378 :
名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 19:30:04 ID:4WBfwdDJ
般若心経はもう過去の遺物。<空>の概念も空論で終わった。
十牛図でたくさん。これを坐禅や瞑想の参考にしよう。
379 :
名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 19:29:40 ID:HzxozCR4
書店の宗教コーナーに行くと般若心経関係の本がかなりある。
これらの著者は<空>の支持者だ。よく覚えておくといいだろう。
最高の知恵が空? あなたが・・・<空>だ・・・カラッポ。
380 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:00:46 ID:Fj/7mGMZ
できたらこのスレでは空の否定やその押し付けではなく、
空の定義を教えてほしいのですが…
381 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:08:37 ID:ZmmunHKy
現時点では無理でしょうね・・・
あたま空っぽの人が張り付いてますからwww
382 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:42:42 ID:75ZP4wuV
別に頭が空でもいいんじゃないの?
383 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 15:43:35 ID:ZmmunHKy
おれは壊れたレコードや
オウム返しには耐えられない。
384 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 21:12:39 ID:75ZP4wuV
お前らは頭空っぽの方が夢詰め込めっていう有名な曲を知らないのか?
385 :
名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 22:18:54 ID:aIVbJsXi
笑顔ウルトラZで〜〜今日もアイアイアイアイア〜
386 :
名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 22:00:53 ID:DymifHNl
スパーキング!
387 :
名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 22:04:37 ID:GCg2/63k
>386 (´,_ゝ`)プッ
388 :
名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 06:37:55 ID:gowi/Cn7
あっそ
389 :
名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 18:38:51 ID:6hTOSwti
十牛図について・・・
どなたかここに書いてある新解釈で十牛図の本を書いてください。
図や風景や天体写真などを使い、大きな字でレイアウト。
390 :
名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 18:56:11 ID:h9V9GsYq
唯識三十頌を昨日、初めて読んでみた。
識の区別や性質はいいけど、完璧に転倒妄想です。
世親(ヴァスヴァンドゥ)は阿頼耶識が霊魂であることを知らない。
391 :
名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 21:45:02 ID:/2DzFwPu
390↑さん もっと詳しく お願いします
392 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 00:34:02 ID:m0yDYHYD
わたしはまったくの素人であり、しかも唯識三十頌を昨日、ざっと目を
通しただけという、うすっぺらなので読み流してください。
八識の区別と、そのおのおのの性質に関しては正しそうに思う。
この話だけでもこの頌はすぐれたものであるとまず評価する。
ただ阿頼耶識を実体のない識にしてしまうため、我・存在の全体を
実体のないものであると結論する。そう結論するから
一切は依存関係にあり、「一切の存在は無性である」という話になる。
しかし阿頼耶識は霊魂であって形と内容をもっている。
そうすると我・存在は無性ではなくなり、仏教の前提である
唯識=空の概念はまちがいであり、仏教自体が成立しないことになる。
この世が実在するのに実在しないと結論する・・・転倒妄想。
393 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:00:56 ID:G+izpzZ5
>>392 阿頼耶識を「暴流のごとし」と喩える箇所があったと思う。
霊魂という固定的実体としてでなく、
自覚・無自覚を問わぬ認識作用全体の縁起の場として
読むべきではないかと思うが。
無常観を示す文章で知られる
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず云々」は、
阿頼耶識の説明としても有効なように思う。
394 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:05:08 ID:G+izpzZ5
まあかく言う私も興味本意でちょっと勉強してるに過ぎないんだけど、
仏教思想の面白いところって、一見矛盾することを同時に示すところにあると思う。
うまく言えないけど、たとえばコインの裏表のようなもので、
裏の絵柄をみせれば「表と違うじゃないか」と言われ、
表の絵柄をみせれば「裏と違うじゃないか」と言われそうだが
どちらも違う立場から表現しただけで、同じことを言っている・・・みたいな。
395 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:35:54 ID:m0yDYHYD
>>394 信仰は個人の自由・・・おたがい参考にする程度でいいと思う。
世親が霊魂を知らないと判断したのは
阿頼耶識に形を見ていないからだが、「暴流のごとし」は正しそうの
疑わしい部分になる。霊魂は雲の中にじっと浮かんでいるのではなく
猛スピードでひたすらに走る。ただこの走りは「暴流のごとし」ではなく、
ひたすらな清浄さで時間の消えた世界を走り抜ける。
こんなことが書けるのも名無しのネットだからで、
名無しのネットがなければだれにも話さないし書かないと思う。
396 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 07:40:36 ID:rdK5uSGu
ユガ行派は何も机に坐って考え事してたわけじゃなくて
ヨーガの修習を通して思想を体系化したのでは?
ユガ行派の重要な点は思想ではなく修道の体系
世間道は出世間道に包摂される・・・なんて昔偉そうに書いてました。
397 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:08:50 ID:m0yDYHYD
再考しました。「暴流のごとし」は考えられなくはない。
煩悩で汚れた心にとって、阿頼耶識は「暴流のごとし」かもしれません。
たぶん体験が優先し、体験と思考によって三十頌ができたのでしょう。
ただ三十頌は、山の頂上直前、頂上の手前のように思います。
頂上に至れば阿頼耶識の形が見えるはずです。
398 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:24:03 ID:rdK5uSGu
アラヤに形象はありません。
したがってアラヤは一でもなく多でもない・・・なんてどうっすか?
399 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:35:00 ID:m0yDYHYD
そう思うのは自由でしょう。
ただ形のない識なのに、意識・マナ識・阿頼耶識に区別されることが
理解しにくい。川の流れに区別をつけるような困難さがある。
むしろそれぞれに、何らかの形があるほうが自然な気がする。
阿頼耶識は霊魂にあり、マナ識は脳細胞にあり、意識はマナ識を照らす
懐中電灯のようなものとして把握したほうがわかりやすい。
阿頼耶識の動きを感知できるか
何かを話すときに、話す内容を文章にしてから順次話すわけではない。
頭の中に、イメージが一瞬ひらめき、それを頼りに言葉がつむぎだされる。
このひらめきが阿頼耶識の動きではないかと思っている。
400 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:13:00 ID:G+izpzZ5
>>397 >たぶん体験が優先し、体験と思考によって三十頌ができたのでしょう。
このあたり同感です。
そういやこれも方丈記だったかな。・・・ふと思い出しました。
「一人一日の内に八億四千の念(おもい)あり。
念々に為すところこれみな三途の業なり。」
元々、ヨガ行者たちの内面観察と
アビダルマ仏教の心の縁起(煩悩論とか)が結びついて出来たのが唯識と
言えるでしょうから、
意識・マナ識・阿頼耶識とかも
彼らの内観行において、「認識活動の働き方」として
見出されたものと言えるのかもですね。
当時としては、
「脳という身体機関があって身体各部の神経反応を統合し云々」みたいな
科学的な観察もあり得ないわけですからね。
401 :
名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:20:06 ID:G+izpzZ5
>>399 >ただ形のない識なのに、意識・マナ識・阿頼耶識に区別されることが
>理解しにくい。川の流れに区別をつけるような困難さがある。
唯識構造の提示は
「仮設」あるいは「方便」にあたるんじゃないかと思ったりしてます。
「一切は縁起」ということを
内観を通じて体得するに至るために、仮に説いてあるもの、みたいな・・・
三十頌でいうと、第17偈で視点がぐるりと転換するところがあって、
そこがポイントのように思えたり。
402 :
名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:20:23 ID:qDSHl+9B
たしかに第17偈で変わりますね。
それまでは事実の描写なのに、ここから論証のない主張のようです。
論証のない主張・・・我・存在は実体のない無相である。
阿頼耶識に形がなければ、認識は川の流れの波紋や渦でしょうか。
そうすると認識は、消えては現れ、現れては消えるのだから
無相と言ってもいいような姿をしているのかもしれません。
403 :
名無しさん@3周年:2007/01/31(水) 23:54:16 ID:SKf3IwEi
>>402 そうですね。
私としては、体証的な表現に近いのではないかと思う反面、
初期大乗仏教の般若思想を取り入れた際の
いわば「継ぎ目」のような部分にあたるのかと思ったりもします。
>そうすると認識は、消えては現れ、現れては消える
まさに「刹那滅」ですね。
404 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:00:03 ID:qDSHl+9B
一日に八億四千の念いですか。一秒に一万の念いですね。
これは阿頼耶識の想像を絶する能力です。
中観の<空>は唯識でいう阿頼耶識です。阿頼耶識なら
<空>どころか、まさに般若の智慧ではないでしょうか。
<空>という言葉は卒業すべきだと思っています。
405 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 00:30:43 ID:6KbTlPqm
>>404 まあ、方丈記?の記述は、最近目にしたものをふと思い出しただけなので
本来唯識とはあまり関係ないのかもしれませんが、
唯識の内観は、意思や思考、感情といった精神的な活動に限らず
身体的感覚といった面にも向けられた、
いわば身心全般の認識活動を対象としていたんじゃないかと思います。
それにしても1秒1万は凄い数え方ですが、
「自分でも意識できないくらい色んな認識が動いてる」くらいの
捉え方でいいと思います。
まあ、なんといっても阿頼耶識は「あらゆる行いの蔵」とされるわけですからね。
「空」については、、、難しいところですね。
唯識の提唱した先が、「空」ではなく「真如」と表現されたことから
それを初期大乗仏教からの逸脱の経過と指摘するのもあれば、
やはり「空」に結びつけて「初期大乗としての唯識」とするのもあったりで
ここは一筋縄じゃいかなそうなとこですね、、、ちょっと考えてみたいと思います。
406 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 11:29:41 ID:T+G0oYIZ
感想
せっかく認識主体、認識対象から離れるために「識」
があるのに、アートマンのように理解したら元も子もない。
407 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 18:45:44 ID:AamTJPzm
自分の道は自分で選ぶ。これがベスト。
どんな道を選んでも責任は自分自身にある。他人ではない。
ただし道をまちがえたら、出発点にもどらなければならない。
別の道にワープするわけにはいかない。
過ぎてしまえば短い人生、まちがえたらきついよね。
408 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 19:35:40 ID:GT7TPZxp
仏教は残念だけど転倒妄想。
ブラフマンとアートマンを説くヒンズー教のほうが正しい。
仏教の誤りは、縁起に足をとられ、事物に実体があるかないかを
検証していないことにある。実体と縁起は別の話である。
唯識も同じ。阿頼耶識が実際にあるかどうかを検証していない。
世親は阿頼耶識を仮にする根拠を語っていない。
仏教が誤った道を説いていたら?・・・その罪は重くないか。
409 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 21:03:08 ID:7cRtN2EG
いないと思うけど、十牛図第八の人牛倶忘や、唯識の阿頼耶識を
体験したいなら、命を失いかねないことを覚悟してください。
霊魂のときは仮死状態です。脱魂も奇跡的ですが、
再び戻ってくるのも奇跡的です。猛スピードで雲の中を走る霊魂を、
仮死状態のまま呼び戻す力がないと死にます。
人にはアートマン、すなわち実体があるから仏教は誤り。
特に空の思想・唯識の思想は魔道である。
410 :
名無しさん@3周年:2007/02/01(木) 23:30:11 ID:6KbTlPqm
ヒンズー教徒ってこの板自体であんま見たことなかったからなんか新鮮だな。
ま、いーや。明日から旅行行くんで
また機会があったら覗きに来ますノシ
411 :
大王:2007/02/02(金) 00:39:41 ID:WYH6OayV
ヒンズー教は、、論理的やれば、くずれる、、
70年代以降の西洋哲学の思想で論破できる、、論理的には、、、
仏教は、、それでも、論理的に残る、、、
神秘主義的には、ヒンズーは存在する、、が、、
論理的、西洋哲学的には、、ヒンズーは存在しない、、、
412 :
名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 07:24:17 ID:cDAQai5w
たぶん408も411もヒンドゥー教とバラモン教の違いが分かっていないと思うね。
413 :
承狂:2007/02/02(金) 11:16:57 ID:PFoSMBx9
411は、基督教と仏教を同時に信仰してる感情論者だからな。
論理的思惟なんか期待するな。
414 :
名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 11:26:16 ID:FaQwQLB7
>>411 ヒンドゥーにはニヤーヤ、ナヴィヤ・ニヤーヤという論理学の巨頭があるんですけど。
しかもまだ完全に学者によって解明されてないのに、なんで分かるのか?
415 :
名無しさん@3周年:2007/02/02(金) 12:02:11 ID:cDAQai5w
妄想で分かってんでしょうね・・・
416 :
大王:2007/02/02(金) 21:42:16 ID:WYH6OayV
ふーん、、、記号論なんて、しらねえだろうな、、、宗教論で、、正しいと、論じたいのだろう??
417 :
大王:2007/02/02(金) 21:53:19 ID:WYH6OayV
まあ、神秘主義や、輪廻など、、実証不可能だし、、、論理では解けないわな、、
論理的に実証できうるものという、限定で捉えた場合、、ヒンズーは脱落するということだわ、、
神秘主義的に存在は認めるけどね、、、、
418 :
承狂:2007/02/04(日) 12:51:53 ID:UEYLhlv8
オイオイ、ダイオウよ。
アッチのスレで俺が相手してやるから、半可通で恥ずいマネはよせよ。
419 :
承狂:2007/02/06(火) 13:45:14 ID:tiUTBRqd
408に。
世親に関しては同意ですけど、
実体の説明が縁起ですぜ?
個体は細胞群で出来、細胞群は有機化合物で、分子はフォークってのも縁起だし、
時系列で見ても縁起だし。
シバ神のダンスよりは論理的だろ?
420 :
名無しさん@3周年:2007/02/07(水) 18:47:11 ID:y2dVf8zI
承狂さん、仏教自体がインド伝来の宗教だからね
まず作用・反作用で説明しようか。
これは関係であって、因果関係と相関関係を含んでいる。
これが縁起であり、作用・反作用には実体がないという結論になる。
しかし<作用点>がなければ作用も反作用も起こらない。
この<作用点>が実体だ。人間で言えば<命>
<命>は関係じゃなくて、形をもった霊であり、実体である。
仏教は、この<命>を捨象してしまったということじゃないか。
421 :
承狂:2007/02/08(木) 01:34:02 ID:kyC/xBSh
そして、その作用点は、物理的観測や計測が不可能である為に、実に種々の仮説が提唱され、信じられているが、それが確認出来たからと言って、ソイツの心の制御が出来る訳ではない。
従って、その種の事は無記とされ、自心の事に当たるのが仏教哲学の初歩さ。
422 :
名無しさん@3周年:2007/02/10(土) 01:53:45 ID:/OilX7fT
霊魂は物質とちがうから物質を測定する機器では観測できない。
その人自身が心の中に探し、心の中で体験するしかない。
そういうことなので霊魂は個人的なものであるが、霊魂の形は球であり、
その内容が霊であるということは、昔から語られてきたことであり、
それを体験した人たちの共通する事項である。
これは神を推測させる内容を含んでいるのであり、霊魂が形を持つから
神ではないのであり、形をもたない霊という存在が神になる。
この霊、霊そのものを体験することが現実にありえる。神は体験できる。
つまり梵と我とは別物ということ。梵我一如は誤りである。
423 :
承狂:2007/02/10(土) 02:16:40 ID:CB1RdNXK
カヨウな輩が多い為に、私は唯識を否定する。
424 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 11:33:14 ID:uJqMRISG
福音書に出てくる「豚に真珠」・・・真珠は球形である。
占い師の水晶球・・・これも球形である。
霊魂は球形かもね。
425 :
名無しさん@3周年:2007/02/12(月) 18:48:12 ID:uJqMRISG
太陽も月も地球も、宇宙の星々も球形である。
そして霊魂も球形・・・やっぱしそうかという感動がある。
イエスはふたつのことを教えている。
神聖なものを犬に与えてはならず、また、真珠を豚に投げてはならない。
それを足で踏みにじり、向き直ってあなたがたにかみついてくるだろう。
426 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :2007/02/12(月) 18:59:03 ID:NGleli1K
ガルルルル
ウ~〜
427 :
承狂 ◆nR84EH8w52 :
保守だ。
法をカタるイカさーん、唯識卅頌でも語れや。
バカ見た様な比喩とか使わずにさ。