☆ 卍 仏教 @ 質問箱 卍 ☆ パート10

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952机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/24(木) 19:03:20 ID:wsmejIeA
>>948
>・快感系の感受を「もっと!もっと!」と求める苦しさのことでしょうか?

快楽であるが故に、また執着を生起させる。いうことですね。
この執着こそが苦の根源です。

仏教と苦、というのは切り離せません。
何故かといいますと、仏教は苦を滅する理法だからです。
苦なればこそ開眼するのです。

苦とは何ぞや?と、自身に問い掛けなければ、仏教を学んでも意味はないのです。
苦(迷い)と悟りはひとつです。
苦なればこそ道は開けます。
それが仏教の本義なるや。
              <机龍之介>

953た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 19:52:12 ID:mYOuAklA
皆さん、こんばんは〜!>>952机さん。良い事言うね〜!苦・難こそ、人間を成長させる起爆剤なんだよ。乗り越えるが壁ければ、成長する必要ないからね〜。
954名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 19:59:04 ID:7weMaD1x
思い通りになる感受もある。
全て感受が思い通りにならなかったら、我というものが
問題視されることもないはず。

人が世の中で行為して、思い通りになることもある。
思い通りにならないこともある。
まあ、問題は思い通りにならないから起こるのだが。
955机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/24(木) 20:14:07 ID:wsmejIeA
>>953
貴殿は、どういうふうに成長したいですか?
現代は平安時代後期と違いまして、喰うにはさほど困らない、病気になれば病院にはいける。
その他に貴殿は何を求めますか?

鎌倉時代は、飢餓・疫病という苦難の時代でしたが、
現代は、心の病という苦難の時代です。

現世ご利益信仰は、このメンタルな部分にどう答えると思いますか?
956た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 20:19:05 ID:mYOuAklA
>>954思いどおりにならなければ、思いどおりになるようにすれば良いじゃん。「法華経の行者の願い、叶わぬ事無し」
957名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 20:28:53 ID:VmT2pq0S
自分の思い通りになるようにすることによって
他者に迷惑がかかる場合もあるのだが、
「法華経の行者」にとってはそんなことは
どうでもいいことなんですね。自分が思い
通りにさえなれば。
958折伏明王 ◆j0Oon93KwY :2005/03/24(木) 20:31:37 ID:ayu88Qni
>>929
>また勝義諦でコミュニケーションが取れるとする教典や論書などの仏典をお示しください。
絶対にありませんから。

うぬぼれてるな。こいつは。
すべての仏典を読んだのかよ。
もう少し勉強しろよ。
959机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/24(木) 20:38:32 ID:wsmejIeA
>>929
>絶対に無理かと思いますが、これを証明してください。

証明するもんではないですね。
ご自身で開眼するほか手だてはあらず。

>そして、「一如」と言う
>言葉の意味も説明してください。今のままでは曖昧です。

≪色は心を離れてあらず。心は色を離れてあらず。←勝義諦≫
これ↑しかありません。

あまり深く考え過ぎますと、余計に解らなくなります。

#、、では、これにて寝ます。



960た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 20:46:53 ID:mYOuAklA
>>955机さん、現代だからこそ、よりいっそうの人間的成長が求められてるんです。衆生自体が平安末期や鎌倉時代並に素直じゃ無いんですよ。分子も変化すれば、分母も応じて変化しなければ。
961けちゃっぷ:2005/03/24(木) 20:54:25 ID:codsW289
>954 子は親の短所を無意識に好きになろうとし、その癖が染み付く。暴力的な父の娘は、暴力的な男に惚れてしまう。でもいざ付き合うと、暴力を受けて恋が冷めてしまう。トキメキは我ではなく苦であり無常。
962た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 20:57:06 ID:mYOuAklA
いわゆる既成仏教が、なぜ多くの民衆から求められていないか解りますか?変化に対応して無いんですよ。難を避けてるんですよ。今世という一瞬は、常に変化している。己を取り巻く環境も然り。
963机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/24(木) 20:59:04 ID:wsmejIeA
>>960
そうでしたか・・・
私は貴殿のようには若くないので、ライフスタイルも多少違います。
年相応に人生観というのは変わってきますね。

仏教は、ひとつの道標であり、生き方は自身の問題である。
ってのが私のテーゼです。

#、、では、おやすみ。
964けちゃっぷ:2005/03/24(木) 21:02:19 ID:codsW289
父と共通の短所をもつ男に無意識にひかれてしまう娘にとって恋心は、好きなタイプどころかむしろ嫌いな男なのになぜかときめいてしまうという、苦です。恋心は本当の自分の意志(我)ではないと気付かねば。
965た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 21:09:32 ID:mYOuAklA
>>963いや、仏教は日常生活そのものだね。遠い処にあるものでも無い。ましてや、観念論や言葉遊びの哲学でも無い。今を生きる事。食って、寝て、仕事して。生きる事の全てを開かしてるのが仏教なんだ。
966カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/03/24(木) 21:42:44 ID:xKPL2HKK
ユングなんて読んだこともないよ(苦笑)
あのさ、縁起の法からいっても、我々の意識は、過去にいた人も、
今いる人も、これから生まれてくる人も、子は親に、親は親戚に、
それぞれさかのぼれば、近かろうが、遠かろうが、縁起しており、
人(自我)が生まれるには、両親のほかにもさまざまな人が縁起しており、
それぞれ別の意識(自我)のように見えるが、全ての意識(自我)は、
実は、数珠のように繋がっている。という話をしたんだよ。
まさか、貴殿は、縁起の法とは、直接、つまり一対一で縁起しあうものどおしにしか適用されない。
なんて言うおつもりではないだろう。

ま、ユングも、人の意識は一本の線で繋がっているなんて言ってんなら、
どういう内容か、興味があるので、早速ググってみよう。
967カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/03/24(木) 21:44:48 ID:xKPL2HKK
>貴殿はそもそも「無」というのを勘違いしておられるようです。

机殿がいう「無」とは、何も無いという意味の「無」じゃないんだろう。
そんなものを求めて修行などしていたら、単なる馬鹿者だ。何の意味もない。
さて、よく禅をやってる人で、「我は、空からうまれ、空に帰る」なんてさも悟ったかに言う人いるけど、
言ってる事が、わけわからん。
そりゃ単に、縁起の束縛から逃れられず、迷いの生存を繰り返すってことだろう(苦笑)

>般若にいう無とは、そもそもが対立はしない。

さて、なにも対立しないで、存在するというものとは、これを自性ある・・・・・やめておこう。
聞く耳持たぬものに、何を言っても無駄だ。因果律の説明も理解してくれないようだし。

ひとつだけ、はっきり言っておこう。自性ある存在に触れないと、真の悟りとはいえない。

さて、机殿。俺は無明に囚われているのかな?(苦笑)
968た〜@広宣流布:2005/03/24(木) 21:55:30 ID:mYOuAklA
>>957具体的にどのような場合を指してるのか?物事を成さんとする時、摩擦や抵抗はあって必然。恐らく、折伏を受けた時の心の抵抗を指して言ってるのだろうが。
969名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 22:02:42 ID:6Z1P2eXb
ノリエガ将軍が麻薬密輸でCIAに逮捕されたとき、
木箱で隠し、黒い布で覆ったというノリエガ記念碑の写真、
あったら、UPしてもらえませんか。
970カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/03/24(木) 22:12:53 ID:xKPL2HKK
「敵を憎むな。隣人を愛せ。」
これは、命を得る、(元の場所に帰る)確かな道だ。
イエスは慈愛を説いた。

「生きとし生けるものは平安であれ、幸せであれ」
釈迦は慈悲の心を説いた。

さて、机殿。ここは質問箱なので、質問させていただく。
貴殿は、法とは、慈悲だと説いた。
これもすこしピントがずれているように感じられるのだが、ある意味正しくも思える。
なぜ、法とは慈悲なのか?意味をご参考までに教えていただきたい。
できれば、仏教の専門用語なしで、説明していただけると、ありがたい。
971名無しさん@3周年:2005/03/24(木) 23:18:45 ID:1oYByb1q
>>968
全然ちがう。
その何も分かっていないくせに、
自分が正しいと思っているところが
迷惑。
972ニセ本尊を糾弾する会:2005/03/25(金) 01:19:28 ID:7NRiYuzr
どなたか、次スレを立てていただけますか?

よろしくお願いいたします。
973机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/25(金) 06:50:25 ID:bBAW4xO5
>>966カラス殿
>まさか、貴殿は、縁起の法とは、直接、つまり一対一で縁起しあうものどおしにしか適用されない。

縁起というのは、そんなに単純なものではない。
因果が複雑に相依しあう・・・つまり線というより束になったような条件があって縁起がある。

>そんなものを求めて修行などしていたら、単なる馬鹿者だ。何の意味もない。

禅は、世俗諦ではある意味「愚」ではある。
また「意味」を放棄するのも禅である。←勝義諦

>さて、よく禅をやってる人で、「我は、空からうまれ、空に帰る」なんてさも悟ったかに言う人いるけど、
言ってる事が、わけわからん。

「空からうまれ、空に帰る」なんてことはありえない。
空は客体化できない。

>さて、なにも対立しないで、存在するというものとは、これを自性ある・・・・・やめておこう。

「存在する」とは、ありえない。つまり「存在」という客体化はできない。←無自性

>ひとつだけ、はっきり言っておこう。自性ある存在に触れないと、真の悟りとはいえない。

その、貴殿の概念を放棄することだ。
禅とは、積み重ねるのではなく「捨て去ること」。
974机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/25(金) 07:01:13 ID:bBAW4xO5
>>970
>なぜ、法とは慈悲なのか?意味をご参考までに教えていただきたい。

貴殿が「自性ある存在」というておるのが慈悲。
慈悲は自性でもなく、また存在でもない。
ただただ縁起する。その縁起を慈悲といふ。

縁起なくば、貴殿は今ここにおらぬではないか。
今ある貴殿を慈悲と言わずして、なんと言うか。
ただただ慈悲があるだけです。
975机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/25(金) 07:17:02 ID:bBAW4xO5
>>965
>観念論や言葉遊びの哲学でも無い。

よく、禅を言葉遊びとおもわれがちですが、それは勝義と世俗の二諦があるからです。
世俗諦では、勝義諦において矛盾性がでてきます。
ですからチンプンカンプンにはなることがある。

しかしながら、これを二諦において鑑みなされば意は解せるのです。
それには先ず「空とは何ぞや?」が要諦になります。


976名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 07:42:05 ID:av+hAzEu
>>956
全て思い通りになる。
こういうことは、人間には不可能ですね。

>>961
>トキメキは我ではなく、苦であり無常ですね。
ここで語られている「我」はアートマンのことですか?
977カラスの唄 ◆S5WLCcUno2 :2005/03/25(金) 07:51:13 ID:EKczHUgi
おはよう、机殿。

>その、貴殿の概念を放棄することだ。

それは、あなたにも言える事かも知れないよ。

>ただただ縁起する。その縁起を慈悲といふ。

あ、ははは〜。これはとてもいい珍説を聞かせていただいた。(失礼)
それが、禅の悟りか?やはり「空」(縁起)が悟りなんですね?

釈迦は、明らかに、老いない境地、不死の境地を説いている。
縁起があるから、永遠不変のものは何も無い。

元は「一」だった。無論「一」なので、そこには善も悪も無い。
いや、この表現は正しくないかもしれない。対立するものがなにもないということは、
善しかなかった。というほうが正しい表現なのかもしれない。
それが、人は、善と悪という思いに囚われた。この二元論的思考はエゴを生んだ。
エゴは、欲を生み、自我を生む素因になっている。
本来は「一」だったのに、我らは、分霊につぐ分霊を繰り返している。

「一」とは、相対するものがなにもない。相対するものが何も無いということは、
縁起するものが何も無いということだ。縁起の呪縛から逃れるということは、諸行無常からも
逃れる。つまり、永遠で、不変のものだ。

あーだ、こーだ言い争っても、真理は一つだ。

ま、価値観の違う人にいくら言っても不毛な議論に終わる。このスレも、
もう終わりそうなので、この辺でおいとましよう。でわ。
978机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/25(金) 09:28:45 ID:bBAW4xO5
>>977
>それが、禅の悟りか?やはり「空」(縁起)が悟りなんですね?

仏道の過程で、いったん薔薇色の世界観が構築されます。
そこまででは、まだまだ仏道のほんの入り口です。
その世界観があるときにバッサリと崩壊します。これがいわゆる「気づき」というもんです。
開眼は、その時にあります。

>善しかなかった。というほうが正しい表現なのかもしれない。

善しかなかった。というのは、ありえません。
善と悪は、ふたつでひとつです。
善には悪が内在してますし、悪には善が内在してます。

>ま、価値観の違う人にいくら言っても不毛な議論に終わる。このスレも、
>もう終わりそうなので、この辺でおいとましよう。でわ。

了解しました。
お題としては、結構な題でした。
979た〜@広宣流布:2005/03/25(金) 12:44:39 ID:pMXSAbv+
>>978机さん。「善は悪を内在し、悪は善を内在する」。十界互具みたいな感じかな〜?
980机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/25(金) 14:33:56 ID:bBAW4xO5
般若心経は、600巻にもおよぶ大般若経のエッセンスとして編纂されたものです。
ですからあまり細かいことまでは書かれていません。

心経を解説しようとせば、いかようにも衆生にわかるように言い顕すことができる。
それはあくまでも【わかるように】であって、仏教の本義を言うている訳ではない。
【そのように解説すれば衆生にわかりやすい】。ということです。←法華経

ですから、やはり仏教の基本である般若心経から仏門に入った方が、十界互具も理解しやすいかと思ふ。

般若からすると、十界互具は世俗諦です。
たぶん層化あたりでは、これを勝義諦にもっていき心経を一段下げるかと思う。

>「善は悪を内在し、悪は善を内在する」。

これは、善という概念は、悪という相反があるゆえに善という概念が成立つ。
とういう意味です。
言語は、全てが相反により成り立ちます。

いうならば、空は言語概念にはなじまない。ということです。



981名無しさん@3周年:2005/03/25(金) 21:08:55 ID:B3knr29D
誰も善悪の概念の話はしていない。と思います。。。
概念というのは、人の頭の中で構築されたものですよね。

それより、遥か以前に正しい事があります。
それは、自然の運行にも見てとれます。
無常というのも、その自然の運行ですね。

人にもよるんだろうけど、仏教の入門書としては
大乗経典よりも、古いパーリ語仏典の方がいいと
思う。仏教はこれだけでも十分理解できるだろう。
982た〜@法華経の行者2年生:2005/03/25(金) 22:50:31 ID:pMXSAbv+
こんばんは〜!皆さんにとって仏法って何ですか?私は、生きて行く上でぶつかる、あらゆる困難をチャンスと捉え、人間的成長を促進させる、自身を磨きあげる雑巾のようなモノと感じています。
983机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 01:37:32 ID:kMnw1f5q
>>981
>大乗経典よりも、古いパーリ語仏典の方がいいと
>思う。仏教はこれだけでも十分理解できるだろう。

どれそれが良くて、どれそれが悪い。というのは、極論を除けばないかと思います。
私の場合は、先ず禅における四文字熟語に心が惹かれました。
その縁をもちまして現在の自分があるのです。

ひとそれぞれに仏縁も、違ったカタチで出会います。
その出会いこそが大事かと思ふ。

984机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 01:45:30 ID:kMnw1f5q
>>982
同意です。

仏教は、自分の生かせてこそ仏教なのかと思います。
宝珠であっても、しまっておいたのではタダのゴミですね。

私は、仏教においては三法印、または四法印で充分ですね。
素晴らしいものは、ひとつかふたつあればいいんです。

今は、仏教に出会えたことが本当によかったと思ってます。

では。おやすみ・・・(^o^)丿
985名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 07:49:15 ID:bX3TKkE3
>>983
だから「人によるだろうけど」って一応言ってるのです。
極論というより、一般論で大乗経典の仏教は解り難い。

986マークコーマン:2005/03/26(土) 09:04:00 ID:hM/bpDSP

「四神足」、これは「超能力開発」を目指したものなのでしょうか。
「悟り」と「神通」は本質的に無関係だと思います。
心を整えるため 能力を精錬するというなら分かりますが。

これはオウムなどのカルトが「煽りとして悪用する部分」だと思われますので、
どなたか正確なところ 教えてください。

987机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 13:23:44 ID:kMnw1f5q
>>986
仏教は諸法無我でして、その無我になるため修行をする。
では、その無我になろうとする主体もまた無我なのか?
ってことになる。
ますます、わからなくなる。

ようするに、仏教というのは突き詰めていけば矛盾性が生じてきます。
この矛盾性の中において知を求めます。
知のベクトルは、ますます法から遠ざかる。

「悟り」というのは「気づき」でして、日常における意味連関の切断です。

ですから「四神足」というのは、全く禅には関係ないです。

988マークコーマン:2005/03/26(土) 14:09:51 ID:b5nZz1Yb
机さん 以前もありがとうございました。
「無我」というのは 普通に「客観視で真実を見つめる」と、簡単に解釈しております。

>「悟り」というのは「気づき」でして、日常における意味連関の切断です。
意味連関の切断?  本来の関連性に気付くことだと思いますが。つまり縁起ですよね。

>ですから「四神足」というのは、全く禅には関係ないです。
たぶん同意だと思うのですが、仏典に、

アーナンダよ。いかなる人であろうとも、四つの不思議な霊力(四神足)を修し、大いに修し、
(軛を結びつけられた)車のように修し、家の礎のようにしっかりと堅固にし、実行し、
完全に積み重ね、みごとになしとげた人は、もしも望むならば、寿命のある限りこの世に留まるであろうし、
あるいはそれよりも長いあいだでも留まることができるであろう。

とあります。>寿命のある限りこの世に留まる
という部分は確証でき得ませんが、 霊力については 「求めなさい」と言っているように見えます。

アホダラさんや皆さんのご意見も聞きたいです。
989マークコーマン:2005/03/26(土) 14:10:21 ID:b5nZz1Yb
さらに

釈尊は地震が起る8つの原因・条件について説かれます。
地層の動揺など物理的な原因。
神通力があり他人の心を支配する力のある修行者(沙門)、バラモン、神霊などが神通力を用いて起こす。
ボーディサッタ(ブッダの全身)がトゥシタ天より母胎に入る時。
ボーディサッタが母胎から外に出る時。
修行を完成した人が覚りを得た時。
修行を完成した人が説法を始めた時。
修行を完成した人が留寿行を放棄された時。
修行を完成した人が完全なニルヴァーナに入る時。

これは現象としての地震 および精神の感動を地震と言い称した
ということですよね。?
990机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 14:38:14 ID:kMnw1f5q
>>988
>意味連関の切断?  本来の関連性に気付くことだと思いますが。つまり縁起ですよね。

≪意味連関の切断→世俗諦(色)
≪本来の関係性に気づく→勝義諦(空)
このふたつ↑は同じことですね。
つまり「気づき」というのは彼岸に至るわけですから、この両者は同時にあるわけです。←色即是空

意味連関の切断を、禅においては無門関を透過する。と言います。
つまりこの無門の関を乗り越えんことには般若には至らないわけです。


仏典は、釈尊滅後100年経過してから学僧により編纂されてますから、釈尊直伝かどうかは分からんですね。
禅の始祖である菩提達磨は、廓然無聖というています。
つまり世界は空っぽでなんにもない。
真理も聖なるもんも一切がない。と、言うておるんです。

始祖がこういておるんだから間違いないですね。
私は始祖に禿銅です。
991名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 14:56:32 ID:ZsnRox1I
机節、絶好調ですね
お元気そうでなによりです
992マークコーマン:2005/03/26(土) 15:46:20 ID:nihjD2I7
ありがとうございます。

色即是空については同意ですが
「四神足」を求めることは仏教的なのか。
修行を完成した人が説法を始めた時。実際に地面が揺れると釈迦が言ったのか。は未だ分かりません。
988および989 の仏典は 偽経なのか。

993机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 17:05:46 ID:kMnw1f5q
>>992
>988および989 の仏典は 偽経なのか。

仏道というは、先人の書き記したものの真贋に迷うことは道は外れます。
仏道は、己の前にあるのではなく、己に後ろに出来るものです。
それはあたかも雪の上を歩くが如し。

法の灯明をたよりに、自らの心に問いたもう。
さすれば是、真贋は自明になるべし。
994机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 17:10:29 ID:kMnw1f5q
>「四神足」を求めることは仏教的なのか。

私見ですが、私は仏教的ではない。と思います。
仏教にはもっと深遠なものがございます。

どうか彼岸まで逝ってくだされ。
さすれば是、自明になります。
995た〜@法華経の行者2年生:2005/03/26(土) 19:58:01 ID:ydKKxchp
みなさん、こんばんは〜!質問なんですが、機根が整っていない現代の衆生を成仏させるには、どうすれば良いのでしょう?
996名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 20:14:02 ID:hlQqAVAn
997机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 20:35:37 ID:kMnw1f5q
>>995
般若すと、成仏もなにもないわけですね。
ないもんに心を奪われて「成仏させるには・・・」などとなれば、是もまた迷いです。

折伏も迷いです。
貴殿が正しいと思うことも、世俗の智慧と勝義の智慧は違ってきます。
これを心経においては色即是空というております。

つまり、ものごとは世俗の智慧と勝義の智慧の二諦において鑑みなさるのが一番よろしいかと思います。

これはあくまでも禅においてですが、
一応は参考までに禅のお話をしました。

#、、私の考えを押し付けるものではありません。
998机龍之介 ◆8Z1PfzdK1. :2005/03/26(土) 20:36:33 ID:kMnw1f5q
では、席を外します。
999名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 21:12:20 ID:NMR/wzJV
誰か次スレ立てて下さい、私はホスト規制されて立てれません。
1000名無しさん@3周年:2005/03/26(土) 21:17:43 ID:soTMfFbc
10011001
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もう書けないので、新しいスレッドを立ててくださいです。。。