「第2バチカンは、神を求め、洗礼の構成要件を満たしている人は救われると教えている。すなわち、神を求めること自体、教会とキリストにおいて内的に洗礼を受けている。 救いのために洗礼を受ける受けないの疑問点はこれで解消している。 では、中絶された子供はどうなるのかという問題がわれわれの前にある。 昔はかなり幼稚な教理が発明されていた。 すなわち、洗礼を受ければ、聖化の恵みにより、神を見られるようになる。洗礼によって帳消しにされない「原罪」の状態のままでは、聖化の恵みがない。 だから、中絶された子供は自罪を犯していないので地獄には行かないが、聖化の恵みもないから神も見られず、天然状態を喜ぶだけのリンボに行くのだと教えられていた。 われわれの世紀において、これが大きな問題を起こしている。それが幼児洗礼を受けさせる必要を正当化させているが、このような解決策は問題である。 ついに、教皇様(ヨハネパウロ2)が1995年に回勅「エバンジェリウム・ヴィテ」において決定的な修正をなされた。それは1992年のカトリック教会の糧傷無顎類ですでに行われていた修正である。 それは、神は秘蹟を受けられずにいる誰をも御身に引き寄せることができるほど、全能であるというのである」 Joseph Cardinal Ratzinger, God and the World, pp. 401-402