唯識説における空の思想について語ろう

このエントリーをはてなブックマークに追加
301承狂
誰か空について語れ。
オールウィハーフトゥドゥイズラーントゥキープトーキングだ。
302聖霊大王大王:2006/09/08(金) 13:54:02 ID:ZKonX+tE
しょうきょーちゃん、あらすから、ますます、過疎化するじゃないか、、
303聖霊大王大王:2006/09/08(金) 14:00:45 ID:ZKonX+tE
おいら、しょうきょーちゃんの御託より、唯識の考えを知りたいの!!!!
304名無しさん@3周年:2006/09/15(金) 23:36:25 ID:9kaSY6rc
潜在意識をマナ識
無意識をアラヤ識

と考えれば唯識はそう難しいものではない。
305唯識ユガ行派:2006/09/30(土) 19:59:34 ID:aG0lygQC
↑304 なかなか良いところをついているような気がします ただ無意識というと どうしてもCGユングが想起されてしまう (私も言葉にとらわれているかも知れない)
306聖霊大王:2006/10/02(月) 10:59:04 ID:tdHp4ONS
識ひとつ、全世界が融合される、、全てが識に一体化、
世界も識と化す、、、識が智に転ずる、、、、
行いも識と化す、いや、智と化す、、
認識も識と化す、いや、智と化す、、
他人と関わりも識と化す、いや、智と化す、、
307唯識ユガ行派:2006/10/02(月) 17:50:14 ID:hwXnvJ8Q
中観でいかなる論理も矛盾に帰すことが表明され 仏教のめざすべき境地が明らかにされた 唯識はその境地に住する者がどのようにして 我々凡夫の世界に対応するかを説いた
308聖霊大王:2006/10/03(火) 10:46:04 ID:cKkvw//f
唯識は解りやすいとも、いえる、、、
ま、天台宗、真言宗もおもろいけれども、、
309唯識ユガ行派:2006/10/06(金) 20:27:49 ID:kQoZFHbj
空とはなにか? 人間の存在は自体がない 菩薩は無数の人を涅槃にひきいれるが 究極は 菩薩も涅槃にはいるひとも 実は存在しない 人の為に活動はするがそれにとらわれることがない 水に映った月はそれによって濡れることがない
310名無しさん@3周年:2006/10/06(金) 22:11:18 ID:5xxee926
空に思想があったらたまらんなぁ
311名無しさん@3周年:2006/10/07(土) 00:44:58 ID:sZuwvQiU
>空とはなにか?
唯識的には虚妄分別に所取と能取の二者が無いこと、
依他起性が遍計所執性を常に離れていること。
中観的には縁起。といっても縁起は唯識では識転変=依他起性=虚妄分別のこと。
312聖霊大王:2006/10/17(火) 10:22:56 ID:wfVahdoi
唯識の修道法は、
南方仏教の修道法と、関係が深い気がしてきた、ヴィパサナーとの関係、、
慈悲の瞑想が唯識でも重要だと思えてきたぞ、、
思考の介在をなくす、サティもねえ、、
313名無しさん@3周年:2006/10/29(日) 00:07:21 ID:cNcosxSq
お次の方どうぞ!
314聖霊大王:2006/11/19(日) 13:38:08 ID:tunFquSB
消えちゃあ、やだなもんで、
一如なる呼吸が根源かな、、、
315名無しさん@3周年:2006/11/23(木) 21:45:41 ID:NThnEL7s
無ゥ‐ッ! 汝がそれだ!
316名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 09:03:32 ID:VOB23Aus
空論者 唯識論者 世俗の行者達は何処に行ったかな?
317名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 11:47:03 ID:bo2qM9eW
涅槃
318名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 19:06:15 ID:VOB23Aus
どっちのねはんかな?
319名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 19:26:35 ID:bo2qM9eW
ウヨムヨムジュウショどこへやら
320名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 22:41:11 ID:VOB23Aus
↑ウ〜ム お主 なかなか出来るな! ただ者ではないとみた その先を何というか
321名無しさん@3周年:2006/12/10(日) 23:31:04 ID:bo2qM9eW
住所不定無職
322名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 00:02:41 ID:wf6FH7hu
↑ ムショに入ったフテェ住職か ウ〜ム なるほど
323名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 00:20:13 ID:xKbODGsE
エ〜、お後がよろしいようでm(_ _)m

チャンカチャンカチャンカチャンカ♪
324名無しさん@3周年:2006/12/11(月) 22:02:04 ID:wf6FH7hu
↑そうか お主は唯識における イッチャンティカを問題にしようという訳ですな ウ〜ム 深い!
325承狂:2006/12/14(木) 23:44:32 ID:cZW0Z40X
未だ、続いていたんだな、此処。
ちょっと吃驚。
326名無しさん@3周年:2006/12/15(金) 00:01:09 ID:Kv1PDjlG
唯識って、輪廻する主体はアーラヤ識に存する、とか
そういうやつでしたっけ? 唯識3年、倶舎8年。
ユングの集合的無意識とも等値されるのが、
アーラヤ識であり、例のアレフという宗教団体も
一般人に、アーラヤ識の講座を開いて、非常に好評だったらしいよ。
327名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 04:28:53 ID:MXmx8qEm
へぇー そうだったの 確かに唯識と心理学の接近は現代では有益だと思う というか急を要するね 唯識の考え方は生身の人間から出発しているから普遍的に通用するよね
328名無しさん@3周年:2006/12/17(日) 04:38:59 ID:MXmx8qEm
連投ごめん 上の 普遍的 という意味は 経典やある時代の僧を基本にしてないという意味. ある時代の僧を基本にすると現代には限界があるもんね 所詮経典や戒律は 悟った人間には必要ないもんね 余計な荷物だもんね
329聖霊大王:2006/12/19(火) 13:59:55 ID:iqLDgfBb
最近、唐招提寺を読んで、、律宗は、思想的に、、、無相唯識で、如来蔵で、法華経だと、わかった、、、、
法相は、、有相唯識だけどね、、、

無相唯識は日本にあり、滅んでいないとは、、、律宗に残る、、、、、
330名無しさん@3周年:2006/12/23(土) 00:44:47 ID:ZkNXm3wm
有相と無相の違いをオセ〜テください
331大王:2006/12/23(土) 19:25:01 ID:n3g2TC2i
有相は、、結局、識が残り、、智がある、、、
無相は、、結局何も残らず、、空、、
たぶんね、、、
332名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 00:02:09 ID:ZkNXm3wm
大王さん ありがとうございます マイトレーヤ アサンガ バスバンドゥ 等の著作を読むと彼等は無相唯識を説いているように思いますが…ゲンジョウになるとハッキリ有相を打ち出してますね
333名無しさん@3周年:2006/12/24(日) 21:19:38 ID:z3fTj+Bc
唯識思想はもしかしたら5〜 600年先の人類の思想ではないかな?
334大王:2007/01/02(火) 20:00:16 ID:rA1G82tm
hosyusuruzo,,,,
335大王、、:2007/01/07(日) 21:25:55 ID:NaFopqsC
最近、、唯識、、やっていないなあ、、易行コースになってる、、日蓮宗、時宗、西山浄土宗探検、、
336名無しさん@3周年:2007/01/09(火) 21:19:36 ID:EiMPzmvX
意は意識、マナ識は無意識、阿頼耶識は魂。魂は実在する。
空という概念を持ち出した般若心経がまちがっている。
337名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 00:39:36 ID:yH/MTFjE
般若心経の罪は相当に重い。
空は空論といって昔からバカにされていたじゃないか。
こんなものをありがたがっていたらダメ。
けっして悟れない。解脱できない。
338名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 01:09:54 ID:PqAoW7NI
好意的に空を語れば
唯識は夏目漱石の「則天去私」・・・少しづつ悟りに迫る
中観は西郷隆盛の「敬天愛人」・・・一挙に本丸を落とす
 
こうなるところだが実際には般若心経で悟った人はいないでしょう?
この経典の役割は何? こんな経典はいらないね。
339名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 16:19:53 ID:dDgAxyhX
般若心経はビックバン説の嘘を見事に見抜いていたそうな ほんまですか 霊魂の概念・・・ 霊魂とは何ですか
340名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 18:29:23 ID:nW5EQzRt
霊魂は実在し、霊は内容であり、魂は形です。
坐禅で見性するのは、霊魂であり、それ以外は見性に値しません。
あなたの霊魂についてのイメージはどんなものでしょうか。
341名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 18:35:07 ID:vxKh7flk
唯識・空の著述では岡野守也がいい!ちゃんと座禅もしている人です
342名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 18:41:11 ID:QHucDQqJ
「余れるもの」について語らえるかと思ったのですが、此処では
無理みたいですね。
煽るにしても、もう少し勉強していただかないと・・・・
343名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:01:40 ID:S9Y8dQML
>>342  
余りってオマケだろ。オマケより本体のほうが大切。
 
空がまちがいであり、般若心経がまちがいであったからには
般若の経典はどれもこれもまちがい。こんなもの捨てたらいい。
344名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:06:00 ID:3IPrditW
343 :名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:01:40 ID:S9Y8dQMLちゃんも、ガタガタ騒ぐのを捨てたらいい、、
捨てられんから、、般若心経があるんでしょうね、、
343は、、間違いない、、般若心狂教徒でしょうね、、
345名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:20:47 ID:/bhbdRo/
>>344
それでは教えてください。般若心経において空を説きながら、
他方でギャーテーという呪文を書いているのはなぜ。
346名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:45:31 ID:/bhbdRo/
わたしが言ってるのは<まちがってるもの>は捨てようということ。
まちがってなければ捨ててはダメでしょう。
みんな捨てたら導くものがなくなってしまう。
般若の教えはまちがってる、これがわたしの話です。
347名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 22:11:26 ID:dDgAxyhX
>340 ありがとうございます霊と魂の違い?が今いちよく分からない・・霊魂は実在しますが、その本質については私はスゥエデンボルグ、出口王仁三郎、ギャラップ調査団などの有名人等の文献から勉強させていただきました。正直難しいです
348名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 22:34:03 ID:4rCkMqw+
霊魂が実際にどういうものかは
自分自身で体験しないとほんとうのところはわからないでしょう。
釈迦の場合は〈満月が行って帰ってくる〉という内容です。
形は球、その中に内容としての自分自身=霊がいる。
なぜ内容がわかり形がわかるのか。内から見て外から見るからです。
〈行って帰ってくる〉ことで、これが可能になります。
349名無しさん@3周年:2007/01/11(木) 18:53:41 ID:7vOpVko2
この現実は縁起によって成り立つ。
縁起とは相互関係である。それゆえに現実は<空>である、
などと言ってる坊さんがいたら、頭をひっぱたいてやれ。
 
この現実は<空>ではなかったと、すぐに目がさめる。
空を見上げて歩けばドブに落ちる。
  
350名無しさん@3周年:2007/01/11(木) 23:06:43 ID:39V6MpNT
十牛図を思い出しました。
満月のような霊魂は、十牛図の第八、人牛倶忘の円相でした。
351名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 00:41:26 ID:3Op1VXWh
般若経はダメだけど、十牛図は求道者にとって参考になる。
ただし図の解説は論者によってズレがあるから、
アバウトに把握すればいい。
352名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 16:06:41 ID:dnNORxp9
345 :名無しさん@3周年:2007/01/10(水) 20:20:47 ID:/bhbdRo/
>>344
それでは教えてください。般若心経において空を説きながら、
他方でギャーテーという呪文を書いているのはなぜ。


多分、君が、捨てる事の大事さを気づくためさ。
騒ぐのも、捨てましょう、ということかもね。
353名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 16:52:37 ID:WnEG8oz1
>余りってオマケだろ。オマケより本体のほうが大切。

だれか突っ込むとおもってちょっと煽ってみたが・・・・
本当に知らないようなので一言いうと、「余りもの」と「本体」みたいな
相対的な話をしているのではない。このように相対的な理解こそが遍計所執、迷いそのもの。
ユガ行派においてavasistaはtathabhavasunyataであり『摂大乗論』では
総法(hdres pahi chos)である。ローマナイズのフォントの出し方が今ひとつ分からないので勘弁。
だから般若経典には無数の真言、陀羅尼が説かれる。
ユガ行派の空性は哲学でも屁理屈でもなく入無相方便相の修習のためにある。
まして、捨てるとか捨てないとか、そんな「にわか禅」みたいな問題ではない。

では自習を続けてください。
サヨウナラ
354名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 19:52:00 ID:PM64Vxjb
>>352 答えになってないけど。 大丈夫? 

>>353 余りものと残りものを混同してないですか。
残りものなら、「残りものには福がある」って言いますね。
あなたが言ってるのは残りものでしょう。
355名無しさん@3周年:2007/01/12(金) 20:44:54 ID:PM64Vxjb
真理に中観も唯識もない。それらは後からつけた理屈に過ぎない。
中観の最高の境地が魂であるなら、唯識の阿頼耶識も魂である。
真理ならどちらも究極で一致する。魂が人の種子。
  
中観の最高の境地が空であるなら、唯識の阿頼耶識も空である。
空が人の種子なら、それは無自生であり、その後の縁起は生じない。
人も世界も動いてるのにバカを言ってるんじゃない。
  
般若経典は空論であり、そんな屁理屈ドブに捨ててしまえよ。
騒ぐなといって、自分が騒いでることに気づきなよ。
356名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 03:42:53 ID:ERA5S+Id
>>351
自分が十牛図のどの段階にあるか、どうやって判定しているのですか?
参考のために教えていただけると幸いです。
357名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 09:47:58 ID:Bf447v6F
>>356
十牛図は求道者と牛と月という単純な要素で描かれている。
これらの要素をどう理解するかがポイントになる。
 
<牛>は求道者の欲望であり、第七までは自分の欲望との戦い。
牛をほんとうの自分だと解説してる人はまったくわかってない。
どの段階かは欲望をコントロールしている程度による。アバウトでよい。
より重要なのは第八の人牛倶忘。
 
第八の<月>は心身が脱落したあとの霊魂。これがほんとうの自分。
これを空と解説している人はまったくわかってない。
358名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 10:22:41 ID:ILXjqfax
>354
余り物と残り物の話をしているんじゃないんですけど・・・
avasistaのはなしをしているわけで・・・やはり分っていない。
心身以外に霊魂があるとは思いませんが月は「余れるもの」ですね。
そうそう
>空が人の種子なら、それは無自生であり、その後の縁起は生じない。
>人も世界も動いてるのにバカを言ってるんじゃない。
ほんと、こんな馬鹿なことを言ってては、永遠に玉ねぎの皮むきだ
359名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 11:17:24 ID:bhVL90pz
>>358
言葉は相手に伝わらないと無意味でしょう?
どんな話し方をするかであなた自身が見えてくる。
わたしはまったくのド素人、日常用語で話してほしい。
話をひっぱんないで、肝心なことを最初に話してほしい。
360名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 13:02:03 ID:bhVL90pz
>>356
自分の欲望との戦い・・・これは前進したり後退したりで、
少しづつレベルアップするもの。そのためこの段階だと決めづらい。
また第一から第八まで順序よく進むとも言いがたい。
もっと早い段階で第八に到達してしまう可能性もある。
第八が十牛図のハイライト。第九・第十は自ずから生じる。
361名無しさん@3周年:2007/01/13(土) 22:49:38 ID:ISCck0A/
十牛図の第八は月であり霊魂。
霊魂は霊体とはちがう。霊魂については >>340 >>348
霊体は形は体、内容は霊である。幽体離脱するのは霊体である。
362名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 00:35:22 ID:qj05RXX2
十牛図の<牛>は欲望だよね。
牛は見るからに、どう見ても欲望じゃないか。
ところが検索すると「ほんとうの自分」にしている解説が多いのだね。
変だね、バカだね、なんでこうなる・・・頭が転倒してるからだ。
363名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 09:42:57 ID:R/HlKJde
>355
理屈なんて関係ない・・・こう言う理屈を「屁理屈」と言う。
屁理屈こねずに坐れ
364名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 09:54:41 ID:l3RidqBt
>363
ただ坐れって高圧的な坊さんだね。坐る理由を話してからだろ。
理由もわからない能なしか。
365名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 13:36:55 ID:rDGb8Umb
十牛図を再び検索した。
どれもこれも全部、牛を真の自己にして、第八を空にしている。
どれもこれも、みんなまちがい。

どしてこんなことになるの? 第八を体験した人がいないから。
当たり前の話で、カラッポの〈空〉を体験したらウソになる。
 
それに牛はどう見ても欲望。牛は食欲旺盛な家畜だ。
牛を真の自己にしたら変だってことにどうして気づかない。
第八を空にするから、こんな馬鹿げた話になる。
頭が転倒してしまう。
366名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 15:24:28 ID:rDGb8Umb
十牛図の第八が<月>であることは
 
第七(忘牛存人)で、<月>を拝んでる図によって予告されてる。
367名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 17:49:59 ID:GcAZ8fc7
般若心経より十牛図のほうが簡単で正しい。
 
見性は生涯に一度で十分。何度も見性したなどとほざく坊さんは、
そう言うだけで悟ってないことを証明している。
十牛図の第十が大事だなどと言ってるヤツは悟ってない。
368名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 17:59:23 ID:R/HlKJde
お前もずいぶん高圧的だな。
悟ってのか?
369名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 18:05:48 ID:GcAZ8fc7
>368
わたしは理由を言ってるけど。
理由も言わずに、捨てろとか、坐れとか言う坊さんが高圧的なのだよ。
あなたを含めてな。坊さんは傲慢だな。
370名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 18:20:20 ID:R/HlKJde
理由を言っても高圧的だよ
あんた
それに、俺を坊さんと決めてかかるのも高圧的だ
たぶんあんた坊さんだろ?
371名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 18:22:32 ID:R/HlKJde
余計なことだが
高圧的な人間はたとえ正しくとも人から好かれないよ
高圧的な態度が嫌いなあんたには分かるだろ?
372名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 18:24:38 ID:R/HlKJde
ついでに言うと此処は2ちゃんだ
2チャンで偉そうに威張ってどうする?
現実を直視したくないからここに逃げ込むんだろ?
また〜りやろうぜ。
373名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 18:48:34 ID:wdLOJ93m
また〜りだと、ドアホッ。お前の理論をいますぐ言ってみろ。
374名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 21:04:48 ID:TTULaN1q
禅宗は不立文字とか言って悟りの内容をほとんど語らない。
 
その理由は、何も悟っていなかったから何も語れなかったというのが
ことの真相のようだ。
375名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 22:11:00 ID:m4ccrSII
理由を言わないで、捨てろ、坐れと無意味に繰り返す禅宗は、
 
中身を見せないで売りつけようとするインチキ商売に似ている。
  
理由を言わないのは中身がカラッポだからだ。
 
言わないのではなくて、中身がカラッポだから言えないのだ。 
376名無しさん@3周年:2007/01/14(日) 23:31:30 ID:1lj46QG7
寄り道したけど、般若心経の誤りはふたつある。
 
ひとつめは、<空>という、実体のない概念を最高の知恵にしている
ふたつめは、<空>を説きながら、ギャーテーという呪文を説いている
 
般若心経が誤っているからには、般若の経典全部が誤っているのであり、
これらは救いを求めてる人たちの迷いを深めるだけである。有害無益。
   
377名無しさん@3周年:2007/01/15(月) 00:25:08 ID:nzNBGxbv
般若の経典が消えれば、日本仏教はヒンズー教に近いかな。
現代のヒンズー教には一神教に脱皮した人たちもいる。
マハリシ、クリシュナなどの聖者もいる。バカにしたもんじゃない。
 
<空>を説きながら、ギャーテーという呪文を説いている。
これがなぜ誤ってるかについては自分で考えてね。
なぞが解けると悟りに大きく前進すると思う。
真言、陀羅尼などにも関係する。
378名無しさん@3周年:2007/01/16(火) 19:30:04 ID:4WBfwdDJ
般若心経はもう過去の遺物。<空>の概念も空論で終わった。
 
十牛図でたくさん。これを坐禅や瞑想の参考にしよう。
379名無しさん@3周年:2007/01/17(水) 19:29:40 ID:HzxozCR4
書店の宗教コーナーに行くと般若心経関係の本がかなりある。
これらの著者は<空>の支持者だ。よく覚えておくといいだろう。
最高の知恵が空? あなたが・・・<空>だ・・・カラッポ。
380名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:00:46 ID:Fj/7mGMZ
できたらこのスレでは空の否定やその押し付けではなく、
空の定義を教えてほしいのですが…
381名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:08:37 ID:ZmmunHKy
現時点では無理でしょうね・・・
あたま空っぽの人が張り付いてますからwww
382名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 12:42:42 ID:75ZP4wuV
別に頭が空でもいいんじゃないの?
383名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 15:43:35 ID:ZmmunHKy
おれは壊れたレコードや
オウム返しには耐えられない。
384名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 21:12:39 ID:75ZP4wuV
お前らは頭空っぽの方が夢詰め込めっていう有名な曲を知らないのか?
385名無しさん@3周年:2007/01/20(土) 22:18:54 ID:aIVbJsXi
笑顔ウルトラZで〜〜今日もアイアイアイアイア〜
386名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 22:00:53 ID:DymifHNl
スパーキング!
387名無しさん@3周年:2007/01/21(日) 22:04:37 ID:GCg2/63k
>386 (´,_ゝ`)プッ
388名無しさん@3周年:2007/01/22(月) 06:37:55 ID:gowi/Cn7
あっそ
389名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 18:38:51 ID:6hTOSwti
十牛図について・・・
どなたかここに書いてある新解釈で十牛図の本を書いてください。
図や風景や天体写真などを使い、大きな字でレイアウト。
390名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 18:56:11 ID:h9V9GsYq
唯識三十頌を昨日、初めて読んでみた。
識の区別や性質はいいけど、完璧に転倒妄想です。
世親(ヴァスヴァンドゥ)は阿頼耶識が霊魂であることを知らない。
391名無しさん@3周年:2007/01/29(月) 21:45:02 ID:/2DzFwPu
390↑さん もっと詳しく お願いします
392名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 00:34:02 ID:m0yDYHYD
わたしはまったくの素人であり、しかも唯識三十頌を昨日、ざっと目を
通しただけという、うすっぺらなので読み流してください。
 
八識の区別と、そのおのおのの性質に関しては正しそうに思う。
この話だけでもこの頌はすぐれたものであるとまず評価する。
 
ただ阿頼耶識を実体のない識にしてしまうため、我・存在の全体を
実体のないものであると結論する。そう結論するから
一切は依存関係にあり、「一切の存在は無性である」という話になる。
 
しかし阿頼耶識は霊魂であって形と内容をもっている。
そうすると我・存在は無性ではなくなり、仏教の前提である
唯識=空の概念はまちがいであり、仏教自体が成立しないことになる。
この世が実在するのに実在しないと結論する・・・転倒妄想。
393名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:00:56 ID:G+izpzZ5
>>392
阿頼耶識を「暴流のごとし」と喩える箇所があったと思う。
霊魂という固定的実体としてでなく、
自覚・無自覚を問わぬ認識作用全体の縁起の場として
読むべきではないかと思うが。

無常観を示す文章で知られる
「行く川の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず云々」は、
阿頼耶識の説明としても有効なように思う。
394名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:05:08 ID:G+izpzZ5
まあかく言う私も興味本意でちょっと勉強してるに過ぎないんだけど、
仏教思想の面白いところって、一見矛盾することを同時に示すところにあると思う。
うまく言えないけど、たとえばコインの裏表のようなもので、
裏の絵柄をみせれば「表と違うじゃないか」と言われ、
表の絵柄をみせれば「裏と違うじゃないか」と言われそうだが
どちらも違う立場から表現しただけで、同じことを言っている・・・みたいな。
395名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 01:35:54 ID:m0yDYHYD
>>394
信仰は個人の自由・・・おたがい参考にする程度でいいと思う。
 
世親が霊魂を知らないと判断したのは
阿頼耶識に形を見ていないからだが、「暴流のごとし」は正しそうの
疑わしい部分になる。霊魂は雲の中にじっと浮かんでいるのではなく
猛スピードでひたすらに走る。ただこの走りは「暴流のごとし」ではなく、
ひたすらな清浄さで時間の消えた世界を走り抜ける。
 
こんなことが書けるのも名無しのネットだからで、
名無しのネットがなければだれにも話さないし書かないと思う。
396名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 07:40:36 ID:rdK5uSGu
ユガ行派は何も机に坐って考え事してたわけじゃなくて
ヨーガの修習を通して思想を体系化したのでは?
ユガ行派の重要な点は思想ではなく修道の体系
世間道は出世間道に包摂される・・・なんて昔偉そうに書いてました。
397名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 20:08:50 ID:m0yDYHYD
再考しました。「暴流のごとし」は考えられなくはない。
煩悩で汚れた心にとって、阿頼耶識は「暴流のごとし」かもしれません。
たぶん体験が優先し、体験と思考によって三十頌ができたのでしょう。
ただ三十頌は、山の頂上直前、頂上の手前のように思います。
頂上に至れば阿頼耶識の形が見えるはずです。
398名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 21:24:03 ID:rdK5uSGu
アラヤに形象はありません。
したがってアラヤは一でもなく多でもない・・・なんてどうっすか?
399名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 22:35:00 ID:m0yDYHYD
そう思うのは自由でしょう。
ただ形のない識なのに、意識・マナ識・阿頼耶識に区別されることが
理解しにくい。川の流れに区別をつけるような困難さがある。
 
むしろそれぞれに、何らかの形があるほうが自然な気がする。
阿頼耶識は霊魂にあり、マナ識は脳細胞にあり、意識はマナ識を照らす
懐中電灯のようなものとして把握したほうがわかりやすい。
 
阿頼耶識の動きを感知できるか
何かを話すときに、話す内容を文章にしてから順次話すわけではない。
頭の中に、イメージが一瞬ひらめき、それを頼りに言葉がつむぎだされる。
このひらめきが阿頼耶識の動きではないかと思っている。
400名無しさん@3周年:2007/01/30(火) 23:13:00 ID:G+izpzZ5
>>397
>たぶん体験が優先し、体験と思考によって三十頌ができたのでしょう。
このあたり同感です。
そういやこれも方丈記だったかな。・・・ふと思い出しました。
「一人一日の内に八億四千の念(おもい)あり。
念々に為すところこれみな三途の業なり。」

元々、ヨガ行者たちの内面観察と
アビダルマ仏教の心の縁起(煩悩論とか)が結びついて出来たのが唯識と
言えるでしょうから、
意識・マナ識・阿頼耶識とかも
彼らの内観行において、「認識活動の働き方」として
見出されたものと言えるのかもですね。

当時としては、
「脳という身体機関があって身体各部の神経反応を統合し云々」みたいな
科学的な観察もあり得ないわけですからね。