★★★この世に宗教はいらない★★★part2

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「教義(経典)における問題点」

教義は人間にとって都合の良い言葉が並べ連ねられているので信じる者にとっては好都合にしかなりません。
地球と同じぐらい火星の存在に感謝している人はいないでしょう。
しかし火星も神が創ったものであれば同じように感謝しなくてはいけないはず、
もし地球に住めなくなり火星に住むようになれば、今よりもっと火星に感謝することでしょう。
人間の都合によって感謝する比重も変わるのです。
神に対する感謝も人間の都合に合わせた感謝でしかありません。
これは人間のエゴと言えるものです。
人間である以上多少のエゴがあるのは当然ですが、
教義には人間のエゴが凝縮されています。

教義における問題点をまとめると次のようなものです。
・完成度
・記述方法
・残虐性
・超越的存在
・排他性
・過度性
472220:2005/06/19(日) 22:22:08 ID:n8AbCiqT
■完成度
科学も宗教も多くの人により支えられてきたという点では同じですが、
完成度はあまりにも違い過ぎます。
科学は新しいもので、宗教は古い伝統がるものと思っている人もいるかも知れませんが、
学者が作ったものだけが科学ではありません。
初期の人類が言葉や道具や火の使い方を編み出したのも科学です。
生活の多くの知恵の積み重ねが科学と言えるでしょう。
科学は何十億人〜何百億人?の血と汗と努力の結晶の積み重ねですが、
一つの宗教の教義は1〜何十人程度で作られたものに過ぎません。
それに経典は一度書き終えてしまうと「神が書いた」などという理屈で、
問題が見付かったとしても訂正することさえ儘(まま)ならないのです。
キリスト教の一番の失策は、旧約聖書からの拡張(新約聖書)を試みたということでしょう。
ゼロから作り直せばもっとマシな物になったのでしょうが、
基がヒドイので理論にムリが生じており改善できていません。
それに神を唯一の存在としたいがために「三位一体」というワケの判らない余分な理論まで付け足す羽目になってしまったのです・・・
473220:2005/06/19(日) 22:22:43 ID:n8AbCiqT
■記述方法
・史実的表現
・難しい言葉や表現
・曖昧な言葉や表現
これらにおける良い点は、信憑性や説得力を持たせることです。
信憑性を持たせる最善の策は、史実と認識させることでしょう。
しかし聖書などを正式な歴史書と認めている人は少ないと思いますが・・・
難しい言葉や表現を使うのも有効的です。
難しい言葉や横文字を並べられるとワケも判らず妙に納得してしまう人もいます。
未知なるものに神秘性を感じてしまうのも同じです。
欠点としては、
難しい言葉や表現は理解の妨げになります。
史実的表現は文章を長くし要点を見え難いものにしてしまいます。
この世の中で最も優れた記述方法は箇条書です。
聖書の教えの要点を纏めて箇条書にすると、おそらく数行程度にしかならないでしょう。
小さな子供にも判り易いように説明できることが理想と言えます。
一番マズイのは曖昧な言葉や表現です。
これは理論体系の不完全さの表れです。簡潔性の無い証拠です。
基本的に宗教用語は解釈が難しく定義が曖昧なのですが・・・
教義は人によって違う解釈を与えるものであってはいけません。
違う解釈を与えると言うことは、人間のエゴが入り込む余地を与えていると言うことです。
多くの宗派を生み出す原因となります。
宗派が増えることは摩擦や火種を増やすことに繋がるのです。
教義は国家憲法のように堅牢なものであることが理想です。
多少の抜けがあったとしても簡単に悪用されるものであっては困ります。
474名無しさん@3周年:2005/06/19(日) 22:24:33 ID:7OsNvRlp
>>468
>あなたはこれまで一度も神社などに参拝したことがないのですか?

日本人にとっては、寺社参拝は単なる風習と観光。神仏が実在するなどと思っている
人は誰もいないとおもうよ。人出や閑静な感興、豊かな自然、美術品としての建築物
や仏像を楽しみ、帰りには名物の美味しいものを食べる。日本人にとっては、それが
神仏なのです。

福沢諭吉は、年少時、神様が本当にいるかどうか確かめるために、神社のお札を
踏んづけ、挙句の果てには小便を引っ掛けてみたが、何の祟りも起きず、それどころ
か、日本史上の偉人として大成しました。偉くなる人は、年少時からやはり賢いですね。

葬式もやはり風習。位牌の後ろから、死んだ人の霊がにょっきり現れるなど思って
いる会葬者は誰一人としていないよ(笑)。
475220:2005/06/19(日) 22:34:11 ID:n8AbCiqT
■残虐性
聖書などを見ると残虐的な箇所が多々出てきます。
当時の人間のモラルとしては致し方が無い事なのでしょうが、
それでも旧約聖書はマズイと感じたのか新約聖書になると残虐性が減少しています。
当時の人間としては敵とする人間を倒すことは正義なのかも知れませんが、
現代人に通用する理論ではありません。とても平和的とは言えません。
経典というものは頭の良い人間だけが読むものではないので、
残虐的な表現部分を神の教えと受け取る人もいるかも知れません。
百害有って一利無しと言えるでしょう。
伝統宗教の教義は当時の人間のモラルを土台として書かれているのです・・・
聖書の残虐性(http://www.hpo.net/users/hhhptdai/kami.htm

■超越的存在
超越的存在とは、いわゆる神や天国などです。
神や天国は人間にとっては非常に都合の良い存在です。
まあ、そのように人間が想定しているので当然なのですが・・・
人間の精神的な救済や道徳心を養うという点では友好的な手段かも知れませんが、
これは人間自身の問題で、人間の手で解決できない問題ではないはずです。
人間の手では解決できないとすると、神がそのように人間を創ったとでも言うのでしょうか?
信仰心を持つことで善良な人間が沢山増えるということであれば社会的にも良いのですが、
神のような人間の理解を超えた存在を教義の支柱に置くことは次のような弊害を生みます。

・人間の理解を超えた存在を理論体系に興すには、余程の慎重さがないと理論の不完全さに繋がります。
・人間の理解を超えた存在をムリに信じ込もうとすることがマインドコントロールとなり、カルト教団に悪用されてしまいます。
・神などの存在を証明できない。
・神の定義数で対立関係が生まれます。(一神教vs多神教)
・神に名前を付けた時点で、他の宗教の神との対立関係が生まれます。(キリストvsアッラー)
・神による加護を信じても悲惨な事故や病気に見舞われます。(敬虔な信者ほど失望は大きいでしょう)
・神を教義の要とし、神を擁護する理論で固めるあまり人間軽視になってしまいます。
・天国という安息の地を与えることで、自殺に対する恐怖を薄めてしまいます。(自爆テロなど)
476220:2005/06/19(日) 22:34:31 ID:n8AbCiqT
■排他性
これが宗教問題を引き起こす一番の要因だと思います。
教義の中で最も人間のエゴが凝縮されているところです。
コーランには「ユダヤ人やキリスト教徒を仲間にしてはならない」と書いてあるそうです。
細かく見ると他にも有ると思いますが次のようなものです。

・独自の世界観。(幾ら友好的な信者の方でも少し距離感を感じます)
・自分達の教義の真理こそが正しいと信じ込む。(「正しい」から「正義」に意識が変化すると黄色信号です)
・人間は神によって選ばれし存在であり、宇宙も人間のために創られ、他の生物とは同列ではない。(ウルトラナルシストです)
・信者以外の者は救済されない。(布教手段です)
・我が民族こそが神によって選ばれし存在である。(選民意識や民族浄化)

「全人類の幸福と平和を望み個人を尊重すること」と言う考えを基に教義が作られていれば大きな問題は起きないはずです。
子供に伝えるとすると「他人に迷惑を掛けてはいけません。困っている人を見たら助けましょう」といったような感じでしょうか。
既存宗教でも「如何なる理由があっても他者を殺す者は地獄に落ちる」と言う脅し文句を教義に加える事ができれば効果覿面だと思うのですが・・・

■過度性
他人に迷惑を掛けないからと言って命を粗末にしてはいけません。
行き過ぎた考えは逝き過ぎに繋がります。

・菜食主義などの食事制限(食糧危機は乗り越えられません)
・他の動物の血を入れない(輸血拒否など)
・修行僧の苦行(即身仏など)