【私の理解3】
yonisomanasika`ra` ahu pa??a`ya abhisamayo の解釈に関して、
>>198 そのときわたしには正しい注意と智慧とから現観(abhisamaya さとり)が起こった、
『ゴータマ・ブッダ_釈尊の生涯』 <原始仏教1> 中村元選集・第11巻 春秋社 P.173 L6-
>>543 ■メモ■中村元訳と中村元監修本の訳の比較。
「何があるが故に老死があり、何に縁って老死があるのであろうか?」と。
そのときわたしには正しい注意と智慧とから 現観(abhisamaya さとり)が起こった、
「生があるが故に老死が有る。生に縁って老死がある」と。
これと同文の平行箇所が中部第14経にあり、春秋社から中村元監修で出ている。
当然、上記の中村元選集第11巻をより新しい訳になる。訳者は岡野潔。
「いったいなにがあるとき、老いること、死ぬことがあるのか。なにを成立条件(縁)として、
老いること、死ぬことがあるのか」その時比丘らよ、ヴィパッシン求道者が
根源的に思惟すると、智慧によって〔真如を〕まのあたりにすること(現観)があった。
「生まれること(生)があるとき、老いること、死ぬことがある。
生まれることを成立条件として、老いること、死ぬことがある」と。
>>560 paJJAya は「知によって」「知から」「知に」「知の」「知において」のいずれにも取れる
つまり、「ahu + abhisamayo」に関しては、
現観が起こった/さとりが起こった/〔真如を〕まのあたりにすることがあった/現観があった
と翻訳可能である。