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SGY:
363 :
SGY:2005/11/18(金) 10:39:43 ID:n+6iHGyk
364 :
SGY:2005/11/18(金) 10:40:20 ID:n+6iHGyk
365 :
SGY:2005/11/18(金) 10:54:23 ID:n+6iHGyk
【リンカーンの過去世】
『リンカーンの意外な過去世』
アメリカ史上、もっとも有名な大統領であるリンカーンの過去世は、なんとわが国の偉人中の偉人・聖徳太子であり、さらにさかのぼれば、ギリシャの七賢の一人・ソロンである。果たしてこの三人の人生に、魂の同一性を感じさせる共通点など、あるのだろうか。
まずはソロン、聖徳太子、リンカーンの順に、それぞれの人生をふり返ってみよう。
『平民の台頭で崩れゆく貴族政』
ソロンが生まれた紀元前七世紀のギリシャは、各ポリス(都市国家)が殖民市を建設し、交易が盛んになり、ギリシャ世界が地中海にまで拡大。それにともなって商業や手工業が発達し、ついに貨幣が誕生した。
もちろん今日ほど貨幣が流通したわけではないが、それでも「貨幣(カネ)こそは人」なる格言も生まれ、貧乏の差が大きくなり、奴隷に売られる自由農民もふえていた。
自由農民の減少は、重装歩兵の減少を意味し、国防力の低下につながった。
一方、経済的にも軍事的にも成長した平民にとっては、政治や司法から閉め出されている現実は不満のマトであった。
こうした貴族支配の動揺期に現れたのが、「僭主」と「調停者」である。
僭主とは、貴族と平民の対立を利用して、非合法に独裁政治を打ちたてた人物のこと。
調停者とは、市民たちの合意によって一定期間、内政の全権をゆだねられ、相争う党派を調停し、公法・私法上の立法を行なった人たちのこと。「選ばれた僭主」(アリストテレス『政治学』)とも評されていた存在だ。
366 :
SGY:2005/11/18(金) 10:56:08 ID:n+6iHGyk
『アテナイを改革したソロン』
有力都市国家のアテナイ(アテネ)では、オリンピア競技に優勝したキュロンという名門の青年が、
僭主政を試みたが失敗。その後の深刻な社会不安を解決すべく、前五九四年、全市民の合意によって調
停者としてかつがれたのが、賢人ソロンであった。このとき民衆の不満は、まさに爆発寸前であったという。
だから、まずソロンが手がけた改革は、日本の「徳政令」にも似た借金の全面的帳消し、いわゆる「重荷おろ
し」であった。同時に身体を抵当にすることも禁止し、奴隷として売られた市民をもとの自由市民に戻した。
一種の奴隷解放ともいえるが、この政策によって市民と奴隷とは別の身分として確定し、市民概念の枠を固定
することにもなった。
この市民を収入の大小によって四つの等級に分けたのが、ソロンの最大の仕事といわれる「国制」の制定であ
った。市民の出世による差別を廃止し、かわりに財産や生産量によって四つの階級に分け、参政権や軍事上の義
務をそれぞれの等級に応じて定めたのだ。
たとえば第一級「五百石級」は、アルコン(国家最高官)になる権利をもつ富裕層。第二級「騎士級」は、馬を飼え
る者。この二つの階級は騎士としての軍務があるかわりに、上級官職につくことができた。
第三級「農民級」は、最低率の税金と、胴鎧を自前で用意して重装歩兵となる義務があるが、下級官職にはつくこ
とができた。そして第四級「労働者級」は無税。武具を調達する義務もないが、いかなる公職にもつくことはできない。
しかし、市民の権利としての民会と民衆裁判には参加できるとした。
さらにソロンは、アルコンをつとめた者からなる従来の「アレオパゴス会議」の独断専行を牽制し、民会を指導する
ものとして「四百人委員会」を新設した。
367 :
SGY:2005/11/18(金) 10:57:47 ID:n+6iHGyk
366のつづき
「国家という船は、二つの錨でもやっていれば・・・民を動揺させることも少ない」と。
こうした一連の改革を成し遂げたソロンは、「今後十年間はソロンの制定した法律を守る」というアテナイ
市民の誓約をとりつけ、自分は外遊の旅に出てしまったという。
『誰もが「平等」に期待をかけたが・・・』
「私の定めた法は、生まれの卑しい者にも身分の高い者にも平等だ。私の目的は、双方に正義が行なわれる
ことである」
−ソロンの改革は、確かに「中庸の途」ではあった。「平等は戦いにならない」といわれるが、当初は誰もが「平等
」の改革に期待したのだ。
しかし、土地の再配分を期待していた貧困大衆・没落農民は、がっかりして反発。貸した金が返ってこなくな
った富裕層も不満を鳴らし、やがて双方からソロン非難の声があがったという。だが、そのときソロンはすでに
旅の空であった。そして後世、貴族政から民主政への第一歩をすすめた政治家として評価されたのだ。
『聖徳太子は霊能力者だった!』
帰天して千百年あまり。賢人ソロンの魂は、東の果ての日出づる国に、この国を統べる用命天皇の第二子とし
て生まれた。
日本人なら知らぬ者はいない偉人、聖徳太子の誕生である。太子にまつわる伝説や伝承は多い。たとえば二歳の
とき、小さな手で合掌して「南無仏」と唱えたとか、三歳のとき「桃の花は一時の栄え、松の葉は万年の寿木」と、諸
行無常の理によって松を褒めたたえたとか。
成人してからも、成人してからも、外国からの使節を前に眉間から白光を放ったり、愛馬にまたがって飛鳥から
富士山・信濃を三日で往復したり、さらには幽体離脱して前世(天上界)で修行した経典を持ち帰ったり・・・。
368 :
SGY:2005/11/18(金) 11:06:07 ID:n+6iHGyk
367のつづき
もちろん、伝説はすべて真実というわけではない。しかし、そうした伝説が生まれるだけの何かを、太子は
確かに持っていたのだ。それは感化力であり、徳であり、霊能力であったろう。実際、太子は幼い頃から仏教
的素養を磨き、霊能力を発揮したという。「富聡耳皇子」という太子の名そのものが、「鋭い霊力の持ち主」とい
う意味(上原和『斑鳩の白い道の上に』)であるし、一度に十人の話を聴き分けるなど、観自在力(なかでも
他心=マインド・リーディング能力「注2」)がなけれは不可能である。
『仏教は人間を幸福にする教え』
太子が生まれ育った頃の日本の支配層は、血生臭い権力争いに明け暮れていた。王族・豪族の親子兄弟の殺し
合いによって、次の大王(天皇)が決まる。そんな力の論理がまかり通っていたのだ。
太子自身も、十四歳のとき、仏教を奉じる蘇我氏と神道派の物部氏との戦いに、蘇我氏側として参戦している
。劣勢のなかで「もし勝たせていたたせきましたならば、立派なお寺をお建ていたします」(注3)と仏に祈り、
そのカリスマ的な力によって蘇我氏側に勝利を呼び込んだのだ。
太子が学んだ仏教は、今日的な意味での単なる宗教ではない。仏教は科学であり、学問であり芸術であり、生
活文化であり政治原理であり、巨大な先進文明であった。
それは人間を幸福にする教えであり、同時に理想国家建設の方法論でもあった。そしてそれは、すさんだ時代に
あって、唯一の希望の光でもあったのだ。
一国を治め、国民を幸福にするには、政治制度もさることながら、人びとを善なる心に導く精神的指導理念が重
要だ。そこで、五九三年に推古天皇の摂政となった太子は、翌年「仏教興隆の詔」を発布し、国を挙げて仏教を敬うこ
とを宣言したのである。いわば国家としての信仰告白であった。