★★『幸福の科学』統合スレッドpart124★★

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330シニカル三浦
<327のつづき
 現代は、古代の人たちから見たら、まるで神のような人たちが数多く生きている
 時代なのです。
 テレビを見ても、新聞を見ても、また、大型書店に並ぶ数十万冊、あるいは百万
 冊以上の本を見ても、「現代が、どれほどの知識社会であるか」ということには、ま
 ことに驚きを禁じえません。
 その意味では、現代は非常によい時代であり、便利な時代です。この時代を味わって
 いるみなさんが、たとえば、百数十年前の幕末、明治維新のころの、“チャンバラ”
 の時代に帰りたいかといえば、それは嫌でしょう。「昔の時代に帰りたい」という人は
 、そんなにはいないでしょう。
 そのように、現代は非常によい時代であり、それは肯定すべきであると思います。
 ただ、そのなかにおいて失われているものもまたあります。
 何が失われているかというと、正しい、人の心のあり方です。純粋さです。
 霊的な感覚です。そういうものが失われているのです。
 いまの時代の人たちが、「平安時代に生まれ変わりたい」と思うことは少ないでしょう
 が、ただ、平安時代には、真実なるものもありました。それは、その時代の人たちが、
 霊界思想を持ち、霊的なるものを感じ取っていたということです。
 そして、それが、ほんとうの人生において大部分を占める、実在世界の感覚である以上
 、そういう感覚を失った現代人は、ある意味で、一つの機能を失ったと言うべきなので
 す。この世の便利さと引き換えに、人間の本質の、あるものを失ったと言えます。
331シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:18:14 ID:RLyiQobO
<330のつづき
 その失ったあるものを手に入れるためには、宗教に求めるしかないということになってい
 るわけです。
−神秘現象は確かにある−
 また、釈尊の時代から二千五百年、イエスの時代から二千年たって、過去の仏教やキリスト
 教が、かなりの面で化石化してきたということも言えましょう。
 あれほど悟りを説いた釈尊の教えであっても、現代では、唯物論のように言われています。
 現代の社会が唯物論社会であり、それが便利さを生んでいるため、その唯物論の立場に立って
 、釈尊の教えを唯物論的にしか解釈できない人も出てくるのです。まるで、釈尊が人間機械論
 を説き、「機械が壊れて消滅したら終わりだ」と説いたかのような仏教理解をする者も、専門家
 のなかにはいます。
 イエスが数多くの奇跡を起こしたことが、『聖書』のなかにあれほど書かれているにもかかわら
 ず、クリスチャンや、キリスト教の宗教指導者のなかには、霊的なものや神秘現象をまったく信
 じない人たちも数多くいます。
 確かに、現代の経験からいけば、そのような考え方になることはありうるでしょう。ただ、私は
 、過去二十年以上のあいだに、さまざまな神秘体験を積んできて、「そういうものは確かにある。
 神秘現象、まだ見ぬ世界の存在は必ずある」ということを、百パーセント確信するに至りました。
332シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:20:11 ID:RLyiQobO
<331のつづき
 したがって、真実は真実です。たとえ、現在の世界や社会が、どのように便利なもの
 であろうとも、その便利な社会が、どのような前提の下に成り立っていようとも、ま
 た、「科学は神秘的なものを前提にしない」ということが、その発展の理由であると言
 われようとも、「事実は事実。真実は真実」という立場は捨てるわけにはいかないのです。
−この世とあの世を貫く生き方を−
 私は、自分でも、「なぜ、私のような者が宗教の道に入り、宗教家として、多くの人に、
 真実の世界、人間の生き方について説かねばならない立場になったか」ということを不思
 議に思うこともあります。
 自分なりに、高度な学問もやり、現実社会についても学び、知性と合理性も備えているつ
 もりでありながら、私は、不思議な世界の体験を数多く積みました。その意味で、私の認
 識のなかには、そういう二面性があると思うのです。
 私は、この世の世界を充分に認識し、分析しているにもかかわらず、本質の世界について
 もよく知っていて、「両者をどのように融合させていくか。どのように取り扱っていくべき
 か」ということを常に考えています。「どちらかだけでよい」という考えではありません。こ
 の世を完全に否定し、「あの世的にだけ生きよ」ということを教えてもいないし、あの世を完
 全に否定し、「この世的にだけ生きよ」ということを教えてもいないのです。
333シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:21:54 ID:RLyiQobO
<332のつづき
 「強いて言えば、実在世界のほうが、ほんとうの世界であることは事実である。しかし、この世
 の世界を無駄にすることなく、この世の生き方が、あの世の生き方と合致し、一貫した生き方に
 なるようにしなさい。この世とあの世を貫く生き方になるように生きなさい」ということを教え
 ているわけです。
 その意味で、みなさんに、今世においても、霊的な裏打ちのある幸福な生き方をしていただきた
 いと私は願っています。
 それが「幸福の科学」というネーミングの由来でもあるのです。
 私は、みなさんに、この世においても、しっかりとした人生を生きていただきたいと思いますし、
 その生き方が、「あの世に還ったら、百八十度、急に変わって、びっくりした」ということになら
 ないような方向で、みなさんを導いていきたいと思っています。
 そのため、私は、この世において幸福になれる生き方も数多く説きますが、その説き方には、「決
 して、死んでから後悔することのないような生き方である」という意味で、限定がかかっていると
 言えるでしょう。
−一見、矛盾するものを統合する−
 この世が存在し、この世に数多くの人が個性を持って生きている理由は何でしょうか。
 そこには、「肉体に宿ることによって、新しい名前を持った人間としての個性を開発し、獲得する」
 という目標があると共に、「その個性化する過程が、同時にまた、大宇宙の生命、仏や神の命とも融
 合した生き方として存在する。こういう、一見、矛盾することを両立させる」という目的があります。
334シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:24:54 ID:RLyiQobO
<333のつづき
 これが悟りでもあるのです。
 「各人は仏の生命の一部である。ただ、みんな、まったく同じであるかというと、そうではない。
 同じような素質は持っていながら、その発現の仕方、現われ方は違う。その活躍の仕方は違う。
 その幸福の求め方は違う。そこに、個性というものが百花繚乱に花を咲かせる必要がある。個性
 的でありながら、同時に、仏の子として同じ使命を持っていなければいけない」ということです。
 このような、一見、矛盾して見えるものを統合する生き方が、実は悟りのあり方であるのです。
 そういうことを教えるために、私は数多くの本を書いてきたわけです。
−幸福な生き方と両立する、導きや啓蒙の書として−
 「死後の生命」「憑依の原理」「霊界通信の原理」などを説いた『神秘の法』が、単なる興味本位の本
 として読まれないことを私は祈っています。この本が、みなさんにとって、一つの関心の対象で
 あると共に、導きや啓蒙にもなり、専門知識を増やすことにもなりながら、また、堅実な、幸福
 の生き方と両立するものであってほしいと思います。
 『神秘の法』には、数多くの参考文献等も挙げてありますが、私の趣旨としては、「そういうもの
 を読んでください」という気持ちは持っていません。
335シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:25:53 ID:RLyiQobO
<334のつづき
 この本には、あの世話、幽霊話、霊界話が数多く出ているので、一見、科学的、学問的な立場から、
 先入観を持って、これを「くだらないものだ」「いいかげんなものだ」などと批判し、否定する人もい
 るでしょう。
 そのため、「こういう考え方には、ある程度、共通性、普遍性もあるのだ。これは、ほかの人も認め
 ている考え方でもあるのだ」ということの、一種の例示として、他の参考文献等も挙げてあるのです。
 しかし、私の言いたいことは、本文中に述べてあることで尽きています。
 みなさんが、そのような考え方で本書を読み、また、多くの人々に、その内容を考え、本書を紹介し
 てくだされば幸いです。                        
                                      (了)
336シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:29:11 ID:RLyiQobO
仏教の破壊者・ひろさちやを破折する
「ひろさちや」のまちがいポイント
@最尊の仏陀を侮辱し、信仰を冒す大罪
A仏教の根本を「思考停止」とする無明
B悪を背定する、恐るべき悪魔的思考
C苦をあきらめよと唱え、仏教の原点を否定
D縁起の法をデタラメとする冒涜の仏法解釈
E「競争は悪」とする堕落の思想
F貨幣を悪とし、経済発展を否定する愚かさ

この世に仏教書は数あれど、これほど巧妙に仏法を歪曲した邪見の書はない。その著者
の名を“ひろささちや”という。初心者向けの書と見誤り、安心して読んでしまうと、
知らぬ間に魂が汚染されるのは必定だ。自らを仏教思想家と名乗るが、本質は仏教の破壊者
にしか過ぎない。
【仏陀を侮辱する大罪】
 仏陀はこの世の光であり、人類の師であられる。仏教に帰依する者で、仏陀へ侮蔑的言動を
する者は誰一人としていない。
 しかし、である。仏教思想家と自称するひろさちやは、釈迦の出家を「平凡な男の『家出』で
しかない」と言い放ち、その動機を「天界の快楽を求めて出家した」「『天女たちを抱いてやろう』
ということだ」と言い切った。さらには、晩年の仏陀は、「教団から浮き上がって」「敬遠され」「教
団の全体が(中略)釈迦を疎外していたのではないか」とまで邪推し、仏陀の存在を、凡夫にまで
引きずり堕ろしている。
337シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:31:04 ID:RLyiQobO
<336のつづき
 この解釈は、ひろさちやの独善的解釈に過ぎず、正当性はまったくない。仏陀は衆生に対する慈悲ゆえに、
 出家されたのである。その歴史的事実を個人の妄想でねじ曲げ、仏陀を侮辱するとは仏教者として断じて許
 される行為ではない。仏・法・僧の三宝帰依こそ仏教における信仰であるが、最尊の仏陀を平然と愚弄し傷
 つける氏の行為は、信仰を冒す最大の罪、“和合僧破壊の罪”である。ひろさちやは、自らの信仰心の欠如
 のみならず、信仰者を惑わせ、仏教の権威を失墜させんとしている。
 それが証拠に、『釈迦の教えたかったこと』では、分派活動を企て、和合僧破壊の罪を犯した仏敵・提婆達
 多に対して「わたしはデーヴァダッタのファンになってもよい」「わたしはデーヴァダッタの復権をしておきた
 かった」とまで結論づけ、力説しているのである。一体そのどこが“釈迦の教えたかったこと”なのか−。キ
 リスト教で言えば、イエスを売ったユダを賞賛するに等しい。哀れな末期的症状である。ひろさちやと提婆達
 多の符号の一致は、最低最悪の愚者が波長同通した証明であろう。
 氏は表面的テクニックで仏教用語を駆使しているに過ぎない。大切なのは多数の著作を支える根本部分、発想
 の原点である。ここを決して見逃してはならない。
 こうした仏陀を侮辱する思いが氏の根幹にあるならば、いかに仏説が曲がるか、読者にも容易に理解されよう
 。正信に入らねば正見は決してできない。ましてや仏敵を擁護する輩に、仏教の名を語り仏説を論ずる資格は
 断じてない。ひろさちやの信仰における根本的間違いこそ邪見であり、仏陀のお心を穢す最大の原因となって
 るのだ。
338シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:32:30 ID:RLyiQobO
<337のつづき
【思考停止のひろさちや】
 根幹のズレは、ひろさちやの学問態度にも如実に現われている。驚くことに氏は、
 中国の禅僧・無業禅師の言葉「漠妄想」を宗教の真髄とし、その意味を「判断中止」と捉え
 、「判断しないのが本物の宗教」と吹聴する。しかも、その膜妄想、すなわち思考停止こ
 そが「仏教の教えの根本」でもあると説く。これは聞き捨てならない。
 仏陀は、繰り返し繰り返し、悟りを得る大切さを説かれたのであり、それは智慧を得るこ
 とでもあった。ひろさちやの基本的態度である思考停止とは一切無縁である。
 悟りは、思考停止からは絶対に生まれて来ない。たゆまない真理の探究、自らの正しき心
 の探求から生まれてくる。それゆえ、幸福の科学では、“幸福=悟り(目的)”を“科学
 =探求する(手段)”と標榜し、会員は、日々に四正道や戒・定・慧の三学修行を実践し
 ているのである。
 反対に、ひろさちやは信仰心だけでなく、悟りを求める菩提心も、真摯な学問態度も放棄し
 てしまった。すなわち、目的において、“思考停止”、手段において“いい加減”がその正
 体である。所詮、自分の言いたいことをお喋りするだけの無責任な輩である。だからこそ、
 著作も安易に乱造できるのだ。
339シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:34:10 ID:RLyiQobO
<338のつづき
【悪を制定する暗黒思想】
 しかし、ひろさちや個人の無明が哀れだからと言って、氏の妄説を看過することはできない。なぜなら、
 無明は善悪の価値判断が倒錯した危険な状態を生むからである。
 例えば、「わたしたちは、上手に人を憎むことを考えたほうがよい。(中略)さらりと憎むのだ。(中略
 )そのほうが仏教的だ」という恐るべき暗黒思想を露呈している。人びとの心を堕落させる方向へ導くは
 、悪魔の所業である。仏陀がいつ憎しみを背定したか。仏陀は慈悲を説き、布施の心を説き、執着を断つ
 ことを教えたのである。つまり与える愛の大切さを教えたのである。
 一方、憎しみは、人から愛を奪う貪欲であり、仏陀が否定した渇愛(奪う愛)である。ここで、完全に仏
 陀と正反対の悪魔的思考となっていることがわかる。
 さらに、「売春と泥棒は人類最初の職業と言われているように、その必要性は大きい」とまたもや暴論を吐
 く。氏は、仏陀が五戒の中で、不邪淫、不偸盗を説いたことを知らないらしい。また、七仏通戒偈の「悪い
 ことをなすな、善いことをせよ、心を清くせよ」という仏教の基本もわからないらしい。人間としての前提
 である道徳観すら欠如している者に、どうして仏の教えが解説できようか。「戒は破るためにある」とまで曲
 解し、堕落を合理化する氏は、仏陀の不放逸の教えに背く破壊者である。
340シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:36:03 ID:RLyiQobO
<339のつづき
【宗教を否定する大妄説】
 こうした悪を肯定する発想は、「苦」の解釈の誤りにも起因している。曰く、「ただ
 “あきらめる”ことが大乗仏教の悟りとなる」「苦を解消しようなんて考えないこと。
 苦をあきらめたほうがいいのだ」と。これは仏教を全面否定する大妄説である。
 仏陀は人々の魂を救うために、苦を滅する教え、苦・集・滅・道の四諦や八正道を説
 かれたのだ。その教えの原点を否定するとは、宗教の使命の放棄である。氏の説はも
 はや仏教に非ず、宗教に非ず。それは煩悩を肯定し、悪霊憑依を呼び、頽廃の人生へ
 と転落させる悪魔の囁きに他ならない。
 また、その発想は社会問題に対する氏の考え方にも端的に現われる。環境問題も発展途
 上国での飢餓問題も、すべて「滅びる地球は滅びにまかせる」というニヒリズム一辺倒で
 逃げる。自ら大乗仏教の礼賛者と言いながら、救済の意欲は皆無。己れの野孤禅を証明
 し、偽善の姿を露にしている。
【仏教の根本法の冒瀆】
 氏はこうした邪見で、ことごとく法を曲げる。そのひどさは目を覆うものがある。
 例えば、「中道」とは「いい加減」と説く。まさに氏の態度を現わしているが、完全な誤り
 である。中道には両極端を批判する積極的否定があるのだ。その上で自も他も共に、無限
 に発展できる大調和の道である。いい加減であれば、堕落を招くしかない。
341シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:37:42 ID:RLyiQobO
<340のつづき
 なかでも、氏の最大の誤りは「縁起の法」の否定であろう。曰く「仏教の教える『縁起』とは、要するに、
『デタラメ』の意味である」−。これは仏を否定し、冒瀆する発言である。そもそも縁起の法を意味する原
 因・結果の連鎖とは、譬えて言えば「蒔いた種と、育ちに応じた果実が実る」ように、明確な法則性そのも
 のである(善因善果・悪因悪果)。これは無秩序とはまったく対極にある。その根本思想をデタラメと言
 うとは、仏に対し唾するにも等しい堕地獄の所業である。
 仏典には、「縁起を見るものは、法を見る」とあるが、氏は縁起も法も見れずに仏教を騙る宗教詐欺といえ
 る。誤った思想を説く者は無間地獄という地獄の最深部へ堕ちる。もはや救いの道は、自らが仏教破壊に
 狂奔する主犯と気づき悔い改める以外ない。
【競争を悪とする堕落思想】
 ここで特に、現代社会に生きる人々に害悪を及ぼす毒説を二点挙げ、破折したい。
 第一に、競争原理の否定である。氏は、あらゆる機会で「競争は悪である」「競争なんてする奴は人間じゃ
 ない。人間の屑だ」とまで唱える。その根拠は「仏教では布施が説かれている。ゆえに一つのパイであるなら
 互いに分け合わねばならない、だから競争は悪だ」という論理である。
342シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:39:32 ID:RLyiQobO
<341のつづき
 しかし、競争は、布施の精神(与える愛)と決して矛盾するものではない。なぜなら、競争とは切磋琢磨の原理であり
 、愛が厳しさに変化した形に他ならず、お互いの魂が向上するという歴然たる事実がある。一人ひとりの幸福感の差は
 あっても、すべての人が向上していく世界が展開するのだ。これはこの世とあの世の共通の真理である。
 氏はこの厳しき愛の姿・切磋琢磨をまったく見抜けていない。悪しき平等主義に偏しているからである。ゆえに「現在の
 義務教育の現場は『監獄そのもの』」、「競争の修羅場」というような偏狭な見方しかできなくなり、一つのパイを取り合
 うというゼロ・サム理論でしか考えられなくなっているのである。結果平等であれば公平さが失われ、誰も幸福になれず
 ニヒリズムを生む。認識力の低さゆえの誤謬である。
 大切なのは、切磋琢磨の中で自らのみよかれとするエゴイストにならないことだ。
 嫉妬心や排他主義ではなく、与える愛の心を持つことである。
 では、もう一歩踏み込んで考えてみよう。もし競争原理がなければ、どのような世界が展開するか−。これは歴史が既に
 証明している。共産主義体制・ソ連の崩壊、そして結果平等に陥ったアメリカ没落の悲惨さを見よ。この事実が何より雄
 弁に物語る。
 「進歩は危険」、「仏教は無駄な努力をやめてあきらめることを教えている」、「『がんばっちゃいけない』が仏の教え」など
 、向上心の放棄を合理化させる堕落思想に他ならない。結局、こうした誤てる思想を生む原因は、悟りの原理とは“進歩
 (公平)と調和(平等)”の両者から成り立っていることが見抜けない無明にある。
343シニカル三浦:2005/12/28(水) 16:41:52 ID:RLyiQobO
<342のつづき
【経済発展を否定する愚】
 第二に破折すべきは、経済原理を否定する点である。その根拠は、極めて面妖であり不可解である。
「貨幣のうちに、人間を愚かで狂的な行動に駆り立てる魔力が潜んでいる」と言うのだ。それゆえに、貨幣
は悪(?)であり、貨幣を用いた経済活動とその発展を否定すると主張するのである。しかしこれも氏の
妄想にしか過ぎない。
 なぜなら、貨幣そのものは価値中立的であり、使われ方や目的・動機によって善悪は決まるからである。
例えば、単なる金儲けと優れたる経営の違いは一目瞭然だ。
 一方、氏の理論では、善悪を貨幣そのものに責任転嫁する卑怯な態度がある。過去、宗教で戒めてきたの
は“金銭への執着”であって、金銭の存在や経済活動の発展を否定したのではない。精励し蓄財することを
奨励していたのである(「六方礼経」より)。
 また、氏は富を、無前提かつ強引に人間の堕落と結びつける。曰く「資本主義社会に生きる人間はみんな
、−欲望人間−になってしまった」「すべては『富の蓄積』のせいである」これは、悪の原因をすべて他人や
環境のせいにするという、狡猾な邪教の典型的教義とそっくりである。
 さらに、こうした背景には驚くべき事実があった。氏は仏法の「小欲知足」の意味を「つきつめれば、食わ
ずに寝ていることだ」と通俗的に捉え、それを氏の経済否定の基準としていたのだ。これで富を罪悪視する
とは、何と幼稚で杜撰な発想か。
 経済が発展しないアフリカ等の貧困の悲劇を目のあたりにする時、経済原理がいかに大切かは明白だ。そ
れは現代社会における時代適合性と、現実的な救済力を持つ。