スッタニパータを読む+ヴィパッサナーを実践する/2

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937名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:11:23 ID:CVGq0c7Z
>>935

>>927の考えを絶対に譲らなかったら、それは主観の固執であって
>発言に矛盾を秘めているように思うのですが...

>>935さんが相手の意見を誤りであるということに固執すれば
>>935もまた相手と全く同じことを犯すことになると思います
>>935さんが仏徒であり仏陀の教えを信じる人であるとするならば
仏陀の言葉と教えを実践する以外に良い方法は無いと思います
仏陀の言葉と教えを実践することのみに固執すればよいと
思います。

938名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:15:04 ID:CVGq0c7Z
>>936
ひとまずは
「相手の見解が誤っていることに固執しない」ということに固執すれば
良いとおもいます
そして可能ならば
次にその固執をも捨て去れば良いと思います
939名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:17:57 ID:1uAk6mrt
>>936

>仏陀の言葉を信じる限りにおいては
>それは怒りを放逸し怒りでもって行為を起こし発散させることより
>あなたにより良い結果を与えることになります。
>良いというのはあなたの意識の苦しみの消滅にとって利便の方
>にあなたの意識が向うということだと思います。

ふむ。
抑圧された感情は消える訳ではないというのが気になります。
何かの形で解放されるのでしょうけど...。

悪循環を断ち切るには、観るだけで解釈しないというのがやはり唯一の道なのでしょうね。
観るだけで解釈しなければ悪感情も生まれませんし、それによって抑圧もありませんからね。
940名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:20:43 ID:CVGq0c7Z
仏陀の教えに固執しないということであれば
それは仏徒の根拠もまた失います
最終的に戒律や仏陀の教え=筏への固執を捨て去ることは
必要なことなのかも知れないけれども
最終までいきつかないのに筏を捨て去れば
仏教の意味もまた失うと思います
941名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:28:40 ID:CVGq0c7Z
>抑圧された感情は消える訳ではないというのが気になります。
>何かの形で解放されるのでしょうけど...。

怒りの想いと感情に気付きながら
その時その怒りを相手に返すことが抑圧であって悪しきこと
であるとするならば
それは仏教でもなんでもなく
普通の誰もが行っている、人間以外の生類すら行っている
行為ということになります
そこに宗教などの余地も無いと思います
欲しいときに求め貪り怒りたい時に怒るということであれば
それは無宗教ということになります
それだからある意味宗教自体を本能に抗う抑圧行為と定義しても
問題は無いと思います
そしてそのような抑圧と抑止においてより成果が得られる
というのが宗教であると考えても良いと思います
942名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:31:46 ID:1uAk6mrt
>>938
>「相手の見解が誤っていることに固執しない」ということに固執すれば
>良いとおもいます

縁無き衆生は度し難しと実際に言ったのは釈尊でしょうか。
つまり、そういうことなのかもしれせん。
943名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:35:18 ID:CVGq0c7Z
欲しいときにそれを抑止して貪らず
怒れるときにそれを抑止して暴力を抑止し
・・・・
このような行為が現代の常識に照らせ合わせて抑圧でない
などと言うことは必ずしも自分には決して言えません
それだから衝動に従った行為の抑圧が戒であるとも言えると思います
その時仏教ではその抑圧をせよと教えています
他の宗教や心理学や道理においてはそうではないことも
あると思います
944名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:38:47 ID:CVGq0c7Z
そのとき他の教えに従って
欲しいときにそれに応じて貪り
怒れるときにそれに応じて怒る
ことが自然で在りのままで最も良いということであれば
その教えに従ってそのようにすれば良いと思います
仏教の教えを信じるということであれば
仏陀の言葉に従えば良いと思います
945名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:41:44 ID:1uAk6mrt
>>941
>怒りの想いと感情に気付きながら
>その時その怒りを相手に返すことが抑圧であって悪しきこと
>であるとするならば

感じた怒りを相手に返したら、それは感情の抑圧にはなりませんよ。
むしろ、抑圧の解放です。
しかしそれは悪循環になるので釈尊は縁起説(連鎖の構造)で諭しているのだと思います。
悟った人には感情の波はもはや無い。悪循環から解放される。
悟るでは四念所で精進しろと。雑音の多い世俗ではかなり難しいのでしょうけど。

ではこのへんで失礼します。
946名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:44:15 ID:CVGq0c7Z
訂正
間違えました

>>945
>怒りの想いと感情に気付きながら
>その時その怒りを相手に返すことが抑圧であって悪しきこと
>であるとするならば

>怒りの想いと感情に気付きながら
>その時その怒りを相手に返さないことが抑圧であって悪しきこと
>であるとするならば
947名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 08:58:58 ID:CVGq0c7Z
ただこのような意見は
仏陀の教えへの信を根拠としている以上ではなく
仏陀の教えを実践しその最終的な平安の獲得に至っていない自分に
例えば
怒るものに怒り返すことは正当で最善で
堪忍は抑圧であって悪という論を何ら否定する根拠を自分は
持っていません
それだから仏陀の教えが虚実であれば
怒るものに怒り返すことは正当で最善で
堪忍は抑圧であって悪であることもあり得ると思います
948927:2005/04/12(火) 12:53:01 ID:wgmKa1uL
>>929
おまえらと言われておまえが説得力が落ちると感じるなら、おまえにとってはそうなんだろう。

>この考えを絶対に譲らなかったら、それは主観の固執でしょ。
>矛盾を秘めているのでは。
その通り。ただ、主観に固執するな、と言う意見に固執しない、とまでなっちゃうとこんなところで遊べないだろ。
視点を変えれば、主観に固執しつづけろ、というスタンスで遊んでも構わない。
言わずもがなだが、どのような考えも矛盾を含んでおるのだよ。
949名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 22:32:17 ID:+J+Pyo0q
仏教の継承者と展開者にも様様な人が存在し
例えば日本でそれを展開した臨済を例に取りますと
彼は
「仏教の真理というものは努めはげみようが無く
まったくあたりまえでなんということも無いのだ。
食べたい時に食べ疲れたら眠る。糞尿をする。
怒るときに怒り泣きたい時に泣いて・・」
というはからいを捨てた在りのままのあたりまえの生活が
平安や解脱に通じると説いています。
「愚かな奴はワシを笑うが偉い人はちゃんとわかっておる。
外面的な努力(戒やはからい)をするのはすべて馬鹿な人のやることで
あると。」
自分はこのような臨済の教えは一つの極みであり
このような教えが人の心を平安に至らせる可能性は在ると
思います。
ただ原始仏教の教えに照らせ合わせてみますと
臨済の教えはそれと少し異なる独自の教えのようにも思います。
そこでどの教えを信じようかとするとき
自分の場合は原始仏教の教えを信じてみようということになります。
950名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 22:41:49 ID:+J+Pyo0q
例えば心理療法の一つである森田療法の在るがままの実践
というのもどちらかと言えばこの臨済にみられるような
はからいを捨てる心のあり方に通じるものがあるように思えますし
実際に森田療法は心理療法として成果をあげています。
人の苦しみを救っています。
それだから原始仏典と異なる教えであるから
それは真理ではなく虚実であり人の心の苦しみを救う道理は無い
などと自分は思いません。
951名無しさん@3周年:2005/04/12(火) 23:28:16 ID:XUTdcIfW
無常のものを楽しむべきという考えも出来ますしねえ。
952950:2005/04/12(火) 23:37:46 ID:+J+Pyo0q
>>951
>無常のものを楽しむべきという考えも出来ますしねえ。

そうですね
日本にはそういう風流などの精神が良い意味で継承されていると思います
953名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 00:20:17 ID:vNAQApWO
>>947
>例えば
>怒るものに怒り返すことは正当で最善で
>堪忍は抑圧であって悪という論を何ら否定する根拠を自分は
>持っていません

怒るものに怒りを返すことは正当で最善ということはないでしょうね。
ガンジーを見ればわかります。

悟ってしまえば、抑圧(我慢)もなにも無いのでしょうけど
悟るまでは、怒りなどの悪感情が発生すると思います。
釈尊の教えでは、生まれてしまった悪感情には堪えるのだと思います。
そこまでは鋸の喩えなどで強烈に教えています。

ただ残念なことに、抑圧(我慢)した感情がどうなっていくのか?が説かれていません。
(当時、ストレスという概念が無かったからかもしれませんが...)
悪感情が生まれてしまったときに、悪感情をどう処理すればいいのかが
説かれていないように思います。
釈尊は根本治療や予防治療を繰り返し繰り返し説いていますが
対症療法が見あたらないように思えます。例えば、
生まれてしまった悪感情の対症療法は、スッタニパータに記されていたでしょうか?

方便が使われたのかもしれません。
不平等な運命の受け入れ方や悪感情の静め方として方便が使われたのかもしれません。
悪感情を抱いているとこういう報いがあるぞ!と。それで静まったのかもしれません。
しかし、現代人に方便は有効かどうか疑問です。人それぞれでしょうけど。
954名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 00:37:56 ID:UOyFAfgh
>>953
>悪感情を抱いているとこういう報いがあるぞ!と。それで静まったのかもしれません。

自分の考えですと感情は意識の力で自在に止めたりできない
類のものであると考えています
悪感情が生じた時それが生じていると
在りのままに気付き観て(ヴィパッサナー)
その時行為においては悪感情にもとづいた暴力などの行為を
起こすことを耐えて戒する他には特に
それ以上のことは自分には思いつきません。
>抑圧(我慢)した感情がどうなっていくのか?
については心理学的にはそれは肥大しいづれ爆発する
という道理があるのかもしれませんが
自分には実際のところはわかりません
ただ仏陀の教えを信じる限りにおいては
悪感情にもとづいた暴力などの行為を起こすことを耐えて戒する
ことが自由に悪感情を開放し暴力を起こすことよりも
より良い果実になるのだと考えています
955名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 00:41:44 ID:UOyFAfgh
>>953
怒りの感情と感覚自体はそれをどうすることもできず
それを在りのままに観る以外できないのだけれども
怒りの感情と感覚にもとづいた怒りの想念を起し続ける(例えば
アイツが悪い・・我は悪くない・・・許さない・・など)こと
を抑止することは可能であると自分は思います。
956名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 00:52:27 ID:vNAQApWO
>>954
>悪感情にもとづいた暴力などの行為を起こすことを耐えて戒する
>ことが自由に悪感情を開放し暴力を起こすことよりも
>より良い果実になるのだと考えています

悪感情の解放の仕方にもいろいろあるのではないでしょうか?
ネガティブな手段だけとは限らないと思います。

日本での年間の自殺者数は、30.000人です。
自殺を交通事故とカウントしているケースもありますから
実際はそれ以上だろうという見解もあります。
抑えすぎると今度は、鬱症状に陥るんです。
957名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 01:04:30 ID:UOyFAfgh
>>956
>悪感情の解放の仕方にもいろいろあるのではないでしょうか?
>ネガティブな手段だけとは限らないと思います。

それはそうかもしれませんね
適当な悪感情の発散と開放手段があるとすれば
それは気分転換やストレス解消などの言葉があるように
それを実行する方法はあり得ると思います。
958名無しさん@3周年:2005/04/13(水) 01:08:00 ID:vNAQApWO
考え方がしっかり定まっていれば、悪感情に流されないのでしょうね。
その際、考え方への信頼とか確信とか手応えが重要になってくるのでしょう。
959名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 19:37:19 ID:WRXbv1OG
感情は、思考で制御しきれるものでしょうか?
大悟した人間は、悪い感情が湧いてこない?

誰かそんな人、実際にみたことあります?
人間の内面までは計り難いのです。

でも普通、少しでも賢い人は感情を抑圧したり
しないと思う。
忍耐は、感情の抑圧ではないと思います。

だけど、みなさんは感謝の念とかって湧いてこない
のでしょうか?
人間には、悪い感情もありますが、善い感情もある
じゃないですか。
内面で善い感情が、悪い感情を駆逐することってあり
ませんか?
善いことや、悪いことをする。というのは、何も誰か
に対する行為ばかりではないと思うんですが。
960名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:05:57 ID:bezuHZfm
>忍耐は、感情の抑圧ではないと思います。

(*´∀`*)そなの? べつにいいけど♪

にん‐たい【忍耐】
こらえること。たえしのぶこと。「―を要する」「―強い人」「―力」
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]

よく‐あつ【抑圧】
1 強いて抑え付けること。無理に抑制すること。「自由を―する」
2〔心〕(Verdr#ngungドイツ) 防衛機制の一。
言語・イメージ・感情・随意運動などによって意識に上ろうとする個体の欲動を
再び無意識の中に押し戻そうとすること。フロイトの用語。
[株式会社岩波書店 広辞苑第五版]
961名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:13:53 ID:vxfHIbU5
俺、神通身につけて天上界に行き、帝釈天に会うのが夢。
962名無しさん@3周年:2005/04/15(金) 21:33:12 ID:n1Rw1rVQ
麻原尊師はすぐ怒りを爆発させたし
敵は暴力で殺害した
美味しいものもどしどし食べたし
大いに多くの女人と交わった
尊師は抑圧することがなかった
963カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/04/15(金) 23:12:57 ID:Qu6oNlH4
釈迦の説いた一切とは

>みなさん、わたしは「一切」について話そうと思います。よく聞いて下さい。
>「一切」とは、みなさん、いったい何でしょうか。
>それは、眼と眼に見えるもの、耳と耳に聞こえるもの、鼻と鼻ににおうもの、
>舌と舌に味わわれるもの、身体と身体に接触されるもの、
>心と心の作用、のことです。これが「一切」と呼ばれるものです。〜サンユッタニカーヤ

これが、釈迦の言う一切だ。つまり至極単純に言うと、この世のことを言っている。
さて、釈迦の教えの基本は、三法印。いや、四法印と言ったほうがいいだろう。

>一切皆苦(”一切”は”皆苦”である)
>諸行無常(”一切”の形成されたものは無常であり、縁起による存在としてのみある)
>諸法無我(”一切”の存在には形成されたものでないもの、アートマンのような実体はない)

そして、涅槃静寂。
>涅槃寂静(苦を生んでいた煩悩の炎が消え去り、”一切”の苦から解放された境地が目標である)

と、これだ。”一切”から”解放”されても存在するものとは、いったい、なにに縁起しているというのか。
自性とはなにか。この世は、皆さん知っての通り、無自性である。
964カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/04/15(金) 23:13:33 ID:Qu6oNlH4
さて、上の文章で、知恵あるものは、気付くだろう。
ここで釈迦の言葉。

〜スッタニパータ〜
>63 俯して視、とめどなくうつろうことなく、諸々の”感官”を防いで守り、こころを護り(慎しみ)、(煩悩の)流れ出ることなく、
>(煩悩の火に)焼かれることもなく、犀の角のようにただ独り歩め。

>340 戒律の規定を奉じて、五つの五官を制し、そなたの身体を観ぜよ(身体について心を専注せよ)。
>切に世を厭い嫌う者となれ。

煩悩とは、この五感に快楽を求める心の作用だとしる。己の心をよく観察すれば、すぐに気付く。
ビバッサナーやってる人なら、比較的容易にそのことを知るだろう。
釈迦は、涅槃に入る必要事項のひとつに、この五感から生ずる欲、感官を、よく制する事だと説く。

じゃぁ死ねばいいのか?ってことにはならない。

無論、この世の、欲を絶つのは、重要な事項である。が、もう一つ重要な事柄がある。
それは、慈悲の心、慈愛の心だ。なぜ、それが必要か?

答えは、我らは本来「一」なる存在だからだ。俺は、それを知っている。
人は、”神に似せて”創造された。神とは「一」である。「Iam That Iam」 私は ”在る”という存在だ。
それが、人は善悪を知るという大変な罪を犯してしまった。
いまや、善悪を知る事になり、心にエゴを巣食い、肉の体を持ち、分霊につぐ分霊を繰り返している。

どうして他人を許せないものが、元の「一」にもどれようか。どうして他人を憎むものが元の「一」にもどれようか。
どうして、愛し合う心が持てないものが、元の「一」にもどれようか。
どうしてエゴを持つものが、元の「一」にもどれようか。エゴは、決して、他人と自分の心を、一つにしないもの。

まぁ、俺は全部を知ったわけではないけど、今言えるのは、こんなとこかな。
965カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/04/15(金) 23:27:11 ID:Qu6oNlH4
「不死の門は開かれた」

これは悟りを開いた時の、釈迦の言葉だ。

>917
>願わくばあなたの獲得した境地をお聞かせ願いたい
>もちろん言語では完全にいい表せないだろうし

釈迦も言ってるではありませんか。
>誰かがこの「一切」を否定し、これとは別の「一切」を説こう、と主張するとき、それは結局、
>言葉だけに終わらざるを得ないでしょう。さらに彼を問い詰めると、その主張を説明できず、
>病に倒れてしまうかも知れません。何故でしょうか。何故なら、彼の主張が彼の知識領域を越えているからです。

なんてね。これは別に、この世以外の一切は、ないとは、言っていない。
それどころか、はっきり、不死の境地について語っている。不死とは、無論、諸行無常とは別のことを言っている。
966名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 00:15:45 ID:6jqW4QOJ
>>965
魔境ですね。
967名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 00:31:53 ID:xHEU5MzN
>>964
知ったかぶりしているが肝心要の間違えるはずのないところを間違えている

>ビバッサナー
ではなく
ヴィパッサナー

「バ(ba)」ではなく「パ(pa)」だぞ
とてもワロタ

ヴィパッサナーの言葉さえ知らず、知ったふりして、何語る
968名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 02:11:59 ID:cKmNFM7p
怒りというのは、物質的な実体の有る物ではなくて単なる思考から生まれた感情だから、
本来内に抑圧して溜め込むとか、外に放出して解放する何てことは有り得ません。
むしろ外に放出すれば、自分の立場を正当化し再確認する事になり、かえって怒りの感情を呼び出しやすくなると思います
同じ思考を繰り返し、更に執着し固定化させればどんどん強化されます。

例えば、他の種類の感情である、愛や慈悲なんてものを考えれば、分かり易いのではないでしょうか?
慈悲を外に放出すれば、慈悲が解放されて自分の中から慈悲が無くなったりするでしょうか?
反対に、慈悲を自分の内に抑圧して溜め込めば、自分の中で慈悲が自然に貯まって膨らんでいくのかというと・・・
そんな事は無いっすよね。
むしろ慈悲を外に表現し放出した方が、かえって慈悲は膨らんでいくんじゃないでしょうか。
慈悲なる思考を繰り返す事によって感情が呼び出しやすくなるのは怒りと同じですよね。
そんで怒りに怒り返せば云々・・・というブッダの言葉と繋がってくるような気もするんですが。。。
969名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 13:57:11 ID:7Nnq6WSQ
だけどさぁ、そんなことばっかりやってて生きてるの
楽しいですか?
ただ欲求不満が堪って怒り易くなるんじゃない?

運動でもして、汗を流せば気分もスッキリするよ。
体内の老廃物が出ていってリフレーッシュ!!

理屈じゃないんだよな。何事もそうだけど。。。
970名無しさん@3周年:2005/04/16(土) 20:43:57 ID:P9fUNBur
そう、理屈じゃないのです。実際に修行をやっていくうちに、怒りが湧かない性格に、不満が湧かない性格に変わっていくのです。だから欲求不満になりにくい性格になっていくのです。
971名無しさん@3周年:2005/04/17(日) 00:23:41 ID:7ojWSEvk
>>969
その感覚で間違ってないよ。

仏教の教えてることは、禁欲主義に走ることでも、快楽主義に
走ることでもないから。

現代風の言葉でわかりやすく言うなら、自覚をもってバランス
の取れた生活態度で生きること、ってところかな。

生きている以上、生理的欲求はあるし、適度に満たさなければ
かえって煩悩は増える(煩悩=悩み煩うこと)。

煩悩と生理的欲求は、イコールではない。
972さごじょう:2005/04/18(月) 10:20:01 ID:s8MQJZaV
怒りと嫉妬は、同じような情動らしいぜ
973名無しさん@3周年:2005/04/19(火) 19:11:03 ID:oQZezpkP
>>929
(゚Д゚)ポカーン
974名無しさん@3周年:2005/04/19(火) 21:58:22 ID:jBiORRAR
成長しね〜な〜
975名無しさん@3周年:2005/04/20(水) 19:01:54 ID:7tpUBiqM
>>974が成長しない奴の筆頭
976名無しさん@3周年:2005/04/20(水) 20:01:40 ID:7k4WQ1sm
>>967
そんなんでよく2chやってますよね。
ちなみにワロタも2ch語ですよ。
977不安の原因ときちんと向き合おう:2005/04/22(金) 12:18:09 ID:VZDwS7WA

不安な人は、生きることにエネルギーが向かわない。
不安でエネルギーを消耗する。

不安な人は、なぜ不安を感じるのか?
それは、今できることをやっていないからである。
では、不安をしずめるにはどうすればいいのか。
まず、できることをやればいいのである。
不安をしずめたければ、毎日もくもくと働くことが何よりなのである。

不安の原因には二つある。
一つは、執着である。
イヤなことはイヤと言う。
自分に出来ないことは「それは出来ない」と言う。
それで切れる人間関係は切る。失う仕事は失えばいい。
形あるものはいつかは消える。
ある物はいつか「なくなる」。
消えないのは自分の生き方と志向性である。(※連続性は同一性を補償しないが、仏道は消えない)
不安をなくしたければ、地位や物に執着しないこと。前に進むことが人生なのだ。

978不安の原因ときちんと向き合おう:2005/04/22(金) 12:18:56 ID:VZDwS7WA

不安の原因のもう一つに、自分に嘘をついていることがある。
人は心の葛藤から不安になる。
心の中にいろんなことを溜め込んだ人は、漠然と不安に苦しむ。
何となく漠然とした敵意を世の中や他人に対して持っている。
その敵意のような感情を抑圧している。
それなのに立派な愛の人を演じている。つまり自分に嘘をついている。
こうした抑圧からくる漠然とした不安に苦しめられている人が、
たとえ「修行」という名の下に自分を鍛えようとして座禅を組んでも、
不安が増幅されるだけである。(※行動は行動の背景の動機を強化する)
とかく生真面目な人は、自分の弱さを克服しようという発想になる。
自分を鍛えるという考え方に走る。
でも、それは自分を鍛えているのではなく、逃げていることなのである。
「なぜ自分は不安を感じているのか」という原因から逃げずに、きちんと向き合い、
見極めることが大切なのである。

979不安から逃れるための心の働き。防衛機制。:2005/04/22(金) 12:21:01 ID:VZDwS7WA

私たちの心には、心身の緊張や不安・悩み、不満などをやわらげ、心の安定をたもとうとする働きがある。
これが防衛機制である。防衛機制にはいくつか種類がある。
・代償(代理、補償、昇華)
・同一視(取り入れ)
・合理化(一見もっともらしい理由をつけて、自分を正当化しようとする)
・分離(観念は意識において保持しているが感情は抑圧する)
・逃避(アディックション。アルコール、ギャンブル、セックス。共依存やメサイヤコンプレックスなど)
・抑圧(人はネガティブな感情を感じたくない、そこで無意識層へ抑圧する。消える訳ではない)
・反動形成(抑圧されたものと正反対のものを意識にもつことで不安を解消しようとすること。〜過ぎるに現れる)
・投影(自分の認める訳には行かないネガティブな要素を抑圧すると、それが相手に投影される)
・置き換え(抑圧された感情や衝動を本来の対象とは別の対象にふり向けること)
・攻撃(八つ当たり)
・退行(粗暴な振る舞い、ひねくれた考え方、嫉妬、不平不満、甘ったれ、意志が弱い)
など。

適応機制は一時的なものであり、一時的な機制を繰り返していると、
それが習慣化して問題解決のために努力することが難しくなる。
不安の原因ときちんと向き合おう。
トラウマの場合には、それに囚われないようにして、「今、ここ」を充実させて生きていく。
抑圧の場合には、抑圧された感情を意識化する。感情をしっかり感じ、消化し、ゆとりが出来たときに
        当時の状況を再検討する。当時の事実を自分はどう解釈したのか。理解から解放へ。

今を変えれば、未来が変わる。
今を変えれば、過去の事実は変わらなくても、過去への思いは変わる。囚われからの卒業。
「自分の過去」と「相手」を変えることはできない、しかし、自分を変えることは出来る。
その変わった自分の影響力で、相手が変わるかもしれない。環境が変わるかもしれない。
時の流れは、過去から現在、現在から未来へと繋がっている。そして人は独りでは生きていけない。
980今この瞬間を充実させて生きる。:2005/04/22(金) 12:23:04 ID:VZDwS7WA
この世は、連鎖と無常の世界なのである。その世界を不安なくどう生きていけばいいのか?
答えは釈尊の言葉にある。
981名無しさん@3周年:2005/04/28(木) 23:46:08 ID:Cm7X3p4o
オイ、明日パオセヤドーの瞑想会に出席する香具師はこの中にいるか?
982名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 14:44:51 ID:bkY1OIMe
まず、ソーシャルスキルをあげましょう。
983名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 17:03:47 ID:3aw3eYN+
パオの瞑想って、やっぱり一座90分かね
984名無しさん@3周年:2005/04/29(金) 21:34:25 ID:sMtsSZ5i
ハイ90分です。本日晴天で皆さん船を漕いでおりました。

換気が悪く室温も高かったのでしょうがないですが、やはり
瞑想会場の選択を誤ったと思います。

在家であってもこの辺のフィードバックは体系化していてほしいものです。
985名無しさん@3周年:2005/04/30(土) 22:12:38 ID:Z5JIkJ+h
パオさん 去年、行こうと思ったんだけど、
友人からテープだけもらいました。
はなしは、去年のは、通訳のこともあり、
ちょっと堅苦しくむずかしい内容だった感じが。。。

お尋ねしたいんですが、
今年は、遠く<3時間かけて>からわざわざ行くほど内容のある
瞑想会だったでしょうか?
986名無しさん@3周年
三時間というと東北か関西あたりでしょうか?往復6時間となると
かなり疲れると思います。暑くて酸素の薄いところで90分ただ
息に集中して座禅するのはとてもつらいことになると思います。

しかし駄目なら駄目なりの収穫があるのではないかと思います。
トライアンドエラーを繰り返すことをためらってはなりません。

GWの次に瞑想会に参加できるのは何時ですか?

パオメソッドとスマナサーラ長老の指導は異なります。
自分に適したものを自分で選択する機会を逃してはならないと考えます。

希望者は休憩時間中に山下さんの通訳でパオセヤドーのインタビューを
受けることができます。

私にとって瞑想会は散々なものでしたが、僧侶の瞑想中の姿勢や
参加者が休憩中に行っている歩く瞑想を実際に目の当りにしとて
も参考になりました。(良い意味でも悪い意味でも)

暇つぶしにカルチャーセンターにいくかわりに瞑想会に参加する
のであればお勧めはいたしません。