原始佛教 その13

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278阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A
>>277
原始佛教では「自己は世界の外にあること」や「世界の外にある認識の主体」などはそもそも問題にされず
言及もされません。つまり思考から排除されるのです。
279無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/13(水) 12:42:36 ID:50HqMYr6
>>277
世界の外に自己(我)をもってくれば、諸法、諸行は世界の内のことなので、諸法無我と矛盾しません。
この身体が輪廻の最後の身体という智恵がどこからくるかというと、やはり世界の外からではないでしょうか。
世界の外のことは、悟ればわかるし、悟らねばわからないので、釈迦は熱心には説かなかったと(???)。
出世間は、世界の外のことのような気がします。

---------
書評:『ブッダが考えたこと─これが最初の仏教だ』(その1)
http://www.geocities.co.jp/Technopolis/3138/book_review_miyamoto5_1.html
---{
 生じないもの、生成しないもの、つくられないもの、形成されないものがある。もしも生じないもの、生成しないもの、
作られないもの、形成されないものがないならば、生じたもの、生成したもの、つくられたもの、形成されたものが、
[そのような状況から]脱し、離れることはないであろう。生じないもの、生成しないもの、作られないもの、
形成されないものがあるからこそ、生じたもの、生成したもの、作られたもの、形成されたものが、
[そのような状況から]脱し、離れることがあるのである。
---} 『ウダーナ』79ページ

---{
 修行僧たちよ、このような境地がある。そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、
空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、この世もなく、あの世もなく、
月も太陽もない。
修行僧たちよ、[そこに]来るとも、行くともいえず、[そこに]いるとも、
死ぬとも、[再]生するともいえない。それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、
何かに支えられているのでもない。
それこそが苦しみの終わりである。
---} 『ウダーナ』80ページ

このような釈迦の言葉は、涅槃の体験・境地について言及したものであり、
哲学的認識や分析知とは関わりのないものだと思えます。
280無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/13(水) 12:43:27 ID:50HqMYr6
「自己は世界の外にあること」や「世界の外にある認識の主体」というアイデアにはそそられるものがあります。
というのは、
-------------
http://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/muga_2.html
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、
ということはない。
また人間は死後存在しないという考え方があってはじめて人は修行生活が可能である、ということもない。
マールンキャプッタよ、人間は死後も存在するという考え方があろうと、人間は死後存在しないいう考え方があろうと、
まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。

マールンキャプッタよ、ゆえに、わたしが説かないことは説かないと了解せよ。わたしが説くことは説くと了解せよ。」
以上のことを世尊は語られた。尊者マールンキャプッタは歓喜して世尊の教説を受け入れた。

(「毒矢のたとえ」、長尾雅人編集『バラモン教典・原始仏典』、中公バックス、473〜478頁)
-------------
と同様、
「自己は世界の外にあること」や「世界の外にある認識の主体」というアイデアが
あろうとなかろうと、釈尊の教えにはほとんど影響しないと考えられるからです。

「自己は世界の外にあること」や「世界の外にある認識の主体」があったとしても、
それが問題となるのは、は悟ったあとのことでしょう。
予備校で大学生活に関するレクチャーが無いのと同様、
仏教においては、
「自己は世界の外にあること」や「世界の外にある認識の主体」について語る必要は全くないのです。
281暇人:2005/07/13(水) 22:25:46 ID:K692+cur
>>272-273
手抜き過ぎですね。まあでも一応の紹介ありがとう。

「求道者ゴータマが「縁起の現觀」に到るまでに遍歴し、
結局は超克したた様々な修行法について考察すれば容易に
理解可能な事柄と考えます」
「修行(四禪乃至滅盡定等九次第定)を経て 現観をした」と
セットになっている箇所の
提出をされてください。今のままでは経証なしです。
282暇人:2005/07/13(水) 22:26:17 ID:K692+cur
うむぅ 現観を整理します。
■理解を意味する現観−縁起經 雑阿含経285
1一番単純な用例
了解 理論的理解(パーリ語辞典)
「正確的到達」「十分理解」(中華)
時を経ず知が起こる(無間等起知)

■瞑想、特に四諦を観察する現観−相応部諦相応3,4,32,44,49,50 雑阿含109
http://www012.upp.so-net.ne.jp/asia21/hikari12.htm 諦相応重閣経
2単純な瞑想としての現観
まのあたりに明瞭に観ずること(法蔵館仏教学辞典)
現前に明瞭に真理を観察すること(佛教語大辞典)
3四諦を現観する
四諦を瞑想する観法(平川説)
理解四諦或縁起道理的初歩證悟(中華)
四聖諦を徹底的に知見すること(文責 Pannyadhika)

■高次の瞑想及び悟りとしての現観−原始経典に経証なしの妄想
4ヴィパサナー瞑想を前段階とした「概念を超えた縁起の現観」(電波男)
止観(四禅)の次の段階としての現観(電波男)
5ブッダの正覚体験としての「縁起の現觀」(阿呆陀羅經)
6四禪乃至滅盡定等九次第定を超出したもの(阿呆陀羅經)
7最高證悟(中華)
283暇人:2005/07/13(水) 22:26:56 ID:K692+cur
『サンユッタニカーヤ』]U-10はどなたの訳でしょうか?
そこに正確に「現観 (abhisamaya )がおこった」との記述があるのですか?

さて漢訳雑阿含経285を見ますと、
私は「何があるが故に老死があり、何に縁って老 死があるのであろうか?」と
思いを巡らした。
正しい思惟をした時、「生があるが故に老死がある。生に縁って老死がある」と
一瞬にしてまざまざと理解した。

「無間等起知」は、「四諦を現観」しているのでも「高次の瞑想でも最高の悟り」でも
なく、「一般的な理解」の意味として使われていると私は判断します。

『サンユッタニカーヤ』]V-1の漢訳は雑阿含109
「見諦者所斷衆苦」に現観の語はない。

仮にあったとしても見諦は、四諦の道理を見ることだろうし、
「明らかに四諦の道理を観じる者は多くの苦を断つ」という
四諦を現観する系。
284暇人:2005/07/14(木) 07:56:22 ID:N7txZc4A
>>276

無宗ださん おはよ
「九次第定」は、例えば「ブッダ最後の旅」などで、
九次第定の順逆を観じ、四禅を観じ、無余涅槃に入ったものとして
語られています。
九次第定を経て 現観という瞑想をしたというパーリ・阿含の経証を
私は知りません。

阿呆陀羅經さんのカキコでは、
@修行時代の瞑想=四禅・九次第定
A現観=悟り
となってしまうのですが、経証をもつての冷静な判断というより、
現観は「こういうものだ」と思い込みがまずあり、
その「思い込み」を「ジョーシキ」とし、 
「ジョーシキ」だから指摘されても再確認しないという構造になっている
のかもですね。
「自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示を」という
スレッド冒頭の言葉が 空しく響きます。
285暇人:2005/07/14(木) 07:57:35 ID:N7txZc4A
蛇足ですが
「ブッダ最後の旅」
http://www2.big.or.jp/~yba/asia/nehan06.html

286暇人:2005/07/14(木) 08:08:30 ID:N7txZc4A
無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の
「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)
という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博
士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を
参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説における
tathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した
完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
 また後者でも水野論文を参照したうえで、「仏教の中で、如来はブッダ
のみと理解し、当時、如来は外に存在しなかったとして、一般の有情(=人)
と同義に解釈したことは、やはり無理があったとみなすべきであろう。
ここで論じられている如来は完成された人を指している。いうならば、
輪廻せざる完成者を意味しているものであろう」と結論されています。
 またサンユッタニカーヤの44(南伝大蔵経 第16巻上 pp.99〜136)は
「無記相応」と名づけられた章です。ここを詳しく読んでみてください。
タターガタが如来などの輪廻を超越した人をさすことが明らかになるはず
です

http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/cgi-bin/resbbs1/resbbs.cgi

このベージによると水野先生は「如来説」ですね。
電波さんは水野さんは「衆生説」と言われていましたが、
またもやトンデモ説でしたね
287無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/14(木) 08:51:13 ID:9qRYFyU6
>>284
暇人さん、おはようございます。

> 「九次第定」は、例えば「ブッダ最後の旅」などで、
> 九次第定の順逆を観じ、四禅を観じ、無余涅槃に入ったものとして
> 語られています。

この記述が非常に不思議だったのです。
まわりにいる人間が、禅定している人間をみて、
九次第定のどの定にいるかって、わかるものなのでしょうか?
何か観察してわかる明らかな違いがあるものなのでしょうか?

どうやって、「九次第定の順逆を観じ」を確認したのだろう?
どうして、「四禅を観じ、無余涅槃に入った」などといえるのだろう?
288名無しさん@3周年:2005/07/14(木) 10:24:38 ID:MPAtATBQ
ちょっと見ない間に、三吉の粘着スレになっとるし(汗
一体何があったんだ・・・・?
289阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/14(木) 10:49:31 ID:m1eBMni0
>>286
件のBBSにも電波男さんのコメントが・・・。
[113]Re:無記と「タターガタ」
電波男Ψ(´д`)Ψ [Mail]
9/12(Sun) 19:21
森先生はじめ皆様、お初にお目にかかります。

私は原始仏教から初期大乗までを仏教思想史として研究しておりました。森先生に少し疑問に感じるところを
申し訳ございませんが述べさせていただきたく存じます。

1 論文引用ではなく紹介と言う形だけで論を進める。古い論文を根拠にされるのはいいが、後の展開を視
野においておられるのか
2 輪廻について、生理学的な視点のみであり、別解釈をしない
3 相応部経典から釈尊を推し量るのは乱暴である
4 三枝先生を存知上げておりますが、インド仏教を専門とされる方が氏を援用されるのは解せない

以上をもう少し熟慮されんことを。


290阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/14(木) 10:56:10 ID:m1eBMni0
>>283
>どなたの訳でしょうか?
三枝充悳氏訳です。
>「現観 (abhisamaya )がおこった」との記述があるのですか?
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta2/12-Abhisamaya-Samyutta/01-Buddhavaggo-p.html
または
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta2/12-Abhisamaya-Samyutta/07-Mahavaggo-p.htm
の諸經の記述を文脈を踏まえながら参照してください。
291阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/14(木) 11:14:54 ID:m1eBMni0
お眼汚しですが、昔の発言を。

23 名前:阿呆陀羅經 ◆A91q4BsXNQ :04/10/16 08:53:45 ID:Locs9ZVx
現観(abhisamaya)とはつまりは「苦」の生起(流転縁起・順観)と滅尽(環滅縁起・逆観)のありようを
ありのままに観るそのことを指しているのでしょう。それが現在進行形で不断に続くので「無間等知」
と訳されたのではないかと考えます。
「無常偈」や
諸行無常、 是生滅法。(流転門)
生滅滅己、 寂滅為楽。(環滅門)
あるいは「縁起法頌」も
法従縁起、如来説是因 (流転門)
是法従縁滅、是大沙門説(環滅門)
という構造になっており、縁起説と四諦の特に集諦と滅諦との不可分の思想的聯関を示していると考えます。
24 名前:阿呆陀羅經 ◆A91q4BsXNQ :04/10/16 08:58:00 ID:Locs9ZVx
失礼「還滅門」でした。お詫びして訂正いたします。
25 名前:阿呆陀羅經 ◆A91q4BsXNQ :04/10/16 11:52:43 ID:Locs9ZVx
以下の『ウダーナ』所収の偈も同じ構造ですね。
「努力して禅定に入っているバラモンに諸法が現われるならば、かれは有因の法を知るが
ゆえに、かれのもろもろの疑惑は消失する。」(流転門の現観)
「努力して禅定に入っているバラモンに諸法が現われるならば、かれは諸縁の滅を知るが
ゆえに、かれのもろもろの疑惑は消失する。」(還滅門の現観)
これらの詩偈に先立つ十二因縁の記述を四諦の集諦・滅諦のそれに差し替えても意味は充分に
通じるでしょうし、それが原型ではなかったかという説(金倉圓照説)に説得力を感じます。
292無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/14(木) 12:19:50 ID:9qRYFyU6
暇人さんへ
日本語の通じない相手との会話は大変そうですね。

> 『サンユッタニカーヤ』]U-10はどなたの訳でしょうか?
> そこに正確に「現観 (abhisamaya )がおこった」との記述があるのですか?
これに対する回答の仕方は、

【ケース1】
三枝充悳氏訳です。
はい、正確にそう記述されています。
三枝充悳 著「XXXXX」のXXページからの引用です。

【ケース2】
三枝充悳氏訳です。
いいえ、正確には
「○○○○○○○○○○○」
と記述されています。
三枝充悳 著「XXXXX」のXXページに記述されています。
---------------
といった形で、「イエスかノーか」および「引用元の明記」が要求されるのですが、
回答したポーズをみせて、あさってのことを語られたらたまりませんね。


暇人さんこそ、何度も次のようにいいたくなったことが、あるのではないでしょうか?

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1117079851/173
> 「唐人の寝言」の相手をするほど暇を持て余していないのでね。立論
> 不能の上に調査・学習も碌に出来ない者の守までする義務も無い。
>
> 当方は啓蒙屋でも宣教師でも保育師でもありませんのでね。
293独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/07/14(木) 18:55:56 ID:b7wExENr
更新しときました。
毎度仕事が遅くて申し訳ありませんm(__)m
294暇人:2005/07/14(木) 22:20:32 ID:k/7gPqmf
>>290

三枝充悳の訳そのままですか?
あるいはお手を加えられていますか?

『サンユッタニカーヤ』]U-10についてお尋ねしていますのに
なぜ「]U-1」と「]U-7」という別のパーリ文をお示しですか?

私の質問はあなたが引用した]U-10の三枝訳に
そのまま「現観 (abhisamaya )がおこった」がありますか?と
尋ねています。

『サンユッタニカーヤ』]U-10ですと、
http://www.metta.lk/tipitaka/2Sutta-Pitaka/3Samyutta-Nikaya/Samyutta2/12-Abhisamaya-Samyutta/10-Abhisamayavaggo-p.htm
ではないですか?
このパーリ文に「現観 (abhisamaya )がおこった」がありますか?
あるならば、抜き出して、お示し下さい。
295暇人:2005/07/14(木) 23:14:46 ID:dGpL/APN
>>287

できるかどうかを 私は 知りません。
経典には 面白い記述が あります。

釈尊が「九次第定」の最後の「滅想受定」に入った時、
アナンダは釈尊が「ニルヴァーナ」に入ったと思ったのだが、
アヌルッダから 「ニルヴァーナ」ではなく「滅想受定」に入られたのだ
とたしなめた とあります。

この時点の設定ではアヌルッダ=阿羅漢 アナンダは阿羅漢ではありません。
この経典は 阿羅漢には他人の瞑想の次第がわかるという立場なのかもですね

>>292

ケース1.2の回答を お聞きしたいものです
296暇人:2005/07/14(木) 23:44:12 ID:dGpL/APN
>>289

森さんから無視された電波さんのカキコをなぜアップ? 悩ましい。
それは「大人な感覚」から無視されたカキコでしょう。
「顔洗って出直せ」「論ずるにあたわず」「触らぬトンデモに祟りなし」と
まあここは2ちゃん あほな私が具体的に解説してあげよう

電波男Ψ(´д`)Ψ←研究していたなら本名を書け。
<1 論文引用ではなく紹介と言う形だけで論を進める。古い論文を根拠にされるのはいい
が、後の展開を視野においておられるのか>
具体性にかける。水野論文「tathAgata(如来)の意義用法」や石上論文が具体的に
出されているのであるから、せめて「後の展開」とは誰の何論文が書くべきである。
しかも紹介だけでは不充分との意見なのだから 当然範を示すべきであり、何論文には
かくかくしかじかの記述があり水野論文のコレコレや石上論文のシカジカは今となっては
疑問と展開しないと話にならない。つまりなにを問題にしているか不明。
<2 輪廻について、生理学的な視点のみであり、別解釈をしない>
何をもって森さんのどの意見を「生理学的な視点」と言っているかナゾ。
「生理学的な視点」という言葉で何を言わんとしているかも不明。
更になぜ「別解釈」が必要なのか、「別解釈」とは何なのか不明。
<3 相応部経典から釈尊を推し量るのは乱暴である>
意味不明。何をもって森さんが相応部経典から釈尊を推し量ると論難されているか不明。
森さんは単にタターガタ解釈の参照として相応部44をしめしているだけで、
釈尊を推し量っていない。
<4 三枝先生を存知上げておりますが、
インド仏教を専門とされる方が氏を援用されるのは解せない>
意味不明。三枝さんの「無記説の整理」の問題点を具体的に挙げていないので話にならん。

以上トンデモカキコをスルーされた森さんは 普通の感覚の持ち主と思われます
297無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/15(金) 06:13:52 ID:VA05P5fX
>>296 :暇人:2005/07/14(木) 23:44:12 ID:dGpL/APN
> 森さんから無視された電波さんのカキコをなぜアップ? 悩ましい。
> それは「大人な感覚」から無視されたカキコでしょう。
> 「顔洗って出直せ」「論ずるにあたわず」「触らぬトンデモに祟りなし」と
>
> 以上トンデモカキコをスルーされた森さんは 普通の感覚の持ち主と思われます
秀同。(あちらのBBSを汚している奴がいうな>自分)

暇人さん、おはようございます。
啓蒙屋でも宣教師でも保育師でもなく、
トンデモの守までする義務も無いのに
ご苦労様です。
298無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/15(金) 06:53:14 ID:VA05P5fX
>>227-228
>>264

解説ありがとうございます。

こうしてみると、「四諦現観」「縁起の現觀」 という表現は、
漢訳阿含経典から、直接でてきた言葉ではないみたいですね。

漢訳阿含経典から、直接でてきたのであれば、
「四諦無間等」「縁起の無間等」などとなったのではなどと妄想しますw
299暇人:2005/07/15(金) 07:12:32 ID:n0G4Wz4N
無宗ださん おはよ
「九次第定」の続きです。
中阿含31経「子牛角沙羅林経」にも「九次第定」があります。
(精確には長阿含もふくめて「九次第定」の語はない。
後代に「九次第定」と名付けられた)

アヌルッダが二人の修行仲間と修行しているところに釈尊が来て
修行生活は順調かと尋ねねぎらいます。
そして「最勝智見」を体験したかどうか尋ねます
アヌルッダは「自分たち三人は初禅を体験している」と応えます
釈尊は更に「別の最勝智見」を体験しているかどうかを尋ねます。
アヌルッダは、「自分たちは二禅」を「三禅・・・、四禅・・・」
「空無辺処」「識無辺処」「無所有処」「非想非非想処」・・・
そして「滅想受処」を体験し「煩悩を滅ぼし尽くした」
この「滅想受処」より上位の瞑想は体験してないと応えます。釈尊は、
「よろしい よろしい アヌルッダたちよ この安らかな住まいより
上位にして、より勝れている安らかな住まいというものは別にないの
です アヌルッダたちよ」(春秋社「原始仏典第四巻 中部経典T」p470)
300暇人:2005/07/15(金) 07:13:02 ID:n0G4Wz4N
釈尊が帰った後、アヌルッダの二人の仲間が、アヌルッダに
私たちが「煩悩を滅ぼし尽くした」ことまで釈尊に明らかにされたが
私たちがアヌルッダに「これこれの瞑想体験をしている」と明らかに
したことは一度もなかったのに なぜそういうことが言えたのか?と
>>287
「まわりにいる人間が、禅定している人間をみて、
九次第定のどの定にいるかって、わかるものなのでしょうか? 」
と似た疑問が書かれています。
するとアヌルッダは
二人がこれこれの瞑想体験をしていると私に明らかにしたことはないけれど
私には自分の心でもって「この尊者たちは、これとこれの住まいの禅定をえている」
と尊者たちの心がわかるのです と応えています。
前掲書は「自分の心」を注記して「他心通」のこと解説しています

蛇足ですが ここでは九次第定の「滅想受処」の上位の瞑想ないと、
経典は釈尊に断言させています。
>>282の「6四禪乃至滅盡定等九次第定を超出したもの(阿呆陀羅經) 」の
「九次第定を超出したもの」としての「現観」が経典にはないという
論拠にもなる箇所です。
301暇人:2005/07/15(金) 07:29:12 ID:n0G4Wz4N
>「四諦現観」「縁起の現觀」

「縁起の各支」をヴィパサナー瞑想したら 「直ちに理解した」という
意味の「縁起の現觀」は阿含にあります。
>>282の■理解を意味する現観ですね
四諦を瞑想する観法(平川説) としての「四諦現観」も阿含にあります。
(※「四諦現観」「縁起の現觀」というそのままズバリの表記はないかも)

注意どころは、
世親の倶舎論に説かれている「聖諦現觀」に三現観あり、その二に
「縁現観」があります。倶舎論の「聖諦現觀」は「四諦」と絡んで
説かれますので、>>96の「四諦現觀と縁起現觀は同じこと」というのは
倶舎論的教養ではないかと推測しています。
302名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 12:42:41 ID:1pZtaM/0
東洋大学の森氏と電波を比較するのは電波に失礼だと思う。
そして、森氏を持ち上げる暇人さんの神経を疑う。
303名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 12:52:55 ID:1pZtaM/0
三枝さんを論拠にしないのはインド哲学している人の常識。
それは森氏も知っているはず。
304名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 12:54:21 ID:bcUk9yVq
本気か? 電波か? 電波の論理も言葉も知識も破綻してるのは明らかだろう。
305名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 12:55:59 ID:bcUk9yVq
そうそう三枝さんなんか誰も使わないよ。
306名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 12:58:47 ID:bcUk9yVq
そうそうとか書いちゃったが、>>302>>303 同じ人なわけね。
その二つの文章どう繋がるわけ?
307名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 13:05:55 ID:9Zgwl8Fa
どこかに書いてあったけど、
悪徳リフォーム会社って顕正会なの?
308名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 15:21:17 ID:1pZtaM/0
>>306
さあ、どうつながるんだろね。
森氏は学会では全く誰も相手にしないのは確か。葉阿月さんなみ。阿月さんは可愛いから許す。
阿月虐めで有名な先生も他界されましたが、「darSnaについて」は抱腹絶頂でした。確か電波の
3人後。(W

三枝氏については翻訳など原典に係わるところはすべてゴーストライター。人類の知的遺産シ
リーズの「世親」の翻訳部分は横山先生ご執筆。皆そんなことは知っていました。
309無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/15(金) 15:29:57 ID:2Ujk5PcS
人の噂を教えてもらってもあまりうれしくないんだけど。
くさすのなら、具体的な業績の内容自体を、否定してあげて下さい。

実際に翻訳が読めるのなら、ゴーストライターを使っているかどうかは
素人にはどうでもいいことです。
310無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/15(金) 15:45:55 ID:2Ujk5PcS
宮元啓一は、むずかしい最先端の内容を一般にわかりやすく説明することのできる
一流の研究者だと思います。

ペンギン(宮元啓一の部屋)
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/pengin.html


難しい内容を専門家だけがわかるようにしか説明できないのであれば、
素人からは専門バカにしかみえません。
311名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 15:53:51 ID:03Wu+u0l
>>難しい内容を専門家だけがわかるようにしか説明できないのであれば、
素人からは専門バカにしかみえません。

難しい内容を子供でも分かるように説明できるのが専門家でしょう?
312名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 16:18:23 ID:bcUk9yVq
>>308 その三枝さんを評価してるのが電波だよ。その電波を評価するのがあんた。
さて、最も評価されないのは誰? (笑い)
313名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 16:42:42 ID:1pZtaM/0
>>312
電波が三枝を評価しているっていうソースきぼん。
314名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 16:55:00 ID:bcUk9yVq
>>289 引用の疑問点4. ちゃんと読みましょう。
最も低い評価を受けるべきは誰か確認できましたか?

ついでにいうと暇人氏は森氏の態度が大人と言ってるだけで、
学問内容を評価してるとは言ってないでしょ。

なにより電波、来世否定の根拠である14無記は消えた!
しかも水野先生の説を逆に紹介してたなら、
全く信用に値しない人ということになると思うんだけど。
315阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/15(金) 17:10:08 ID:cCKWTrk8
>>314
電波男さんが評価していたのは優秀なゴーストが参加した『中論』や羅什訳の
『法華経』の現代語訳(共にレグルス文庫)だったと記憶します。
そもそも「『来世否定』の根拠である14無記」など全く為されていないのだが(笑)。
316名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 17:31:17 ID:bcUk9yVq
>>315
あ、そ。じゃ、そゆことでいいよ。ログとか見たくないから。
317無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/15(金) 17:39:10 ID:2Ujk5PcS
で、結局、暇人さんが、
>>286 で紹介した森氏の書込み

>  前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説における
> tathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した
> 完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。

に関して、論拠に基づいた「まともな批判・評価」をできる「まともな専門家」は、
このスレにはいないということですね。

専門の常識を自慢する人は、イパーイいたような気がしたんだけドナー。
引用文献の裏をとるのは専門家でもむづかしいのですかねー。
318名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 17:44:35 ID:1pZtaM/0
>>316
あなたは感情的になって見えるべきものが見えていませんね。
>>312で電波が三枝を評価しているというのは全く逆読みです。
また>>314での
>なにより電波、来世否定の根拠である14無記は消えた!
の来世否定など彼はしていません。そしてあなたのいい加減差は
>>316
>あ、そ。じゃ、そゆことでいいよ。ログとか見たくないから。
に現れています。

暇人さんという少しいかれた方が暴走するのを見るのは楽しいです。
319名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 18:23:46 ID:SB0vb0Wv
仏教に限らないだろうが、ある程度、基礎的な本をまず読んで、そのあとは原典を自分で
見て(通読はしなくても)、考えたほうがよいと俺はおもうよ。

基礎的な術語の理解が根本だから、文法書読んだほうが結局は早道だよ。デムパな意見
への結論は出ているよ。
320名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 19:03:31 ID:gSC+iSZb
>>319
> 仏教に限らないだろうが、ある程度、基礎的な本をまず読んで、そのあとは原典を自分で
> 見て(通読はしなくても)、考えたほうがよいと俺はおもうよ。

そうだね 
人の意見だけ集めてみても基礎的な本を読んでないとおかしな認識で固まるみたいだね。

321名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 19:15:32 ID:Tk6+eYA7
中村元さんの原始仏教を呼んでも、「現観」という言葉は出てこないと思うんですが、
「解脱知見」のことですか?
322名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 20:09:17 ID:bcUk9yVq
>318
ごめんごめん。誤読だったよ。間違いは認めないとね。
しかし、それでは尚更、分からない。
話題になってない、三枝さんを出すんだから、困る。

暴走は、どうみても電波としか思えないが。
どうみたら電波を評価できるのか、不思議としか言えない。
323暇人:2005/07/15(金) 22:12:19 ID:39f8jcGN
評価は 人それぞれで良いじゃん。
暇人がぼそーしてるもありでしょう。

感じ方は 人様々だしねぇ。

オレはこう思う へぇー私はこう考える
あたしはこうだと思うなぁ とか 
こんな感じで良いじゃん

何はともあれ 生きてあることに感謝。
皆様も くれぐれもご自愛ください
324ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/16(土) 00:54:39 ID:mpXlyp6e
毒矢の喩(マールンキャプッタ経)のタターガタを人(衆生)と訳しているものは
今すぐ目につく私の手元にあるもので、
@中央公論社「世界の名著1」バラモン教典・原始仏典に収録分p473、訳者は桜部建
A講談社「原始仏典五 ブッダのことばV」p3、訳者は田中教照
B大蔵出版「南伝大蔵経」第十巻、中部経典二p222、訳者は干潟龍祥
C大法輪閣「阿含経典による仏教の根本聖典」、p236、訳者は増谷文雄

いわゆる「如来(ブッダ)」と訳しているもの
@春秋社「原始仏典 第五巻 中部経典U」p303、訳者は浪花宣明
A平楽寺書店「原始仏教」サーラ叢書4 p94、訳者は水野弘元

「人格完成者@」また「完全な人格者A」と訳しているもの
@春秋社「原始仏教の思想T」p211、訳者は中村元
A講談社学術文庫「ゴータマブッダ」p311、訳者は早島鏡正

雲井昭善さんの『パーリ語仏教辞典』によればtathAgataの項で4種の訳をあげます。
人(衆生)と訳す根拠はブッダゴーサの注釈書(DAやMA)に六十二見中の詭弁論
(十、十四無記の文脈と同意)に出てくるtathAgataはsattaと同じと言う説を
採用しているため。

探せばまだまだ見つかると思いますが、
いずれにしろブッダ釈尊の説法ではtathAgataが「如来」であれ「衆生」であれ
そのような問題は、苦の解決には全く役立たないので捨て置けと言うのが眼目です。
325無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/16(土) 08:12:37 ID:cFnGxBPe
>>295
> 釈尊が「九次第定」の最後の「滅想受定」に入った時、
> アナンダは釈尊が「ニルヴァーナ」に入ったと思ったのだが、
> アヌルッダから 「ニルヴァーナ」ではなく「滅想受定」に入られたのだ
> とたしなめた とあります。
>>299-300
> 「九次第定」の続きです。

> するとアヌルッダは
> 二人がこれこれの瞑想体験をしていると私に明らかにしたことはないけれど
> 私には自分の心でもって「この尊者たちは、これとこれの住まいの禅定をえている」
> と尊者たちの心がわかるのです と応えています。
> 前掲書は「自分の心」を注記して「他心通」のこと解説しています

暇人さん、レスありがとうございます。
・アヌルッダが釈尊の入滅時に、その状況をモニタしており、それに基づき経典が書かれた。
と考えるのが一番素直な解釈のようですね。

http://www21.big.or.jp/~pcs/ent/omoukoto/2005_7/zakkan.htm
> D阿那律(あなりつ):天眼第一
> アヌルッダ、カピラ王族の息子で、釈迦のいとこである。
> 阿那律は完全に失明した。
> しかし、阿那律は理屈を越えた、自ら信じる道を徹底して進み、
> 視力を失うことで、永遠の真理を見る心の眼を得た。

おそらく、視覚以外のもので釈尊の様子を観ていたのですね。
ところで、
> そして「滅想受処」を体験し「煩悩を滅ぼし尽くした」
ですから、
『「滅想受処」を体験した人 = 阿羅漢』 ではないでしょうか?
326暇人:2005/07/16(土) 08:46:55 ID:2GYU2SdB
中谷英明神戸学院大教授

パーリ仏典のうち,『スッタニパータ』,『ダンマパダ』,『サンユッタニカーヤ』などの諸
仏典は,これまで最初期仏典としてほとんど区別なく扱われ,本文解釈がなされてきた。これ
は近代の仏教学者が,紀元後5世紀頃に制作されたパーリ注釈書の解釈に従ってきたからであ
る。しかし実際には,仏陀の死後8世紀を経過し,教理体系が整備された時代の解釈は,テキ
スト本来の意味としばしば乖離している。(略)
初期仏典の音韻,韻律,語形,構文,語彙,思想について統計分析を行い,バラモン教聖典『シ
ャタパタ・ブラーフマナ』,古層『ウパニシャッド』との比較を通じ,初期仏典に4層が区別
されること,またアショーカ王碑文の言語との関係および内容(孤独な遊行生活の推奨)から,
その最古層部分(『スッタニパータ』の一部等)は,アショーカ王以前に遡り,教団生活を前
提する次の層とは1世紀以上の懸隔があることを指摘した。
この最古層テキストを,注釈書に依拠するのでなく,その層固有の思想を提示するものとして
読解する時,そこには他の層と明瞭に異なる世界観が現われる。生き生きした現実感覚,呪術
的なものの否定,理性を感情や肉体とともに捉える視点,また人間行動の動因としての「潜在
欲望」の確認など,教理によって硬直した後代のテキストには見られない,直裁かつ柔軟な思
考が読み取られる。それは従来考えられていたよりはるかに『ウパニシャッド』哲学に近似す
る。
____________________________________________________________________________________

ブッダゴーサの注釈、つまり紀元後5世紀頃に制作されたパーリ注釈書の解釈からの判断は
現代となっては もはや克服対象かもですね
327名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 08:58:04 ID:y+Q/n2gI
また学問馬鹿が吠えている
328名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 08:58:39 ID:y+Q/n2gI
おまえ、理解してないだろ
329暇人:2005/07/16(土) 09:07:17 ID:2GYU2SdB
「視力を失うことで、永遠の真理を見る心の眼を得た」と伝説される
アヌルッダに「他心通」が可能ということにして、阿含の後期経典は
釈尊の最後の瞑想の次第をアヌルッダに語らせたように 私は思います。
ありていに言えば「作り話」。
私はヒネクレモノですので 捻くれネジクレ解釈と言うことで。

伝説によればアヌルッダは阿羅漢でしょうね。
釈滅後の会議主催者の一人というか
会議時には、釈迦教団ナンバー2の 有力長老です。
330名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 09:10:45 ID:62DlFve7
>>327
学問馬鹿じゃない。学問振り子である。検証能力がないから。
331名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 09:15:20 ID:tXyGDX+2
>>330
色々発言してるけど、すべて自説の反証を導くもの。
滅尽定等は阿羅漢のみが入定出来ることは経典などに説明されているが、
阿羅漢以外にも入る門がある。
332暇人:2005/07/16(土) 09:24:22 ID:2GYU2SdB
>>331

>滅尽定等は阿羅漢のみが入定出来ることは経典などに説明されている

経証出してください。それどこになんて書いてあるの?

>阿羅漢以外にも入る門がある

経証出してください。それどこになんて書いてあるの?
333名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 09:33:01 ID:HFWycgvK
滅受想定 saññāvedayitanirodha the extinction of perception and feeling

一見、死者に異ならないが、五根破壊せず、寿煖の去らない定。滅尽定。
「入定」、「即身仏」の根拠。空想的な定だろうね。
334暇人:2005/07/16(土) 10:14:52 ID:2GYU2SdB
>>333
その辞書だれの辞書?

水野「パーリ語辞典」だと
saññāの項にsaññā-vedayita-nirodha→想受滅
    saññā-vedayita-nirodha-samāpatti→想受滅定
となっているけどね
335名無しさん@3周年:2005/07/16(土) 10:15:58 ID:pqw1utA6
おもしろいか?
336無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/16(土) 17:15:19 ID:cFnGxBPe
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb11.html
897 :暇人:2005/05/26(木) 07:20:55 ID:vWKOvyTZ
■無記文脈で「如来の死後」がいまだに世間では有力
うむぅ。本当に列挙して欲しいの?汗 知らんの?
中村「佛教語大辞典」は挙げましたね。
あと例えば平川彰著作集T「法と縁起」とか三枝さんの「バウッダ」。
水野さんの「原始仏教」もしかり。

906 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/26(木) 11:04:21 ID:hwZNJvCP
それと、水野弘元は積極的な衆生説ですよ。なんか勘違いしてませんか?

http://www2.toyo.ac.jp/~morimori/cgi-bin/resbbs1/resbbs.cgi
[110]Re:無記と「タターガタ」
森 章司
9/12(Sun) 14:01

無記説の中に使われているタターガタの語義については、水野弘元先生の
「tathAgata(如来)の意義用法」(『印度学仏教学研究』5-1 昭和32年1月)
という論文と、石上善応先生の「無記説とパリバージャカ」(『佐藤博
士古稀記念 仏教思想論叢』山喜房仏書林 昭和47年10月9日)という論文を
参照してみて下さい。
 前者にはタターガタの用例を綿密に検討されたうえで、「無記説における
tathAgataも、仏教的な如来も、その起源は等しく、共に<生死輪廻を脱した
完全者>の意味を含むものであったと思われる」と結論を下されています。
(>>286 :暇人:2005/07/14(木) 08:08:30 ID:N7txZc4A)

>>314 :名無しさん@3周年:2005/07/15(金) 16:55:00 ID:bcUk9yVq
なにより電波、(省略)
しかも水野先生の説を逆に紹介してたなら、
全く信用に値しない人ということになると思うんだけど。
337無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/16(土) 21:01:00 ID:cFnGxBPe
http://www.geocities.jp/bukkyoucouncelling/fl-rinbutu2/shoki-rin2/sizen-05.htm
 四禅を超えて「想受滅」を経て解脱するという経典もある(3)。
(3)「南伝大蔵経」9巻、360、313頁。10巻、267頁。13巻、311頁。

何が書いてあるんでしょう?
338無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/17(日) 08:55:41 ID:Td0apfSM
>>301 :暇人:2005/07/15(金) 07:29:12 ID:n0G4Wz4N
> 「縁起の各支」をヴィパサナー瞑想したら 「直ちに理解した」という
> 意味の「縁起の現觀」は阿含にあります。
> >>282の■理解を意味する現観ですね
> 四諦を瞑想する観法(平川説) としての「四諦現観」も阿含にあります。
> 注意どころは、
> 世親の倶舎論に説かれている「聖諦現觀」に三現観あり、その二に
> 「縁現観」があります。倶舎論の「聖諦現觀」は「四諦」と絡んで
> 説かれますので、>>96の「四諦現觀と縁起現觀は同じこと」というのは
> 倶舎論的教養ではないかと推測しています。

「縁起の現觀」は、(1)「縁起の各支」を瞑想、または(2)十二支縁起を理論的に理解
で疑問はありません。
では、「四諦現観」とはなにか? 苦・集・滅・道を順に瞑想することなのか?
http://www.geocities.jp/bukkyoucouncelling/fl-rinbutu2/shoki-rin2/genkan-gensi.htm
を読んだ印象では、四苦八苦といった概念としての苦ではなく、
各人のかかえる苦、
・貧乏は嫌だ
・職場でもっと認められたい
・性格が悪い
といった具体的な問題、その原因、その滅、解決方法を瞑想することではないか?
そうだとすれば、四諦現觀と縁起現觀は別物です。
仮に、「四諦現観」が苦・集・滅・道を順に瞑想するだとして、
苦・集・滅の瞑想が結局、「縁起の各支」を瞑想になるとしても、
「道=八正道」の瞑想は、「縁起の現觀」には含まれないと思います。

>>282
> 4ヴィパサナー瞑想を前段階とした「概念を超えた縁起の現観」(電波男)
> 止観(四禅)の次の段階としての現観(電波男)
どんな現観なんだろう?
339名無しさん@3周年:2005/07/17(日) 10:15:47 ID:bU+uXS0q
>>334
馬鹿だね。意味のない発言。
340名無しさん@3周年:2005/07/17(日) 15:18:38 ID:XYPf8CHd
>>279---{
 >修行僧たちよ、このような境地がある。そこでは、地もなく、水もなく、火もなく、風もなく、
空無辺処もなく、識無辺処もなく、無所有処もなく、非想非非想処もなく、この世もなく、あの世もなく、
月も太陽もない。
修行僧たちよ、[そこに]来るとも、行くともいえず、[そこに]いるとも、
死ぬとも、[再]生するともいえない。それは何かに依っているのでも、何かから生じたのでも、
何かに支えられているのでもない。
それこそが苦しみの終わりである。
---} 『ウダーナ』80ページ
>このような釈迦の言葉は、涅槃の体験・境地について言及したものであり、
哲学的認識や分析知とは関わりのないものだと思えます。

上の結論は同意できず、私は全く反対に解したいのです。
 相対的存在は、又は、縁起しているものは、又は原因有っての結果は、双方において
自性のないものである。したがって個別にも全体にも「空」である。
 これが釈迦の説いた理法であり、真理であると思います。この真理に同意し、その真理を受け入れた
眼及び心で、物事を見るべきです。そうすれば当然「修行僧たちよ、このようなきょうちがある。・・・・
・其れこそが苦しみの終わりである。」とこういう事にならざるを得ないともいますが、。
ですから、これは知恵の眼「真理の眼」から見た世界ということになるでしょう。
 修行するものは、真理に従うということをするのですから、真理の世界に自分を一体にするようにするべきだと
思うのです。
341名無しさん@3周年:2005/07/17(日) 15:33:55 ID:XYPf8CHd
>>280
形而上学
1 アリストテレスでは、あらゆる存在者を存在者たらしめている根拠を探究する学問。すなわち第一哲学または神学。
2 現象的世界を超越した本体的なものや絶対的な存在者を、思弁的思惟や知的直観によって考究しようとする学問。主要な対象は魂・世界・神など。

 釈迦が明らかにした真理「空」はすべての質問に答えていると思うのですが、
どうして、無記とされるのか判らないのです。
342名無しさん@3周年:2005/07/17(日) 15:35:36 ID:/QsoXAZK
a
343机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/17(日) 16:12:42 ID:VKPgIqug
>>341
> 釈迦が明らかにした真理「空」はすべての質問に答えていると思うのですが、
>どうして、無記とされるのか判らないのです。

いやいや、おそれいります。

空ですから、無記以外には答えようがないかとおもう。
それとも何か、適当な言い方でも考えつきましたか?
344無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/17(日) 20:02:46 ID:Td0apfSM
有無の見
http://www2.big.or.jp/~yba/teach/mizutani110.html
有見とは
「万物は常住であり、不変であって、人は死んでもまた生まれ変わる」
という考え方。
 無見とは
「万物はすべて虚無であり、人は死ぬとまったく無に帰する」
という考え方。
 この二つの考え方は、正しい因果の道理に背くものとして、邪見といわれる。
-------------------
728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
実に愚者は知らないで生存の素因をつくり、くり返し苦しみを受ける。
それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
(スッタニパータ)
-------------------
素直に解釈すると、
●再生の素因があれば、人は死んでもまた生まれ変わる。
○再生の素因がなければ、生まれ変わらず、解脱する。

解脱すれば、出世間に住し、この世に存在しない。
この世的に見れば、
○再生の素因がなければ、人は死ぬとまったく無に帰する。
と言えよう。

したがって、有無中道で、人の死後を考えれば、次のように言える。(のかな?)

『再生の素因があれば、人は死んでもまた生まれ変わる。
再生の素因がなければ、人は死ぬとまったく無に帰する。』
345名無しさん@3周年:2005/07/17(日) 23:25:09 ID:XYPf8CHd
>>344
>、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
(スッタニパータ)

再生の素因とは何ですか?
因果というのは、因と果ということですから相対的な存在です。 
相対的に存在しているものは自性がない、すなわち、空である、といわなければなりません。
執着を因「縁」として、苦しみという「果」が生じている事になります。
とすれば、因「縁」もなく、「果」もないということになります。
故に、執着もなく、苦しみもない、というのが真理ということになります。
ニモカカワラヅ、苦しみがあるとすれば、「執着」か若しくは「苦しみ」
のどちらかに、執着して、いるのでしょう。
 正見とは、般若の知恵でしょう?般若の知恵です。正思とは般若の知恵を
正しく適用することでしょうか?正見以外はみんな般若の知恵を正しく適用する形態でしょう?
 「空」そのものにも執着してはならないのだ。
 ごめん、なんか独り言のようになって。
346無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/18(月) 05:48:23 ID:is9Bi+1b
222さんが、>>263 で紹介している『ダンマパダ』 153 の部分(153-154)を
テーラワーダ仏教のサイトでは、
『釈迦牟尼仏陀が無上なる正覚を得たとき、最初に述べられた歓喜の言葉』
として紹介しているようですね。
---------
http://www.j-theravada.net/sutta/Paticca_Samuppado.html
(表示すると、読経が始まります【注意】)

153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
---------
私:自己(アートマン、認識主体)
家屋:身心
家屋の作者:妄執

家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。:
十二支縁起(有因の法、諸縁の滅仁)が明らかになった。

と解釈していいのかな?

>>345
> 再生の素因とは何ですか?
上記でいえば、妄執のことでしょうね。
十二支縁起の支でいえば、無明、愛、取の三支ではないでしょうか?
347名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 07:22:01 ID:KGRExA8I
いっちゃあ悪いけど「無」に囚われた、仏教系の新興宗教、禅宗は駄目だな。
釈迦の教えから外れている。
348名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 09:08:01 ID:cy/B3B0O
我々は今仏教の真髄に迫るほどの重要な状況に有ると思う。
この仏教というのは、他の宗教と相対的に存する宗教という意味ではなく、
真理の教えという意味である。其れは存在するものを解明する「理法」である。
 >>347サン、私は反対の意見を持つようになった。禅宗こそ釈尊の教えを
受け継いでいるのではないかと。天台系は「理法」を誤解しているか誤解されやすいものにしている
のではないかと思うようになった。
349名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 09:23:50 ID:EZ/T/yZq
無記と tath携ata についての論文を検索してみました。特に0. と3.がここのテーマにピッタリだと思います。

0.森 章司「死後と輪廻はあるか−−「無記」「十二縁起」「無我」の再考−−」『東洋学論叢』30 2005
1. 越後屋 正行「十無記に関する一考察 パーリ仏教註釈文献を中心として」『駒沢大学大学院仏教学研究会年報』, 35 20020400、0096-147
2. 茨田 通俊「対外道における初期仏教の思想的見地 業・輪廻思想と無記説」『真宗教学研究』, 20 20010330 、0184-124
3. 望月 海慧「ブッダは輪廻思想を認めたのか」 『日本仏教学会年報』, 66 20010300 、0058-163
4. 浪花 宣明「パーリ上座部の業論(2) 輪廻」 『仏教研究 / 国際仏教徒協会』, 25 19960300
5. 浪花 宣明「パーリ上座部の業論(1) 業果の必然性」 (『仏教研究 / 国際仏教徒協会』, 23 19940300
6. 茨田 通俊「無記説と外教思想」『仏教学セミナー / 大谷大学仏教学会』, 57 19930530 、0134-086
7. 羽矢 辰夫「無記と非我」『前田専学先生還暦記念:我の思想』, - 19911030、0217-191
8. 羽矢 辰夫「無記と空 原始仏教における」『印度学仏教学研究』, 78(39-2) 19910320 、0037-127
9. 羽矢 辰夫「無記と無常」『武蔵野女子大学仏教文化研究所紀要』, 8 19900331 、0092-105
10. 石上 善応「無記説とパリバジャーカ」『佐藤博士古希記念:仏教思想論叢』, - 19721009 、0218-151
11. 水野 弘元「tath\={a}gata(如来)の意義用法」『印度学仏教学研究』, 9(5-1) 19570125 、0003-011

おまけ:
http://www.evam.com/evam2/socie/ronbun/indo/tathAgata.pdf
350机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/18(月) 14:25:17 ID:UPtx+dBy
>>348
> >>347サン、私は反対の意見を持つようになった。禅宗こそ釈尊の教えを
>受け継いでいるのではないかと

お気づきになりましたか・・・。

じつは無記というのは、勝義諦への重要なポイントになってる。
351名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 14:52:13 ID:cy/B3B0O
>>350
>じつは無記というのは、勝義諦への重要なポイントになってる。

詳しく説明してください。お願いします。
352暇人:2005/07/18(月) 14:54:39 ID:1tnLfZJI
>>351

勝義諦は竜樹の用語だから 原始仏教と無関係だと私は思うが。
353机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/18(月) 15:13:13 ID:UPtx+dBy
>>351
無記のひとつに、来世があるか、ないか、ってことに関して・・・

そもそもこのお題は、確実に未来がある。
ってことを想定したものです。

未来というのも、過去というのも、実際はないわけです。
(縁生・縁滅の理法)
よって、来世のことは「問い自体が矛盾してるわけです」。

そもそも、人間の認識というのは自己矛盾があるわけです。
ペロ氏のように、いくら論理の整合性を求めても勝義諦に悟入できないのは、
この自己矛盾に気が付かないからです。

先ずは、このことから自己を習うことが是仏道やにおもいます。
さすれば眼は開くなり。
354名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 15:53:26 ID:cy/B3B0O
>>352
>勝義諦は竜樹の用語だから 原始仏教と無関係だと私は思うが。

原始仏教の理法というのも、縁起と空だと思いますが、そして、竜樹も其れを受けていると思っていますが、
竜樹の勝義諦は縁起と空のことではないということですか?
 どうか詳しく説明してください、よろしければ、お願いします。

 >>353
>このことから自己を習うことが是仏道やにおもいます

自己にふさわしくない質問をしているということでしょうか?
何処か、多分原始経典のうちだったと思いますが、もっとも大事な真理「第一義諦」を学ばないので、人は迷妄に
陥るのである、というような教えがありました。だとすれば、無記の教えの中で、
第一義対「食う」を教えて、質問者の真意に答えるのがよかったのではないかと思うのです。
質問者の真意は第一義諦はなにか、ということだったと思われます。
355机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/18(月) 16:43:59 ID:UPtx+dBy
>>354
>第一義対「食う」を教えて、質問者の真意に答えるのがよかったのではないかと思うのです。

そんなに簡単なもんじゃないですね。

日常における思考システムというのは、あるベクトルをもちまして、
このベクトルの範疇において思惟するわけです。
つまり、論理性の構築をする。

この日常性というベクトルを切断しませんと、理解は至難です。
これを直覚とか直観とか言われる、いわゆる禅においての「気づき」というもんです。
突如としてこれがありまして、悟入するわけです。
356名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 19:18:52 ID:cy/B3B0O
>>346 :無宗だ
153 わたくしは幾多の生涯にわたって生死の流れを無益に経めぐって来た、
──家屋の作者(ツクリテ)をさがしもとめて──。
あの生涯、この生涯とくりかえすのは苦しいことである。

154 家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。
---------
私:自己(アートマン、認識主体)
家屋:身心
家屋の作者:妄執

家屋の作者よ! 汝の正体は見られてしまった。:
十二支縁起(有因の法、諸縁の滅仁)が明らかになった。

と解釈していいのかな?

無宗ださん、家屋の造りでである妄執の正体は何だとお考えですか?
 どう言う正体であるので、妄執を打破し、「汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。」
ということになったのでしょうか?
357暇人:2005/07/18(月) 20:02:51 ID:E7ZxnuPy
竜樹の勝義諦は、経典に色々 矛盾があるので 普通の人はおかしいと
思うが、釈尊の教えには世間の人にあわせて世俗の言葉で対機説法した
世俗諦と 真実をそのまま語った勝義諦があるので、それは矛盾じゃないよ
という説明に生み出された概念であって、
初期経典にその概念はないという話です
358無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/18(月) 20:36:37 ID:uPmYAFda
>>356
> 無宗ださん、家屋の造りでである妄執の正体は何だとお考えですか?
>  どう言う正体であるので、妄執を打破し、「汝はもはや家屋を作ることはないであろう。
> 汝の梁はすべて折れ、家の屋根は壊れてしまった。心は形成作用を離れて、妄執を滅ぼし尽くした。」
> ということになったのでしょうか?

スッタニパータに
> 728 世間には種々なる苦しみがあるが、それらは生存の素因にもとずいて生起する。
(略)
> それ故に、知り明らめて、苦しみの生ずる原因を観察し、再生の素因をつくるな。
とあり、解脱(悟り)の条件に
> 漏尽智(漏尽通ともいい、現在を知り、煩悩を取り去る能力)
があります。
これらのことから、
●妄執=生存/再生の素因=煩悩
そして、
煩悩=(十二支縁起の支でいえば)無明、愛、取の三支
と考えます。

種を畑に蒔けば、収穫があるように

無明、愛、取に対して、
有(三界)という実体化の場を存在することにより、
生があるのだと考えます。
359名無しさん@3周年:2005/07/18(月) 20:55:46 ID:67xLAERh
>>353

> 未来というのも、過去というのも、実際はないわけです。
> (縁生・縁滅の理法)
> よって、来世のことは「問い自体が矛盾してるわけです」。

なかなか 含蓄のある言葉です、机さんもいいこといいますね。
360220:2005/07/18(月) 21:15:09 ID:EJRGRJmi
「悟りを開いた」「無我の境地に至った」と断定できる人はいるのでしょうか?
また、その人達の最終目標とは何でしょうか?
361机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/18(月) 21:50:53 ID:UPtx+dBy
>>359
おそれいります。
>>360
「本来仏」ならば、無我の境地に到らずとも、本来のままにて調ふのが宜しかろう。
かと思ふ。

>>360
>また、その人達の最終目標とは何でしょうか?

「本来仏」ならば、最終目標に到らずとも、本来のままにて調ふのが宜しかろう。
かと思ふ。

#、、「本来仏」というのは、こういった世俗諦では使いますが、
勝義諦では仏というのは「空」に置き換えていいかとおもいます。

では、これにて私は寝ます。


362220:2005/07/18(月) 22:20:49 ID:EJRGRJmi
>>361
> 「本来仏」ならば、無我の境地に到らずとも、本来のままにて調ふのが宜しかろう。 かと思ふ。
居ないということですか?

> 「本来仏」ならば、最終目標に到らずとも、本来のままにて調ふのが宜しかろう。 かと思ふ。
至る至らないではなくて「最終目標とは何?」と聞いたのですが・・・
363机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/18(月) 22:37:11 ID:UPtx+dBy
>>362
>居ないということですか?

無我なれば、無我の境地に到ることもなく、また至らないこともない、わけです。
無我ですから。

貴殿は形容矛盾をしてないですか?

>至る至らないではなくて「最終目標とは何?」と聞いたのですが・・・

目標というのは、日常における論理性の構築です。
前にこカキコしたとおり、禅においてはこの日常性の切断なわけです。
即今即所。
最終目標はありません。

では、では・・・

364220:2005/07/18(月) 23:03:57 ID:EJRGRJmi
>>363
> 無我なれば、無我の境地に到ることもなく、また至らないこともない、わけです。 無我ですから。
「悟りや無我の境地とは何ですか?」と聞いているワケではないのですが?

> 最終目標はありません。
「悟りを開いた人=廃人」ですか?
365机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 06:26:45 ID:vfgnrF9A
>>364
>「悟りや無我の境地とは何ですか?」と聞いているワケではないのですが?

無我の境地に到る主体とは何でしょう?
無我の自分と・・・・無我に到る自分の・・・・ふたつの自分がいることになる。
そこのとこを私は形容矛盾と言うておるのです。

>「悟りを開いた人=廃人」ですか?

いえいえ、そんなことはないですね。
「廃人」とか「賢者」とか「ハクチ」とか、そういうレッテルはいらなくなります。

電波先生の十八番の「ハクチ」という分別概念こそなくなるわけです。
賢愚一如というております。
366名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 07:45:11 ID:G5E4MQDz
だからさ、禅宗は、原始仏教とは違う方向に行ってるわけよ。
達磨の得た悟りと、釈迦の得た悟りは別物だ。
空、空、空、空理空論で、悦に入るのが禅宗。行き着く先は無、無、無。
彼らは悪いけど、穴に落ちるよ。

生きとし生けるものは幸せであれ。と説くのが、釈迦の教え、原始仏教。
367名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 07:47:35 ID:YFqFgYX8
体験していないことを頭で考えただけで
わかるの?
368名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 07:49:33 ID:YFqFgYX8
大したもんだよ。そこまでくれば
369220:2005/07/19(火) 09:05:10 ID:rrPxY5Nu
>>365
「無我の境地」という言葉に妙に抵抗があるようなので「悟り」や「真我」で構いませんよ。
悟り開いたと断定できるような人物は今までに居たのですか?
悟り開くための目的は悟り自体ですか?
370名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 09:05:36 ID:G5E4MQDz
>善き〔行為〕を為した者は、この〔世において〕喜び、死後において喜ぶ。
>〔すなわち〕両所において喜ぶ。自己の清らかな行為(業)を見て、彼は喜び、彼は喜びをきわめる。

>悪しき〔行為〕を為す者は、この〔世において〕悩み苦しみ、死後において悩み苦しむ。
>〔すなわち〕両所において悩み苦しむ。〔この世では〕「わたしは、悪を為した」と悩み苦しみ、
>〔死後は〕悪しき境遇(悪趣)に赴いて、より一層、悩み苦しむ。

>善を成すのを急げ。悪から心を退けよ。善を成すのにのろのろしたら、心は悪事を楽しむ。

>まだ悪い報いが熟しない間は、悪人でも幸運にあうことがある。
>しかし悪の報いが熟したときは、悪人は災いにあう。

>まだ善い報いが熟していない間は、善人でも災いにあうことがある。
>しかし善の報いが熟したときは、善人は幸福にあう。

>その報いは私には来ないであろうと、悪を軽んずるな。水が一滴ずつしたたるならば、
>水瓶も満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むなら、やがて
>災いに満たされる。

>その報いは私には来ないであろうと、善を軽んずるな。水が一滴ずつしたたるならば、
>水瓶も満たされるのである。気を付けている者は、水を少しずつでも集めるように善を積むなら、やがて
>幸福に満たされる。

>ある人々は、人の胎に宿り、悪を成した者どもは地獄に落ち、
>行いの善い者は天に赴き、汚れのない人々は、全き安らぎに入る。

>先ず、自分を正しく整え、次いで他人を教えよ。そうすれば賢明は人は 煩わされて悩む人がないだろう。

>自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか。自己をよく整えたならば、得がたき
>主を得る。

以上、ダンマパタより。これは、仏教の始祖、釈迦の言葉である。
371名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 09:06:55 ID:G5E4MQDz
一方、禅宗の始祖、達磨の言葉。

【廓然無聖】かくねんむしょう

中国に到着した達磨大師に対し、[南朝]梁の国の王である武帝が尋ねた。
「私は、これまで多数の寺を造り、経典を写させ、僧侶を育成してきた。
 こうまでした私には、どんな功徳があるのか」
「功徳などまったくない」
「ならば、仏教における最も聖なる真理は、何だというのか」
「廓然無聖(カラッとした空っぽなもので、聖なるものも、真なるものもない)」
「空っぽで何もないというが、それなら、いま私の前にいるお前は何なのだ!?」
「知らぬ」
達磨は、揚子江を渡り、
[北朝の北]魏の国の崇山少林寺[すうざん しょうりんじ]に去ってしまった。

『景徳伝燈録』『碧巌録』第一則

どうだろう?屁理屈こねず、あるがままをあるがままにみれば、釈迦の教えとの違いは一目瞭然だろう。特に
>「空っぽで何もないというが、それなら、いま私の前にいるお前は何なのだ!?」
>「知らぬ」
の下りは、馬鹿馬鹿しくて、失笑を禁じえない。無我の解釈を間違って捉え、
ともすれば、無、無、無と、この世に善悪などないと、屁理屈こねて、なにやってもいいなんて、そんな生き方
する者は、間違いなく穴に落ちる。あんたがた禅宗の方が、なにを信じようと勝手だが、
ここは原始仏教のスレ。せっかくの釈迦の教えを、禅の思想に摩り替えてしまうのはいかがなものか。
もう一つ釈迦の言葉を送ろう。

>愚かにも悪い見解に基づいて、真理に従って生きる真人、聖者たちの教えを罵るならば
>その人は悪い報いが熟する。カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

わかるかい?バカルカさん。及び邪見に囚われた、哀れな子羊さん達。
372名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 09:28:11 ID:OBIomVga
>>371
自分が邪見だろう。
373名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 11:00:38 ID:2tiGLmOT
>>371
>愚かにも悪い見解に基づいて、真理に従って生きる真人、聖者たちの教えを罵るならば
その人は悪い報いが熟する。カッタカという草は果実が熟すると自分自身が滅びてしまうように。

これも、お釈迦様がおっしゃれば金言ですが、
S価などの邪宗教が言い出せばそのままカルト発言になってしまいますね。
しかも、いかにも言いそうな台詞ときている。
このような発言ができる資格としては「真理に従って生きる真人、聖者」であることが
必要であるわけですが、
>バカルカさん。及び邪見に囚われた、哀れな子羊さん達。
などという悪口を匿名掲示板で平気で口にするおかたが「真理に従って生きる真人、聖者」
であることはありえないでしょうね。
ID:G5E4MQDzさんも邪見に囚われておられるようです。
374名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 11:05:14 ID:G5E4MQDz
>>373
>バカルカさん。及び邪見に囚われた、哀れな子羊さん達。
>などという悪口を匿名掲示板で平気で口にするおかたが「真理に従って生きる真人、聖者」
>であることはありえないでしょうね。

君の言うとおりだね。言われなくてもわかってるよ。自分で聖者なんて思ってないし。
我らは罪人ゆえ、死の束縛から逃れられないでいるんだよ。
375机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 11:47:56 ID:vfgnrF9A
>>369
>悟り開いたと断定できるような人物は今までに居たのですか?

数多くいたとおもいます。

>悟り開くための目的は悟り自体ですか?

基本的には四諦(一切皆苦)が底辺なんでしょうけど、
それはそれ、人それぞれに事情もまたいろいろかとおもいます。
376220:2005/07/19(火) 12:44:20 ID:rrPxY5Nu
>>375
> 数多くいたとおもいます。
悟りを開くのは以外と簡単なのですか?
仏陀以外には誰がいるのですか?

> それはそれ、人それぞれに事情もまたいろいろかとおもいます。
常人には出来ない悟りを開いた人にしか出来ないこととは何ですか?
377無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/19(火) 13:06:20 ID:3YsJ8r9f
今、輪廻に関して考えています。
原始仏教で輪廻をどう扱うかに関しては、
> まさに、生老病死はあり、悲嘆苦憂悩はある。
> 現実にそれらを征服することをわたしは教えるのである…。
この観点から考えてみるべき問題でしょう。

私は、仏陀はヤサと同様、自己の現在の生活に「歓楽のわざわい」を感じ、出家したのだと考えます。
求めたものは、「最高の生き方」。そして、常識として、
http://www3.ic-net.or.jp/~yaguchi/houwa/syoaku.htm
> 諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教 
> しょあくまくさ  しゅぜんぶぎょう  じじょうごい  ぜしょぶっきょう
>
> 諸々の悪しきことをせず、もろもろの善いことを実行しなさい。
> そして、自ずからその意(こころ)を浄めていくこと。これが諸佛の教えである。
この思いはあったと考えます。

「最高の生き方」=「諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意」とした場合に、
何を悪と考え、何を善と考えるか?
ここで、苦をもたらすものが悪だと考えたのかな。
しかし、更に考えを詰めていくと、「一切皆苦」に気付いてしまった。
輪廻の真偽が不明なら、死ねば苦はなくなるという結論には飛びつけない。
だがしかし、ここで、「諸行無常、諸法無我」に思い当たり、苦を現世において滅する道を発見する。
苦を生成する身口意の業は『悪』であり、苦を滅する身口意の業は『善』である。
そして、自己の全ての苦を滅することにより、「涅槃寂静」の境地に達した。

この世で悪業の限りを尽くしても、報いはないという考えを外道とみなしたが、
これを否定する根拠を得ていない可能性もあるのではなかろうか?
だがしかし、「この世で悪業の限りを尽くすこと」は、
苦を生成するする行為であるので悪であることは明確なので不可とした。

これ以上のことは、実際に解脱し、『「涅槃寂静」の境地』に達しなければわからないのかもしれない。
378机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 13:07:30 ID:vfgnrF9A
>>376
>悟りを開くのは以外と簡単なのですか?

簡単な人もいれば、また難しい人もいる。

>仏陀以外には誰がいるのですか?

私は禅宗に傾倒してますから、始祖の菩提達磨以降、多くの禅者は悟ったかともいますね。
それ以外にも多くいたかとおもいます。

>常人には出来ない悟りを開いた人にしか出来ないこととは何ですか?

悟ったからといって、なにも特別なことができる訳ではない。
出来るとか、出来ない、とかの二項には執着はしない。
379名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 13:21:07 ID:nFkw6S/q
修行して言っているのですか?間脳開発の技術は阿含宗にあります。
380220:2005/07/19(火) 13:38:58 ID:rrPxY5Nu
>>378
> 簡単な人もいれば、また難しい人もいる。
簡単と言っている人もいるということですか・・・
> 私は禅宗に傾倒してますから、始祖の菩提達磨以降、多くの禅者は悟ったかともいますね。 それ以外にも多くいたかとおもいます。
多分他にも居ると思うけど、仏陀、菩提達磨以外は知らないと言うことですか・・・
> 悟ったからといって、なにも特別なことができる訳ではない。
メリット薄ですか・・・
381机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 14:00:05 ID:vfgnrF9A
>>380
>多分他にも居ると思うけど、仏陀、菩提達磨以外は知らないと言うことですか・・・

そういうことですね。
「知った」からといって、どうということでもありませんし。

>メリット薄ですか・・・

メリットはないです。
ただ、私は禅というものに巡り合えて良かった。
そのような気持ちはあります。

ただ、それだけのこと。
他になんもないですね。

それだけで充分です。

382名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 14:16:57 ID:UFZxmhrN
机さん。それじゃ、悟ったと思っただけで全然、悟ってないのではないか? と思ってしまうんですが?
禅では悟ったかどうか師家が判定して印可というものをだしたりしますが、それは持ってます?

そして悟った人はとてつもなく嬉しくてしょうがなくなるようですよ。これは禅でも原始仏教でも
チベット仏教でも共通しているようです。そして悟った人は違いがきっちりあるようです。

悟ってないのに悟ったというのは大妄語、つまり大嘘というもっとも大きな罪の一つじゃありませんでしたか?
383名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 14:20:07 ID:4mMHkaU0
2chに出てくるだけで悟っていないのは明白。
384220:2005/07/19(火) 14:33:07 ID:rrPxY5Nu
>>381
> メリットはないです。
四苦八苦から脱するだけで終わり?
一神教徒のように神を知ったりすることも無いのですか・・・

>>382
> 禅では悟ったかどうか師家が判定して印可というものをだしたりしますが、それは持ってます?
> そして悟った人はとてつもなく嬉しくてしょうがなくなるようですよ。
まるで受験生のようですねw

> そして悟った人は違いがきっちりあるようです。
悟りを開いたことにより遺業を成し遂げた人はいますか?
385名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 15:00:02 ID:UFZxmhrN
遺業、のこした仕事? 偉業、偉大な仕事じゃなくて? 
偉業なら、釈尊が筆頭でしょう。インド変えちゃったし。
シナを変えた仏図澄。野蛮人の王、石勒、石虎を心服させ、シナに仏教を普及した。
日本を変えた聖徳太子。日本を野蛮人の国から仏教の文明国に変えた。
チベットを変えたグル・リンポチェとシャーンタラクシタ、
これまた野蛮人の国から仏教の文明国に変えた。

こういうことは見た目で分かるような圧倒的聖人でなければできないと思います。
習慣を変えるということはつまらないことでもとても力のいることだからです。
ましてや、生き方の根幹を変えることがどれほど難しいか、想像できませんか?
386机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 15:18:30 ID:vfgnrF9A
>>384
>一神教徒のように神を知ったりすることも無いのですか・・・

いいお題ですね。

神を知る、とか、知らない、とかの盲執からは全く無縁になります。

いわゆる禅とは、「自己を知る」ってことがメリットでしょうか。

387名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 16:13:28 ID:WM46xxHb
>>370
よい行いとはどんな行いなんでしょうか?
388机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 17:41:31 ID:vfgnrF9A
>>387
そんなこと、私に聞くまでもないこと。

そなたの胸の内が一番ご存知。

己に問うのが宜しかろう。
389机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 17:43:52 ID:vfgnrF9A
>>387
あはは、
すまんですね。

私に問うておったのではなかったですね。
390220:2005/07/19(火) 17:46:04 ID:rrPxY5Nu
>>385
偉業です。(変換ミスw)
ホントに悟りを開いていたかの真偽はワカリマセンが
どなたも偉大な方のようですね。
近代では誰がいるのでしょうか?

>>386
一神教徒なら「神を知る」などと回答するのでしょうが教義の違いですねw
391名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 17:50:29 ID:WM46xxHb
>>389
般若心教に、なぜ「空」なのかの説明がありません。
この「なぜ」は必要と思いますが、どうしてないのでしょうか?
392名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 18:00:47 ID:LPpDPjuP
>391
あなたは「なぜ」生きるか、って大切だと思いますか?
393名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 18:18:12 ID:WM46xxHb
>>392
誰でも幸せになりたいと思っていると思います。その途中で、
出てくる疑問だと思います。 
 大切でしょう。幸せになるためです。
394名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 19:07:12 ID:WM46xxHb
>>377
>だがしかし、「この世で悪業の限りを尽くすこと」は、
苦を生成するする行為であるので悪であることは

悪行が苦を生成する行為である説明をしてください。
395無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/19(火) 19:50:59 ID:3YsJ8r9f
>>394
> 悪行が苦を生成する行為である説明をしてください。

>>370
> >その報いは私には来ないであろうと、悪を軽んずるな。水が一滴ずつしたたるならば、
> >水瓶も満たされるのである。愚かな者は、水を少しずつでも集めるように悪を積むなら、
> >やがて災いに満たされる。

「災いに満たされる」のは苦である。
故に、悪行は苦を生成する行為である
Q.E.D.
396名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 20:13:03 ID:WM46xxHb
>>395
悪行とは執着した行為、盗むという行為は、どうして執着した行為になるんでしょうか?
397机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/19(火) 20:35:21 ID:vfgnrF9A
>>391
>般若心教に、なぜ「空」なのかの説明がありません。

いいお題ですね。
これにて私がカキコします。

先ず、色即是空の「色」とは世俗(世界)のことです。
世界はあまりにも難解です。
この難解なる世界を正見するには、やはり「空」という便宜上の「手綱」は必要です。
空において色はよくよく理解できるようになる。

無記においても、やはり空という手綱こそ必要なれ。

釈尊の本義である中道を究極まで逝ったものが、これが空です。
中道にしてこれ色がある。
つまり、空即是色ですね。

空は色であり、色は空である。
つまり、空と色はひとつなり。

>なぜ「空」なのかの説明がありません。

我見を離れますと、説明などまったくいらんのです。
398名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 22:26:17 ID:WM46xxHb
>>374
>我らは罪人ゆえ、死の束縛から逃れられないでいるんだよ。

あなたはせっかく仏教に縁していながら、今まで仏教を正しく理解していなかったために、
どんな罪でもたちどころに解消してくれる、般若の知恵というものを知らないのではないのですか?
 解説書を読んでみても、般若の知恵の効能を説いているものが少ない。
 あなたは罪「悪行」の故に、その果報としての「死」を免れない定めになっている、といわれていますが
、原因としての罪「悪行」なるものの自性はなく、したがって、悪行の果報としての「死」の自性もない。
人がそもそも自性のないものを自性があるかのように思って、追求することを、そのものに執着している
といっているのですが、元を正せば、あなたも、何とかして、罪を償って、
罪の結果である「死」を免れたいと思っておられてもんでしょうが、そのことこそ、
罪に対する及び、その結果の「死」に対するあなたの執着といわねばならないのだと思います。
 もう罪や「死」に対して執着するのは止めるべきです。罪や死には自性がないのですから。
そのことを般若の知恵として、教えられたのです。その理解も難しいものですか?
399名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 22:38:44 ID:WM46xxHb
398の続き
 このように理解したら、直ちに今までの慣習で、ついつい罪を
後悔したり、又将来の死を恐れる気持ちが生じた場合、
直ちに、その気持ちを、般若の知恵で断ち切るべきです。
 縁起しているもの、縁起したもの、縁起するであろうもの、また換言して、
原因あって生じた結果、また換言して、相対的に存在するもの、これらのものは
自性「実体」のない「空」なもので、決して認めてはいけないものということです。
自性のないものを自性のあるものと思って執着すること、これが悪に他ならないのだと思います。
 このことを知ったものが、修行するもの、大乗では菩薩となって修行するものとなるのだとおもますが。
執着の想念を押しつぶすことを積み重ねることで、執着のない人間になるのだと思います。
400暇人:2005/07/19(火) 22:57:59 ID:kixdG3Wn
>>398-399

キミのような勘違いヤローを防止するために
初期教団はもサンガ入門の最低条件として、
初等倫理「善因楽果 悪因苦果」を認めない人を入門させず、
これの学習の為の「入信準備期間」を設けたのだよ。
困った人だ。

>>396

すべては移り変わるから「執着」は結果的に「苦」なのです。
「盗むという行為」は、「執着」以前に 他者に対する侵害だから悪です
401名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 23:22:44 ID:WM46xxHb
>>400
> キミのような勘違いヤローを防止するために
 
 何処が勘違いでしょうか?因果を認めているでしょう?

>盗むという行為」は、「執着」以前に 他者に対する侵害だから悪です

 あなたの考えでは、執着することが悪ではないということですか?



402名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 23:35:59 ID:WM46xxHb
>>400
執着すること、していることこそ、因果を認めないものです。
因と果は両極端であり、因に執着するものは、果を認めていないのです。
その反対も同様。
 両極端を離れることをこそ釈迦は説いたのではありませんでしたか?
403暇人:2005/07/19(火) 23:38:40 ID:kixdG3Wn
>原因としての罪「悪行」なるものの自性はなく、
>したがって、悪行の果報としての「死」の自性もない
>今までの慣習で、ついつい罪を
>後悔したり、又将来の死を恐れる気持ちが生じた場合、
>直ちに、その気持ちを、般若の知恵で断ち切るべきです

悪いことして(悪因) その結果損するのはあんたよ(苦果)
だから 悪いことすんなよ 善いことをしようぜ、
心をきれいにするのが大事だぜ これが仏教よん
(諸悪莫作・衆善奉行・自浄其意・是諸仏教)

罪を犯したら慙愧し、懺悔し、反省して
もうしないでおこうと普通考えるのよ
君のカキコだと悪を奨励している。
あるいは悪いことしても反省せんでいいんだと誤解を与える
404暇人:2005/07/19(火) 23:41:56 ID:kixdG3Wn
>因と果は両極端

経証だしてみそ。因と果は両極端だから避けよとかないし。
阿含にあるのは苦楽中道と有無中道。
因果中道なんて 聞いたことないなぁ
勝手に教義作っちゃうのはね。。 いかがなものか。
405名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 23:54:47 ID:WM46xxHb
>>403
>罪を犯したら慙愧し、懺悔し、反省して

罪の結果に苦しむということ、これに対して、ああ罪なるものはなかったのだと知ること、
こうして、罪から開放される、または罪が許されるというのだと思う。こうでないと、
清くはならない、そして、なれない。
 
さて今晩はお終いにします。
406名無しさん@3周年:2005/07/19(火) 23:59:54 ID:JZPDBVH6
ま、あれだ。

禅宗は駄目だな。
407無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/20(水) 06:22:52 ID:qqIsr0s3
>>396
> 悪行とは執着した行為、盗むという行為は、どうして執着した行為になるんでしょうか?

「悪行とは執着した行為」というのは、あなたの個人的な思い込みですか?
もし、ソースがあるのなら、ご提示下さい。

「十悪業」はご存知ですか?

1. 「殺生(せっしょう)」、人の命を奪うこと
2. 「愉盗(ちゅうとう)」、盗みをはたらくこと
3. 「邪淫(じゃいん)」、ふしだらな不倫をすること
4. 「妄語(もうご)」、うそをつくこと
5. 「悪口(あっく)」、悪口をいうこと
6. 「両舌(りょうぜつ)」二枚舌をつかうこと
7. 「綺語(きご)」、おべんちゃらをつかうこと
8. 「貪(とん)」、足ることを知らない、むさぼりの心
9. 「瞋(じん)」、怒りの心
10.「痴(ち)」あるいは「邪見(じゃけん)」、智慧の足りない、愚かな心
http://plaza.rakuten.co.jp/ppibytatsu/diary/200503260000/

この内、あなたが悪行と思われないのは、どれとどれでしょう?
408カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/20(水) 11:02:13 ID:TY4Fo8+M
>気づきを〕怠らないこと(不放逸)は、不死の境地である。怠ること(放逸)は、死魔の境地である。
>〔気づきを〕怠らない者たちは、死ぬことがない。怠る者たちは、死んだままである。〜ダンマパタ
これは釈迦の言葉だ。

>>398
あんた、なにもわかっちゃいないね。
十二縁起くらいは知ってんだろう?無明に囚われた愚者は、罪人の意味もわからないらしい。

「悟りを求めて座ってみた。そこで得たのは「無」だ」
「なーんだ所詮この世は空(無自性)であり、本来善悪などというものはない。そんなものに執着するから苦がある」
「本来我らは自由なのだ。死ねば衆生皆仏。自由気まま、好き勝手に生きようではないか」

なんていうのは、仏教と言わず、邪教と言うんだよ。
釈迦がなぜ、真理に至る道、八正道を説いたか、あんた達にはわかんないだろうね。
409カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/20(水) 11:17:07 ID:TY4Fo8+M
>もし、人が、悪を為すなら、繰り返し、それ(悪)を為さないように。それ(悪)についての、
>欲〔の思い〕を為さないように。悪を積み重ねることは、苦しみである。〜ダンマパタ

>一切の悪を為さず、善を成就し、自らの心を遍く清めること−−これは、覚者たちの教えである〜ダンマパタ

>あるいは、〔物事の〕生滅〔の道理〕を見ずにいる者が、百年のあいだ、生きるとして、
>〔物事の〕生滅〔の道理〕を見る者の一日の生のほうが、より勝っている。〜ダンマパタ

>あるいは、不死の境地を見ずにいる者が、百年のあいだ、生きるとして、
>不死の境地を見る者の一日の生のほうが、より勝っている。〜ダンマパタ

>馬たちが御者[ぎょしゃ]によって善く調御されているように、
>彼の諸々の〔感官〕機能(根)が寂止〔の境地〕に達しているなら、高慢〔の思い〕を捨て去り、
>煩悩なく、そのような者である彼を、天〔の神々〕たちさえも羨む。〜ダンマパタ

生じたものは滅するのが定め。縁起により成り、無自性であるこの世は何一つ
永遠不滅のものはない。世もいずれは滅するのが定め。世が滅すれば縁起も滅する。
このように、この世は無我であると説く釈迦が、一方で不死の境地を説く。
縁起により成るこの世は、言うまでも無く二元世界である。光あれば闇あり。生あれば死あり
善があれば悪がある。
「一」であれば、悪は無い。悪は世と共にある。「一」はなにものとも縁起することなく存在出来るもの。
感官と縁起するものは、この世の事だ。世と共に、感官はある。世が無ければ感官も無い。
感官機能(根)が寂止しても存在するものが在るとすれば、なにと縁起して存在すると言うのか。
感官機能(根)が寂止しても存在する境地には、無論、自他の別も無い。
「一」とは自性だ。不死の境地はそこに在る。
410カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/20(水) 11:22:00 ID:TY4Fo8+M
無、無、無。空理空論、言葉遊びで悟ったつもりでいたら、穴に落ちてしまう。
無、無、無と自称悟った方が御高説をぶち上げるが、いいことを教えてあげよう。本当はさ、
永遠の無の存在になってしまうのを真に恐れなければいけないんだよ。本当の意味で無の事だ。
この恐怖は、がちがちの唯物論者ならよくわかると思う。
遅かれ早かれ、いずれ我々には死が訪れる。”唯物論がこの世の真理なら”、死と共に、私もあなたも永遠の無
になる。自分の存在が完全に消え、無になるのだ。その瞬間、死の瞬間は、いずれかならず、絶対にやってくる。
どう?怖くない?

なにげに、悟った風の方が、無、無、無としたり顔で語るのをみるにつけ、笑けてくるんだよね〜。
411机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/20(水) 11:56:44 ID:Pkv+O8IL
>>410
>無、無、無。空理空論、言葉遊びで悟ったつもりでいたら、穴に落ちてしまう。

これは、ベロ氏の論法と全く同じですね。
ベロ氏がいう「論理性」というのは、世俗における論理性です。
ならば「言葉遊び」と思うてしまうのは無理のないこと。
そこのとこは私もよぉ〜く分かっております。

貴殿が言う「穴に落ちる」とは、このことです。
大きな落とし穴があるのも、それは世俗諦から脱却できぬことに他ならぬ。

彼岸に逝きなされば、勝義諦の論理はある。
これを仏智というおりますが
仏智は
>遅かれ早かれ、いずれ我々には死が訪れる。
などという論理は通用せんのです。
「生」の帰結点として「死」があるわけではない。
時間的連続性という捉えかたこそ無明なるべし。

412カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/20(水) 12:22:00 ID:TY4Fo8+M
>>411
>「生」の帰結点として「死」があるわけではない。
>時間的連続性という捉えかたこそ無明なるべし。

ほう。久々に面白そうな話だな。そこまで言うなら聞かせてもらおうじゃないか。
「それは言語では言い表せない」なんてお決まりの台詞で、ごまかさないでくれよ。
413机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/20(水) 12:43:24 ID:Pkv+O8IL
>>412
>>遅かれ早かれ、いずれ我々には死が訪れる。

などと、貴殿の経験上において、貴殿がそう学習しているにすぎない。
その学習があたかも一片の間違いもないものと、
そう貴殿が理解しているに過ぎない。

先ずは、その貴殿の思考回路に”疑”をもつこと肝要なり。

仏道とは、疑ありて悟りあり。
疑なくば悟りはあらず。

このように調ひなされまし。
仏教とは、知ることにあらず。
414名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 13:10:57 ID:7up4uzrZ
言葉遊びをしに来ている人が何を言ってるんだろう。

誰一人、なるほどと世界が広がった人がいないく
悲しくもあります。
たとえば、人を惹きつけるように言葉の
分析をしたりしないのだろうか。
415机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/20(水) 14:07:07 ID:Pkv+O8IL
>>414
そうでしたね。

いま私が語ろうとしてるのは、いうならば中論における重要なところです。
バックボーンに空思想がありませんと、やはりdでも系になりますね。

ご指摘ありがとうございます。

では、本来のスレの主旨である「原始佛教」を引き続きカキコお願いします。
416名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 17:50:37 ID:UgeWPqJL
>>407 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/20(水) 06:22:52 ID:qqIsr0s3
>>396
> 悪行とは執着した行為、盗むという行為は、どうして執着した行為になるんでしょうか?

>「悪行とは執着した行為」というのは、あなたの個人的な思い込みですか?
もし、ソースがあるのなら、ご提示下さい。

>>377
だがしかし、ここで、「諸行無常、諸法無我」に思い当たり、苦を現世において滅する道を発見する。
苦を生成する身口意の業は『悪』であり、苦を滅する身口意の業は『善』である。
そして、自己の全ての苦を滅することにより、「涅槃寂静」の境地に達した。

 上を私は拡大解釈したようです。苦は集に原因して生じている、集とは執着である、
執着は悪である。そこであなたは、「苦を生成する心口意の業は悪である」といわれ、
ふつう心口意の悪業といえば、十悪と見ますから。盗みという悪は執着であろうと
あなたは考えるだろうと思ってしまいました。
 上に異なりますか?
 十悪はすべて悪です。
417名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 18:09:09 ID:UgeWPqJL
>>404 :暇人:2005/07/19(火) 23:41:56 ID:kixdG3Wn
>因と果は両極端

>経証だしてみそ。因と果は両極端だから避けよとかないし。
阿含にあるのは苦楽中道と有無中道。
因果中道なんて 聞いたことないなぁ
勝手に教義作っちゃうのはね。。 いかがなものか。

私は阿含経典を持っていないのです。岩波の原始経典だけです。
全部で5冊あります。その中の何処かに、「縁起」とあります。
縁起がある条件「因」として生じる概念であることは問題ないでしょう?
ですから縁起とは因果関係のことと判断するの問題ないでしょう。
 「両極端及びその中間に汚されない」、または、「固定的なものはない」、とかは時たま
みかけます。其れから、「彼岸にも此岸にも、彼岸此岸にも執着しない」とか。この種の教えは基本的なものとして
あちこちにあります。
418名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 18:23:31 ID:oq73rXpP
>>398
原因と結果という法則はあるの。
法則は法則だからどうにもならないもの。
認めるも認めないもない、「元々無い」とかバカなこと言っちゃいかん。
そんな観念でどうにかなるものではないし、そんなことしても死ぬのが止まるわけじゃないだろう・・・。

できることは一つで、できるだけ原因を作らないこと。
419名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 18:45:18 ID:UgeWPqJL
>>409
「一」とは、、「無相または一相」のことですね。これを「空」といっているのじゃないですか?
またこの境地の事を涅槃とも言うのじゃないですか?
420名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 18:48:52 ID:UgeWPqJL
>>418
>できることは一つで、できるだけ原因を作らないこと。

何の原因?
421名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:03:22 ID:d2aagPF4
>>420
現象だよ。無明が一番の原因じゃないか?最後は死になる。
422名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:05:29 ID:UgeWPqJL
>>421
無明とは何ですか、あなたの考えでは?
423名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:09:34 ID:9i4Zgh5C
ここは実践的に禅などをやって体験で言っているの?それとも理屈?
424名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:19:58 ID:UgeWPqJL
理屈です。
425名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:23:48 ID:gBgfneN4
>>422
だからこの原因と結果の世界にいることをちゃんと理解して行動すれば
いいんだよ。やったら返ってくるし。思いを乱せば苦しくなったりするだろ。
426名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:31:31 ID:UgeWPqJL
>>425
悪い事をすればだろう?またよいことをすればいいんだろう?
そこで、誰でも善い事をし、悪い事をしたくないんだ。だけども、
何が善い事で、何が悪いことかわからないんだよ。
 単に法律的に違法なことをしなければ善いと言えるのか?そんなことを釈尊が
勧めているとは思えないんだ。
 精進を進めているだろう?行住坐臥に渡って。
427名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:39:25 ID:gBgfneN4
いや、これは善いとか、悪いは全然無いし関係ないよ。
そういう善悪があると思ってるとまたそれで不自由になってしまう。
頭脳で善悪を考えても分からないようになってる。それでいいんだけど。
自分が苦しくなるようなことはしないで、
やっぱり自分に聞くことだね。分からなければ実際やってみて学習すればいいんだし。
428名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 19:51:48 ID:BG9gJAsx
>>413
お話にならないな。
どうせ、生もなければ死もないなんて、空思想をベースに
お得意の空理空論を並び立てるるのが落ちだろう。
般若心経など釈迦入滅後、随分後にできた大乗仏教の、後世の者達が作ったものに過ぎない。
初期仏典との矛盾点を突かれると、それは世俗諦、うちらは勝儀諦などと言う能書きは
大乗仏教徒達の散漫であり、詭弁だよ。
いずれにしてもここは原始仏教のスレ。般若心経を語るより
原始仏教を語ってくれや。
429無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/20(水) 20:10:37 ID:Ey+vqubJ
>>416
> あなたは考えるだろうと思ってしまいました。
>  上に異なりますか?
異なります。

> 集とは執着である、
集とは、苦の因です。執着は苦の因のひとつに過ぎません。
430名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 20:59:47 ID:UgeWPqJL
>>429
他にどんな苦の因があるのですか?
そしてそのソースは?
431机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/20(水) 21:25:45 ID:Pkv+O8IL
>>428
今は、なにを言うても無駄なこと。

ここはひとつ、裏山のセセラギの音でも聞くのが一番。

夏の夜は、これに限る。
432無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/20(水) 22:18:36 ID:qqIsr0s3
>>430
> 他にどんな苦の因があるのですか?

まじめに聞いているの?
他に何も思いつかないの?
それとも、執着さえなくせば、苦はなくなると信じているの?
悪因苦果という言葉は知っている?
433名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 22:42:17 ID:UgeWPqJL
>>432
執着とか渇愛とか言ってるけど、何に執着するといっていたり、何を渇愛するといってるのでしょうか・?
434名無しさん@3周年:2005/07/20(水) 23:56:08 ID:Tfa9uKTE
>>433

コカコーラ  喉が渇いた。
435無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/21(木) 06:43:01 ID:AUBb4kXo
>>433
会話が成立していないのですが?

432へのレスが、どうして433になるのか、私には理解できません。
436名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 06:54:15 ID:rjd90bMZ
>>432
まじめに聞いている。
私が思っているのでは、其れは生存に対する執着または渇愛ではないのか?
原始経典にたびたび「生存の素因を滅ぼした」という句が出てくる。そして、生存の素因
とは何かといえば、五蘊である。五蘊とは何かといえば、身体「肉体」と「心」である。

 「盗む」という行為は、無常であるもの、または実体「自性」のないもの、または、「苦」
「空」であるものを、恒常であるもの、または自性のあるもの、または、楽であるものとして
、執着するスタートとなるのではないのか?(諸行無常、諸法非我、一切皆苦、一切皆空に反する行為)

 
437机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 06:59:27 ID:wXr2onph
ROM記念

おはようございます。
438名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 07:07:46 ID:rjd90bMZ
436の続き 
 そして、十悪は、五蘊へに執着に中に含まれる。
執着とは、その対象があるものとして、それを保存し守ろうとすることに他ならない。
439暇人:2005/07/21(木) 07:31:55 ID:OM77vpgK
http://buddhism-orc.ryukoku.ac.jp/japanese/pdf/2002.6.26.pdf
竜谷大の先生のページ

「世にあるある種さまざまな苦しみは、執着(生存の素因 upadhi)を縁(nidana)として
生起する。じつに知ることなくして、執着をつくる人は愚鈍であり、
くりかえし苦しみに近づく。(Sn. 1050~105110)」

>>436
「生存の素因」と訳されている語は、「執着」のことみたいですね。
「盗む」という行為は「その盗もうとモノ自体に執着している」
あるいは「盗むという行為のスリルに執着している」のでは?

上掲ほむぺ註16「高橋審也「原始仏教における生命観」二二〜二三頁」
「いかなる固定的な恒常的な存在は認められない。その流動的な無常なる
在り方に自己というものが仮構されている。それが諸行であり、五蘊であ
った。それがまた、凡夫的自己の在り様であった。・・・・しかし、同時
にその流動的な悲固定的自己であるからこそ、そこに倫理主体の成立する
基盤が成立する。また、他の人々の立場に立って、他の人々をいつくしむ
ことが可能なのである。他の人々を排除することなく、自己と平等の立場
に立たしめることが出来る。いわば自他平等の立場が成立するのである。
固定的でない自己、固定的でない生命、それが原始仏教の立脚点であると
いえよう。」
普通はこういう見方を導き出すのだが、あなたは逆向き。

440名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 07:40:19 ID:rjd90bMZ
>>429
>集とは、苦の因です。執着は苦の因のひとつに過ぎません。

四諦の法門では、執着(渇愛)が苦の原因とされている。
441暇人:2005/07/21(木) 07:40:56 ID:OM77vpgK
>>417
「この世の人々は執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽りふけり、執着のこだわりを
嬉しがっている。さて執着のこだわりを楽しみ、執着のこだわりに耽り、
執着のこだわりを嬉しがっている人々には、<これを条件としてかれがある
ということ>すなわち縁起(p: paticca-samuppada)という道理は見がたい。
(『サンユッタ・ニカーヤ』第Y篇第一章第一節懇請11)」

>私は阿含経典を持っていないのです。岩波の原始経典だけです
( ‥) ン? 大元はいっしょですよ。

縁起の基本は「これがあるとき かれがある」です。
これとかれは因果関係ですので「両極端」ではありません。
「両極端」というのはモノゴトを流動的に捉えず、固定的に実体化して
しまう過ちのことです。論理を純化しずぎ 苦行すればするほどよいとか
そんなやつですね
442カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 07:45:20 ID:sBioZ2tV
>>431
>今は、なにを言うても無駄なこと。

それはおまえもな。

>全ての人は幸せであれ。
>この世の理を知り、有情のものを哀れみ。
>生きとし生ける者は幸せであれ。

これが釈迦の教えだ。
無に囚われ、邪見に囚われた者には、この言葉の意味を理解しない。
全てのものは縁起で繋がっているのだから、釈迦は慈悲の心を説いたと言った者がいたが、
それはある意味正しくもあり、本質を捉えていなく、ある意味正しくも無い。

人は善悪を知ると言う罪を犯した。
善悪の思いは、エゴを生む。エゴは争いを生み、
また執着心を生む。執着する心の働きは、このエゴ心を満たす心の働きだと知れ。
443カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 07:49:31 ID:sBioZ2tV
>>426
おまえはなにが善で、なにが悪かも、人から聞かないと、わからないのか?
お前幾つだ?親はなにをやっていた?生んだら甘やかして育てて、あとはほったらかしか?
お前の親は、馬鹿親か(苦笑)

「一」を分裂させる心の働きが悪。分裂したものを再び「一」に戻す心の働きが善だ。

これでは愚者にはわからないので、もっとわかりやすい言葉で説こう。

己の利己心、エゴを満たす心の働き、それに伴う体の行動、行いは悪。
その逆、利他心を満たす心の働き、それに伴う体の行動、行いは善だ。

エゴは分裂を起こすもの。エゴは決して一つにしないもの。
本来は「一」であるのに、人は善と悪をわけるという大変な罪を犯した。
「一」であれば、釈迦がなぜ、
「全ての者は幸せであれ」と説いたかわかろうというものだ。

わかるかい?
あ、そうそう一つ言っとくが、俺は禅問答、屁理屈に付き合うつもりはないので、あしからず。
444カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 07:51:45 ID:sBioZ2tV
>身体(身)の動乱を守り押さえるように。身体によって統御された者として存するように。
>身体による悪しき行ないを捨てて、身体による善き行ないを行じおこなうように。〜ダンマパタ

>言葉(句)の動乱を守り押さえるように。言葉によって統御された者として存するように。
>言葉による悪しき行ないを捨てて、言葉による善き行ないを行じおこなうように。〜ダンマパタ

>意[こころ](意)の動乱を守り押さえるように。意によって統御された者として存するように。
>意による悪しき行ないを捨てて、意による善き行ないを行じおこなうように。

>慧者たちは、身体(身)によって統御された者であり、また、言葉(句)によって統御された者である。
>慧者たちは、意(意)によって統御された者であり、まさに、彼らは、完全無欠の統御者である。〜ダンマパタ

無自性であるこの世に、善悪、生死、など本来無い。などと寝言を言っている者がいるようだが、
縁起によって成る、この二元世界では、しっかり善もあれば悪もあり、生もあれば死もある。
早い話さ。この世で善を成し生きる者は不死を得るが、悪を成したまま、それをあらためようともしない者は、
死人のままだと言うのが、釈迦の教えなんだよ。

ま、頭でっかちの屁理屈大魔王にはいくら言ってもわからんだろうがな。
445机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 08:07:02 ID:wXr2onph
>>442
>無に囚われ、邪見に囚われた者

これは間違い

>人は善悪を知ると言う罪を犯した。

これは間違い。

無(勝義諦)も善悪(世俗諦)も同じこと。
ただ相が違う。


#、、今は、なにを言うても無駄ではあるが。
446名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 08:12:46 ID:K15ZKsTA
机尊氏、おはようございます。
447名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 08:33:06 ID:rjd90bMZ
>>439
>・しかし、同時にその流動的な悲固定的自己であるからこそ、そこに倫理主体の成立する
基盤が成立する。また、他の人々の立場に立って、他の人々をいつくしむ
ことが可能なのである。他の人々を排除することなく、自己と平等の立場
に立たしめることが出来る。いわば自他平等の立場が成立するのである。
固定的でない自己、固定的でない生命、それが原始仏教の立脚点であると
いえよう。」
普通はこういう見方を導き出すのだが、あなたは逆向き。

以上は失当と思います。
448机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 08:37:36 ID:wXr2onph
>>446
はようございます。

では、そろそろ総括します。

ここの書き込み見てますと、やはりナガールジュナは素晴らしいと、
改めておもいますね。

クリシュナムルティーも、どこか似てるとこがある。
やはりインドという土壌でしょうね。

釈尊を筆頭に、菩提達磨、ガンジーとかマザーテレサ、
インドには、私の尊敬する人が多くいる。
449カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 08:48:12 ID:sBioZ2tV
>>445
だからさ、他人に絡み、それは間違いなどというなら、何処をどう間違えているのか
説明しろよ、無礼者。どうもあんたら禅師は、偉そうにそれえは違うと、
ケチをつけるだけで、なにがどう違うのか説明がないケースが多い。
そこを付け込まれると、この詭弁家達は
自分達の専門分野の専門用語を素人相手に羅列し、煙に巻く。

議論好きなあなた。さぁ、文句あんなら、専門用語でごまかさず、わかりやすい”言葉”で説明してごらん。
俺はいつもそうしている。もう寝るけどな。おきたら一応読んどくよ(苦笑)

俺を唸らせてみろ。

俺は禅ではなく、ヴィパッサナーをやってる。俺はある強烈な体験をした。
おまえがいくら言おうと、今まで書いたことはほぼ間違いでないと
確信している。ま、俺も全てを知ったのではないが、解は自分で捜すしかない。

>人は善悪を知ると言う罪を犯した。 は正確に言うと、
>人は善と悪をわけると言う罪を犯した。 と言ったほうがいいかもな。

思うにお前達禅は、釈迦の教えとは違う方向に行っているように思える。この世に善も悪も無く、是も非もなく、
なにやってもOK。死ねば衆生皆仏なんてのは、邪教だと言っておくよ。

一つだけあんたに聞いておこう。この世ではなにやってもOKかい?
つまり善も悪も無いので、悪と呼ばれる行為をおこなってもOKなのかい?
450机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 09:23:14 ID:wXr2onph
>>449
>この世に善も悪も無く

善悪は、人の心が作りだすもの。
世界に善悪があるはずがない。→ここのとこは非常に大事なこと。

つまり、世界は善悪なくして調うておるわけです。
人は善悪という概念で苦を生起する。
と、こういうふうに解釈したらどうでしょうか?

>つまり善も悪も無いので、悪と呼ばれる行為をおこなってもOKなのかい?

善悪もない。というのは勝義諦です。法は必ずしも世俗と価値観を共有するものではない。
したがって、世俗には世俗における智慧というものがなくては生きていけないわけです。
よって世俗においては善悪を分別します。→色(分別の相)

例えばアレフにとっては、人を殺すのが善であったりします。
善というのは、普遍的に変化しないものではなく、
その人のおかれた環境において善と悪が逆転することもある。
よって、人の概念による善は法にはそぐわないのです。

あくまでも法は善悪一如です。
そこから人の英知(智慧)で善悪を判断すれば良きこと。
なんも矛盾はありません。
そのように調えば宜しいのです。

451無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/21(木) 12:22:36 ID:RyRAkTe9
>>436 :名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 06:54:15 ID:rjd90bMZ
> まじめに聞いている。
そうでしたか。単に因縁をつけられているのかと思ってしまいましたw
失礼いたしました。

私としては、十悪が苦の因になることに同意いただければ、
現状、それ以上、主張したいことはありません。
十悪の根本原因が執着であるかどうかに関しては、ノーアイデアです。

-----------
>>377
この世で悪業の限りを尽くしても、報いはないという考えを外道とみなしたが、
これを否定する根拠を得ていない可能性もあるのではなかろうか?
だがしかし、「この世で悪業の限りを尽くすこと」は、
苦を生成するする行為であるので悪であることは明確なので不可とした。
-----------
これに異論があるのであれば、対話を続けたいと思いますけど、
まだ、何か質問はございますか?
452名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 16:50:18 ID:q5Mc3EDm
そういえばこないだジョージ・ルーカスがインタヴュー受けてて、
スターウォーズに関して、確かこんなこといってたな。

「私は、善を為そうとして、結局悪を為してしまう人の心の葛藤を描きたかった。
正義と信じて行うことが、知らないうちに回りの人を傷つけてしまうんだ」
453カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 17:44:04 ID:sBioZ2tV
>全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者は、死に恐怖する。自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、
>〔他者を〕殺さず、〔他者をして他者を〕殺させないように。〜ダンマパタ

>全ての者は、棒(武器)を恐れる。全ての者にとって、生命は愛しきもの。
>自己を喩えと為して(自らを引き合いにして)、〔他者を〕殺さず、
>〔他者をして他者を〕殺させないように。〜ダンマパタ

>安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害する者が、自己の安楽を求めるなら、
>死後に、安楽を得ることはない。〜ダンマパタ

>安楽を欲する諸々の生類を棒(武器)で害さない者が、自己の安楽を求めるなら、
>〜彼は、死後に、安楽を得る。ダンマパタ
454名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 17:47:15 ID:PIPBBNC7
善悪を分けてしまうところから
迷いが始まると思う。
455カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/21(木) 17:48:08 ID:sBioZ2tV
>>450
俺は善悪の定義をはっきり示した。

>例えばアレフにとっては、人を殺すのが善であったりします。

はっきり言う。連中がいくらこれは善だと思いやったにしても、彼らのやったことは
悪なんだよ。

>その人のおかれた環境において善と悪が逆転することもある。
>よって、人の概念による善は法にはそぐわないのです。
>あくまでも法は善悪一如です。
>そこから人の英知(智慧)で善悪を判断すれば良きこと。

こんなこといってっから、あんたらは邪教だと言ってるんだよ。
勝義諦、世俗諦などは、釈迦の死後、随分たってから、後世の者が自分達の都合のいいように
作った価値観に過ぎない。詭弁家達は実に都合よく、待機説法、方便、空、などの仏教用語を使う。
こんどは、勝義諦、世俗諦かよ(苦笑)
この頭でっかち達は、せっかくの釈迦の教えを捻じ曲げてしまっている。
釈迦は、悟りを開き、法を説いたが、自分の説いた法も、いずれ邪見に囚われ、
末法の時代が来ると言った。釈迦のシンプルな教えを複雑怪奇に、捻じ曲げて、釈迦がしてはならぬ
と言った事も、やってもOKなんて教えは、自分達の信じる教えは仏教だと思っても
末法の時代が生んだ、邪教だと知るべきだ。
ま、あんたがなにを信じようが勝手だが、あくまで善悪一如。本来善も悪もない、なんて他人に説き
真に受けた愚者に悪を行わせ、あんた自身も、悪、つまり利己的に行き続けるなら、
間違いなくあんたは穴に落ちる。これだけは言っとくよ。
ま、あんたが穴に落ちるも落ちないも、あんた自身の問題だがな。
あ、そうそう。確か釈迦は、法をよりどころにし、他人がなにを説こうと、法と照らし合わせ、
違っているのなら、その教えは捨てよと、言っていなかったけか?
あんた達の大乗仏教、其れにまつわる経典などは、釈迦の死後、随分後に出来たんだってな〜。
間違った教えを信じ、悪を行い、それを改めずに生き、
間違った教えを広め、他人に悪を行なわせようものなら、その業はいずれ自分自身に返る。
聞く耳のあるものはよく聞いておけ。
456名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 18:08:12 ID:LdTbi8mG
>>454
>善悪を分けてしまうところから
>迷いが始まると思う。

その視点は大切です。
どんなに理不尽で非道な仕打ちを受けても、
そんなときこそ、あなたの視点は効力を発揮しないと、
役立たずになってしまいますからね。
457名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 18:12:06 ID:LdTbi8mG
実際には、役立たずなのが現状でしょうね。
多少なりとも効力を発揮できれば、それはそれで、
活きた仏法といえるでしょう。
458机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 18:50:14 ID:wXr2onph
>>455
>あ、そうそう。確か釈迦は、法をよりどころにし、他人がなにを説こうと、法と照らし合わせ、
>違っているのなら、その教えは捨てよと、言っていなかったけか?

法灯明のことですね。
法は、行動原理(行動哲学)にはならない訳です。
法の慈悲において、どう自分に生かせていくべきや?
これを自灯明という。

法は、私が言うにおよばずながら、世界の相を顕しておるんです。
このことに鑑みますれば、おのずと”己自身のみが迷うている”ということが明白になります。
これを瞬時に悟るのが、いわゆる悟入ということになる。

八正道における、「正しい」ということはどういうことか?
「正しくないこと」とはどういうことか?
この分別する智慧は、非常に大事です。

正しく分別するには法を依りどころにする。
いわゆる勝義諦を拠りどころとして・・・世俗諦における「正しい分別」ができるのです。
無明においては、この「正しい分別」もなかなかできません。
つまり我見においての分別は、「正しい分別」とは言えないわけです。

般若は、そのてん非常に理にかなってます。


459名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 18:51:27 ID:wUzPpUVo
>>455
他人から聞いたことを真実だと思って他人をそしる人がいる。
欲にひかれ、好みに囚われている人は、
どうしても自分の偏見を超えることができるだろうか?
かれは、自ら完全であると信じている。
かれは知るにまかせて語るであろう。

特に何かを重んずることもなく、
「これこそ究極の正しいことだ」と語ることもない。
結ばれた執着の絆を捨て去って、世間の何者にも願望を起こすことがない。
何かを知りあるいは見ても執着することはない。
欲を貪ることもなく、欲を離れていると貪ることもない。
これが最上のものだと固執することもない。
460名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 18:55:27 ID:rjd90bMZ
熱心に善を求める皆さんにお尋ねします。
ウダーナヴァルガ(感興の言葉)第29章23
 「何ものをも信ずることなく、作られざるもの(=ニルバーナ)を知り、生死の絆を断ち、
(善悪をなすに)由なく、欲求を捨て去った人、ーーーーーーーーーー彼こそ実に最上の人である。」

 この中の「(善悪をなすに)由なく」、これはどういう意味なんでしょうか?
そもそもなぜ( )があるのでしょうか?これは訳者の解釈でしょうか?
(由なく)とはどういう意味でしょうか?
461名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:02:00 ID:rjd90bMZ
>>460
: 大辞泉 |
よし‐なし【由無し】 [形動ナリ]理由のないさま。
「斯太(しだ)の浦を朝漕ぐ舟は―に漕ぐらめかもよよしこさるらめ」〈万・三四三〇〉




ヘルプ(凡例)

462名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:14:12 ID:LdTbi8mG
>この中の「(善悪をなすに)由なく」、これはどういう意味なんでしょうか?

由なくとは、無作為のことでしょう。
下心、計らいから離れた状態。
無執著で事に当たること。
463名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:17:45 ID:e5JSVi1N
独り言にゅ。

最近、三身について考えてるんだが、
何となく嫌な予感がするんだよ。
誤謬見つけて再構成みたいな。
別にいいんだけどね。

で、主体と客体、漏れとチャリ。未経験なら転ぶ。
実際はチャリじゃないし、漏れともいえない。
適用範囲、柔軟性は大きく違う。
さらに経験とは何かを追及した。
464名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:21:11 ID:rjd90bMZ
>>426
無執着で善行悪行をするということになれば、手加減しないで、盗みをしたり、強盗をしたりするのか、
という疑問が沸いてくるのですが、こう言う意味なんでしょうか?
465名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:28:43 ID:rjd90bMZ
>>464
訂正>>426>>462
466名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 19:35:20 ID:LdTbi8mG
>無執着で善行悪行をするということになれば、手加減しないで、盗みをしたり、強盗をしたりするのか、
>という疑問が沸いてくるのですが、こう言う意味なんでしょうか?

ボーディサットヴァの利他行と考えればいいでしょう。
手加減しないで、強盗をしたりするのは、三毒が背景にあります。
こういう場合は、無執著ではなくて、無明です。
467机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/21(木) 19:48:44 ID:wXr2onph
>>460
善悪というのは、ひとつのプロセスを想起するわけですね。
じつは、ニルバーナ(涅槃寂静)とは、このプロセス自体がありません。
よって
>生死の絆を断ち、
こういうことになる。

私のカキコ>>411
>「生」の帰結点として「死」があるわけではない。
>時間的連続性という捉えかたこそ無明なるべし。

これと同義です。
つまり、ニルバーナとは時間的連続性はなく、刹那に生死がある。
善悪も、プロセス(作為)はなく、刹那に善悪がある。


468名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 20:04:20 ID:ysZSQuTz
善悪は2つで一体だから、
善をやろうとすると失敗する。
そういう原理がある。
善も悪もダメ。
善だ悪だ言ってるようじゃダメ。
善悪で一つ。何でも必ず相対を作るので、どちらも作らないことが一番良い。
真ん中に居ればいい。
469無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/21(木) 20:12:26 ID:RyRAkTe9
縁起を「相依関係」としてとらえれば、
>悪い行いがなければ、善い行ないもない。悪い行いを滅すれば、善い行いも滅する
というのは正しい。そしてこれは、
「悪い行いはせずに、善い行いをしましょう」というスローガンと全く矛盾しない。


「悪い行いを滅する」というのは、
「殺生や悪口にそれは悪い行為であるというレッテルを張ることを止める」
ということである。その行為自体が無くなってしまうわけではない。
どんな行為が悪い行為であるかの定義付けをやめれば、
何が善い行為かもわからなくなるので、
それを「善い行いも滅する」と表現しているに過ぎない。
470暇人:2005/07/21(木) 20:39:04 ID:BKLH+rQX
ベロ君誤読−向井論文
>>242 >>248

ベロ君紹介の著作を確認すると 案の定 彼の誤読だった。
まあしかしご紹介して頂いただけでも ありがたい。

解題が触れてる向井論文の主旨は
雑阿含が漢訳されて八十年後の「出三蔵記集」で既に
雑阿含に他経典の混入の事実が記されていて 雑阿含が漢訳されてから
早い段階に「混入・巻数の順序の混乱」が知られているそうである。
それで訳経当時の「原雑阿含」の組織・巻数の順序の復元の試みが
昔からされている(姉崎説・椎尾説・花山説・前田説など)中にあって
台湾の印順・呂徴が「瑜伽師地論」に注目して復元を試みているのと平行して
向井論文もこれに遅れつつ、「瑜伽師地論」を元に復元案を作成したという段階ね。

前提として「現存雑阿含の組織」が伝承の早い段階に乱れた。
では「原漢訳雑阿含の組織」はどういう形だったのか、と研究がはじまった。
後代に書かれた「瑜伽師地論」の整理された「組織」を「現漢訳雑阿含の組織」と
推定して、当てはめてみる。向井論文の主旨はこういうことですね。
471暇人:2005/07/21(木) 20:40:05 ID:dRdAU2Qv
「大乗論書等に引用経証として引かれる文献が実は古い」ことを論じている
わけでもないし、まして「アーガマやニカーヤ」より「大乗論書等に引用経証される
阿含が古い」と論じているわけでもありません。
せいぜい「原漢訳」の中味ではなく「組織」の復元案ですね。
向井の復元案自体 なんの根拠もない推定だと私思うが、
(原雑阿含が緻密に整理だった組織だったと推定する合理的理由が不明)
仮にそうであっても5Cに漢訳された「原雑阿含」の組織がわかるだけですね。
そんなものより>>240の「『沙門果經』等、長部・長阿含所収の種々の編集段階を
経たであろうアンソロジー的諸經」の方が違う部派が共通伝持ということから、
部派分裂以前と推定でき はるかに古い。
ベロさんは長崎さんの解題の「向井論文」の紹介を根底から誤読されていますね。
向井論文とは別に一般的に「雑阿含経や南伝相応部の一部」は「長部・長阿含」より
はるかに古いと推定されていますね。
しかし台湾の印順説(「瑜伽論」の組織を根拠に雑阿含の最初の核は「短い散文経典」で
次に韻文経典や教説・解説が付け加わり今の雑阿含になった。雑阿含の最初の核は
仏教で一番最初に纏められたのだとするのは、客観的な証拠すらない推理ごっこでしょう)
あるいは学問というより信仰でしょう。
472暇人:2005/07/21(木) 20:42:13 ID:dRdAU2Qv
ついでに現観
>>252
水野選集の第二巻で現観を整理されてますね。
水野説によるとまずPTS「パーリ辞書」及びエジャートン仏教梵語辞典→
「完全に理解すること」「洞見」「了解」「実解」「明らかな理解」「徹見」
複合語として「法現観」「義現観」「諦現観」(諦相応)「四諦現観」「諸聖諦の現観」
現観は新訳 旧訳は「無間等」。
@元来は「最高の悟り」
A理解という意味
>>62は、水野論文を 踏まえていますね。

しかし@の根拠は薄弱。Abhisambujjhati(現等覚する)と並べて使われていることが
多いから 仏教全体的な最高のさとりについていわれていたものであろう(P105)
私はこの併記は「理解した 到達した(Abhisambujjhati)」という素朴な表現であり、
「最高の悟り」などという高次なものを説いてる箇所ではないので誤解を招くと思う。

仮に「最高の悟り」であつても、それはまだ仏教教義が発達する前の「悟り」であり
段階を経た悟りではなく、素朴な最初の「悟り」しかないので
「最高の悟り」と表現も可だね
つまり四諦や九次第定を超えた次 にある「現観」ではない。
473阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/21(木) 20:51:17 ID:sFzS3fE/
印順法師の著述はこちらで読めます。研究者の方々にはもはや「常識」の学説なのかも知れま
せんが。漢語は素人にはやはり取っ付きにくい。
http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/
以下はきわめて重要であると思います。「帰国子女」の電波男さんあたりに和訳をお願いしたい
ところです。
http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/33/yinshun33-00.html
http://www.mahabodhi.org/files/yinshun/36/yinshun36-00.html
474暇人:2005/07/21(木) 21:17:59 ID:dRdAU2Qv
>>473

水野さんの古い論文では高く評価されているが
水野論文の紹介を読む限りでは、読む必要はないですね。
印順説は西洋的学問がまだ根付いてない台湾では有効でも
現代の日本の学的レベルからすると噴飯ものでしょう。
475名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 21:56:53 ID:rjd90bMZ
>>460
この中の「(善悪をなすに)由なく」、これはどういう意味なんでしょうか?

皆さんありがとうございます。
 ものが相対的に存在しているときに、片一方に執着するということはどういうことでしょうか、と考えてみます。
一方に執着するということは、当該物を一層堅固たらしめる事になるのではないでしょうか?
そうすれば、必然的に、他方をおも同程度に一相堅固ならしめる事になりませんか?
 今、善と悪とを相対的に存在するものと仮定して、善に執着すると、悪をも必然的に堅固ならしめている
ということになります。悪を滅したいのです。膳が表立って現れなくとも、悪の無い方が好い訳でしょう?
其れならば、善にも悪にも執着しないことによって、悪を滅した方が良いのです。
476名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 22:31:46 ID:rjd90bMZ
快と苦痛というものがあります。
例えば、蚊に刺されてとても痒い部位があるとします。其れは苦痛です。
しかしそこをかきむしるととても快感です。快と苦痛は相対的に存在しています。苦痛が無ければ
快は無く、快が無ければ苦痛も無いのです。そうすれば快そのものがあるわけで無くまた苦痛そのものがあるわけでもないです。
 またこんな例はどうでしょう。健康というものがあるといいます。腹痛に襲われた時、その時は苦痛です。
でも、薬を飲んだらすぐに治りました。今までも苦痛を思いますと快感です。
 同様に、ある火事の現場に居合わせました。火の中で一人の人が真っ赤な炎に焼かれているのが見えました。自分は安全なところにいます。
火の中の人は死んでいきました。自分は生きていることを感謝しました。この人の生は火の中の死んでいく人を知って感じた「生じた」ものです。
 これらの快はもともとあるものではなく縁によって生じたものに過ぎないのです。
実体が無いのです。このような実体の無いものを追求して良いもんでしょうか?良い訳ありません。
むしろこのような快から離れるべきです。
 今生きているものは、ああ自分は生きているので、生かされているのだ、この生を大事に味わおう、命ある限り、
このように思っていて良いものでしょうか?実体が無いのこのように思っているのは、貪りと言うものではないでしょうか?
大変恐ろしい事態ではないでしょうか?
477名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 22:49:12 ID:q5Mc3EDm
自分で穴を掘り(善悪という定義をし)、
その穴に自分で落ちて助けを求める。
最初から穴を掘らなければいい。

人が楽園を追われるのは知識の木の実を食べたから。
知識(善悪の分別)を捨てて、あるがままに生きればこの世がそのまま楽園。
478名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 22:53:52 ID:q5Mc3EDm
>>476
それはちょっと違う。
それはいわゆる他空という無。
何にもない=無=空ではない。

小鳥がさえずるとき、
小鳥は良いことをしているわけでもなく悪いことをしているわけでもない。
「由なく」さえずっているに過ぎない。

人間だけが行いを善悪に分別する。

これが迷い。
479名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 23:18:38 ID:Lkc3AkQx
そうですね。。善悪を分別する事は、確かに悪い事ですよね。
480名無しさん@3周年:2005/07/21(木) 23:24:54 ID:q5Mc3EDm
「分別すること」と「分別しないこと」を分別するのね。


実際は分別する主体のほう(自分)を捨てるんだけどね。。
481名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 00:32:29 ID:lNs6sOTA
だからよう、善悪なんていうものは無いんだよ
こうしたらこうなる、というのはあるけど、
結果が嫌なことが起こったらそれを人が悪と決めるわけ
でも嫌なことがあっても後によくなる原因になることもあるわけだから
観点によって善にも悪にもなりうる
だから善悪を決め付けるようなことはバカらしい
何を優先するかでそのときの善悪も変わってくるし
あんまり意味がない
で、何が一番困ったことかというと
善悪という決まったものがあると思ってしまうこと
そういう勝手な善悪の見方をやめて
こうやったらああなる、ということをちゃんと理解して行動するべきなのに
人が自分勝手な善悪観を持ってしまって、いつも
善悪で物事を分けて行動してしまうのが大問題だ
善に固まってしまうことが必ず裏に悪を持たされてしまう
善悪とかじゃないものをそういうふうに切り分けようとしても無理
482名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 02:23:24 ID:aOSyvWvK
原始仏教ならば、みなさまに
問いたい事があります。

何故、釈尊は不淫を求めたのでしょうか?
483机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/22(金) 07:01:57 ID:xyrLMmRa
>>480
>「分別すること」と「分別しないこと」を分別するのね。

般若心経には、「色即是空 空即是色」と書いてある。
この「空即是色」は、いわゆる彼岸から此岸に帰ってくることを意味している。

これをもっと分かりやすく言うたら、つまり空(無分別)から→色(分別)。
ようするに「無分別の分別」というふうに解釈したらいいかとおもう。

八正道にける「正しいこと」とは、つまり「無分別の分別」における「正しさ」ということになる。

無分別というのは、正邪一如であります。
ここから「正」を導きだすのが般若における世俗諦。ということになる。
この正は、あくまでも人間社会に通用するものであり、
法は、どこまで逝っても中道(空)です。

大般若経のエッセンスが般若心経でありますし、
心経のエッセンスは、「色即是空 空即是色」。

ここに般若(智慧)が詰まってる。

484暇人:2005/07/22(金) 07:17:07 ID:NcuQo06C
>>483

@般若心経は、原始仏典ではなく、中期大乗経典(スレッド違い)
A大般若経は、先行する般若経典群を纏めたもの。心経は別系統で無関係。
B「色即是空 空即是色」を普通に解釈すると
http://www.hokoji.info/hannyasin-5.html
「この世においては、物質的現象には実体がないのであり、
実体がないからこそ、物質的現象で(あり得るので)ある」
<彼岸此岸><分別無分別>は無関係。
485名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 07:53:47 ID:XGzwwM+E
>>482

不淫戒制定の縁起


http://ww6.tiki.ne.jp/~k-seri/t_jihou-5.html#結集の大会議(二回目) 不淫戒の制定
486机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/22(金) 08:54:24 ID:xyrLMmRa
>>484
般若心経は、智慧(般若)を完成するための経典ですから、勿論のこと原始仏典
を解釈するうえにおいても大事な経典かとおもいます。

><彼岸此岸><分別無分別>は無関係。

彼岸というのは、智慧の完成を意味するものですから、この彼岸をなくして心経の意味はなくなってしまうのです。
心経の最後の文は、行者を讃えてます。

ここのところを、よくよく吟味なされまし。





487名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 09:41:09 ID:QuDeeiXg
俺は随分世間で言われる悪事を働いてきた。
俺に意見する奴、説教する奴は許さねぇ。ごたごた言ってくる奴はぶっ殺してやる。
こういう俺を世間は受け入れてくれないのか、
会社勤めしても、必ず揉め事が起こり、永くはいれない。
しかたないので、盗み、強盗、女を抱きたい時は、強姦と、くりかえしてきた。
俺だって女を抱きたいきゃ、喰っていかなきゃいけない。無きや無いであきらめもつくが、
そこに女もいりゃ、金もある。あるものを取ってなにが悪い。
俺は殺しまでやった。女は子を産んだばかりで、私が死ねば子が不憫だ。
なんでもやるから命だけは助けてくれと命ごいしてきたが、
俺の素性を知る女だ、俺もパクられれば困る。何処で足が着くかもわからない。
だから二人共殺った。結局足が付いてパクられちまったが、有名な弁護士さんがついたおかげか、
元からこういう時案の量刑は決まっていたのかは知らないが、
なんとか極刑はまぬがれた。が喜びもつかの間、
俺は良心という魔物に悩ませられる事になる。
あの女の眼だ。眼の前で我が子を殺され、
首を締められ、自分の命が消えようとする前にみせた、あの女の悲しい眼だ。
俺はあの眼を思い出すたび、胸が締め付けられる思いで苦しんだ。
昼夜を問わず、寝てるときでさえ、あの女の眼が脳裏に浮かび、夢にも出てくる。
そのたびに俺の胸は締め付けられ、苦しむ。なぜだ!
俺は自分自身が一番大事だ。それは他の人もいくらきれいごと言おうと同じはずだ。
他人は所詮他人だ。なのになぜこの苦しみが俺を襲うのかと、
俺は激しく悩んだ。やがて出所した。当初より、あの女の眼を思い出すことは減ったが、
相変わらず、俺の脳裏に浮かぶ。そのつど俺は激しい後悔の念と共に、苦しむ。
488名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 09:43:05 ID:QuDeeiXg
たまりかねた俺は、救いを求めて、寺に行った。
そこの和尚は俺を暖かく見守ってくれた。幸い俺は坐禅の才があったのか、心身脱落までは比較的時間も
かからず、達成した。ここに善だ悪だと言ってる奴がいるが、そんなものは無い。
善に執着するから、悪の思いが起き、悪に執着するから、善の思いが起こる。
そもそも善だ悪だのと執着し、分別してるのは人間だけで、他の動物はそんなものに執着することなく
行動する。他の動物が、他の動物のの得物を横取りしようが、競争相手を殺してしまおうが、
その行為に対して本来善も悪も無く、それを分別しているのは人間だけだ。
そんなものに執着するから人の心は汚れ、その執着がそもそも苦の原因になっている。
そんなものは捨てよと和尚は説いた。
坐禅により、無の境地を会得した俺は、和尚の教えをよく理解した。
人間本来傷つくものなどなく、『私』なども本来無いのだ。俺はこの教えに救われた。
おかげであの女の眼に悩まされる事も無くなった。俺は無明より抜け出したのだ。善と悪の執着から逃れた俺は
自由だ。真の自由を手に入れた。あらゆる苦からおれは逃れた。
今や俺は他人の命は言うに及ばず、自分の命さえ執着しない。なにものにも執着しない俺はニルヴァーナの境地を知った。
他人が迷惑しようと、それは相手の心の問題だ。本来迷惑だの、善だの悪だのは存在しない。
愚かな凡夫は無明に囚われているのでそれを理解しない。今は残り少ない人生、好き勝手自由気ままに生きている。
あの和尚には真に感謝しているよ。真に仏教の教えは素晴らしい。キリスト教などは、何の救いも無いんだよ。
489阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/22(金) 09:50:38 ID:YRV77EAj
>>474
>水野さんの古い論文では高く評価されているが
件の論文の初出は1988年。1996年刊行の著作選集所収のものでは最新の類。
>印順説は西洋的学問がまだ根付いてない台湾では有効でも
漢土における訓詁学から考証学に到る文献批判の伝統や方法論の膨大な蓄積
を侮ることは出来ませんよ。
>現代の日本の学的レベルからすると噴飯ものでしょう。
全く「学的」ならざる非難ですね。
490名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 10:35:39 ID:d6I9CbOZ
>人間本来傷つくものなどなく、『私』なども本来無いのだ。俺はこの教えに救われた。
ある。だからやったら必ず返ってくるんだけど。
491名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 11:26:00 ID:6sCSjqHj
「ヨハネ傳12章24節に「一粒の麦、若し地に落ちて死ななければ、
終わりまで一粒である。もし、死ねば多くの果を結ぶ也。

その生命を惜しむ者は、それを失い、
此の世に在りて生命を惜しまない者は、永遠にその生命を保有する。」

自分というものがある限り人を害する。
自分とは何か?
善悪の判断である。

「汝裁くなかれ、復讐するは我にあり」

492名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 11:29:59 ID:6sCSjqHj
自分がいないとき、
好き勝手にやりたいことやることは出来ない。

というのも一体「誰が」好き勝手に振舞うのか?

自分を捨てれば行うのは主の御心のままに、である。
そしてそこには是非、善悪はない。
493机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/22(金) 11:32:53 ID:xyrLMmRa
>>488
>今や俺は他人の命は言うに及ばず、自分の命さえ執着しない。
>なにものにも執着しない俺はニルヴァーナの境地を知った。

ニルバーナというのは空性(いわゆる慈悲のこと)でして、慈悲は自他不二です。

>他人が迷惑しようと、それは相手の心の問題だ。本来迷惑だの、善だの悪だのは存在しない。

まったくここに慈悲の欠片もないのは何としたことか?

>坐禅により、無の境地を会得した俺は、和尚の教えをよく理解した。

いやいや、どうも、貴殿が会得したのは虚無のことです。
虚無と「無」は、いわゆる全く意が違ってきます。

よくよく精進なされまし。




494名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 11:56:16 ID:Nn8+nBUT
暇人は我田引水、自家撞着。
現観で、どこまでも延々と非常識を説明しているのを楽しみにしている。
495暇人:2005/07/22(金) 14:51:39 ID:YaHCbcRW
>>494

元創価かなにかの子だったっけ?
まあ気分はわかるのだけどねぇー。
反論できないが 嫌味はいいたいわけね。

ともあれ 元気なら なにより。
496暇人:2005/07/22(金) 14:52:40 ID:YaHCbcRW
>>489
百歳超えの大先生の論を記念碑的に集成した本だからね
半世紀以上前の論文がある中で 17年前の論文は、比較すれば新しいが
世の中の流れからは およそふた昔前の論文。

「漢土における訓詁学から考証学に到る文献批判の伝統や方法論の膨大な蓄積」と
あなたが賛美する台湾仏教を 水野さんが評すると、
「台湾の仏教は西洋的な学問の面では遅れているが、信仰実践の面では日本に
劣るものでないであろう」(p358)
信仰実践は認めても 学問レベルに関しては
あなたのように手放しに漢土の伝統的解釈を褒めず 「遅れている」と言われていますね。

印順については次ページで、「純粋な学者」かつ「信仰実践の面でも活躍」としつつも
学問研究については「日本近代の仏教研究の影響を受けることが多く」とあり
(水野さんは 多く以下 褒めているが)
一時代前の『近代』の学問であることが読み取れます。
それが証拠に>>471の印順説を 水野さん自体が支持している風でもない。
497暇人:2005/07/22(金) 14:58:13 ID:YaHCbcRW
まあ>>47の自説の根拠を問われても 出すことない
引用翻訳に手を加えたかどうか尋ねられても
正確に応えず 誤魔化す人に

「学的」と言われても なんの話されているか不明だが。
498阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/22(金) 15:02:41 ID:YRV77EAj
>>496
>>496

> あなたが賛美する台湾仏教を 
> あなたのように手放しに漢土の伝統的解釈を褒めず
「侮ることは出来ませんよ」を「手放しに褒め」るとは脳内変換の巧妙さに舌を巻きます。

> それが証拠に>>471の印順説を 水野さん自体が支持している風でもない。
高く評価されていますよ。ともあれ日本ではあまり省みられなかった研究視点ではあったと考えます。

499無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/22(金) 15:26:14 ID:1bNQpb86
スッタニパータ
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta0.htm
◆<11、争 闘>◆の874は

<中村 元訳>
874 「ありのままに想う者でもなく、誤って想う者でもなく、想いなき者でもなく、
想いを消滅した者でもない。──このように理解した者の形態は消滅する。

正田.大観.訳
874- {世尊は答えた}「想いのままに想う者でなく、想いを離れて想う者でなく、
また、想いなき者でなく、実体{というあり方}を離れて想う者でなく、
このように行知した者の形態(色:妄想によって固定され実体化された形相)は消滅します。
なぜなら、諸々の表象作用(想:認識対象を表象し概念化する働き)を縁として、
諸々の虚構(戯論:分別妄想)の名称(世界認識の道具として虚構された概念)が
{存在しているにすぎない}からです」{と}。

と二つの訳があります。
全体としては中村 元氏の訳がわかりやすいのですが、
最初の「ありのままに想う者」に関してだけは、「想いのままに想う者」の方が、
いいのではないかと、日本語だけみるとそう思います。

たとえば、良い庭はどんな庭ですかと聞かれて、

自然のままに任せた庭ではなく、
間違った手入れをしている庭ではなく、
草木が全く生えない庭ではなく、
草木を全てとっぱらってしまった庭でもなく、
(適切な手入れの施された庭です)

といっているような感じでしょうか?
500阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/22(金) 15:31:23 ID:YRV77EAj
>>497
既に提出済み。三枝(?)訳に書き落としがあったのを忘れてましたが。正確には
「現観(abhisamaya さとり)がおこった」でした。「さとり」が抜けており失礼しました。

ついでに印順説が果たして「漢土の伝統的解釈」といえるものなのか甚だ以って疑
問ではあります。
501名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 15:49:57 ID:XGzwwM+E
暇人さん。サンスクリット語、パーリ語、仏教漢文を学ばないで、研究者の著書を引き比べていても
およそどのような理解にも至らないよ。仏教に限ることじゃないけれど。必須の語学を覚えて、初歩
の古典を自分で読まなくちゃ、他人を批判する基準ができないだろう。時々は正しいことを(結果的に)
云っても、間違ったことも云ってたら、初心者を迷わすし、ついには馬鹿にされて、その正しいことすら
信用されなくなるよ。
502名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 16:00:40 ID:80jZ2fof
それじゃここの常連さんはだれも発言できなくなっちゃうよ。

一番迷わしてるのが電波であることは疑いない。
あほだら氏もオカルト版を見、過去ログと比べていかに信用できないか、
気が付かなければいけないだろう
503名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 17:05:39 ID:YIIF4lol
>>491−492
そういう、善悪を思い煩っている馬鹿な自分というものは
元々無いものだけど、仏としての自分まで無いと言う
和尚がいることは、仏教の面目も価値も台無しであるね。
糞も味噌も一緒くたにするのが悟りであるわけないのに、
ただカッコつけて空だのニルヴァーナだの説きだすとは
出鱈目もいいとこ。どこ見てもトンデモ仏教徒の巣窟ですわ。
オウムも一般仏教も大して変わらない。何も理解していない。
504名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 17:38:11 ID:gdT7V1+N
>>487-488
大変貴重な体験を聞くことができました。 
 私の理解と異なるところも無いのです。
 さてそこで、仏陀は生類に慈しみの心を懸けよと言います。
大乗では慈悲喜捨の四無量心を言います。
 私はどうして慈悲心が生じてくるものか判らない状態です。
 どうかあなたの慈悲心についての体験を交えたご意見をお聞かせください。
505名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 17:43:55 ID:gdT7V1+N
>>493
>ニルバーナというのは空性(いわゆる慈悲のこと)でして、慈悲は自他不二です。

空性はどうして「慈悲」になるんでしょうか?
506名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 18:24:47 ID:gdT7V1+N
>>503
ニルバーナのことを、比べるものの無い楽しみ、永遠の平安とか言います。
この通りだとすると、「比べるもののない楽しみ」と感じる主体が居る事になります。
また、「永遠の平安」というのなら、「永遠の平安」と感じる主体が居る事になります。
 諸法無我とか諸法非我とか言いますね。諸法というのは森羅万象でしょう。
森羅万象に「我」と言う主体がない事は容易に理解できます。そして、そのような「我」の無い
森羅万象に自分を見出せない、と思うように成るのに何の困難も有りません。つまり、
森羅万象は「我に」あらず、「森羅万象は非我である」と判断するのは自然です。
 しかし、先に言いましたように、「永遠の平安」を感じる自分と言うものは否定できないのではないでしょうか?
「涅槃経典」で、この点を外道に追及された仏陀が、「我」とは「仏性である」と答えています。
そして、仏教の初めでは、「空、苦、無常、無が」と説いていましたが、般若経の最後頃で、
「空に対して浄、苦に対して楽、無常に対して常、無我に対して我」を説くに至りました。
 この教説を聞いて外道の何人かは直ちに釈迦のもとで出家しました。
 どうもこの涅槃経の説教のほうが受容し易いですね。
507名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 18:26:21 ID:6sCSjqHj
>>503
>そういう、善悪を思い煩っている馬鹿な自分というものは
>元々無いものだけど、仏としての自分まで無いと言う

どこをどう読めばそう読めますか?

何度も何度も「空」=「無」ではないと言っている。
「仏としての自分」というが、自分という意識が死なない限り、仏にはなれない。
508名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 18:33:18 ID:6sCSjqHj
言うまでもないが、仏性=空=慈悲である。
509名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 18:38:18 ID:bcyCNV0K
>自分という意識が死なない限り、仏にはなれない。

そんなことはない。仏だって私、って言うしな。
何がいらないもので、何がいるものか、分からなければ
死んでみればいいのかというと、そんなことできない。
概念だけで安易に分かったようなことを言うと分からなくなる。
自分が説明できる範囲のことだけ喋ればいい。
510名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 18:45:03 ID:6sCSjqHj
個我(ジーヴァ)しか知らないなら、仏性を理解することはできない。
むしろ黙っていたほうがいいでしょうね。
511机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/22(金) 19:00:09 ID:xyrLMmRa
>>505
動中の禅も、静中の禅も、いうならば日常から離れた非日常という経験をとおして
そこにある「生かされている自分」とか「生きている自分」とかの
縁起の摩訶不思議を感得します。

これを、大自然(だいじねん)とか、自然法爾とか言うたりしますが、
「君ありて我あり」の理に鑑みなされば、大慈・大悲という言い方こそ相応しきことなり。

慈悲というのは、これは全く理屈ではないわけですね。
仏道は理屈じゃないわけです。

本来あるものを、慈悲と言うているわけです。
経験的には、瞬時の慈悲の顕現は誰にでもある。
それが思惟により邪念に変化する場合もある。

刹那・刹那は仏でありますが、人は経緯において邪念も出てくる。
ニルバーナとは、この刹那のことです。
瞬時・瞬時で終了しているわけです。→時間的なプロセスはない。

これが、ありありと分かってきます。
これもまた悟入ですね。


512名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:07:55 ID:qir9aZPK
>>510
君は仏性がわかっているのか。すごいな。w
513名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:12:02 ID:6sCSjqHj
私が「分かる」ということはないですね。
分けてしまったら仏性じゃないですから。

「一粒の麦、若し地に落ちて死ななければ、
終わりまで一粒である。
もし、死ねば多くの果を結ぶ也。

その生命を惜しむ者は、それを失い、
此の世に在りて生命を惜しまない者は、永遠にその生命を保有する。」
514名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:17:21 ID:6sCSjqHj
何かに一生懸命打ち込んでいるときとか、
普通の人でも自分のことを忘れたりするでしょう。
理屈じゃなしにそういうことが大事だと思うね。
515名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:25:20 ID:qir9aZPK
お茶を濁すな。
説明できないなら説明できないと言えよ。
516机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/22(金) 19:25:44 ID:xyrLMmRa
>>506
>ニルバーナのことを、比べるものの無い楽しみ、永遠の平安とか言います。

ニルバーナというのは、瞬間でもありますし、この瞬間に永遠があるわけです。
あの世もこの世も、いうならば瞬間に生起しているわけです。

時間的なプロセスはなく、善悪も生死も瞬間にこそあるわけです。
ならば輪廻転生は全くもって問題にもなりません。

これもいわゆる悟入です。

いやはや般若は甚深であります。
全てが般若で調うてしまうのです。

>この通りだとすると、「比べるもののない楽しみ」と感じる主体が居る事になります。

主体があっても、既に生滅してます。
なにも案ずることはありません。
517名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:36:29 ID:6sCSjqHj
>>515
>お茶を濁すな。
>説明できないなら説明できないと言えよ。

ちゃんと説明していますよ。
あなたが理解できないなら、それはまた別の問題です。

たとえば一度も「バナナ」を見たことも聞いたことも無い人に、
言葉だけで「バナナ」を説明して伝わると思いますか?
相手が知らなければいくら説明しても伝わらないし、
知っていれば一言で伝わる。

言葉の意味が伝わるということは、
縁起の理法によれば「伝える側」一方的に責任があるのでも、
それを「受け取る側」に一方的に責任があるのでも無いわけです。

両者に責任がある。

だから一方的に「ちゃんと説明しないおまえが悪い」とも、
「説明しているのに理解しないおまえが悪い」ともいい切れませんね。
518名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:38:50 ID:6sCSjqHj
こうして縁起の理法を学ぶと、善悪がだんだんあいまいになってくるわけです。
ちなみにナーガルジュナは「縁起の理法」=「空」と説明しています。
519名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:46:46 ID:qir9aZPK
それで説明できてると言う神経を疑う
釈迦がかわいそう
520名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 19:56:29 ID:gdT7V1+N
>>482
>原始仏教ならば、みなさまに
問いたい事があります。
何故、釈尊は不淫を求めたのでしょうか?

不淫とは邪淫のこと?つまり不倫のこと?其れとも情欲を起こさないこと?
521名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 20:12:19 ID:6sCSjqHj
>>519
>それで説明できてると言う神経を疑う
>釈迦がかわいそう

あははは。。
私と釈尊を比べられても。。。

まあ、気を悪くめされるな。
522名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 21:44:44 ID:gdT7V1+N
>>516
お説はだんだん難しくなってきました。
 私はやはり、縁起の理法と空性を理解したものが、その知恵の目を持って、
世間を見たとき、世間には縁起の理法と空性を知らないで、迷っている人が居るのをみて、
彼らに対して哀れみの気持ちを抱くのが、慈悲心の起源と考えます。
この段階は菩薩のものでしょう。仏の慈悲心は、菩薩のもののように不完全でないのです。
仏が衆生を哀れみたもうのは、菩薩を生み出す事にもっとも顕著であると言えます。
  
 其れと、釈迦は、縁起の理法と空性を悟ってからその完成を目的に菩薩行をしたものと介されるのですが、
あたかも、縁起の理法と空性を悟った時が、完成であるかのように経典に記録されています。いわゆる梵天の勧請です。
ま、そのときが知恵の完成のときであったと言えるから、いいんですかね?
 しかし、いずれにしても、関係としては、縁起の理法と空性を悟り、其れを修行して完成させた
と言う順序で無ければならないと思います。
523名無しさん@3周年:2005/07/22(金) 21:59:58 ID:SEsSDOpY
>>521
比較などしてないから安心しなさい。
524ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/23(土) 01:19:22 ID:KNuscEXs
>>470
暇人さん、誤読の指摘どうも有難うございました。

ただ私には大乗論書(ユガ論)等の後代に製作された書物に引用されている
経典(雑阿含経の原型)が実は古い可能性もあると言う印順師の視点は
「学問ではなく信仰」や「噴飯もの」ではなく大変興味深いものでしたね。

恥ずかしながら今までは論書等を読んでても、論書の著作者の意見を重要視
していたのですが、実は論書等に引用される経典と言うのはとても大事なんだ
なぁって見方が変わりました。考えれば当然で、論書の作者も経証がなけりゃ
単なるひとりよがりになっちゃう訳ですし、経証に注目すればその論主が受け
取り、選んだ仏教というのがどんなものだったのか見えてきますね。
525暇人:2005/07/23(土) 01:32:50 ID:DQHX11fc
>>524

勿論 可能性はありますね。
水野さんが評価されるように印順の師が「瑜伽論」に注目し
継承発展した点では評価されてしかるべきですね。

ただ@論書の整理された組織そのまま古層と断定する根拠が私には不明(但し水野 長崎は支持)
A雑阿含散文が古層との推定の合理性を欠く(これを水野さんは明確に支持されてない)
B九分教と雑阿含散文が同時成立説の根拠も不明(水野さんは明確に支持されてない)

学問的評価は@までであり ABは説の紹介に留まっていると私は思います。
526無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 05:24:36 ID:taWfR360
http://www5b.biglobe.ne.jp/~pocapoca/sub19.htm
この書評に惹かれ

釈尊の歴史的実像
 磯部隆(1997年 大学教育出版)

を読みました。
 邪馬台国論争はなやかなりし頃、「邪馬台国はなかった」という
( http://www.furutasigaku.jp/jfuruta/section/sec001.html )
タイトルの書籍がでましたが、それを読んだときと似たような興奮を覚えました。

http://www.rose.sannet.ne.jp/yukakosansuian/com/comp5.html
において、註釈に
> 2) 1期経典をスッタニパータ4章5章とする。なお原始経典の新古層については別に論じた。
とあったのですが、その全てが最古層というわけではなく、
その中に、最古層のものが含まれている程度の意味だったこともわかりました。

素人が暇つぶしに読む分にはなかなかの優れものだと思います。
amazonから発注することができますが
http://www.amazon.co.jp/exec/obidos/ASIN/4887302053/250-5060132-6550668
ユーズド商品の出品者に注目。思わず、笑ってしまった。

宮元啓一氏が次のページにおいて、
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/hon/nanatsu.html
>  哲学研究は、それじたい哲学である。哲学することを、飛行機で自在に空を飛ぶことにたとえてみよう。
> すると、哲学研究が依拠するテクストは、ちょうど滑走路に当たると見てよい。滑走路がなければ、飛行機は飛べない。
と述べている。
滑走路作りに参加するのであれば、サンスクリット語、パーリ語、仏教漢文の素養も必要だが、
ちょっと観光飛行を楽しむ分には、すでに豊富な日本語資料が存在しているように思える。
527机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/23(土) 06:43:43 ID:MxKH//1l
>>522
>お説はだんだん難しくなってきました。

いやいや、難しいことはないです。
電波先生とか、ああいった文献学者がかえって仏教を難解にしてしまった。
本来はもっとシンプルなのが仏教の本義かとおもいます。

永遠というのは何処にあるのか?そこに疑を向ければこと足りること。
はるか彼方に永遠はあるのか?
いやいやそうじゃ〜ないですね。
”今ここ”を離れて永遠はないわけです。
”今ここ”にこそ永遠はある。
これを龍樹は「行くものは行かず」、「去るものは去らず」と言うた。
つまり「永遠というものを想起して(縁起)永遠はあるわけです」。
”今ここ”にしか想起はできません。
非常にシンプルであります。

>世間を見たとき、世間には縁起の理法と空性を知らないで、迷っている人が居るのをみて、
>彼らに対して哀れみの気持ちを抱くのが、慈悲心の起源と考えます。

仏教スレにおいては、よく輪廻転生が話題になる。
あれは、心ここにあらずして輪廻に心が飛んじゃってるわけですね。
心が輪廻に飛んでしまいますと、全くもって輪廻は見えてこないわけです。
私の自論であります「仏教は知ることではない」というのは、こういうことです。

今ここの刹那。
これをニルバーナとか涅槃寂静というのは、今ここにおいて全てが見えてくるわけです。
日常の切断、というのはこのことでして、これが頓悟です。
528名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 08:38:29 ID:E5we/glA
>527
お前の解釈には電波を感じるな。
無理矢理なんでも般若心経に当て羽目、原始仏教を語っている。
ところであんた、頭でっかちなへ理屈、理論はいいからさ。
どうすればニルヴァーナ、涅槃に入れるか、具体的に語ってみろや。もちろん知ってっから、
他人に意見し、自説を押し付けてんだろいな。
しかしここはいつから般若心経と禅思想のスレになった?
原始仏教の話しをしてくれや。
529487:2005/07/23(土) 08:52:38 ID:3TKDex6n
>>493
>ニルバーナというのは空性(いわゆる慈悲のこと)でして、慈悲は自他不二です。

空は慈悲だと?縁起に慈悲など無いわ、ボケ!なに電波飛ばしてんだ、あぁ糞野郎。
お前何処で修行してんだ?見性くらいしてから俺に意見してんだろうな。
まさか本で読んだ知識だけで、ピーチクパーチク吼えてんだったら張り倒すぞ。ゴルァ。
釈迦に説法やってんじゃねぇぞ、知解。
530名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 09:13:18 ID:pGe4hKqB
机さん あんまり変なこと言うと
あの世送りだよ
531無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 09:32:27 ID:taWfR360
◆<7、賤しい人>◆
実際に挙証していないのに、挙証するように督促されると、『既に挙証済み。』といって言い逃れる人、
──かれを賤しい人であると知れ。

証人として尋ねられたとき、自分のために、他人のため、また財のために、偽りを語る人、
──かれを賤しい人であると知れ。
532机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/23(土) 09:52:00 ID:MxKH//1l
487どの
>昼夜を問わず、寝てるときでさえ、あの女の眼が脳裏に浮かび、夢にも出てくる。
>そのたびに俺の胸は締め付けられ、苦しむ。なぜだ!

何故に貴殿は苦しんだのか?
よくよく考えてみなされ。

貴殿がよきことと思って子女を殺したなら・・・何も苦しむことはない。
そうじゃないか?

「苦しむ」というのは、つまり慈悲なんじゃよ。

( ゚∀゚)アーーッハッハッ八ッ八ノヽノヽノヽノ \ / \
533机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/23(土) 10:01:12 ID:MxKH//1l
>>528
>どうすればニルヴァーナ、涅槃に入れるか、具体的に語ってみろや。

私は>527で大事なことをカキコした。
>永遠というのは何処にあるのか?そこに疑を向ければこと足りること。

つまり、疑なくば真は得られず。

これひとつなり。
534487:2005/07/23(土) 10:21:57 ID:3TKDex6n
>>532
>貴殿がよきことと思って子女を殺したなら・・・何も苦しむことはない。
>そうじゃないか?

ゴラァ。なにてめぇの主観で人の心を語ってんだ?
てめぇ、本当に座ってんのか?師匠は誰だ?てめぇの師匠はアホか(核爆)
誰もがこの世であろうとあの世であろうと、自己こそが主人公。俺は自分の為に
良かれと思ってあの親子を殺ったんだよ。貴様、人の心が読めるのか?馬鹿かお前。
てめぇ、見性くらいしてから俺に意見してんだろうな。
逃げてないで答えろ。お前のいる寺は何処だ?何処に住んでる?
535名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 10:35:16 ID:INDEIaD+
>>534
>お前のいる寺は何処だ?何処に住んでる?

487サン、ここまでいうと脅迫になるでしょう。これは「嘘の方便」であるべきです。
あなたはせっかく尊い真理を得たのですから、どんな迫り来る恐ろしい事態でも、其れが虚妄であることをご存知のはずではないのか?
過去も未来も現在も虚妄である。一切が空である、でしょう?
536名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 10:38:45 ID:S3BYLkUZ
悪人にかまうな。ほっとけ。
537名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 10:46:09 ID:INDEIaD+
>>528
528サン、原始仏教も大乗仏教も全く内容に異なるところがありません。
異論が多いのは阿鼻ダルマ教学のようです。
 般若心教はまさに原始仏教の教義をあたかも額縁に飾るように現したもんです。
538机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/23(土) 10:49:12 ID:MxKH//1l
>>534
>昼夜を問わず、寝てるときでさえ、あの女の眼が脳裏に浮かび、夢にも出てくる。
>そのたびに俺の胸は締め付けられ、苦しむ。なぜだ!

今はどうですか?
苦しいですか?


宮崎勤は、幼女の首を締めるとき、かなり難儀したらしい。
大人の力でも簡単には幼女は逝かないらしい。
何度も失敗して、
締めを数分間持続させて、やっと逝ったと・・・
彼は後ほど述懐している。
539名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 10:59:02 ID:INDEIaD+
>>536
いやこの人487さんは悪をしているとまでは言えません。むしろ「正法」の護持者を自認していませんか?
540名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:15:46 ID:L32rHSep
>>539
物事の善悪を言っても仕方ないけど、
悪人は悪人でそういう生き方もあるんだから、
性分だけはどうしようもない。持って生まれたものはある。
何もかも無い無いと言ってみても、やっぱりあるし、
悪人は悪人なりの生き方をするしかない。
しかし悪人よりも悪いのが善人。
善人は我慢しているだけだから、悪人と同じだし、
いずれ悪人になる。
だから悪人のほうが先に経験で分かってしまう。
善人は何も分かっていない。どちらも
本当の道ではないわけで、話にならないが、まあアホな善人は
悪人に学べばよいだろう。
541名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:16:23 ID:oTGCmr87
つまり仏とは菩薩とは苦しみを与えず、
あの世に送ることのできる技術をもつ
瞬殺の殺し屋であり死神のエリートであるべき
であると言いたいのでしょうか?
苦を感じぬまま、眠るような感じで死をあたえ
その心の状態で死ぬことこそ永遠の安らぎであると・・
542名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:25:31 ID:czTszigO
>>537

>  般若心教はまさに原始仏教の教義をあたかも額縁に飾るように現したもんです。

同意 内容的にそうですね
543名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:28:48 ID:INDEIaD+
>>540
人類など無い、人間など無い、と言うのが仏教です。まして、善悪など無いでしょう。
544名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:34:40 ID:U+X5+wG1
>>537
アビダルマおよび大乗のアビダルマ唯識派に関しては同意。
般若心経についてはまったく同意できません。

があなたの説を論証していただけませんか?
あるいは証拠だけでもけっこうです。
545名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:39:13 ID:eiPgDu8V
>>543
どういう意味で無いと言ってるのかだが、
無いなら何も説く必要はないし、何があって何がないのか
ただ言葉だけで言ってみても何も始まらない。
546名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 11:43:10 ID:INDEIaD+
>>544
> アビダルマおよび大乗のアビダルマ唯識派に関しては同意。
般若心経についてはまったく同意できません。

よく理解できないので、もっと詳しく聞きたいことを説明してください。
547独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/07/23(土) 12:06:44 ID:lap+Cegx
>>546
>よく理解できないので、もっと詳しく聞きたいことを説明してください。
貴方、それは論証責任の転嫁じゃありませんか?
>>544氏は>>537発言にある
>般若心教はまさに原始仏教の教義をあたかも額縁に飾るように現したもんです。
この部分には同意できない、と言ってるんでしょう?
でもって、この部分を論証するか(多分できないだろうから)もうちょっと
詳しく説明してみて、って書いてるわけでしょう。

聞きたい事も何も貴方が>>537で主張した
>般若心教はまさに原始仏教の教義をあたかも額縁に飾るように現したもんです。
これを論証・検証すれば済む話です。根拠無しに自分の信念を書き殴った
だけならば、そうと言えば済む話ではないかと。


・・・ひょっとして釣りですか?私釣られたのかな?
548名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 13:18:02 ID:INDEIaD+
原始仏教も大乗仏教も同じだと言う事に同意し、これらに対しアビダルマ教学が
これらと対立する問題を生じさせる、と言う事にも同意するのか?
 般若心教という大乗経典は、原始経典の内容と対立する問題を生じさせると言うのか?
だとすれば、原始経典の内容と大乗経典の内容は異なると言ってる事になる。だとするとアビダルマとの関係は
どのように変化するのか?
549名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 14:38:44 ID:vQ551Tqt
550おそれ入谷の鬼子母神:2005/07/23(土) 15:38:34 ID:EWS9MaPX
灰の如くなれ。
灯明を吹き消すように。
争いを好み、人を口汚くののしる。
自分のみが正しいと思い、自らが愚者であることに気づかない。
諍論を好むのは性でしょうか?
理解に行為が伴わなければ、単に仏教で遊んでいるだけでしょう。
自戒の意味を込めて。
551名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 15:39:53 ID:PRKLbQGf
たのむ!
9つ下の弟(毎年東大に多数の生徒を合格させる
某名門私立高校2年。16歳)がアーレフに入ってた
ことがわかりました!
やめさせたいが漏れも親も「何のために小2から今まで頑張ってきたのか、
後悔するか。」「上祐に騙されてるよ」「やめないと家を追い出す」
「犯罪者に肩入れするの」「とにかく許さないからよ」「やめて」ぐらいしか
言えません。
弟の洗脳を壊す決定的な言葉ないですか
552名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 15:51:28 ID:INDEIaD+
>>545
スッタニパータ
 1099:過去にあったものを「煩悩」枯渇せしめよ。未来にはそなたには何物も無いようにせよ。
    中間においても、そなたが何物にも執着しないならば、そなたは安らかに振舞う人となるであろう。
 1100:バラモンよ、名称と形態に対する貪りを全く離れた人には、諸々の煩悩存在しない。
    だから、彼は死に支配される恐れが無い。
 1103:上にもしたにも横にでも中間にでも、執着する妄執をすっかり除きされ。
    世の中の何物に執着しても、其れによって悪魔が人に付きまとうに至る。
 すべてのものは依存関係によって存在している。そして、その限界は無い。
 ものが依存関係によって存在しているなら、ものには自性が無いまたは、実体が無い。
  人間が空気に依存して存在しているなら、人間の身体と言う実体が無いのだ。この関係は無限にあるのであり、
 究極として、いかなる実体も無いと判断する事になる。
 
553無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 15:52:25 ID:taWfR360
独善を押し付けなさんな。
まずは、相手の言い分をじっくり聞いておやりなさいな。

・正見 どういうことなのか、ありのままに認識する。
・正思 あなた自身、世間体とか先入観から自由におなりなさい。
・正語 その上で、語られた言葉なら、きっと相手に届くことでしょう。
554名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 15:56:16 ID:heZ/mEV4
>>551
アレフはシヴァ神を信仰する非仏教団体です。

555名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 15:59:12 ID:INDEIaD+
>>550
スッタニパータ
 1106:ウダヤよ、愛欲と憂いの両者を捨て去ること、沈んだ気持ちを除くこと、悔恨を止めること。
 1107:平静な心構えと思いの清らかさ、〜〜〜それらは真理に関する思索に基づいて起こるものであるが、〜〜〜
   これが無明を破ること、正しい理解による解脱、であると、私は説く。
  
  「真理に関する思索に基づいて起こる」といわれている事に留意。これは理解、納得を指すと思う。
556551 ID:PRKLbQGf:2005/07/23(土) 16:04:20 ID:PRKLbQGf
弟は「俺は前世からの修行者で、こんじょうもグル方の下で
救済の手伝いをするカルマで生まれてきた。」とか
「尊師の根源仏典と生死を越えるを見てほしい。そうしたらわかる」とか
「勉強を夜中までやり、小2から夏休みも長い休み全部○大のために
潰して我慢ばっか、頑張るのはもう嫌。頑張っても死んだらみんな
置いていく。それで三悪趣へ流転。だめじゃん。おれそういう来世
いやだからアーレフやってる」
と言っています。
今、弟はアーレフの在家セミナー合宿にいってます。
557名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:12:33 ID:INDEIaD+
>>554
信者たちがキチンのした態度で話すので好感を持った、初めはね、犯罪が発覚するまで。
 ものみの塔の信者でも、同様の印象を受けるな。
  仏教で無いとすれば、勧められないな。ところが、仏教だ仏教だと言いながら、
 仏教で無いsみたいなのもいるからな。
558名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:13:53 ID:3hHVd2AA
オウムは兎に角カネ、カネ、カネ出せだからそのうち嫌になるだろう
559名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:16:06 ID:INDEIaD+
禅宗が良いか?
560無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 16:16:19 ID:taWfR360
アーレフの件は、ちょっと横においておいて、

> 勉強を夜中までやり、小2から夏休みも長い休み全部○大のために
> 潰して我慢ばっか、頑張るのはもう嫌。
この主張に関してどう思うの?
561名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:17:04 ID:+RpRuauk
>>556
大学でインド哲学や仏教を学ぶように言ったら?興味があることなら勉強するだろうし。
562名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:18:29 ID:heZ/mEV4
信仰するなら菩薩や如来にしとけ・・・と言いつつ
ダライ・ラマ・のHPを見せる
563名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:19:31 ID:heZ/mEV4
564名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:19:42 ID:gEpIiNzH
>>560
今オウムを牛耳ってる麻原の娘も大学行ってる
だからその主張は意味不明
565名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:19:54 ID:INDEIaD+
釈迦教団は、寄付とか托鉢で生計を維持していた。
現代でも托鉢できるのか、乞食は軽犯罪で無かったか?
566名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:23:14 ID:INDEIaD+
>>560
嫌になって当然だよ。
567551 ID:PRKLbQGf:2005/07/23(土) 16:25:57 ID:PRKLbQGf
560
その主張に親は「辛い事はわかってる、でも・・・いつか自分自身のために
なること」と言っておりました。
漏れは「もうお父のいうことも聞かなくていい。自分のやりたいように行け。
けどオウムだめ」と言いましたが弟は
「アーレフにしか正しい教えも人生もないはず。」と言ってます

561
「大学にはそういうのあるの知ってる。けど、それは嘘って
ウッタマー正悟師が言ってる。大学には行きたい」と言っておりました
568551 ID:PRKLbQGf:2005/07/23(土) 16:32:31 ID:PRKLbQGf
じつは、これから
埼玉の八潮市の「光音天」にカウンセラー役の脱カルトの支援を
されている方と家族でいって、
面会させ説得する予定なのです。
行ってきます
569名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:33:43 ID:bRSNgF4D
電波氏にお願いしたら?
570無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 16:34:28 ID:taWfR360
> 漏れは「もうお父のいうことも聞かなくていい。自分のやりたいように行け。
> けどオウムだめ」と言いましたが
弟さんの気持ちを、もっとじっくり聞いてあげたら。
「世間体が悪いから、オウムはやめろ」
と言っているようにしか、聞こえないのだが。
571無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/23(土) 16:37:19 ID:taWfR360
いってらっしゃい。
皆さん、満足の行く、解決策が見つかるといいですね。
572名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:38:21 ID:INDEIaD+
>>570
居れも同意見だ。
573551 ID:PRKLbQGf:2005/07/23(土) 16:39:10 ID:PRKLbQGf
「世間体が悪いから、オウムはやめろ」
その気持ち、あります。
まあ話しをしてきます。
574名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:40:48 ID:+RpRuauk
>>569
ワラタ
575名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:40:48 ID:GHMxl6L3
576名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 16:43:48 ID:TrYpuFEf
さっき地震があった。
577机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/23(土) 16:44:20 ID:MxKH//1l
>>556
>「尊師の根源仏典と生死を越えるを見てほしい。そうしたらわかる」とか

”生死を越える”というのを、誤解してる方が多くいるかとおもいます。

生死という相対から離れて「今ある自分」を、見つめてごらん。
という意味が般若です。

考えてみれば、自分というのは瞬間・瞬間にしかないわけです。
瞬間・瞬間は生死がありません。
その瞬間こそが全てなわけです。
これを「生死を越える」という言い方をするわけですね。
他に意味などないです。

>救済の手伝いをするカルマで生まれてきた。」とか

そんなことはないです。

仏教というのは、最終的には常識的なことで終ってしまうのです。
これを道元は、眼横鼻直とか言うたんでしょうね。

文献学者とかが複雑な解釈するのは、複雑じゃないと学者の面子がありませんから、
そういうバックボーンに騙されてはなりません。


578名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 17:06:43 ID:OxE8fywr
また、地震だ。気をつけてください。
579名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 17:35:59 ID:4A0POAUL
580名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 17:55:47 ID:3ITpCDtk
>「世間体が悪いから、オウムはやめろ」
>その気持ち、あります。
>まあ話しをしてきます。

弟さんを説得し納得させるだけの金言をあなたがしてあげられればいいですね。
ちなみに、世間体という虚構を身ぐるみ剥がしていくのが仏教です。
581名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 18:05:28 ID:INDEIaD+
あるいはひょっとして、撥が当たったか?埼玉近辺で地震が起きているとは。
582樹意:2005/07/23(土) 22:22:21 ID:N0xnWrUs
>>556
> 「尊師の根源仏典と生死を越えるを見てほしい。そうしたらわかる」とか

アレフはアゴンカルトと同じで仏典(7科37道品 他)も持ち出しますから 性質が悪いことこの上ない
彼らが撒いたサリンの犠牲になり いまだ病院で伏しておられる方もおられるかと思います。
このような 破壊的反社会的行為が本来の仏典に説かれているものなのか 自身で考えさせ
自分で答えを見つけられるよう誘導できたらいいかなと思います。
根本仏典の考え方はこのスレッドに登場する碩学の皆様の意見が 参考になるかと思います。


583名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 22:42:23 ID:E5we/glA
>>533
答になっていないんだよ。知識だけだから単刀直入に答えられない。
抽象論、言葉遊びはどうでもいいんだよ。

釈迦は悪を成すな、善を成せと説いた。

それをこの禅宗の連中にかかれば、般若心経をベースに、善と悪を玉虫色にし、
この世にはしっかり善悪は在るのに無いなんて邪見をし、
ひいては人を殺しても、なんとも思わないモンスターを生む。
ここまでくると、立派なカルトだ。こう言った日本の仏教の土壌がオウムを産んだんじゃなうのか。
いいか何度も言うが、初期仏典を読めばわかるように、釈迦ははっきりと、悪を成さず、善を成せ。と、
言ってるんだよ。それをねじ曲げるな、邪教徒達。
584名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:07:28 ID:U8E9pCqa
>>583
つりなのか?
それとも真面目にかいているのか?
585名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:26:08 ID:INDEIaD+
そこで、善とは何か、悪とは何か?と言う論になったのだ。
善悪を論ずる前に、真理の理法とは何か?と言うことの答えを明らかにするのが良いと思うのだ。
其れは何物にも執着しないことである。故に善悪に執着しないと言う答えが出てきたのだ。
 真宗では、毒混じりの善という。其れは執着を離れていない善行を言うのだ。
例えば、物惜しみ「吝嗇」の気持ちで布施をするならば、善行であるけれども、布施者も布施を受けるものも
紐付きの布施のようになる。次に殺す意思が全く無い気持ちで、殺す場合はどのように考えるべきだろうか?
その場合殺人が行われているのだろうか?少なくとも現代の法律では、そのような場合殺人罪にならない。
誰よりも健全な精神を持っている人が(仏教を実行している人は健全である)殺す意思が無いのに、
殺すということは考えられないのだ。
 (仏陀:悪魔との対話:サンユッタにカーヤU)第X第10節
(そなたは何故にいけるものというものを認めるのか?悪魔よ。汝は悪しき見解を抱いている。
この生けるものはただ諸々の形成されたものの集合である。。ここに(生ける者)は認められない。
・・・・・ 
 実に苦しみが起こり、苦しみが留まり且つ滅びていく。
 苦しみのほかには、何物も生起しない。苦しみのほかには、何物も滅びない。」と。
 一切の形成されたものは苦しみである「一切皆苦」、これをよくよく思慮してみるべきである。
586名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:34:59 ID:U8E9pCqa
一切の戒律や誓いも捨て
罪過あり或いは罪過なきこの行為をも捨て
「清浄である」とか
「不浄である」とか
いって願い求めることもなく、
それらに囚われずに行え。
587名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:36:34 ID:INDEIaD+
>>585
続き
しかし執着を持って殺した場合、つまり貪・いかり・痴をもって殺した場合。
この場合が悪なのだ。
588名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:38:01 ID:INDEIaD+
>>585
ソースお願いします。
589名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:40:06 ID:INDEIaD+
>>585
したがって、執着を無くした人が、悪をすることは無いのだ。
彼は善悪をするに由が無いのだ。
590名無しさん@3周年:2005/07/23(土) 23:43:52 ID:INDEIaD+
今日はよく話した、おやすみなさい皆さん。
591名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 01:44:04 ID:MyRIpr1e
善悪とは何か。
戦争はなぜなくならないかを考えれば分かる。

相手を悪とみなせば、悪なので殺していいということになり、戦争することになる。
悪をなくせば、戦争は起こらない。
相手を悪とみなさなければ、相手を非難することもなく戦争にもならない。
相手を悪と見なさいので自分を善とも思わない。

善悪という相対を離れて「空」という絶対に悟入する。
この空が本当の善である。
相対の世界に迷うのが悪である。

俺は正しい、おまえは間違っているという、
相対的見解から離れない限り戦争はなくならならない。
592机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 06:58:22 ID:bqe19QED
>>583
>それをこの禅宗の連中にかかれば、般若心経をベースに、善と悪を玉虫色にし、
>この世にはしっかり善悪は在るのに無いなんて邪見をし、
>ひいては人を殺しても、なんとも思わないモンスターを生む。

善に傾いたり、悪に傾いたりするのは、結果的にはあまりよくない。
これは社会通念上においても言える。

ボランティアなどでも、ほどほどなところがよい。
子供の小遣いでも、ほどほど。
人を助けるのも、ほどほどにした方のが・・・・結果的には、その人のため。

これを「無分別の分別」という。
世俗の智慧です。

593カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 08:28:47 ID:sF5N0pw+
>>487
仏教は仏教であり、禅宗は禅宗。
似て非なるものである。
が、仏教であろうが禅宗であろうが、異教徒であろうが、
宗教は違えっていても、例え無神論者であろうと、
慈悲、慈愛の心を実践できる者は、真理であり、真理の道を進む者である。

おまえは、”仏教”を語るのなら、禅はまずおき、
アングリマーラの話でも読んでおけ。
理屈っぽい大乗仏典など必要ない。初期仏典の、釈迦の素朴な言葉でも読んでおけ。

俺は「一」を知った。
なぜお前のような者の心にも、良心というものがあり、
誰の心にも、利他の心があるのか、なぜお前が苦しんだか、おわかりにならないか?
女の見せた悲しい眼は、お前自身の眼だ。女の流した涙は、お前の涙だ。
お前は他人を殺したつもりが、自分自身を殺している。
お前は今のままでは死人のままだ、決して生きない。真理は「0」ではないんだよ。
594無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 08:42:21 ID:KmCGHhAi
http://www.eonet.ne.jp/~indology/muula.htm
において、
> 解釈によって矛盾を解消するのは魅力的な手法だが、
> 当研究室では第一に挙げたテキスト・クリティークを至上命題としている
> ので覚悟のほどを。(デモ批判仏教ジャナイヨ)
との記述があったが、

解釈によって矛盾を解消するという魅力的な手法を駆使しているのが、
>>526
> 釈尊の歴史的実像 磯部隆(1997年 大学教育出版)
この書籍である。この内容を少し紹介したい。

まず、出家の真相に関してであるが、
実は仏陀は、軍事同盟を結びにマガダ国の首都・王舎城(ラージャガハ)に行った。
しかし、それに失敗し、いろいろ考えるところがあってそのまま出家した。
と推理している。
それを隠す目的で、出家経が作られたとしている。だから矛盾があると。
-------------
◆<1、出 家>◆
405 眼ある人(釈尊)はいかにして出家したのであるか、
かれはどのように考えたのちに、出家を喜んだのであるか、かれの出家をわれは述べよう。

421 象の群を先頭とする精鋭な軍隊を整えて、わたしはあなたに財を与えよう。
それを享受なさい。わたしはあなたの生れを問う。これを告げなさい。」
(スッタニパータ)
-------------
この象軍の提案は、実際には、仏陀が求めて断られたもので、
ビンビサーラ王が仏陀に提示したものではない。
釈迦族の王子とわかった上での提案であれば、まだわかるが、順序が違うだろう
と主張している。
595カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 08:53:02 ID:sF5N0pw+
悪魔の正体を教えてあげよう。
それは人の心に巣食う、「エゴ」だよ。
サタンは世と共にあり、世に生きる人の心と共にある。

人は善悪を知り、その善悪の思いに囚われた心は、エゴを生み、エゴは自我を生んだ。
自我はこの世に生じる。エゴは分裂させるもの、エゴは決して元の一つにしないもの。

釈迦は、この世で善悪は無い、そんな者に執着するなと言ったんではなく、
他人の過ちはみるな、ただ自分の過ちを見よと説いたんだよ。
そして、全ての人は幸せであれ、生きとし生けるものは幸せであれと、説いた。
それはエゴを滅ぼす道でもある。

勝義諦、世俗諦を言うならさ、それぞれの時代の価値観は変わる。だからこの戦争は善、
この戦争は悪などと言えない。善と悪などは時代、
または人の価値観により、左右されるなんて言うのが、世俗諦。

たとえどんなに自分が迫害されようと、どんなに理不尽な事をされようと、
決して復讐せず、迫害する者を、自分の事のように愛する。これを、勝義諦というんだよ。

善悪を知り、エゴから生まれ、エゴをもつ我らは、悪い父から出た者である
隣人を愛せ。これは命を得る確かな道だ。
蛇よ、蝮の子よ。俺は真理を語っているのに、お前達は聞こうとしない。
596無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 08:58:29 ID:KmCGHhAi
>>595
> 他人の過ちはみるな、ただ自分の過ちを見よと説いたんだよ。

ちょっと、細かい突っ込みを。
> 他人の過ちはみるな、
とは言っていない。ひょっとして
他人の過ちを責めるな
の間違いでは?
殺生に関しても、自分が殺生しなければいいではなく、
殺生を見過ごすなといっていたはずだが
597カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 09:24:19 ID:sF5N0pw+
>>596
>他人の過失をみるなかれ。他人のしたことと、しなかったことをみるな。
>ただ自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。〜ダンマパタ・中村元訳

別にあんたの解釈でも、そう問題はないだろうとは思うよ(苦笑)
揚げ足取りではなく、みるなら文意を汲み取れ。
前にも言ったが、禅問答、屁理屈には付き合うつもりはないんであしからず。
それ以前に議論するつもりもない。
言いたい事があれば、自分の意見を淡々と述べたらいい。
598名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 09:38:25 ID:e6xH40xF
>>593
> 俺は「一」を知った。

「一」について説明してほしいね。パルメニデスの「一」ですか?
599カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 09:54:46 ID:sF5N0pw+
>>598
俺の言う「一」とは自性のことだ。
自性については、このスレでも触れたように思うんだが(苦笑)

無論、五感から感じられ、そこから認識できる世界、つまりこの世、及び、この世の自我、意識などは、
無自性なものだということは、よく知っている。
600名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 10:20:30 ID:e6xH40xF
>>599
どんな自性ですか?
601:2005/07/24(日) 10:42:47 ID:e6xH40xF
昔の自性の話は難しくてわかりませんでした。あなたから直にお聞きしたいです。
602無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 10:50:00 ID:KmCGHhAi
>>596 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 08:58:29 ID:KmCGHhAi
> > 他人の過ちはみるな、
> とは言っていない。

>>597
>他人の過失をみるなかれ。他人のしたことと、しなかったことをみるな。
>ただ自分のしたこと、しなかったことだけをみよ。〜ダンマパタ・中村元訳

うーむ。これは失礼しました。
経典にはそのように書かれていますね。

ただ、文脈をみると、いかにも「後から不自然に追加された」ようにみえると
負け惜しみを言わせてもらうよw

【 第四章 花にちなんで 】
・・・・
47 花を摘むのに夢中になっている人を、死がさらって行くように、眠っている村を、洪水が押し流して行くように、──
48 花を摘むのに夢中になっている人が、未だ望みを果たさないうちに、死神がかれを征服する。
49 蜜蜂は(花の)色香を害をずに、汁をとって、花から飛び去る。聖者が、村に行くときは、そのようにせよ。
50 他人の過失を見るなかれ。他人のしたこととしなかったことを見るな。ただ自分のしたこととしなかったこととだけを見よ。
51 うるわしく、あでやかに咲く花でも、香りの無いものがあるように、善く説かれたことばでも、それを実行しない人には実りがない。
52 うるわしく、あでやかに咲く花で、しかも香りあるものがあるよえに、善く説かれたことばも、それを実行する人には、実りがある。
・・・・
603カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 10:51:51 ID:sF5N0pw+
>>600
自性に、どんなもこんなもあるものか。
自性については、このスレですでに書いた。縁起と自性の関係についても、
書いたつもりだ。ここの某氏とも縁起と自性の関係についてやりあった記憶がある。
彼は因果律も理解しない。

それはそうと俺は、禅問答、屁理屈には付き合うつもりはないと言った。
あんたが本当に知りたければ、聞くまでもなく、答えはすでに書いている。
単に自分の意見と違う者に絡みたいだけなら、
俺は他人のエゴに付き合うつもりはない。時間とエネルギーの無駄だ。
自分の意見があるなら、淡々と述べればいい。

言って聞かない者はそのままにしておけ。その者の業はその者自身が受ける。
真理の道に入るのも、滅びの道に入るのも、その人自身の問題だ。

ま、俺はしんどいので、もう寝る。あんたが本当に知りたければ、あとは自分で考えるんだね。

PS。
ところで今度は「何で人を殺してはいけないの?」なんて聞くつもりかい?(苦笑)
604無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 11:11:45 ID:KmCGHhAi
>>600 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 10:20:30 ID:e6xH40xF
> どんな自性ですか?

>>601 :↑ :2005/07/24(日) 10:42:47 ID:e6xH40xF
> 昔の自性の話は難しくてわかりませんでした。あなたから直にお聞きしたいです。
結構、わかりやすいと思うけど?

--------------
>>409 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/20(水) 11:17:07 ID:TY4Fo8+M
生じたものは滅するのが定め。縁起により成り、無自性であるこの世は何一つ
永遠不滅のものはない。世もいずれは滅するのが定め。世が滅すれば縁起も滅する。
このように、この世は無我であると説く釈迦が、一方で不死の境地を説く。
縁起により成るこの世は、言うまでも無く二元世界である。光あれば闇あり。生あれば死あり
善があれば悪がある。
「一」であれば、悪は無い。悪は世と共にある。「一」はなにものとも縁起することなく存在出来るもの。
感官と縁起するものは、この世の事だ。世と共に、感官はある。世が無ければ感官も無い。
感官機能(根)が寂止しても存在するものが在るとすれば、なにと縁起して存在すると言うのか。
感官機能(根)が寂止しても存在する境地には、無論、自他の別も無い。
「一」とは自性だ。不死の境地はそこに在る。
--------------

『「一」とは自性だ。不死の境地はそこに在る。』
と認識する認識主体が別にあれば、それは「一」じゃないだろう

と、禅問答、屁理屈をこねることは可能だがw。
605:2005/07/24(日) 11:28:59 ID:e6xH40xF
>>604サンありがとうございます。
 「一」とはやはり、「無相、無願、空、無生起、無作為、一相」のことのようですね。
606名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 12:15:59 ID:e6xH40xF
>>604
>『「一」とは自性だ。不死の境地はそこに在る。』
と認識する認識主体が別にあれば、それは「一」じゃないだろう

 「一」だと認めたときに、その時点で、すでに自分もその一の中に解消しているのではないだろうか?
認識する主体と、認識される主体があるとしても、それも考えてみると、相対的に存在するもの、
そうすれば自性のないものである。その両者には同質のものがあるのであり、差別のできないものがあるのであり、
「一」という事が言えるのではないか?
607無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 12:52:26 ID:KmCGHhAi
>>606
私は今、『ヤージュニャヴァルキヤの自己』の概念にはまっています。
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html

>>598 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 09:38:25 ID:e6xH40xF
> 「一」について説明してほしいね。パルメニデスの「一」ですか?

>>605 :↑ :2005/07/24(日) 11:28:59 ID:e6xH40xF
>  「一」とはやはり、「無相、無願、空、無生起、無作為、一相」のことのようですね。
が、それぞれ何を意味しているのか、私は不勉強にしてわかりません。

梵我一如はナンセンスに感じられます。

私のイメージとして、
通常「自己(認識主体)」と「縁起の世界(有=三界)」があり、
全てが縁滅すれば、「縁起の世界(有=三界)」は消え去り、
「自己」だけが残るのではないかと考えています。
608名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 13:31:48 ID:MyRIpr1e
一は知ることができない。
一元論は誤りだ。
それは不二元論としてしられる。
不二元論と一元論は似て非なるものである。

一神教は最後に一なる神を殺してはじめて完成する。

キリストがはりつけにされ、その後に復活するのはその象徴。
一を知ったら、その知ったものは死ななければならない。
609机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 13:41:42 ID:bqe19QED
>>409
>このように、この世は無我であると説く釈迦が、一方で不死の境地を説く。

●無我なら不死でありますし
●無我なら不生であります。
ここに何の矛盾もないです。いわゆる勝義諦ですね。

盤珪は「生まれいずるもわからぬに、死んだ先までわかろうか?」という。
これは、無我ならば全くもってアタリマエのことです。

【縁あれば我は生起するが、縁なくば滅尽する】

#、、釈尊の言説を世俗諦で解釈するのは無理です。

アホダラ氏はコピペの先生ですけど、コピペだけだと勝義諦は見えてこない。
此れと同じこと。
やはり慧眼というのがありませんと、原始仏典を解釈するのは無理です。

610名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 14:00:37 ID:JYwOVZeR
>>549
>一言で言えばピューリタンの清貧とメッテルニヒの狡猾を併せ持ち、
>市場や社会の流れの読みに関しては一級品の頭脳の持ち主で、
>いわば天才に近い若者だったのである

搾取に対する怒りと、暴力に対する怒りが、連動していない例もある。
どちらがより悪と思えるかは、人により微妙に違っている気がする。
いずれにしろ、先は長い。とほほ。。。
611名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 14:01:50 ID:ooNz2cv3
当面においてレスのやり取りもなく、これといった脈絡のない状況では、むやみに個人名を
出すのは感心しません。
過去も未来もなく、即今即所の只現在あるのみ、と口走る割りには、
過去のいきさつをねちっこく引きずっておられるようです。
何も分かっていない証拠だと批判されないうちに改めた方がいいです。
612机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 14:08:29 ID:bqe19QED
551 ID:PRKLbQGfさん

その後どうなりましたか?

カルト集団に嵌る人の共通点は、非常に真面目な方が多いようです。
私も統一教会の講義を習いました。

信者は、個人的にはイイ人が多い。
そのイイ面がかえって裏目に出てしまう。

また、なにかありましたらカキコしてください。
電波先生は、カルト集団からの救出ということもやってるようです。
相談してみますか?
http://itoarc.hp.infoseek.co.jp/sub2.htm
613名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 14:50:41 ID:e6xH40xF
>>607
>私のイメージとして、
通常「自己(認識主体)」と「縁起の世界(有=三界)」があり、
全てが縁滅すれば、「縁起の世界(有=三界)」は消え去り、
「自己」だけが残るのではないかと考えています。

なぜ「縁起の世界」に自己すなわち、色受想行識(五蘊)が入ってないんですか?
自分を忘れていると思います。
614無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 16:53:11 ID:KmCGHhAi
>>613 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 14:50:41 ID:e6xH40xF
> なぜ「縁起の世界」に自己すなわち、色受想行識(五蘊)が入ってないんですか?
五蘊の中には、自己はありません。
五蘊無我です。

> 自分を忘れていると思います。
認識主体(=自分)は、世界の外側にあります。

>>607 :無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 12:52:26 ID:KmCGHhAi
> 私は今、『ヤージュニャヴァルキヤの自己』の概念にはまっています。
> http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html
この文献を、よくお読みください。
615名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 17:04:41 ID:e6xH40xF
>>613
>「自己」だけが残るのではないかと考えています。

残った自己が、一つのものなのか、其れとも、各人の自己として各人の数だけあるものなのか、
ここのところが、ヤージュニァヴァルキアによって、何ら明らかにされていませんね。
 でも、自己とは一つのものと論じられていると読めます。
一つの自己だけがあるとすれば、それは「一」に他ならないと思います。だとすれば、自己というものはない事になると思います。
616無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 17:30:56 ID:KmCGHhAi
>>615
> 一つの自己だけがあるとすれば、それは「一」に他ならないと思います。だとすれば、自己というものはない事になると思います。
日本語が変ですよ。

●一つの自己だけがあるとすれば、自己というものはない事になると思います。

って、言ってますよ。
「自己」を2つの異なる意味で使用していませんか?
617名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 17:56:02 ID:e6xH40xF
>>607
>  「一」とはやはり、「無相、無願、空、無生起、無作為、一相」のことのようですね。
が、それぞれ何を意味しているのか、私は不勉強にしてわかりません。

一相であるとは、相対する相が無いと言うことです。相対する相があってはじめて、
色形があると判別できるのです。例えば、白色は、黒色があってはじめて、識別できるでしょう。
ところが、白色しかない場合、そこには白色すらないことになるでしょう。
たくさんの色があると見るのですが、それらの色のどれも、相対的に、存在していると見るほか無いでしょう。
だとすれば、各色の自性というものは無いというべきでしょう。
 これは心においても同様です。ある心は、何かの縁で生じます。原因となる縁が無いのに、結果としての心は無いでしょう。
ですからいろいろの心はすべて相対的に存在しているもんだから、原因となる縁の心を取り払ったら
もともと生じていないものと判ずべきであり、したがって、どの心にも、自性となる性質など無いというべきでしょう。
このように自性のない状態を空といっているのだと思います。
 このような「空」は生じることはあり得ますか?心や、色は、条件によって生じたり消えたりしますが、
この空だけは生じることも滅することもないでしょう。
 空とはこのようなものを言うのであり、そのような性質のものを別の表現をすると
一だとか、無相だとか、一相だとか、言うのですが、間違った表現でしょうか?
 無願と言うのは、人が真理としての空を認めたら、空というのは、自性「実体」がないと言うことですから、
自分が赤い色のワインを欲しいとして、そのために多大の労力を費やすような、愚かなことをしないと言うことです。
何も願い求めないと言うことです。願い求める実体などない事を知ったからです。
 無作・無起というのは、空だからいかなる意図的な作為もしてはならないと考えることであり、空だから、
いかなる変化もあり得ない、と言う判断に至った事を言うのです。
618カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 18:01:00 ID:sF5N0pw+
>>604
>と認識する認識主体が別にあれば、それは「一」じゃないだろう

お前馬鹿か?認識主体が別にあったらそれは「一」じゃないとおまえ自身語ってるじゃないか。
俺が言う「一」とは、自分がその「一」そのものになるんだよ。
なにをどう読めば、俺が主体と客体のある、わけのわからない「一」を語った?
自分の気に食わない意見は、最初に否定ありき。
俺は揚げ足取りではなく、文意を汲み取れと言った。
今度はだれかに「自己」と言う単語の使い方で、他人に絡んでいるようだが、絡むテーマがあまりに下らない。
それほどまでに自分のエゴを満たそうとするお前は滑稽だ。その内、句読点の間違い、
誤字、脱字の間違いも指摘し、お前は間違ってる!なんて言い出すんじゃないのか(苦笑)

ところでお前、相当理屈ぽいな。年幾つだ?
お前のハンドルは一応覚えておこう。もう相手にせんけど。
619無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 18:07:59 ID:KmCGHhAi
>>618
> なにをどう読めば、俺が主体と客体のある、わけのわからない「一」を語った?

>>593 :カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/24(日) 08:28:47 ID:sF5N0pw+
> 俺は「一」を知った。
620名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 18:19:44 ID:MyRIpr1e
死にきってないから、自分は一を知った、という馬鹿なことを言う。
こういう自己矛盾に気がつかない。
真に知ったものは、自分は知らないと言う。
自分は知った、というのは根本的な「無知」である。

瞑想していると、光をみたり
大歓喜があったりする。

禅の修業ではこういうのは全部、魔境として退ける。
621名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 18:19:45 ID:e6xH40xF
>>616
>●一つの自己だけがあるとすれば、自己というものはない事になると思います。

先にも言いましたが、白色1色だとすれば、そこには色というものがあるでしょうか?
何か白色と異なった色が入ったときに、色の識別が生じるのです。
 この例と同様に、自己と言うものが一つだけ存在しているならば、白色だけの場合白色と認識しないと同様に、
自己と言うものの存在を認識することはないと言うのです。そこには自己と言うものがないと言うのです。
 しかしながら、そこに自己で無い何かが入って来た時は、自己とその闖入者とを識別する事になるでしょう。必然的に。
そこで、各人の自己がそれぞれ違うものならば、自己なるものがたくさんある事になり、自己という名称は同一ですが、
中身は全て異なり、結局自己なるものはないと言うことになります。この場合はスタートに逆戻りですね。
622無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 18:21:14 ID:KmCGHhAi
>>617
むづかしいことは、わかりませんが、
0≠1
であり、
0=無
0≠空
だと理解しています。

ですから、
「一」「一相」

「無相、無願、無生起、無作為」
は、別物だと思われます。

また、空は
> このように自性のない状態を空といっているのだと思います。
この理解で良く、
「一」「一相」とは、別の概念だと愚考いたします。
623名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 18:35:57 ID:e6xH40xF
>>618サンは余計なことを言ってはしたない。無宗ださんあまり気にしないでよいと思います。
そのうち判るでしょうし、こちらの間違いを気づかれるかもしれない。そんなことは無いと思っていますが。
624無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 18:45:05 ID:KmCGHhAi
>>621 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 18:19:45 ID:e6xH40xF
>  この例と同様に、自己と言うものが一つだけ存在しているならば、白色だけの場合白色と認識しないと同様に、
> 自己と言うものの存在を認識することはないと言うのです。そこには自己と言うものがないと言うのです。
えーと、私は「自己=認識主体」という意味で、自己は世界の外側にあると言っています。

認識主体と言うものの存在を認識することはないです。
しかしそれは、認識主体と言うものがないということにはなりません。

>>623
お気遣い、ありがとうございます。
625机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 18:54:44 ID:bqe19QED
>>617
そういうことですね。
>>618
>俺が言う「一」とは、自分がその「一」そのものになるんだよ。

仏道の初期のころは、そういう妄想もあります。
それは分かりますが、
そこから一歩前へ進む。

妄想もなにもかも捨てませんと、邪見にしかならない。
626机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 19:08:31 ID:bqe19QED
>>620
>禅の修業ではこういうのは全部、魔境として退ける。

まあ、そういうことですね。

私も魔境は経験してます。
じつに素晴らしかった。

ちなみに白隠は、この魔境を見性体験としているようです。
魔境であっても、やはり大悟における一つの通過点なんでしょう。

また、精神分裂病における症状も、やはり神秘体験と非常に似ているそうです。
627551 ID:PRKLbQGf:2005/07/24(日) 19:18:23 ID:CQ7xCeS3
光音天道場に行き、狭い入り口からインターホンをつうじ
「ちょっと・・(中略)・・・連れてきてもらいたいんですけど」と
言ったら、なんの抵抗もなくアッサリ弟は呼ばれ出てきました。
 弟「何の用?今は「りついらいはい」なのに何?うざいね。」
 漏れ「いまから家に帰るか。なんでおまえがアーレフに入ったか、
ゆっくり聞かせてくれよ?」
 弟「過去世からの真理の流れにはいるカルマ・・・・・(以下略)」
 「帰依根・・・」
 漏れ「俺らを納得させてみろ。そうしたらアーレフを信じていい。車乗れよ」
 
こういうわけで家に連れ帰り、脱カルトに精通されている方と漏れ、両親で
夕べから、もう20時間以上、説得・弟の言い分聴きをしています。
取り急ぎこのことだけご報告
628551 ID:PRKLbQGf:2005/07/24(日) 19:25:53 ID:CQ7xCeS3
弟の言い分は根が深い。
なんと1997年1月17日(8歳の誕生日。その日、親から受験勉強を
命じられる)からの親への不満の苦しみが
噴出しています。
「8歳からは条件付き(いい子でい続ける事、いい成績をとり続けること)で
優しくされてきた」と泣いておりました
629名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 19:29:56 ID:MyRIpr1e
>ちなみに白隠は、この魔境を見性体験としているようです。
>魔境であっても、やはり大悟における一つの通過点なんでしょう。

最近になって改めて白隠を再評価しているところです。
白隠は大悟3回といっていますね。
これは非常に重要な意味があります。

別に悟りに3段階あるというわけではなく、
悟りと思ってしまう過ちに3種ある、ということです。

>また、精神分裂病における症状も、やはり神秘体験と非常に似ているそうです。

自分を神と思っている人がいっぱいいるそうです。
630机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 19:37:04 ID:bqe19QED
>>627
>こういうわけで家に連れ帰り、脱カルトに精通されている方と漏れ、両親で
>夕べから、もう20時間以上、説得・弟の言い分聴きをしています。

ある程度の長期戦になるかとおもいます。
家族の者は、相当な真剣さがないと勝てません。

焦らずに・・・ジックリと・・・・
やる他ないかとおもう。

その為に家族は、疲れないように体力の温存は重要です。
充分に健康には留意してください。
631机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 19:53:53 ID:bqe19QED
>>628
>「8歳からは条件付き(いい子でい続ける事、いい成績をとり続けること)で
>優しくされてきた」と泣いておりました

そうですか。
今が一番大事な時ですね。

ちなみに、林郁夫が悟ったのは、
警察に逮捕されてなんとなく警察の窓から見える、母子の遊ぶ姿を見た時だったそうです。
幸せそうに遊んで子供連れ。
「この人達を私は救済しようとしてたのか・・・」。
「救済というのは間違っていた」。

林郁夫が、もう少し早く気づいてくれたなら、
こんな大事件には巻き込まれなくて済んだわけです。

何かの切っ掛けこそが人の心を変える。
心の琴線に触れる説得をキボンヌ。

やはり、弟への愛情が一番かとおもいます。

632名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 20:04:07 ID:e6xH40xF
>>624
> 認識主体と言うものの存在を認識することはないです。

其れならばそのようなものを「自己」というのは矛盾していませんか?
 認識できないものとしての名称を当てるべきではないでしょうか?
空とか、一とか、無相とか。
 あのサイトの学者も言ってましたが、名称の問題の可能性があると思います。
しかし名称を間違えると、其れは正しい推理を経ていない可能性が、また有ると思うのです。
 空と言う名称は、論争を起こさないと思います。其れは絶対的だからです。
しかし自己となると、誰の自己かとか、自己とは何かとか、あらゆる論争を引き起こすと思われます。
633机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 20:05:47 ID:bqe19QED
>>629
>悟りと思ってしまう過ちに3種ある、ということです。

そういうふうに考えられますね。
634名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 20:09:34 ID:qOXr1NlA
>>628
そりゃ、典型的なダメ家族だなw
実の親がそんな調子じゃ、常識的に考えても
弟がオウムに走るのは仕方がないのでは?w

(しかし、最悪の所に逝っちゃった揉んだねw)
635名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 20:31:39 ID:e6xH40xF
>>626
>また、精神分裂病における症状も、やはり神秘体験と非常に似ているそうです。

仏教と言うのが、真理は空である、其れ故に欲望を制止する修行をする。
この故に、あらゆる身体精神の病を癒すことができると考えられます。この病は治すべきもんではなく
実体の無いものとして認めないことに有ると思われるからです。
 ところがこの世では、欲望が神となって、欲望を追求できることが、精神や肉体の健康である
と見なされています。
 精神病者が、何故にあらゆる欲望を制止するに至ったかを問わず、制止の時点で、
仏教の修行者が獲得する境地に到達することはあり得る理屈ですよね。

 >>628
私はアレフもその教義も知らないもんですが、今彼を引き離すことはかわいそうではないかと思いまs。
あなたがたの考えもそもそも賛成できないからです。あなたがたの思われている将来は、仏教の真理から言えば
愚かなことだからです。
636無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 20:37:31 ID:KmCGHhAi
>>632 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 20:04:07 ID:e6xH40xF
> 其れならばそのようなものを「自己」というのは矛盾していませんか?
>  認識できないものとしての名称を当てるべきではないでしょうか?
> 空とか、一とか、無相とか。
別な名称というのであれば、文字通り「認識主体」と呼ぶべきでしょう。

しかし、同じサイトの別ページに以下のようにある通り、
認識しようとする欲求をもつものを「自己」と呼ぶことに私は抵抗を感じません。

-------------
自己と世界----インド哲学の視点より
http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/attan.html
そもそも、認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体であるというのは、万人が認めるところである。
また、認識主体に属する認識しようとする欲求は、認識対象を対象とする以外にはない、
認識主体を対象とすることはありえない。

なぜなら、〔認識しようとする欲求が〕認識主体を対象とするとすると、
認識主体と、認識主体を認識しようとする欲求とは、無限後退するという論理的過失に陥るからである。
認識しようという欲求の対象である認識主体(a)にも
別の認識主体(b)があり、その認識主体にも別の認識主体(c)があると、
欲求が認識主体を対象とするとすると、まさにそのようになるのである。

認識主体である自己は、他の何ものによっても媒介されることがないから、認識対象とはなりえないのである。
なぜなら、世間では、認識対象は、認識主体がもつ欲求と記憶と努力と認識手段の発生に媒介されてはじめて、
われわれにとってそうしたものとしての存在(実在性)が確立されるのであって、
さもなければ、認識対象を対象とする知識など、この世にありえないことになってしまうからである。
637無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 20:48:05 ID:KmCGHhAi
>>627-628
報告ありがとうございます。

結局、課題は、
(1)アーレフから、脱会させること。
(2)家庭の中に弟さんの居場所を作ってあげること。
(もしくは自分で確保できるように自立させてあげること)

家庭の中に弟さんの居場所を弟さんが自分で見つけれなかったことが、根本原因であり、
アーレフは縁に過ぎないように思われます。

脱会に関しては、「脱カルトに精通されている方」とよく相談し、
事を進めれば良いと思いますが、
根本原因の解決は大変そうですね。
「根気良く、相手の立場に立って」というありきたりのことしか言えません。
638ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/24(日) 21:05:57 ID:Fi8A8m7b
受験が、良い子を演じる事が、自分を世間の価値観にあわせる事が…バカらしい
のと同様、過去世からの真理の流れとか、菩薩としての救済の使命とか、悟りとか
偉大なグルに巡り合えた喜びとか、そんなものもバカらしいのだと弟さんが
気づいてくれれば良いんですけどね。カルトの中には世間と同様の、いやそれ以上の
エリート主義、選民思想が蔓延してますから、じっくりと、しかしなるべく早く
抜け出して欲しいと思います。何もオウムでなくても仏教は学べますし、
仏道を歩むのは、誰でも、どこでも、いつでも出来ますよ。
639名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 21:18:10 ID:yCrDf+DG
アーレフの教義を理解しようと思うのであれば、
ネットでも学ぶことはできるでしょう。
但し、赤子のような素の状態で臨むのがベターです。
余計なベールを取っ払えば、今まで見えなかったものまで見えるようになり、
相手を説き伏せるだけの手段も方法も思い浮かぶようになるかもしれません。
この原始仏教スレでも、善悪はないだの、無自性だの無我だの空だのと、
白熱した論争が繰り広げられて来ましたが、いざとなれば、やはり人は、
固定的な善悪観念の呪縛からは、自在になることは困難のようです。
ともあれ、あなたもあなたのご家族も、縁起・無自性・空という仏教の
基礎を把握して、弟さんの説得を試みられたらよいかと思います。

640名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:02:51 ID:Be7zE3vx
カラス氏が言っているのは要は真我のことだろう。
釈迦は縁起によりなるこの世には我のようなものは無いと説いただけで、
来世のことまでも否定はしていない。
ここの連中に掛かれば、あの世のことは無記と称して何も語っていないことになる
らしいが、原始仏典などみると、釈迦も、弟子も、普通に語っているんだよね。
その境地にしてもね。

俺には、元からあった、真我思想をいつからか、この世の自我、「私」に摩り替わって
しまったのを正しただけに思えるんだよね。
641名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:05:14 ID:e6xH40xF
欲求とは真理を求める欲望のことか?
642:2005/07/24(日) 22:07:19 ID:e6xH40xF
641は636に対する質問。
643名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:16:05 ID:qOXr1NlA
>>637
>家庭の中に弟さんの居場所を弟さんが自分で見つけれなかったことが、根本原因であり、

喪前も、何、寝言扱いてるの?
「家庭内の居場所を弟さんが自分で見付けられなかったのが原因」等と
責任を全部オウムに走った本人(弟さん)に転嫁してスカしちゃってるけど、
>>627-628を見る限りではそもそも家族が出世のための勉強をその弟さんに無理強いする事で
弟さんの「家庭内の居場所」を奪ったのが、全ての原因ではないか!!


きっと周りがこういう馬鹿ばかりだから、オウムに走ったんだろうなw
644名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:25:37 ID:SMBrnR+h
勉強だけでは生きていけないって気がついたのでは。
645無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 22:27:27 ID:KmCGHhAi
>>641 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:05:14 ID:e6xH40xF
> 欲求とは真理を求める欲望のことか?

認識主体(=自己)が、認識しようとする欲求をもつ
といった場合の、「欲求」は、
真理を求める欲望というよりは、
むしろ本能のようなものではないかと思っています。
646名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:27:52 ID:SMBrnR+h
弟さんは空しさを埋めるものを探していると思われ。
647名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:30:51 ID:Be7zE3vx
ここには自分の考えと違う者に、揚げ足とって絡む人が居るようなんで少し
訂正な。

>俺には、元からあった、真我思想をいつからか、この世の自我、「私」に摩り替わって
>しまったのを正しただけに思えるんだよね。

は、俺には、釈迦は、元からあった、真我思想の真我を、いつからか、
この世の自我、「私」に摩り替わって しまったのを、正しただけに思えるんだよね。

と言い直しとくわ。


648無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 22:31:10 ID:KmCGHhAi
>>643 :名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:16:05 ID:qOXr1NlA
> きっと周りがこういう馬鹿ばかりだから、オウムに走ったんだろうなw
うみゅー。
そんな馬鹿の考える現状における最悪の対応は、おそらく、
「もう、頑張らなくていいよ」と言って、
弟さんの小2から今までの人生の意味を全て否定してしまうことだろうな。
649:2005/07/24(日) 22:36:06 ID:e6xH40xF
>>645
>むしろ本能のようなものではないかと思っています。

認識主体は何を求めているのか?
650無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 22:38:58 ID:KmCGHhAi
>>649
> 認識主体は何を求めているのか?

>>636
> 自己と世界----インド哲学の視点より
> http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/attan.html
> そもそも、認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体であるというのは、万人が認めるところである。
651名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 22:43:28 ID:e6xH40xF
>>650
何を認識しようと欲求するのか?
652無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 23:02:17 ID:KmCGHhAi
それって、電子計算機は、何を計算する機械か?
っていうのと同じくらい無意味な問いだぜ。

しいていえば、認識対象。
653名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 23:06:06 ID:e6xH40xF
>>652
幸せ、と言うのはどうか?
654名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 23:10:21 ID:SMBrnR+h
>>551 ID:PRKLbQGf

弟さんがご両親やお兄さんより
アレフを信じるしかない心境だったわけですよね。
アレフより信頼のない家族って・・・。
655名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 23:17:18 ID:MyRIpr1e
> そもそも、認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体であるというのは、万人が認めるところである。

ああ、結構重要なポイントだね。
「欲求」と「欲求する主体」を分けて考えると、
主体が欲求から離れて宙に浮いて存在することになる。

「欲求すること」を離れて「欲求するもの」が別に存在しないから、
ナーガルジュナは「行くもの」は「行かない」と表現したんだと思う。

仏教で真我を説かないのは、
この文脈で、世界を離れて真我があると勘違いするのを防ぐため。
こうやって観てみると「空」という表現は実によくできている。
656無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/24(日) 23:17:20 ID:KmCGHhAi
>>653
質問の意味不明。
657名無しさん@3周年:2005/07/24(日) 23:38:36 ID:e6xH40xF
>>656
仏教で「その人の我はヒマラヤ山より大きい」とか言うのだ。
 例のサイトの論文を読んでいて、そのような我の存在を払拭できなかった。
 空性が我であるという涅槃経の教えは考えてみる必要がある。原始経典では
自己という言葉はしょっちゅう出てくる。私もなんか判らなくなってきた。
考えてみたい。
 判るまでこの話は、ここで中断しておこう、私との間では。
 さて、もう寝たい。お先に。
658名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 03:15:07 ID:2NUb70Lv
食べ物に不自由せず、安全な居住空間を与えられ、勉学する機会まで与えられて、
なお父母を責めるのは一体どれほどの我であるのか?
一切失って戦争や飢餓地帯にでも放り込まれたら、親の恩というものが分かるかも知れない。
「父母恩重経」でも読んだ方がいいと思う。
659暇人:2005/07/25(月) 04:57:32 ID:xCKAu9PE
うむぅ なんかさ みなさん 基本タームというか
仏教文脈における「ニュアンス」をしらなくない?

我ってアートマンの訳語だけども
日本語の「わたし」と 意味ズレルのだけども
あえて「わたし」に結びつけると「変わらぬわたし」。
でも一般的には「変わらないモノ」だな。
だから「諸法無我」は「あらゆる存在は、刻々と変化する現象であり、
変化しないモノなんてない」という意味だね。
「わたしがない」わけではない。

五蘊無我も
「五蘊の中には、自己はありません」ではなく、
身体や心を隈なく探しても「変わらないわたし」ってない。
身体や心すべてが 変わりつつあるのだ という意味だね。

仏教が批判したのは「行為者としてのわたし」がないということではなく、
「変化しない実体としてわたし」など 自分のどこを探してもない
というこだと思うな
660暇人:2005/07/25(月) 05:08:04 ID:xCKAu9PE
501さん
必須の語学は大事だね できるならばしたほうがいい。
ただね あなたが根本から迷路を彷徨っているのは、
そういうことは他人にいうことではないということだね。
そう思うならばキミが修して 
更に、語学のできる501さんの理解の深さを暇人の浅い理解と
引き比べて、「だから語学を修するの大事だ」と言葉ではなく
具体的事実で示すことだね。
このスレッドのやりとりでは「具体的事実」として、
語学のできない私が 語学を修していると自称する人より
きちんとした理解を示しているわけだ 結果的にね。
事実をありのままにみることが 最初の一歩だね

あなたは貴方の道を 進んでくれ。
んで 何年か後に 深い思索を語ってくれ。
今のままではギャグにしかなってない。
661暇人:2005/07/25(月) 05:20:30 ID:xCKAu9PE
それと 悲しいことだが センスも大事だ。語学以上にね。
んなことは初期仏教の時代から 仏教徒はきづいててさ
現観系の知的理解による「さとり」派と
信仰からの体感的把握による「さとり」とを
同列に書いてるよ。

少しやった人 中途半端な理解で舞い上がる人の難は、
「わかった気になって舞い上がる」ことだね。
つまり傲慢になって 人を見下す。
電波さんたちのミスはそこだね。センスがないねん。
あるいは環境(よい先生 良い先輩・同輩・後輩)に恵まれてない。
学べば学ぶほどに謙虚になる そういう学びをされて下さいな

他人を批判する「基準」なんてものは 語学をしなくても
環境に恵まれてたら 本物を何種類か厚みをもって接しているので
門前の小僧 習わぬ経を読むで でけるねん。
「なんか おかしい」とね
どこがどうおかしいのか は難しいのだが 
「なにか違う」というのは 肌感覚かもよ。

まああせらず いそがず 自分の道を歩まれてください
662名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 06:27:05 ID:CSvskXHD
このスレで「行為者としてのわたし」がないと主張している人はいないと思うな。
「行為すること」を離れて単独で「行為者」が存在していないとは言ったけど。

「踊り」が「踊る人」を離れて
「単独で存在している」のを見た人が一人でもいるだろうか?

あと>>629に追記の独り言。
もちろん白隠を大いに肯定してのこと。
実は最近、坐禅和賛以外の白隠の著作をはじめて読んで
これほど痛快にぶち抜いた人だったのかと驚きあきれている次第。
663無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/25(月) 06:46:32 ID:lBz7tPed
>>607
> 私は今、『ヤージュニャヴァルキヤの自己』の概念にはまっています。
> http://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/jiko.html

ただ、世界の外にある自己というのは、
『幾何学の証明における補助線のようなものかもしれない』
という思いもある。
『それがあると非常に理解が容易になるが、あってもなくても結果は変わらないもの』
という位置付けである。

なぜ、そう思うかというと、人間と同様な、
自動機械(ロボット、アンドロイド)を、
いつか作成可能だと思っているから。
つまり、世界の外にある自己になど何も考慮しなくとも
人間と同等な存在を創り出すことができると信じているから。

世界の外にある自己になどに依存しなくと
人間は人間として振舞うだろうと思うから。
664名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 07:33:45 ID:hPSwIA+G
---------------ダンマパタ
婆羅門よ、〔渇愛の〕流れを断て。〔道心堅固に〕努力し、諸々の欲望を除け。
婆羅門よ、諸々の形成作用〔によって作られたもの〕(諸行:現象世界)の滅尽を知って、
あなたは作られざるもの涅槃の境地を知る者として世に存する。
----------------------
釈迦は普通に、その境地を知った者は、
世に戻ってきてもその境地を知った者となると言っていますね。
なんかここの人は肝心のテーマからはずれ、どうでもいいようなこと、
言葉の定義などの議論にすり替えてしまっているように思えます。
別にその境地を知って、この世に戻り、自分のこの世の自我が「私は知った」と言っても
おかしくないと思うが。言葉遊びは本当につまらん。
禅って、こんな奴ばっかなん?
665暇人:2005/07/25(月) 07:39:56 ID:xCKAu9PE
>>662
>このスレで「行為者としてのわたし」がないと主張している人はいないと思うな

「五蘊の中には、自己はありません」という発言に誰も言及してないけどね。

それとキミは>>665で、奇妙なこといってるね。
「認識しようとする欲求をもつものこそが認識主体」とは、
「する自分」と「見る自分」はそもそもいっしょという自己の二面性の話。
それをキミは「欲求」と「欲求する主体」という
対象と認識主体という風に誤読しているね。

更に竜樹の「行くもの」は「行かない」は、
対象と認識主体の話ではないね。
もし変化しない実体(つまり自性)などがあれば、
「行く」ということは成立しないという話ね。

君の説明「世界を離れて真我があると勘違い」とのことだが
どうもキミは「認識対象と主体が渾然一体と理解したら真我OK」
といいたい様に読めるが、そんなことは初期仏教は言わない。
せいぜい中期大乗以後 日本風本覚思想 禅ぐらいだな
666机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 07:41:38 ID:2GJB6FTy
>>535
> 精神病者が、何故にあらゆる欲望を制止するに至ったかを問わず、制止の時点で、
>仏教の修行者が獲得する境地に到達することはあり得る理屈ですよね。

同じような境地かとおもいます。

マスターベーションの快楽と、それにおける虚しさを併せ持つような心境とおもう。
そこに留まってしまうのを、いわゆる魔境というのでしょう。
TM瞑想とかは、その心境に世界観(意味付け)を構築していくのかとおもう。

禅においては、逆にその世界観を壊していく。
この違いかとおもいますね。
固定観念というのが邪魔になるわけですから。

667机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 07:56:46 ID:2GJB6FTy
>>643
>きっと周りがこういう馬鹿ばかりだから、オウムに走ったんだろうなw

親をあまり攻められないとこもあります。

親にとっては善であったし、その善が弟にとっては悪となる。
立場・立場において善悪というのは逆転するわけですから、
善悪逆転は日常的にはいくらでもある。

至上善は、また至上悪になる場合もある。
善を追求したのが三島由紀夫でした。
善の極が、つまりは自腹だったわけです。

(至上善の追求→陽明学)
668名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 08:00:50 ID:CSvskXHD
>それをキミは「欲求」と「欲求する主体」という
>対象と認識主体という風に誤読しているね。

えーと、「欲求」が「対象」で「欲求する主体」が「認識主体」?
そんなこと誰も言ってませんが。。

>更に竜樹の「行くもの」は「行かない」は、
>対象と認識主体の話ではないね。

誰もそんなこと言ってませんね。

>禅においては、逆にその世界観を壊していく。
>この違いかとおもいますね。
>固定観念というのが邪魔になるわけですから。

禿同。
しかしながら、人により時代により、地域文化により、
その世界観の在り方が違うので対機説法になる。

釈尊の時代にはアートマンとブラーフマンが「一如になる」という考えが主流だった。
しかし時代が下って仏教が普及し無我の教えが主流になると
これを打ち破るために不空とさえ言われるようになる。
669名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 08:09:10 ID:hPSwIA+G
>>666
>固定観念というのが邪魔になるわけですから。
僕には釈迦の死後、かなり後世に、釈迦の言葉を直接聞いた者でもなければ
釈迦から直接教えを聞いた者でもない者達の作りだした空思想、
釈迦の死後、かなり後世に、釈迦の言葉を直接聞いた者でもなければ
釈迦から直接教えを聞いた者でもない者達の作りだした大乗経典の一つ、般若心経こそが
真理だと言う固定観念が、あなたがたから真理を遠ざけているように思えます。

空=縁起。空に永遠(不死)などないというくらいは、いくらあなたでもご存知でしょう?
670机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 08:35:59 ID:2GJB6FTy
>>669
>釈迦から直接教えを聞いた者でもない者達の作りだした大乗経典の一つ、般若心経こそが
>真理だと言う固定観念が、あなたがたから真理を遠ざけているように思えます。

真理というのはないですね。
何が何に対して真理なのか?
この何(対象)と何(主体)がそもそも一如ですから、真理という意味が既にない。
そこが空かとおもいます。

して、貴殿のいう真理とは何でしょうか?
お示しくださいまし。


671名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 08:45:54 ID:hPSwIA+G
>>670
>真理というのはないですね。
これはいかにもなんでも般若心経をベースに思考回路を働かす人の言いそうな事ですね(苦笑)
馬鹿馬鹿しい。

>何が何に対して真理なのか?
この発想自体がおかしい。なんでも縁起をベースに思考する人の言いそうな事だ。

>して、貴殿のいう真理とは何でしょうか?
あるいは、不死の境地を見ずにいる者が、百年のあいだ、生きるとして、
不死の境地を見る者の一日の生のほうが、より勝っている。〜ダンマパタ

あるいは、最上の法(真理)を見ずにいる者が、百年のあいだ、生きるとして、
最上の法(真理)を見る者の一日の生のほうが、より勝っている。〜ダンマパタ

ま、そういうこと。
これは釈尊の言葉だ。わかるかい?

672名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 08:59:29 ID:nlFcDHrE
暇人は自分でセンスがあるといっている。

一番傲慢じゃないのかな?現観で楽しませてもらってるけど、
電波の自演だと思い込んで発言しているし、敗者が勝利宣言
しているし、こっちが恥ずかしくなる。

もっと謙虚になりなされ。501さんは多分sva√bhUについての
あなたの恥ずかしい発言だと思う。abhisamayaも原典を読んで
いればそんな誤解をしなのだろうけど、、まっいいか。教えてあ
げる義理はない。晒され続けて下さい。
673机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 09:07:30 ID:2GJB6FTy
>>671
お題を頂戴いたします。

>一日の生のほうが、より勝っている。

これは涅槃寂静のことですね。
前にカキコしましたけど、刹那のニルバーナです。

一日ではなくても、刹那でもいいです。
674机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 09:14:36 ID:2GJB6FTy
>>671コピペです。
609 :机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/24(日) 13:41:42 ID:bqe19QED
>>409
>このように、この世は無我であると説く釈迦が、一方で不死の境地を説く。

●無我なら不死でありますし
●無我なら不生であります。
ここに何の矛盾もないです。いわゆる勝義諦ですね。

盤珪は「生まれいずるもわからぬに、死んだ先までわかろうか?」という。
これは、無我ならば全くもってアタリマエのことです。

【縁あれば我は生起するが、縁なくば滅尽する】

#、、釈尊の言説を世俗諦で解釈するのは無理です。
______________________________________

675名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 09:20:13 ID:hPSwIA+G
>>673
空とは縁起の事だ。
この世の者は何一つ縁起によって生じるものはなく、無自性である。
諸行無常。この世のものは何一つ永遠不滅のものはないと釈迦は説く。
おまえまさか、空とは刹那滅のことを言っていると言い出すんじゃないだろうな(苦笑)
どちらかというと原始仏典をみると、この世の無常は、この刹那滅のことをいっているように思える。
ま、この刹那滅も、なにかに縁あって起こるというなら、それはそれでよしとしよう。
さて一刹那は、生じるものか?それとも元からただそこに在るものなのか?答えてみろ。
676名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 09:22:29 ID:hPSwIA+G
>>674
>●無我なら不死でありますし
>●無我なら不生であります
これはただの無。「0」を説明しているに過ぎないよね。
677机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 09:25:42 ID:2GJB6FTy
>>675
>さて一刹那は、生じるものか?それとも元からただそこに在るものなのか?答えてみろ。

貴殿は刹那ってのをよく分かってない。

生じるけど滅するから刹那。
678名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 09:29:07 ID:hPSwIA+G
>>677
>生じるけど滅するから刹那。
わかってんじゃん。生じたものは滅するのが定め。
これが釈尊の教えだ。ならそこになぜ永遠、不死の境地があるんだ?
おまえはその刹那に不死の境地があると言った。

だからおまえは電波だと言われるんだよ(苦笑)
679机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 09:30:32 ID:2GJB6FTy
>>676
>これはただの無。「0」を説明しているに過ぎないよね。

0ってのはよく分かりませんが、ただの無ですね。
680机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 09:32:26 ID:2GJB6FTy
>>678
>おまえはその刹那に不死の境地があると言った。

そのとおりです。
681名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 10:01:34 ID:hPSwIA+G
>>680
三法印(四法印)
諸行無常(一切の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
諸法無我(一切の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない)
涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、一切の苦から解放された境地が目標である)
*一切皆苦(一切の形成されたものは、苦しみである。)

いくら禅宗の者でも、仏教の基本中の基本三法印(四法印)くらいは知ってんだろう?
無論釈迦の言う一切とはなにかも知ってるよね?(苦笑)
一切は無常であり、一切のものは無我である。
刹那滅はこの世と共にある。刹那滅はこの世の理をいう。そこに永遠、不死などはないんだよ。
あ、知らない人がいるかもしれないので一応説明しておこう。
釈迦の言う一切とは、この世の事を言う。
682名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 10:17:24 ID:WdGp8hAX
勝手なことをベラベラ言ってるやつがいますよ。
「坊主なんてやつらは何の技能もないしまったく経済にも貢献していない」
だって。
たたきまくっていいですよ、こいつの掲示板で。
ttp://members.jcom.home.ne.jp/dandy-arata/forum_soshiki.html
683名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 10:44:34 ID:8NL1JtGq
>>551 ID:PRKLbQGf さん以下をプリントして弟さんに読ませてあげてください。

 あなたが「前世からの修行者で、こんじょうもグル方の下で
 救済の手伝いをするカルマで生まれてきた」と思う気持ち分かります。
 あなたがに前世の記憶があるのかないのかは、別にしてそうゆう行者的資質を持って
生まれてくると出離の思いが強くて世俗のことが空しく無意味に思えてしまう。
 あなたのような方が仏教の教えに出会うと心の底から共感できるでしょう。それは素晴らしい。
 そして輪廻流転の来世は嫌だという出離の思いは、まったく正しく大切にしてほしいと思います。

 ただ何故、アレフなのでしょうか? アレフはたしかに仏教やヒンドゥーから作られていて、
実際に効果も体験できるようです。ネーティなどは私もやってます。実際に浄化されると思います。
アパンクリヤーというんでしたか、意識を飛ばして六道輪廻を実際に体験するというやつ、
そして有名なシャクティパット、プラーナを送り込んでクンダリニーを起こすやつ。
それらを体験しましたか? 体験したら信じるでしょうし、実際それは起こることだと思います。

 しかしそれが解脱につながるとは思わない。仏教でいう四禅や四無色定の境地を体験したとしても、
いずれ落ちていくのがアレフの体系です。実際、麻原はかつてはかなり高い意識に達したらしいが、
後に落ちていって最後は狂ったというのが事実だと思います。
 その証拠に始めは空中浮遊ができたが、あの写真の時にはできなかった。あの写真はどうみても
肉体的にジャンプしてるものでしょう。もと信者支部長クラスの何人かもそう言ってました。
 また彼らの話によると逮捕前は、狂ってきてて子供のためにトラック一杯のおもちゃを買ったともいいます。
684つづき:2005/07/25(月) 10:46:51 ID:8NL1JtGq
 アレフの体系には根本的に二つの誤りがあると思います。一つは教えが最終的に我・エゴに基づいていること。
だから「りついらいはい(五体投地)」等の行も競争感覚で行われ、軍隊のような上下関係がつくられる。
四無量心もやるらしいが、深いところで 我・エゴが払拭できない。
ここが問題で、そこから他人を攻撃する心がでてサリン事件に至ったと考えます。
 もう一つは、サマヤが汚れていることです。この説明は難しく密教に関わることなので、
詳細に説明することはできませんが、単純に密教的師弟関係が壊れているということです。
彼は、ダライラマ、カル・リンポチェ、カムトゥル・リンポチェから教えを受けたそうですが、
それを尊重せず自分で勝手に作り変えた。これがサマヤの破戒であり、これをすると何事もうまくいかなくなり、
することなすことトラブルがつづくようになってしまいます。また来世は地獄しかないと言われます。
そのようなサマヤの汚れた人から教えを受ければ、その人も汚れるそうです。
つまり、アレフでは解脱でなく地獄しかないというのが私の見解です。

 同じ事ですが、師を持たない。彼の誤りを指摘してくれる師をもたないことも大きな欠点だと思います。
それはヒンドゥーのパイトッロババから教えを受けたが、師とは見なさなかったことにも表れていると思います。
逆に弟子を盗んだといって絶縁状態になったとか。

これも参考になるので読んでみてください。詳細に書かれています。

永沢哲「わが隣人麻原彰晃」雑誌『イマーゴ』[特集・オウム真理教 の深層]青土社、1995

私は、あなたが一刻も早くアレフと縁を切って、ネパールやインドの僧院に行かれることを
お勧めします。もちろんそこでも本物と偽物はあるわけで、本当の師と出会うというのは
難しいものです。なかなかそう簡単にはいかないものです。
685名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 11:01:16 ID:V5HTxM27
>その証拠に始めは空中浮遊ができたが、

おいおい・・・
686名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 11:59:24 ID:uUJHNDX3
“センス”ってのはあれだな、いくらでも逃げ道が作れる便利な言葉だなw
687机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 12:38:59 ID:2GJB6FTy
>>681
>刹那滅はこの世と共にある。刹那滅はこの世の理をいう。そこに永遠、不死などはないんだよ。

不死というのは、リアルにおける不死と、勝義諦における不死と、
不死にも文脈においてどうか解釈するかは、その読む側の技量ひとつのみ。

だから原始仏典も、リアルに不死と解釈する場合と、そうでない場合はある。
「不死の境地」というのは、勿論のことリアルの不死を意味してない。

勝義と世俗をごっちゃににして解釈したら、dでも解釈になる。
688名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 12:42:19 ID:1D7WLNL3
勝義っていうのは不立文字・悟りのことだろ
なんで机が勝義を語れるの?やめてよ。
689机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 12:56:21 ID:2GJB6FTy
>>683
> あなたが「前世からの修行者で、こんじょうもグル方の下で
> 救済の手伝いをするカルマで生まれてきた」と思う気持ち分かります。

「救済」という名目で選民意識を植え付ける。
これがカルトの常套句です。

仏教は慈悲(自他不二)ですから、救済しなくていいんです。
690名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 13:20:41 ID:1XozU6l1
>>683
>あなたがに前世の記憶があるのかないのかは、別にしてそうゆう行者的資質を持って
>生まれてくる出離の思いが強くて世俗のことが空しく無意味に思えてしまう。

『行者的資質』なる言葉に痺れちゃいました。(^o^)
無始の過去から連綿と相続してきたリクパ(明知)の居場所を見出そうとしている
のでしょう、その弟さんは。
何か決定的に直感するものがあって、それが原動力となったのだと思います。家庭
的な問題、両親との不和は、直接的な原因ではなく、振り子の方向先を変える二義的
なきっかけ、縁にすぎないと思います。
遅かれ早かれ、よしんば、順風満帆に大学を出て、それなりの職場に就職して、それ
なりの恋人を探して結婚して子どもをもうけて、幸せ過ぎるほどの生活?に恵まれたと
しても、いずれはそういう道に入っていく人は入っていくんですyo。
その点、独身者なら障害も少なくて割りとスムーズに事は運ぶと思います。
少なくとも、西行法師のように、煩悩の源よ!といって、自分の傍に駆け寄るわが子を
縁の下に突き落とすようなことはしなくてもすみます。

>生まれてくる出離の思いが強くて世俗のことが空しく無意味に思えてしまう。

仏教はペシミズムやニヒリズムとは以って異なります。
そこからどうするかでしょうね。
(長いものには巻かれろ式で、自分を偽りながら不本意な一生を終える人も中には
いるでしょう。)
出離の際は、正しいグル探し、良き師にめぐり合うことは大切です。
また、アーレフが良いか悪いか、本人の資質に合うか合わないかは、本人の自燈明・法燈明
で決めでばよいいでしょう。
691名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 14:23:00 ID:Z+lKz6Mc
アーレフはまずくないかい?

もっと他にあるのでは?
教義が正しいとか間違っているとか言うよりも、
世間的にまずい。
真理を求めるのに世間もなにもないが、
それでも他にどっかあるのでは?
692カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/25(月) 17:49:15 ID:hPSwIA+G
>>687
しかしこの人は頑固だ。どんなことがあっても自分を曲げない。
議論好きの者などこんなものだ。

>泡沫[うたかた]を見るかのように、陽炎[かげろう]を見るかのように、このように、
>世〔界〕を観察する者を、死魔の王は見ない。〜ダンマパタ

>まさに、長からずして、この身体は、地に臥すであろう。義(用途)のない木片のように、
>打ち捨てられ、〔意〕識(識:認識作用一般、自己と他者を識別する働き)を離れて。〜ダンマパタ

>この身体を、泡沫[うたかた]の如きものと知り、陽炎[かげろう]の法(性質)あるものと正覚する者は、
>悪魔の花の矢(迷いの生存)を断って、死魔の王の見えざるところ(彼岸)に行くであろう。〜ダンマパタ

無論不死とはこの肉体とこの世の自我が永遠に生きると言っているわけではない。
電波な君と一緒にしてもらっては困る。

自性とは、なにものとも縁起することなく存在するもの。それ一本で、単独で存在するもの。
なにかと縁起して生じたものではなく、生じたものでなければ、元からあり、元からあれば終りのないもの。
ただただ在るもの。不死の境地はそこにある。

縁起により成り、縁起の支配するこの世に、何一つ我(アートマン)なるものはなく
何一つ不死なるものはない(諸行無常)
空、般若心経などは、この世の事を、説明しているにすぎない。

ところで詭弁の道具に使われているこの勝義諦、世俗諦って何処で読めるの?
彼の詭弁の矛盾点を、突いてやるよ。
693机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 18:20:28 ID:2GJB6FTy
>>692
カラスどのは、根本的に私と考えが違うようです。

>彼の詭弁の矛盾点を、突いてやるよ。

詭弁でもなんでもない。
心経にそう書いてある。
よく読んだらいいかとおもう。

短い経典だから読むのはたやすい。
解釈は難しいけど。
694名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 18:46:26 ID:Fb42QURJ
>693
ここは原始仏教のスレなんだから
どうせ語るなら大乗教典の一つ般若心経を元に語るのじゃなく
スッタニパータなどの原始仏典を元に語られたらいかがでしょう?
695机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 18:58:41 ID:2GJB6FTy
>スッタニパータなどの原始仏典を元に語られたらいかがでしょう?

スッタニパータは、勝義諦を解説しているわけです。
だから、心経を基本ベースとして解釈したらいいかとおもう。

さすれば意味がよくわかる。
696机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/25(月) 19:05:04 ID:2GJB6FTy
不死の境地というのは、
つまり生死の二項に依らない「不死」という意味です。

だから「生」とか「死」という意味はなく、
これを「不死」というたに過ぎない。

不死そのものに意味があるわけではない。
大事なのは二項ではない。
と、解釈したらいい。
697名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:20:04 ID:sFg6/xl1
>>695
>スッタニパータは、勝義諦を解説しているわけです。
だから、心経を基本ベースとして解釈したらいいかとおもう。

同意。原始経典と、大乗の間には差異は無いと思っています。
大乗は原始経典の内容をある程度より教条的にしているところがあるとは思います。
例えば、六波羅蜜、菩薩の十地です。大乗は中に浮いたように脳内を披露しているが
原始経典は、地に付いた教えです。ただ、縁起と空の理法をしっかり会得していないと、
理解でき無い、そのため自分も修行しようという気が起きない危険があると思う。
 
698名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:36:02 ID:sFg6/xl1
>>692
ところで詭弁の道具に使われているこの勝義諦、世俗諦って何処で読めるの?
彼の詭弁の矛盾点を、突いてやるよ。

竜樹が中論で解説したのが初めらしい。
般若心教は、縁起の理法を全く説明していないのだ。
縁起の理法を世俗諦といってるようだ。
世俗諦を捨てるべきではないのか、究極的に。そのために心経は
世俗諦としての縁起の理法を省いているのではなかろうか?
 キリスト教徒は縁起の理法を全く教えられていない。しかし隣人愛を知っている。
仏教徒も何時までも、縁起と空に留まっていては大事なことを知っていないもののようだ。
仏教とはどのようの生きるべきかというについて、利他行を言う。
この利他行はどのようなものか、これこそ、縁起と空の真理を知ったものの、なすべきこと、
知っていなければならないことだ。この点について、大乗は、小乗を非難するのだ。
699名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:44:29 ID:za2qD8uq
>スッタニパータは、勝義諦を解説しているわけです。
経典は世俗諦でしかないが。
700名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:46:44 ID:sFg6/xl1
698の続き
 利他行でもっとも大事なものは、縁起と空の真理の流布「布施」であると思う。
すなわち、罪の意識からの開放であり、将来に対する不安からの開放である。
人を精神的に自由にする事になるのだ。
701名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:48:51 ID:sFg6/xl1
>>699
世俗諦と将棋諦を解説してください。
702名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 19:51:56 ID:XByHAJ3K
“諦”の意味から説明してもらおうかなw
703名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 23:28:05 ID:sFg6/xl1
空が勝義諦で、縁起が仮諦(世俗諦)、中道が勝義の実行、か?
704名無しさん@3周年:2005/07/25(月) 23:50:07 ID:sFg6/xl1
 >スッタニパータは、勝義諦を解説しているわけです。
  
 勝義諦を解説しているというよりも、勝義諦を実行することを具体的に教えている、というのが正しくないかな。
布施もあるし、持戒もあるし、忍耐もあるし、精進もあるし、禅定もある、知恵の完成もある。
戒定慧が基本的なものとして教えている。
705名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 00:03:51 ID:sFg6/xl1
感興の言葉第23章
10:例え他人にとっていかに大事であろうとも、(自分で無い)他人の目的のため
  自分の勤めを捨て去ってはならない。自分の最高の目的を知って、自分の勤めに専念せよ。
16:この世では自己こそ自分の主である。他人がどうして自分の主であろうか?
  賢者は自分の身をよく整えて、いろいろの幸せを得る。
706机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 07:32:20 ID:zBEnPZC+
>>697
>縁起と空の理法をしっかり会得していないと、
>理解でき無い、そのため自分も修行しようという気が起きない危険があると思う。

釈尊が開悟の後、民衆に法を広めるのを躊躇ったくらいですから、
法は難解なのは事実かとおもいます。
ですから、スッタニパータを読んだくらいでは法は分からない。

そのために龍樹という学僧が、 法を体系付けたのは非常に意義がある。

>そのため自分も修行しようという気が起きない危険があると思う。

そうなんです。
法典を読んでも、あまり意味はない。
何故かというと本意が解釈できないからです。
「不死の境地」と言うても、これこそチンプンカンプンですね。
えてして勝義諦というのはチンプンカンプンです。

チンプンカンプンというのは、言語そのものの意を論理的に当てはめるからですね。
勝義諦というのは、この世俗の論理から逸脱してる。
そこを理解しないと、スッタニパータを読んでも文盲状態です。

707机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 07:41:52 ID:zBEnPZC+
>>699
>経典は世俗諦でしかないが。

勝義諦というのは、言語表記は無理なわけです。
ですから「〇〇ではない」とか、ある否定をもちましてそこから本意を掴むことしかできない。
本意を掴むためには、そのバックボーンがないと駄目です。

本意を掴むために彼岸へ逝くわけですね。
そう般若心経には書いてある。

心経は、仏教経典を読む場合の基礎的テキストと考えていいかとおもいます。

心経に始まり心経に終る。by机龍之介
708机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 07:49:51 ID:zBEnPZC+
>>704
> 勝義諦を解説しているというよりも、勝義諦を実行することを具体的に教えている、というのが正しくないかな。

スッタニパータを仏典に纏めた頃は、まだ法が体系付けられてなかったので、
核心的なものは書けなかったわけです。

その後龍樹が登場して、中観という見方を体系付けた。
そこに龍樹の存在価値がある。
709阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/26(火) 08:24:59 ID:AUxUzvBW
龍樹や心經がらみの、オチのつかないナンセンス蒟蒻問答はスレ違い(板違い?)です。
どうしてもおやりになりたい向きは、
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1114473272/ もしくは
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1056132620/
(特に後者)でお続け下さい。ともあれ、くれぐれも場所塞ぎにはならないようにご留意を。
710名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 08:28:24 ID:h71h988f
机さんに質問というか確認ですが、岩波文庫でいいから、スッタニパータやダンマパダを読んだことありますか?
711名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 08:39:57 ID:jwvxk7yg
712机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 08:56:35 ID:zBEnPZC+
>>709
>龍樹や心經がらみの、オチのつかないナンセンス蒟蒻問答はスレ違い(板違い?)です。

龍樹はナンセンスではないですよ。
第二の釈尊とまで言われた学僧ですから。

龍樹の影響力は甚大です。
日本における仏教は、まぎれもなく空文化です。

美術、建築、庭園、俳句とか、数えあげたらキリがない。

ひとつ和歌でもたしなんで、風雅を楽んだらどうですか?
>>710
あります。
713名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 09:05:40 ID:IpWoEn2D
スマサーラ師が大乗では禅仏教が上座部に近いとか
言っていたから、空もオチがつかないということも
ないでしょう。
ちなみに禅問答に師がいとも簡単に答えてしまい
禅坊主が驚いていたというから龍樹が第二の釈迦
というのもうなずける。
714名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 09:14:47 ID:dueVfKoq
マインドコントロールですか?
715名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 10:11:05 ID:ag0d/Bwr
流石に思ったことを言おっと。

机さんは、自分の吐いている言葉で誰かを彼岸に渡す
きっかけを作れていると思っておられるのだろうか。

ここは原始佛教です。
阿含経などのいろんな解説を聞いているほうが遥かに有益です。
あなたの宗教観に興味がありません。

龍樹は偉大だけど、それを原始佛教に混入されるのはいやです。
空は、釈尊の言いたい事だったとしても、
逆に当時の釈尊が説かなかったのだから、そのまま受け取りたい。
716名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 11:17:25 ID:7pURXZoZ
>>715

> 1119 (ブッダが答えた)、
> 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。
> そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
> 1119- {世尊は答えた}「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、
> 世{界}を『空[くう]である』と観察しなさい。自己についての誤った見解を取り去って、
> このように、死を超え渡る者として存するように。このように、世{界}を観察する者を、死魔の王は見ないのです」{と}。
  スッタニパータ
717名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 11:19:42 ID:6RhH16tD
空を勝手に解釈したのが机・ならびに机の弟子の竜樹
718名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 12:20:54 ID:ag0d/Bwr
>>716
すいません。僅かに生じる怒りにより、配慮が足りませんでした。
般若経や、般若心経などで言われる空に対してです。

確かに、原始佛教で空という言葉は出てきます。
他にも弟子の言葉にもありますね。

>九十二
>その人の汚れは消え失せ、食物をむさぼらず、その人の解脱の境地は
>空にして無相であるならば、かれの足跡は見出し難い。
>−空飛ぶ鳥の迹の知りがたいように。
                       (テーラガーター)

しかし、原始佛教ならば
空という言葉に振り回されないもっと具体的に迫るお話しを聞きたいです。
電波男さんのアングリマーラ経に対する解説は秀逸でした。
そのような話しのほうが机さんの龍樹もどきより
現実的です。

空文化ではなくて、空想文化に思えます。
719551 ID:PRKLbQGf:2005/07/26(火) 12:47:14 ID:ewRSaPHP
漏れたちは弟に辛い勉強を強いてきたことを心より謝罪しました。
そして今朝
「被害者の方の前でも帰依を貫けるか。どう」と聞くと、
弟は「ごめん。」と言いました。
漏れは「脱会ね。やめる。これでいいな。禅寺で勉強してみない」と聞くと
「うん」と言いました。禅寺に行かせます
720机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 12:47:27 ID:zBEnPZC+
>>718
お題を頂戴します。
>そのような話しのほうが机さんの龍樹もどきより
>現実的です。

空は非常に現実的です。
したがって私は、「涅槃寂静は刹那」と言うてる訳ですから。
今(現実)を離れて法はない。
「不死の境地」というのも即今即所です。
あの世も、この世も、今を離れてはないわけです。

今のこの刹那を「不死」というておる訳です。

>その人の解脱の境地は
>空にして無相であるならば、かれの足跡は見出し難い。

解脱とは、生と死の二項には属さない。→不死の境地。
これを無相という訳です。

無相は空です。
したがって、空即是色は「無相即是生死」というふうになる。
分かりやすく言うたら。
生死は無相ということになりますから、これを一如と言うております。
仏教は一如の法門です。
721名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 12:52:35 ID:7pURXZoZ
>>718
> 般若経や、般若心経などで言われる空に対してです。

般若心経は 蘊処界 三科の法門について空を語っていますから
別段原始仏教の論説とは矛盾しないのではないでしょうか。

722机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 13:02:57 ID:zBEnPZC+
>>719
>禅寺に行かせます

禅はいいですね。

あと、剣道などもいいです。
小学生の頃から剣道をやってた方が本当はいいですけど。
礼儀正しくなるし、記憶力とかも良くなります。
(精神集中するため)
なんといっても、大学入学や就職に有利です。

弟さんに夢を持たせるなら、官僚もいいけど警察のキャリア組でもいいんじゃないでしょうか?
いままで一生懸命に学んだ訳ですから、それを肯定する意味において、
やはり何かの夢は持たせたいですね。
723名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 13:17:47 ID:ag0d/Bwr
>>721
論説とは矛盾しませんが、釈尊は龍樹のように
語っていません。

なにより、般若心経を基本的テキストにとおっしゃるわりには
机さんの言からみんなは智慧が生じないのがいけないのです。
つくえさんから、般若心経や空を取り除くべきだと感じました。

龍樹や般若経などが、矛盾や劣るなどではなくて、
机さんみたいになるので、嫌だと思っているわけです。
724名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 14:01:04 ID:FtRjmmYK
>>718
>電波男さんのアングリマーラ経に対する解説は秀逸でした。
よろしければ、再掲願えませんでしょうか?過去ログの山からみつけだせません。
電波さんは口が悪いが心に響きます。学問内容も跡付けできます。誰かさんとちがって。
725独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/07/26(火) 14:59:25 ID:/YIWdOAU
なんか呼ばれた気がしましたので・・・
>電波男さんのアングリマーラ経に対する解説は秀逸でした。
んー、過去ログの中でぱっと思いつくのは
ttp://www.dia.janis.or.jp/~soga/excha217.html
こういうのとか
ttp://homepage1.nifty.com/manikana/m.p/articles/bosatsu.html
こういうのがありますが。
電波先生の解説は・・・
726名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 14:59:53 ID:ag0d/Bwr
>>724
わたしも探しているのですが、見つかりません。
今夜、もう一度探します。
727名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 15:09:40 ID:u0A29rke
>龍樹や般若経などが、矛盾や劣るなどではなくて、
>机さんみたいになるので、嫌だと思っているわけです。

本物の禅者は、空や勝義諦などという言葉を多用しないでしょう。
そういった虚妄概念に頼らないでも、充分に語り得るツボを
心得ているように見うけられます。

728独り言 ◆ZZW30U26jo :2005/07/26(火) 15:19:46 ID:/YIWdOAU
わっかんないですわ。。。
一応過去ログの中からは原始佛經11
ttp://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb11.html
>>209辺りから暫く討論が為されているのを確認しました。
ただ電波先生はここでは発言されていません。

・・・って、この時私も参加しとるやんけorz
729無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/26(火) 16:16:33 ID:4SBk7GXx
>>719 :551 ID:PRKLbQGf:2005/07/26(火) 12:47:14 ID:ewRSaPHP
> 漏れたちは弟に辛い勉強を強いてきたことを心より謝罪しました。
> そして今朝
> 「被害者の方の前でも帰依を貫けるか。どう」と聞くと、
> 弟は「ごめん。」と言いました。
> 漏れは「脱会ね。やめる。これでいいな。禅寺で勉強してみない」と聞くと
> 「うん」と言いました。禅寺に行かせます

それは、「終わり」ですか?「はじまり」ですか?

えーと、
今度は、禅寺にまかせてしまうのですか?
それとも、
あなたも一緒に参禅とかされる予定なのですか?
730名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 16:23:13 ID:YvM9+8pe
>>717
>空を勝手に解釈したのが机・ならびに机の弟子の竜樹
 
 空の解釈で何処が変ですか?


731名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 16:27:51 ID:Ne469obz
あほ
732名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 16:38:37 ID:mAVbQmnf
そもそも解釈など意味がない世界。
空そのものを表すことはあえて避けるべき。
733名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 16:59:48 ID:YvM9+8pe
>>732
>>716 :名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 11:17:25 ID:7pURXZoZ
>>715

> 1119 (ブッダが答えた)、
> 「つねによく気をつけ、自我に固執する見解をうち破って、世界が空なりと観ぜよ。
> そうすれば死を乗り越えることができるであろう。このように世界を観ずる人を、<死の王>は、見ることがない。」
> 1119- {世尊は答えた}「モーガラージャンさん、常に気づきある者として、
> 世{界}を『空[くう]である』と観察しなさい。自己についての誤った見解を取り去って、
> このように、死を超え渡る者として存するように。このように、世{界}を観察する者を、死魔の王は見ないのです」{と}。
  スッタニパータ

上の例のように説明できますし、されないと教えとして伝わるもんでしょうか?
特に縁起の理法とか因果の理法を説明されればそして、されねばならないが、その上で、
因なるものの無くかなるものも無い、として(空)を説明されるべきであると思います。
つまり縁起の理法も最終的には消滅するのです。これらは道理として説明されねば伝わらないでしょう。
734名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:02:23 ID:YvM9+8pe
>>733
訂正
因なるものの無くかなるものも無い、→因なるものも無く、果なるものも無い
 
735名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:03:28 ID:jwvxk7yg
板違いがわからない香具師がそれよりは高等な概念を解し得るはずがない。もともとスレッドの1に
行き先 http://etc3.2ch.net/denpa/ が標示してある。

原始仏教(Early Buddhism)のことを話し合いたい幾人かがいるんなら、そのひと達でとりあえずどこかへ
避難するのがよいとおもう。
736名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:19:58 ID:e4Lidwga
>>672 >>718
たびたび出てくるようだが、自演でなければ貴方、これら読んでみてよ。
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1118290406/l50
http://hobby7.2ch.net/test/read.cgi/occult/1122036210/l50

どうみても一番傲慢で破綻してて自作自演してるのが電波でしょ。
いやー、罵倒の嵐というか、幼稚過ぎるというか、引かない人だよね。
上の「法律霊能少女バスタちゃん」なんかバレバレだよ。
こんな言葉使いの女の子がいたらそうとう不気味ですよ。

そうゆう意味では実に面白いキャラではあるのだが、
語彙も結構少なく、文体も変えないので自演はむりなんだよね。
そして仏教的にはほとんど一番証拠を出さない男でしょ。

この過去ログもみてみてよ。自作自演のパターンが決まってるから。
http://www.geocities.jp/jfcps873/index1.html
電波がピンチになると何故かあまり詳しくない自称専門家が出てきて
電波を讃え、対論者を貶す。まさに「こっちが恥ずかしくなる」!「もっと謙虚になりなされ」!
水野弘元タターガタ衆生説、漢訳アゴン古層説、戸田本より渡辺本説、
モンゴル訳法華経校訂必要説などいったいどう「学問内容も跡付けでき」るんですか?

公平をきして暇人氏の誤りも指摘しておこう。
>>484 ?大般若経は、先行する般若経典群を纏めたもの。心経は別系統で無関係。
それは漢訳の話でサンスクリットもしくはインド語では二万五千般若と心経の散文部には
対応があり、心経の散文部は、二万五千般若に由来するのは確か。というか、
二万五千般若を参照せずば心経の文献学的でないというのがまっとうな文献学者と思われ。
村上真完「般若経類の空思想とウパニシャッド」『真野竜海博士頌寿記念論文集:般若波羅蜜多思想論集』1992
原田和宗、梵文『小本・般若心経』和訳、密教文化、209、2002

この後の対応が信ずべきか、どうかを決めると思うだけど。
737机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 17:22:48 ID:zBEnPZC+
>>733
>つまり縁起の理法も最終的には消滅するのです。

そうですね。
帰結点はそこに集約されるわけです。

無我であり縁起ならば、生死というのも迷いに他ならない。
ここを解脱したのが「不死の境地」。

>> そうすれば死を乗り越えることができるであろう。

「死を乗り越える」。というのは、つまり生死の迷いからの解脱。
というふうに私は解釈してます。

無我⇔縁起の理法に、属性はありませんから、このまんまに解釈すれば何も案ずることはなし。

738名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:24:55 ID:zF60HUDy
>>733
「「空」である」
としか説明されてないし、できない。
739名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:37:52 ID:YvM9+8pe
>>735
意味不明 
 
740机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 17:47:23 ID:zBEnPZC+
>>738
>>世界が空なりと観ぜよ。

とか

>>> 世{界}を『空[くう]である』と観察しなさい。

とかしか書かれてませんね。
つまり、スッタニパータ編纂期は、
未だ「空」についての体系まで到ってなかったわけです。

それ以降において龍樹が登場する。
いわば龍樹は、スッタニパータをより完全なものへと完成させた。
という位置付けでいいかとおもう。
741名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 17:48:05 ID:e4Lidwga
>>736 アンカー誤り スマソ 

  ×>>672 >>718

  ○>>672 >>724
742カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/26(火) 18:00:50 ID:QiFxguDg
>>716 >>718
原始経典などで出てくる「空」と言う表現が、
後の大乗の経典の一つ、般若経のいう「空」、龍樹の般若経の「空」の解釈
「空」=「縁起」=「無自性」とまんま同じ意味として使われていると思って書いてんのか?
そもそも大乗のいう空思想は、原始仏教の時代で、体系づけられていなかった。
大乗の「空」思想は、大乗仏教徒達により体系づけられたものにすぎない。
俺にはどちらかというと、原始仏典ででてくる「空」と言う単語は

>この世を泡沫のごとし、陽炎のごとしとみよ。そのように観ずれば、死王も彼もみない=スッタニパータ。

の、この世を泡沫のごとし、陽炎のごとしみよ。という意味、でつかわれているように思えるんだがね。
つまり「縁起」=「無自性」の意味で使われているのではなく、刹那滅のことを言っているように思える。

前にも言ったが「空」=「縁起」=「無自性」などというのは、この世の事を説明しているにすぎない。
この世のもの(釈迦の言う一切)に永遠、不死などというものはなにひとつないんだよ。
「空」=「縁起」=「無自性」だけでは、真理にはたどりつけない。
それをむりやりなんでも自分達の「空」思想で説明しようとするから、屁理屈ばかりになり、
具体的にじゃぁどうしたらそこ(涅槃)に帰れるのかも説明できない。
とにかく空理空論、屁理屈ばかり。挙句に善悪などない、そんなものにこだわる心が苦に繋がる
などという邪見に囚われる。そんな者は単に自分勝手な、自己中心的な人間を作るに過ぎない。
そのようにいきる者は、己のエゴを肥大させ続ける。
何度も言うけど、釈迦ははっきりと悪は成すな、善を成せと語っているんだよ。
原始仏教のスレで、自分達大乗の価値観を押し付けるお前達は性質が悪い。
己のエゴを増大させる者は、決して生きない。
743名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 18:04:40 ID:YvM9+8pe
>>740
>未だ「空」についての体系まで到ってなかったわけです。

上は意味分からない。
744カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/26(火) 18:06:55 ID:QiFxguDg
>>740
>未だ「空」についての体系まで到ってなかったわけです。

>それ以降において龍樹が登場する。
>いわば龍樹は、スッタニパータをより完全なものへと完成させた

それは違う。初期仏典に出てくる「空」は刹那滅のことを言っている。
なんだったら大念住経の文章でも出してやろうか?もう出かけるけど。
ま、大念住経にはお前達、禅とは違う、釈迦が涅槃をみる唯一の道と称した、
ヴィパッサナーの手法を解説しているようなものなんだがな。
ここは原始仏教のスレ、どうせ語るなら、禅より、ヴィパッサナーだと思うんだけどな(苦笑)
745机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/26(火) 18:20:24 ID:zBEnPZC+
>>742
>つまり「縁起」=「無自性」の意味で使われているのではなく、刹那滅のことを言っているように思える。

話が矛盾してますね。

縁起で無自性だから→刹那滅であるわけです。
縁起で自性ならば→滅することはないわけです。
(自性は滅しない)

縁生というのは、そのまま縁滅を意味するわけです。→無自性
だから刹那滅なわけです。

この理が空です。
746名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 18:28:43 ID:YvM9+8pe
>>742
 サダープラルデッタ菩薩大士は答えた。
『ですが良家の子よ、夢の中では、いかなるものの実在性も知られません。
夢は欺くものであり、虚妄なるものです。』
 ダルモードガダ菩薩大士は続けた。 
『良家の子よ、ちょうどそのように、世尊はあらゆるものは夢のようだと仰せになりました。
良家の子よ、如来が教示されたように、あらゆるものが夢のようなものである、とありのままに知らないものは誰でも、
如来を名前の集合や物質的な身体として執着して、如来達の去来を妄想するのです。
言うまでも無く、ものの本性を知らないで、如来達の去来を妄想するものは全て皆、愚かな凡人たちだからです。
彼らは皆、六種の生存の領域からなる輪廻に赴いたし、赴くし、赴くでしょう。
全て皆知恵の完成から遠ざかり、全て皆仏陀のもろもろの教えから遠ざかっているのです。

上は八千じゅ般若経の抜粋ですが、同様の意味です。

>具体的にじゃぁどうしたらそこ(涅槃)に帰れるのかも説明できない。
 
 涅槃とは煩悩が消滅して、一切煩悩が生じない状態を言うとされています。
其れは空の状態です。

 其れではからすの唄サンにお聞きしますが、善い事をし、悪いことをしないという、
(善いこと)とはどんなこと、(悪いこと)とはどんなことですか?

747名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 19:42:40 ID:WvY/Do5L
>>736
またジサクジエン疑うんだろうけど、少し指摘しておきます。

漢訳阿含がパーリ仏典と比べて古層だというのが一般的だけど、それ
がひっくりかえったの?

無記を語る文脈で水野弘元が本当にタターガタ=衆生ではない
と言ってるの?タターガタ一般の話ではないよ。

で、戸田本ってなに?そんな校訂知らないけど、あるの?
まさか創価学会が出している写本+ローマナイズのことじゃないよね。

で、モンゴル語訳の法華経断簡だけど、翻訳元が違うの知らなかったの?
モンゴル大蔵経の法華経のことじゃないよ。この情報の詳細希望>電波さん

で、二万五千頌般若経と八千頌般若経との区別していってる?
748名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 20:08:10 ID:cqun8+5Y
>>746
それだと如来の大我(五蘊仮和合)は三界のどこかに輪廻するってことにならんか?
749無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/26(火) 20:22:50 ID:4SBk7GXx
>>747
> 無記を語る文脈で水野弘元が本当にタターガタ=衆生ではない
> と言ってるの?タターガタ一般の話ではないよ。

タターガタを如来と訳しているの
タターガタ=衆生ではないと言ってるかどうかは不明

>>324 :ベロ ◆eOod7XM/js :2005/07/16(土) 00:54:39 ID:mpXlyp6e
> 毒矢の喩(マールンキャプッタ経)のタターガタを人(衆生)と訳しているものは
> 今すぐ目につく私の手元にあるもので、
> @中央公論社「世界の名著1」バラモン教典・原始仏典に収録分p473、訳者は桜部建
> A講談社「原始仏典五 ブッダのことばV」p3、訳者は田中教照
> B大蔵出版「南伝大蔵経」第十巻、中部経典二p222、訳者は干潟龍祥
> C大法輪閣「阿含経典による仏教の根本聖典」、p236、訳者は増谷文雄
>
> いわゆる「如来(ブッダ)」と訳しているもの
> @春秋社「原始仏典 第五巻 中部経典U」p303、訳者は浪花宣明
> A平楽寺書店「原始仏教」サーラ叢書4 p94、訳者は水野弘元

>>336
http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb11.html
897 :暇人:2005/05/26(木) 07:20:55 ID:vWKOvyTZ
■無記文脈で「如来の死後」がいまだに世間では有力
うむぅ。本当に列挙して欲しいの?汗 知らんの?
中村「佛教語大辞典」は挙げましたね。
あと例えば平川彰著作集T「法と縁起」とか三枝さんの「バウッダ」。
水野さんの「原始仏教」もしかり。

906 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/26(木) 11:04:21 ID:hwZNJvCP
それと、水野弘元は積極的な衆生説ですよ。なんか勘違いしてませんか?
750名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 20:31:46 ID:cqun8+5Y
違うな。肉体が輪廻するなんてありえない。
如来の受・想・行・識が輪廻するってことにならんか?これをチベット仏教では「心相続」というんだと思う。

751暇人:2005/07/26(火) 20:54:00 ID:8OplfRga
>>736
論文を明示してのご指摘有難うございます。
紹介論文を確認する術がございませんので、
俄かに当方所持本及びネット検索しましての感想を述べたいと思います。

机さんの>>483「大般若経のエッセンスが般若心経」発言は、空海さんの
<『般若心経』は『大般若波羅蜜多経』六百巻の意を取り略説したもの>説
を基にしたものだと思もわれます。この説は無根拠であるというのが私の論点でした。

サンスクリット本を待つまでもなく、般若心経異本の
鳩摩羅什訳の『摩訶般若波羅蜜大明咒経』は、大般若経の第2.3会に相当する
羅什訳の『摩訶般若波羅蜜経』と似ています。
しかし玄奘訳『大般若経』の当該部分とはかなり違うことが知られます。
http://www2.tky.3web.ne.jp/~kuuki/hp/2utyuu/hannya.html 『摩訶般若波羅蜜大明咒経』
http://www.cbeta.org/result/normal/T08/0223_001.htm 『摩訶般若波羅蜜経』
http://www.cbeta.org/result/normal/T07/0220_403.htm 『大般若経』

ご指摘の通り二万五千般若=「大品般若」(羅什で言えば『摩訶般若波羅蜜経』)
の一文の抜粋あるいは同系統が羅什訳『摩訶般若波羅蜜経』ですね。

さてご存知のように漢訳の玄奘訳の『大般若経』に限定すれば、
該当箇所が独立漢訳経典の「心経」とは対応しません。
机さんは梵本の話をされていたのではなので 梵本はともかくとして
玄奘訳『大般若経』と漢訳「心経」は別系統であると 私は現時点では考えています
752名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 21:24:52 ID:e4Lidwga
>>736  もちろん自作自演にしか思えないし、あなたなんにも知らないね。
二万五千頌般若経と八千頌般若経との区別:あ? 

漢訳阿含>>326 スッタニパータ』の一部等のことだけど。

水野:これについては何、大丈夫?と言うしかない。>>749 で無宗だ氏が指摘済みだが、
『仏教要語の基礎知識』147頁で「如来(生死を超えた人)は死後に存在するかしないか」
ときっちり逆の意味で書かれているのをこの目で確認しました。
そもそも水野 弘元「tath\={a}gata(如来)の意義用法」『印度学仏教学研究』で
論証していることを逆の立場で書かないだろう。
もともとあなたには論理的判断能力が弱いと思ってたけど、ここまで酷いとは思わなかった。

モンゴル語訳:まだ敦煌文書にモンゴル語訳があると思ってるの?
モンゴル語の成立は13世紀だよ。敦煌文書は9世紀。これは高校生の年表的な問題ね。
しかも現時点で法華経の梵本校訂はチベット訳や漢訳も使えないわけ。
現在は、また各写本の正確な形を提示している段階なので、それが辻・戸田手法なんですけど。

戸田本:
Saddharmapundarikasutra Kashgar Manuscript : (II-III) Tokushima Daiga..., 1978].
Saddharmapundarikasutra Gilgit Manuscripts : (groups B and C) Tokushima Daiga..., 1979].
Saddharmapundarikasutra : Central Asian manuscripts : Romanized text /
- Second ed.. -- Kyoiku Shuppan Center, 1983
The Huntington fragment F of the Saddharmapundarikasutra / Reiyukai Library, 1977.

そもそも辻先生の批判は明らかに渡辺本に対するものだろう、まだそんなキメラ本作ってるのかと、
で戸田本は辻先生もドゥ・ヨングも評価してるんですね。

やっぱりこうゆう対応なわけね。間違いを認めない、それがなにより信用できない。
そして間違いを認めない変わりに自作自演して言語学者とか法学者とか法学霊能少女とかになるとしか思えないですね。
753名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 23:12:57 ID:YvM9+8pe
普賢菩薩の行をする菩薩たちは、一生舗処の身を取らないで、何回も輪廻するとある。
普現の行とは、「それは大いなる請願の鎧を身にまとい、全ての世間の利益のためによろいを身にまとい、
一切の世間のために努力し、一切の世間を永遠の平安(ニルバーナ)に入らせるために努力し
、一切の世界で求道者の行いを実行しようと願い、一切の目覚めた人々に恭しく使え様と願い、
ガンジス川の砂の数に等しい無数に多くの生ける者どもをこの上ない正しい悟りに向かって安定させ、
更にその上の行の実践に向かい、サマンタパドラ「普現」の行を実現する事に決まっている
求道者たち・優れた人々)

 輪廻から解脱させる人が、輪廻から解脱する修行のできていない人と考えるのは、まちがい。
ただし上の普賢菩薩のように、人を救うために地獄に自ら落ちるというのは
修行ができていないからではない。
754名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 23:18:45 ID:YvM9+8pe
>>753
サマンタパドラの行の説明は、大教「大無量寿経」21の請願より抜粋。
755無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/26(火) 23:39:18 ID:teyybGPe
さて、
> 釈尊の歴史的実像 磯部隆(1997年 大学教育出版)
この書籍の内容紹介(>>594)を続けたい。

磯部氏は、スッタニパータにおいて、
仏陀の言葉の後に、教団の言葉を連ねたようなお経があるという。
そのような構成にすることで、教団の言葉を
あたかも仏陀が言ったかのように聞く人に誤解させようとしたと推測している。たとえば、
http://sugano.web.infoseek.co.jp/butu/buuta.htm#4-15
◆<15、武器を執ること>◆
においては、次のように分類している。
935−939までが原伝承
940−954までが教団の言葉
原伝承:釈尊その人の言葉として十分に当時認められていた言葉。

そして、この原伝承の部分こそが、軍事的援助を求めてきた釈迦族の王子を
出家の道に向かわせた、原体験ではないかと推測している。

国にいた頃には、コーサラとマガダの2つの大国しか見えてなかったが、
マガダの首都に来ることにより、マガダ国は東南方面のアンガ国と
長期的な交戦状態にあることを知る。

937 世界はどこでも堅実ではない。どの方角でもすべて動揺している。
わたくしは自分のよるべき住所を求めたのであるが、
すでに(死や苦しみなどに)とりつかれていないところを見つけなかった。

そして、自身がコーサラ国と戦端を開こうとしたことに恐怖したのである。

935 殺そうと争闘する人々を見よ。武器を執って打とうとしたことから恐怖が生じたのである。
わたくしがぞっとしてそれを厭い離れたその衝撃を宣べよう。
756名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 23:59:31 ID:WvY/Do5L
>>752
ものすごく気持ち悪いんだけど、あんた。ジエンギワクはあなた自身の問題だからどうでもいい。

(1)あ?
はぁ?
(2)スッタニパータの一部等のことだけど?
それで?
(3)水野『仏教要語の基礎知識』
きっちり確認するまでもなく、そうかかれていますが?そこには衆生説否定が展開されていますか?
(4)タターガタの意義用法
これは如来のことであって、懸案のタターガタのことは書かれていませんが?
(5)論理的判断能力
(3)(4)の組み合わせで主張するあなたに言われたくない。
(6)モンゴル語訳
敦煌文書?なにそれ?よくしらんが、モンゴル語成立と仏教伝播が前後しないと言うの?かなり硬直してるね。
(7)しかも現時点で法華経の梵本校訂はチベット訳や漢訳も使えないわけ。
え?ローマナイズだけならそういえますね。これであなたが素人だと判断できました。
(8)現在は、また各写本の正確な形を提示している段階なので、それが辻・戸田手法なんですけど。
手法も何も戸田本、渡辺本と並べて比較できるものじゃありません。渡辺氏の時には東京大学図書館には
現状のような写本やマイクロがなかっただけじゃないのですか?それらを写真にして一部ローマナイズする
作業がなぜそんな偉そうにいえる?
757名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 00:11:41 ID:KgdofdRZ
>>753
>普賢菩薩の行をする菩薩たちは、一生舗処の身を取らないで、何回も輪廻す
>るとある。
輪廻する主体は何だと思いますか
758名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 00:30:00 ID:EhwmUCUG
>>757
空を完成させようとしている菩薩「修行者」であり、完成させない以上、
修行者には煩悩があり、その煩悩は、我である。故に「主体者」はナにかという質問は
間違っていない。
759名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 00:38:57 ID:c6LEz108
>>752
あんた、脇が甘いと思う。だって、誰だか個人特定できてしまうもん。
「一文に動詞が2つある」とか電波発していた人でしょ?

a 現在は、また各写本の正確な形を提示している段階
b 現時点で法華経の梵本校訂はチベット訳や漢訳も使えない
c そもそも辻先生の批判は明らかに渡辺本に対するものだろう、まだそんなキメラ本作ってるのかと

これ、かなり電波ですよ。あんた、ヒョットシテまだ漢文もチベットも読めないんじゃないの?
○大のK先生じゃないのか?あの頭の悪いくせに傲慢な。校訂とローマナイズを取り違えてなにしてるの?

>戸田本は辻先生もドゥ・ヨングも評価してるんですね。
で、この根拠は?

色々自作疑惑掛けてくれた仕返しですよ。
760名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 01:48:13 ID:6ejMwjJG
>>759
個人特定はしないほうがいい。同じレベルに脱するから。

だれかが、東洋哲学研究所に問い合わせていたようですよ。
戸田先生主導でしたものですが、渡辺氏を超えるものではないとね。

>a 現在は、また各写本の正確な形を提示している段階
>b 現時点で法華経の梵本校訂はチベット訳や漢訳も使えない
>c そもそも辻先生の批判は明らかに渡辺本に対するものだろう、まだそんなキメラ本作ってるのかと

aはあそうですか。頑張ってくださいといえますが、bは滅茶苦茶ですね。校訂本を世に出す場合、漢文
他訳の比較をしないなんて仏教学研究方法論の否定につながります。諸本によって同異や増広付加
が認められる中、その点を指摘しない校訂本など不必要になります。何を底本にしてもいいのですが、
脚注に諸本の同異を載せ、その説明がなければ研究には使えません。モンゴル訳の断簡の件ですが
翻訳元が違うのであれば、面白いのかもしれません。cに関しては誹謗中傷もいいとこです。辻先生が
明らかに渡辺本を批判しているなんて話は聞いたことがありません。先ずサンスクリットそのものを対
象にして読み込め。諸本比較はそれからだという講義を受けたと先輩は仰ってましたけどね。

渡辺本は勝手な思い込みで校訂しているわけではなく、当時の資料をもとに校訂し異同は注記して、
その説明部分に自己解釈も付したものだと私は思います。現在はただその資料が刷新されていて、
もっと精査できる技術に進歩しただけじゃないのでしょうか。とりあえず、明らかに批判していることと、
ドゥ・ヨングも渡辺本よりも評価しているという根拠を知りたいですね。
761名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 04:24:46 ID:KgdofdRZ
>>758
我が煩悩を持つのではなく煩悩が我ですか。一つの見方ですね。
五蘊外に常住不変の我があってそれが輪廻するのか、或いは受・想・行・識が輪廻するのかなど色々考えています。
762無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/27(水) 05:44:58 ID:LJa6EoZ9
>>756 :名無しさん@3周年:2005/07/26(火) 23:59:31 ID:WvY/Do5L
> (3)水野『仏教要語の基礎知識』
> きっちり確認するまでもなく、そうかかれていますが?そこには衆生説否定が展開されていますか?
あのねー、
問題はそこにあるのではなく、電波氏が

http://www.geocities.jp/jfcps873/gb/gb11.html
906 :電波男Ψ(´д`)Ψ@ヒロヘロ ◆RHudQb4c9k :2005/05/26(木) 11:04:21 ID:hwZNJvCP
それと、水野弘元は積極的な衆生説ですよ。なんか勘違いしてませんか?

と発言しながら、何も論拠を示していないことなの。

> きっちり確認するまでもなく、そうかかれていますが?
そうだとしたら、普通の感覚の人は積極的な衆生説とはみなしませんよ。
763暇人:2005/07/27(水) 07:14:24 ID:viMtXV9p
>>672
>まっいいか。教えてあげる義理はない。晒され続けて下さい。

恥というのはこういうのを言います

電波「ギルギット写本”法蘊足論”では"svabhAva"なる語が出てきている」
暇人「どんな文脈で なんて意味で自性が使われているか論じてみないと話にならんよ」
電波 逃亡

電波「暇人は法蘊足論に自性ないというが「法蘊足者。顯此論之勝名也。能持自性。」と
能持自性があるじゃん」
暇人 あまり馬鹿馬鹿しくて 絶句してしまったが、これは漢訳者玄奘の後書き部分
   ギルギット写本”法蘊足論についても出さないから確定できんが 電波さんのこと
   だから玄奘の後書き部分だと思もわれる。 だったらまた大笑いネタ増えます。

電波「2例ではなく、5例です。大蔵経の索引だけに頼っている訳でしょう?
精度が違います」
暇人「此法自性不可愛が4つ 求彼自性毘奈耶が1つじゃん 2例五個なのに汗
漢訳も読めないのか こいつ。。。」

電波さんは文脈や意味を読み取れず、「あるあるあるある」と的外れに騒ぐだけ
事実としては 電波さんが恥をさらして 笑いを提供してくれているのだけどね。
「お笑い仏教漫才」だね 楽しい方です。
764阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/27(水) 07:32:42 ID:GeEKc83c
http://www.geocities.jp/jfcps873/kanren/kaji2.html
「自性」関連のやりとりの観覧はこちらでどうぞ。
765机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/27(水) 07:38:28 ID:GKRPjtYQ
>>743
>上は意味分からない。

そうでしたか。
では、少々説明させて頂きます。

>>世界が空なりと観ぜよ。

とか

>>> 世{界}を『空[くう]である』と観察しなさい。

とかういのは、感覚的かつ抽象的です。
果たしてこれで意を汲み取るか?
はなはな問題かとおもいます。

具体的に空について体系付けたのは龍樹です。
簡単に言いますと、我というのは生起しているわけです。
かつそのまま生滅する。
つまり、縁起そのものが我であるわけです。

>>世界が空なりと観ぜよ。
というのは、刹那・刹那に我が生起しているに過ぎない。
「不死の境地」とは、これを象徴的に言い顕したわけです。

766阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/27(水) 07:51:19 ID:GeEKc83c
>>764の補遺
http://www.geocities.jp/jfcps873/kanren/kaji1.html
の742以降にも「自性」関連のやりとり-こちらが先-があります。
767カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/27(水) 09:51:31 ID:ceoWraBc
>>745
おやこいつは失礼した。
刹那滅も、縁起により起こるというなら、それはそれでよしとしようと、
俺自身、たしかここでか、どこかで書いた。(苦笑)

>縁起で無自性だから→刹那滅であるわけです。

この表現はこの表現で正しい。
が、言葉尻を捕らえ、肝心の論点をずらすものは愚か者のやることだ。
俺が>742で書いた文意はそんなことではない。

刹那滅なども、この世の現象を説明しているにすぎない。
世は生じては滅する幻がただ、そこに在るだけの世界。縁起により生じた世そのものも、
いずれは滅する定め。大乗の「縁起」、「空」、「無自性」などはこの世の事を説明しているに過ぎない。

世は泡沫のごとし、陽炎のごとしと観よ、そのように観ずれば死王も彼をみない。

幻でしかないこの世に、真理などはないんだよ。
768カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/27(水) 09:55:35 ID:ceoWraBc
実は俺はカトリック教徒なんでね。ここで無明に囚われているあんた達に”生ける子”イエスの言葉を送ろう。

>消滅するものから生じている限り、そのものはことごとく消滅するであろう。
>それらは消滅するものから生じるゆえである。
>消滅しないものから生じているものは、消滅しないのが常であり、消滅しないものとして存在する。
>消滅しないものに由来するゆえである。
>それは、人間の群がこの違いがわからないため、失われてしまっているのと同様である。
>彼らは死んでしまっている。〜ナグハマディ文書

無からはなにも生まれない。
縁起の支配するこの世は、無自性なものではあるが、
”芯に”自性なる存在がねければ、因果律からいってもおかしなことになる。
元のはじまりが無自性だというのは因果律からいっても、ありえない。
縁起は世と共に生じ、世と共にある。縁起により生じた世はいずれ滅するのが定め。
世が滅すると共に縁起も滅する。縁起なども無自性なるものにすぎない。

自性とは、それ一本で、単独で存在できるもの。自性とはなにものとも縁起することなく存在できるもの。
縁起により生じたものでなければ、元からあるもの。元から在るものは、終りのないもの。
不死の境地はそこにあり、全てはそこから出た。

いくら無明に囚われたあんた達でも、無自性に、永遠、不死などないことは、理解してんだろう(苦笑)
769カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/27(水) 10:03:57 ID:ceoWraBc
もう一つ無明に囚われたお前達に、”生ける子”、イエスの言葉を送ってあげよう。
これは無明に囚われたお前達に対する俺からの愛だ。

>御国はその実、あなたがたの中にある。そして、外にもある。あなたがたは、
>自分自身を知るならば、知られるであろう。
>そして、自分が生ける父の子らであることを知るであろう。
>しかしあなたがたは、自分自身を知らないならば、貧困の中にいるのだ。
>そしてあなたがた自身が貧困なのだ”。〜トマス

わかるかい?
770名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 10:31:36 ID:Unhc6LpT
という事は、無明とか無知無知とか言っている相手から
ばりばりっと音を立てて智慧が出てきて
神よ!とあなたが涙を流すかも知れないわけだね。
771カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/27(水) 10:33:56 ID:ceoWraBc
〜スッタニパータ
>究極の理想に、通じたものが、この平安の境地に、達した後に、為すべきことは、次の通りである。
>有能であり、心が真っ直ぐであり、正しく、言葉優しく、柔和であって、
>思い上がらない者でなければならない。
>足る事を知り、僅かな物を食べ、雑務が少なく、生活も簡素であり、諸々の感官が静まり、
>聡明であって、昂ぶることなく、他人の家で貪らない。
>他の識者の非難を受けるような、下劣なことを、行ってはならない。
>すべての、生きとし、生けるものは、幸福であれ、安穏であれ、安楽であれ。
>どんな生物生類であれ、弱いものも、強いものも、長いものも、短いものでも、
>微細なものも、粗大なものも、見えるものも、見えないものも、
>遠くに住む者も、近くに住む者も、生まれたものも、生まれるものでも、
>一切の生きとし生けるものに、幸あれ。
>何人も、他人を欺いてはならない。いつも、他人を軽んじてはならない。
>相手を悩まそうと、怒りの想念を抱き、苦痛を与えることを、望んではならない。
>さながら、己が独り児を、母が、命を賭けて守るよう、
>一切の生きとし生けるものに、無量の慈しみの心を起こすべし。
>上に、下に、横に、障害なく、恨むことなく、憎むこともなく、
>全世界に、慈無量心を起こすべし。
>立ちながらも、歩きながらも、座りながらも、臥しながらでも、眠らない限りは、慈無量心を持て。
>これは、慈悲喜捨、梵住と呼ばれる。
>邪見を捨て、戒律を守り、智慧を具え、諸々の欲に関する、貪欲を除いたものは、
>決して、再び母胎に宿ることがないだろう。

世に善も悪もない、そんなものに囚われるから苦がある、などとほざく哀れな禅宗の者よ、
これが釈尊の教えだ。たしかにこの世で善悪に囚われず、勝手気ままに生きれば、今生における
己の自我に苦はないだろう。が、それは自己中心的な生き方であり、己のエゴを肥大させるに過ぎない。
実にこの2chにおいても、禅師と称するものが、己のエゴを垂れ流すのを何度も見た。エゴは自我を生む。
己のエゴをそのままにしておき、肥大させ続ける者は、迷いの生存を繰り返し、決して生きない。死人のままだ。
聞く耳のある者はよく聞くがいい。

772名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 10:34:29 ID:Unhc6LpT
空という言葉を積極的に使ったら、神でも良いんじゃないかと思う。
と言いますか、空を崇拝しているように見えます。
773偽善者:2005/07/27(水) 10:36:28 ID:p8m10hdp
究極の理想に、通じたものが、この平安の境地に、達した後に、為すべきことは、次の通りである。

この前提を良くよめ
774名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 10:55:33 ID:Unhc6LpT
カラスの唄殿の文意の把握ができているか
分からないけど。

かなりいい加減な頭の良い弟子がいたのね。
775カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/07/27(水) 11:22:20 ID:ceoWraBc
>>773
>かの、寂静の境地を知悉して、〔解脱という〕義(目的)に智ある者(出家修行者)が
>為すべきことは、〔以下のとおりである〕。

寂静の境地を知悉してとは己のエゴを滅するということなんだよ、愚か者めが。
己のエゴを滅した者を解脱した者といい、解脱した者は涅槃に入る。
エゴとは、利己心のことだ。無明に囚われ、肉を持ちこの世に生まれる我らは、常に、この肉による五感による
感覚による刺激で、この感覚は好き、この感覚は嫌い
などという条件付けを、己の意識、潜在意識のレベルで行なっている。
この条件付けこそが、エゴを生み、エゴを増大させる。エゴとは利己心の事だ。
この条件付けを無くせば、自然とエゴは滅し、エゴが滅すれば、自然と慈悲、慈愛の心、つまり利他の心に
目覚める。が、常に五感から刺激を受け続ける、我らの心とは弱いものだ。わかっていても
善をなせないでいる。なにが善で、なにが悪かは、このスレに限らず、何度も何度も言ってきた。
何度も何度も言っているが、原始仏典をどこをどう読んでも、釈迦は、悪は成すな、善を成せとといっている。

釈尊は弟子アーナンダに問うた。
アーナンダよ、ここにお前を殺す者がいたとして、お前はそのものを憎まず、
愛せることができるか?
アーナンダは答えた。はい、私はその者を憎まず、愛しましょう。
釈尊はアーナンダに言った。
アーナンダよ、もうおまえに、私からなにも教えるものはない。

肉に囚われた我らの心は善を成せないでいる。その肉の思いに負け、善を成せないものが、善を成せと語るのを
偽善者と誹るのはかまわないが、世において善を成せという教えは、真理に至る道であり、法である。
愚かな禅宗の者よ、人の子を誹っても、法を汚すな。人の子を誹る者は許されても、法を汚す者は決して許されない。
776偽善者:2005/07/27(水) 11:38:04 ID:p8m10hdp
まず邪見を捨てなさい。作為ではないのだ。
戒を守るに当たって善も悪もなくただ守るのみ。無私、盲従、それが行というものだ。
777机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/27(水) 12:07:26 ID:GKRPjtYQ
>>769
>わかるかい?

「まさに住する所無くして而(しか)も其の心を生ずべし」。
ということです。
本来無一物であっても、御国は生じます。
如何ようにも生じてくるのが心というもの。
これが五蘊の心作用です(色)。

この五蘊でさえも空(本来無一物)なわけです。
(五蘊皆空)

禅においては、廓然無聖ということになる。
778無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/27(水) 12:39:01 ID:LlTAi1dS
五比丘は、どうして5人でつるんでいたのか?
仏陀も含めると、6人でつるんで修行していたことになるのかな?

比丘が数人のグループを形成するのは、当時一般的だったのでしょうか?
それとも何か固有の理由があったのでしょうか?
釈迦の6年の修行期間中、どのあたりからつるみはじめたのだと思いますか?
779机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/27(水) 14:14:02 ID:GKRPjtYQ
>>772
>空という言葉を積極的に使ったら、神でも良いんじゃないかと思う。
>と言いますか、空を崇拝しているように見えます。

こうい書き込みがたまにありますけど、これは全く「空」というのを間違った捉えかたをしている。

空を崇拝するわけですか?
これこそチンプンカンプンです。

禅というのは、仏とか神に帰依することはないです。
それは、こういった考え自体が迷いであると気づくからです。

釈尊の十無記というのも、あれは問い自体が迷いの象徴なわけです。
したがって釈尊は無記としたわけです。
無記が正解です。
まったくそこに議論する余地はないです。
780名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 16:04:12 ID:KgdofdRZ
>>778
浄飯王が心配して送り込んで来たんだよ。
781名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 17:22:18 ID:KgdofdRZ
70 カネゴン@キャンディ 05/02/26 15:18:20 ID:fcXKLns5
出典はどの経典だかしらないけど
お釈迦様が2500年前、こう予言されたんだと
道徳がひっくりかえる世の中がくる
価値ないものが価値があるとされ、価値のないものを人々が拝むだろう
人の上に立つ本来尊敬されるべき人間は堕落し
役者などがえらくなる(古代インドでは役者は地位が低かった)
そして男どもが、若い女にひざまずく時代がやってくるであろう
(古代インドでは女性は地位が低かった)
782名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 18:05:11 ID:KgdofdRZ
   (  人____)   来世や神通力なんかあるわけないでしょう。
    |ミ/  ー◎-◎-)  私はそんなもの見たことないし。 
   (6     (_ _) )  
  _| ∴ ノ  3 ノ  
 (__/\_____ノ     
 / (   ||      ||     
[]__|  阿呆陀羅經 ヽ    
|[] |__|__ ___)  
 \_(__)三三三[□]三)   
  /(_)\::::::::::::::::::::::::::|   
 |唯物外道|::::::::/::::::::/    
 (_____):::::/::::::::/     
     (___[]_[]
783名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 19:59:51 ID:EhwmUCUG
>>768
縁起の理法(因果の理法)と「空の真理」とは取り扱い
に注意するべきで、縁起の理法=空の真理ではない。
 縁起の理法「因果律」とはこの世を支配している法である。
罪を犯したものはその報いを受けるとか言う善因善果、悪因悪果である。
心ばかりでなく物質世界においても、因果律が支配している。
この因果関係に支配されていないものは絶無だ。
 このような現実の何処に空の真理があろうか?したがって空の真理=因果律ではない。
空=縁起ではないのだ。

 空の真理とは、このような因果関係を見て、
原因も結果も互いに相手に依存してのみ存在している事実を見て、
其れ故にどちらにも自性または実体がない、と判断するものだ。
自性が無い故に幻のようなものとも表現する。更に自性が無いとは、
主体が無いということまたは我が無いということで、何の力も働きもしないということである。
 このように見るのは、まさに現実が因果の法則に支配されていると見るのと反対ではないか、
全く逆に因果律に支配されていないと見るものなのだ。
いや、全く隔絶した見方ではないか?
 
 故に、現実を支配している因果の法則と、無自性と見る空の真理が支配する世界は違い、つまり因果の法則と、空の真理は全く違うというべきだろう。
784名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 20:02:38 ID:EhwmUCUG
783つづき
>>761
>我が煩悩を持つのではなく煩悩が我ですか。一つの見方ですね。
五蘊外に常住不変の我があってそれが輪廻するのか、或いは受・想・行・識が輪廻するのかなど色々考えています。

輪廻とは悟りを得ない人に必然的に生じる運命と見なされています。
必然的に生じるものですから、因果の法則の支配下にあると思います。
業の相続者というのでしょうか。
 現世で悪い事をした人が死ねばその結果はすでに無いのでしょうか。
必ず結果はあると考えるべきでしょう。そしてその結果を感じ取るものはやはりその原因者で無ければならないでしょう。
その原因者として、何処かに存在しなければならないのです。
死んで逃げられるのではなく因果の法則によって呼び出されるのでしょう。
 人間に我があると見なす場合、必ずこの因果の法則に従うことになると思います。
我とは相対的に存在するものですから。

 因果の法則(縁起の法則)=輪廻
しかし善い事をした人はよい報いを受ける事も因果の法則により認めなければならないでしょう。
 しかしこの因果の法則の世界で、完全な善い事はできないのだと思います。
故に仏教では、最も善い事をした人たちは、天界という境地に入ることができるとしていますが、
しかし天界の神々も善の果報が尽きると地獄に転落するとされているのです。

 しかし「空の真理」を信じ、理解し、行うものはこの因果の法則の世界から解脱することができるといえるでしょう。
この真理を「正法」とも言いますが、阿弥陀仏の世界に入るものはこの正法を信じていなければならず、
誹謗しては入れないとされています。
 空の真理=解脱
785名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 20:04:37 ID:EhwmUCUG
「自己を整える」とはどういうことか?
一切が空であるという事を体得する過程を言う。
その過程においては、因果の法則により、善いこと悪いことを身に受けると言う憂い、
思いが盛んであったが、それらを抑制するのだ。実に原始経典の大部分はこの抑制について歌っているのだ。
因果の法則により存在するものはちりゴミのようなものだから取り除け、と。
全ての束縛を断て、と。束縛とは因果の法則である。
 
 自分では以上をトンデモ説とは思ってないのだ。
786名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 20:19:16 ID:ixZ/Cxpp
どうでもいいけどさ、ここは原始仏教のスレ、
禅、般若心経、大乗仏教を語りたりたければ禅スレなどのスレで語れや。
ここで自分達のエゴを垂れ流すんじゃねぇよ。
あなた達がここに居座って、禅宗の教えを垂れ流し続けてるおかげで、
肝心の小乗、原始仏教の話が飛んでしまっている。
まぁ日本の仏教界で、原始仏教を語れる人はいないような気はするがな。
787名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 20:29:24 ID:EhwmUCUG
>>761
>我が煩悩を持つのではなく煩悩が我ですか。一つの見方ですね。
五蘊外に常住不変の我があってそれが輪廻するのか、或いは受・想・行・識が輪廻するのかなど色々考えています

 「五蘊外に常住不変の我があって、」
 これも心「受・想・行・識」の中に入るんじゃない?
 ということは五蘊を「我」であると思っている事になる。
私は身体である。私は感覚するもんである。私は思うものである。私は意思するもんである。
私は知識である。
 以上が「我」といわれる観念であると思う。
これは執着である。身体は相対的に存在するもんであるのに、他のもんを排斥して身体のみに
価値を認める事になるから。この味覚は自分であり、自分のものである。私は意思そのものである。
私は知識である。このような執着した観念は、原因となって次の結果を生み出す。
12支縁起の法則の通りとなるのではないか?
 原因無し、結果無いの空の理法を理解し信じようといいたい。
788名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 20:32:15 ID:EhwmUCUG
>>786
原始仏教から離れていないと思うよ。
789名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 21:01:31 ID:EhwmUCUG
何も合わせることはないんだと思う。自分の系統の話をカキコして良いんじゃない。
790名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 21:42:18 ID:EhwmUCUG
>>775
釈尊は弟子アーナンダに問うた。
アーナンダよ、ここにお前を殺す者がいたとして、お前はそのものを憎まず、
愛せることができるか?
アーナンダは答えた。はい、私はその者を憎まず、愛しましょう。
釈尊はアーナンダに言った。
アーナンダよ、もうおまえに、私からなにも教えるものはない。

すごい会話だ。
出典をキボン。
791名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 22:33:15 ID:4L5yWUNT
なんだか今度は「空」を涅槃、ニルヴァーナと同じ意味に使う人が出てきましたね。
そもそも「空」とは縁起=無自性のことでしょう?
ここの机氏は、縁起=無自+刹那滅までひっくるめて「空」としょうしているようですが。
「空」を涅槃、ニルヴァーナにまで拡大させての説明は、詭弁を感じますね。
元々、涅槃、ニルヴァーナという言葉があるのだから、それを空と呼びかえる必要性はない
先人達も違う意味だから「空」という言葉を使ったんでしょうし。
あくまで空は空、涅槃は涅槃でしょう。
792名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:06:59 ID:qWTcmvH7
>>751 鄭重なご返事ありがとうございます。(ここに二人の差があると思うんです)

ですが、弘法大師の『秘鍵』は「この経の真言はすなわち大心呪なり。この心真言によって
般若心の名を得。あるがいわく『大般若経』の心要を略出するが故に心と名づく」
                  (勝又編『弘法大師著作全集』第一巻113頁)
とあり <『般若心経』は『大般若波羅蜜多経』六百巻の意を取り略説したもの>というのは、
慈恩大師や香象大師などの説です。

>>玄奘訳『大般若経』と漢訳「心経」は別系統であると 私は現時点では考えています

論文読んでみてください。特に原田論文は、心経研究の到達点を示すと思われます。
惜しむらくは Silk のチベット訳の研究と Lopez の註釈研究を参照してないことです。
793名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:07:45 ID:qWTcmvH7
>>756 自演でなければ不思議なんだが、なんであんなトンデモで罵詈雑言男を庇うのか?
それをなにより聞きたい。私もそれが気持ち悪いです。はい!

1.そんな質問するなよ。情けにゃい。
2.それ以上何か言うことある?
3.これが電波論法の典型。間違いを認めず。なにか別の概念を作り出す。
 このため輪廻と輪廻転生が分けられた。始めは輪廻を否定していた電波だが、
 きっちり論証されるといつのまにか輪廻は否定してない輪廻転生を否定しているになった。
4.水野 弘元「tathagata(如来)の意義用法」『印度学仏教学研究』で

  無記説における tathagata も、仏教的な如来も、その起源は等しく、
  共に「生死輪廻を脱した完全者」の意味を含むものであったと思われる

 と明言しておられるんですけど。これで認めないならもうあなたたちはどうしようもない。
5.これで自分に論理的理解力が不足していること自覚しましたか?  
6.じゃ、そのモンゴル訳何時、誰が訳したものか明示してみて。

7.8.は後述します。
794名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:08:37 ID:qWTcmvH7
>>759 またトンデモ比定ですか? そういう直感をはずすところが「センスない」って言われるじゃない?
直感もだめ、論理もだめ。知識もぼろぼろ。まるでダメじゃないですか。

「一文に動詞が2つある」って何よ。○大って大谷? とするとK先生って?

ごめんごめん筆がすべりました。渡辺本に対する明らかな批判というのは間違いでした。
しかし、他は訂正する気はありません。

『辻直四郎著作集  第4巻』法蔵館、1982、215-228 所収
 同上岩本裕、解題 427 以下「」内は辻先生の上文引用
 a 「既刊本との詳細な比較を注記するために多くの時間をさくよりも、
 b  ありのままに諸伝本の全貌を学会に紹介するのがよい」とし
 「正確なローマ字転写による諸本の出版が切に望まれる」とした。
  そして、博士のこの切望は博士の御生前に満たされ、その結果に非常に満足されたという。
 a 土田本、渡辺本。b 戸田本。だろう。
ドゥ・ヨング『インド文化研究史論集』平楽寺書店、1986、152-154
もちろん私は、ローマ字転写より、写真版PDF版がいいと思うが。

>>760「先ずサンスクリットそのものを対 象にして読み込め。諸本比較はそれからだ」だからb.
「渡辺本は勝手な思い込みで校訂しているわけではなく、当時の資料をもとに校訂し異同は注記して」
だからそれがa. なんで分かんないかな。梵本の全体像が把握され諸本の正確な系統図がつかめて
初めて校訂になるわけです。それがその時入手した恣意的な梵本と漢訳、蔵訳から主観的に校訂するのは
文献学的ではないということなんですけど。

まだ全体像も把握されてないから、学会に写本の正確な姿を提供してきたのが戸田さんです。
そしてその方法論を提案したのが辻先生。全体像も把握してないのに漢訳、蔵訳を使って校訂するのは
可笑しいでしょう。ついでにいえば蔵訳は、永楽版、リタン版、シェルカル写本、東洋文庫写本等を
用いた校訂本が作成されてから同系統の梵本と校訂されるべきで、現在は校訂に使えるものではないでしょ。
それについてはアイマー、シルク、下田、佐藤等の参照してください。
795名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:10:36 ID:EhwmUCUG
>>791
>>783で、縁起と空とはぜんぜん反対の世界であるといってるのだ。
空と涅槃というのは同じ意味の別名なのだ。
796名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:15:26 ID:qWTcmvH7
>>760

> 個人特定はしないほうがいい。同じレベルに脱するから。

同レベルって何? あなたにも伺いたいが、じゃ電波はどうなの?

> だれかが、東洋哲学研究所に問い合わせていたようですよ。
> 戸田先生主導でしたものですが、渡辺氏を超えるものではないとね。

それ電波ね。そういう検証不可能なこと証拠にしないでほしいんですけど。
それに電話して聞いた人に適当に話あわせただけじゃないんですか。
797名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:22:51 ID:F5r1Q7mn
>>796
> それ電波ね。そういう検証不可能なこと証拠にしないでほしいんですけど。
> それに電話して聞いた人に適当に話あわせただけじゃないんですか。
あんたが問い合わせてみたら? 足が付くのが怖くて出来ないか。(藁
798名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:25:41 ID:6NIm4k/F
>>795
>縁起と空とはぜんぜん反対の世界であるといってるのだ。

トンデモハケーン!!新興宗教でつか?(大爆笑)
いや〜久々に笑わせてもらった。ククク。
それを言うなら涅槃(主体性)と、空=縁起=無自性は、ぜんぜん反対の世界だと言うんだよ。
799名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:28:54 ID:qWTcmvH7
>>759 じゃあなたチベット読めるんですよね。以下『ラムリム・チュンワ』acip そのままです。
が、一カ所誤写があります。それはどこでしょう?
最近出版されたツルティム訳(p.56ff.)ではそのまま誤訳されてます。

de ltar na bla ma'i rnal 'byor zhes yongs su grags pa'i gdams pa yang sngar bshad pa ltar
go dgos kyi dmigs pa thun re tsam gyis mi chog la / snying thag pa nas chos shig byed na ni
ma nor bar 'khrid pa'i bshes gnyen gcig la rgyun ring du brten dgos la /
de'i tshe yang 'chad kha ba'i zhal nas bla ma bsten bdo tsa na spangs dogs yod gsung ba ltar /
bsten tshul ma shes na ni khe med par gyong 'byung bas bshes gnyen bsten pa'i chos skor 'di
rnams gang las kyang gal che ba gtan gyi mdun ma'i rtsa bar snang ngo / /

チベット語読める人には簡単だよね。一カ所指摘すればいいだけなんだから。

みなさんにお願いです。当人以外は分かっても指摘しないでね。
800名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:37:22 ID:oc6C5VT1
>>795
>縁起と空とはぜんぜん反対の世界であるといってるのだ。

痛いなおまえ。大乗仏教のいう「空」の意味も知らずに能書き垂れてんのか。
なにかこの「空」を勘違いして、とんでもない邪見に囚われている人が多く見られるね。
オウムにもいた。そもそも「空」などという言葉を使うのが先人達の間違いだ。
「空」などの抽象的な言葉が愚か者達の誤解を生む。
すなおに、縁起=無自性だと記していれば、このような愚か者達の誤解を招かなくてもよかったんじゃないのか?
空とは、縁起=無自性ということなんだよ。
しかしおまえは幼稚で痛い。一から仏教を勉強しなおしておいで。
801名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:48:08 ID:EhwmUCUG
>>800
>空とは、縁起=無自性ということなんだよ。

縁起とは条件によってあるものが生じ、条件によってあるものが滅するという法則ではありませんか?
それ以上に「無自性」という意味がどうして生じるのでしょうか?
802名無しさん@3周年:2005/07/27(水) 23:59:02 ID:xp/5/3Xg
「空」とは、しょーもない、くだらない戯言のことでしょ。しょーもないもんに執着するなってこと。理屈こねくりまわすより、執着を断つのが大事でしょうね。
803名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 00:09:50 ID:fen0Zs1U
>>802
執着という煩悩を死滅させることによって、空を体得できるのです。
空に執着するのではないでしょう?
804名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 00:12:50 ID:fen0Zs1U
もう寝ますが明日が楽しみです。お先に。
805名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 01:58:56 ID:dhlmafGV
>>779
>空を崇拝するわけですか?
>これこそチンプンカンプンです。

>禅というのは、仏とか神に帰依することはないです。
>それは、こういった考え自体が迷いであると気づくからです

そんなら、空って言葉も使わないで欲しい。
仏や神によって迷わされるというのなら、
あなたは空という言葉を使って迷わす。

大乗仏教スレなら自然だろうけど、
釈尊が空の詳しい解説をしていないのだから
本当はそのまま受け取るべきではないのか?

喩えるなら釈尊を心理学で解体するような違和感を
感じるんですよ。
806名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 06:07:13 ID:9u9kp9Mb
>>801
>起とは条件によってあるものが生じ、条件によってあるものが滅するという法則ではありませんか?
>それ以上に「無自性」という意味がどうして生じるのでしょうか?

おまえ空思想の基本も知らずに、空を語ってんのか!
久々に 痛い奴を拝見させてもらったよー。
ま、気にするな。空に関しては、その言葉のあいまいさから、
大乗系の仏教徒には、おまえみたいな電波は一杯いるよ。
807名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:06:43 ID:CadWo1Vt
>EhwmUCUG
おやおや、今度はお決まりの仏教ならず、空教のおでましか。
カルトによくいるんだよね、君みたいな人。
一部のオウムシンパが、この空を使って、自分達をいかに正当化していたのか知ってる?
君のように空をなにか神秘的なものに勝手に解釈して、大乗仏教の空思想も知らずに能書き垂れんだよね。
空はここで何度も出ているように、単に、空=縁起=無自性のことを言っているにすぎないんだよ。
空は本当に便利な言葉だよね。一部大乗系の仏教徒達は、どこまで外道に落ちていくのやら。
808名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:13:22 ID:CadWo1Vt
ある村を訪れたとき、アーナンダがその村で死んだかつての比丘や在家信者がどうなったかを釈迦に尋ねた
時の記録があります。この時の釈迦の答えは(大乗仏教の信者にとっては)驚愕すべきものです。

アーナンダよ。修行僧サールハは諸々の汚れが消滅したが故に、すでに現世において汚れの無い
<心の解脱><知慧による解脱>をみずから知り、体得し、具現していました。アーナンダよ。
尼僧ナンダーは、ひとを下界(=欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので、”ひとりでに生まれて”、
そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。
アーナンダよ。在俗信者であるスダッタは三つの束縛を滅ぼしつくしたから、欲情と怒りと迷いが
漸次に薄弱となるが故に、<一度だけ帰る人>であり、一度だけこの(欲界の)生存に還って来て、
苦しみを滅ぼしつくすであろう。
809名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:13:49 ID:CadWo1Vt
アーナンダよ。カクダという在俗信者は、ひとを下界(欲界)に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたので
ひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。
アーナンダよ。カーリンガという在俗信者は……、ニカタという在俗信者は……、カティッサバという在俗信者は……、
トゥッタという在俗信者は……、サントゥッタという在俗信者は……、バッダという在俗信者は……、
スバッダという在俗信者は……、ひとを下界に結びつける五つの束縛を滅ぼしつくしたのでひとりでに生まれて、
そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)還って来ることが無い。
さらに、アーナンダよ。ナーディカで死んだ五十人以上の在俗信者たちは、ひとを下界に結びつける
五つの束縛を滅ぼしつくしたのでひとりでに生まれて、そこでニルヴァーナに入り、その世界からもはや(この世に)
還って来ることが無い。
アーナンダよ。ナーディカで死んだ九十人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、
欲情と怒りと迷いが漸次に薄弱となるが故に、<一度だけ帰る人>であり、一度だけこの世に還って来て、
苦しみを滅ぼしつくすであろう。
アーナンダよ。ナーディカで死んだ五百人以上の在俗信者たちは、三つの束縛を滅ぼしつくしたから、
<聖者の流れに踏み入った人>であり、悪いところに堕することの無いきまりであって、
必ずさとりを達成するはずである。
〜}『ブッダ最後の旅』(47ページ)中村元訳、岩波文庫
810名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:14:30 ID:CadWo1Vt
これによれば、死んだ比丘、比丘尼のみならず、死んだ在家信者のうち
・50人近くがニルヴァーナに至り(不還)、
・90人以上は一来(一度だけ帰る人)、
・500人以上は預流(聖者の流れに踏み入った人)
だと釈迦が答えた事になっています。たった1つの村の在家信者のうち、50人もの人が死後、
ニルヴァーナに至ったとされます。
初期仏教の経典を見ると出家して数日間で、ほとんど修行らしき修行も経ずに悟りを得たという例が
たくさん記録されています。中には釈迦の教えを受けて出家した当日、太陽が沈む前に悟りを得ている
例さえあります。
逆にアーナンダのように25年間の間、釈迦の身の回りに付き添っていても
(釈迦の存命中は)悟れなかった例もありますから、ばらつきはあるにせよ、初期仏教は多くの人にとって
確実にその目的(解脱)を達成できるものでした。
それに対して大乗仏教では禅的な悟りや各種の神秘体験、一定の境地を得ることまではできても
本来の目的である解脱は(記録を見る限り)ほとんど全く達成できていません。
811名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:24:01 ID:wUajKbxE
>>705
なにか誤解するようないい回しだから釈迦の言葉をおいていく。

下劣な法(教え)に親しまないように。怠り(放逸)と共に住まないように。
誤った見解(邪見)に親しまないように。世〔俗〕の繁栄〔を求める者〕として存さないように。

奮起するように。〔気づきを〕怠らないように。善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。
〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、この世において、そして、他〔世〕において、安楽に臥す。

善き行ないの法(教え)を行じおこなうように。
悪しき行ないのそれ(法)を行じおこなうことがないように。〔善き行ないの〕法(教え)を行じおこなう者は、
この世において、そして、他〔世〕において、安楽に臥す。

まさに、自己は、自己の主[あるじ]。まさに、他者の誰が、
主として存するというのだろう。なぜなら、
善く調御された自己によって、得難き主を得るのだから。

あるいは、自己によって為された悪は、自己によって汚れ、あるいは、
自己によって為されなかった悪は、自己によって清まる。清浄と不浄は、
各自のこと。他者が他者を清めることはない(自己が自己を清める)。

たとえ、他者の義(道理)が多くあっても、自己の義(道理)を失わないように。自己の義(道理)を証知して、
自らの義(道理)を追求する者として存するように。

決して釈迦は、善悪などはないから、自己中心的に、自分勝手、好き勝手に生きろとは言ってないんだよ。外道さん。
812無宗だ ◆4eP.G3wMrs :2005/07/28(木) 07:39:28 ID:7oD4Q5i7
>>780
> 浄飯王が心配して送り込んで来たんだよ。
レス、サンクス。
これって、経典に書かれているのですか?

たしかに、五比丘を浄飯王の家臣と考えると、何故つるんでいたかを理解しやすい。
しかし、いかに浄飯王といえども、家臣に出家を命じることはできなかったのではなかろうか?
また、浄飯王の命により仏陀のそばにいたとすれば、苦行を捨てたからといって、仏陀を見限るのはおかしい。

五比丘は浄飯王の家臣であったが、仏陀に丸め込まれ、共に修行をすることになった

と考えたい。
そうした場合に、何を餌に五比丘を出家に引っ張り込んだのか?
四苦の克服が、前途有望な若者に魅力的に見えるとは考えがたい。
この時点では四苦が克服できる見通しは立っていなかっただろう。
ヤサやその友人を引き込んだ時点とは事情が違う。

磯部隆氏は「釈尊の歴史的実像」の中で、仏陀は、
出家してマガダにきたのではなく、
マガダに軍事交渉(対コーサラ用の軍事援助の要請)に来て、
それに失敗し、己の視野の狭さを自覚し、
釈迦族の利害から一旦離れ、全インド的観点に立つことにより
出家をするに至ったと推理している。
磯部隆氏はいう。
「釈尊は、人を争いに駆り立てる衝動を突き破るために、宗教的修道の道に入った。」

はてさて、五比丘の心を動かしたのは、どのような理想だったのだろうか?
813名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 07:47:00 ID:toaYBwcD
はっきり言って、宗教学者の唱える宗教論ほどつまらないものはない。
そんなもの読む時間があれば、ビジネス書でも読んでるほうが、はるかに時間を有意義に使っている。
宗教で重要なのは、”それ”がほんとうにあるのかないのか。
なければ宗教など、世に必要ないもの。聖書も、仏典も、便所が紙ほどの値打ちのない物。
それが本当にあれば、この世の全てをかなぐり捨てても、
追いかけるだけの価値あるかけがえのないもの。本物の宗教の行き着く先は、同じなんだよ。
814暇人:2005/07/28(木) 07:56:43 ID:KG72xXw+
>>813

そーいう発想だと カルトにひつかかる可能性大。
815名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:01:44 ID:toaYBwcD
>>814
他人ではなく、自分をよりどころに、法をよりどころにせよ。という
教えを正しく理解するなら、カルトに引っかかることもないだろう。
816名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:20:03 ID:fen0Zs1U
>>806->>807
質問に答えてないじゃないか?
答えられないんですよ。空=縁起「因果律」ではないんですよ。
空=縁起といったのは竜樹ですか?そこから間違いがスタートしているのじゃない?
 当方はカルトでも信仰宗教のものでもないよ。
 其れから「幼稚に痛い」とか「電波」とかどういう意味の日本語ですか?
釈迦が「綺語」として禁じている「悪」ではないのか?
 もう一度言う。空=縁起「因果」ではない。これの間違いをしているために、
解脱を得られない人が生じるのではないのか・
 縁起を空と勘違いしいる人に救いはない。縁起は輪廻で地獄のことだ。
縁起の世界を観察すれば、其れは無常である、其れは空である、其れは苦しみが
苦しみを生んでいく世界である、そこには主体となる「我」は無い、ということが
感知できるのじゃないのか?この観察以外に清まる方法はない、と教えているね。
 もう一度考えて答えてくれ。 
 >>811
>決して釈迦は、善悪などはないから、自己中心的に、自分勝手、好き勝手に生きろとは言ってないんだよ

悪い世界を嫌がってよい世界を知ったものは、悪いことをして苦しむ気が起きないんじゃない?
善いことしかしないんだと思う。

817名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:27:22 ID:I9Hv6yMl
>>799
論破されそうになって、つぎはその手か?
あんた、我侭に育っただろ?

あんたの根本的な間違い

|渡辺本=渡辺氏が法華経に関して言及した論文・書籍

狂ってるよあんた。
818名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:33:58 ID:I9Hv6yMl
>>752
ID:c6LEz108さんたちから遁走ですか?
暇人みたいにその狂いに拍車を掛けてくださいな。
もっと盛り上げて、盛り上げて。

ガンバレー!!一文2動詞のオサン!!
写本起こしローマナイズ=校訂本のおやぢ!!
819机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 08:40:51 ID:VflI/mMR
>>791
>ここの机氏は、縁起=無自+刹那滅までひっくるめて「空」としょうしているようですが。

無自性とは、自性ではない。ということです。
つまり縁起において生起するから、実体有でもなく実体無でもない。
ゆえに生起するとは生滅を意味する(刹那滅)。→だからこれを無自性。

ようするに因縁仮和合です。
空とは、この有無を離れたことを意味するわけですから、
私の文脈には問題はないかとおもう。

>「空」を涅槃、ニルヴァーナにまで拡大させての説明は、詭弁を感じますね。

これが頓悟なわけです。
直覚とか直観とかしか言いようがないですね。

公案としたら、倶てい和尚がいい。

ある程度でしたら不立文字で説明はできますけど・・・。
820名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:43:19 ID:toaYBwcD
>>816
空の解説。
ttp://www.j-world.com/usr/sakura/buddhism/ku01.html

自性などはない、よって空。という発想が、スタート時点がそもそも大乗の間違いの元なんじゃない。
釈迦が自性などないと言ってるのは、あくまでこの世のことであり、
来世のことまでは無自性だとはいっていない。大乗系の人に言わせれば否定も肯定もしていない。
この否定も肯定もせずあいまいにしたところが仏教の一番の欠点だ。まぁ、あいまいにしたのは
釈迦ではなく、後に経典を残した、弟子達かも知らんが。
おかげで多くの後世の仏教徒達は大いに迷っている(苦笑)
ここの大乗系の人は無記と称して、来世のことは語っていいないなんていうけど、
原始仏典を読むと、普通に語っているんだよね。釈迦も、その直弟子達も。
無論自性についても語っている。不死とは自性のことを言っているのは言うまでもない。

君は引き篭もりニートか、ちゃんと社会に貢献している人か知らないが、
俺は、へーりーくーつ大魔王に付き合うつもりはないのであしからず。後は自分で考えろ。
おまえに答える義務は誰もないんだし。

しかし引き篭もりニートは性質が悪い。彼らは己のそのエゴゆえ、社会に溶け込めないでいる。
821名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:45:39 ID:fen0Zs1U
>>810
>それに対して大乗仏教では禅的な悟りや各種の神秘体験、一定の境地を得ることまではできても
本来の目的である解脱は(記録を見る限り)ほとんど全く達成できていません。

尊師がこの法門を説かれたとき、12億の百万倍の生ける者どもは、諸々の事物に対して、ちりや穢れを離れた清らかな法の目を得た。
24億の生ける者どもは、不げん果を得た。八百の修行僧は執着がなくなって、いろいろな穢れから心が開放された。・・・
 大教より。
 あまり参考にならないかもしれないが、一応反論しておく。
822名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:54:01 ID:dfaXFVdz
>>819
>これが頓悟なわけです。
>直覚とか直観とかしか言いようがないですね。

また出たよ、空理空論が。相変わらずごまかし
言葉では表現できない言語道断の悟りだの、拈華微笑、不立文字、以心伝心と
いった類の「超越的認識」は真理じゃありません。仏教に無知な禅坊主の与太話にすぎません。
時代を経ているので誤魔化しのテクニックが極限まで磨かれ
ているのには、正直、感心しますがね(笑)。
823名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 08:57:23 ID:fen0Zs1U
>>820
なんだニートか?遁走か。
824机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 09:11:23 ID:VflI/mMR
>>805
>そんなら、空って言葉も使わないで欲しい。

四諦の苦集滅道も、彼岸に逝けばその意味も分かってきます。
四諦さえも無である。
(無苦集滅道)→般若心経より

迷いの根本原因がわかってくるのです。
825机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 09:33:08 ID:VflI/mMR
>>822
>言葉では表現できない言語道断の悟りだの、拈華微笑、不立文字、以心伝心と
>いった類の「超越的認識」は真理じゃありません

こういった意味連関そのものが切断されます。
何ゆえ人は思念が湧くのでしょう?
このことが明確に分かってくるのです。

もう、迷うことがない(解脱)が、ニルバーナです。
826名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 09:55:26 ID:Lg4/Ozob
>>825
>こういった意味連関そのものが切断されます。
あんたはもちろんその境地に達したからそのような戯言を話しているんだろうな。
机さん。あんたそもそも見性してるんだろうね。
まずそこんところをはっきりさせてほしいなー。
827名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 10:07:55 ID:/R1Si2sS
空を説明しようとする態度が空でなくなっている。
空について意味不明な薀蓄をたれる人は反省してください。
828机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 10:33:10 ID:VflI/mMR
>>826
スッタニパータにおける「空を観じる」というのは、
こういう意味ですね。

せっかく原始佛教に関心をもっても、この意味が分からないと読んでも意味がない。
それとも何か?
今まで、こういったことは飛ばして読んでたのですか?

それとも何か?
貴殿の自説でもおありですか?

ここに書いてくださいまし。


829名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 10:45:56 ID:8V6oVVvi
>>799
ラムリムね、鶴さん批判ね。

お前の母さんでべそしてるね。恥ずかしくないの?
復元作業と校訂作業とでは別物じゃんか。

>a 現在は、また各写本の正確な形を提示している段階

これって、おかしいと思わないのかな。南条時代から今まで続いてるってか?
そのつど校訂本を出して、新資料が発見されれば更に発展させればいいだけのこと。

pdfとか何とか言ってるけど、非論理的だね。解らないというのならいいけど。
830名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 12:04:49 ID:4gixuIyi
ポイント
a:空は厳密には空性と訳されるべき。
b:ある存在はさまざまな要素・性質から成り立っている。≒無我
c:ある存在は様々な因と縁によって成立・存在している。 =縁起
d:自性とは、「それのみで」ある存在(概念等も含)を成立せしめる要素・性質。
  或いは、ある存在をそれたらしめている「唯一不変」の性質。
e:無自性とは、上記dを否定するもの。同時にbとcをも意味する。≒無我
f:全ては(cに拠るが故に)無常である。

縁起であるという事はd(特に下段)を否定することであり、空(性)が無自性であるならば、
「空なる性質を持つということは即ち縁起している」「縁起しているものは空なる性質を持つ」
との解釈は可能ではなかろうか。>>801

また、中部121小空経(cula sunnata sutta)における空の捉え方はどう受け止めるべきであろうか?
                     ~~


素人考えのレスなので、不備誤謬があればエライ学者さんたちが訂正してくれるであろうw
831名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 12:05:40 ID:s0lTTkWk
デムパ佛教
832机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 13:33:38 ID:VflI/mMR
>>830
>「空なる性質を持つということは即ち縁起している」「縁起しているものは空なる性質を持つ」
>との解釈は可能ではなかろうか。

空というのは、縁起しててもしてなくても空ですね。
空即是色。
つまり縁起というのは色にあたる。

例えば、宇宙が全く存在してなくても空です。
「全く存在してない」という現象ですから。→これを色という。

>>827さんの発言も、まぁ半分くらいは的を得たレスです。
833暇人:2005/07/28(木) 15:07:06 ID:gHSL3Ela
>>817-818
>>829

可哀想になってくるねぇ
具体論を展開できず 悪口に逃げてる。

たぶん自分のどこに問題があるか
それすら 本当に気づかず、(気づきたくないから対論者を無闇に貶す)
閉じちゃってるのねぇ。
834暇人:2005/07/28(木) 15:11:11 ID:gHSL3Ela
でもまあ>>799は どうかなと思うけどね。
試さなくても いいのでは、と。

だいたいきちんと論拠を挙げて 論じられるまともな人たちではないからね
835暇人:2005/07/28(木) 15:19:32 ID:gHSL3Ela
>>792

ご指摘及び「秘鍵」の紹介有難うございます。
殊に密教および禅門には昏いので 勉強になりました。
836机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 15:39:54 ID:VflI/mMR
>>835
ちなみに密教においは、禅における勝義諦を世俗諦とする位置付けです。
世俗諦(空)より〜森羅万象・仏の当体とする。→これが密教における勝義諦。

電波氏は、このことが頭にあったのでしょう。
(電波氏は密教のアジャリ)→自称
だから「臨済宗は最終的に他力」。発言があったかとおもう。
837名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 15:43:06 ID:QBhgfXdX
暇人さんとチベット屋さんにはこの機会に大いに調子に乗って唄いまくっていただきたいもんです。言質を沢山
取るためにもね。

ついでにチベット屋さんには例の研究所にも電話ででも問い合わせてもらえると大変結構ですね。
838名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 16:09:09 ID:I9Hv6yMl
>>837
もう言質は山ほど取れているけど、更に陥れるわけね。
もう殆ど漫才以下ですけど、白けるのがお二人に共通している電波男ジエンギワク。
こういう私にも疑惑が掛かるんでしょうね。ハァ。あなたにも掛かってるかも。

誰かが指摘しておられましたが、チベット屋さんの錯誤は

・『法華経渡辺本』に渡辺氏の論文や書籍に見られる見解をすり合わせて批判
・写本復元作業と校訂作業の区別がついていない
・さらにローマナイズ??????
・辻、戸田が渡辺を批判しているなど捏造した
・写本の写真を出版されないことには校訂作業するな

など数え上げればきりが無いのですが、PDFで写本を出版すべしとはしばらく
お腹を抱えてしまいました。出版自体はいい事なのですが、その支離滅裂、
非論理性があまりにもおかしくて。

あなたの仰るように東洋哲学研究所に電話すれば済むことですよね。これで検証可能になる。
839名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 17:38:03 ID:LVWY2wgy
>空というのは、縁起しててもしてなくても空ですね。

は?????

>例えば、宇宙が全く存在してなくても空です。
>「全く存在してない」という現象ですから。→これを色という。

全く存在してないのなら、現象も、へったっくれもないだろう。
なに言ってんだろうこの人。無は無。
矛盾点を突かれても詭弁で空を正当化。なんでも空空空。なにがなんでも空空空。
あなたは、仏教ではなく熱狂的な空教の妄信者と言う事だけはよくわかるよ。
840名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 17:58:54 ID:TXvJVjyk
>>832
ここまできたら正直いたいね。
ところであんた、「空」に対して相当な思い入れがあるようだが、
あんたは真理が掴みたくて禅やってるのか、
単に自分のエゴをただ満たしたいだけなのか、どっちなんだい?
(自分の考えこそ正しい、この人の空のこだわりは少し奇異な物を感じる)
841名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 18:03:03 ID:c9j57bxp
>>840
机はこの板の名物イロモノですからね。かまわないで放置がいいでしょう。
842暇人:2005/07/28(木) 18:06:59 ID:vYNQUrwU
>>837-838
言質というのは こういうのを言うのだって(笑)

>>747
>で、二万五千頌般若経と八千頌般若経との区別していってる?

アホ丸出しの漫談発言ね。
論旨が読めてねぇのがまるわかり。
中途半端な情報で知ったか舞い上がりぶり。
843名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 18:09:30 ID:dBv6e2br
>>832
色即是空と違う新語ですか?
それともただの阿呆間違いですか?
844暇人:2005/07/28(木) 18:09:52 ID:vYNQUrwU
>>794

に対して 電波支持側は一切の論拠ある有効な対論が出せず、
中傷に走っているわけだから、
この辺が限界みたいね

おつかれさま
845暇人:2005/07/28(木) 18:18:43 ID:vYNQUrwU
ところで自演疑惑ってなに?

オレが書いたのは電波さんが昔
数キャラを演じ分けて2ちゃんで遊んでいたことあるという話なのだが。

自演であろうがながろうが 電波漫才を見抜けず 支持していたら
同類じゃん 
違うキャラだったら一個ぐらい 電波ネタ見抜けって

846暇人:2005/07/28(木) 18:37:18 ID:vYNQUrwU
>>672
>電波の自演だと思い込んで発言しているし

とあるのだが
その直近の暇人の発言>>660-661は、>>501さんに対するもので
電波さんと見なしてないのだけども うむぅ。
何を根拠に「自演」と読んだのかな。

実は「自演」してて 良心が痛んだから?
というのは冗談だが、
キミら少し 被害妄想では?
別に自作自演しょうが 大差ないじゃん。
中身に反応しているのだからさ
(電波さんは過去に自演していた人だから やってもおかしくない)
とは思っているけどね

まあ このスレッドの議論のどーのより
最近出られないが 元気にされていれば それでよい。
847机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 18:45:46 ID:VflI/mMR
>>839
>なに言ってんだろうこの人。無は無。

禅でいう無とは、二辺の無ではないですよ。
よくここのところを勘違いしてる方がいますが。
いや、勘違いというより、大抵は貴殿のような認識しか持ってないのが現状。

あくまでも仏教は中道(空)。
二辺においての話は、これは世俗諦です。

まぁ、こんな話も殆ど解釈は無理かとおもうけど。

848名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 18:51:55 ID:fen0Zs1U
>>830
私もあなたの説明はよく判ります。そして其れに問題感じません。
 私もそのように説明するものと思っていました。
 しかし、其れでは、解脱ということがありますが、この解脱は何から解脱するのでしょうか?
849机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 18:57:51 ID:VflI/mMR
>>843
>色即是空と違う新語ですか?

いや、どうも、あまり意味不明ですので一瞬考え込んでしまいましたw

色即是空と空即是色はセットです。

空即是色というのは、勝義諦から世俗諦を説明するとき空→色、という表記になる。
色即是空は、この逆です。

どうか皆さま、もう少し般若心経に親しんでください。
そうすれば、スッタニパータの解釈も尚いっそう深まるでしょう。
850名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 19:05:28 ID:4gixuIyi
>>机さん
室内の思考をそのまま持ってきても駄目ですよw
翻訳すること、言葉を選ぶことも動中の工夫でしょう?
あなたは竿頭に留まったままに見えます。
ここは道場じゃありません。
851名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 19:07:49 ID:I9Hv6yMl
やっぱりこの人は壊れてるね。誰とお話しているのかわからなくなっている。
般若経ではなにが問題になっているのか解らないでしょう。馬鹿○だし。
852机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 19:09:24 ID:VflI/mMR
>>850
どうも、今は夏休みですので、たぶん厨房とかが書き込みしてるのでしょうね。

話のレベルがかなり落ちてます。
853名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 19:41:56 ID:fQnCbxUW
原始佛教で般若心経を布教してどうするんだw
854名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 19:51:42 ID:jZekqDPz
>>847
>禅でいう無とは、二辺の無ではないですよ。

宇宙が消滅していまえば、二辺の無もくそも無いじゃないか。
生じたものは滅する。無自性
宇宙もいずれは滅する。これが法である。
宇宙が滅すると共に、縁起も、空も消滅する。
禅は二辺の無とかごまかしのテクニックだけは一人前ですね
855名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 19:53:22 ID:jZekqDPz
>>853
彼は自分のエゴを満足させたいだけなのさ。
856名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 20:32:31 ID:fen0Zs1U
>>848
自己レスになるが、解脱とは業からの解脱だ。業とは因果のことだ。
因果とは縁起のことだ。
 空とは空というものがあるのではない。空という観念はない。有無の観念を打破するために空というのだ。
有無を離れた状態を涅槃という。空は涅槃といって良いだろう。涅槃を解脱という。
 縁起から解脱するということは、因果から解脱するということ。
そこで、因果と空が同一のものなら、そして空と解脱及び涅槃が同一のものなら、
因果から解脱するということは、空から解脱する及び、解脱から解脱する、涅槃から解脱する
というばかげた事になる。
 だから空=縁起というのは間違いではないかね。
縁起しているものは自性がないというのは、縁起(因果関係)を認め、その次の段階の「判断」
というべきじゃない?
 
857机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/07/28(木) 20:33:36 ID:VflI/mMR
>>854
>宇宙が消滅していまえば、二辺の無もくそも無いじゃないか。

いやはや、どうも。

>宇宙もいずれは滅する。これが法である。

おそれいります。

>禅は二辺の無とかごまかしのテクニックだけは一人前ですね

お休みなされまし。
858名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 20:43:31 ID:wv99FOrc
>>850
>室内の思考をそのまま持ってきても駄目ですよw
>翻訳すること、言葉を選ぶことも動中の工夫でしょう?
>あなたは竿頭に留まったままに見えます。
>ここは道場じゃありません。

は?
どこが禅道場の思考なんでしょうか?
禅道場に失礼です。
859名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 20:57:29 ID:jZekqDPz
>856
空を涅槃だと邪見するからおかしなことになる。
いちいち涅槃という言葉があるんだから、わざわざそれを空に言い換える必要性
はない。空とは、要は、無自性のことだ。無自性なものに不死の境地などない。

空から解脱することが涅槃に入るで、いいんだよ。
860名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 21:20:18 ID:4gixuIyi
>>858
極論に過ぎ、申し訳ありませんでした。
深謝致します。
861名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 21:29:53 ID:fen0Zs1U
>>859
非常に不真面目w
862暇人:2005/07/28(木) 21:56:52 ID:WtEcPgvi
>>838
対論者の「ローマ字転写より、写真版PDF版がいい」発言に対して

>PDFで写本を出版すべしとはしばらくお腹を抱えてしまいました。
>出版自体はいい事なのですが、
>その支離滅裂、非論理性があまりにもおかしくて。

これも意味不明発言なのだが、オカシイのは838さんだろうな。
かれのことだからPDFはテキストだけと思ってのトンデモ発言が予想されるな。
いろいろマゾ的に我が身を晒しての漫才ネタを感謝します。
863阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/28(木) 22:56:30 ID:Xx8r1ks1
エアチェックした『トリスタン』を聴いてみた。

前奏曲から大植のテンポは速め。アゴーギクを強調しない淡白目の演奏で、師匠バーンスタインの粘着質・
情念的なそれとは対照的。本篇も基本スタイルは同様で、きびきびとした展開。それはそれで悪くないが、表
情付けに乏しく、ストレートすぎて印象を残す。歌手は声質が総じて軽め明るめで、力量の凹凸もあまりなく、
指揮者の音楽的枠組に違和感なく収まっているが、「タントリスの歌」や二幕の二重唱などの聴かせどころも
あまりにも流暢に歌われてしまい、修辞的な面などで物足りなさを覚える。驚かされるのは「愛の死」で、五分
半とはいくら何でも速過ぎではないか。
864阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/28(木) 22:57:31 ID:Xx8r1ks1
板越境誤爆、大変失礼致しましたm(__)m。
865名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 23:04:12 ID:4gixuIyi
お洒落で大人なイメージをアピールするための
故意の誤爆じゃないか?


と穿った見方をしてみたりしてw


       ∩  _, ,_ ァ,、  乙!
     ⊂⌒(  ゚∀゚),、'`
      ァ `ヽ_つ ⊂)  '`
      ,、'` ァ,、  ,、
       '`   '`
866阿呆陀羅經 ◆FBwkMiTy4A :2005/07/28(木) 23:09:36 ID:Xx8r1ks1
実はあちらでも誤爆して恥の上塗りm(__)m
867名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 23:20:18 ID:jZekqDPz
>861
別に不真面目で書いてるわけではないんだけどね。
おたくらは「空」という単語に随分迷わされている。可哀想に。
868名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 23:25:13 ID:4gixuIyi
      _, ,_        痛いジャマイカw
    (つ゚∀゚)O酒    が、実は俺のが年上に1000ヤダヤダ  おやすみ〜
    と__)__)
869名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 23:26:18 ID:4gixuIyi
寝る
870名無しさん@3周年:2005/07/28(木) 23:56:38 ID:I9Hv6yMl
>>862
やっぱり壊れてしまっってるのね。話の内容についていっていない。
871暇人:2005/07/29(金) 00:03:04 ID:WtEcPgvi
>>870

電波発言にどーやって ついていけば よいのか(笑)
872暇人:2005/07/29(金) 00:04:47 ID:WtEcPgvi
>>747
>で、二万五千頌般若経と八千頌般若経との区別していってる?

壊れているというのは こーいうのだね
873名無しさん@3周年:2005/07/29(金) 00:06:33 ID:In7BWxdA
>>867
問題なくわかっていたつもりの般若心経の空ですが、もう一度厳密に考えてみなければ、と思います。
874名無しさん@3周年:2005/07/29(金) 00:09:14 ID:1yF/yJl1
机さんは、本人は良かれと思っていることが、他人に迷惑になっている。
それは、机さんが救われていないことから起こることで
助けてくれということでは無いかと思ってみる。

こちらとしても、なんて会話が噛み合わなくて理解してくれないんだと
不快感だったり、反発の気持ちが少なからずある筈だ。

その負の気持ちはすっかり消化することは出来ないと思うと
自分もまた救われていないなと思うのであった。

釈尊のような導師が必要なのかと思うこのごろだ。
875名無しさん@3周年:2005/07/29(金) 00:36:05 ID:KCPuuvKS
>>862
暇人さん。
>>862
の文章の意味ぜんぜんわからないよぉ。壊れているとしか思えない。
でも暇人さんがabisamayaを始め、何一つ有効な反論が出来ていないことの
自覚が無いのととくらべて、ローマナイズさんは失言を自覚できていると思う。
876禅坊主:2005/07/29(金) 00:47:10 ID:XgLUkTfH
いやちょっと覗いてみたけど皆さん大変な勉強家だ。喧々囂々、群盲撫象、いや失礼。
ところで皆さんそんなに仏教を学んだら出家への憧れが生じません?悟ってみたいとか、解脱したいとか・・・。釈尊の在世中なら、運良く説法を聴聞できる福徳に與かれれば、それだけ解脱できたでしょうが、今の世じゃ出家するしかないでしょう?
いや何も私ら「非仏教」の日本仏教で出家しろと言っているのではない。タイでもミャンマーでもスリランカでも良いから、正師のもとちゃんと具足戒を受け、阿羅漢になるため精進したいと思わない?それとも学会での地位とかのほうが解脱よりも魅惑的なんでしょうか?
私見ですが、仏典は料理の本みたいなもの。料理の本を読めばばまずは「こんな料理をいつか作ってみたい」と欲する。次に実際に作る段階に至り、最後にそれを自身で味わう。そんなもんじゃないですか?
あっ、でも「見ているだけで満足」とか、「作り方にのみ興味がある」とか、「空想で作ってみて満足」とかの人もいるか。それに料理がマズイ料理研究家もいる。まっ、そういう料理本の楽しみ方もアリか・・・

877禅坊主:2005/07/29(金) 01:05:23 ID:XgLUkTfH
おはようございます。今猛烈に眠たい!

さて先ほどは、おめざ代わりに朝から下らぬことを書いてしまいました。
書いた後ですが誠に申し訳ございませんでした。
御仏に懺悔いたします。
これからも皆様ご精進下さい。
皆様に三宝の御加護がありますように。

878暇人:2005/07/29(金) 01:55:08 ID:wH/3rJWl
>>875

んじゃ>>838さんが
なにをもつて
「支離滅裂、非論理性」と言われているか解説してみそ
それを考察したら キミが壊れているが自覚できるかもよ

>何一つ有効な反論が出来ていない

あはは 三個ほど どう反論できてないか具体的
書いて味噌 キミらは具体論なき 中傷だけ
まともな対論できないから 漫談大会にしたいみたいだけど
まあキモチは察するが お茶でも飲んで 冷静になつてね
879名無しさん@3周年:2005/07/29(金) 01:59:46 ID:KCPuuvKS
>>878
PDFがテキストとか変なこと言ってるおじさんに説明しても無駄だよ。
880暇人:2005/07/29(金) 02:08:22 ID:wH/3rJWl
>>879

言ってないよ。文意もわからんのか。
電波派がそう思っているのだろうと推定しているだけ

>PDFで写本を出版すべしとはしばらくお腹を抱えてしまいました。
>出版自体はいい事なのですが、
>その支離滅裂、非論理性があまりにもおかしくて。

これ説明してみ できんだろうが
電波派はこの発言の責任持った説明できんだろう

881暇人:2005/07/29(金) 02:10:37 ID:wH/3rJWl
「ローマ字転写より、写真版PDF版がいい」のどこが

@支離滅裂か
A非論理性があるのか

きちんと説明してみなされ。
できずに また説明責任放擲して逃亡だな
トンデモ系だしね
882暇人
もうさ>>1
>自説の主張に際しては、最低限の論拠や根拠を併せて提示されるようお願い申し上げます。

をはずせ。
電波派は一貫して 守らんから 羊頭狗肉だな