836 :
名無しさん@3周年:
>>829 >伝統仏教とオウム教義の内容が違うとしよう。
>何をもって伝統仏教は正しいと言いますか、
>何をもってオウムは間違いと言いますか。
簡単だよ。
どちらが原理原則に則っているか、どちらが違反しているのかを
見るだけのことだから。
答えは、
「縁起の法」に則っていることをもって真理と判断する。
なぜなら、原始仏教では「縁起の法」こそが「真理」だと考えてい
るから。
↓次のレスで原始仏教が主張する「真理」とは何かを説明する。
837 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:03:03 ID:ntDRezSQ
「真理」とは
「真理」とは、ものごとはすべて、相互依存関係で成り立って
おり、そのもの単独で成り立つものはなく、一方が変化すれ
ば、もう一方も変化する。こうして常に、一切は変化し続ける
(無常)ということ。
仏典にいわく、
「これあるに依りて、かれあり」、
「これなきに依りて、かれなし」という、単純明快な因果関係。
釈迦はこれを「真理」と呼んだ。
これが原始仏典に記された「縁起の法」です。
そして、一切が「無常」ということは、永遠不滅の自律自存する
真我(アートマン)というものは、どこにもない。
これが「無我」という言葉の意味です。
「真理」とは、ものごとはすべて「縁起」しているという事実の
ことである。
「一切」は「縁起」する。
だから「一切」は「無常」であり、「無我」である。
これが釈迦の根本思想の骨子です。
838 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:04:16 ID:ntDRezSQ
また、「一切」とは何かについて、原始仏典の「一切」という
経の中で明確に定義されている。
この経は、釈迦の実証主義的な姿勢をよく表わしている。
『一切』
みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。
よく聞いて下さい。「一切」とは、みなさん、いったい何でしょ
うか。
それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と
鼻に匂うもの、舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に
接触されるもの、心と心の作用、のことです。
これが「一切」と呼ばれるものです。
誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、
と主張するとき、それは結局、言葉だけに終わらざるを得ない
でしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、
病に倒れてしまうかも知れません。
それは何故でしょうか。
何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。
(サンユッタ・ニカーヤ 33.1.3)
839 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:05:10 ID:ntDRezSQ
このように、現実を認識主体と認識対象とにわけて、その
相依関係(縁起するもの)を「一切」と定義した。
こうして、ものごとの成り立ちを単純明快かつ的確に表現
すると同時に、形而下と形而上の区別に明確な境界線を
示し、迷信や妄想が入り込む余地を排除している。
こうした論の展開もまた、釈迦の天才たる所以。
840 :
名無しさん@3周年:2005/04/10(日) 02:07:57 ID:ntDRezSQ
「一切」とは形而下のことであり、
「これとは別の一切」というのが、形而上のこと、つまり空想や迷信の
ことです。