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Andrea ◆xLEa2O8Cds :
2005/04/10(日) 13:25:40 ID:v3vxPO28
ヘブライ語の「兄弟」は近親者、いとこ、夫、同族、同僚、友など広い意味あり。
http://westover.searchgodsword.org/dic/sbd/print.cgi?number=T837 福音書にある「イエスの兄弟」の兄弟(アデルフォス/アデルフィ)も同じ意味。実の兄弟とはどこにも書かれていない。
マタ13:55
彼の母親はマリアで、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
マコ 6:3
…マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。
この2箇所の記述からはヤコブとヨセの母はイエスの母マリアのように読める。だが、さらなる記述は別のマリアであるという。
マコ15:40
その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメもいた。
マコ15:47
マグダラのマリアと、ヨセの母マリアは、イエスの収められるところをよく見ていた。
マコ16:1
マグダラのマリアと、ヤコブの母マリアと、サロメとは…
上の3つの記述は、キリストの「兄弟」といわれる(小)ヤコブ、ヨセ(フ)の母が、イエスの母マリア以外の別マリアであることを傍証している。
マリアは花子と同じほどありふれた名前だったために、だれそれの母、だれそれの妻と、常に差別化を図る必要があった。イエスの母マリアは常に「イエスの母」と書かれているので、上記のマリアは別マリアである。ではどのマリアか。
マタ27:55
そこには、遠くから眺めている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤから付いて来た女たちだった。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
ヨハ19:25
イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていた。
この二つの個所から、小ヤコブとヨセ(フ)の母マリアが、イエスの母マリアの姉妹であるマリア・クロパであることが証明される。
クロパとアルパヨとはアラム語において同義であるから、クロパの妻マリアとはアルパヨの妻マリアである。
したがって、アルパヨの子のヤコブ(マタ10:3、マコ3:18、ルカ6:15)は小ヤコブである。
さらなる証明 マタ10:3 アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンと… マコ3:18 アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモン、… ルカ6:15、16 アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダと… 使徒1:13 …アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンと、ヤコブの子ユダであった。 以上の記述から、ユダはタダイと同一人物であることがわかる。 新改訳でもヤコブの子はヤコブの兄弟と別訳してあるくらいだから、 ユダ、ヤコブ、シモンは、アルパヨの息子である。 ユダも自らを、「主のしもべ、ヤコブの兄弟」と書いている(ユダ書1:1)。 結論: イエスの兄弟といわれる四人は、詳細に調べるとイエスの母マリアの姉妹、マリア・クロパの子供であり、イエスの従兄弟。従兄弟でも兄弟には変わりないけど何か。w だいたい、「イエズスの兄弟」といいますが聖書のどこに「実の兄弟」って書かれてるわけ? アデルフォスには兄弟のほかに、近親者、異母兄弟、いとこ、同族、隣人、利害を同じくする人、同じ召し出しを受けた人、信徒仲間など広い意味がありますが何か。「実の兄弟」だって書いてある聖書の箇所があれば出しなさいよ。異端者ども!
悪あがきはやめて。改革者もマリアの終生童貞を告白してますがなにか。
http://mariology.com/sections/reformers.html マルチン・ルター
「マリアは神の母にして処女である。これは信仰箇条である」(Martin Luther, op. cit., Volume 11, 319-320.)
カルヴァン
「マリアに何人も子供がいたという、ヘルビディウスは、無知過ぎる。幾つかの箇所で、それはキリストの従兄弟であると示されているからである。」
(Bernard Leeming, "Protestants and Our Lady", Marian Library Studies, January 1967, p.9. )
ツウィングリ
「私は、神のおん母、永遠に純潔なる、無原罪なる、童貞マリアを篤く敬う。キリストはいとも清き童貞からお生まれになった」(Stakemeier, E. in De Mariologia et Oecumenismo, Balic, K., ed.,
Rome, 1962, p. 456.)
ジョン・ウェスレー
「私は信じる…イエス・キリストが祝されし童貞からお生まれになったことを。マリアが、主をおうみになってからも、純潔かつ、染みなき童貞であり続けたことを」
("Letter to a Roman Catholic," quoted in A. C. Coulter, John Wesley, New York: Oxford University Press, 1964, 495}