α〓〓単性論異端に救いなし〓〓ω

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1Andrea ◆xLEa2O8Cds
本スレッドは、単性論異端の排斥を目的とするものです。
以下は、マリア崇敬批判者の典型的な誤謬です。
ご注意ください。

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1105172441/906-907-n
906 :名無しさん@3周年:05/01/23 00:07:11 ID:H6q4WvLn
>>901
キリストは人性に於いて完全に死にました。

907 :おたあ ◆wHb3.gs/E2 :05/01/23 00:08:45 ID:kl8rn2SW
>>906
神性において死を味わった もね

http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1106450104/36-n
36 :おたぁ ◆OwjWTI5Ujw :05/01/23 16:19:52 ID:kl8rn2SW
『食卓語録』の中で(32)、ルターは、十字架上でキリストの人間性だけが苦しんだという思想に反対して、
キリストの人間性のみならず神性も苦しみ、かつ、死んだと言っている。これは明らかに、キリストにおける
神性と人間との間の属性の交通から由来したルターの発言であるが(略

こちらの方がまともです

以上の、おたあ◆wHb3.gs/E2もしくはルターの信仰の内容に単性論の誤謬が見られます。
>>2-n以降のソースを参照してください。
2Andrea ◆xLEa2O8Cds :2005/04/17(日) 13:51:16 ID:kgQdcoJx
東方正教会およびカトリック教会は、
十字架上で苦しみ死んだのは神性においてではなく人性においてであるとしています。

「十字架上の死」
主の公生涯の終りに十字架上の死が待ってました。
これは神父(かみちち)の正義の要求でもありました。
主は人間の罪をつぐなう方法として、神と人との仲保者の立場から死を選びました。
その主の十字架上の受難と死の効力は全人類に及ぶ救いとなりました。
信者はこのことを信じ、主の教えを疑わず従うことが大切です。
信経には「十字架に釘うたれ、苦しみを受け」とありますが、イイススの苦しみは真の現実の苦しみであり、夢や幻ではないことを示しています。
「葬られ」とつけ加えられていますが、これは確実に死んだことを示しています。
苦しんで死に、葬られたのは主の人性であって神性ではありません。
神性は地獄にくだって聖人らの霊を救い出し、十字架の右の盗賊が自分の罪を認め悔い改めたとき、主は彼を楽園に導かれました。
復活祭の聖歌も「ハリストスよ、汝同じ時に体にて墓に寝(い)ね、霊にて地獄にくだり、盗賊とともに天国にあり、父と聖神とともに宝座にいませり。満たぢるところなき神なればなり。」
とこの事件を歌っています。
「正教要理、日本ハリストス正教会教団、1952、p.51」
3Andrea ◆xLEa2O8Cds :2005/04/17(日) 13:52:13 ID:kgQdcoJx
http://www.d-b.ne.jp/mikami/catech.htm
111 イエズス・キリストは神性に於てお苦しみになり、おなくなりになりましたか。
イエズス・キリストは神性に於ては、お苦しみになることも、おなくなりになることも出来ません。
それは全く人性に於てであります。然しイエズス・キリストは天主の御子でありますから、その御苦しみの功徳は限りがありません。叉、その御業は、どのように小さくとも、限りない功徳となるのであります。
「公教要理、カトリック中央協議会編集、1952」
4Andrea ◆xLEa2O8Cds :2005/04/17(日) 13:52:47 ID:kgQdcoJx
カルケドン公会議 451年10月22日第五総会において採択されたカルケドン信条>>4-5の序文抜粋。
・・・処女が神の母であることを否定している。他の者は一つの本性の混合を導入し、愚かにも人性と神性は一つであると主張し、
この混同によってひとり子の神性が苦しんだと言っている。
・・・また、古いローマの司教レオがエウティケスの誤謬を滅ぼすためにフラビアヌス大司教にあてた書簡を、
ペトロの信仰宣言に合ったもの、邪悪な教説に正しい教義を教えるものとして受け入れる。
「H. デンツィンガー編集, A. シェーンメッツァー増補改訂, 浜寛五郎訳, “カトリック教会文書資料集 改訂版 : 信経および信仰と道徳に関する定義集,” エンデルレ書店, 1996.」

カルケドン信条を起草し採択した23人の教父らが、「愚かにも」と形容したのは、明らかにおたあ◆wHb3.gs/E2 やルターたちの思想のことです。
更に、彼らは公会議の中でレオ一世教皇のフラヴィアヌス書簡の正統性を認めていますが、
例の書簡では救主の十字架の苦しみが神性とは別の人性によるものとはっきり断言しています。

だから他にも多くの例がありますが、死んでしまった友のことを憐れんで泣き悲しむことと、埋葬後四日目も経った墓の石を取り除けさせ彼に命令を与え、生き返らせること、
十字架にかかったことと、昼を夜に変えて全地を震わせたこと、
また釘にはりつけになったことと、信仰を示した盗人に楽園を開けたこととが、異なる本性に属するように、
「レオ一世教皇 フラヴィアヌスへの書簡、中世思想原典集成〈4〉初期ラテン教父、上智大学中世思想研究所 (翻訳)、平凡社、1999年」

カルヴァンはカルケドン公会議の正統性を著書の中で認めています。

そういうわけで、ネストリウスは当然エペソ会議で断罪された。そして、それと同様、後年、コンスタンティノポリスとカルケドンの会議でエウティケスは断罪された。
すなわち、キリストにおける両性を混同することは、これを分離することにおとらず許されないからである。
「カルヴァン キリスト教網要U、渡辺信夫訳、新教出版社、昭和37年」