1 :
Sister Cecilia ◆kZp7NLUs.Y :
05/02/08 14:24:17 ID:9AmdDV0R
2 :
マリアは終生処女 :05/02/08 14:26:33 ID:EuSOXo70
ヘブライ語の「兄弟」は近親者、いとこ、夫、同族、同僚、友など広い意味あり。
http://westover.searchgodsword.org/dic/sbd/print.cgi?number=T837 福音書にある「イエスの兄弟」の兄弟(アデルフォス/アデルフィ)も同じ意味。実の兄弟とはどこにも書かれていない。
マタ13:55
彼の母親はマリアで、兄弟はヤコブ、ヨセフ、シモン、ユダではありませんか。
マコ 6:3
…マリアの子で、ヤコブ、ヨセ、ユダ、シモンの兄弟ではありませんか。
この2箇所の記述からはヤコブとヨセの母はイエスの母マリアのように読める。だが、さらなる記述は別のマリアであるという。
マコ15:40
その中にマグダラのマリヤと、小ヤコブとヨセの母マリアと、サロメもいた。
マコ15:47
マグダラのマリアと、ヨセの母マリアは、イエスの収められるところをよく見ていた。
マコ16:1
マグダラのマリアと、ヤコブの母マリアと、サロメとは…
上の3つの記述は、キリストの「兄弟」といわれる(小)ヤコブ、ヨセ(フ)の母が、イエスの母マリア以外の別マリアであることを傍証している。
マリアは花子と同じほどありふれた名前だったために、だれそれの母、だれそれの妻と、常に差別化を図る必要があった。イエスの母マリアは常に「イエスの母」と書かれているので、上記のマリアは別マリアである。ではどのマリアか。
マタ27:55
そこには、遠くから眺めている女たちがたくさんいた。イエスに仕えてガリラヤから付いて来た女たちだった。その中に、マグダラのマリア、ヤコブとヨセフとの母マリヤ、ゼベダイの子らの母がいた。
ヨハ19:25
イエスの十字架のそばには、イエスの母と、母の姉妹、クロパの妻マリアと、マグダラのマリアが立っていた。
この二つの個所から、小ヤコブとヨセ(フ)の母マリアが、イエスの母マリアの姉妹であるマリア・クロパであることが証明される。
クロパとアルパヨとはアラム語において同義であるから、クロパの妻マリアとはアルパヨの妻マリアである。
したがって、アルパヨの子のヤコブ(マタ10:3、マコ3:18、ルカ6:15)は小ヤコブである。
3 :
マリアは終生処女 :05/02/08 14:27:22 ID:EuSOXo70
さらなる証明 マタ10:3 アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモンと… マコ3:18 アルパヨの子ヤコブとタダイ、熱心党員シモン、… ルカ6:15、16 アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモン、ヤコブの子ユダと… 使徒1:13 …アルパヨの子ヤコブと熱心党員シモンと、ヤコブの子ユダであった。 以上の記述から、ユダはタダイと同一人物であることがわかる。 新改訳でもヤコブの子はヤコブの兄弟と別訳してあるくらいだから、 ユダ、ヤコブ、シモンは、アルパヨの息子である。 ユダも自らを、「主のしもべ、ヤコブの兄弟」と書いている(ユダ書1:1)。 結論: イエスの兄弟といわれる四人は、詳細に調べるとイエスの母マリアの姉妹、マリア・クロパの子供であり、イエスの従兄弟。従兄弟でも兄弟には変わりないけど何か。w だいたい、「イエズスの兄弟」といいますが聖書のどこに「実の兄弟」って書かれてるわけ? アデルフォスには兄弟のほかに、近親者、異母兄弟、いとこ、同族、隣人、利害を同じくする人、同じ召し出しを受けた人、信徒仲間など広い意味がありますが何か。「実の兄弟」だって書いてある聖書の箇所があれば出しなさいよ。異端者ども!
4 :
マリアは終生処女 :05/02/08 14:27:58 ID:EuSOXo70
悪あがきはやめて。改革者もマリアの終生童貞を告白してますがなにか。
http://mariology.com/sections/reformers.html マルチン・ルター
「マリアは神の母にして処女である。これは信仰箇条である」(Martin Luther, op. cit., Volume 11, 319-320.)
カルヴァン
「マリアに何人も子供がいたという、ヘルビディウスは、無知過ぎる。幾つかの箇所で、それはキリストの従兄弟であると示されているからである。」
(Bernard Leeming, "Protestants and Our Lady", Marian Library Studies, January 1967, p.9. )
ツウィングリ
「私は、神のおん母、永遠に純潔なる、無原罪なる、童貞マリアを篤く敬う。キリストはいとも清き童貞からお生まれになった」(Stakemeier, E. in De Mariologia et Oecumenismo, Balic, K., ed.,
Rome, 1962, p. 456.)
ジョン・ウェスレー
「私は信じる…イエス・キリストが祝されし童貞からお生まれになったことを。マリアが、主をおうみになってからも、純潔かつ、染みなき童貞であり続けたことを」
("Letter to a Roman Catholic," quoted in A. C. Coulter, John Wesley, New York: Oxford University Press, 1964, 495}
5 :
マリアは終生処女 :05/02/08 14:28:50 ID:EuSOXo70
天使もマリア様を崇敬しましたが何か。ルカ1:14,28を朗読したら偶像崇拝になるわけ?ばか?
めでたし、聖寵満ち満てるマリア、主御身とともにまします。(聖ガブリエル。ルカ1:14)
御身は女のうちにて祝せられ、ご胎内の御子イエズスも祝せられたもう。天主の御母。(聖エリサベト。ルカ1:28)
聖マリア、罪人なるわれらのために、今も臨終の時も祈り給え。(義人に祈りを願うのは聖書的)
*6
聖寵みちみてる(kecaritwmeneチャリトーメネfull of grace)は、マリア様(ルカ1:14)とイエス様(ヨハネ1:14)に対して、2度しか聖書で使われていません。聖霊に満たされたエリザベトはイエズスの人性を母と等しくしました。
「おんみは女のうちにて祝せられご胎内のおん子イエズスも祝せられたもう」
人性においてイエズスは母と同等の恵みと祝福に浴していた証拠。違うのはイエズスは神格を持っておられたことね。マリア様は例外的に罪がなかったの。
いつから無原罪だったかについては、聖ユスチノス、聖イエレネウス、聖テルトリアヌス、聖エフレムなど、神がマリアを無原罪に創造されたと説明する教父が多くいました。
プロがやたら引用する聖アキナスは受胎から誕生までに清められて無原罪にされたと説きました。改革者も異論がありましたがマリアが無原罪だったことでは一致してます。
http://life7.2ch.net/test/read.cgi/psy/1029725823/738 啓蒙主義の悪影響を受けて19世紀に発生した、福音派と称する異端が、改革者の精神まで踏みにじり、聖母から「聖」を削除して罪人に変えてしまったの。
無原罪なら神の救いがいらないという異端がいるけど、原罪なく生んで下さった神様がマリアの救い主なの。アブラハム、エノク、エリヤ、モーセなど旧約時代にも神に救われた人はいます。
だからマリア様は「神はわが救い」と歌ってるじゃない。原罪をまぬがれた意味では最初です。
神父様にはこういう風に教わりました。フツーの人は穴に落ちて泥んこのところを神様から引っ張りあげてもらって救われる。マリア様は穴に落ちる直前に神様に襟首つかまれて救われた。
だから泥だらけにならずに済んだの。私は素直に信じたが何か。文句あるわけ?
6 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:29:32 ID:EuSOXo70
532 :通りすがり :05/02/03 21:59:49 ID:/vcgFSiv 私は福音派の出身ですが、 全地公会議の決定を認めますよ。 当然、テオトコス神の母マリアの終生童貞も認めます。 マリアの無原罪は認めませんが、受胎の瞬間、マリアの原罪が聖められたと信 じます。 マリアは崇敬すべきだと思います。ただし、崇敬のしかたにおいて崇拝と受け 取られかねない行為は慎むべきだと思います。 ただ、ルターのテオパスキスムスについては誤解していらっしゃるようです。 「東方キリスト教思想におけるキリスト」(メイエンドルフ) を読むと、 テオパスキスムスは東方では活かす方向でキリスト論が形成されたことがわ かります。
7 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:30:13 ID:EuSOXo70
533 :通りすがり :05/02/03 22:00:24 ID:/vcgFSiv (続き) しかし、神性は苦しみを受けることがないというのが前提であるのは間違い ありません。 この矛盾をどうしたか? それを東方は、「ロゴスが肉において苦しまれた」ということで解決したの です。 つまり、ヒュポスタシスが受肉前も受肉後も変わらないロゴスにおいて、主体 であるロゴスが人性において苦しみを受けたとしたのです。神性においてでは 決してありません。 ですから、ルターやモルトマンが言っていることは、実はすでに東方において はずいぶん前に、神性が受苦するという犠牲を払うことなく、しかし、十字架 の苦しみのリアリティが確保されたのです。 このことは西方では長い間、無視されてきたようです。 もし興味があれば、教文館から出ております前掲の本、特に第4章の「神が 肉において苦しまれた」をお読み下さい。訳者は小高毅神父です。 以上、ルターがテオパスキスムスで一方的に断罪されるのは少しおかしいと 思い、書かせて頂きました。 お邪魔して申し訳ありません。
8 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:31:21 ID:EuSOXo70
543 :通りすがり :05/02/05 09:10:34 ID:LvCcKRdQ 聖書はそのことについてははっきり書いておりません。 しかし、第一にカトリックの方が言うように、主イエス・キリストの兄弟は 従兄弟ととることができます。そして、私の知る限り、初代から教父たちに かけて、マリアの終生童貞を疑うものはいませんでした。ですから、時代の 近い彼らのいうことにより多くの信憑性があるはずです。 第二に、ネストリウス主義の異端に陥らない限り、主イエス・キリストの神 格はマリアからお生まれになりました。そうでなければ、十字架上の救いは 単に主イエス・キリストの人性が苦しみ、死んだことになってしまいます。 主体がロゴスではなくなってしまうのです。そのために、ロゴスは二回の誕 生を経なければならなかったのです。ですから、マリアはテオトコス神の母 と呼ばれるにふさわしいのです。
9 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:31:53 ID:EuSOXo70
544 :通りすがり :05/02/05 09:11:42 ID:LvCcKRdQ (続き) 「アレクサンドリアのキュリロスの立場は、まず何よりも、神ただお一人に よって成し遂げられた救いを強く主張することを目指すものであった。死と 罪の力は人間イエスの人間としての功績によって打破することのできないも のである。御言葉が人間性を受け取られ、それを真にご自分のものになさっ たのである。…救済論的なこの側面を強調してもしすぎることはない。キリ ストにおける神性と人性との間で肝要なのは、単なる協働ではなく、相互浸 透でもなく、合一である。受肉した御言葉において(ヒュポスタシスは)一 つであり、神である人間である唯一の救い主の購い主のパーソナリティの内 には、いかなる二分化も見られないのである。救いはまさに、御言葉がイエ スの人間としての生のあらゆる段階に現存されたという事実にある。 この方に処女マリアが誕生をもたらした。彼女をテオトコス(神の母)と呼 ぶことを拒むことは、受肉の秘儀そのものを棄却するに等しい。キリストの うちには、彼女が誕生をもたらした御言葉以外の他の主体は存在しないから である。二人の子が存在するのではない。本性によって不可変的に神であり 続けられるが、人類をその原初の状態に復元し、人類を死と罪から解放する ために、ご自分の存在に人間性全体を附加される。同じ御言葉の二つの誕生 があるにすぎない。さらに十字架の上で死なれたのもこの御言葉である。こ のためにこそ、その死は真に贖いとなるためであった。たとえあらゆる人間 の中で最も正しい者であったにせよ、一個の人間の死はあくまで個人の死に とどまるものだからである。」(東方キリスト教思想におけるキリスト40〜 41ページ)
10 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:32:26 ID:EuSOXo70
545 :通りすがり :05/02/05 09:12:30 ID:LvCcKRdQ (さらに続きI つまり、このキュリロスの信仰は最終的に、東方で、「神(ロゴス)が肉に おいて苦しまれた」という定式になるのですが、 十字架で苦しみ死なれた主体が神つまりロゴス(神性が苦しみ死なれたので はありません)であるならば、マリアからの誕生もロゴスのヒュポスタシス (神性ではありません)でなければならないのです。 言い方を変えると、先在のロゴスのヒュポスタシスとイエス・キリストのヒ ュポスタシスは一致していなければならないのです。 そう考えるとどうしてもマリアはテオトコスでなくてはならないのです。 そうでなければ、十字架のリアリティはなくなってしまいます。 第3に、 1と2から考え合わせて、神格がうまれたお方の胎に、人間の兄弟たちが 生まれることがふさわしいか考えると、ふさわしくないと感じます。 以上、3つの理由からマリアは聖書にははっきり書かれてはいませんが、 特に2の救いの論理から言って、マリアはテオトコスであり、終生童貞 であったと確信しているのです。 ですから、マリアには崇敬を払うべきです。それは神格を生んだ方だから です。しかし、崇敬が崇拝と間違いかねないような仕方は慎むべきと考え ます。 おわかりいただけたでしょうか?
11 :
通りすがりさんの書き込みより :05/02/08 14:33:17 ID:EuSOXo70
554 :通りすがり :05/02/05 18:53:48 ID:LvCcKRdQ
根本的な誤解があると思いますが、
神の母マリアは主の神性を形成したのではありません。
それは受肉前から、ロゴスという神格と結びついていました。
そうではなく、神の母マリアの胎から、神性と人性が密接に結びつかれた神格
がお生まれになったのです。
555 :通りすがり :05/02/05 19:06:30 ID:LvCcKRdQ
>>551 確かに論証とはなりえません。
しかし、救済論上、そう考えるのが自然です。
さらに、私は東方と西方の分裂以前の全地公会議を重んじるべきだと
考えております。
宗教改革は聖書のみを標榜しました。
しかし、現実は聖書+ルター、聖書+カルヴァン…などと現実は必ず
しも聖書だけではなく、独特の伝統をもっています。
それならば、聖書+東西分裂前の公会議の決定を基準にするのが最も
妥当だと考えております。
もちろん、聖書を上位原理においていますが、私は全地公会議の決定
が聖書と明白に矛盾する点は見いだせません。
むしろ、このことによって聖書の救いははっきりいたします。
また、この基準を定めたおかげで、その他の点、再臨の時期であると
か、セカンドチャンスがどうか、また聖霊の賜物についてはどうかと
いうことについては、私は単なる意見として扱うことができるように
なりました。