現代の阿含経は私達にとって必須なのであろうか?

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120名無しさん@3周年:2005/12/01(木) 07:05:25 ID:1rXhyNvf
12/1
121名無しさん@3周年:2005/12/01(木) 07:36:15 ID:xSQiMA0K
臘八初夜
122フレッド:2005/12/01(木) 07:37:58 ID:duVmw4D0
ゴータマの教えを学ぶんだったら、阿含経典は必須だと思う。

でも、阿含経典がなくても人はブッダになれると思う。
更に、仏教がなくても人はブッダになれる思う。
ただ、仏教がそれを認めていないだけ。

ゴータマ・ブッダ当時、インドの地で「ブッダ」と言うと、
諸宗教に通じた智者、賢者、という程度の意味だという。
123名無しさん@3周年:2005/12/12(月) 22:18:32 ID:QAQG+vQE
年賀状はお早めに
124名無しさん@3周年:2005/12/12(月) 23:13:39 ID:eIhOFStF
>>114,
がたがたぬかすな!親の楽しみだと思って
見守ってやりゃいいじゃねーか!
どうせ、おまえも楽しみや趣味には金つかうくせによ!
だったら、おまえもネエチャンとかと遊びに金つかうより
ユニセフに寄付しろ!
125名無しさん@3周年:2005/12/12(月) 23:29:00 ID:eIhOFStF
レイザーラモンHGは本当のゲイなのか、それとも芸なのか?
126名無しさん@3周年:2005/12/12(月) 23:54:52 ID:n8opYYmh
>>124>>125のギャップに禿しくワロタw
127名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:19:23 ID:twBfwvOH
「阿含宗という宗教19」より転載
http://life.2ch.net/psy/kako/1013/10135/1013573704.html

投稿日: 02/02/23 11:17
思えば私も甘ちゃんでした。
当時、平河出版のアルバイトをしていたI君に「宗教家が浮気をすると
運が落ちると算命学では言ってるけど、桐山管長は運が落ちてないから
、そんな事はしていないと思うよ」といったら事情通の彼に「吉川さん
ていい人ですね」と皮肉られてしまいました。
しかし、後に高尾宗家の講演会で前述のMさんの奥さんに同会場に来た
女性を紹介され、後でMさんの奥さんから「あの人は桐山さんの彼女な
のよ」と言われた時に自分の愚かさを悟りました。
それが当スレッドに過去において散々登場した「マリちゃん」である事
は皆さんもお察しがつくでしょう。
まあ、それくらい大目に見ますけどね。
もう昔のことですし。
しかし、信者をこれ以上間違った仏教に突き進ませる事は憂慮致します。
どうか、御自分のエゴを捨てて上座部仏教に転向される事を諄いと思わ
れても何度もお勧めいたします。
何となれば、もう桐山管長にも持ち時間が余り無いのですから。

128名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:20:15 ID:twBfwvOH
桐山管長がマリちゃんとどうやって逢い引きしていたかという手筈もM
さんの奥さんが、こちらが聞きもしないのに全部話して呉れました。
先ず、カモフラージュとしてメディテーションセンターの職員Kさんと
いう女性をマリちゃんと一緒に連れて行き、途中で帰らせると、それか
ら二人でホテルへレッツゴーだそうです(笑)。
まあ、当然そんな事は桐山管長以外はマリちゃんしか与り知らないこと
ですから、本人から聞いたとしか考えられませんよね(笑)。
どうせなら、桐山管長も、もっと口の堅い相手を選ぶべきだったと同情
致しますよ(笑)。
まあ、その点Nさんの方は寡黙なタイプの女性だったから打って付けだ
ったかもしれませんが。
前述した通り桐山管長には龍のカルマがあるので、致し方無い事でしょ
う。
ナーガはセックスが異常に好きな生き物ですので(笑)。
まあ、もうそのような元気も無いようで寂しい限りですが、
邪淫を続けるよりはマシかもしれません。
しかし、龍神には仏教の守護者という役目もございますので、早く目覚
めて戴きたいと切にお願い致すところで有ります。
合掌。その時限りしか会ってないので詳しくといわれても・・・。
まあ、特にに美人とは言い難いけれど、明るくてサッパリとした性格
でしたね。
まさに、「桐ちゃんと私は仲がいいんだよ」ってな感じでしょうか
(笑)。
129名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:20:53 ID:twBfwvOH
さすがに、本人は面と向かって初対面の私には、そうは言いません
でしたがMさんの奥さんによると、そんな口調だそうです。
その様にアッケラカンとした気性ですから桐山管長も、かなり心が
安まったのでは無いかと推測されます。
なにしろ、故・たち夫人は女丈夫でいらっしゃいましたから(笑)。
彼女の事についての仔細な話はもし、Mさんの奥さんに会う機会があれ
ば聞いておきましょう。
何せ、水を向ければ聞かない事まで喋ってくれる方ですので御期待に添
えると思いますが(笑)。

130名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:23:27 ID:DA30AxQA
メディテーションセンターの根元さん。。。(あ。言っちゃった。今の
カットして)については、どのような浮気話をご存知ですか?
ですから、前述のよいうに彼女はガードが堅かったから、知らないんで
すね。
もっとも私も当時彼女と桐山管長の事を知らなかったから他の人に聞き
そびれたせいもありますが、でも多分この件もMさんの奥さんの地獄耳
のアンテナには引っ掛かっているかも知れませんね。
こういう話が大好きな方ですので(笑)。

まあ、兎も角桐山管長も、もう充分楽しんだでしょうから、ナーガのも
う一つの特徴である仏教守護という本来のお役目を立派に果たして戴き
たいですね。。
桐山管長宜しくお願い致します。
合掌。
131名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:24:17 ID:DA30AxQA
N本さんはメディテーションセンターではなく、シャンバラです。
寡黙にしては、周囲に、今から桐山下以下と会うのだと言っていました。
龍神様には、N本さんの頃には、もう機能していなかったのでしょう。
零細で「60すぎて性欲があるのはバケモノだ」と言ったことがある。
耳を疑うような発言でしたね。
桐山下以下はしばしば自己弁護のための詭弁を使うし、
しかも、糖尿病にかかったことを考え合わせれば、結論は簡単です。
N本さんが去ったのは、桐山下以下が66歳の時で、
以来、その種の噂はパタリと途絶えた。
ほらね、ちゃんと筋が通っています。
N本さんが男と去ったとき、
「あの二人、うまくいくかな」とボソッと言っていました。
聞いていた人たちは桐山下以下の予知能力だと思っていたようだが、
女に去られた男の最後のボヤキですよ。
糖尿病の龍神が仏教の守護ねえ……。仰る通りです。
その事は知ってはおりましたが引用する時に訂正せずに、そのまま掲載
いたしました。
132名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:25:33 ID:DA30AxQA
>寡黙にしては、周囲に、今から桐山下以下と会うのだと言っていました。
まあ、私と余り話したことが無かっただけでしょう。
彼女の生月日は忘れましたが、七赤金星生まれですから仰る様に寡黙で
は有りませんね。
むしろ、七赤金星の象意は口に関係していますから、お喋りでしょうね。
済みません、彼女が話していない時しか見ていなかったものですから。
これから人を判断する時は見かけだけで無く星も参考に致します。ネモトさんのことは面白かったね。
桐山さんが、ネモトにちょくちょく電話したり、食事したりしてることを知った職員が、
管長に自重してもらおうと思って「管長、会員の人たちがネモトさんとのことで、
こんなこと、言ってますよ」と上申したところ、
「黙れ、きさま何を言うか!その会員を連れて来い!きさまは他教団の回し者か」と
おおぜいの職員の前でボロボロに怒鳴りまくってたな。
そうして、その職員は、やがて辞めさせられた。
それなのにネモトさんがシタr君と結婚退職するとき、わざわざ幹部職員を集めて
「彼女は管長に対して無礼なことをしたので、退職を引き止めなかった。
以前からそんなところがあった」と言い訳するんだぜ。
バッカみたいで、ウンザリしたな。
懐かしかったので、昔話を披露してみました。もう来ません。ではさようなら
133名無しさん@3周年:2006/01/03(火) 18:26:45 ID:DA30AxQA
名前: 名無しさん@1周年 投稿日: 2000/07/24(月) 12:07

>370さん
>結婚の導師をつとめたのは林以外にはいないだろ?

想像で書いているのは370さんです。
桐山さんは他にも信者の結婚の導師を勤めたことがあります。

桐山さんは「ちょっときれいな人」が大好きで、
信者や職員でもそういう女性は特別扱いです。
こんなことは少し長く信者やっている人は皆知っています。

桐山さんは信者など誰一人大事にしていません。
信者は桐山さんを引き立てるための使い捨ての駒にすぎない。
370さんは行歴が長そうだが、桐山さんの性格や教団内部に
あまりに無知ではありませんか。
1341:2006/01/03(火) 20:29:34 ID:1U0r5u20

このスレは阿含宗批難スレではありません。

このスレは阿含経を議題にしているのであって、阿含宗を問題にしているのではありません。

阿含宗又は管長がドータラコータラは他でやってください。
135名無しさん@3周年:2006/01/04(水) 08:39:52 ID:GJZbK7iC
ほんと阿含宗批判者はバカが多い。
知識や情報が豊富というのではなくて
常識しらず。三才児にも劣る
136名無しさん@3周年:2006/01/04(水) 11:38:41 ID:FgCFYyGj
>>135
釣り?だろうな
137スリムななし(仮)さん:2006/01/04(水) 13:04:39 ID:bmWBoO+Q
>135
これを書いた人間の方が馬鹿。
このスレの趣旨をまったく理解できない頭の持ち主。
と釣られてみる。
138名無しさん@3周年:2006/01/19(木) 07:03:40 ID:5Fu8K2VT
upっぷ
139名無しさん@3周年:2006/02/04(土) 07:45:34 ID:0BCLh4eG
up2
140名無しさん@3周年:2006/02/15(水) 11:35:25 ID:LUJxj1vC
up3
141TV:2006/02/17(金) 22:08:00 ID:Ygl/VZYQ
>仏陀が阿含経で語られてるのは、生まれ変わらない呼吸法ですよ

お前はアホか!
142TV:2006/02/17(金) 22:15:35 ID:Ygl/VZYQ

>釈迦の教説が残されている阿含経が
>釈迦入滅から約2500年経った今まで有るのに、
>なぜ新しい釈迦が生まれてこないのか?

アホか! この命題からして意味をなさない!
おまえたちは阿含経における「仏陀」の定義を知っているんか?
143名無しさん@3周年:2006/02/17(金) 22:54:56 ID:AuN7T4VE

>>142

知らないので、教えてください。

お願いします。
144TV:2006/02/18(土) 04:16:05 ID:oDaAQfMk
釈尊が阿含経の中で説かれた「仏陀」の定義は次のとおり。
四聖諦(苦集滅道)、三宝印(諸行無常・一切皆苦・諸法無我)、十二縁起などの
仏教の根幹をなす教えが、如何なる形においても地上に存在せず、学ぶことができない時代に
地上に生まれ、誰からも学ぶことなしに自分の力だけでこれらの真理を突き止め、ニルバーナを悟り、そして人々にそのすべてを教え伝える者を「仏陀」という。
また仏陀と同様に自力でこれらの真理を突き止め、悟ることはできても、パラミタの相違から世俗諦に精通しておらず、よって他の人々に教えを伝えることができない者をパーチェカ・ブッダという。(*)
145TV:2006/02/18(土) 04:16:38 ID:oDaAQfMk
我々のように、仏陀釈尊の教えを学ぶことができる時代に生まれたものは、定義上仏陀にはなれない。「ひとつの世界に仏陀はひとり」と言われている所以である。
我々がなりえるのは阿羅漢である。
仏陀は阿羅漢であるが、阿羅漢=仏陀ではない。
146TV:2006/02/18(土) 04:17:57 ID:oDaAQfMk
(*)仏陀が出現し、その教化期(仏陀の教えが地上に残っている時期)が続いている間は、
真理を独覚することができないので、定義上パーチェカ・ブッダは出現しない。
パーチェカ・ブッダとは、いかなる仏陀の教法もこの地上から失われてしまっている時期に、
他からまったく隔離された状態で現われる小仏陀であり、その教法が世に伝わっていくことはない。
またパーチェカ・ブッダは同時期に、まったく交流の無い状態で何人でも出現しうる。
147TV:2006/02/18(土) 04:45:13 ID:oDaAQfMk
仏陀として転生するためには、過去世において過去の仏陀の元でシュダオン直前までの修行を成就していなければならない。
ちょうど熟れた果物が指でひと触れすると木から落ちるように、短い説法をあと一度だけ聞けば、瞬く間に四沙門道果のすべてを悟り、阿羅漢果にまで達することができるレベル、つまり少なくとも「行捨智」のレベルを証悟していなければならない。
そのうえで「自分は今生において阿羅漢の悟りに達することを望まない。
よって将来の阿羅漢果証悟を確定させるところのシュダオン果をも望まない。
それよりも自分は仏教の失われた未来の世界に仏陀として再生することを望む。
そのために今から無限ともいえる長い期間、それに必要なパラミタ(出世間徳)を積んでいこう。」とその時の師である仏陀に請願する。
そしてそれが受け入れられた場合(授記された場合)、「将来の仏陀となるべき」菩薩としての彼の地位が確定する。
148TV:2006/02/18(土) 04:47:12 ID:oDaAQfMk
阿含経でいう「ひとつの世界」とは、たとえばこの地球を例にとると、地上にはじめて生物が誕生した時から、やがて地球が壊滅し一切の生物が姿を消すまでを言う。
その間地球は、名色の連続体が業によって輪廻転生していく舞台となるのである。
釈尊は、過去において無限の数の世界が存在したし、現在も無限の数の世界が存在し、また未来においても無限の数の世界が存在していくと阿含経で説いている。
それぞれの世界には仏陀が生まれる場合もあるし、生まれない場合もある。
地球という我々の世界には、釈尊を含めて三人の仏陀が生まれると阿含経に説かれている。
釈尊のひとつまえにこの地球に出現した仏陀は「燃灯仏」という名の仏陀であった。
かつて釈尊はこの仏陀のもとで修行し、将来仏陀として再生したいという菩薩の請願をおこない、承認(授記)されたのである。
(釈尊が誕生するはるか以前に、この「燃灯仏」の教法は地上から完全に姿を消していたのだ。)
では仏陀釈尊の教法はこれからどうなるのであろうか?
釈尊自身が述べられたところによれば、釈尊の教法は、あと数千年のうちに形骸化し、まったく省みられることがなくなり、やがてこの地上から完全に失われる。
しかしそれから数億年後、地球における三人目の仏陀「弥勒仏」が現われる。
なおこの弥勒仏は釈尊のもとで弟子として修行していた比丘で、シュダオンになる寸前に釈尊に「自分はシュダオンになるよりも、未来の世界に仏陀として生まれてきたい」という請願、いわゆる菩薩の請願をおこない、釈尊によって授記された。
その時のくわしい様子がちゃんとパーリ聖典に残っている。
彼はいまトソツ天にいて、未来の仏陀として再生するための最後のパラミタを積んでいる。
149TV:2006/02/18(土) 04:53:31 ID:oDaAQfMk
>釈迦の教説が残されている阿含経が
>釈迦入滅から約2500年経った今まで有るのに、
>なぜ新しい釈迦が生まれてこないのか?

これを「なぜ阿羅漢が生まれてこないのか?」と善意に解釈して、それについて見解を述べる。
釈尊が定めた比丘戒に、「自分が達していない境地にすでに達しているかのような印象を人に与えてはならない」というものがある。
これを破ったものは僧伽を破門される。殺人、姦淫などとならぶ非常に厳しい罰則である。
このこともあって、上座部仏教では伝統的に、自分の達した境地を人に伝えるということをしない。この伝統は今でもしっかりと受け継がれている。
もちろん阿羅漢であれば誰が阿羅漢に達していて、誰が達していないかは一目瞭然であるので、阿羅漢同士は、いわば「聖者どおしの暗黙の認め合い」のような状態になる。
大乗経典をもとにした修行法で阿羅漢果に達することはほぼ不可能であるが、上座部仏教では過去2500年の間、一環して四念処を中心とした七科三十七道品を修行し続けてきており、その成果をはっきりと出している。正確にいうとおそらく膨大な数の阿羅漢を排出してきている。
ある上座部の尊師は、釈尊の教法の元で現在までに阿羅漢に達した者の数は、ゆうに百万人を超えるだろうと言っている。そしてその阿羅漢の法脈は、現在でもミャンマー、タイ、スリランカなどの国々に脈々と流れているのだ。
我々は知らなければならない。
いるところにはいるのだ。あるところにはあるのだ。
上には上がいるものだ。

150TV:2006/02/18(土) 05:43:52 ID:oDaAQfMk
ついでにもうひとつ。

>仏陀が阿含経で語られてるのは、生まれ変わらない呼吸法ですよ

釈尊はいかなる種類の呼吸法も説いていない。
(呼吸に関する釈尊の教説はアーナパーナ・サティ(以下安般念)に関するもののみであり、
それ以外にはない。そしてこの安般念というのは、釈尊が説いた40種類のサマタ瞑想法のひとつで、
その主たる典拠はパーリ聖典/漢訳阿含とも、大念処経と安那般那経である。
その他のいくつかの経典でも安般念の解説をしているが、内容は概ね同様である。)

安般念とは、呼吸をその対象(nimitta)とする瞑想法である。
自分の呼吸を客観的に観じ、それに対して意識を集中していくのだ。
だから修行者は決して呼吸を意図的に操作してはならないと教えられる。
(これについては阿含経では直接述べられてはおらず、「清浄道論」という阿含経/アビダルマの
最も信頼できる解説書に詳細に述べられている。)
安般念においては、呼吸は粗かろうと微細であろうと、あるがまま自然のままになされなければならない。
いずれにしても安般念は「呼吸を観ずる瞑想法」であって、「呼吸法」ではない。

(桐山式数息観で、秒針を見ながら「ひとーつ、ふたーつ」とできるだけ長い入息出息ができるよう練習するのは、まったく安般念とは関係がない。つまり、それ自体まったく釈尊とは関係のないものである。)

以上、お邪魔さまでした。
151名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 06:34:42 ID:e0gVHAb7
TVは勉強不足ですね。止息法があります。

これをインターネットに出したわたしは、求聞持法を成就しているのです。
152TV:2006/02/18(土) 07:03:03 ID:oDaAQfMk
止息法って何だ? クンバカの一種か????
翻訳の違いかもしれないが、パーリ聖典にはそんなものはないぞ。
少なくともパーリ語で何という言葉に当たるのか、教えていただけますか?
その求聞持脳を使えばわかるでしょ?
153TV:2006/02/18(土) 07:17:55 ID:oDaAQfMk
それと阿含宗関係の質問をひとつ。
一種の通力も持っていて、密教行者としては一番筋がよさそうだったK崎職員は今も阿含宗にいるのか?
それともシタラいじめから始まったごたごたで、とっくの昔に首になっているのか?
誰か教えてくれーーーーーー。
154名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 08:25:23 ID:e0gVHAb7
国訳一切経2に出てます。

4つの呼吸法。これと形状の秘密これが仏陀になる技術。

155名無しさん@3周年:2006/02/18(土) 09:36:03 ID:e0gVHAb7
「止観の源流としての阿含仏教」には、止息法が大変重要な法として書かれている。
156143:2006/02/18(土) 09:51:27 ID:FukYKGRa
TV氏 ありがとうです。
詳しい説明、ありがとうございました。

皮肉でもなんでもなく、本当に知らなかったので。
大変勉強になりました。
157TV:2006/02/19(日) 02:42:18 ID:RBqeQfLD
あなたの言っているのはこの止息経のことか?
これって四色界禅と四無色界禅をJhânaの五心所を中心に解説しているだけじゃないか。
初禅に至れば、Jhânaの五心所が確立されることで五蓋が完全に押さえられ、言語作用が止まる。
第二禅に至れば、Jhânaの五心所のうちのVitakâ 及びVicaraが止息し、瞑想対象を捉え続けようとする意識が無くなる。
第三禅に至れば、Jhânaの五心所のうちのPîtiが止息する。これはそのままPîtiすなわち喜心が止息すると説明されている。
第四禅に至れば、Jhânaの五心所のうちのSukhaが止息し、そのかわりにUpekkhaが生じ、Ekagattaとともに
Jhânaの心所は二支分だけとなる。これにより禅定は最も微細となり、呼吸は止まる。
第四禅証悟のひとつの特徴として、呼吸の停止があげられる。これについては釈尊が様々な経典において述べられており、また清浄道論などの注釈書においても詳細に説明されている。

この経は、四色界禅と四無色界禅の修行の過程で、段階に応じて落とされていく「より粗雑な支分」のことを説いているのであって、呼吸法とは何の関係もない。

これにそれぞれの近行定を加えて八禅九定ともいうが、この全体を証悟した状態を、八正道における「正定」という。戒定慧の三学でいえば、定学の完成ということになる。
そしてここから次の慧学の修習の段階に入っていくのだ。
阿羅漢に至る七清浄のメソッドでいえば、この段階でやっと第二段階である「心清浄」を成就したということになる。

どうしてこんなに明確に書かれている経について、「止息法」などという歪曲した解釈をでっちあげるのだろうか?
お年のせいなのだろうか?
桐山管長が本当にあわれに思えてくる。

(ちなみに安般念だけで第四禅に至ることができることを釈尊が保証している。)
158TV:2006/02/19(日) 02:58:30 ID:RBqeQfLD
フォントが表示されなかったようですみませんでした。
パーリで書いた部分は以下の通りです。

Jhâna = ジャーナ 禅定
Vitakâ = ヴィタッカ 尋
Vicara = ヴィチャーラ 伺 
Pîti = ピティ 喜
Sukha = スッカ 楽
Ekaggata = エカガッター 一境性
Upekkha = ウペッカー 捨
159名無しさん@3周年:2006/02/19(日) 19:38:04 ID:4ub3R6ma
止息法は、勝 上 無上 奇特の4つです。
仏陀の説く最高の呼吸法です。
阿含経に書かれてます。

勉強不足ですね。世界中で笑われてます。
160TV:2006/02/20(月) 05:47:58 ID:mthYS1pG
釈尊はマガダ語で説法された。
マガダ語は当時のマガダ国周辺で広く用いられていたらしい言語で、
ジャーナ経の根本経典もマガダ語で伝えられているし、
アショカ王の仏塔の碑文にもマガダ語のものがある。
ただしこれらのマガダ語は言語的に完全に一致してはおらず、
かなり多くの地域差、時代差がみられるということである。
そこで釈尊の言葉として口述伝承されたマガダ語を、
パーリ語(=聖典の言葉)として特定し、特別扱いにしたのである。
だからパーリ語というのは実は釈尊が使っていたマガダ語のことであって、
桐山師がいつも言っていた、「パーリ語はサンスクリットの方言であり、
マガダ語はパーリ語のそのまた方

言である」というのはまったくの誤りである。

さて、釈尊の言葉を口述伝承したパーリ聖典は、その後いくつかのインドの地方言語に翻訳された。
そして釈尊の死後4−500年経った頃、インドにサンスクリット・ブームがおこり、
それらの言語からさらにサンスクリットに翻訳されていった。
(なお上座部はいかなる翻訳もおこなわなかった。彼らは依然としてパーリ語を用い続けたからである。)
最終的にサンスクリットから漢訳がおこなわれたのは紀元2-3世紀以後のことである。
さてここで問題なのは、
漢訳阿含は、パーリ語からの直接翻訳ではないということである。
通常パーリ語からサンスクリット訳までの間に2−3の言語が入っているのが普通なので、
漢訳阿含は、パーリ聖典の翻訳の翻訳の翻訳のそのまた翻訳ということになってくる。
その間に、多くの経が抜け落ち、また多くの創作経が加えられていったと言われる。
161TV:2006/02/20(月) 05:48:43 ID:mthYS1pG
だから、
釈尊の真の言葉を伝えるという点からいえば、パーリ聖典と漢訳阿含の信頼度には雲泥の差がある。
さらにそこから日本語訳をおこなう場合、
まず文献学的に純粋に翻訳をおこなうべきであって、法だの直感だの霊感だの自らの修業体験だのという主

観的要素を盛り込んで翻訳するべきではない。
さらに日本語書き下し文から平易な現代語訳に書き換える場合も、
原典の中国語古典の知識がない者がおこなうべきではない。
使われている漢字の意味をいいように解釈してしまう恐れがあるからである。
そんな翻訳をされてしまったら、もうそれは客観的に参照しうる阿含経ではなくなってしまう。

だから私は言っているのだ。
止息法。結構だ。
ではそれにあたるもともとのパーリ語は何なのか?

パーリ聖典に相応経のない漢訳阿含は、後世に付け加えられたものである可能性が極めて高い。
もしそれが本当に釈尊の言葉であるなら、
必ずパーリ聖典にその相応経があるはずである。
だから「それはパーリ五部のうちのどの二カーヤの何番の経か?」
と聞いているのだ。
それが分かれば、一目瞭然にその経の真の意味が明らかになる。

阿含関係のスレでいつも問題になっている
「三供養品」や「仙尼経」についても、おなじように見ていけばよいと思う。
もしパーリになければ、基本的に省みる必要はないのではないかと、個人的には思う。

でもあなたによれば、
私は勉強不足で世界の笑い者になっているそうだから、
もうあなたと話をするのは止める。
ごきげんよう。
162TV:2006/02/20(月) 09:03:23 ID:mthYS1pG
*)ジャーナ経>>>ジャイナ教の間違い。
163名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 14:44:26 ID:4nLqxFIe
>>161
言い過ぎw
実際は、こんなイメージでしょう。

              時代→
パーリ
    釈尊
パーリ ☆ →→ ◆→◇ →→ □ →→→ □ →→→ □
            │ │
            │ │
Skt等諸語      │ ├→→→ ■ → ▼ → ▼
            │ │         │
            │ └→△→▽   .│
            │            │
漢 訳         │            └→@→*
            │
漢 訳         └→→ ◎  →  ●   →→   ●
164名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 17:31:45 ID:Ld6n4G0F
パーリのに書かれえているのがわかるとわたしもありがたいです。
わたしも漢訳を読んでこの訳おかしいと思うところがります。

それがわかると、チベット密教や空海の密教の一番大事なところが
阿含経に書かれているのが解るはずです。
165名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 17:34:34 ID:Ld6n4G0F
わたしは、求聞持法を成就してるのでわかりましたけど。(w
166名無しさん@3周年:2006/02/20(月) 17:47:30 ID:Q0Y2QD6g
>>161 のTVさん
自分の博識がけなされて、機嫌が悪い様ですな。
でも、貴方の知識を知りたいと思っている人は>>159さんだけでは無いはずです。
2chを読んでいる(Romしている)人は沢山いるはずです。
貴方の知識を知らしてください。
一人の人にけなされて、ふくれているより、多くの人に貴方の知識を公開してください。
そして色んな人と情報交換することによって、貴方の博識を、もっと膨らませてください。
167名無しさん@3周年:2006/02/21(火) 17:47:09 ID:xLdJk6rN
阿含経には、地球がカルマを断つ装置であると書かれているのです。
168名無しさん@3周年:2006/03/06(月) 20:59:56 ID:jCzCXrce
原始仏教から密教まで・・・

http://miyashita1.hp.infoseek.co.jp/qqq/hakusan.htmより一部引用

「事事無碍円満」とは「華厳経」に説かれ、あらゆる存在は相互に一身でありな
がら同時に宇宙全体(海印三昧)であるということを悟ることを示しています。
特に「入法界観」と呼ぶこともあり、すなわち釈迦は瞑想によって自分が「在り
とし在らゆるもの」(絶待妙法身)であることを悟ったのです。すなわち一切衆
生は悉く釈迦如来の普遍的な意識に包含されていると言う事です。
169名無しさん@3周年
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