>>58 1様
>>52 >この部分を週刊誌の書評で見て本当に驚いて、先日
>購入してきたばかりですので、詳しくはまたあらためて
>投稿したいと思います。
遅くなりました。まず本文を引用、紹介させていただきます。感想はあらためまして。
>*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*〜*
著者 五木寛之 対話者 森一弘 「神の発見」
顔をそむけることは、心をそむけること
森 さきほど五木さんが、仏教について指摘されたことと同様に、ギリシャ世界にキリ
スト教がはいっていくにしたがって、聖書の読みかえが行なわれたと考えていいと思いま
すよ。いろいろな例をあげることができます。たとえば、言葉を表わすギリシャ語のロゴ
スは、語源的には、物事を束ねるとか、本質を整理するという意味合いがふくまれます。
五木 わかります。
森 ヘブライ語では、言葉はダバール。内側から噴き出してくる生命、という意味がふ
くまれています。たとえば、五木さんが生きてきた、いろんな人生体験が言葉となって表
われて作品になりますね。その言葉には、五木さんの人生がある。それが相手のこころの
なかにはいって、相手の心を動かし、あたためることになりますよね。
「ヨハネの福音書」の書き出しは、「はじめに言(ことば)があった。言は神と共にあった。言は神
であった」とあります。そのときの「言」というのは、ダバールというもともとの意味で
とらえれば、神の生命が、キリストを通して人類にあふれ出てきた、神の生命が噴き出し
たという意味になります。ところが、ギリシャ語で「ロゴス」というと、キリストは神そ
のもの、キリストには神の本質がある、ということになってしまう。
(引用、続きます)