【迫りくる】親鸞会24時【ダミサの罠】

このエントリーをはてなブックマークに追加
228名無しさん@3周年
>>224
似たような問題として「輪廻」をめぐる解釈にも関係してくると思いますよ。
まさに輪廻が説かれて、その後その主体は何なのかということで色々苦心して
アビダルマのような教説が生まれてくる。でもそんな主体なんか想定した時点でアウト
だよという当然の批判が起こり、決定的な批判が龍樹によってなされた。
大乗仏教はこの龍樹の論説が根本思想になっているわけだから、この中で輪廻を説明しなかればならなくなる。
釈尊自体は輪廻の主体を立てる議論に対してはその誤謬を指摘し、あくまで行為論者としての立場に
留まった。主体を立てることなく、業(行為)→報(結果)の関係を述べるに過ぎなかった。
で、その輪廻といっても「今ここ」で輪廻は繰り返されているわけで、自分の経験可能な領域を離れた
輪廻は説かなかった。三世だって時間経過を示す概念だったわけで、今生とことなる「来世」という意味としてではなかった。
つまり経過した時間が過去世、まさに今ここにというのが現世、未経験の時間を来世と表現している。
こんな感じだろうけど、辞書に書くとしたらどうすんだろう?
まさか霊とか魂とかわけのわかんない主体を書いちゃったら、完全にまずいわけで。
こんな時こそ前スレの297さんがいてくれたらいいんだけど。
ついでに中観仏教ではどう考えるのかを解説してもらえればありがたいんだけど。
この問題は真宗学プロパーだけじゃなくて仏教学やっている人の知見が必要かな。