864 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/02/18(土) 17:14:46 ID:SWEfFVEd
>>852 現代には、クリスチャンじゃなくて聖書大好きという人が二人いるようだ。
一人は金正日、もう一人は高森顕徹。
後者は前者に比べてやや小粒だが、嗜好は近そうだ。
金正日さんに関する北朝鮮放送では、聖書の言葉、聖書の表現が機関
銃のように並ぶそうだ。まさに金正日さんは、現代における神の子、イエス
キリストという感じだそうだ。
高森顕徹さんも、親鸞の皮を被ったイエスキリストなんだろう。
皮は剥げばいいと思うが、そうはいかないんだろう。化けの皮が剥がれる
と、お布施が入らなくなるから困るんだろうね。
865 :
通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:18:46 ID:dQMKPwu2
信心決定すれば、なぜ親鸞聖人が名号本尊好きなのかわかるんだけどね。
いまだに未信心なら、阿弥陀像でもありがたく思えてしまうかもしれないね。
866 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:23:38 ID:Wd2HX4nK
なんだか親鸞会って残念だな。
結局山科本願寺の文章も、明らかに建立当初のことが書いてあるのに、
「んなもん、しらん」てな感じだし、
顕正新聞の根拠については逃げ回ってばかりで全然答えられない。
反論サイトの文章はいわゆる「人格攻撃」ばっかり。
あんな団体にいたことが恥ずかしいよ。
867 :
元々ぼら夫:2006/02/18(土) 17:24:38 ID:yEQ3fqIZ
ただいまぁ♪
>>793 渡海サン、えろすんませんなあ。携帯やとこと細かに説明でけんのですわ。ま、平安末期からの
仏教の流れをカキコした上で説明しようと思うてたんやけど、中途半端やった。
ま、親鸞聖人にとって本尊ってのは二義的なもんで、阿弥陀如来の摂取不捨の誓約を
もって本義とするのでしょう。名号を礼拝しようと仏像を礼拝しようと、弥陀の誓約を
はかろうてるうちは、往生不定には変わり無し。
帰命尽十方無碍光如来に礼拝するも摂取不捨のすがたと見、形像を礼拝するも
立撮即行のすがたと見、称名するも名号の独用と見よってトコか。
868 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:26:05 ID:dQMKPwu2
阿弥陀像であろうが、
ゼウス像であろうが、
アポロン、マリア、ゲームキャラ、
アニメキャラ像を阿弥陀様として本尊にしようが、
何を本尊にしようが、結局名号だから、名号本尊でいいんだよね。
869 :
通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:28:40 ID:dQMKPwu2
ちなみに僕の家には、仮面ライダーの形をした阿弥陀様がいるよ。
870 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/02/18(土) 17:35:37 ID:SWEfFVEd
>>865 > 信心決定すれば、なぜ親鸞聖人が名号本尊好きなのかわかるんだけどね。
さらに上根のひとのためにはいやしくとも、われらがためには、最上の法にて
ましますというところでしょう。
まあ、いすれにしても、あんたらノータリン嘘つき親鸞会には、思いも心も及ば
ぬ世界よ。
>>869 > ちなみに僕の家には、仮面ライダーの形をした阿弥陀様がいるよ。
木っ端で作った木偶人形が置いてあるだけだろ。木偶人形は阿弥陀じゃない
んだよ。
871 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:48:54 ID:dQMKPwu2
だから、木像、絵像本尊にする人は、
どうしても、「聞其名号 信心歓喜」がわからないからなんだよね。
「一向専念無量寿仏」なんだから、阿弥陀でいいだろってことになる。
良くわからないのは、日頃「念仏だ、念仏だ」と騒ぐ人に限って、
本尊は念仏じゃないんだよね。
そんなに念仏大事なら、本尊は念仏じゃだめなのかい。
872 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 18:01:57 ID:ei57+cAs
>>864の渡海難さん
うーん、それはなんとなく分る気がします s会内では会長は、何百年に一度しか現れない善知識といわれ、
ほぼ世界のメシア(この言葉は使わないでしょうが)的指導者みたいな扱いですし、
機関紙では阿弥陀仏の御化身とか親鸞聖人の御化身という、まるで超人的な聖者に対する様な
賛辞が並びますね。(苦難を「阿弥陀仏からの試練だ」というのも、キリスト教的な匂いがするし)
彼は本物のイエスキリストと違って、罪を犯した女性を罰さずに更生するよう励ましたり
(「あなた方の中で罪のないものが、この女に石を投げなさい」のエピソード)、
弟子たちの足を洗って謙虚な姿勢を示したり、愛を説いて身をもって示したり、
生涯清貧な生活で終わったりするということはありませんが。
873 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 18:08:24 ID:w280SODo
>山科本願寺の文章も、明らかに建立当初のことが書いてあるのに、
どこが「明らか」なのか、あなたが論証すればよろしいでしょうが。
当初のことも、末期のことも前後相違して書かれている文章で
「建立当初、蓮如上人がおられたころとは論証できないような」
根拠をあげているから、根拠にならないと言っているまで。
出すものがなくて、江戸時代の創作文書まで根拠にするとは
あいかわらずずるいね、アンチは。
ボラ夫も同じようなことしたし、批判するためなら御聖教の御文まで
偽造した連中だから、アンチの出す根拠は全然信用ならん。
結局、木像本尊の根拠はどこにもないのですが
それでも「木像派ではない」といいながら
木像を本尊にしているのは何故ですか?
おならぷぅ
875 :
元々ぼら夫:2006/02/18(土) 19:48:07 ID:yEQ3fqIZ
>>873 も〜やんなってくるな。実悟さんの文書で十分やんか。
蓮如没後に本尊が名号から仏像に変えた事があるなら、そう記載されているはずやろ。
数万人もの参拝がある山科の本尊が変わったのなら、山科国はおろか、越前、京都、大坂
でも話題にならんはずないやろが。語りつがんわけないやろ。まして御堂記録を
つけている者においてをや、や。も〜ええやろ。T森タソに「あの顕正新聞の主張は
史料的にみてむずかしいッス」って教えてあげな。それが親切ってもんや。
帖外御文章(60)もあげといた。蓮如上人は形像の本尊を廃しも否定もしてない
876 :
渡海 難 ◆Fe19/y1.mI :2006/02/18(土) 20:02:15 ID:SWEfFVEd
>>871 >そんなに念仏大事なら、本尊は念仏じゃだめなのかい。
これは僕に向けた質問か。本願寺の坊さんに向けた質問か。
質問ではないのか。よく分からん。
僕に向けた質問なら、宛先を分かるようにもう一度意思表示してほしい。
他人に向けた質問を、代わって答えるつもりはない。
僕に向けた質問なら、こっちには答える用意がある。
なお、今日はもう終わり。 2、3日カキコ不能。 多忙。
877 :
元々ぼら夫:2006/02/18(土) 20:03:39 ID:yEQ3fqIZ
〜つづき〜
あとさ、実悟さんの原文ちゃんとすみずみまで目通したんかいな?ものすごい細かい方
やな〜って思わんかった?『山科御坊事』には、蓮如上人の時の勤行が実如上人の代で
変更になったこと、若干の荘厳の変更に至るまで細かに記されとる。本尊が実如の代で
変えられたならば、記載があって当然と思わん?何も知らん人を煙に巻くよ〜な
ことばかりいわんといて。
(^-^)/ホナねん☆
878 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 20:13:39 ID:Wd2HX4nK
>>875 実悟さんの原文を見ていると、本尊に関する記述は、
明らかに建立当初の場面を記載した部分に出てくる。
いくら「前後相違」といっても、これを見て
「蓮如上人の末期の事かも知れないから根拠にはならない」
と考えるのは親鸞会の会員くらいだろうね。
はじめに結論ありきだから、こんな珍妙な解釈になるので、
反面教師として学ばせて頂きたいと思います。
シンパの方は
「本尊なほもつて『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる丈」
のところを根拠としているようですが、
現在の浄土真宗の形像本尊は
「『観経』所説の十三定善の第八の像観より出でたる」象ではなく
罪悪深重のイダイケ夫人が、凡夫のまま釈尊の導きで「まのあたりに無量寿仏を見たてまつることができた」時の
「住立空中尊」が元になっている。(『仏説観無量寿経 正宗分 定善 華座観 住立空中尊』)
「十三定善の第八の像観より出でたる」像なら九品の差別があるので
真宗の第一義の本尊ではないが
凡夫の代表であるイダイケ夫人が見たてまつった
「住立空中尊」こそ一切衆生を差別なく救う」と誓われた本願の現れである
として、現在の真宗の形像本尊とされている。
そのあたりぐらいはシンパもアンチも押えといた方がいいんではないかと。
880 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 20:57:34 ID:4T0nn+Ag
>>871 >だから、木像、絵像本尊にする人は、
>どうしても、「聞其名号 信心歓喜」がわからないからなんだよね。
ふーん。
木像、絵像本尊にしていた法然も、善導も「聞其名号 信心歓喜」
がわからない人たちだったと。
そしてその師匠から学んだ親鸞が「聞其名号 信心歓喜」をわかるとは・・・
一体どういうことなんでしょうか。
881 :
法然も、善導ha:2006/02/18(土) 21:27:00 ID:4T0nn+Ag
865 :通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:18:46 ID:dQMKPwu2
信心決定すれば、なぜ親鸞聖人が名号本尊好きなのかわかるんだけどね。
いまだに未信心なら、阿弥陀像でもありがたく思えてしまうかもしれないね。
868 :名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:26:05 ID:dQMKPwu2
阿弥陀像であろうが、
ゼウス像であろうが、
アポロン、マリア、ゲームキャラ、
アニメキャラ像を阿弥陀様として本尊にしようが、
何を本尊にしようが、結局名号だから、名号本尊でいいんだよね。
869 :通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:28:40 ID:dQMKPwu2
ちなみに僕の家には、仮面ライダーの形をした阿弥陀様がいるよ。
871 :名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:48:54 ID:dQMKPwu2
だから、木像、絵像本尊にする人は、
どうしても、「聞其名号 信心歓喜」がわからないからなんだよね。
「一向専念無量寿仏」なんだから、阿弥陀でいいだろってことになる。
良くわからないのは、日頃「念仏だ、念仏だ」と騒ぐ人に限って、
本尊は念仏じゃないんだよね。
そんなに念仏大事なら、本尊は念仏じゃだめなのかい。
882 :
名無しとコテハンを使い分ける通行人:2006/02/18(土) 21:27:59 ID:4T0nn+Ag
865 :通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:18:46 ID:dQMKPwu2
信心決定すれば、なぜ親鸞聖人が名号本尊好きなのかわかるんだけどね。
いまだに未信心なら、阿弥陀像でもありがたく思えてしまうかもしれないね。
868 :名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:26:05 ID:dQMKPwu2
阿弥陀像であろうが、
ゼウス像であろうが、
アポロン、マリア、ゲームキャラ、
アニメキャラ像を阿弥陀様として本尊にしようが、
何を本尊にしようが、結局名号だから、名号本尊でいいんだよね。
869 :通行人 ◆02GH.fBfT6 :2006/02/18(土) 17:28:40 ID:dQMKPwu2
ちなみに僕の家には、仮面ライダーの形をした阿弥陀様がいるよ。
871 :名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 17:48:54 ID:dQMKPwu2
だから、木像、絵像本尊にする人は、
どうしても、「聞其名号 信心歓喜」がわからないからなんだよね。
「一向専念無量寿仏」なんだから、阿弥陀でいいだろってことになる。
良くわからないのは、日頃「念仏だ、念仏だ」と騒ぐ人に限って、
本尊は念仏じゃないんだよね。
そんなに念仏大事なら、本尊は念仏じゃだめなのかい。
883 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 21:32:05 ID:4T0nn+Ag
>>881-882 ダブルカキコ失敬
>信心決定すれば、なぜ親鸞聖人が名号本尊好きなのかわかるんだけどね。
>いまだに未信心なら、阿弥陀像でもありがたく思えてしまうかもしれないね。
通行人=ID:dQMKPwu2 は、法然、善導は信心していないから、行像の阿弥陀像でもありがたく思うのだ、
といいたいらしいね。
そうなんでしょう?
>>873 同意。本文よく読んでください。
それとも民主党の議員さんみたいに、そっちが証明しろってことですか
(追記19)錯誤相関?
「錯誤相関」という現象がある。それは、実際には存在しない関係を認知した
り、あるいは実際の関係以上に強い関係を認知することである。人はランダム
に起きている事象についても、すでにもっている信念を確認するデータとして
誤って認知する。つまり、二つの事象に相関する関係があると信じるならば、
その関係が誤りである証拠を確認する以上に、その関係が正しい証拠に気づき、
記憶してしまう。
(『マインドコントロールとは何か』P159,160)
(中略)
そうすると、何か善いことをした後、善い結果が返ってきたり、悪いことをし
た後に、悪い結果が返ってくると、「因果の道理は、やはり真実なのだなぁ」
と思うようになります。善いことをしても、善い結果がかえってこなかったり、
悪いことをしても悪い結果がかえってこないような場合があっても、「因果の
道理に反すること」よりも、「因果の道理に合致すること」がより強く自分の
中に残り、「やはり、毎日聞かされていることは、正しかったのだ」と思うよ
うになりました。
こうして、多くの疑問を抱えていた「親鸞会の説く因果の道理」も、次第に自
分の中で「やはり、講師の人や先輩の言う通り、大宇宙の真理なのでは・・・」
と思うようになってゆきました。
これでは因果の道理を根幹とする仏教そのものが、錯誤相関になってしまいま
す。
私にはマインドコントロールという学者の言葉に何が何でも当てはめようとす
るあまり、すべてがそう思えて来るという錯誤相関に陥っているように思えま
すが。
因果の道理を否定しては、本当の幸福にはなれません。あわれというもおろか
なり。
887 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 22:28:56 ID:34/w096R
>>886 >私にはマインドコントロールという学者の言葉に何が何でも当てはめようとするあまり、
>すべてがそう思えて来るという錯誤相関に陥っているように思えますが。
すべてが当てはまる訳ではない、と思っているのなら、
親鸞会の活動の中で、マインドコントロールに「当てはまると思われる部分」と、
「これは当てはまらないと思う部分」を、あのサイトの中から具体的にいくつかあげてみたら?
>因果の道理を否定しては、本当の幸福にはなれません。あわれというもおろかなり。
親鸞会で「本当の幸福」になった人って、いるの?
888 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 22:31:57 ID:34/w096R
親鸞会って、批判に対して具体的に反論したり、具体的な反省をしたりする能力に
かけているんじゃないの?
ただなんとなく、反論しなくちゃいかんから反論しているというか、
未来にむかって、具体的に何かを改善するといったような姿勢がみられない気がする。
だから、批判も減らないし、会員数も増えないんじゃないの?
889 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 22:37:24 ID:DJdS9GN1
ていうか、ボラ尾さんの話一回きいてみたい、生で
890 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 23:40:38 ID:5ZD5Vi5f
>>875 >実悟さんの文書で十分やんか。
って言うか、根拠になりそうなものがそれしかないから粘ってるのは
気持ちはわからんでもないが無理な解釈。
「大阪御坊は名号を下付されたお礼で立てられた」と言われるほど
名号本尊をすすめられた蓮師が山科だけ本尊を木像にされたなら
どこかに誰かが一言コメントがあってもいいんじゃないかという方が正論だよ。
御真影に礼拝しても何も問題ないのと同じで
形像に礼拝することは問題ない。しかしそれが本尊かどうかというのは別。
木像本尊のちゃんとした根拠を出してから言い訳しなさい。
君は実際に木像を本尊にして、名号を排斥してる「木像派」なんだから。
891 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 23:46:08 ID:5ZD5Vi5f
>>878 >明らかに建立当初の場面を記載した部分に出てくる。
頭悪いですか?
「明らか」ならそう論証されればよろしい。
論証できないなら明らかでないということ。
892 :
名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 23:59:36 ID:Wd2HX4nK
>>890 って言うか、明らかに根拠と言えるものを根拠じゃないと粘ってるのは
気持ちはわからんでもないが無理な解釈。
「大阪御坊は名号を下付されたお礼で立てられた」と言われるほど
名号本尊をすすめられた蓮師が実際に形像を下付されたり、
山科の本尊を木像にされたのだから、
親鸞会の木像本尊は外道邪宗だという意見がおかしいというのは正論だよ。
名号を本尊にすることは問題ない。
しかしたとえばあんたらの機関誌にあるように、
「親鸞聖人が木像絵像を廃して名号にせよと仰った」というのとは別。
上の発言のちゃんとした根拠を出してから言い訳しなさい。
でなければ、顕正新聞は聖人の仰ってもないことを「仰った」と書いていると言われても仕方がない。
そーいや、一向専念無量寿仏ってs会の造語だったっけ?
お年寄りの信者は、若者からみると、
馬鹿でもうろくのジジイで、金むしりとられとる憐れな人と思うのかもしれません。
若者の中には、金稼いで、やりたいことやって死ねばいいやん。
と思う人は多いでしょう。
しかしながら、宗教の信者に老人が多いのは、
年を重ねれば重ねるほど、人生の真実が見えてくるからではないでしょうか?
それは、若くて、体が丈夫で、先が長いと思ってるうちは
見えてこない真実なのではないでしょうか?
895 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 00:56:51 ID:Mc48Ktkl
>>893 いや、それは大経にある言葉だよ。
でも、s会の造語とか作り話ってけっこうあるから
知らずに間違って理解してるところがあるんじゃないかって気になる。
やっぱり直にお聖教にあたりたいと思うんだけど
ちょっと読んだだけじゃ、書いてあること意味分かんないしw。
真宗入門みたいな原文を読みやすくする本でもあればいいのに。
確かに常識のへったくれもなくなりつつあると思う。
自分犯罪板とか他の覗いたけどたたきあいしてる人の多いこと。
特に「人殺しがなんでまちがってんだ?お前の常識押し付けるなよ」
とか言うような間違ったことを正当化する人がけっこういる。なんて
言うか、世間の当たり前のルールが間違いだと指摘し、屁理屈を
こねて「常識ってなんだ?そんなことマナーって誰が決めたんだ?」
ってな具合で話にならないケースがあるね。
見ていてぞっとしたし何かの工作かと思ってしまうほど悪どいことに
、賛同してまともな意見の人を叩いてるね。そのうち現実でもこんな
人が増える悪影響は心配されるよね。
その宗教が真実かどうかは判断できるわけもなく、証明などもできない。
なぜなら、Aということを証明するのにBがいるとして
Bということを証明するのに、Cがいる。
ではCはどうやって証明するのか?無理なはなしである。
ここまでが人間の思考の限界と言える。
ID:bNQpQ4dwの書き込みって、
結構短時間に集中してるけど連続投稿にならないんだね。
不思議〜
なんてこった・・・レスウインドウを間違えるとは
なんじゃここは〜
わしは色んな宗教を見てきて、はあ?というものばかりだったが、親鸞会
は奇跡とかは言ってなかったぞ。
仏教を信じていても災難はくるというのがすごく納得できたがのう。
903 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 01:40:53 ID:ag195l4N
地獄に堕ちることになってるs会員が極楽にいけるなんて奇跡みたいだね
すこし調べてみると、真宗において本尊は名号か形像かなんて議論
今に始まったことじゃなく、s会とのやり取りでなされている争論なんて
とうの昔に通った道。2ちゃん風に言えば話題がループしとるって感じなんだろうと思う。
阿弥陀仏の像といってもいろいろな形態があり
真宗の形像本尊としては「住立空中尊」の姿を本願の現れとする
と教学の観点から江戸時代に導き出されている。
というようなこともみんな知らないんじゃないかな。
知らないから、木像だ絵だ文字だという雑な議論にみんな振り回される。
でもそれも無理は無い、真宗学なんて普通誰も知らない。
そういう知らない部分、すぐ確認できないところに騙しの罠は潜んでいる。
結局、H願寺との差別化を強調して自教団の宣伝にしたいs会の
プロパガンダなんではないか。
学者の話は信じないという人でも、なぜT森氏の話なら信じられるのか
唯一無二の善知識と言われて「はあ、そうなのか」と思ったときから思考が進んでいないとは感じないか。
最初に出会ったものがs会ということでインプリンティングされていないか。
905 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 07:51:35 ID:2Qc8ImyV
>>890 >実際に木像を本尊にして、名号を排斥してる「木像派」なんだから。
また親鸞会得意のレッテル貼りの詭弁。
本願寺は東西行ってみたけど、名号本尊は絵像以上に強調されてたし、
求める事ができたよ。
しかも親鸞会みたいに聖人ご真筆のコピーでないところが偶像崇拝らしくなくて
好感をもった。
まずは自分の目で確かめてみたら?
>>904 >真宗の形像本尊としては「住立空中尊」の姿を本願の現れとする
これにて決着かな、この議論は。
アンチに軍配、でね。
906 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 08:02:48 ID:EH81UpzY
>真宗の形像本尊としては「住立空中尊」の姿を本願の現れとする
と教学の観点から江戸時代に導き出されている。
というようなこともみんな知らないんじゃないかな。
本願寺がそういう言い訳してるという話は既出。
907 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 08:09:53 ID:EH81UpzY
>>905 >また親鸞会得意のレッテル貼りの詭弁。
名号本尊にしてる寺がどこかにあったっけ?
どの寺も名号本尊じゃないなら排斥してると言われても仕方ない。
結局木像本尊の根拠は無い、ということでおわり。
>蓮師が実際に形像を下付されたり、
だから木像「本尊」の根拠を求めているんですが。
なんで根拠のない木像を本尊にしてるんですか?
908 :
名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 08:14:38 ID:EH81UpzY
>「親鸞聖人が木像絵像を廃して名号にせよと仰った」というのとは別。
お西の人かなあ。
あんたらのところでは
「祖師は法然上人の時代まで形像本尊を用いられていたのを『やめて』
名号本尊にされた」という説は採用されないわけだ。
「形像本尊に加え得て名号も本尊にされた」というわけだな。
909 :
本願寺のことは本願寺に:2006/02/19(日) 08:28:56 ID:Gwfm9Ye/
親鸞が礼拝の対象とした本尊は、六字八字十字の名号であった。
源信、源空等の念仏者が、本尊として礼拝してきたのは絵像や彫刻の
阿弥陀仏像であった。
源信は『往生要集』に、念仏者は命終わるとき、阿弥陀仏の迎えをうけ、
西方浄土に導かれるという阿弥陀仏の来迎を説いた。それ以来、来迎思想が
盛んとなり、阿弥陀仏像の姿も、念仏者を迎えとろうとする姿勢を示した来迎像が
多く作られた。
その来迎像は源信のころは坐ったままの姿が多かったが、源空のころになると
念仏者に向かって歩みかける立像の来迎像が作られ、阿弥陀仏の積極的な
救済の姿を現示するようになった。
しかし、親鸞の教えは阿弥陀仏の来迎をたのむ必要はなかった。
910 :
本願寺のことは本願寺に:2006/02/19(日) 08:36:36 ID:Gwfm9Ye/
しかし親鸞の教えは阿弥陀仏の来迎をたのむ必要はなかった。
そこで親鸞は来迎思想を否定した。
これは来迎像の礼拝の否定も意味するが、さらに形像の阿弥陀仏の礼拝にも
否定的であった。
形像を礼拝することは、仏像をみて浄土往生をねがう観仏という自力の行に
つながるものであり、観仏は要門の行者のすることで、弘願他力の行者のすべき
ことではないとの考えにもとづくものである。
911 :
本願寺のことは本願寺に:2006/02/19(日) 09:03:17 ID:OLgRFQwT
蓮如の法話、言行録の編集は凡そ三期にわたってなされたとみることができよう。
第一期は蓮如に近侍し、よくその声容に接しえた人々によるもの......
第二期の編集は蓮如の言動を直接見聞しえなかったが、伝聞されているところを
記述したというもので、蓮如の第十男実悟兼俊が、その最たるものである。
実悟は蓮如の十男であるが、出世後まもなく加賀本願寺へ送られており、また
蓮如没時はわずか八歳であったから、蓮如に関しては全く伝聞によったものと
いえる。
912 :
ついでに:2006/02/19(日) 09:08:04 ID:OLgRFQwT
>名号本尊をすすめられた蓮師が実際に形像を下付されたり、
蓮師は祖師絵像も下付されているのだがそれも本尊だとでもいうのかな?
御下付されたらなんでも本尊だというのはあんまりでたらめだろ。
木像本尊の根拠はないということに何の変わりもないことではあるが。
913 :
名無しさん@3周年:
>>911 >蓮如没時はわずか八歳であったから、蓮如に関しては全く伝聞によったものと
いえる。
親鸞会が自説に都合のいいところだけを抜粋して有難がって会で使っている
「御一代記聞書」もせいぜい「歎異抄」程度の扱いにしたほうがいいってことだね。