JW・エホバの証人・ものみの塔関連サイト批評スレ 2

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178名無しさん@3周年
三国人愚連隊のドン 鄭建永(チョングォンヨン)こと町井久之 (民団幹部)
右翼の故児玉誉士夫氏の側近として知られた東亜相互企業社長の町井久之は
在日韓国人で、本名は鄭建永。
戦後、暴力団「東声会」をつくった。パチンコ利権とプロレス興行を独占。その後、
実業界に転身し東亜相互企業の前身の「東亜友愛事業組合」を結成、日本と韓国を
結ぶ関釜フェリーなどの事業を手掛けた。
韓国の政界要人ともつながりが深かったほか、プロレスラー力道山(故人)と親しく、
さまざまな支援をしたことでも知られる。

1948年「東声会」結成、銀座界隈では「銀座の虎」「雄牛」と呼ばれ恐れられた。
その後町井はアメリカ対敵諜報部(CIC)を通じて児玉誉士夫に紹介され、
反共産主義の活動をするようになる。朝鮮戦争をきっかけに在日朝鮮人社会が
二分され、北を支持する「朝鮮総連」と南を支持する「民団」に分かれると、
町井は迷うことなく反共産主義の立場をとる「民団」に入る。
この頃から町井はKCIAと接触するようになる。1960年の頃には東声会も
1500人規模に膨らみ、60年安保騒動では児玉の指揮下で動いた。
やがて児玉の後押しで元総理の岸信介と懇意になり、山口組の東京進出には
その仲介役となった。日本プロレス協会の会長に児玉誉士夫が治まると、
山口組の田岡が副会長となり、町井は監査役となる。
1965年、警察の取締りによってやむなく東声会を解散した町井は、あらたに
「東亜友愛事業組合」を結成、二年後には児玉を会長とした「東亜相互企業」をつくる。
1970年、日本の下関と韓国の釜山を結ぶ関釜フェリーの管理権を手に入れている。

解放直後から朝鮮建国青年同盟東京本部副委員長を皮切りに、大韓青年団監察部長
などを歴任、71年から民団中央本部顧問職にあった。
65年に結ばれた日韓基本条約では裏方として尽力した。
68年には国民勲章・冬栢章を受勲した。
179名無しさん@3周年:2005/11/23(水) 05:14:04 ID:61XbkTCo
代紋違いの舎弟盃
三代目山口組田岡一雄組長と東声会町井久之会長
山菱の代紋に<東|声>
東声会が東亜友愛事業組合になり東亜友愛事業組合理事長沖田守弘氏は
山口組の若頭補佐待遇

現在は 東声会→東亜友愛事業組合→東亜友愛→東亜会

関東で東声会は異端であった右翼の平野富士松を迎えて組織充実を図る。
そこに触手を延ばしたのは児玉誉士夫で60年安保を控え右翼行動隊「東亜同友会」
構想であったが東声会は山口組入りし反山口組の関東会にも参加いわば鬼っ子だった。
昭和40年頂上作戦の頃解散「東亜友愛事業組合」として昭和42年復活。
沖田守弘理事長は若頭補佐待遇だが代紋違いであった。

180名無しさん@3周年:2005/11/23(水) 05:15:07 ID:61XbkTCo
鄭建永こと町井久之は民団幹部にして暴力団組長で右翼。
これが右翼=在日説の根拠となっているようだ。

実はこの町井、もうひとつ顔があった。
熱心な創価学会員でもあって、とくに妻のほうが熱心。
700件折伏するという快挙(暴挙)。
おかげで当時の民団幹部はほぼ全員が創価学会員。

すなわち 民団在日=右翼=暴力団=創価
の等式が成立した。
181名無しさん@3周年:2005/11/23(水) 06:13:15 ID:61XbkTCo
柳川次郎  本名=梁元錫。釜山生まれ(1923〜1991)
柳川組の組長。柳川組は在日韓国人の暴力団で山口組の傘下。 69年解散。

78年右翼政治結社「亜細亜民族同盟」結成。

日韓親善友愛会名誉会長、韓国民主平和統一諮問会議委員をつとめ。
ソウルオリンピック支援活動を行う。
金大中拉致事件では、東声会の町井久之会長と関与を指摘される。
182名無しさん@3周年:2005/11/23(水) 06:13:53 ID:61XbkTCo
戦後のドサクサのなかで朝鮮人は一等地を占拠しマーケットを開くなどしました。
疎開していた元の地主が抗議しても暴力を振るって返さず「我々は朝鮮進駐軍だ。」
「三国人に逆らうのか」といすわり続けました。
なかには一家皆殺しにあった気の毒な方々もいました。
警察も手を出せず、反対に警察署まで殴りこむ始末でした。

駅前の一等地がたいていパチンコ・サラ金・焼肉などのケバケバしい看板でいろどられ
どこも似たような下品で致命的なたたずまいをしているのはこのような理由によっています。

こういった三国人愚連隊をまとめあげて暴力団企業と右翼にしたのが町井や柳川らです。
空手で有名な大山倍達はこの柳川次郎のボディガードをやっていたといわれます。
逆に町井は力道山のボディガードをやっていたようです。

ヤクザをやめて映画俳優になった安藤昇は手記の中でも本人が主演した映画も題材として
三国人とのケンカが多くとりあげられています。
安藤昇自身は特攻隊くずれで、愚連隊はこういう特攻隊くずれか三国人が多かった。
またこの安藤昇の子分だった安倍譲二はヤクザをやめて作家になりました。