槃寂静的な感覚というより、某かのフロイト的に言えば、
性的なパワーから思考している気がするが・・・
私は知的向上が0の状態でも、それが闇に属するとは思っていない。
一見、動的でない精神でも内側には、性欲なり酒欲なりが動的に渦巻いており、
不足時には動的な光に変化する。そして某かの役に立つ事もあるだろうw
>>146 太陽の光が今以上に白くなるという事は、その光線中の青味成分が増えるという事になります。
青というのは不思議な事に、冷たさを感じさせる色で(青い光は熱いものから出がちのはずだが)
現在、人間は暖かさをイメージさせる黄色い太陽の下に「清浄、清涼」を感じさせる、
山や神社、教会を聖なる場所としていますが、太陽が白い冷涼な光を放つようになったら、
現在では不快指数が高そうな、繁華街、歌舞伎町みたいな所が聖なる場所になるかもしれません。
ちなみに私は暖色光が好きで、自宅も私の部屋のみ白熱灯なので、そのせいかやはり
清浄、清涼な場所、雰囲気を常に求めていますね。
>>147 だからこそキリストは、肉親・果ては自分の命までも憎まない奴は
自分の弟子ではありえないと言ったんだろうな。
150 :
1:2006/04/14(金) 22:10:40 ID:MTGWA8cK
真理を認識するには知を愛すると言う態度が必要だと思う。
智における偏食が無い事が前提であろうと思う。
見たいものだけを見ると言う態度は真の知に値しない。
本当の意味で知ると言うことは自己にとって不都合な現実をも直視することである。
真理を自己よりも上位に置くのであればそれは可能であると思う。
真理よりも自分が大事と言う態度では絶対に真理は認識できない。
真理を認識すると言うことは究極の自己否定なのである。
151 :
1:2006/04/14(金) 22:21:50 ID:MTGWA8cK
俺はどうも自己が可愛い。
それゆえ、自己の存立と矛盾する情報を退けてしまう嫌いがある。
これでは真理から疎外されっ放しである。
真理を認識するには即ち徹底的に自己を苛め抜くと言う精神的態度が求められる。
真理への旅路とは自己の立場に置き換えると絶望の連続を齎す茨の道である。
自己は絶え間なく裏切られるのだ。それが知ると言うことである。
152 :
1:2006/04/14(金) 22:29:44 ID:MTGWA8cK
真理を前に足が竦み、立っていられない。神々の笑い声が聞こえる。
どうした?臆したのか?真理を知りたければその命を差し出せ。
引き換えに宇宙の本質のその一端だけでも垣間見せてやろうぞ。
153 :
1:2006/04/14(金) 22:39:50 ID:MTGWA8cK
ガタガタ震えながら俺は神を覗き見る。
その恐るべき姿を余す事無く記述してやる。
154 :
1:2006/04/14(金) 22:51:10 ID:MTGWA8cK
哲学者とは「物知り」「学者」とは対極の位置にあるな。
知を愛すると言うのは知識を愛すると言うのとは少し違う。
知識に対する執着とは異質のものだ。
認識するとは苦渋に満ちた行為である。
オタク的な物知りが自己の好みにしたがって集めた知識ってのは自己から外に一歩も踏み込むことの無い・・
即ち自己と戯れているだけな訳である。
真の認識とは自己に挑む行為である。彼は知るたびに自己を殺すわけである。
155 :
1:2006/04/14(金) 23:02:06 ID:MTGWA8cK
真の芸術とは鑑賞者に不快感を与えるものである。
鑑賞者の自我に破壊的に挑んでくる芸術。
鑑賞者の自我を破壊することを目的とした芸術。
逆説的である。芸術と言うのは、意識に安らぎと陶酔を与えるものではないのだと言うのだ。
不快感と不安を齎す事を目的としている。しかしこれももっともなのだ。
現実社会以上に純粋な精神の発現としての芸術が自我に屈従してしまうものであってはならない。
現実以上に自我を否定し破壊する。そういう恐るべき存在でなくてはなら無いと思う。
安心して読めない小説が読みたい。
現実以上に私に対して挑み、挫折させる、そういった作品が必要だ。
現実はもはや個人に対してさしたる否定力を持たない。
人間が高貴たるためには芸術の中での挫折が必要だ。
156 :
1:2006/04/14(金) 23:23:30 ID:MTGWA8cK
いや、これが現代の芸術の特徴であり、古代の芸術は、鑑賞者の感覚を楽しませるものであった。
日々厳しい現実に対面していた古代人は芸術の中に厳しさを求めなかった。
芸術は憩いの場であった。しかし、現代人にとって、現実こそ憩いの場であり、現実は確実に人間に屈服してしまっている。屈服しきって久しいのだ。
現代人は芸術の中に厳しさを求めざるを得なくなった。
157 :
1:2006/04/14(金) 23:29:59 ID:MTGWA8cK
生ぬるい現実に生ぬるい芸術では精神は確実に衰退しきってしまう。
しかしもはや現実に厳しさを求めようとしても無駄である。
人間の精神を活性化させるような刺激はもはや芸術の中にしかないのだ。
刺激を求めて世界を放浪しても目新しいものは何も無いのだ。
世に退屈しきった現代人の精神を縄文人並に活性化させる
158 :
1:2006/04/14(金) 23:43:30 ID:MTGWA8cK
縄文人にとって知ると言うことは即ち死を意味した。
興奮の種に尽きることは無かったろう。
絶えず緊張の連続であった。
冒険はしかし、現代では、現実の中には無いのだ。
みよ、現代の若者の退屈にあふれた表情
「悪い大人」すら底を見切られてしまったのだ。
刺激を求める若者にとって、「悪い大人」とはこの上なく魅力的な存在であるが、
悪い大人化してしまった現代の若者にとって、もはや現実は退屈以外の何物でもないのではないか。
インターネット?インターネットに刺激を?もう既に退屈しているだろう。
現実は己を否定してくれない。ならば人間の純粋な精神の発現とも言えるインターネットの中では己が否定されると言う稀有な経験も味わえるのではないか
と言う淡い期待を抱いて人々はネットにつなげるのである。しかしその表情には既に退屈が浮かんでいる
159 :
1:2006/04/15(土) 00:04:39 ID:MTGWA8cK
現実の中ではむき出しの精神に出会うことはない。
現実の中で精神を顕にして行ければ現実もよっぽど面白くなろう。
しかし現実では精神をむき出しにして生きると言うことは余り無い。
それは抜き身で往来を歩くようなもので、マナー違反をとがめられてしまうのだ。
もっとも、実際は、マナー違反を咎めるには、そちらも抜き身で立ち向かわねばならず
暗黙の了解として、刀を鞘に収めて人々は生きているのだ。抜き身で歩く人に出会ったら腰を抜かしてしまうだろう。
そういう腰を抜かすような経験を現実の中でさせなくてはならない。するとよっぽど緊張にあふれた楽しい世界になる。
その後は彼らも抜き身で往来を歩くようになろう。
精神と精神がぶつかり合うと言う経験をしたことがある人間は居るだろうか。
そういった経験をするためには、まずこちらが、むき出しの精神性で現実と渡り合わなくてはならない。
160 :
名無しさん@3周年:2006/04/15(土) 18:36:17 ID:NLGxX3VA
造るという時点で真理ではなく造りものという感じもしますが 神には二種類、人を造った神と 人が作った神がありますが 後者は存在しません 昨日生まれた人間に作られた神が人間や宇宙を支配する事はできません 作った人間にすらできませんから
律法の一画が消えることより地が滅びることの方がなんと容易いことか。
法律というものは抜き身をぶつけ合うことに疲れた者達の
体の良い言い訳なのだろうな。
だが疲れさせるような社会にも責任はあるだろう。
162 :
1:2006/04/16(日) 21:36:08 ID:kvZyDbMm
有神論の究極の批判は無神論であるから、究極宗教は無神論者の批判を全面的に受け入れることにする。
無神論を受け入れた有神論とは限りなく真理に近いのではなかろうか。
あるいは無神論も有神論も真理の両面に過ぎないのだ。
163 :
ルシフェリアン神父 ◆r80Xe0Ql1E :2006/04/20(木) 22:30:19 ID:/OD4+ktI
人間はロジックでは、ある人の「私は嘘つきである」という言葉すら、
真、偽の証明はできない。
真であるなら「自称嘘つき」は正直者だったということになるし、
偽だったら「嘘つきでない」正直者が実は嘘つきだったということになる。
こういったように、我々は決して「実相」が見えない世界に生きているが、
部分的な真理なら、意識下でも多数発見できる。
よって様々な真理を現象のレベルで応用、応用が出来る宗教なり教義があれば、
かなり究極、最強だろう。
大体の宗教は極めて即物的か、現実逃避かで2極化しがちだからな。
「むき出しの精神」というのは確かに重要だろう。
素材の時点で偽りがあれば、応用の「理」も、また偽りしか出来まい。
様々な人間の、様々な精神を、むき出して真理に組み込んでいくと良い。
自己観察だけでは50億分の1の真理に過ぎないだろうからな。
164 :
1:2006/04/21(金) 08:33:15 ID:AONV8wcm
神父様、おはよう。
僕は「究極宗教を創る」から、「究極宗教を生きる」に移行しています。
人生の究極の目的は、真理を観照することではなく、真理と格闘し、それを体現することにあると思うのです。
>>164 真理と格闘し続けるのは難しいが、まあ頑張ってみてくれ。
大体は勝利するか敗北するかしちゃうからね。
ある禅師が精進食しか食べていないのに、やたら恰幅が良いことを、
弟子に指摘されたところ「大悟し、煩悩の火が身を焼く事が無くなった為だ」
みたいな事を言ったのだが、まあ本人曰く「勝利」だろうな。
それで禅行が「終わり、完成」ってのが少々ひっかかるが・・・
もし、あなたが太りだしたら格闘が終りつつある証拠で、
その状態がハッピーだったら、他の人に分け与えるのも良いかもしれないが、
あんまり格闘を終らせたくなさそうだなぁ・・・w
これからも格闘の結果の「解」が小出しに出てくる事を期待するよ。
話、思考がループしないよう気をつけてな。
宗教というものは、「光”だった”」人間が求める物のような気がする。
それはそうと、去年の冬に仙台の雪山を仲間と登ったんだけど、
半ばで俺はもう結構疲れてて、柄にもなく”神”というかそんな感じの
超越した存在に心を同調させようとしたわけね。
そしたらね、危ない崖から飛び降りちゃおうか、みたいな危うい
考えが一切頭に浮かんでこないんだな。生かされていると言うか。
そんなこんなで、キリストの言った「死んでも生きる」という言葉の意味が
実感できたような気がしたよ。
雪山で俺を生かしてくれた程の存在が、寿命で肉体が滅びたからって
その人間に死を与えるとは思えないわけだ。
まぁ神父の目にどう映るかは分からんけども。
167 :
1:2006/04/30(日) 18:48:36 ID:9CAZTXlA
ニーチェの分析枠組みを借りて、ディオニソス神に象徴される非個別化原理とアポロン神に象徴される個別化の力があるとして、
私はと言えば間違いなくアポロン神に魂を売っている。私の自我体勢の中ではディオニソス神はタブーであり、排除される。
酒席なんてのはディオニソス神光臨の儀式のようなものだが、私は酒席が大嫌いである。つまりディオニソス神の到来を禍々しいものとしてみているのである。
アンチ・ディオニソス(バッカス)なのだ。要するに、俺は無粋なやつ、ノリの悪いやつなのである。
ところで、究極絶対神なるものは、アポロン的な側面とディオニソス的側面を統合した全体であるはずである。
つまり究極絶対神に忠義を誓うと言うことはこの矛盾する両側面を抱え込むと言うことなるのである。
168 :
1:2006/04/30(日) 19:02:52 ID:9CAZTXlA
「私」を否定破壊していく過程が人生。
私をぶっ壊し、ぶっ壊し、ぶっ壊し、ぶっ壊し続ける。
もう壊れない、壊せないと言う境地があるのかどうか。そんな境地があったら「悟り」(あがり)だろうが、
想像も付かないね。
究極の宗教の片鱗が見えた気がする。
幼い頃は「求めよ、さらば与えられん」を生き、
成熟したら「誰でもそれを捨てるものはそれを得る」を生きる。
しかし最終目標は成熟した人間が安心して「求めよ、さらば与えられん」を
生きられるようにすることであり、そのための宗教なのではないかと思う。
>>166 人間の中の「生きて、存在して当たり前」という意識は、
普段は観念のベールに覆い隠されている事が多いですが、
正常に動作すれば「光」と思える善の部分で、
某尊師の宗教では「コーザル体」と呼ばれ、私の理論からすれば、
神ルシフェルが配剤する「魂」といえる存在です。
その「魂」は、あなたの推測どおり肉体の死で滅ぶものではない、
と私も思います。
しかしイエスの言いたかったのは、だから「死を恐れるな」ではなく、
もっと積極的に「死ね」ということで「魂以上」を目指す事だと思います。
魂=骨、観念=肉だとするなら、イエスは「肉を捨て骨を断て」で、
仏教よりマクロ的な教義で、魂のサイクルを破壊した先に「天の国」を見出す、
という教えなので、一口に宗教といっても色々かと思います。
>>167-168 「無我の境地になる」「真我を得る(梵我一如)」正反対にも関わらず
どちらも「悟り」らしい響きがあるから不思議だw
あなたは忘我という形の、無我の境地に対しては否定的でありながらも、
「我」サイドである自分を破壊し、無我サイドを知ろうとしている。
だが、それは両者を得る、という結果に結びつくのだろうか?
これは「全一なる者」と「全零なる者」の両立の試みだろう。
究極絶対神でありながら、唯一神で無いという可能性はあるのか?
難しいね。
>>169 古くはインドのカースト制度が「求めよ、さらば与えられん」の制度で、
泥棒のカーストなんかも存在するが、釈迦の時代には既にカーストと
各個人の自我の欲求が遊離しており、「何で俺はコレやってんの?」と
思った人は、カーストを離れサモン(遊行僧)に成らざるを得なかった。
そして現在は魂の欲求と社会システムの一致を試みる、という宗教は
廃れているが、それは魂を観察する学問が未熟なこと以上に、
魂、我を滅却する教義が流行しているのが理由だろう。
172 :
1:2006/05/03(水) 21:40:12 ID:cRZCVYuF
いや、無我なら否定する必要は無いわけですよ。否定すべき自己が無いからね。
俺は凡人だからすぐ我が生じてくる。だから一々否定しなきゃなんないと言うだけの事。
173 :
1:2006/05/03(水) 21:42:17 ID:cRZCVYuF
老子は満たすためには空っぽでなくてはならないと言ってるが。
空無の境地に至れば、かえって神(無限大)を得るだろう。
阿含宗桐山教祖の逮捕歴
昭和二十七年八月十六日 詐欺容疑、契約違反の容疑で逮捕
警視庁西新井署
十二月手形詐欺容疑で逮捕
千葉県松戸署
二十八年八月 酒税法違反 私文書偽造容疑 逮捕
警視庁防犯課
二十九年 三月酒税法違反 私文書偽造に対する第一審判決
五月入所
十月東京高裁酒税法と私文書偽造により有罪
175 :
萌教:2006/05/06(土) 02:18:02 ID:Hj0KmyWH
色白、眼鏡、みつあみ、制服orブルマを着たAカップまでの少女を神と崇める。秋葉原を人類発祥の聖地とし、一日5回秋葉原に向かって゛萌゛と叫ばなければならない。お昼は必ずメイドカフェで。最近話題になった電車男のエルメスを救世主としている。
また服装も決まりがあり、眼鏡とバンダナは絶対、あとはファッションセンターしまむらで購入しなければならない。
>>172-173 神=大宇宙、我=小宇宙だとして、設計、全体の構造自体は相似形かもしれない。
だが総出力、出来る事に関しては異なり、神の日常業務と人の日常業務の
在り方は違うような気がする。
うまい例えではないが、矢というのは発射すると、最初熱せられていても
直進すると空気によって冷却される。しかし弾丸は最初冷えていても
直進すると空気によって熱せられる。これは規模の違いで事象が
正反対の結果になる一例だ。
>>175 問題はメイドカフェのメイドさんが、どう見ても神に見えない
清純派と呼ぶのも憚られることだな。
177 :
名無しさん@3周年:2006/05/23(火) 06:03:30 ID:lpmi8kVq
保守
178 :
名無しさん@3周年:2006/05/23(火) 06:59:30 ID:0C3fhWDC
おまんこ教
179 :
バカ梵:2006/05/23(火) 11:06:09 ID:sR320AwD
否定・破壊は早いけど危険だな。自我にしがみついたままだと、地獄へ一直線。
肯定・解体していく方向で是非。
180 :
名無しさん@3周年:2006/05/23(火) 11:36:00 ID:68duuTDf
結局、仏教にいきつくんじゃないの?
同族嫌悪以外の「嫌悪」って無いように思うんだけど、神父はどう思う?
>>178 ま、要素としては昔からある。
関西で創るなら、『男女子』教か。
父と母と御子の名によりて... 三位一体の秘儀を行うわけですな...。
>>181 ヤクザを嫌悪する人は多くても、虎や狼を嫌悪する人は少ない。
猛獣より恐ろしい銃や刀剣に到っては愛着や畏敬の念すら感じるかもしれない。
この流れだと人間に近いものほど嫌悪の対象になるような感じだが、
実は伏兵が居り、ゴキブリなどの小動物や汚物などはヤクザ以上の嫌悪度数かもしれない。
私が思うのに嫌悪度数とは、個人の意識に不法進入してくる「感染」度数の気がする。
結局ダメージを受けるにしても、虎の爪や刀剣は「正面突破」で小動物が媒介する
病原体みたいに「見えざる敵」ではなく、気苦労が少ない。
それと同じでヤクザや、いじめられっ子に対する嫌悪は、各人の「卑しさ、弱さ」という
見えざる敵に対する警戒心が→嫌悪になっていくのだろうか。
逆に強盗や通り魔は、正面突破型の存在なので、嫌うだけ無意味。
おそらく強盗同士、異常犯罪者同士は、その間に同族嫌悪は無いでしょう。
「嫌悪」とは精神的な「架空の否定」でしょうから、リアルな否定者、破壊者には無縁、
そして、とことんまで物質的、リアルの世界に突入すると嫌悪の無意味さを悟るかもしれません。
多分、それが少年マンガの、殴り合い→友情の定理を裏付けているのでしょうw
>>183 _, ,_
ん、んんっ・・( `(` ) < 神父 久しぶり〜!
( つ⊂ )
ヽ∩ヽ _ つ
∪
じゅって〜〜〜む
・・・・・って、あなた誰でしたっけ?
>>184 さては、前教会に来てくれた田舎に住んでいる女の子か?
>>182 健全な性の宗教というのは以外に少なく、グノーシス的な仏教、キリスト教が
問題外なのは、そうだとしても、ユダヤ教も女子割礼のせいで、
女性が性感を失ってしまう。
純粋なお米教、もとい男女子教が出来たら、それは人類史的な進歩だろう。
ところで俺の金玉を見てくれ、こいつをどう思う?
それと、境界性人格障害をどう思う?
>>187 >ところで俺の金玉を見てくれ、こいつをどう思う?
ビ、ビューティフルかと思います・・・(;´Д`)
>それと、境界性人格障害をどう思う?
境界性人格障害(以下ボーダーと略す)の心の原風景というのは、
実は、それこそが「素」の人間の心であり、人間が創造の神々だったころの
記憶であろろうが、その原風景は現在の凋落した宇宙においては、高望みにすぎない。
そして宗教は神々の時代へのノスタルジーであり、極めてボーダー的発想なのに対し、
科学、物質主義は、その反対に人間が凋落することで世界に適応する法であり、
この宇宙において妥当性がある。
仮に生涯ボーダーに徹する事が出来たなら、それはそれで幸福かもしれないが、
普通は現実の宇宙の絶対性に従わざるを得ない。
それ対する反逆は唯一、死によって表現することが出来る。イエス然り。
自殺者とは凋落に対する脱落者、ボーダーの道の完走者だろう。
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) <ノスタルジーって言われるのヤダヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ
_, ,_
(`Д´ ∩ < でも結局宇宙が凋落してるから、その凋落に身を任せた人間のほうが
⊂ ( 生き生きしてるのヤダヤダ!
ヽ∩ つ
〃〃
∩
⊂⌒( _, ,_) <でも宇宙や人間が凋落したからといって、目指す先にあるものの価値も
`ヽ_つ ⊂ノヒック 凋落しているというわけではないのかもね・・・・・
>>189 >でも結局宇宙が凋落してるから、その凋落に身を任せた人間のほうが生き生きしてる 〜
いや、生き生きしていないと思いますよ。辛うじて虚しさから逃れているだけかと。
ホリエモンの事を「魂が無い」と形容した人がいましたが、確かに旧き神々の恩寵を捨てたら、
ほとんど魂が無くなる。しかし人間の防衛本能は某かの目的を見つけ辛うじて「暇つぶし」を
させてくれ、生存できるようになるが、その退廃的な生は破壊しか生み出さない。
旧き神々とは人間の輝かしい感情であり、生きる喜びだが、同時に調和、完成を意識できない
アホ種族でもあるので、だから滅んだ。そしてボーダーを見ても判るように、人間が
神々の真似事をしても滅ぶ。そして神々から離れ、妥当、真っ当に生きても滅ぶ。世界全体が。
おそらく世界、宇宙に、生存存続への正しい答えというのは、何処にも無い。
なんとか知恵を働かせて、ダメダメな現行種族、旧種族(神)の腐ったパズルのピースを
組み合わせて、使いものになる何かを見つけるしかないでしょう。
ヤハウェのように一つの家族から始めようとしても
どうせ失敗するのだろうか?
>人間の防衛本能は某かの目的を見つけ辛うじて「暇つぶし」を
させてくれ、生存できるようになるが、
この感覚わかる。
俺の親は無意識の内に子供の存在を消滅させようとしていて、
このままでは俺の存在が無意味なものになると危機感を抱いて、
なんとか暇つぶしの中に快楽を感じながら生きてきた。
神父の言うとおり破滅的ではあったけど、俺にはそれしかできなかった。
今俺はまともに成長し、残念ながら親は全くの成長を見せず、
結局俺が昔から感じていた違和感は、俺のほうが「親」だったのだ。
とはいえ、神父が言うように神々の真似事をしないようにしなければな。
現種族を見極め、 旧種族の失敗を踏まえて、その時代その時代に
合わせて生きていくしかないのか。・・・・・今は神父のお尻の中で安らごう
>>191 >ヤハウェのように一つの家族から始めようとしても、どうせ失敗するのだろうか?
このヤハウェは嫁さんがいて子供がいる至高神「エル」としてのヤハウェですか?
だとするなら多分ダメでしょうね。伝統的な「家族」の意識の絶対性は、
神々の持ち物であり、人間にとっては幻に過ぎず、物質世界において、それを維持しようと
試みれば強制力、一種の暴力的な「制度」が必要になってくるかと思います。
意外かもしれませんが、人間が忠実に再現できるのは「唯一神の愛」イエスのような愛で、
相手を慮りながらも、親や嫁さんに「あなたは誰だ?」と言えてしまう絶対的中立性、
これこそが凋落した世界における、ささやかな愛であり無理のない形かもしれません。
この世界の唯一神とは、善と悪をひっくるめた「泥状」の神であり、あまり
ありがたくないものですが、全ての「許し」が含まっているのでしょう。
あらゆる義務の不履行、権利の放棄こそが神の道かと思います。
この間、飼っているカメが恩知らずにも、私の手に噛み付いてきて、肉を食いちぎられましたが
カメと私の間の唯一神的な愛には、いささかの揺るぎも無いです(少なくとも私のほうにはw)
至高の神は「泥」であり、いかなる進歩とも、定型=契約とも無縁の
「在るがまま」かもしれません
>>あらゆる義務の不履行、権利の放棄こそが神の道かと思います。
幼いころから、わかってはいたさ。でもつまらないプライドと保守心がそれを許さなかった。
そういう目で見ると、小学校の友達の中にはすでに光の道を歩いているんじゃないかと
思うような人もいた。いや、実際そうだったのかもしれない。ただ俺はこの年になっても
その道を歩むことを恐れている。自分が自分でなくなるような気がして怖い。
高校に入って、皆に好かれながらも俺に、「俺はみんな嫌いだよ」と言った友人がいた。
俺はその友の中に神を視た気がした。 俺にできる些細な事と言えば、
その友のために命を捨てることなのかも知れないなんて思うのは結局アフォなんだろうな。
>>この間、飼っているカメが恩知らずにも、私の手に噛み付いてきて、肉を食いちぎられましたが
カメと私の間の唯一神的な愛には、いささかの揺るぎも無いです(少なくとも私のほうにはw)
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) <痛いことさらっと言っちゃヤダヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ
_, ,_
(`Д´ ∩ < そういう時の動物って無関心にしか見えないからヤダヤダ!
⊂ (
ヽ∩ つ
〃〃
∩
⊂⌒( _, ,_) < ところでヤダヤダスレをどう思う?
`ヽ_つ ⊂ノヒック 実は神父の教えに結構近い人間の姿な気がする・・・・・
195 :
1:2006/05/31(水) 06:36:12 ID:w+v2Hr4L
宗教こそ究極の思想であり、この上さらに付け加えることは何も無い。
よってこのスレは終了といたす。
有意義な議論が出来たことを神に感謝し、日々の生活に帰りましょう。
ヽ \
少しは懲りろ! ./ \ \ / ̄ ̄ ̄ ̄ ̄ ̄
∧_∧/  ̄ < また貴様か!
(;´Д`) i i i \______
/ ヽ _ i i i--、
./| | | |  ̄ ̄ ̄ |:::::|.
/ \ヽ/| | ノ__ノ..
/ \\| |
/ /⌒\ し(メ .i i i . .
/ / > ) \ ノノノ
/ / / / .\_ ザックザック
し' (_つ /:::::/::... /ヽ
; "ノ・ ./∴: / )i iヽ-、_へ ,ヘ
'',, : :―― / / i i i iヽ . ̄ ゙― ノ /
n_ _/; i .ノ / /ノ-' ̄ ゙ ― 、__ノ
_ノ 二二二、_( _Д_ ;)-ヽ_ノ-'
>>1 ゙ー ''~ ∨ ̄∨
「現実」と「宗教」とは
魂にとっての「昼」と「夜」なのではないだろうか
198 :
1:2006/05/31(水) 19:19:24 ID:w+v2Hr4L
>196
何を懲りろと?すまんが別スレでやってくれないか?
199 :
1:2006/05/31(水) 19:27:28 ID:w+v2Hr4L
このスレはこのまま落とします。
ボーダーだの引きこもりはメンヘル板ヒキ板へどうぞ
>>1
おまいさんが立てたスレではあるけど、なにも立てた後ずっと
責任を持つ必要もあるまい。
俺はもう少し気の向くままにここでレスしていたい。いいだろ?
201 :
1:2006/05/31(水) 20:42:18 ID:w+v2Hr4L
いいもなにもそりゃ自由だが、どうせなら自分でスレ立ててやってくれないか?
>>567 神の道と言っても、現行の人間にとっての「然り」であり、それが実現された後
しばらくしたら、その「然り人」も自分が自分でなくなるような気がするかもw
神=世界の全てだとするなら、中の構成物が変われば、神全体も変わるでしょう。
で「この年」の方にアドバイスするのも僭越なんですが、「みんな嫌い」になって、
色々なものをゴミ箱に捨てても、別な形で新しい「自分」が出てきますよ。
そして案外、普通にゴミと認識したものと接し、普通に楽しめる。
多分その友人にとって、あなたは「大事なゴミ」かもしれません。
「抜けた歯」とかランドセルでも、あまり粗末にしなくないみたいな。
>>194 >そういう時の動物って無関心にしか見えないからヤダヤダ!
そうでもないですよ。「痛い、痛い!」というと、口を離して、こちらを見て
「アイム・ソーリー」みたいな顔しますもん。でも確実に人間の肉の味憶えたなw
>ところでヤダヤダスレをどう思う?
私も
〃〃∩ _, ,_
⊂⌒( `Д´) <ヤダヤダ!
`ヽ_つ ⊂ノ
の気分で寝ることはありますがw起きたら「その先」を考えるようにしています。
もっとも簡単に「先」なんて見つからないですけどね。どの問題にしても。
>>1 「究極の宗教を創る」をリタイアするなら仕方が無いが、
私はリタイアしないので、代わりにこのスレを使わせてもらうよ。
つーか、あなたは別な板で、よく顔を合わしている気がするが・・・
>>197 >「現実」と「宗教」とは魂にとっての「昼」と「夜」なのではないだろうか
往々にして現実(日常?)が宗教になりがちだ。
そういう切り替えが出来る時点で「信仰」ではなく「思考」だろう。
1氏には信仰を抜け出て欲しかったが、まあ仕方が無い。
204 :
1:2006/06/01(木) 03:20:12 ID:4TG/DFx1
>203
俺は信仰なんか持ってないよ。
205 :
1:2006/06/01(木) 03:21:09 ID:4TG/DFx1
俺はキリスト者であったことなど無いから、抜け出るも糞も無い。
206 :
1:2006/06/01(木) 03:27:43 ID:4TG/DFx1
>203
リタイアしたのではなくて卒業したのだよ。
207 :
1:2006/06/01(木) 04:50:32 ID:4TG/DFx1
卒業したなんていうとまた誤解を呼ぶかもしれませんがね。
まぁ、ひとつ仲良くやりましょう。スレの枠を超えて、我々は、この世に実存する同志じゃありませんか。
>>205 信仰とは一元論的な思考であり、キリスト教とかは関係が無い。
「神」や「霊」にしても、その存在は自明ではなく「もし無ければ」が
常に共存しているのが通常の思考なんだんが「信じる」と、その選択肢が
無くなる。あなたが以前に言っていた「究極の宗教を生きる」の結果
二元論も含めた、以前の思考が別なものに変わったのなら良いが、
ノーマル宗教の「信仰」が究極、が結論なら、私は「NO」と言わざるを得ない。
私の見地は「信仰=屁のツッパリにもならない妄想」であり、
他の目的の道具としても有害無益であると思う。
209 :
1:2006/06/01(木) 21:50:06 ID:4TG/DFx1
>208
「もしなければ」と言う問いが生じるうちは、君の信じる神は現実の質量を持たぬ空虚な観念に過ぎない。
そんなものは信じなくて結構だと俺も思うよ。
210 :
1:2006/06/01(木) 21:55:09 ID:4TG/DFx1
自らageてしまった・・Orz
>>211 伺いました。そこでボチボチやりましょうか
>>209 「信じる」という状態そのものが、魂の脆弱な状態だと思うよ。
ダイヤモンドは砕けても水は砕けないように、何が出てきても
余裕を持って対応できる「猫足立ちの境地」が、おそらく最強。
ここでの究極への追求は終るとしても、あなたに新しい発見があれば
またスレでも立ててくれ。そして、このスレは私も保存するから、
もし無くして、また読みたくなったらメールでもくれ。
213 :
名無しさん@3周年:2006/06/17(土) 17:35:14 ID:PRz/Dtc+
日本にはまだあまりないけれども、
聖書を用いて新宗教を作るのは
案外簡単かも。
エホバの証人みたいに、既存の教会とは
関係ない新会派を勝手に作っても
信者は来てしまうのだろう。
214 :
名無しさん@3周年: