532 :
通りすがり:
私は福音派の出身ですが、
全地公会議の決定を認めますよ。
当然、テオトコス神の母マリアの終生童貞も認めます。
マリアの無原罪は認めませんが、受胎の瞬間、マリアの原罪が聖められたと信
じます。
マリアは崇敬すべきだと思います。ただし、崇敬のしかたにおいて崇拝と受け
取られかねない行為は慎むべきだと思います。
ただ、ルターのテオパスキスムスについては誤解していらっしゃるようです。
「東方キリスト教思想におけるキリスト」(メイエンドルフ)
を読むと、
テオパスキスムスは東方では活かす方向でキリスト論が形成されたことがわ
かります。
すでにアンテオケアのイグナティウスも「神の血」を語り
ナジアンゾスのグレゴリウスも「十字架につけられた神」と言っているわけ
です。
533 :
通りすがり:05/02/03 22:00:24 ID:/vcgFSiv
(続き)
しかし、神性は苦しみを受けることがないというのが前提であるのは間違い
ありません。
この矛盾をどうしたか?
それを東方は、「ロゴスが肉において苦しまれた」ということで解決したの
です。
つまり、ヒュポスタシスが受肉前も受肉後も変わらないロゴスにおいて、主体
であるロゴスが人性において苦しみを受けたとしたのです。神性においてでは
決してありません。
ですから、ルターやモルトマンが言っていることは、実はすでに東方において
はずいぶん前に、神性が受苦するという犠牲を払うことなく、しかし、十字架
の苦しみのリアリティが確保されたのです。
このことは西方では長い間、無視されてきたようです。
もし興味があれば、教文館から出ております前掲の本、特に第4章の「神が
肉において苦しまれた」をお読み下さい。訳者は小高毅神父です。
以上、ルターがテオパスキスムスで一方的に断罪されるのは少しおかしいと
思い、書かせて頂きました。
お邪魔して申し訳ありません。
534 :
くしこ:05/02/03 22:10:26 ID:VNI9X181
神格と神性の用い方に気をつけないと、ややこしくなるから。
しかし、プロの人には神性も苦しんだという説を主張する人は多い。
それでオーソ・カトを攻撃する人も多いからね。。。実は。
535 :
くしこ:05/02/03 22:13:16 ID:VNI9X181
しかし、ルター派がカルケドン信条を信じてないって初めて知った。
それについては勉強になったなぁ。
536 :
くしこ:05/02/03 22:16:31 ID:VNI9X181
だって、ドイツ人のオカマと話す時のネタになるから。。。
537 :
通りすがり:05/02/03 22:25:23 ID:/vcgFSiv
>>534 今晩は。
そうですか。それで攻撃する人がいるのですか。
私もちょっと前は混同していたのですが、メイエンドルフを
読んですっきりしました。
もしかして、そのことで、ルター派はカルケドン信条を信じて
いないのですか!?
538 :
くしこ:05/02/03 23:11:24 ID:VNI9X181
>>537私の知る限りでは、結構います。
カトリックは神性は苦しまないとするから変とか。。。
ルターについては
>>36参照。
539 :
くしこ:05/02/03 23:14:52 ID:VNI9X181
まぁ、東方の人から見れば西方教会内の内輪もめなんでしょうね。。。
540 :
名無しさん@3周年:05/02/04 00:07:53 ID:Lo94MwKx
>>348 それはおたあの交通の意味がカルケドン公会議のものと違ってるから。
カルケドン公会議における人性と神性の交通の意味では、キリストは神性においてマリアから生まれたり、苦しで死んだりしませんから。
女性の敵馬鹿ウサギを追放しよう!
54 :名無しさん@3周年:05/02/04 23:14:12 ID:bzxpiir8
>>53 2chシスターですよね?カトリックを愛する
58 :Andrea ◆xLEa2O8Cds :05/02/04 23:18:39 ID:Lo94MwKx
はぁ〜い
61 :うさぎ888 ◆l8/Ncjcsrg :05/02/04 23:20:28 ID:+3gnzsKx
>>58 ちんこもみもみ もーみもみ
ちんこもみもみ もーみもみ
63 :名無しさん@3周年:05/02/04 23:21:41 ID:bzxpiir8
>>61 あのね。andreaさんは2chシスターだよ。
narumiとは別人。
64 :うさぎ888 ◆l8/Ncjcsrg :05/02/04 23:23:55 ID:+3gnzsKx
>>63 そうなの。
まぁ、楽しくやりましょうよ。
66 :名無しさん@3周年:05/02/04 23:25:02 ID:TxE3083X
>>64 ただいま。
うさぎさん。今かなり恥ずかしいことしてたね。(ww
71 :うさぎ888 ◆l8/Ncjcsrg :05/02/04 23:27:42 ID:+3gnzsKx
>>66 エヘヘヘ・・・・
542 :
名無しさん@3周年:05/02/05 05:08:37 ID:1N2PIGE7
>>532 通りすがりさん
イエス・キリストの母が終生童貞である、との確信は聖書に基づいているのでしょうか?
543 :
通りすがり:05/02/05 09:10:34 ID:LvCcKRdQ
>>542 聖書はそのことについてははっきり書いておりません。
しかし、第一にカトリックの方が言うように、主イエス・キリストの兄弟は
従兄弟ととることができます。そして、私の知る限り、初代から教父たちに
かけて、マリアの終生童貞を疑うものはいませんでした。ですから、時代の
近い彼らのいうことにより多くの信憑性があるはずです。
第二に、ネストリウス主義の異端に陥らない限り、主イエス・キリストの神
格はマリアからお生まれになりました。そうでなければ、十字架上の救いは
単に主イエス・キリストの人性が苦しみ、死んだことになってしまいます。
主体がロゴスではなくなってしまうのです。そのために、ロゴスは二回の誕
生を経なければならなかったのです。ですから、マリアはテオトコス神の母
と呼ばれるにふさわしいのです。
544 :
通りすがり:05/02/05 09:11:42 ID:LvCcKRdQ
(続き)
「アレクサンドリアのキュリロスの立場は、まず何よりも、神ただお一人に
よって成し遂げられた救いを強く主張することを目指すものであった。死と
罪の力は人間イエスの人間としての功績によって打破することのできないも
のである。御言葉が人間性を受け取られ、それを真にご自分のものになさっ
たのである。…救済論的なこの側面を強調してもしすぎることはない。キリ
ストにおける神性と人性との間で肝要なのは、単なる協働ではなく、相互浸
透でもなく、合一である。受肉した御言葉において(ヒュポスタシスは)一
つであり、神である人間である唯一の救い主の購い主のパーソナリティの内
には、いかなる二分化も見られないのである。救いはまさに、御言葉がイエ
スの人間としての生のあらゆる段階に現存されたという事実にある。
この方に処女マリアが誕生をもたらした。彼女をテオトコス(神の母)と呼
ぶことを拒むことは、受肉の秘儀そのものを棄却するに等しい。キリストの
うちには、彼女が誕生をもたらした御言葉以外の他の主体は存在しないから
である。二人の子が存在するのではない。本性によって不可変的に神であり
続けられるが、人類をその原初の状態に復元し、人類を死と罪から解放する
ために、ご自分の存在に人間性全体を附加される。同じ御言葉の二つの誕生
があるにすぎない。さらに十字架の上で死なれたのもこの御言葉である。こ
のためにこそ、その死は真に贖いとなるためであった。たとえあらゆる人間
の中で最も正しい者であったにせよ、一個の人間の死はあくまで個人の死に
とどまるものだからである。」(東方キリスト教思想におけるキリスト40〜
41ページ)
545 :
通りすがり:05/02/05 09:12:30 ID:LvCcKRdQ
(さらに続きI
つまり、このキュリロスの信仰は最終的に、東方で、「神(ロゴス)が肉に
おいて苦しまれた」という定式になるのですが、
十字架で苦しみ死なれた主体が神つまりロゴス(神性が苦しみ死なれたので
はありません)であるならば、マリアからの誕生もロゴスのヒュポスタシス
(神性ではありません)でなければならないのです。
言い方を変えると、先在のロゴスのヒュポスタシスとイエス・キリストのヒ
ュポスタシスは一致していなければならないのです。
そう考えるとどうしてもマリアはテオトコスでなくてはならないのです。
そうでなければ、十字架のリアリティはなくなってしまいます。
第3に、
1と2から考え合わせて、神格がうまれたお方の胎に、人間の兄弟たちが
生まれることがふさわしいか考えると、ふさわしくないと感じます。
以上、3つの理由からマリアは聖書にははっきり書かれてはいませんが、
特に2の救いの論理から言って、マリアはテオトコスであり、終生童貞
であったと確信しているのです。
ですから、マリアには崇敬を払うべきです。それは神格を生んだ方だから
です。しかし、崇敬が崇拝と間違いかねないような仕方は慎むべきと考え
ます。
おわかりいただけたでしょうか?
あのぉ... お騒がせしましたが・・・ (っ゚э゚)
『 神の都市 』今朝 無事に届きましたぁ〜 ♪ ♪
祝別済みのようです。 ヽ(´▽`) ノ 主の平和 †~
547 :
名無しさん@3周年:05/02/05 17:22:17 ID:dp8njVdl
548 :
名無しさん@3周年:05/02/05 17:26:52 ID:dp8njVdl
>>543 >初代から教父たちにかけて、
>マリアの終生童貞を疑うものはいませんでした。
教父と呼ばれる信仰者たちのうち、ひとりも疑ったものはいなかった、
と断言されるのは、彼ら教父全員が、マリアの終生童貞を主張した、ということでしょうか?
549 :
名無しさん@3周年:05/02/05 17:36:05 ID:dp8njVdl
マリアは神の母と呼ぶことができます。
マリアは人の母と呼ぶことができます。
イエス・キリストは、まことの神であり、まことの人だからです。
子なる神の受肉に先立って、マリアは存在していました。
神の計画に従い、聖霊の働きによって、マリアはキリストをみごもりました。人の父ぬきで。
この意味において、マリアを神の母と呼ぶことができます。
と同時に子なる神は父なる神から永遠の初めに生まれた存在です。母ぬきで。
マリアは被造物です。マリアの出生に先立ち、マリアに依存せずに、言なる子なる神は先在します。
この意味において、マリアを神の母と呼ぶのは相応しくありません。
讃美され、礼拝され、栄光をうけるにふさわしい 存在 は、
父 と 子 と 聖霊 のみです。
神の言の受肉の栄誉は、恵みを輝かせた神にのみ、帰せられるべきです。
ヽ(´▽`) з〜 Amen†
552 :
名無しさん@3周年:05/02/05 18:06:01 ID:dp8njVdl
仮に、主の兄弟が従兄弟であったとしても、新約聖書が沈黙している以上
マリアが終生童貞であった、と宣言することは相応しいことではない、と私はおもう。
そのように信じるのは、個々人の決断ですが。
聖書の語る決断には直接影響しない信念ですが、実は神の啓示をどう捉えるかという
信仰の根本態度に関わる決断のひとつ、神への信仰に影響を与える試金石のひとつ
のようにも、思えます。
私個人は、福音書・パウロ書簡・公同書簡の語るとおり、主の兄弟がおり、
処女のときキリストをみごもり、産みの苦しみなく救い主を出産した女性は、
その後、夫ヨセフとの間に子どもたちを授かったと信じています。
そのため彼女を終生童貞である、とは信じません。
聖書は親子の血縁関係を記す傾向にあります。もし主の兄弟ヤコブの父親が
ヨセフでなく、たとえばアルパヨであるなら、主の兄弟として知られるアルパヨの子ヤコブ
といったような表記をしたでしょう。もし主の兄弟ヤコブの母がキリストの母マリアでなく
クロパの妻マリアであるなら、キリストとは血縁関係になりません。
キリストに人間である父親はいないからです。
553 :
名無しさん@3周年:05/02/05 18:07:31 ID:dp8njVdl
>>552 聖書の語る決断には (誤)
聖書の語る救いには (正)
554 :
通りすがり:05/02/05 18:53:48 ID:LvCcKRdQ
>>549 思考上はそう考えることができますが、
そうすると、主イエス・キリストの神性と人性を分離することになり、
ひとつであるヒュポスタシスを二つにしてしまいます。
つまり、ネストリウス主義に陥るわけです。
根本的な誤解があると思いますが、
神の母マリアは主の神性を形成したのではありません。
それは受肉前から、ロゴスという神格と結びついていました。
そうではなく、神の母マリアの胎から、神性と人性が密接に結びつかれた神格
がお生まれになったのです。
555 :
通りすがり:05/02/05 19:06:30 ID:LvCcKRdQ
>>551 確かに論証とはなりえません。
しかし、救済論上、そう考えるのが自然です。
さらに、私は東方と西方の分裂以前の全地公会議を重んじるべきだと
考えております。
宗教改革は聖書のみを標榜しました。
しかし、現実は聖書+ルター、聖書+カルヴァン…などと現実は必ず
しも聖書だけではなく、独特の伝統をもっています。
それならば、聖書+東西分裂前の公会議の決定を基準にするのが最も
妥当だと考えております。
もちろん、聖書を上位原理においていますが、私は全地公会議の決定
が聖書と明白に矛盾する点は見いだせません。
むしろ、このことによって聖書の救いははっきりいたします。
また、この基準を定めたおかげで、その他の点、再臨の時期であると
か、セカンドチャンスがどうか、また聖霊の賜物についてはどうかと
いうことについては、私は単なる意見として扱うことができるように
なりました。
556 :
Sister Mildred ◆4qadkgYVBo :05/02/05 19:16:53 ID:96P5SFzT
とおりすがりさんありがとうございます。
ミルドレッドからも感謝いたします。
m(_ _)m
557 :
通りすがり:05/02/05 19:18:26 ID:LvCcKRdQ
>>552 そうですね。私はあなたがそう考えたからと言って、
つまりマリアの終生童貞を認めないからと言って、あなたを主にある
兄弟姉妹とは考えないということはありません。その点はこのスレを
立てた方々と意見を異にしています。
しかし、私はそう考えることが自然だと思っております。
このスレに書かれているように、ルターもウェスレーもそうであった
と思います。
そして、テオトコスマリアに対して、崇拝と間違いかねない崇敬をさ
さげるのが間違いであるように、一部の心ない人がしているように軽
蔑に近い誹謗を浴びせることにもひどく心が痛み不快な気持ちになら
ざるを得ません。
一般に、プロテスタントの方は、どうしてマリアが神の母と呼ばれる
のが救済論上、必要なのかわかっておりません。
そのためにも、かなり難解で価格も高い本ですが、
「東方キリスト教思想におけるキリスト」(メイエンドルフ 教文館)
を読まれることをお勧めします。
私自身はカトリックではないので、これ以上、論争するつもりはあり
ません。
558 :
通りすがり:05/02/05 19:21:30 ID:LvCcKRdQ
>>556 ミルドレッドさん、初めまして。
このことで、カトリックとプロテスタントの間に主の平和があるように
心からお祈りしております。
559 :
名無しさん@3周年:05/02/05 19:27:17 ID:G6jd3sCT
560 :
名無しさん@3周年:05/02/05 19:28:12 ID:96P5SFzT
>>549-553 だいたい、「イエズスの兄弟」といいますが聖書のどこに「実の兄弟」って書かれてるわけ?
アデルフォスには兄弟のほかに、近親者、異母兄弟、いとこ、同族、隣人、利害を同じくする人、同じ召し出しを受けた人、信徒仲間など広い意味がありますが何か。
「実の兄弟」だって書いてある聖書の箇所があれば出しなさいよ異端者。
>>558 ありがとうございます。あんまり攻撃がひどいし、根拠がでたらめなものだから、仕方なくこのスレッドを立てました。
聖書と全地公会議で一致すればよいと思います。
561 :
通りすがり:05/02/05 20:29:11 ID:LvCcKRdQ
>>559 もはや、自分ではただのクリスチャンであるとしか思っていませんが、
あえて分類すれば、プロテスタントです。
教派にとらわれず、しかしルターやカルヴァンやウェスレーの遺産も大切にし
同時に東西分裂前のまだ教会がひとつだった頃の伝統をもう一度振り返ってみ
ようとしているものです。
562 :
通りすがり:05/02/05 20:30:06 ID:LvCcKRdQ
>>559 もはや、自分ではただのクリスチャンであるとしか思っていませんが、
あえて分類すれば、プロテスタントです。
教派にとらわれず、しかしルターやカルヴァンやウェスレーの遺産も大切にし
同時に東西分裂前のまだ教会がひとつだった頃の伝統をもう一度振り返ってみ
ようとしているものです。
563 :
通りすがり:05/02/05 20:39:06 ID:LvCcKRdQ
>>560 すみません、二重投稿になってしまいました。
私もプロテスタントのはしくれですので、
彼らに代わってお詫びします。
私はマリア崇敬をマリア崇拝だと非難するのは
プロテスタント特有の迷信のひとつだと思っています。
ただし、何度も書きますように、あまりに行きすぎた崇拝としか
思えないものは私もよくないことだと思いますが。
しかし、それはカトリック教会でも戒められていると聞きます。
とにかく、カトリックにせよ、プロテスタントにせよ、
心ない人はどんな教会にもいるのですから、
そういう人を規準に全体を判断するのは良くないことだと思います。
物事を判断する時は、判断する対象の最善のものをとって判断すべき
と自分に言い聞かせています。
>>554 私はキリストを論じるのではなく、マリアを論じることによって子なる神を論じる議論に
悪魔から出た罠があると感じます。神からの恩寵により神の受肉があったにも関わらず
フォーカスがキリストからマリアへと移ることに、禁じられた木の実をそそのかした
偽りの父の手口を感じるのです。
そもそも、マリアを神の母と論じたり、人の母と呼んだりするのはキリストの神人二性一人格
をダイレクトに扱わなくなります。彼女は主イエス・キリストを生んだ女性。
キリストという存在のユニークネスこそがキリスト者にとっては重要なはずです。
>>555 七つの全地公会議のうちでさえ、後半は吟味して取捨選択する必要がある、と私は思います。
ニケアからカルケドンまでの信条には同意します。
5世紀以降、東西分裂前において教会の外だけでなく、組織化が進んだ教会組織内部に
異端的な思想・人・行動は混入している、と思うからです。もちろん、現代においても。
4世紀までは、何か格別な神の恩寵によって、キリスト信仰の土台・真理が明らかにされたと感じます。
565 :
名無しさん@3周年:05/02/05 22:03:43 ID:dp8njVdl
>>557 >そして、テオトコスマリアに対して、崇拝と間違いかねない崇敬をさ
>さげるのが間違いであるように、一部の心ない人がしているように軽
>蔑に近い誹謗を浴びせることにもひどく心が痛み不快な気持ちになら
>ざるを得ません。
私も全く同感です。
ただ、他の人がどうであろうが、私はマリアが終生童貞である、と断言しません。
なぜなら、私はキリストと母を同じくするヨセフを父とする兄弟姉妹たちがいた、と信じるからです。
もし私のその信仰が誤りであり、仮に、彼女はキリストの他に子どもを生まなかったのだとしても、
そのことが、指し示すのは、マリアの出産経験は聖霊による1度だけ、ということであり、
彼女が終生童貞であったことの証拠にはなりません。旧約聖書の預言と新約聖書の
証言が彼女の終生童貞について黙している以上、そのことを断言することの正当な根拠は
一切無いと私は信じています。誤解する方はいないと思いますが、キリストは処女マリアから
聖霊によって誕生したと私は信じています。
マリアが終生童貞であることが相応しく、そうでないことは聖書的観点から見て相応しくない、
という論調を今まで、何度か耳にしました。私は、まったくそのようには思いません。
彼女が夫ヨセフと一体となる、そのことは旧新約聖書を通じ、きわめて聖書に調和したこと
だと私は思います。マリアが「終生」童貞である、と主張することの方が異教的であると
思えてなりません。
566 :
名無しさん@3周年:05/02/05 22:08:28 ID:dp8njVdl
>>560 逆に、あなたに伺いたいのですが、あなたのこだわる「実の兄弟」という表現が
ゼベダイの子ヤコブとヨハネに付されているでしょうか?
漁師の息子シモンとアンデレに「実の兄弟」という表現がされているでしょうか?
聖書は複数の同一の名前の人物が登場するときや、よくいる名前の人を特定する
ときに、父親の名前や職業を付してその人物を特定できるようにします。
主の兄弟たちが従兄弟だと主張する人たちは、そういった点をいいかげんに考えています。
567 :
ダニエル:05/02/05 22:12:35 ID:3HaUDtcz
>>564 4世紀までは、何か格別な神の恩寵によって、
キリスト信仰の土台・真理が明らかにされたと感じます。
初めまして。わたしもあなたとほぼ同意見です。
568 :
名無しさん@3周年:05/02/06 00:32:52 ID:BfhDoC2M
カルヴァンが認めてる第2コンスタンティノポリス公会議、カルケドン公会議、エフェソス公会議で、マリアの終生童貞、神の母を認められてるんだから、
福音派もいい加減に正統信仰に立ち帰るべきね。
ただし、カトリックの正統信仰とか言ってるんじゃなくて改革派にとっての正統信仰にね。
569 :
名無しさん@3周年:05/02/06 00:48:18 ID:BfhDoC2M
とにかく、福音派は改革時代の意向に戻ってもらいたいです。
ルターやカルヴァンらの福音主義とは、聖書に逐語的解釈でもって、書いて無いものを片っ端から全部否定するものではありません。
一般信者にも聖書を読むように勧める程度の運動だった筈です。
それが出来るようになったのも、活版印刷が開発されたからなんですがね。
570 :
通りすがり:05/02/06 00:53:08 ID:WSl91cBY
>>564 私は、「神の母」というのが非常に大事であると信じています。
なぜなら、その神人2性1人格論の1人格つまりヒュポスタシスとは
ロゴスなる神ご自身だからです。
そうであればこそ、十字架の苦しみは神ご自身が肉において苦しまれた
のであり、十字架の死は神ご自身が肉において死なれたのです。
もし、マリアから神格が生まれたのでなければ、誰がお生まれになった
のでしょう?そうすると、当然、人格が生まれたことになります。
(本性はヒュポスタシスなしにありえません)。
すると、キリストのうちには、受肉以前のロゴスであったときの、神格
−神性と、新たに誕生した人格−人性の二つがあることになり、ネストリ
ウス主義に陥ります。
しかも、神性は苦しんだり、死んだりすることは不可能ですから、
十字架において苦しみ死なれたのは、人格−人性のイエスだけということに
なります。
しかし、いくら罪のない人であっても人間が人を救うことができるでしょう
か?
571 :
通りすがり:05/02/06 00:54:06 ID:WSl91cBY
(続き)
ここでもう一度、公会議で最終的な解決を見たエルサレムのレオンティウス
のキリスト論を考えてみます。
ロゴス、つまり神格−神性の神格がマリアの胎のなかで、人性を神格のヒュ
ポスタシスの中に迎え入れられたのです(エンヒュポスタトン)。そして、
お生まれになった方は神格−神性・人性を持つ方です。
そして、大事なことはロゴスが受肉してイエス・キリストとなられても、その
神格は変わっていないのです。
だからこそ、何度も繰り返しますが、十字架で苦しまれたのは単なる人として
のイエス・キリストではなく、神格が人性において苦しみ死なれたのです。
まさに、私たちの罪・死を滅ぼしたのは神ご自身になるのです。
ですから、どうしてもマリアからこの神格−神性・人性(これが神人2性1人格
ということです)が生まれなければならなかったのです。
従ってマリアは神格の母、つまり神の母ということになります。
これは驚くべき事ですが、この理解が欠けるなら救いの理解は十全なものとはな
りません。
何度も言いますが、誤解しないでください。
マリアは神性を生んだのではありません、もし神性を生んだのであればプロテス
タントの方が恐れるように女神のような存在になってしまうでしょう。
マリアは神格を生んだのです。ですから、マリアは主に用いられたただの人間で
す。しかし、神格を生んだと言うことで「神の母」なのです。
572 :
ダニエル:05/02/06 01:08:11 ID:/wD93ayb
>>570 >しかも、神性は苦しんだり、死んだりすることは不可能ですから、
どうしてそうなりますか?詳しく教えてください。
「神の痛みの神学」という神学もあるのですが。
573 :
通りすがり:05/02/06 01:10:57 ID:WSl91cBY
>>568>>569 私もそう思います。
全地公会議で確定された三位一体論とキリスト論、これはまさに信仰
の礎です。
この礎を取り除いてしまうなら、信仰の軸をなくしてしまうのです。
私は福音派の出身ですが、
福音派がこの礎に対する理解がどれだけ弱いか身にしみて感じていま
す。
私はワンネススレで、ワンネスつまりサベリウス主義的な異端で傷つ
けられた人たちに出会いました。
アメリカやイギリスではワンネスは完全に異端ですが、日本のプロテ
スタントではワンネスを容認してしまっているのです。
ある正統派の牧師に、ワンネスのことを聞いたら、
「ああ、いいんだよ。彼らはイエス様を大事にしすぎてワンネスにな
っちゃっているんだから。」
しかし、ワンネス、つまりイエス・キリスト=父=聖霊とすることは
全地公会議に照らせば完全に異端です。
それをいとも簡単に容認してしまい、神の母への崇敬の批判するとは
それこそ問題ではなかろうかと思います。
単にお題目で三位一体を唱えるのではなく、
もっと三位一体の神を大切にし、またキリストがどういうお方なのか
探求してもらえたらと思います。
574 :
名無しさん@3周年:05/02/06 01:19:45 ID:Lpiuoibe
マリアを 「主イエス・キリストの母」 と表記すれば、
マリアが、神性の母と誤解されることなく、
かつ、受肉した神の言の母であることを意味します。
神の母 という表現の内容を、人に誤解させることなく正確に伝達するには
伝える側が但し書き・内容を正確に提示し、受け手側にも理解力が必要となりますね。
神の母 という概念を
>>570-571 通りすがりさんのようにきちんと把握されて
他者へ語れる方は少ないとおもいます。それに中には誤解して受け取る人もいるかも
しれないと思います。人によっては難しく感じる人もいるかもしれません。
新約聖書がマリアを神の母と記述した箇所がないのには、意味があると思います。
575 :
ダニエル:05/02/06 01:22:15 ID:/wD93ayb
>通りすがりさん
神性は苦しまないが、神格は苦しむことが可能、という
根拠がよくわかりませんので、ご解説をお願いいたします。
576 :
名無しさん@3周年:05/02/06 01:24:46 ID:Lpiuoibe
>>573 福音を大切にする信仰者のすべてが、様態論的一位神観に対して
霊的不感症であるとは、決め付けられないとおもいますよ。
見分けるには訓練と成長が必要でしょうけれど。
577 :
ダニエル:05/02/06 01:37:06 ID:/wD93ayb
とりあえず、通りすがりさんがおすすめする
「東方キリスト教思想におけるキリスト」(メイエンドルフ) を
探してみることにします。
578 :
通りすがり:05/02/06 01:48:55 ID:WSl91cBY
>>572 よくギリシャ哲学の影響で、神性は苦しんだり死んだりできないのだと
北森氏やモルトマンは言います。
だが、しかし、三位一体なる神は、3つの位格と一つの神性をもってお
られるのですよ。3位格は神性という本質を共有しているのです。
その神性が苦しんだりまして死んだらどうですか?
子なる神だけでなく、父も聖霊も苦しみ死ぬことになるのです。
それであるなら、主イエス・キリストが息を引き取った瞬間に、
至聖所の垂れ幕どころか、宇宙全てが崩壊しているでしょう。
おわかりですか?
だから、十字架のリアリティはあくまで「神が肉において苦しみ
死なれた」つまり人性が苦しみ死なれたのであったが、その主体
は神格であったということでなければならないのです。そのため
にはロゴスの神格と主イエスキリストの神格は一致していなけれ
ばなりません。すると、どうしてもマリアは神格を生んだという
ことでテオトコスにならなくてはならないのです。
579 :
通りすがり:05/02/06 01:50:16 ID:WSl91cBY
(続き)
キュリロスが、「キリストの母」と言ったネストリウスに激しく
論争をしかけたのは、マリア崇敬の問題ではなかったのです。
それは、真の救いの問題だったのです。
マリアから神格が生まれ、そのお方が十字架で肉において苦しみ
死なれたのでなければ、私たちの救いは根拠なきものになってし
まう、その情熱がキュリロスを動かしていたのです。
カトリックでは、単純に、神性は苦しまない、十字架で苦しんだ
のでは人性だと言います。
しかし、ルターは真実に神が十字架で苦しみ死んだのでなければ、
救いはないと感じたのです。そのためにそのことを主張した。
だが、それは私が最初にあげた理由のように無理なのです。
580 :
通りすがり:05/02/06 01:50:46 ID:WSl91cBY
(さらに続き)
けれど、初代教父のアンテオケのイグナチウスもニュッサのグレゴリ
ウスも「神の血、神が十字架で死んだ」と言ってきたのです。
この矛盾を、キュリロスのテオパスキスムスの確信を巡って解決して
行ったのが全地公会議であったのです。
ですから、このことはすでに東方で解決されていた、画期的な形でです。
ロゴスなる神格は、単に人にしかすぎないマリアより、神格−神性・人性
をもつお方として生まれたのです。
そのためにだけ、マリアは「神(格)の母」と呼ばれるのです。
単に肉をまとったのではない、神格として生まれたのです。
そして神格は人性において苦しみ、涙をし、汗を流し、飢え、渇き、
ついに死さえもご自身の者とされたのです。
何という神!そこには三位一体すべてが関わっていた、ある教父が
いうように、十字架につける愛、十字架につけられる愛、十字架から
流れる愛。
何という「神の狂おしいほどの愛」(ニコラスカバシラス)。
そのなかで、「お言葉通りこの身になりますように」と恐れながらも
受け入れたマリアをそれぞれの分に応じるにせよ、尊敬を払うことは
どうしてそんな不自然なことであろうか?
イエス・キリストが生まれたベツレヘムに巡礼に出かける人がいると
すれば、ましてや神であるイエス・キリストがお生まれになったただ
の人マリアを尊敬するのはおかしなことではない。
581 :
通りすがり:05/02/06 01:52:23 ID:WSl91cBY
>>576 すみません、それは言い過ぎでしたね。
あやまります。
582 :
通りすがり:05/02/06 01:56:17 ID:WSl91cBY
>>577 探してみてください。
ただし、難しいので、それとともに
「個の誕生」(坂口ふみ 岩波書店)を併読するとかなりわかりやすく
なります。
「東方キリスト教思想におけるキリスト」(メイエンドルフ 教文館)
も「個の誕生」も一生、時間をおいて何度も読み続ける価値があると
思っています。