>>660 確かにイスラームの中にも、そういう風に天というか非人格的「一者」として
絶対者を捉える思想潮流はある。
イブン=アラビーなんかがその典型。彼なんかは、「アッラー」自体が
非人格的一者(イブン=アラビー自身の言葉だと「ハック」(haqq)、
語感的には仏教の「真如」に近い)の一つの現象態だみたいなことを
言ってる。彼はそれを基礎として、「諸宗教の一致」(=「様々な宗教は皆、
一つの真理について語っているに過ぎない」ということ)ということも主張し
ている。イブン=アラビーの思想的影響はアラビア、イラン、トルコ、
東南アジア、中国にまで及んでいるし、部分的には西欧(例えばダンテなんか
にその影響が見られるって何かで読んだ気がする)にまで及ぶ訳だから、
イスラームの中からそういう「宗教的寛容」に通じるような思想が生れて来た
ということは、昨今、イスラームがしばしば狂信的な宗教だと見做されている
ことを考えれば、強調されて然るべきだと思う。
でもやっぱり、それだけがイスラームじゃない。そもそもコーランの
「アッラー」はかなり生き生きと人格的に表象されている。ハンバル派
(スンナ派四大法学派の一つ)なんかはコーランとハディースに書いてある
通りに神を表象するから、彼らの神観はとても人格的なものだと思う。
思うに、人格的一者と非人格的一者は相互にかなり流動的なんじゃないか。
本来、「ダルマ」というある種の非人格的一者を置く仏教の中からも、
「大日如来」というかたちで、けっこう生き生きとした人格的一者を置く
真言密教が現れて来る。
かなり生々しい人格的一者が描かれている旧約の中からも、
「エーン・ソーフ」という非人格的一者を置くカッバーラーみたいな思想潮流
が現れて来る。
キリスト教の中からも、確かに異端かも知れないけどエックハルトみたいに
「神性の無」として非人格的一者を置く思想家が現れて来る。
上で触れたイブン=アラビーなんかもその一例。