858 :
名無しさん@3周年:
毎回のことだけど、どうも無我の話になると、中道という言葉を使って
結論が出ることを避ける人がいますね。
釈迦は中道を説いている。
しかし同時に無我(an-aatman)も説いている。
これは矛盾じゃないか、と。
有無の独断に陥ることなく中道を貫くというのは、形而上の存在や
概念に対する姿勢のことであって、現実については無常であると
断言できるし、無我であるとも断言できるんですよ。
中道は、あいまいにして結論から逃げることではない。
話をはぐらかすことでもない。
だいたい
>有無や断常の二辺を離れる中道からいけば、
>アートマンがない、というのは断見になるような気がします。
という発言をする人は、真我を信じている人か、オウム(アーレフ)
の教義に影響を受けていることが多い。
カネゴンやぼんちリンポチェがよく言う、「有でも無でもなく、またそれ
以外でもない」などという曖昧極まる表現に、麻原色が強く残っている。
859 :
snafkin:2005/04/10(日) 11:36:45 ID:9eNJpTPK
釈尊は、検証主義であり、検証できないことについては語らなかった。
ゆえに、釈尊にとって一切とは、経験できることの一切であり、それら
の一々がアートマンではない、という言い方をされた。非我説である。
「アートマンはない」という言い方は、検証できないものを否定するという
誤謬をおかしている。釈尊は一貫して、あくまでも、これこれのものは無常であり、
アートマンとは認められないという言い方をされたわけです。実に明確です。
こうして「一切」を検証し、「一切」はアートマンではないと結論づけたわ
けです。
検証できないアートマンを最初に立ててしまって、それがあるとかないとか
言う議論は水掛け論になってしまうわけで、釈尊はそのことを見抜いていたから
わざわざ非我説という回りくどい方法をとったわけです。
>素晴らしい経典は残っている しかしそれを体現した人がいなかったというのが
>教組が既成宗教に失望した理由
本を紹介しましょう。
『さとりへの道−上座仏教の瞑想体験−』鈴木一生 春秋社