>>185 なぜそうなるのでしょうか?
神の真理を神がジャッジするのではなくて人間の信仰を神がジャッジすると
文脈で読めませんか?
それとも人間の信仰が全て真理なのですか?
187 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 00:48:23 ID:l8FsmrFP
>>186 > それとも人間の信仰が全て真理なのですか?
それも法律を守る人間をジャッジする問題に相当します。法律を知らなくても違反すれば罰せられます。
違反者や完璧な法解釈ができない人がいくらいても、法律が間違いとか法律が無くなることとは別の問題です。
信仰の内容や救いの真理についてもどうようです。
188 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 00:52:37 ID:l8FsmrFP
>>188 論点も何もあなたは自分の領域でしか論点を絞れていない、精度の低い
論を張っているからおかしくなるのです。
他宗教や無信仰の人にとっては救いそのものがわからない人も多いでしょう。
それどころかクリスチャンですら救い、原罪というものを字義としては知っていても
理解できてる人は少ないのです。
もっと、広範にサンプルを取り入れて論証しなければ、結局独りよがりな自己満足に
終わるのが関の山ですよ。
>>何を信じて救われるかは人間も知っているはず
これを論点とするならば、論点そのものが部分集合でしかないため論に発展性が
認められないのです。
191 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 01:14:37 ID:l8FsmrFP
>>189 だからと言って救いの真理知ってる人間の存在の否定にはなりません。あなたは単に、救いの真理を知らない人間の存在を主張してるだけですね。私もそれは否定しませんし、私もその内の人です。
しかし、救いの真理を完璧には知らない人でも、救いの真理の存在を認め、それを知る先人達が聖書や信条を残してることも認めてさえすれば、読んで学べばいいではありませんか。
別に今の時代に必ず存在すると言うつもりもありませんし。
192 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 01:20:10 ID:l8FsmrFP
>>190 > 何を信じて救われるかは人間も知っているはず では訂正します。
> 何を信じて救われるかを人間も知ることができるはず。
例えばそれが使徒パウロだったりするわけで。
>>191 私もあなたも真理であって真理でないのです。
信仰とはなんでしょうか?
文字の発達しない部族に住む人も何かに手を合わせる。
その人たちの信仰は信仰とは呼べないものなのでしょか?
文字は薬にもなるし毒にもなります。信仰書が人によって毒にもなりうるのです。
時として文字が人を殺すのです。
ぜひ、実生活に基づく体験を重んじてください。
私たちは真理であって真理でないのです。
真理とはなんでしょうか?信仰とは?
>>192 信仰とは主観として絶対であっても客観として相対なのです。
「知る」と使ったとき、そこには客観が排除されているのです。
つまり、オレ流になているのです。
真理は限定的な論理ではありません。
主は世界を創造されました。
私たちは突き詰めると何も知ってはいないのです。
私たちが塵芥で主に委ねるのみであるとき、真理と合一します。
195 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 01:34:13 ID:l8FsmrFP
>>193 > 文字は薬にもなるし毒にもなります。信仰書が人によって毒にもなりうるのです。
だから、その薬とする能力を神様から与えられ得るはずだと言ってるんです。毒となる場合を否定するつもりもありません。
また誤った信仰も信仰なのは当たり前です。
196 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 01:43:24 ID:l8FsmrFP
>>194 > つまり、オレ流になているのです。
あなたの相対的な捉え方もオレ流だし、パウロの信仰を肯定するのも否定するのもオレ流ですし、共通点またはオリジナリティーがあろうがなかろうが全てオレ流です。
しかし、オレ流でも救われたら、そのオレ流が正しいことに変わりないわけで。
>>196 そうです。
結果論でしかないのです。
だからこそ我々は委ね祈る信仰こそ必要なのです。
誰が救われるとか救われないとかの議論は必要のない話です。
198 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 23:18:39 ID:l8FsmrFP
>>197 しかし、正しい結果は一つしかありません。
ただし多神教なら結果は一意的ではないかもしれませんが。
一神教の結果を仮定して、今度は結果から逆登って考えることにします。
結果を知る方法無しに、この唯一の結果が期待できるでしょうか。多分皆無でしょう。
神様は天文学的な結果から唯一の結果を得る稀の稀の人間を期待して超クイズ王的な楽園を用意してただ黙して眺めてるんでしょうか。
神様は、俺流なりに結果に行き着くように人間に信仰の知恵をお与えになるはずです。
それが、キリスト教においては、御子や聖霊、預言者や使徒をとおした旧約や新約の意義になるのではないのでしょうか。
199 :
名無しさん@3周年:2006/03/25(土) 23:42:33 ID:ZwYqNuP3
>198
えっと、「キリスト教においては」というのは、どういうことですか?
他宗教にもそれぞれのゴールがあり、それはみな同一の神的実在に「通じて」いる、とも取れます。
あなたはヒックの提唱した多元主義を受け入れているのですか?
200 :
名無しさん@3周年:2006/03/26(日) 00:10:27 ID:HWor2FWl
>>199 例えばキリスト教の場合という意味です。
勿論、他の宗教で同じ例は有り得るでしょう。
単に、全宗教が救いの一意性を説いているという言い方を避けただけです。
201 :
名無しさん@3周年:2006/03/26(日) 00:18:07 ID:HWor2FWl
>>199 > 他宗教にもそれぞれのゴールがあり、それはみな同一の神的実在に「通じて」いる、とも取れます。
これは違います。俺流という言葉が誤解のタネになったみたいですね。
ここでは単に「主観」という意味で使いました。
202 :
名無しさん@3周年:2006/03/26(日) 00:30:59 ID:xE6a5qf6
>200、>201
失礼しました。
スレの流れから早とちりしてしまったようです。
203 :
名無しさん@3周年:2006/03/26(日) 00:37:36 ID:VVnrG5bE
右の頬を殴られたら相手の頬を張り返すスレですか?ここは?
>>198 正しい結果とはなんですか?
私はそれを主観と呼んだわけですが。
断定表現は使い手にとっては心地よいかもしれませんが非常に危険を孕んでいるのですよ。
慎重に使用されることをお薦めします。
205 :
名無しさん@3周年:2006/03/27(月) 01:57:42 ID:eGNtb/vp
>>204 なら、「正しい結果」を「理想な結果」という言い方に変更しましょうか。
いかなる結果の評価も主観という意味だと思いますが、私たちが地獄という結果も、他の宗教では理想な結果の場合も有り得るという意味ですか?
多分有り得ないでしょう。私たちが地獄(例えば、火と蛆のたえないところ)と評価する結果を理想的と評価する宗教は私の知る限り見たことありません。あれば教えてください。
>>205 理想な結果ですか・・・まぁ、あまり拘泥しても話が空回りになるだけなので
やめときますが。
理想な結果と名を変えただけで主観としての結果ということには変わりないの
ですね。この世界には、あの世論は沢山あるでしょう?
宗教の数だけあの世論があるのですよ。
あなたは理想の結果を期待してもそれを知らないでしょう?
知らないことを詮索するよりも今を大切に生きられるほうが生産的だし
実益になると思うのですね。
207 :
名無しさん@3周年:2006/03/28(火) 16:01:42 ID:pwyYtTj9
>>206 > 理想な結果と名を変えただけで主観としての結果ということには変わりないの
今まで話に付き合ってるとまるで主観がよくないみたいですね。
正直、絶対的客観なんて立証不可能なんですがね。それを承知で議論してますか?
それが承知であることを前提に話しますが、あなたの主観に対するアプローチに間違いがありますね。
複数の主観を混ぜても客観にはならないんです。
キリスト教や仏教その他如何なる宗教・宗派・セクトにおいても、正しいたまは理想的な主観は各ひとつづつしか無いんです。
仏教・浄土真宗の本願寺派の主観とイスラム教・シーア派の主観との折衷的観点を作っても客観的な観点は生まれません。新たな主観が生まれるだけです。
同じ具合に全宗教・セクトを包括する観点を作っても同じです。
だから、観点が主観的であるか客観的とは関係なく、神(崇拝対象)からの観点を想定して合理的であるか、神と人間との関係は合理的であるか、論理的矛盾は無いかが大事になるのではないでしょうか。
イギリス人の名説教家であり、神学者でもあるジョン・ストット博士が、このように語っている。
クリスチャンの間にもさまざまな相違がある。
その相違を乗り越えて教会の中で一致を保つ秘訣は、「イエス・キリストは主である」と告白することである。
他の兄弟を見下したり、さばいたりするのは、クリスチャン同士の交わりを破壊するだけではない。
それは、イエスが主であることを否定する行為でもある。
私たちはこう自問する必要がある。
「他の兄弟をさばき、自分がさばき人の立場に立つことは、私はいったい何者なのか」
イエス・キリストが私の主であることを確認すると同時に、他の人にとっても主であることを認めなければならない。
‥‥キリストが他のクリスチャンの上に行使しておられる主としての権威を、私が妨害してはならないのだ。
ディボーションガイド クレイの2006/3月15日 のところより
真理、救いに至るための知識、知恵を求めることは聖書は否定していません。
ですが、誰であっても「〜に救い無し!」などと言って、さばくことはできません。
その違いをよく注意して、よく吟味しましょう。
210 :
名無しさん@3周年:2006/03/28(火) 16:29:05 ID:pwyYtTj9
結論を言えば、正しい信仰を知る方法に絶対的客観性というものはありませんが(神からの二次以上情報は全て主観ですからね)、主観的な情報が間違いとする必要などありません。そういう客観的保証が無いものを信じるのが信仰なんで。
聖書が無謬と信じるのも、預言者や使徒の言葉を正典にするのも同じ原理、同じ動機です。何の客観的保証もありませんよね。
>>207 私が主観が悪いといつ言いました?
断定表現は危険を含むと書きましたがね。
論点のすり替えはやめていただきたい。全く論の構築を無視する行為ですからね。
ただのあがきにしか見えないのですよ。
>>210 >>主観的な情報が間違いとする必要などありません。
はは・・・まぁ頑張ってください。
精査された主観的信仰と独善のうちにのみ構築された信仰の区別もつかないのですかね・・・
212 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 00:28:47 ID:bSLDsC31
>>211 > 私が主観が悪いといつ言いました?
では悲観的とか、独善的とか他にニュアンスの類似する言い方を探しましょうか。悪あがきしてるのはあんたかも。
わたしが言いたいのは、それが主観でも独断でも即断でも、正しい信仰を知る方法の否定にはならないの。
信仰って客観的保証なんて元々無いんだから。
>>212 論理不整合を起こしてる自覚がないのか・・・
>>正しい信仰を知る方法の否定にはならないの。
っと書きつつ
>>信仰って客観的保証なんて元々無いんだから。
普通に学校で勉強してから絡んでよ。
話にならない。
っと書きつつ
214 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 00:37:55 ID:bSLDsC31
>>213 なら、客観的保証がなければ、必ず否定することになるんですか?
215 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 00:40:39 ID:bSLDsC31
即ち、主観は否定的だと思ってるんだ。
あなたけそ断定的ね。
>>214 断定はできないということは、否定も肯定もなく自己と神との主観的関係に
入るのですよ。
つまり留保の立場を持ちつつ、自己の信仰を精錬させていくのです。
そこには押し付けは存在せず、求めるものには与えられるという聖書的な
信仰に入っていきます。
つまり委ねる信仰ですね。
主観としては絶対なのです。
主に委ねて自分の行いを聖化に導きを求めます。
人の信仰がどうのなどは関係ない話なのです。
主にあって喜び、主にあって悲しめる信仰を求めましょう。
我々は往々にして自分を棚に上げて人を裁きやすいものですから。
神への道程はそんな安易なものではないのです。
219 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 00:59:41 ID:bSLDsC31
>>216 断定できないことは保留するべきですよ。
しかし、既に信仰上断定されている事柄があります。それも客観的保証も無く断定されている事柄です。
聖書の無謬性とか、三位一体とか。
これらを断定する手段は、聖霊による霊感といった極めて客観的に捉え難いものです。
220 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:04:08 ID:bSLDsC31
> そこには押し付けは存在せず、
因に話を戻しますが、信仰を知る方法の存在を認めることは、特に信仰の押し付けではないと思います。
>>219 その断定が主観的なんだってば・・・
そもそも三位一体なんてキリスト教特有のものでしょ・・・
我々は三位一体を信仰してるだけ。
主観として断定してるだけだよ。
222 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:09:43 ID:bSLDsC31
>>218 > 人の信仰がどうのなどは関係ない話なのです。
しかし、誤った信仰は正すべきです。
224 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:19:16 ID:bSLDsC31
>>221 主観的断定は悪いわけではないんでしょ。ならいいじゃない。
>>224 個人としてはね。
それを外に表現するときは気をつけなさいよって話。
226 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:23:16 ID:bSLDsC31
>>223 キリスト教を自称する場合において、キリスト教を主体とした主観から逸脱する信仰です。
>>226 キリスト教を主体とした主観も多義に渡りますよ。
教理すら相対されてる昨今、我々は声高に自教の正当性を叫ぶよりも
無言にその信条を行為として表出するほうが信仰者として優れているように
思うのです。
言葉よりも思いをを見られる神ですよ。
228 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:28:04 ID:bSLDsC31
>>225 なら、救いや信仰を知る方法の存在を認めるのも問題ないですよね。
誰が救われるかの判断は神に委ねるのは当たり前として。
>>228 もちろんクリスチャンですから個人の信条としては当然ですよ。
でも、他宗教の概念も本などで読んでみるとなかなか勉強になるのです。
さて、救いとは?ってことになるのですね。
がちがちに造り込まれた言葉を暗記するのではなく、創造の根源に立ち返って
思考してみるのも良いことだと思うのです。
230 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:37:16 ID:bSLDsC31
>>227 > キリスト教を主体とした主観も多義に渡りますよ。
しかし、キリスト教を主体とする主観の一貫性は重要ですよ。
もし一貫性が無くなればキリスト教の信仰は無くなることになりますからね。
実際に無くなれば実はキリスト教は救いや信仰を知る方法もしくはアプローチとして誤りであったということになりますが。
まあ、今日そういうことにならないように、使徒や教父などの先人が迫害に耐えながら苦労したんですがね。この先はどうなるかわかりませんが。
>>230 イエスの言葉は不滅ですね。
教理はそこから派生したもので相対的なものです。
決して軽んじるつもりではありませんが、信仰とは理論武装するよりも
純粋無垢に幼子が母親により頼むように神により頼むものではないでしょうか?
今日はもう寝ますね。
232 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:42:16 ID:bSLDsC31
>>229 そんなこと言うと、フィニキアやカナンの神々の神殿を建てた北イスラエル王国を批判したエリヤやエリシャがおこるかも(笑)
233 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:44:59 ID:bSLDsC31
234 :
名無しさん@3周年:2006/03/29(水) 01:46:41 ID:Flw4lU+s
主の平安があなたがたのなかにもありますように
235 :
名無しさん@3周年:
>>232 他宗教について勉強すると他宗教に帰依したことにでもなるというのか?