821 :
名無しさん@3周年:2005/07/30(土) 22:56:56 ID:sWHiQp8m
>820
コルベ神父様や、マザーテレサ、塩狩峠の国鉄職員、キリストの名を知らずとも
自分の命を他人に捧げることを躊躇しなかった名もない人々がいる以上、
神様は絶対にいると思う。
822 :
名無しさん@3周年:2005/07/30(土) 23:00:12 ID:atGUHddo
>>821 いやそれならオウムの麻原のためになんだってする奴だっているけど
麻原を拝めようなんて思わん
>>820 体験もあったけど、体験する以前に神が存在するほうが道理に適うと感じてました。
宇宙の始まりを考えた時、神抜きでは考えられなかったので。
専門的な知識はありませんが宇宙の本とかは読みました。
色々な説がありましたけれども、どれも私を納得させることは出来ませんでした。
初めから無なら永遠に無だろうと。
824 :
名無しさん@3周年:2005/07/30(土) 23:07:01 ID:atGUHddo
>>823 そうか サンクス
といってももう遅いがw
いや他スレで無心論者が有神論者を妄想扱いするんで
まぁ確かに目に見えないものを信じてるから
傍から見れば宇宙人を信じる幼稚なもんに見えるんだろうな
>>824 無神論者は「目に見えないものは信じない」と言いながら、
見たこともない「ビックバン以前の
虚数時間が流れていた時のトンネル効果は信じる」とか言う。(笑)
宗教心のことを「人の言うことを盲信してる」とバカにするのに
自分で計算したこともない宇宙創造の難しい計算式のことは盲信する。(笑)
826 :
名無しさん@3周年:2005/07/30(土) 23:33:17 ID:JRcrnEiC
816の雹さんの意見に賛成です。
ちなみに自演ではありません。
明日ミサに行こうね(≧∇≦)b
雹 ◆IRN5rC2IGc←こんなのが教会にうようよしてると思うとゾッとするよ
>>828 オレもこんなとこのカトリック信者には、なにも期待してないからよ。
議論ばかりしてるゴミ信者ばかりだよ。ここ
ゴミにはゴミへの接し方ってのがあるもんさ。
「2ちゃんのカト信者は超保守や原理主義者がゾロゾロいる」と聞いて
来てみたらこんなもんだもな。
リベラルとか議論好きの異端者とか、その程度のヤツばかり。
「月に一回以上の告解」が叩かれた時は驚いたけどな。(笑)
833 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2005/07/31(日) 00:39:26 ID:swpLgxA1
>>787 >>782 の投稿は、僕の投稿ではありませんよ。
僕は、ここのスレッドに名無しで書いたことはありません。
名無しにする必要を感じないからです。
確かに、782の方の意見はよい意見だと思いましたが
僕の投稿ではありません。
よい投稿は何でもかんでもダニエルが書いたのだ、と思ってもらっては
その投稿を書いた方にたいして失礼だと思います。(^^)
>>787 もう〜、呼ばなくていいからっo(`ω´*)oプンスカプンスカ!!
>>639 貴様の低俗さ・獣性は反キリストのこの俺の目にも余る。
消えろ。目障りだ。
>>639 …と思ったが…
あんた結構「やる」みたいだね。他のスレ覗かせて貰った。
結構イイ線いってるんだから、あんまり厨臭い反応しない方がいいよ。
頑張れカトリック。
じゃ。
837 :
まゆぴー:2005/07/31(日) 05:32:03 ID:n0dvsSY0
ねらーの為にマリア様にロウソクを1本捧げ(普通5本)ました。そしたら、ミサ中御聖体を持って行く事になった。毎日行かなくちゃな。不要な事は捨てて。
838 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 07:31:34 ID:/whQWxCi
>>783 >なんのこと?
ちょっと「民間信仰」というのはマリア崇敬に関して言えば御幣のある言葉
使いでした、ゴメン。マリアの名を冠する私的啓示の公認は発端を民間信徒に
生じた現象として捉えざるを得ないことなどが頭にありました。マリアに関する
教義においても自分には判然としない点がありその面においても「民間信仰」
が発端ではないかと言及するつもりでしたが、後の聖人や修道士や時の教皇が
直接関わっている教義決定が多いと分かりました。ですから「教義」について
は「民間信仰」の高まりが聖座を動かしたという点について訂正します。ただし
教義において聖書との関連や同じ教義に関して聖座と日本の指導や理解が
異なる点などを自分は感じているのでその意味でマリア崇敬関連の教義について
説明を求めたいと思う信徒です。このことの説明は後ほどあらためて「なんの
こと?」さん(
>>783)宛てに、ということで。回答はしばらくお待ちを。
>>784-786 あなたの推理が正しいものであったなら、あなたにまじめなレスをつけよう
と思いました。しかし、あなたの推理は間違っていてなんちゃって批判者だと
わかったので書き込み内容に対するレスの必要性を感じません。あしからず。
839 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 07:32:53 ID:/whQWxCi
>>820 信じる者の信仰を知り自分もそれに共感することから信仰は強まります。
神の存在は信じる者同士の共通の土台です。その信仰の中にあって互いに
結ばれ確信しあう信仰生活が愛と希望と信仰の土台になっているのだと
思われます。
>>833 自分はダニエルさんには「俺」さんと同じ臭いを感じていて書き込み内容には
同意できませんが、ハンドルを使って書き込みし、人様の書き込みに対する
誤解を積極的に訂正する書き込み姿勢はチコット評価しました。それだけですが。
>>837 >そしたら、ミサ中御聖体を持って行く事になった。
そういう表現はしませんよ。「御聖体」というのは聖変化を経たパンについて
使われます。「奉納の係りに選ばれました」とか「パンの入ったチボリウムを
ミサ中に祭壇まで運びます」などと言った方が誤解がないのではないでしょうか?
840 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 08:15:53 ID:D11Ki1c5
>>783 >なんのこと?
カトリックとしても、信徒一人一人の信仰姿勢としても警告される聖書
の記述と内容の異質性が判然としないものについて。明確な説明が必要
なものと思うこと。
〔問題点1〕【教会は母や女達を象徴するものなのか?】
カトリックの教会憲章第一章の6(教会の像)の第二段落には「教会」に
ついて次のような説明を成す部分が見受けられる。
『教会は「上にあるエルサレム」、「われわれの母」(ガラテヤ4・26、
黙示録2・17参照)とも呼ばれ、・・・・』
教会が我々の母とされる説明の場合にそれはイエスの母マリアを想起させ
るものであるが注の『ガラテヤ4・26』、ここに描かれている該当節を
26節から31節までお読みいただきたい。ここで「天のエルサレム」
「自由の女」として描かれているのは旧約のアブラハムの妻サラ(イ)の
事である。マリアのことではない。
一方同じ憲章63(教会の象型であるマリア)の項目では、次の記載が
ある。
『教会は正当に母とも処女とも呼ばれているが、その教会の秘義の中に
おいて、聖なる処女マリアは、処女と母との卓越した独特な範型を示し
つつ第一位を占めたのである』
この中では教会はイエスの母マリアについてのみ言及している。
問題は、教会がサラ(イ)とマリアに言及している事実とマリアが
聖母子像によって表現され聖堂に飾られている場合が多いカトリック教会
の現状における事実と聖書に警告されている偽りの面における成就との
不気味な符号である。その聖書個所はイザヤ書3章12節前後に見られる
記述である。以下に引用する。
『わたしのの民は、幼子に追い使われ 女(原文複数形)に支配されている。
わたしの民よ、お前たちを導く者は、迷わせる者で 行くべき道を乱す。』
カトリック教会は本来は「教会」として次の聖句に準じて説明される
ものでなければならないのではないだろうか? つづく
841 :
840つづき:2005/07/31(日) 08:16:27 ID:D11Ki1c5
○エフェソ5章23−32節
『なぜなら、キリストが教会の「頭」その「体」の救い主であるように、
夫もまた妻の頭だからです。教会がキリストに従っているように、妻も
またすべてにおいて夫に従いなさい。夫は妻を愛しなさい。キリストも
教会を愛し、そして教会のためにご自身をさし出されたからです。キリスト
がそうなさったのは、教会を水で洗い清め、ことばによって聖なるものと
するためでした。すなわち、教会を栄光に輝かせて、しみも、しわも、
このようなものは何一つないものとして、ご自分のそば近くに立たせる
ためであり、教会が聖なるもの、非のうちどころのないものとなるため
でした。このように、夫も妻を自分の体として愛さなければなりません。
妻を愛する者は自分自身を愛しているのです。いまだかつてわが身を
憎んだ者はなく、かえってそれを養いはぐくみます。キリストも教会に
対してそのようになさいました。実に、わたしたちは、キリストの体の
部分なのです。「それゆえ、人は父母を離れて妻と結ばれ、二人は一体と
なるのです」。この神秘は偉大です。わたしは、キリストとのかかわりに
おいて、教会とのかかわりにおいてこう言っているのです。』
エフェソ書簡で「教会」はキリストとその妻の関係としてキリストに
従う「妻」のようであらねばならないと繰り返し諭しています。
カトリック教会の現状は、イエスの御心をパウロの視点を超えて捉え、
また旧約預言の警告側面を成就する形においてさせてしまってはいない
でしょうか。
842 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 08:44:06 ID:cdUMH1/S
〔問題点2〕【マリアやイエスの出現を謳う私的啓示がカトリック信徒に
霊的に明るい将来を予感させるか?】
私的啓示が仮に本物であったとしても、啓示された人物を通して啓示
者に繋がるということは霊的な戦いにおいて効力を発揮する信徒の霊性に
プラスになることとは考えられない。
○使徒行録19章13−16節
『 ときに、各地を巡って悪魔払いをする数人のユダヤ人が、悪霊に
つかれている者に向かって、主イエズスの名を唱えて、「わたしはパウロの
宣べ伝えているイエズスによっておまえたちに命じる」と試みに言った。
こんなことをしていたのは、ユダヤの大祭司スケワという人の七人の息子
たちであった。悪霊は彼らに答えて、「わたしはイエズスを知っている。
パウロのこともわかっている。しかしあなたたちは何者だ」と言った。
そして悪霊につかれている男は彼らに飛びかかり、あの者もこの者も
取り押さえ暴力を振るったので、彼らは裸にされ傷を負わされて、その
家を逃げ出した。』
私的啓示は、司教クラス以上の使徒後継者に現れるべきであるのに
平信徒などに現れることが多く見られる。そしてその平信徒に対する
霊についてこれまた司教クラスが直接に霊的な判断を下す前にマスコミ
などが取り上げ、信徒も聖職者もその聖座からの認可を巡って喧喧諤諤の
争いが展開されたりする。奇跡があったからといって、その奇跡の内容に
則してカトリック信徒であろうとする姿勢は信仰上適当であろうか?
イエスス・キリストは教えの権威を認めるための「しるし」を要求された
時に彼らに次のように回答した。
『姦通の時代の者たちは、しるしを欲しがるが、ヨナのしるしの他に
は何のしるしも与えられない(マタイ12章39節 ルカ11章29節など)』
つづく
843 :
842つづき:2005/07/31(日) 08:44:54 ID:cdUMH1/S
奇跡がイエスの言葉を超えた現実として実際に生じた場合、普通は
退けるか、司教クラスの判断が先にあって発表を待ってから信徒が
初めてそのような現象が世界のどこかで生じていたことを知るかの
二つの場合にしか霊的な正当性はないのではないかと自分は考える。
信徒に生じた霊的な出来事は、民間の信徒の叫びによって認可の是非が
問われるべき問題ではない。まずは司教や教皇クラスに出現することを
霊が拒んでいる理由がどのようなものなのかを考えて見なければならない
のではないだろうか。
キリスト教としてカトリックがあるのであれば先ずはイエス・キリストの
言葉を再認識することが霊の識別においては第一歩であり、教会の信仰が
イエス・キリストを越えないことが大切なことではないかと思う。
○二ヨハネ9節
『行き過ぎてキリストの教えに留まらない者は皆、神とつながりを持って
いません。その教えに留まっている人、その人は、おん父ともおん子とも
つながりを持っています。』
844 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 09:22:23 ID:7DO3Cfuf
〔問題点3〕【マリア教義の見解における日本と世界の間にある隔たり】
『毎日のミサ典書』という書籍は、日本で最初に枢機卿に任命された
土井辰雄氏が司教の発行許可を与えていて、検閲者がデル・コル氏、
訳編者はフェデリコ・バルバロ司祭というメンバーで刊行されたものだ。
その中6月24日「洗者聖ヨハネ誕生」(P1011下段)の項目で次のように
ヨハネについて説明する記事がある。
『初代教会の昔から、大なる尊敬を集めていた洗者ヨハネの誕生日を
本日祝うのであるが、聖人の誕生日を祝うのは、聖母マリアの誕生日と
本日との二つだけである。
他の聖人は原罪を持って生れるが、聖ヨハネは、生れる先に聖と
されていたのである。こうして、洗者は苦業の生活をおくり、救主の
道を準備した。』
上記の記述では明確に「洗者聖ヨハネ」の無原罪を説明しているように
思える。また、聖パウロ修道院の池田司祭も著作の中で洗者聖ヨハネに
ついて次のように説明がされている。
○『教会の聖人たち』池田敏雄著 上巻 P391上段L2-6
『実は生まれながらの聖者でもあった。というのは、聖母マリアと同様に、
母親の胎内においてすべての原罪の汚れをまぬがれていたからである。
このために教会は、洗者ヨハネの誕生日を盛大に祝う。』つづく
845 :
844つづき:2005/07/31(日) 09:22:55 ID:7DO3Cfuf
このように日本ではヨハネについて無原罪であることを示唆する文章が
普通に見られた。しかし、どうもこれはカトリックの教えではないという
ことがマリアの無原罪の説明を詳しく知ることでわかる。カトリックの
マリア教義が誤りであって日本のこれまでの(実のところ誤魔化していた)
ヨハネとマリアを併記して無原罪について解説することをせざるを得ない
深刻な教義と聖書間の矛盾をそこに感じざるを得ないのである。さらに、
出現のマリアと言われる奇跡のお告げの中には、ヨハネに成り代わろうと
しているかのような文言を幻視者に告げる姿もまま見られる。天使が
エリサベトに対して生れてくるヨハネについて告げる次の文句を出現の
奇跡の女性が自身のこととして発言しているのを見たり聞いたりしたこと
はないだろうか?
○ルカ1章16−17節
『イスラエルの多くの子らをその神である主のもとに立ち帰らせる。彼は
エリヤの霊と力で主に先立って行き、父の心を子に向けさせ、逆らう者に
正しい人の分別を持たせて、準備のできた民を主のために用意する。」』
846 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 09:29:14 ID:NC0FEqzq
>>844 だから、未公認、非公認の出現は無視すればいい。
それだけのこと。公認されたものだけに限定すればいいの。
847 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 09:31:46 ID:Bn69xsiA
〔問題点4〕【聖書のどこからも導き得ないマリアの『終生』処女性】
マリアがイエス・キリストをお産みになったときには処女であった。
このことについては問題はない。しかし、終生処女であったとすること
については、聖書の内容を越えていてどこかの記述のある部分の不明瞭
な点を明確化しているとも受け取れないもののように思える。聖書個所を
しめして以前複数の司祭や司祭を通じて修道会の管区長クラスの方に
そのことについてお伺いしたことがある。そのあらましを記述すればよい
のであるがその時の資料が見つからないのでこの点については後日、
書き込みする気になり次第追ってレスをするということで、ご容赦
願いたい。
>>838-845の書き込みは書きなぐり同然のもので意味の
汲み辛い乱文が散見されるがその点今はご容赦願いたい。では。
849 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 09:37:26 ID:qoS8b6fh
>>846 >
>>844 >だから、未公認、非公認の出現は無視すればいい。
>それだけのこと。公認されたものだけに限定すればいいの。
公認されるまでの経過の中で、出現の場合は民間信仰の高まりが
霊的な判断に影響を与えていると思われる部分があり、問題があるの
ではないかと思います。ちなみに844の書き込みは出現のことではなく
「マリア無原罪」教義周辺の問題についてのものです。内容は、奇跡や
出現のことではありません。
850 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 09:40:02 ID:IicV5oG9
>
>>847 >また無益な議論だなあ。
議論を望んではいません。こちらが無知であるためにはっきりとした
説明が欲しいわけです。
851 :
849補足:2005/07/31(日) 09:50:53 ID:vKCiXwyi
無原罪の教義については、カトリック内部でそれも教導者のレベルで教える
内容が混乱しているようなのです。この取り決めは1854年にありましたが、折
しも世界に奇跡現象として話題になる出現が数多くあった頃です。その関係
で850では秋田の聖母のお告げにあった、洗者ヨハネのお株を奪っているような
発言について一言言及したつもりです。書き込み内容に間違いがあればすぐに
申し出て下されば訂正はしますのでよろしくどうぞ。
852 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 11:12:31 ID:OcWLFXVS
洗者ヨハネは母の胎内にいた時に、主イエスによって原罪を取り除かれたという
だけであって無原罪懐胎だった訳ではない。
853 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 11:15:19 ID:OcWLFXVS
それより俺は洗者ヨハネと聖ヨゼフは、どちらが天において偉大なのか知りたい。
854 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 12:39:52 ID:NC0FEqzq
ヨゼフは連れ子がたくさんいた。ただの男だ。
聖母は彼の連れ子を引き取ってよく育てた。
855 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 14:18:13 ID:NC0FEqzq
>>851 混乱などしてないよ。君が混乱してるだけ。
聖母は無原罪だ。それを認めると君の信仰が破綻するのかね?福音派君。
856 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 14:22:26 ID:NC0FEqzq
>>850>>851 秋田の聖母のどこがヨハネのお株を奪っているのかね。
聖書に書かれてるではないか。
ヨハネは生まれる前から母が祝福されていた。
聖母は自ら子供のときに祝福を受けて神の御子を宿した。
その聖母の祝福の度は、ルカによれば、胎内の子と等しかった。
したがって、聖母も無原罪である。
857 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 15:23:50 ID:h7wFC+GX
858 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 15:51:08 ID:9lwD9xOT
マリア様が無原罪だと信仰が失われる。
それを恐れて、必死で、マリア様を自分とどうレベルに引き摺り下ろそうとしている。
それが福音派。その代表者が、我、アルフク、ダニエル、おたあサロメ。
彼らの裏工作に載せられて信仰を捨てたのが
>>844 哀れ
859 :
ダニエルlaugh:2005/07/31(日) 16:51:28 ID:swpLgxA1
>>839 >自分はダニエルさんには「俺」さんと同じ臭いを感じていて書き込み内容には
>同意できませんが、
わたしは「我」さんとは全く異なる観点から偶像崇拝を否定しています。
彼やある福さんは「福音派」としての立場からカトリック批判をしているものと
思います。わたしはいち現役カトリック信者としてカトリックの価値を認めているものです。
しかし、カトリック教会がカトリック教会のみが唯一の教会である、という奢った見解を
持ちつづけるならば、それは客観的事実に基づいていないので批判せざるをえないのです。
教会とは「集い」という意味ですから、ある特定集団のことではないのです。
ですからカトリック教会以外に救いはない、という主張をすること自体が誤りといえます。
教会とは「イエスを愛するものの集い」のことであり、そこに所属すると何かの特典が
あるとか、ないとかいうものではないのです。
まったくカトリック信者というものは勘違いしていると言わざるをえません。
少しでもそのことに気付いてくれる人が出てほしくてカトリック信者のためにいつも
わたしは投稿しています。
860 :
& ◆s10y7/fwr6 :2005/07/31(日) 16:59:08 ID:swpLgxA1
聖書でいう教会とは「集い」という意味です。
このことを忘れてほしくない、と思います。
〇〇を守らなければ信者として認めない、とか
〇〇の教義を受け入れないならば異端者である、とかの
発想は、およそ4世紀にローマ市民権をキリスト教を受け入れないものに
与えなず排除した考え方のままなのです。
これは、単なる組織や共同体としての決め事に哲学的な体裁を与えたものです。
こんなものにまどわされて、こんなものを怖れて、真実を見失っては
いけないのです。
861 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2005/07/31(日) 17:04:46 ID:swpLgxA1
(いつも使っているPCではないので、どうもうまくいきません。。。)
まあ、そういうわけですから、わたしと「我」さんとは
かなり異なる見解を持っているだろうと思います。
わたしは、4世紀以前の、ヘブライ的な集いが本当の教会の姿だと
思っております。4世紀以降の教会は、政治権力と結びついて、
大きな力を行使し、時には異端審問で、カトリックに改宗したユダヤ人や
イスラム教徒を殺したのです。
こんなものは、まともな教会とはいえないのです。
862 :
& ◆s10y7/fwr6 :2005/07/31(日) 17:09:12 ID:swpLgxA1
4世紀以降の教会とは、
「異邦人の、異邦人による、異邦人のための」教会にすぎません。
これは、いずれ時がきたなら、その役目を終えるでしょう。
863 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2005/07/31(日) 17:16:53 ID:swpLgxA1
教会に権威があるのではなく、
権威のあるお方はイエス・キリストです。
信じるべき対象は、教会や教会の教義ではなく、
イエス・キリストそのものです。
864 :
ダニエル ◆o31oshrvYE :2005/07/31(日) 17:21:01 ID:swpLgxA1
イエスが再臨されたならば、まっさきにさばかれるのは
クリスチャンと教会なのです。
教会だけがさばかれない、ということはありません。
むしろ神は、正しいさばきをされるお方です。
1ペテロ 4:17
さばきが神の家から始められる時がきた。
それが、わたしたちからまず始められるとしたら、
神の福音に従わない人々の行く末は、どんなであろうか。
865 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 17:55:58 ID:bWoaE5yn
866 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 18:39:36 ID:bWoaE5yn
イエスは戻ってきて何するの?w
867 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 18:45:05 ID:gPPkfWsH
ダニエル=メシアニック・ジュー
868 :
ダニエル:2005/07/31(日) 18:50:16 ID:VAn6pqZ0
>>865 知らないのか?
エルサレムに鎮座して世界王となり全人類を羊とヤギに分け、
ヤギは燃え盛る火の炉にくべて焼き殺される。
それは正しい神の審判である。
羊は囲いに入れられ、12等分された全世界をともに支配する貴族階級と臣民になる。
支配者階級になりたければ、クリスチャンになることだ。
869 :
名無しさん@3周年:2005/07/31(日) 18:52:25 ID:bRki70Iy
870 :
ダニエル:
こうして再臨のイエスは回復されたユダヤ王国から全世界を支配する。
その平和は千年間だけ続き、千年後に、再び、悪魔が神によって解放される。
悪魔は全世界から人類を駆り立てて、ユダヤ王国を包囲させ、最後の戦いをけしかける。
その数は砂の数ほどである。だが、悪魔の軍勢は天から降る日によって全滅して、クリスチャンは救われる。
そして、地球は破滅して、全人類が死ぬ。
イエスはその全人類の死者を裁いて、クリスチャンだけを新しい地球に住まわせる。
他の者は火の池に投げ込まれ、悪魔とともに永遠に焼かれる。
こうして宇宙は永遠に平和になる。
黙示録を読め。