>>462 >もし「状況」が変われば一転、政治活動、とまではいかなくても、
>政治にコミットする可能性は否定できないのではないですか?
状況によって、ということはないでしょう。しかし正教会は無謬ではなかったです
し、これからもそうでしょう。将来において状況の如何に関わらず、「間違い」を犯す
可能性は否定しません。
>社会的・政治的な配慮から、教会が取るべき態度を決めることが許されるのならば、
状況によっては許されるケースがあります、後述の通り。
>戦時下で日本のプロテスタント教会が取った以下の態度も、同様の配慮から来たものとして
>許されるのでしょうか?
コンスタンチノープル陥落後、修道士ゲオルギオスは正教徒を自らの支配化に組み込まん
とするスルタンの要求を受け入れ、屈辱を甘んじて総主教の座に就きました。スルタンに
妥協的な姿勢をとりつつも、今はそれが正教会を守るために必要だと判断し、彼はそう
振舞ったのです。
これを敷衍しますと、仮に冨田牧師がクリスチャンを守る為に「方便として参拝」した
のであれば、大きな問題ではなかったと考えます。実際のところはおそらく違うでしょう
けれども…。
>>465 >政治に口出ししない(中略)
>一種の「政治的姿勢」であり逆説的な「政治活動」なのではありませんか?
そういう言い方も出来ることは、否定しません。
(すみません、もう少し続きます)