原始佛教 その14

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710電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k
>>707
負け犬がなに言ってるの?

>それは訳文を出して、事実を例示し論破済み。あり得てます。
>パーリ原文を直接当たる気もないキミがくちはさんでもな。。。
論破になっていないって。口を挟む?なに寝ぼけているんだ?そんなもの
当たらずに議論できるか。アッタカターやティーカにも当たっている。

>√bhUは、「なる」が第一義かもだが、「ある」、「いる」、「起こる」という意味もあるね。
>だから水野パーリ辞典p243のbhavatiは、「ある、存在する」だね。
>キミは一つの事実をもって すぐ「絶対」化しちゃうところがトンデモ系。
>ネタとしてはわかりやすく面白いが 精度に欠ける。
精度にかけるのはあんたの脳味噌と知的誠実さ。それと毎度毎度指摘しているが、
あんたの読解力。読解力というより眼科へ行け。「ある、いる、起こる、存在する、得る」
は最初から否定して無いじゃないか。原意的には「ある、起こる」なんだ。存在記述
として重要なタームだって、お前を諭す人が何回言ってる。もう一回よく読んでみろ。
まだしつこく言うのなら「ある、存在する」を否定している箇所をだしてみろ。
でもな、「ある、存在する」を根拠にしても「わかった」にはならないよ。

>「abhisamayoがあった」(岡野) (水野) 「abhisamayoした」
なぜそうなる?どこをどう読んだらそうなる?絶対におかしいぞ。
文法で詰めることを拒否して訳を並び立てて議論するのは本来的ではないが。
水野訳の「正しくよく至ることがあった」がなぜ「abhisamayaした」となるのだ?捏造するな。
もう一度言うぞ。文法的にみれば、
@ 現觀が生じた
   (S) + (V)
となる。あんたの場合は
A 現觀した
   (V)
あるいは
B 現觀   した
   (O) + (V)