末日聖徒を悪くいうのはやめろ17

このエントリーをはてなブックマークに追加
129マカーキの1
 シックスセンスの監督の最新映画、「ビレッジ」(村)というものがある。とても面白い作品なので、是非お勧めする。
 この話は、「猿が如何に恐ろしいか」ということを描くサイコホラーだ。猿の恐ろしさは粗暴な犯罪でもなく、目に見える凶行でもない。猿の恐ろしさとは「目的の形骸化」である。
 一応、この映画の内容をかかないと話がすすまないので、書く。
 この「ビレッジ」は、娘をレイプされて殺されたり、両親が強盗されて殺されたり、様々な「猿の被害」にあった人達が、猿と人間の区別がつかない社会から離脱し、
アメリカ国内にある自然保護区(飛行禁止区域)に一つの「隠れの村」をつくり、自給自足の共同生活をはじめた。村の周囲は深い森にかこまれている。
 そこで生まれてくる子孫達には、「森には守り住民がいて、彼らとの契約に基づき、お互いの領地を侵さないようにしている」と説明し、絶対に村からでないようにしていた。
 村長達は「森の魔物伝説」をつくり、それを根拠にして村をまもっていた。
 ある日、村民の一人が男女間の嫉妬から、一人の男をナイフで刺してしまう。それは、明かな殺人であり、犯罪であった。
 「悲しみから逃れるため、社会から離脱して村をつくった」というのに。
 しかし、男はまだ生きていた。だが、感染症をおこしかけていたため、抗生物質が必要であった。
 抗生物質は村にない。町にいかなければないのだ。
130マカーキの2:2005/12/08(木) 22:00:04 ID:csUELQpN
 「悲しみから逃れるために村をつくった」のであるから、村の中で悲しみが発生すれば、村の意味はない。そして、刺された男の家族は、抗生物質をてにいれて男を助けたいと思う。
 だが、ここからがサイコなのだ。
 猿は「手段そのものを目的」にするため、「誰かがこの村から一人でも表にでれば、この村の場所がわかってしまう」と言い出し、「男を見殺しにしろ」と言い出すのだ。
 しかし、この村は「家族を失う悲しみから逃れるためにつくった村」であるため、「家族を失う悲しみに我慢してまで村を守る」という姿勢は本末転倒であり、全く意味がない。
 これが猿の怖さなのだ。
 何事も原理主義になり、何を目的としているのか忘れてしまう。そして、「とにかく村をまもればいいんだ。例え家族を失って悲しむひとがいたとしても」という。
 しかし、村が存在する目的「家族を失う悲しみから逃れるため」である。
 これが、「猿の真の恐ろしさ」なのだ。
131マカーキの3:2005/12/08(木) 22:00:35 ID:csUELQpN
 猿が猿並の社会的底辺にいるうちはまだいい。しかし、猿が何かの間違いで国家や組織の中枢にいき、或いは法律を司る身分になってしまったとき。
 それが、その国家と組織が崩壊する瞬間である。いや、崩壊さえしてくれればまた幸せかもしれない。
 「目的を失ったにもかかわらず、目的を持たないにもかかわらず自動人形のように維持し続ける」ため、被害は更に拡大する。
 それが「猿」、つまり、現在まで自分が主張している「旧人の存在」なのだ。
 愛国心とはもともと人間のものだ。だが、猿の愛国心は人間のものとは違う。
 国家とは、もともと個人の財産と家族を協同して守るための機構であった。
132マカーキの4:2005/12/08(木) 22:04:31 ID:T63k782E
 日本ならば、稲作に伴う水源の確保のために多くの人々が協同してこの防衛にあたり、様々な小国が乱立した。
 皆、「個人の利益と家族をまもるために」国家をつくったのであった。その方が合理であるし効率がよいからだ。
 だが、猿が国家の中枢に入れば、「財産と家族」をまもらないにもかかわらず「国をまもらなければ」という意識だけが働く。
 日本は25年間以上も自国民を拉致されておきながら、何もしてこなかったという異常国家だ。つまり、人間ではない存在が如何に国家の中に入り込んでいるか。
 「家族(同胞)を守るために国家をつくったというのに、それが機能しなくなった今も国を守り続ける」のである。
 愛国心とは、「守るべき存在」を持つ者だけが持つ心だ。愛する家族と大切な財産を持つ者が、それらを守るために国を協同してつくっている。
 言い換えれば、愛国心とは家族と財産を持つ者だけが持つ心だ。
 しかし、家族も財産も持たない者が「愛国心」を口にする。それは、何を愛しているのだ?
133マカーキの5:2005/12/08(木) 22:05:24 ID:T63k782E
 結局は「国」という偶像を愛しているのだ。中身をもたないにもかかわらず、愛しているのだ。従って、猿はときとして、「愛国心」を前にだせば何をしていもいいと錯誤する。
 今年三月におきた反日運動における「愛国無罪」などはその典型である。
 様々な犯罪を愛国心の名で覆い隠すことで正当化する。その為の道具に愛国心がつかわれるのだ。
 もしも、愛国心を口にする者がいたとき、その者が守るべき家族と財産をもっているのか、確かめなければならない。それが「愛国心の真偽」である。
 中世において、財産も家族ももたない土民は戦時に逃散した。貴族だけが戦った。それでいいのである。
 「守るべき存在をもたない愛国心」ほど、恐ろしいものはない。それは愛国心ではなく、「国家」という偶像を崇拝した「信仰心」であるからだ。
 信仰に理性はなく、時として最大の凶行の引き金となる。
 本当の愛国心は何かを排斥することでもなく、攻撃することを目的にするのでもない。「大切な存在」を守るという目的を達成する手段として、全ての過程が存在している。
134マカーキの6:2005/12/08(木) 22:06:17 ID:T63k782E
 今、この国は愛国心の覚醒を迎えている。
 だが、それは愛国心ではない。「僕の故郷がー」などという、愛郷心と区別のつかない馬鹿な心か、或いはただのヒステリックである。
 愛国心とは、「守りたいもの」を守るための心である。国益とは、「多くの人々が共有できる利益」である。
 その他の動機による愛国とは、結局「矮小な自分のアイデンティティー」を補完するためのファッションか、或いは自己保身の延長に過ぎない。
 「愛国心」と「自分の個人的故郷である愛郷心」の区別がつかないものも同類だ。「個人と全体」の区別がついていない。
 国家という機構は個人を守る現実的な概念であるが、故郷は個人をまもらない単に地理的な概念だ。
 愛国心を口にする者がいた場合、その「愛国心の種別」を確かめろ。
 本当の愛国心なのか。ただの国家という偶像を崇拝した愛国心なのか。或いは愛郷心を錯誤したものなのか。
 その区別をつけなければ、「狂気」がまたはじまる。冒頭で紹介した「ビレッジ」のように。