899 :
。。。:2005/08/29(月) 15:44:18 ID:unPszawx
>>890 原理の話がさっきから出ているじゃない。
物理学や数学と一緒で、これが原理という単一なものじゃない。
善因良果、悪因苦果、
三法印;[諸行無常・諸法無我・涅槃寂静] あるいは四法印。
ししょうたい 【四聖諦】[苦・苦集・苦滅・苦滅道]。
因縁果報の理。十二支因縁。
このようなものが重なっている。もしも本当に仏教が学びたいのなら。
「こは苦なり」=わたしの人生、衆生の人生は苦である
この命題から考察を始めるべきだと思う。
900 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 15:45:55 ID:Fu/g9Gu8
901 :
。。。:2005/08/29(月) 15:47:38 ID:unPszawx
>>890 ニルバーナ=無明を断つ;
そのほんの一部としてエゴイズム、煩悩の火が消える現象はあると思うけど。
もっと広い概念だと思うよ。(なんせ現観なんだから)
902 :
。。。:2005/08/29(月) 15:48:34 ID:unPszawx
>>900 コピーして遊んでいるでしょう?
自分で考えて書こうね。お遊びはおしまい。
903 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 15:55:05 ID:Fu/g9Gu8
そもそも苦しみを感じない人には仏教は適用されないですか?
904 :
。。。:2005/08/29(月) 15:56:01 ID:unPszawx
>>895 仏教の善悪は結果から考えるようなところがあります。
悪いことは結局苦い果実をうむのです。苦い果実をうむから悪いことだ
という定義もあります。
将来結婚して子供が生まれて、自分の子供にはさせたくないなあという
ようなことが悪いことです。
(悪い事をさせたい?親も居るかもしれないけど)。
例えば○○○モン的生活。自分的には、お金の心配が無くて良いなあと
羨ましいところも少しはあるけど、もし子供が生まれたら、その子には
やはり生きがいのある、人の役に立つ、生産的な生活を送って欲しい。
905 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 15:56:13 ID:Fu/g9Gu8
真理を追究するということは誰にでもいつでも出来ますが。
906 :
。。。:2005/08/29(月) 15:59:20 ID:unPszawx
>>903 そう。まず「苦」です。
これはじっくり考えて見ないと。それが無いのに、仏教なんて
やる必要は全くありません。
将来の「苦」に怯えてというのも良いと思いますけど。
それまでは「苦集滅道」(くしゅうめつどう)という言葉のみを
覚えていれば良いと思いますよ。「なるほど苦しい」と思えば、
「そうだそうだ助かる道があるって言ってたよね」と思い出せばいい。
907 :
。。。:2005/08/29(月) 16:00:26 ID:unPszawx
>>905 仏陀の真理って、
「無限に続く苦しみからの逃げ道はあるよ」でしょう?
908 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 16:00:29 ID:Fu/g9Gu8
釈迦は、家族、子を捨てて修行の道に入りましたが
仏陀になれなかった場合、悪人ですか?
909 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 16:02:13 ID:Fu/g9Gu8
釈迦は、家族、子を捨てて修行の道に
入りましたが仏陀になれなかった場合、悪人ですか?
910 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 16:05:57 ID:Fu/g9Gu8
始めは苦しみから逃れるためだったかと思いますが
悟りの後にはそんな事はちっぽけなことだったんじゃないんですか?
911 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 16:15:29 ID:fAZxL9hE
>>903 >そもそも苦しみを感じない人には仏教は適用されないですか?
煩悩というのがあるから、菩提(悟り)という対立した概念あるわけです。
ですから煩悩(苦)を縁として悟りの道を歩むことができます。→世俗諦
現観というのは、煩悩もなく菩提もない煩悩即菩提のことです。→勝義諦
この法(ダルマ)こそが勝義になるわけです。
↓苦悩とかは関係ないですけどこういうのは駄目ですか?
三種類の修行者
修行者には三種類のタイプの人がいます。最初のタイプは、神を信じ、神に従っている人です。
二番目は、神のために働いている人です。そして三番目、これが最高のものですが
神とひとつになっている人です。神とひとつであるということ、あるいは神になっているということは
自然に、なにも期待してないときに起こります。それは誠実さゆえであって欲から生じるのではありません。
誠実さというのは、何かを期待していることとは違います。
みなさんに、その違いをどう話したらいいのか、私にはわかりません。
それは自然に起こりますが、説明するのは困難です。
ときどき私たちは、誠実な求道心と、ただなにかを期待することと
混同してしまうかもしれませんが、実際は違います。
最初の種類の修行者は、神を崇拝し、神に従うことを好みます。
彼は、毎日崇拝でき、祈る神がいるという思いで、非常に満足し幸せです。
そして、その神は、彼よりも崇高で、彼の面倒を見てくれる存在なのです。
彼はそれ以外のなにも、要求したりしません。
二番目の種類の修行者は、神を認識しています。そして、神のために働くことを好みます。
彼がすることは、何でも神のためです。しかし、しばらくすると彼は、神よりも働くということに
より興味を持つようになります。彼はますます、自分がやれる仕事を探し始めるのです。
そして最終目的が神であるということを忘れてしまうのです。
この種類の人というのは、たくさんの功徳がありますし、たくさんのよいことをします。
たとえば、衆生を救済したり、講義をしたり、お寺を建てたり、あるいはお坊さんになったりなどです。
しかし、長い間そういうことをしていると、人々は彼のことを崇拝し、敬慕し始めます。
人々は彼が非常に高徳であると信じ、そして彼を讃え続けるのです。
人々が彼を讃えれば讃えるほど、ますます彼は、その仕事をすることにふけるようになります。
そして除々に、よいことをすることに執着してしまい、決して神とひとつになることができなくなります。
これらの二種類の弟子は、一番高いレベルには到達できません。
一方は、神を崇拝することに執着し、そしてもう一方は、神を喜ばすために
仕事をすることに執着してしまうからです。
三番目の種類の修行者というのは、彼らと同様に、神を崇拝し
神を喜ばすためのよいこともするかもしれません。
しかし、その人はこれらのことが、ただ二の次にすぎないということに気づいています。
彼は「神は誰であるのか」ということを、認識したいのです。
ただ、神を崇拝し、働くことによって神を喜ばせたいと思っているだけではありません。
その代わりに、神とは誰なのかということを知りたいと思っているのです。
神を捕まえたいと思っているのです。この種類の人というのは、最終的には神とひとつになります。
しかし、非常にわずかな人しかこのレベルには到達できないのです。
http://www.godsimmediatecontact.org/kannon/news/no80/c-1.htm
煩悩が菩提に転依する。
いや、もっと正確に言うなら、最初から菩提しかない。
暗闇のなかで縄を蛇と見間違えるようなもの。
灯りを持ち込めば最初から蛇などいなかったことに気が付く。
暗闇(人の概念)のせいで欲望と菩提の二つのものが有るように見えたのである。
915 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 16:41:29 ID:s+RhqrUv
>>890 机何某なるスレ寄生物に餌を投げないで下さい。
>>。。。さん、
原始佛教で説かれる「我」とは、縁起した五蘊の仮和合したものであり、
それ以上でも以下でもありません。經典に「我・アッタン・アートマン」などと
記されていても、以下の記述などがその意味を理解する前提となります。
慢心を捨て去った人には、もはや結ぶ束縛は存在しない。
かれには慢心の束縛がすべて払いのけられてしまった。
聡明な叡智ある人は、死の領域を越えてしまったので、
「わたしが語る」と言ってもよいであろう。また「人々が[これこれは]
《わがもの》であると語っている」と言ってもよいであろう。
真に力量ある人は、世間における名称を知って、
言語表現だけのものとして、そのような表現をしてもいいのである。
『サンユッタニカーヤ』1-3・5
T02n0099_p0154c07(00)? 已離於我慢 無復我慢心
T02n0099_p0154c08(00)? 超越我我所 我説為漏盡
T02n0099_p0154c09(00)? 於彼我我所 心已永不著
T02n0099_p0154c10(00)? 善解世名字 平等假名説
『雜阿含經』卷第二十二
916 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 16:44:02 ID:fAZxL9hE
>>913 世俗諦においては、神というのが通用しますが、
勝義諦においては、神というのが通用しません。もちろん仏も通用しません。
何故かというと、現観だからです。
現観に透過しませんと・・・・世俗のまんまなのです。
917 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 16:46:26 ID:s+RhqrUv
>ID:Fu/g9Gu8さん、
カルト臭芬々の記述を読んでコピペしている暇があったら、
>>851で
紹介したサイトやここの過去ログなどを精読して下さい。
918 :
机龍之介支持者:2005/08/29(月) 16:52:58 ID:2geowBEr
919 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 17:11:05 ID:fAZxL9hE
アホダラどの
小学四年生向けの公案は解けましたか?
四諦とは何か?
ということのお題です。
これを透過しましたら見性です。
920 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 17:18:36 ID:fAZxL9hE
苦集滅道というのが、般若心経においては無苦集滅道となってます。
つまり、勝義諦では世俗の論理性は崩壊します。
論理学というのは、あくまでも世俗の論理にしかならない。
921 :
名無しさん@3周年:2005/08/29(月) 17:19:18 ID:88J+fp2T
そもそも「原始仏教」なんてものは学者があっただろうと妄想、推測しているに過ぎない。
「これこそ本当の仏教」「俺の言葉こそブッタの真実の言葉」
仏教でエゴイズムを増長させるとは何たる皮肉・・・・
縁起の理法によれば
これあるによりて、これありだから
「原始仏教」という自性が単独で存在できません。
923 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 17:38:36 ID:fAZxL9hE
>>922 そうだね。
つまり、アホダラ氏は、縁起の理法とか、原始佛教とか、自性とかがゴッチャになってるんでしょう。
電波先生の言うとおり、現観のことは「わかった」で留めておけばよかったのに・・・
924 :
。。。:2005/08/29(月) 18:12:57 ID:unPszawx
>>908 四沙門果というのがあるみたいですよ。仏弟子の四つの果実。
今生で涅槃を得てニルバーナに入る人(阿羅漢果を得る人)は、あまり
多くないと思う。
925 :
。。。:2005/08/29(月) 18:15:05 ID:unPszawx
>>910 仏の本質は大慈大悲ですからねえ。
仏になれば一切衆生を救いたいと思うようになるし。
また、そう思えない人は、仏にはなれないんでしょうね。
芥川龍之介のカンダダの話みたいですが。
926 :
。。。:2005/08/29(月) 18:20:11 ID:unPszawx
>>910 生まれた始から、菩薩のような人として生まれてきて、
人を救うだけ救ってから、ニルバーナに入る人も当然居ると思う。
そういう人は、苦を知らなくても、仏道を学び人助けをして欲しいです。
927 :
。。。:2005/08/29(月) 18:25:36 ID:unPszawx
>>789 〜 自己スレッドなんですが。
五蘊と自己(アートマン)について
テーラガータ
1160
五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると
見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
− 毛の尖端を矢で射るように。
自己(アートマン)と無我について。
アートマンとか、仏教では「無我」といって否定されたんじゃないの、と
思うところですが。
テーラガーター
1199 梵天は、ありのままに答えた。 (前後略)
1200 わたくしは、梵天界において、光輝が遷り消えていくのを見ます。
いまでは、わたくしは「わたしは常住であり、常恒である」ということを
どうして言えるでしょうか。
仏教ではアートマンを否定しているのではなく、常住で常恒である
アートマンを否定しているのですね。
以上二つ、先日来考えてきたことが、テーラガーター(仏弟子の告白)岩波文庫
中村元訳に載っていましたので。
928 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 18:33:17 ID:S+Bf7wBJ
>>927 それではあなたのおっしゃる「アートマン」とは一体何のことですか?
929 :
。。。:2005/08/29(月) 18:34:24 ID:unPszawx
>>915 如来の死後は無記ですよね。
死ぬ前の如来はどうでしょうか。
仏陀は「私は〜〜」と語らなかったのでしょうか。
生前の仏陀には「自己、アートマン」は無かったのでしょうか。
仏陀の人格(霊格)が、弟子を教下したのではなかったのでしょうか。
諸法無我なり。すべてのことものには、恒常なる本質は無い。
「自己」にも恒常なる本質は無い。輪廻流転するものである。
「自己」が無いわけじゃない。
そして、上記テーラガータによれば、五蘊さえ自己ではない。
930 :
。。。:2005/08/29(月) 18:35:05 ID:unPszawx
>>928 「自性」ですかねえ。「自己」「あなた」「わたし」。
931 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 18:35:48 ID:S+Bf7wBJ
形而上的意義が付与されない日常言語としての「我・アッタン・アートマン」
等は別段否定されませんよ。
932 :
机龍之介支持者:2005/08/29(月) 18:37:58 ID:ge9E1B66
>>931 あんたにはこのスレの議論は無理がある。
933 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 18:38:45 ID:S+Bf7wBJ
>>930 >>915の引用經典に明瞭に説かれていますよ。それ以上でも以下でもない「我・アッタン・アートマン」
の定義・概念規定が。
934 :
。。。:2005/08/29(月) 18:39:30 ID:unPszawx
>>920 机龍之介さま
>苦集滅道というのが、般若心経においては無苦集滅道となってます。
是故空中 無色、無。。。 無苦集滅道。
>勝義諦では世俗の論理性は崩壊します。
勝義諦=是故空中 ですか?
935 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 18:48:46 ID:S+Bf7wBJ
>>930 五蘊があるところに衆生という名がある。
『サンユッタニカーヤ』 5-10
T02n0099_p0327b10(00)? 諸陰因縁合 假名為衆生
『雜阿含經』卷第四十五
936 :
。。。:2005/08/29(月) 18:50:17 ID:unPszawx
已離於我慢 無復我慢心
超越我我所 我説為漏盡
於彼我我所 心已永不著
善解世名字 平等假名説
我、慢を離れ(十結の上位、無明のすぐ下の慢ですね。慢心の慢ではない)。
我にまた慢心無く。
我と我がところを離れ。(アートマンと五蘊を離れ)
我、漏を尽くすと語る。
彼岸の五蘊において、心は既に永久に執着せず。
よく世間の名字を解し、平等に仮の名を説く。
漢文読めませんけど。どうして「自己」の否定なんでしょうか?
937 :
。。。:2005/08/29(月) 18:51:32 ID:unPszawx
>>935 衆生と、その五蘊は渾然一体ですね。
自己と五蘊の区別がつけば、ニルバーナに近いのでは?
938 :
。。。:2005/08/29(月) 18:52:45 ID:unPszawx
↑一行目は、すでに ですね。
939 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 18:52:55 ID:fAZxL9hE
>>934 小学四年生の先生が、児童に遠足のことで訊ねますね。
児童は一瞬迷います。
迷いの原因は先生にあるわけです。
迷いは分別に依ります。
ゆえに無分別の相、主客未分が勝義諦です。
940 :
。。。:2005/08/29(月) 18:55:47 ID:unPszawx
テーラガータ
1160
五種の構成要素(五蘊)を、(アートマンとは異なった)他のものであると
見て、アートマンであるとは見ない人々は、微妙なる真理に通達する。
− 毛の尖端を矢で射るように。
*(アートマン云々)も中村元先生の訳です。
941 :
阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/08/29(月) 19:07:42 ID:S+Bf7wBJ
>>934 般若心經は專門スレがあるはずです。机外道はスルーでお願いします。
>>936 >>931参照。
>>937 繰り返しますが、「自己」という前提を除去しないと教説内容を誤解しますよ。
>>940 五蘊を一切に変換して読んでみましょう。「一切(諸)法無我」の意味を考察しながら。
942 :
。。。:2005/08/29(月) 19:10:05 ID:unPszawx
一切諸法は、恒常的な本質を持たない。
五蘊も、恒常的な本質を持たない。
自己(アートマン)も恒常的な本質を持たない。
一切諸法は無我である。無常である。
(無いわけじゃない)(とりあえずは有る)
有るがゆえに、生を得て、老死を迎える。
943 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 19:17:54 ID:fAZxL9hE
>>942 そういうことですね。
ですから、恒常的な自性というのもないわけです。
実有でもなく、実無でもない。
中道で空です。
944 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 19:22:50 ID:fAZxL9hE
アホダラ氏は、縁起で自性をいうてますが、
これは全く仏教の基本さえ知らんのです。
945 :
。。。:2005/08/29(月) 19:29:40 ID:unPszawx
http://www.evam.com/evam2/book/bdk/term.html 仏教法数辞典目次。ここはすごく便利ですよ。
【十二因縁】[無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有・生・老死]
たぶん 「(無明)・行・識・名色 」このあたりが五蘊じゃないかと思うのですが。
(無明)→・行・識・名色 =五蘊が自己であるなら、
自己は無明からは決して抜け出せないことになると思うんですよね。
自己は(無明)以前にあって、無明に覆われているだけだから、五蘊ではないんです。
と、思いたいわけですが。
946 :
机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/08/29(月) 19:39:12 ID:fAZxL9hE
>>945 十二因縁というのは、人の一生の縁起を書いてあります。
この縁起から解脱したのが、生死一如になるわけです。
無明から明智ですね。
。。。さん
まず、オーソドックスな仏教を素直に吸収してください。
敷衍拡張するのはその後にした方が良いと思います。
一連のレスを見るかぎりでは、多くのピースが欠けたパズルのように見えます。
欠けたピースにこそ大切な部分があるかもしれません。
948 :
。。。:
「生〜老死」を繰り返していて、そして死んでも、
「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有」は残っていそうな気がします。
死んで、無明が消えるなら、仏教は要らないわけで。
つまりは、死んでも無明は消えない。無明から有まで、連鎖的に存在して、生の機会を待つ。
そして、母胎に入る。その繰り返し、、?
生の前の「無明・行・識・名色・六入・触・受・愛・取・有」 とは?
これは魂の(心の)現象みたいですね。まだ生命を得ていないのだから。
「生」を生命ではなく、誕生と取って、母胎の中の現象と考えるのが主流みたいですが。
チベット仏教の本などにはそう書いています。