1 :
名無しさん@3周年:
ヨブ記とコヘレトの言葉に( ´・ω・)ショボーンとなってしまいます。
旧約聖書におけるこれらの記述の救いを説いてください。
2 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 04:27:41 ID:lfSCOcO0
聖書を読んでその戒めを忠実に守り神を信じ恐れ信仰を厚くしたことで
聖書のご利用者にいかなる不都合、不利益、損害等が発生したとしても、
聖書協会や各種教会は一切責任を負いません。
●契約の内容. 神は予告なしでいつでも戒律とその報酬
または利用規約を変更する権利を有します。
という注意書きです。
3 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 05:45:07 ID:YTTundyI
旧約の知恵文学や詩篇の読み方で参考になるのはジョン・ネルソン・ダービー
の本。
ダービーによれば、「聖書は神の言葉」という場合、二重の意味があるので注意
しなくてはならない。
ひとつ目の意味は、霊感によってかかれた言葉、という意味。人の中に宿られた
聖霊の息吹であって、実際の著者は神、ということ。クリスチャンなら
この認識を持っているはず。
もう一つの方の認識が結構重要。聖書は神が書いた神の言葉で、神ご自身では
あるけれども、そこに語られている思想すべてが神の思想であるというわけではありません。
たとえばヨブ記のはじめの方でサタンと神が対話していますが、
聖書の著者である主がサタンの言葉を引用しているのですから著者は神、
霊感によって書かれたので聖書のこの個所も神の言葉なんですが、
そこに盛られている思想はサタンのものです。
ヨブ記も伝道の書(ごめん、新共同訳きらいなんだ)も、神の思想ではなく、
人の思想を多く含んでいます。詩篇は人の感情を多く含んでいます。
ヨブ記は最初と最後だけ神の思想が書かれているけど、途中はまるっきり
ですね。
ヨブ記は、詩篇の第73編とあわせて読むといいと思いますよ。
4 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 05:49:37 ID:ZmB4OZ8y
5 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 05:50:59 ID:ZmB4OZ8y
6 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 06:19:00 ID:Q9CdStV2
>>3 聖書に記される神に逆らう者、戒めを破る者、神を愚弄する者、
神を恐れない者、神は死んだと神の無効と無力を歌い、
見よ戒めを破る我らに降り積もる富と幸いと無病を、と言う。
その戒めを破る者にも守る者にも、
神を慕い愛し恐れる者にも神を侮り厭い呪う者にも
神は等しくあるいは反対の果実を実らせ
信仰や守戒は幸いや恵みの印にも拠り所にもならない。
あるいはそのようなことは在り得る。
そうであるとするのならば
どうして弱く愚鈍で智恵の少ない人が神への信仰を
揺ぎ無いものにするというのであるか。
という問いに答えた箇所に興味があり熱望します。
7 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 06:31:13 ID:Q9CdStV2
コヘレトは正直で嘘が少なく人間的で最もなことを言っているように
思えます。またコヘレトの言葉が聖書に挿入されているということは
聖書にとってかえってアンチですらあると思えます。
ヨブの途中の神への不満と不信も
正直で嘘が少なく人間的で最もなことを言っているように思えます。
ヨブ記のオチである、結局この試練を耐えたヨブには
試練前と比較して2倍の富と幸福が神から与えられた、という
記述に、魅力と驚きを覚えません。
このようなヨブの受けた苦しみに対して、
すごいや結局ヨブは財産が2倍になったんだって、
などと納得する人は少ないと思います。
8 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 06:44:21 ID:Q9CdStV2
ニーチェは賢明な人間ではなく人間性にも疑問で
またその思想に救いがなく、破壊的で、愚かで、論理も破綻しており、
気の毒な人間という感想しか持ちえませんが
彼のような人間や考えを所有する人々に
聖書はどのように答え、反駁するのか、という所が
自分の関心のところです。
聖書を乗り越えて全てを受け入れ
現在の信仰に至るクリスチャンの方々は
ヨブ記とコヘレトの言葉に象徴されるような問題についても
何らかの合点と納得を得ているに違いないと思い
それを求めて問うてみました。
良い道理を知っている方がおられましたらそれを自分に教えてください。
9 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 07:01:13 ID:Q9CdStV2
少し論点から外れたことですが
例えば史実にしばしば見られるような
教会の腐敗や社会的権威への貪欲さ
などのことが事実であったのだとするならば
例えばそのような詐欺まがいの人物がキリスト教の指導者の位置で
座っていることができる、という事実、
また、富や快楽を貪る悦があって即ちその悦楽が、
神を敬い戒めを守って得られる幸いや安らいよりも
比較してより喜ばしいと思う人の台頭、
この点も自分の中では晴れない問題の1つです。
このような点も晴れるような良い言葉は聖書の中に
何かないのでしょうか?
助けてください。
10 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 07:22:25 ID:Q9CdStV2
ヨブ記では
このように神を疑い神に潔白を立てようと私はどこにでも出る
という勢いのヨブに対し
神は
貴様はこの私(神)を裁きの座に立たせようとするのか、
自分の無実の証明のために私に非があることを言おうとするのか、
貴様は全ての親である、いままで全ての恵みと愛をお前に与えてやった
この私を訴えようとするのか、
と力と格の違いと過去の恩等を根拠にヨブを叱責します。
無礼者、身の程知らず、百姓ふぜいが、の風にそれを根拠とします。
このような神は無辺で全能の慈愛からすると
さみしい気持ちだけが残ります。
絶対に神ならそのような言い方でヨブを叱責するはずがない、
つまりこのヨブ記の部分の記述は神の言葉ではなくて
誰か個人のある人の想いの世界の記述であって
預言ではなかったら・・
いいなあ・・と。
11 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 07:55:25 ID:Q9CdStV2
全知全能で無辺でかどや欠陥のない神が存在し
それが万物と万物の父であって親であり
その神の法や定めや戒があって
神はそれによって万物を動かし
罪や罰や報いもひいきや偏りなく
等しく与えられる
そしてその神の法や定めや戒の伝道者が予言者である
また特にキリスト教の予言者である、と。
それだから
神やキリスト教のイデア(実体/本体/本質)は
完全であって矛盾がなくいつでもそこにあるけれども
それを言葉にしたり絵に描いたりしたときに生じる
矛盾やあやまりや表示できない部位がありうる、と。
ちょうど現実が地図上に決して完全に復元できないように。
預言者は全く不完全な人であるし全く不完全な人の言葉で
神を語ることになるため、それは時として誤り得る、と。
それだから聖書もキリスト教や神の完全からすると
完全からはそれなりに遠い
という考えがあるとするならば
成る程・・と。
12 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 08:16:31 ID:Q9CdStV2
聖書は智慧に溢れ
またこの世の多くの現象をも説明し
荒唐無稽な道理も無い。
多くの人が喜んで契約し、それに値するものだろう。
自分はその素晴らしい契約に対し
ヨブ記とコヘレトの言葉に躓く。
逆に言えばこれを超えれば契約しない理由は失われる、と。
13 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 08:27:38 ID:Q9CdStV2
海が避けたり
人が空中に停止したり
あるいは触れただけで病が癒えたり
食料が無限に分裂したり
しなくていい。
富を多く得たり
良き妻や家族に恵まれたり
強固な健康体になったり
幸運と呼ばれる出来事が次々と来なくてもいい。
ただヨブ記とコヘレトの言葉に記述されるような
人の苦悩が戒めを守る人々の内にも
稀ではなくありふれて起こる
のだとして、またそれに対する聖書の説明が
そこに記述されているそのまま以外では無いとするならば
なんとさびしい救いだろうか、と。
14 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 09:12:03 ID:Q9CdStV2
信仰の深さや祈りによって
あるいはおよそ人のそれを超越した預言者のそれによって
現時点での解明されている物理的因果関係の法則(科学)
を逸脱した到底確率的に在り得ない物理現象を生じさせたり
することが信仰や奇跡と呼ばれる行為で
可能か不可能かということに関しては
それをまのあたりにしたことが1度もなく
その道理/原理もうかがい知ることができない自分には
その真偽について分からないとしかいえない。
それは信じていないということですね、と問われれば
問うた人によってその範疇の人間に区分されるかもしれない。
一方で
キリストの教えによって人の苦悩が除去されたり
預言者が苦しんでいる人の苦悩を消滅させるということの信/不信
を問われれば
それはそれを確実にまのあたりにしたことがなく
その道理/原理の全貌をうかがい知ることができない自分ではあるけれども
そのように思う、ことを信と呼ぶならば、そこに信はあって、
そのようである時に
聖書に描かれるヨブの苦悩とコヘレトの空しさと絶望は
その信の芽を摘み取り躓かせる根拠にはなっても
その芽を育てる肥やしになるだろうか?と。
15 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 10:06:07 ID:DCFeoS31
>>14 空の空、空の空なる哉、すべて空なり。
君の問いも空。
空しい。
それほど荒唐無稽な確立でもない偶然は
小さい奇跡のようにすら起こることが無く
その偶然や奇跡は生じることを得ず
それは信心の足りない私への
報いであったのか。
諦めて 求めるところを捨てて
それと共に聖書を棚に返します
17 :
名無しさん@3周年:2005/11/06(日) 20:13:46 ID:GLjJ3/8c
18 :
1:2005/11/06(日) 20:20:33 ID:keKtukVm
>>17 有難う。とても嬉しい。
いつも比較的注意していることだけれども
よく変換で間違えます。
何よりスレタイに意識を止めて頂いたことが嬉しい。
神「俺スゲーじゃん?なんでも出来るんだぜ?」
ヨブ「はいはいわろすわろす」
20 :
1:2005/11/07(月) 21:41:48 ID:MC8+epdN
21 :
名無しさん@3周年:2005/11/09(水) 16:58:19 ID:ECGlrEOf
わたしはそれを退けました。
定めのない時まで生きていたいとは思いません。
私に構わないでください。
私の日々は呼気にすぎないのです。
死すべき人間になにゆえ、
あなたはこれを育て、これに御心をとめられるのですか。
また、朝ごとにこれに注意をはらい、絶えずこれを試されるのですか。
どうしてあなたは私から視線をそらされないのですか。
つばをのみこむまで私をこのままにしておかれないのですか。
私が罪をおかしたのでしたら、人間を見守る方よ、私はあなたに対して何を成し遂げられるでしょう。
22 :
1:2005/11/09(水) 18:33:41 ID:4j6ew5mb
23 :
1:2005/11/09(水) 19:31:40 ID:4j6ew5mb
財産も無病も幸運もあるいは多くの人に愛されることも
少なくていい。
財産を倍になどしてもらわなくてもいい。
むしろ神にそれらを全て取り上げてしまってもいい。
神がヨブにされたようなどのような災いを降らせてもらっても
かまわない。
だけれども神がヨブに与えられた苦しみと悲痛、
あるいは神がコヘレトに与えられた絶望と空しさ
その唯一だけは、神を信じ愛する者に降らない、と
聖書に印を記述して欲しかった。
救いの地があたえられる、パンが得られる、財産が増える、
子孫が栄える、病気が治る、・・・・
そのような奇跡は何一ついらない、
ただ苦しみが癒える、ことを・・。
24 :
1:2005/11/09(水) 19:45:36 ID:4j6ew5mb
もしキリスト教が人の苦しみの消滅の約束は必ずしも約束はしない
というのであれば
それはそれを約束する仏教などの教えに
どのように及ぶのか、と。
25 :
1:2005/11/09(水) 20:04:09 ID:4j6ew5mb
キリスト教の異端の教えなのかキリスト教xx派なのかわからないけれども
キリストとは人の心や意識の中に誰もがもっている虚空の
ことでありそれに出会うことで苦しみの拠り所である自我が破壊され
以降苦しみの再生が停止される
といった旨を聞いたことがあるのですが
その異端の教えが事実であるとするのならば
コヘレトの考えはそれからは外れてしまいます。
ヨブの苦悩も的外れということになってしまいます。
ただしこのような思想は
どちらかというと東洋思想、古代インドの伝承思想の流れに近く
やはりキリスト教正統派から考えると異端とされるように思えます。
26 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 00:14:31 ID:7TfQt0E5
1:20
そこでヨブは起きて、そのそでなしの上着を引き裂き、
その頭の髪を刈り取り、地に伏し、身をかがめて
1:21
こう言った
「私は裸で母の腹を出た。
私は裸でそこに帰ろう。
神が与え、神が取り去られたのだ。
神の御名が引き続きほめたたえられますように」
1:22
このすべてのことにおいてヨブは罪をおかさず、
また神に不当なことを帰さなかった。
>そこでヨブは起きて、そのそでなしの上着を引き裂き、
>その頭の髪を刈り取り、地に伏し、身をかがめて
聖書中の定義では自傷行為は罪にならないのか?
27 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 00:18:39 ID:7TfQt0E5
>24
>もしキリスト教が人の苦しみの消滅の約束は必ずしも約束はしない
>というのであれば
>それはそれを約束する仏教などの教えに
>どのように及ぶのか、と。
仏教も約束せんよ
苦の消滅が無理な人々に対し釈迦は、
昇天の教えを説いた。
28 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 00:25:04 ID:7TfQt0E5
仏教徒でなくとも正しい道を歩むとされる者がおり。
聖書を読むのはおろか、触ったことさえない者にも義人はいる。
何をもって義とされ、何を持って罪とされるのか。
そこをはっきりさせましょう。
29 :
1:2005/11/10(木) 00:30:08 ID:1+H/pAOq
>>26ありがとうございます
そのようなことに関しましては私はそれが妥当であるか否かは
なんともいえません
>>27ありがとうございます
自分の知っている範囲内の仏の教えというのであれば
これこれこのようにこうしなさい そうすればこのようになって
苦しみの原因が滅びて苦しみが再び起こらないようになりますよ
というものです。
実際にそのような行為が誰でも確実に為しえることでその約束と
保証はするなどとは仏は決していっていないけれども
理想的結果としての涅槃をうたっており
対して
例えば神の戒めを可能な限り忠実に守ることを続けていても
ヨブのような神を呪いかねない程度の苦しみや
コヘレトのような絶望的な心情を得ることもごく普通に在り得るのだ
という感じが
という程度の意味なのです。
30 :
1:2005/11/10(木) 00:33:53 ID:1+H/pAOq
>>28ありがとうございます
私の見解では
聖書に記されている戒めに従うことを善
そうでない行為や想いや言動を悪と
考えます。
仏教の場合であれば
それ相応の戒律が存在し
同様のことであると私は考えています。
形而上学的な問いとしての善悪に関しましては
自分の想いの範囲外ですしまた自分もその解答を求めてはいません
31 :
1:2005/11/10(木) 00:37:52 ID:1+H/pAOq
肉体的な生命活動の停止といった手段に依らない
個人的精神的現象の中の苦しみの発現の終焉
またはその減退
のことに関心があるのであって
その場合絶対悪や絶対善は自在であって良いと私は個人的に
そのような立場です。
32 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 00:45:31 ID:7TfQt0E5
1さん、IDを見て。
それから1さんが衝撃をうけた章句の番号を書き込んで。
33 :
1:2005/11/10(木) 00:50:24 ID:1+H/pAOq
モラルや道徳や法律で制限を設定しない善悪などいうと
たとえば大量虐殺をしてもそれが自分の安らぎに帰結する
場合もあるのかなどの問題が生じると思いますが
自分の考えだと他の人間や他の生類を必要以上に
より多く苦しめ殺害し損なう行為は
どういうわけかその殺害者にそれに応じた苦しみを還元する
であるような道理が生存と同時にsetされており
生も死も圧倒的に自由で無制限で無秩序ではなくて
この言い方が妥当であるか否かは別として
生と死の制限と限度、範囲、限界、秩序も生まれと同時に神にsetされている
のようなイメージがあります。
34 :
1:2005/11/10(木) 00:53:23 ID:1+H/pAOq
>>32 7TfQt0E5さんありがとう
衝撃はあまりうけませんでしたごめんなさい
idが同一ということに衝撃はうけました(°Д°)!
35 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 00:57:59 ID:7TfQt0E5
ワーイ
. ヽ('∀`)ノ
(_ _)
, =ヽ-、
/ '('● ヽ
/ ( `--、__`_ゝ
| /`ヽ---ヽ'
/ /
/ i|
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,--''" ̄~ /J( 'ー`)し
/ ,--''''''"" ( つ旦O
/ / と__)__)
| ヽ ,--''ll|||||||||iillヽ
.| --'l||'' ''''''''' ;;ヽ
ヽ ____ ll||||ll;; ll|||ii ヽ
/ヽ ヽ ill||||ll \
/ /ヽ / 〉 / ヽ "''""フ
 ̄ ̄ ヽ/__/___/ |-----''''"
" "----"
36 :
1:2005/11/10(木) 01:00:31 ID:1+H/pAOq
7TfQt0E5さんが偶然か何かの縁かそうでないかは別として
このスレタイに意識をとどめられて
また意見をかいていただいたこと
が自分にとっては孤独が少し減り嬉しいです
37 :
1:2005/11/10(木) 01:04:36 ID:1+H/pAOq
自分の態度は深刻で切羽詰っておりマジメすぎて
笑う余地が微塵も無いのですが
そのような自分の意識をこっけいであると微笑む視座があるとするならば
そのことを晴天の霹靂っていうのだったかは
言葉の意味に今ひとつ自信がありません
38 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 01:18:16 ID:7TfQt0E5
先回りしなくてもいいんです。
息を吐いて、息を吸う。
いっぺんに吐き、吸うことはできませんよね。
39 :
1:2005/11/10(木) 01:32:02 ID:1+H/pAOq
>>38 その疑いの無い事実と苦しみの終焉の関係について
私にさらに容易に説いてください
40 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 01:52:44 ID:7TfQt0E5
疑いのない事実などありませんよ。
みなが「我こそ疑いのない事実をえたり」とするから争いはとまらない。
その争いを止めようとすれば争いに巻き込まれます。
苦しみの終焉なぞありませんよ。
疑いも苦しみも来ては去ります。それはどうしようない。
41 :
1:2005/11/10(木) 02:01:04 ID:1+H/pAOq
息を吐いて、息を吸う。
いっぺんに吐き、吸うことはできませんよね
↑私は上記を疑いのない事実と仮定します
苦しみの終焉など存在しないと語る人の話を私は好んで聞きません
道を求めてもそもそも道など何処にも無いのだよという頓知話を
私は好んで聞きません
我こそ疑いのない事実をえたりとどのように驕慢に耽っておられる方でも
自称預言者であっても
私は仏陀であると自称するどのような人であっても
その話の内容が道理にかなっており
全くそのとおりであって
苦しみを減じあるいは消滅させるというのであれば
自分はいっこうにかまいません
道理を解き明かしてくれる彼がどのような人であっても
私はこだわりません
42 :
1:2005/11/10(木) 02:12:35 ID:1+H/pAOq
この世は空だ
何も無い
あなたも無い私も無い
よって苦しみも無い
何を迷い苦しむというのかと語る人の話を私は好んで聞きません
それは苦しみの削減や消滅に何かの役に立ちません
苦しみはこのようにして「在る」と説き
苦しみはこのようにして消滅すると説く
苦しみの「在る」の原因を説いて
苦しみの「在る」が失われることを説く
そのような人の話を私は好んで聞きます
43 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 02:12:56 ID:7TfQt0E5
麻原商工でもですか?
44 :
1:2005/11/10(木) 02:20:16 ID:1+H/pAOq
>>43 彼がもし仏陀と同じように質素で戒律的な生活を営んでおり
行為がそ言動とたがわない人物であったならば
私は聞きます。
言動と行為に一致がみられない場合少なくとも
その発言者の教えだけでは人は苦しみの無い場所にいくことができない
ということになってしまいます。
45 :
1:2005/11/10(木) 02:24:02 ID:1+H/pAOq
また どのような賢者でも誤まったことを言い得て
どのような愚者であろうとも道理にかなったことを言い得る
という立場からは
道理にかなっていることは好んでよく聞き
そうでないことは好んで聞きません
46 :
1:2005/11/10(木) 02:31:13 ID:1+H/pAOq
かのヒトラー総統の言葉であっても
その内容がはじまりから終わりまで荒唐無稽な内容で
あったのならば
どうして人を率いることが在り得るでしょう?
この言葉は道理にかなっているが
この言葉は偏見と言いがかりである、とか
そのように知ることはある程度可能であると思います
そうでなければ仏教の本の翻訳団体であるaumが誤まっていたということは
結局仏教事体がイカサマであった、あまりたいしたことのない教えであった
などというような
袈裟まで憎いのようなことが生じてしまいます
47 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 02:33:32 ID:7TfQt0E5
どうして、苦しみのない場所があると確信できるのです?
あなたの苦痛はあなたがしる。
あなたの苦痛については釈迦よりあなたの方が詳しく、
あなたの苦痛についてはイエスよりあなたの方が近い。
あなたが他人の苦を知らぬように
48 :
1:2005/11/10(木) 02:34:51 ID:1+H/pAOq
極論すれば
だから宗教を信じるような奴は・・
となり
どのような良い教えも集金活動の方便であるとか
なんとでも言うことが可能になってしまいます。
袈裟は袈裟を見てそれを想い
坊主は坊主を見てその行為の是非をその通りに承知する。
のようでありたいと思っています。
49 :
1:2005/11/10(木) 02:36:57 ID:1+H/pAOq
>>47 そのことの 信と不信
を信仰と呼ぶのならば
それを信じる者として呼んでください
それは「信」です
50 :
1:2005/11/10(木) 02:40:05 ID:1+H/pAOq
私の苦痛はイエスのそれであり仏陀のそれであり
人の子のそれであり全ての他人の苦痛であると
「信」じているのです。
そのような「信」です。
仏陀の苦しみやイエスの苦しみ、他人の苦しみは
自分の苦しみとは別のものだと思うならば
どうして宗教や教えに引かれようか。
51 :
1:2005/11/10(木) 02:43:42 ID:n+Kmzgt6
あなたの怒りは私の怒りでありあなたの苦しみは私の苦しみであり
あなたの絶望は私の絶望です。
そのように「信」じてうたがいません。
あなたを殴ればあなたが傷つき痛み苦しむことを私は信じて疑いません。
あなたが特殊な性癖の持ち主で実は喜ぶなどとは私は考えません。
52 :
名無しさん@3周年:2005/11/10(木) 02:52:32 ID:7TfQt0E5
あなたが他人の苦を知らぬように
あなたの苦痛はあなたがしる。
あなたの苦痛については釈迦よりあなたの方が詳しく、
あなたの苦痛についてはイエスよりあなたの方が近い。
53 :
1:2005/11/10(木) 03:00:31 ID:n+Kmzgt6
それであなたの安心と平安と満足と安らいが得られ
苦しみが少なくなるというのであれば
それについて私はそれを何か妨害してあなたを傷つけることは好みません
あなたの思い信じることのままにあれば良いと思います
54 :
1:2005/11/10(木) 03:13:09 ID:n+Kmzgt6
ただ申し上げたい
あなたと私の安らいのために
>>52のような反復が
納得と了解がいかないことに対する不満と不快に対する
「これこそ正しい」という想いから生じた反復であるとするのならば
あなたと私の所有している苦しみは同じものです。
あなたの苦痛は私が良くより詳しく知り
私の苦痛はあなたが良くより詳しく知っています。
また数千年前に仏陀がイエスがすでに良く詳しく知っていた苦しみです。
55 :
1:2005/11/10(木) 03:31:50 ID:n+Kmzgt6
ちょうど将棋や囲碁に勝つように
多くの知識と経験を所有し利発で賢い人がいれば
どのような論議にも勝利し
あるいは何をどのように語ってもその正当性を語れると思います。
そして私は勝利した。私は正しいと。
しかしながらそのような悦は苦しみを増しこそすれ減らしはしない
と自分は考えます。
たとえ自分が誰かを打ち負かしたとしても
まもなくより多くの知識と経験を所有し利発で賢い人に
打ち負かされると思います。
それだから自分は苦しみはこのようにして「在る」と説き
その苦しみの「在る」はこのようにして減じ滅びる
と説いて それが道理にかなっていればそれを好んで聞きます。
例えどのように否定することのできない真理があって
「あなたの苦痛は仏陀もイエスも誰も知りえないからあなたに他人の教えや
救いが役に立たない」という意見を述べる人が現れても
その教えが私の苦しみを減らすことも滅ぼすこともないから
私はその話をこれはすごいぞといって熱心に聴くことはありません。
逆に「あなたの苦痛は仏陀もイエスも誰も知りえないからあなたに他人の教えや
救いが役に立たない」を偽りであると証明して某かの愉悦を得ようと
思う動機もありません。
56 :
1:2005/11/10(木) 03:36:32 ID:n+Kmzgt6
>>52 ちょうど私があなたであるならば
あなたの苦しみを減じ滅ぼし安らいをさしあげたい。
57 :
1:2005/11/10(木) 03:38:08 ID:n+Kmzgt6
>>52 ちょうど私があなたであるならば
苦しみのない場所を見つけてあなたにそれを教えてあげたい
58 :
1:2005/11/10(木) 04:08:27 ID:n+Kmzgt6
「南無阿弥陀仏と唱えれば誰でも極楽浄土に逝ける」という
私はこれをうまく信じることはできないが
誰かがそれを言い出して
別にその教えを教えたことによって金銭を要求し
集金人になったわけでも無い。
またある人々はこれを了承し信じ苦しみを減じ安らいを得る。
信仰の船を出して乗る人々を得て彼らの苦しみを癒す。
船を出した人は時にはペテン氏、外道と罵られる。
船頭はそれは甘んじて受ける。
そうであるとき船頭は菩薩であるとしか自分には思えない。
59 :
1:2005/11/10(木) 04:20:42 ID:n+Kmzgt6
仮に宗教が時に非現実や方便であってもかまわない。
苦しんでいる人がいてその人がその話や信仰の船に乗って
苦しみを逃れる。
火事の家の子供にお菓子をあげると騙して子供を外に連れ出す
というのでもかまわない。
苦しみという火事の家から人を追い出すというのならば
その方法は様々にあってもいいし、最悪作り話でもいい。
逆にどのような真実であっても
ただ人の苦しみを増すことしか役に立たないものであるならば
必要が無い。
60 :
1:2005/11/10(木) 04:47:07 ID:n+Kmzgt6
7TfQt0E5さんのお陰で少しヨブ記とコヘレトの言葉の意味がわかりました
ヨブの神への不信と呪いは寸分違わず私のそれと同じものであると。
自分の心に生じる精神的現象が数千年前にここに書かれていると。
コヘレトの絶望は私のそれと同じものであると。
自分の心に生じる精神的現象が数千年前にここに書かれていると。
それは実に見事な奇跡的なことであると。
ただではこの苦しみをどのように滅ぼすのかという記述が聖書の
ヨブ記とコヘレトの言葉の部位には少ないように思えます。
61 :
1:2005/11/11(金) 22:22:22 ID:wZ8bT+vv
今日思ったのは
神に文句を言うな
勝ち目は無い
という一つの真理であり
それはどうゆうことかというと
神の汚点や悪しき点、矛盾点をどのように指摘し
彼を糾弾したからといって
そのことによって自分の苦しみや怒りがいっそう燃え上がり
火に油をそそぐことはあっても
何かが一つとして改善されることがない、
ということです。
そのような教訓としてヨブ記があるとするならば
それはすぐれた教えであると思いました。
確かにそのとおりであると。
神に文句を言うな
勝ち目は無い
神に言った文句はその者の罪(苦しみ)にそれだけ加算されること
以上にはならない、と。
どのような正論であろうと神に決して通用しない、と。
確かにそれはそのとおりであると。
62 :
1:2005/11/11(金) 22:30:14 ID:wZ8bT+vv
それは死ぬということであって
確かに全き信仰であるといえばそのとおりであると。
神は人の子が戒めを守っても必ずしも幸いを与えられない、と。
神が人を裏切るなどと人が神に申し立てをすることすらできないと。
又仮に神が人を裏切り契約違反を為したとしても
それを糾弾してもそれではそれを何処に誰に訴えようというのか、と。
誰が神を裁くというのかと。
裁き罵声を浴びせるのは人の子の自由であっても
それがいったい何になるというのか、と。
神に言った文句はその者の罪(苦しみ)にそれだけ加算されること
以上にはならない、と。
63 :
1:2005/11/11(金) 22:39:06 ID:wZ8bT+vv
神は死んだ
神はいない
とどのようにでも人の子に好きに呼んでもらってもいっこうにかまわない、と。
ただその者がどのように神を殺し罵りあるいはこびへつらいどう思っても
神ははじまりからおわりまでココから果てまでいつでも
滅びず生まれず増さず減らず汚れず清まらず
ずっと在ると。
人の子に神を1_すらどのようにすることもできないと。
64 :
1:2005/11/11(金) 22:52:14 ID:wZ8bT+vv
人の子が信じようが信じまいが神は居続けるのであって
神に変わりなどなく
神は死んだというのは
人の子の勝手な一つの神の説明が破綻する道理を
ある人の子の偏ったlogicから
人の子が発見したというのであって
人の子が人の子を死んだといっている以上を超えることが決してない、と。
いったい誰が神を証明するというのか、と。
いったい人の子のお前が何を為さんというのか、と。
そもそも神が人の子にあたえた叡智という用具を使用して
神を打倒するどのような兵器が作られ
どのように神を痛めつけることができるというのか、と。
人の子の科学の拠り所となっている智恵、論理演算というもので
その智恵、論理演算を授け与えた神に何がどうできるというのか、と。
神が人の子にあたえた叡智という魔法を使用して
神を打倒を企てる足りない魔法使いよ
それができないことを
そもそものお前のたよりであるその叡智の起源から想像もできないのか、と。
65 :
:2005/11/12(土) 01:25:14 ID:/gd3STJu
66 :
1:2005/11/12(土) 01:47:51 ID:3HyeSHaq
7TfQt0E5さんのお陰で色々なことに気づき
発見できて 偶然や人の出会いというものを
奇跡のように 少し思っています。
67 :
名無しさん@3周年:2005/11/12(土) 02:55:15 ID:1ZaYMYnd
お出かけデスかぁ?レレレのレぇ?
68 :
1:2005/11/12(土) 03:00:20 ID:Fb9mkN/y
69 :
1:2005/11/12(土) 03:09:40 ID:zDRd6e9k
神について神をどのように悪くいい
神がいかに理不尽かを語り
神の不正をどのような証拠や見解を持って
神に凄み神に虚勢を張り神を脅迫しようと
試みても
それは天に唾をするようであり
風をなぐるようであり
石に泣いて訴えるようであり
即ち勝ち目が無い、と。
唾は自身の顔面に落ち殴る腕は疲労困憊し
訴えは声をただ枯れさせる、と。
神に向けられるどのような暴力もそれはそのまま
自分の罪と苦しみに加算される以上のことにはならない、と。
いうことを私は得ました。
70 :
1:2005/11/12(土) 03:14:26 ID:zDRd6e9k
どれだけの富を以って
どれだけの軍備を以って
どれだけの叡智を以って
どれだけの情報を集積して
神に戦争を挑んでも
容易に病に犯され
相応の年月を以って滅ぼされ
一方神の方はというと
全くの傷一つもつかない、ということを発見しました。
71 :
1:2005/11/12(土) 03:23:00 ID:RGZV8DzO
金で買える寿命も範囲を神に制限されており
金で買える健康も程度を神に制限されており
金で買える時間も範囲を神に制限されており
破壊の力は神の爪の垢程度にもはるかに至らず
生成の力についても同様で
生存の時期も富や人の子のどのような力でも購入、獲得できず
智恵はいうに及ばず
であると。
せいぜい制限在る寿命を神の戒めを守って
存分に愉しみ味わい喜べ
それが人の分相応だ、
といったコヘレトの言葉
がリアルにしか思えなくなる、と。
72 :
1:2005/11/12(土) 03:27:37 ID:RGZV8DzO
ヨブ記は
人の言葉で語らず表さず沈黙し弁明もしない全能の神を
見事に擬人化して表現している、と。
成る程そのように考えればそれはそうであると。
ヨブ記の作者である人の子の
神と人の子の表現方法はそれは見事であると。
73 :
1:2005/11/12(土) 03:45:16 ID:RGZV8DzO
物事の数学的演算の道理からすれば
神の戒めを破り偏って富を集積しながら分け与え少なくして
独占し貪ったり、
あるいは自身の利益のためから他者を殺害したり
戦争を企てたりする者は
悪であるからそれに相応しい誰でも目に見えるような罰/報い
を与えられ逆に
神の戒めを良く守り富を貧しい人に分け与え
隣人を愛し、貪り少なくして静かに生活する者は
善であるのだかられに相応しい誰でも目に見えるような実り/報い
を与えられて然るべきであると
人の子の情や思惑としてはそのように希望し願うのではあるのだけれども
罪と罰、善と悪、実りと報いの裁きの時期は
人の子に知らされていない、と。
毒を飲まされて数分後に死ぬ者もあれば
何十年生き続ける者いて
あるいはコロリと逝く者もあれば
長寿を得てしかも毎日が拷問のようであったりという者もいたり。
身体も心も様様な善や悪や善でも悪でも無いものから複雑に構成されており
それがあるが故に
誰が見ても平易で単純明快な罪と罰の現象の目撃とはならない、など。
しかしながら矢印としては
悪は苦しみと破壊と滅びに赴き
善は幸いと平安と安らいの方向に赴くという磁極に似た方向力
だけがあるのだと、空想しても
もちろん神がそれに答えることも無い。
74 :
名無しさん@3周年:2005/11/12(土) 16:47:40 ID:1k1ugfyg
神は最強の暴力と
最高の権力と
並ぶものなき権威を持つ故に
正しいのです。
彼は常に裁く側に居て、彼自身は決して裁かれることはありません。
彼は常に何が正しいかを定める側に居て、彼自身は彼以外が定めた法で縛られることはありません。
彼は常に殺し滅ぼす側に居て、彼は死ぬことも滅ぶこともありません。
非力な被造物には、服従するか反逆の報いを受けるか、二つに一つの道しかないのです。
75 :
1:2005/11/12(土) 16:59:49 ID:E8ewKxVW
>>74スレタイに意識を止めていただいてありがとうございます
あなたの意見には全く賛成します。
じつにその通りであると思います。
あなたの意見の内容こそがヨブ記であると私は思います。
76 :
名無しさん@3周年:2005/11/14(月) 01:30:42 ID:b4FRDbaw
77 :
名無しさん@3周年:2005/11/14(月) 16:18:24 ID:6jmf/gAH
ku issaihaku
私はこのように邪推してしまうのです・・・↓
伝道の書の訳文で使われている「空(くう)」は原文ではどうなっているのでしょうか?
前後の文脈から考えて、例えば77さんの示した分は「むなしい。一切はむなしい」となると思えるのです。
空(くう)はみなさんがご存知の通り仏教用語であります。また、この「空(くう)」は虚無主義と誤解されやすい
用語です。もしかしたらその虚無主義のイメージから「空(くう)」という訳語が選ばれたのかもしれない・・・
と、私は思いました。
79 :
1:2005/11/14(月) 22:44:05 ID:eJ/hemge
>>78 書き込み ありがとうございます
自分の印象だと
聖書のコヘレトの言葉における空の意味は
空しい、虚しい、虚無の意味に近いと思います。
この世の一見不条理な運、不運、
悪がのさばったり、敬虔で優しいクリスチャンが大変な災いにあったり、
そのような現象を目撃して
コヘレトは空しい、残念だ、無常であるというよりもここでは無情
のような気分といいますか・・
しかし仏教の空はまるで違う意味であるように自分は
考えています。(ポジティブ/苦しみの消滅/災いの消滅・・)
もちろん仏教の空の定義を般若心経中のそれと仮定したときの話です。
ここではスレ違いになりますので
仏教の空は仏道修行者にまかせるとしまして
コヘレトの使用している空は、空しい、やりきれない、
望みが小さい、希望が多く持てない、(ネガティブ)の感覚であるように
個人的に思います。
80 :
1:2005/11/15(火) 07:56:25 ID:q7Ot0j8l
突然で発作的な衝動ではあるのですが
申し上げ告白させていただきますと
私は7TfQt0E5さんが好きで大好きで告白したいほど好きで
可愛いらしく想っています。
その発言も言動もその反応もその振る舞いしぐさも全てを通じて。
すみません。手前みそで。
82 :
1:2005/11/16(水) 18:33:32 ID:xIAQetsx
>>81 書き込み ありがとうございます
7TfQt0E5さんの
味わいと可愛いらしさ、純粋さ、悪意の無さ、正直さ、なごみさ、
疑問や不満の表し方、
どれをもが愛らしいのです。
でもさ、7TfQt0E5が女だとは限らんぜ?
84 :
1:2005/11/16(水) 22:42:06 ID:7fVT0v5T
>>83書き込み ありがとうございます
私は7TfQt0E5さんが男性であると仮に推定した上で
>>82のように思っています。
とはいえ然しながら私はHGや男色を嗜好する人間では全くありません。
「「理性もまた選択なのだ。」作者は神の摂理がアダムの罪を許容したのだという、神の責任を追及する議論に
対して、「実に愚劣な意見だ。神が彼に理性を与えた給うたとき、とりもなおさず選択する自由を与え給うたのである。
理性は選択に他ならないからだ。こういう自由が与えられていなければ、
アダムは単なる木偶の坊に過ぎなかったであろう」(「アレオパジティカ」)と言っている。
ミルトン著、平井正穂訳「失楽園」の註から引用
86 :
1:2005/11/17(木) 01:10:52 ID:5IALbln4
>>85書き込み ありがとうございます
その内容があなたの意見と同一であるのか
そうではなくてある他者の著作の一つの考えの紹介であるというのか
という意図は私がそれをあなたの発言から判断することはできませんが
ただその内容の道理には私は全くその通りの考えを思うものです。
アダムの木偶の坊とそうでは無いアダムの魂の差異の道理は
私は全くその意見の通りであると考える者です。
87 :
1:2005/11/17(木) 01:23:26 ID:k3V7BUho
神を信じず神に逆らい戒めを自由に破る人の行為や想いについて
神が何らそれを妨害したりしない、と。
また神を信じず神に逆らい戒めを自由に破ることは
どのような人にも可能状態にされている、と。
ただ魂や意思が自由に行為と想いを選択しその結果に関しては
それ相応に報いを生じる、と。
そしてそのような程度の自由状態を
人が木偶では無い、人は魂を持って生きている、とする立場を
私は支持するものです。
89 :
1:2005/11/17(木) 19:08:46 ID:WdZPr3Yu
>>88書き込み ありがとうございます
それはそのことに関して自分は詳しく知りませんでした。
ただ自分の場合の解釈ですと
魂の死後のことの説明は保留しておいて
今この世で生きて喜び苦しんでいる人/魂/霊を今この世で癒す
今この世で人/魂/霊に生じている苦しみを今この世で無くする
という位置づけにキリストの教えを置いているので
あるいは伝統的なキリストの教えや本道
あるいは多種多様な解釈、立場の人とは異なるのかもしれません。
死後の天国のことを最重要に想う人もあるのかもしれません。
90 :
名無しさん@3周年:2005/11/19(土) 19:12:21 ID:QgwOgGWf
ヨブ記42章
42章5節
前略
今は、私のこの目があなたを確かに見ております。
(ヨブのことば)
42章6節
前略
それはあなた方がわたしに関して、わたしの僕ヨブがしたように真実なことを
語らなかったからである。
(ヨブの友人に対するかみのことば)
ヨブ、ヨブの三人の友人、エリフ、かみ それぞれが語った後にヨブ記最終章の
42章にあることばです。
最終章6節において神はヨブのそれまでに語った事すべてを「真実のこと」
としているのです。5節を踏まえて言えば途中においてヨブは及ばない
所があった。しかしその方向性についていえば、全能者でない人にとり得る、
また人に成しうる真実をめざすという選択においては「真実のこと」と、
かみはヨブの友人を責めることにより暗に語っています。
91 :
1:2005/11/20(日) 18:03:46 ID:KOe4hUhf
>>90書き込み ありがとうございます
ヨブの語る全く正直な自分の精神的現象の真実の告白、
友人の語る少し正直と異なる偽善(きれいごと/神Iへのこびへつらい/虚偽)
またヨブに人間であるがゆえの限界もあって、
ヨブが一部感情からつい暴走したことに起因する「全く正直な自分の精神的現象の真実」以上を
想像と空想、自分ひいきの観点から述べてしまった部位、
自分はそう考えます。
92 :
名無しさん@3周年:2005/12/07(水) 17:32:35 ID:D3MdMn2A
ヨブはその時その時で出来うるかぎりの正直さで答えています。
ヨブの友人もそうです。
もし自分がエリパズ、ビルダド、ツォファルであったなら、
傷ついたヨブを前に彼等以上の言葉を話せるでしょうか.
2章13節
こうして、彼らは七日七夜、彼と共に地に座っていたが、
一言も彼に話しかける者がなかった。
その苦痛が大変ひどいのを見たからである。
にほんと住人がよぶ、このくにはゆたかです。
この豊かさにみあう代償をしはらはなくては、とがらにもなくおもいました。
みなさん、年賀状はもうかきましたか。
93 :
:2005/12/14(水) 17:25:53 ID:DRbdJJaM
94 :
名無しさん@3周年:2005/12/14(水) 23:32:57 ID:DRbdJJaM
聖書の中で神はサタンにヨブの持っているものと骨と肉に触れるのを許した。
1章12節、2章6節参照
このことを現実のこの世界において考えてみる。
現実につらい思いをしている人はいる。つらい思いをしていない人はおそらくいない。
つらい思いをした時に原因をどこに求めるか?は人それぞれ。
神、サタン、自分、他人。ヨブ記においてはシバ人、神の火、カルデア人、
荒野の地方からの風、はれ物の原因となった微生物あるいは細胞。
ヨブが貧しい独り者であったなら、
シバ人は雌ロバと牛を奪い従者を打ち倒すことがなく、
神の火は羊と従者を食らい尽くさず、
カルデア人はらくだを奪い従者を打ち倒すことなく、
大風は娘や息子を死なせることがなかった。
また、ヨブ以上の難病に苦しんでいる人はいない とはいえない。
95 :
名無しさん@3周年:2005/12/16(金) 00:16:12 ID:ueCfADa8
ヨブ記1章5節
彼は朝早く起きて、彼らすべての数にしたがって焼燔の犠牲をささげた。
中略−ヨブはいつもこのようにするのであった。
96 :
名無しさん@3周年:2005/12/19(月) 20:23:33 ID:oX1fXBBG
>>95から
ヨブが一年にどれほど数の生物を焼燔にささげたか予想がつきます。
また、それだけの焼燔を行うのに、善し悪しは不明ではありますが、
強靭な確信が行動の背後にあったことを予測させます。
『一週間から10日ごとに10匹のヤギを喜びをもって焼燔にささげろ
と言われたらあなたはキリスト教を続けますか?』
>>95、
>>96を通じて主張したいことは、その当時の価値観において、
ヨブはとても健常なある種の理想形である。現代日本人のキリスト者に
あてはめてヨブの行動・主張を理解するのは、難しいのではないか?
注意がいるのではないか?ということです。
ヨブのことばは終始、冷静さを保ち強い意志を感じさせます。
ヨブが多くの焼燔の犠牲をささげたこと。それは現代日本の価値観から見て、
よろしくないものであるかもしれません。しかしそれでもなおヨブの態度には
学ぶべき点があると感じさせる威厳があります。
97 :
名無しさん@3周年:2005/12/26(月) 20:37:06 ID:wRmTy+xa
列王第二 8章11節
そして彼はじっと見て、きまり悪く思わせる程じっとそうしていた。
それから,〔まことの〕神の人は泣きだした。
マルコ 14章33節
省略−
ご自分はぼう然とされ、かつひどく苦悩し始められた。
34節
そして彼らに言われた、「わたしの魂は深く憂え悲しみ、
死なんばかりです。ここにとどまって、ずっと見張っていなさい」。
35節
そして少し進んでいって地面に伏し、もしできることなら、
その時が自分から過ぎ去るようにと祈りはじめられた。
36節
そしてさらにこう言われた。「アバ、父よ、あなたには
すべてのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。
それでも、わたしが望むことではなく、あなたが望まれることを。」
98 :
!omikuji:2006/01/03(火) 03:55:02 ID:Nrvcrdsg
あけおめ
99 :
名無しさん@3周年:2006/01/08(日) 23:09:57 ID:bMO35gay
二人は一人に勝る。
彼らはその骨折りに対して良い報いを得るからである。
コヘレト 4.9
コヘレトの言葉=伝道の書な〜のね。
100
新世界訳は嫌われているし、
なにより1さんがコレヒトと呼んでいるので。
流石に新世界訳では、
ヨブ記の問答解釈は不可能なので
岩波聖書の購入を検討中。
それにしても1さんどうしていることやら
102 :
名無しさん@3周年:2006/01/09(月) 00:06:35 ID:RhwCy5uQ
ごめんコヘレトだ。
自分はエホの人に貰った聖書しか持ってないので、
ヨブ記はいいとして、
コヘレトの記述がわからんで困った。
引索にコヘレトがないから。
ヨブ記とコヘレトを読み進めて迷うことがある。
ヨブもソロモンも高徳で有能な人であり、
ヨブ記、コヘレトは聖書中の懐剣や奥の手に感じる。
努力を積んだ上で、
行き詰まった経験のある人にはまさに福音になる。
基本が身に付かないのに応用にすすむのはよくない。
混乱を呼び、効力は薄れる。
類書をあたれば自分など、
足元にも及ばない深い見解が多くあると思う。
1さんがまだこのスレを見ているなら、
意見を聞きたい。
104 :
1:2006/01/10(火) 01:55:30 ID:S8c/h9ND
>>103 呼びかけていただいてありがとうございます
自分の見解は自分が1としてこのスレの述べた通りです
もちろんそれら自分のヨブ記とコヘレトに関する見解は
それが正当な解釈であるなどと断言することは決してできません
ただ自分は確定証拠がそろっていなければ結論を出さない、
という立場はとりません
証拠不十分でその現状でその時の自分の考え至り得るできるだけ
全てを尽くして解釈を仮にそこで断定します
それでそのままで認識しておきながら
その解釈が躓く状況に遭遇した時に
そこで解釈を躓かないように再構築する
といった指針でやっています
104
御返答ありがとうございます。
過ぎたるは猶及ばざるがごとし。
足元に注意しすぎるもまた誤りですね。
しばらく口をとじ、
頭を冷やしてきます。
106 :
1:2006/01/12(木) 06:42:31 ID:or2UrBMS
>>105 誠意あふれる返事とあなたの正直な気持ちの告白をありがとう
自分の勝手な意見を少し言わせていただければ
>>105さんはその謙虚さと慎み深さをもう少し放棄して
もう少し自信をもって失敗と奢りによる溺れを畏れることなく
どんどん挑戦して挫けて半溺死しても良いと思います
実際に躓いてみなければその誤りと奢りの悪も身に染みて分かりません
神や境遇に苦しめられてみなければ
自分の信仰の誤りや考えの間違いにも確かに明瞭に気付けません
そのように自分は
>>105さんに対して意見を思います
もともと反省と懺悔の傾向の多い慎み深い
>>105さんは
もう少し走りながら迷いながら生きる方向性に傾いても
それはお釣が来るくらいであると自分はあなたに思います
107 :
1:2006/01/12(木) 07:19:14 ID:ZgV582gR
>>105 また勝手な自由な自分の意見(偏見)をあなたに対して言わせていただくことが
できるとするならば
次のような自分の一つの考えがあります
もし
>>105さんが聖書のある1つのこれだと思った解釈に絶対性を置いて
その見解と解釈に固執し
その解釈と見解に矛盾する誰かの見解や意見や考えを
絶対に許さない
態度を示すのならば
その時
>>105さんは躓くと想います
その時
>>105さんは聖書の真実から遠くなり得ると想います
>>105さんが聖書の特定の解釈や見解に固執せず
よりつじつまが通る解釈や見解を選び続けていくとするのならば
>>105さんは聖書の真実にどんどん近づくように
そのように自分は考えます
聖書のある解釈や見解や偏見に間違いや足りなさがある場合には
それが原因の苦しみや躓きや矛盾が試練として生じ
その苦しみや躓きが自分の聖書の解釈や見解の至らなさを
示してくれる
そのように自分は考えます(もちろんこの考えは自分の現時点の
1解釈1見解です)
もし
>>105さんの何かの参考になれば話半分にでも聞いておいてみてください
ヨブ記について私はいくつかの解釈があります。
ひとつは神の側にたった解釈。
私はヨブは神に打ちのめされる必要があったのでは、とたびたび解釈します。
ヨブは自分の義を主張します。
それはヨブが自分で頭の中で作り上げた神に対しての義であって、
今まさに対面している神に対してではない。
(彼が想像している神は、信仰厚いものには恩寵も厚く施すような神ではないか、
しかしいま対面している神は、神自身が義と認めた人間さえも災難にあわす)
その点で彼は自己中心的であり傲慢である。
だから彼は打ちのめされねばならない。
彼の神イメージは壊されなければならない。
本当の神への信仰の為に。
ヨブ記は読むたびに全ての登場人物に共感します。
全ての人が正しく、また正しくない。
だからこそ今の時代まで人の心を捉えるのかもしれません。
109 :
1:2006/01/15(日) 21:07:46 ID:+desJfJh
110 :
1:2006/01/15(日) 21:13:45 ID:+desJfJh
>>108 ただ試練の後にヨブに褒美を与える神、すなわち
あくまでハッピーエンドのヨブ記にでてくる神は
どちらかといえば義神寄りのように自分は考えます
ただ個人的な神への自分のイメージ(イメージできず、偶像崇拝
は不可能であることを前提とした上であえてそれをするとすると)
は非人格神(法)のような印象です。
>>110 ええ、そうですね。
私はその非人格的な面も含めて神なのではないかと思うのです。
ヨブは自分に都合の良い神しか見ていなかった。
ヨブは言いいます。
「わたしはあなたのことを耳で聞いていましたが、
今や私の眼があなたを見たのです。
それゆえわたしは自分を否定し、塵灰の中で悔い改めます」
残念ながら
>>1さんを(`・ω・´)シャキーンさせることはできませんでしたが・・・
112 :
名無しさん@3周年:2006/01/15(日) 22:02:33 ID:NxP80eR4
>>110 あー誤読でした非人格神(法)=非人格的な性格、ではないですね。
>>1さんの非人格神(法)という神イメージはどこか仏教的ですね。
113 :
1:2006/01/15(日) 22:04:59 ID:pLqUiOmA
>>111 いえありがとうございます
シャキーンとしました
発見がありました
また
確かに戒を守り聖書の教えの定めるところの善や施しや愛
に生きても必ずしも全く神の救いや恵みが還る
とは限らない現実があるのかもしれません
しかしながら戒や善や愛やそれらを行っても
あるいは破戒や悪や暴力や盗みを行っても
神はそれら人々に平等に恵みや罰をを与える
のだとすれば
聖書や戒や愛の意味はなくなります
神のことを考え祈り愛を実践する意味はなくなります
そのように自分は考えます
114 :
1:2006/01/15(日) 22:09:32 ID:pLqUiOmA
またヨブ記のもう一つの自分の解釈には
ヨブは「私は神の戒めのままに善に生きた」
それなのに「善が自分に還らなかった」
と言っていることから
つまりヨブに「報いと見返りを求める善」があった
ということにも解釈でき
するとそれは「無償の愛、無償の戒、無償の善」
では無い、ということにも認識でき
そのことを神がヨブに諭した
という考え方もあるのかもしれません。
115 :
1:2006/01/15(日) 22:14:05 ID:pLqUiOmA
>>112 自分の聖書の解釈は自分の独断と勝手なものであり
なんら権威も正当性もないものです
それゆえ、もし
>>112さんの信念や信条に反する
自分の意見があれば、黙殺してください
また自分には「自分の今の解釈こそ絶対」
などという一つの解釈への固執はないので
自分の解釈は死ぬまで変化し続けると考えています
116 :
1:2006/01/15(日) 22:28:47 ID:isquz4nu
現在の自分の考えて理由が最もわからずに思っていることは
人々を助け苦しみを救い病気を癒して
そのようにしてまわったイエスを
全ての弟子や全員が裏切って見捨て見殺しにした
ということの意味と理由と弟子の心です
117 :
108:2006/01/15(日) 22:51:59 ID:NxP80eR4
>自分の解釈は死ぬまで変化し続けると考えています
ええ、そうですね。
だからヨブ記は読まれ続けているのではないのでしょうか。
イエスの弟子がイエスを見殺しにした心情は理解できます。
イエスは世間からみればプータローというか、
ずいぶん怪しい人に見えたと思うんですよ。
弟子が自信を無くすのも無理ないかなあ、と。
ただ、イエスに対する裏切りがあってこそ
弟子達はイエスを愛し救いを必要とするのではないでしょうか。
「私には罪人こそがふさわしい」たしかイエスの言葉ですよね。
118 :
1:2006/01/15(日) 22:57:00 ID:BEjIHfDo
>>117 そうなのかなあ・・・
自分を裏切り愛に死罪をもって答えるようなこの世と人間を
助け救い愛するイエスにはこの世のどんな人間すらかなわない
と思いますが、
その世の中と人間に救いが無さすぎるような気もします。
119 :
1:2006/01/15(日) 23:02:22 ID:BEjIHfDo
見殺しに見捨てておいてから
復活を確認した後に
へへへ、すいやせん、やっぱり本当の救世主様だったのですね・・
などと揉み手で歩み寄る人間を許すイエスの愛の底の知れなさは
すごすぎると思いますが
それにしても義がなさすぎるように思います
もちろん自分がその現場にいてイエスをかばって死ねたかというと
その絶対の自信は無く、その意味では裏切りの人々を
どうのこうのいえる立場では無いのですが・・
120 :
1:2006/01/15(日) 23:11:51 ID:NBIKLQZH
人々を助け苦しみを救い病気を癒して愛と恵みを施し
その見返りとしての人々の感謝やお礼や自分をかばい
自分の命を助けることすら
全く求めなかったイエスは疑いようのない無償の本当の愛の実践者
だとは自分は思います
121 :
108:2006/01/15(日) 23:14:48 ID:NxP80eR4
>>119 裏切った弟子達も
>>1さんと同じように救いのなさを感じていたんだと思うんですよ。
自分に対して失望しただろうし・・・
だからイエスの復活で
恩寵や愛、許し、ということも身をもって体験したのではないかと思うんです。
122 :
1:2006/01/15(日) 23:16:53 ID:NBIKLQZH
>>108さんのおかげで
今日自分が新しく気付いたことは
(無償の)愛とは与えて罵られることを良しとする
行為であるとふと思いました
123 :
1:2006/01/15(日) 23:19:49 ID:NBIKLQZH
愛して感謝や褒美を求めればそれは愛ではなくなる
愛して感謝や褒美を求めればそれは交換行為、経済行為、欲望
とかわりがなくなる、と。
124 :
1:2006/01/15(日) 23:22:08 ID:NBIKLQZH
戒律を厳格に守って、そのことで自分たちは清く聖なる優れた集団だ、
と奢り高り、そうでない人を見下して侮れば
それはパリサイ人と変わりがなくなる、と。
125 :
名無しさん@3周年:2006/01/15(日) 23:30:49 ID:NxP80eR4
>>124 イエスの言葉に、
「先なるものは後に、後なるものは先に」
というのがありますがあれは傲慢にたいする戒めかなあ、と思うことはありますね。
偉くなったと思ったらそれは罪を犯してるかもしれないぞ、という。
126 :
1:2006/01/15(日) 23:38:22 ID:FUfLFUVh
>>125 自分の考えだと
善悪、高低、聖邪、罪
と呼ぶよりは苦しみの原因になる、と呼びます
偉くなったと思ったらそれは苦しみの原因になる、と。
偉くなったと思うことが悪というよりそれは苦しみの原因になる、と。
もちろん呼び方やレッテルは各人の自由だと思うけれども。
127 :
1:2006/01/15(日) 23:56:13 ID:5RUFVX80
どのような神の義に沿う(ように人間が考えた)行為を実践し
聖書に定められた戒律を厳格に守っても
隣人を助け救い施し愛を与えても
その報いとしての出来事や境遇や物質は生じない、のだと
それはイエスが死刑になったことの通りだと。
見返りを求めて愛や戒や善を為しても苦しみしか還らない、と。
128 :
1:2006/01/18(水) 05:24:47 ID:wg0N/Eed
病気を助けてあげたのに、人の苦しみを助けてあげたのに
食べ物やお金をあんなに恵んであげたのに
私に石を投げるの?私を口汚く罵るの?訴えて死刑に?
などとという極端は無くても
愛して石を返されるような耐え難い絶望と孤独が
おそらく普通にこの世に在り得るように自分は思います。
貼り付けにされた超能力者が愛の神の子でないのならば
そのひとは人類と地球を普通に爆破すると思います。
自分ならそうします。
129 :
1:2006/01/18(水) 05:28:13 ID:wg0N/Eed
いいしれようのない差別と暴力、考えられないような仕打ちと仇
闇の闇、不法の不法、空の空、孤独の孤独 否定の否定
そんな処で許しと愛を口にできるキリストの根拠は
何なんでしょう?
誰かそれを教えてください
130 :
1:2006/01/18(水) 05:39:56 ID:/w+Vp0xt
矛盾した聖者/非人間 殺されて殺人者愛する人間 イエスの
存在を信じるかと問われればわからない、と答える
いないとは自分はいわない
過去に絶対にそんな人間はありえなかったことを断言できる、と
そこまで何も信じない自分では無い
ただイエスがわかりイエスな人にはイエスが普通にいたと分るだろう
131 :
1:2006/01/18(水) 06:09:14 ID:5RKfYUlr
集められ生まされ苦しみと悦びを与えられ
孤独の泣き声や苦しみを訴えても誰もそれを聞く者などおらず
ほどよく肉がついたら殺され焼かれて
自分たちを殺す人間の舌の快楽を助ける
それを為して生きている呪われた肉の人間が
孤独や苦しみを訴えるような正義や裁きの場所など在り得ない
のかもしれない
悪は苦しめ、と。
人間に無罪と、完全な救いもまた無い、と。
132 :
1:2006/01/18(水) 06:36:26 ID:ynhUdg4K
イエスの言葉や行為はそれまでの預言者のそれとは異なっているように
自分は(独断と偏見で)感じた。
新聖書のように少し感じた。
ただ右の頬を打たれたら左を出し
汝を殺そうとする者を愛し
汝を撃つ銃に出向く
のだとすれば
それがそのとおりの教えであるとするのならば
確かにその教えは完全な敵なしの最強の神の教えではあるのだけれども
それは「死んで永遠の天国に住しなさい」
という教えなのかと。
1さんはこのスレッドの上のほうで
何か、それまで1さんが無意識に無視していた物に気がつきかけた。
しかし、その事を意識することから逃げた。
そのことを意識して
1さん自身が変わってゆくことを拒んだ
だから今回、誰かが1さんの疑問に答えたとしても
前回と同じ様に、
自分に都合の悪い事実を見まいとし
しばらくすればまた、新たな疑問を持ち出してくるでしょう。
解釈をあつめても
それを使う気がない1さんカワイソス。
いつでもどんな時でも
人を苦しめ人を侮り人を損なうような
呪いの言葉を吐く人は存在した
ある呪術師は聖書を盾に
ある者は常識を盾に
ある者はイエスの言葉を盾に
さまざまな呪いの言葉を吐いて他者を苦しめ損なおうとする
呪いは人の愛を乞う孤独な性質、人の無知な性質
を巧みに利用してそれを使用して相手を苦しめる
呪う者、他者を損なう者は同じだけ呪われ損なわれ苦しみを得る
祝福の言葉を呪いの言葉と同じものであると畏れて退けるならば
その者に呪いの言葉は意味がなくなる
呪った者だけがその悪意と奢りと侮りの程度に応じて
その呪いを自身で味わう
愛し助ければ愛し助け返される
呪えば呪われる
侮れば侮られる
苦しめれば苦しめられる
イエスは言われました。「立って祈るとき、誰かに恨みを持っているなら、赦してあげなさい」と。
「そうすれば、天の父はあなたがたの過ちをも赦してくださる」と。
138 :
1:2006/01/19(木) 08:23:12 ID:QIoa6EmS
イエスはすごい。
イエスキリストが実在の人の子であるならば
歴史上のおそらくどんな人間よりもイエス以上の愛の人は
いないと思う。
もし仮にイエスのように生きることができる人の子がいるとするのならば
その人が容易に奇跡をおこせても不思議ではないように自分は思う。
139 :
1:2006/01/19(木) 08:34:28 ID:un8PoAEN
>>133 自分の意見や個人的偏見に基づいた見解があなたの信仰や信条を損ない
あなたを苦しめ不愉快にさせたのならば、そのことはあなたに謝ります
ただあなたの信仰や信条のことを告白していただかない限りは
私はあなたに同意したりあなたに納得したりあなたを理解し
あなたと分かり合える術が見つかりません
140 :
133:2006/01/19(木) 14:36:55 ID:7W4ztKZu
前回と今回の1さんの反応から、
判断させていただきます。
私が1さんなら半年はネットから距離を置き、
縁故を使い信頼できる御医者か牧師・司祭を探します。
また、現段階で所属している宗教団体があれば、
健康上の問題を理由に退会・除籍依頼を今週中に提出します。
1さん、世の中には魔法などありません。
苦しくても少しづつ
出来るところから自分で進まなければ不安はとれません。
聖書は貴重な英知の蔵ですが、
今は読まれないほうがいいと思います。
141 :
1:2006/01/19(木) 20:07:13 ID:2ZevHaLP
( ´・ω・)ショボーン
142 :
1:2006/01/19(木) 20:15:10 ID:oj/50K7o
イエスは言われた。「神を信じなさい。はっきり言っておく。
だれでもこの山に向かい、『立ち上がって、海に飛び込め』と言い、
少しも疑わず、自分の言うとおりになると信じるならば、
そのとおりになる。だから言っておく。
祈り求めるものはすべて既に得られたと信じなさい。
そうすれば、そのとおりになる。
また、立って祈るとき、誰かに対して何か恨みに思うことがあれば、
赦してあげなさい。そうすれば、あなたがたの天の父も、
あなたがたの過ちを赦してくださる。」
143 :
1:2006/01/19(木) 20:41:32 ID:s8jb5TZR
>>140 神を信じ奇跡を信じイエスを信じる、という信者に
精神病院へ行きなさい
と教える牧師は絶対にいない
あなたがどういう立場の人間であるのか
あなたがどのような宗教団体の所属の人間であるのか
あなたは無神論者であるのか
それらを明確に明かしてくれなければ
私もそのあなたの立場に配慮してあなたを傷つけない言葉が選べない
144 :
1:2006/01/19(木) 20:57:47 ID:fUuVpOS+
唯物主義者が存在し
実存主義者が存在する
実存主義者サルトルは「人間(の生存)は無益な受難である」
と苦しみ苦しんだあげくに絶望の結論を得た
ニーチェは虚無を得て発狂して死んだ
少なくとも自分は唯物、実存主義がどのように
正しく、多くの人間に広く支持される教えであったとしても
そのような人間を無意味にして殺害する教えは信じない
それを信じるくらいならば
敢えて嘘の方を信じる
敢えてありえなさそうな魔法の方を信じる
絶望を信仰して死ぬくらいならば
騙されて死ぬことを選ぶ
145 :
108:2006/01/20(金) 22:33:08 ID:vLUS47NV
「悪竜は道の辺りにありて、通る者をねらう。
心して、呑まるることなかれ。われらは魂の父のもとに行く。
されど、悪竜のかたわらを過ぎることを避け得ず。」 聖シリル
私はコヘレトの言葉に関しては否定的です。
単純に虚無的なものを感じます。
でもなぜこのような言葉が聖書にあるのか。
私が思うに、神に関心のある者は誰しも虚無につまずくのではないか。
だから人々はコヘレトの言葉に引きよせられるのではないか。
ニーチェは虚無に落ちたまま死んでしまいました。
どうすればそこから抜けられるのか、私には分かりません。
私はキリスト教徒ではないのですが、
私にとってイエスは虚無ではないです。
イエスは十字架で磔にされながら
人の苦を苦しみ、神に見放された人の絶望を、イエスは同じように絶望した。
それは人を愛するゆえにしたことだと思うんです。
人の悪によってイエスの絶望がなければイエスの業は完結しないと思うんです。
神が人となるという業が。
神が肉体をまとって奇跡をおこしただけではただのファンタジーなんです。私には。
最後に、コリント人への手紙に次の言葉があります。
「私はあなたがたに最高の道を教えます。
たとえ、人々の言葉、天使たちの言葉を語ろうとも、
愛がなければ、私は騒がしいドラ、やかましいシンバル。
たとえ、預言する賜物を持ち、あらゆる神秘とあらゆる知識に通じていようとも、
たとえ、山を動かすほどの完全な信仰を持っていようとも、愛が無ければ、無に等しい。」
146 :
名無しさん@3周年:2006/01/21(土) 04:52:53 ID:am/QzewF
>144=1
サルトルやニーチェは苦しんで死んだのかも知れないけれど
それがイコールあなたに降り掛かるとは思えません。
彼らはあなたと違う時代を生き、違う人間です。
人間には色々な人がいて合う考えも合わない考えもあります。
彼らには不幸にして環境が合わなかったのです。
どんな宗教も人を希望に生かし、また絶望のうちに殺します。
魔法だって、宗教でない思想だって同じでしょう。
コヘレトの言葉やヨブ記が合わなくてもいいのです。
色々な人の色々な気持ちをどこかで満たすように書かれている
ものですから、完全ではありません。
十戒やイエスのみことばがダメならキリスト教的に問題あるかも
しれませんが。
キリスト教自体がダメではないなら、気に入らない箇所を無理に
信じる事はありませんよ。
147 :
名無しさん@3周年:2006/01/21(土) 04:54:09 ID:am/QzewF
>143
>神を信じ奇跡を信じイエスを信じる、という信者に
>精神病院へ行きなさい
>と教える牧師は絶対にいない
もしこれが本当ならばその牧師は人を導く訓練を受けていません。
あるいは精神病に対する偏見の持ち主です。
宗教で得る心の平安とこころの病気(脳神経の病気)とは非なる
もので、神経の治療は自然治癒するものもしないものもあります。
確実に治療を受けなければ悪化するものもあります。
神の奇跡は信仰を強めるために起こるものであって、だれもが
ラザロのように生き返れるものでも癒されるものでもありません。
1さんに必要なら神様は奇跡を起こされる事もあるかもしれませ
んが、いまそうやって深く考えるのも、万一病気であるならば
適切な治療を受けられるのも、思考に沈んで神様への道をたどる
のも、選ぶ道がどれであっても神様が備えられた道でしょう。
またこれ以外の思いつきもしなかった道があるかも知れません。
神様のなさることはその時にかなうことです。
精神病にかかった知人を何人か持ってる俺が読んでも
1さんの反応は、申し訳ないけど「病気のニオイ」がする。
書き方悪くてすまん。
なんていうか、都合のいいことだけ理解して他を排除する
言葉で書くと健康な人でもそんなのはいるが、独特のパターンが
あってね。
もし、精神的にいま苦しくて、聖書とはいえどもたかが活字で
そんなにヘコんで、ネットの言葉に傷つくなら、病院行きな。
匿名の人間の立場なぞ、聞いても仕方が無い。
神父や信者なら信じられて、そうじゃなきゃダメ?聞く耳もたない?
権威が無いものの言葉は聞かない?
なら、もっと、病院行きだよ。
少しの救いもない事。
追い立ててくる焦燥に絶え間なく焼かれて逃げ場がない時。
苦しみ悶えつつ為す術もなく死ぬことさえできず自分が腐りつある時。
其処に到ってなお抜苦より義を重んじる者、
信仰による痛みの麻痺より、痛みに伴う明晰さを選んだ不器用な者だけがヨブと伴にある。
彼は慰めではなく真実を望むから。
将来、信仰を岩の上に堅く建てる覚悟をし、
魂と身を信仰の薪としてくべる覚悟ができてから読めぱいい。それからでも遅くない。
慰めを求める者に救いがありますように
義を求める者の傍らに真実が絶えませんように
天にあるがごとく地にもありますように
150 :
名無しさん@3周年:2006/01/23(月) 16:43:40 ID:2GnB7+hF
慰めを求め無い者にも救いがありますように
義を求めない者の傍らにも真実が絶えませんように
どのような信仰ある者、信仰無い者にも癒しと許しがいきわたりますように
151 :
:2006/01/24(火) 09:26:04 ID:VEVzA35C
もし神様が実在しないならヨブの行いはむなしく、滑稽だ
そうであるなら預言者たちとイエスのことばと贖いもむなしいものになる
なぜなら訴えを聞くものも、請け戻すものもいないから
しかし、もしそうであったとしても
ヨブはかみに訴えるのをやめただろうか
預言者たちはことばを伝えなかっただろうか
イエスは身が滅びることを避けただろうか
ヨブは訴えずにはいられない
彼には嘘がなかったから
預言者は伝えずにはいられない
彼等には恐れがなかったから
イエスは無事には生きられない
彼には愛があったから
天に御国がないならば
なんでこの世に義信愛が存在するのか
153 :
名無しさん@3周年:2006/01/25(水) 04:34:24 ID:YyepPpMA
↑
1点くらいかな・・・100点満点として。
154 :
名無しさん@3周年:2006/01/25(水) 13:02:03 ID:VirhWQTA
>1
苦難のインパクトが強いので誤解されやすいのですが、実はヨブ記のテーマは「苦難の中での義人」とかではないそうで。
「神の憐れみと祝福」がテーマだそうです。
ヨブを訪ねてきた三人の友人の考え方はいわゆる「因果応報」です。
「いいことすれば神は祝福、悪いことすりゃバチあたる」という。
わりに普通の考え方かもしれません(でも、生きててみんな実感してると思いますが、世の中そんな風にはなかなかいきませんよね)。
続く→
155 :
154:2006/01/25(水) 13:15:44 ID:VirhWQTA
→154の続き
んで、ヨブの苦難を見て友人たちは「ヨブがなにか悪いことしてバチが当たったんだ」と考え、ヨブにもそれを言います。
(…しかしただでさえ災難にあって苦しいのに、友達にまでこんなこと言われたらホントへこみますよね)
でも、注意しなければならないのは、この苦難のそもそもの原因をヨブも友人も知らなかったし、実は最後まで知ることはなかった、ということです。
友人たちは結局、知らないはずのことを「ヨブ、お前のせいだ」と決めつけてしまったわけです。
156 :
155:2006/01/25(水) 13:26:06 ID:VirhWQTA
→155から続きます。
ヨブは考えます。
「できるだけ潔白に生きてきたし、知らないで犯した罪があるかもしれないから捧げものまでしてきた。
これでも私が悪いなら、どうすればいいのか。
神に聞きたい、訴えたい。けど、神はあまりに偉大で、話すどころか近づくこともできない。」
彼は16章19-22節で「とりなしてくれる人」のことを言います。
157 :
156:2006/01/25(水) 13:34:32 ID:VirhWQTA
→155からまた続きます。
ヨブ記16:19-22には、こうあります。
「今でも天には、私の証人がおられます。
私を保証してくださる方は高い所におられます。
私の友は私をあざけります。
しかし、私の目は神に向かって涙を流します。
その方が、人のために、神にとりなしをしてくださいますように。
人の子がその友のために。
数年もたてば、私は帰らぬ旅路につくからです。」
手元の聖書は新改訳なので気に入らない人スマソですm(_ _)m
さらに続きます。
158 :
157:2006/01/25(水) 13:45:18 ID:VirhWQTA
→157から続き
ここでヨブは思います。
「誰も私をわかってくれないし、神もあまりに高い所におられて話もできない。
でも、私には証人がいるはずだ。
神と等しくありながら私を友と呼んでくれて、私のためにとりなしてくれる証人が。
その証人がいなければ、いないに等しい私は本当にいなくなってしまう」と。
ここで証人に必要な条件は「神とも人とも等しく話ができる」ということです。
159 :
158:2006/01/25(水) 13:57:29 ID:VirhWQTA
→158から続き
神は(登場人物みんなが認めているように)「主権者」であって、ヨブはもちろん他のいかなる者にも話したり、相談したり報告したりする義務はありません。
しかし、神は自らヨブに語りかけ、ついには前の二倍の祝福をヨブに与えます。
これは、ヨブが何か良いことをしたりしたから(因果応報)でしょうか?
いや、実は人が「神に捧げ」たり「いいことをする」ことも、いや生きることも神の主権的な恵みによるのです。
人間は所詮「影のように飛び去ってとどまりません」(ヨブ14:2)から。
160 :
159:2006/01/25(水) 14:27:48 ID:VirhWQTA
この一連の話から、「因果応報」の思想は一見正しそうに見えるが、実は聖書的にも現実の人生を説明する上でも正しくなく、それどころか人を無用に傷つけたり、調子のいいときは人を高慢にさせ、悪いときには人を絶望に叩きこむ間違った考えだ、ということが言えるそうです。
161 :
160:2006/01/25(水) 14:32:53 ID:VirhWQTA
連投になりました。
キリスト教において重要なのは>157、>158の「私の証人」だそうです。
これが人としてこの世に来たキリストを表している、だからヨブには結局隠された真理はキリストにおいて明らかになり、実現した、と。
162 :
名無しさん@3周年:2006/01/25(水) 18:09:21 ID:hiQEeohX
あわれみは神の属性である。あわれみ深い者は、あわれみを受ける。人の罪を赦す者は、神に赦され、相手をも解放する。人をさばく者は、さばかれる。
14
もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15
しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません。
1
さばいてはいけません。さばかれないためです。
2
あなたがたがさばくとおりに、あなたがたもさばかれ、あなたがたが量るとおりに、あなたがたも量られるからです。
マタイ
163 :
108:2006/01/25(水) 22:36:34 ID:HQ7r/Zhv
>>154さんの書込みに触発されたので、もう一つヨブ記の解釈を書いてみます。
と言ってもユングの「ヨブへの答え」を自分なりに解釈した受け売りですが。
ヨブが本当に義の人だとしたら神は暴君のような存在だと思うんです。
その神の無慈悲な面が弱者のヨブには見える。
しかし神は自分のやっている暴力性に気づかない。
神はヨブには見えているのに自分には見えないものがあるのに気づき、
ヨブの前にあらわれ怒り狂う。
ヨブは失望のまま死んだのかもしれない。
しかし神には決定的な影響を与えた。
神はヨブが知ったもの知ろうとする。
そのために自分の分身であるイエスを遣わし
ゴルゴタの十字架においてヨブが苦しんだ無慈悲と絶望とを経験する。
ここに神とヨブとの結合が成就する。
イエスはそれを仲介し体現した、新しい神のなのである。
とまあ、要約すると感動も何も無い・・・
飛ばし読みした私以上に、ユングに詳しい人がいるであろうと予測するので
訂正や補完をお願いしたいところ。
私はこの解釈に首を傾げてしまう部分もありますが、
大筋ではとても面白くまた満足もしています。
もしかしたら現代の絶望は新しい救いへの前兆なのかもしれません。
164 :
:2006/01/27(金) 22:20:03 ID:GteRNY4N
165 :
:2006/02/05(日) 18:40:47 ID:nMfmAdXs
166 :
:2006/02/08(水) 21:13:21 ID:hDlQCaE5
167 :
名無しさん@3周年:2006/02/10(金) 01:40:38 ID:SaVHgLFz
うーん…過疎ってるけど地道にだれか書き込んでるなあ。
しかもsageで。
168 :
名無しさん@3周年:2006/02/10(金) 02:09:31 ID:OC14u/2N
サルトルはともかくニーチェは愛すべきクリスチャンです。
169 :
名無しさん@3周年:2006/02/10(金) 14:49:16 ID:SaVHgLFz
>168
ニーチェはたしか牧師の息子でしたよね。
いわゆるクリスチャンなのかな?
洗礼は受けてたのかな。受けてたら一応クリスチャンと言えるのか…改革派かルーテル派ならそれでOKなのか。
スレ違いながら誰か教えてちょんまげ。
170 :
名無しさん@3周年:2006/02/12(日) 12:05:32 ID:KfbPb7Sy
ニーチェはキリスト教を否定するほど批判したが、そのくせ
心底ではキリスト教から離れられず、未練タラタラのうちに発狂
して死んだオサーンですよね
171 :
名無しさん@3周年:2006/02/12(日) 12:12:31 ID:1Au1nDai
>170
そうとも言えるかもしれません。
ニーチェも可哀想に、キリスト教的文化の中に生まれなければ、破滅することもなかったでしょうに…
キリストなんて知らない方が幸せだったのかも。
172 :
名無しさん@3周年:2006/02/12(日) 14:40:14 ID:1EXg8IGi
ヨブ記の結びでヨブはもとの境遇にもどされますよね?
私はあそこでいつもガックリきます。
「なんて余計なものをつけてくれたの!」と。
あれは後世に誰かが書き加えたという説があるようですが、ホントにもう・・・
あと主の御言葉もでてきますが、ちょっと重みがないというか、
「ヨブの苦悩からにじみ出る言葉のほうが、よほど高い精神性に到達してるのでは?」
と思ってしまいます。主に対して不遜でしょうか?
>>172 ユングがヨブ記研究発表しとるので読んでみたらいいかも。
174 :
名無しさん@3周年:2006/02/14(火) 16:36:14 ID:eStRaAkr
>154-161を書いた者です。
>173
ユングのヨブ記研究ですか…
興味深いですね。
どんなんだろう。
ヨブの内的な苦しみと解放に神の概念を帰着させたりするのかなあ。
伝統的なユダヤ教の解釈とキリスト教の解釈もかなり違うと聞いたことはあります。
だいたい「ヨブからの視点」のみによって解釈されることが多いみたいですね。
「神からの視点」と「救済史からの視点」が欠けると偏った解釈になりやすいらしいです。
175 :
名無しさん@3周年:2006/02/15(水) 03:18:36 ID:UIYJUmpO
176 :
174:2006/02/15(水) 08:47:45 ID:pjJZ3eHU
>175
情報ありがとうございます。
さっそく読んでみます。
177 :
:2006/02/20(月) 14:41:46 ID:qvDb5vh4
178 :
:2006/02/25(土) 15:14:53 ID:TdrlrG8Q
179 :
:2006/03/17(金) 06:39:52 ID:0dFbY/Iv
180 :
名無しさん@3周年:2006/03/17(金) 20:14:08 ID:VlUUp0xO
良スレなのでageます。
181 :
:2006/03/29(水) 06:07:58 ID:sdgORwzW
>ヨブ記の結びでヨブはもとの境遇にもどされますよね?
>私はあそこでいつもガックリきます。
>「なんて余計なものをつけてくれたの!」と。
禿同。
十字架上のイエスの「最後の言葉」も同じに感じる。
マルコ-->「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」(わが神、わが神、どうしてわたしを
お見捨てになったのですか)
ルカ-->「父よ、わたしの霊をあなたの手にゆだねます。」
マルコの言葉は共感をもって心にずっしり感じる。
ルカに至っては、台無し。
ニーチェは「偉大な求道者」だと思うよ。
彼の著作には、「誠」がある。たとえその「誠」に天罰が下されたとしても、
彼は十字架上でこうつぶやくだろう「エリ、エリ、レマ、サバクタニ」と。
自分の「誠」のために苦しみから逃げず、真正面から立ち向かう人間の姿は
いつも美しい。イエスも、ヨブも、ニーチェも。
184 :
名無しさん@3周年:2006/04/11(火) 00:48:23 ID:YPWg632A
185 :
名無しさん@3周年:2006/04/11(火) 00:53:31 ID:1A1ZhPAL
そうか。
呼ぶ気だ。。
まてよ・・なぜあそこにいた?
はっ。。
プウ~~
186 :
:2006/04/18(火) 02:48:39 ID:8qXAIyBv
187 :
名無しさん@3周年:2006/04/19(水) 13:24:34 ID:nuKXE3R5
今、岩波文庫の「ヨブ記」を読んでいます。
その訳者は、解説の中で、「因果応報を超越し、神である故に神を受け入れる。」
事が、ヨブ記の存在価値だと言っています。
この認識は、正しいのでしょうか。
188 :
名無しさん@3周年:2006/04/24(月) 19:44:15 ID:F/YMiIAt
>>187 私は「正しい解釈」というものに違和感を感じます。
「真実と感じる解釈」「心に響く解釈」なら分りますが。
189 :
名無しさん@3周年:2006/04/24(月) 23:06:01 ID:S6gqkOuk
>>188 有難うございます。
>神である故に神を受け入れる。<
これを、どの様に理解したら良いのですか。
190 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 00:09:09 ID:9TfLcYRM
>>189 ヨブ記の神の振る舞いは理解しがたい。受け入れがたい。
でも神は全てを知り、すべてを創る。
(しかも暴力的ですらある)そのような神は受け入れるより仕方がないのではないのでしょうか。
屈服させられた、という言い方もできると思います。
191 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 14:39:45 ID:qSZJdlPt
>>190 たとえばヨブ記の中での神のどのあたりの振る舞いが、
「理解しがたい」のですか?
192 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 17:10:26 ID:ps+McuZ/
>>191 >>190は私が理解しがたいのでなくて、ヨブの気持ちを想像しての話です。
私自身は神の振舞について勝手に、いろいろ解釈できます。
ヨブの友人のように。
ヨブには神の振るまいが理解できたでしょうか。
彼は自らの罪を理解して口をつぐんだのでしょうか。
ヨブは自分の義を信じて主張しつづけましたが、
神を呪うことはしませんでした。
なのに現われた神は祝福を授けるどころか怒っている。
ヨブの問い(なぜ自分がこのような苦難を受けるのか)に答えることもない。
<神である故に神を受け入れる>より仕方が無かったのではないでしょうか。
別な言い方をすれば、
口をつぐんだヨブは自らの苦難が神の意志である以上、避けられないものであると悟った。
193 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 20:19:58 ID:qSZJdlPt
>>192 まず、「神が怒っている」という前提ですが、
それは本当でしょうか?
ヨブの苦難の元々の原因(?)は、確か
「神の怒り」
ではなく
「サタンの訴え」
ではありませんでしたか?
サタンは神に
「ヨブは理由もなく神を恐れるでしょうか」
と言っています。
つまりサタンの神学は
「人はオイシイことがあるから
「おぉ〜神さまぁ」
と言えるのだ。
信仰にも関わらず現世的なものが無くなれば、
すぐに「神のバカヤロー!」
となるに決まっている」
という「御利益の神学」です。
皮肉なことに、ヨブの周りの人間、
ヨブの妻、ヨブの三人の友人は、結果的にこの「サタンの神学」の通りに考え、行動します。
194 :
192:2006/04/25(火) 22:06:09 ID:ps+McuZ/
>>193 私はヨブの前に現われた神は怒っていると感じます。
(直接関係ないが神は嵐とともに現われます)
あと私はヨブの苦難が「神の怒り」によるもの、とは思ってはいません。
そして「サタンの訴え」によるヨブの苦難も、
ヨブに不義はあったのでしょうか。
ヨブは御利益の為に神を畏れたのでしょうか。
自分の義を貫き通したことが傲慢だったのか。
私は読むたびに判断に困ります。
しかし
>>172や
>>183に共感するところもあるのです。
195 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 22:42:01 ID:qSZJdlPt
>>194 ヨブに不義があったどころか、逆でしょう。
主も
「この地上にヨブより正しい者はいない」
と言っています。
サタンは
「そのヨブの義とは実際のところ、どんなものか?」
と問うていると思います。
ヨブが「何かやらかしたり、
義が足りなかった罰として苦難を受けた」
と考えたり、
「神はヨブの義の足りなさに怒って天罰を与えた」
と考えるのは違う、と思います。
それに「神の怒り」はむしろ、ヨブの三人の友人に向かって燃え上がっています。
196 :
名無しさん@3周年:2006/04/25(火) 22:44:39 ID:Pc+pHIlB
所詮は捏造した物だし〜
改竄解釈して洗脳に都合よくしただけ
197 :
名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 09:17:16 ID:/Pkr/nvm
神に対する接待帰依、これを土台にすると、ヨブの状況を受け入れられる。
神に対して、何処まで委ねられるのか、これを問われているのではないでしょうか。
198 :
名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 09:18:31 ID:/Pkr/nvm
間違えました。
絶対帰依です。
199 :
名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 09:21:43 ID:/Pkr/nvm
自分に起こった全てを受け入れる。
これが、絶対帰依です。
難しい問題ですね。
何処まで、神を信じられるのか・・・
神を信じる。
この命題がそもそも間違いではないかと思います。
その裏には神が自分の欲求を満たしてくれるであろうという我欲が潜むからです。
神を信じるもなにも、神とは『在って在るもの』です。
そのうちに生かされてるのみです。
この生のうちに我々がどのように生きるべきか、一切の妄念を捨てて、
或いは教会や神学すらも捨てて主に対峙することが必要なのでしょう。
神の前に神学やら教会組織を置くが故に多々宗教間差別が起こるのですね。
神は宗教カテゴリーを越えて人間を創造されているのです。
これこそ神秘です。
虚しいのは私自身でありあなた自身なのです。
我々は神のうちに生かされ生きていることを知るとき、虚無からも解放され
究極的には釈迦の説く無に向かっていきます。
そもそも、何故神はこの世界を創造されたのでしょうか?
何故、人間は生のうちにここまで苦しまねばならないのでしょうか?
善も悪も神の絶対規準です。
我々の規準は全て相対的なものです。
この相対に翻弄されるが故に我々は苦しまねばならないのです。
私が認識する対象を捨てて無になるときに絶対に帰依するのですね。
そのとき信仰すらも無になるのです。
それが絶対帰依というものだと思います。
202 :
名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 10:05:09 ID:ezNkFMWc
信仰は厳しい。
ヨブ 1:21 そして言った。「私は裸で母の胎から出て来た。また、
裸で私はかしこに帰ろう。主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな。」
アーメン。
それでも肉体的精神的ダメージが現実のものとなると呟かざるを得ませんね。
ヨブもまたそうでした。理屈でわかっていてもダメージを受け続けると
平静ではいられないものです。
このようなときこそ、瞑想や祈りによって無に帰す訓練をするべきだと思います。
この私という存在との闘いはイエスにしろ釈迦にしろ多くの偉大な宗教家たちが
一様に通ってきた道ですね。
他人の信仰を計れるものではありませんし、他人の苦しみを計れるはずもありません。
闘いは実に私自身の内にあり、その道程としてイエスの律法を守るべく帰依して
いくことが望まれますね。
マタイ 7:3 また、なぜあなたは、兄弟の目の中のちりに目をつけるが、自分の
目の中の梁には気がつかないのですか。
相対評価に拘泥している者は往々にして自分の目の中にある梁にすら気付いていません。
そして、他人の目の前にある真実も見つけられずチリをみつけ石を投げるのです。
ヨブもまた相対評価のうちに主に呟きました。主が人間に求められるものは
人間にとってなんと困難な茨の道でしょう。ヨブは確かに苦しんだにも関わらず
主はヨブを叱った。
それほどに人間が絶対に帰依することは困難なのです。
ただ、自己の未熟を見つめ光に救いをもとめるしかありません。
イエスという名の光に。
ムータソ あぶなげ おまいさんは仏教徒でもあるのかぃ
「言は神であった」ヨハネ1章
「律法はモーセを通して与えられたが、恵みと真理はイエス・キリストを通して現れた」
サウロが受けたことを思い出しなさい。
「わたしたちは皆、この方の満ちあふれる豊かさの中から、恵みの上に、更に恵みを受けた」(ヨハネ)
のです。だからムータソも喜びなさい。
「イエスは過越祭の間エルサレムにおられたが、そのなさったしるしを見て、多くの人が
イエスの名を信じた。しかし、イエス御自身は彼らを信用されなかった。それは、
すべての人のことを知っておられ、人間についてだれからも証ししてもらう
必要がなかったからである。イエスは、何が人間の心の中にあるかをよく知って
おられたのである。」(ヨハネ2章)
まぁ、普通に私は異端扱いされるでしょうね。
でも、真理は一つなのですよ。
主は全てを創造されました。その真理は被造物の全てに片鱗を顕現されます。
その一般啓示から釈迦のような偉大な宗教家が生まれたとて何の不思議があ
りましょう。
むしろ真理を集団としてのキリスト教カテゴリーにのみ認めようとするほうが
傲慢なのです。真理のうちにあるキリスト教がなぜ、多くの過ちを犯し、また
今尚犯し続けているのでしょう?
個々の人間が連鎖している集団のうちに真理はありません。真理は主にのみ
あります。我々とその真理との間に、絶望的な断絶が横たわっています。
その絶望にありながらキリストにおいて希望となることが信仰です。
しかし、救いはあくまで絶対規準なのです。にもかかわらずキリスト教界隈では
誰が救われるだの、ああすれば救われるだの馬鹿げた論争を展開しています。
相対価値です。相対は絶対の前に無に帰すのです。
佛教、キリスト教カテゴリーで私を見るならば私は異端ですが、それすら相対価値
なのです。
人をレッテルで見ずにその本意を読み込む努力をしてください。
手のひらにすくって海を量り、手の幅をもって天を測る者があろうか。
地の塵を升で量り尽くし 山々を秤にかけ 丘を天秤にかける者があろうか。
主の霊を測りうる者があろうか。
主の企てを知らされる者があろうか。
主に助言し、理解させ、裁きの道を教え 知識を与え、英知の道を知らせうる者が
あろうか。(イザヤ40章)
わたしは道であり、真理であり、命である。
わたしを通らなければ、だれも父のもとに行くことができない。(ヨハネ14章)
天から降って来た者、すなわち人の子のほかには、天に上った者はだれもいない。
上から来られる方は、すべてのものの上におられる。地から出る者は地に属し、地に属する者として
語る。天から来られる方は、すべてのものの上におられる。(ヨハネ3章)
208 :
名無しさん@3周年:2006/04/29(土) 20:59:02 ID:O7yeKduh
知恵の満ちあふれるところには、
いらだちもまた満ちあふれる。
したがって、知識を増し加えるものは者は
痛みを増し加えるのである。
伝道 1:18
人の子にも終わりがあり、獣にも終わりがあり
これらは同じ終わりを迎える。
一方が死ぬように一方も滅びる。
皆ただ一つの霊を持って、人が獣に勝ることは何一つない。
すべてはむなしい。皆一つの場所へゆく。
それは塵から出たものであり、みな塵に帰ってゆく。
伝道3:19-20
>MUTANT
君等はいなごのように数知れない良スレを喰い潰してきた。
荒れても君ら責任取らないし。スレの面倒見ないし。
スレの個性を無視してエゴのゴリ押しするし。
口に律法を謳いつつ、
自らの貧欲一つ制することのできない愚か者よ。
自らの巣に帰りそこで死ね。
書き込むなら名無しにしてね。荒れるから。
そして、煙の中から、いなごの群れが地上へ出て来た。
このいなごには、地に住むさそりが持っているような力が与えられた。
いなごには、地の草やどんな青物も、またどんな木も損なってはならないが、
ただ額に神の刻印を押されていない人には害を加えてよい、と
言い渡された。殺してはいけないが、五か月の間、苦しめることは許されたのである。
(以下 略)黙示9章
210 :
名無しさん@3周年:2006/04/30(日) 08:31:07 ID:j85GCM14
>>203 ヨブ記は、私達に絶対帰依を求めているのでしょうか。
絶対帰依したオウム信者は、麻原の呪縛から抜け出られていません。
カルト集団は、他利思想から入る信者がいると聞いています。
神から愛される事によって与えられている私達の自由意志と、
どの様にバランスを取ったら良いのでしょうか。
ヨブ記が求めているのは、全面帰依ではなく、神の教えに従うと言う部分帰依ではないでしょうか。
211 :
名無しさん@3周年:2006/05/01(月) 16:14:40 ID:R8ZwWgK1
212 :
:2006/05/01(月) 22:37:34 ID:Twz1V3xc
>>210 難解な教義に陥っている宗教ほど怪しいと思います。
本来、イエスの贖罪により絶対との霊的関係が回復されているのですから
信仰は単純でよいのです。
イエスの最終律法は『神を愛し同じように人を愛しなさい。』でした。
この一文に全てが集約されているのですね。
しかし、後代の人間が勝手にドグマ化していきました。
「〜しなければ救われない。」云々がそうですね。
この世の宗教は全て相対価値です。誰も絶対を語りうるはずがないのです。
だからこそ、これほど多くの宗教が語り口を持っているのですね。
人間は地球に在ることすら語りきれるものではないのです。
ましてや神となればいかほどかわかるでしょう。
神が求めているものは部分ではありえません。ヨブに限らずです。
全て絶対帰依です。しかし、これは人間にできるものではありません。
上記に説明したとおりです。
だからこそ、尚仲介者であるイエスに感謝して、大らかに大手を振って
生きていきたいのです。
私は絶対的に否であり絶対的に是とされる。
という矛盾的自己同一が成立するのですね。
思い煩わず、感謝を抱きながら命ある限り主の創造を楽しもうではありませんか。
215 :
名無しさん@3周年:2006/05/04(木) 23:28:49 ID:93dsTN5U
>難解な教義に陥っている宗教ほど怪しいと思います。<
>私は絶対的に否であり絶対的に是とされる。
という矛盾的自己同一が成立するのですね。<
矛盾していませんか。
イエス・キリストは、神でなくて何なのですか。
神は、一人しかいない筈ですが。
イエスが神ですよ。世の光です。
それで十分じゃないですか。
217 :
:2006/05/11(木) 00:11:09 ID:jW8zVFUV
218 :
:2006/05/13(土) 18:10:18 ID:PVFepDkR
219 :
神の教え子:2006/05/16(火) 12:56:12 ID:4SVCYrnh
ヨブ記を、読み終わりました。
旧約聖書では、エホバ以外の神を信仰するイスラエル人が、罰せられています。
ヨブ記は、神の実在を証明すれば、それで目的は達せられたと思います。
それでは、キリスト教徒は、現代の人間はどの様に受け取るべきか。
ヨブが律法主義者である事は明らかですから、私達には、イエスの実在と、
モーゼの十戒の遵守が求められていると思います。
220 :
名無しさん@3周年:2006/05/16(火) 13:07:57 ID:koi0QMyO
現代の精神医学者の診断によれば、ヨブは単なるうつ病。彼の全身的皮膚病は、
ストレスによる重症のアトピー性皮膚炎。
神様など、一切関係ない。
偶像とは自分自身のことなのですよ。
クリスチャンと名乗る人間の大半は偶像礼拝をしています。100%近くそうですね。
神による購いの他に、救いに至る道はそれこそらくだが針の穴をくぐるようなもの
なのですね。
救いを成就されたイエスを大いに感謝して生きましょう。
純粋な信仰を曲げる教会牧師も多数います。気をつけてくださいね。
222 :
:2006/05/21(日) 23:07:15 ID:fkuuFlST
223 :
神の教え子:2006/05/23(火) 14:46:20 ID:7ghLpuZo
ヨナ記の存在価値を、神の存在を肯定するだけで止めるべきではないと思います。
それを受け入れるまでのヨナの心の葛藤を知る事によって、それを読んだ人が、
心の葛藤の過程を省いて、神の存在肯定から先の過程に移行出来る事に、意義があると思います。
224 :
名無しさん@3周年:2006/05/23(火) 19:03:03 ID:BH1sphrq
なんだか電波が湧いてきたなぁ…良スレだと思ったのに。。。
225 :
名無しさん@3周年:2006/05/23(火) 19:23:34 ID:mOa++NWS
>>224 良スレにするのも駄スレにするのも、レスする人次第ですよ。
ここはいいスレだと思います(^-^)
226 :
:2006/05/29(月) 02:28:50 ID:j1QGkwqK
227 :
:2006/06/06(火) 08:19:41 ID:6bXntNC0
228 :
神の教え子:2006/06/09(金) 08:40:46 ID:cOuw5aKs
知恵の書の範疇に入る箴言も、一読する必要があると思います。
知恵と悟りの重要性を、認識できます。
229 :
名無しさん@3周年:2006/06/09(金) 09:09:36 ID:3zEMhOcF
>>219 「ヨブが律法主義者である事は明らか」
…ヨブ記のどこを縦読みしたらそんな結論が出るんですか?
その前に、ヨブの時代や周囲に「律法」があったことはどこから言ってるんですか?
230 :
神の教え子:2006/06/09(金) 17:19:33 ID:d/np0kuX
>>229 律法の根底にあるのは、モーゼ五書であり、モーゼの十戒です。
バビロン捕囚以後に作られた戒律は、人間が作ったものですから、無視されるべきです。
それらの戒律は、自分たちの為に作ったからです。
ヨブは、神の前で正しかったのですから、神の教えを守ったと言う事です。
裸で わたしは 母の胎を出た。
裸で わたしは かしこに帰ろう。
ヤハウェ 与え、ヤハウェ 取りたもう。
ヤハウェの御名はほむべきかな。
1:20
滅びよ、わたしが生まれた日、
男の子がはらまれたと言ったその夜。
その日には 暗闇あれよ、
上なる神 その日を忘れ
光 その上に照るな。
暗きと 闇と それを取り返せ。
黒雲 その上にとどまり
昼間の暗黒 その日を驚かせよ。
その日は年の日の中に加わるな、
月の数の中にも入るな。
その夜は 真暗闇がこれをとらえよ。
3:3−6
見よ、その夜は不妊の夜となり 喜びの声はあがらず、
呪えよ、これを、 日を呪う者、レビヤタンを起こすのに巧みな者が。
夜明けの星も暗くなれ。
光を待つとも無駄で、曙の輝きにもあうことなかれ。
わが母の胎の戸を閉ざさず 苦しみをわが眼から隠さなかった故に。
3:7−10
君は君に向けられた言葉を拒むことはできない。
誰が人が語るのを止めることができよう。
見よ、君は多くの人を教え 弱りはてた手を強くしてきた。
君の言葉はつまずく者を立たせ よろめく膝をしっかりさせた。
ところが 今 事が君に臨むと君は駄目になり、
事が君に触れるとそんなに狼狽するのか。
君は神を畏れることをささえとし、
君の全ての歩みは君の希望だったのではないか。
4:2−6
わが命は息に過ぎぬことをおぼえ給え。
わが目は再び幸いを見ることはないでしょう。
何人もわたしを認めず あなたが私に目をとめても
わたしはいないでしょう。
雲が消え、過ぎ去ってゆくように 黄泉に下る者は上がってこない。
再びその家に戻ることはなく 元の場所も二度と彼を知ることはない。
7:7−10
236 :
名無しさん@3周年:2006/06/24(土) 15:36:04 ID:Ftf6JX84
旧約聖書は宗教書とは思えない部分があるね。
単なる歴史書や、ヨブ記のような単なる文学が混入していたり。
ヨブ記は宗教文学とはいえないしね。むしろ宗教をコケにしている。
ユダヤ人のありとあらゆる書物(歴史書・伝説・小説)を集めた総合
文学書が、宗教書として転用されたように思える。
237 :
名無しさん@3周年:2006/06/24(土) 16:37:58 ID:+E0oOUfg
>>230 ヨブ記の時代背景は、族長時代(つまりモーセ律法が与えられるより前)と言われています。
パウロは
「モーセに与えられた「律法」ではなく、
アブラハムに与えられた「約束(契約)」がいのちをもたらす」
と言っています。
あなた、律法と契約を混同してますよ。
契約ではなく、その後の律法にウェイトを置く見方は、おそらくユダヤ教を背景にしていると思いますが、
律法は「大切なもの」ではありますが、「いのちをもたらすもの」ではありません。
神を求め、直接に語るを許され、いのちを得たヨブは、
「律法的」「律法の子」ではなく、
むしろ「契約的」「約束の子」なのです。
238 :
237:2006/06/24(土) 17:06:15 ID:+E0oOUfg
ヨブはしかしながら、初めは「律法主義的」であったのかもしれません。
この「律法主義的な義」に疑問をはさんだのは、なんとサタンでした。
「ヨブは理由もなく神をおそれるでしょうか?」
サタンは「人を告発する者」として、なんと恐ろしいことに正確に事の本質を見抜いていました。
人間の行いによる義は、人間にいのちを与えることはできないのです。
「律法主義者」という称号(?)は、むしろヨブの三人の友人たちに当てられるべきです。
>>234の方が、ヨブの友人のことばを引用していますが、
最後に
「君の全ての歩みは君の希望だったのではないか」
と言っています。
神を直接に求めたヨブとは対照的なこの友人たちの見方は、神の怒りを買います。
「私の怒りは…三人に向かって燃える」
繰り返しますが、律法は「いのちをもたらす」ことはできません。
むしろ「いのちをもたらす」ものを既に持っている者に与えられたものです。
239 :
234:2006/06/24(土) 21:43:37 ID:YsNwQ+Ed
>>238 234の引用は失敗だったと今は考えています。
人が人に対して話しかけるときには神や律法を引き合いに出すべきではないですね。
234のように問われれば人は黙るしかありません。
ヨブ記の場合は蛇足(4:8以降)をつけることで、ヨブの敗北を回避しています。
他にもこのようにヨブを沈黙させることができる箇所があります。
ヨブは最後にはっきりと神をみます。
そのことはとてもよいことです。
しかし、沈黙もやはりよいことです。
そして神に訴えることもよいことです。
ヤハウェ 与え、ヤハウェ 取りたもう。
ヤハウェの御名はほむべきかな。
1:20
job
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243 :
:2006/07/17(月) 01:42:16 ID:xOBzC4AG
244 :
:2006/07/21(金) 06:34:49 ID:/U5sCpvE
248 :
名無しさん@3周年:2006/08/22(火) 07:41:39 ID:wMU7D2DC
ちんこーちんこーちんこっこー
チンこーちんこーちんこっこーーーー
ちんこっていいなでかけりゃいいな
あんなことそんなこと一杯できーるしーーー
みんなみんなみんなやらせてくれる
ぼーくのちんこをはさんでくーれーるー
せっくるをあのことやりたいなー
ハーイ竹せっくる
あんあんあんとってもだいすきせえええええええくるー
らららららららららららら♪
たったんたったらーーーー
んちゃ♪
しずか
250 :
名無しさん@3周年:2006/09/09(土) 17:07:11 ID:6Qwids++
質問です
ヨブ記にでてくる「ベヘモット」「レビヤタン」についてと
42,17の「神がみ」とは?
なんでしょうか?
251 :
名無しさん@3周年:2006/09/11(月) 19:06:33 ID:L7CoMePP
から
ショボ−ン
253 :
名無しさん@3周年:2006/09/25(月) 17:01:40 ID:m21Zxiue
から
254 :
名無しさん@3周年:2006/09/28(木) 14:02:53 ID:gPyjTx7h
かば、くじら
想像上の生き物
神様たちのこと
255 :
名無しさん@3周年:
m,、