1 :
我 ◆82SSORBSMo :
マタイ7:13−23
ペンテコステ教会に行っていた者が、しばらくの間、
私が行っていた教会に来ていたことがある。
ウソばかり言い、狂信的な言動を繰り返す異常者だった。
アル中で、酒を飲んで教会にやってくる。
しかも、頻繁に「骨折した」「病気になった」と言っていた。
骨折している割りには、狂信的なことを言って、はしゃぎ回ったり、
上手に酔っ払い運転をしていた。
「怪我をした」「病気になった」という妄想と「癒された」
という妄想が交互に生じているだけなのだ。
全てのペンテコステ関係者が、普段から狂信的に振る舞うわけではない。
同じ狂信者でも、自分が狂信者であることを隠すのが上手い者と、
平気で狂信的に振舞う者とがいるのである。
他のペンテコステ関係者で「ソープランドに行きたくて我慢できない」と
言う者を知っている。
聖霊のバプテスマを受けてソープランドに行きたくなるとは変な話である。
それは聖霊のバプテスマではなく、悪霊のバプテスマなのだ。
そいつは、カルトに深入りした者のように目の焦点が定まらず、
空中を見ている場合が多い。
頭は良いらしいのだが「自分の属する教会は変なのではないか?」
「自分は教会で悪霊と交わっているのではないか?」と考えることを
完全に怠っており、頭が良くても救い難いほど愚かなのだ。
続く
>>1-30
2 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 11:41:35 ID:a6kDYDM1
3 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 11:47:17 ID:a6kDYDM1
ペンテコステ関係者でも、主に用いられる場合があるではないか?
聖徒は聖霊の宮である。
エルサレムの神殿は
神がおられる至聖所
選民がいる聖所
異邦人がいる外庭
に別れている。
聖徒は悪霊に取り付かれても、あらゆる面で罪を犯すわけではない。
あるときは外庭の悪霊の声に従い、
あるときは至聖所の主に用いられるのである。
異端視されている久保有政が、日本に創造論を広めるために
誰よりも用いられているような例もある。
ペンテコステ関係者が、ある面において主に用いられていることを
見聞きしても警戒しなければならない。彼らの多くは悪霊と交わって
喜んでいる異常者なのだから。
参考文献
ICM出版「悪霊に打ち勝つ方法」
http://www.icmpress.org/new_top3.html http://www.icmpress.org/cataloguej.html
4 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 11:54:32 ID:a6kDYDM1
5 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 11:56:11 ID:a6kDYDM1
■■■■■■■■■■■■■■■■
冒頭はここまで
マタイによる福音7章1〜5節
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 」
*『兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。』
まさにそうです。
他の人の欠点や過ちには敏感で、いちいち言い募ります。
しかし、自分に非があるとは思わないのです。
7 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 21:35:47 ID:T4qPSBJf
8 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/21(火) 21:39:22 ID:T4qPSBJf
9 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/22(水) 20:19:53 ID:5rY2lgob
マタイによる福音7章1〜5節
「人を裁くな。あなたがたも裁かれないようにするためである。
あなたがたは、自分の裁く裁きで裁かれ、自分の量る秤で量り与えられる。
あなたは、兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。
兄弟に向かって、『あなたの目からおが屑を取らせてください』と、どうして言えようか。
自分の目に丸太があるではないか。
偽善者よ、まず自分の目から丸太を取り除け。そうすれば、はっきり見えるようになって、
兄弟の目からおが屑を取り除くことができる。 」
*『兄弟の目にあるおが屑は見えるのに、なぜ自分の目の中の丸太に気づかないのか。』
まさにそうです。
他の人の欠点や過ちには敏感で、いちいち言い募ります。
しかし、自分に非があるとは思わないのです。
1986年の新年、特別な信仰体験を持ちました。あるキリスト教の集会で祈っているとき、神様に犯した
罪が一つ一つ思い出され、泣いて悔い改めました。その時、突然日本語でない言葉が自分の口から出てき
ました。とめようと思ってもとめられないのです。話には聞いていましたが、これが「異言のともなう聖
霊のバプテスマ」かとはっきり分かりました。神様の圧倒的な存在感に包まれ、大きな喜びに満たされま
した。神様への感謝の気持ちが日本語にならないのです。聖霊に満たされるとはこういうことかと実感で
きました。それまではどちらかというと頭でっかちの理性的な信仰でしたが信仰生活に力がありませんで
した。しかし、この時から信仰というのは体験を伴っていのちになるのだと悟りました。信仰には神秘的
な面があるものです。わたしにとってこの体験は終生忘れられない神からのプレゼントです。思い出すと
今でも心が燃えます。ある面、洗礼を受けたときよりも深い感動でした。
12 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 13:39:28 ID:NTe6SZBm
13 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 13:46:04 ID:NTe6SZBm
>>11 その体験自体、聖霊のバプテスマなのか、悪霊のバプテスマなのか、
判断しかねる。
仮に、それが本当に聖霊のバプテスマであったとしても、
異言は全て聖霊によるものということにはならないのである。
14 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 13:50:53 ID:NTe6SZBm
>>10-11に質問する。
冒頭で述べた通り、
どうしてペンテコステ関係者にはアル中が多く、
ソープランドに行くことを我慢できないのか?
彼らの異言は、聖霊のバプテスマなどではなく、悪霊のバプテスマなのだ!
他に、どんな説明が付くのか?
15 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:00:38 ID:NTe6SZBm
16 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:01:04 ID:NTe6SZBm
しばらく前から悪霊の問題を抱えている人たちをカウンセリングする場合には、もしその人がペンテコステ派やイエス運動や現在のカリスマとの親密な関わりや、あるいはそれに対して何気ない興味以上のものを持っているなら、必ず偽の異言を調べてみることにしている。
もしその人たちが異言で語るならば、いつも必ず調べ上げる。このような人々の異言は、全て一貫して悪霊によるものである。
このことから、異言で語ることがすべて悪霊によるものであるという結論に飛び移らないでいただきたい。私たちは、正当な異言にも出会ってきた。
しかし、異言で語る人が悪霊の問題を抱えていたり、異言で語るよう何らかの方法であやつられたりしている場合は、たいていその異言は偽物である。
17 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:01:30 ID:NTe6SZBm
異言が語り始められると、語っている霊に、誰を王としているのか言うように命令する。最初は必ず「イエス」という答えが返ってくる。けれども、真実を言うようにと問い詰められると、偽の悪霊は次第に悪魔が自分の王であることを認めるか、答えを拒むようになる。
また「異言」の悪霊に立ち去るように命じた時に、その悪霊が出て行く様子が体に現れ、それとともにその人の異言で語る能力が失われるならば、それが最後の証明となる。
ここで警告しなければならないことは、もし悪霊から解放された人が依然として異言で語ることを望み、またそうしようと試みるならば、悪霊はすぐに戻ってくるということである。多くの悪霊の問題と欲求不満を抱えた中年の母親から異言の悪霊を追い出したことがある。
彼女は異言で語ることをあまりにも重んじてきたために、その異言が悪霊によるものであったということを知り、彼女は打ちひしがれてしまい、それが偽物だったという事実を、なかなか受け入れられなかった。
悪霊を追い出した後で、私は彼女を励まそうとして、異言で語ろうとしてみるように言った。彼女は異言で語ることができなかった。そこで、彼女は泣き出した。「でも、私はどうしたらよいの?私はあの賜物が欲しいのに。」少しすると、異言が戻り始めた。
私はただ、彼女に聖書を指し示し、神の子供が異言や他の賜物を求めるように命じられている箇所はどこにもないのだと教えた。これは聖霊が見落とされたわけではない。それは、私達を悪霊の侵略から守るために、神が与えてくださった多くの安全装置の一つなのである。
聖霊の賜物はまさしく賜物であり、神の、聡明で恵み深い御手より賜るときに、贈り物として受け取るべきものなのである。私たちが、神より聡明だということはないのである。どうしてその私たちが、神の賜物の配分のなさり方を左右しようとすることなどできるだろうか。
そのような願いは、邪悪な肉の心から起こり、無学な説教者たちの無知によって奨励されているのである。
18 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:04:36 ID:NTe6SZBm
聖霊は悪霊の真似をなさることはないが、悪霊は聖霊を真似る。幾つかのテストをしてみる。お決まりの文句のTヨハネ4:2「おまえは、キリストは肉体をとって来られたと告白するのか」というのは、ここでは不適当である。
悪霊は見つけられないためなら、これを認めるだろう。異言で語る人の場合には、誰が異言で語らせているのか悪霊に話すように要求する。
いつも最初の答えは「イエス」である。時々は、二、三度、あるいはそれ以上にわたって悪霊に、「おまえは偽りを言っている」と告げ、真理を語るように命令してやっと、異言の裏にある特定の悪霊が潜んでいるということを認めるときがある。
それから、私はその悪霊か、あるいは単に、「異言」と呼ばれる悪霊を呼び出す。その後の質問によって、異言の悪霊が悪魔を王としており、主イエスを憎んでいることが明らかにされる。
悪魔が、聖霊の賜物を偽造することができるということは、私たちのうちほとんどんどの者がずっと知っていたことであるが、しかし、そのことに気づき始めた時にはいささかショックを受けた。
初めて「愛」という悪霊がが現れたとき、この悪霊が嘘をついているのではなく、本当にその名前が「愛」なのだということを私が確信するまでには、しばらく時間がかかった。もちろんそれは偽の愛であり、たいていは「苦痛」とともに働いている。
その存在目的は、自分の犠牲者を傷つけ、絶望に至らせようというものである。それ以来、これはかなりひんぱんに見うけられる悪霊だということがわかってきた。また、「偽の幸福」の悪霊もひんぱんにみられる。
「偽の平安」は、もっともらしい見せかけの平安で、長続きせず、ただ人に偽の安定感と幸福感を与えることによって、他の悪霊たちが邪魔されることなく活動できるようにする。
19 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:05:09 ID:NTe6SZBm
始めて「イエス」という悪霊に出くわした時、私はいささか当惑させられてしまった。私が語りかけていた悪霊は、イエスは自分と一緒にここにいると主張しつづけていた。
私はこの悪霊に、おまえは嘘をついているのだと告げてみたが、悪霊はただ、自分は真理を語っていると断言し続けるだけだった。・・・私に真理がひらめいた。
イエスはその中にいるのだ!イエスという名の悪霊が。・・・私の言っているイエスとは、栄光の主なるイエスであるとはっきり指摘しなければならなかった。ただちに、あざ笑う声は止み、悪霊たちは主の主、王の王なる方の御前に震えあがったのである。
もちろん悪霊は偽りを言う。そのため、ダブルチェックしてみるまでは、悪霊の言う答えを信頼してはいけない。チェックをする幾つかの方法がある。
悪霊はある面においては知的で賢いが、他の面においてはかなりまぬけである。時々「そこにいるのか」という質問に「いない」と答えたりする。・・・主イエスの権威によって、悪霊に真実を告げさせることができる。
しかし、真実を告げるように命じなければならない。そこで時々、私たちはこう尋ねる。「その答えは、裁きの時にイエスの御前にたちおおせるか」もしそれが偽りだったならば、ほとんどの場合に、彼らは「いいえ」と答える。そうすれば、また、真実を告げるように命じる。
私たちが必要とする悪霊からの重要な情報は、他の悪霊たちの存在とその権威の順列に関することである。
20 :
我 ◆82SSORBSMo :2005/06/25(土) 14:05:36 ID:NTe6SZBm
偽の異言の悪霊を見つけ始めた頃は、それらを探していて、見つけたというわけではなかった。ただ、十歳の少年からすべての悪霊を徹底的に追い出そうとしていただけだった。彼の中にいるすべての悪霊の名前を問いただしていた時に「異言」という名前が出てきた。
いつこの少年の中に入ることが出来たのかと問い詰めてみると、それは、二年前の夏のアッセンブリー・オブ・ゴッドの青年キャンプで「聖霊のバプテスマを受けなさい」という招きにこの少年が応じた時だったということがわかった。